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2012年5月に当ブログで、キング・クリムゾン周辺人脈のバンド、キング・ハリーについて取り上げました。https://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201205190000/バンドのメンバーたちは、後のクリムゾンメンバーたちと60年代の学生時代に音楽活動していた者たちでした。フリップやハスケルと共に活動したティノ・リチニオ( Valentino ('Tino') Giolivio Leo Licinio ギター)。ジャイルズ兄弟やハスケルにマカロックとも活動したアラン・バリー(ギター)、フリップにギターを習いグレッグ・レイクと学生バンドを組んでいたジョン・ディッケンソン(キーボード)。以下は、ツイートに書きなぐった情報をまとめます。まず歴史を遡ると、フリップ/ハスケルらと1961年から65年まで学生バンドを組んでたティノ・リチニオ(中央のヒゲ)がドラムのスタン・レヴィとともに1968年にアラン・バリー(後にフィールズ)とジ・アクトレスを組み唯一シングル残した。71年夏バリーがハスケルの2ndソロに参加後、マカロックに誘われフィールズへ加入。 同じ頃リチニオは60年代にグレッグ・レイクやフリップとも活動したベーシスト、ハワード・ペトリッヂとソングライティングで組み2枚のシングルを72年に残した。リチニオ、バリー、そこへグレッグ・レイクと60年代度々バンドを組んでたジョン・ディッケンソンのトリオを中心に編成されたキング・ハリー。日本盤LP発売当時のライナーによると、結成時にはボーンマスというバンド名だったそうだ。ジョン・ディッケンソンは実家がモーテル経営で、アイランズ期などのクリムゾンにもリハーサル場所として提供したが、音楽スタジオを作るためモーテルを廃業。そこでレコーディングを行いキング・ハリーはデビュー。ドラムを叩いた人物に聞いた所、固定のドラマーはいなかったそうである。無名なキング・ハリーが欧州各国や日本でもレコードをEMIがだせたのは、クイーンのマネージャー兼弁護士だったジム・ビーチが彼らの面倒みたことが影響していたと言われる。では、各国でレコードも発売されこれからという時、なぜキング・ハリーは突如消えたのか? それがこの十年謎のままでした。答えはシンプル、バンドリーダーの中心人物ディッケンソンがツアーを拒絶したことによるバンド内紛からの活動停止だった。1977年にデビューしたキング・ハリーは数回のギグしかせずあっさり解散した。以前、ゴードン・ハスケル氏が77秋から78年までクリフ・リチャード・バンドにいた件について質問した時、ある日突然アラン・バリーがギターでバックバンドへ参加したと聞かされた。なぜキング・ハリーがレコード出したばかりなのにバリーはバックバンドへ加入したのか? この謎もキングハリーが呆気なく解散した事によるものだったと言える。(結局無理を押し付けられ、それに逆らったバリーは3日で解雇されたそうだが。ハスケル談)キング・ハリーというクリムゾン周辺人脈の傍流バンドが解散すると、ディッケンソンはスタジオ経営と共にムーブメントデジタルドラムマシンを開発。ユーリズミックスやジェネシス他が使用した。リチニオはルビーというバンドを経て、80-83年にはカサブランカというバンド、84,5年にはラッキーというバンドで活動した。バリーについてはクリフ・リチャード・バンドを抜けた後の足跡はわからない。ただ、2000年代晩年のリチニオとバンド活動してたそうで、リチニオの死後ロバート・フリップと葬儀で再会したそうである。ハスケル氏過去インタビューでも語られてたが、私がアラン・バリーについてハスケル氏に質問した時の答えも同じだった。「世界的な才能を持ちながら成功できなかったギタリスト」またこうも語ってた「彼は間違った事を許せない人だった」いずれも活動が短期間になったフィールズやキングハリーやクリフリチャードバンドでの悲劇を指しているのだろう。
Jan 16, 2023
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ボズ・バレルの参加したサイドワインダーズは1966年2月解散した?と以前書いたが、実はブルーソロジーへ加入したマーク・チャリグ離脱後も存続し6月末に解散と判明。3月にボズ&彼のグループとフライヤーに出たのもサイドワインダーズだった模様。その後のボズはダスティ スプリングフィールドとのツアー (1966 年 9 月 27 日 - 10 月 8 日) のためにザ・ボズ・ピープルを再結成。後にグラウンドホッグズのギタリストとなるトニー マクフィーと元マーク・リーマン・ファイブのキーボード奏者であるトム・パーカーが加入した。
Jan 10, 2023
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今年も4646
Jan 1, 2023
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