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すぐにはどうにもならない課題を前にしたら、それなりの努力やトライをしたあとで、しばらく放置していたほうがよい結果を生むことがあります。その方が賢明な場合が大部分なのかもしれない。頭を切り換えることで、何かの拍子に妙案がでてくることもありましょう。いつしか機会が熟して、ことがうまく運ぶように自然にお膳立てが整うことだってある。(これは森田では啐啄同時と言います。)また状況が変化して、課題そのものの意味が違ってくることすらある。(たとえば、人員削減に応じてプロジェクトの規模が縮小され、その結果として課題が別な形に変化するとか)。あまりにも熱心に課題のことばかりを執拗に考えていると、精神的な視野が狭まり、柔軟性が劣化し、思考がやせ細ってくることが珍しくありません。(待つ力 春日武彦 扶桑社新書106ページ引用) 森田先生は次のように言われている。疑問と不安は絶えず出没して一つ一つこれを解決して、しかる後初めて安心するということはできない。すぐに解決できそうもないようなとき、疑問は疑問としてこれが解決する時節を待つしかない。すぐに衝動的な行動をしてはならない。態度を保留にすることが大事である。不安は不安のままにいつまでも執着していられるものではない。強迫観念も、無理にただ一つのことを解決しようと、もがかずに、素直に境遇に柔順でありさえすれば、苦しい不安でも、水の上の泡のように、水の流れの早いほど早く消えて、跡をとどめぬようになるものである。(森田正馬全集5巻764ページ)神経質者は心配性でせっかちです。なんでもその場ですぐに解決しないと承知しません。心配事、不安、ストレスを抱えたまま本来なすべきことに取り組んでいくことは大変困難です。そういうことができるようになると一つの大きな能力を獲得したことになります。森田理論を学習してそういう能力を徐々に高めていくことが大切です。
2015.04.10
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2015年4月号の29ページからの体験談は対人恐怖の人は必見だ。対人恐怖症から解放されるとはどういうことかがよく書かれているからである。この方は、他人からよい評価を受けたい、みんなに認められたいという強い欲求を心の奥底に持っていたといわれております。その反面、自分の評価が下がることがすごく気になり、生きづらくなっておられたようです。生活の発見会に入会して、基準型学習会を受講されました。この方は森田理論学習によって考え方や生活が大きく変わりました。二年でこれほど変わられたというのは大変な驚きでした。よほど真剣に取り組まれたのでしょう。以下私の感想です。1、学習仲間との交流から、あるがままの自然な自分の姿を見せる方が、かえって人は受け入れてくれるものだと実感できた。「私は私でいいのではないか」と思えるようになった。趣味のフォークソングサークルに入り、遊び仲間ができた。私は人が大好きで、わりと人懐っこいということが分かってきた。自分を否定しないで、あるがままの自分を受け入れることができるようになったというのがすごいことです。そのためには温かい集団の中に身を置くことが大切です。集談会や支部単位での学習仲間を作っておくことが役に立ちます。2、気になっても手の届かないことにとらわれるよりも、それを手放してあきらめる。それよりももっと大切なことは、できたこと、頑張ったこと、努力したことに目を向け、自分をほめて受け入れること。他人の思惑は気になるままに、雑事や日常生活に取り組まれていることが素晴らしいと思います。3、自分はどうしたいのか、どう感じているのかという欲望・気持ちをキャッチし、自分優先の生き方に変えた。他人の思惑に翻弄されるよりも、自分の素直な感じから出発できるようになったという事だと思います。これは他人中心から自分中心の生き方に変えられたのだと思います。森田の「純な心」の実践そのものです。4、毎日のささやかな幸せを感じるようになり、休日の予定がふえ、誰かと一緒に行動し、皆と共有できることに大きな喜びを感じるとともに行動的になった自分にびっくりしています。大きな喜びよりも、まずは生活の中で小さな幸せを数多く見つけていく生き方、これが素晴らしいと思います。5、しかし、以前よりも少なくなったとはいえ、人の視線や思惑にはあいかわらずドキドキしてしまう気の小さな私もいます。神経症から解放されると、人の思惑が気にならなくなると勘違いしている人がいます。実際は行動が活発になり、他人と接触する機会が増えます。すると他人の思惑が気になるという事はますます増えてくると思います。でも森田理論の学習のおかげで振り回されることは無くなります。ビクビクハラハラして憂鬱ではありますが、それもある程度は必要なのだと思えるようになります。それよりもそうした鋭い感受性は自分の持ち味、個性だと思うようになります。細かいことによく気がつく、他人の苦しみを分かる。他人のことを思いやることは天性のものだから、これにますます磨きをかけて生活していこう。こんなふうに変わってきます。これは不安常住の生き方です。
2015.04.02
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夏目漱石はイギリスへ留学中に被害妄想的な精神状態となった。そのため文部省から帰国命令を受けて、予定よりも早く帰国した。その後一高に職を得た。それでも漱石の精神状態はよくならなかった。時には妻子に暴力を振るうこともあったという。妻子は別居を余儀なくされた時期もあった。漱石の息子はわけもわからずステッキで殴り倒された事もあったという。長女は「こんなお父様なら、いなければいいのに」と感じたことを後に回想している。子どもたちにとっては恐怖の対象であったという。妻は精神科の主治医から「今の不安定な行動は元々の漱石の性質ではなく病気のせいである」と病状の説明を受けたりしている。漱石の妻は、漱石が病気でこうなったのなら、今までどおり一生付き合っていくしかないと考えた。そして今までどおりの家族生活を続けた。症状を抱えたまま生活を続けていったのである。それが結果的にはよかった。その後高浜虚子にすすめられて「吾輩は猫である」を書きはじめた。それが評判を呼び、漱石は作家としての活動に力を注ぐようになった。すると、やっと漱石の精神状態も安定してきたのである。1907年に教師を辞めて専業作家となって独立していった。漱石は統合失調症のような症状を抱えながらも小説を書き続けたことがよかったようです。これと同じようなことを、冨高辰一郎氏は、うつに陥った人に対してこうアドバイスされている。うつ病でつらいときは病気であることを認識した方がよい。自分は病気の影響下にあるという諦めが、療養への覚悟につながる。治療に専念できる。でも回復期になっても過剰に病気を意識することは問題となることが多い。うつ病患者はある程度時間がたつと回復期へと移る。それまでは、うつ病という悲劇の中に沈んでいた患者が、その中にいることにしだいに違和感を抱くようになる。悲観的思考と憂鬱気分の悪循環から離れ始め、冷静な自分を取り戻していく。うつ病の回復期に必要なのは、うつ病という精神の悪循環から離れようとする心の動きがあるのである。うつ病に同化することではない。けれども急性期に身につけた「自分は病気の影響下にある」という意識が、回復期になってもなかなか抜けず、それがうつ病の回復を阻害する場合もある。だからこの段階では緩やかな森田療法を応用していくのがよいのではないだろうか。(なぜうつ病の人が増えたのか 冨高辰一郎 幻冬舎ルネッサンス新書より引用)
2015.02.18
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2015年1月号の生活の発見誌に「治るとはどういうことか」の記事がある。ここで症状ははたして行動によって乗り越えられるかということが書いてある。中高年になって症状が再発したり、うつ状態に陥る人がいる。再びとらわれが発生すると完治は難しい。というのは、かつて行動や実践によって乗り越えた経験はこの時ほとんど役に立たない。自分で自分の足を引っ張る。前のように行動中心の解決を目指しても、たいていそれは通用しない。ゆえに自信を失い、うつ状態に取りつかれる。自分なりに頑張ってみるがうまくいかない。いよいよ葛藤や挫折感が強くなる。実は私がこのパターンだった。最悪期は会社を辞めたい。人間を止めたい。その考えに取りつかれていた。そこで精神科にかかりながら、集談会に参加して先輩会員に励まされながら森田理論を学んでいった。一番役に立ったのは実践課題の設定と取り組みであった。1年もするとたちまち軌道にのってきた。人に役に立つ仕事や役割を果たすことができるようになった。やればできるが自信に変わってきた。それとともに最悪期は脱することができた。でも後から考えると、これは蟻地獄から地上に這い出ただけであった。というのは、対人緊張は依然として強いものがあった。会社でも家庭でもそれに振り回されていた。依然として苦しかったのである。それがその後20年あまりも続いていたのである。森田ですぐによくなると思っていたのにあてが外れたのである。その段階では森田の限界を感じていた。森田はダメだなと感じていた。私のまわりでもそういう人が実に多かった。その人たちは早々と「生活の発見会」から離れていった。入会も退会も自由にできたからだ。私は世話活動をしていたため、多くの友達ができた。だから森田の限界を意識していたにもかかわらず発見会にとどまっていた。今となってはこれが幸いした。森田の問題や課題をなんとかしたいという気持ちを抱えていたからだ。それが一挙に解決する時がきた。新版森田理論学習の要点等を参考にして、試行錯誤の末に自分なりの「森田理論全体像」を自分で作り上げた時だった。これが森田理論の奥深さ、素晴らしさに目覚めた時だった。森田を生涯学習としてやってみよう。森田を分かりやすく伝えていこうと思った。ここで治るということは大きく分けて、少なくとも2つの視点が必要であると思った。一つは不安を活用しながら「生の欲望の発揮」に沿った生き方を踏襲すること。これは森田理論の土台となります。行動・実践の重要性はここのところを言っています。もう一つは認識の誤りを自覚すること。認識の誤りは多方面に及んでいます。その中でも特に「かくあるべし」的思考を少なくして、事実を受け入れて、服従して生きていく態度を身につけるということでした。最初の方は、症状をまずは横において「なすべきをなす」ということである。これはなんとか一人でも実行可能である。二番目は厄介である。自覚するといっても、自分のことを客観視することができないので、問題点や課題が明確にならないのである。自覚が深まらないと次に進むことができない。本を読んで自覚が深まる人もあるでしょう。でも長い人生を生きてきて、自分にしっかりと住みついた「かくあるべし」をひっくり返すということは並大抵のことではありません。人から指摘してもらったり、森田理論を集団学習する中で、自分自身で気付いたり、発見するということの方がまだ有効性があります。つまり集団学習の中でしか、なかなか自覚は進まないと思っています。でも自覚できるようになると、やっとその方向に舵を切っていくことができます。それが可能になると、人間が生きるということはどういうことなのか、はっきりと分かるようになると思います。
2015.02.04
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神経症が治るということを改定いたしました。次の4段階のステップがあります。 1、精神交互作用の打破2、認識の誤り、特に「かくあるべし」と苦悩の始まりの理解3、是非善悪の価値判断からの脱却4、「生の欲望」に沿った生き方をめざす まず1から4へと段階を踏んでステップアップしてゆくことになります。4までいけば完治となります。 1、精神交互作用の打破神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。不安や恐怖をもちながらも、これができるようになれば、第一段階の治るということは達成されます。治った段階で「欲望と不安の関係」の学習をして、神経症の成り立ちについて十分に自覚を深めてください。キーワードは、生の欲望の発揮、欲望と不安の調和、精神交互作用と手段の自己目的化などです。 2、認識の誤り、特に「かくあるべし」と苦悩の始まりの理解神経症に陥った人は、普通の人と比べて多くの認識の誤りを持っています。特に強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。森田では事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。事実を素直に認めることは簡単なようで難しい。まずは学習によって、「かくあるべし」がいかに自分を苦しめているかを学習すること。そして実際に応用してみることが大切です。この段階では理論的な理解を深めていくという段階です。必ずしも事実本位、物事本位の生活になっていなくても、理解が深まればよしという段階です。こうした理解が進むと、第二段階の治るということは達成されます。 3、次に第三段階の治るについてみてゆきましょう。森田先生は次のように説明しています。善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度ということであろうか。私たちは事実を見ていてよいとか悪いとか是非善悪の価値判断を下しています。例えば人前に出ればあがる。それはよくないことだ。精神を鍛えて、人前でも物おじしない堂々とした人間にならなくてはいけない。等と普通は考えます。森田の学習が進むと、人前であがるというのは自然現象である。自然現象はどうすることもできないものである。あがるということをやりくりしてはいけない。そのまま受け入れて、事実に服従しなければならないというように考えることができます。ところが心の中では依然として、これが良いとか悪いとかの是非善悪の価値判断をしているのです。これでは本当の意味で思想の矛盾の打破して事実本位を体得することは困難です。この段階では、事実をよく観察する。事実をしっかりと正確に把握する。その事実を先入観や決めつけなどしないでそのまま認めるということが必要です。さらに事実を受け入れて、事実に服従できるようになるということです。事実は比較してその特徴や個性等の違いをしっかりと見極めることは必要ですが、決して是非善悪の価値判断をしてはいけません。これが身につくと、第三段階の治るということは達成されます。4、「生の欲望」に沿った生き方ができるようになる「かくあるべし」が小さくなり、事実本位、物事本位の生活態度が身についてくると、神経質者は強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、運命を切り開いてゆくようになります。これが第四の最終段階です。この段階では、症状を治すということを通り越して、神経質者としてよりよい生き方を目指してゆくことになります。
2015.01.15
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森田先生は治っていく過程を小学校、中学校、大学卒業程度に分けて説明されています。今でいえば、義務教育卒業程度、高校卒業程度、大学卒業程度であろう。義務教育卒業程度とは、気分の悪いままこらえて働くことができる。これである。症状はあるがままに受け入れて、日常生活を規則正しくしていく。症状はどうであれ、横において置く。そして靴磨き、風呂の掃除、部屋の掃除、整理整頓、布団あげなどやるべきことに手をつける。これだけで精神交互作用が断ち切られて蟻地獄から抜け出すことができる。神経症から解放された人はみんな小・中学校を卒業している。次に高校卒業程度とは何か。嫌な事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。「はからい」を止めて、「あるがまま」が体現できている状態である。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。自然にわき起こってくる感情は意志の力でコントロールすることはできない。それは自然現象と同じ。事実から逃避したり、ねじまげないで、事実をそのまま認めなければならない。「かくあるべし」で事実を無視するのではなく、事実本位・物事本位の生活態度が養われることである。事実を素直に認めることは簡単なようで難しい。ここを超えるということが高校卒業程度である。次に大学卒業程度である。ここは今までスッキリと明快に説明された例はないように思う。大学卒業程度について森田先生の説明を見てみよう。この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度ということであろうか。これではよく理解できないのも無理はないかもしれない。さらに説明してみよう。私たちは事実を見て、たいていよいとか悪いとか是非善悪の価値判断を下しています。例えば人前に出ればあがる。それはよくないことだ。精神を鍛えて、人前でも物おじしない堂々とした人間にならなくてはいけない。等と普通は考えます。森田理論を学習して高校卒業程度になるとこの点ちょっと違います。人前であがるというのは自然現象である。自然現象はどうすることもできないものである。あがるということをやりくりしてはいけない。そのまま受け入れて、事実に服従しなければならないというように考えるのです。この段階では、思想の矛盾の打破についての重要さはとてもよく分かっているのです。そして曲がりなりにも事実を受け入れて、事実に服従しながら生活しているのです。ところが心の中では依然として、これがいいとか悪いとかの是非善悪の価値判断をしているのです。大学卒業程度というのはここに焦点を当てているのです。ここでは比較対象のない世界だと思います。あるがままの現実を観念の世界、他人、過去と比較しない世界です。事実や自然と同化し、そのものになりきった世界のことです。なりきるとどんなことが起きるのか。例えば、2台の電車が同じスピードで走行しているとします。すると走行しているにもかかわらず、自分の電車は走行していないように見えます。我々の心の中も比較しないで、また是非善悪で価値判断をしないということになるとなりきった世界が広がってきます。生きる上での苦しさはありますが、自然や事実と一体化した、悩みとか苦悩のない世界です。究極の森田理論はそこらあたりに落ち着くものと思われます。ここで森田先生が、「生命の躍動」といっているのは、生の欲望の発揮に邁進している態度のことを言います。我々は高校卒業程度の森田理論は身につけたいものです。
2014.12.28
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森田先生は神経症というのは器質的な病気ではない。本当の病気ではない。だから治そうとしてはいけない。と言われています。そうはいっても、神経症で苦しんでいる人からすると、本当の病気よりももっと苦しいというのが実態のようです。これに対して、森田先生は、神経症に陥るというのは、完全欲や優越欲などの強い「かくあるべし」があり、それが満たされない結果として症状のようなものに発展して、自信や希望を失って苦しんでいるのである、と言われています。ですから森田先生は病気を治すのではない。人間を治すのだといわれています。人生観を作り変えるのだといわれています。森田理論による人間教育というものを提唱されています。つまり認識の誤りを自覚して、事実に基づいて本来の行動、実践を身につけるというのが本意であります。病気を治すのは、その人が人生を全うするためであり、生活を離れて病気というのは何の意味もないといわれています。だから森田療法では人間というものを考えなくてはいけない。生活というものを考えなくてはいけない。また、精神的な症状を理解するためには、人間の自然な心理と精神病理との知識というものが基礎になければならないといわれています。このように考えると、森田療法は薬物療法や小手先の対症療法とは無縁のものと言えます。森田の世界は人間の本来のあり方を性善説の立場に立ち、人間愛にあふれた理論だと確信できます。だからこそ、症状から解放された後も、生涯学習として学び続けている人が多いのだと思います。生活の発見会の会員も大部分の方は症状を克服されている方です。生き方、人生を深めていく理論なのですから当然のことです。
2014.11.25
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ある方が森田生涯の所に相談に訪れました。相談者 人の思惑が気になって憂鬱です。仕事に身が入らず、会社でもみんなから浮き上がっています。何とか楽になりたいと思っているのですが、八方ふさがりの状態です。手を出せば出すほど底なし沼に落ちていくような感じです。どうしたらよいのでしょうか。森田生涯 あなたは人に注目されたい、人から称賛を浴びたいという強い欲望を持っておられると思います。そのための努力はされていますか。相談者 いいえ、特に何もしていません。森田生涯 それはちょっとまずいいですね。森田理論では、生の欲望が強いから不安があるのだといっていますよ。あなたはみんなから常に重要視され、尊敬されたいという強い欲望がありますよね。その方向で努力されれば、少なからず願いはかなえられたはずですよ。今はその気持ちを忘れて、不安をとることだけに神経を集中させていますよね。努力の方向性が間違っていませんか。相談者 そういわれれば、その通りです。森田生涯 ところで、あなたは森田理論でいう「生の欲望の発揮」から逃げだしたわけですが、その時あなたの注意はどこに向いたと思いますか。相談者 よく分かりません。そんなこと考えたこともありません。森田生涯 2つの方向に向いているんですよ。1つは、現実の世界から離れて、理想という観念の世界に向いているんですよ。その理想という観念の世界にどっぷりと身を置いて、現実でのたうち回っているもう一人の自分を嘲笑っているのです。同じ自分という一人の人間の中に相反する2人の人間がいていがみ合っているわけですから、悲しいことでね。2つ目は不安や恐怖におびえまくっている自分の心と、ぶるぶる震え変調をきたしている自分の身体に向いているのです。注意が内へ内へと向かい、その結果抑うつ状態や心身症で苦しんでいる状態ですよ。相談者 2つとも当てはまります。ではどうすればいいんですか。森田生涯 2つあります。まず日常生活を丁寧にすることです。規則正しい生活を続けることです。凡事徹底を心がけることです。次に仕事や勉強に打ち込むことです。さらに自分の課題や夢が見つかったらチャレンジしてみることです。もう一つは理想主義や完璧主義と縁を切ることです。どんなに苦しくても現状、現実、事実、物事にしっかりと足をついて踏ん張り、そこから一歩、また一歩と歩いていくことです。これは少し難しいですから森田を学習して、理論を学んでください。この2つが身について、行動実践できるようになれば、人の思惑が気になるというのは、あっても何ら気にならないようになるものなのですよ。相談者 なんとなく分かりました。アドバイスありがとうございます。その方向で学習を深めてゆきたいと思います。
2014.11.19
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生活の発見誌2014年11月号より生活の発見会の会員は再入会の人が多いという。3年前には再入会者が、新入会者の2倍近くに上っているという。若いときに神経症で苦しみ努力して行動で乗り越えた。ところが中高年になって再発を経験しているのだという。以前は行動によって神経症は治るといわれていた。これによって確かに蟻地獄から抜け出すことはできた。それを完治ととらえて発見会から退会する人が多かった。その方たちが再入会して森田理論の学習を再開しているのである。岩田真理さんの、「流れと動きの森田療法」によると治った人に3タイプあるという。1番目に治り過ぎの人である。頑強で、自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちや場の雰囲気などお構いなく自分の言いたいことをいう人たちです。自分の「かくあるべし」を他人に押し付ける人です。2番目に目立った症状はないものの、何かすっきりしない。ミスや失敗をするとすぐに落ち込んでしまう。マイナス思考から抜け切らない。いつも憂鬱で生きていくことが苦しい。人生を楽しむことが出来ないという人。3番目に神経症から解放されて、自由にのびのびと生活を楽しんでいる人。再入会する人の多くは2番目の人だと思う。まれには1番目の人も、落ち込みを経験することによって再入会する人もいるかもしれない。再入会者のことからわかることは、行動実践だけでは容易に再発する。それは当面の苦しみのどん底から抜け出だすだけである。本当に神経症から解放されるためには次のステップに進まないといけない。つまり「かくあるべし」をはじめとする認識の誤りを学習して、事実に服従していく態度を身に着けていくことである。思想の矛盾を抱えたままでは神経質者に明るい未来がやってくることは考えられない。
2014.11.03
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2014年11月号に強迫神経症の人の話が載っている。この方は高校への通学路にこぶしぐらいの石が転がっていて、それに人とか自転車がつまずいてケガをするのではないか、という強迫神経症だった。自分がけがをするのが恐ろしいのではなく、自分の責任で人がけがをするのが恐ろしいのだといわれる。これを治すには、まず受け入れることから始まりました。気になれば石をどけるということです。自分は心配性であるということを受け入れる。受け入れることが出来れば治癒したことになるといわれています。そんな自分を自己否定しているうちは、どんどん症状は強くなっていきます。次の段階で強迫行為に条件をつける。石を見つけると、急いでいるときには石をどけない。気になるががまんする。ヒマな時には石をどけてもよい。そんなことです。そんな経験を繰り返していくと、だんだん強迫行為をしても、しなくても、どちらでもよい状態になっていく。気になれば強迫行為をするし、気にならなければしない。その段階が過ぎて気が付いてみると、強迫行為はあってない状態になっていた。あってもなくてもどちらでもよいのです。このような心境は、ある意味では強迫観念が治ったということです。この方はまず森田理論学習で不安の正体と役割について学習された。不安は強い欲望の反面として出てきているのだということを自覚された。不安は闘う相手ではない。不安は受け入れて、生の欲望に目を向けていくことを学ばれた。そして学校に遅刻しないこと、電車に遅れないことを優先できるようになった。いちいち不安に振り回されないように、その場の状況に臨機応変に対応できるようになった。そして、不安に振り回され、心配性を持った神経質性格を、責める度合いが徐々に少なくなっていった。心配性の反面の感受性豊かな自分を自覚できるようになった方だろうと思います。森田理論学習をして45年経った今では、症状も消えて、放送大学で学び、町内会活動、登山などで頑張っておられるとのこと。強迫行為で悩んでいる人はぜひ読んでほしい記事でした。
2014.11.01
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回避性人格障害の状況をどう考えていったらよいのでしょうか。1、 対人恐怖の人は他人から否定的な意見を少しでも聞くと、すべてが台無しになったような気になります。そして新しい試みに挑戦してみようという勇気がなくなり、すっかりやる気を失ってしまいます。さんざん否定的なことを言われ続けてきたので、そういう風に言われると、過去のマイナスのトラウマがどっと出て来て、「やっぱりだめだ」「どうせ自分なんて何にも出来ないんだ」と否定的に考えてしまう。この考え方はあまりにもマイナス思考に偏っています。こんな時「認知行動療法」では、3つのことを試してみなさいと言っています。第一に、そう考える根拠は何ですか。逆の事実はありませんか。第二に、だからどうなるというのだ。それが本当だとしてどんなひどいことが起きというのだ。最悪を受け止める覚悟を決めましょう。第三に、現実的で柔軟な代わりの考え方を探してみよう。マイナス思考一辺倒が改善されることが重要です。2、 パニックになって両面観で考えることが出来なくなっています。今誰かとうまくいかなくなっていても、別の誰かとうまくゆくということも考えられます。学校や職場では人間関係が悪いかもしれないが、趣味や同好会の仲間とはうまくいくかもしれない。今の仕事は能力的にも、体力的にもハードかもしれないが、職業は2万種類ぐらいあるそうだから、自分に合った仕事が見つかる可能性は高い。また今の学校を卒業しなくても大検などで進学できる可能性がある。大学に行かなくても放送大学や専門学校で自分の欲しい資格は手に入れることが出来る。視野狭窄にあると融通が利かなくなる。逃げ場所を作ったり、選択肢を広げることによって、本人の思い込みや追い詰められ感を和らげて、復活できる可能性は強い。動いてみれば、自分を縛っていたのは、実は自分自身の動けないという金縛りにあっていただけということも分かるだろう。3、 対人恐怖の人は自分は神経質でよいところは何もないと思っている。ところが神経質の性格特徴を学習してみればよく分かることだが、性格にはプラス面とマイナス面が同時に存在している。たとえば心配性で嫌になるといっても、裏を返せば実は感受性豊かな人間というわけである。そこに焦点をあてて育てていけば必ず良い結果が出てくるものである。4、 逃避したときは一時的に楽になりますが、それはほんの一瞬です。逃げてしまうと、むなしくなる。退屈になる。そして何事も無気力、無関心、無感動になってしまう。ふがいない自分に注意が向き、自己嫌悪、自己否定するようになる。失敗から学ぶチャンスはなくなり、もっと大きな失敗をするようになる。困難を打開して能力を身につけるということはなくなる。廃用性萎縮が起きて、体力が衰え、抵抗力が弱る。精神疾患、病気や死の危険が近づいてくる。生きがいとは無縁な人生に甘んじるしかなくなる。このことはよく肝に銘じておかなくてはいけない。5、 父親が亡くなって、生活費を自分で稼がなくてはならなくなってはじめて対人恐怖が克服できたという人がいる。対人恐怖は依存できる親、親の遺産等の後ろ盾があるとなかなか良くならない。今の時代、集談会に来て悩みを解決したいという人が減少している。それは生活のために働かないと生きていけない社会的状況にあるからである。自分の生活費は自分で稼ぐという気持ちになれば、対人関係の悩みは相当軽くなると思われる。
2014.10.20
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10月号の月刊機関誌「生活の発見」より。医師の平林氏が慢性痛で面白いことを話されている。膝が痛い、肩が痛い、腰が痛い、手や足がしびれるなどの慢性痛で悩んでいる人は、日本では約2300万人にのぼる。国民の約5人に一人である。平林医師は、痛みが痛みを増悪している事実があると指摘されている。「痛みがあってはならないものと考え、痛みに注意が向くと感覚が研ぎ澄まされ痛みが増し、さらに注意が向きやすくなるといった悪循環が生じます。続いてこの精神の緊張した状態が、筋肉の緊張も強め、心身の悪循環も加わります。こうなるともう痛みは体の傷が原因で生じる一つの症状ではなく、あたかも痛みに支配されるような痛みそのものが病となってしまいます。」これは神経症の固着と同じことですね。神経症も慢性痛も注意と感覚の悪循環によって増悪していくのですね。固着してしまうと治すのが厄介です。またそれなりの治療期間が必要となります。また慢性痛に対して、平林医師は、痛みは刻々と変化するといわれています。朝痛みが強くて病院に行くこともできないような人が、午後になって痛みが和らぐということがよくあります。痛みに応じて臨機応変に行動することを勧められています。これも神経症と同じです。いつもは症状にとらわれていますが、別なことに取り組んでいると、つい症状を忘れていたということがよくあります。治るとは、その部分を増やしてやるとよいといわれています。さらに、身近にある小さな幸せ探しに励むことを勧められています。おいしいものを食べた時の味わい。掃除をした時の清々しさ。顔を洗ったときのさっぱり感。体を温めた時のぬくもり。新しいシーツに換えた時の肌触り。散歩をした時の小さな発見。このような小さな心地よさを探していくこと。今日は痛みが強かったかどうかで1日を評価するのを止めて、手近な目的を設定し、ていねいに行動できたかどうかで1日を評価するようにしましょうといわれています。これらは神経症の克服のことを考えるときとても参考になりました。
2014.10.04
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月刊誌「生活の発見」の2014年9月号に「なおる」とはどういうことかについての説明がある。治るとは「精神交互作用の打破」と「思想の矛盾の打破」であると説明されている。私も同感だ。森田独特の言葉なので、初めての人は面食らうかもしれない。でも少し、森田理論を学習すると容易に理解できると思う。少し説明しましょう。まず精神交互作用の打破とは何か。神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。思想の矛盾の打破とは何か。神経症に陥った人は、普通の人と比べて多くの認識の誤りを持っています。先入観が強く、偏っており、思い込みが激しいということです。特に強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、沸き起こった感情、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。それはまずいことです。事実に従う態度では何ら問題は発生しません。そうゆうことを自覚する。そういう態度を身につけることが大切です。ところが神経症に陥るような人は、無理やり「かくあるべし」に合わせようとします。すぐに強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症に陥り、苦悩の始まりとなります。ですから、神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、事実本位、物事本位の生活に修正してゆくことが大切になります。森田理論学習ではその手法を学びます。そして最後に「生の欲望」に沿った生き方ができるようになるとよいのです。「かくあるべし」が小さくなり、事実本位、物事本位の生活態度が身についてくると、神経質者は強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、運命を切り開いてゆくようになります。医師や臨床心理士の森田療法というのは、神経症を克服するためのものです。現実生活が全く滞ってしまっている。あるいはうつなどを抱えている場合は有効です。私たちが学習している森田理論というものは、それとはだいぶ違います。神経質性格を持っている人で、生きづらさを抱えている人が、生きづらさを解消するためのものです。自覚を深めて、自分の生活に取り入れて、心身ともに生まれ変わるためのものなのです。つまり人生観の確立にかかわるものなのです。この点ははっきりと区別することが大切です。仮に森田理論学習で神経症を治すということは、人生観が確立した結果、副次的に治るということです。治療としての森田療法はそこまで踏み込んで治療しているわけではありません。
2014.09.03
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生活の発見誌2014年8月号に、比嘉千賀先生がアルコール依存症の人のことを書いておられる。AAにはアルコール依存症回復12のステップというのがある。その第一ステップは「われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」というものです。これは「無力のステップ」と言います。自分の無力を認めないと次に進めないのです。神経症に対しても、森田先生は、「神経症の症状は治らない。神経質であることは治せない。治そうとすればするほど思想の矛盾でぐるぐると悪循環に巻き込まれていってしまう。神経症の症状に対しては無力であってそれを受け入れるしかない。症状を持ちながらも、今必要なこと、目の前のことをやっていきなさい」といわれています。このことと関連したことを、玉野井幹雄さんも言われていました。玉野井さんは症状をとるために、いろんなことに手を出されたがよくならなかった。最終的にたどり着いたのは、「自分の救いを断念する」ということに到達された。「地獄に家を建てて住む」という有名な言葉があります。その覚悟を決められた。それから楽になったといわれています。森田理論学習とは、「救いを断念する度合いを高める」ことにつきます。「救いを断念」できれば、どんな方法でもよいのですが、経験的に言えることは、「森田」を勉強して間もない人は「断念」の度合いが小さく、長くなるに従って経験を積んだ人ほどその度合いが高くなってくるような気がします。玉野井さんはこのように言われています。不安を抱えたまま行動できるようになることは、そういう能力を獲得したということです。森田理論はその能力獲得のための理論です。まずは十分学習して理解すること。そして自分にあてはめて自覚を深めていくこと。そして生活の中に取り込んでいくことが大切です。反対に、症状はとろうとすればするほど強まっていくものだということを、しっかり学習することが大切だと思います。
2014.09.02
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森田をものにしたいと思うなら、森田を生活に応用している人を見つけてその人の物まねをしていくのが一番の早道である。ではどんなところに目をつけてそんな人を見つけたらよいのだろうか。・日常茶飯事を丁寧にこなしている人。・雑事を丁寧にこなしている人。・規則正しく生活をこなしている人。・好奇心旺盛でいろんなことに挑戦している人。・一人一芸を持っている人。・なんでも今一歩踏み込んで行動している人。・あるがままの自分、他人、時間、お金、所有物を丁寧に大事に扱っている人。・現在の境遇や環境を受け入れて、将来に向かって努力している人。・いろんなことに目配りできる人。・状況の変化に素早く対応できる人。その他「純な心」を体得している人、欲望の暴走を抑えることができる人、リズム感のある生活をしている人、自分の欠点、ミス、失敗を隠さない人、他人の理不尽な行為を笑って許せる人。全部最初から真似なくてもよい。全部を真似ようとすると徹底できない。一つか、二つに絞ることが肝心である。自分なりにできやすいところから始めたらよいと思う。これだけで、神経症を克服して、森田の達人に近づくことができます。私は一人一芸から真似ていった。おかげで、楽器の演奏、獅子舞、浪曲奇術、ドジョウ掬い、しば天おどりなどを身につけた。老人ホームの慰問では30分ぐらいはみんなを楽しませることができるようになった。自信も生きがいもできた。神経症の悩みよりも、芸事の上達への悩みが多くなった。とらわれやすいのは昔のままだが、対人的な苦しみはほとんどなくなった。集談会では、物そのものになりきって日常生活を丁寧にこなしている人。あるがままの自分、他人、時間、お金、自分の身の回りの物を丁寧に大事に扱っている人がいる。集談会では具体的な話をよくされる。ビールをおいしく飲む方法。かぶと煮の作り方。自然との付き合い方。雑草取りのささやかな楽しみ。などである。愚直に取り組まれているのがよく分かる人である。そういう人は、生活の充実ぶりがよく分かる。後輩たちに計り知れない大きな好影響を与えておられる。注意点を一つ上げるとすると、森田関連の本をよく読んで学者のような人がいる。でも夜更かしをして、部屋の整理整頓はできていない。日常生活もいい加減で気分本位の人もいる。生活はズボラにしておいて、趣味ばかりに力を入れている人もいる。自分の意見を他人に押し付けていても意に介しない人もいる。理論的に立派な人だが、生活と連動していないという人に惑わされてはならない。そういう人から森田理論を学んで体得することは一害あって一利なしである。森田理論学習は「理論という車輪」と「行動・実践という車輪」が同じ大きさでないとまっすぐ前には進まないのです。車輪は小さいときは小さくてもよいのです。ただし同じ大きさでないと困ります。仮に「行動・実践の車輪」が小さいとすると、その周りを「理論という大きな車輪」がぐるぐるといつまでもまわりつづけます。前進しないで同じところにとどまったままです。観念的になり、却って自分を苦しめる原因となります。むしろ森田を知らなければよかったという状態になります。そんな状態にならないように、くれぐれもご注意ください。
2014.07.18
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森田理論は頭の中でスッキリ整理されても、それだけでつらい神経症を克服することはできません。つまり体得ができて初めて乗り越えられるのです。例えば、初心者が自動車を運転したいと思う。自動車の構造、運転方法を机上で理解しても、その日から自動車を運転することはできません。やはり実際に自動車に乗り、練習をして初めて運転できるようになります。それが体得ということなのです。水泳もそうですね。畳の上でいくらクロールの練習をしても決して泳げるようにはなりません。プールの中で練習して初めて泳げるようになります。では当面どのようなことを体得していくとよいのでしょうか。私は次の3点をご紹介します。まず、不安を持ちながらも、目の前のなすべきことに手を付けることができるようになることです。不安を抱えたまま、なすべきことができるというのは一つの能力です。不安というのは、不安に学んで積極的に準備をしておくことが必要なものもあります。しかしながら、不安の大半は、不安を受け入れて不安と共存していくのが基本になります。受け入れながらも本来の「生の欲望の発揮」に舵を取っていく態度を身に着けたいものです。次に第一に湧き起った感情から出発するということ。初一念から行動できるようになることです。森田理論学習では「純な心」の体得といいます。決して初二念、初三念から行動を起こしてはいけません。あるがままの感情、ありのままの自分や他人の現実を受け入れて、現状に素直に従うということです。常に自分の感情、自分の気持ち、欲望、希望から出発するということです。言い換えれば、自分中心の生き方ができるようになることです。老婆心ながら言いますと、怒りや腹が立つ感情は初一念ではありません。初二念、初三念の感情です。ここは間違いやすいところです。学習でそのことが理解できるとすっきりすると思います。理解できると、普段の生活にすぐに活かすことができます。過去の投稿を参照してください。次に目指す体得は、他人との意思のずれを調整していくということです。他人の気持ちや意思とかみ合わない部分が出てきますので、調整をしていくことです。そのためには相手の気持ちや意思をよく観察する。相手の言い分をよく聞くことです。そして自分と相手の要望とのすり合わせを行うことです。そして双方が納得できるまで話し合うことです。ここで親業のいう、共感的受容、「私メッセージ」の発信、勝負なし法は強力な武器になると思います。体得とは、大まかにいうとこの3つのステップを確実に踏んでいくことをいいます。このことは自分も他人もそれぞれ活かすということになります。森田理論学習でいう「自他ともに活かす」ということです。自分も楽な生き方ができるようになり、人間関係も当然好転してきます。
2014.06.16
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私は治るというのは、治るレベルがあるのだと理解しています。この治りのレベルは1段階目です。森田先生でいうと小学校卒業レベルです。森田先生の入院療法の患者さんを診ていると、それまで不安と格闘し、なんとか不安や恐怖を取り除こうとしていた人が多い。ところが入院しているうちに不安と格闘を止めて、目の前の日常生活の「なすべきこと」に目を向けていけるようになった。つまり不安常住、不安共存の態度を身につけて、生の欲望の発揮に邁進できるようになった。これを治ったといわれているのです。まさに第一のレベルの治り方です。素直に喜んでよいと思います。これで納得できれば、治療を打ち切ってもよいのです。ただしこの人たちはそれでは全く納得していないというのも事実です。この人たちは完治しているわけではないと思います。第二段階の治療を受ける必要があります。これは認識の誤りの自覚を深めて、事実本位の生活態度を身につけるということです。神経症に陥った人は、普通の人と比べて多くの認識の誤りを持っています。特に強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。ですから、神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、事実本位、物事本位の生活に修正してゆくことが大切になります。こうした生活態度が身につくと、第二段階の治るということは達成されます。この段階まで来ると、あとは不安というブレーキを活用しながら生の欲望の発揮に邁進できるようになります。これが完治ですが、その段階は症状がどうのこうのというよりも、神経質性格を活かして味わいのある人生が目の前に開けてくると思います。
2014.05.17
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強迫神経症の中に鼻尖(びせん)恐怖というのがある。鼻の先がちらちらと目に入り読書などに集中できないという煩悶である。どちらかというと珍しい症状だ。森田先生は鼻尖恐怖の患者さんに次のように指導されている。「治ったから再び鼻の先は見えなくなったというわけにはいかない。鼻尖恐怖にかかる以前は、ただ鼻の先に気がつかなかったというだけで、見えていたことには相違がない。それで、一度気がついた以上は、再び気がつかなくなるということは不可能である。強迫観念が治ったというのは、これに拘泥する苦悩がなくなったというだけで、その傷の瘢痕は永久になくならないのである」書痙の人でも全く字が書けなくて、入院療法後なんとか字が書けるようになり社会復帰した時点で治ったのだといわれています。森田先生は、そもそも今まで無意識で気にならなかったものが、一旦意識化されてとらわれが始まると無意識状態に戻すことはむずかしいといわれています。しかし本人たちは納得がゆきません。気になることを気にならなくしてもらいたい。それが治ることだと思っているのですから。一方森田先生は蟻地獄から這い出た時点で治ったといわれているのです。双方の認識のずれは埋まりそうにありません。
2014.05.17
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確認行為で悩んでいる人は、鍵がしまったかどうかということは最初だけで、その後意識から飛んでしまっている。事実は蚊帳の外になっている。そして不安と格闘しているのである。そういう人は不安が頭の中をよぎるということが嫌なのだと思う。不安をいつも目の敵にしている。不安が全くない状態。事実がどうかというよりも気分が爽快であるかどうかに価値を置いている。不安があれば、すぐに取り去ろうとする。取れなければ逃げるようになる。これを森田理論学習では気分本位の態度あるという。このタイプの人は、不安を抱えたまま行動するということができない。また不安は欲望の裏返しであり、欲望がある限り不安は必ず出てくるものだということが理解できていない。さらに生の欲望の発揮には、不安がブレーキとして機能しないと、生の欲望の暴走につながるのだということにも気が付いていない。森田で「欲望と不安」の関係をよく学習してもらいたいものだ。それと確認恐怖の人は完全主義、完璧主義の人が多いように思う。空でいえば一点の雲もないすがすがしい真っ青な日本晴れをイメージしている。そんな状態の空にお目にかかることはめったにない。あったとしても、すぐになくなってしまうことが多い。現実には全くあり得ないことだが、観念の世界では作り上げることができるように思えてしまう。理想に向かって努力をすれば可能であると信じて疑わないのである。こういう人は頭の中で実現可能、成功間違いなしと確信できないと行動することができない。観念でああでもない、こうでもないとやりくりするばかりで混乱してくるのである。確信できなくて、やりたい気持ちはあっても、結局手も足も出ないという情けないことになってしまう。そしてできない自分を否定するようになるのである。この人たちも森田理論適応者である。森田では自信がなくてもまず引き受ける。引き受けたからには一生懸命に取り組んでみる。ミスも失敗もするだろうし、打開策が見つからなくて停滞することもあるだろう。それを乗り越える先に成功はあるし、能力を獲得して人間的成長もあるという考えです。順風満帆に事が運ぶということはめったにないし、仮にそれでうまくいってもちょっとしたトラブルですべてが無に帰すということはよくあることです。自動車のセールスの人の話ですが、訪問営業を500件重ねてやっと1件の成約に結び付く。だから499件の断りは1件の成約のために必要なものなのです。集談会では、人生3000回の失敗を重ねて大きくなった人が、逆境に立ち向かう大人として生きていけるという話を聞いたことがあります。国家試験でも合格基準はおおむね6割だそうです。完全をめざしていくのは意気込みだけにして、妥協することも必要でしょう。完全主義からの脱却を目指して、ぜひ森田理論学習を続けてほしいものです。
2014.04.16
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玄関などの鍵をきちんと閉めたかどうか異常に気になる人がいる。普通の人でも何かほかのことを考えていて、後からどうだったかと気になることはある。引き返してまた確かめて安心する。そして安心して外出できる。ところが強迫行為で悩んでいる人は、意識して、閉めたという音を聞く。ノブを持って確かめて一旦はしまっていると納得する。でもしばらくすると、あれは錯覚ではないのかという考えが頭の中に広がってくる。不安でいっぱいになるのである。そしてその不安がどんどん昂進してパニックになるのである。その後鍵だけではなく、ガスの元栓、手の汚れなどにも波及してくることが多い。そういう人は、五感は信用できないと思っている。見る、音を聞く、触れる、味わう、匂うという感じを信用していないのである。私は確認恐怖の人を見て思うのだが、たとえば音を聞いて閉まったかかどうか確認していますという人がいる。音だけに頼っているのである。五感というのは他にまだ4つもある。見る、触れるということも動員して、3つの五感で感じることにしてみてはどうだろうか。たとえば、ドアにはわずかな隙間が空いていることがある。その隙間に金具が見えることがある。また、ノブをガチャガチャと動かしてみると閉まっているかはよくわかる。一つの五感は信用できないのなら、別の五感で感じる。あるいは五感を総動員するということも有効ではないだろうか。でも根本的にはそれで解決するとは思えない。もっと考えてみる必要がある。
2014.04.16
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先日の集談会に参加していて「治る」ということで思わぬ発見をした。その方は70代で元気いっぱいの人である。とても70代には見えない。どう見ても60代だ。野鳥の観察などの趣味を持っておられる。その方は何かにつけてとらわれやすい人である。「神仏恐怖」「加害者恐怖」「不潔恐怖」「確認行為」などがある。「神仏恐怖」では祖父の位牌の7文字が頭に浮かび、それが何回も頭に浮かんでくる。今では位牌の文字数7という数字は避けるようになった。7という数字になると3を足して10にしているといわれる。「加害者恐怖」というのは、自動車などに乗っていて、ガチャと音などがすると何かを壊したのではないか。自分の行為で誰かが不利益をこおむったり、けがをしたり、命を落とすことがあるのではないか。などと悩むのである。そして引き返して確認することがあるという。奥さんにいつも「そんなことがあるわけがない」いつもたしなめられているという。「不潔恐怖」というのは何回も手を洗わないと気がすまない。また戸締りも何回も確認しないと気がすまない。また集談会に来ようとするといつも腹の調子が悪くなる。だから多少時間に間に合わなくなる。こんなとらわれについては、集談会と家族以外では全く話したことがない。集談会で安心して話すことができる。内に溜めこまないで、集談会の場で吐き出すようにしている。奥さんも集談会に快く送り出してくれているという。この方は多くのことにとらわれている。多少生活に影響を与えてはいる。でもそれを話されるときは、それをどうにかして改善したいという話は全くされない。自分はいかに多くのことが気になり、森田でいう神経質性格を多分に持った人間であるかをはなされるだけである。だから自己嫌悪、自己否定ということは全く感じられない。とらわれやすい自分をユーモアのネタにして笑いを振りまいておられるのである。話を聞いていると思わず苦笑してしまう。私はこれまでこの方は、とらわれからいかに脱却するかを求めて毎回集談会に参加されているのだという先入観があった。今回これは大きな間違いだということに気が付いた。この方は自分が、いろんなことにとらわれやすい人間であるということをよく分析され認識されていたのである。つまり自覚がすすんでいるということだ。その上で、神経症というものを治そうなどとは一切考えておられない。生活には多少の不便さは残っているが、神経症の克服への道をよく理解して、実践している人だったのだ。そのとらわれを集談会の場で吐き出して流してしまうとよいというのがよく分かった人だったのだ。つまり立派な完治者であったのだ。素晴らしい克服者が近くにおられたことに改めて驚いた次第です。これからはこの方に教えを乞うてゆこうと思っている。
2014.04.15
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黒丸尊治医師のお話です。パニック障害の患者さんは、発作に対する不安感や恐怖感のこだわりが強い。その根底には「発作が起きたらどうしょう」といった発作に対するネガティブな認識が存在している。そのため自然と発作を避けようとする気持ちがわきあがってくるが、これではかえって発作へのこだわりの気持ちを強めてしまう結果となる。黒丸氏の治療は、「発作を起こしたほうがよい」という逆説的な指示を出していくことから始まる。患者さんの発作に対する認識が肯定的なものに変われば、不安感へのこだわりがはずれてくる。以前のように、不安の増強、症状の悪化、パニックといった悪循環に陥ることなく、短時間で症状が軽くなる。発作が乗り越えられるようになると、患者さんは自信を持つようになり、その結果さらに安心を得ることになり、最終的な治療へと到達するようになる。(人は自分を癒す力を持っている198ページ)これは森田先生が不眠の患者さんに、一睡もしないで一晩中起きておくようにと指示されて治療されたことと同じことです。このメカニズムは、「神経質の本態と療法」(267ページ)の解説に分かりやすく書かれている。不安神経症の患者さんの意識はこれを忘れよう、意識しないようにしようとしている。つまり意識の中心より、周囲に押しやろう押し込めようとしている。そうすればするほど、それは意識の中心を占領する。これを意識がやや遠ざかっているときに、意識的に無理やりこれを中心に持ってくるように患者さんに努力させる。つまり発作を起こさせるようにさせる。するとここに意外なことに、中心に持っていこうとする努力とは逆に、周囲に退くのである。これは対人恐怖の人にも応用できる。対人タイプの人は自分のミスや身体的な欠陥は隠そうと必死になっている。それが積み重なって対人恐怖症を作り上げているのである。これを応用すると自分のミスや失敗、身体的な欠陥を具体的に面白おかしく脚色してみんなに公表していくのである。これは普段のやり方の逆である。森田先生や黒丸先生の理論の応用、実践である。すると不安や恐怖が意外にも、小さくなることを実感してもらえるはずである。すべてのケースで取り組まなくてもよい。10のうち1つでも試験的に試してみれば、効果の大きさに驚くはずである。
2014.03.18
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私は森田理論学習で3つの大切なことがあると思っています。まず、森田理論学習では「境遇に従順になれ」といいます。人間が生きている間には、理不尽とも思えるような自然災害でいつ命を落とすかわかりません。また自分はルールを守っていても、いつ交通事故に巻き込まれるかわからない。戦争や暴動に巻き込まれること。航空機の事故。株などの暴落。経済の変動。あるいは刑事事件の被害者。避けることのできない事件が、絶えず待ち構えています。ある程度は予防しなければなりませんが、それも限度があります。森田理論学習では、自分の力の及ばないことは基本的に受け入れていきましょうという考えです。自然に服従です。そして次に人生には波があるということです。順風満帆で何をやってもうまくいくときと、やることなすことが裏目に出るときがあるのです。地震でも何年か周期で、再び大地震が起こるとされています。その波に乗っていくことが大切です。そして、いい時はやりすぎない。悪いときはあまり動きまわらない。森田先生は後年、ダンスなどをしてリズムを研究されていました。このことに目をつけておられたのだと思います。2番目に大切なことは、自分本位な生き方を確立していくということです。自分のやりたいこと、自分の気持ち、欲望に沿って自分を前面に押し出して生きていくということです。他人の思惑を第一に考えるのではなく、自分の気持ちに素直になって行動していくということです。森田理論学習では生の欲望の発揮といいます。感情については、どんな感情も無視したり、否定したり、拒否したりしないこと。不安、恐怖、不快感は生の欲望があるからこそ生まれるものです。不安がない人は生の欲望が少ないので、無味乾燥な人生しか待っていません。不安は人間にとってなくてはならない大切なものです。不安に学び、不安を活用できる人間になりたいものです。3番目は、宇宙の営みを見てもすべて調和、バランスのもとに成り立っています。生の欲望も、それだけが突っ走るとすぐにバランスを崩します。不安などは、生の欲望が暴走しないようにブレーキの役割を果たしています。アクセルをふかしながら、時にはブレーキをかけてスピードを制御していくことが大切です。生の欲望は不安を活用して調和を維持していく必要があります。調和を無視することは、自分の存在を危うくするということです。「やじろべい」のように常にバランスを意識して生きていくことです。この3つを生活信条として生きていくこと。これが、森田理論学習が要求している究極の考え方だろうと私は思います。
2013.12.26
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12月号の「生活の発見」誌の「苦しみの最中にある人へ」より。二番目の方は、職場での部下との関係にとらわれるという方です。この方は集談会に参加して一旦は症状に悩むことが無くなったといわれています。でもその後、年下の部下のことが気にかかり、仕事が手につかないといわれています。再発したということは、完治していなかったということです。この方の治り方というのは、症状は横において、なすべきことができるようになり、症状ばかりに向いていた意識が、他に向くようになって、症状中心に向いていた意識が薄れてきた状態です。頭の中に症状が100%占めていた状態から、他のことを考えることによって80%、場合によっては50%と比重が下がってきた状態です。気持ち的には症状が薄まったので、楽になった状態です。これも治ったといえば治った状態です。どうにもならない痛みがとれてきたのですから。しかし、こういう状態は完治ではありませんので、容易に再発します。がんでいえば転移してしまいやすい状態です。ではどうすればよいのか。この人の場合も、生まれてこの方、考え方が極端でこだわりがあり、視野狭窄に陥り、普通の人から見るとなんでもないことをすぐに過大に考えて、人生の生死を分けるように考えてしまいます。ここまで踏み込んで、対策を立てないといけません。こうでないといけない。こうであってはならない。という思考パターンで物事に対応していくと、とても苦しいものです。森田では、「かくあるべし」という理想主義、完璧主義は、自分を苦しめるばかりだと教えてくれています。「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、日々の生活を丁寧にこなしていくようになれば、自由な生き方ができるようになります。そのためには、森田理論の全体像の学習から始めることです。先輩会員の手助けを受けて、「かくあるべし」一つでも、二つでも少なくしていって、事実を否定しない。拒否しないで素直に受け入れる。そうした生活態度に修正していく。体得してゆく。その活動が大切だと思います。事実を観察して、事実にきちんと向き合えるようになると、大変楽な生き方になります。そのことだけで森田の達人の域に達することができます。
2013.12.24
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私は大学卒業後、出版社に入りました。本当は編集部を希望しましたが、営業部に回されました。訪問営業でした。いわゆる飛び込み営業です。対人恐怖の私にはとても耐えられない職場でした。なんとか9年頑張りましたが、それが限界でした。訪問営業というのはほとんどの人から断られるのです。断られると自尊心がとても傷つくのです。森田を27年も学習してきて、対人恐怖は治っただろうから、今だったらできるのではと思われる方がいるかもしれません。とんでもありません。私は今でも訪問営業の仕事はできません。私は他人の思惑がとても気になり、自分のことを非難されたり、無視されたり、バカにされるということはいまだに耐えられません。これは死ぬる間際まで続くと思います。その不安、不快な気持ちは持ち続けていくしかないと思っています。そしたら森田学習はいったい何のためだったのだろうかと思われる方もいるだろうと思います。症状を治すことのできない森田療法は意味ないのではないのかと思われるかもしれません。そんな人に私は言いたいことがあります。森田理論は症状を治すための理論ではありません。神経質性格を持った人間が、神経質性格を活かして、充実した味わいのある人生を送るための理論なのです。神経症を治すことよりも、どう生きて行ったら満足できる生き方ができるかを問いかけている理論なのです。そういう意味では、私は対人恐怖は克服することはできませんでした。またこれからもできないでしょう。そのとらわれやすい点は持ち続けるしかないと思います。でも森田先生の生き方を真似てみる、森田先生の考え方を生活の中に取り入れてみるということで、まずまずの成果を上げることができました。そして人間に生れてきた喜び、神経質性格を持って生まれてきた自分をいとおしく思えるようになってきました。森田先生は人生観が変わったから、神経症が治ったのだといわれています。普通の人は神経症を治して、そのあとで人生観を確立しようとします。順序が逆だと思います。薬物療法にしても認知行動療法、その他心理療法にしても、ほとんど症状を取り去ろうとしています。昔から「急がば回れ」と言います。短絡的な方法よりも、もっと地に足のついた方法の方が自分にとってはよかったと思っております。今後は森田の真髄を伝え続けることに一生を捧げていけたらよいと思います。
2013.11.26
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神山五郎さんのお話です。腕が上がらない人に、徐々に運動をさせることで、腕が上がるようになってきたというのは医療の仕事です。でも中にはどんなことをしても腕が上がらない。たとえ上がっても、以前ほど上がらない。そうなると、医療ではどうにもならない。そこまでいって、引き受けるのがリハビリなのです。つまりリハビリで大事なことは、まず患者さんが、一生障害が残るということを受け入れるということなのです。やみくもに、完全な治癒を目指して頑張るということをあきらめることなのです。これはなかなか受け入れることが難しいです。大きな壁となって立ちふさがります。でも障害を受容できるかどうかが、その後の生き方を大きく左右します。どうにもならないことに、時間をかけるのではなく、自分のできることに力を注ぐ方がはるかに有益です。治らないことに一生懸命励むことは決してリハビリではありません。それは拷問と一緒です。そうした覚悟が一旦できてくると、障害が残ることを前提にして、より現実的な目標に向かって動き出すことができます。例えば脳梗塞で右手が動かなくなった人には、右手は麻痺したままでも、左手で筆を握れるように訓練したり、箸を使えるように訓練していくことなのです。右手の麻痺を治すということができればいいのですが、全員の麻痺を治すことは現代の医療をもってしてもだめなのです。森田理論でも自分の欠点や弱み、気になって仕方のないことを取り除こうとしないで、それを引き受ける姿勢に切り替えること。それが症状を克服するとともに、その後の生き方を建設的に変えてしまうのだということをしっかりと認識してほしいと思います。
2013.11.22
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神山五郎氏の「従病という生き方」の内容は森田理論そのものである。ぜひ一読をお勧めします。この中にアルコール依存症の記述がある。91ページである。アルコール依存症の人は、当初は「自分はただ飲まなければいいだけなんだ」と思っているのが一般的だといわれる。飲んでいる時は乱れても、飲んでいないときはなにも問題がないことが多いので、本人も周囲もそれほど深刻な問題だとは思っていない。この段階では、医師がいくら「治療」しても効果はない。仮に治癒したかのように見えてもすぐに再発する。ところが、何度も失敗を繰り返すうちに、だんだんと友人や家族から見放され、配偶者からも離縁されたりします。経済的にも行き詰まり、時には浮浪者になったりして、「これは自分では治すことができない」と白旗をあげる。もう後がない。「もうだめだ」と覚悟したときに始めて治療が可能になるのです。ところがそこに行く前に、家族や後援者が介入してくると厄介なことになる。「あいつには困ったものだ」と言いながら、借金の穴埋めをしたり、不始末の後処理をしたりしていると、本人は最後の覚悟ができなくなってしまう。そして同じ過ちを何度も犯してしまう。愛で治そうとする人がいるうちはダメなのです。職場からも家族からも見放され、路頭に迷い、生活保護を求めてそれでやっと本気になる。治療を始めるには「どん底まで落ちる」ということがどうしても必要なのです。このことは神経症の治し方と一緒です。何年も苦しみ、もう自分の症状は治しようがない、このまま地獄におちてしまうけれども、自分としてはどうすることもできない。と治すのをあきらめた時に、初めて遠くに光が見えてくるのです。玉野井幹雄さんは、「地獄に家を建てて住む」という覚悟ができた時に、神経症はすぐに治すことができるといわれています。
2013.11.21
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森田先生は夜中にパニック発作で今にも死にそうになるという人に、自分で進んで発作を起こして、その詳細を報告するように命じられたことがある。不眠症や耳鳴りの激しい人にも同様の方法をとられている。ところが発作を起こそうとしようとすればするほど発作は起こらないのである。これは逆療法のように見えるが、森田療法では簡単に説明がつく。森田先生の発作性神経症の治し方は、できるだけ発作をおこすように努力してみよということである。このからくりはどうなっているのか考えてみよう。神経症の症状は、常に神経質患者の意識の中心にあり、これを忘れよう、意識すまいと努力している。常にはからっている。すなわち不安、恐怖、不快感などを意識の中心より周辺に押しやろう、押し込めようとしているのである。そうすれば自分の思いとは反対に、それはますます意識の中心を占領する。森田で言う症状を意識すればするほど、注意が症状に向き、注意が向けば向くほど不快な感覚が強くなるというからくりである。さらに意識しまいとすればするほどますます、一点に凝集強化されるのである。これを精神の交互作用という。これが神経症の症状である。精神交互作用によって、神経症は悪化して、症状として完全に固着する。しかし意識は、たえざる流動変化している。神経質症状も、環境の中で力動的に変化消長する。そして症状が意識の中心より、やや遠ざかった時に、意識的に無理にこれを中心に持ってくるように患者に努力させる。発作をおこすようにさせる。ここがポイントである。これは平素の患者の努力とは反対の心の働きをさせるのである。すると、ここに意外なことには、中心に持っていこうとする努力とは逆に、周辺に退くのである。すこし逆説的で理屈ぽいかもしれないが、神経症からの回復の真実をついている。神経症は逃げたり、やりくりをやめない限り治らない。10年でも20年でも治ることはない。神経症を忘れていたという生活態度になれば治ってしまうのである。一夜にして治ってしまう。元メンタルヘルス岡本記念財団の岡本常男さんがまさにその例にあたる。
2013.11.03
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芸術は模倣から始まる、といわれています。芸事もそうです。師を選び、最初は徹底して模倣します。ピカソのような画家も、若いころに名画を模写していますが、これも徹底した模写です。こうしたすぐれた師を模倣していると、やがてその先に独創の世界が現れます。どんな天才でも、最初から独創的な独自の世界を築いているわけではないのです。これは森田理論を身につける場合も同じことが言えます。まず森田先生の生活ぶりを模倣することが一番です。私は森田先生の芸達者のところをまず真似てみました。今では楽器の演奏、どじょうすくいの男踊り、獅子舞などをみんなの前で披露できるまでになりました。それから、「ものそのものになりきる」「感じから出発する」「物の性を尽くす」「規則正しい生活をする」「神経質性格を活かす」「事実を受け入れる」等々いろいろと模倣してきました。理論を観念的に理解することも大切ですが、実際に生活ぶりをそのままそっくり真似てみるというのが案外早道かもしれません。次に集談会に参加していると、森田を生活に活かしている人がおられます。その人の生活を模倣してあやかるという気持ちで、日常生活を丁寧にしてみることもお勧めです。なかなか進歩しない人は、いろいろ集談会でよいことを聞いても、模倣しない人です。そして同じような苦しみを訴えている人です。実にもったいないと思います。目の前にお手本があるのですから、考える必要はありません。ただ素直に真似てみる。それを愚直に続けてみる。それだけのことで確実によくなります。
2013.11.01
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森田先生の言葉です。森田正馬全集第5巻 389ページ神経質の症状の治ると治らないとの差は、苦痛をなくしよう、逃れようとする間は、10年でも20年でも決して治らぬが、苦痛はこれをどうする事も出来ぬ、仕方がないと知り分け、往生した時は、その日から治るのである。すなわち「逃げようとする」か「踏みとどまる」かがね治ると治らぬの境である。私の場合は対人恐怖症です。対人緊張が非常に激しい。人から非難される、バカにされる、いい加減あしらわれる、無視されるなどということがとても耐えられなかった。いつもそんな場面に出くわすと、やりくりしたり、逃げ回っていた。逃げたときはほんの少しだけ楽になるが、そのあと何十倍も苦しみが襲ってきた。地獄に家を建てて、住むつもりで対処せよと教えられたが、自分には少し無理だった。そこで私の取った対策は、欠点、弱点、ミス、失敗を10のうち1つだけは隠さないで公開しようという気持ちでやってきた。その時は「まな板の鯉」、「清水の舞台から飛び降りる」、「背水の陣をひく」これが私のキーワードだった。10のうちの1つができるようになると、なんとか会社にしがみついて家族を養っていけるようになると思っている。
2013.10.31
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今月号の体験談はうつ病で2カ月会社を休職した方の体験談です。休み明けに会社に出るときはとても勇気がいった事と思います。うつ病でつらい思いをされている方は、大いに励まされることと思います。ぜひ参考にしていただきたいと思います。その方は先輩の手紙に励まされたそうです。これが集談会の自助組織のよいところです。先輩の手紙には、「私たちは月給鳥という鳥だ。餌をせっせと巣に持って帰ればそれでいい。仕事が目的ではなく、生活する上での手段にすぎない。」と書いてあったそうです。休み明けびくびくしながら会社に出て、一人一人に挨拶をして回られました。「役立たず」とイヤな目で見られるのではないかと内心びくびくしておられました。しかし、みんな普通の顔で返事をしてくださったそうです。これに救われました。そして「ダメな自分」に人はそれほど関心を持っていないということが分かり、自分を守ろうと体に張っていたバリアが急速に弱くなっていき、自己受容が生まれとても楽になって行きましたと書いておられました。これは劣等感的投射といいます。神経症で悩んでいる人は、自分が何かにとらわれていると、人はそのことに重大な関心を寄せてくる。そして自分を軽蔑したり、毛嫌いしたり、迷惑がったりしてくるはずだと、かってに判断してしまうことを言います。そして行動することができなくなってしまうのです。しかしほとんどの場合事実はそれとは違っていたわけです。これらは認識の誤りといわれています。森田理論で理論を学習して、この方のように実際に体験してみるとすぐにその誤りに気がつくことができます。
2013.10.31
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学校で友達とうまく付き合うことができずに悩む人が多い。また会社での人間関係で傷つく人も多い。森田でいう対人恐怖の人である。私もそうであった。学校ではいじめに遭ったり、無視されないようにいつも神経を使っていた。会社では仕事で会社に貢献するという気持ちよりも、会社での良好な人間関係作り上げることに最大の価値を置いていた。いずれの場合も頭の中の大部分は人から嫌われないこと、人からよく思われることで占められていた。おそらく90%は寝ても覚めてもそのことにエネルギーを使っていたと思う。森田を学習していて思った。もし頭の中でそのことに費やす時間や比率が70%、50%、30%、10%というふうに比率が低下してきたとしたらどうなるのだろう。そう考えただけで生きる力が湧いてきた。なるほどポイントはそこにあったのか。それでも人からバカにされる、非難される、無視されることはとてもつらいことだ。でも比率が下がっているので、いつまでもそのことに関わりあっているわけにはいかない。つまり視野狭窄になり自分で自分を追い込むことは避けられる。つらい、イヤだ、逃げ出したいという気持ちを抱えたまま目の前のことに手をつけていかなくてはならない。そのうち自分のやりたいことや好きなこと、得意なことを見つけ出せれば十分に生きていける。私は以前曽野綾子さんの次のような話を紹介した。寿司屋の大将でカラオケもへたくそ。ゴルフの腕前も最低。経済観念は全くない。教養というものもない。でもそれを笑いの種にされても悠然としている事が出来るのは、自分は寿司を握らせたらだれにも負けないという自信があるからだ。その自信に支えられて生きていけるのだ。高良武久先生も10年一つのことに取り組んでいれば、その道ではエキスパートになれる。そうなれば、人間関係に振り回されることはなくなるといわれています。人間関係で悩んでいる人は正面から解決しようとしてはいけない。外堀から埋めていくことである。日常生活は規則正しくなっているのか。食事の支度、洗濯、そうじ、後片付け、車の洗車、靴磨き、整理整頓、風呂やトイレの掃除、歯磨きはきちんとしているのか。子どもや夫婦、親子の対話はしているのか。友達や仕事仲間にたまには気を使って何かをしてあげているのか。対人関係で悩むのはいい。でもその前に今書いてきたことがほったらかしなら、そこにこそエネルギーを傾けるべきだろう。森田では生活のバランスという。日常生活、仕事、家事、趣味、社会生活、健康などのバランスをとった生活のことだ。対人で悩む人はバランスが大きく崩れて一つのことに偏っているのではなかろうか。バランスを意識していくことが、対人のとらわれから抜け出す大きなポイントとなる。これに「かくあるべし」を減らすということを身につければ、対人恐怖症から脱却できることをお約束します。
2013.09.27
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信頼できる人、尊敬できる人はどんな人だろう。生活の発見会には何人かはそういう人がいる。そういう人の共通点を探ってみたい。まず相手を大切に扱ってくれる。よく話しを聞いてくれる。最後までよく聞いてくれる。ただ聴くだけではない。その上で自分の意見をしっかりと話してくれる。自分の体験したことを基礎にして話してくれる。理想や「かくあるべし」の押し付けはない。つぎに自分の存在を丸ごと認めてくれる。人と比較するようなことはしない。ただ生きているだけでいい。あるがままに存在していることに価値がある。そこに視点をすえておられる。ミスや失敗、悪いことをしても、否定しない。将来につながるよい経験をしたと、許してくれるのである。またもがき苦しんでいる時、じっと付き添ってくれる。いつも気にかけていてくれる。そしてどうにもならなくて助けを求めた時、必ず助けに入ってくれる。アドバイスをしてくれる。そして他人がうまくいったり、成功すると自分のことのように喜んで祝福してくれる。あなたの成功や幸福を自分のことのように喜んでくれる。うらやましいのは、自分の生活スタイルに満足している。あんな人になってみたいなというオーラがある。決してお金がたくさんあるわけではない。質素な生活である。でも日々の生活がすごく意味があり、一つ一つの日常茶飯事がとてもいとおしいという気持ちが体全体からあふれているのである。最後に森田理論を自分のものにしておられる。極めておられる。生活が森田そのものになりきっておられる。すべての生活は森田理論をベースにして成り立っているのです。いわば森田の達人になっている人です。私もそうゆう人になりたい。
2013.09.23
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王選手は荒川コーチとともに血のにじむ練習で一本足打法を完成させた。王さんの打ちこみの練習は打撃投手がねを上げて、別の打撃投手に変更してまでも行われていた。王さんは練習の意味を次のように話しています。「バッティングは感性だけど、根本は体に覚えこませる。徹底的に身体に染みこませる。その繰り返しなんだよ。なぜ長い時間打つかといえば、長く打てば当然疲れる。疲れた時って体は正直なんだ。自然体になるんだよ。つまり、体が勝手に無理のない自然の動きをしてくれる。自分の脳が描いている理想のスイングではなく、体が自然に回転する動き、それって実は理想のフォームなんだよね。だから、徹底的に体を痛めしけて、もう限界っていうところでスイングしたのが理想だということ。どこにも力みがなく、どこにも邪念がない。徹底的に体を疲れさせたからこそ、体が一番スムーズなスイングを出す。」これは神経症から解放される道とよく似ています。神経症はイヤなことをやりくりし、つらいことから逃げるという行動を繰り返すことから、精神交互作用で固着してきます。玉野井幹雄さんは、神経症が固着して、どんなに苦しくても治すことをやめた時に転機は訪れる。このことを地獄に家を建てて住むと表現されています。絶体絶命の立場に立って、神経症を治してやろうとか、やっつけてしまおうとかいう気力がなくなった時に、初めて神経症が治るのだといわれています。いったんそうした地獄を見た人が立ち治ると、鬼に金棒だと思います。再発することはないと思います。それは神経症の発症のからくりが身をもって体得できるからです。いつまでも神経症が治らないといっている人は、どこかに神経症は治す道があると思って、まだまだ対決するエネルギーが残っており、絶体絶命の心境にならないからだと思います。パニック障害の方が森田療法で短期に回復される例をよく見受けます。この方たちは生きるか死ぬかというとても厳しい状況に、このむと好まざるにかかわらず追い込まれるために、かえって死地に生を得るということになるのです。
2013.09.05
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森田理論では神経症が治るということについて、主に次の3つの段階があると解説している。1、精神交互作用の打破2、思想の矛盾の打破3、「生の欲望」に沿った生き方をめざす森田先生は1の段階を小学校卒業程度、2の段階を中学卒業程度、3の段階を大学卒業程度と言っておられる。丸山晋先生はそのうえに大学院卒業程度のことも言及しておられる。私の考えですが、1は今まさに神経症で、観念と生活の悪循環で生活が停滞し、蟻地獄の中にはまったような人はすぐに取り組むべき課題である。ほとんどの人は比較的短期のうちに蟻地獄から這い出る。1は蟻地獄から這い出たとしても、その生活態度自体は、堅持しないと元のもくあみとなるので注意が必要だ。続いて2が達成されないと、生きづらさ、心のもやもやは解消しない。1の段階で森田理論の学習を止めてしまう人がいるが、生き方が改善していないので心の中はいつも曇天のような状態である。また何かのきっかけで神経症の再発を容易に招く。2の学習が不十分なのである。これは比較的大きな壁であるので、自分ひとりで乗り越えることはかなり難しい。ピアカウンセリング、仲間との相互学習でまず理論を正しく理解すること。次に事実本位・物事本位が生活の中で実践できるようになること。森田先生がよく言われる修養を積んでいくことである。ここが森田理論学習の最大の難所となる。こうゆうときは仲間の力を借りることである。ここを乗り越えれば、どんな状況に遭遇してもほぼ乗り越えてゆける。その道は確かに森田理論学習と実践の中にある。3は難しく考える人が多いいが、私たちは森田理論を解釈するために学習しているのではないと思う。自分の考え方の誤りを正し、森田理論に沿った生活態度を身につけるために学習しているのだと思う。真意を汲み取り、自分なりの言葉に置き換えて理解していくことが大切だ。森田先生は次のように説明されている。この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度のものであろうか。私は大学卒業程度については次のように理解している。比較対象のない世界だと思います。自然と同化し、なりきった世界。「かくあるべし」が小さくなった世界。つまり思想の矛盾を乗り越えて、事実に服従するような態度が出来上がってみると、それは実に自由な満足感に満ちた生活がよみがえってくる。本来の人間の生き方に立ち戻ることができる。どこまでも「生の欲望の発揮」に邁進するような状態になってくる。そのことを言っているのだと思う。次に丸山先生の言われている、大学院卒業程度であるが、これは「小我に生きるのではなく大我に生きる」ことと言われている。私の考えはこうだ。大学を卒業して、どこまでも「生の欲望の発揮」に邁進するような状態というのは、反面とても危険な面をもっている。つまり「生の欲望」の暴走が起こることである。ここでは不安の制御が働いたうえでの「生の欲望の発揮」でならないといけない。制御が働いてくれば「生の欲望の発揮」が一人暴走することはない。本来の「生の欲望の発揮」というのは、将来が今より良くなること、他の人のために尽くすこと、この二点に集約されてくるものと考えています。
2013.08.22
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土屋守医師は、「森田で治ったと称する人の中に、社会適応はしていても、独善的でさまざまな歪みを残した治癒像を見る。森田は神経質な傾向を長所として活かしきって、自己に対するマイナスイメージを一挙にプラスイメージに転化させるが、時として、プラスイメージが強化されすぎて独善性を身につける。とくに、自己の脆弱な事例に森田療法を行うと、容易に独善性を身につけ、歪みを残した治癒像になる。」といわれています。この点を補完するために、内観をおこなうと、我の部分が自分に災いしていることを、身にしみて感じさせられて、森田療法の治癒像の歪みを強制できるといわれています。私はこの点について次のように考えている。症状からの治癒でまず取り組むのは、行動や恐怖突入によって、精神交互作用の打破である。これがある程度軌道に乗ってくると、症状は楽になってくる。この段階で完治とみなすと、土屋先生のいわれるような独善的で、自信満々で、ずけずけと他人を非難するような人が出現してくると思う。「かくあるべし」で他人を遠慮なく価値評価する人である。思想の矛盾が自己を苦しめているのならまだいいのですが、他人を苦しめる方に向いているので始末が悪いのである。とばっちりを受ける人はいい迷惑である。したがって神経症の治癒というのは少なくとも下記1、2は達成される必要があると思う。1、精神交互作用の打破神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。これができるようになれば、第一段階の治るということは達成されます。2、思想の矛盾の打破神経症に陥った人は、強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。ですから、神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、事実本位、物事本位の生活に修正してゆくことが大切になります。こうした生活態度が身につくと、第二段階の治るということは達成されます。
2013.03.03
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伝説のプロ野球コーチ高畠導宏コーチは言います。「高めのボールには手を出すなと、監督やコーチがいいますよね。でもこれは最もいってはいけない言葉なんだと分かってきました。なぜならこうゆういい方をすると、意識が逆にその高めにいってしまうからです、○○してはいけない、といわれれば、どうしても意識がそこにいき、そして結果的にいわれたとおりの失敗をしてしまう。」「またピッチャーにここは長打を打たれたらダメだ、気をつけろという言葉も、よく監督やコーチがマウンドに行って口にします。でも、そういわれると、よけいに意識がそこにいって逆に球が死んでしまいます。」「ピッチャーが四球を連発している時でも同じです。真ん中に投げろと、監督やコーチはよくいいますが、実はこれが一番つらいんですね。だって、コントロールが乱れてフォアボールを連発しているのに、真ん中に投げろといわれたって、困るだけです。」「そういう時は、ピッチャーの意識をストライクを投げることから外してあげることが必要なのです。たとえば腕を思い切って振っていこう、そうゆう言い方が大切なのです。」これから学べることは、第一に「かくあらざるべし」を前面に出した指示は、かえってそのことに神経を集中させて間違いを犯してしまうということ。第二に他のことに注意を向けていくことが、とらわれから抜け出すのに有効であるということです。これは神経症の蟻地獄から抜け出すのに、森田理論学習でいわれている事と同じことです。
2013.02.23
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アメリカの森田療法家のレイノルズ博士は、神経症が治る過程に次のような段階があるという。1、一番苦しい段階は部屋が汚くても、それに掃除機があっても、自分の悩みでいっぱいですから何もしない。イヤー、汚いなという感じで、それは悩みの最低の状態です。2、自分の悩みから逃げたいから掃除機を使って掃除をする。それは症状から気をそらすためですが、これは最低よりはよい。部屋はきちんときれいになるし、一時的には治るのです。3、部屋が汚いから掃除をする。2番目と3番目は大きく違う。違いが分かりますか。4、実はもっとよい段階があるのです。部屋が汚い、いつの間にか掃除機が動いている。そして部屋がきれいになる。そこには、自分の気持ちというものが全くないのです。1の場合は気分本位といえると思います。2の場合は、症状は持ちながらなすべをなすということができています。これができるようになると、第1段階の治るということです。この段階では苦しいでしょうが、この態度を続けることが大切です。3の場合は多少「かくあるべし」が少なくなり、事実本位、物事本位の大切さが理解できた段階です。○○しなければいけない○○してはいけない。という自分への縛りが少なくなると神経症の苦悩は小さくなります。4は「かくあるべし」にとりつかれていた状態から完全に解放され、「生の欲望」にそって運命を切り開いていく段階だと思います。
2013.01.16
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森田先生は治っていく過程を小学校、中学校、大学卒業程度に分けて説明されています。小学校卒業 気分の悪いままこらえて働くことができる。症状はあるがままに受け入れてなすべきをなす。なすべきをなすに重点が置かれている。靴磨き、風呂の掃除、部屋の掃除、整理整頓、布団あげなど。現実の生活はなんとか回りだすが、依然として症状そのものはとれない。自分の核の部分で違和感を感じたまま。人との間に距離感を感じる。劣等感にとらわれる。自分自身に自信が持てない。いつも何かが気になる。自己受容ができない。それはけがをしたときに出血を止めただけであり、本格的な治療になっていないからである。思想の矛盾に陥ったまま。中学卒業 事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。自然にわき起こってくる感情は意志の力でコントロールすることはできない。それは自然現象と同じ。事実から逃げたり、ねじまげないでそれをそのまま認めなければならない。事実を素直に認めることは簡単なようで難しい。ここを超えるということが最重要課題となります。交通事故で人をはねた。しまった。どうしよう。これは純な心である。ふつうは被害者救済。警察への連絡。二念、三念がすぐに顔を出す。被害者の家族に何を言われるかわからい、新聞やテレビに出るかもしれない。そうなれば会社を首になり、自分の家族が路頭に迷う。警察の取り調べ、交通刑務所などのことが頭をかけめぐる。そうしたことはなんとか避けなければならい。つまり事実を素直に認めることができずにその場から逃げよう、かくそうということにもなる。その場は少し楽になってもいつ捕まるか生きた心地はしない。最後にひき逃げ犯として逮捕されたときはどうすることもできなくなっている。仕事でミスをした。 見つかると人に能力のない奴だと馬鹿にされる。 その事実は認められない 逃げる。伝票操作をする とらわれる ミスが発覚する 大きく信頼を失う。大学卒業 この善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事がそれが大学卒業程度のものであろうか。比較対象のない世界だと思います。自然と同化し、なりきった世界。「かくあるべし」小さくなった世界。台風、地震、大雨、雷など自然現象はよいとか悪いとか思わない。それをあるがままに受け入れている。受け入れがたい感情も同じようによいとか悪いとか、苦しいとか楽しいとか、思うとか思わないとか、正しいとか間違いとか、気分がよいとか悪いとかを超越して、神経質の性格を持ったまま、境遇に服従して、精一杯生きてゆく。そういう世界かなと思います。当面我々は、小学校、中学校卒業を目指したいものです。
2013.01.13
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神経症が治るということは次の三段階のステップがあります。言葉がむずかしいと思いますが、イメージとして全体像をつかんでおいてください。また折を見て解説いたします。 1、精神交互作用の打破2、思想の矛盾の打破3、「生の欲望」に沿った生き方をめざす まず1から2、2から3へと段階を踏んでステップアップしてゆくことになります。3までいけば完治となります。これは、観念的な理解だけではなく、日常生活の中で行動として実践できるようになることが大切です。 1、精神交互作用の打破神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。これができるようになれば、第一段階の治るということは達成されます。 2、思想の矛盾の打破神経症に陥った人は、強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。ですから、神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、事実本位、物事本位の生活に修正してゆくことが大切になります。こうした生活態度が身につくと、第二段階の治るということは達成されます。 3、「生の欲望」に沿った生き方ができるようになる「かくあるべし」が小さくなり、事実本位、物事本位の生活態度が身についてくると、神経質者は強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、運命を切り開いてゆくようになります。これが第三の最終段階です。この段階では、症状を治すということを通り越して、神経質者としてよりよい生き方を目指してゆくことになります。
2013.01.06
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