Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月25日
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カテゴリ: 絶対存在論



真理と学問
Ⅲ:カント以降の認識論(Epistemology)
さて、我々は次のように問おう。「いかにして我々はそのような確信に至るのか」と。上述において行なわれた考えの筋道の骨格は以下の通りである。「もしも外的世界が存在するならば、それは我々によってそれ自体として知覚されるのではなくて、我々の有機的組織を通して表象世界に変化させられたのだ」。我々は、厳密に追求するならば、それ自体を帳消しにする前提をここで相手にしている。それにしても、この考えの筋道は、何らかの確信を基礎付けるのに相応しいのだろうか。我々は、素朴な意識が仮定していることが、厳密に考え抜かれると、この見解に至るという理由で、我々に与えられた世界像を主観的な表象内容と見做すことを正当化するのだろうか。我々の目的は、もちろん、この仮定自体を無効なものとして証明することである。その場合、或る主張が誤りであると証明されるにもかかわらず、たどりついた結果は正しいということが可能なはずであろう。少なくともどこかでこうしたことは起こりうるのである。しかし、その場合、この結果があの主張から証明されたとみなすことは決してできない。我々に直接的に与えられた世界像の実在を、それほど疑いえない、自明のもののように受け取る世界観は、通常、素朴実在論と呼ばれる。この世界像を単なる我々の意識内容だと見做す、素朴実在論と反対の世界観は、超越論的観念論と呼ばれる。それ故に、これまでの考察の結果も次のようにまとめることができる。「超越論的観念論は、それが反駁しようとする素朴実在論の手段を用いることによって、その正しさを証明する」と。超越論的観念論は素朴実在論が誤りであるならば正当化される。しかしその誤謬性は、誤った見解自体の助けを借りるときにのみ証明されるのである。これを直視する者にとっては、或る世界観に辿り着くために、ここで採られた道を捨てて別の道を進むほかない。しかしそれは、我々が偶然正しいことに出くわすまで、運を天に任せて、試しに行われるしかないのだろうか。なるほど、エドゥアルト・フォン・ハルトマンが以上のような見解であるのは、彼がその認識論の立場の妥当性を、この立場が世界の諸現象を説明している一方で、他の立場はそれを為していないことを明らかにしたと思う場合である。この思想家の見解によれば、個々の世界観が一種の生存競争を開始し、この競争の中で最もうまく実証された世界観が、最終的に勝者として受け入れられる。しかし、等しく満足できる世界の諸現象の説明に至る十分に多くの仮説が存在しうるというまさにその理由で、そのような手続きは我々には許されていないように思われる。それ故に我々はむしろ、素朴実在論の反論に至る上述の考えの筋道に依拠して、どこにそもそもその考えの筋道の欠陥があるのかを確かめたいのである。素朴実在論は、全ての人間がそこから出発する、まさにその物の見方である。それ故に、他ならぬ素朴実在論のところで修正を始めるのが得策である。その場合我々が、どうして素朴実在論が不十分であらざるをえないのかを理解したならば、我々がそのような道を運を天に任せてとにかく試みるのとは全く異なる確かさをもって、我々は正しい道を歩むであろう。

参照画:エドゥアルト・フォン・ハルトマン(再1)



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最終更新日  2024年02月25日 08時55分44秒
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