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「知るを生きる」第4項 スピリチュアルな人間進化の歴史と霊太陽系進化の歴史 認証科学(Authentication Science)的には「証」そのものが示し難いゆえに、「覚知科学」という分野まで考案して示そうというスピリチュアルな人間進化の歴史と霊太陽系進化の歴史を現代科学的な方法を持って並行して説明します。以下にその概要をまとめてみました。第4項 スピリチュアルな人間進化の歴史と霊太陽系進化の歴史の概観1: スピリチュアルの歴史 2: 太陽系の形成と進化 3: 太陽誕生から現在までの歴史 4: 宇宙・地球・生命・人類の誕生と起源、進化の137億年■スピリチュアルな人間進化の歴史*初期のスピリチュアル思想 スピリチュアルな思想は、古代の宗教や哲学に根ざしています。例えば、インドのヴェーダや仏教、ギリシャの哲学などがその一部です。19世紀には、神智学協会が設立され、スピリチュアルな思想が体系化されました1。*ニューエイジ運動1960年代から1970年代にかけて、アメリカでニューエイジ運動が広まりました。この運動は、伝統的なや科学に対する対抗文化として発展しました。この時期には、チャネリングや瞑想、エネルギーヒーリングなどが注目されました。*現代のスピリチュアル 2000年代以降、スピリチュアルな思想はさらに広がり、自己啓発や癒しの一環として多くの人々に受け入れられるようになりました。■霊太陽系進化の歴史*太陽系の形成 太陽系なるものの因の素材は約46億年前に巨大な分子雲の一部が重力によって収縮し、形成されました。その中の巨大な重力場に太陽が誕生し、その周囲にガスや塵が集まり、惑星が形成されました。*惑星の進化 地球を含む惑星は、太陽の周囲で冷却と凝縮を繰り返しながら進化しました。地球では、約38億年前に最初の生命が誕生し、進化を続けてきました。*人類の進化 人類は約700万年前にアフリカで誕生し、進化の過程で知性や文化を発展させてきました。スピリチュアルな思想もこの進化の一部として発展し、現代に至っています。 このように、スピリチュアルな人間進化の歴史と霊太陽系進化の歴史は、それぞれ独自の道を歩みながらも、互いに影響を与え合ってきました。記:霊的太陽系とは「霊的太陽系」という概念は、主にルドルフ・シュタイナーの宇宙論に関連しています。シュタイナーは、物質的な太陽系だけでなく、霊的な次元での太陽系の存在を提唱しました。彼の理論によれば、太陽系は物質的な存在だけでなく、霊的な存在としても進化し続けているとされています。シュタイナーの宇宙論では、太陽系は根源的な叡智によって創造され、その中で人間の進化が重要な役割を果たしています。また、太陽系は輪廻を繰り返しながら進化を遂げる霊的存在とされています。このような視点は、物質的な科学とは異なる霊的・哲学的なアプローチであり、宇宙や人間の存在についての深い洞察を提供しています。記:スピリチュアル(spiritual)は、日本語では「霊性」「魂」「精神的な」などと表現されます。スピリチュアルとは、人生の意味や希望、安らぎなどを見出す「心の奥」をさす概念です。また、人間の尊厳や存在意義などを表現するものであり、人がその人にとっての意味や価値、信念をどのように捉え、どう生きるかに関連するものです。?スピリチュアルな人は、自分の内面や霊的な世界に興味を持ち、そこから導かれる知恵や真理を見つけようとする人のことを指します。物質的な幸せだけではなく、心の平安や充実感を大切にします。参考画:神秘学的進化の人類太陽系 第4項-了哲学・思想ランキング
2024年09月30日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」■第六講●解説-2/植物のなかには、太陽系全体が表現されている この講演でお話しすることは、古代の医学的文書から借用してきたことではなく、まったくもって現代の精神科学的研究に基づいているのだということを皆さんにおわかりいただけるように、私は努力を惜しまないつもりです。ただ、時おり術語において、古代の文献に依拠する試みを余儀なくされることもあるでしょう。何と言っても近代の文献は、この方面の術語をまだ開発していないからです。けれども、この講演で話されているのは古代の文書から引用されたことだけだ考えるようなひとは、まったく思い違いをしているのです。シュタイナーがこの講義で述べていることは、古代の医学的文書の用語、術語を使って述べられていることが多いのですが、それは、現代においてはそれに対応する術語がないためであって、古代の文書からの引用に依拠しているのではないことが強調されています。あくまでも、シュタイナーのこうした試みは、古代への回帰では決してなく、現代にとって必要な精神科学的研究に基礎づけられているものだということを認識する必要があります。地上から上へと伸びていく植物の成長を追求すると、皆さんはまず、葉と花の発生と形成プロセスにおける螺旋状の進行に注意を向けなければならないでしょう。いわば植物の形成力は、茎をめぐる一種の螺旋状の進行に従っているのです。この螺旋状の進行は、植物のたとえば内的な弾力から引き出すことのできるものではなく、地球外の作用、とりわけ主としてはそうですね、見かけ上の太陽に対する地球の運動はやはり相対的に考えなければならないからなのですが、その軌道の作用に帰せられねばならないのです。ある意味においては、ガリレオ的・数学的なものよりも良い拠り所に従って、星々の運行を、植物における形成プロセスの進行から徹底的に研究することができるのです。なぜなら、星々が行なっていることを、植物は忠実に模写しているからです。植物の葉や花は、地上から上へと、「螺旋状に伸びて成長」していきます。これは、植物についての成長過程を観察されれば容易にわかることです。その螺旋状の成長は、植物の内的な力からそうなるのではなく、「見かけ上の太陽の軌道の作用」のような地球外の作用から起こるのだということがここで述べられています。植物は、星々の運行を忠実に模写しているというのです。けれどもここで、地球から上へ向かう、太陽に依存しているこの形成の経過のみが、植物において働いていると考えるとしたら、それはまったく誤っています。そうではなく、何はさておき星々が、太陽を通じて引き起こされたこの太陽系の運動とともに作用して、「合力を形成」しているのです。しかもこの太陽の作用というのは、この太陽の力に対して、いわゆる外惑星の力が今度はその螺旋でもって対抗しなければ、いわば太陽の力が植物をまったく占有して、絶え間なく無限に継続させてしまうような作用です。しかし、植物の葉や花の、上に向かう螺旋状の成長は、太陽だけの作用なのではなくて、太陽の力と諸惑星の働きとの合力によるものです。と申しますのも、実際のところ諸惑星は、楕円運動しているのではなく、螺旋運動しているからなのです。そもそもコペルニクス的世界観全体が今日検討され、他のものによって補足されなければならないものなのです。いわゆる外惑星、これには火星、木星、および土星を含めばなりませんが、天王星と海王星は天文学的にのみ、この太陽系に加えることができます。この両者は本当はこの太陽系の一部ではなく、この系の外部にあった異物が、いわばこの系に接続したことによって、この系に入り込んできたのです。したがって、この太陽系によって招かれたこれらの物体、つまりこの時に一緒にやってきた、本来お客様であるものは、度外視して語るのが正しいのです。これらの外惑星の力は、通常は単に葉の螺旋にのみ現われているであろうものを押しとどめて、花・種子形成に作用することによって、上へ向かう力を後退させる作用を及ぼすのです。つまり植物生成を、葉の形成から上へと観察してごらんになれば、皆さんはその起源を、太陽的なものと、火星的なもの、木星的なもの、土星的なものとの相互作用から成立した諸力に帰せざるを得ないでしょう。諸惑星は、太陽を中心にした楕円運動をしているということがコペルニクス的世界観に依拠している天文学では言われていますが、それが実は、螺旋運動なのだということがここで述べられています。しかし、ここで太陽系の惑星だというのには、天王星と海王星は度外視されます。もちろん、この講義が行なわれた時代には、まだ冥王星は発見されてませんが、度外視される惑星には、その冥王星も含まれるといっていいと思います(*其の冥王星も2006年に国際天文学連合(IAU)が惑星の定義を見直し、冥王星がその条件を満たさなかったため削除されました。)。それら天王星、海王星は、「天文学的にのみ」太陽系なのであって、それらは太陽系外から入り込んできたものであるというのです。さて、外惑星の力は、花・種子形成に作用し、上へと向かう力を後退させます。植物の葉や花の、上に向かう螺旋状の成長は、太陽、火星、木星、土星の相互作用によって起こるのだといえるのです。さてしかし、これら二つの要素は単に一緒に作用しているのではなく、この両者に対してさらにまた、とりわけ月から発しているものと、いわゆる下位惑星、すなわち水星と金星から発しているものが作用を及ぼしているのです。水星、金星、月は、植物のなかに、地球への、つまり下方への傾向を生み出すものであり、その最も顕著な現われは根の形成のなかに見出されます。したがって、地上的に現われているものは、すべて実際には同時に、月と関連しつつ、太陽の下位にある惑星に影響を受けているのです。さらに、太陽の作用、そして外惑星の作用に対して、月、そして水星、金星からの作用が加わります。特に根の形成においてみられるように、水星、金星、月は、植物に下方への傾向を生みだしているのだというのです。つまり植物のなかには、私たちの一部であるこの太陽系全体が表現されていると申し上げたいのです。植物のなかには私たちの一部であるこの太陽系全体が表現されていて、他面では人間のなかにもこの太陽系が表現されているということを知らないうちは、そもそも植物組織と人間の組織との間の関係を見通すことなどできません。このように、植物のなかには、太陽系全体が表現されているのだといえます。また、人間のなかにも、こうした太陽系が表現されているといえます。なぜこうした太陽系全体と植物、人間の関係について言及するのかといえば、植物組織と人間の組織との関係を洞察するためだというのは言うまでもありません。参考図:螺旋木 第六講●解説テーマ解説2-了哲学・思想ランキング
2024年09月29日
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第3項 覚知科学と認証科学 覚知科学という分野を新しく考案しております。暗黒物質やダークエネルギは人間の外感覚では捉えきれないからです。これを覚知認証する学問はどのように名付けたらいいのでしょう。暗黒物質やダークエネルギーのような人間の外感覚では捉えきれない現象を研究する新しい学問を考案するのは、科学の進展にとって重要な一歩です。この新しい学問の名前についていくつかの提案をさせていただきます。覚知学(かくちがく) - 知覚機能とは五感(味覚、触覚、聴覚、視覚、嗅覚)を使って取り入れた刺激を過去の体験などの記憶と照らし合わせてどのようなものかと判断がされたもののことを言いますが、「覚知」とはそれら外感覚機能に頼らずを物事を悟り知ることを意味し、未知の現象を認識する学問として呼称するのに適しています。以下は全てが現段階では人間には見えざるものとされているものです。*暗黒認識学(あんこくにんしきがく) - 暗黒物質やダークエネルギーに焦点を当てた名前です。*超感覚物理学(ちょうかんかくぶつりがく) - 人間の通常の感覚を超えた現象を研究する物理学という意味です。これにはルドルフ・シュタイナーの神秘学に云う霊学を含みます。*深宇宙科学(しんうちゅうかがく) - 宇宙の深層に存在する未知の現象を探求する学問として。 現代科学の方法分野です*認知科学(Cognitive Science)は、情報処理の観点から生体(特に人間)の知の働きや性質を理解する学問です。1950年代に行動主義心理学に対する反発として誕生し、人工知能と密接に関連しています。認知科学は、知識の表象、計算、記号操作などを通じて人間の認知機構を解明しようとします。*認証科学(Authentication Science)は、特定の情報やアイデンティティの真偽を確認するための科学的手法や技術を研究する分野です。これには、生体認証(指紋、顔認識など)、暗号技術、デジタル署名などが含まれます。認証科学は、セキュリティとプライバシーの確保に重要な役割を果たします。 現代最先端の思考若しくは最古の思考かもしれない究極の基礎科学*振動科学は量子力学的に言うとこの世の全ては振動するエネルギーであるということ。(*大乗哲学=空観)「知るを生きる」第3項 覚知科学と認証科学 覚知科学という分野を新しく考案しております。暗黒物質やダークエネルギは人間の外感覚では捉えきれないからです。これを覚知認証する学問はどのように名付けたらいいのでしょう。暗黒物質やダークエネルギーのような人間の外感覚では捉えきれない現象を研究する新しい学問を考案するのは、科学の進展にとって重要な一歩です。この新しい学問の名前についていくつかの提案をさせていただきます。覚知学(かくちがく) - 知覚機能とは五感(味覚、触覚、聴覚、視覚、嗅覚)を使って取り入れた刺激を過去の体験などの記憶と照らし合わせてどのようなものかと判断がされたもののことを言いますが、「覚知」とはそれら外感覚機能に頼らずを物事を悟り知ることを意味し、未知の現象を認識する学問として呼称するのに適しています。以下は全てが現段階では人間には見えざるものとされているものです。*暗黒認識学(あんこくにんしきがく) - 暗黒物質やダークエネルギーに焦点を当てた名前です。*超感覚物理学(ちょうかんかくぶつりがく) - 人間の通常の感覚を超えた現象を研究する物理学という意味です。これにはルドルフ・シュタイナーの神秘学に云う霊学を含みます。*深宇宙科学(しんうちゅうかがく) - 宇宙の深層に存在する未知の現象を探求する学問として。 現代科学の方法分野です*認知科学(Cognitive Science)は、情報処理の観点から生体(特に人間)の知の働きや性質を理解する学問です。1950年代に行動主義心理学に対する反発として誕生し、人工知能と密接に関連しています。認知科学は、知識の表象、計算、記号操作などを通じて人間の認知機構を解明しようとします。*認証科学(Authentication Science)は、特定の情報やアイデンティティの真偽を確認するための科学的手法や技術を研究する分野です。これには、生体認証(指紋、顔認識など)、暗号技術、デジタル署名などが含まれます。認証科学は、セキュリティとプライバシーの確保に重要な役割を果たします。 現代最先端の思考若しくは最古の思考かもしれない究極の基礎科学*振動科学は量子力学的に言うとこの世の全ては振動するエネルギーであるということ。(*大乗哲学=空観) 第3項-了参考画:空観(くうがん)哲学・思想ランキング
2024年09月28日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」■第六講●解説-1/下部における逆転した植物生成プロセス1.人間の下腹部においては機能的に逆転した植物生成プロセスが見出される。 きょうお話しすべきことに関しましては、実際のところ私は少々気がかりなのです。と申しますのも、こういう事柄をお話しするのに三カ月ほどもかけることができましたら、そう簡単に、これらを単なる幻想であるとみなすことはできないでしょうが、次のような、さらに治療の特殊な面にまで入っていくべきことを、いわば完全に理解できるようにするためということで、これらの事柄をきょうのこの時間でざっと通過していくわけですから、単に並べ立てたかのように思われることも若干あるかもしれません。それでもやはり、私はできるだけ、これらの事柄はすべて十分根拠があり、それどころか今日の自然科学の基礎となっている事柄以上に根拠があることを、私なりの表現で示していきたいと思います。まず、導入部において、この第六講において述べられていく内容について、それが駆け足で説明されることに伴う「気がかり」が表明されています。この第六講で述べられる原則的なことは、「治療の特殊な面」についても完全に理解するための基礎になるものであり、いわゆる自然科学的な基礎づけよりも根拠のあるものだというのです。 シュタイナーは、どんなテーマについて論じる際にも、通常の学問の枠組みを越えたものを扱う際の危惧を表明しながらも、その在り方を否定するのではなく、それをさらに拡大するのが、精神科学的な方法なのだということを再確認することがよくあります。シュタイナーの著作や講義集などを読む際に重要なのは、それをいわゆる常識的な枠組みによる認識を拡大させながら読むことだと思います。もちろんそれは無批判に読むということではなく、その逆で、それがいかにさまざまな事象をよりよく説明できるのかどうか、また実践的によりよい展開が可能なのかどうかを検討していく認識努力を怠ってはならないということです。きょうはまず初めに、植物形成のプロセスそのものを、その宇宙的連関のなかに置いて皆さんにお見せすることから始めたいと思います。私たちが見てまいりましたように、人間においては、植物生成プロセスにおいて開示されているのとは逆のプロセスが、いわば機能的に働いています。従いまして、人間に対する植物界の直接の関係を見出すためには、この植物生成プロセスを少なくとも暗示的にここでご覧に入れておかなくてはなりません。皆さんが植物をご覧になると、植物はその形成プロセスにおいて、明らかに対立する二つの傾向を持っていることがおわかりでしょう。さて、この講義の最初には、植物形成のプロセスをその宇宙的関連の中において見ることで、人間においては、そのプロセスとは逆のプロセスが機能的に働いているということが示されます。そして、その植物形成のプロセスにおいては、対立的な二つの傾向があるというのです。一方は地球に向かいます。そして昨日すでに暗示しましたように、いわば樹のような植物においては、その幹のなかに地球がいわばまくりあげられていて、そのため樹の場合、花は、ふつう草のような植物や下等な植物が地球に根付くように、その葉とともに幹に根付いているのです。さて、一面においては、植物の地球へ向かう傾向へと私たちの注意が向けられます。けれども、他面において植物は地球から離れようとしているのです。植物は、単に地球の引力に対抗する機械的な力によって地球から離れようとしているのみではなく、その形成プロセス全体、それも内的な形成プロセスにおいて、地球から離れようとしているのです。花において起こっている経過は、根において起こっている経過よりもずっと、地上を越えたもの、地球外のものに依存していることでしょう。そしてこのように、花の形成が、本来地上的でない諸力に依存しているということを、私たちはまず見ておかなければならないのです。なぜなら、花・種子形成プロセスを花の外部に導いていくために、植物によって用いられる諸力、他ならぬこのプロセスが、皆さんに先日の講演で暗示しました、人間における機能的に逆転した植物プロセスのために必要になるということがおわかりにになるでしょうから。その二つの傾向のひとつは、地球に向かうものです。つまり、根の向かっている方向性だといえます。もうひとつの傾向は、地球から離れようとするもので、種子形成において起こっているプロセスです。そのプロセスは、地球外のものに依存しているといえます。この、人間における逆転した植物プロセスは、人間の下腹部において、排泄、分泌、そして性(セクシュアリティ)の根本にも関係するすべてのものにおいて、見出すことのできるものなのです。このように、私たちが人間と植物のこういう関係を探し出すときこそ、植物の地球上のプロセスと同様地球外的なプロセスもまた、個別的に示されるのです。人間の下腹部においては、機能的に逆転した植物生成プロセスが見出されます。排泄、分泌、性の根本にも関係する下腹部において、花・種子形成において起こっているプロセスが逆転したプロセスとして現われているのです。参考画:spaceship tree 第六講●解説テーマ解説1-了哲学・思想ランキング
2024年09月27日
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「霊学」神秘体験とその事実の認識2 神秘体験とは、通常の感覚や認識を超えた特異な体験を指します。これには、強烈な光、これは例えば眼前に光る物体や光輝を見たりするものではなく、人間の頭部前面の前頭葉に物理的熱ではなく顕れる紫光・橙光・赤光や或る意味、自身の感情のみではで抗うことができない神聖な感情に圧倒されたりすることが含まれます。こうした体験は、個人の内面的なものであり、他者には直接確認できないとされるがゆえに「神秘」とされるのです。神秘体験の認識については、哲学や宗教、心理学等々さまざまな視点から考察されています。例えば、トマス・アクィナスは神秘体験を通じて神の存在を認識することが可能だと述べていますしまた、現代の脳科学では、深い瞑想や祈りの状態が脳内の神経活動に変化をもたらし、これが神秘体験と関連しているとされています。神秘体験は、宗教的な修行や瞑想、さらには極限状態や幻覚剤の使用など、さまざまな要因によって引き起こされることがあり、これらの体験は、個人の人格や考え方に深い影響を与えることがあり、その強烈さから一瞬にして変化をもたらすこともあります。体験者の多くは身体疲労や精神ストレスの極限状態が前頭葉の強烈な赤紫光として「実際に外覚的熱を持たない脳内熱」として出現すると答えています。参考画:前頭葉脳内熱哲学・思想ランキング
2024年09月26日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講●解説●テーマ概観■1 下部における逆転した植物生成プロセス■2 植物のなかには、太陽系全体が表現されている■3 植物は、両極的対立のプロセスに拘束されている■4 上部と下部ではまったく別様の治療が必要である■5 人間には宇宙のプロセス全体が反映している■6 金属は、地球外の宇宙のある種の配置と関係づけられる■7 金属と惑星作用■8 現代医学において可能な道と真に有効な道●テーマ概観要項1.人間の下腹部においては機能的に逆転した植物生成プロセスが見い出される。2.植物のなかには、太陽系全体が表現されている。3.植物相は地球そのものと地球外のものとの相互作用を、形態だけではなく、内的な化学現象、器官組織全体に及ぶまで完全な形で有している。植物は、光と重力、灰化していくものと火のなかに開示されているもの、計測できるものとできないものとの両極的対立のプロセスのなかに拘束されている。4.人間のなかには一面において、上に向かって根を張るもの、下へ向かって成長するものである逆転した植物的なものがあり、そのまわりを取り巻いている下から上への傾向をもった物質的なものがある。人間の健康も病気も、そうした力の共同作用のなかにある。人間の生体組織は、上部と下部ではまったく別様に扱われなければならない。 5.塩的なもの、燐的なものの対立とその両者を均衡させる水銀的なものは、宇宙全体のなかにおける重力と光の対立及びそれを均衡させるもののなかにも現われている。人間の心臓には、宇宙のプロセス全体が反映している。6.地上で起こっていることは地球外に存在しているものの作用であり、地上の物質は、星々の共同作用の産物である。地上の物質、特に金属は、地球外の宇宙のある種の配置と関係づけられる。7 鉛は土星作用に、錫は木星作用に、鉄は火星作用に、銅は金星作用に、水銀は水星作用に、銀は月作用に関係づけられなければならない。鉛的、錫的、鉄的なものは、植物の花-種子形成と関係づけられ、銅的、水銀的、銀的なものは、植物の根形成と関係づけられる。水星的なものは、地上的なものと地上を越えたものを平衡させるが、これとは別に、太陽は霊的なものと物質的なものとを均衡させる。黄金は太陽作用に関係づけられる。8.現代における治療の可能性に関しては、古代の医師たちの立場に立つこともできるが、地球外的な作用が忘れ去られ古代の方法が忘れ去られた後でとられる方法として、ホメオパシー的なシステムやそして光と空気を直接用いるような物理療法の道がある。しかし、真に有効な道は、精神科学によって、鉱物的なものと地球外的なもの、植物的なものと地球外的なもの、動物的なものと地球外的なものとの関係を見ていくことによってのみ開かれる。参照画像:solar_system 第六講●解説テーマ概観-了哲学・思想ランキング
2024年09月25日
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「知るを生きる」 人間誰しもが、人生とは、通常には母体から産まれ成長し、努力と幸運とに恵まれれば円熟期を迎え、何某かの足跡を世界に残して灰燼に帰すと思考するのが一般的には常でしょう。然し乍ら、世界には古今東西あらゆる思考が渦巻いてきたことを我々は知っています。ここでは人類に限って焦点を絞り其の在り方を探っていきます。「霊学」神秘体験とその事実の認識1 古今東西あらゆる思考が生成滅失するなかで、人類なかでも埋葬と記録を持ち得た血統が現生人類の肉体及び霊さらには魂を培っていたと考えるのが妥当であろう。いくら「森の人」哲人の風貌を持つオランウータンといえども、現代人が彼らの霊魂が自己とは共通しているとは考えまい。人類に史的文明が始まったとされる頃には「物質世界と霊世界」、「人類の霊と魂」はそれぞれの世界に定着していたものと思われる。これから取り上げるのは、あくまで自分の体験や心情から生じたものであり、世の認証を経たものでもなく累卵の危ぶみそのものですが、心の思いを素直に語り自己の救済、将又、世上に訴える由となりました。第1項・第2項 先ず第一はスピリチュアリズム(霊学)でよく使われる霊的世界の代表的な語句について、それぞれの意味を探ります。霊界: 物質世界とは異なる、霊的存在が住む世界です。死後の魂が行く場所とされています。霊魂: 人間の肉体が消滅しても存在し続ける不滅の部分です。霊魂は霊界で生き続けると信じられています。霊媒: 霊的存在と現世の人間との間でメッセージを伝える役割を果たす人です。霊媒を通じて霊界からのメッセージが伝えられます。守護霊: 個人を守り導く霊的存在です。個人の成長や安全を見守ります。降霊会: 霊的存在と交信するための集まりや儀式です。霊媒が中心となって行われます。霊的覚醒: 内面的な目覚めや意識の拡張を指します。自己の成長や心身の回復をもたらすプロセスです。霊的真理: 高次の霊的存在からもたらされる知識や教えで、人生の指針となるものです。霊的進化: 人間が霊的に成長し、より高次の存在へと進化する過程を示します。以上、これらの概念は、スピリチュアリズムの思想や実践において重要な役割を果たします。 第二は人間の成り立ちにおける霊学用語の概念です。肉体と霊魂:霊学における肉体は霊魂と対をなす存在とされています。肉体が消滅しても霊魂は存在し続けると考えられています。霊学では、人間は肉体と霊魂の二重構造を持ち、肉体は物質的な存在である一方、霊魂は非物質的な存在とされています。霊魂は肉体の消滅後も存在し、霊媒を通じて現世の人々と交信することができるとされています1。このような考え方は、死後の世界や霊的な存在に対する信仰や実践に基づいています。肉体の役割と意味(土星紀)霊学では、人間は肉体と霊魂(霊体)から構成されていると考えられています。肉体は物質的な存在であり、現世での生活を営むための「器」としての役割を果たします。物質的な存在: 肉体は物質的な世界での活動を可能にするための身体です。食事をしたり、運動をしたり、感覚を通じて世界を認識するための手段です。霊魂の宿る場所: 肉体は霊魂が宿る場所であり、霊魂が現世で経験を積むための「乗り物」として機能します。霊的成長の場: 肉体を通じて、霊魂は様々な経験をし、学び、成長します。肉体の健康状態や行動は、霊魂の成長に影響を与えます。肉体と霊体の関係:霊学では、肉体と霊体は密接に連動しており、互いに影響を及ぼし合うとされています。肉体が健康であることは霊体の健康にもつながり、逆に霊体が健全であることは肉体の健康にも寄与します。死後の肉体:死後、肉体は物質世界に戻り、霊魂は霊界へと移行します。霊学では、死は肉体と霊魂の分離を意味し、霊魂は霊界で新たな経験を積むとされています。 第1項・第2項-了哲学・思想ランキング
2024年09月24日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講 第六講本文・解説 1920年 3月26日 ドルナハ●第六講本文 - 後半部 人間外部の自然の三つの異なる内的形成衝動-第三:ハーモニー(harmony) さて常に注目しておくべき重要なことは、思考においても、地球上でつまるところ私たち自身が行なうことにおいても、私たちが切り離していることが、自然においては何らかのやりかたで常に結合されているということです。私たちは思考において、重力に従うもの、つまり塩形成への傾向を持つものを、光の担い手となるもの、つまり光作用への傾向を持つものから、さらには、この両者の均衡に従うものからも、切り離します。けれども、自然においてはこのように至る所で切り離されているのではなく、自然においては、このような作用のしかたは、互いに結びつけられ、組み合わされていて、非常に精巧な組織構造を形成しています。この精巧な組織構造は、すでに金の、その光輝のなかに含まれています。金を通じて、霊的なものがいわば純粋に、外界をのぞき込むからです。ここで注意を向けていくことを、私はいわば括弧に入れて申し上げたいと思います。何と言っても皆さんは、古代の文献から得られる示唆を、近代の文献に役立てようと夢中になられるかもしれないからです。昨日引用した学位請求論文を皆さんが作成されるなら、古代の文献を正しく理解することさえできれば、これらから示唆を得ることもできるでしょう。その際きわめて重要なのは、本来古代の文献は、どの物質のなかにも、「三つの原理」がすべて、つまり、「塩的なもの、水星的なもの、燐的、あるいは硫黄的なもの」が、いろいろと組合わされていると見ていること、そして古代においては、この三つの原理を何らかの物質から分離しようと苦心していたことを理解することです。つまり次のような見解が持たれていたのです。鉛は、私たちが暗示したような方法で生じるけれども、黄金や銅と同様、鉛も、三つの原理、つまり塩的なもの、水銀的なもの、燐的なもののすべてを含んでいる、という見解です。そして、私たちが、塩的なもの、水銀的なもの、燐的なものによって人間を治療することができるためには、それを取り出すこと、つまりそれを、それが結びついているものから、何らかの方法で切り離すことが肝要なのです。古代の化学においては、このプロセスに対して、きわめて周到な注意が払われていました。このプロセスは、金の場合が最も困難なものと見なされていました。ですから、「黄金を壊すより、黄金を作り出す方が易しい」というローマの箴言(*)は、実際これもまた古きものの賛美に通ずるものです。なぜなら、金のなかで、塩的なもの、水銀的なもの、燐的なものという三つの自然の原理が互いに結び付いていて、金からこれらの原理を取り出すのは、最も困難であると考えられていたからです。参考画:ツタンカーメンの黄金マスク さて、古代人が三つの自然原理を苦心して取り出そうとこういうプロセスで行なっていたとおりやろうとしても、今日容易にはうまくいかないだろうということはまったく明らかです。けれども、この講演でもまさにそうするつもりなのですが、ときおり古代の文献に光が投げかけられるだけで、古きものをまったく度外視して、今日なお研究できることにに入っていくだけでも、次のようなことに行き着くことができるのです。つまり、私が昨日ときょう、自然の物質から皆さんに特徴をお話しした、これら三つの原理から、必要なものを取り出すためには、実際何らかの方法で、自然の物質によって燃焼プロセスを起こさなければならず、それによってはじめてたとえば火を担うもの、光を担うものが分離されること、さらに、ある目的のために自然の物質から水銀的なものを取り出すことも試みられなければならず、その結果、塩的なものに押し寄せるものだけが後に残されるということです。これはさらに、何らかの酸の性質を持つものによっても、引き出すことができ、こうして、植物からであれ、鉱物からであれ、真の塩性の薬を得ることができるのです。特殊な場合についてはこれから後さらに扱っていくことにします。このように私たちは、地球外的なものを獲得するために、光を担うものを自然のなかに求めなければならないか、あるいは、地上的な物質からこの地球外的なものを取り去り、地球的なものを保持することに努めなければならないか、その結果本来の真に塩的なものを得ることができるでしょう。あるいは、この両者の間に均衡状態を作り出すものを獲得することを試みなければならないか、いずれかをやってみなければならないのです。(*錬金術を匂わす。)けれどもここで、性質は異なるけれども、そのいずれもある程度目的に導いてくれる二つの道をとって進むことができます。本来は両方の道をとって進むことができるのです。よく知られた物質から、燐や塩あるいは水銀の性質を持つものを摘出することを常に目指し、それを用いていた古代の医師たちの立場に立つことができます。そういう医師たちにとって、薬のさまざまな特殊な作用は、彼らが当のものを、鉛から得たのか、銅から得たのかによっていくらか異なるということによって生じていました。つまり彼らはその起源を考慮していたのです。つまり、彼らが鉛から塩を作り出す場合、彼らにとってこの塩は、銅から作り出された塩とは少し異なっていたわけです。したがって、塩について語った場合でも、彼らは本来次のようなことを語っていたのです。つまり、彼らは、さまざまな塩におけるこの塩のなかには何かが、つまり、塩であることによって地上的であるけれど、いわばさまざまな金属からつくりだされた塩であることによって、何か地球外的なものでもあり、人間におけるきわめてさまざまなものと関わっているもの、これはすぐ明日にでも、より詳しく特徴をお話しできるでしょうが、そういうものがあるということを語っていたのです。たとえば、治療学における塩的なものの調合のために、この方法をとることができます。さらに、古代人たちの別の方法が忘れ去られたあとでとられた方法、これは、実際人間というものは単なるレトルト(加圧過熱殺菌をする釜)ではなく、レトルト以上のものであるという、なおも明確な感情から選ばれた方法なのですが、そういう方法をとることもできます。そしてこれは、そこにあるものの受容を通じて、そしてそこにあるものを自乗することを通じて、すでに存在している物質の根底にある力を利用できるようにすることを試みる方法です。これは、本質的に、「ハーネマン的な方向(☆4)」に内在している方法であり、古代の方法がすでに忘れ去られ、何か地球外的な、あるいはそれ以外の関連について、もはや何もわからなくなったあとに、人間の医学的な努力全体から、いわば一種の新たな興隆を示しているものです。これは、現代の医師社会が絶望のなかにあるとして申し上げたいことなのですが、現代の医学において、本来地上的なものの根底をなすもの、つまり地上を越えたものが仰ぎ見られることはもはやなく、人々は、地上的なもののなかにのみあるものを常にうまく処理しようとしているということです。これを越えていこうとしているのが「ホメオパシー的なシステム」です。もちろん、物理的な治療法もこれを越えていこうとしているのですが、これは、光の担い手、つまり燐を正しく用いる方法、あるいは、空気の担い手、つまり水銀を正しく用いる方法をもはや有していないがゆえに、光と空気を直接用いるのです。もちろんこれが第三の可能性でもあります。けれども真の有効な道は、精神科学によって、「鉱物的なものと地球外的なもの、植物的なものと地球外的なもの、動物的なものと地球外的なもの」との関係の極致ハーモニー(harmony)に迫るときにのみ、再び開かれるでしょう。動物的なものが問題になるとき、すでに昨日暗示いたしましたように、人間との近さは容易ならぬものでしょう。ここで古代人たちはひとつの境界を設けましたが、これもまた新たな研究から探究していくつもりです。古代人たちはこう言ったのです。植物、これは惑星系の範囲にあり、鉱物、これも惑星系の範囲にある。けれども動物界に至ると、惑星系から出ていく。つまり、地球外のもの、惑星的なものの内部にとどまっているときよりもはるかに、ものごとと戯れるなどということは許されなくなるのだと。動物形成、それからとりわけ人間形成を導く力は、鉱物や植物のなかの力よりもはるかに、なおも宇宙に拡散した状態なのです。動物形成、人間形成を導く力は、獣帯(という境界線)を引きました。それによって、植物的なものあるいは鉱物的なもののなかにあるものを越えて、治療力を探し求めないように、あるいは少なくとも、そうすれば容易ならぬ領域に踏み込んでいくことになるということに気づくようにするためです。むろん今や、昨日すでに皆さんにその特徴を少しばかりお話しました方法によって、この領域にも踏み込まれてしまいました。この方法については、病理学と血清療法の特殊なもののなかに立ち入っていくときに、さらに詳しく議論しなければなりません。こういう方法というのは通常、この方法が個別的なものに通ずるために、まったく強固な幻想を引き起こし、それによって、こういう事柄の背後にある危険性が、完全に隠蔽されてしまうということになるわけです。■原注☆1 1920年3月24日の「人智学と現代の諸科学」という講演のこと。「精神科 学と現代の生の要請」(小冊子5、1950年、ドルナハ)所収。☆2 Theodor Svedberg、スウェーデンの化学者。おそらく、「物質[Die Materie]」(1912)という著書のこと。1914年にドイツ語に翻訳出版された。☆3 草稿には単に「それはーーープロセスです」とあるのみ。適宜「鉛」とい語が補足された。「種子形成プロセス」を参照。☆4 第一講の注参照。 ハーネマン:Christian Friedrich Samuel Hahnemann 1755-1843 ホメオパシー(類似療法。健康な人に投与すると、ある病気の症状と類似した症状を引き起こす薬物を、実際に病気にかかっっているひとにごく少量希釈して投与することによって患者の体内の治癒力を呼び覚ます治療法)の創始者。ドイツのマイセンで生まれ、ライプツィヒ大学で医学を学びウィーンで臨床医の研修をした後、エルランゲンで学位を得る。マラリアの治療薬であるキナ皮を健康な人間が服用すると、マラリアと類似の症状を引き起こすという事実を確認し、それをもとに、ホメオパシーの考え方を発展させた。■訳注* ラテン語の原文は ”Facilius est aurum facere quam destruere.”「黄金を壊すより、黄金をつくる方が易しい」というローマの箴言 第六講本文-後半部-第三:ハーモニー(harmony)-了/本文-完了哲学・思想ランキング
2024年09月23日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講 第六講本文・解説 1920年 3月26日 ドルナハ●第六講本文 - 後半部 人間外部の自然の三つの異なる内的形成衝動-第二:太古の叡智 実際何らかの共感や反感によってではなく、非常に具体的なものに基づく事柄によってこそ、そもそも太古の叡智を真に賛美することができるようになるのです。私は皆さんに保証できるのですが、数え切れないくらい多くの場合に、次のようなことを確認しなかったら、私はけっして太古の叡智の賛美者ではないでしょう。つまり、太古の叡智のなかに再び見出されるけれども、太古の叡智を有した人間が知っていたことと、私たちが今日再び獲得できるものの間でまったく消え去ってしまっていた事柄、今日、こういう事柄が発見されるようになったということです。真に認識を目指して努力するひとが、太古の叡智の賛美として育成するものは、太古の叡智を目指して全面的に突進することから生じるのではなく、一定のまったく具体的な関係を洞察することから出てくるのです。さて、私たちが光り的なものを探究しようとすれば、いわばこの太陽系において太陽の上位にあるもの、つまり、火星的なもの、木星的なもの、土星的なもののなかにあるものすべてに、眼差しを向けなければなりません。そして地球上で起こっていることはすべて、ある意味で、地球外に存在しているものの作用ですから、私たちは地上的なもののなかに、まさにこのような、宇宙で起こっていることの作用を見出さなければならないのです。このことは、今日の分子物理学、あるいは分子・原子・化学が行なっているような抽象的、空想的なやりかたで、地上的な物質のなかに、その物質の配置や凝集状態の根拠を探し求める方向には向かいません。この原子化学は、いわば見ることのできないものを、つまり物体の構成の内部をのぞき込み、原子や分子についてありとあらゆる好ましい予想を考え出し、さらには、今日現在では減ったかもしれませんが、数十年前には非常に誇らしげに語られていたこと、物体の構成の内部で生起しているものの「天文学的認識」について語るわけです。少し以前にはこれについて語られていたのです。一昨日の公開講演で申し上げましたように(☆1)、今日ではこういうものの写真を撮影するのです。心霊主義的なグループにおいてすら写真を撮影しています。「霊の写真」をです。今日、自然研究者は、霊の写真を信用しない傾向がありますので、彼らは、こういう事柄を見通している他のひとたちが、原子の写真を信用しないことを承認しなければなりません。なぜなら、こういう原子の写真も、霊の写真も同じ影響の下にあるからです。植物のなかに見られるものは、原子や分子に結びついている力ではなく、地球の外部で作用していて地上の物質に影響を与えている力なのです。ですから、私たちが地上の物質を配置したなら、そのなかに存在しているのは、この配置に作用している原子や分子といった小さなデーモンたちではなく、何らかの方法で作用している宇宙的な力なのです。つまり、地球外部のもののなかに、ある配置が成立すると、たとえばこの太陽系から土星が、地球のある一点にとりわけ有利に作用するような配置が成立すると、土星が有利に作用することができるのは、土星の作用系統から他の作用系統ができるだけ遠く離れていて、つまりこれが地球で、土星が地球に作用しているとしますと(図参照)、すなわち、太陽の作用、火星の作用その他が、土星の軌道内や、土星の軌道のすぐ近くに無く、できるだけ遠く離れていて、いわば土星だけが作用しているときなのですが、そういう配置が成立すると、この地球は他の原因によって特殊化されているために、地球のこの箇所に、こういう土星の力にとって、この場合はその他の地球外的な諸力には少ししか影響されていない土星の力にとって、有利な配置が存在すると、地上の物質のなかに、同じ関係においてたとえば火星が作用するのとは異なった構造が引き起こされるのです。私たちが地上の物質のなかに見ているものは、まさしく星々の共同作用の産物に他なりません。したがって、今私が切り離してみた場合、つまり、土星が地球のある特定の箇所にとりわけ有利に、そして長期間作用する場合、ここに鉛の出現をみることによって、この産物のなかでの土星の作用が私たちに明らかになるのです。参考画:spiral planetary system これが、ある種の地上の物質、とりわけ金属性の物質が、地球外の宇宙のある種の配置と関係づけられなければならない理由なのです。ここで可能なことは、今日の研究、今日の精神科学が提供することができるものを、以前太古の叡智から提供されていたもの、本来再発見することによってしか理解できないものとの対比に導くことに他なりません。と申しますのも、古代の文書というものは、今日の化学的、物理学的に思考する人々にとって、実際根本において読むことのできないものだからです。以下の例はこのことを教えてくれます。北欧のある非常に聡明な学者が、ある錬金術の歴史に書き留めたことですが(☆2)、彼はここで、彼が言うには、今日の化学的概念からすればまったく無意味なプロセスを挙げています。このプロセスからは何も見つけられないからです。これはまったく正当なことです。それは鉛プロセスです(☆3)。しかし、この善良な人物は、このプロセスによって種子形成プロセスが説明されていることを知らなかったのです。彼は、このプロセスによって、実験室内でのプロセスが説明されているのだと考えました。そうなるとこれは当然無意味です。けれども、術語を完全に、いわば別の世界に適用しなければならないこと、表現によっては、まったく別のことを考えなくてはならない場合があること、こういうことをこの人物は全く知らず、そのため彼にとってこのプロセスは無意味なのです。彼は正当であると同時にもちろん正当ではないのです。つまり、地上の物質を、地球の周囲から地球に働きかけている諸力に関係づけることができるのです。とりわけ金属の研究が、私はこれからの講演で皆さんにそのやりかたを暗示していくつもりですが、そういうやりかたで行なわれるなら、この研究はまさにまったく特定の関係を明らかにします。つまり、たとえば鉛はおもに、他のものに妨げられない土星作用に関係づけられねばなりませんし、錫は、他のものに妨げられない木星作用、鉄は、他のものに妨げられない火星作用、銅は、他のものに妨げられない金星作用、今日私たちが化学において水銀(Quecksilber)と呼んでいるものは、他のものに妨げられない水星作用に関係づけられねばなりません。ですから古代の人々は水星(der Merkur)と、水銀(das Merkur)を同じ名で呼んだのです。さらに私たちは、銀的なものすべて、私はここではっきり銀的なものと申し上げますが、それらと妨げられない月作用との間の親和性を認識しなければなりません。今日の文献を読みますと、古代に銀と月の親和性が確立されていたのは、月が銀色に輝いて見えることと、人々がこういう外的な特性に従っていたためだとされていますが、実際これはとんでもないことです。その頃なされていた個々の金属に関する研究の性質は、実際綿密なものであったことを知っているひとは、このような誤りに屈することはできません。とは言え、皆さんはこのことから、その他の物質についてもじゅうぶん機会が提供されていることがおわかりでしょう。なぜなら、皆さんに名前をあげました鉛、錫、鉄、銅、水銀、銀は、きわめて傑出した物質ばかりだからです。他のあらゆる惑星的作用が、暗示しました作用とまさに競合し合うことで、つまりたとえば、土星作用の系統に火星作用その他の系統が入り込んでいくことによって、他の物質に対して豊富な機会が与えられるのです。これによって副次的な金属も生じてくるわけです。しかしいずれにせよ私たちは、地球の金属世界のなかに地球外的な諸力の作用の結果を見なければなりません。これによって特定のやりかたで、私たちが金属の作用のなかに表わしたものが、私たちが植物のなかに見ているものと結びつけられるのです。なぜなら、鉛、錫、鉄の試薬のなかにあるものを考えていただければ、植物の花・種子形成、地球の外部の地表より上方で起こっている限りでの、花・種子形成と関係するすべてのなかにもあるものが、ほぼすべて一緒に得られるからです。銅的、水銀的、銀的なものすべてと関係づけられなければならないのは、植物の根形成と関係しているすべてのものです。一方において水星的なものが一種の調停として存在するのに対し、当然のことながら皆さんは、他方において別の調停を探索せねばならないことになります。と申しますのも、水星的なものというのは、地球的なものと、いわば地球を超越しているものとの間の調停であるということはおわかりですね。けれども、この宇宙全体が、そもそも現実に霊に浸透されているのです。そしてもうひとつの両極性とでも申しますか、そういうものがここに成立しているわけです。ここに地上的なものを、さらに地上を越えたあるものを思い浮かべていただければ、地上的のものと、地上を越えたもののなかに、光と重力との対立が見出されるでしょう。けれども、これだけでは、単に地上的なものと地上を越えたものとの平衡状態を見上げる可能性があるだけです。けれども、また別の平衡状態、今や地上的なものと地上を越えたものをすべて一様に貫くものと、それら自体との平衡状態、つまり、霊的なものと、計測できないものであれ、計測できるものであれ、物質的なものとの平衡状態というものも存在するのです。物質的なもののどの一点においても、霊的なものと、この物質的なものとの均衡が保たれているのです。これは宇宙においてもそうなのです。私たちにとって、宇宙において均衡が保たれている一番近い所は、太陽自体です。太陽は、宇宙における霊的なものと、宇宙における物質的なものとの均衡を保っているのです。したがって太陽は、いわば同時に、惑星系において秩序を保っている宇宙体に応じているのですが、この秩序もまた、私たちの物質組織のなかに入り込んでくる諸力によって引き起こされるのです。先ほど特徴をお話ししましたように、個々の惑星と金属との関係を確定できるのと同様、太陽と黄金との関係も確定できます。しかし、この点についても、古代人たちは、そのアーリマン的な価値のゆえに金を尊重したわけではなく、金と太陽との関係のゆえに、霊と物質との均衡に関係しているがために金を尊重したのです。 第六講本文 - 後半部-人間外部の自然の三つの異なる内的形成衝動-第二:霊的なものと、物質的なものの均衡-了哲学・思想ランキング
2024年09月22日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講 第六講本文・解説 1920年 3月26日 ドルナハ●第六講本文 - 後半部 人間外部の自然の三つの異なる内的形成衝動 第一:脈動する宇宙プロセス・リズム 私が今日お話ししたことと関連して、人間外部の自然のこれら三つの異なる内的形成衝動の差異とは、いったいどのようなものなのでしょうか。そのプロセスにおいて塩的であるもの、もっと良い言い方をすれば、そのプロセスにおいて塩形成に通じるものはすべて、内的な経過を重力の領域に移行させるものです。古代の医学的著作を読むひとは、古代の文書において物質の塩化について語られている箇所では常に、次のようなことに思いを馳せるとうまくいくでしょう。つまり、ここではこのプロセスすなわち塩化によって、当の物質が重力の支配下にある、一方、その反対のプロセス、光のプロセスによって、今度は計測できないものが、この重力から取り去られるということです。つまり私たちが、光をその他の計測できないものの代理、代表者とするなら、人間外部の自然においても常に一貫して、光と重力との闘い、地球外のものを目指すものと、地上的な物質を中心へと向かわせようとするものとの間の闘いのことを考えておかなければならないのです。私たちがここで有しているのはまず、重力と光の対立です。そして重力と光との間を揺れ動きつつ、絶えず均衡を求めるもの、これは水銀的なもののなかに現われています。水銀的なもののなかに含まれているのは、光と重力の間でたえず均衡状態を求めているものにほかなりません。さてここで重要なのは、この塩的なもの、燐的なもの、水銀的なものの対立を、実際宇宙全体のなかに、つまり、重力のなかに、光的なもののなかに、そしてこの両者の対立、すなわち両者の均衡を求めるもののなかにも置いてみることです。さてよろしいでしょうか、この完全な対立のなかに独特なしかたで置かれているのが、人間の心臓の活動全体です。参照画;circulatory organ 現代の自然科学的見解において、心臓に対して適用されている、例のポンプシステム、これを支持できないことはすでに皆さんにお話ししましたが、これは除外するとしても、あたかも心臓が、いわばそれ自身の皮膚によって外部に対して閉鎖された活動に尽きているかのように想定されている、今日すべてがこのように想定されているというのは、実際恐るべきことと申し上げたいのです。実際今日、心臓はその本体を通じて脈打っているものと何らかの関係があると想定されているのとほとんど変わりません。けれども、そうではなく、器官存在として人間は、宇宙プロセス全体に編入されていて、人間の心臓というものは、単にその生体組織のなかにあるひとつの器官というのみではなく、全宇宙プロセスの一部でもあるのです。そして植物において起こっていること、太陽の上位にあるものと太陽の下位にあるものとの共同作用は、人間においても起こっていて、その現われが心臓の動きのなかに見出されるのです。心臓の動きは単に人間において起こっていることが刻印されたものであるのみならず、人間の外部にある関係が刻印されたものでもあるのです。皆さんが人間の心臓を考慮なさるなら、そのなかには根本において宇宙のプロセス全体が反映していると申し上げたいのです。人間とは本来、霊的・魂的な存在としてのみ、個別化されているのです。人間は、宇宙のプロセス全体に編入されています。たとえばその心臓の鼓動が、人間において起こっていることの現われではなく、光と重力の間で全宇宙において起こっているあの闘いの現われであるということによって、宇宙全体のプロセスに編入されているのです。私はしばしば、一般のかたのために、人間がこのように宇宙のなかに置かれていることを、次のような計算をして、きわめて粗雑な具象性によって説明しようと試みました。人間が一分間におよそ18回呼吸すると考えてみて下さい。すると、この呼吸数は、一日で、つまり24時間で一定の数になることがおわかりでしょう、すなわち、25920回です。ひとりの人間の生きる一日をとってみて、一年が365日あり、このひとが平均的な寿命、つまり71歳まで、もちろんもっと長生きする可能性もありますが、ここでは生きると考えて下さい。すると、人間の寿命の日数は、一日24時間の呼吸数とまったく同じ、25195という数になるのです。さらに、黄道十二宮を巡る太陽の運行全体、つまり、プラトン年。太陽が、そうですね、春分点に牡羊座から昇るとして、再びそこに戻ってくるまでに要する時間を考えていただければ、25920年となります。ここで皆さんに、人間と全宇宙との関係を表わす、不思議な数の例証が与えられたわけです。なぜなら、これは、人間の寿命の日数と同じ数によって表わすことのできるものを、太陽の運行の年数、プラトン年で示しているからです。よろしいでしょうか、この数の例証は明白に示すことができるのですが、宇宙の存立の常ならぬ深みまでも暗示しているものなのです。皆さんが実際、私たちが人智学においても強調しなければならないことを、目に留めて下さりさえすればよろしいのです。つまり、人間が眠りにつくと、人間の自我とアストラル体は、物質体とエーテル体から離れ出て、目覚めるときにまた入り込むということです。皆さんがこの事実を、一種の、物質体を通じて霊的・魂的なものを吸ったり吐いたりすることとして想定して下されば、このような吸ったり吐いたりによって、人間の生存中に、これはあるものにとっては一日であるにちがいありませんが、生存中になされるこういう呼吸の数は、25915、あるいは25920となるのです。「閏日」というものがありますね。この「5という差」は閏日があるために生じているのです。さらにまた、宇宙のなかには、この同じ数にしたがって、太陽の運行、見かけ上の太陽の運行と関係しているものもあるにちがいありません。この宇宙の進行のなかにはひとつのリズムがあります。このリズムは大いなるもののなかに現われ、ひとりひとりの人間の寿命のなかにも、一日の呼吸プロセスのなかにも現われているのです。有史以前の世界が、遺伝的な観照力から、「ブラフマーの昼と夜」について、「宇宙の呼吸」について語っていたことも、もはや皆さんには不思議とは思われないでしょう。なぜなら、この宇宙の呼吸が、人間の日々の生のプロセスのなかにそのミクロコスモス的な像を有していること、このことに有史以前の世界は気づいていたからです。記:閏日(うるうび/intercalary day)太陽暦では,1太陽年が 365.2422日にあたるため,平年を 365日とし,400年に 97回閏日をおいて補正する必要がある。最初の一応完全な太陽暦は,前 46年,ユリウス・カエサルがアレクサンドリアの天文学者に命じてつくらせたユリウス暦で,1回帰年 (太陽年) を 365.25日として4年に1度閏年をおくことになっていた。しかし,真の1回帰年の長さは採用した1回帰年よりも 0.0078日だけ短いため 16世紀にいたり,約 10日間の食違いが生じた。 1582年,ローマ教皇グレゴリウス 13世は,その年の 10月4日の次の日を 15日とすることでこれを是正し,400年に3回,閏年となるべき年を平年とすることにした。具体的には,西暦紀元のうち,4で割切れる年の2月の終りに閏日をおいて 29日とし,なお 100で割切れる年のうち 400で割切れない年だけは平年とした。このグレゴリオ暦の方法が,今日ほとんど全世界で採用されている。 第六講本文 - 後半部-第一:脈動する宇宙プロセス・リズム-了哲学・思想ランキング
2024年09月21日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講 第六講本文・解説 1920年 3月26日 ドルナハ●第六講本文 - 中半部 いわゆる外惑星、これには当然に火星、木星、および土星を含めばなりません。天王星と海王星は、天文学的にのみ、この太陽系に加えることができます。この両者は本当はこの太陽系の一部ではなく、この系の外部にあった異物が、いわばこの系に接続したことによって、この系に入り込んできたのです。したがって、この太陽系によって招かれたこれらの物体、つまりこの太陽系創成時に一緒にやってきた本来お客様であるものは度外視して語るのが正しいのです。これらの外惑星の力は、通常は単に葉の螺旋にのみ現われているであろうものを押しとどめて、花・種子形成に作用することによって、上へ向かう力を後退させる作用を及ぼすのです。つまり植物生成を、葉の形成から上へと観察してごらんになれば、皆さんはその起源を、太陽的なものと、火星的なもの、木星的なもの、土星的なものとの相互作用から成立した諸力に帰せざるを得ないでしょう。しかし、これら二つの要素、太陽系創成時の独自生成した惑星とキャッチした外惑星は単に一緒に作用しているのではなく、この両者に対してさらにまた、とりわけ月(*霊的太陽系においてシュタイナーは、月を惑星として数ていることに注意、神秘学霊的魂の環太陽系世界特有の世界観)から発しているものと、いわゆる下位惑星、すなわち水星と金星から発しているものが作用を及ぼしているのです。水星、金星、月は、植物のなかに、地球への、つまり下方への傾向を生み出すものであり、その最も顕著な現われは根の形成のなかに見出されます。したがって、地上的に現われているものは、すべて実際には同時に、月と関連しつつ、太陽の下位にある惑星に影響を受けているのです。つまり植物のなかには、私たちの一部であるこの太陽系全体が表現されていると申し上げたいのです。植物のなかには私たちの一部であるこの太陽系全体が表現されていて、他面では人間のなかにもこの太陽系が表現されているということを知らないうちは、そもそも植物組織と人間の組織との間の関係を見通すことなどできません。参考画:ヘリオスフィア(環太陽系) 皆さんは実際次のような事実に目を向けてごらんになりさえすればよいのです。根的なものに傾いている植物、つまり、花形成に傾いている植物ほどには、花・種子形成のプロセスを成し遂げていない植物を燃やすと、あるいは全般に植物の根を燃やすと、花を燃やすときよりも、あるいはヤドリギや樹の類の植物を燃やすときよりも、はるかに多量の灰成分が出るという事実です。この違いは端的に、太陽の下位にあるもの、つまり月的なもの、水星的なもの、金星的なものは、根の形成に向かって強い傾向性を示すような植物に対してより強く作用しているということに由来しています。灰のなかには、鉄、マンガン、珪石(Kiesel)といった、実際直接的な薬を析出(せきしゅつ)し、植物から何かを利用するときにも薬として現われてくる成分が見出されます。これに対して、これとは反対の種類の植物を燃やすときには、灰の成分は少ししかないでしょう。この燃焼プロセスのなかに現われているもの、これは何はさておき、植物が単に地球上に見い出されるものだけに属するのではなく、宇宙全体の一部であることを示す正確な外的ドキュメントなのです。植物プロセスをもっと完全に観察してごらんなさい。一年生の植物の場合、植物プロセスはいわば、種子の形成とともにある特定の季節に中断されます。つまりこの種子形成を、私たちはおもに地球外のものに還元しなければならないのです。けれどもこの種子形成は中断され、それは地上的なものに委(ゆだ)ねられて、古い年にはある意味でもっと高い段階に達していたものが、新しい年には、いわばそれより低い段階で再び継続されていかねばなりません。ですから皆さんは植物の成長全体のなかに、独特な進行を観察することができるのです。ここが地球の表面だと考えて下さい。さらに、植物全体が地上から生えて、地球外のものに向かっています(図参照)。けれども、地球外で形成されたものは、再び地球へともどされ、循環が新たに始まるのです。したがって、皆さんが植物の成長全体を観察されるなら、本来、天の諸力が毎年地球へと降下し、地球の諸力と結びついてこの循環が新たに完了するというわけです。つまり天の諸力は毎年、花・実的なものを根的なもののなかに沈降させ、それによって、植物の成長全体を支配している円環を達成するのです。お解かりでしょうか。ここで皆さんに指摘されていることは、私たちは実際のところ、地球の植物相とみなしているもののなかに、地球そのものと地球外のものとの相互作用を、完全なかたちで示しているものを有しているということなのです。これは、単に形態にまで及んでいるのみならず、内的な化学的現象(Chemismus)と器官組織全体にも及んでいます。なぜなら、ちょうど地球的なものが、形態の機構において、宇宙的なものに克服されるように、いわば植物における地球的な化学現象も、地球外のものによって克服されるからです。そしてこれがある程度まで克服されると、今度は地上的な化学現象を示すために、またもや地上的なもののなかに戻されるのです。さらに、地上的な化学現象は、灰的なもののなかに現われているすべてのものに外的に示されていること、つまり地上的な化学現象は、生命的なものから抜け落ちるものによって表わされるということが皆さんにほとんど明確になるでしょう。この地上的化学現象は重力に屈服し、一方、植物の上へ向かう成長は、重力その他の地球に結びついた諸力を、絶えず克服しているのです。こうして私たちは、重力と光の両極的対立について語ることができます。光とは、絶えず重力を克服しているものです。そしてこの、「光と重力との闘い」、灰へと押し寄せるものと、火へと押し寄せるものとの闘いのなかに、このプロセスのなかに、植物はある意味で拘束されているのです。ここで私たちに示されるのは、灰化していくものと、火のなかに開示されるものとの両極的対立、計測できるものと計測できないものとの対立です。さてここで一面において、宇宙的連関のなかにある植物界が得られたわけです。皆さんが人間の観察をなさるなら、すでに先日来の議論により、ここで人間も両極的に方向づけて考えなければ、うまくいかないことがおわかりになると思います。と申しますのも、一方で私が皆さんに示しましたのは、植物において下から上へと成長しているものが、人間の場合は上から下へと成長していて、そのため人間の場合、性的なものと排泄プロセスにおいて、花的なものと種子的なものは下へ向かい、根付くものは上に向かうということです。ただ、これは人間の場合、機能的にそうなのであって、植物の場合はこれは物質的なプロセスなのです。このことからすでにおわかりでしょうが、人間のなかには、植物のなかに存在するものとは反対のものがあるのです。けれども人間のなかに単に反対のものがあるというのではなくて、この反対のものを担うものがあるのです。従って皆さんは次のように言わなければなりません。すなわち、人間のなかには一面において、機能的に、いわば上に向かって根を張るもの、下へ向かって成長するもの、つまり植物的なものがあり、そしてその回りを取り巻いて、今度は下から上への傾向を有する、物質的なものがあるのだと。そのため、本来植物の場合は、上の領域から取り出してくることと、下の領域に沈降することが、巧妙に行なわれているのに対し、人間の場合は継続的に行なわれているのです。そして本来、人間の健康な生も病んだ生もこの相互変動のなかにあるのです。よろしいでしょうか、今示しましたように、一方で、地球から上に向かって作用する担い手が存在し、他方で、上から下へ作用するものがこの担い手のなかに押し込まれているわけです。健康な状態も病気の状態も、人間の生はこれらの力の共同作用のなかにある、ということを容易に見て取れるのは、いわばなかば絶望しつつ、ひとつの重要な事実の前に立つときです。つまり、人間の生体組織は、上に位置する部分が考察されるときと、いわば心臓の下に位置する部分が考察されるときでは、まったく別様に扱われねばならない、という事実です。この場合人間は別の原理に従って観察されねばならない、とすら言えます。このことはいくつかの事実、たとえば、そうですね、頭蓋癆(ずがいろう/Kraniotabes)の通常のくる病(Rachitis)に対する、多くのひとにとって謎めいた事実のなかに現われているのです。この両者は、人間を統一体として観察するひとにとっては、互いに近接している一方、人間の対極的に異なる領域から出ているために、まったく異なった原理によって観察されることもやむを得ないのです。このことは重要な意味を持って治療プロセスにまで及んでいます。ですから、くる病において何らかのやりかたで、燐療法によってある種の成果を示した医師たちは、おそらく頭蓋ろうの場合この療法によっては全く成果をあげられないでしょう。この場合は、炭酸石灰か何かによる治療によって反対の処置がとられなければならないのです。けれどもこれは、まったく一般的な事実を表わしているにすぎません。この事実はあまりここちよくないことを表明しなければなりませんが、これはまったくの真実なのです。つまりこれは、次のような事実なのです。人間の治療の場合、つまり医学の領域に入っていく場合、何かが言われると、その反対のこともまた、常にある場合においては正しいことがあるということですーーそしてこれは宿命というものなのです、皆さん。誰かが何らかのことに対して、まったく正しい治療法を示し、生体組織における一見まったく同じ症状に対して適用されると、この治療法はまったく治療法にはならず、反対の治療法が取られねばならないということも、十分起こりうるのです。そのため、ひとつの治療法で処置することができるのは人間の一部のみで、人間の他の部分はまた別の治療法で処置せねばならないということを意識していなければ、医学においては常に、ある治療理論を別の治療理論によって撃退してしまう可能性もあるわけです。けれども、ここで重要なのは、いわば植物においては分離されて現われてくるもの、人間においてはその組織化の一面を決定するものを、私たちがきちんと見据えることです。昨日皆さんには、いわば人間外部の自然特有の三つの形成衝動に目を向けていただきました。すなわち、塩的な形成衝動、水銀的形成衝動、そして、燐や硫黄といった特定の物質が、計測できないものの力を自らのうちに保存すること、計測できないものの担い手であることによって成立する形成衝動です。 第六講本文 - 中半部-了哲学・思想ランキング
2024年09月20日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第六講 第六講本文・解説 1920年 3月26日 ドルナハ●第六講本文 - 前半部 きょうお話しすべきことに関しましては、実際のところ私は少々気がかりなのです。と申しますのも、こういう事柄をお話しするのに三カ月ほど手間を掛けることができましたら、そう簡単に、これらを単なる幻想であるとみなすことはできないでしょうが、次のような、さらに治療の特殊な面にまで入っていくべきことを、いわば完全に理解できるようにするためということで、これらの事柄をきょうのこの時間でざっと通過していきます。ですから、単に並べ立てたかのように思われることも若干あるかもしれません。それでもやはり、私はできるだけ、これらの事柄はすべて十分根拠があり、それどころか今日の自然科学の基礎となっている事柄以上に根拠があることを、私なりの表現で示していきたいと思います。きょうはまず初めに、植物形成のプロセスそのものを、その宇宙的連関のなかに置いて皆さんにお見せすることから始めたいと思います。私たちが見てまいりましたように、人間においては、植物生成プロセスにおいて開示されているのとは逆のプロセスが、いわば機能的に働いています。従いまして、人間に対する植物界の直接の関係を見出すためには、この植物生成プロセスを少なくとも暗示的にここでご覧に入れておかなくてはなりません。皆さんが植物をご覧になると、植物はその形成プロセスにおいて、明らかに対立する二つの傾向を持っていることがおわかりでしょう。一方は地球に向かいます。そして昨日すでに暗示しましたように、いわば樹のような植物においては、その幹のなかに地球がいわばまくりあげられていて、そのため樹の場合、花は、ふつう草のような植物や下等な植物が地球に根付くように、その葉とともに幹に根付いているのです。さて、一面においては、植物の地球へ向かう傾向へと私たちの注意が向けられます。けれども、他面において植物は地球から離れようとしているのです。植物は、単に地球の引力に対抗する機械的な力によって地球から離れようとしているのみではなく、その形成プロセス全体、それも内的な形成プロセスにおいて、地球から離れようとしているのです。花において起こっている経過は、根において起こっている経過よりもずっと、地上を越えたもの、地球外のものに依存していることでしょう。そしてこのように、花の形成が、本来地上的でない諸力に依存しているということを、私たちはまず見ておかなければならないのです。なぜなら、花・種子形成プロセスを花の外部に導いていくために、植物によって用いられる諸力、他ならぬこのプロセスが、皆さんに先日の講演で暗示しました、人間における機能的に逆転した植物プロセスのために必要になる、ということがおわかりにになるでしょうから。この、人間における逆転した植物プロセスは、人間の下腹部において、排泄、分泌、そして性(sexuality)の根本にも関係するすべてのものにおいて、見出すことのできるものなのです。このように、私たちが人間と植物のこういう関係を探し出すときこそ、植物の地球上のプロセスと同様地球外的なプロセスもまた、個別的に示されるのです。この講演でお話しすることは、古代の医学的文書から借用してきたことではなく、まったくもって現代の精神科学的研究に基づいているのだ、ということを皆さんにおわかりいただけるように、私は努力を惜しまないつもりです。ただ、時おり術語において、古代の文献に依拠する試みを余儀なくされることもあるでしょう。何と言っても近代の文献は、この方面の術語をまだ開発していないからです。けれども、この講演で話されているのは古代の文書から引用されたことだけだと考えるような人は、まったく思い違いをしているのです。地上から上へと伸びていく植物の成長を追求すると、皆さんはまず、葉と花の発生と形成プロセスにおける螺旋状の進行に注意を向けなければならないでしょう。いわば植物の形成力は、茎をめぐる一種の螺旋状の進行に従っているのです。この螺旋状の進行は、植物のたとえば内的な弾力から引き出さすことのできるものではなく、地球外の作用、とりわけ主として、見かけ上の、太陽に対する地球の運動はやはり相対的に考えなければならないからですから、つまり見かけ上の太陽の軌道の作用に帰せられねばならないものなのです。ある意味においては、ガリレオ的・数学的なものよりも良い拠り所に従って、星々の運行を、植物における形成プロセスの進行から徹底的に研究することができるのです。なぜなら、星々が行なっていることを、植物は忠実に模写しているからです。けれどもここで、地球から上へ向かう、太陽に依存しているこの形成の経過のみが、植物において働いていると考えるとしたら、それはまったく誤っています。そうではなく、何はさておき、星々が太陽を通じて引き起こされたこの太陽系の運動とともに作用して、合力を形成しているのです。しかもこの太陽の作用というのは、この太陽の力に対して、いわゆる外惑星の力が今度はその螺旋でもって対抗しなければ、いわば太陽の力が植物をまったく占有して、絶え間なく無限に継続させてしまうような作用です(図参照)。と申しますのも、実際のところ諸惑星は、楕円運動しているのではなく、螺旋運動(spiral orbital movement)しているからなのです。そもそもコペルニクス的世界観全体が今日検討され、他のものによって補足されなければならないものなのです。参考画:spiral orbital planet 第六講本文 - 前半部-了哲学・思想ランキング
2024年09月19日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 テーマ9 植物、鉱物、人間の相互関係 ・動物実験及び動物性の薬の使用について 植物的なもの、鉱物的なもの、人間的なものとの間には相互関係が成立している。人間において直接効力のあるプロセスは、人間以外の存在の直接表面に現われているようなプロセスではなく、より深い本質から取り出してこなくてはならないようなプロセスである。人間は自らの中に、人間外部の自然の中に現われているものを止揚し、反対のものに逆転させようとする傾向を有している人間は動物に対しては90度の位にいて、植物に対しては180度の位置にいる。動物実験の認識を誤るのは、血清のような動物性の薬を使用する場合にそのことが考慮されなければならないのを怠るときである。 この第五講では、植物的なもの、鉱物的なもの、人間的なものとの間に成立している相互関係について、主に「燐的なもの」「塩的なもの」「水銀的なもの」ということで説明が加えられ、そのことから、鉱物治療薬、植物治療薬についての基本的な観点が示唆されました。しかし、この講義の最後に、人間と動物との間の関係について、その錯誤に満ちた認識について警鐘が発されています。それは、動物実験に関するものです。動物実験は、人間と動物との親和性ということから、動物での実験結果を人間に適用しようというものなのですが、それがまったく誤った認識からきているというのです。「人間において直接効力のあるプロセス」は、鉱物的なもの、植物的なものと人間との相互関係ということから見てきたように、人間以外の存在のより深い本質から取り出してこなくてはならないものなのですが、動物実験というのは、極めて皮相的なものでしかありません。この講義の最初でも述べられていたことでしたが、植物は根を地中に伸ばし、生殖器官としての花を上方に伸ばしていますが、それに対して人間は、頭部を上方に向け、生殖器官を下方に向けているように植物が逆立ちしているような在り方をしているのが人間であるように、人間は自らの中に、人間外部の自然の中に現われているものを止揚し、反対のものに逆転させようとする傾向を有しています。動物についていえば、植物と人間が180度の関係にあるのに対して、動物は背骨を水平にしているように、人間と動物は90度の関係にあります。血清のような動物性の薬を使用する場合には、そのことが考慮されなければならないのです。さて、私たちがこれまでに指摘できたことは、植物的なもの、鉱物的なものと、人間的なものとに間にこのような相互関係が成立しているということでした。近代においてはさらに、人間と動物的なものとの間の親近性、相互関係であるとされているものが、いわば何か非常に希望に満ちたことであるかのようにこれに付加されてきたわけです。とは言え、血清療法の発生に際して奇妙なやりかたで行われていたことは度外視しても、まさにこの普通に行われている血清療法に対して、原則的なことが通用するようににされなければなりません。よろしいでしょうか、血清療法の発生に際して、実際まったく奇妙なやりかたで、ベーリング(☆2)によって行われていたことがあるのです。記:エミール・フォン・ベーリングは、感染動物の血清を利用して細菌感染症を予防や治療する血清療法の研究で、1901年に第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。参考画:KitasatoーEmil von Behring 血清が何の役に立つかということのみ語っていた発表論文を追求すると、実際医学制度全体の革新に関わる話であるかのような印象が得られました。けれども、その時行われた基礎となった作業を記述したものに立ち入っていくと、奇妙なことに、これは誇張ではありません。たぶん皆さんのなかにもこのことをご存知のかたがいらっしゃるでしょうし、すなわち、人間に転用するためにイルカの研究から推定しようとした療法において、「奇妙に多くの」数のイルカが不都合であることが判明したのです。つまり、血清で処置した多数のイルカのうち、有望な成果を示したものはたった一頭だったのです。偽装された動物治療プロセスにおけるたった一頭のイルカ、すでに血清療法のために大々的に宣伝太鼓を打ち鳴らし始めた時期にこうなのです。このことは単に一つの事実として挙げておきたいのです。皆さんのなかにもおそらくこのことを理解されていくかたがおられると思います。そしてこの、科学の場への登場における法外ないいかげんさと申しますか、こういうことこそ、本来科学史において厳密に考慮されるべきことなのです。原則的にきょう最後に、そして明日あるいは明日以降挙げておきたいこと、これは何と行ってもやはり、皆さんが見てこられたように、人間において直接効力のあるプロセスは、人間以外の存在の、直接表面に現れているようなプロセスではなく、より深い本質から取り出してこなくてはならないようなプロセスであるということです。人間はまさにある意味において、自らが外に出したもの、つまり、燐プロセス、塩プロセス、花プロセス、実プロセス、根を張るプロセス、葉を生やすプロセスと親和性を持っているのですが、それは、人間がこれらすべてを実際まったく逆転させて生きている、人間は自らのなかに、これら人間外部の自然のなかに現れているものを止揚し、反対のものに逆転させようとする傾向を有しているという意味においてそうなのです。動物に対してはこれは同じではありません。と申しますのは、動物はこのプロセスを途中まで経てきているからです。人間は同じ意味で動物の反対に置かれているのではありません。人間はいわば動物に対しては九〇度の位置にいて、植物に対しては一八〇度の位置にいるのです。そしてこれは、血清その他のような動物性の薬の使用について問いが生ずるときに最も考慮されることなのです。 (第五講●解説テーマ9 植物、鉱物、人間の相互関係 ・動物実験及び動物性の薬の使用について-了・第五講●解説-完了)哲学・思想ランキング
2024年09月18日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 テーマ8 植物成長のさまざまな傾向と人間外部の自然における鉱物の働きの三つの類型 植物成長傾向・人間外部の自然における鉱物の働き、燐的なもの、塩的なもの、水銀的なものはある意味で平衡している。内的に花・実形成の性質を持つものも燐的なものの人間の下腹部の器官に強い親和性を持つ。植物において根の方へ向かうもの、塩的なものは上に向かって組織するものすべてに対して親和性を持つ。テーマ6「植物的なものと人間的なもの」でも少しふれたように、鉱物的なもののなかの3つの類型である「燐的なもの」、「塩的なもの」、「水銀的なもの」は、植物成長の傾向に関しても、ある意味でそれが平行して見られます。花や種子、そして寄生植物のヤドリギのような情報を目指す傾向性のあるもの、「計測できないもの」を内面化する傾向をもっているものは、「燐的」であるということができます。それに対して、根のように下方を目指す方向性のあるもの、地球を母なる基盤として展開するものが、「塩的」であるということができます。そして、その両者を仲介し、平衡をもたらす働きを水銀プロセスであるということができます。植物と人間は逆転した関係、180度の関係にあるということが述べられていましたが、そのことを考慮すれば、内的に花-実形成の性質を持つ「燐的なもの」は人間の下腹部の器官に強い親和性を持つといえますし、植物において根の方へ向かうもの、「塩的なもの」は、上に向かって組織するものすべてに対して親和性を持つといえます。ここで明かになってくることは、植物成長のこれらさまざまな傾向と、私がきょう人間の外部の自然における鉱物の働きの三つの類型としてあげたものとが、ある意味で並行しているということです。とりわけ植物の自らを解放しようとする働きのなかにあって、さらに寄生植物の内的な活動において最高潮に達するものに目を向けるなら、計測できないものを内面化する傾向を持っているものが得られます。計測できないものとして宇宙から地球へと流れ込むものは、これらの器官が優勢であれば、「燐実質」のなかに保存されるのと同じように、これらの器官のなかに保存されるのです。ですからつまり、花、種子、それからヤドリギその他への傾向があるもののすべて、これらはある意味で燐的であると言うことができるのです。そして逆に、根をおろすプロセスを研究すればわかることですが、植物が地球を自分の母なる基盤とみなすことで展開するものは、塩形成と密接に関わっているのです。このように他ならぬ植物において私たちはこれらの両極に直面するわけです。そして両者を仲介する植物の働き、この働きを皆さんは常に、上方を目指す花や実のようなものと、下方に根を降ろすものとの間に見ているのですが、この仲介する働きのなかに水銀プロセスがあって、これが平衡をもたらしているのです。したがって皆さんが今、植物の体勢が人間と逆転していることを考慮されれば、次のように言われることでしょう。つまり、内的に花・実形成の性質を持つものはすべて、人間の下腹部の器官および人間の下腹部から方向づけられるすべての器官に対して、非常に強い親和性を有しているにちがいない、さらに燐的なものも、人間の下腹部の器官に対して非常に強い親和性を有しているにちがいないと。これがまったくもって正しいということは、明日以降見ていきます。これに対して、植物において根のほうへ向かうもの、これはすべて、上に向かって組織されるものすべてに対して特殊な親和性を持つでしょう。しかし、そうしたことから、人間を図式化して、単純に三つの部分に分けることはできないということを注意する必要があります。最も下の部分に属する消化システムにおいても、頭部にまで継続しています。思考物質として大きな意味を持っているのは、脳の灰白質ではなく白質の部分ですが、灰白質の部分は、脳に栄養を与えるためにある「消化器官のコロニー」だといえます。消化について見ていく場合、下腹部だけに目を向けることはできないのですから、根の方へ向かうもの、塩的なものは、上部に親和性を持つとはいっても、その他の部分とも関わり合っているのだということを忘れることはできません。記:自己の体調が悪くなると、人間不思議に普段では気にしなかったことに気付かされます。それは人間身体の構成部分は或る意味だけではなく実質的に分担された自己の構成部分のみで思考判断を下していることです。仮にこれ以外の方法、脳で思考判断一括処理をするならばもはや化学反応における信号は、ローカルバスなみの速度で、量子コンピューターを人間の脳に継続する必要に迫られます。かって、古生代(Paleozoic era)の大型恐竜では第二の脳を持つものは珍しくなかったのです。参考画:Stegosaurus 燐的なものと塩的なものの両者を仲介し、平衡をもたらす働きを水銀プロセスであるということが述べられていましたが、花を咲かせたり実を結んだりするものと、根のようなものとを調停するものである葉や通常の草などにあらわれているものは、上部人間と下部人間の間の「律動的調和」に関するものに関わっています。けれどもこのとき、当然に注意しておかねばならないことは、人間を単純に外的な図式にのっとって三つの部分に分けることはできず、たとえば最も下の部分に属する消化システムにしても、上を目指して頭部までいわば継続しているのです。脳の灰白質のなかに本質的に思考物質が与えられているというのは、まったくばかげた見解と言ってよろしいのではないかと思います。これは正しくないからです。脳の灰白質は本質的に、脳に栄養を与えるためにそこにあるのであって、本来脳に栄養を与えるための消化器官のコロニーなのです。一方、「脳の白質」であるもの、これこそが、思考物質として大きな意味を持っているのです。したがって皆さんは、脳の灰白質の解剖学的な様相においてすでに、通常灰白質に帰せられているものよりも、むしろ全体的な活動に関係しているものを見出されることでしょうですから、消化について語るとき、単に下腹部についてのみ語ることはできないということがおわかりでしょう。まったくもって肝要なのは、根のようなものの親和性に目を向けるとき、そこでは単に上部人間のみではなく人間の他の部分とも関連するものと関わり合っているということです。植物において、花を咲かせるもの、実を結ぶものと、根のようなものとの間を調停するもの、つまり、いわば葉やその他通常の草などに現れているもの、これは、抽出された状態であっても、循環障害や、さらには上部人間と下部人間の間の律動的調和に関係するすべてのものにとって、特別な意味を持つでしょうこのように鉱物の働きの三つの類型である「燐的なもの」、「塩的なもの」、「水銀的なもの」は、植物成長のさまざまな傾向にも見出すことができます。そのことで、その人間の生体組織との相互関係という観点を得ることができ、植物治療薬を用いるための基礎が築かれることになります。先ほど、計測できないものを内面かする鉱物と、計測できないものを自分から遠ざける鉱物、そしてこの両者の間にある鉱物が示されましたが、これはごらんのように、いわば植物の構成全体と対比することができるのです。そしてそうすることによって皆さんは、植物がいずれかの器官を発達させることに重きを置く度合いに応じて、人間の生体組織との相互関係を確立するための最初の合理的な手段を、植物そのものから手に入れるのです。これがさらにどのように特殊化されていくかは、いずれ見ていくつもりです。 (第五講●解説 テーマ■8 植物成長のさまざまな傾向と人間外部の自然における鉱物の働きの三つの類型 -了)
2024年09月17日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 テーマ7 あらゆる植物成長の生命の根底 あらゆる植物成長の生命の根底には、統一的な地球有機体組織というものがある。幹は地球の瘤であり、草のような植物においては地球それ自体が幹である。寄生植物であるヤドリギ(寄生木)は、花や種子を担う器官が、外的な分泌のように幹についているヤドリギの形成にあっては、植物のなかの地球的でないものが解放される。トクサが茎の形成において上昇しようとしているように、植物の主要な器官である根、茎、葉、花、実のどれもが何らかの植物形式から自由になろうとしている。植物を観察するならば、個々の植物を観察するというよりも、それが地球の生体組織の一部であるということを考慮する必要があります。個々の植物を観察するというのは、人間の髪の毛の一本一本を観察するようなものなのです。比較的最近になって、地球環境の問題から、太陽系惑星地球を地球生命体としてとらえ、ガイアということが言われるようになっていますが、その観点は地球上に存在するさまざまな存在についても深く考慮されなければならない問題になるといえます。参考画:ガイア(Gaia) さて、樹の幹に注目してみましょう。この幹は、地面に直接生えている植物にとっては地球全体にあたるといいます。シュタイナーは、幹はすべて地球の瘤であるというのです。ですから、草のような植物にとっては、地球そのものが幹であるのだといえます。こういう観点からすれば、草のような植物から花を摘むのと、樹から花を摘むのとでは違いがあるのだということは容易に理解できます。皆さんが地球の植物存在を観察されるときは、何よりもまして、通常そうされているようなやりかたでこの植物存在を見る必要はありません。つまり、地球面上を通行しつつ、次から次へと植物を観察して、それらを詳細に調べ、これらの植物を一つの図式のなかに組み込むべく、二分化、あるいは三分化された名称を考え出すというふうに観察するのではなく、皆さんは、地球全体がひとつの存在であり、ちょうど皆さんの髪の毛が皆さんの生体組織の一部であるように、なるほど髪の毛はどれも似たようなもので、植物の方は互いに異なっているので、少なくともある意味では当て嵌まらないのですが、植物界全体も、やはり地球の生体組織の一部であるということを考慮に入れておかなくてはならないのです。皆さんは、髪の毛一本一本をそれ自体ひとつの生体組織として観察できないように、個々の植物をそれ自体独立してあるものとしては観察できません。植物がさまざまに異なっているのは、地球が他の宇宙と相互作用しつつ、さまざまな方向へ力を展開させ、それによって植物がさまざまに組織化されることに基づいています。けれども、あらゆる植物成長の生命の根底には、統一的な地球有機体組織というものがあるのです。したがってある種の事柄に注意を向けるのは特別重要なことです。皆さんが、そうですね、キノコを観察なさって、最初におわかりになることは、このキノコにとって、地球そのものが一種の生息地、一種の母体であるということでしょう。さらにそれより高度な、草のような植物に移ると、皆さんは、ここでもやはり地球は一種の母体であるけれども、地球外的なものがすでにこの草のような植物にある種の影響を与えているということ、つまり、光やその他のものが、花や葉などの形成においても影響を与えていることがおわかりになるでしょう。けれどもとりわけ興味深いことは、皆さんが、樹というものに注意を向けてごらんになればおわかりになることです。つまり、樹幹の形成が樹を樹齢何十年もの植物にしているわけですが、この幹の形成のなかに、地面の上に直接生えている植物にとってはふつう地球全体であるものが継続して存在しているということです。なぜなら、よろしいでしょうか、これは次のように思い浮かべていただかなくてはなりません。つまり、ここに地球があると考えてください。この地球から植物が生え出ています。そして私たちはこの地球そのもののなかに、この植物の成長の根底にあって、宇宙から流れ込んでくるものと相互作用しつ現れてくる力を探究することができます。けれども樹が成長するとき、地球はこういうふうに、これから申しますことにあまりショックを受けないようお願いいたします、これは本当のことなのですから、以前は地球から直接植物のなかに流れ込んでいたものの上にある意味でかぶさっていくのです。これが幹のなかに入り込みます。つまるところ幹というものはすべて地球の瘤なのです。こういうふうに考察されないのは、ひとえに今日の実に忌まわしい唯物主義的な想定に起因しています、人々は地球を単に鉱物の複合体だと考えていて、こういう鉱物的地球などというのは不可能な想定なのだという方向に前進する気配もないのです。この地球は、鉱物的なものを分離することのほかに、植物的なもののなかへ突き進んでいく力を、自らのうちに有しています。これがまくりあげられて幹となるのです。幹においてさらに成長するもの、これは、幹というものに関して、草のような下等な植物において地面に直接生えているものと、比較されねばなりません。私が申し上げたいのは、草のような下等な植物にとっては地球それ自体が幹であり、花や種子の器官が幹に付いている植物は自ら特別の幹を作り出しているということです。このことから、私が、樹から花を摘むか、草のような植物から花を摘むかでは、ある種の違いがあるということがおわかりになるでしょう。こうした観点から、寄生植物、とくにヤドリギの形成を見ていきますと、花や種子を担う器官が、外的な分泌のように幹についているのだということが見て取れます。ここでは、植物のなかの地球的でないものが、ヤドリギの形成において解放されるのだといえます。さらにこの観点から、植物における寄生植物形成、とくにヤドリギの形成にご注目ください。これは、ふつうはまだ植物と組織的に結びついたままのものですが、花や種子を担う器官が、外的な分泌のように、ひとつの経過そのもののように、幹に付いているのです。したがって皆さんは、通常は花や種子の形成のなかにあるものが、地球の力のある種の分離と結びついて上昇していくようすを、ヤドリギのなかに見なければならないのです。いわば植物のなかの地球的でないものが、まさにヤドリギの形成において解放されるわけです。ですから私たちは、地球から上昇しようとしているもの、地球外的なものと相互作用しているものが、花と種子の形成において、徐々に地球から自らを分離していくのを見、ヤドリギの形成において、とりわけ強力に自らを個性化する解放に至るのを見るのです。地球的なものから自らを解放しているヤドリギのような寄生植物は、種子形成、花形成へと上昇する植物であるということができますが、根の形成に向かう植物は、より地球的なものに向かう傾向があります。このように、植物を、根、茎、葉、花、実などの主要な器官のいずれかを突出させようとしているだという観点から、観察することができます。たとえば、トクサは、茎の形成において上昇しようとしているのがわかりますし、筆に似たツクシの形態、スギナをイメージされるとよくわかると思います。ある植物は、葉の形成において上昇しようとし、またある植物は、茎の形成と葉の形成を萎縮させて花の形成において上昇しようとしているのが観察できます。さてこれを、植物における形成として皆さんに知覚されているものと結びつけておくならば、皆さんはおそらく次のようにおっしゃるでしょう。つまり植物界に関しては、植物がいっそう根の形成に向かう傾向に応じて、すなわち、根の形成のなかに優先的にその植物の成長関係が現れていて、小さいか、未発達な花形成を示している、その度合いに応じて、かなりの違いがあるにちがいない。そういう植物は、より地球的なものに向かう傾向があります。さらに、この地球的なものから自らを解放している植物は、まさに種子形成、花形成へと上昇する植物であり、とりわけ、植物界において寄生植物として通用しているような植物です。けれども植物には、そのいずれの器官をも、たとえば、パイナップルやその他の植物が幹をもっとも突出したものにしようとするのを観察してごらんになれば、もっとも突出したものにしようとする傾向があり、植物の主要な器官のどれもが、つまり、根、茎、葉、花、実のどれもが、何らかの植物の形式から主要な器官になろうと努力している、と言うことができるのです。そうですね、トクサ(Equisetum)のような植物を考えてみてください。トクサは茎の形成において上昇しようとしているのがおわかりになるでしょう。別の植物は、葉の形成において上昇しようとし、また別の植物は、茎の形成と葉の形成を萎縮させて花の形成において上昇しようとするのです。 (第五講●解説 テーマ■7.燐的なもの、塩的なもの、水銀的なもの -了)哲学・思想ランキング
2024年09月16日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 テーマ6.植物的なものと人間的なもの。人間の宇宙の中での姿勢は植物に対して180度転回させたものである。 ここでとりあげられているのは植物についてです。ここでも、基本的な観点として、人間はその進化において、かつて植物を自らから分離したということを念頭に置いておくことが必要です。さて、テーマ5では、鉱物的なもののなかの3つの類型である「燐的なもの」、「塩的なもの」、「水銀的なもの」について述べられていましたが、植物成長の傾向に関しても、ある意味ではそれが平行して見られます。それについては、テーマ8でご説明することになります。ここで述べられている重要な点は、植物的なものと人間的なものとの違いです。つまり、植物は根を地中に伸ばし、生殖器官としての花を上方に伸ばしていますが、それに対して人間は、頭部を上方に向け、生殖器官を下方に向けているのです。植物が逆立ちしているような在り方をしているのが人間だともいえます。生殖器官を上に向けた人間というのを表象すると面白いですね。動物についていえば、人間が直立しているのに対して、動物は背骨を水平にしていますから、植物を逆さにしたのが人間で、90度回転させたのが動物だという観点をここでは理解しておきたいと思います。こうした観点は、顕微鏡で観察するような在り方ではでてこないものですが、人間と外界との関係を見ていくならば、こうしたマクロコスモス的な観点について研究する必要があるというのがシュタイナーの基本的な考え方のひとつです。人間の細胞を研究するのならば、顕微鏡を覗くばかりではなく、「垂直に上昇したり下降したりするものと、釣り合いを保って横たわっているものとの間の相互作用を研究」するべきだというのです。さて今度は、このように典型的に外界において形成されているものを見ることから、いわば別の時期に人間が自らから分離したもの、つまり植物へと進んでいくことになります。植物的なものは、すでに昨日別の観点から見てきましたように、人間の生体組織における働きとして存在しているものと、いわば対照をなしています。けれども植物そのものにおいても明白に三つの部分を区別することができます。この三つの部分の区別というのは、根として地中に向かって拡がっていくものを見る一方で、種、実、花のなかで伸びていくもの、上方へ向かうものを見るときに、とりわけ明確に皆さんの心に浮かんでくると思います。すでに外的な方向性と申しますか、そういうものにおいて、植物的なものと人間的なもののこのような違いを、この場合には動物的なものは含めませんが、それに見ることができるのです。実際ここにおいては、すでに、きわめて重要で意味深いものが存在しているのです。植物はその根を地中に沈め、その花を、すなわち生殖器官を上に伸ばしています。人間は宇宙のなかでのその姿勢に関してもこれと完全に反対になっています。つまり、人間はその頭部をいわば上に向かって根付かせ、その生殖器官を下方に向けていて、これは植物と全く逆です。したがって、皆さんが人間に関して、上に向かって根を張り、下に向かって花を、生殖器官を開花させている植物を、一つのイメージとして眼前に描くことも、あながち無意味なことではないのです。植物的なものは特殊な形式において、まさにこのように人間のなかに組み込まれているのです。さらに今度は人間と動物の違いを示す重要な指標となるのは、動物の場合、この動物目線に組み込まれた植物が、たいてい水平に横たわっていて、植物の方向と直角をなしているけれども、人間は、その宇宙のなかでの姿勢を、植物に対して完全に転回、と申しますか、百八十度転回させたのだということです。これは、そもそも人間と外界との関連を観察すれば見い出すことのできる最も啓発的なことのひとつです。そして医学研究者の皆さんがこういうマクロコスモス、人間と宇宙との間に対応関係があると考える場合に、人間を小宇宙とする大宇宙(Makrokosmos)そのもの的な事柄にもっと立ち入ってくだされば、たとえば細胞において作用している諸力についても、顕微鏡で観察するよりはもっと多くのことを見出せると思うのです。なぜなら、やはり細胞において作用している最も重要な諸力は、その存在が植物であるか、動物であるか、人間であるかによって違いはありますが、マクロコスモス的なもののなかに観察され得るので、顕微鏡で観察しても実際のところほとんど得るところはないからです。人間の細胞をもっと良く研究できるのは、垂直に上昇したり下降したりするものと、釣り合いを保って横たわっているものとの間の相互作用を研究するときです。マクロコスモスにおいて研究するべきこういう諸力は、根本において、このマクロコスモス的な作用の写像に他なりません。参考画:vegetative human (第五講●解説 テーマ■6.燐的なもの、塩的なもの、水銀的なもの -了)人気ブログランキングへ
2024年09月15日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 テーマ5.鉱物的なもののなかの類型について 燐的なもの、塩的なもの、水銀的なも塩的なものは、その光やその他の計測できないものを内的なものとして所有しないように自ら突き放す作用を持つ。燐的なものは、計測できないものを内面化し、アストラル体と自我が正しく人間に接近できないとき、それらを人間に押し戻す塩的なものと燐的なものは対極的に相対して、この両者の働きの間で平衡をもたらすものに関わっているのが水銀的なものである。ここでは、鉱物的なもののなかの類型である燐的なもの、塩的なもの、水銀的なものについて述べられます。塩分を強く欲する人は、自我とアストラル体が物質体、エーテル体と強く結びついているので、その働きから自由になろうとしている。そしてそうした人は、その生体組織のなかで「塩の沈殿プロセス」を逆行させようとしている、つまり「地球形成プロセスに抵抗」し、「下部の人間を霊的・魂的なものから自由に」しようとしているのだということがテーマ3で述べられ、テーマ4では、炭酸石灰は、強すぎる霊的・魂的活動を生体組織から引き出していく働きを持っているということが述べられていました。ここでは炭酸石灰の働きに見られるような「塩的なもの」と対極にあるのが「燐的なもの」であり、その両者の働きの平衡をもたらす働きを持っているのが「水銀的なもの」であるということが述べられています。「塩的なもの」は、「光やその他の計測できなもの」を内的に所有しないように自らから突き放すのに対して、「燐的なもの」は、逆に、「光やその他の計測できなもの」、「熱」などを内面化して、自らの内的特性にするような働きを持っています。霊的・魂的なものと物質的・肉体的なものとの関係、つまりアストラル体と自我がエーテル体と肉体との関係でいえば、「塩的なもの」は、自我とアストラル体が物質体、エーテル体との強い結びつきを自由にする働きを持つのに対して、「燐的なもの」は、その逆に、自我とアストラル体を物質体、エーテル体へと引き戻す働きがあります。ですから、アストラル体が物質体から離れて独自の活動をする傾向にあるがゆえに頻繁に夢に悩まされている場合や、アストラル体が物質体がきちんと肉体のなかに位置づけられていないがゆえに、器官の周辺部分で炎症を起こす傾向がある場合など、この「燐的なもの」の働きを使用することができるわけです。 さて、炭酸石灰の力のなかにあるものに対して、その対極のように相対しているのはつまり、たとえば燐の力のなかにあるすべてのものです。私の用いる表現は事実その真の意味において、今日しばしば科学として通用しているものより非科学的であるなどということはないのですが、塩性のものがすべていわばその環境に身をささげるようにふるまうとき、その理由は、あらゆる塩的な、塩的性質を持つものは、計測できないもの、光やその他の計測できないものの内的な作用から、対応する物質が露出させられ、解放されることによって生ずるからということなのです。いわば塩的であるものは、すべて、その生成過程を通じて、計測できないものを、それを内的に所有しないように、自らから突き放したわけです。燐の場合は事情はまったく逆となります。ですから古代における先祖伝来の認識が、この燐を光の担い手とみなしたのは、実際まったく正当なのです。なぜなら、燐が、計測できないもの、つまり光を実際に担っていることを、古代の認識は正確に見抜いていたからです。塩が自分から遠ざけたものを、この燐は自らのなかに担(にな)っているのです。つまり塩の対極として相対している物質は、いわば計測できないもの、とりわけ光、さらには他の計測できないもの、つまり熱などを、内面化して、それを自らの内的特性にするような物質なのです。燐のなかに存在するもの、あるいは治癒過程に関して燐に類似しているものはすべてこういう事情に基づいています。したがって、計測できないものを内面化する燐は、とりわけ、アストラル体と自我が正しく人間に接近できないとき、それらを人間に押しもどすのに適しているのです。ですから、ある患者が病気で、個々の病気についてはさらにあとでお話ししていきますから御承知のほどとして、この患者がつまり、頻繁な夢に悩まされていること、すなわち、アストラル体が物質体から離れて、独自の活動をする傾向にあることがわかったなら、またさらに、その患者がたとえば、器官的に周辺部分において炎症傾向があること、これもまたアストラル体と自我がきちんと物質体のなかに位置していないことを示すものですが、そういうことがわかったなら、皆さんは、この人間のアストラル体と自我をもっと物質体にかかわるようにさせるために、燐が計測できないものをとどめておく力を使用することができるのです。穏やかでない睡眠生活をおくっている人の場合、きわめてさまざまな病状に対して、この燐を用いることができ得るでしょう。なぜなら、燐は、自我とアストラル体とをしかるべきやりかたで物質体とエーテル体のなかに引き戻すからです。このように、「塩的なもの」と「燐的なもの」とは対極にあるのだといえるのですが、これらの物質が宇宙全体のプロセスのなかでどのように働いているかに注目する必要があるのだといえます。それは、現代の化学によって分類され名称を与えられている物質という観点よりも薬として使用する場合、重要になってきます。燐的なものと塩的なものは、ある意味で互いに対極的に相対しているのです。そして皆さんに気づいていただきたいことは、個々の名称、つまり現代の化学によって個々の物質に与えられているような名称よりは、むしろ、これらの物質が宇宙全体のプロセスのなかにどのように入り込んでいるのかということに注意が向けられねばならないということです。つまりさらにこれから見ていきますが、燐に似た作用をする物質における燐であっても薬として使用できるのです。「塩的なもの」の働きと「燐的なもの」の働きを平衡させる働きをもつのが「水銀的なもの」で、それは常にその内的な力の連関において水滴形になる傾向をもっていて、それによって二つの働きを仲介しているのだといえます。もちろん、ここで言われている「水銀的なもの」ということで重要なのは、今日、通常名づけられている「水銀」の物質ではなく、「塩的なもの」と「燐的なもの」を平衡させる力の連関であることはもちろんです。よろしいでしょうか。以上のことによって皆さんは、外的な自然における二つの互いに相対する状態、すなわち、塩的に作用するものと燐的に作用するものとを確定したわけです。この両者の中間に位置するのは水銀的に作用するものです。人間というものが、神経ー感覚存在、循環存在、新陳代謝存在という三分節化された存在であるように、つまりは、この循環存在が新陳代謝と神経・感覚活動の間にあって両者を仲介しているように、外的自然においては、塩的なものほど強く自らを放棄せず、かと言って計測できないものを強く自分のなかで内面化するわけでもなく、いわばこの両方の働きの間で釣り合いを保っているものが存在するのですが、そういうものはすべて、自ら水滴形を形成しようとすることによって、仲介しているのです。と申しますのも根本において、水銀的なもの(Merkuriale)は、常に、その内的な力の連関において水滴形になる傾向を持っているからです。この水銀的なものと言う場合に重要なのは、今日にあって水銀(Quecksilber)とみなされている物質を水銀的なものと呼ぶことではなく、塩類の融解してしまう傾向と、計測できないものを自らのうちに引き寄せることにとどめておくこととの間で釣り合いをとっている力の連関なのです。つまり、水銀的なものすべてのなかにまさに明確に含まれている力の状態を研究することが肝要なのです。したがってこれからおわかりになるでしょうが、この水銀的なものは、燐的なものが適している働きと、塩的なものが適している働きとの間に、平衡をもたらすことを目指しているものに、本質的に関わっているのです。私がたった今申しましたことと生体組織における作用が矛盾していないということは、梅毒やそれに類する疾病について特別にお話しする時にさらに見ていくことになります。さて以上、燐的なもの、水銀的なもの、塩的なものについてお話しすることによって、私は皆さんに、鉱物的なもののなかからいわば特に明瞭な類型を提示いたしました。無論の事、もうおわかりでしょうが、塩的なものにおいてすでに、牡蛎の殻の形成のなかに存在し、その背後に潜んでいる器官プロセスについて語られねばならないのです。このプロセスは、ある意味においては、計測できないものが燐のなかに濃縮されるときにも存在するのです。けれどもその場合はすべてが内面化されるので、このプロセスは外に向かってはそれほど明瞭に顕現できないのです。参考画:phosphorus記:生体内では、遺伝情報の要であるDNAやRNAのポリリン酸エステル鎖として存在するほか、生体エネルギー代謝に欠かせないATP、細胞膜の主要な構成要素であるリン脂質など、重要な働きを担う化合物中に存在している。また、脊椎動物ではリン酸カルシウムが骨格の主要構成要素としての役割も持つ。このため、あらゆる生物にとっての必須元素であり、地球上におけるリンの存在量が、地球生態系のバイオマスの限界量を決定すると言われている。農業においてはリン酸が、カリウム・窒素などとともに肥料の主要成分である。リンの原子が地上に現れるおもな循環システムは、植物を起点として考えた場合、植物が枯死するか、その植物を食べた動物が死ぬ微生物に分解され土壌に戻るか再び植物の根から吸い上げられる。この循環は短期間で一巡する場合もあるが、10年単位の時間を要する場合もある。雨や風によってループから外れ、海に流出してしまう燐もあり、そうした燐が海底で堆積してできるのがリン灰石である。海底で生成されたリン灰石がプレートテクトニクスで運ばれて地表に現れるまでには100万年以上の年月がかかるとされる。 (第五講●解説 テーマ■5.燐的なもの、塩的なもの、水銀的なもの -了)哲学・思想ランキング
2024年09月14日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 テーマ4.鉱物薬の観点・炭酸石灰の持つ内から外へ作用する力 下腹部に過剰な霊的・魂的活動があって、特定の病気になる場、その薬を、炭酸石灰の持つ内から外へ作用する物質の力を通じて、牡蛎の殻やそれに類するものから得ることができる。それは強すぎる霊的・魂的活動を生体組織から引き出していく働きを持つ。ここでは、鉱物薬について言及されています。「下部」にて過剰な霊的・魂的活動があるのが原因である種の病気になった場合、その活動を生体組織から引き出していく働きを持つ牡蛎の殻やそれに類するものを用いることができます。牡蛎は外殻を持っています。その炭酸石灰の殻は、内から外へと追い出されながら形成されていきます。炭酸石灰の働きは、強すぎる霊的・魂的活動を生体組織から引き出していく働きであり、それが治療に用いられるのは、その内から外へと作用する力によるものです。下部-人間に変調がある、それとわかるような変調があると想定してみてください。この変調を知るための手段と、この変調に起因する個々の病気については後日見ていきます。いったい、この変調に対しては如何がすることができるのでしょうか。さて、ここでひとつ考察を差し挟みたいと思います。これは、薬の使い方においてある種一面的になりがちな人々にとって有意義なことかもしれません。ある種の人々の場合は、鉱物薬に対する一種の嫌悪といったものも見られます。こういう嫌悪は正当なものではありません。なぜなら、これから見ていきますように、純粋な植物薬というものは、何と言ってもやはり、あるまったく特定の範囲内でのみその効力を発揮することができるのであって、もっと深刻な場合となると、鉱物薬が大きな意味を持ってくるからです。そこで皆さんにお願いしたいのですが、私がこの原則的な考察に際して鉱物薬から始めてもお気を悪くなさらないでほしいのです。鉱物薬とは言ってもこれはいわば、この鉱物薬の効力を、生命に、つまり器官の生命に組み込むことなのです。とりわけ、人間の下腹部の、上体との関係におけるある種の治療処置のしかたについて、非常に啓発を得ることができるのは、皆さんが牡蛎を研究されるときでしょう。牡蛎というものはその殻の形成においてきわめて興味深いものです。と申しますのも、おわかりでしょうか、牡蛎というものは、その炭酸石灰の外殻を、まさに内から外へと追い出してくるわけですから。皆さんが、さてここでは探究に際して精神科学が助けにならなければなりませんが、牡蛎を精神科学的に探究されるなら、この牡蛎というものは、なるほど動物の系列のなかでは非常に下等な生き物であるけれども、宇宙全体においては比較的高い位置を占めているのだということを承認されるようになるでしょう。人間が自分の思考として自らのうちに担っているものが牡蛎から分離されるということによって、牡蛎はこのような位置を占めているのです。殻を形成して内から外へと導いていく力が示しているのは、いわば、それが器官的な成長と結びつけられたとすれば、牡蛎を非常に賢くしたであろうもの、牡蛎をまさしく非常に高等な動物にしたであろうものが、どのようにして牡蛎から他方へ導かれたか、という道すじなのです。こうして皆さんは、この牡蛎の殻の発生をてがかりに、炭酸石灰(kohlensaurer Kalk)すなわちカルカレア・カルボニカ(Calcarea carbonica)の働き、つまりこの、強すぎる霊的・魂的活動を生体組織から引き出して導いていく働きを、紛れもなく、いわば手に取るように見ることができるのです。さてこれから、下腹部に過剰な霊的(魂的活動があって、それが、この病気の形式についてもこれから見ていきますが、特定の病気の形式をとって現れてくることもわかったときに、皆さんが手を伸ばさねばならない薬、この薬を皆さんは、炭酸石灰の持つ内から外へ作用する物質という秘密に満ちた力と申しますか、この力を通じて、牡蛎の殻やそれに類するもののおかげで得ることができるのです。つまり治療処置において本質的なことはおそらく、この内から外へ駆逐すること(Von-innen-nach-aussen-Treiben)に何らかの治癒力があることを明確に知っておくことに基づいているのです。よろしいでしょうか、カルカレア・カルボニカのような薬と結びついているものや、それに似た薬に関係するものがすべて合理的に研究され得るのは、以上のような関係においてこれを見るときのみなのです。参考画:Oyster (第五講●解説 テーマ■4.鉱物薬の観点・炭酸石灰の持つ内から外へ作用する力 -了)哲学・思想ランキング
2024年09月13日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 テーマ3.地球形成プロセスへの抵抗という観点から、人間の本性そのもののなかに、外界におけるプロセスを逆行させ、それに抵抗しようとする一種の器官的な要求がある。その抵抗とは、下部の人間を霊的・魂的なものから自由にすることである ここで述べられている「溶解プロセス」について理解するためには、前回少しだけ補足したシュタイナーの宇宙進化論的な人間進化の観点を念頭に置いておく必要があります。地球は、熱状態から、空気状態、液体状態、固体状態へと進化してきたのだといえるのですが、現在の固体状態になっているというのは、「宇宙的溶解プロセス」が「克服」され、「固体として分離された」ということです。「地球形成」は、「溶解(状態)から自らを結晶化させてくること」、「溶解(状態)から自らを沈殿させてくること」だったわけです。人間の外部の自然というのは、人間が自らの内から放出したもので、その放出されたもののなかで「溶解プロセス」が起こっているのだといえます。ですから、「人間外部の宇宙における溶解プロセス」と「人間の生体組織の内的な経過」との関連を見ることで、治療の重要な観点を導き出すことができるわけです。きょうは先ず、皆さんに意味深い配列をお目にかけましょう。この配列は、人間外部の自然は一種の三分節状態において、三分節化された人間とどのように対応しているのかということをいわば私たちに提示してくれるものです。ここでとりわけ私たちが目を向けなければならないのは、可溶性を示すすべてのものです。おわかりでしょうか、可溶性というのは、すなわち此の地球(*霊的地球)という惑星の進化過程においてとりわけ大きな意味を有していた最後の特性なのです。地球において固体として分離されたものは、実際その大部分が根本においては宇宙的な溶解プロセスに還元され得るのです。この宇宙的溶解プロセスは克服され、その生命を奪って固体の部分を沈殿させたのです。しかしながら、単に沈殿物の機械的な堆積を想定したり、地学や地質学にこのことの基礎付けを求めたりするだけでは、それは皮相的というものです。地球形成、つまりそもそも固体的部分の地球体への組み込みということが、すでにもう本質的に溶解(状態)から自らを結晶化させてくること、あるいは溶解(状態)から自らを沈殿させてくることという特殊なケースなのです。ですから溶解プロセスのなかに生きているものというのは、それが外的自然、つまり人間の外部の自然において実現される限り、人間がかつて自らのうちから外へと出したものでもある、と言うことができるのです。つまり外部における溶解に際しては、人間が自らから出した何かが起こっているわけです。そういうわけで、人間外部の宇宙における溶解プロセスが人間の生体組織の内的な経過とどのような関係にあるのかを研究することが重要でしょう。物質体とエーテル体がアストラル体と自我とどのような関係を持っているのかを認識することが必要だということ、そして、塩分を欲する人は、自我とアストラル体が物質体、エーテル体と強く結びついていることを示しているということが、この講の最初に述べられていましたが、そうした人は、その生体組織のなかで「塩の沈殿プロセス」を逆行させようとしているんのだといえます。つまり、「塩」を、「地球が固体化したとき以前の地球形成状態へと後退させようとしている」のです。そうした「地球形成プロセスに抵抗すること」に注目することで、人間の生体組織と外的自然との関係を洞察できるようになります。地球形成プロセスに抵抗するというのは、「下部の人間を霊的・魂的なものから自由に」し「上部の人間のなかへと駆逐すること」です。塩分を強く欲ししている人は、下部における霊的・魂的なものが強く働きすぎているのでその働きから自由になろうとしているのだといえるわけです。私が言及いたしました基本的に重要なことは、霊的・魂的なものと肉体的・エーテル的なものがあまりに強く結びついているある種の人たちは、器官的に塩分に対して渇いているあるいは飢えているということ、つまりそういう人たちは、その生体組織のなかで塩の沈殿プロセスを逆行させようとしている、すなわち、彼らはこの地球形成プロセスを破棄しようとしていて、根本において塩というものを、地球が固体化したとき以前の地球形成状態へと後退させようとしているということです。こういう事柄に目を向けることがとりわけ大切なのです。そうすることによって真に人間の生体組織と人間外部の自然との関係を洞察することができるのです。人間の本性そのもののなかに、外界において実現されているある種のプロセスを逆行させ、それに抵抗しようとする一種の器官的な要求があると言うことができます。昨日申しましたように、人間の脳を支えるために浮力が生じて重力に抵抗するということすら起こっているのですから。このように総じて抵抗する傾向が存在しているのです。さて、地球形成プロセスにまず抵抗するというのは、これはいったいどういうことなのでしょうか。それが意味しているのは根本的に、下部の人間を霊的・魂的なものから自由にすること、霊的・魂的なものを下部の人間から、まずはたとえば上部の人間のなかへと駆逐することにほかなりません。つまり、塩への渇望が存在している場合に必ず、この塩への渇望が私たちに知らしめることは、下部人間が何らかのしかたで、下部における霊的・魂的なものの強すぎる働きから自由になろうとしていること、下部人間はこの霊的・魂的なものの働きをいわば上部人間に流出させようとしているということなのです。参考画:塩柱となった人間 (第五講●解説 テーマ■3.地球形成プロセスへの抵抗という観点-了)哲学・思想ランキング
2024年09月12日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 ■テーマ2.人間と人間の外部との間には内的な親和性があり、その相互関係に入り込んでいくことに関わらなければならない 人間と人間外部との間には、「内的な親和性」があるということがここでは指摘されています。それによって、「治療関係」が何に基づいているのかを明らかにするためです。ここでは、シュタイナーの宇宙進化論からの人間進化の基本的な観点について理解が求められます。通常の「進化論」とされている考え方では、この地球上で非常に低い確率のもとで蛋白質が形成され、生物と非生物の中間的な存在のウイルスをも含めて、そこから生命が誕生し、それが単細胞生物から多細胞生物へ、そして魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、類人猿、ホモ=サピエンス・・というように適者生存や突然変異などによって人間へと進化したようにとらえられていますが、シュタイナーの宇宙進化論における人間の進化というのは、人間が自らの外へと放出することによって世界が生み出され、それによって人間が現在のような段階に至ったというふうにとらえられています。これは少しわかりにくいかもしれないのですが、最初に現在のような人間をイメージするのではなく、鉱物も植物も動物も人間も、すべての要素を含んだ存在を原初の人間としてとらえるとすれば、植物、動物とその内から外へ放出していくことによって、植物界、動物界が生み出されてきたというふうにとらえられます。人間は、そうしたものを自らの外へと放出することによって、いわゆる現在の人間のような状態へと純化というか進化してきたわけです。そういう視点で見ると、人間の外にあるものは、かつて人間であったことにある存在であるということになり、だからこそ、「人間自身の本性とある種の親和性を持つ」ということができるのだといえます。さて、これはすでに先日来の個々の考察から出てくることではありますが、まずは一般的に、人間と人間の外部の世界全体との間には内的な親和性があるということを指摘しておきたいと思います。さしあたり抽象的に述べられているとは言え、精神科学的観点からしばしば言われることは、人間は進化していくうちにその他の世界を自らのうちから外へ出していき、そのため人間の外部にあるものは、人間自身の本性とある種の親和性を持つということです。こういう関係をこのように抽象的に宣言することに対して、私たちは、この親和性をまったく個別的に器官の治療に際して繰り返し指摘していくべきでしょう。けれどもさしあたって特に明確にしておきたいことは、そもそも人間と人間の外部の自然との治療関係は何に基づいているのかということです。さて、治療法についてですが、ここでホメオパシーとアロパシーについて述べられている観点は非常に重要なものです。ホメオパシーについては、第2講でも述べられていましたが、ホメオパシーというのは、同種(類似)療法で、健康体に与えるとその病気に似た症状を起こす物質を、ごく低濃度に希釈し、それを薬品としてその病気にかかった患者に投与して治療する方法であり、アロパシー(逆症療法)はちょうどこれとは逆のやりかたで、通常、日本で薬として用いられているものは、アロパシーの考えに基づくものです。つまり、何かの症状があるとそれを抑える物質を投与するというものです。シュタイナーは、このアロパシーというのは本当はないのだ、アロパシー的な治療であっても、すべてホメオパシーのプロセスによって治療されているといえるのだと言っています。そして、アロパシー的な治療は、生体組織に負担を多く与えることになるといいます。シュタイナーの医学の考え方の基本は、このホメオパシーの考え方にあります。ウェレーダ社は、そのシュタイナーの医学の考え方に基づいて薬やその他のさまざまな製品をつくっています。そのホームページもあって、そこには、そのホメオパシーの考え方が詳しく紹介されていたりします。皆さんもご存知のように、この分野においては論争が絶えず、私たちがこれから先もっと厳密に語っていく治療法も、激しい論争の渦中にあります。これらの論争のうちとりわけよく知られているのが、ホメオパシー志向の医師たちと、アロパシー志向の医師たちとの間の論争です。さて、精神科学としてはどのようにこの論争に介入しようというのか、これが皆さんの興味を引くことかもしれません。けれども、この介入というのは本来かなり特殊なものです。と申しますのも、精神科学に判明しているものにとって、その根本において、本来アロパシー療法家というものは存在しないからです。実際のところ、アロパシー療法家というものは存在しないのです。なぜなら、アロパシー的に薬として処方されたものであっても、生体組織にあっては、ホメオパシーのプロセスをたどり、実際にこのホメオパシープロセスによってのみ癒していくからです。したがっていかなるアロパシー療法家といえども本来は、自身の生体組織がホメオパシーをすることによって、アロパシー的な処置の支えとしているわけです。生体組織は、アロパシー療法家が行わないこと、つまり薬の個々の部分の関係の止揚ということをそもそも実行しているのです。ですからやはり、生体組織からこういった類のホメオパシーをすることを取り除くか否かということについてはかなりの差異があります。これは端的に、生体組織における治癒のプロセスは、薬がホメオパシー化されるときに徐々に現れてくる状態とおそらく関係しているためです。生体組織にとってはしかし、外界の物体がふつう有しているものは自らと対立するものであり、生体組織と外界の物体とは治癒上の親和性がないために、生体組織は外界の物体を異物として自分のなかに取り入れることになるので、アロパシー的な状態の薬を付与するときに発現する力をすべて生体組織に負わせると、生体組織は結局おそろしく負担をかけられて支障をきたしてしまうのです。物体からこのホメオパシー化を取り除くことが不可能な場合について、特にもう少しお話ししていくつもりです。ホメオパシーについての言及は、「人間と人間の外部の環境との個々の関係」を見出すためのものです。そうした認識が不可欠だというわけです。現代科学のような表面的な見方、唯物論的な視野狭窄の見方では、そうした認識は得られません。しかし、それは古代の医師たちを真似ることが必要だというのではなく、現代科学の有しているあらゆる手段を使いながら、そしてそれを拡大、補完し、そうした認識を獲得しなければならないというわけです。さて、おわかりのようにホメオパシーとは根本的に言って、本来ある程度自然そのものから非常に注意深くひそかに学びとられてきたものなのです。たとえその際、これについてもさらに見ていきますが、ファナティスム(狂信/fanaticism)が意味ありげな飛躍をしてしまったことがあったにせよ、そうされてきたのです。しかしここで重要なのは、人間と人間の外部の環境との個々の関係のためにいかに道を見出すことができるかということを認識していくことです。しかも私たちはここで、すでに昨日別の場合に申しましたように、古代の医学的著作に思慮深く沈潜することが役立つこともあるにせよ、むろん古代の医師たちが発言していたことを単にそのまま真似ることはできず、たとえば現代科学のあらゆる手段をもって、この人間と人間外部の環境との相互関係に入り込んでいくことに関わり合わねばならないのです。ここでまず確認しておくべきことは、物質の化学的な調査、つまり個々の物質が実験室で開示するもののなかに入り込んでいくようなことによっては、あまり多くのことは成し遂げられないということです。すでに示唆いたしましたように、本来こういう顕微鏡による観察を、これは実際一種の顕微鏡観察法なのですが、それから飛躍して巨視的な観察、つまり宇宙そのものの観察から生ずるものにも対応していかなければならないのです。参考画:James Webb Space Telescope:JWST (第五講●解説 ■テーマ2、人間と人間の外部との治療関係の基礎-了)哲学・思想ランキング
2024年09月11日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 ■テーマ1.患者に対するときに根本的にまず知っておかなくてはならないこと、目の前にいる人間の全体像を認識することの重要性 医療科学のみならず人間が対象を治療するにあたっては、医科学全般における認識と患者の全体像を認識することが重要です。それは「生の最も重要な契機にまで至るべきもの」です。そのひとつが、「患者の年齢」について正確に知っておくということです。治療は、患者の年齢に左右されることがかなりあるからです。今回の考察において、病理学が治療のなかに浸透し、両者の間に橋が架けられるべきあの特殊な領域へと、私たちがますます肉薄していくことにより、いわば治療処置にとっての一種の理想として示すことは可能でもそのままでは至る処で活用することはできないありとあらゆる事柄に言及することが必要となってきます。とは云え、やはり、患者を治療するにあたって考慮されるべき汎ゆることを概観しようとすれば、個々の場合から彼是(あれこれ)のことを引き出すことができるでしょうし、少なくとも、断片的な診断結果からでも病気についていかに評価すればよいかを知ることができるでしょう。とりわけ不可欠なのは、きわめて特殊な場合であっても、治療処置にとっては、目の前にいる人間の全体像を認識するということがいかに重要であるかということに目を向けることです。この人間の全体像の認識は、本来常に生の最も重要な契機にまで至るべきものなのです。医療関係のかたがたが私を信頼してくださって、あれこれお話ししたこともあるのですが、そういうときしばしば驚かされたのは、たとえば私がちょっと話した後すぐに、その患者さんはいったい何歳ですか、とたずねると、その人はそれについて正しい情報を与えることができなかったこと、すなわち、当の患者が何歳なのか説明できなかったことです。これは明日以降見ていくことですが、患者の年齢についてかなり正確に知っておくということは、最も本質的なことのひとつなのです。何故なら、治療はかなりの程度患者の年齢に左右されるからです。そして一昨日ここである種の事柄について、それがある場合には非常に良く効き、別の場合には効き目がないという例が引合に出されましたが(☆1)、当の患者の年齢はこの効き目がないこととどう関係しているのかという問いは、こういう発言にきわめて近いところにあります。年齢というものの作用の仕方については、これは治療するにあたって何にも増して厳密に取りあげられねばならないことなのです。さらに、患者の「体格」を常に正確に見定めておく必要があります。それは、人間のエーテル体の状態について看取(かんしゅ)しなければならないからです。「エーテル体の作用の強度」が、体格から判定できるのです。患者が若いときにゆっくり成長したか、はやく成長したかということなども、物質体に対するエーテル体の関係を示しているので、そうしたことについて知っておくのも重要です。さらに重要なのは次のようなことです。当の患者がそもそもどのような体格であるのか、つまり背が低くてずんぐりしているのか、それとも背が高くてひょろっとしているのか、ということを常に正確に見定めておく必要があるのです。すでにこの、背が低くてずんぐりしていることと背が高くてひょろっとしていることから推定して、私たちが人間におけるエーテル体と呼んでいるものがどのような力を持っているのかを見て取ることが大きな意味を持っているのです。これはやむをえないことなのですが、これについては私もいろいろと考え込んだのです、皆さんはおそらくこういう、人間の実在の一部をともかくも表している表現、エーテル体云々といった表現を用いることはまったくお望みではないでしょう。こういう表現を人智学者ではない人々にとっても多少好もしい表現によって言い換えることも可能かと思いますが、それができるのは最後になってからかもしれません。今のところは、いっそう理解を深めるために、やはりこういう表現を用いることが必要であるという立場を堅持しておこうと思います。さてこのエーテル体の作用の強度と申しますか、そういうものは、当の人物がどのような体格であるかということから判定できるのです。けれども、できる限り問い合わせて確認しておくべきは、先に申しましたように、私としてはすべてを引合に出したいのですが、端的にデータを得られないため、すべてを考慮することは常に可能であるとは限りません。けれどもあらゆることについて知るということは良いことです。とりわけ、当の患者が若いときにゆっくり成長したか、速く成長したか、すなわち、長い間小さいままだったか、比較的幼い時期にもう背丈が伸びてしまってその後は成長が遅れたかどうかということです。こういう事柄はすべて、物質体に対する、エーテル体すなわち人間の機能的な発現の関係と私たちが呼ぶことのできるものを示しています。そしてこれは、人間とその薬との関係を知ろうとすれば、考慮されねばならないことなのです。さらに、「物質体とエーテル体」が「アストラル体と自我」とどのような関係を持っているのかを認識することが必要です。そのために、たとえば、夢をよく見るかどうかといった質問が必要な場合もあります。夢をよく見るというのは、アストラル体と自我が、物質体にそれほど入り込んでいないということを示しているからです。患者が活動的で勤勉か、それとも怠惰な傾向があるのかも重要です。活動的で勤勉である人は、アストラル体と自我から物質体とエーテル体へと活動力を実際に導いていく能力が高いのですが、怠惰な傾向がある人は、アストラル体と自我が非常に内的な活動をしていて、それが意識されていないということを示していて、いわば「眠っている」のです。患者が近視であるか遠視であるかということを確認する必要もあります。近視の人は、自我とアストラル体が物質体に対して抑制されていて、霊的・魂的なものが、肉体的・物質的なものに介入しようとしていないということを示しています。さらに必要なのは、物質体とエーテル体の、人間の本性のより高次の構成要素との関係、すなわち私たちがアストラル体と呼ぶ、本来魂的なものと、私たちが自我(Ich)と呼ぶ本来霊的なものとの関係を認識することです。これを患者から見て取ることが必要なのです。ですからたとえば、夢をよく見るかあまり見ないかといった質問をその患者にすることもやむを得ません。ある患者が夢をよく見るのなら、それは彼の構成全体にとって非常に重要なことです。なぜならそれは、アストラル体と自我が、それ自身の活動を展開する傾向を持っていること、つまり物質体にはそれほど入り込まずそれほど密接に関わっていないこと、そのため本来の人間的・魂的な形成力が人間の器官組織のなかに流れ込んでいないことを明示するものだからです。さらに確認しておくべきことは、あまり愉快でないことかもしれませんが、当の人物が活動的で勤勉なのか、それとも怠惰な傾向があるのかということです。と申しますのも、怠惰な傾向のある人は、アストラル体と自我においては非常に内的な活動性を有しているからです。理屈に合わないように思われるかもしれませんが、この活動性は意識されておらず、無意識のものなのです。この活動性が意識されていないために、当の人物は、意識においてはどうしても勤勉ではなく、大体において怠惰なのです。なぜならば、私がここで怠惰の反対物と見なしているものは、その人の高次の人間をもって低次の人間に介入していくことのできる有機的能力、つまり、その人のアストラル体と自我から、物質体とエーテル体へと、活動力を実際に導いていく能力のことだからです。そして怠惰な人の場合、この能力が非常に少ないのです。怠惰な人とは本来、精神科学的に見れば、眠っている人なのです。続いて確認しておくべきことは、当の患者が近視であるか遠視であるかということです。近視の人というのは、いずれにせよその自我とアストラル体が物質体に対してある種抑制されています。近視というのはまさしく、その人の霊的・魂的なものが、肉体的・物質的なものに介入しようとしていないということの、最も重要な徴候のひとつなのです。さらに、人間の健康の指標を、歯の状態から見て取ることも重要な拠り所になる可能性があります。歯科医が治療処置の度に記録したものを、人間の生体組織全体を判定するのに使うということです。さらに、将来実施できる可能性があり、病気の治療処置にとってきわめて重要と思われることを指摘しておきたいと思います。私が思いますに、これは社会的な感情がもっと個々の職分にも浸透していけば、何らかの実践的な意味を獲得できることなのです。これはつまり、歯科医が、歯の組織や消化組織、およびそれに関連するすべてのことに関する知識を、次のようなやりかたで利用しつくすとすれば、きわめて意味のあることだろうということです。勿論そのために当の患者を味方にしなければなりませんが、これは今申しましたように、いくらか社会的感情があれば達成できるかもしれません。すなわち歯科医が治療処置のたびに、いわば一種の概略図を患者に渡すことによってその知識を活用できれば良いのです。その概略図には、歯の成長に関するすべての活動をどう診断したか、早い時期に齲歯(うし/Zahnkaries 齲触症、齲歯、虫歯)への傾向があるかどうか、比較的高年齢まで歯が良く維持されているかどうかといったことを記録するわけです。これは、明日以降見ていきますように、人間の生体組織全体を判定するのにきわめて意味のあることです。そして個々の病気の症例を治療処置していくべき医師が、こういう指標、言うなれば人間の健康の指標を、歯の状態から見て取るようになれば、これは医師にとってきわめて重要な拠り所となるでしょう。患者の「身体的な共感と反感」、とくに、塩分をむやみに欲するかあるいは他のものを欲しがるかどうか、どのような食品を特に欲するかどうか、さらには、体を機械的に運動させるときに眩暈の発作を起こしやすいかどうかということを知っておくことが重要です。塩分を欲する人は、自我とアストラル体が物質体、エーテル体と強く結びついていることを示しているのだといえます。常に調べておかなければならないのは、人間の腺の活動全体について、つまり分泌の障害についてです。分泌の障害がある場合、自我およびアストラル体と、エーテル体および物質体との結合にも障害があるといえるのです。さらには、患者の、こう言ってよろしければ身体的な共感と反感についても知っておくことがとても重要でしょう。とりわけ重要なのは、治療されるべき人が、たとえば塩分を無闇矢鱈に欲するかあるいは他のものを欲しがるかどうか、確認しておくことです。当の人物がどのような食品を特に欲するか、聞き出しておかなければならないでしょう。その人が塩性のもの全般を欲するならば、その人にあっては、自我とアストラル体が物質体、エーテル体と強く結びついていること、いわば霊的・魂的なものと物質的・肉体的なものとがきわめて強い親和性を示していることがわかります。同様に、このような強い親和性を裏書きするものは、外的な機械的経過、たとえば体を急速に回転させるといったことによって引き起こされる、眩暈の発作です。つまりその人が、体を機械的に運動させるときに眩暈の発作を起こしやすいかどうかを確認しておかねばならないのです。そしてさらに常に調べておくべきことは、たぶん一般的にかなりよく知られたことですが、分泌の障害、すなわち人間の腺の活動全体についてです。なぜなら、分泌障害があるところには常に、自我およびアストラル体と、エーテル体および物質体との結合にも障害があるからです。ここでは、患者に対するときに知っておかなければならない典型的なことがいくつか比較的具体的に示されていました。その視点は、患者のエーテル体の働きについて知るということであり、また、霊的・魂的なものと物質的・肉体的なものとの関係、つまりアストラル体と自我がエーテル体と肉体とどのような関係をもっているかを知るということです。そのことによって、治療しようとする患者がどのような性質を持っているかを洞察することができ、そうすることで、どういう薬を用いるかということも明らかになってくるわけです。以上、私は皆さんに、患者に対するときに根本的にまずもって知っておかなくてはならないことをひとつひとつ挙げて参りました。個別的に取り出されはしたのですが、当の事柄が身体の構成そのものに関わっている限り、これらのことがどういう方向に向かっているのか、皆さんにはおわかりだろうと思います。生活習慣、つまりは衛生的な空気を呼吸しているのか、不衛生な空気を呼吸しているのかといった可能性等を、聞き出しておくべきであるといったことについても、だんだんとお話ししていこうと思います。これは個々の問題を議論するときにもっと考察できるでしょう。さてこのようにして、治療すべき患者がどのような性質を有しているのかについて、まずは一種の洞察を得ることができるでしょう。なぜなら、何らかの薬をどのように混合すべきかを個別的に確実にすることは、おそらくこういうことを知っているときにのみ可能だからです。参考図:physical assessment記:フィジカルアセスメントには、視診(inspection)、触診(palpation)、打診(percussion)、聴診(auscultation)などの方法があります。 (第五講●解説 ■テーマ1、患者の全体像を認識する必要性-了)哲学・思想ランキング
2024年09月10日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講●解説 ■テーマ概観○1 患者の全体像を認識する必要性○2 人間と人間の外部との治療関係の基礎○3 地球形成プロセスへの抵抗という観点○4 鉱物薬の観点・炭酸石灰の持つ内から外へ作用する力○5 燐的なもの、塩的なもの、水銀的なもの○6 植物的なものと人間的なもの○7 植物は地球有機体組織の一部○8 植物成長の傾向と人間外部の自然における鉱物の働きの三つの類型○9 植物、鉱物、人間の相互関係 ・動物実験及び動物性の薬の使用について■テーマ概観1.患者の全体像を認識する必要性 患者に対するときに根本的にまず知っておかなくてはならないこと、目の前にいる人間の全体像を認識することの重要性。2.人間と人間の外部との治療関係の基礎 人間と人間の外部との間には内的な親和性があり、その相互関係に入り込んでいくことに関わらなければならない。3.地球形成プロセスへの抵抗という観点 人間の本性そのもののなかに、外界におけるプロセスを逆行させ、それに抵抗しようとする一種の器官的な要求がある。その抵抗とは、下部の人間を霊的・魂的なものから自由にすることである4.鉱物薬の観点・炭酸石灰の持つ内から外へ作用する力 鉱物薬の観点、下腹部に過剰な霊的・魂的活動があって、特定の病気になる場合、その薬を、炭酸石灰の持つ内から外へ作用する物質の力を通じて、牡蛎の殻やそれに類するものから得ることができる。それは強すぎる霊的・魂的活動を生体組織から引き出していく働きを持つ。5.燐的なもの、塩的なもの、水銀的なもの 鉱物的なもののなかの類型について、燐的なもの、塩的なもの、水銀的なもののうち、塩的なものは、その光やその他の計測できないものを内的な所有しないように自ら突き放す作用を持つ。燐的なものは、計測できないものを内面化し、アストラル体と自我が正しく人間に接近できないとき、それらを人間に押し戻す。塩的なものと燐的なものは対極的に相対しているこの両者の働きの間で平衡をもたらすものに関わっているのが水銀的なものである 6.植物的なものと人間的なもの 植物的なものと人間的なものは、人間の宇宙の中での姿勢は植物に対して180度転回させたものである。7.植物は地球有機体組織の一部 あらゆる植物成長の生命の根底には、統一的な地球有機体組織というものがある。幹は地球の瘤であり、草のような植物においては地球それ自体が幹である。寄生植物であるヤドリギは、花や種子を担う器官が、外的な分泌のように幹についている。ヤドリギの形成において、植物のなかの地球的でないものが解放される。トクサが茎の形成において上昇しようとしているように、植物の主要な器官である根、茎、葉、花、実のどれもが何らかの植物形式から自由になろうとしている。8.植物成長の傾向と人間外部の自然における鉱物の働きの三つの類型 植物成長のさまざまな傾向と人間外部の自然における鉱物の働きの三つの類型、つまり、燐的なもの、塩的なもの、水銀的なものはある意味で平衡している。内的に花・実形成の性質を持つものも燐的なものの人間の下腹部の器官に強い親和性を持つ。植物において根の方へ向かうもの、塩的なものは、上に向かって組織するものすべてに対して親和性を持つ。9.植物、鉱物、人間の相互関係 ・動物実験及び動物性の薬の使用について 植物的なもの、鉱物的なもの、人間的なものとの間には相互関係が成立している。人間において直接効力のあるプロセスは、人間以外の存在の直接表面に現われているようなプロセスではなく、より深い本質から取り出してこなくてはならないようなプロセスである。人間は自らの中に、人間外部の自然の中に現われているものを止揚し、反対のものに逆転させようとする傾向を有している。人間は動物に対しては90度の位置にいて、植物に対しては180度の位置にいる。動物実験の誤った認識をもって血清のような動物性の薬を使用する場合にはそのことが考慮されなければならない。参考画:アントロポゾフィー医学 (第五講●解説 ■テーマ概観-了)オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2024年09月09日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講 本文-6 植物的、鉱物的、人間的なものの相互関係 さて私たちがこれまでに指摘できたことは、植物的なもの、鉱物的なものと、人間的なものとに間にこのような相互関係が成立しているということでした。近代においてはさらに、人間と動物的なものとの間の親近性、相互関係であるとされているものが、いわば何か非常に希望に満ちたことであるかのようにこれに付加されてきたわけです。とは言え、血清療法の発生に際して奇妙なやりかたで行われていたことは度外視しても、まさにこの普通に行われている血清療法に対して、原則的なことが通用するようににされなければなりません。よろしいでしょうか、血清療法の発生に際して、実際まったく奇妙なやりかたで、ベーリング(☆2)によって行われていたことがあるのです。つまり、行われた説明や、どちらかというと周辺部分を動いてばかりいて、血清が何の役に立つかということのみ語っていた発表論文を追求すると、実際医学制度全体の革新に関わる話であるかのような印象が得られました。けれども、その時行われた基礎となった作業を記述したものに立ち入っていくと、奇妙なことですがこれは誇張ではなく、たぶん皆さんのなかにもこのことをご存知のかたがいらっしゃるでしょう。イルカの研究から人間に転用するために推定しようとした療法において、「奇妙に多くの」数のイルカが不都合であることが判明したのです。つまり、血清で処置した多数のイルカのうち、有望な成果を示したものはたった一頭だったのです。偽装された動物治療プロセスにおけるたった一頭のイルカ、すでに血清療法のために大々的に宣伝太鼓を打ち鳴らし始めた時期にこうなのです。このことは単に一つの事実として挙げておきたいのです。皆さんのなかにもおそらくこのことを理解されていくかたがおられると思います。そしてこの、科学の場への登場における法外ないいかげんさと申しますか、こういうことこそ、本来科学史において厳密に考慮されるべきことなのです。原則的にきょう最後に、そして明日あるいは明日以降挙げておきたいこと、これは何と行ってもやはり、皆さんが見てこられたように、人間において直接効力のあるプロセスは、人間意外の存在の、直接表面に現れているようなプロセスではなく、より深い本質から取り出してこなくてはならないようなプロセスであるということです。さて、人間はまさにある意味において、自らが外に出したもの、つまり、燐プロセス、塩プロセス、花プロセス、実プロセス、根を張るプロセス、葉を生やすプロセスと親和性を持っているのですが、それは、人間がこれらすべてを実際まったく逆転させて生きている、人間は自らのなかに、これら人間外部の自然のなかに現れているものを止揚し、反対のものに逆転させようとする傾向を有しているという意味においてそうなのです。動物に対してはこれは同じではありません。と申しますのは、動物はこのプロセスを途中まで経てきているからです。人間は同じ意味で動物の反対に置かれているのではありません。人間はいわば動物に対しては九〇度の位置にいて、植物に対しては一八〇度の位置にいるのです。そしてこれは、血清その他のような動物性の薬の使用について問いが生ずるときに最も考慮されることなのです。■原注☆1 この講習の参加者の一人によって行われた講演でのこと。☆2 Emil Adolf Behring/1854-1917 ベルリン大学衛生研究所および伝染病研究所勤務、ハレ大学教授、後にマールブルク大学衛生研究所所長。参考画:tetanus記:血清療法 ルドルフ・シュタイナーは、血清療法に関して独自の視点を持っていました。彼の人智学的なアプローチでは、病気の治療には単に物質的な手段だけでなく、精神的・霊的な側面も重要であると考えられていました。シュタイナーは、血清療法を含む現代医学の多くの方法が、病気の根本原因に対処するのではなく、症状を抑えるだけであると批判しました。彼の思想では、健康とは身体、魂、精神の調和が取れている状態であり、治療もこの三つの側面を考慮する必要があるとされました。そのため、シュタイナーは自然療法やホメオパシーなど、より全人的なアプローチを推奨しています。 (第五講 本文-6 植物的、鉱物的、人間的なものの相互関係-了、第五講 本文-完了)哲学・思想ランキング
2024年09月08日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講 本文-5 植物薬とその構成全体 鉱物を踏まえて、そこから今度は、に典型的に外界において形成されているものを見ることから、別の時期に人間が自らから分離したもの、つまり植物へと進んでいくことになります。植物的なものは、すでに昨日別の観点から見てきましたように、人間の生体組織における働きとして存在しているものと、いわば対照をなしています。けれども、植物そのものにおいても明白に三つの部分を区別することができます。この三つの部分の区別というのは、根として地中に向かって拡がっていくものを見る一方で、種、実、花のなかで伸びていくもの、上方へ向かうものを見るときに、とりわけ明確に皆さんの心に浮かんでくると思います。すでに外的な方向性と申しますか、そういうものにおいて、植物的なものと人間的なもののこのような違いを、この場合動物的なものは含めませんので注意が肝要ですが、見ることができるのです。実際ここにおいてすでに、きわめて重要で意味深いものが存在しているのです。*識見を持たない人間が、植物の花咲くを見て、性状が下衆な人間は植物的なものに人間的・動物性を当て込み視て下品だというのは、其の御方が下品なので、植物的なものと人間的なものの区別と相違には正常な自然感覚が必須ですから其の態度を崩さないでください。 植物はその根を地中に沈め、その花(*繁殖機能を持つ器官)を、すなわち生殖器官を上に伸ばしています。人間は宇宙のなかでのその姿勢に関してもこれと完全に反対になっています。つまり、人間はその頭部をいわば上に向かって根付かせ、その生殖器官を下方に向けていて、これは植物と全く逆です。したがって、皆さんが人間に関して、上に向かって根を張り、下に向かって花を、生殖器官を開花させている植物を、一つのイメージとして眼前に描くことも、あながち無意味なことではないのです。植物的なものは特殊な形式において、まさにこのように人間のなかに組み込まれているのです。さらに今度は人間と動物の違いを示す重要な指標となるのは、動物の場合、この組み込まれた植物が、たいてい水平に横たわっていて、植物の方向と直角をなしているけれども、人間は、その宇宙のなかでの姿勢を、植物に対して完全に転回、と申しますか、百八十度転回させたのだということです。これは、そもそも人間と外界との関連を観察すれば見出すことのできる最も啓発的なことのひとつです。そして医学研究者の皆さんがこういうマクロコスモス的な事柄にもっと立ち入ってくだされば、たとえば細胞において作用している諸力についても、顕微鏡で観察するよりはもっと多くのことを見出せると思うのです。なぜなら、やはり細胞において作用している最も重要な諸力は、その存在が植物であるか、動物であるか、人間であるかによって違いはありますが、マクロコスモス的なもののなかに観察され得るので、顕微鏡で観察しても実際のところは殆ど得るところはないからです。人間の細胞をもっと良く研究できるのは、垂直に上昇したり下降したりするものと、釣り合いを保って横たわっているものとの間の相互作用を研究するときです。マクロコスモスにおいて研究するべきこういう諸力は、根本において、このマクロコスモス的な作用の写像に他なりません。さて皆さんが地球の植物存在を観察されるときは、何よりもまして、通常そうされているようなやりかたでこの植物存在を見る必要はありません。つまり、地球上を通って行って、次から次へと植物を観察して、それらを詳細に調べ、これらの植物を一つの図式のなかに組み込むべく、二分化、あるいは三分化された名称を考え出すというふうに観察するのではなく、皆さんは、地球全体がひとつの存在であり、ちょうど皆さんの髪の毛が皆さんの生体組織の一部であるように、なるほど髪の毛はどれも似たようなもので、植物の方は互いに異なっているので、少なくともある意味ではあてはまらないのですが、植物界全体も、やはり地球の生体組織の一部であるということを考慮に入れておかなくてはならないのです。皆さんは、髪の毛一本一本をそれ自体ひとつの生体組織として観察できないように、個々の植物をそれ自体独立してあるものとしては観察できません。植物がさまざまに異なっているのは、地球が他の宇宙と相互作用しつつ、さまざまな方向へ力を展開させ、それによって植物がさまざまに組織化されることに基づいています。けれども、あらゆる植物成長の生命の根底には、統一的な地球有機体組織というものがあるのです。したがってある種の事柄に注意を向けるのは特別重要なことです。皆さんが、そうですね、キノコを観察なさって、最初におわかりになることは、このキノコにとって、地球そのものが一種の生息地、一種の母体であるということでしょう。さらにそれより高度な、草のような植物に移ると、皆さんは、ここでもやはり地球は一種の母体であるけれども、地球外的なものがすでにこの草のような植物にある種の影響を与えているということ、つまり、光やその他のものが、花や葉などの形成においても影響を与えていることがおわかりになるでしょう。けれどもとりわけ興味深いことは、皆さんが、樹というものに注意を向けてごらんになればおわかりになることです。つまり、樹幹の形成が樹を樹齢何十年・百千年歴史を持つもの植物にしているわけですが、この幹の形成のなかに、地面の上に直接生えている植物にとってはふつうに地球全体であるものが継続して存在しているということです。参考図:Space Tree 何故なら、宜しいでしょうか。これは次のように思い浮かべていただかなくてはなりません。つまり、ここ此の場に地球があると考えてください。この地球から植物が生え出ています。そして私たちはこの地球そのもののなかに、この植物の成長の根底にあって、宇宙から流れ込んでくるものと相互作用しつ現れてくる力を探究することができます。けれども樹が成長するとき、地球はこういうふうに、これから申しますことにあまりショックを受けないようお願いいたします、これは本当のことなのですから。以前は地球から直接植物のなかに流れ込んでいたものの上に宇宙から流れ込んでくるものがある意味で被さっていくのです。これが幹のなかに入り込みます。つまるところ幹というものはすべて地球の瘤なのです。こういうふうに考察されないのは、ひとえに今日の実に忌まわしい唯物主義的な想定に起因しています。此のような人々は地球を単に鉱物の複合体だと考えていて、こういう「鉱物的地球」などというのは想定に過ぎないなのだという方向に前進する気配もないのです。この地球は、鉱物的なものを分離することのほかに、植物的なもののなかへ突き進んでいく力を、自らのうちに有しています。これがまくりあげられて幹となるのです。幹においてさらに成長するもの、これは、幹というものに関して、草のような下等な植物において地面に直接生えているものと、比較されねばなりません。私が申し上げたいのは、草のような下等な植物にとっては地球それ自体が幹であり、花や種子の器官が幹に付いている植物は自ら特別の幹を作り出しているということです。このことから、私が、樹から花を摘むか、草のような植物から花を摘むかでは、ある種の違いがあるということがおわかりになるでしょう。この観点から、更には植物における寄生植物形成、とりわけヤドリギ(宿り木 ・ 宿木 ・ 寄生木)の形成にご注目ください。これは、ふつうはまだ植物と組織的に結びついたままのものですが、花や種子を担う器官が、外的な分泌のように、ひとつの経過そのもののように、幹に付いているのです。したがって皆さんは、通常は花や種子の形成のなかにあるものが、地球の力のある種の分離と結びついて上昇していくようすを、ヤドリギのなかに見なければならないのです。いわば植物のなかの地球的でないものが、まさにヤドリギの形成において解放されるわけです。ですから私たちは、地球から上昇しようとしているもの、地球外的なものと相互作用しているものが、花と種子の形成において、徐々に地球から自らを分離していくのを見、ヤドリギの形成において、とりわけ強力に自らを個性化する解放に至るのを見るのです。記:ヤドリギは、落葉樹に寄生する植物で、北海道から九州に分布しています。エノキ、ブナ、ミズナラ、ケヤキ、サクラなどに寄生し、冬にこんもりとした小さな枝のかたまりとして見つけることができます。葉を落とした梢に寄生するため、遠目でも見つけやすいのが特徴です。参考画:mistletoe(宿り木 ・ 宿木 ・ 寄生木) さてこれを、植物における形成として皆さんに知覚されているものと結びつけておくならば、皆さんはおそらく次のようにおっしゃるでしょう。つまり植物界に関しては、植物がいっそう根の形成に向かう傾向に応じて、すなわち、根の形成のなかに優先的にその植物の成長関係が現れていて、小さいか、未発達な花形成を示している、その度合いに応じて、かなりの違いがあるにちがいないと。そういう植物は、より地球的なものに向かう傾向があります。さらに、この地球的なものから自らを解放している植物は、まさに種子形成、花形成へと上昇する植物であり、とりわけ、植物界において寄生植物として通用しているような植物です。けれども植物には、そのいずれの器官をも、いわばもっとも突出したものにしようとする傾向があり、たとえば、パイナップルやその他の植物が幹をもっとも突出したものにしようとするのを観察してごらんなさい、植物の主要な器官のどれもが、つまり、根、茎、葉、花、実のどれもが、何らかの植物の形式から主要な器官になろうと努力していると言うことができるのです。そうですね、トクサ(Equisetum 別名:歯磨草(はみがきぐさ))のような植物を考えてみてください。トクサは茎の形成において上昇しようとしているのがおわかりになるでしょう。別の植物は、葉の形成において上昇しようとし、また別の植物は、茎の形成と葉の形成を萎縮させて花の形成において上昇しようとするのです。ここで明かになることは、植物成長のこれらさまざまな傾向と、私がきょう人間の外部の自然における鉱物の働きの三つの類型としてあげたものとが、ある意味で並行・対応しているということです。とりわけ植物の自らを解放しようとする働きのなかにあって、さらに寄生植物の内的な活動において最高潮に達するものに目を向けるなら、計測できないものを内面化する傾向を持っているものが得られます。計測できないものとして宇宙から地球へと流れ込むものは、これらの器官が優勢であれば、燐実質のなかに保存されるのと同じように、これらの器官のなかに保存されるのです。ですからつまり、花、種子、それからヤドリギその他への傾向があるもののすべて、これらはある意味で燐的であると言うことができるのです。そして逆に、根をおろすプロセスを研究すればわかることですが、植物が地球を自分の母なる基盤とみなすことで展開するものは、塩形成と密接に関わっているのです。このように他ならぬ植物において私たちはこれらの両極に直面するわけです。そして両者「人間と地球」を仲介する植物の働き、この働きを皆さんは常に、上方を目指す花や実のようなものと、下方に根を降ろすものとの間に見ているのですが、この仲介する働きのなかに水銀プロセスがあって、これが平衡をもたらしているのです。したがって皆さんが今、植物の体勢が人間と逆転していることを考慮されれば、次のように言われることでしょう。つまり、内的に花・実形成の性質を持つものはすべて、人間の下腹部の器官および人間の下腹部から方向づけられるすべての器官に対して、非常に強い親和性を有しているにちがいない、さらに燐的なものも、人間の下腹部の器官に対して非常に強い親和性を有しているにちがいないと。これがまったくもって正しいということは、明日以降見ていきます。これに対して、植物において根のほうへ向かうもの、これはすべて、上に向かって組織されるものすべてに対して特殊な親和性を持つでしょう。けれどもこのとき当然注意しておかねばならないことは、人間を単純に外的な図式にのっとって三つの部分に分けることはできず、たとえば最も下の部分に属する消化システムにしても、上を目指して頭部までいわば継続しているのです。脳の灰白質のなかに本質的に思考物質が与えられているというのは、まったくばかげた見解と言ってよろしいのではないかと思います。これは正しくないからです。脳の灰白質は本質的に、脳に栄養を与えるためにそこにあるのであって、本来脳に栄養を与えるための消化器官のコロニーなのです。一方、脳の白質であるもの、これこそが、思考物質として大きな意味を持っているのです。したがって皆さんは、脳の灰白質の解剖学的な様相においてすでに、通常灰白質に帰せられているものよりも、むしろ全体的な活動に関係しているものを見出されることでしょう。ですから、消化について語るとき、単に下腹部についてのみ語ることはできないということがおわかりでしょう。まったくもって肝要なのは、根のようなものの親和性に目を向けるとき、そこでは単に上部人間のみではなく人間の他の部分とも関連するものと関わり合っているということです。植物において、花を咲かせるもの、実を結ぶものと、根のようなものとの間を調停するもの、つまり、いわば葉やその他通常の草などに現れているもの、これは、抽出された状態であっても、循環障害や、さらには上部人間と下部人間の間の律動的調和に関係するすべてのものにとって、特別な意味を持つでしょう。先ほど、計測できないものを内面かする鉱物と、計測できないものを自分から遠ざける鉱物、そしてこの両者の間にある鉱物が示されましたが、これはごらんのように、いわば植物の構成全体と対比することができるのです。そしてそうすることによって皆さんは、植物がいずれかの器官を発達させることに重きを置く度合いに応じて、人間の生体組織との相互関係を確立するための最初の合理的な手段を、植物そのものから手に入れるのです。これがさらにどのように特殊化されていくかは、いずれ見ていくつもりです。 (第五講 本文-5 植物薬とその構成全体-了)哲学・思想ランキング
2024年09月07日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講 本文-4 鉱物薬と燐的なもの、水銀的なもの、塩的なもののプロセス 人間身体の上部と下部が地球形成プロセスに先ず抵抗するというのは、これはいったいどういうことなのでしょうか。それが意味しているのは根本的に、下部の人間を霊的・魂的なものから自由にすること、霊的・魂的なものを下部の人間からまずはたとえば上部の人間のなかへと駆逐することにほかなりません。つまり、塩への渇望が存在している場合に必ず、この塩への渇望が私たちに知らしめることは、下部人間が何らかのしかたで、下部における霊的・魂的なものの強すぎる働きから自由になろうとしていること、下部人間はこの霊的・魂的なものの働きをいわば上部人間に流出させようとしているということなのです。下部人間に変調がある、それとわかるような変調があると想定してみてください。この変調を知るための手段と、この変調に起因する個々の病気については後日看ていきます。この変調に対していったい何をすることができるのでしょうか。ここではひとつ考察を差し挟みたいと思います。これは、薬の使い方においてある種一面的になりがちな人々にとって有意義なことかもしれません。ある種の人々の場合は、鉱物薬に対する一種の嫌悪といったものも見られます。こういう嫌悪は正当なものではありません。なぜなら、これから見ていきますように、純粋な植物薬というものは、何と言ってもやはり、あるまったく特定の範囲内でのみその効力を発揮することができるのであって、もっと深刻な場合となると、鉱物薬が大きな意味を持ってくるからです。そこで皆さんにお願いしたいのですが、私がこの原則的な考察に際して鉱物薬から始めてもお気を悪くなさらないでほしいのです。鉱物薬とは言ってもこれはいわば、この鉱物薬の効力を、生命に、つまり器官の生命に組み込むことなのです。とりわけ、人間の下腹部の、上体との関係におけるある種の治療処置のしかたについて、非常に啓発を得ることができるのは、皆さんが「海のミルク」牡蛎を研究されるときでしょう。牡蛎というものはその殻の形成においてきわめて興味深いものです。と申しますのも、おわかりでしょうか、牡蛎というものは、その炭酸石灰の外殻を、まさに内から外へと追い出してくるわけですから。皆さんが、ここでは探究に際して精神科学が助けにならなければなりませんが、牡蛎を精神科学的に探究されるなら、この牡蛎というものは、なるほど動物の系列のなかでは非常に下等な生き物であるけれども、宇宙全体においては比較的高い位置を占めているのだということを承認されるようになるでしょう。人間が自分の思考として自らのうちに担っているものが牡蛎から分離されるということによって、牡蛎はこのような位置を占めているのです。殻を形成して内から外へと導いていく力が示しているのは、いわば、それが器官的な成長と結びつけられたとすれば、牡蛎を非常に賢くしたであろうもの、牡蛎をまさしく非常に高等な動物にしたであろうものが、どのようにして牡蛎から他方へ導かれたかという道すじなのです。こうして皆さんは、この牡蛎の殻の発生をてがかりに、炭酸石灰(kohlensaurer Kalk)すなわちカルカレア・カルボニカ(Calcarea carbonica)の働き、つまりこの、強すぎる霊的・魂的活動を生体組織から引き出して導いていく働きを、まぎれもなく、いわば手に取るように見ることがきるのです。さて、下腹部に過剰な霊的・魂的活動があって、それが、この病気の形式についてもこれから見ていきますが、特定の病気の形式をとって現れてくることもわかったときに、皆さんが手を伸ばさねばならない薬、この薬を皆さんは、炭酸石灰の持つ内から外へ作用する物質という秘密に満ちた力と申しますか、この力を通じて、牡蛎の殻やそれに類するもののおかげで得ることができるのです。つまり治療処置において本質的なことは、おそらく、この内から外へ駆逐すること(Von-innen-nach-aussen-Treiben)に何らかの治癒力があることを明確に知っておくことに基づいているのです。よろしいでしょうか、カルカレア・カルボニカのような薬と結びついているものや、それに似た薬に関係するものがすべて合理的に研究され得るのは、以上のような関係においてこれを見るときのみなのです。さて、炭酸石灰の力のなかにあるものに対して、その対極のように相対しているのは、つまり、たとえば燐の力のなかにあるすべてのものです。私の用いる表現は事実その真の意味において、今日しばしば科学として通用しているものより非科学的であるなどということはないのですが、塩性のものがすべていわばその環境に身をささげるようにふるまうとき、その理由は、あらゆる塩的性質を持つものは、計測できないもの、光やその他の計測できないものの内的な作用から、対応する物質が露出させられ、解放されることによって生ずるからということなのです。いわば塩的であるものはすべて、その生成過程を通じて、計測できないものを、それを内的に所有しないように、自らから突き放したわけです。記:「燐」存在は天然には単体として存在せず、酸素と化合したリン酸の誘導体としてみいだされる。おもな鉱物は燐(りん)灰石Ca5F(PO4)3であり、鳥の糞(ふん)が堆積してできるグアノ質リン鉱石もある。動物の骨や歯はおもにリン酸カルシウムであり、生物体には複雑な有機リン化合物(核酸など)として含まれ、生命に重要な役割をもっている。周期表第15族に属し、非金属元素の一つ。古くヨーロッパでは暗闇で光るものをphos(光)、phoros(運ぶもの)とよんでいたし、中国や日本でも陰火、鬼火などを燐(りん)とよんでいた。たとえばBolognian phosphorosとよばれたものは、イタリアのボローニャ地方で発見された重晶石を熱してつくった不純物を含む硫化バリウムで、暗中で発光するリン光体であった。これらはphosphorusとよばれていた。1669年ドイツのハンブルクの商人で錬金術師のブラントHenning Brand(1630―1710)は、人間の尿を蒸発濃縮し、空気を遮断して強熱し、白色ワックス状の物質を得た。これが現在リンといっているものの初めてのものであるといえよう。そしてこのものが暗闇で光を発することが知られ多くの人に興味をもたれた。ドイツのクンケルJ. Kunckel(1630―1702)は1678年、尿に砂を混ぜて熱することにより、よりよくつくれることをみいだした。1771年スウェーデンのシェーレは骨灰からリンを取り出すことに成功し、18世紀の終わりごろには、フランスのラボアジエが、リンが元素であることを示した。参考画像:Henning Brand 「燐」の場合は事情はまったく逆となります。ですから古代における先祖伝来の認識が、この燐を光の担い手とみなしたのは、実際まったく正当なのです。なぜなら、燐が、計測できないもの、つまり光を実際に担っていることを、古代の認識は正確に見抜いていたからです。塩が自分から遠ざけたものを、この燐は自らのなかに担っているのです。つまり塩の対極として相対している物質は、いわば計測できないもの、とりわけ光、さらには他の計測できないもの、つまり熱などを、内面化して、それを自らの内的特性にするような物質なのです。燐のなかに存在するもの、あるいは治癒過程に関して燐に類似しているものはすべてこういう事情に基づいています。したがって、計測できないものを内面化する燐は、とりわけアストラル体と自我が正しく人間に接近できないとき、それらを人間に押しもどすのに適しているのです。ですからある患者が病気で、個々の病気についてはさらにあとでお話ししていきますが、この患者が、つまり、頻繁な夢に悩まされていること、すなわち、アストラル体が物質体から離れて、独自の活動をする傾向にあることがわかったなら、またさらには、その患者がたとえば、器官的に周辺部分において炎症傾向があること、これもまたアストラル体と自我がきちんと物質体のなかに位置していないことを示すものですが、そういうことがわかったなら、皆さんは、この人間のアストラル体と自我をもっと物質体にかかわるようにさせるために、燐が計測できないものをとどめておく力を使用することができるのです。穏やかでない睡眠生活をおくっている人の場合、きわめてさまざまな病状に対して、この燐を用いることができるでしょう。なぜなら、燐は、「自我とアストラル体とをしかるべきやりかたで物質体とエーテル体のなかに引き戻す」からです。このように、燐的なものと塩的なものは、ある意味で互いに対極的に相対しているのです。そして皆さんに気づいていただきたいことは、個々の名称、つまり現代の化学によって個々の物質に与えられているような名称よりはむしろ、これらの物質が宇宙全体のプロセスのなかにどのように入り込んでいるのかということに注意が向けられねばならないということです。つまりさらにこれから見ていきますが、燐に似た作用をする物質における燐とおぼしきものであっても薬として使用できるのです。よろしいでしょうか、以上のことによって皆さんは、外的な自然における二つの互いに相対する状態、すなわち、「塩的に作用するものと燐的に作用するもの」とを確定したわけです。この両者の中間に位置するのは水銀的に作用するものです。人間というものが、神経ー感覚存在、循環存在、新陳代謝存在という三分節化された存在であるように、つまり、この循環存在が新陳代謝と神経ー感覚活動の間にあって両者を仲介しているように、外的自然においては、塩的なものほど強く自らを放棄せず、かと言って計測できないものを強く自分のなかで内面化するわけでもなく、いわばこの両方の働きの間で釣り合いを保っているものが存在するのですが、そういうものはすべて、自ら水滴形を形成しようとすることによって、仲介しているのです。と申しますのも根本において、水銀的なもの(Merkuriale)は常に、その内的な力の連関において水滴形になる傾向を持っているからです。この水銀的なものと言う場合に重要なのは、今日水銀(Quecksilber)とみなされている物質を水銀的なものと呼ぶことではなく、塩類の融解してしまう傾向と、計測できないものを自らのうちに引き寄せることに留めて置くこととの間で釣り合いをとっている力の連関なのです。つまり、水銀的なものすべてのなかにまさに明確に含まれている力の状態を研究することが肝要なのです。したがってこれからおわかりになるでしょうが、この水銀的なものは、燐的なものが適している働きと、塩的なものが適している働きとの間に、平衡をもたらすことを目指しているものに、本質的に関わっているのです。私がたった今申しましたことと生体組織における作用が矛盾していないということは、梅毒やそれに類する疾病について特別にお話しする時にさらに見ていくことになります。以上、燐的なもの、水銀的なもの、塩的なものについてお話しすることによって、私は皆さんに、鉱物的なもののなかからいわば特に明瞭な類型を提示いたしました。むろんもうおわかりでしょうが、塩的なものにおいてすでに、牡蛎の殻の形成のなかに存在し、その背後に潜んでいる器官プロセスについて語られねばならないのです。このプロセスは、ある意味においては、計測できないものが燐のなかに濃縮されるときにも存在するのです。けれどもその場合はすべてが内面化されるので、このプロセスは外に向かってはそれほど明瞭に顕現できないのです。 (第五講 本文-4 鉱物薬と燐的なもの、水銀的なもの、塩的なもののプロセス-了)哲学・思想ランキング
2024年09月06日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講 本文-3 ホメオパシーとアロパシー記:ホメオパシーとアロパシーは、異なるアプローチを持つ医療体系です。*ホメオパシーホメオパシーは、「同種療法」とも呼ばれ、症状を引き起こす物質を非常に希釈して使用することで、体の自己治癒力を引き出す療法です。例えば、発熱を引き起こす物質を極端に薄めたものを使用して、体が自己治癒力を活性化させるように促します。この方法は、症状を抑えるのではなく、症状を出し切ることで身体に耐性をもたらす効能を期待した効果的治癒を目指します。*アロパシーアロパシーは、「対症療法」とも呼ばれ、現代西洋医学の主流です。このアプローチでは、症状を抑えるために薬物や手術を使用します。例えば、発熱には解熱剤を、痛みには鎮痛剤を使用するなど、症状と反対の効果を持つ治療法を用います。<まとめ>ホメオパシー:症状を引き起こす物質を希釈して使用し、自己治癒力を引き出す。アロパシー:症状を抑えるために薬物や手術を使用する。どちらのアプローチも、それぞれの考え方に基づいて治療を行います。参考画:homeopathy - Allopathy 精神科学としてはどのようにホメオパシー・アロパシー論争に介入しようというのか、これが皆さんの興味を引くことかもしれません。けれども、この介入というのは、今日はこのことについてさしあたり一般的なことをお話しし、個々のことがらを扱う際にもっと詳しく立ち入っていきたいと思いますが、本来かなり特殊なものだということです。と申しますのも、精神科学に判明しているものにとって、その根本において、本来アロパシー療法家というものは存在しないからです。実際のところ、アロパシー療法家というものは存在しないのです。なぜなら、アロパシー的に薬として処方されたものであっても、生体組織にあっては、ホメオパシーのプロセスをたどり、実際にこのホメオパシープロセスによってのみ癒していくからです。したがっていかなるアロパシー療法家といえども本来は、自身の生体組織がホメオパシーをすることによって、アロパシー的な処置の支えとしているわけです。生体組織は、アロパシー療法家が行わないこと、つまり薬の個々の部分の関係の止揚ということをそもそも実行しているのです。ですからやはり、生体組織からこういった類のホメオパシーをすることを取り除くか否かということについてはかなりの差異があります。これは端的に、生体組織における治癒のプロセスは、薬がホメオパシー化されるときに徐々に現れてくる状態とおそらく関係しているためです。生体組織にとってはしかし、外界の物体がふつう有しているものは自らと対立するものであり、生体組織と外界の物体とは治癒上の親和性がないために、生体組織は外界の物体を異物として自分のなかに取り入れることになるので、アロパシー的な状態の薬を付与するときに発現する力をすべて生体組織に負わせると、生体組織は結局おそろしく負担をかけられて支障をきたしてしまうのです。物体からこのホメオパシー化を取り除くことが不可能な場合について、特にもう少しお話ししていくつもりです。さて、おわかりのようにホメオパシーとは根本的に言って、本来的な性質上、ある程度自然そのものから非常に注意深く、一子相伝のように秘かに学びとられてきたものなのです。たとえその際、これについてもさらに見ていきますが、ファナティズム(熱狂)が意味ありげな飛躍をしてしまったことがあったにせよ、そうされてきたのです。しかしここで重要なのは、人間と人間の外部の環境との個々の関係のためにいかに道を見出すことができるかということを認識していくことです。しかも私たちはここで、すでに昨日、別の席で申しましたように、古代の医学的著作に思慮深く沈潜することが役立つこともあるにせよ、むろん古代の医師たちが発言していたことを単にそのまま真似ることはできず、たとえば現代科学のあらゆる手段をもって、この人間と人間外部の環境との相互関係に入り込んでいくことに関わり合わねばならないのです。ここでまず確認しておくべきことは、物質の化学的な調査、つまり個々の物質が実験室で開示するもののなかに入り込んでいくようなことによっては、あまり多くのことは成し遂げられないということです。すでに示唆していましたように、本来こういう顕微鏡による観察を、これは実際一種の顕微鏡観察法なのですが、巨視的な観察、つまり宇宙そのものの観察から生ずるものに換えていかなければならないのです。きょうは先ず、皆さんに意味深い配列をお目にかけましょう。この配列は、人間外部の自然は一種の三分節状態において、三分節化された人間とどのように対応しているのかということをいわば私たちに提示してくれるものです。ここでとりわけ私たちが目を向けなければならないのは、可溶性を示すすべてのものです。おわかりでしょうか、可溶性というのは、すなわち、この地球という惑星の進化過程においてとりわけ大きな意味を有していた最後の特性なのです。地球において固体として分離されたものは、実際その大部分が根本においては宇宙的な溶解プロセスに還元され得るのです。この宇宙的溶解プロセスは克服され、その生命を奪って固体の部分を沈殿させたのです。しかしながら、単に沈殿物の機械的な堆積を想定したり、地学や地質学にこのことの基礎付けを求めたりするだけでは、それは皮相的というものです。地球形成、つまりそもそも固体的部分の地球体への組み込みということがすでにもう、本質的に、溶解状態から自らを結晶化させてくること、あるいは溶解状態から自らを沈殿させてくることという特殊なケースなのです。ですから溶解プロセスのなかに生きているものというのは、それが外的自然、つまり人間の外部の自然において実現される限り、過去時に人間が自らのうちから外へと出したものでもあると言うことができるのです。つまり外部における溶解に際しては、人間が自らから出した何かが起こっているわけです。そういうわけで、人間外部の宇宙における溶解プロセスが人間の生体組織の内的な経過とどのような関係にあるのかを研究することが重要でしょう。私が言及いたしました基本的に重要なことは、霊的ー魂的なものと肉体的ーエーテル的なものがあまりに強く結びついているある種の人たちは、器官的に塩分に対して渇いているあるいは飢えているということ、つまりそういう人たちは、その生体組織のなかで塩の沈殿プロセスを逆行させようとしている、すなわち、彼らはこの地球形成プロセスを破棄しようとしていて、根本において塩というものを、地球が固体化したとき以前の地球形成状態へと後退させようとしているということです。こういう事柄に目を向けることがとりわけ大切なのです。そうすることによって真に人間の生体組織と人間外部の自然との関係を洞察することができるのです。人間の本性そのもののなかに、外界において実現されているある種のプロセスを逆行させ、それに抵抗しようとする一種の器官的な要求があると言うことができます。昨日申しましたように、人間の脳を支えるために浮力が生じて重力に抵抗するということすら起こっているのですから。このように総じて抵抗する傾向が存在しているのです。 (第五講 本文-3 ホメオパシーとアロパシー 了)哲学・思想ランキング
2024年09月05日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講 本文-2 アストラル体と自我記:シュタイナーによれば、 この宇宙は「根源の宇宙叡智=根源叡智」によって創造されているといいます。 「根源叡智」は宇宙創造の「最高の霊の源」であり、根源叡智の霊的創造力によって宇宙創造が行われています参照図:シュタイナーの霊的太陽系存在進化の過程 ある患者が夢をよく見るのなら、それは彼の構成全体にとって非常に重要なことです。なぜならそれは、アストラル体と自我が、それ自身の活動を展開する傾向を持っていること、つまり物質体にはそれほど入り込まずそれほど密接に関わっていないこと、そのため本来の人間的・魂的な形成力が人間の器官組織のなかに流れ込んでいないことを明示するものだからです。さらに確認しておくべきことは、あまり愉快でないことかもしれませんが、当の人物が活動的で勤勉なのか、それとも怠惰な傾向があるのかということです。と申しますのも、怠惰な傾向のある人は、アストラル体と自我においては非常に内的な活動性を有しているからです。理屈に合わないように思われるかもしれませんが、この活動性は意識されておらず、無意識のものなのです。この活動性が意識されていないために、当の人物は、意識においてはどうしても「勤勉」ではなく、大体において「怠惰」なのです。なぜならば、私がここで怠惰の反対物と見なしているものは、その人の高次の人間をもって低次の人間に介入していくことのできる有機的能力、つまり、その人のアストラル体と自我から、物質体とエーテル体へと、活動力を実際に導いていく能力のことだからです。そして怠惰な人の場合、この能力が非常に少ないのです。怠惰な人とは本来、精神科学的に見れば、眠っている人なのです。続いて確認しておくべきことは、当の患者が近視であるか遠視であるかということです。近視の人というのは、いずれにせよその自我とアストラル体が物質体に対してある種抑制されています。近視というのはまさしく、その人の霊的・魂的なものが、肉体的・物質的なものに介入しようとしていないということの、最も重要な徴候のひとつなのです。さらに、将来実施できる可能性があり、病気の治療処置にとってきわめて重要と思われることを指摘しておきたいと思います。私が思いますに、これは社会的な感情がもっと個々の職分にも浸透していけば、何らかの実践的な意味を獲得できることなのです。これはつまり、歯科医が、歯の組織や消化組織、およびそれに関連するすべてのことに関する知識を、次のようなやりかたで利用し尽くすとすれば、きわめて意味のあることだろうということです。勿論そのために当の患者を味方にしなければなりませんが、これは今申しましたように、いくらか社会的感情があれば達成できるかもしれません。すなわち歯科医が治療処置のたびに、いわば一種の概略図を患者にわたすことによってその知識を活用できれば良いのです。その概略図には、歯の成長に関するすべての活動をどう診断したか、早い時期に齲(う)歯(Zahnkaries/齲触症、齲歯、虫歯)への傾向があるかどうか、比較的高年齢まで歯が良く維持されているかどうかといったことを記録するわけです。これは、明日以降見ていきますように、人間の生体組織全体を判定するのにきわめて意味のあることです。そして個々の病気の症例を治療処置していくべき医師が、こういう指標、言うなれば人間の健康の指標を、歯の状態から見て取るようになれば、これは医師にとってきわめて重要な拠り所となるでしょう。さらには、患者の、こう言ってよろしければ身体的な共感と反感についても知っておくことがとても重要でしょう。とりわけ重要なのは、治療されるべき人が、たとえば塩分をむやみに欲するかあるいは他のものを欲しがるかどうか、確認しておくことです。当の人物がどのような食品を特に欲するか、聞き出しておかなければならないでしょう。その人が塩性のもの全般を欲するならば、その人にあっては、自我とアストラル体が物質体、エーテル体と強く結びついていること、いわば霊的・魂的なものと物質的・肉体的なものとがきわめて強い親和性を示していることがわかります。同様に、このような強い親和性を裏書きするものは、外的な機械的経過、たとえば体を急速に回転させるといったことによって引き起こされる眩暈の発作です。つまりその人が、体を機械的に運動させるときに眩暈の発作を起こしやすいかどうかを確認しておかねばならないのです。そしてさらに常に調べておくべきことは、たぶん一般的にかなりよく知られたことですが、分泌の障害、すなわち人間の腺の活動全体についてです。なぜなら、分泌障害があるところには、常に、自我およびアストラル体と、エーテル体および物質体との結合にも障害があるからです。以上私は皆さんに、患者に対するときに根本的にまずもって知っておかなくてはならないことをひとつひとつ挙げて参りました。個別的に取り出されはしたのですが、当の事柄が身体の構成そのものに関わっている限り、これらのことがどういう方向に向かっているのか、皆さんにはおわかりだろうと思います。生活習慣、つまりは衛生的な空気を呼吸しているのか、不衛生な空気を呼吸しているのかといった可能性等を、聞き出しておくべきであるといったことについても、だんだんとお話ししていこうと思います。これは個々の問題を議論するときにもっと考察できるでしょう。さてこのようにして、治療すべき患者がどのような性質を有しているのかについて、まずは一種の洞察を得ることができるでしょう。なぜなら、何らかの薬をどのように混合すべきかを個別的に確実にすることは、おそらくこういうことを知っているときにのみ可能だからです。さて、これはすでに先日来の個々の考察から出てくることではありますが、まずは一般的に、人間と人間の外部の世界全体との間には内的な親和性があるということを指摘しておきたいと思います。さしあたり抽象的に述べられているとは言え、精神科学的観点からしばしば言われることは、人間は進化していくうちにその他の世界を自らのうちから外へ出していき、そのため人間の外部にあるものは、人間自身の本性とある種の親和性を持つということです。こういう関係をこのように抽象的に宣言することに対して、私たちは、この親和性をまったく個別的に器官の治療に際して繰り返し指摘していくべきでしょう。けれどもさしあたって特に明確にしておきたいことは、そもそも人間と人間の外部の自然との治療関係は何に基づいているのかということです。皆さんもご存知のように、この分野においては論争が絶えずして、私たちがこれから先もっと厳密に語っていく治療法も、激しい論争の渦中にあります。これらの論争のうちとりわけよく知られているのが、ホメオパシー志向の医師たちと、アロパシー志向の医師たちとの間の論争です。 (第五講 本文-2 アストラル体と自我 了)哲学・思想ランキング
2024年09月04日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ第五講 本文-1 物質体とエーテル体 今回の考察において、「病理学」が「治療」のなかに浸透し、両者の間に橋が架けられるべきあの特殊な領域へと、私たちがますます肉薄していくことにより、いわば治療処置にとっての一種の理想として示すことは可能でも、そのままでは至る所で活用することはできないありとあらゆる事柄に言及することが必要となってきます。とは言え、やはり、患者を治療するにあたって考慮されるべきあらゆることを概観しようとすれば、個々の場合からあれこれのことを引き出すことができるでしょうし、少なくとも、断片的な診断結果からでも病気についていかに評価すればよいかを知ることができるでしょう。とりわけ不可欠なのは、きわめて特殊な場合であっても、治療処置にとっては、目の前にいる人間の全体像を認識するということがいかに重要であるかということに目を向けることです。この人間の全体像の認識は、本来常に生の最も重要な契機にまで至るべきものなのです。医療関係のかたがたが私を信頼してくださって、あれこれお話ししたこともあるのですが、そういうときに屡々驚かされたのは、たとえば私がちょっと話した後で、(間髪入れず)すぐに、その患者さんはいったい何歳ですかとたずねると、その人はそれについて正しい情報を与えることができなかったこと、すなわち、当の患者が何歳なのか説明できなかったことです。これは明日以降見ていくことですが、患者の年齢についてかなり正確に知っておくということは、最も本質的なことのひとつなのです。なぜなら、治療はかなりの程度患者の年齢に左右されるからです。そして一昨日ここである種の事柄について、それがある場合には非常に良く効き、別の場合には効き目がないという例が引合に出されましたが(☆1)、当の患者の年齢はこの効き目がないこととどう関係しているのかどうかという問いは、こういう発言にきわめて近いところにあります。年齢というものの作用の仕方について、これは治療するにあたって何にも増して厳密に取りあげられねばならないことなのです。さらに重要なのは次のようなことです。当の患者がそもそもどのような体格であるのか、つまり背が低くてずんぐりしているのか、それとも背が高くてひょろっとしているのか、ということを常に正確に見定めておく必要があるのです。すでにこの、背が低くてずんぐりしていることと背が高くてひょろっとしていることから推定して、私たちが人間におけるエーテル体と呼んでいるものがどのような力を持っているのかを見て取ることが大きな意味を持っているのです。これはやむをえないこと、これについては私もいろいろと考え込んだものですが、皆さんはこういう、人間の実在の一部をともかくも表している表現、エーテル体云々といった表現を用いることはまったくお望みでないでしょう。こういう表現を人智学者ではない人々にとっても多少好もしい表現によって言い換えることも可能かと思いますが、それができるのは最後になってからかもしれません。今のところは、いっそう理解を深めるために、やはりこういう表現を用いることが必要であるという立場を堅持しておこうと思います。さてこのエーテル体の作用の強度と申しますか、そういうものは、当の人物がどのような体格であるかということから判定できるのです。けれども、できる限り問い合わせて確認しておくべきは、先にも話ましたように、私としてはすべてを引き合に出したいのですが、端的にデータを得られないため、すべてを考慮することは常に可能であるとは限りません。けれどもあらゆることについて知るということは良いことです。とりわけ、当の患者が若いときにゆっくり成長したか、速く成長したか、すなわち、長い間小さいままだったか、比較的幼い時期にもう背丈が伸びてしまってその後は成長が遅れたかどうかということをです。こういう事柄はすべて、物質体に対するエーテル体、すなわち人間の機能的な発現の関係と私たちが呼ぶことのできるものを示しています。そしてこれは、人間とその薬との関係を知ろうとすれば、考慮されねばならないことなのです。さらに必要なのは、物質体とエーテル体の、人間の本性のより高次の構成要素との関係、すなわち私たちがアストラル体と呼ぶ、本来の魂的なものと、私たちが自我(Ich)と呼ぶ本来霊的なものとの関係を認識することです。これを患者から見て取ることが必要なのです。ですから、たとえば夢をよく見るかあまり見ないかといった質問をその患者にすることもやむを得ません。参考画像:シュタイナーの神秘学的太陽系 (本文-1 物質体とエーテル体 了)哲学・思想ランキング
2024年09月03日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」 第四講 1920年 3月23日 ドルナハ*1998.11.21.改訳 本講:本文・解説第四講解説 ●11●11 松果腺と脳下垂体の真の緊張関係11.上部と下部は、常に緊張関係にあり、それを制御することが治療においては重要になる。松果腺には、上部の力であるすべての力が現われており、下部の力である粘液腺、脳下垂体の力との真の緊張関係という観点がさらなる治療プロセスのための基本原理となる 古代の医師たちは遺伝的な霊視力によって治療を行なっていたというのですが、それをそのまま現代に持ち込んでも得るところはほとんどないのだということはとても重要なことだと思います。遺伝的な霊視力というのではなく、まさにこの講義の最初にも述べられていたような病理学から治療法を取り出す理性(Ratio)が重要で、それによって治療に関するこうした認識を再獲得しなければならないわけです。然し乍ら、現代の唯物論的な医学は、こうした認識の大きな障げになっています。その誤謬に気づかなければなりません。 上部と下部は、常に緊張関係にあり、それを制御することが治療においては重要です。松果腺には、上部の力であるすべての力が現われていて、下部の力である粘液腺、脳下垂体の力との真の緊張関係という観点がさらなる治療プロセスのための基本原理となります。これは新しい種類の認識方法で再び獲得されねばならないことです。むろん私たちは、いまだ遺伝的な霊視力に立脚していた古代の医師たちを、今日そのまま模倣することはできません。それでは得るところはほとんどないからです。それでもこういう事柄を再び獲得しなくてはならないのです。こういう事柄の獲得にとってまさに最初の障壁になっているのが、このような関連をそもそも探究しない純粋に唯物論的な医学教育です。今日の自然科学と医学にとって、脳はまったくもってひとつの内蔵であり、下腹部にあるものもひとつの内蔵です。ここでは、陽電気と陰電気はまったく同じもので、両方とも電気だと言う場合と同じ誤謬が犯されているということに、人々はまったく気づいておりません。陽電気と陰電気の間には、互いに均衡を求める緊張が生じているのとまったく同じように、人間においても上部と下部の間に絶えず緊張が存在しているからこそ、この誤謬に気づくことは、いっそう重要なのです。医学の分野において優先的に探究されるべきことは、本来、この緊張の制御という点にあるのです。この緊張はきょうはこのことを暗示しておくだけで、以後の考察でさらに詳しく述べていきますが、二つの器官に集中する力のなかに、つまり、松果腺といわゆる粘液腺のなかに現れています。松果腺においては、上部の力であるすべての力が現れており、下部の力である粘液腺の力、脳下垂体(Hypophysis cerebri)の力に対して緊張関係を成しているのです。ここには真の緊張関係が成立しています。この緊張関係に関して人間の状態全体から見解を打ち立てるならば、さらなる治療プロセスのための非常に良い基本原理が得られるのですが。これについては明日もう少しお話ししようと思います。皆さんのご質問にはすべて入っていくつもりです。けれどもすでに申しましたように、そのための基礎を作り上げなければならないのです。記:Hypophysis cerebri は英語で「脳下垂体」を意味します。脳下垂体は内分泌系の主要な腺で、人間の生命を支えるために重要な機能を担っています。また、次のような特徴があります。1:脊椎動物のエンドクリーン腺の一種です。2:人間の場合は脳の基部に位置しています。3:科学的な研究の対象として長年にわたって注目されてきました。参考図:uneven combination (第四講解説●11了・完了)哲学・思想ランキング
2024年09月02日
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ルドルフ・シュタイナー「精神科学と医学」 第四講 1920年 3月23日 ドルナハ*1998.11.21.改訳 本講:本文・解説第四講解説 ●10●10 人間の二元性10.人間は上部と下部という人間性として自らを開示し、下部において形成されているものは、常に上部で形成されているものの平行器官である人間の霊的・魂的活動は、脳形成と同時に腸形成とも結びついている。記:人間の上部と下部という二元性に注目しなければなりません。つまり、下部において形成されているものは、常に上部で形成されているものの平行器官であり、対極的なものとしての下部が発達できなければ、上部における器官が発生できないということです。ですから、腸の形成と脳の形成とは密接に関係していて、大腸や盲腸が形成されなかったとしたら、脳も現在のようには形成されず、この物質的世界での霊的・魂的活動ができなかっただろうといえます。盲腸は役に立たないというか、何のためにあるのかわからないということがいわれているようですが、こうしたシュタイナーの提示する観点から、その盲腸の存在ということも深い意味を持っていることがわかります。 盲腸は脳のなかに対置されるものをもつというのですから、盲腸がなかったとしたら、脳のなかのある種の部分が形成されなかっただろうといえるわけです。それでもなお、きょう皆さんがたにお話ししておきたいことは、次のようなことなのです。皆さんが実際に、特に比較的若いかたがたに私は切にお勧めしたいのですが、腸組織全体の形態変化、言うなれば、一面においては魚類から両生類、爬虫類を経て鳥類に至る変化、とりわけ両生類、爬虫類と腸組織との関係はきわめて興味深いものです。他面においては、哺乳類そして人間にまで至る変化について、比較研究されてみれば、次のようなことに気づかれるでしょう、つまり、器官の特殊な形態変化が起こり、たとえば盲腸ができてくるのです。すなわち人間の場合には後に盲腸となるものが現れ、下等な哺乳動物の場合や、鳥類の組織から何かが落ちて盲腸の原基が現れてくる場合には、魚には全く存在していない大腸から、魚の場合大腸について語ることはできませんが、いわゆるより完全な秩序による上昇を通じて大腸がさらには複数の盲腸、人間の場合はひとつの盲腸であるものがあらわれてくるのですが、他の動物のなかには複数の盲腸を持つ種類もいるのです。こういう発生のしかた全体のなかに皆さんは独特の相互関係を見い出されることでしょう。本来的には、こういう相互関係こそ比較研究が非常に厳密に指摘せねばならないことなのです。皆さんは単に外面的に、ご存じの通り実際しょっちゅうこう問われるのですが、いったい何のために、人間の盲腸のようなこういう外に向かって閉じたものが存在しているのかと問うことができます。こういう事柄について問われることは屡々あるのです。このような問いを投げかけるとき、通常は次のようなことに注目されることはありません。つまり、実際のところ人間は二元性(Dualitaet)として自己を開示しているということ、したがって、一方つまり下部において形成されているものは、常に上部で形成されているものの平行器官(das Parallelorgan)であり、この平行器官、いわば対極が、下部において発達することができないとしたら、上部において何らかの器官が発生できないということ、こういうことに注目されてはいないのです。そして、動物の系列において前脳が形態を取れば取るほど、人間の場合これを後に発達させるのですが、それだけいっそう腸は、まさに食べたものの残りを蓄積する方向へと形成されるのです。腸形成と脳形成の間には密接な関係があり、動物の進化系列において大腸、盲腸が現れてこなかったら、結局は物質的本性として思考する人間というものも発生できないでしょう。なぜなら、人間が脳すなわち思考器官を持つのは、腸器官の負担、まったくもって腸器官のおかげだからです。腸器官は脳器官の忠実な裏面なのです。皆さんが一方において思考のために物質的活動を免除されるためには、他方において皆さんの器官に、形成された大腸と形成された膀胱による負担のきっかけとなっているものを担わせなければならないのです。このように、人間の物質的世界に現れているまさに最高の霊的・魂的活動は、脳の完全な形成と結びついているのと同時に、その一部である腸の形成とも結びついているのです。これはきわめて重要な関係であり、自然の創造全体に途方もなく多大な光を投げかけるものです。さてここで皆さんは、たとえいくぶん逆説的に聞こえるにしても、人間にはなぜ盲腸があるのかと問いかけ、人間が相応なしかたで思考することができるためにあるのだと答えることができるのです。なぜなら、盲腸において形成されているものは、人間の脳のなかに、それに対置されるものを持つからです。一方にあるものはすべて、他方にあるものに対応しているのです。参考画像:人体の二元性 ((第四講解説●10 了)哲学・思想ランキング
2024年09月01日
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