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神経症の治癒とは、症状に対する心のとらわれからの解放であって、症状それ自体が消滅することではない。心臓発作恐怖症者の人の場合であれば、その発作神経症が治癒した後でも、心臓が鼓動を止める事はありませんし、死の恐怖、それ自体が人間の心の底から去ってしまうことはないのですから、恐怖と不安は恒常的なものだと言わざるをえません。心臓発作を一再ならず経験し、これを恐怖した人から、恐怖を完全に払い去るといったことができるはずもありません。対人恐怖症の人は、他人の視線が気になるという気分から完全に自由になるわけにはいきません。森田先生も次のように述べている。これらの症状それ自体は存在してもいいのだ、症状は存在していても、それのみにとらわれることなく、生の欲望にのっとって人間としてなすべきをなしていくという態度が形成されること、つまりこれが神経症の治癒である。神経症とは、過度の意識が特定の1点のみ、例えば心臓の鼓動とか、他人の視線とか、そういう特定の1点に局限され、その1点以外への意識性が希薄化した心の状態です。従って人間感情のすべてに意識がまんべんなく行き渡り、特定の1点への意識集中が相対的にその「水位」を下げていくこと、これが神経症の治癒だということなのです。ですから、症状が跡形もなく消えるのではありません。症状は詮索すればまごうことなく存在しているのですが、それの意識の集中がなくなること、これが神経症の治癒だと言うことになるのです。 (現代に生きる森田正馬の言葉1 渡辺利夫 24ページより引用)渡辺先生は神経症が治るということについて、的確にわかりやすく説明されていると思う。私たちは普通神経症が治るということイメージする場合、傷口が跡形もなく修復されることを願っている。しかしそういう目標を立てた場合、いつまでも神経症と格闘することになり、いつまでたっても治らない。跡形もなく治ることをイメージしているので、思想の矛盾に陥るのである。対人恐怖の人であれば、他人の思惑が全く気にならなくなり、あっけらかんとした別の人格を持った人間に生まれ変わり、自分の思い通りの人間関係を築いていけるようになりたい。つまり神経質性格が発揚性気質の性格に変わってしまう事イメージしているのである。しかし自分が持って生まれた神経質性格は変えることはできません。不可能なことにチャレンジすることはエネルギーの消耗を招き、自己嫌悪や自己否定の道へ突き進むことになります。ですから、そのような治り方をイメージしている人は、イメージを変える必要がある。そのときに参考になるのは、渡辺先生が説明しておられる上記の説明である。そのように言われても、今現在神経症で苦しみ、なんとかその苦しみから抜け出したいと思っている人は納得できないかもしれない。実生活の悪循環が始まると蟻地獄の底に落ちたようになる。そういう場合は応急的に蟻地獄の底から地上に抜け出す道がある。少し遠回りにはなるが、症状は横に置いて、目の前の必要なことを嫌々仕方なく手をつけていくことである。これは神経症に陥った人が最悪の状態から抜け出す時のための特効薬である。これについては良いとか悪いとか評価をする前に自分の体験で確かめてみればすぐに分かることである。問題はその次にある。観念の悪循環と実生活上の悪循環が断ち切られたとしても、その先に神経症の治しかたに対するイメージが間違っていると、神経症の苦しみや葛藤はさらに続く。むしろ増悪していく。このことは、私が長い間苦しんできたことである。その苦しみや葛藤がなくなってきたのは、まさに渡辺先生が言われているように、治り方のイメージが変わってきたことにある。つまり、人の思惑が普通の人以上に気になるという神経質性格は変えることはできない。性格を変えるための努力はエネルギーを消耗するし、不可能なことなのである。そういう心配が常につきまとうのは、私の特徴である。いや、むしろ個性といった方がよいかもしれない。それよりは神経質性格が持っているプラスの面を引き出して、とことん生活の中で活用していく方向が自分の生きる道ではないのか。治し方のイメージを、人の思惑を気にしないようになる人間になる事を目指すのではなく、それを個性として捉え、その個性の発揮に邁進していくことに転換してきたのである。そうすると実生活が好循環をもたらすようになり、人間関係も改善し、生きる葛藤や苦悩が急速に小さくなってきたのである。
2017.08.03
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胃にはピロリ菌(ヘリコバクターピロリ)のような強酸性の環境下に耐えられる菌が常在しています。医師は、ピロリ菌がいるとガンになりやすい。だから除去してしまいましょうと言います。でもよく考えてみてください。ピロリ菌は昔から自分たちの胃の中にいたのです。そして一定の役割を果たしていました。胃壁を柔らかくしてくれているし、胃酸の逆流を抑えてくれる働きです。普段は体によいことをしてくれているわけですが、体や心が弱ってくるとそのピロリ菌が暴れ出して、慢性胃炎や胃潰瘍になり、放っておくとガンになることもあるわけです。人間は人間にとって不都合なことがあるとすぐに対症療法で処理しているのです。するとピロリ菌はいなくなったけれども、今度は胃酸の逆流等の困った症状が出やすくなるのです。別の問題で悩むことになります。対症療法で一つの問題が解決したように見えても、また新たな問題が発生することになるのです。新たな問題は今までよりも、解決するために多くの労力や時間がかかることが得てしてあります。これを本末転倒と言います。胃の場合でいえば、バランスが崩れて、問題が問題を生み出して対応に苦慮するようになります。本来は、胃炎や胃潰瘍の原因を取り除くことが先決です。多くはストレスや人間関係等でしょうからその改善を図ることです。さらに食事内容を見直すなどして抜本的な対応が望まれることです。これは農作物を作るときにも同じことが起こります。例えばトマトが儲かるからといって同じ土地で大量の化学肥料を使い、何回も連作していくと、連作障害にかかり、病気が増えて収量は激減します。そこで一般的には土壌消毒をして悪い細菌をみな殺しにしてしまいます。クロールピクリンなどの薬剤を使えば土壌細菌は全滅にできます。でも一時は回復して成功したかのように見えますが、対症療法を行っている限り抜本的解決にはなりません。またすぐに悪い菌で汚染されてしまいます。しだいに無駄なお金と労力を費やすことになります。ここで視点を変えて土作りや輪作を考えて実施すれば、労少なくして多くの果実を手にすることができます。対症療法はその場限りのものです。今の世の中、対症療法で問題解決を目指して、症状が抑えられるとすぐによかった、これで幕引きということが実に多いと思います。これは神経症の治療も同じです。特に薬物療法では完治することはないと思います。森田先生は神経症が治るのは、人生観が変わったから治ったのだといわれています。物の見方、考え方を原点に返って見直すためには、森田理論の学習をしていくことが大切だと思います。
2017.07.30
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神経症は自分で症状を治そうとすればするほど、ますます悪くなるものである。神経症の治ると治らないとの境は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、 10年でも20年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうすることもできない、仕方がないと知り分け、往生したときには、その日から治るのである。すなわち、 「逃げようとする」か「踏みとどまる」かが、治ると治らぬとの境である。(森田全集第5巻 389ページより引用)普通、神経症で苦しんでいる人は、なんとかこの苦しみを取り除きたいと思っている。薬物療法でも、森田療法でも、他にどんな精神療法でもいいが、とにかく体にべったりと張り付いているコールタールのような気味が悪い異物を除去してほしい。ほとんどの人は、その症状に10年も20年もとりつかれて格闘しているのである。お金には変えられない。もし、特効薬のようなものがあるのならいくらでもお金を出してもいい。藁にもすがるような気持ちなのである。そんなときに、上記のようなことを言われたらな気持ちになるだろうか。いい気はしないかもしれない。神経症のアリ地獄に陥ってる人は、無責任極まる事を言われているのではないかと思うかもしれない。でもこの言葉は、神経症を治すために考えられるすべてのことに手を出して、その度にはね返され、もはや精根尽き果てて希望が見いだせない人にとって福音の言葉ではないか。地獄の底に落ちて、もうなすすべがないと白旗を上げた人にピンとくる言葉ではないかと思う。精根尽き果てて背水の陣を引いた人にはよく分かる言葉なのである。私の場合を振り返ってみよう。私の症状は対人恐怖症であった。それは中学生頃から始まったように思う。とにかく、友達との人間関係がうまくいかない。付き合えば付き合うほど不愉快になるのである。そのうち友人たちを避けるようになった。ひとりで過ごすのが精神的に楽なのである。しかし、心の奥底では友達を求める気持ちも強かった。また友達に一目置かれて尊敬されるような人間になりたいといつも考えていた。こういう状態で社会に放り出された。生活のために仕事を始めたのである。ところが、そのうち人間関係が悪化して、生活の糧を得るという目的が希薄になってきた。会社では、良好な人間関係が基礎にないと仕事を続けることは困難であると思うようになった。森田理論で言うところの手段の「自己目的化」が起きてきたのだ。私の注意や意識は、会社内の人間関係を壊さないためにはどうするかという点にばかり向いてきた。注意や意識が外に向かわずに、自分の内へ内へと向かいだした。それは経験した人ならだれでもわかると思うが、自分に対する信頼感がないために、精神的にとても辛いのである。このような状態で生きていても、苦しいばかりである。自分は苦しむために生まれてきたのだろうかと考えるようになった。つまり、頭の中も生活の面でも全てが悪循環のスパイラルにはまっていったのである。その悪循環のスパイラルの中にいると、そこから抜け出す光明は全く見えてこない。このまま一生を終えてしまうのか。森田理論学習によって、症状はそのままにして、目の前の仕事や生活に丁寧に取り組んでいけば症状は治ると学んだ。私は素直に森田理論に従い、さらに先輩方のアドバイスを忠実に実行に移していった。1年くらいすると、会社での仕事が好循環を始めた。会社内での評価も上がってきた。これが森田でいう治るということかと感じた。しかし、常時自己内省的な状態から、やることなすことが外向きになって、行動面では問題がなくなっても、人の思惑が気になって精神的に苦しいという状態は依然として強かったのだ。次第に、これが森田の限界だと思って森田理論に魅力を感じなくなってきた。森田理論では自分のこの苦しい症状はとることはできないだろう。そんな力は森田にはないのだろうと思っていた。つまりこの時点で、別の意味で、症状をとるということあきらめてしまったのだ。 10年も20年も森田理論の学習を続けてきて、症状がよくならないので、症状を治すことを諦めざるを得なかったといってもいい。それからは対人恐怖症を治すための努力はしかたたなく止めてしまった。そこに投入していたエネルギーはどのようにしたのか。その頃、私が取り組んでいた事は、森田全集第5巻の中には、森田先生が普段の生活ぶりについて、いろいろと説明されていた。どうせ対人恐怖症が治らないのなら、森田先生のやることなすことを徹底的に自分の生活の中で取り入れる努力をしてみようと考えました。特に、森田先生は形外会などで鶯の綱渡りや踊り、民謡などを積極的にされていました。一人一芸を自分でも豊富に持ち、入院生たちと積極的に楽しまれていました。私もそれにヒントを得て、トライアスロン、テニス、スキー、魚釣り、資格試験への挑戦などにどん欲に取り組みました。一人一芸では、楽器の演奏、どじょうすくいの踊り、しばてん踊り、浪曲奇術などを手始めに、いろいろ挑戦してみました。もし対人恐怖症が完全に治るのならその方法に頼っていたと思いますが、治らないので、やむなく諦めざるを得なかった。そして治すために使っていたエネルギーを、自分の趣味や興味のあることに集中して使うようにしたのです。振り返ってみると、私の他人の思惑が気になるという特徴、あるいは個性と言ってもいいかもしれませんが、これは一生涯変わらないだろうと思います。他人の思惑が気になろが、なるまいが、自分の人生においては、どちらでもいいのではないか。むしろ他人の思惑が気になるというのは、人を安易に傷つけたりすることが防げるかもしれない。その特徴をできるだけプラスに活かしていけばいいだけのことで、それを修正することは難しいし、無駄な努力になってしまうかもしれない。症状を治すことをやめるという事は、そこに使っていたエネルギーを「生の欲望の発揮」に向けて切り替えるということだと思います。そうすれば、症状と格闘することがなくなるので精神的にはずっと楽になります。そして気持ちを前向きに外向きに使うことができるようになるので、精神的にも健康になり、日常生活もどんどん生産的、建設的に変化してゆくのだと思います。私の症状を治さずに治したというのは、まとめてみるとこのようなことなのです。
2017.07.28
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森田先生曰く。不眠でも、赤面恐怖でも、なんでも、これを治そうと思う間は、どうしても治らぬ。治すことを断念し、治すことを忘れたら治る。神経症で苦しんでいる人は、何とかして神経症を克服したいと思っている。森田先生の言われている「治すことを断念すると治る」の真意は何か。神経症で苦しんでいる人が、不眠なり、強迫観念なりを治したい。苦しいことが楽になりたい。それは当然のことである。しかしこれは病気ではないから治すべきはずのものでないという事を知れば、これを度外視して、普通の人のように働く。そのうちに、仕事に心を奪われて、治そうとすることを忘れる。そうして治るのである。森田先生の所の入院療法は、ただ「外形・外相」を重視する。心の内には、 「自分は病身である。劣等で意志薄弱である」とか、どのように思っていてもよい。心の内には、苦しみながら、びくびくしながら、いやいやながら、どうかこうか、人並みの仕事をやっていさえすればよい。ジェイムズは、 「悲しいためにに泣くのではない。泣くから悲しいのである」といったが、泣くのが外証で、悲しいのが心の内の内証であると思う。外証の変化に対応して、内証はいかようにも変化する。これに関連して私の体験を書いてみたい。私は30年前に生活の発見会の集談会に参加し始めた。 6ヶ月ほど経過した時、幹事の人から図書係を引き受けることを勧められた。あまり乗り気ではなかったが、是非にと言われて引き受けた。図書係は集談会で販売する本を一手に保管・管理して集談会当日、机の上に並べてみんなに説明・販促する仕事だった。参加者に説明するためには、書かれている内容について、あらかじめ知っておくことが役にたつ。そのために、私が保管・管理している本については全てタダで読ませてもらった。次に、それぞれの本について特徴をまとめた。そして集談会の参加者を念頭に置き、あの人にはこの本を進めたらよいのではないかと考えるようになった。そのためか、私が図書係をやっていたときは本がよく売れた。そして次にはどんな本を取り揃えておけばよいのかを考えるようになった。そのために他の森田関係の図書もいろいろと読むようになった。その中で森田正馬全集、形外先生言行録、森田正馬評伝などに出会ったのである。そのうち図書を販売するよりも、参加者はそれぞれにいろいろな森田関係の本を読んでいることに気がついた。そこで集談会の中で、 「私に影響を与えた森田関係の本」の情報交換を行うことを提案した。その次に、そういった本を集談会に持ってきて、お互いに貸したり借りたりすることを思いついた。そうした本にはマーカーや鉛筆で印が付いていたり、書き込みがなされていた。大切なところは、読む前から、あらかじめ分かっているのでとても役に立った。生活の発見会の元役員の人が、次のような話をされていた。 「神経症の症状はキツイ時に、世話役を引き受けて、なんとかみんなに喜んでもらうような運営を心がけているうちに、自分の症状を治すことが後回しになってきた。でも、後で振り返ってみると、世話役を一生懸命にこなしているときは症状の辛さは忘れていたんですね。そういうことを感じてからは、今現在神経症で悩んでいる人たちに、集談会の中で、世話役を引き受けて一生懸命取り組んでいると神経症は楽になりますよと教えてあげられるようになった」神経症の症状で苦しんでいる人は、症状そのものをいかにして治すかというように正攻法で攻めるよりも、症状そのものはいったん棚上げにして、目の前のなすべき課題に対して、今までよりも今1歩、 「現在になりきる」という実践に取り組むことで、視界が急に開けてくることがある。森田療法は「不問療法」であると言われる人がいる。この不問というのは、症状そのものを治したいということに対しては問題や課題としてとり上げない。つまり、症状不問ということである。それよりも目の前の課題に取り組ませるのだ。その態度を貫くことが、森田先生の言われる、「治すことを断念し、治すことを忘れたら治る」という意味だと思う。
2017.07.14
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森田先生は「人生観が変わったから病気が治った」と言われている。逆に言えば、神経症は「人生観を変わっていかないと治らない」ということでもある。今日はこのことの意味を考えてみたい。その前に、現在神経症の治療はどうなっているのか。主流は薬物療法である。不安が強い人やうつ病の人に対しては効果がある。精神療法と並行して補助的に薬物療法を利用すればよい場合がある。しかし、今の精神医療の現場では薬物療法に大いに偏っている。薬漬けになるのは論外だ。薬は不安などを軽減させることはできるが完治させることができない。薬は対症療法であり、神経症の元になっている人間や人生に対する考え方の誤りを正してくれるものではない。つまり、薬に頼っていてもすぐに再発しやすい状況を招く。さらに生きづらさは解消されることがなく一生涯継続する。薬物は足を折ったときに使う松葉杖のような役割を持っているだけだ。次に神経症のための精神療法は、現在30種類以上があると言われている。その中でも今現在1番取り組まれているのは、認知行動療法である。それは保険適用になっているからだ。認知の誤りの修正と暴露療法により、最終的に不安をなくするというやり方である。森田療法と大きく違うところは、不安や恐怖に対する考え方である。修正認知行動療法では最近では森田療法の考え方を取り入れて変化している。ただ、アバウトに言えば、認知行動療法は、不安や恐怖は取り除くべきものであるという考え方に立っている。森田療法では、不安や恐怖はなくすることはできない。欲望があるから、それに付随して、不安や恐怖が発生するのだ。不安や恐怖をなくすることにエネルギーを使っていると、神経症かどんどん増悪してくる。不安や恐怖を排除してはならない。不安や恐怖には大きな役割がある。不安や恐怖に学んで、問題点や課題を明確にすることが必要である。さらに、不安や恐怖は自分の欲望について教えてくれている。不安や恐怖を見つめることによって自分の欲望を明確にし、その達成のためにエネルギーを燃やし続けることが大切であると教えている。以上の視点に立って、森田理論を学習することによって、どのように人生観が変わっていくのか、思いつくまままとめてみたい。まず第一に、神経質性格は決してマイナス面ばかりの性格ではないということだ。神経質性格は意思薄弱性気質、発揚性気質などの人たちとは全く異なる性格の持ち主である。神経質性格の人は、自分の性格をつまらない性格だと認識する傾向が強いが、それはあまりにも偏った一面的な見方である。プラス面とマイナス面を同じ数だけ上げてよく比較検討してみることが必要だ。そして自分に持ち合わせてない面は人に譲り、自分の元々持っている。プラス面をいかんなく発揮させる生き方がとても大切だ。神経症に陥っている人は、バランスが崩れている人である。本来は不安と欲望のバランスをとりながら、慎重に生きていくことが重要だ。不安や恐怖ばかりエネルギーを使っていると神経症になる。反対に欲望の追求ばかりにエネルギーを使っていると、人間関係が悪化し、自分自身も生きている意義が失われてくる。味気ない人生で一生を終わることになる。私はいつもサーカスの綱渡りの曲芸をイメージしている。このバランスの取り方を人生の中で実践できる人は、森田の達人だと認識している。私たち神経質者は物事を見る時に、先入観や決めつけ、論理的な飛躍、マイナス思考やネガティブ思考、自己否定や他人否定に陥りやすい。客観的で妥当性のある考え方が出来なくなっているのだ。その1番の原因は事実、現実、現状、実態を軽視しているからだ。いくら自分にとって気に食わない状態が目の前に現れたとしても、事実をよく見つめて正確に把握することが必要である。森田で言うところの「事実唯真」の態度である。事実を大切にして、事実に服従していくという生活態度の養成がとても大切である。事実唯真の反対の態度は、 「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることである。そのことが、いかに苦悩を発生させ、葛藤でのたうちまわているのか自覚を深めて、「かくあるべし」を少なくしていく生き方を身につけていく必要がある。最終的に森田の目指している方向はただ1点、 「生の欲望の発揮」にある。不安を生かして欲望が暴走しないように注意しながら、できうる限りの「生の欲望の発揮」に向かって努力精進することが人生の醍醐味であると考える。
2017.07.13
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森田先生は神経症の治り方に3つの段階があると言われている。小学校卒業し程度の段階。中学卒業程度の段階。大学卒業程度の段階。小学校卒業程度の段階では、気分の悪いまま堪えて働くことができる。症状はあるがままに受け入れてなすべきをなす。症状は横に置いて、仕事や家事、育児など、生活に必要なことに手を出していく。最初のうちは、靴磨き、風呂の掃除、部屋の後片付け、布団あげなどの実践課題に取り組んでいく。そうすると、症状ばかりに向いていた注意や意識が、身の回りのものにも向いてくるようになる。症状に陥っているときは、ほとんど症状を治すことばかりに向いています。日常生活を丁寧にすることによって、注意や意識が少しずつ症状から離れていく。これが第一段階です。この部分は土台部分です。ここをおろそかにしていては次に進めません。中学校卒業程度の段階では、事実から逃げたり、誤魔化したりしないで、事実をそのままに認めることができる。イソップ物語にすっぱい葡萄という話があります。狐が木になっている葡萄を取って食べたいが、背が低いために何回飛び上がって取ろうとしても手が届かない。そこで狐はどう考えたか負け惜しみで、あの葡萄はきっとまずくて食べられるものではないと自分の気持ちを欺こうとした。あるいは元々自分は葡萄は欲しくないのだと、欲しいという事実をごまかそうとしました。さらにその葡萄を取る能力のない自分に劣等感は抱いたり、このような自分を生み育てた親を憎んだり、葡萄を欲しがらないようにしようとか、葡萄がすぐに手にいれられる超能力を得たいとか考えます。これは迷いです。迷いの元は、事実をあるがままに見ないことです。「自分はどうしても葡萄が食べたい」という事実と、 「自分の力では葡萄を採ることができない」という事実をあるがままに認めることができないのです。苦しい困難な現実に直面したとき、動物であれば、四方八方力を尽くして及ばなければ、そのままその事実に服従します。だが人間は事実をあるがままに認めようとはせず、観念で事実を誤魔化したり、自分を欺こうとします。森田理論で大事な事は、世の中の事実をありのままに認めるということです。どんなに気にくわない事実であっても、その事実を認め、事実に服従できるようになった段階が第2の治った段階です。森田理論学習では、「かくあるべし」を少なくしていく方法を学び、実践してゆきます。大学卒業程度の治った段階について、森田先生は次のように説明されています。この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現在における、我々の「生命の躍動」そのものになりきっていくことが、それが大学卒業程度というものであろうか。第2段階で、事実に服従できても、事実によい悪い、正しい間違いなどの評価をしているのが普通です。本心ではよくないと思うけれども、森田理論で自然服従がよいといっているので、やむなくそうしている。第3段階では、そこまで来たのなら、それを打ち破って、ぜひ次の段階に進みましょうといっているのです。この段階に至ると、目の前に現れるすべての出来事に対して、是非善悪の価値評価をしないで、すべての事実をあるがままに受け入れましょう。そして自然の流れに乗って、一体になって生きてゆきましょうといっているのです。誰でも台風、地震、津波、雷、大雨、大雪、雪崩、土砂災害は嫌なものです。しかし、人間は自然災害に対して、良いとか悪いとか、それが正しいとか間違いとか評価をすることはありません。人間は自然現象に対しては、基本的に反旗を翻すことはありません。まず自然災害で命を落とすことがないように、できる限りの備えを整えています。しかし、それ以上の想定外の災害に対しては、好むと好まざるとにかかわらず自然に服従しています。命の危険にさらされても人間にはコントロールできません。ところが、自分や他人の性格や容姿、生まれてきた時代環境、現在の境遇、理不尽な出来事などに対しては、すぐに是非善悪の価値判断をしてしまうのが人間です。かくあるべしを持ち出して、事実を認めることが出来なくなっています。そのことで様々な葛藤や苦しみを生み出し、他人との軋轢を深めています。是非善悪の価値判断をしない状態はどんな状態でしょう。サーフィンをしているようなものではないでしょうか。サーファーは大きな波にうまく身体を合わせて、波の流れに乗って変化やスリルを楽しんでいます。自分の自由は効きません。波が主役です。サーファーはただ波の変化にうまく合わせて波と一体になるしかありません。そうしなければサーフィンそのものを楽しむことはできませんし、反抗的な態度をとるとケガをしたり、最悪大きな波にさらわれて生命の危険にさらされてしまいます。サーフィンの上手な人は自然をコントロールしようと考えているのではなく、自然と同化しようとしているのです。人間の生き方としては、サーフィンの楽しみ方に学ぶことが大切だと思います。自然に反抗する態度を止めて、自然の流れに素直に同化していく態度を養成していくこと。第2段階の治り方では、「かくあるべし」を少なくして事実、現実、現状に基づいて生きていくことを目指しました。第3段階の治り方では、その事実、現実、現状に是非善悪の価値判断を持ち込まないで、自然と同化して、自然に溶け込んでいく生き方を目指していくものです。そういう段階に到達したとき、自然と共存共栄できて、健やかな生活を心から楽しめるようになるのではないでしょうか。(森田全集第5巻 白揚社 652頁より一部引用)
2017.05.20
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倉田百三氏話です。ある土佐藩の武士が、和田倉門の所を通っていたら、 1人の武士から真剣勝負を挑まれた。ところが、土佐藩の武士はまるで剣術を知らない。それで、 「今は用事があるから、それを果たすまで待て」と言って、名高い千葉周作の門へ行き、その事情を話して、 「自分は実は剣を知らない。ただ死ぬるなら見苦しくなく死にたいから、どうすればよいか教えを願いたい」と言って頼んだ。千葉周作は次のように教えた。「相手に立ち向かったら、すぐ太刀を大上段にふりかぶり、左足を前に出して眼を閉じよ。しばらくするとヒヤリとする。それと同時に切りつける。そうすれば必ず相打ちになる」ということであった。土佐藩の武士は、約束のごとくかの武士と真剣で立ち向かった。そして大上段に構えて、目をつぶって待ったが、なかなかヒヤリとしない。しばらくすると、相手の武士が、 「まいった」と叫んだ。「到底我が輩はかなわぬ。ところで、貴公の流儀は何というものか。剣は知らなくても、剣の極意を得ている」この土佐の武士は、剣術を知らないから弱い。弱いから勝とうとはしない。気が楽になっている。斬ってきたら斬り下げようと、それだけを考えているばかりである。倉田氏は、神経質は気が弱いくせに、完全欲が強い。神経質は諦めるところにその生活戦術がある。たとえ失敗しても構わないという覚悟を持つことが、神経質者の戦術の強みが出てくる元で、是非がないと諦めれば、そこに非常な力が出てくる。(森田正馬全集第5巻 白揚社 724ページより引用 )玉野井幹雄さんも、神経症を治すには、治そうとすることを諦めることが大切だと言われる。そのことを玉野井さんは、 「地獄に家を建てて住む」ということを言われている。そういう心境に至って初めて神経症は治ると言われている。これは森田先生の言葉では、退路を断つという事だと思う。退路が1つでも残されていると諦めることができない。その段階では、治すためにいろいろと手を尽くす。ところが治すための方策は、治るどころかどんどんと増悪していく。それは坂道を転がる雪だるまのようなものになる。諦めるためには、いろんな手を尽くしてもどうにもならなかったという体験が必要になる。いったんは絶望感を味わうことが有効になる。そして、最終的に症状と格闘することから注意や意識が離れていくとしめたものだ。森田先生は、親からの仕送りがなくなり、脚気や神経衰弱、不安神経症などの病気を治すことを諦められた。病気を治すことに集中していたそのエネルギーを、本来取り組むべき勉学のほうに向けられた。すると、不思議なことに、今まで自分を苦しめていた病気が雲散霧消したと言っておられる。ここから神経症治療としての、森田療法を思いついたといっておられる。神経症治すには、ここが肝心なところだ。自分の体験としてコツをつかんでいくことが大切である。
2017.05.12
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森田先生には有名なエピソードがある。森田先生が学生の頃、動悸や頭痛などの症状のため、勉強が手につかない状態になった。あれこれ治療を受けてみたが、ひどくなる一方だった。それに追い打ちをかけるように、試験を前にして、親からの仕送りが止まってしまった。森田先生は、悲嘆と無力感に打ちのめされる。このままでは死ぬしかないとまで思いつめた。その時森田先生は、もうどうせ死ぬのだから、動悸や頭痛を放置して治すことをやめてしまった。そのかわりに、今まで手をつけなかった勉強に無我夢中で取り組んだ。そして試験で好成績を収めることができた。あとで気がつくと、あれほど自分を苦しめていた症状が消えてなくなっていたのである。治そうとしている間は悪くなるばかりだったのに、死んだ気になって、試験勉強に注意を集中しているうちに、症状のことなどすっかり忘れてしまったばかりか、症状が治ってしまったのだ。これと同じような経験を精神医学の世界的大家と言われているカール・ユングも経験している。ユングは12歳の時、他の生徒につき飛ばされた拍子に、 歩道の縁石で頭打ち意識を失った。それ以外、意識を失っては倒れるという発作を繰り返すようになった。特筆すべきことは、発作が起きるときは必ず面倒な課題を課せられた時だった。ユングの病状を診察した医師たちは、てんかん発作かもしれないといい、もしそうだとすると完治する見込みはないといった。両親は悲観し、息子の行く末を案じた。学校を休み始めて半年ほど経ったある日、父親が訪問客に心中を打ち明けるのを耳にした。「もし医者が診断するようなてんかんなら、あの子はもう自活することができないだろう」ユングは父親のその言葉を聞いたとき、自分の未来はこのままでは閉ざされてしまうかもしれないという危機感を抱いた。ユングは自伝に次のように書いている。「私は雷にでも打たれたかのようだった。これこそ現実との衝突であった」 「ああ、そうか。頑張らなくちゃならないんだ」という考えが頭の中を駆けぬけたそれ以後、ラテン語の教科書を取り出し、人が変わったように身を入れて勉強をし始めた。すると10分後失神発作があった。もう少しで椅子から落ちるところだった。だが、何分もたたないうちに再び気分がよくなったので勉強を続けた。およそ15分もすると2度目の失神発作が来た。そのままにしておくと最初の発作と同じく通り過ぎていった。そして半時間後3度目の発作が来た。それにも屈服せず、もう半時間勉強した。そういう経験をしているうちに発作が克服されたということを実感した。そのうちもう発作が起こらなくなった。急にこれまでの何ヶ月にも増して気分が良いのを感じた。事実、発作はもう二度と繰り返されなかった。数週間後、再び登校するようになった。それ以降、学校でも発作に襲われる事はなくなった。魔法はすっかり解けた。(回避性愛着障害 岡田尊司 光文社新書 194ページより引用)つまり森田先生もユングも症状に過度の意識や注意を向けることによって、病状をますます悪化させていたのだ。これは慢性疼痛で苦しんでいる人たちからもよく聞く話である。これから回復するためには、症状には手をつけないで、目の前のなすべき課題や目標に真剣に取り組んでいくことである。
2017.05.07
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Amazonで「森田療法ビデオ全集」のDVDが発売されている。第1巻は「生きる」第2巻は「常磐台神経科」第3巻は「生活の発見会 セルフヘルプ・グループでの回復」第4巻は「悩める人への生きるヒント」私は早速買い求めて視聴してみた。これは少し高価なので何人かで共同で購入されたら良いと思う。内容はとても優れていた。身近な人が何人も登場されていた。第1巻の中で精神科医の故藤田千尋医師の「神経症が治る」という話があった。神経症はある日突然よくなると言う事はあまりない。ない事はないが、それは稀である。また、そのような治り方は不自然であると言われています。普通の生活ができるようになって、なんで今まであんなことにくよくよ悩んでいたのか、と思えるようになったときが神経症が治ったということですといわれています。ところが藤田医師が治ったと思えるような人が、いつまでたっても神経症が治らないという。その方に、入院前と退院後の今の生活に違いがありますかと聞いてみると、多少動けるようになりましたという。それはとても大事なことです。しかし、当の本人はそのことを必ずしも評価していないのです。もっともっと別の治り方を求めている。小さなことを気に病むと言うような性格傾向を改善したいと思っているのである。でもそれは無理なんですね。そういう性格傾向はありますが、それは仕方がないことなのです。今の自分の出来ることができるようになって、それを生活に適応できるようになればそれでよい。自分の出来ることができるようになって、それを延長して生活できるようになればそれでいいんですね。それが分かってくる人もいる。そういう風に理解してもらいたいのです。私も神経症が治るという事はそういう事だと思います。不安や恐怖が全く起こらない状態が、神経症が治ったと言う風に考えていると、いつまでたっても神経症を治すことはできません。目指す方向が全く違うからです。今まで症状のために行動を控えていた人は、神経症が回復するにつれて、どんどん行動や実践が活発になってきます。神経症が治るということは、不安や恐怖の場面に遭遇した時、それらを打ち消そうとやり繰りをすることをしなくなることです。また、その苦しみから逃避していた状態から一歩踏みとどまることができるということです。不安や恐怖を抱えたまま、前に進むことができるように変化していくのです。これを別の視点から見ると、神経症から回復した時点では、不安や恐怖を体験する場面は格段に増加してきます。神経症が治った人は、そういった状況の中でも、不安や恐怖を抱えたまま、注意や意識を生活のほうに向けて、体や心を外向きに使っていくことができるようになる。しかし、不安や恐怖を抱えたままというのは、神経症に陥っているときはなかなかできることではありません。それを入院森田療法や森田理論学習によって、そのコツを体得していくのです。頭でわかっただけではだめです。そして藤田先生が言われるように、日常生活の中で、自分の出来る事ができるようになって、それをふくらませていくことができるようになった時が、一段階目の神経症を克服したといえるのではないでしょうか。ただ、私の感想から言えば、そういう治り方をした時点で、もう少し踏み込んで森田理論の学習をしていただきたい。それはこのDVDでも紹介されていましたが、神経症に陥る原因の1つとして、 「かくあるべし」という完全主義的な思考方法を取りやすいという面があります。日常生活の中で生活に潤いと張り合いが出てきても、 「かくあるべし」があると社会に適応することは難しい。生きづらさというものは依然として残ることになります。 「かくあるべし」を少なくして、事実や現状を受け入れたり、自然に服従するという生活態度を身につけるということが、次の課題になってきます。神経症に陥った人にとって、生活を立て直すということと、 「かくあるべし」を少なくしていくということは、車の両輪のようなものだと思います。この2つがあいまって神経症の克服は初めて成功するものだと思います。それと同時に、人生について深い洞察力が身に付きますので、その後の人生は前途洋々たるものに変わってきます。神経症が治るということは、多くの森田療法家が様々な切り口から説明されていますが、この2つは避けては通れないものだと考えています。
2017.03.20
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神山五郎さんの話です。口蓋裂といって、先天的に口の奥の天井部に裂け目があるために、息が鼻に抜けてしまい、発音がうまくできないという障害があります。特にナ行の「なにぬねの」を発音しにくいのが特徴です。口蓋裂は命にかかわる病気ではなく、手術をして2カ月ほど発音訓練をすれば普通に話せるようになります。ある20代の女性が口蓋裂の手術をしました。発音訓練も無事に終わり職場に復帰しました。そこで新たな問題が発生しました。それまでは、うまく発音できなかったので、職場では電話に出ないですむ仕事をしていたのです。ところが普通にしゃべれるようになったものですから、電話にも出るような仕事に変えられたのです。彼女はそうした経験が今までなかったので、どう話してよいのか分からないのです。それがストレスとなり、精神的に追い詰められ、職場恐怖になってしまいました。困った挙句神山さんのクリニックを尋ねてきたのです。神山さんは次のようにいっています。彼女にとって普通にすらすら話せるというのは、極めて不自然な状態です。そうした状態を無理に変えようとすると、精神的に不安定になります。症状というのは嫌なものです。だから症状をとろうとするのです。ところが症状がない理想的な状態になると、もっと解決の困難な問題が突きつけられるということです。これは神経症の人にも言えます。吃音恐怖の人が、この症状さえ治せば、人前に出て物おじすることなく、堂々と話が出るはずだと考えられます。そのために矯正訓練所などに通って必死に努力されたりされます。時間とお金をつぎ込んでもなかなかよくはならないといいます。それよりもドモリながらも一生懸命に話している姿を見て、なんとか応援してあげたと思っている人もいるのです。そちらの努力の方がはるかに意味があるということではないでしょうか。
2016.12.25
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岩田真理さんは、森田理論学習を長年続けてきた人の中に、治り過ぎに見える人がおられるといわれている。どこか尊大な態度で、自己主張が強い人である。炊きあがったご飯に芯があるような人である。おじやにして再調理をしないと食べられるようなものではないのだ。そういう人が自信満々でとうとうと森田理論の説明をされる。相手の話を聞くよりも、アドバイスを前面に出される。批判、指示が中心となる。励ます、評価するという視点はほとんど持ち合わせていない。どちらかというと、相手の力になろうとするよりも、自分の偉大さを鼓舞しようとされているように見える。それだけならがまんして時間が通り過ぎるのを待てばよい。しかしながらそういう人は、相手が自分の考えている「かくあるべし」と違うと相手の攻撃をはじめられる。どうして相手がそのように考えているのか理解しようとする気持ちは全くない。あからさまに暴力を振るわれることはないが、言葉の暴力である。それも徹底的に排除しようとされる。不安や不快感を払拭されようとするのだ。そのエネルギーだけには感服する。自分の言葉に刺激されてどんどんエスカレートしていく。そういう人は「症状はあるがままに受け入れてなすべきをなす」ことで神経症を乗り越えたという成功体験を持っておられる人が多いようにお見受けする。自分の成功体験を参考にして、みんなが森田療法に取り組めばきっとあなたはよくなるはずだと思っておられるのだ。それはあまりにも一面的な見方だ。そういう人は、「かくあるべし」を少なくして、事実を受け入れて、事実に服従していくという学習がきわめて脆弱である。そういう人に試しに思想の矛盾の乗り越え方、是非善悪の価値判断の功罪の話を聞いてみるとよい。きっとまともな回答を得られないと思う。理解して体得しておられれば、相手からどんなに不快な気持ちにさせられても、攻撃する前に、その事実を受けいれているはずだ。相手を不快にさせることは最初からないのである。でもそういう方も一応は神経症を克服した人である。その時点で社会適応でき、生活の悪循環が断ち切られたのであれば、それはそれで結構なことである。しかしこれは森田理論学習ではそれは初期の治り方である。森田先生の言われているように、小学校卒業程度ある。この後中学、大学卒業程度の治り方がある。森田先生の言われる中学、大学卒業程度の治り方をしている人は、人を蹴落としたりしなくなる。自分の主義や主張を押し付けることはなくなると思う。それは「かくあるべし」が少なくなり、思想の矛盾が止揚されているからである。また自分の価値観で人を裁くことはなくなる。是非善悪の価値評価とは無縁な生活ができるようになるからだ。治り過ぎて、どこか尊大な態度で、自己主張が強い人はそういう学習の深め方をしておられないので自覚が足りないのだと思う。とても残念なことだ。本来そういう治り過ぎ、半治りの人で満足している人は、一歩下がって静観するというスタンスでいてほしいものである。どうしても口を挟みたい時は、まず相手の話を先入観や決めつけを持たずによく聞いてみることに専念する。相手のことをよく分かるための努力をする。そのためには相手の話したことに、事実と感情の繰り返し話法を使って対応する。非難や指示を止めて、相手の良いところや長所を見つけてほめる、励ますことを心掛ける。アドバイスは相手が聞いてきたときだけにする。情報を幅広く集めて、情報を伝えるという気持ちを持つことが大切だと思う。(「流れと動きの森田療法」岩田真理 白揚社 参照)
2016.12.23
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宇野千代さんが、「幸福を知る才能」(海竜社)という本にこんな話を紹介されている。九州に住んでいるある男が、強度の神経痛にかかった。福岡の大学病院に入院した。豪農の息子で金に糸目をつけず、あちこちに手を出したが治らない。そのうち京都の大学病院に入院したが治らない。最後の望みを託して東大病院に入院した。しかしここでも治らなかった。絶望の末に、ある街に住む高名な漢方医を紹介されて、その診察を受けた。丁寧に診察したその医者は言った。「あなたのこの病気は、あなたにとって死病です。多分、あなたはこの病気で死ぬでしょう。しかし、ただ一つ、これは試しにやってみるのですが、この薬を飲んでみてください。昼と夜と2回これを飲んで、もし万一効き目があったら、明日の朝は真っ黒な便が出る。もしそうなればあなたは助かるが、しかし、多分、この薬も効き目はないと思うが・・・」と言って、一包みの粉薬を渡した。その男は顔面蒼白になって、もう死んだようになってその医師のもとを立ち去った。ところが、その翌朝あわただしくその男が駆け込んできた。「先生、私は助かりました。真っ黒な便が出ました」「出たか。そうか。助かったのか」と医者もともに手をとって喜んだ。その男はそのまま九州に帰ったが、先生にいただいた薬のおかげで、難病の神経痛がけろっと治った、というお礼の手紙が来た。その薬というのは、飲むと腹の中でなんとかというものと化合して、真っ黒な便が出るものと決まっている。そういう薬であった。いまでいうプラセボ効果(プラシーボ効果)満点の薬だったのだ。薬効として効く成分のない薬(偽薬)を投与したにもかかわらず、見事に神経痛が治癒したのが面白い。これは原因不明の慢性疾患で長らく治療を続けている人にも参考になる話だと思う。からくりが神経症の発症と治癒によく似ているからである。つまりこの病気は確かに痛みがあるが、器質的な疾患に加えて精神交互作用によって増悪の一途をたどっていたのである。必要以上に自分自身の気の持ちようで増悪させていたのだ。普通の医者は症状をこまごまと訴える患者が来れば原因を類推して治療に取り組む。ときとして、こういう医師は慢性疾患を治しきらない。この漢方医はある意味で神経症の患者も治せる可能性がある医師である。この医者は今までの経過から精神的なからくりから病気が増悪していると踏んだのだ。精神的な気の持ちようが病気の最大の原因なのである。この場合治るという希望を持っている限りいつまでたっても治らない。万策尽きて一生治らないとあきらめたときに初めて扉が開ける。以前玉野井幹雄さんという方が、治すことをやめて、地獄に家を建てて住むという覚悟を決めたときにはじめて神経症の苦悩から逃れることができたと言われていた。つまり症状と格闘することに精魂つきるということが神経症の克服には福音となるのである。普通はますます絶望的になって自暴自棄になってしまいそうだ。そこのところで症状と闘うのをやめて、治すことをあきらめることが肝心なのである。その状態は痛さ、苦しみを持ちこたえる。共存しながら仕方なく目の前のなすべきことに目を向けていくことだろう。この神経痛の人は偽薬で治ったと勘違いして、神経痛と闘うことをやめてしまった。それが心機一転のきっかけになっている。そして治すことに精力を使うことから、そのエネルギーを仕事や生活面に転換していったということに興味がつきない。
2016.12.12
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神経症で苦しんでいる時は不安や恐怖を絞り込んで格闘しているように思う。私も対人恐怖症で苦しんでいた時はまさにその通りであった。人間関係のこと、他人が自分をどう取り扱ったかということばかりに神経を使っていた。エネルギーをそのこと一点に集中して、不安や恐怖を解消するために奮闘していた。エネルギーを集中すれば、効率が上がるに違いないと思っていた。それ以外のことは無視していた。というよりも、それ以外のことが頭の中に入るスペースがなかったのである。集中して問題解消のために取り組んでいるので、素晴らしい成果をあげる予定であったが、思惑は全く外れてしまった。対人恐怖症はどんどん増悪し、神経症に陥っていった。また仕事や家事などに手をつけることができなくなり、生活上の悪循環が常態化してきた。今考えると、不安や恐怖の対象を一つに絞って対応するというのは問題だと思う。また大きな不安や恐怖を先に片づけてしまおうという考え方は完全な間違いだったと思う。学生時代を思い出してみてほしい。数学や物理のテストの時、難しい問題から取り組んでいったであろうか。問題をざっと見渡して、やさしそうな問題か難しいそうな問題かを大まかに区分して、点を取りやすい問題から取り組んでいなかっただろうか。これがセオリーである。セオリーを無視して自分勝手なやり方は問題を起こす。やさしい問題はいつでもできる。それよりは難しい問題のほうにチャレンジしてみるのがおもしろそうだ。そう思ったとすれば、きっとよい点数は取れなかったであろう。やさしい問題に手をつけないで、難しい問題も解けないとすれば落第する危険性すら出てくる。やさしい問題を先に片づけて、最後の残された時間で難しい問題に取り掛かるというのが順序というものだ。神経症で苦しんでいる人は、こういう誰でもわかるような間違いを犯しているのではないか。肝心なことは、不安は基本的には1つに絞って解決しようとしてはならないのだと思う。小さい不安や恐怖をいくつも抱えて、その時、その場で臨機応変に対応して生活しているのが普通の状態である。本来不安や恐怖、違和感、不快感はたえず湧き起ってくる。それらは鴨長明の方丈記の水の流れのように浮かんでは消え、消えては発生している。その時、その場で対応して、速やかに流し去っていれば、取り立てて問題は起きない。それが城のお堀にたまった水のようになると、途端に雑菌などが繁殖し、藻などが発生して汚く濁ってしまう。不安や恐怖などというものは、もともとその場で一つ一つ片をつけてから、次の問題に取り組んでいくというような単純なものではない。解決しようと思っても、自分には解決できるだけの能力がない。障害が大きくて一人ではできない。人の協力がないとできない。今の時期では無理だ。今は静観しておいた方がよい。解決のための周到な準備が必要だ。まず解決のための資金を用意する必要がある。等といった障害があるのが普通である。この考えを生活に活かしていくためには、いくつもの不安をきちんと書きだして整理をしておく。その中でも手をつけていくものと手を出してはいけないものを区分けする。手をつけていくべきものはやさしいものからどんどんと手を出して消化していく。手を出してはいけないものは森田理論学習で学んできたとおりである。それらは受け入れて、自然に服従していくという基本姿勢を堅持していくことである。
2016.12.06
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以前森田の学習会で「恐怖突入」ということが言われていた。恐怖突入とは自分が不安に感じていることに思い切って手を出してみることである。行動してみると思い悩んでいたことが、実はそれほどでもなかったということが分かるという。それはそうかもしれないが、現実問題として、神経症でのたうち回っている人ができることなのだろうか。私の体験からして無理だと思う。私は対人恐怖で、訪問営業の仕事ができなくなってしまった。それをつらいだろうが我慢して仕事をしなさいと、何回アドバイスされてもなんの効果もなかった。胃腸神経症の人が物を食べられなくなった。そしてガリガリに痩せてきた。その人は食べなければ死んでしまうことは分かり過ぎるほど分かっているのだ。それでも食べることができないのだ。乗り物恐怖の人も特急電車にのらないと会社に遅れてしまうことは十分に分かっている。それでも予期不安があって乗れないのだ。だからそういう人に「恐怖突入」を勧めることは一害あって一利なしだと思う。認知行動療法のエクスポージャ(曝露療法)は、不安階層表に基づいて徐々に不安に慣れさせて不安を取り去る療法だという。「恐怖突入」と同じ手法である。では「恐怖突入」以外に神経症を治す方法はあるのか。私はあると思っている。それは、外堀を埋める。急がば回れ。兵糧攻めの方法である。神経症に陥っている人の特徴は、気になる一点に神経を集中させて、精神交互作用で蟻地獄に落ちてもがいている人である。もがけばもがくほど深みにはまっていく。症状がきつい時は自力で立ち直ることが大変難しくなっている。そういう人は一旦症状との格闘を止めてみることをお勧めしたい。今まで症状と格闘してうまくいかなかったのだから、いったん棚上げにしましょうということなのだ。それでもふとした瞬間に症状のことがぶり返してしまうでしょう。「ちょっと待て」という気持ちで不安と正面から戦うことを放棄してしまうのだ。私の場合でいえば、仕事に行けない自分をなんとか我慢して仕事に行くように叱咤激励はしない。さぼりまくっている自分を非難しない。そうせざるを得ない何らかの事情があるに違いないと考えているのだ。でもなんとか食いつないでいかないと困る。会社には悪いが、クビにならない程度の仕事ぶりで食いつないでいくことを考えるのだ。それは森田理論学習でいうと気分本位の行動だといわれるかもしれない。気分本位でもいいではないか。一種の開き直りである。今まで何年間も、何十年間も対人恐怖で苦しんできて、思いつく限りの改善の手は打ってきたのだ。それらがことごとくはね返されてきた。うまくいかなかったのだ。これ以上どんな手段を講じても同じ結果に陥るのではないか。だから今の時点では、症状との格闘に対してはやむを得ず白旗をあげた。休戦宣言をしたのだった。そこにつぎ込んでいたエネルギーを別のところに振り向けていくことを考えついた。幸いエネルギーは枯渇していないのだ。もっと別のところで活かしてみることを考えるのだ。肝心なことは、症状のために安易に会社を辞めるなどといった重大な結論を出さないことだ。自分は月給鳥という鳥になって、とりあえず生活費を稼いでくることだけを注意することだ。そしてこれからやってみたいことを思いつく限り書き出してみた。私の場合、トライアスロンに挑戦してみたい。スキー、テニス、黒鯛釣りを思う存分やってみたい。模型ヘリコプターの操縦を習いたい。スポーツジムに通ってみたい。数々の資格試験に挑戦してみたい。アルトサックスを習いたい。森田理論学習を深耕したい。一人一芸に取り組みたい。第九の歓喜の大合唱を経験してみたい。等があった。仕事はそこそこにして、これらに片っぱしから取り組んでみた。今振り返ってみると、対人恐怖症の克服に正面切って取り組むよりも充実した生活を送ることができたと思う。そして対人恐怖がありながら定年近くまで勤めることができた。定年を迎えて思ったことは、対人恐怖の人の思惑が気になるというのは確かに苦しかった。でも定年してみると会社を辞めずに勤め上げたことの方がもっと重要なことだった。過度の対人緊張は私の個性のようなものだったのだ。それを変えようとしないで、自分のやりたいことに注意を向けて、気持ち的には仕事の比重を下げていったことが、結果的にはよかったのではないかと思う。これは私の場合であって、人それぞれの向き合い方があるだろう。肝心なことは症状の回復のために正攻法で取り組んでいくと、成果が上がるどころか、ますます窮地に追い込まれるということだ。
2016.11.19
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確認などの強迫行為をする人は五感が信じられなくなるという。普通の人は玄関の戸締りをするとき、目で見る、音を聞く、ドアに触れることでドアが閉まったことを確信する。気になる人は2、3回ノブを回してみる。ますます閉まっていることを確信する。他に考え事をしている時、しばらく経ってさっきドアを閉めたかなと気になることがある。引き返して確認する。これらは見る、聞く、触れるという五感の一部を活用して安心を得ているのである。強迫行為を繰り返す人は、五感が信じられない。いくらドアを閉めても不安になる。そのうちドアが閉まったかどうかではなく、不快感と格闘するようになる。その時脳の中はどうなっているのか。理性や思考を司る前頭前野が盛んに活動しているのだろう。前頭前野は理性的、創造的な思考をして今後の方向性を決めるなどの役割を持っている。ああでもないこうでもないと、今までの学習、経験、社会常識などをもとにして試行錯誤して結論を導き出そうとしている。ここではある考えが起きてくると、それを打ち消す反対の考えも同時に起きてくる。これは人間が進化する過程で標準装備されてきたものだ。これがないとあまりにも考えが一方向に偏ってしまい、取り返しのつかない失敗やミスが多くなってくる。多面的に考察してよりよい方向性を見つけ出そうとしているのが前頭前野の役割である。本来鍵が閉まったかどうかは五感で判断して無意識の行動となる。箸を使ってお茶漬けを上手に食べる。事故を起こさずに自動車を運転して事故もなく目的地に着く。これらは最初は意識していたかもしれない。でもいったん習得してしまうと、脳の中で無意識的命令回路を通ることになる。前頭前野の回路を通すことはなくなる。ここで意識化が起きるとかえって行動はスムーズに進まなくなる。ぎこちなくなる。確認行為が前頭前野に入ると、思考や検索を始める。「閉まったか」「閉まっていないか」とせめぎ合いを始める。それが精神交互作用でどんどんと増悪していくのである。私はアルトサックスを吹いている。最初はじめて楽譜をもらった時は前頭前野が盛んに活動している。一つ一つ音符を見て恐る恐る指を動かしている。それを何回も繰り返しているとしだいに音楽らしくなってくる。人に聞いてもらう。テープなどに吹き込んでみる。少し違和感のあるところがある。それを修正してしだいに曲らしくなっていく。もう少し進むと譜面を見なくても、何も考えなくても指が自動的に動いてくれるようになる。前頭前野が働きを止めて、無意識の行動回路が音楽を奏でているのである。そこまで行くには練習を積み重ねる必要がある。120%の練習をする必要がある。そうしないと本番で前頭前野に邪魔をされて演奏はめちゃくちゃになる。前頭前野はいつも自分の出番をうかがっている。隙あればすぐにおせっかいを出そうとするものなのだ。だから本番前や本番中におせっかいな前頭前野がししゃり出てこないようにすることも必要になる。特に本番前はプレッシャに押しつぶされそうになる。そういう時はイチロー選手や羽生結弦選手のルーティーンを参考にするとよい。彼らを見ていると本番前はいつも同じ時間に同じような行動をとっている。私には無意識的に前頭前野の働かない状況を作り出しているように見える。もちろん無になろうとしてするルーティーンはかえって前頭前野の働きを引き出してしまう。ここが難かしいところだ。120%の練習で成功率100%に高めて、本番では前頭前野の働きを抑えて、いかに無意識的な動きができるかどうかにかかっている。そんなことでもし間違えたらどうという不安があるかもしれないが、実際間違えないで演奏できているときは、前頭前野の出番は全くないのである。確認行為で苦しい人は、こうしたからくりをよく知っておくことが肝心であると思う。楽器演奏に取り組むことで、そのことを体得することが症状の克服につながるのではないかと思う。前頭前野の働きを弱めて、無意識に体が動いていき、しかも間違いがないという体験を積み重ねていくことが大切であると考える。ご自分でもいろいろと研究してみてもらいたい。
2016.11.18
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森田理論は決して難しい理論ではありません。森田理論が神経症で悩んでいる人たちに是非とも分かってほしいことは2点だけです。1番目は、「生の欲望の発揮」に邁進する生活態度を身につけてほしいこと。2番目には、原則として「事実・現実・現状」を受け入れて生活する態度を身につけてほしいこと。以上です。実にシンプルな理論だと思いませんか。森田理論学習では、この2点を、手を変え、品を変えて説明しているだけなのです。でもいろんな人から説明を聞いているうちに、骨太の大目標は片隅に追いやられて、枝葉末梢の理論の学習に終始しているような状態ではないでしょうか。もう少し説明してみましょう。1を身につけるためには、まず「不安と欲望の関係」について、徹底的に理解する必要があります。その中でも不安は欲望がある限り必ず発生するものであり、取り除くことはできない。という考え方はしっかりと頭の中に入れてほしいと思います。欲望と不安の関係は、車のアクセルとブレーキの関係にあたります。森田理論では、欲望と不安はバランスがとれていることが重要になります。人間の本来の生き方としては、「生の欲望」を前面に出して、その次に、欲望が暴走しないように不安等を活用すればよいのです。ところが神経症に陥っている人は、「生の欲望の発揮」が忘れ去られて、不安をなくすることばかりに注意を集中しています。そのことを手段の自己目的化に陥っている状態と見なしています。その結果神経症に陥り、生活に支障をきたし、生きていくことがつらくなっているのです。森田理論は、不安は自然現象であり、人間の意思の自由はない。だから不快な嫌な感じは治らない。治してはいけない。直さなくてもよいと教えてくれています。次に「生の欲望の発揮」は、いろいろあります。その中でもまずは、日常茶飯事、雑事の徹底、規則正しい生活を基本にして取り組んでいくことが最も大切だと思います。「ものそのものになりきる」「物の性を尽くす」「一人一芸」などもあります。そして最終的には、不安を抱えたまま、生の欲望にのって一歩ずつ前進を続けることです。2番目について説明します。神経症で苦しんでいる人は、現状・現実・事実を受け入れることができない人です。「かくあるべし」という理想主義的な考え方をして、現状・現実・事実を痛烈に批判、否定、拒否している人です。「こうでなくてはならない」「こうであってはならない」という視点に自分を置いてから発想しています。自分が雲の上のほうにいて、地上でアップアップしながら生活している自分や他人を批判、否定、拒否しているのです。自然にわき起こってくる不安、恐怖、違和感、不快感なども目の敵にしているのです。その状態は、自分の頭で考えていることと、現状、現実、事実とが大きく乖離しているのです。そして神経症で苦しんでいる人は、いつも観念の世界の味方をしているのです。現状、現実、事実の世界の側にいる人は責められて苦しいばかりです。これが自分という一人の人間の中で行われていることが大問題なのです。森田理論では「かくあるべし」と現実の解離に苦しむことを「思想の矛盾」で苦しむといいます。この不安との格闘はとても深刻なものとなります。これを解決するためには、観念の世界に住んでいる人が、すっと事実の世界に降りてくると楽になります。森田理論では、その解決方法として、自分の立ち位置を雲の上の観念の世界ではなく、現状、現実、事実の世界に変更してゆきましょうと声を大にして言っているのです。そのためにはどんなことが必要なのか。事実を決めつけや先入観で見ることなくよく観察して正確につかむ。事実は抽象的ではなく具体的赤裸々に話す。事実は一面的ではなく多面的に見られるようにする。森田では両面観といっています。「かくあるべし」を少しずつ減らしていく。そして、「純な心」「私メッセージ」を生活の中に取り入れていく。事実だけを見つめて、安易に是非善悪の価値判断を持ち込まないようにする。そしてすべてのものを自分の思い通りにコントロールしようとしないこと。森田療法の目標は症状を治すことにありますが、森田理論学習の目標は以上の2点にあるということをしっかりと認識したいものです。
2016.07.08
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鈴木知準先生は大正12年、14歳(静岡県立掛川中学2年)の2学期の頃から、不眠症と胃部不快感、頭内朦朧感にとらわれるようになった。N大学病院の精神科、胃腸科にかかっていたが一向によくならなかった。自宅では土蔵の2階に居室を作って起居することとなった。土蔵に入ったら外の物音は聞こえなくなったが、持っていた懐中時計の音が耳について苦しくてどうにもならず、その時計を夜半火鉢にぶっつけて壊してしまったこともあった。この頃から毎夜のように遺精するようになって、頭内朦朧感はさらに強くなった。それでも朝は早く起きて、机にしがみついて勉強しようとすると、肩がはり、首がこり、腰がいたくなって、すぐにひっくりかえって寝たくなり、頭はますますぼんやりして勉強はできなかった。しかし何回となく勉強しようと机にしがみついて努力していた。不眠恐怖はますますひどくなり、大正14年秋頃は夕方になると落ち着かなくなって来て、布団を見るのも恐ろしくなった。昭和2年3月13日、17歳の時、森田先生の診察を受け、登校拒否の意志薄弱性精神病質と診断されいったんは入院拒否された。そこをぜひにと野村章恒先生に依頼し、森田先生はしぶしぶ入院を許したという。早速臥褥に入った。これが大きな転機になったといわれている。過去3年余の不眠恐怖、胃部不快感、頭内朦朧感はどうでもよいという気になった。自由な心の態度に飛躍していたのだ。それは神経症になる前に、勉強仲間だった2人の友人が、4年卒業で旧制高校に進学していった衝撃も関係していた。臥褥後庭での落ち葉拾い、枯枝とり等の軽い作業を始めた。森田先生からは疲れたら縁側で横向きに転がることと言われた。背中をつけると気がゆるむのでしてはいけないと言われた。家族との遮断の環境で、目の前の必要事にすっと入っていく、動きの徹底的生活で私は修練された。土釜で紙屑でのご飯炊き、森田先生にうちこまれ通しの、先生のつや布巾かけ等思い出に残る。先生にうちこまれるので、嫌なことにすっと入り切ることが容易にできる。これが、神経質の不安症状になり切る態度の基礎経験である。この嫌なことに入り切ることで、不安は不安だけでそれだけの自由な心になっていく。森田先生の所でこのように、目前の作業の中に入り込み、自分の部屋で一服することもなく動き回っていた。退院したら、今度は入試試験準備のために、夢中になって勉強に入っていった。その後1日12、3時間の勉強を続け、昭和3年には旧制浦和高校、その後東大医学部に合格した。森田先生の入院治療を終えた後のことを振り返って次のような心の変化を述べておられる。私は5月7日に退院し親戚の家に1泊した。ちょうど近くの欅の新緑の若葉がでかけていた。私は寝ながらそれを見て、なんと美しいことかと全く感嘆したのである。黒い枝と新緑の若葉が、ぴたりと目に焼きついたのである。その翌日東海道を8時間の列車の旅をした。保土ヶ谷、戸塚、大船付近の景色、箱根付近の山北、御殿場の山間の景色、緑の若葉、紅の蓮華草、麦の穂、その景にぴたっと焦点があって、私には全く見たこともない美しさであった。私は全くの驚きの心で自分の変化を感じたのであった。60日の入院生活の前と後ろが、全く異なった明暗の世界であることが、ありありと思い起こされるのである。心の転機によってかくも変化するものかを私は知ったのである。不安を相手に格闘するのではなく、目の前のなすべきことにすっと入りこみ、ものそのものになり切っていく癖を身につけることが森田先生の入院療法の眼目だったのである。(神経症はこんな風に全治する 鈴木知準 誠信書房 37ページより引用)
2016.06.27
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私たちの頭の中の容量を仮に100%としよう。神経症に陥って葛藤や苦悩で苦しんでいる時は80%から90%は症状と格闘している状態である。つまり注意や意識は自己内省的に片寄っている。本来こなさなければならない仕事、勉強、家事、育児は放棄されている。観念上の悪循環が行動上の悪循環を呼びこんでいる状態である。これは雪道でタイヤがスリップして空回りしている状態に似ている。アクセルを吹かして前進しようとすればするほど、空回りして、車体は勝手に左右に振られる。これが仮に坂道で起きたとすれば、生きた心地はしない。事実事故につながる可能性が高い。動揺してやることなすことがすべて裏目に出てくる。神経症から回復するということは、その比率を下げてくるということが必要になる。70%、60%、50%と下げていくのである。50%ぐらいに下がってくると、不安を抱えたまま、仕事、勉強、家事、育児などがこなせるようになる。20%ぐらいに下がって、考えることなすことが外向きになり、物事本位の生活ができるようになる。その時点では神経症的な悩みは霧散霧消している。問題はどうしたら比率を下げることができるかということである。入院森田療法を行っておられた鈴木知準先生は次のように説明されている。森田療法では、相当期間その不安、苦しみを持ったままの絶対臥褥と、その遮断の環境で、同じ症状を持った人たちと、目の前の必要なことに、すっと入る動きを通して、その態度の基礎を打ち出そうとする。普通一般にいわれているような「あるがまま」という概念を、知的に解釈させるだけでは、安定した、自由な心の態度を展開させることはほとんど不可能である。この点が森田療法の実際において、最も大切な重点と思われる。この点が十分でないので、神経症の治療がうまくいかないのである。我々は外来で2、3年にわたって、2週間に1回ぐらい、30分ぐらい面接し、言葉による治療をする。患者は言葉を皆おぼえてしまう。特に「あるがまま」などの言葉を口癖のようにいう患者は多いけれど、心の自由になる展開はきわめて少ない。このことは注目しなければならない事実である。しかし外来面接の医師の努力は相当なものである。しかし、そのような患者でも3ヵ月くらいの遮断の環境の治療をすると、その全治の基礎の出来ていくことがきわめて多い。このようなことを多数我々は経験している。同じ不安と症状をもった人達との、遮断の環境での、臥褥療法と作業期の動きの入院生活では、現在になりきる心の態度が、展開しやすいことは確かである。このことは神経質の人達にはっきりしている。この遮断環境での治療は、森田先生の傑作と思われる。我々は過去30年のあまりの神経質の人たちの治療の経験から、誤りないものと考えている。ちなみに鈴木先生の病院では、追体験の入院を勧めておられた。これは50日以上入院した人達に1カ月に一回、土、日曜日に入院させて、以前の入院で体験した生活態度を崩さないようにするためのものだった。このようにして治療を進めると、1年目の全治者は20%未満であるが、4年目ぐらいから平均すると50%から70%に跳ね上がる。5年目以降の全治者の割合はとても高くなる。この事実をどうとらえるのか。現在は原法にのっとった入院森田療法は皆無のような状態である。一方森田理論は当時とは考えられないぐらいに理論化されてきた。しかし、それを学んで観念的に理解しただけでは不十分であるということだ。森田療法は自分の身体で体得していくことが不可欠ということだ。不安を抱えたまま行動していく態度を身につけること。事実に服従して生の欲望に邁進していく態度を養成していくこと。これなくして森田理論学習を続けることは猫に小判、豚に真珠を与えるようなものである。神経症回復の理論化だけではなく、体得のための理論化も進めていく必要がある。(神経症はこんな風に全治する 鈴木知準 誠信書房参照)
2016.06.26
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北西先生の経験では、神経症は退院後の現実の生活世界で遭遇する危機と乗り越えが、その回復に必須である。そのため、退院後に治療を継続することが、再燃防止、経験の深化のために重要であると考えられるといわれる。鈴木知準先生の入院例914例の追跡調査は興味ある結果を示している。その自己評価の段階として、A段階=通常かつての不安症状を意識することなく活動的な生活をしている。B段階=いくつかの症状は意識されるが、それを不安と感じることなく活動的な生活をしている。C段階=未だ症状を不安と感じるがそれによって障碍されることなく、比較的普通の生活ができる。D段階=不安のため、普通の生活ができない。退院時、C段階66.3%、D段階19.3%だったものが、追跡時(退院後2年以上、平均6.3年)にはA段階16.8%、B段階42.6%、C段階36.7%、D段階3.9%であった。また高度に改善したものA、B段階のうち70%は、退院後2年から3年余りでその状態に達するという。鈴木知準先生のところでは、C段階に達した後は医師との面接治療となる。さらに追体験として、1カ月に1回、週末に作業をし、鈴木先生の講話を聞くことを勧めている。これは森田先生のところで行われていた形外会と同じようなものだ。北西先生の追跡調査では、退院後1年以内はむしろ悪化し、そこでの治療的関係の維持が必須であること。退院後1年目から3年目に多くの例で改善に至ること。人生の試練、変化(進学、就職、結婚など)が治療促進的に働くこと、などが分かったという。このことからも退院後、さまざまな形でクライアントは生き詰まり、そのたびごとに治療を継続し、その乗り越えが回復には重要であることが分かった。外来森田療法では1年から5年ほどかかる場合もまれではないという。(回復の人間学 北西憲二 白揚社 263ページより引用)ここで大切なことを2点言われている。一つには、症状は行きつ、戻りつを繰返してよくなるということだ。決して直線的ではない。そのときに支えとなるサポーターがいるのかどうかはとても重要である。私の体験でも、集談会で先輩の励ましや行動実践をまじかに見た事が大変励みになった。もう一つは、実践、体験の重要性である。我々は森田理論学習をしているが、日常生活での体験はどうしても後回しになる。なかには森田理論には詳しいが、日常生活はほとんど変化がないといえる人もいる。理論と実践はどちらが先になってもよいと思うが、相互にバランスをとっていかないと、神経症からの回復は心もとないようだ。
2016.03.05
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北西憲二先生は次のように述べられています。「森田療法では介入法が常に対になっており、その基本は「理想の自己」や「べき」思考を「削ること」と、「現実の自己」(身体・内的自然)を「ふくらますこと」からなる。それらは一方だけでは成り立たず、常に対である。削る作業がなければふくらます作業も成り立たず、その逆も真で、それらは密接に関係しながらクライアントの変化を引き起こしていく。このダイナミックな関係を見落とすと、外来森田療法の実践が表面的なものになり、形を変えた認知療法、あるいは行動療法にもなってしまう。」(回復の人間学 北西憲二 白揚社 171ページより引用)これを噛み砕いて言うと、私たちは森田理論学習で「生の欲望の発揮」と「事実本位、事実回帰」の2つが、神経症の回復と神経質者の人生観の確立にとってとても大切だと言っている。ところが実際には、神経症に落ち込んだ人に、気になることは横に置いて、「なすべきをなす」に取り組むと神経症からは回復することができるという。これは「生の欲望の発揮」に属することですが、このことだけをことさら重視している。森田理論のほんの入り口だけを問題視してその先に進むことができていないのではないか。進めたとしても、そのレベルが低い。北西先生の治療は「生の欲望の発揮」と「事実本位、事実回帰」の両方面からのアプローチが欠かせないと言われている。神経症からの回復は、あざなえる縄のごとく、この二つを混然一体化して取り組まないと効果がないと言われている。昨日投稿したように、「生の欲望の発揮」と「事実本位、事実回帰」は一口に言うことはできない。それぞれに取り組むべきステップ、課題は多い。それらをきちんと整理して、理論化することが必要である。そしてどのように2つを組み合せて学習していくのか。さらにどのような順序で自分の生活の中に取り入れていくのか、ここら辺りが肝心なところであることは確かである。
2016.02.29
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神経症で苦しんでいる状態。治っていく状態。そして神経症を克服した状態を図にしてみました。神経症で苦しい時は、不安、恐怖、不快感を目の敵にして闘っています。「かくあるべし」思考が強く、事実を受け入れることができていません。逆三角形の状態です。とても不安定です。森田理論学習に取り組んで、生活の中に応用してくると、不安との格闘が緩み、「かくあるべし」思考から事実を少しづづ受け入れるようになります。すると逆三角形が崩れてきます。そして台形のような形に変わってきます。でもまだ安定している状態ではありません。さらに学習と修養が進むと、不安を取り去ろうとしたり、逃げたりすることが少なくなります。事実本位、事実回帰の方向に軸足を移して、生の欲望の発揮に邁進できるようになります。この段階では、土台が広がり安定して、どっしりとした三角形になっています。これが森田理論学習で目指している状態を示しています。この三角形を作るカギは、生の欲望の発揮と事実を受け入れていく態度を身につけていくことです。生の欲望については次のような段階があります。レベル1から徐々にステップアップしてゆきましよう。でも決して無理しないことです。レベル1 気が進まなくてもイヤイヤ、仕方なく手足を動かしていく。森田では月給鳥という鳥になったつもりで会社に出かける。家事では超低空飛行を心がける等といいます。レベル2 実践課題を作って取り組んでみる。布団あげ、部屋の掃除、靴磨き、風呂の掃除、トイレの掃除、車の洗車、ペットの世話、花等の手入れ、家庭菜園、地域の活動、趣味、運動等課題を作って取り組んでみる。レベル3 気づいたことを逃さないようにメモして課題のストックをためていく。できることから手をつけていく。雑仕事、雑事を大切にする。コツはものそのものになりきって行うということです。注意点は、今できることは一つしかない。完全にこなそうと思わず、6割できればよしとする。変化に臨機応変に対応して、優先順位を意識する。これは、森田では無所住心の考え方です。レベル4 規則正しい生活を心がける。自分の不安や心配事よりも仕事、勉強、家事、育児に力を入れていく。レベル5 物、自分、他人、お金、時間をできるだけ有効に活かして使う。森田では「物の性を尽くす」といいます。レベル6 人の役に立つことを見つけて行動する。レベル7 好奇心を活かして、やってみたい趣味等に取り組んでみる。仲間との交流の体験を持つ。一人一芸を身につける。レベル8 大きな目標、課題を設定する。コツコツと地道な努力を重ねていく。目標達成に向けてチャレンジしてみる。次に事実本位、事実回帰の態度の養成はどんなことを心がけていけばよいのか。1、前提として、事実にはコントロールできるものとできないものがある。できるものはコントロールしてもよいが、ほとんどは事実を受け入れ、服従するものが多いということをしっかり認識する。2、次に事実から目をそむけないで事実をよく見る。観察する。都合の悪い事実を隠したりしない。事実はできるだけ具体的に、詳細に、赤裸々に取り扱う。3、事実を是非善悪で価値判断しない。事実を事実としてそのままに認識する。「かくあるべし」思考を意識して減らしていくこと。4、事実は悲観的、否定的な面ばかりでなく、楽観的、肯定的な面も見る。必ず両面観で見るようにする。5、事実を4つに分類してみる。イ、不安、恐怖、不快感などの自然にわき上がってくる感情ロ、自分の素質、容姿、性格、自分の起こしたミスや失敗などの事実ハ、他人の自分に対する仕打ち、他人の素質、容姿、性格、他人の起こしたミスや失敗などの事実ニ、自然災害、経済危機、紛争など理不尽な事実6、常に直感、第一の感じ、初一念から出発する。森田理論でいう純な心の体得実践。7、私メッセージの体得と実践。それぞれの取り組み方は、今まで何回も具体的に投稿していますので、キーワード検索で参照してみてください。
2016.02.27
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私は対外的には対人恐怖は克服できましたと言っている。では対人恐怖症が治ったのなら、対人不安は起こらなくなったのかという疑問がある。この質問に分かりやすく説明できるようにまとめておきたいと思う。1、対人恐怖で苦しんでいた時は、人と会って予期不安が発生する時は、面会を極力避けていた。人と会う機会が少ないので、不快な感情を味わうことは最小限にとどまっていた。現在はイヤイヤ仕方なく、必要な対人折衝は行うようにしている。すると、当然過去とは比較にならないほど気まずい思いをする機会は増えているのである。つまり森田理論学習をして不安な気持ちが湧き起らなくなったというのはないのだ。私が治ったというのは、不安の役割、不安と欲望の関係、生の欲望の発揮という関係が分かり、不安にとらわれて振り回されなくなったということである。つまり必要なこと、必要な場所には出かけて行って用件をこなせるように変わってきたということなのです。2、次に「事実本位」の生活ができるようになったということです。事実中心、事実承認の能力がついてきたということである。以前は「かくあるべし」を考え方の中心においておりました。不快な感情、自分自身、他人、自然現象、経済現象のすべてにわたって、上から下目線で見て、現実、現状、事実を批判、否定していたのです。今は、「事実こそ神様だ」という視点に立てるように変わってきたということです。それらを自分の意のままにコントロールしてはいけないし、そんなことは決してできないと思えるようになってきた。事実を認める、事実を承認していくという立場から、物事を考えることに近づいていると実感しています。すると理想と現実との葛藤で苦しむことが少なくなり、楽に生活できるようになったと思います。そのためには、先入観や決めつけで事実を見ない。事実をよく観察して出来るだけ正確につかむ。具体的に話す。事実を隠したり、ごまかしたりしない。事実を両面観で見るようにする。「純な心」「私メッセージ」を事実に寄り添う手段として生活に応用する。事実をみて是非善悪の価値判定をしない。事実にはよいも悪いもないのだからそのままに承認していく。この変化は、対人恐怖症の克服にはとても言葉では言い現せないほど大きな役割を果たしていると思います。対人恐怖で悩まれている方にはこの方面の学習と実践をお勧めします。3、最後に不安に振り回されそうになっても、常に生の欲望の発揮を心がけているので、不安を速やかに流せるようになってきた。そして毎日の生活を楽しむことができるようになってきた。神経質性格のよさを存分に活かして、生きていくことが楽しくなってきたのです。以上、3点を持って私は対人恐怖症を克服できたのだと思っているのです。対人恐怖症の真っただ中におられる方は、「何だ、対人不安が無くなって、他人の思惑が気にならなくなったわけではないのか」と思われるかもしれません。でもそちらの方面の治り方を追求していけばいくほど、対人恐怖症は泥沼に入り、一生抜け出すことは困難になると思われます。
2016.02.09
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一昔前の理論学習では幼弱性の打破ということが言われた。神経症に陥っている人には、この幼弱性がきわだっている。生活面に特徴的に現れます。これには3つある。観念的である。自己中心的である。依存的である。観念的というのは、現実、事実を無視して「かくあるべし」で対処しようという生活態度のことである。神経症の発症の大きな原因になります。事実を無視するといえば、事実をよく把握しないうちに是非善悪の価値判断をすることもあります。森田理論学習では、是非善悪の価値判断は自分や他人を苦しめるだけだと学びました。この学習と克服は森田理論学習の大きなテーマとなっています。自己中心的というのは、自分勝手な態度であり、いつも自分のことばかり、あるいは自分中心に物事を考えています。自己中心的な人は、他者を支配したいという欲望が強い人です。自己中心的な人は相手が自分の考えているように行動してくれないとすぐにひねくれてしまいます。他者から見るととてもわがままに見えて付き合いづらい人です。最後には周りの人は距離を置くようになります。そして本人は孤独に苦しむようになります。森田では自分の意思、気持ち、欲望を第一に押し出すということを大事にします。そして次に相手の意思、気持ち、欲望を聞いてみる。確かめる作業がかかせないといいます。普通は不一致のことが多いわけですから、それらを調整して妥協点を見つけるという作業が必要になります。自己中心的な人は自分の意思、気持ち、欲望を押しだすばかりで、他人への配慮はあまりありません。一歩も譲らないのです。すると暴言を吐いたり、暴力で相手を打ち負かすか、反対にしぶしぶ相手に服従してしまうかのどちらかになります。これらは子どものけんかと一緒です。子どもはすぐに仲直り出来ますが、大人の場合は容易なことではありません。依存性というのは自分の出来ることややらなければならないことを他人任せにするということです。それらを他人が肩代わりしてくれれば自分は楽ができます。テレビを見たり、レジャーを楽しんだり好きなことができます。また何も考えなくてすみます。エネルギーを使わなくてすみます。子どもを過保護に育てるということは、まさにこのような依存性の強い子どもを作りだすということです。これは一見すると、人間の生き方として自然の流れのように見えます。つまり日常茶飯事に出来るだけ手を抜く。お金を出して本来自分のなすべきことを他人に依存する。そして浮いた時間で生活をもっともっと楽しむ。でもこれは本末転倒だと思います。人間の幸せというのは、日常生活を無視していては決して訪れることはない。日々の生活の中で衣食住の必要なことに自分で取り組んでいく。そこに気づきや発見、他者との交流が生まれる。しだいに生きる欲望ややる気、意欲が出てくる。これが味わい深い人生を送ることにつながります。ですから依存性を打破して、自分のことは自分でするという原点回帰がとても大切だと思います。その上で自分の出来ないことは、思い切って人に甘えてもいいのだと思います。
2016.01.31
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是非善悪の価値判断の弊害については1月14日に投稿しています。・モノサシは、個人の主義、主張、思想、信念、好み、クセ、とらわれ、思い込み、勘違いなど自分の価値基準です。家庭環境や親からのしつけ、教育、個人的体験、周りの影響などによってモノサシがたくさん作られます。・そしてその物差しとは、人によって、時代によって、場合によっていくらでも変わります。文明が進めば進むほど、社会が複雑になればなるほど、数が増え、モノサシの基準が時によって変わり、状況によって変わり人によって変わります。・自分のモノサシと人のモノサシは一致しません。・モノサシの不一致によって、怒りや悩み、利害の対立、トラブル、争いが起こるのです。・モノサシが丈夫なほど怒りが強くなり、悩みが深くなり、対立が激しくなります。・モノサシがやわらかければ、「まあ、いいじゃないか」と冷静になり、話し合える可能性が生まれ、解決できる可能性が生まれます。・双方のモノサシがやわらかであるならば、解決はもっと簡単になります。どんなふうに価値判断するのか、さらに詳しく見てみましょう。良い、悪い正しい、間違い役に立つか、役に立たないか優れているか、劣っているか儲かるか、儲からないか美しいか、醜いか有益か、無駄か幸福か、不幸かプラスか、マイナスかポジティブか、ネガティブか明るいか、暗いかなどなど・・・・是非善悪の価値判断の強い人は、そのどちらかに自分の立場を明確にしようとします。中庸、ほどほどということはありません。これは、森田理論でいう、オール・オア・ナッシング、白か黒、0か100の発想なのです。そして自分の価値判定したものを絶対的なものとして、すべてのものを比較検討するようになります。自分の価値判断に合わないと判定したものは、拒否、無視、抑圧、否定、批判するようになります。行動としては脅迫、従属、命令、指示、叱責、怒り、恨み、嫉妬などとして表面化してきます。これは「かくあるべし」的思考により思想の矛盾に苦しむ過程と全く同じことです。森田理論学習では、是非善悪の価値判断をしないで、事実を受け入れる、事実と一体化する道を勧めています。自分は見栄えが悪い。能力がない。健康面に不安がある。仕事がない。経済的に不安定だ。人と比べて現状を正しく分析したら、その先是非善悪の価値判断をすることを緩めていくこと。現実、現状、事実を受け入れてそこから一歩ずつ歩んでいくこと。自分はこう思うけれども、あなたはそうは思ないのですねと相手を思いやる関係を作る。理屈がわかっても、いっぺんに変身することはできません。2歩前進1歩後退が続くかもしれません。一番大事なのは、問題が起きたとき、これって是非善悪の価値判断の結果ではないのだろうかと自己内省出来るのかどうかです。今一歩間をとれるようになることです。1割でも2割でもその方向性に向かって舵をとることができるようになれば、その人はかなり人間的に成長できていると言えるでしょう。
2016.01.19
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それでは「神経症克服2つの道」の2番目について説明します。これは私の作成した森田理論全体像の2、3、4を加工したものです。ここでの眼目は、現状、現実、事実を認めて、受け入れていくということです。まずイラストをご覧ください。見にくい人は表示で倍率をあげてみてください。「かくあるべし」の強い人は容易に神経症に陥ります。右上の丸で囲ったところをみてください。「かくあるべし」的思考をとる人の最大の問題は自分の立ち位置です。「こうでなくてはならない」「こうであってはならない」という視点に自分を置いてから発想しています。自分が雲の上のほうにいて、地上でアップアップしながら生活している自分や他人を批判、否定、拒否しているのです。さらに自然にわき起こってくる不安、恐怖、違和感、不快感なども目の敵にしているのです。その状況は爆撃機で地上に爆弾を落としたり、機銃掃射している状況に似ています。なんとひどいことをしているのでしょう。その状態は、自分の頭で考えていることと、現状、現実、事実が大きく乖離しているのです。そして神経症で苦しんでいる人は、いつも観念の世界の味方をしているのです。現状、現実、事実の世界の側にいる人は浮かばれません。さらに批判、否定、拒否しているのですから地上にいる人は生きていくことが苦しいのです。これが自分という一人の人間の中で行われていることなのです。観念の世界の人が、すっと事実の世界に降りてくると楽になるとは思いませんか。森田理論では、その解決方法として、自分の立ち位置を雲の上の観念の世界ではなく、現状、現実、事実の世界に変更してゆきましょうといっているのです。4の現状、現実、事実を認めて受け入れ、そこを生活の出発点にしましょうといっているのです。そのためにはどんなことが必要なのか。4の下に記載してある通りです。簡単に項目だけ書いてありますが、内容はとても深いものがあります。それぞれの項目については、このプログで手を変え品を変えて様々な角度から説明しております。事実を決めつけや先入観で見ることなくよく観察して正確につかむ。事実は抽象的ではなく具体的赤裸々に話す。事実は一面的ではなく両面観で見れるようにする。「かくあるべし」を少なくしていく。そして、「純な心」「私メッセージ」を生活に取り入れていく。出来るだけ是非善悪の価値判断を持ち込まない。これは明日以降さらに詳しく説明します。そしてすべてのものを自分の思い通りにコントロールしようとしないこと。神経症から回復するためには、昨日説明した「不安を受容する」ことと、今日説明した「事実を受け入れる」の2つ方法があります。どちらも大事だと思います。不安を受容してなんとか生活の悪循環を脱しただけでは、依然として心の中は不安でいっぱいだと思います。私の経験でもそうでした。森田の限界を感じてむなしさを感じたものでした。それは「事実を受け入れて生活する」という面の理解不足と実践不足が大きくかかわっていたのです。この2つの視点から森田理論学習を継続すれば、きっと良い成果が現れてくると思います。ぜひそのことに思いを馳せていただきたいと願っております。
2016.01.17
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神経症の克服には2つの道があると思います。一つは、不安を受容して、生の欲望の発揮に進む方法です。もうひとつは、「かくあるべし」を小さくして事実を受け入れていく方法です。今日は、最初の方法についてついて説明します。まずイラストをご覧ください。これは森田理論全体像の1と2を加工したものです。不安と欲望の関係は1月13日に説明していますので合わせてご覧ください。神経症で苦しんでいる人は、自分の気になる不安、恐怖、違和感、不快感をなんとか取り去ろうとしています。ところが自分の思いとは反対にどんどん増悪してきます。最後には蟻地獄に入り込んだようになり、どうあがいても解決策はなかなか見つかりません。この観念上の悪循環、行動の悪循環から立ち直る道筋がこの図で示されています。不安の特徴と役割、不安と欲望の関係を森田理論で十分に理解することから始まります。不安と格闘している状態は、生の欲望の発揮が蚊帳の外になっています。それを回復させていくことが、神経症からある程度解放されるのです。生の欲望の発揮は、イからへまでいろいろ書いてありますが、すべて取り組む必要はありません。私の知っている人で、「ものそのものになりきる」「物の性を尽くす」だけで克服した人がいます。それどころか、「森田の達人」の域にまで達しておられます。私は一人一芸を極めることが、神経症の克服に大いに役立ちました。この方法は、実は、入院森田療法、外来森田療法で行われている方法です。生活の発見会でも、私が入会したころは、このことを盛んに言われていました。認知行動療法の手法である暴露療法もこれとよく似ています。そして最終的には、常時、自分の現状、現実、事実を踏まえて、一段ずつ階段を上るように、生の欲望の実現を目指していく生活態度になれば、とりあえず神経症は克服できるのです。丸印で説明しているとおりです。生の欲望の発揮は、命あるかぎり真剣に取り組んでいくことがとても大切になります。ここが身についた方は、ぜひ次のステップへ進まれることをお勧めします。明日紹介する、「かくあるべし」を小さくして事実を受け入れていく方法を身につけることです。これは多少難しい面がありますが、その気になれば必ず身につけることができます。
2016.01.16
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私は講話を頼まれるたびに対人恐怖症は克服しましたと言っている。それでは人の思惑が気にならなくなって、どんなことがあっても不安や不快感が無くなったのですかと聞かれることがある。そんなことはありません。そんなことはあり得ないことだと思います。人に悪く言われれば、不安な気持ちになります。そんな機会は症状に陥る前よりも増えたかもしれませんと言います。すると、それは治っていないのではありませんか。はったりをかませてかっこいいことを言っているのではないのですかと言われることがある。その方と私の思っている神経症の治り方のイメージがくい違っているのだと思った。そこのところを理路整然と説明できないと説得力に欠けると感じました。それでは質問した人が納得しない。私が神経症が治ったと言っているのは4つある。1、 以前は対人恐怖があるために逃げてばかりいた。仕事からも逃げてさぼってばかりだったし、苦手な人には意識的に近づかないようにしていた。今は対人恐怖を抱えたまま必要に応じて、やるべきことはイヤイヤながらでも行っている。馬が合わないなと思っても、必要最低限な付き合いはしている。これは大きな変化である。それをもって治ったと言っている。2、 次に私は「かくあるべし」思考方法をとっていた。人から後指をさされるような人間なってはいけない。常に他人から賞賛を浴びるような人間であらねばならない。等である。価値観の多くが対人的なところに集約されて、理想的な人間像を持って、そうでない自分、そしてそうでない他人を嫌悪し、否定していた。今ではどうか。人からよい評価をされたい。馬鹿にされたくない。等という気持ちは依然として強い。でもそうだからといって、そうでない現実の自分を否定することは少なくなった。他人も否定することが少なくなった。「かくあるべし」的思考方法をとることは今でもよくあるが、「ちょっと待て」その考えたかは思想の矛盾に陥っていないか反省できるようになった。しだいに上から下目線で現実の自分、現実の他人を見て批判したり馬鹿にすることは少なくなった。そして今現在の自分、今現在の他人に寄り添うことができるようになった。さらにそういう現実の自分や他人をよく観察できるようになった。そしてそこから今自分の出来ることを考えられるようになった。前向きに建設的に生きていくことができるようになった。これは自分ながら大きく変わってきたところだと思う。3、 現実、状況、事実をよく観察するようになるとともに、その事実に対してすぐに是非善悪の価値判断を持ち込まなくなった。いい悪い。正しい間違い。幸不幸。快不快。好き嫌い。等の価値判断をしだすと、ちょっと待てよ。その前にもっと事実を見つめてみようよと引き戻れることができるようになった。うまくいかないこともあるが、自己内省ができるように改善されてきた。価値判断をしなくなり、より深く事実の確認の方に目をむけることができるようになった。理不尽な出来事、仕打ちがあっても価値判断しないで、事実からその原因に思いを巡らせていると怒りの感情、恨みの感情がほとんど湧かなくなってきた。4、 以前は生きることがつらい。死んだ方がよほど楽になると考えていた。今は反対だ。何よりも生きていることが楽しい。やることなすこと、考えることすべてに意味があると思えるようになった。これは「生の欲望の発揮」に向かって邁進することができるようなったからだと思う。こうして毎日充実した生活を送ることに対して感謝できるようになった。以上を持って私は対人恐怖症を克服したのだと高らかに宣言したいと思うのである。
2016.01.10
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対人恐怖症が治るということはどういうことか考えてみました。対人恐怖症の人は他人の思惑ばかり気にしています。他人が自分を大事に思ってくれているかどうが気になるのである。反対に拒否されたり、無視されたり、否定されることは耐えられないのです。では対人恐怖症が治るということは、他人の思惑が気にならないことだろうか。答えは否である。だいたいそんなことはあり得ない。そういう不安を問題にしてはいけない。それを抱えながら生活がどう変化しているかが判断材料になる。日常生活が規則正しく、きちんと送ることができているかどうか。あるいは仕事、勉強、家事、育児、介護などが曲りなりにでも出来ているかどうか。人と比較するのではなく、それを自分の過去と比較するのである。過去よりも多少でも活動的になっていれば、対人恐怖が改善できているのである。治ったかどうかというのはそこが問題である。決して不安が無くなっているとか、軽くなっているかいう問題ではない。気分の問題ではなく、生活が前進しているかどうか。ここが問題なのだ。決して不安という気分を物差しとして判定してはならないのである。例えば不安でビクビクハラハラしながら定年まで勤め上げました。こういう人は対人関係の苦しみが強くて、自分では納得できないかもしれないが、神経症を克服したと言えるのである。さらに趣味や目標を持って、一心不乱に打ち込むことができたという人。こういうことができている人はさらによくなっている人である。でもうつ状態が続いて、気分が悪く、死んだ方がましだと思っていても治ったと言えるのですか。そんなのはうそだと反発がかえってきそうです。確かにそれはきついです。これに対する答えです。治り方にはさらに上の段階の治り方があるのです。第一段階で不満足な人は、その段階を目指して行動すればよいのです。森田先生は、感情、自分、他人、自然を自分の意のままにコントロールしてはならないと言われています。自分の思い通りにならない事実を、そのままに認めて、受け入れるようにすれば苦しみはなくなると言われています。つまり「かくあるべし」で物事を上から目線で見るのではなく、どんなにか理不尽で我慢できないような出来事でも、事実を事実として受け入れていくということです。これを森田理論学習では思想の矛盾の打破といいます。事実をよく観察する。両面観で見る。方法としては「私メッセージ」「純な心」を使ったコミュニケーションを心がける。他人の話を傾聴し、受容と共感の態度を前面に押し出す等です。まだまだ良くなりたいと思われる人もあるかと思います。森田理論学習ではまだ上の段階の治り方も指導しております。森田理論では、事実はよいとか悪いとか、正しいとか間違いだとか価値判断をしてはならないと言われています。事実はよく観察する。細かく具体的に話す。両面観で見る。私たちに許されるのはそこまでです。その先、先入観や決めつけ等でいい悪い等の価値判断をしてはならないということです。価値判断をしない、事実唯真の態度です。こういうことが過去と比べて改善できているかどうかが肝心なところです。改善できていれば、神経症はほとんど良くなっているというわけです。決して気分的に楽になっているかどうかで判断してはいけません。行動や事実がどう変化してきているかが決め手となります。行動に重きをおいていると、次々と不安にとらわれることはあっても、次から次へと流すことができるのです。最終的にはその段階を経て、「生の欲望の発揮」に向かってものそのものになりきっている段階が理想です。
2015.12.29
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神経症が治るということはどういうことですか。神経症を克服した人はどう変化しているかという視点から5つのパターンを紹介したい。1、不安と欲望の相互関係をよく理解して実践している。不安は取り去ることはできない。取り去ろうとしてもいけない。不安と欲望はコインの裏と表の関係にある。不安をなくするためには、欲望を無くすればよいが、人間である限りそんなことはできない。でも、不安を利用して自分の欲望を見つけ出そうとしている人。次に、不安は大きな役割を果たしていると思っている人。つまり不安は欲望の暴走を制御していることが分かっている人。欲望の暴走が起きると人類は破滅に向かいます。だからもっともっと有意義に不安を活用しようとしている人。不安と欲望の関係についてよく分かっている人。例えばサーカスの綱渡りの芸を思い浮かべてください。長い棒のようなものを持って常にバランスをとりながら、恐る恐る目的地に向かっている。棒の両端を欲望と不安に置き換えてみましょう。目的地を生の欲望と置き換えてみましょう。人間が生きるということは、不安と欲望のバランスをとりながら、常に欲望や目的や目標に向かって歩み続ける中にあるということが分かっている人。2、神経症に陥った人は、客観的で正しい考え方や見方ができなくなっています。物事をよく見ていない。先入観が強すぎる。思い過ごしが強い。マイナス思考一辺倒である。否定的である。無茶である。極端である。飛躍しすぎである。自分勝手に決めつけている。希望的観測が強いなどです。こういう偏ったものの見方が修正されて、森田でいう両面観でバランスよく物事を見れる状態になっている人は、神経症を克服している人です。3、神経症に陥った人は、強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、すぐに「かくある」という事実に立ち戻ることができる能力を獲得した人は、神経症を克服した人です。4、過去と比較したり、人と比較して現状や事実を出来るだけ正確に把握することはとても重要なことです。でも私たちがしてもよいのはそこまでです。こちらがよいとか、悪いとか、正しいとか、間違いだと価値判断をすることはしてはならないことです。物や他人にはそれぞれ違いがあり、かけがえのない存在価値を持っているのです。それぞれの持っている存在価値に焦点をあてて、それを活用していこうと思っている人は神経症から立ち直っている人です。この反対はすべての物や人を自分の思い通りにコントロールしようとする人です。5、 最後に困難な問題や苦しみをたくさん抱えながらも、「生の欲望を発揮」して日々奮闘努力している人です。こういう状態が、神経症克服の最終目標となります。はたから見て、以上のどれかに当てはまる人は神経症を克服した人だと判断することができます。この5つの視点でよく人を観察してみてください。治った人と治らない人はすぐに分かります。また、たまには森田の達人という人も発見できるでしょう。そういう人を見つけるとこちらの方もうれしくなってきます。
2015.12.14
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生きがい療法では、ガンなどの命にかかわる病気にかかった時の対処法を、5つにまとめておられる。ガンになり自分がこの世から永遠にいなくなってしまうという不安、恐怖に対してどう対処していくのか。1、 自分が自分の主治医のつもりでガンと闘う。2、 今日一日の生きる目標に全力投球をする。3、 他人の為になることをする。4、 死の恐怖と共存する訓練をする。5、 もしもの場合に備えて必要な現実的な準備をしておく。私はこの話を聞いて、対人恐怖症の人になんとかこの考え方が応用できないだろうかと考えてきた。対人的な不安や恐怖を抱えている人は、社会から見捨てられ孤立することを極端に恐れているのだ。つまり肉体的な死ではなく、社会的な死を極端に恐れているのだ。1、 まずは対人恐怖症という神経症に陥っているということを認める。そして森田理論学習で克服するのだという方向性を決める。そして先輩会員の援助を受けながら学習を始める。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、認識の誤り、森田全体像、森田理論の基本となる4つの柱の学習等である。2、 まずは日常生活に丁寧に取り組む。規則正しい生活を心がける。次に、仕事、勉強、家事、育児、介護等に一生懸命に取り組む。これは生の欲望の発揮である。3、 自分のことよりも、他人の役に立つことを優先する。どんな小さなことでも実行に移す。一人一芸を身につけて人を喜ばすことなどもよい。他人を自分の意のままにコントロールしようとする態度をやめる。まずは、相手の話をよく聞く。共感と受容の態度で接する。4、 これは対人不安、恐怖と欲望の関係をよく理解することだと思う。つまり不安は欲望とコインの裏腹な関係にあり、取り除くことはできないことをしっかりと理解する。不安を利用して自分の欲望についてよく自覚すること。そして不安は欲望が暴走しないように制御機能という重要な役割を担っていることを認識すること。最後に不安と欲望は、サーカスの綱渡りのように、バランスをとりながら目標に向かって前進していくという視点をしっかりと自覚していくこと。5、どんなに頑張っていても、いじめ、リストラ、退職勧奨、倒産、離婚、死別などで社会的に孤立してしまうことはよくある。最悪の状況を想定して、それを引き受ける覚悟を決めておくこと。そして対策を立てておくこと。最低限自分の命を守り、生き抜いていくこと。家族の生命を守る。そのためには自分ひとりの殻に閉じこもらず、有効な他人の協力を得る。
2015.12.12
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先日参加した集談会で森田理論学習があった。その時に配布されて輪読した資料の中に、「自分と他人を比較検討するというのは無意味である」というのがあった。私はこの考え方には、にわかに賛成しがたい。私はむしろ他人と比較検討することを奨励しているのである。違いを明確にすることが大事だと思っているのです。よく考えてみますと、私たちは他人と接触するたびに絶えず比較検討しています。これは好むと好まざるにかかわらず、自然にそうしていると思います。そして他人と自分の違いを認識しているのです。言葉を替えると、自分の特徴、他人の特徴の違いを個性の違いとして認識していると思うのです。自覚を深めているといってもよいと思います。この認識、自覚はとても大切なものだと思います。なぜなら、他人を通して自分のことがより深く分かるからです。他人を鏡にして自分の性格や能力について認識が深まるからです。ですから他人と比較検討するという手法を利用しないことは、もったいないと思います。これは、例えば外国へ旅行して、日本人、日本という国のことがよく分かるということに似ています。日本が外国に比べていかに治安が安定しているか。いかに物質的に恵まれた生活をしているか。いかにまじめに努力する人が多いか。いかに社会的インフラが整備されているか。それと同時にこれから日本で解決しなければならない問題点も数多く見えてきます。これは外国に行って始めて分かることです。外国を知ることが自分の国をより深く知ることに繋がっているのです。他人の観察を通して、自分のことがより深く分かるということも、同じような意味あいがあります。活動的で外向的な人を見ると、私たち神経質者の特徴がとてもよく分かります。その認識の上に立って、自分の存在価値を再評価する。自分の性格、性質、潜在能力に気が付く。アイデンティティの確立といってもよいでしょう。それらを過不足なく意識して、自分の寄って立つ、生きていくためのベースを考えてみる。そういう意味では、私たち神経質者は、活動的で対人折衝能力がすぐれているわけではありません。細かいことにこだわりやすく、心配性です。でも感受性が強く、粘り強くまじめなところもあります。物事をよく考えて軽はずみなことはしません。また生の欲望が強いという面もあります。これらは神経質の性格特徴で学んだ通りです。その方向で自分を活かし鍛えて伸ばしていけばゆけばよいのではないでしょうか。他人と比較して、自分の強みしっかりと把握して生活に活かすことはとても重要だと考えます。味わい深い人生を送るためには欠かすことができないことです。ここまで説明しても、まだまだ他人と比較検討することはよくないと思われている方おられるかもしれません。それは、他人のよいところと自分の悪いところを比較して、自己嫌悪、自己否定に陥り悲観的でネガティブな気持ちになるからです。比較することは大切なことなのにどうしてそんなふうになるのでしょうか。これは両者の特徴を認識した後の行動によるのだと思います。普通は比較検討した結果を見て、いいとか悪いとか価値判断をしてしまう傾向があります。十分に比較して違いを認識することはとても大切なことで役に立ちます。でもその次に、よいとか悪いという価値判断をするというのは余計なことだと思います。自分勝手な「かくあるべし」で是非善悪の判定をしてしまうのです。これではどんどん横道にずれていってしまいます。自分を苦しめるだけになってしまいます。この点は森田先生も声を大にして力説されています。つまり、よいとか悪いとかの評価の拘泥を超越して、事実をあるがままに認めていくことが極めて大切なことである。事実をよく観察し、その事実をそのままに受け入れて、「生の躍動」そのものになりきって生きていくことが肝要であるといわれています。つまり浅はかな考えで是非善悪の価値判定をしてしまうことは、神経症のさらなる増悪につながってしまうということです。事実を細かく観察していくという生活態度だけなら人間として大きく成長できますが、その事実をすぐにいいとか悪いとかの価値判断に持ち込んでしまうということが、我々に大変な苦悩と葛藤を招いてしまうということは肝に銘じておく必要があると思います。
2015.11.10
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神経症になって困ることはなにか。心配事にとらわれて、生活が滞ってしまうことである。自分も苦しいが周りの人にも迷惑がかかる。さらに不安が頭いっぱいを覆って精神的に苦しくなる。常時怯えや憂うつ感を抱えて生きていくことは、砂を噛んでいるようなものだ。神経症が治るということは、この二つが解消されることである。まず心の状態はどうであろうとなんとか仕事ができるようになる。学校に行けるようになる。家事・育児ができるようになる。決して満足はできないかもしれいが、全く手足がでなかった状態から見ればある程度は治ったのである。次に不安が100%頭の中を占拠していた状態から、80%、70%と下がってきた状態。あるいは一瞬でも不安やとらわれていることを忘れて何かに心を奪われていたという状態が訪れるようになった。しだいにそういう情況が増えてきた。そういう状態は神経症がある程度は治っているのである。注意したいのは、100%完全な状態を目指すことはかえって自分を苦しくしてしまう。過去と比べて10%回復すれば、その成長を素直に喜ぶ。これを素直に喜ぶことができるのかどうかが神経症回復の成否を分ける。決して回復していない90%の方に注意を向けてはならない。完全や完璧な心身の状態で、自分の思いのままに生きていけるということは不可能である。100%完全を目指していくと、1%の不完全なところに神経が集中していく。注意と感覚の悪循環が繰り返されて生きづらくなっていく。そういう意味では「ほどほど」の治り方が精神衛生上とても健全と言えるのだ。今の苦しい状態から60%回復すれば、もうその人は神経症から解放されたと思ってもよい。あとのもやもやはとっておく。あるいはそのまま抱えたままでいる。その状態でもう治すことにエネルギーを消費することをやめてしまう。残ったエネルギーは「生の欲望の発揮」につぎ込むのである。きっと素晴らしい生き方ができるようになるだろう。神経症が治るということは不安や恐怖、不快感が起こらなくなることではない。治った段階では、行動的になるのでますます不安や恐怖の数は増えていく。治るとはそれらにとらわれても執着する時間が少なくなる。早く流していけるようになるということである。とらわれては消え、とらわれては流れていくという状態になる。諸行無常、万物流転の自然の流れに乗っていくことである。言葉を変えれば不安や恐怖を抱えたまま、仕方なく生活ができるようになるということである。なんかスッキリしない説明だと思われる方がおられるかもしれない。でもここが肝心なところです。要は神経症が治るとか治らないとかは問題の核心ではないということです。不安や恐怖と共存し、それらを活用して悔いのない人生を生き抜いていくということが一番大切だということです。それに近づくための方法を森田理論学習で習得していくのです。具体的には4つの方法があります。行動・実践手法。欲望と不安のバランス回復手法。認識・認知の片寄りの修正手法。不安や恐怖の受容手法です。この4つをまんべんなく学習し、体得することで目的は確実に達成されると確信しております。それぞれの中身は大変奥深いものがあります。すべて何度も投稿済みです。関心のある方はキーワードで検索してみてください。今後もこの視点からどんどん投稿していくつもりです。
2015.10.23
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私が提唱している神経症克服の方法は4つある。これについてはすでに投稿しているがさらに投稿してみたい。1、 行動・実践力を取り戻す2、 両面観を身につけて常にバランスをとるようにする。3、 自分の考え方に「かくあるべし」がないか、認識の片寄りがないか仲間の力を借りて修正する。日記指導を受けるのも有効である。4、 不安や恐怖などとらわれの原因は、基本的には、取り除いたり逃げたりしない。そのまま受け入れる態度を養成する。この4つを1から10段階のどの段階にあるのか。おおむね6段階以上を目指してもらいたい。どれも平均的に取り組まなければ神経症克服の成果が上がりにくい。やりやすいのは1である。日常茶飯事、雑事に丁寧に取り組む。規則正しい生活をする。仕事、勉強、家事、育児にものそのものになって取り組む。その他自分のやりたいことにも積極的に手を出してみる。人の役に立つことに手をだす。2番目はバランス思考で考える癖をつけることである。不安の裏には必ず欲望がある。不安に振り回されている時は、欲望のことは蚊帳の外になっている。不安が強ければ強いほど、欲望の発揮を意識する必要がある。そのための意識付けを行う。ヤジロベイや天秤を目のつくところにおいておく。不安が襲って来た時はそれを見て欲望に目を転じて調和を図っていく生き方を身につけていくこと。3番目は自分ひとりの力では無理だという認識を持つ。他人の力を借りて自分の考え方の癖を修正していく。自助組織に参加して、謙虚に仲間の指摘に耳を傾けること。不安等の事実はできるだけ具体的に赤裸々に話す。それに基づいて誤りがないか、片寄りがないか謙虚に教えを請う。他人の考え方の間違いや片寄りについて気がついたことは話してあげる。むかっとすることもあるが、自分のためになることなので謙虚に受け止めることが大切である。4番目については以前6項目にわたって書いている。どれ大切である。その中でも一番効果があるのは、他人の不安をよく聴く。無理にでも共感できるところを探す。そして他人を受容していこうという生活態度を身につけていく。するとしだいに他人を叱責したり、批判したり、拒否したり、無視したりしなくなる。こういう態度で生活していると徐々に自分自身も受容できるようになる。この実践を6カ月続けてみる。日記等に記録をとってみる。自己嫌悪、自己否定から、少しずつ自分自身の存在を認めることができるようになるでしょう。
2015.09.24
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また、森田で神経症を治すことには限界がある。だから「森田療法に依拠するだけでは思うように回復しないのなら、必要に応じて他の資源にも依拠してみることが、正当な選択肢として承認されやすくなるでしょう」とある。私も、森田に限界を感じ内観療法、認知行動療法等に向かったことがあった。しかし現在は違う。他の療法をあさるよりも、もっと森田を深耕する立場に立っている。その理由を説明しよう。その前に「森田療法」という言葉は神経症を治療するという医療的意味合いが深い言葉である。「森田理論学習」というのは、もっと広い意味合いがある。つまり神経質者としての生き方にかかわる部分を問題にしているのである。症状というのは、人生観が変わったので副次的に剥がれおちてきたというのが正しい見方であると考えています。その上で、この記事で取り上げられている療法は認知行動療法である。認知行動療法は、行動療法と認知療法を組み合わせてある。ここでいう行動療法は、不安を10段階ぐらいの階層に分けて、取り組みやすいものからはじめて、順次難しいものができるようにサポートしていく方法である。これは曝露療法と言われている。そして不安を取り去り最終的に社会に適応させていく。森田はそんなことはいっていない。ところが奥が深いのは森田理論の方である。森田理論で行動療法に関することはどんなことを言っているのか。日常茶飯事、雑事の徹底。規則正しい生活の回復。好奇心の発揮。一人一芸のすすめ。ものそのものになりきる。物の性を尽くす。自然に服従して、境遇に柔順になる。無所住心。変化への対応。などである。これも事細かに説明されている。即効性は認知行動療法かもしれないが、広い視点で見ると森田の方にひかれる。認知療法であるが、ベックが開発されたものを見ると目を見張るものが確かにある。でも森田理論のなかにも同様のことをいっている。劣等感的差別観、部分的弱点の絶対視、防衛単純化、劣等感的投射、「かくあるべし」的思考、手段の自己目的化等です。森田専門用語で分かりづらいのが問題ですが、認知療法とかなり重複している。私はこの部分は森田理論だけでは不十分であると考えています。そういう意味では、認知療法の考え方を取り入れて、学習の一分野として独立すべきであると考えています。認知行動療法のほかに、神経症の克服に効果があると考えられているものはどんなものがあるか。たくさんある。代表的なものをあげると、薬物療法、ピア・カウンセリング、ヘルスカウンセリング、来談者中心療法、精神分析、論理療法、内観療法、家族療法、意味療法等ではなかろうか。森田との関係はどうか。集談会はピア・カウンセリングによく似た手法である。ヘルスカウンセリング、来談者中心療法、論理療法、意味療法等はすでに森田理論の学習自体の中に取り込んでいる。内観療法は森田理論の中にまだ取り入れてはいない。一週間の内観療法を行った人は、自己中心性が打破できている。これを日常内観として取り入れればさらに改善が望める。家族療法は、症状の成り立ちは家族関係のなかで生まれているという前提に立っている。森田を深めていくとどうしても親の教育、しつけの問題を考えざるを得ない。他の主だった療法はほぼ森田理論の学習のなかで取り入れていることである。簡単に説明すると来談者中心療法は、共感と受容の態度の養成のことである。論理療法は認知の誤りの修正手法である。意味療法はより深く生きる意味を考えていく手法である。精神分析は無意識に抑圧されている不安をあぶり出して無くしていく手法ですが、私はあまり乗り気にはなれない療法である。こうしてみると、主だったものはすべて森田理論学習に取り込まれているということである。問題としては、森田理論を神経症の回復、神経質者の人生観の確立に寄与するまで深耕しているかということである。私は森田理論学習によって、まちがいなく神経質者の人生観の確立はできるという立場に立っている。
2015.08.02
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今月号の生活の発見誌に「社会学から見た生活の発見会」という記事がある。その中に、「発見会に集う方々の中には、森田療法のおかげでかなり前進できたものの、ある地点から前にはどうしても進めない、という方々も間違いなく存在するはずです」というのがある。これについて考えてみたい。これは私が体験したことである。また多くの人が経験していることであると思う。では森田理論には神経症を克服する力はないのかということになる。これは認識の間違いであると考えている。そもそも神経症の克服をどう考えているのかという問題から説明しないとならない。私はその人に応じて4つの段階があると考えている。1、 神経症の苦しみは横において、行動実践によって、生活、仕事、勉強、家事、育児がなんとかこなせるようになってきた。あるいはものそのものになって創意工夫できるようになった。これも初歩的ではあるが神経症を克服したと言えるのである。森田先生の入院療法にしてもこの段階で全治として退院させておられました。2、 神経症は多くの認識の誤りがあります。それらを自覚して修正していくことが重要です。その最たるものは「かくあるべし」的思考方法をとるということです。すると自分の考えている事と現実のミスマッチが起きます。これが神経症発症の原因の一つとなっています。そのことを森田理論学習でしっかりと理解する。そして、観念ではなく事実や物事に視点を置いた生活ができるようになる。これが第2段階の治り方です。第1と第2段階はかなり大きな壁があります。一人では克服困難と思われます。また短期間で克服することは難しいところです。でも粘りつよく取り組めば克服可能です。3、 森田先生が大学卒業と言われている治り方が第3番目です。物事を自分勝手に価値判断しないということです。よいとか悪いとか、正しいとか間違いだとか、苦しいとか楽だとかという価値評価の拘泥を超越して生活する段階です。自然と調和して、自然の動きと同化して淡々と生きていく段階です。順調に2の段階をつき進めていくとこの段階に入ってゆきます。例えば人前に出ればあがる。それはよくないことだ。精神を鍛えて、人前でも物おじしない堂々とした人間にならなくてはいけない。等と普通は考えます。森田の学習が進むと、人前であがるというのは自然現象である。自然現象はどうすることもできないものである。あがるということをやりくりしてはいけない。そのまま受け入れて、事実に服従しなければならないというように考えることができます。ところが心の中では依然として、これが良いとか悪いとかの是非善悪の価値判断をしているのです。これでは本当の意味で事実本位を体得していることではありません。感情の事実を受け入れるということは奥が深いのです。4、 神経質者は元々強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、境遇に柔順になり、自らの運命を切り開いてゆくようになります。これが第4の最終段階です。この段階では、症状を治すということを通り越して、神経質者としてよりよい生き方を目指してゆくことになります。以上のように、神経症の克服は4つのステップがあります。どのステップを目標とするのかはあなたの選択に任せられます。一般的には1の段階で完治とみなされることが多いように思います。でも依然として生きづらさが気になるという人は、それ以上のステップを目標にする必要があると考えます。肝心なことは、必ずしも神経症で苦しんでいる人すべてが第4ステップを目指す必要はないということです。第1ステップで社会に適応できればOKと考えている人は、もうすでに完治ですから森田から離れてしまってもかまわないということです。問題点としては、この記事にあるように、森田理論学習がその各ステップに見合う学習内容を準備しているのかという点です。例えば、認識の誤りについては、どういう誤りを犯しやすいのか。その中身はどうなっているのか。特に「かくあるべし」的思考方法から、事実本位の生活態度に転換するにはどうしたらよいのか。どうアプローチして解消していくのか、明確な指針がなくてはなりません。個人で気づくことは至難ですので、学習ツールを提供して自分のものにしてもらうことが先決だと思います。ですから第2ステップ以降は学習プログラムが整備されていないということが問題です。想像してみてください。第2、第3、第4の学習目標が誰にもわかるような形で整備されているとすると、自分の進むべき方向はしっかりと見えてきます。たとえ大きな壁が立ちふさがっていようとも、それを乗り越えて自分のものにしようとする人は格段に増えてくるものと思います。
2015.08.01
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私たちは神経症に陥ると早くこの苦しみを取り除きたいと考えます。例えば、対人恐怖症になると何かと人の思惑が気になる。人が自分をどう見ているか、あるいはどう扱おうとしているのかが気になって生きた心地がしないのです。人から無視される。からかられる。バカにされる。批判される。叱られる。冷遇される。能力のない奴だと思われる。等ということがあってはならないと考えているのです。それを感度のよいレーダーでいつも監視しているようなものです。寝る間も惜しんで監視活動ばかりしているのですから疲れます。しかしそれほど、注意して気をつけていてもそういう悪い出来事に絶えず出くわすのです。また神経が過敏になっていますから、普通の人はどうということがないようなことにもひどく動揺するのです。また錯覚もよく起こります。人が笑っただけで自分をバカにしている。雑談しているのを見ると自分のことをバカにしているに違いない。自分の方を見ている人を見つけると、欠点や弱みを見て軽蔑しているに違いない。等とネガティブに推測して決めつけるのです。こういうことはなぜ起こるのでしょうか。それは無意識に人から常に重要視され、羨望のまなざしで見られなくてはならないという「かくあるべし」があるのです。しかし、頭でいくら考えていても、容姿、性格、能力、生まれてきた環境が、完全、完璧ということはありません。だから、次善策として自分は完全ではないけれども、せめて人からは不完全で欠点やミスの多い人間に見られないようにやりくりして隠してしまおうと考えるのです。そしてさらに、人から無視される。からかられる。バカにされる。批判される。叱られる。冷遇される。能力のない奴だと思われるような感情が湧き起ってくると、そういう感情自体を拒否したり、無視したり、抑圧したり、否定するようになるのです。つまりネガティブでマイナス感情が湧き起っているのに、そんな事実はないというような態度をとるのです。自然現象である感情を自分の意思でコントロールしようとするのです。これが悩みのもとです。そんな悩みを解決する方法を提案いたします。それは、一言でいうと、他人の悲観的、マイナス感情を受け入れてあげるという方法です。自助努力で自分を変革しようとしてもとても難しいことだと考えています。骨の髄まで染みこんでいる体質を変えることは大変困難な作業なのです。でも他人の場合は、比較的客観的になれるのです。何度も言いますが、これは自分自身に対して行うのではないのです。実施する相手は、自分の子ども、親、職場、学校の友達などに対しておこなうのです。どうすればよいのか。具体的に話しましょう。まず相手の話をよく聞くことです。話してくれない場合も、相手の態度、表情、しぐさをよく観察してください。そして相手が今どんなことを感じているのかを察知することに全神経を集中させるのです。ある程度わかったら、相手になり変わって相手の今の気持ちや感情を話してみるのです。私は今あなたがこう感じていると思いますがそれで間違いありませんかと聞いてみることです。このことに全力で取り組んでみることです。多分今までは、そんなことは無視していた人が多いのではないかと思います。反対に相手に対して、自分の気持ちや意見を一方的に話すことが多かったのではないかと思われます。つまり相手の悲観的でマイナス感情を共感的態度で聞くことはなかったかと思います。ましてや相手の感情を受容するということは思いもよらなかった。逆に一方的に否定してきたということです。これを改めて、悲観的、マイナスの感情を受け止めてあげるということです。こう方向で努力してみるということです。これは子育ての際、最も注意しなけばならないことなのです。ここで肝心なことは、受け止めてあげるだけで相手の感情に対していいとか悪いとかの価値判断はしないということです。こうしたことが自分の身近な人に対して実践できるようになることが大切です。これができるようになったあかつきには、自分の悲観的でマイナス感情も受け入れることができるようになるのです。これはコインの裏腹の関係にあります。自分の場合に適応して実践することは難しいわけですから、まず他人のマイナス感情を価値判断しないで受け止めてあげるという方向で努力してみるということが大切だと思います。この話を聞いて、自分は相手の悲観的でマイナスの感情を否定しないで、じっくりと聞いて共感し、受容してきたと思われている人もおられると思います。そういう方は必然的に、自分の悲観的でマイナスの感情もきっと否定しないで受け入れることができる人だろうと思います。そういう人は対人的な葛藤も少ないでしょうし、神経症にも陥ることはないだろうと考えます。
2015.07.19
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7月5日の投稿記事は下記の投稿に替えてください。この方が分かりやすいと思います。「認識・認知の片寄りの修正手法」についてみてゆきましょう。作業1不安や不快の感情のもとになった出来事、事件について詳しく書き出してみましょう。作業2自分の物の見方、感じ方、考え方の癖についてありのままに書き出してください。また、他者にどんなことをしゃべったのか。どんな行動を起こしたのか。具体的に書いてください。作業3自分の認識・認知の片寄りを見つけましょう。この手法は、自分のものの見方、考え方、行動の仕方は、認識・認知の片寄りやゆがみがあるのではないかという前提にたつことが大切です。色眼鏡をかけてみているのではないかと考えてください。その自覚に立ってこそこの手法は成り立ちます。できるだけ多くの片寄りやゆがみ見つけることが大切です。その時に、手掛かりとなるのは次の項目です。参考にしてください。a、 事実を無視したり、軽視していることはありませんか。b、 先入観で一方的に決めつけるようなことはありませんか。c、 論理的に整合性はとれていますか。とるに足りないようなことを、極端に大げさに考えてはいませんか。d、 よいか悪いか、白か黒か、100か0かといった二分法的な思考方法をとっていませんか。e、 第一の感情、直感、森田でいう「純な心」を十分に味わっていますか。f、 「かくあるべし」という視点から見ていませんか。g、 完全主義、完璧主義で見ていませんか。h、 悲観的、ネガティブ一辺倒な見方になっていませんか。i、 気分に振り回されて、やるべきことからすぐに逃げ出したり、あきらめたりしていませんか。j、 弁解、自己擁護、自己否定、他者否定、社会批判をしていませんか。作業4認識・認知の修正をしてゆきましょう。別の見方、逆の考え方、反対の視点を思いつく限り考え出してください。選択肢を広げて思いつくまま書いてみてください。マイナス面だけでなくプラス面も書いてください。ネガティブな考え方にはポジティブな考え方も書いてみてください。また、悲観的な状況が現実となった場合、最悪の事態を想定してみてください。このようにして、自分の考え方、ものの見方の癖を自覚していくのです。一つの見方しかできなかったものが、2つ、3つと多面的に見れるようになることが大切です。一つ例を載せておきます。森田先生の入院生の実例です。ある方がウサギの世話をしておられた。ウサギに餌をやりに小屋に入った時、突然猛犬が飛び込んできて、一羽のウサギをくわえて逃げ出し、噛み殺してしまった。誤った考え、行動(物の見方、考え方の癖を見つける)その方は、これは入口の作り方が悪いからこんなことになったと弁解された。自分のせいではない。だから自分のことを叱責しないでほしい。寛大に許してほしい。問題点(認識・認知の片寄りに気づく)この方は、とっさに目の前でウサギがかみ殺されて、ぞっとした戦慄が走ったことだろう。でも次の瞬間、そんな目を覆いたくなるようなおそろしい感情は無視しました。そして、責任を転嫁して自分が叱責されたり、軽蔑されたりすることから身を守ろうとされました。どうすればよかったのか(認知の修正)事実から目をそらさないこと。出来事に対しても湧き起ってきた感情に対しても。この方は猛犬のことは何ら触れられていない。普通なら棒きれでも持って犬を追いかけるのではなかろうか。そしてウサギを取り戻すことを考えるのではなかろうか。そして湧きあがってくる感情と向き合う。自分の不注意によってウサギが命を落とした。かわいそうなことをした。無念だ。ここに焦点を合わせるべきだった。事実に向きあっていれば、犬の飼い主に放し飼いの責任追及をする。さらに野犬対策について取り組むことになるかもしれない。また、森田先生に報告する。説明をして謝る。今度はこんなことが起こらないように内鍵をとりつける。殺されたウサギの始末をする。益々創意工夫するようになる。言い訳ばかりに注意を向けていると、自分が許してもらいすればよい。それ以外のことは、どうなってもかまわない。自分の関知するところではない。そして、もう二度とこんな目に合わないように、ウサギの世話は一切しないという態度になってしまうのではないか。この作業は一人でやる方法もあります。一人で行う場合は、ノート等に書き出して、反駁をしてゆきます。物事を客観的に両面観で見ることができるようにもってゆきます。次に人から反駁をしてもらう方法があります。その場合は、素直になって聞くことです。反発したくなっても、まずは我慢して聞いてみることです。さらによい方法があります。具体的な事例を出し合って、何人かで検討してみることです。集談会などの学習の場を利用するとよいでしょう。さまざまな反駁が出て、多くの気づき、発見が生まれる可能性があります。最終的には、自分の普段の生活の中で、自分の考え方は一面的ではないか。短絡的で投げやりになっていないか。ネガティブ、悲観的ではないか。先入観や決めつけで判断していないか。「かくあるべし」で自分を追い込んでいないか。自己検証ができるようになる能力を少しずつ獲得してゆきます。認識・認知の誤りは数多くありますので、一つ一つ先輩会員の協力を得て検討してゆきましょう。課題・最近のあなたの不安や恐れの感情が湧き起った出来事を詳細に書き出してみてください。・それに対して相手や自分に対してどんな対応、言動をとりましたか。・その中に認知の誤りはありませんか。上記aからjにあげたところを参考にして考えてみましょう。・もし認知の誤りがあれば、別の見方、逆の考え方、選択肢を増やして考える。プラス面も見る、ポジティブ面も見る。等で認知の修正を行いましょう。・集談会などでもこれにそって取り組んでみましょう
2015.07.12
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7月7日の「不安・恐怖の受容手法」に記載漏れがありました。ステップ5の部分です。追加のほどよろしくお願いいたします。
2015.07.09
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7月3日の投稿記事の「療法」を「手法」に変えて再度説明します。集談会で森田理論学習をする目的はなんでしょう。神経質性格を持った人は、心配性で何かにつけてとらわれやすい。とらわれてしまうと日常生活に支障が出てきます。最悪神経症に陥ってしまいます。またとらわれているときは、慢性的な抑うつ状態になり、生きづらさを感じるようになります。とらわれの強い人はとらわれを無くしたい。できるだけ小さくしたい。生きづらさを抱えて苦しんでいる人は、その苦しみを無くしたい。できるだけ苦しみを軽減したい。これらの問題解決のために次の4つの手法を提案いたします。これは森田理論、認知的アプローチ、行動的アプローチを組み合わせたものです。問題解決のためには、これらをそれぞれ単独で学習・体得するのではありません。それぞれ各手法のすぐれたところを取り入れて、バランスよく学習・体得するのです。いわば、4つの手法の総合力で神経症のとらわれや生きづらさを改善していく方法です。その4つの手法とは次のものです。1、欲望と不安のバランス回復手法2、実践・実行手法3、認識・認知の誤りの修正手法4、不安・恐怖の受容手法簡単に言うと、「バランス手法」「実践手法」「認知手法」「受容手法」の4つです。これをイメージするために大きな円を鉛筆で書いてください。円の一番上に「実践手法」と書いて丸で囲んでください。一番下に「受容手法」書いて丸で囲んでください。円の左に「バランス手法」と書いて丸で囲ってください。円の右に「認知手法」と書いて丸で囲ってください。不要な線は消してください。4つが四方に書けましたか。この中に、神経症のとらわれ、神経質者の生きづらさが入っていると思ってください。最初は円に目一杯膨らんでいます。でも、この4つの手法を用いて、学習を積み重ね、体得を繰返してゆけば、とらわれや生きづらさはどんどん勢力を失ってしぼんでゆきます。4つの手法がそのふくらみを突き破って空気が抜けていくようなイメージです。完全にはなくならないでしょうが問題にならない程度に小さくなっていくでしょう。さてこの4つの手法は頭で理解しただけでは不十分です。実際に生活の場に応用してこそ意味があります。ポイントを説明します。欲望と不安のバランス回復手法・現在あなたは不安と格闘していますか。不安を抱えたまま生活ができますか。それともまだ無理でしょうか。・ところで、あなたの今現在の欲求や欲望はなんですか。・欲望と不安のバランスは意識していますか。バランスはとれていると思いますか。実践・実行手法・今のあなたはどの行動レベルにありますか。自分の行動レベルに精一杯取り組んでください。認識・認知の誤りの修正手法・最近の不安や恐れの感情が湧き起った出来事を詳細に書き出してみてください。・それに対して相手や自分に対してどんな対応、言動をとりましたか。・その中に次のような認知の誤りはありませんか。(事実の軽視、「かくあるべし」的思考、完全主義、悲観一辺倒、先入観での決めつけ、大げさに拡大している、気分本位、自己否定、他者否定など)・もし認知の誤りがあれば、別の見方、逆の考え方、選択肢を増やして考える、プラス面も見る、ポジティブ面も見る。等で認知の修正を行いましょう。不安・恐怖の受容手法・現在5つのステップのうちどれに力を入れていますか。自分の重点を決めて取り組んでみましょう。これらを、期間を決めて振り返ってまとめてみてください。例えば日記に書く。一週間に一回、あるいは集談会の前に振り返ってみる。そして経過を集談会で発表してみる。あるいは先輩会員に聞いてもらう。そして気づいたことを教えもらう。また、他人の体験もよく聞いて参考にする。また、この4つの手法を集団で学習すると効果があります。特に「認識・認知の誤りの修正手法」等です。こういう学習と実践を続ければ、1年もすれば顕著な効果が現れてくると確信しています。
2015.07.08
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最後に「現実や事実の受容療法」に見てゆきましょう。その前に確認しておきたいことがあります。自分の身の周りに起きることをすべて受容するということではありません。不安に学んですぐに手を出して対策を立てなければならないこともあるということです。例えば自分の不慮の事故に備えて生命保険に加入して家族の生活を保全するなどといったことです。また、地震に備えて家具を固定しておく。耐震化工事をしておくといったことなどです。私たちの身の回りに起きる出来事の中にはそういう部分も含まれているということです。それらは不安を受け入れるのではなく、不安に学んで早急に対策を立てることが必要です。それ以外で、手を出すと事態がますます悪化すること。人に大きな苦痛や迷惑をかけること。どうすることもできない不安や不快感、恐れや違和感などは手を出さないで受け入れてゆきましょうということなのです。前提として事実は4つに分けて考えてみましょう。その方が整理しやすいと思います。1、 自然に湧き起こってくる感情のことです。台風が来たり、雨が降ったりする自然現象と同じです。私たちに意思の自由はありません。ですから、どんなに醜悪な感情が湧き起っても責任をとる必要はありません。2、 自分の容姿、性格、素質、能力、境遇等です。また自分たちの引き起こしたミス、失敗、過失などです。3、 他人の自分対する仕打ち等です。また相手の容姿、性格、素質、能力、境遇等です。自分の思い通りに変えること難しいですし、むしろ素直に認めることの方が大切です。また他人の引き起こしたミス、失敗、過失などです。いかに理不尽なものであっても、最終的にはその事実を受け入れることが大切だと思われます。4、 台風、地震、火山活動等の自然災害、経済的な危機、紛争、伝染病の蔓延等です。できる限りの備えをしておくことは大切ですが、どうにもならないことは最終的には受け入れていくしか手の打ちようがありません。その上で、不安や不快感などはどう受け入れていくのがよいのか。第1ステップ 事実をよく観察する。比較してもよいので、比較して違いをよく把握する。事実を両面観で見ていく。私たちは自分の周りに起こった出来事をよく観察しないで、いままでの経験の記憶をもとにして、先入観を持って決めつけてしまいがちです。そして、安易に思いついたことを絶対だと思って行動してしまうという特性があるのです。ここでのキーワードは、出来事をよく観察しましたか。観察内容を森田の先輩等に話してみましょう。第2ステップ 事実は隠さない。事実は決して捻じ曲げたりしない。具体的話す。赤裸々に話す。ここでのキーワードは、話が抽象的になってはいませんか。「みんながそう言っている」「いつも失敗する」「絶対に間違いない」「もう手のうちようがない」「もうダメだ」「うまくいくはずない」「自分が悪いんだ」「こうすべきだった」等という言葉が出るときは要注意です。事実を捻じ曲げているので、どんなにとり繕っても事実からどんどん離れていく。悪循環が続く観念の世界に入っていってしまうのです。あなたは、不安や不快感が起こった時、事実を具体的に詳細に話していますか。第3ステップ 事実はよいとか悪いとかの価値判断を持ち込まない。事実を正確に把握することだけに注力する。価値判断を自分や他者に押し付けることは失礼なことです。自分に対しても相手に対しても、説教、批判、禁止、叱責、怒り、指示、命令などで対応することはありませんか。お母さんは子供に対して、「そんなことをしてはいけません」「グズグスしないで早くしなさい」「もっと頑張らないとダメじゃない」ということはありませんか。これらの言葉は要注意です。自分の価値観、「かくあるべし」を他人や子供に押し付けているのです。自分勝手な価値判断を自分や他者に押し付けないという態度をとれるようになることは容易なことではありません。でもそうした態度をとれるようになると、自分の気になることにとらわれ続けるということは急速に勢いを失ってくるものなのです。第4ステップ 「純な心」を体得する。初一念から出発するとも言います。分かりにくい言葉ですのでたとえ話をあげてみます。たとえば中学生ぐらいの女の子が夜の10時ごろに帰宅したとします。親として瞬間的に湧いてくる感情は、「大丈夫だろうか、なにかあったのだろうか」と心配になります。ところが娘が帰ってきて出る言葉は、「今何時だと思っているんだ、遅くなるときは家に連絡しろ。家族に心配かけるのもいい加減にしろ。」などです。理由も聞かず親の不快感を一挙に娘にぶっつけてしまいます。こんな場合最初の瞬間的に湧き起こった感情を思い出して対応することが大切です。あとからでてきた感情は「かくあるべし」ですから無視することです。こういう事例研究を集談会などで行いながら、自分でも行動として実践出来るようになることが重要です。第5ステップ 私メッセージの発信ができるようになる。これは親業での重要な学習項目です。森田理論学習も他のよいところは積極的に取り入れてゆく方がよいと思います。例えば学校で生徒が脚立に立って展示物をとりつけている時に、足を踏み外して転落しそうになった。その時の先生の発言。「あなたメッセージ」では、先生が生徒に向かって「不注意にも程がある。すぐに降りろ」と叱った。「私メッセージ」では、「先生は君が転落するかと思ってとても恐ろしかった。」などの発言になります。「私メッセージ」は森田で言う「純な心」からの対応です。感情の事実を受け入れるとは、こういうことが実践できるようになるということです。
2015.07.07
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次に「実践・実行療法」についてみてゆきましょう。この療法は他の療法に比べると即効性があります。これについてはみなさんよくご存じだと思います。注意点としては、この療法だけに偏っては、考えているような効果は得られないということです。4つの療法の一つだと認識することです。バランスよく学習、体得する必要があります。この療法では目標とするレベル、段階に違いがあります。順序を追ってレベルを高めていくことが重要です。レベル1 気が進まなくてもイヤイヤ、仕方なく手足を動かしていく。仕事では月給鳥という鳥になったつもりで会社に出かける。仕事の目的は生活費を稼いで来ることです。目的を見失わないようにしましょう。家事では超低空飛行を心がける等といいます。必要最低限のことだけを心がけることです。レベル2 実践課題を作って取り組んでみる。布団あげ、部屋の掃除、靴磨き、風呂の掃除、トイレの掃除、車の洗車、ペットの世話、花等の手入れ、家庭菜園、地域の活動、趣味、運動等課題を作って取り組んでみる。レベル3 気づいたことを逃さないようにメモして課題のストックをためていく。できることから手をつけていく。雑仕事、雑事を大切にする。コツはものそのものになりきって行うということです。注意点は、今できることは一つしかない。完全にこなそうと思わず、6割できればよしとする。変化に臨機応変に対応して、優先順位を意識する。これは、森田では無所住心の考え方です。レベル4 規則正しい生活を心がける。自分の不安や心配事よりも仕事、勉強、家事、育児に力を入れていく。レベル5 物、自分、他人、お金、時間をできるだけ有効に活かして使う。森田では「物の性を尽くす」といいます。レベル6 人の役に立つことを見つけて行動する。レベル7 好奇心を活かして、やってみたい趣味等に取り組んでみる。仲間との交流の体験を持つ。一人一芸を身につけるなど。レベル8 大きな目標、課題を設定する。コツコツと地道な努力を重ねていく。目標達成に向けてチャレンジしてみる。以上大まかに分けてみました。これ以外にもあるかもしれません。まずはレベル1からはじめてレベル4までに力を入れましょう。この段階までを軌道に乗せることが大切です。実施にあたっては、森田理論に詳しい先輩などに日記指導してもらうと効果が増します。
2015.07.06
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次に2番目の「認識・認知の誤りの修正療法」についてみてゆきましょう。神経症に陥った人は、客観的で正しい考え方や見方ができなくなっています。そこにとらわれたり、逃避していると神経症を引き起こしてしまいます。物事をよく見ていない。先入観が強すぎる。思い過ごしが強い。マイナス一辺倒である。否定的である。無茶である。極端である。飛躍しすぎである。自分勝手に決めつけている。希望的観測が強い。完全主義である。理想主義である。などです。具体的な例で考えてみましょう。1、 ミスや失敗などをしたとき、「自分の人生はもう終わったも同然だ」と考える。たとえば、会社で事務処理の間違いを起こし、上司に叱られた。すると、みんなから、無能力者扱いされて、もうこの会社での居場所はない。くびになるだろうなどと飛躍して考える。これは考え方がものすごく飛躍しています。論理的に整合性が取れていません。2、 一度恋愛に失敗すると、これからも恋愛はうまくいかないはずだと決めつける。また、私は人と付き合っても、最後にはいつも嫌われて、飽きられてしまうと思ってしまう。自分勝手に悪い方に考えすぎています。3、 物事には完全かゼロしかないというような極端な考え方で結論を出す。白か黒と決めつけてしまう考え方。この友人は自分にとって役に立つ人かそうではないのかどちらかに決めつける。役に立つと思えればべったりと引っ付き、そうでないと思うと全く寄り付かなくなる。その中間をとった付き合い方は考えられない。4、 データの裏付けもないのに、自分勝手に否定的な結論ばかり出す。同僚が笑いながら雑談しているのをみて、きっと自分の悪口を言っているに違いないと決めつける。多くの人から評判がよく、有能であると認められているにもかかわらず、たった一人からの評判をくよくよと悲観的に考えたりする。それに振り回される。5、 自分の先入観で些細なことやネガティブなことばかりを気にする。物事を両面観でバランスよく見ることができない。テストでおおむねできているのに、間違ったところばかりを気にして落ち込む。職場での考課表でプラスの面があるのに、マイナスの評価ばかりに目が向き、劣等感に陥る。6、 自分の周りで良くないことが起こった時、自分に責任がないような場合でも、自分のせいにしてしまう。罪の意識を抱く。罪を償わなくてはいけないと考える。たとえば学校や会社で物がなくなったと友達や同僚が騒いでいるとき、自分が盗まれたと思われているのではないかと気にしてしまう。7、 確たる根拠もないのに、悲観的な結論を出してしまう。たとえば、あなたが大学の先生で、とても素晴らしい講義をしたとしましょう。しかしあなたは居眠りをしている学生を見つけました。実際にはこの学生は前の晩はコンパで飲みすぎて疲れていたのですが、あなたは、「どの学生も私の講義を退屈がっているのだ」と考えてしまうようなことです。8、 自分の感情を根拠に決めつける。自分の感情が現実を証明する証拠であるかのように考えてしまうことです。たとえば、「自分が何をやっても、うまくいかなくダメな人間のように感じる。その感情が湧くことが何よりダメな人間の証拠だ」や「私はあなたに対して腹を立てている。これは、あなたは価値のない人間であることの証拠のようなものだ」などのように考えてしまうことです。9、 自分や他人に対してレッテルを貼って決めつけることです。たとえばスポーツで失敗をしたとき、「私は何をやってもいつも失敗する」と思ったり、他人が失敗をしたとき、「あの人は能力のない人」と決めつけてしまうことです。そういう先入観ですべてを判断してしまう態度のこと。10、 「かくあるべし」的思考をする。自分に対して、他人に対して「○○しなければならない」「○○してはならない」と規範で行動を規制しようとすること。現実、現状、事実を無視しています。理想と現実が違うことを思想の矛盾といいます。森田では、この認識の誤りが神経症の発症に大きく絡んでいると考えています。この療法は、自分の物の見方、考え方、行動の仕方は、認識・認知の誤りやゆがみがあるのではないかという前提にたつことが大切です。その自覚に立ってこそこの療法は成り立ちます。この修正療法では、別の見方、逆の考え方、反対の視点を思いつく限り考え出して、反駁をしてゆきます。その場合、一人でやる方法もあります。一人で行う場合は、ノート等に書き出して、反駁をしてゆきます。物事を客観的に両面観で見ることができるようにしてゆきます。次に人から反駁をしてもらう方法があります。その場合は、素直になって聞くことです。反発したくなっても、まずは我慢して聞いてみることです。さらによい方法があります。具体的な事例を出し合って、何人かで検討してみることです。集談会などの学習の場を利用するとよいでしょう。さまざまな反駁が出て、多くの気づき、発見が生まれる可能性があります。最終的には、自分の普段の生活の中で、自分の考え方は一面的ではないか。短絡的で投げやりになっていないか。ネガティブ、悲観的ではないか。先入観や決めつけで判断していないか。「かくあるべし」で自分を追い込んでいないか。自己検証ができるようになる能力を少しずつ獲得してゆくことです。認識・認知の誤りは数多くありますので、一つ一つ先輩会員の協力を得て検討してゆきましょう。
2015.07.05
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それでは、簡単に1番目の「欲望と不安のバランス回復療法」から見てゆきましょう。それでは最初の質問です。現在のあなたの不安に感じている事、とらわれていることはなんですか。できるだけ具体的に詳しくお話しください。次の質問です。もし症状を克服したとしたら、どんなことをしてみたいですか。夢とか希望があったら教えてください。今はそれどころではありませんという方もおられると思います。そういう方は、子供の頃、大人になったときこんな仕事をしてみたい。こうゆう家庭を作りたい。こんな生活にあこがれる。こんな人の生き方にあこがれた。あるいはこんなことに挑戦してみたいということはありませんでしたか。よく思い出してみてください。きっと多かれ少なかれあったと思います。是非思い出してみてください。ここで森田的レクチャ不安は欲望の裏表だと言います。コインの裏表の関係と同じです。欲望を本体とすれば、不安はその影です。欲望が10あるとすると不安も10となります。欲望が5とすると不安は5です。正比例しています。薬物療法をはじめとして、他の療法は不安を目の敵にして取り除くことに力を入れています。森田では欲望と不安は一心同体であるので、取り去ることはできないし、取り去る必要もないという立場です。不安の見方が変わるまで、しっかりと理解しましょう。次の質問です。いまあなたの不安、とらわれの苦しみを10とすると、欲望はどれぐらいですか。もし10以下だとするとバランスが崩れていますね。もしこれがサーカスの綱渡りをしているとすると、すぐに落下してしまいます。どうして、バランスが崩れてしまったのでしょうか。考えてみましょう。森田的レクチャ不安があっては、欲望の達成の障害になってしまう。障害あっては欲望が達成できない。だからまず、目の上のたんこぶである不安を取り除こうとした。でも、不安はしつこくてなかなか取り除くことができなかった。そのうち欲望の達成は蚊帳の外になり、不安を取り除くことばかりに注意が向いてきた。ミイラ取りがミイラになったようなものです。このことを森田では、手段の自己目的化が起きていると言います。そのうち精神交互作用により、もがけばもがくほど蟻地獄に落ち込んでしまいました。そしてついに神経症として固着してしまいました。不安は意味もなく存在しているのではありません。不安には大きな役割があります。不安がないと、欲望が暴走することがあります。不安は欲望が暴走しないようにブレーキの役割を果たしています。アクセルばかりで、ブレーキがないと重大な事故を起こしてしまいます。このこともしっかりと理解してゆきましょう。欲望と不安はどちらも必要です。でも欲望が暴走すると大きな問題を生じさせます。反対に不安にばかりとらわれてしまいますと、神経症に陥ってしまいます。特に私たちは不安を邪魔者扱いしています。これは厳に慎む必要があります。不安と欲望は常にヤジロベイのように、右に傾けば左に、左に傾けば右へとバランスをとることが必要です。それでは最後の質問です。欲望と不安のバランスをとるためにどうすればよいと思われますか。ご一緒に考えてみましょう。森田的レクチャ不安にとらわれる人は欲望と不安のバランス感覚が働いていません。症状が表面化している時は、不安の解消ばかりに注意が向いています。その場合、バランスを回復させるためには、不安は放置しておいて、「生の欲望の発揮」に目を向けていくことです。そのためにすることは何か。まず、意識付けとして目につくところに「やじろべい」を置いておく。生活面では、規則正しい生活を回復させる。雑事に取り組む。軌道に乗り始めたら、3番目の「実践・実行療法」に本格的に取り組む。神経症の方は不安に大きく振れることが多いという自覚を深めていくことが大切です。最終的には、臨機応変に欲望と不安のバランスがとれるような能力を獲得することです。何回も手を替え、品を変えて十分に学習して、対応力を身につけましょう。不安と欲望のバランスを回復するための学習と実践は、森田理論に詳しい先輩会員からのアドバイスが有効だと思います。
2015.07.04
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私の主訴は人の思惑が気になるということです。集談会には私のようなタイプの人がおられます。時には参加者の半分、あるいは大半がそうだということもあります。集談会に参加できるような人ですから、会社や学校にはなんとか出かけることはできている。主婦の人でしたら、なんとか家事や育児をこなしている。でも、人間関係に悩んでいる。雑談が苦手。いつも人間関係でビクビク、ハラハラしている。いつも対人的に鋭いアンテナを立てて防衛的になっているので苦しい。抑鬱状態で苦しい。仕事でもミスや失敗することが多い。それらの葛藤や不安を取り除きたい。少しでも精神的に楽になりたい。こういう状態で藁をもつかむ思いで参加されているのです。私はそういう方に対して、こう問いかけます。今の苦しみを100%とした場合、どの程度その苦しみを軽減したいと思われているのですか。10%ですか。20%ですか。50%ですか。80%ですか。それとも100%ですか。100%だという人は、自分の経験からそんなことはあり得ない。また治り過ぎの弊害を説明します。もっと現実的な目標にしませんか。ある程度の不安は受け入れることはできませんか。今よりも少し肩の荷が下ろした状態でも、かなり適応力が出てきますよ。自信がついて、生活できるようになりますよ。その前提として、森田理論学習を最低1年は取り組んでみてください。1年はできるだけ集談会に参加してみてください。そして仲間をよく観察してください。その上で、20%ぐらいでいいという人には、実現の可能性は大です。アドバイスしたことを素直に実施するだけで実現します。それは規則正しい生活をする。「なすべきこと」に丁寧に取り組むことです。そのためには生活の中での気づきを逃さないようにメモしていくことです。まずは気づきのストックを増やしていくことです。そして、できることから手をつけてみることです。全部できなくてもかまいません。むしろできないことが残るぐらいのほうがよいということもあります。さらに、自分の興味のあることにも手を出してみましょう。これらに真剣に取り組めば目標は達成できます。50%ぐらいは楽になりたい。そしたら50%の苦しみは耐えられますという人に対してはどうアドバイスするか。まずは今しゃべったことを引き続き継続すること。その上で認識の誤りを修正していくこと。考えることがマイナス思考である。ネガティブである。先入観で勝手に決めつけをしている。無茶でおおげさである。自己嫌悪、自己否定をしている。「かくあるべし」で物事をみてしまう。これらを修正していくことです。これには少し時間がかかります。ノウハウがありますので、それを身につけていくことも大切です。行きつ戻りつ、ラセン階段を上るような試行錯誤を繰り返して体得できます。でも体質が変われば、50%ぐらいは楽になると思います。そのための援助はできるだけさせてもらいます。80%ぐらいの改善を目指している人にはどうするか。今からそんな段階を目指すのは現実的ではありません。ハードルが高すぎます。この段階は、是非善悪の価値判断をしないようにする。どんな苦しい状況でも事実を受け入れるような人間になれる。いわゆる事実本位、物事本位の生き方ができるようになるということです。今はそんな段階もあるのかなと思うだけでよいのです。それは50%の状態が達成された時に考えればよいことです。このように、ある程度具体的な目標が見えていないで、やみくもに森田理論学習を続けるということは、途中で挫折することになるかもしれないと考えています。
2015.07.01
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神経症になると生きることがつらい。なんとかしてこの心の苦しみを無くしたい。みんなそう考えます。雲ひとつない真っ青な秋空のような状態を求めます。こういう治り方は問題があります。つまり、治り過ぎ症候群です。私の知り合いにもいます。森田の第一段階の治り方で森田卒業と考えている人です。蟻地獄の底から地上に這い出し、生活が元通りにできるようになった。苦しくても、「なすべき」方向に舵を切ってゆけるようになり、以前よりも成果が上がるようになった。人からも評価されて、自信もでてきた。そんな自分の体験を絶対的なものだと思い、人にアドバイスをするような人です。本人は間違っていない。正しいことをしているのだと思っているのかもしれません。でもまだまだ悩みを持って苦しんでいる人から見ると、尊大で鼻持ちならない人に見えてしまうのです。つまり、悩みの最中の人に共感的受容の気持ちがなく、自分の考えを一方的に押し付ける。自分が治ったということを誇らしげに自慢しているように見えるのです。悩みの最中の人から見ると、以前症状に振り回されながらも、けなげに生きていたころの状態がよほど思いやりがあり、魅力的に見えてしまうのです。「過ぎたるは及ばざるよりもなお悪し」と聞いたことがあります。苦しんでいる人は不安や恐怖、不快な感情をすべて取り去りたい。たとえて言えば、無菌状態にしたいと思っておられると思うのです。苦しみの最中におられるときは無理もありません。でも無菌状態にして、集中治療室に入っていつまでも生活できるわけではありません。外に出たとき、無菌状態では抵抗力がなくて、すぐに悪い細菌が忍び込んできて体全体がやられてしまいます。ですから神経症を直すのもほどほどにしなさいということを言いたいわけです。強迫行為の人は、確認行為をして時間のロスがあったけれども、最終的には電車に乗って会社に行けた。不安神経症の人は、特急電車には乗れないけれども、各駅停車で目的地には行けた。対人恐怖の人は、ビクビクハラハラしたけれども、時間をかけて準備をしてプレゼンができた。このような状態の治り方を目指してくださいということです。多少は気になる部分、治らない部分をそのまま残しておいてくださいということです。その段階で治りましたと高らかに宣言をしてくださいということです。スッキリしない。まだ不安がある。苦しい。なんとかまだまだよくなりたい。無理もない考え方です。こんなふうには考えられませんか。曲がりなりにも目的は達成している。ということは、ほどほどには治っているのだ。それで十分だ。なんとか社会生活を送れる。社会に適応できて自立して生きていける。そこを神経症治療の最終目標にされてはどうですか。完全に治すと、課題、問題点、改善点、目的、目標はなくなります。実はこのことが一番問題なのです。当然森田理論学習には用がなくなります。完全に治っていないからこそ、生涯学習として森田を学び続ける意欲がわいてくるのです。なんでもできるように思えますが、実際には生きる目的を失ってしまう。生きがいを無くしてしまう。私もまだ完全には治っていない。2分や3分はまだスッキリしないところがある。その状態でも治りましたと言っているわけです。それは100%治すということは、それなりの弊害があるという事例を見てきたからそう思えるようになったのです。だからあえて、スッキリしない部分を残しておこう。いやそうしなければならないのだと固く言い聞かせているのです。
2015.06.30
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集談会での話です。夕ご飯の料理のことです。どういう基準で料理に立ち向かうのか。面白い話が聞けました。ある人はその時々で自分や家族の食べたいものを作る。その目的に沿って食材を買ってくる。なかには1カ月の献立をあらかじめバランスよく立てている人もいます。自分や家族の好物が並んでいます。嫌いなものを作ることはありません。またある人は、まず新聞に入っているスーパーのチラシをよく見る。実際にスーパーに行ってとにかく安い食材を買い込む。その食材を見て料理を考える。だから必ずしも家族の好物ばかり作るわけではない。スーパーは特売日があるので、いろんなスーパーで買い物をしている。特に野菜は店により、時期的に値段に差がある。また品薄で高い野菜は敬遠して代替商品に変更している。最初の人の考え方の長所は自分の感じ方から出発している。自分や家族の好みや意志をはっきりさせている。食に関してはストレスが少ない。自分や家族から料理の不満がない。欠点としては料理が偏る。見たこともない料理にはあまりお目にかからない。料理のバリエーションが少なくなる。肉が好きな人は肉料理が多くなる。魚の好きな人のメイン料理はいつも魚になる。中華料理の好きな人は中華料理が多くなる。酒が好きな人はつまみのような料理が多くなる。趣向品が多くなり、勢い栄養のバランスが崩れたりする。食費が多少多くかかる。次の人の長所は食費の節約がある程度できる。月間の食費の予算を立てて、計画通りに進めている。家計簿をつけて食費だけでなく、その他の経費項目についてもなるべく予算内に収めるように考えている。それだけ頭を使いやりくり上手なのである。欠点としては好きな料理であっても、食材が高いものはあまり食べられない。安い食材を大量に買い込み、一度に多く作り何日も同じ料理を食べさせられることがある。特にカレーやシチュー等。そのため家族から不満が上がることがある。また安いものということが頭にあり、買い物に時間がかかり、生活のリズムが崩れやすい。さらに思いつきの簡単な料理になることが多く、手間暇のかかった料理は少なくなる。美味しいとか見た目の鮮やかさ等はあまり関心がない。それが高じると生きるために仕方なく何かを作っているという状態になる。料理の後の後片付けイヤになることがある。こうしてみるとどちらも一長一短あるということが分かります。どちらの考え方がよいとか悪いとかの問題ではないような気がします。でも面白いことに、集談会ではこんな話題を出されると、感じから出発する方がよい。あるいはお金を大切に使うという(森田では物の性を尽くす)方がよい。どちらかに自分の立場を決めて、相手の意見に対して反発して議論を挑むということがあります。きついことを言うようですが、はたしてこんなことでいいんでしょうか。こんな時は、自分の態度をどちらかに決めつける前にすることがあるのではないかと思うのです。それは両面観でそれぞれの言い分の長所や欠点、よい点や悪い点を挙げて検討してみることです。よく比較検討して両者の違いをはっきりと認識してみることです。比較して両者の違いを十分に認識する。最大の注意点は比較だけにとどめておく。是非善悪の価値判断をすることは、「百害あって一利なし」という気持ちをしっかりと確認することだと思います。これは森田理論の中でも最重要事項だと思います。ここが体得できた人は、その後の人生がまるっきり変わってくるのです。森田先生はこのことを大学卒業程度の治り方だといっておられます。小学校、旧制中学を超えて大学卒業程度の治り方というのはまさにここにあるのです。みなさんここはなんとか体得しようではありませんか。そのためのご協力は是か非でもさせていただきたいと思っております。
2015.06.21
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対人恐怖症の人は人の思惑が気になって仕方がない。いつもちやほやされていたいのだが、事実は反対になる。非難されたり、無視されたり、バカにされたりの連続である。すると注意のほとんどが対人関係に振り向けられる。いつも自分を抑えて防御しているのですごく疲れる。気分はいつも曇天、時には風雨にさらされながら生活している。こんな状態では会社に行くのがつらい。学校に行ってもつまらない。インターネットでやっとセルフヘルプグループを見つけて参加しました。誰でもいいから、早くなんとか胸のつかえを取り除いてほしい。そんな気持ちで森田理論の学習会に参加されます。でもほとんどの人は1回で来なくなります。いわゆる様子見です。私もまったく同じ悩みを抱えていました。なんとかしてあげたい。でも空回りしています。その原因は、特効薬のようなものを性急に求めておられるからではないかと思います。そんなものがあれば同病のよしみですぐに差し上げます。もちろんそんなものはありません。どんな心理療法を受けられてもそんなものはないと思います。私はまず相手の悩みをよく聞くようにしています。そして学習会に続けて参加してみてください。最低1年は継続してみてくださいといっています。最初のうちはそれしか言いようがない。なぜなら森田理論の効果は「急がば回れ」的な対処方法なのです。森田ではよく症状は治すことはできないが治る方法があるといいます。森田の真髄である、悩みは取り除く方法がないというと相手が失望してしまうからです。本来は対人的な不安や悩みはいくら努力してもなくならないということを自覚することが一番です。努力したり一時的な気休めを求めて逃避すれば、ますます悩みは大きくなり泥沼化してきます。でも初めて参加した人は、不安や悩みを解決してもらいに来たのに、治してはいけない。治そうとするとますます泥沼化してくる。こんな話は聞きたくない。また実際森田に詳しい人が、そのようなことを最初から話してあげては「百害あって一利なし」です。でも真理は、落ちるところまで落ちて症状をとろうとする意欲や気力がなくなって、あきらめたときに初めて楽になれる。それが事実なのです。そういう覚悟を固めるための森田理論学習が必要なのです。そうなるとはじめて、そちらに集中していたエネルギーを自分の人生を楽しむため、自分の生活をより豊かにするためにシフトすることができるようになるのです。そういう考え方をしっかりと体得する。体得してしまえば、以前と比べると楽に生きている自分に気がつくと思います。10%でも意識改革ができれば、もう自分の人生の視界は大きく開けてきます。本当はこういうことが分かってほしいのです。でも逆説的な考えですから相手がそのことを自分で気づくことは大変難しい。ジレンマに陥るのです。さらに、もう一つ学習してほしいことがあります。私たちは先入観で何でもすぐに悪い方に決めつけてしまう。短絡的、悲観的、ネガティブ思考をしてしまう。その最大の認識の誤りとして「かくあるべし」という思考方法をとっています。完全主義、理想主義的な考え方です。この態度が自分の生き方を苦しめているのです。頭の中で考えた事と現実が一致しないために苦悩しているのです。この認識の誤りが正されてくると「思想の矛盾」で苦しむことが少なくなってきます。「事実のみが神様である」と言った心境で生活できるようになるととても楽になります。ここは奥が深い部分ですが、ものにする手立ては森田理論の中にしっかりと組み込まれています。簡単に言ってしまえば、森田理論では以上2つを身につける心理療法だと思います。対人恐怖症でのたうちまわっていた私が、やっと楽な生き方ができるようになった過程を振り返ってみると、この2つに集約できると思います。この体得は薬物を飲んで即効性で勝負するようなわけにはいかない。また、反発は大いに結構ですが、体得に当たっては素直であるかどうかというのが成否を分けるカギになると思います。
2015.06.18
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森田理論の自助グループに参加していて、神経症が治るという人と治らないという人がいるという。神経症が克服できるという人は、はじめてきた人に「神経症は治らない」というと誰も自助グループに参加しようとはしなくなる。「神経症はよくなりますよ」と言われて初めて参加意欲がわいてくる。神経症は治らないという人は、実際べテランでもすっかり症状がなくなっている人はまれである。つまり症状は「治らない」とするのが現実に合っている。最初はびっくりするかもしれないが、ここは正直に伝えたほうが後々信頼されると思う。それに医者でもない人間がなんの根拠もなく、やたらと「治る」を連発していたら、かえって信頼されないのではないか。(生活の発見誌6月号63ページより)治るということを、このように言われると混乱するのではなかろうか。この問題を考える時は、自助グループに参加された相手をよく観察する必要がある。今どんな生活をされているのか。仕事や勉強、家事や育児はなんとかこなしておられるのか。あるいは症状でまったく手がつけられないのかどうか。まったく手がつけられない方には、「受容と共感」の気持ちで相手の話を聞いてあげる。自分の体験を話してあげる。入院森田療法、外来森田療法施設を紹介してあげる。あるいは信頼できる臨床心理士を紹介してあげる。また内観療法などを受けられた方は体験談を話してあげる。認知行動療法を受けられ方は病院や体験を話してあげる。それぐらいのことしかできない。けがをして痛がっている人に、けがの原因を探って今度からはけがをしないようにしましょうとアドバイスしても何の役にも立たない。今は痛みを取り除くための応急処置が必要な時である。だから協力医の治療、臨床心理士等のカウンセリングを受けることである。基本的には我々の手には負えない。その人の周りに集まって励ましたり、共感することぐらいが関の山である。では、我々の森田理論の学習自助組織の目的は何か。神経質性格を抱えたままでなんとか社会に適応しようとしているが、その道はいばらの道なのである。困難を極めてついくじけてしまいそうになる。そこに焦点をあてて、もう少し肩の力を抜いて、楽に生きる道がありますよというのが森田理論学習なのである。我々の持っている性格を活かし「生の欲望」に沿った生き方を身につけること。「かくあるべし」をはじめとする認識の誤りを自覚して、基本的に事実を受け入れて、自然と一体となった生き方を体得していくこと。それは一人で極めていくことは非常に難しい。同じような境遇の人と切磋琢磨しながら和気あいあいの中で学習していく方がやりやすい。私は約30年森田理論学習と自助グループにかかわってきた。おかげさまで神経質性格を持ったままでよりよく生きていくことはどういうことかがはっきりと分かってきた。私の血となり肉となり森田理論学習を続けてきて本当によかったとしみじみと感じている今日この頃である。
2015.06.05
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鎌田實医師のお話です。24歳の女性が目の病気にかかった。ぶどう膜炎だそうだ。ぶどう膜とは、眼球の内部をおおっている脈絡膜と毛様体、虹彩の総称。目のほかの部分よりも血管がたくさんあるため、炎症を起こしやすい。炎症の場所や程度によっては網膜剥離、白内障、緑内障につながり失明することもあるという。この方の場合はその中でも原田病という病気だ。体内に侵入した細菌やウィルスをやっつける免疫システムに異常が生じ、自分自身を攻撃してしまう自己免疫疾患の一つ。白血球がぶどう膜を破壊していく病気である。この方は徐々に視力が無くなり35歳で全盲になった。この方がこんなことを言われている。全盲になったら案外しんどくないんですよ。それまでがえらかった。子どもは小さいし、自分の障害を認められなくて、相変わらず隠そうとしているし、杖をつくのもめちゃめちゃ恥ずかしかった。だから、知り合いに会うのがイヤですね。必ず言われるんですよ。「若いのにかわいそうにねえ」って。同情されるのが嫌いやったから、あの言葉が一番きつかった。母親や知り合いに連れられて、神様参りをやったのもその時分でした。眼病に効く、霊水で有名な京都の柳谷観音に参った。ひょっとしたら狐か狸でもついてるんとちゃうかと、テレビで見た霊能者のところへ月に2回ずつ半年通った。目が治ると言われたらどこへでも行った時期が3年から4年はあった。全盲になってそんな状態を抜け出すことができた。覚悟を決めることができたからだ。私はこの体で生きていくしかないのだ。だったらウジウジせずに、前向きに明るく生きて一度きりの人生を思い切り楽しんでやろうと気持ちを切り替えた。今は盲導犬を連れて外出し、音声パソコンを使いこなしているという。この話は神経症で苦しんでいる人には、勇気を与える話である。この人のように症状を治すことをやめる。症状を抱えたまま地獄に家を建ててそこで精一杯生きてゆこう。神経症は苦しいけれども、それを持ったまま生きてゆこう。そして自分の持って生まれた神経質性格を活かしてできることに目を向けていこう。プラスに活かして生きていこう。そのように考える方が、はるかに意味がある人生を送ることができるように思います。(なげださない 鎌田實 集英社参照)
2015.05.08
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プロスポーツ選手はよくスランプに見舞われる。プロ野球ではホームランどころかヒットさえ出ない。登板するたびに打ち込まれる。スランプに陥ると余裕が無くなる。早くなんとか立て直そうと焦りがでてくる。ところがあの手この手を尽くせば尽くすほど空回りする。最初は練習量で抜け出そうとする。うまくいかない。次に技術的に問題があるのではないか。自分のフォームを見直したりする。コーチなどに助言を求める。それでもうまくいかない。それからスランプであるということを考えないようにしようと考える。しかし思えば思うほど注意がスランプに向いてしまう。そうこうするうちに長くて暗いトンネルの中に入ってしまう。これは神経症に陥る過程とよく似ている。不安や恐怖を早くなんとか取り除こうと格闘すればするほど思いとは逆に深みにはまってしまうのだ。このことを精神交互作用と言う。最終的には蟻地獄の底に陥ってしまうのだ。プロの選手はどうしてスランプを脱出しているのか興味は尽きない。陸上の為末大さんはこんなことを思いついた。ボールを使ってみた。ボールはよく動く。足で上にあげたり、止めると言った動作を課題にする。すると、ボールの動きに気持ちが集中して「これからどうしよう」という余計なことを考えなくてすむ。次に鈴を使った。足音に集中するようにした。次に腕の動きに神経を集中した。紐を持って走ることもしてみた。すると少しずつ体が動き始めた。これらはスランプ脱出ばかりに向いていた注意や意識を緩めていくという行動ではなかろうか。別の行動を起こせば新しい感情が湧き起ってくる。するとスランプの克服ばかりに向いていた注意と感覚が弱まってくるということだと思う。為末大さん曰く。「考えない」ということは、人間にとってものすごく難しい。そんな「忘我」状態になることへのヒントがある。子供が遊んでいるのを見ると、何も考えずに遊びの世界に没頭しきっている。自分が遊んでいるということすら忘れてしまって、ただワクワク楽しい時だけを過ごしている。自分だって昔はそうだったのだ。スランプ脱出にはまずスランプを過度に意識している状態を緩和していくこと。これが何よりも重要なことだ。そのためには忍がたいことだが、スランプには手をつけない。スランプ以外のことに目を向ける。感じてみる。行動してみる。一心不乱に取り組んでみる。神経症で苦しんでいる人も同じことです。つらいけれども神経症の苦しみはそのままにしておく。目の前の日々の生活に目を向けていくこと。日常茶飯事を丁寧に、規則正しくこなしていく。その中で気づいたことをどんどんストックしていく。行動に弾みがついてくる。後で振り返ってみれば、神経症の苦しみが軽くなっていた。あってもなくてもどちらでもよくなっていた。というように変化していくのだと思います。(「遊ぶ」が勝ち 為末大 中公新書参照)
2015.05.06
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