Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年09月06日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」第五講 本文・解説 1920年 3月25日 ドルナハ
第五講 本文-4 鉱物薬と燐的なもの、水銀的なもの、塩的なもののプロセス
 人間身体の上部と下部が地球形成プロセスに先ず抵抗するというのは、これはいったいどういうことなのでしょうか。それが意味しているのは根本的に、下部の人間を霊的・魂的なものから自由にすること、霊的・魂的なものを下部の人間からまずはたとえば上部の人間のなかへと駆逐することにほかなりません。つまり、塩への渇望が存在している場合に必ず、この塩への渇望が私たちに知らしめることは、下部人間が何らかのしかたで、下部における霊的・魂的なものの強すぎる働きから自由になろうとしていること、下部人間はこの霊的・魂的なものの働きをいわば上部人間に流出させようとしているということなのです。下部人間に変調がある、それとわかるような変調があると想定してみてください。この変調を知るための手段と、この変調に起因する個々の病気については後日看ていきます。この変調に対していったい何をすることができるのでしょうか。ここではひとつ考察を差し挟みたいと思います。これは、薬の使い方においてある種一面的になりがちな人々にとって有意義なことかもしれません。ある種の人々の場合は、鉱物薬に対する一種の嫌悪といったものも見られます。こういう嫌悪は正当なものではありません。なぜなら、これから見ていきますように、純粋な植物薬というものは、何と言ってもやはり、あるまったく特定の範囲内でのみその効力を発揮することができるのであって、もっと深刻な場合となると、鉱物薬が大きな意味を持ってくるからです。そこで皆さんにお願いしたいのですが、私がこの原則的な考察に際して鉱物薬から始めてもお気を悪くなさらないでほしいのです。鉱物薬とは言ってもこれはいわば、この鉱物薬の効力を、生命に、つまり器官の生命に組み込むことなのです。とりわけ、人間の下腹部の、上体との関係におけるある種の治療処置のしかたについて、非常に啓発を得ることができるのは、皆さんが「海のミルク」牡蛎を研究されるときでしょう。牡蛎というものはその殻の形成においてきわめて興味深いものです。と申しますのも、おわかりでしょうか、牡蛎というものは、その炭酸石灰の外殻を、まさに内から外へと追い出してくるわけですから。皆さんが、ここでは探究に際して精神科学が助けにならなければなりませんが、牡蛎を精神科学的に探究されるなら、この牡蛎というものは、なるほど動物の系列のなかでは非常に下等な生き物であるけれども、宇宙全体においては比較的高い位置を占めているのだということを承認されるようになるでしょう。人間が自分の思考として自らのうちに担っているものが牡蛎から分離されるということによって、牡蛎はこのような位置を占めているのです。殻を形成して内から外へと導いていく力が示しているのは、いわば、それが器官的な成長と結びつけられたとすれば、牡蛎を非常に賢くしたであろうもの、牡蛎をまさしく非常に高等な動物にしたであろうものが、どのようにして牡蛎から他方へ導かれたかという道すじなのです。こうして皆さんは、この牡蛎の殻の発生をてがかりに、炭酸石灰(kohlensaurer Kalk)すなわちカルカレア・カルボニカ(Calcarea carbonica)の働き、つまりこの、強すぎる霊的・魂的活動を生体組織から引き出して導いていく働きを、まぎれもなく、いわば手に取るように見ることがきるのです。さて、下腹部に過剰な霊的・魂的活動があって、それが、この病気の形式についてもこれから見ていきますが、特定の病気の形式をとって現れてくることもわかったときに、皆さんが手を伸ばさねばならない薬、この薬を皆さんは、炭酸石灰の持つ内から外へ作用する物質という秘密に満ちた力と申しますか、この力を通じて、牡蛎の殻やそれに類するもののおかげで得ることができるのです。つまり治療処置において本質的なことは、おそらく、この内から外へ駆逐すること(Von-innen-nach-aussen-Treiben)に何らかの治癒力があることを明確に知っておくことに基づいているのです。よろしいでしょうか、カルカレア・カルボニカのような薬と結びついているものや、それに似た薬に関係するものがすべて合理的に研究され得るのは、以上のような関係においてこれを見るときのみなのです。さて、炭酸石灰の力のなかにあるものに対して、その対極のように相対しているのは、つまり、たとえば燐の力のなかにあるすべてのものです。私の用いる表現は事実その真の意味において、今日しばしば科学として通用しているものより非科学的であるなどということはないのですが、塩性のものがすべていわばその環境に身をささげるようにふるまうとき、その理由は、あらゆる塩的性質を持つものは、計測できないもの、光やその他の計測できないものの内的な作用から、対応する物質が露出させられ、解放されることによって生ずるからということなのです。いわば塩的であるものはすべて、その生成過程を通じて、計測できないものを、それを内的に所有しないように、自らから突き放したわけです。
記:「燐」存在は天然には単体として存在せず、酸素と化合したリン酸の誘導体としてみいだされる。おもな鉱物は燐(りん)灰石Ca5F(PO4)3であり、鳥の糞(ふん)が堆積してできるグアノ質リン鉱石もある。動物の骨や歯はおもにリン酸カルシウムであり、生物体には複雑な有機リン化合物(核酸など)として含まれ、生命に重要な役割をもっている。周期表第15族に属し、非金属元素の一つ。古くヨーロッパでは暗闇で光るものをphos(光)、phoros(運ぶもの)とよんでいたし、中国や日本でも陰火、鬼火などを燐(りん)とよんでいた。たとえばBolognian phosphorosとよばれたものは、イタリアのボローニャ地方で発見された重晶石を熱してつくった不純物を含む硫化バリウムで、暗中で発光するリン光体であった。これらはphosphorusとよばれていた。1669年ドイツのハンブルクの商人で錬金術師のブラントHenning Brand(1630―1710)は、人間の尿を蒸発濃縮し、空気を遮断して強熱し、白色ワックス状の物質を得た。これが現在リンといっているものの初めてのものであるといえよう。そしてこのものが暗闇で光を発することが知られ多くの人に興味をもたれた。ドイツのクンケルJ. Kunckel(1630―1702)は1678年、尿に砂を混ぜて熱することにより、よりよくつくれることをみいだした。1771年スウェーデンのシェーレは骨灰からリンを取り出すことに成功し、18世紀の終わりごろには、フランスのラボアジエが、リンが元素であることを示した。
参考画像:Henning Brand



 「燐」の場合は事情はまったく逆となります。ですから古代における先祖伝来の認識が、この燐を光の担い手とみなしたのは、実際まったく正当なのです。なぜなら、燐が、計測できないもの、つまり光を実際に担っていることを、古代の認識は正確に見抜いていたからです。塩が自分から遠ざけたものを、この燐は自らのなかに担っているのです。つまり塩の対極として相対している物質は、いわば計測できないもの、とりわけ光、さらには他の計測できないもの、つまり熱などを、内面化して、それを自らの内的特性にするような物質なのです。燐のなかに存在するもの、あるいは治癒過程に関して燐に類似しているものはすべてこういう事情に基づいています。したがって、計測できないものを内面化する燐は、とりわけアストラル体と自我が正しく人間に接近できないとき、それらを人間に押しもどすのに適しているのです。ですからある患者が病気で、個々の病気についてはさらにあとでお話ししていきますが、この患者が、つまり、頻繁な夢に悩まされていること、すなわち、アストラル体が物質体から離れて、独自の活動をする傾向にあることがわかったなら、またさらには、その患者がたとえば、器官的に周辺部分において炎症傾向があること、これもまたアストラル体と自我がきちんと物質体のなかに位置していないことを示すものですが、そういうことがわかったなら、皆さんは、この人間のアストラル体と自我をもっと物質体にかかわるようにさせるために、燐が計測できないものをとどめておく力を使用することができるのです。穏やかでない睡眠生活をおくっている人の場合、きわめてさまざまな病状に対して、この燐を用いることができるでしょう。なぜなら、燐は、「自我とアストラル体とをしかるべきやりかたで物質体とエーテル体のなかに引き戻す」からです。このように、燐的なものと塩的なものは、ある意味で互いに対極的に相対しているのです。そして皆さんに気づいていただきたいことは、個々の名称、つまり現代の化学によって個々の物質に与えられているような名称よりはむしろ、これらの物質が宇宙全体のプロセスのなかにどのように入り込んでいるのかということに注意が向けられねばならないということです。つまりさらにこれから見ていきますが、燐に似た作用をする物質における燐とおぼしきものであっても薬として使用できるのです。よろしいでしょうか、以上のことによって皆さんは、外的な自然における二つの互いに相対する状態、すなわち、「塩的に作用するものと燐的に作用するもの」とを確定したわけです。この両者の中間に位置するのは水銀的に作用するものです。人間というものが、神経ー感覚存在、循環存在、新陳代謝存在という三分節化された存在であるように、つまり、この循環存在が新陳代謝と神経ー感覚活動の間にあって両者を仲介しているように、外的自然においては、塩的なものほど強く自らを放棄せず、かと言って計測できないものを強く自分のなかで内面化するわけでもなく、いわばこの両方の働きの間で釣り合いを保っているものが存在するのですが、そういうものはすべて、自ら水滴形を形成しようとすることによって、仲介しているのです。と申しますのも根本において、水銀的なもの(Merkuriale)は常に、その内的な力の連関において水滴形になる傾向を持っているからです。この水銀的なものと言う場合に重要なのは、今日水銀(Quecksilber)とみなされている物質を水銀的なものと呼ぶことではなく、塩類の融解してしまう傾向と、計測できないものを自らのうちに引き寄せることに留めて置くこととの間で釣り合いをとっている力の連関なのです。つまり、水銀的なものすべてのなかにまさに明確に含まれている力の状態を研究することが肝要なのです。したがってこれからおわかりになるでしょうが、この水銀的なものは、燐的なものが適している働きと、塩的なものが適している働きとの間に、平衡をもたらすことを目指しているものに、本質的に関わっているのです。私がたった今申しましたことと生体組織における作用が矛盾していないということは、梅毒やそれに類する疾病について特別にお話しする時にさらに見ていくことになります。以上、燐的なもの、水銀的なもの、塩的なものについてお話しすることによって、私は皆さんに、鉱物的なもののなかからいわば特に明瞭な類型を提示いたしました。むろんもうおわかりでしょうが、塩的なものにおいてすでに、牡蛎の殻の形成のなかに存在し、その背後に潜んでいる器官プロセスについて語られねばならないのです。このプロセスは、ある意味においては、計測できないものが燐のなかに濃縮されるときにも存在するのです。けれどもその場合はすべてが内面化されるので、このプロセスは外に向かってはそれほど明瞭に顕現できないのです。
   (第五講 本文-4 鉱物薬と燐的なもの、水銀的なもの、塩的なもののプロセス-了)

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最終更新日  2024年09月06日 06時23分10秒
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