全190件 (190件中 51-100件目)
私は、最初の頃、「神経症は治すべきものではない」といわれて、なんと不親切なことを言うのかと反発していた。集談会に参加して、対人恐怖症を治そうとしているのだから、「大丈夫ですよ。必ず治りますよ」と嘘でもいいのでそう言ってもらいたかった。「私は森田療法で神経症を治しました」という人をモデルにして、私もその恩恵にあやかろうと思っていた。その気持ちを最初から打ち砕かれたのだ。今考えると、その通りなのですが、初心者には酷な言葉です。舌足らずでは誤解を招く言葉だと思います。私は初心者に対して、「神経症は必ず治りますよ。その証拠に治った人がこの会にはたくさんいらっしゃいますよ。そのために最低1年は集談会に参加してくださいね。また、生活の発見会に入って、送られてくる月刊誌をよく読んでくださいね。そうすれば、私たち先輩会員が全力でアシストしますよ」ということにしている。実際その通りなのだ。私は、「神経症は治すべきものではない」という言葉は軽々しく使うべきではないと思う。この言葉を使うことで、相手がどんな気持ちになるのか考えてみる必要があると思う。それでは次に、神経症を治そうと努力していては、いつまで経っても治らないという意味を説明してみたい。神経症とは、不安、恐怖、違和感、不快感にとらわれてイライラする。精神交互作用によって、最終的には生活が停滞してしまう。最悪の事態を招かないように、この不安などを取り除く方法を四六時中考えるようになる。そこまでのエネルギーのない人は、嫌なことがあるとすぐに逃げ出す。これは天気の良い日に外に出ると、影ができますね。その影が邪魔ものに思えて、一生懸命に箒で履いて捨てようとするようなものなんですね。どんなに努力しても、本体がある限り影はなくすることはできません。つまり実現不可能なことにエネルギーを投入して、最後には疲れ果ててしまうのです。ドン・キホーテのようなものですね。無駄な努力となります。このことから分かることは、不安、恐怖、違和感、不快感は、それ単体で対応しようとしてはいけないということです。そうするとどんどん増悪して、蟻地獄に落ちていくのです。ではどうすればよいのか。ズバリいうと、欲望と不安の相互関係の中で解決していくということです。本体と影の関係でいえば、欲望が本体で不安は影に相当します。影を無くそうとすれば、何もしなくても、日陰に入れば影は無くなります。不安のことを考える時は、欲望のことも考えないと墓穴を掘ってしまうということです。不安と欲望は相関関係にあります。どちらか片方だけというのは、それこそ片手落ちということです。車でもいくら制御力のよいブレーキを搭載していても、エンジンを動かさないと、決して前には進みません。車の場合はまず加速力、馬力のあるエンジンを駆動することが大切です。それが第一優先順位となります。それから第2優先順位であるブレーキの活用を考えるようにするのです。「神経症は治すべきでない」というのは、欲望の追及を蚊帳の外にして、不安、恐怖、違和感、不快感そのものと格闘してはならないということなのです。むしろ「生の欲望の発揮」を第一優先順位して、それが暴走しないように不安を適宜活用していくというのが順序というものです。そうなりますと、不安はとても大切な役割を果たしていて、なくてはならないものとなります。それはちょうど全身に神経が張り巡らされて、痛みや不具合箇所を感じるようになっています。神経は煩わしいものだからといって切断する人はいません。麻酔を打って、痛みを感じないようにする事もできますが、それでは容易に命を落としてしまうということになります。神経は時として激痛を伴いますが、生命維持に欠かせないものです。不安の存在も同様です。取り去ろうと考えるよりも、生の欲望について考え直すことがより大切なのです。そしてそれを第一優先順位として、生活を維持することで、不安に振り回されることはなくなります。
2020.09.11
コメント(0)
森田先生は、神経症が治ったかどうかは自分ではよく分からないものだといわれている。たいていの人は、主観的に気持ちの上でよくなるよりは、客観的に事実においてよくなる。本人が気づくのはずっと遅い。ここでは一切、自分の気分や想像で、「よくなった」とか、「わかった」という事は問題にならない。ただ治ったという事実が大切です。終日よく働く・機転が利くようになったとかいう事実を観察して、初めて治ったという事が、決まるのである。倉田百三さんが、強迫観念で苦しんでいた時、原稿など書く気になれないという。その時、森田先生は次のように助言した。「気分などは、どうにでもよいから、それに無関係に、ともかくも筆をとる方がよい」という事をいった。その後の、倉田さんの話に、面白い事はその「ともかくも」と書いたものが、その後興に乗って書いたものよりも、一番出来が良かったとの事である。ちなみに、その小説は「冬鶯」という作品です。この小説は森田先生も出来のよい代表作品だと評価されています。(森田全集第5巻 448ページ)だいたい神経症にかかった人は、気になることが気にならなくなり、やりたいことに専念できるようになった時が神経症を治した時だと思っている。そういう実感が持てないと治った気がしない。これは気分を問題にしているのですね。森田先生は、この診断は間違っていますといわれている。神経症が治ったかどうかは、第三者に判断してもらう方がよい。自分で自分を診断していると間違った診断結果が出やすい。それは気分がどうなったかを判断材料にしているからである。精神科医、カウンセラー、集談会での先輩会員、配偶者、家族、友人などに見立ててもらう方がよい。私もその人の普段の生活を見たり聞いたりしていると、その人の治り具合や森田理論の活用度合いが大体分かります。診断の時、第三者は、神経症で苦しんでいる人の精神状態が、どうなっているかは、ほとんどわからない。それでも神経症がどのような回復状態であるのか、正確に診断できる。診断にあたっては、その人の苦しみや葛藤が軽減されているのかどうかは、全くといってよいほど問題視していない。ここが肝心なところです。規則正しい生活ができているか。日常茶飯事、仕事、勉強、家事、育児、介護などの取り組み状況はどうなのか。凡事徹底への取り組み状態はどうなっているのかを見ているのです。気づきが多くなり、手や足が動いているかどうか。本人の気分がいかに苦しかろうが、目の前のなすべきことを淡々とこなしていればよいという考えなのです。森田先生もそうですね。例えいまどんなに苦しかろうが、将来を見据えた場合、神経症のことを考える度合いが減少していくことが予想できるからである。この減少する方向に進んでいるかどうかがポイントです。神経症との葛藤の比率が減少しつつある人は、早々と神経症の克服宣言をしているのです。神経症的な不安は誰にもあるものです。それは生きている限り入れ代わり立ち代わり湧き上がってくるものです。そのようなものなのに、跡形もなく、なくなったかどうかを詮索していくことは問題にならない。神経症に苦しんでいる本人にとっては、納得できないかもしれません。その気持ちはよく分かります。でもその方向性を目指すことは考えものなのです。そういう方は、神経症が治るとはどういうことかを今一度学習してもらいたいと思います。
2020.08.27
コメント(0)
よく対人恐怖症の治し方について質問を受ける。とっさに質問されると、返答に困ることがある。ここできちんと整理しておきたい。対人恐怖症の人は、他人の言動に振り回されている。自己主張ができない。言いたいことを言おうとすると、いつもけんか腰になる。いつもビクビクして、自己防衛に力を入れている。非難、否定、仲間はずれにされてしまう事を恐れている。そのことに怖気づいて、言いたいことがあっても、我慢する。じっと耐える。しかし、自ら自由な言動を抑圧していると、ストレスがたまる。生きていくことが苦しくなる。しだいに内向的、内省的、防衛的な生き方になる。ネガティブ、消極的、防衛的な生き方が身について、自己嫌悪、自己否定するようになる。人生の意義が見いだせなくなり、ただ生きているだけという状態になる。神経質性格者の人は、欲望が強いので葛藤や苦悩でのたうち回るようになる。そのような人はどう打開していけばよいのか。4点ほど提案したい。1、自分に「かくあるべし」を押し付けない。現実には、自己主張できない自分を上から下目線で冷ややかに見つめている。確固たる理想の人間像を持っていて、現実でのたうちまわっている自分をいじめている現実を自覚することです。そして「かくあるべし」の弊害をよく学習することです。2、他人の思惑に振り回されている自分を無条件で認め、受け入れていくことです。自分の考えや意見を正々堂々と相手に伝えることができない現実を受け入れることです。他人の前にいると、いつもビクビク、オドオドしてしまう自分を許してあげることです。どんなに心もとない自分であっても、いつも寄り添って励ますことです。その性格特徴、気質は改良や改善できない。このまま生きていくしか道はないと開き直ることです。覚悟を決めてしまうことです。3、注意や意識を対人関係に過度に振り向けない。対人恐怖症を克服することばかりに関わりすぎると、それは益々対人恐怖症を強化してしまうというパラドックスを理解する。頭の中に対人恐怖症のことが100%占めていた状態から、80%、60%と下がってくるにしたがって、神経症は治りつつあると理解した方がよい。すっきりと傷が治るというようなわけにはいかないということです。対人恐怖に振り回されている状態が50%くらいになれば、もうすでに治りましたと宣言してもよいと思う。完全に治すという事は、自分がもともと持っていた長所も無くなると考えた方がよい。そのためには、「規則正しい生活」「凡事徹底」に取り組むことをお勧めします。取り組んでいるうちに、いつの間にか対人恐怖症のことは忘れていたという時間を多く作り上げることです。4、対人恐怖症を治すためにコツがあります。森田理論でいう「不即不離」を応用することです。人間関係を広く浅く築き上げていくことです。家族、親戚、集談会の仲間、仕事の仲間、OB会、同級生、趣味の仲間、勉強会の仲間、町内会などあらゆる方面に作りあげていくことです。狭くて親密な人間関係作りはお勧めできません。どっぷりとのめりこんでいくやり方は、対人恐怖症を強化するように働きます。人間関係は必要な時に必要なだけと心掛けるだけで、ストレスのない人間関係を作り上げることができます。以上4点ですが、直接対人恐怖症に働きかけるものではありません。遠回りになるように思われるかもしれません。すっきりしないかもしれません。しかし私の体験からこのような治し方が理にかなっていると思うのです。
2020.08.23
コメント(0)
山野井房一郎さんが入院中の時、戸村さんという人がいた。その戸村さんが、あるとき婆やから、庭にある2坪ばかりのニラ畑から、おみおつけに入れるニラをとってくるように頼まれました。戸村さんは、婆やに、「何に入れてくるんだい」と聞いている。40過ぎの大人がいちいち聞くことがとみておりました。婆やは、直径50~60センチもある浅い大きなザルを出してきて「じゃこれに入れてきてください」と言いました。戸村さんは、「ヨシ、とってくるぞ」といって大きなザルを持って駆け出していきました。しばらくして「婆やとってきたぞ」というので見ましたら、ザルに山盛りにしてあります。婆やは、それを見まして、びっくりしまして、「お父っつあん、みんなとってきたのかい」とききましたら、「めんどくさいから全部とってきちゃったよ」と平気で言います。これには婆やも驚きまして、「お父っつあんはまあ、大変なことをしてくれたものだ」「あんたはしばらく入院だね」というわけです。(生活の発見誌 6月号24ページ)戸村さんは九段下でビリヤード屋を経営しながら遊んで暮らしているような人だったそうだ。たぶん子供のころから、過保護に育てられたのだと思われます。山野井さんは、子供などはあまり大事にしすぎると、何にもできない子供になると指摘されています。少々時間がかかっても、子供ができることを、親が先取りしてしまうと、こんな子供になりますよという見本のような人だった。学校を卒業すると、親から離れて自立して生きていくことになりますが、これでは精神的にも経済的にも親から自立することはできません。子供ができたら、過保護、過干渉、放任、ネグレクトはご法度です。基本的には、子供のそばにいて、子供の自立心が育っているのを見守る態度が欠かせません。一生親に依存する生き方は思い悩むこともなく、安楽な人生に見えますが、砂を噛むような味気ない人生になります。婆やは味噌汁に入れるニラをとってきてくれと頼んだのに、ザルいっぱいに摘み取ったのはどう考えたらよいのでしょうか。これはお使い根性の仕事だと思います。言われたことをこなせばよい。少々やりすぎたとしても文句をいわれる筋合いのものではない。むしろ「よくやった」と誉めてもらえるかもしれないと思っている。物事本位になっていない。普通お使い根性の仕事は、言われたことをイヤイヤこなすというものです。この場合は、エネルギーが有り余っているので、行動に弾みがついて暴走しているのです。制御がきかないところは、双極性障害者の行動とよく似ている。森田では気分がいくら拒否しても、必要なことを必要なだけ手掛けることを大事にしています。手掛けた行動に、弾みがついて、のめりこんでいくことは問題が生じます。反対に、気分が乗らなければ、全く行動する気にもならないというのも困ったものです。どちらの方向に行っても、問題になります。こういう人は、森田の「欲望と不安」の単元をよく学習してもらいたいと思います。そして、生の欲望の発揮が暴走しないように、不安を活用して、欲望を制御して、調和を目指していく方向に転換してもらいたいと思います。
2020.07.14
コメント(0)
森田全集第5巻の中に、森田先生が「不問療法」について説明されている部分がある。最近驚いた実例は、静岡県の人で、30余歳の人である。胃アトニーが、主症状で、そのほか15年以来の反芻癖(一度食べたものが、胃から上がってくる癖)があり、これが自分では非常に煩わしい。胃アトニーは、1週間ほどで治ったが、その後、日記で、反芻癖はどうすれば治るかと、質問したから「どうもしかたがない」と赤字で答えておいた。それから、いつ治ったかは、本人も気づかなかったが、3週間後には、いつの間にか、全く治っていた。これは療法上の術語で、不問療法という。知らぬふりして、放ったらかして置くことである。医者としては、不親切で、無責任に思われるから、実際には、素人が考えたよりも、なかなか難しいものである。「しかたがない」という事は、僕の根治法の内に「須らく往生せよ」と言ってあることに相当するものである。(森田全集第5巻 334ページ)神経症で苦しんでいる人は、直接神経症に働きかけて、その不安、恐怖、違和感、不快感を取り除こうとしてはならない。そんなことをすれば、精神交互作用で、どんどん症状は悪化するというものである。苦しいだろうが、とらわれたままにしていると、症状は軽くなっていくというのが森田理論の考え方なのである。しかし神経症の苦しみから逃れたいと思っている人にとっては、酷な言葉である。最初から、「森田は不問療法です」といえば、森田療法で神経症を克服したいと思う人はいなくなると思う。それでなくても、薬物療法や認知行動療法など様々な精神療法が存在している。不問療法というのは、森田理論の神髄に精通した人はすぐに分かりますが、初心者に対して説明する言葉ではないと考えています。森田先生も不親切で、無責任だといわれている。私は「森田療法で神経症は治りますよ」と言うことにしている。実際その通りなのです。ただし正攻法をとっていない。回り道という別の方法で治すという方法をとっています。即効的ではありませんが、いったんコツを掴めば再発することがありません。神経症を治すためには、生活の発見会などの自助組織に参加することをお勧めしています。そして系統立てたテキストがありますので、仲間と一緒に森田理論の学習をお勧めします。これは一人で取り組むよりも、仲間と一緒の方が取り組みやすいと思います。そして森田理論を、少しずつ生活の中に応用・活用していきましょう。そうすれば、神経症が克服できます。さらに、神経質性格を活かした人生観も同時に手に入れることができます。そのための援助は先輩会員や仲間が親身になって行っています。
2020.07.06
コメント(0)
神経症が治るということに関して森田先生は次のように説明されている。治るということは、単に苦痛がなくなるのではない。ますます精神健全に、ますます適応性を発揮して、人生に向上発展するのが本旨でなくてはならない。単に頭痛が治ったといっても、再発しやすく、強迫観念が一つ治っても、また別の強迫観念が起こってくるという風になる。(森田全集第5巻 207ページ)私は神経症というのは、火山の噴火のようなものだと思っている。火山のすぐ下にはマグマだまりがある。それが火山の地盤の弱いところを絶えず刺激している。弱くて、ここだと思ったところで噴火を起こす。これが人によって100人100様の神経症の発症となるのです。同じ対人恐怖症といっても微妙に異なっている。普通神経症で精神科を受診すると薬物療法に入る。対症療法によって、不安を軽減することを目的としている。日常生活がままならない人は薬に頼ることはやむを得ない。不安が軽減でき、職場復帰できるようになると、一般的に治療は完結する。それでめでたし、めでたしかというと決してそうではない。そういう人は神経質性格を持っており、不安や恐怖にとらわれやすいという特性はそのままに放置されているからである。つまり、一つの神経症が軽快すると、また別の神経症を発症するようになる。仮に神経症が治ったといっても、かろうじて社会復帰が可能になったという程度のものである。不安や恐怖がコールタールのようにベタベタと体にまとわりついたままなので、生きづらさは何ら変わりない。針の筵に座っているような苦しみは、ずっとこの世に生きている限り続く。自分は神経症で苦しむために生まれてきたのだろうか。このまま生きていても苦しいだけで楽しいことなんで何もない。いっそのこと消えてなくなりたい。もう二度と人間になんかに生まれたくない。森田先生は、対症療法で治ったという人は、完治ではない。再発する可能性がきわめて高いと指摘されている。神経症を治すためには、根治を目指すことが必要だといわれている。そのためには、当面の神経症を治すことを最終目的にすることはまずいやり方となる。神経症になった機会を絶好な時期と認識して、「神経質者としての人生観を確立する」という目標を設定することが大事になってくる。薬物療法などの対症療法は、その目標から見るとほんの一部であるとみるべきなのである。その目標達成のための精神療法は、森田理論学習以外には思い浮かばない。森田理論はきちんと理論化されているし、一緒に学ぶ自助組織も存在している。仲間がいることは心強い。ぜひ安心して取り組んでいただきたい。
2020.06.15
コメント(0)
森田全集第5巻の652ページに神経症の治り方が分かりやすく説明されている。まず小学校卒業程度の治り方である。神経症に陥って苦しい。気分が悪い。そんな時、そう思いながらも普段の生活を維持していく。イヤイヤ仕方なしに仕事に行く。人付き合いもする。趣味の会にも行く。当たり前のようなことだが、神経症に陥ると、症状に振り回されて当たり前のことができなくなる。森田理論を学習して、当たり前のことができるようになると症状は治る。この段階では症状で頭が狂いそうであるが、症状だけにかかわっているわけではない。100パーセント症状のことばかり考えていた状態から、抜け出しつつあると判断できる。その割合が80パーセント、70パーセントと低下することで、症状から離れていくというイメージである。生活が充実するにしたがって、周囲の人からは症状に振り回されている人とは見えなくなる。こういう治り方である。第一段階の神経症の陶冶のことである。次に中学校卒業程度の治り方である。今でいうと高校卒業程度の治り方のことである。不安、恐怖、違和感、不快感は嫌なものである。普通はそれを取り除こうとする。すっきりした精神的な安心感を得たいのである。そこまでのエネルギーのない人は、気分に振り回されて逃避的な行動をとる。これが神経症発症の原因を作り出している。森田理論学習によって、そのからくりや弊害が分かり、取り除いたり逃げ回ることをしなくなった人は神経症を克服した人といえる。一口で言うと簡単であるが、ハードルは高くなる。不安な気持ちが襲ってきても、どんな理不尽な出来事が目の前に立ちはだかっても、事実や現実を受け入れていけるようになった人のことである。そのためには森田理論学習と仲間や先輩の援助が必要となる。その方法を様々に用意しているのが森田理論である。それらを総動員して自ら体得していくものである。最後に大学卒業程度の治り方というのがある。生の欲望の発揮のことである。生の躍動そのものになり切っていくことである。ここで肝心なことは、欲望が発生すると不安も発生するということだ。欲望を車のアクセルとすると、ブレーキにあたるものが不安になる。アクセルを踏み込まないと車は前に進むことはない。第一に心掛けることはアクセルを踏み込むことである。ところがカーブや坂道ではブレーキを活用しないと大事故になる。生の欲望の発揮は、不安の役割を理解して、不安を活用しながら行うことが肝心である。こうしてみると昔から小学校卒業程度で森田から離れていく人が多い。私は森田のだいご味は、中学卒業程度にあると考えている。この段階は観念中心の世界から解放されて、事実の世界に自らの置き場所を変えた人だと思う。そういう人は楽に生きている。あるものを大切にしている。活かしている。人間に生まれたことを感謝している。他人との人間関係もよい。立派な子育てをしている。つまり確固たる人生観が確立しており、自信にあふれているのである。こうなれば周りの人にとても良い影響を及ぼすようになる。この段階に来れば、大学卒業程度の段階にはすんなりと入ることができるようになる。森田の学習に取り組んでいる人は、ぜひとも中学卒業程度を目指してもらいたいものである。
2020.05.15
コメント(0)
不安神経症の人は、特急電車内などの逃げられない場所にいるとパニックを起こす。顔が青ざめ、脂汗が吹きだし、心臓が今にも止まって死んでしまうのではないかという恐怖に取りつかれる。その体験が予期恐怖になり、特急電車や急行電車などには乗れなくなる。緊急搬送されると、心臓の画像診断、血液検査などが行われて、身体的な異常がないか調べられる。不安神経症の人は器質的な病気ではないので、大丈夫ですよと太鼓判を押される。これは心臓の専門家が判定していることだから、信頼性が高い。ところが、不安神経症の人はその診断は間違いではないかと疑う。そして別の医者の診断を仰ぐ。ドクターショッピングを繰り返す。どこの病院に行っても異常ないといわれるのに、いつまでも納得しない。普通の人は、心臓の専門家が下した診断を信じる。ひと安心して、そのことはいつの間にか忘れてしまう。不安神経症の人は客観的な事実を受け入れないのだ。昔の頑固おやじのようなものだ。客観的な事実に対して主観的事実というものもある。自分はいつか突然死するかもしれないという恐怖に陥っている。自分が突然この世からいなくなってしまうと考えると、いても立ってもいられなくなる。そういう不安や恐怖が予期不安となって、苦しくてどうしようもない。何とかこの不安、恐怖、違和感、不快感を取り去りたいと考えるようになる。精神科医の診察を受ける。抗不安薬、SSRI、睡眠薬などの薬を処方してもらう。それでも楽にならない。どんどん悪化して生活に支障をきたすようになる。この場合は、感情の事実、つまり主観的な事実を受け入れることができないのだ。不安や恐怖を人為の力でねじ伏せようとしている。そのことが可能であると信じて疑わないのだ。こうしてみると、不安神経症に陥っている人は、客観的事実も主観的事実も、どちらも納得していない。受けいれていない。受け入れようとしていない。どちらの事実とも対立関係にあるのです。そしてなんとか排除しようとしている。涙ぐましい努力を続けている。しかし容易に排除できないので、葛藤や苦悩でのたうち回っているのです。森田では「事実唯真」という立場をとっています。事実本位の生活態度を身に着けることを、大きな目標として掲げています。不安神経症の人が、この二つの事実を、しぶしぶでも一部分受け入れることができるようになると、もう神経症で悩むことはなくなるでしょう。一つは医者の診断を認めることです。1人の医師の診断で不安なら、3人ぐらいの医師の診断を持って受けいれるようにする。もう一つは、不安や恐怖の感情の事実を受け入れることです。森田理論学習で、神経症の成り立ち、感情の法則、不安の役割、不安と欲望の関係、神経質性格の特徴、「かくあるべし」の弊害などを学ぶことです。一人で学習するのではなく、仲間と一緒に学ぶことが有効です。これらの理解がないと、いつまでも不安や恐怖の感情を受け入れる方向には向かわないと思います。森田の考え方は、きちんと理論化されていますので、集談会で学ぶことをお勧めします。
2020.04.04
コメント(0)
森田先生の話です。薪割をして頓悟したような事と、しだいに悟る漸悟というようなことがあるけれども、いずれも修養を積んで、その時機に達して起こる事で、その準備がなくて起こるものではない。まず頓悟ですが、薪割をしていた人が一瞬で森田理論のポイントが分かったというようなことです。本来自分の意識や注意は、きちんと目の前の目的物に向いている必要がある。神経症で苦しんでいた時は、意識や注意は不安や恐怖、自分の症状などに向いていた。外に向かうべき意識や注意が、自己内省一辺倒であった。これが神経症を作り出していたことが、薪割をしていた時に瞬時に分かったのである。この方は、不安や恐怖を敵視しないで、それらを抱えたまま、物事本位に生の欲望を発揮していけば神経症を克服していくことができる。ただしこの頓悟は日々実践や行動で努力していかないと、すぐに元の木阿弥になることに注意する必要がある。1週間の内観療法を受けた人が次のように言われていた。終了間際になると、今まで両親に多大な迷惑をかけていたことが思いだされて懺悔の気持ちが湧いてきた。涙が止まらなくなった。これからは家族や身の周りの人に対して感謝の気持ちを持って生きていこうと固く心に誓ったという。ところが日常内観をしていなかったため、しばらく経つと感謝の気持ちは薄らいできた。また自分の「かくあるべし」を押し付けるようになってきたという。この例に見るように、頓悟は一瞬でポイントを会得するという面がある反面、気を抜くとすぐに元の木阿弥になるのである。漸悟は対人恐怖症のような強迫神経症の人の治り方である。「治らずして治った」というような感じである。一瞬で治るということはない。通常は何年かかかる。森田理論が理解できて、生活の場で修養や体得を通じて分かる。何年か経過して振り返ってみると、治るということはこういうことだったのかと分かるような治り方である。不安、恐怖、違和感、不快感は無くそうと努力しても治らないということが分かった人を言うのである。いかにももどかしい治り方であるが、その理屈がきちんと理解できて、治そうとする努力をあきらめた人が、治った人なのである。そういう人はエネルギーの投入方法が変わってくる。症状を治すことから、不安の役割や不安と欲望の関係をよく知っており、不安や不快感をむしろ積極的に取り込んで生の欲望の発揮へと方向転換しているのである。ですから、神経症が治っているかどうかは、その人の生活ぶりを見て判断するのである。決して不安、恐怖、違和感、不快感が霧散霧消しているかどうかに注目しているわけではない。むしろそれらは生活が活性化するにしたがって、その数や量がどんどん増加してきているとみているのである。つまり目のつけどころが全く違うのである。
2020.03.28
コメント(0)
第10回形外会の記録の中に神経症の治り方についての説明がある。まず森田先生の著書を読むだけで治る人が相当数いる。たくさんの礼状によって分かる。また、1回の診察、数回の外来で治る人も多い。倉田百三氏は頑固な強迫神経症を5、6回の診察で治された。入院する人は、早いのは1、2週間で完治した人もいる。まれには4ヵ月もいた人もいます。平均は40日ぐらいです。治らない人も100人中、6、7人はいます。治る人と治らない人の違いは、森田療法に従順に服従すると否とによることです。自己流の理屈をいうものは、縁なき衆生というよりほかはありません。(森田全集第5巻 95ページより引用)著書とテープだけで胃腸神経症を克服された方の中に、メンタルヘルス岡本記念財団の創始者の岡本常男さんがおられます。この方は食べたくても胃腸に負担をかけたくないという思いから、30キロ台まで体重を落とされた方です。岡本さんは、森田の考え方に従って、流動食から取り組まれました。普通の人にとっては、訳もなくできることでも、胃腸神経症の人にとっては、まさに命がけの恐怖突入だったのです。その成果は3か月後ぐらいから現れはじめ、1年後にはもう胃腸神経症を克服されたようです。森田理論は、最初はいくら反抗的な気持ちを持っていてもよいのです。ただ実行にあたっては、渋々仕方なしでもよいので、指導されたことに素直に取り組んでみることが大切です。そうすると短期間で蟻地獄の底であえいでいた状態から、地上にはいだすことができます。そのからくりは観念的に考えているだけでは解決できません。真実は実践や行動に取り組むなかにあります。指導内容は、不安には手をつけない。不安を持ちこえたまま、日常生活の方に意識や注意を向けて実行していく。すると自然発動的に日常茶飯事のことに関心や興味が生まれてくる。気づきや発見、工夫や改善が泉のように湧き出てくるようになる。次第に生産的、創造的、建設的、意欲的な生活に変わっていく。このようにして入院森田では神経症を治していったのです。懇切丁寧に指導しても、実践や行動しない人が6、7%はいたということです。神経症の完治のためには、もう一つ取り組むべき課題があります。「かくあるべし」を少なくして、事実に基づいた生活に切り替えていくことです。一人の人間の中には、現実でいろんな問題を抱えて葛藤や苦しみを持っている自分とそれを空の上の方から見下ろして批判している二人の自分がいます。森田では「かくあるべし」を振りかざして、自分や他人を何かにつけて否定している自分がいるといわれています。それが神経症の元になる葛藤や苦悩を作りだしているとみているのです。空の上にいて、現実の自分を否定している自分が、すっと地上にいる自分のところに舞い降りてきて、共に手を携えて生きていくようになれば神経症は完治すると思います。これを「事実本位」の生活態度を身につけると言います。そのノウハウを森田理論学習では様々に提案しているのです。形外会では、第一段階を卒業した元入院生の方が、森田正馬先生のもとに集まって、その後理論的な裏付けの学習をされているのです。その内容が森田全集第5巻です。日本が世界に誇る歴史的名著といわれているものです。この本には、ノーベル賞を与えるだけの価値があります。そうなれば、森田理論の考え方は世界に浸透していくものと思われます。多くの人の福音になることは間違いありません。
2020.03.24
コメント(0)
玉野井幹雄さんが自費出版された本に、「いかにして悩みを解決するか」がある。この本によると、玉野井さんは対人恐怖症だった。22歳のころに森田を知り、治ったのは50歳を過ぎていたといわれる。その間、何とか森田理論で対人恐怖症を治したいと考えておられた。なぜそんなに時間がかかったのか。当時は大分県南部の小さな町に住んでおられた。森田の学習は生活の発見誌と森田関係の単行本だった。集談会には参加することができなかった。後で振り返るとこれは問題が多かったと反省しておられる。自分の都合のよいところばかり読んで、独りよがりの「森田中毒症」になったそうだ。その中でも、「治らないとあきらめればよい」というのを、治すための手段であると誤解していた。前向きに仕事をしていても、これは対人恐怖症を治すためにやっているのではないという考えと絶えず会話していた。最初のうちはこれでもよいが、いつまでも症状を治そうとする目的を持っていては、それが障害になって治らないという体験をした。途中で森田に愛想をつかして、ついに森田を捨てることになりました。森田の単行本は目のつかないところに隠す。発見誌は読まなくなりました。するとその後に、今までと同じように症状と葛藤する自分がとり残された。一方で、自分がたとえ社会から抹殺されたとしても、自分を含めた家族の生活を維持していかなければならないという現実に直面した。会社では、管理職になり、責任上逃れることのできない立場に立たされました。仕事の面では、逃げるに逃げられない状況に追い込まれました。玉野井さんは、ただがむしゃらに仕事にくっついていったのです。森田で治るかもしれない、救われるかもしれないという甘い夢を捨てたのです。すると不思議なことが起こったそうです。駄目になるはずの自分が、駄目にならなかった。しかも、今まで見えなかった周りのものが、はっきりと見えはじめてきたのです。自分の足元が見えてきて、しかも次の一歩をどこに踏み出せばよいのかが分かってきた。神経症を治すということはどういうことかが分かったそうです。森田はいやな感じが治るとは初めから一言も言っていない。その嫌な感じは治らない、治してはならない。治すべきではない。などと言っている。むしろ、その嫌な感じと一体になって生きるところに本当の生き方があるのだ。だから、そのままなすべきことをしていけばいい。それがあるがままの生き方なのだと繰り返し教えてくれていることに気づきました。それが体験的に分かったのです。玉野井さんは、今までは、理論や結論を先に出しておいて、それを自分に当てはめようとされていたのです。そして、それを森田だと勘違いされていたそうです。そういうものを、一切捨てて、事実だけになって進むようになってから、その間違いが初めてわかったそうです。症状に関しては、それを治そうとする「目的本位」であってはいけない。あくまでも、その時の感情の事実に無条件に服従する「事実本位」なければならないといわれています。実に奥の深い話です。ただし、この話は、初心者の人は無視してもよいと思います。初心者の人は、症状を治すために、なすべきことに手をつけることで、症状からは比較的早く抜け出すことができる。初心者の観念中心の生活習慣を修正することが必要です。治すための理屈や理論を完全に理解してから、行動に取り組もうとするのはまずいと思います。それよりは、理論よりとにかく実践行動力を取り戻すことに力を入れましょう。実践や行動の生活習慣が出来上がってから、実践行動の意味や心構えを学習していくのがセオリーとなります。逆に言えば、蟻地獄の底から地上にはいだした人が、いつまでもそのような気持ちで実践・行動していると、症状はまたぶり返すことになってしまうのである。それは治すための行動だからです。ハツカネズミが糸車を回すような行動になってしまいます。弊害のほうが大きくなる。生きづらさは解消はされません。森田を憎むようになってきます。この段階では、実践行動の裏づけとなる理論学習や取り組み方法が問題になります。その見極めができるかどうか、その後の展開が全く違ったものになるということだと思う。これが分かるようになるためには、集談会に参加して認識を改める学習が有効です。そのために森田理論学習は相互学習をお勧めしているのです。仲間や先輩と一緒に学習に取り組んでいると、自然に分かってくることだと思います。
2020.03.08
コメント(0)
1月号の生活の発見誌に、集談会に参加し森田理論学習を続けてよくなる人の特徴が紹介されていた。1、森田に触れて「私だけではない(なかった)と思う人。そう思える人は、森田をさらに学び体験を深めていくと、やがて「私は私でよい」と思うようになる。2、やりたいこと、やるべきことのある人の方が、やりたいことがない、わからない人よりも、よくなりやすい。3、ただ治してもらおうというスタンスの人は、むずかしい。集談会で言えば、手伝いをしたり、役を担ったり、人のために手を貸すことのできる人ほど良くなる。4、回避ばかりする人より、恐怖突入できる人のほうが良くなる。森田では、必要に迫られて恐怖突入する。これを自分の場合に当てはめて振り返ってみた。集談会に参加し始めたころ、神経症を抱えている人がたくさんおられて、仲間意識を感じた。この会に参加することで居心地のよさを感じた。だから30年以上も続いている。特に丁寧に森田を生活に応用して、実践・行動に目が向いている人の生き方に感銘を受けた。神経質性格の学習で、性格には二面性があり、プラスの面を評価して、活用していくことを学んだ。自分の持っている神経質性格に磨きをかけることで、バランスを維持していこうと思っている。森田先生の多彩な宴会芸の話を聞いて、自分でもアルトサックスの演奏、どじょう掬い、獅子舞、浪曲奇術などの一人一芸に取り組んだ。これが人間関係の改善、生活の幅を大きく広げてくれた。入会して6か月目から図書係をはじめいろんな役目を引き受けてきた。これが集談会に留まるきっかけとなった。後で振り返ってみれば、森田から離れなかった。離れられなかった。今考えると、この効果は絶大であったことに気づいた。また、集談会での世話活動の経験は、会社でもすんなりと応用することができた。さらに、集談会、支部活動の中で良好な人間関係をたくさん築くこともできた。私は回避性人格障害だと思っている。すべての項目が当てはまる。人間関係では嫌な場面に遭遇すると、すぐに逃げ出したくなる。最近は、逆に逃げてもいいんだと思っている。逃げて大事に至らなかった事例をたくさん見てきたからである。基本的に、大きな問題から逃げている自分を責めなくなった。かえってうまく逃げ通した自分を、「よく逃げ通した」と認めることができるようになった。これで精神的には、自分の中に住みついている相反する二人の自分が折り合いをつけているのだと思う。また最近は必要最低限のことからは、なんとか踏みとどまることができるようになった。逃げても許せる自分がいるので、かえって必要なことからは逃げないで行動できているのではないかと思っている。やることに二の足を踏むときは、考えられる問題点を思いつく限りメモするようにしている。そして、問題点を一つ一つつぶしていくことを実践している。すると面白くなってくる。弾みがついてくるのである。対人関係では、挨拶だけは丁寧にしようと思っている。あとは、必要な話だけを手短にするようにしている。さし障りのない付き合いで十分だと思っている。浅い付き合いの人間関係もありだ。つまり、森田理論でいう「不即不離」の人間関係作りを心がけているのだ。これを人間関係に活用しない手はないと思うようになっている。
2020.02.23
コメント(0)
岡田尊司氏は「境界性パーソナリティ障害」(幻冬舎新書)という著書の中で次のように述べておられる。この障害の人が回復に向かい始めたとき、共通して見られる兆候がいくつかある。その一つは、刺激的なことよりも日々の日常的なことを大切にし、瞬間的な楽しみよりも持続的な喜びを与えてもらえるものに、多くの関心とエネルギーを注ぐようになることである。大きな夢や他人があっと驚くようなことを成し遂げなければ、自分はつまらない存在だと思いこんでいた人が、地味なことに対して、地道な努力を続けるようになる。成果の華々しさよりも、その努力自体を楽しむようになる。これは神経症を克服した人も同様ですね。他人の目を引き付けて賞賛を浴びることばかり考えていた人が生活スタイルを一変させています。その辺にいくらでも転がっている、小さなしあわせのかけらを大事にするようになります。毎日小さな感動を数多く味わうことができるようになります。平凡な生活の中で、満ち足りた穏やかな気持ちで生きていくことができるようになります。自分が生きていること、周りの人や自然と調和していることに心から感謝できるようになります。以前のその人の生き方が、まったく新しい生き方にとって代わっているのです。森田理論学習ではこのような人生観の確立を目指しているのです。岡田尊司氏はもう一つの特徴をあげておられます。その人を囚えていた激しい怒りが薄らぎ、心が穏やかになるとともに、これまで生きてこられたことへの感謝の思いが兆してくることである。生まれてこなければよかったという思いに囚われ、自分を産み育て親に怒りと憎しみをぶっつけていた人も、自分に生を与えてくれたこと、そして、この世に今こうして存在することの奇跡に深い畏敬の念を覚え、素直に感謝の気持ちを口にするようになる。これはどうでしょうか。感謝即幸福の状態です。これはハードルが高いと思われるでしょうか。私は長らく父親を憎んでいました。神経質性格は父親のせいだ。父親が自分を否定するばかりで、片寄ったしつけや教育をしたおかげで対人恐怖症になった。どうしてくれるんだ。責任をとってくれと気持ちだったのです。森田とかかわっていま感じていることは、父親も父親の親父から、非難や否定されて育ってきたのだと思います。対人恐怖症を抱えて、アルコールに逃げて、最後には肝硬変で52歳という若さで亡くなってしまいました。森田に出合うこともなく、きっと後悔の残る一生だったと思います。一人で苦しみなすすべもなく亡くなったのです。その父親は私に神経症という人生の課題を残してくれました。どうだ、この神経症から逃げないでなんとか乗り越えて見せてくれと言う気持ちだったのではないかと思います。私は苦しみのたうち回る中で、幸運にも、森田理論と生活の発見会活動に出合うことができました。ひとすじのかすかな光を見つけることができたのです。幸運以外の何物でもありません。神経症にならないで順風満帆な人生もそれはそれでよいかもしれません。でも神経症になったからこそ、森田理論に出合い、人生をより深く見直してみる機会を与えられていたということです。人生はどんなことでもいい。やるべきことや問題や課題を持つことが大切だと思います。だれでも持っているのですが、それに気づいて、何とかしようと思って取り組むことが「努力即幸福」なのではないでしょうか。親父にはその課題を与えてくれた存在として、感謝するこそすれ、憎む相手ではないと思います。今も生きていたならば、神経質性格同士として、生き方をつまみにして酒を酌み交わしてみたいと思っています。しかし「親孝行 したいときには 親は無し」昔の人はうまい事を云ったものです。
2020.01.02
コメント(0)
森田先生の指導を受けた人に根岸君という人がいた。20歳の学生である。症状は赤面恐怖症。16歳で発病した。2年前から電車に乗ることもできなくなった。ついに赤面恐怖症のため、中学5年生の時に退学に追い込まれた。これは赤面恐怖症を克服した「根岸症例」として有名な話である。森田先生のところで4日間の絶対臥褥を受けた。その後作業療法受けた。そして房州での50日間の転地療法に入った。転地中は自炊生活をして、農家の手伝いをした。その間根岸君は日記を書いて、1週間ごとに先生の所に送り、先生はこれを批評し指導していった。その中で根岸君は、赤面恐怖症を克服した。さらに人生観がからりと変わっていった。これからの生きる方向がはっきりと定まったのだ。どんなふうに変わっていったのかとても興味が尽きない。彼は文学に興味や関心があって、大学も文科に進みたいという強い希望があった。将来は前途有望な小説家として身を立てたいと思っていたのだろう。普通ならばその希望を後押しすべく指導や援助を行う人が多いと思うが、森田先生はことさらそのような指導はされていない。焦点は神経症の克服と人生観の確立にあった。彼は文学の道に進みたいという裏には父親との確執があった。父親は商人で息子にも商科に進んでほしいという希望を持っていた。彼はそんな父親を軽蔑していた。父親は人間が生きていくのに、地位と財産と名誉とが最も大切であると言いました。私はそんなものは一番くだらないものだと思っており、父親と対立していました。また義理の母とも仲が良くなかったようです。商人になれば豊かな生活が送れるかもしれない。でもそれで納得できる人生が送れるとは到底思えない。私は物質面では貧民であっても構わない。ただし精神面では富豪になりたい。哲学概論に一日かそこら頭を突っ込んだり、まとまりもしない評論を読んでは、むやみに感激して赤線を引き回したり、トルストイが何といった、ベートーヴェンが何といったなど、片言ばかり書き集めて、父にむかったり、友を嘲笑したり、ああ腐った社会だのと悲憤していた。彼は精神第一主義に陥って、淡々と流れる日常生活、食べるためにする仕事をつまらないことと切り捨てていたのである。そんなところに意義を見出すことはできない。そんなことにうつつを抜かして、平々凡々とした人生を送っている人たちを軽蔑していたのです。精神面で豊かにならなければ、生きる価値はないと真剣に思っていたのです。しかし文学で身を立てたいと思っても海のものとも山のものともわからない。それどころか、周りの者との確執を招いている。にっちもさっちも思い通りにならない現実にイライラしていたようです。そんな彼に衝撃的な出来事がありました。農作業の時、日雇いの婆さんが手が痛いというのでみたら、手のひらの皺という皺が、古い鰐皮のように割れて中から赤い肉がのぞいている。北風がしみるのである。気の毒でならなかった。毛孔から油が出るほど、うまいものを食って遊んでいる人間があると思うと、こんな百姓女もいる。なぜだかわからないが、この婆さんのように、虐げられて生きている者の方が、真の人間らしく思われる。私は半分道楽同様に働いているが、この婆さんは死ぬために働いているようだ。閣下、殿様で、悠々と生きている人間も偉かろう。しかしこの婆さんは、人類のどれだけの力であるか。彼女自身も知らず世の中の人も知らない。生まれてからこの村十里へ出たこともなく、春が来れば麦を刈り、夏がくれば田の草をむしり、秋は米をとって、都へ送り出す手伝いをして、一生人類に捧げた功労を誰もねぎらうものもなく死んでいくのだ。このお婆さんを見て人が生きるということはこういうことか。しっかりと大地に根を張って生きていくことの大切さを感じ取ったようです。この時代は少し学問ができるものは、立身出世を夢見ていたのです。都会で一旗揚げて、田舎に凱旋したいという気持ちを持っていたのです。彼の目指していたのは文学で身を立てることでした。そういう人は日常茶飯事や食べていくための仕事を軽視して軽蔑していたのです。炊事、洗濯、掃除、子育てなどは価値のない、下等な人間のやることだと思われていたのす。そんな価値観を見事に覆すような衝撃的な出来事でした。雑事や雑仕事に目覚める出来事だったのです。これこそが森田先生が言いたかったことです。つまり観念や理想や価値判断に振り回されるのではなく、今現在を真剣に生きるということだったのです。職業に貴賤はない。目の前の家事や仕事に真剣に打ち込むことこそ尊い生き方である。このことを根岸君は瞬時に会得したのです。頓悟といってもよいかもしれませんね。その後根岸君は商科に進み、上海を拠点にした貿易商として大成していったようです。
2019.10.05
コメント(0)
吃音の人たちの自助組織「言友会」というのがあります。1976年5月1日、創立10周年の記念大会を開き、「吃音者宣言」を発表しました。私たちは、長い間、どもりを隠し続けてきた。「どもりは悪いもの、劣ったもの」という社会通念の中で、どもりを嘆き、恐れ、人にどもりであることを知られたくない一心で口を開くことを避けてきた。「どもりは努力すれば治るもの、治すべきもの」と考えられ、「どもらずに話したい」という吃音者の切実な願いの中で、ある人は職を捨て、生活を犠牲にしてまでさまざまな治すこころみに人生をかけた。しかし、どもりを治そうとする努力は、古今東西の治療家、研究者、教育者などの努力にもかかわらず、十分に報われることはなかった。それどころか、みずからの言葉に嫌悪し、みずからの存在への不信を生み、深い悩みの淵へと落ち込んでいった。また、いつか治るという期待と、どもりさえ治ればすべてが解決するという自分自身への甘えから、私たちは人生のたびだちを遅らせてきた。私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり悩みを深めている吃音者がいることを。その一方、どもりながら明るく前向きに生きている吃音者も多くいる事実を。そして、言友会10年の活動のなかからも、明るくよりよく生きる吃音者は育ってきた。全国の仲間たち、どもりだからと自分をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢見るより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている硬い殻を打ち破ろう。その第一歩として、私たちはまず自らが吃音者であること、また、どもりをもったままの生き方を確立することを、社会にもみずからにも宣言することを決意した。どもりで悩んできた私たちは、人に受け入れられないことのつらさを知っている。すべての人が尊重され、個性と能力を発揮して生きることのできる社会の実現こそ私たちの願いである。そして、私たちはこれまでの苦しみを過去のものとして忘れ去ることなく、よりよい社会を実現するために生かしていきたい。吃音者宣言。それは、どもりながらもたくましく生き、すべての人と連携していこうという私たちの吃音者の叫びであり、願いであり、みずからの決意である。私たちは今こそ、私たちが吃音者であることをここに宣言する。全国言友会連合協議会(新装版 心配性を治す本 青木薫久 ベスト新書 129ページより引用)これは優れた宣言だと思います。どもりを横において、あるいは抱えたまま社会に飛び込んで自分に与えられた役割を果たしていこうというところに感動しました。ただこの宣言を採択するにあたっては、相当激しい議論が展開されたそうです。特に、どもりを治す努力を放棄するは納得できないと主張をする人も多数おられたのです。これは森田理論と同じ考え方だと思います。森田先生は、「神経症が治るか治らないかの境目は、苦痛をなくしよう、逃れようとしている間は10年でも、20年でも決して治らないが、苦痛はこれをどうすることもできない。仕方がないとあきらめ往生したときはその日から治るのである。すなわちやりくりをしたり逃げようとするのか、あるいは我慢して耐えて踏みとどまるのかが、治ると治らないの境である」といわれています。
2019.07.29
コメント(0)
啓心会を始められた水谷啓二先生は、熊本の第5高等学校在学中に神経症で苦しんでおられた。適当な療法を求めて上京し、森田先生の診断を受けられた。強迫神経症であると診断された。そこで休学して、強迫神経症の苦しみを治してもらってから、学校に戻りたいと伝えた。森田先生は「苦しくても復学しなさい」と言って、入院の許可は出されなかった。仕方なく復学して、翌年にどうにか卒業することができた。再び森田先生にお目にかかり、「森田療法によって強迫観念を治していただいてから、来年東京帝大を受験することにしたい」とお願いした。すると先生は、「それがいけない。ことし試験を受け給え、もし受けないなら、入院は断る」といわれた。水谷氏はやむを得ず受験の手続きをして、20日ばかりやけくその勉強をして試験に臨んだ。もちろん合格するはずはないとないと思っていた。受験したことでやっと森田療法を受けることを許されたといわれている。(生活の発見誌2019年5月号より要旨引用)普通は強い神経症で苦しんでいるときは、仕事や勉強や家事が手につかないないわけです。そんな時はすぐに入院し、治療に専念して早く治してもらいたいと思うものです。そうしないと神経症はどんどん悪化してしまうと考えがちです。入院を許可しないとは、なんと無慈悲な医者だろうと思ってしまいます。森田先生は、どんなに神経症で苦しくても、自分の本分を全うしなさいといわれているのです。神経症でどんなに苦しくても、学校を休んだり退学してはいけない。勉強を中断したり、受験を取りやめるようなことではいけない。また仕事をさぼる。安易に仕事を休んだり退職してはいけない。神経症で苦しくても家事をすべて放り投げてはいけない。などといわれているのだと思います。休めばその瞬間だけは精神的に少しだけ楽になります。しかし、その後は精神交互作用が働き、どんどんと症状は悪化していきます。ではその他にどんなよい方法があるのか。森田では、神経症の不安や苦しみは持ち堪えたままにして生活することを勧めています。不安と格闘することを一時棚上げにするとよいのです。そして目の前のなすべきことに目を向けてボツボツとこなしていくのです。神経症的な不安は、欲望があるから発生したものです。不安と欲望はコインの裏と表の関係にあります。神経症の葛藤や苦悩は、生の欲望を無視して、不安の方ばかりにエネルギーを投入した結果として発生したものととらえているのです。不安の裏側には、欲望があるという認識を持って、第一優先順位として、「生の欲望の発揮」にエネルギーを投入するようになると神経症は治っていくものなのです。このことを森田理論学習で理解し、実行すればアリ地獄から地上に這い出ることができるのです。
2019.06.22
コメント(0)
2019年2月号の発見誌に、次のような記事があった。神経症から回復する3つの視点である。1 、神経質という性格を自覚する。2 、とらわれが拡大・固着する過程、つまり精神交互作用を理解する。3、不可能の努力を招く思い込み、つまり思想の矛盾を理解する。この3つは、神経症に陥った人が、神経症から解放されるために、必ず通らなければならない関所のようなものです。まず1番目だが、神経質者は発揚性気質の性格の持ち主と比較して劣等感を持ちやすい。そして、心身を鍛えて神経質性格の改造に乗り出す人もいる。私は神経質性格は基本的には変えることはできないと思っている。それよりは、神経質性格のプラスの面に焦点を当てて磨いていくことが大切であると思う。感受性が鋭いということは、鋭いレーダーを標準装備しているようなものだ。これを活かせば、芸術や文化を楽しみ、人間の心理なども細かく分かるようになる。また、好奇心が強く、責任感があり、真面目である。観察力が鋭く、物事や人間を詳細に分析する力がある。半面、リーダーシップを発揮したり、その場を盛り上げたりする力はあまりない。肝心なことは、無いものを求めるよりも、あるものに磨きをかけて、さらに伸ばしていくほうに力を入れた方が良いと思う。2番目であるが、神経症は固着する過程は、自分の気になる1点に注意を集中して、精神交互作用で悪循環を繰り返すことである。精神交互作用を打破して、生の欲望の発揮に注意や意識を向けていくことが大切である。森田理論学習で盛んに言われていることで、誰でも知っていることである。これは不安と欲望のバランスを意識した生き方のことである。実際に生活の場面に応用していくことが肝心である。3番目だが、「思想の矛盾」の打破は、森田理論学習をした人は誰でも知っていると思う。しかし、実際にはどうしたら「思想の矛盾」が打破できるのか、分からない人も多いと思う。これは、 「かくあるべし」を少なくして、現実や事実に即した生き方をすることである。そのためには、先入観で決めつけるようなことがあってはならない。事実を事実としてよく観察する態度が必要である。現地に出向いて、実際に自分の目で確かめる態度が欠かせない。事実を口にする時は、赤裸々で具体的に話す必要がある。他人と比較して、安易な是非善悪の価値判断は極力抑える。森田理論では、最初に感じた素直な感情、つまり「純な心」の習得を大事にしている。最初に感じた素直な気持ちを思い出して、いつも原点回帰できるような癖をつけることだ。そして、その感情を相手に伝える時は、 「私メッセージ」を活用することだ。これだけを心がけて、生活していけば、思想の矛盾で苦しむことが格段に減少すると思う。ぜひ取り組んでいただきたい。
2019.03.10
コメント(0)
2019年2月号の「生活の発見」誌に市川光洋先生の興味深い記事があった。これによると高良興生院で、退院する患者さんに「入院中に何が変わりましたか」という質問に対して、3つの答えがあった。1、症状がよくなりました。2、症状があっても行動できるようになりました。3、なんだか知らないが心境が変わって治りました。その後追跡調査をしたところ、一番よく治っていたのは3番目の人だったという。私が思うには3番目の人は人生観が変わったから治っていったのだと思う。1番目の人は、入院して言われる通りにしていたら、入院前の不安や恐怖はだいぶ楽になりましたと言っているのだ。これでは薬物療法や不安を取り除く精神療法と何ら変わりはない。喜んで退院してもすぐに再発する。また生きづらさは依然として継続する。そしてまたすぐに落ち込んでいくと思う。かわいそうな人だ。2番目ですが、ほとんどの人はこの段階を森田療法の最終地点と勘違いしている。精神交互作用を打破して、生の欲望にのっとった生活が定着してくると、神経症は確かに治る。しかしそこで満足してしまっては、生きづらさは解消できない。これは第一段階の関門を通過したという治り方であって、ここで森田から離れては実にもったいないのである。この段階は神経症を克服するための必要条件ではあるが、十分条件ではないのである。それでは3番目の人生観が変わるとはどういうことか。それは今まで不条理で観念的な「かくあるべし」を、自分や他人に押し付けていた態度の誤りに気が付いて、あらゆる事実を認めて受け入れるという態度の必要性が理解できて、実践できるようになることである。観念で考えたことを絶対視しなくなり、事実、現状、現実にしっかりと根を張った生き方ができるようになった人である。それを「事実本位」の生き方を身に着けた人と呼ぶ。そのためには、事実には4つの事実があるが、その4つの事実の洞察を深める。これについて知りたい方は、検索して過去の投稿記事をご参照ください。次にどこまでも事実をよく観察していく態度を身に着ける。口にするときは、事実に沿ってできるだけ赤裸々に具体的に話す。抽象的な話し方を改善していく。物事は両面的、多面的に見るようにする。安易に是非善悪の価値判断を口にしない。「純な心」を理解して、いつも素直な気持ちで対応する。自己主張するにあたっては「私メッセージ」応用する。それぞれに難しい面はあるが、その方向を目指していくことが大切である。幸い集談会という学習の場かあるのだから、みんなで目指してゆきたい。これらは「事実本位」の生活を心がけて、観念は参考程度に活用するということだ。これが逆転し、「かくあるべし」が、事実、現状、現実を批判、否定するようでは本当の意味で、神経症を克服することはできないのである。これでは人生の苦しみから逃れることはできない。
2019.03.07
コメント(0)
今度結婚するという方から、自分が神経症で苦しんでいるということを相手に伝えなくてもよいでしょうかという質問を受けた。神経症が原因で、自分のことを嫌われて、結婚話が立ち消えになることを恐れているのである。そういえば、集談会に初めて参加した人にアンケートを書いてもらっている。その中に、集談会のご案内をはがきで出してもよいかどうかという質問がある。半分ぐらいの人は「不要」という欄に0印をつけている。ある方に聞いてみると、神経症であるということを家族には絶対に知られたくない。そういう自助グループに参加していることを家族に絶対知られたくないという。また、会員になるとは生活の発見誌が送られてくるので、会員にはなりたくないという。神経症は何か人格に欠陥があるかのように思っておられるのだ。神経症は集談会に参加して、誰にも知られずに「こっそり」と治したいようだ。これらは自分の症状だけでなく、弱みや欠点を人に知られることをとても恐れている人だ。相手がそのことを知ると、ますます自分のことを否定して、仲間として認めてくれなくなるのではないかということを恐れているのだ。そのために今まで専守防衛の態度で涙ぐましい努力をしてきた。弱みや欠点は隠したり、取り繕って何とか嫌われないように生きてきたのだ。弱みや欠点が露呈する場面は出来る限り避けてきた。中には整形美容をしたり、エステに通ったり、カツラをかぶったり、腹を締めつけたり、厚底の靴を履いて誤魔化してきたのだ。また、神経症がわからないように、強気の発言をしてみたり、相手の言うなりになって言いたいことも我慢してきたのだ。そのおかげでやっと仲間として受け入れてもらっているのに、今更そのような生活態度変えろと言われても無理な相談だ。そんなことより、森田療法で神経症を治す方法を手っ取り早く教えてもらいたい。神経症さえ治すことができれば、鬼に鉄棒で自信を持って生きていくことができるのだ。そんな気持ちなのだろうが、そのような態度をとり続ける限り、神経症は治るどころかどんどん増悪していくと思う。森田先生は、自分の症状を周囲の人々に対して「赤裸々に打ち出すという態度」にならないと神経症は治らないと言われている。そういう人は、神経症を告白することは、他人が自分から離れていくと思っているが事実は違う。赤裸々に告白すればするほど、他人は自分に同情してくれて、人が近寄って相談にのってくれるのだ。反対に、自分の症状を隠したり、取り繕ったり、逃げてばっかりいると、 「あの人はプライドが高く、我々を寄せ付けないオーラを醸し出している。我々を馬鹿にした態度ばかりで鼻持ちならないやつだ」と思われて、他人は距離を置くようになる。自分はますます惨めになり、自分のことを無視する他人を憎むようになる。自己保身の態度をとっていると、益々人間関係が悪化してくるのである。結婚する時は、重大なことを隠していると後で大きな問題になる。付き合う時に、良い面も悪い面もさらけ出して、両面観で見てもらうほうが、夫婦の人間関係はよくなる。むしろ、神経症だけではなく、身体的な弱みや欠点、自分の神経質性格についてもどんどん打ち出していった方がよい。よいところも悪いところもバランスよく見てもらうほうがよい。隠し事がなくなると、注意や意識が自己内省にばかり偏ることがなくなる。そうなると、我々が目指している物事本位の生活に邁進することができるのである。弱みや欠点を隠すことに神経を使うのと、まな板の鯉のようにさらけ出してしまうのとどちらが意味があるのかは明らかなことである。
2018.11.24
コメント(0)
昨日の投稿を参考にして話をしてみたい。生活の発見会の集談会に参加する人は、今現在神経症で蟻地獄に落ちてしまっている人がいる。休職したり、家に引きこもっている人もいる。観念上の悪循環のみならず、実生活上の悪循環もある。神経症オンリーでのたうちまわっている人である。すでに精神科にかかり、薬物治療を続けている人もいる。いろんな精神療法を受けている人もいる。その一環として、インターネットなどで見つけて様子見で集談会に参加されたのである。ただ神経症で生活が破綻状態にある人は、集談会に参加するよりももっといい方法があると言いたい。こういう方は基本的には森田療法に詳しい生活の発見会の協力医の受診と治療を受けることである。また薬物療法と並行して、森田療法に詳しいカウンセラーによるカウンセリングを受けることもお勧めしたい。さらに精神療法には、森田療法、精神分析、認知行動療法、内観療法、家族療法を始めとして30あまりもあると言われている。インターネットの検索で調べるとすぐにわかる。自分に合った精神療法があれば、それに取り組んでもよいと思う。ここでは、とりあえず蟻地獄から地上に這い出ることを第一目標にしてもらいたい。この一点に焦点を絞って取り組むことが大切である。自分の葛藤や苦しみ・悩みは客観的に第三者の立場から判断してもらうことが重要である。森田療法を行う場合は、基本的に森田適用であるかどうかを診断することが必要である。神経質性格を持っている人が対象となる。心配性である。自己内省性がある。生の欲望が強い。執着性があるなどである。次に、愛着障害を持っていないか診断する必要がある。これは岡田尊司さんの本に詳しい。愛着障害があると、基本的に他人対する恐れや怯えを持っており、そういう人はまず先に心の安全基地を作り上げることが先決であると考える。大うつ病は、森田療法の対象外である。双極性障害もそうである。その他、精神疾患を併発している人も森田療法の対象外である。これらを併発している人は、森田療法の専門医による診断と治療が欠かせない。治癒後に専門医と相談しながら森田療法に取り組むというステップを踏むことが大切になる。どうして森田療法の協力医をお勧めするかというと、森田理論は神経症を治療するのみならず、神経質性格を持った人に、治癒後の生き方を提示しているからである。こういう神経質性格者の生き方にまで踏み込んだ療法は、森田療法以外には見当たらない。運よくアリ地獄から地上に這い出ても、少なくとも毎日、曇天の中で息苦しい生き方を余儀なくされている人が多いのが実情なのです。神経症は、森田療法の考え方や生き方を身につけない限り、すぐにまた挫折する可能性が高くなる。だから一旦蟻地獄から這い出た人でも、そこで安心して森田から離れてはいけないと思う。森田療法理論の考え方を、森田の自助組織に参加することによって身に付けて実践することで、抑うつ状態・気分変調性障害・慢性うつ状態から抜け出ることができるのである。神経症的な悩みが解消しない人は、アフターケアができていないのである。そのためには自助組織に参加して、仲間との相互学習や交流が必須となるのである。ここでやつと生涯学習のスタート地点に立つことができたのだと認識することが大切である。わずかな違いだが、ここがその後の人生が実りあるものかどうかの分岐点になるのである。
2018.09.20
コメント(0)
私は生活の発見会の集談会に参加し始めて、すぐに図書係を引き受けた。対人恐怖症で苦しみの極みにあったが、世話活動をすると症状が治ると言われたので引き受けたのである。その当時は、集談会は20冊ぐらいの森田関連図書を持っていた。図書係はそれらの管理を任されていた。集談会の開催日に段ボールの中に入れて持参する。そして机の片隅に並べておく。休憩時間になると参加した人がその本を実際に見て購入する。購入代金を徴収する。そして、不足する本を次回の集談会までに補充しておく。そのうち、自分が読んでいないものを人に勧めることに抵抗をを感じるようになった。そこで簡単な内容説明ができるために、それぞれの本の特徴を目次を見ながら考えた。また、実際に管理している本を片っ端から読んだ。これは役得であった。そのうち初心者にわかりやすい森田の本を自信を持って勧められるようになった。次第に自分の薦めた本を実際に買ってくださる人が増えていった。まだ森田理論はよくわからなかったが、本が売れることが喜びであった。幹事会などで、先月の書籍販売の実績と売れ筋の本の説明をするのが楽しかった。今考えてみると、最初は嫌々仕方なく引き受けた図書係であったが、それは症状一辺倒に凝り固まっていた私にとって回復の手段になっていた。図書係の次に代表幹事を引き受けた。その当時は毎年1泊学習会、野外学習会、レクリエーション、暑気払い、新年会、忘年会、ブロック活動などの行事が目白押しであった。私は次の行事に向けて、一心不乱になって準備を積み重ねていった。ありきたりの行事ではなく、思いつく限りの工夫を織り込んでいた。いろいろ困難な問題は多かったが、行事が終わるたびに満足感でいっぱいになった。参加した人からも大いに喜んでいただいたように思う。その当時は幹事も多く、活気があり、みんな積極的に関わってくれた。対人恐怖症である私が、みんなと協力してイベントを盛り上げるという体験を持つことができた。それぞれに思い出も多く、当時の写真を時々眺めては懐かしく思い出す。そのうち会社で孤立していた私が、会社での飲み会の幹事もできるようになった。また会社の移転プロジェクトリーダーに任命されて滞りなく遂行することができた。そのうち、中間管理職となり、事務部門の業務改善にも取り組めるようになった。この時は目の前の仕事に集中しており、対人恐怖の悩みはほとんど出なかった。これらは集談会での体験学習が基礎になっているのであった。そんなときに派遣講師で来られた方が次のように話された。その方も世話活動をするようになって、参加された方に喜んでもらえるような集談会にするために色々とアイデアを出して考えるようになった。自分の悩みなどはその後で考えようと思って、世話活動に専念していると、いつの間にか自分の症状のことは忘れていた。そんなことが次第に増えていって、いつの間にか症状のことを考える時間が少なくなった。その方は、症状が治るという事はこういう事なんだとしみじみと実感できるようになった。この話を聞いて、私と一緒だと思いました。頭の中でやりくりをしているうちは、対人恐怖症はどんどん悪化すると思います。人の役に立つことを見つけて、一生懸命に取り組んでいけるうちに、次第に対人恐怖症の葛藤や苦しみは少なくなっていくのだと思います。
2018.09.15
コメント(0)
私は生活の発見会に入会し、集談会で森田理論を学習して30年以上になる。振り返ってみるとあっというまであった。その間、対人恐怖症を克服した。また神経質性格者として生きる指針を得ることができた。さらに、多くの優れた仲間と知り合いになることができ、今では親しく交流を続けている。神経症のため、若い頃は苦しくて辛い人生であった。生きる事は死ぬよりも辛いことだと思っていた。森田療法理論の学習のおかげで、後半生は水を得た魚のようにのびのびと生きることができるようになった。先日の集談会で、森田を学習し始めた人から、「それはすごい。対人恐怖症はどうしたら全治できるのですか」と質問を受けた。とっさの質問で、的確な返答ができなかった。私は、 「全治」という言葉は、神経症克服にあたっては軽々しく使う言葉ではないと思っているので、その人に「全治」をどのように考えておられるのか聞いてみた。その方曰く、 「他人の思惑に右往左往しなくなる。他人の批判や叱責に対して、あっけらかんと対応できるようになる。自分の言いたいことを正々堂々と発表できるようになる。自分のやりたい事を、人目を気にせずにどんどん手掛けられるようになる。小さいことにすぐに動揺する心配性の性格がなくなる。細かいことや他人の思惑が気にならないような積極的で、外向的な性格に変化するなどです」なるほど、対人恐怖症の 「全治」についてそのように考えられているのかと驚いた。無理もない。かっての私もそのように考えていた。今現在の自分を否定して、外向的な人間に生まれ変わることで、対人恐怖症は克服できるのだと思われていたのだ。今の私の考える対人恐怖症の克服は、そのような考え方ではない。私は神経質性格は持って生まれたものであり、変えることはできないと思っている。また神経質性格は素晴らしい性格特徴を持っており、変える必要はない。むしろ、その性格特徴をどんどん磨きをかけて発揮しなければならないと思っている。心配性である、人の思惑が気になるという特徴は、感性が鋭いということでもある。その感性をさらに伸ばしていけば素晴らしい人生につながっていくのである。その前提に立って、神経症が治るという事はどういうことかを考えてみたい。神経症に陥り、アリ地獄の底にいるときは、誰しも神経症一点に注意や意識を集中させている。頭の中は症状以外の事は考えられない。実生活もほとんど停滞している。この状態から這い出して、地上の上に出ることができれば、それも初期の段階ではあるが、神経症が治ったと言える。どういうことかというと、地上に出るためには、症状はそのままにして実践や行動が必要になる。実践や行動をするということは、頭の中で症状以外の事に、少なからず注意や意識を向けないとできないのである。100%症状だけで占められていた頭の中が、多少減って95%ぐらいになった状態である。でも実践や行動ができたからといって、対人恐怖症で苦しいことには変わりがない。ほんの少し好転しているのに、全然治っていないというのが苦しんでいる人の特徴である。しかしそういう態度で生活して、例えば症状のことを考えている時間が半分くらいに減少してきたらどうだろうか。あるいは、目の前の日常茶飯事や仕事に取り組んでいるうちに、症状のことはついうっかり忘れていたという経験は誰でもお持ちなのではなかろうか。対人恐怖症が治るという事は、頭の中で症状に振り回されている時間が減少してくるということである。さらに減少して症状のことを考えている時間が30%、20%、10%になれば、その人は対人恐怖症を克服していると見るのである。肝心なことは、神経質性格が変わっているわけではないので、人の思惑が気になるというコアの部分はなくならないのである。この部分を変えようとすると、アイデンティティの喪失、人格崩壊を招く。ですから、対人恐怖症が治るということは、 0か100か、白か黒かに割り切る事はできないのである。その比率が時と場合によって、常に上がったり下がったりして変動していると思った方がよい。そして対人恐怖症のこと考える時間がずいぶんと少なくなって、安定軌道に入った時は対人恐怖症を克服したと公表してもよいのである。だから私は「全治」という言葉を使うのがイヤなのである。
2018.09.14
コメント(0)
2018年8月号の生活の発見誌に「手洗い強迫の女性」の話があった。森田先生のところに、 「手洗い強迫」の女性が入院してきた。その女性は別の精神病院に3回も入院したが治らなかった。彼女が踊りが好きなことを見つけた森田先生は、 「仕舞」を習うように勧めた。彼女は手洗いをしながらだんだんと上達していった。そして、森田先生と約束した1年が終わった時に、それまで行けなかった風呂屋にも行くことができるようになった。それをきっかけに手洗い強迫は消失したのである。つまり、自分が熱中する好きなものを見つけたことが強迫行為の必要性をなくしたのである。この部分を、私が参加している集談会で話し合った。ある人が不安神経症で苦しんでいたとき、偶然にラジコン飛行機を飛ばす同好会に出会った。彼は、その同好会に入り、上手な人から手ほどきを受けて、自分でもやり始めた。そのうち、自分でもラジコン飛行機を買って、メキメキと腕を上げていった。ラジコン飛行機が大空を自由自在に飛ぶようになると、その時だけは症状のことは忘れて、無我夢中であったという。 不安神経症と格闘ばかりしていたと思うとゾッとすると言われていた。自分が熱中する好きなものを見つけることによって、不安神経症と共存できた。仕事も辞めずに継続できた。私も対人恐怖症で、会社の中では針のむしろに座らされているような苦しい状況だった。寝ても覚めても他人の思惑を気にしていた。毎日が雨降りのようなうっとうしさが付きまとった。そんな中、森田全集第5巻で森田先生の宴会芸の話に触発された。特にウグイスの谷渡りが参考になった。早速、自分でも取り組み始めた。一人一芸である。次第に弾みがついてきた。それらに取り組んでいるときは、無我夢中で対人恐怖は気にならなかった。最初はアルトサックスにのめりこんだ。そのうち、獅子舞、どじょうすくい、浪曲奇術、手品、腹話術なども手掛けるようになった。それらの趣味を通じた人間関係も広がってきた。会社の中で苦しいことが続いても、その人たちが味方になってくれるという気持ちが救いだった。次第になんとか生きていけるという感触があった。その他、一時期トライアスロンにも挑戦したことがある。目標を立てて、 3年目に大会に参加して完走できたときはものすごく嬉しかった。ここでは「鉄人会」という仲間との交流や練習が楽しかった。あと、様々な国家試験や民間資格に挑戦した時期もあった。社会保険労務士、行政書士、宅地建物取引主任者、ファイナンシャルプランナー(AFP,CFP)、メンタルケア心理士などに合格した。そこでも多くの学習仲間との交流があった。みんなで情報交換して助け合いながら学習していた。こうしてみると、これらに取り組むことによって、対人恐怖の葛藤や悩みは、少なからず減少してきたと思われる。人の思惑が気になるという私の対人恐怖症のコアのようなものはなくならなかった。しかしアリ地獄の底にいて、頭の中を100%対人恐怖症の苦しみで占領していた状況は一変した。対人恐怖症以外の事を考える割合が格段に増えてきたのである。そうなれば、最初のうちは10% 。そのうち50% 。最終的には80%ぐらいは対人恐怖症以外のことを考えられるようになった。体験してみたことで分かったのは、対人恐怖症はケガが治るように完治することはない。しかし、対人恐怖症のことを考える割合が少なくなれば、それはすでに対人恐怖症が治っていることではないのか。仮に50%症状以外のことを考えられるようになれば、50%は治っているのである。ここが間違いやすいところだ。あまり欲をかいてはいけないと思う。これが確信に変わってきた。すると、昔のように対人恐怖症でのたうちまわる事はなくなったのである。症状の克服にあたっては、こういう気持ちで楽に取り組んでほしいものである。
2018.09.12
コメント(6)
対人恐怖症の全治について考えてみたい。対人恐怖症の人は、人の思惑が気になる。特にミスや失敗をすると、他人は自分のことを軽蔑したり非難するのではないかと心配する。そのために、事実を認めようとせず、報告を先延ばししたり、ミスや失敗を隠したりねじ曲げたりする。そして、批判を免れようとするのだが、不安はなくならないどころかどんどん増悪していく。そして最後には神経症という蟻地獄に落ちていく。その段階では、頭の中では、対人恐怖の思いで100%占められている。注意や意識が人の思惑で溢れており、日常茶飯事や仕事の事は考えられない状態である。この状態では、どうにも解決のできない問題を抱えて、イライラし精神的に非常に苦しい。対人恐怖症の全治は、そうした他人の思惑がなくなり、とらわれがなくなる人間に変わることであろうか。観念的に考えると、対人恐怖症が跡形もなく姿を消すと、随分楽な生き方ができるような気がする。しかし、対人恐怖症がそのような治り方をするとは私の体験上到底思えない。では、私の考える対人恐怖症の全治とは何か。それは対人恐怖症で100%占められていた頭の中の注意や意識が、 90% 、 80% 、 ・ ・ ・ 、 40% 、 30%と減少していくことである。つまり、頭の中で対人恐怖症以外のことを考えられるようになり、置き換わっていくことである。全治の道とは、注意や意識が対人恐怖症一点に絞り込まれた状態から、目の前のやるべき仕事や課題に分散されていく過程である。極端な話、その程度が50%を切ればもう全治と公言してもよいと思う。そんなのは全治ではない。0%にならなければ全治とは言わないというのは、美しき誤解である。逆に言えば、対人恐怖症の元になった人の思惑が気になるというコアの部分は常につきまとう。根こそぎ対人的な不安がなくなってしまうわけではない。もし0%を全治というならば、その人は神経質性格が変化して人格崩壊を起こしていると見るべきであろう。神経質性格はプラスに生かせばすばらしい性格なのであるが、その神経質性格がなくなれば、自分の本来持っていた良さも失われてしまう。比率が下がっていけば、生活や観念上の悪循環が取り除かれ、好循環が生まれてくる。しかし、コアの部分では依然として人の思惑が気になるという気質は残っていくのである。比率が下がった状態では、対人不安はプラスに働いてくるようになる。他人の気持ちをよく思いやるようになり、人の役に立つことがどんどんできるようになる。人の思惑でパニック状態になることもたまにはあるが、以前のようにいつまでもとらわれるということがなくなる。人の思惑が気になっても、そればかりにかまけて、すぐに蟻地獄の中に落ち込んでしまうということがなくなる。感情の法則などの学習によって、うまく切り抜ける術を身につけて、他人の思惑を気にしながら、仕事や日常茶飯事に向かうことができるようになる。このような状態は、もはや対人恐怖症の人とはみなされない。この人はすでに対人恐怖症を克服した人とみなすのである。人の思惑が気にならないあっけらかんとした外向的な人間に変化しているのではない。対人恐怖症で仕事や日常茶飯事が滞っていた状態から、普通の日常生活が送れるようになった状態が全治である。決して全治という言葉に惑わされないようにしてもらいたいものだ。
2018.09.02
コメント(0)
対人恐怖症の人は、他人の言動にいつもビクビクしながら生活をしています。頭の中は、他人の思惑ばかりで占められています。他人から非難、否定、拒否、軽蔑、脅迫、無視、抑圧されることにとても敏感になっています。これらを分析してみると、注意や意識が極端に内向化しています。自己嫌悪や自己否定に陥っています。このことを森田理論では自己中心的であると言います。また専守防衛一点張りです。サッカーで言えば、攻めることを忘れて、全員を守りに専念させているようなものです。なかなか得点はとられないかもしれませんが、勝負に勝つという目的は永遠に達成することはできません。これは目的をはき違えているのです。守りを固めることばかりに専念していると、日常生活がおろそかになり、容易に他人に依存するようになります。依存している人に生きがいは生まれることはありません。実行・実践がなくなり、実生活上の悪循環、観念上の悪循環が繰り返されることになります。このような生活態度は周りの人に迷惑をかけるだけではなく、自分自身も大変な生きづらさを感じるようになります。生きていることが苦痛になり、人によっては死をイメージするようになるかもしれません。それでは対人恐怖症の人はどのようにすればよいのでしょうか。集談会などに参加していると、 「人の思惑ばかりが気になって苦しい。どうすればこの苦しみを取り去ることができるでしょうか」という質問を受けます。私はこれは問題や課題の立て方が違うのではないかと思います。こういうところから発想すると、対人恐怖症は治るどころかどんどん増悪してしまうのではないでしょうか。私の場合がそうでした。注意や意識を対人恐怖症1点に絞ることは大変危険だと思います。むしろ開き直って、人のちょっとした言動にいつも動揺してしまうのは私の性分である。そんな神経質性格を、あっけらかんとした外交的性格に修正することはどだい無理である。人の言動にビクビクオロオロしながら生きていくしかない、と覚悟を決めてしまう方がマシなのではないでしょうか。覚悟を決めると初めて次の段階に進むことができます。ここでは守り一辺倒の生活から、視線を前向きに外向きに変えていくことが重要です。症状にかまけて、日常生活の多くの部分を家族に依存しているわけですが、そういうところから改善していくべきでしょう。家族は共同体ですから、それを維持していくために、自分も何らかの役割を担うことが必要です。そして依存の度合いを少しずつ減らしていくことが大切です。そうすれば、頭の中の全てを占領していた対人恐怖の悩みの割合が少しは減っているのです。そのような実践を続けたからといって、急には対人恐怖の悩みはなくなりませんが、症状克服の糸口となるのです。次の段階として、実践課題を設けたり、気のついたことをメモして実践に移す。このような行動をとり続けていると、行動には弾みがついてきます。そうすれば、ますます頭の中では対人恐怖の占めている悩みの部分が小さくなっていきます。度合いが小さくなっていくということが肝心なのです。最終的には、対人恐怖的な悩みはあるにはあるが、いつまでもそのことだけに拘ってはおられないという状況が生まれます。そういう習慣が獲得できれば、ほぼ大丈夫です。その後、夢や希望も持てるようになるかもしれません。「たかが人生、されど人生」 苦しいことも多いけれども、たまには楽しいこともある。そのように思えるようになったとき、対人恐怖症と共存できるようになっているのです。対人恐怖症の治り方というのは、実はそうした治り方をするのです。性格が全く変わるという治り方をするのではありません。他人の思惑が気になるという部分は最後まで残ります。それがなくなると自分の人格そのものが崩壊してしまうとみるべきでしょう。対人恐怖症の克服は、症状そのものと闘えば、私たちに勝ち目はありません。回り道のように思えても、外堀から埋めていくという方法をとることによって、結果的に対人恐怖症は気にならなくなるのです。対人恐怖症を持ちながらも、それと共存し、懸命に生きている人を見るととても感動的です。そのようなことを教えてくれているのが森田療法理論だと思います。
2018.08.03
コメント(0)
河野基樹先生のお話です。人間には自己保存欲があります。困難にであったり、苦しみに出会ったり、悩んだりしますと、まずそれから逃げようとします。苦しいことや、辛いことや、不安な事は避けたい、なんとか逃げたいという逃避欲求が人間には備わっております。逃避ということは卑怯だと言うことが、ある程度神経質者は分かっておりますので、うまいこと理由をつけて「自分は決して逃げているのではない」ということを、自分自身に納得させるために自己弁護します。あるいは、自分のせいにしないで、他罰的といいまして、周囲のせいにする場合もあります。家族のせいにしたり、そういう他人へ責任をもっていく場合もあります。それからもうひとつ、自己保存欲のために、自分が生き残るために、その苦しみや苦痛や困難、嫌なことなどを排除しよう、あるいは取り去ろうという努力をします。これが神経症に陥った初期にありがちなことです。苦しみや辛さや、こういったことをなんとか除きたい、なんとかなくなれば、と思って、医者巡りや病院巡りをしたり、薬を飲んだり、あるいは精神修養をしたり、宗教に走ったり、いろいろな治療をしたりするのは、そういう症状を取り去りたいためです。 (河野基樹講演集 16頁より引用)この話を私の場合にあてはめて考えてみました。私は対人恐怖症です。その私が卒業後選んだ仕事が訪問営業の仕事でした。本当は雑誌の記者になりたかったのですが、募集がなく仕方なしに選んだ仕事でした。最初から強い適用不安がありました。案の定訪問営業の仕事は、断りの連続でした。その断りの言葉も、家の中から虫けらを追い出すような冷たいものでした。自分のプライドや自尊心はたちまち粉々に傷ついていきました。次第に仕事をする意欲がなくなりました。予期不安が強くなり、どうせ断られるに違いないという先入観で凝り固まってしまいました。次第に喫茶店などでさぼるようになり、そこでは完璧なセールステクニックを頭の中に叩き込もうとしました。その理論をもとに、訪問営業活動をしようとしましたが、頭の中で考えているような理想的な営業活動はできませんでした。次第に営業成績が振るわなくなり、同期の人たちから差をつけられていきました。上司や同僚達から批判されるようになりました。また軽蔑されたり嫌味を言われたりするようになりました。私の最もイヤなことです。それにもかかわらず、どうしても営業活動には専念できなくなりました。予期不安でいっぱいになり、逃避欲求に従って、 一時的な心の安らぎばかりを求めていたのです。しかし、仕事をサボるということは、一時的には楽になりますが、暇をどうして埋めていくかということに悩むようになります。また、上司や同僚たちからの叱責にも耐えなくてはなりません。そんなときに、父親がまともに自分を育ててくれなかったということに腹が立って、親を憎むようになってきました。最初の安易な逃避欲求に従った行動が、観念上の悪循環、行動上の悪循環を招いて、アリ地獄の底に落ち込んでいたのです。将来の明るい展望は全く描くことができなくなったのです。こんな自分は生きていても仕方がないのではないか。人間が生きるという意味はないのではないかという気持ちでいっぱいになりました。先が見えない閉塞状況に追い込まれ、最後は惨めな形で退職を余儀なくされました。退職までの9年間は針のむしろに座らされていたようなものです。私の場合は対人恐怖症をなんとか克服したいと言うよりも、逃避欲求に従ってなんとか苦痛を回避しようとしていたのです。苦痛を回避しようとすればするほど、苦痛がどんどん大きくなってきました。そして生きる意味が持てなくなってきたのです。アメリカの精神医学会に「回避性人格障害」というのがありますが、まさにそこに書かれている内容か全て当てはまります。今考えると、逃避欲求に偏った自己保存欲求は、生きづらさを拡大させ、生きる意味を見失ってしまいます。逃避欲求はあっても構わないと思いますが、もう一方の生の欲望の発揮とバランスをとらなければならないと思います。この2つが揺れ動きながら調和を取るということが生きるという事ではないかと思います。私の場合で言えば、日常茶飯事に丁寧に取り組む。課題や問題に真剣に取り組む。夢や目標を持って生きていく。仕事の面では、上司に自分の困難な状況を説明する。そして、打開策を探る。そして、可能ならば2人1組の同行営業に切り替えてもらうなどの提案をしてみる。また、精神科医や臨床心理士に相談する。カウンセリングを受ける。神経症克服のための自助グループに参加して森田理論学習を始める。悩んでいる時の私は、このようなことが思いつかず、 1人で葛藤や苦悩に耐えていたのです。私のような状況で苦しんでいる人も少なからずおられるのではないかと推測しています。そういう人は早く自助組織に参加して森田理論学習を始めてもらいたいものです。強迫神経症の人はすぐに好転すると言うわけにはいかないかもしれないが、学習を継続していると必ず目の前のモヤモヤした霧は晴れて、視界がよくなることは間違いないと経験上そう思います。
2018.06.27
コメント(0)
神谷美恵子さんはらい病で長島愛生園に隔離されていた人に次のように質問した。「病気になる前と比べて現在はどんな心境ですか」すると、次のような返答があった。「よりよく人生を肯定しうるようになった」「心豊かになった。安らかになった」「心が高められ、人の愛、生命の尊さを悟った」「事業欲、出世欲が消失し、潔白になった」「人生の目的を知り、人生を咀嚼する歯が丈夫になり、生きる意味を感じる」「考え深くなり、あらゆる角度からものを考えるようになった」高橋幸彦さんも同様の調査を行った。その結果は次のようなものだった。1 、人生というものをじっくり考えるようになった。 (37.3%)2 、かえって心豊かになった。 (13%)3 、信仰を得た。(13%)4 、何も得られなかった。 (8.7%)5 、性格が良い意味にも悪い意味にも変わった。(20%)6 、回答なし。 ( 8% )これを見ると、不治の病に侵されても、少なくとも過半数の人は精神的に成長したと考えているようだ。(生きがいについて 、神谷美恵子 みすず書房 263ページより引用)らい病にかかると、目が見えなくなる、体の自由が利かなくなる。また顔かたちが異様に変形する。このような運命に翻弄されると、ほとんどの人は夢や希望を失い、人生に失望してしまうと思いがちだが、実際にはそれは違う。そういう人もいる半面で、その過酷な状況を受け入れて、そこを出発点として人生を組み立てていけるようになった人は、むしろ病気となったことがプラスに作用しているのである。心豊かな精神状態になり、人生の楽しみを見出しているのである。これは神経症に陥った人もとても参考になることである。神経症になってやぶれかぶれになり、無為の人生を送る人もいる。どうして自分だけが神経症で苦しまなければならないのか。神経症で苦しむことがなかったならば、どんなにか素晴らしい人生になったことだろう。人生は理不尽だ、不平等だと考える。その半面で、神経症になっために、森田療法理論に出会った事を心の底から喜ぶ人もいる。もし神経症にならなかったらそういう出会いはなかった。神経症で苦しい一時期を過ごしたが、それも今となっては懐かしい思い出だ。結局神経症で苦しんだ事は、自分にとってはこの上ない幸運・恩恵を与えてくれた。そういう人は、森田理論によって神経症を克服するだけではなく、神経質性格の持ち主として人生観をも確立しているのである。こういう人は自分に与えられた過酷な運命を、自分が解決すべき人生の課題として捉えて、四苦八苦するうちに、森田理論に出会えたのである。解決の糸口を見つけられたのである。森田理論の研究と実践が自分の生きがいになっているのである。水谷啓二先生は次のように言われている。現代においては苦しむことを嫌がり、安楽を求める傾向が強いけれども、私どもは人間的に脱皮し成長するためには、さんざん苦しむと言うこともまた、極めて大切であり、避けられない事でもある。だから私は、 「苦しくてたまらない」と訴える人に対して、 「苦しみぬいてこそ、この世の安楽仏国に生まれることができるのだ」 と教えている。特に、まだ年が若くて苦労の経験が足りない人が、何やかと苦痛を訴えてくるのに対しては、 「もっと苦しみなさい」と叱るように言うこともあるが、それは本人をその自己中心的な暗い世界から、お互いに心の通い合う光明の世界に導き入れるためである。 (あるがままに生きる 水谷啓二 白揚社 27ページより引用)
2018.06.20
コメント(0)
私たちは、行動する前から頭の中でやりくりをしてしまうという特徴があります。例えば、簡単な仕事と思えば、軽く見積り、難しいと思えば、やる前からため息が出る。頭の予想に振り回されるところがあるのです。そのため、手が出ない。あるいは手を出しても簡単だと思っているから失敗する。そんな時、なるべく早く手をつけ、作業をすることによって、その人の中に「はずみ」が生まれます。 1種のリズムです。そして作業する人は、自分が今まで取るに足らない自分などがやることではないと思っていた家事の中に、面白みを見つけ、達成の喜びを見つけるのです。思想、つまり観念というものは、実際に当たることによって変化するのです。くだらないと見下げていたものが、やってみると意外に面白いものがあったりする。あるいは、簡単だと思っていたものが、工夫のいるものだと体験することは、その人のものの見方を変えていくのです。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 95頁より引用)森田先生の入院森田療法では、どんなに社会的な地位が高い人に対しても、それまで全くやっていなかった日常茶飯事や雑仕事に取り組ませました。飯炊き、食事の準備、風呂焚き、部屋の清掃、便所掃除、小動物の世話などです。今までそのような取るに足らない日常茶飯事は軽蔑して、親や奥さんに押し付けていたのです。あるいは会社での仕事でも雑仕事は全く手を付けないで、同僚や部下などにやらせていたのです。自分はもっと価値のある仕事、もっとやりがいがあり、人に注目されるようなクリエイティブな創作活動などに専念すべきだと考えていたのです。知らず知らずのうちに、頭の中で価値の高いものと価値の低いものを選別して、取捨選択をしていたのです。その結果、実際には、一方ではやることがなくなり暇を持て余して退屈になりました。もう一方では、価値の高いと判断した仕事にはどこから手をつけていいのか、手がかりさえつかめないという状況に陥っていたのです。どちらにしても実践・行動がおろそかになってきました。森田先生は頭の中で是非善悪の価値判断をするという態度を改めさせようとしています。そのためには、自分の体で見本を見せて、入院生にも同じ事を体験させていました。ある入院生は、雑巾がけや肥くみなどの作業をさせられて情けなくて涙が出たと言われていました。それほどまでに、是非善悪の価値判断で自分自身ががんじがらめに縛られて、融通が利かなくなっていたのです。頭の中で価値判断をすることをやめさせ、とにかく目の前の日常茶飯事や雑事・雑仕事に注意や意識を向けて丁寧に取り組ませる。そうすると、次第に感情が発生し、高まり興味や関心が湧いてくる。さらに一心不乱に取り組むことによって行動に弾みがついてくる。これが基本的な生活態度となるべく入院生と生活を共にする環境の中で、徹底的に指導されていった。そのうち入院生たちは、頭の中で価値判断をしてやりくりを試行錯誤するよりも、尻軽に気づいたことに即座に手足が出るようになる。そうすることで、生活の幅が広がり、神経症的な葛藤や悩みが少なくなっていったと思われる。つまり、価値判断至上主義から、物事本位の事実本位の生活へと人生観の転換が図られたのである。ちなみに森田先生は、価値判断することやめて、自然に服従した生活ができるようになると、大学卒業程度の段階であると言われている。
2018.05.09
コメント(0)
対人恐怖症で苦しんでいる人は、自己主張を抑え、相手の思惑に沿った生活をしている。自分を抑圧し、我慢し、耐えながらの人間関係を心掛けている。他人から拒否される。無視される。批判される。否定される。抑圧される。支配されるなどを極端に恐れている。意識や注意は内向し、専守防衛に偏っている。それにもかかわらず、他人は平気で自分の心の中に土足で入り込み、いつも自分を傷つけている。とても生きずらい。コールタールが体に張り付いているような感じがする。天気に例えれば毎日が雨降りのような状態である。うつ病ではないが、慢性的な抑うつ状態が続いている。この状態は抑うつ神経症、あるいは気分変調性障害の状態である。生きることに無力感を感じ、生きる事はむなしい、生きることは、希望が持てないと感じている。人間関係に回避的な行動ばかりをとっている。その結果、ますます孤立し、最後には投げやり、あきらめ、自暴自棄になる。やることなすこと何の意味があるのだろうかと考えるようになる。人間関係のみならず実生活の悪循環が繰り返されている。精神交互作用によって対人恐怖症という強迫神経症が固着している状態である。このような人に光を当てているのが森田である。森田療法はこういう人を対象としている。どうすればいいのか。まずは精神交互作用の打破である。とりあえず蟻地獄から抜け出して、地上に出ることが重要である。そのためには、実践課題をつくって取り組む。それが軌道にのってくれば、気づいたことをメモしてステップアップして取り組む。そうすれば、蟻地獄から割合早く脱出できる。それと並行して、強迫神経症の仲間がいる自助組織に参加する。一人で抜けだそうとするのはとてもハードルが高くなる。その手の日本最大の自助組織は生活の発見会である。会員は2000名以上である。集談会の先輩会員に自分の悩みを言葉にして吐き出す。自分の心の安全基地となれる人を探す。1年も参加していれば、そういう人が見つかる。次に仲間とともに森田関係の本を読んで神経症の成り立ちなど基礎的学習に取り組む。このような行動とれば比較的短期間のうちに、最悪の状況を脱することができる。ただし、ここで気を抜いてはダメだと思う。考え方の誤り、認知の誤りがとても強いので、気を抜いてしまうと元の木阿弥である。ここが出発点なのである。森田理論学習によって次の段階に進むことが大切である。森田先生は強迫神経症は、人生観が変わったから治るのであると言われている。難しい事のように思えるが、森田理論にしがみついていれば自然に人生観は変わっていく。何度も言うようであるが、自分ひとりでその段階に到達しようと思うのは、とても大きな壁が立ちふさがっている。森田療法に詳しい人から学んでいく方が早い。また同じような仲間と共に歩んでいく方が勇気が出てくる。そのうち良質な人間関係を構築することもできる。そのためにはせめて1年間は参加してみることだ。私たちはそのやり方で神経症を克服してきた。最初は素直になって、先輩たちの物まねから入るのが有効である。
2018.04.16
コメント(0)
北西憲二先生は、外来森田療法の治療前期として、変化を引き起こす事に力を入れられている。具体的には、 「ふくらます作業」と「削る作業」である。「ふくらます作業」とは、あれこれ考えすぎないで、行動を通して直接生活世界に踏み出し経験することから始まります。神経症に落ち込んでいる人は、注意や意識が症状にばかり向かっている。精神交互作用によってどんどん混迷の度合いを深めている。それを打ち破るためには、目の前の生活や仕事に目を向けて、行動することが何よりも大切になる。森田先生曰く。理屈でわかるよりも体験ができさえすれば治り、治りさえすれば、理論は容易に分かるようになるから、体験を先にする方が得策である。最初は、日常生活、仕事、人間関係、趣味、集談会などで実践課題の作り、意識的にそれに取り組んでみる。その結果を集談会で発表して先輩方からアドバイスをしてもらう。 1つでもできるようになれば、小さな前進である。それができるようになれば、ステップアップしていく。生活の中で、気がついたことをどんどんメモしていくのである。すぐにできないことでもどんどんメモしていく。やるべき課題や問題点のストックをできるだけ多く溜め込む。メモ用紙やカレンダー、スマートフォンなどに確実に記録として残す。そうすればメモしたことが気になるので少しずつ行動力が向上してくる。最初は10%でも20%でもこなすことができるようになればしめたものである。そのうちユーモア小話のネタや川柳などが思い浮かぶようになれば、症状に振り回される度合いはかなり少なくなる。北西先生は助言として、 「ぐるぐる回る思考を放っておくこと」 「不安を持ったまま行動する」 「待つこと、 一拍置く」ことなどを挙げられている。次に「削る作業」にも取り組んでいく。神経症に陥っている人は、 「かくあるべし」という自己が硬直化し肥大化している。これは、 「理想の自己」が硬直し、 「現実の自己」をがんじがらめに縛っている。繊細で傷つきやすい人の場合、また、家族の支えが不十分な場合は、その度合いはきつくなる。精神が安定した人でも、物事にとらわれ悩み始めると、 「理想の自己」は硬直化して、大きくなり、 「かくあらればならない」 「かくあってはならない」などと、 ○○すべきという「べき」思考で「現実の自己」を縛ってしまいます。そのような自己のあり方は、人生の変化に対する適応を困難にしてしまうのです。北西先生は、他者や現実世界を自分の思うがままにコントロールできないということを理解してもらう。そうしたら苦悩を目の敵にして、あってはならぬものと決めつけることから自由になることを目指します。それまでの価値づけそのものを否定し、 「べき」思考を放棄するように助言します。これは、このブログで再三取り上げていっているように、 「かくあるべし」的思考を少なくしていく方法です。できるだけ事実本位の生活態度を身につけていくやり方です。そのための手法として、すでに事実を4つに分ける方法について提案しました。次に、事実をよく観察する態度を身につける。そして、事実を赤裸々に具体的に相手に伝えていく。森田理論で学習した「純な心」「私にメッセージ」などを生活の中で活用していく。「かくあるべし」が出てくれば、 「ちょっと待て」と言い聞かせて、自分の素直な感情に立ち返って考えてみる。北西先生は、 「ふくらませる作業」と「削る作業」は、あざなえる縄のごとく同時進行的に取り組む必要があると言われている。つまり、「症状はそのままにしておいて、闇雲に行動すればよい」というだけでは不十分であると言われている。2つの作業が車の両輪のごとく、同じ大きさで回転をしていないと、決して前に進むことはできない。そのほうが神経症の治療にとっては効果が高いといわれているのだ。これは森田理論学習によって、神経質者の人生観の確立を促すという面から見ても、全くその通りであると思う。(はじめての森田療法 北西憲二 講談社 158ページより要旨引用)
2018.03.20
コメント(0)
私は老人ホームの慰問活動などでアルトサックスの演奏をしている。人前で演奏するときに、演奏を間違ってはいけないというプレッシャーで押しつぶされそうになることがある。特に、指遣いの難しい場所は、いつも予期不安や予期恐怖が出てくる。その部分は、本番前に何回も指遣いを確認する。しかしそれはよし悪しである。その部分に注意や意識を過度に引きつけてしまうのである。その曲に入るまでに、リーダーが曲の紹介などをして時間があくと、指遣いを確認したりする。あるいは前頭葉がしゃしゃり出てきて、「お前は本当に間違えなしに演奏できるのか」などとささやいてくるのである。そうなれば、ちょっとした動揺が発生する。それが発展してパニックになれば、高い確率で間違えてしまう。この解決のヒントを、森田先生の「神経質の本態と療法」という本の中から見つけた。森田先生は、心悸亢進発作の患者に、次のように指示している。今夜寝るときに、発作が最も起こりやすいという横臥位をとり、自分から進んで、その発作を起こし、しかもその位置のままに苦痛を忍耐し、かつその発作の起こり方から、全経過を熱心に詳細に観察するようにしてください。そうすれば私は、あなたの体験によって、将来決して発作の起こらない方法をお教えする。もし今夜このために、どんなに激しい苦痛があって、徹夜するようなことがあったとしても、長い年数の苦痛と不安等取り去ることができれば、 十分忍耐する価値のあることである。その後私が再診したときには患者は、 「その夜、教えられたように実行したけれども、自分で発作を起こすことができないで、 5分ほども持たないうちに眠りに入り、翌朝まで知らなかった」との事であった。あなたはその時一晩中発作の苦痛を覚悟したのである。恐怖そのもののうちに突入したのである。この時は、発作があるいは起こりはしないかという疑念もなければ、また発作から逃れようとする卑怯な心があるのでもない。これこそ発作が起こって来なかった理由である。今までは知らず知らずの間に、発作の襲来を予期してこれを迎え、一方にはこれから逃れようとして心に惑いが生じ、いたずらに苦痛不安を増大させたのである。この患者は心悸亢進発作という予期不安や予期恐怖に対して、それを何とかして取り除こうとしているのですが、森田先生は反対に発作を積極的に起こしてみることを勧めている。医師がついていてあげるから、安心して発作を起こしてみるように勧めているのだ。普通一般的には、発作を起こさない方法をとるのだが、森田先生のやり方は逆説療法である。私の場合も、演奏を間違えたら、聞いている人からバカにされる。演奏仲間から軽蔑される。そのことばかりにとらわれているのである。この際、 「意識して間違えて、笑いのネタを提供してやろう」というやり方で取り組んでみようと思った。誰でも知っている歌謡曲を間違えるとみんながクスクスと笑う。普段みんなはよどみなく演奏される音楽ばかりを聞いているので、どっと笑いが取れる。私などはプロの演奏家ではないので、みんなを笑わせることに徹した方がいいのかもしれない。間違った部分も取り入れながら、全体としての出来栄えが80点ぐらいならば、観客に笑いと音楽の楽しみと両方を与えることができる。また、自分が間違えると同じサックスを吹いている仲間は、一瞬戸惑いとともに喜んだような顔を見せる。それは私が間違えると、相手は気分的には優位に立てるからだと思う。そうなれば、相手はますます自信を持って演奏してくる。普段よりパフォーマンスがよくなる。そんな時は、私のソロパートの部分にも演奏に加わってくれて助かることがある。一番問題なのは、予期不安のために、楽器の演奏を止めてしまうことである。先日テレビを見ていると、ピアノの演奏のプロの人がいかに正確に弾けるかの競争をしていた。100%正確に弾けている人は1人もいなかった。それが事実なのだ。事実を否定して、 「かくあるべし」ですべてを間違いなく演奏しなければならないと、自分を追い込んで苦しめることに何の意味があるのだろうかと思った。私は、練習の段階では120%の出来を目指して頑張ろうと思う。これが前提だ。しかし、練習で120%できたからといって、本番で完璧にできる保証は何もない。予期せぬ想定外のことが起きて、間違いはつきものだ。そんな時は、「間違がった演奏を提供して観客を喜ばすのも技術だ。間違えることによって、軽蔑する人も確かにいる。でも喜んで笑い転げる人も確かにいる。だから間違った演奏は悪いことばかりではないのだ。演奏仲間に優越感を持たせるというおまけまでついてくる」「今日も間違い演奏をして笑いをとるぞ」と言い聞かせながら慰問活動に出かける。
2018.03.16
コメント(0)
岡田尊司氏はアウシュビッツの強制収容所から生還したピーター・フランクルを分析されている。強制収容所にいたフランクルは何をよりどころとして生き抜いたのか1つは、心の中で常に愛する存在と会話をしたことである。凍てつくような雪の中で何時間も立たされ、ひどい目に遭っている最中でも、妻ならこう言ってくれるだろうと思い浮かべ、心の中に妻の声を聞くことで、現実に追い詰められることから逃れることができたのである。もう一つは、手掛けていた書籍を完成させたいという、将来の希望を失わなかったことである。強制収容所を出たら、精神科医に復帰して、やりかけ中の書籍を出版することを考えていた。そして解放されたフランクルは、過酷な体験の最終的な回復は、自らが味わった運命に肯定的な意味を見出すとともに、その体験を生き延びた者として多くの人に伝えるという使命を自覚することにあると言っている。フランクルはまさに自らが味わった過酷な運命に、「 意味」と「使命」を見出すことで、果てしない悲しみを乗り越えようとしたのだ。実際フランクルは、自らが体験した過酷な体験を受け入れただけではなく、自分の人生の中でこのような過酷な体験ができたことを「感謝」しているのである。感謝の気持ちを抱くことができる人は、出口の見えない長く続く困難な日々の中にあっても、希望や意味を見出し、ささやかな喜びを支えに生き抜いていくことができる。感謝の気持ちが持てない人は、自分ができないこと、自分に与えられないこと、自分に不利な状況を、自分に対する攻撃、敵意、束縛と受け止めてしまいやすい。自分を否定するものとして捉えてしまうのだ。限りある生命体である自分ということ自体が腹立たしく、不満なのである。永遠に生き続けて、どんなことも成し遂げられ、どんなものも手に入れられる自分こそが、理想の自分なのである。感謝の気持ちを失ってしまった人は、不利な事にばかり目が向かい、不満ばかりを感じて、自分を余計生きづらくしてしまう。不幸せな生き方の人は、ささいな不満さえも耐え難いと感じ、周囲に責任を転嫁し、攻撃を加えようとする。そのことでいっそう不幸の悪循環を生んでしまう。感謝の気持ちを持てる人は、不幸な出来事を決して自分を否定するものとは受け取らない。そうした困難や不愉快なことさえも、こうして与えられていることには何か意味があり、それは1つの恵みなのだと考えるのである。 (「生きづらさ」を超える哲学 岡田尊司 PHP新書 236ページから247ページ要旨引用)生活の発見会では、「努力即幸福」ということが言われる。集談会の全国展開に尽力された長谷川洋三氏は、 「感謝即幸福」と言われている。神経症に陥り、いうにいわれない苦痛を体験してきた神経質者が、乗り越える過程で、この神経症の体験は、私の人生の中でとてもよい経験であったと感謝できるようになる。乗り越える過程で森田理論にも出会うことができた。これが人生について洞察を深めるきっかけになった。多くの優れた仲間と知り合うこともできた。もし神経症に陥ることがなかったならば、神経質者の生き方などを考える機会はなかっただろう。さらに神経質性格者としてこの世に生を与えてくれた両親に感謝する。人間としてこの世に存在できたことに感謝する。自分に関わりあってくれた人にも感謝する。感謝の気持ちを持てるようになった人は、 「かくあるべし」から下目線で現実を見ることはしなくなる。どのような過酷で理不尽な現実、現状、事実であっても、現実に起こった事は何か大きな意味があり、それは自分にとって大きな恵みだと考えることができるようになるのである。神経症を克服した段階では、自分や他人、身の回りに起こる理不尽な出来事に対して、批判や否定をしなくなり、感謝の気持ちが自然に湧き起こってくるようになるのだ。
2018.02.21
コメント(0)
森田理論は、減点法ではなく、加点法で自分の生活を評価していくものだと思う。減点法では、理想や完璧を念頭に置いて、それに達していないことをマイナスに評価していく。加点法では、以前はできなかったことが少しでも改善できているとプラスに評価していく。減点法の立場に立っていると、傍から見てずいぶんよくなっていると思われるのに、足りない部分に注意や意識が向いているので、いつまでたっても神経症が治ったように思えない。そういう自分を自己否定するので、生きることは針のむしろに座っているようなものである。反対に、加点法の立場に立っている人は、以前と比べて改善できていることを素直に喜ぶ。そして一歩上を目指して努力しているので、ますます修養ができてくる。自分を評価できるようになるし、生きていることを心の底から満喫できる。例えば対人恐怖症の私の場合を見てみたい。対人恐怖症で苦しんでいるときは、親友はもちろんのこと、友達と呼べるような人がほとんどいなかった。今は、森田理論学習を続けてきた生活の発見会の中に、貴重な人間関係を築くことができた。尊敬できる先輩も持つことができた。年賀状の中でも、発見会の中に占める人の割合が非常に多い。その他、趣味の活動を通じて、利害関係に関係のない和気あいあいとした人間関係を築くことができた。それ以外にも、現在の仕事を通じての友人関係もできた。同窓会、OB会の関係、個人的なカラオケ仲間もできた。今では、人間関係の幅を広げて深めることなしに、人生の面白みは味わえないのではないかと思えるようになった。仕事の面では、すべての面で改善できた訳ではない。しかし細かい仕事を丁寧にこなすという実践によって、仕事に追われるのではなく、仕事を追っていけるようになった。その結果、会社や上司から高い評価してもらえるという経験ができた。その結果管理職も経験することができた。ただし、昔携わっていた訪問営業の仕事ができるかといえば、全く自信はない。好奇心がますます旺盛になり、自分の周りのものすべてに興味や関心が持てるようになった。そして症状で苦しんでいたときと比べると、フットワークよく尻軽に行動できるようになった。注意や意識はかなり外向きに変わってきた。生活の発見会の会員として、会の維持と発展のために、会員を継続することができた。会員でいることは、自分のためだけでなく、人のために役立つ行動だと思う。集談会にもほとんど休むことなく参加している。そして集談会が活性化するように積極的に関わるようにしている。そのほか、オンライン学習のインストラクターとして4回参加することができた。支部研修会は1回欠席しただけで、あとは毎年すべて参加してきた。22回も毎年参加できたことは感慨深いものがある。森田理論の学習の関係では、「森田理論の全体像」を理論化することができた。それを、3冊のテキストに纏め上げて配布することができた。またこのブログで、森田理論の魅力を一般の人に紹介することができた。ざっと挙げただけでも、症状で苦しんでいたときと比べて、このような変化があった。それなのに、まだ対人恐怖症が完全に治っていないというのは、贅沢ではないだろうか。そういう捉え方は、 「かくあるべし」的思考から抜け出ていない状態だと思う。私は以前と比べて改善できてきたことを素直に喜びたい。対人恐怖症は治ったかと問われれば、あるにはあるが問題にならなくなったと答えたい。そしてさらに森田の達人を目指して森田理論を研究していきたいと思う今日この頃です。
2018.02.17
コメント(0)
形外会で鈴木さんが話されていることです。前には、親たちが、小声で話していても、私のことを噂しているのではないかと思ったが、退院してから、そんな感じは全くなかった。退院後、流感にかかって、 1週間ばかり、親戚で床についたが、その間、今のケヤキの深緑の美しさに見とれて、退屈するようなこともなかった。以前には、こんなものを見て美しいとか、思えるような事は全くなかったのであります。学校で、英語を読まされてひっかかると皆が笑う。今までは侮辱を感じたが、退院後は、そんな時、一緒になって笑うようになった。続いて、水谷氏は次のような話をされている。以前は、負けず嫌いで、相手の向こうを張りたいという気持ちが強かった。学校などで、あまり親しくない友達などが歩いてくると「あいつが」と、心の中で、軽蔑して、わざと肩をいからして歩く。相手が多勢で、心細く感じた時は、特にそれがはなはだしくなる。また道で、ごろつきなどに会えば、道をよけないで、かえって敵視の態度をとるという風であった。それが、退院後は、まったくそのような反抗気分がなくなり、人に会釈もできるようになり、青年倶楽部へ行って、打ちとけるようになった。学校でも、孤独感がなくなり、近頃は、クラス雑誌のメンバーに加わり、いろいろと世話をやいています。人に対する親しみが、大変ましたようであります。(森田全集第5巻 353ページより引用)私も桜の満開の頃、集談会に参加して、 「見事な桜にしばらく見とれた」と話したところ、私の信頼している先輩から 「あなたの症状はだいぶよくなっている」と言われたことがあった。自分ではそんな事はないと思っていたが、今考えてみると、頭の中が自分のことで100%占められていたものが、少し緩んできつつあったのかもしれない。森田に関わっていたおかげで、自己内省一辺倒から、外向きに変わってきたのであると思う。特に集談会の中で図書係を経験させてもらい、役割を果たすのに精一杯に取り組んでいたことが懐かしい。その時は、頭の中は症状のことから離れて、外向きになっていた。森田学習に役立つ本はなんだろうかと、いろんな本を読んで、案内文章を作ったりしていた。毎月何冊売れるかが楽しみだった。図書係は役得で、いろんな本をタダで読めることが特典だった。そのうち、副代表幹事や代表幹事を拝命された。今度は集談会をどうしたら活性化するのか、どうしたらもっと人が来てくれるのか。多くの人の協力を仰いで、いろんなイベントを企画したりしていた。野外学習会や一泊学習会は毎年企画していた。テニスやスキーなどの企画も盛りだくさんであった。おかげで、 1つの集談会では収容しきれないくらい多くの人が参加してくれた。私が症状にかまけて苦しんでばかりいた状態から回復できたのは、集談会で世話活動に専念したからである。その中で集談会でも、集談会以外でも心の拠り所となる貴重な多くの人たちと知り合うことができた。今では私の貴重な財産となっている。そんな活動は、仕事の面でも大きな変化を見せた。神経質性格を生かして、細かい仕事を馬鹿にしないで丁寧にやっていくという方法で会社の中で大きな評価を受けるようになった。ただ、人の思惑が気になって、生きづらいと言う気持ちは、その時は解消してはいなかった。その頃は、症状はそのままにして、実践・行動力をつけるという学習が主力であった。後で振り返ってみると、思想の矛盾の解消についてはほとんど手付かずであった。でも、順序を踏むという面から見れば、それでよかったのかもしれない。そのうち、森田理論の要点が改訂されて、思想の矛盾の打破について大きく取り上げられるようになった。私はそれに加えて、試行錯誤の末に「森田理論の全体像」を作り上げた。そして「かくあるべし」を少なくして事実本位・物事本位の生活態度の養成に力を入れて取り組むようになった。そして今や「かくあるべし」ではなく、事実や現実に軸足を置いた生活ができるようになったのではないかと感じている。私は森田理論学習によって、確固たる人生の指針を持つことができた。これが森田先生は私たちに伝えたかった究極の考え方ではないのかと感じるようになった。今では、人を避けるのではなく、気心の合う多くの人たちとの交流がとても楽しみになった。今では、人生の楽しみはいろんな人とワイワイガヤガヤと楽しく過ごすことではないのか、と思うようになった。もし、対人恐怖症を乗り越えることができなかったら、未だに孤立して1人で寂しく過ごしていたに違いない。
2018.02.06
コメント(0)
親鸞の研究をされている山崎龍明さんのお話です。生きるという事は、そんなに簡単にはいきません。まさに、山あり谷あり、禍福はあざなえる縄のごとしです。親鸞さんは、人間が生きていく世界を「難度海」 (なんどかい 渡りきることが極めて難しい大きな海)といいました。自己をどこまでも信じ、自己の能力、力量をたのみとして、人生設計をたて、その道をひたすら生きる。なんとたくましい、立派な生き方でしょう。このような人をずいぶんとみてきました。でも、そのような生き方には、どこか「力み」があります。大切なところで大事なことを見失うような、おごりと危うさを感じます。「自力を捨てる」と言う事は、自分を捨てることではありません。自我を捨てるということです。自力のはからい(とらわれ)を捨てるということです。いや、自我中心に生きている、その誤りに気づくことであるといってもいいでしょう。そこには何の「力み」も「気負い」もなく、他を認める開かれた世界があります。「自力をすてる」ことは、 「仏の真理」に気づくことでもありました。それは、学歴、知識、社会的地位、金銭、他人を人生の拠り所とはしない、ということなのです。(親鸞!感動の人生学 山崎龍明 中経出版 174ページより引用)森田理論に通じるところがありますので、私の感想を書いてみます。親鸞さんは「自力の思想」ではなく、「他力の思想」であると言われます。自力の思想は、人間の生き方や処世術を学問・書物や世の中の常識などから学んでいきます。それらを統合して人生観や処世術を確立した人のことを言うのではないかと思います。努力精進して確固たる人生観や現在の地位を確立したわけですから、立派なことだと思います。高学歴を持ち、社会的地位を獲得し、お金を儲けて物質的豊かな生活を築いた人たちです。しかし、そういう人たちの中には、欲望が暴走し、制御不能に陥っている人もおられます。自己中心的で、 自分の利益のことばかり考えて、他人を自分の意のままに支配しているような人です。自力の思想の人は、そういうおごりや危うい面があるわけです。どうしてそのようなことになるかと言うと、自分の考えていることや行動は間違いないという過信があるからです。森田理論で言うと、 「かくあるべし」思想で世の中のことに立ち向かっているわけです。親鸞さんが言われている「他力の思想」は、 「自力の思想」のおごりや危うさを指摘されているのだと思います。自分の立ち位置が思想や完全・完璧の状態の側にあるのはまずいいと言われているのです。「他力の思想」は、森田理論で言うと、 「かくあるべし」思考を少なくして、できるだけ事実本位・物事本位の生活態度に改めていくことだと思います。山崎さんは「自力をすてる」ことは、 「仏の真理」に気づくことであると言われています。これは私たちの場合で言うと、森田理論の学習をして、症状を克服し、神経質者としての人生観を確立するという事ではないかと思います。森田先生は、 「教育の弊は、人をして実際を離れていたずらに抽象的ならしむるにあり」と言われています。この言葉は、森田全集第5巻の最初に掲げてある言葉です。森田先生は、神経症に陥って苦しんでいる人は、思想の矛盾を抱えている人であると言われています。つまり、 「かくあるべし」でがんじがらめになって、金縛りにあっているようなものです。ここに焦点を当てて、学習・実践に取り組まないと、いつまでも生きづらさは解消できないものと思われます。
2018.02.03
コメント(0)
森田先生のお話です。神経質には「全治した」と言っても「本当に治ったのだろうか、また再発することはないか」という風に心配する。10の症状が、8つよくなっても、残りの2つをいい立てて、治らないと主張し、決してその治った方を喜ぶという事しないのがその特徴である。これが着眼点が変わって、心機一転の状態になると、ひとつの症状がよくなれば、その一つを喜び、 2つ治れば、その2つを喜ぶと言う風になって、日ならずして全治するようになるのである。(森田全集第5巻 380ページより引用)これは森田理論の修養が進んでいないと、森田先生の言われてる意味がよく分からないのではないかと思う。不安と格闘しなくなり、目の前の家事や仕事に注意や意識が向くようになれば、第一段階の神経症か治るという目的は達成されます。これは森田先生によると、小学校卒業程度の治り方だと言われています。普通はそこで森田理論はよくわかったと判断して、森田から離れていってしまう人が後をたちません。これはガンで言えば、主な腫瘍を取り除いて「治った、治った」と喜んでいるようなものです。しかし、ガンになる様な人は、転移して他の箇所で、再発という不安があります。神経症で言えば、 、実践や行動ができるようになっても、神経質性格は変わっていないわけですから、生活していても何かに怯えて、重苦しい気分は払拭できていない場合があります。実際に行動できるようになった人は、次はこの部分に焦点をあてて修養していく必要があるのです。森田では「かくあるべし」という考え方を改めて、事実にしっかりと足をついた生き方を身につける必要があると言っています。森田先生はこれを「思想の矛盾の打破」として説明されています。そういう点から考えてみると、10の症状のうち8つがよくなっても、治らない2つのことにこだわっている人は、 「かくあるべし」的思考態度が依然として続いているのです。そういう態度は、現実や現状を否定しているのです。あるいは、自分や他人をいつも否定しているのです。現実を踏まえて、そこから症状克服に取り組もうという態度ではありません。上から下目線で自分の症状を見つめているのです。全部すっきりと治っていない自分を否定しているのです。発想がもともと間違っているわけですから、神経症が完治するということはありません。神経症がひとつよくなれば、その一つを喜び、 2つよくなれば、その2つを喜ぶという人は、現実や現状を踏まえて、神経症克服に取り組んでいる人です。そういう人は下から少し上に視線を向けて、一歩一歩階段を上っているような人です。こういう人は自己否定や他人否定に陥ることはありません。事実唯真の立場に立っていますので、どんなに大きな問題を抱えていても、常に事実に寄り添って生活できています。そこには葛藤や苦しみはありません。この思想の矛盾の打破は、森田先生によると、中学卒業程度(旧制中学ですから、今で言うと、高校卒業程度です)であると言われています。大変大きなハードルではありますが、森田理論学習を深めることによって、達成できることです。神経質性格を持ち、神経症でのたうち回った経験を持っている人は、ぜひとも中学卒業程度の学習は続けていただきたいと思っています。
2018.01.29
コメント(0)
神経症を克服した人は、次の2つの点で、以前とは大きく変化していると感じている。 1つ目は、何かにつけて好奇心旺盛になっているということです。 例えば食品スーパーに行ってもいろんな商品が気になる。 ダイソーに行ってもいろんな商品を見て回るのが楽しみになる。 本屋に行ってもいろんなジャンルの本を見て回る。 とにかく注意や意識が外向きになって、興味や関心はいろんな方面に向いていくようになる。 何かにつけてそういう傾向が強くなるので、好奇心が強くない人と行動していると、相手はイライラするようである。 いろんな方面に興味や関心が出てくると気づきや発見が格段に増えてくる。 すると、欲望が発生してくる。創意工夫が色々と次から次へと生まれてくる。 ひとつの悩みに翻弄されて精神交互作用によって神経症固着の途に突き進むということは回避することができる。 もう一つは、今まで相手に対して自分の「かくあるべし」から口走っていた言葉が少なくなる。相手に自分の考えを押し付けなくなる。相手を自分の意のままにコントロールしようという発言はなくなる。 批判、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒りなどの発言が少なくなる。 そして目の前の問題ある事実を正確に述べるだけに留まるようになる。 それ以上の自分の「かくあるべし」という気持ちは付け加えなくなる。 自分が言った事実に対して、それを相手がどう受け取ろうがそれは相手の自由であるという気持ちになる。相手は事実を正確に言われ、自分を意のままにコントロールしようとしていないことが分かると、自分はその事実にどう向き合おうかと考えるようになる。 たとえば、妻が焼き魚を真っ黒に焦がしてしまったとする。夫婦の力関係で夫が強い場合は、「お前はなんて料理が下手なのだ。こんなもの食べられるわけがないだろう」と叱り飛ばすだろうと思います。妻は立場がありません。夫婦の人間関係は一挙に悪くなります。これは「かくあるべし」で相手を意のままにコントロールしようとしているのです。森田の事実本位の態度が身についてくると、「見事に焦げちゃったね」と目にした事実だけを口にするだけになります。それ以上の自分の気持ちは何も付け加えません。この場合は夫と妻が支配、被支配の関係にはなりません。事実の指摘を受けて、妻は「ごめん。今度は気をつけるから許して」あるいは「まだあるから焼き直そうか」などの言葉が出てくるようになります。 このような関係は、縦の支配・被支配の人間関係から、お互いを尊重し合う温かい横の人間関係に変化してきたと言えると思います。
2018.01.27
コメント(0)
水谷先生が形外会で発言されたことです。今日、森田先生はお庭でバラの木の葉に 、小さい虫の糞がたくさんあるのを指されて、これを見つけると、虫のいることが分かるといわれる。なるほど、よく見ると、その上のほうの葉に、小さい青虫がいっぱいたかっている。虫は保護色のために、容易に見つける事はできないが、糞は黒いからすぐに見つかるのである。先生はこのとき患者たちに説明された。先生から、こんな事を指摘されて、たちまち「ハハァ、なるほど・面白いことだ」と感じる人は、上等で、知識は「日に新たに、また日々に新たに」進歩するようになる。あるいは、一方には、 「今日はひとつよい事を覚えた。書きつけておかなくてはならない」というのは、下等であって、習ったことより、他の事は、何も出来ない人で、10を聞いて1しか働きのない人である。また、他の人は「自分は、こんなことにも気がつかない。もっと注意を働かするようにしなければならぬ」 と言うのが、最下等で「悪知」であり、心は内向的で自分のことばかりを考えて、少しも物を見ることができない。せっかく教えられたバラの虫取りに、手を出すこともできず、外界から入ってくる知識の門戸が、まったく閉鎖されてしまうというようなお話があった。 (森田全集第5巻 387頁より引用)実に面白い話である。水谷先生がこういう話を聞き逃さなかったというのもすごいところだ。森田先生が最下等と言われる人は、注意や意識が外向きにならずに、常に内向きである。しかも反省心があるというのではなく、自分自身を先入観や決めつけによって、絶えず否定的に取り扱っている。こういう人は、ちょっとした不安や恐怖が発生すると、すぐに精神交互作用の悪循環にはまり、神経症を作り出してしまう。こういう人こそ森田理論学習が必要な人である。神経症とは何か、神経症の発症のメカニズム、神経質性格の特徴、行動の原則、認識の誤りなどの基礎的学習を始めることが大切だ。そしてそれらを踏まえて実践することである。次に下等と言われる人はどうすればよいのか。この人の特徴は、応用力が効かないということである。森田先生から指示されたことに手をつけるけれども、それは自発的に取り組んでいることではない。どちらかというと、 「おつかい根性」的な取り組み方である。実践や行動をするという面では、最下等の人と比べると数段上である。しかし、このような行動を続けるという事は、ハツカネズミが糸車を回すようなものである。致命的な問題は、どんなに行動力がついたとしても、興味や関心、気づきや発見が生まれてこないことである。森田では目の前のことに取り組むことによって、感情が発生し、動き出すことを重視している。それは、一心不乱になって取り組んでいないことである。ものそのものになりきっていない。行動することによって、絶えず神経症の症状が改善しているかどうか点検しているようなものである。入院森田療法では、下等の人が上等の人に変身していくことを狙っているのである。上等の人になると、退院して家に帰っていくと、いろいろと手をつけなければならないことが目につくようになる。それに従って自然に体を動かすようになる。すると、体重も増え、血色がよくなって、家族が大変驚くようになるのである。森田先生の所の入院療法では、上等の人に変身した段階で退院をさせておられた。神経症の克服という面では、もう一つ「思想の矛盾の打破」に手をつけなければならない。これは少しだけハードルが高い。人生観の確立にかかわってくる部分である。これは退院後、月1回開かれていた形外会に参加することで達成できていたのではないかと考える。そうでなければ、初期の段階の神経症を克服した人が、わざわざ毎月森田先生の家に集まって勉強会をする意味はなかったのではないかと思う。価値判断なしに、現実、現状、事実にしっかりと根を張った生き方ができるようになれば本物である。
2018.01.25
コメント(0)
森田先生が昭和6年10月13日京都の東福寺で座談会を開かれた。その時、書痙の人が森田先生に質問をしている。書痙で27年間苦しみ、この夏、宇佐先生のところに2か月入院し、先生はこれでよいと言われましたが、私は完全癖でまだ不十分だと思っています。ゆっくり活字を書くような気持ちで書けば書けるが、急ぐときには十分にはいかない。また別な人で、書痙をまずよかろうというところまで治してもらいました。しかし、退院して生活に追われると、また気がイライラして震えて困っています。そのため、今は針や灸をやっていますが、なんとか治す方法はないでしょうか。これに対して森田先生曰く。もっとよくなりたいというのはごもっとものことです。書痙はとにかく書けるようになった。それでよくなったといえる。事実唯真というが、以前よりよくなったとただ思えばよい。もっと上手になりたいと思うのもよい。ただ、自分はどこまでも欲張るものであるということを認めるとともに、以前よりはよくなったという事実を認めなければならない。十中1つでも治ったと思えば全部治る。ひとつ治らないといって苦にすれば、また十になる。十中1つよくなったという事実を認めればよい。1つ治ったことを忘れ、悔しいと思えば、また元に戻る。書痙の人はみんな普通の人より上手に書けないから、以前より治ったという事実を認めないのである。よいとか悪いとかを離れて事実を認めるのです。例えば、入院中に、体重が300匁増えたら、それを認めたらよい。体重は増えたが、煩悶はとれないといった風に、よいとか悪いとか気分本位をやめてもらいたい。また、あなたが字がうまく書けない。もっとよく描けるようになりたい。その事実を認めればよい。(森田全集第5巻 152ページから155ページより引用)森田先生はこの2人の書痙の症状の人に、何を言いたかったのか、私なりに考えてみた。この2人の書痙の人は、入院森田療法によってある程度改善しているのである。まず、その事実を認めなさいと言われている。そのことの認識が希薄である。さらに、もっと上手く書けるようになりたいという強い欲望がある。同時に、その強い欲望も認める必要がある。ただそれだけでよい。お二人の話を聞いていると、書痙を完全に治さなければという「かくあるべし」が非常に強い。理想の立場に自分の身を置いて、 十のうち、二から三程度にしか治っていない自分を否定しているのである。そうなると理想と現実のギャップがやたら気になって、神経症的な葛藤や苦しみで悩むようなことにある。本来は書痙で全く字が書けなかった状態から、ぎこちないながらもなんとか字をかけるようになったことを喜ぶべきだ。さらにもっと上手くなりたいという欲望を認めて、それに沿って努力していけばよい。決して上から下目線で現実の自分の至らなさを否定してはならないのである。これが森田先生が言われている、「十中1つでも治ったと思えば全部治る。ひとつ治らないといって苦にすれば、また十になる。十中1つよくなったという事実を認めればよい」という事だと思う。神経症の治癒という面から見れば、 「かくあるべし」的思考を、事実本位・物事本位に修正していくことが大事なのである。自分の立ち位置を変更することだと思う。あるいは、目の付け所を変えていくことだ。そのうえで、目標達成のために努力するようになれればよい。お二人の態度では、書痙は治ったとしても、根本的に神経症体質は治らないということだと思う。
2017.12.22
コメント(0)
先日出席した森田療法学会で面白い話を聞いた。認知症を自覚している人は、自ら病院を訪れて認知症を直そうとする。物忘れが激しくなった、薬を下さいという。認知症がさらに進行すると、被害妄想もでてくるという。探し物をしても見つからない。私物を盗られたのではないかなどという。通帳や印鑑などの大切なものをカバンの中に入れて持ち歩くような人も出てくる。しかし、認知症がさらに進むと、物忘れに対する訴えはしなくなる。診察すると、 「記憶力は人並みだと思います」「自分が忘れっぽいと思ったことは1度もありません」などという。被害妄想も全く出てこなくなる。こうなると、治療の施しようがなく手遅れであるという。私はこの話を聞いて、神経症が治ったという人のことを考えてみた。神経症で苦しんでいるときは、何かに追い詰められたようで、とても苦しい。不安や恐怖で押しつぶされそうになる。しかし森田療法に学び、不安を抱えたまま生活を進めていくと、精神交互作用は打破され、いったんは治ったかのように見える。溌溂として、肩で風を切るような自信に満ち溢れている。私生活でも、会社の中での行動もそうだ。集談会では、自分の神経症の克服体験を得意げになって話す。上から下目線で神経症で苦しんでいる人たちを見て、自分のやり方を押し付けるようになる。そういうタイプの人は集談会に参加した人はすぐに見抜いているのである。「かくあるべし」が強く出てきて、集談会の中で浮き上がってしまい、参加者から煙たがられるにもかかわらず、本人は全く気づいていない。影では、あの人は神経症が治る前の方が付き合いやすかったと言われるようになる。悩みを抱えて、四苦八苦しながら生活をしていた頃の方が、魅力がある人間として認知されているということである。神経症で悩んでいた頃の方が仲間として迎えられていたということである。本人にはその自覚がないので始末が悪いのだ。これを認知症の段階で言うと、治療の施しようがなくなった最終段階に入っているのではないかと思う。普通は神経症を克服しても、不安や恐怖を感じやすいという神経質性格は変わらない。不安や恐怖に対しての受け取り方や対応方法が変わってきたということである。だから普段の生活はビクビクハラハラしながら薄氷を踏む思いで生活していることには変わりない。また精神交互作用が打破されても、 「かくあるべし」から対象を見てしまうという思想の矛盾は残る。不安や恐怖にとりつかれて神経症に陥る場合よりも、思想の矛盾で葛藤や悩みを抱えて神経症になる場合のほうが症状としては深刻である。その点を見落としてしまえば、神経症の陶冶とは程遠い。この2つを視野に入れて、生涯学習として実践を積み重ねていく気持ちを持っていれば、軽々しく神経症が治ったといって有頂天になることはないと思う。相手の立場に立って見れるようになる。
2017.12.07
コメント(2)
神経症が治るとは、自分の気になる不安や心配事に鈍感になることではありません。神経症を克服したあかつきには、行動範囲も人間関係も大きく広がってきます。すると、不安や心配事の種はこれまでに比べて益々増加してきます。それらの不安や心配事に対しての対応方法が変化してくるということです。適切に対応することができるようになります。まず、自分の人生が豊かになること、将来に明るい展望が開けるもの、真の意味で人の役に立つことは、不安に対して果敢にその解消のために行動するようになります。それ以外の不安や心配事は、苦しいことであるが、真正面から受け止めて、味わい尽くすようになります。神経症的に陥る不安や心配事は主にこちらのほうです。そして不安や心配事をなくするための不毛な努力をするのではなく、それらを無抵抗に抱えたまま、目の前にある課題に対して、イヤイヤ仕方なしに取り組んでいくことです。神経症が治るということは次の三段階のステップがあります。1、精神交互作用の打破2、思想の矛盾の打破3、「生の欲望」に沿った生き方をめざすまず1から2、2から3へと段階を踏んでステップアップしてゆくことになります。3までいけば完治となります。これは、観念的な理解だけではなく、日常生活の中で行動として実践できるようになることが大切です。1、精神交互作用の打破神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動上の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。これができるようになれば、第一段階の治るということは達成されます。2、思想の矛盾の打破神経症に陥った人は、強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。ですから、神経症の苦しみから逃れるためには、「かくあるべし」的思考をできるだけ小さくして、事実本位、物事本位の生活に修正してゆくことが大切になります。こうした生活態度が身につくと、第二段階の治るということは達成されます。3、「生の欲望」に沿った生き方ができるようになる「かくあるべし」が小さくなり、事実本位、物事本位の生活態度が身についてくると、神経質者は強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、運命を切り開いてゆくようになります。これが第三の最終段階です。この段階では、症状を治すということを通り越して、神経質者としてのよりよい生き方を目指してゆくことになります。ご自分の生活を振り返ってみて現在どのあたりにあると思われますか。一般的には、精神交互作用の悪循環を打破した段階が神経症が治った段階とみなされているように思います。薬物療法、認知行動療法などの精神療法が目指しているのはこの段階です。確かに表面的には症状に振り回された生活が元通りになったように見えます。しかし、強迫神経症の場合が特にそうですが、いつも出現する不安や恐怖に耐えて生活することはとても苦しいことです。もしあなたがそう感じて「生きていくことは苦しい。地獄のようだ」と感じておられるようでしたら、「思想の矛盾の打破」にも取り組んでみてください。これを乗り越えるための精神療法は、森田理論学習が一番だと思っております。「思想の矛盾」を打破して、いつも事実、現実、現状を正確にとらえて、そこを起点にして前向きに生きていけるようになった状態を想像してみてください。苦しみや葛藤が相当数激減するような気がしませんか。その段階で不安を制御機能として働かせながら「生の欲望の発揮」に向かって舵を切りなおすことができたならば、あなたの目の前に広がる視界は今までと全く違ったものとなるはずです。
2017.11.28
コメント(0)
朝日生命保険会社で名社長とうたわれた行方孝吉氏という方がおられた。この方は30代の半ばに書痙という神経症にかかり、苦しみぬいた体験の持ち主であった。その方の手記が残っている。 書痙に苦しむようになったきっかけは、会社で報告書を書こうとすると、なんだか手首の筋がひきつるような感じで、ペン先は自分の意志に反した方向に動き、思うようにしか書けないのである。底冷えのする日のことだったので、 「たぶん、手がかじかんだせいだろう」くらいに思い、その時はそれほど気にも止めなかった。ところが、手が震えて字が書けないことが何日も続いて消えないので、 「どうもこれはおかしい」と少し心配になってきた。こんな時、融通のきく人ならば、あっさりそのことを同僚にも話し、しばらく字を書くことを休んだであろう。ところが私は、何分にも負けず嫌いな性分で、仕事の上では同僚に絶対負けたくないという競争心があるので、自分の恥になるような事を同僚に打ち明けるなど思いもよらなかった。そこで、肘から先の前腕の部分を、机の表面にぴったりとくっつけ、手首が震えないように固定しながら書いていた。腕を硬直させて、不自然な姿勢で書くのだから、今までの字体とはまるで違った妙な字体になってしまう。しかし、こんな不自然なことしていると、右腕全体が痛んでくるし、字を書く速度ものろくなり、それに手の方ばかり注意を取られるので、書こうと思う事柄も順序立てて考えることができない。ついに、いても立っても居られないような焦燥感に襲われるようになった。しまいには、私の注意力のすべてが、手の事だけにとらわれてしまい、肝心の書こうとする内容については、ほほとんど頭が働かないようになった。会社での仕事が終わると、真っ直ぐに家に帰って痛む腕にサロメチールを塗ったり、家内に揉ませたりして、なんとかしのいでいた。そんな状態で数ヶ月間経過した。ある時、会社の新築落成記念式典が行われることになった。私はその時準備委員を命ぜられた。仕事というのは、生命保険に関する展覧会の準備をすることだった。毎日、各種の図表や統計表、ポスター、写真を適当に揃えて、勝手にピンでとめていた。3日ばかり続けてそれをやったところ、右の親指の先はすっかり痺れてしまった。記念式典が終わり、通常の業務に戻った。すると右手がめちゃめちゃに震えてどうすることもできない。ただの1字も書けない。 「大変なことになった」と思い、私の心は恐怖で凍ってしまった。毎日机に向かって恥をかくことを職務としているものが、字が書けなくなったらおしまいである。上司や同僚には隠して、ある有名な医者の診察を受けた。その医者は、 「これは書痙という病気だが、なかなか治りにくい。しかし、生命に関わるものではないから、気を楽に持って、少し静養するとよい」と言われた。「なかなか治りにくい病気だ」と聞いて、私は地の底に引きずりこまれるような絶望感に襲われた。ドクターショッピングを繰り返すうちに、森田療法に巡り会った。森田先生は、 「手のことなんかほったらかしにして、そのまま会社で一生懸命働け」ということであった。私は、当時としてはかなり高い診察料を払っていたので、特別の理学的療法か何かで治して下さるとばかり思っていたので、すっかりアテが外れた。それからもあちこちでドクターショッピングを繰り返したが、少しも良くならないので、万作つき果てて入院森田療法に頼ることにした。しかし、掃除や飯炊きをさせられるばかりで症状が治る見込みが立たないので、2か月で森田先生に許可も得ずに治らないままに退院した。しかし、家に帰ってみると書痙はどんどん悪化した。そこで、また森田療法に頼ることにした。今度は宇佐先生の京都の三聖病院に入院した。そこで入院治療を続けるうちに森田療法の言わんとしていることがよく分かるようになった。そこで入院しているうちに、私も往生したとゆうか、諦めたというか、ついに会社の仕事に精進することが1番の治療法であるということを悟った。そして、あらゆる不快感を耐え忍び、勇気を出して会社に出勤した。その時の決意はこうである。字を書けば、支離滅裂で、小学生にも劣るかもしれないが、字を書くばかりが、仕事ではない。字を書く以外の仕事で、人並み以上に働いてみようと思った。その後は、字を書く分以外の仕事で弱点を補うことにした。今日でも字を書けば、格好良く書こうという意に反して、ひどく金釘流の悪筆となる。それも仕方がないと思っている。結局書痙そのものは治すことはできなかった。しかし書痙にとらわれて他のことが何もできなくなるという神経症は治すことができた。退院した直後は、出世コースから外れ、健康増進課に配属された。それでもめげることがなく、一生懸命に業務に励んで成果を上げて、ついに社長にまで昇りつめることができたと言われている。もしやあの時、私がいつまでも主観的な気分に支配されて、会社に出ることをしり込みしていたら、今日の自分はどうなっていたであろうか。おそらく、生ける屍となって、 一族の持て余し者になっていたであろうと思う。(慎重で大胆な生き方 水谷啓二 白揚社 132ページより引用)
2017.10.22
コメント(0)
今月号の生活の発見誌に、次のような文章があった。実は、 「症状」が良くなるよりも、 「行動」が変わった人の方が治っていくんですね。「症状だけ良くなった」という人は、後々の治りがよくない。こういう人はまた戻って(再入院)来たりするんですね。そのことが分かったんですね。(生活の発見誌 9月号 51頁より引用)神経症の症状だけ良くなるというケースはどんな場合が考えられるか。強迫神経症で言えば、強迫行為がなくなる、人の思惑があまり気にならなくなるということか。あるいは、不安発作が起こらなくなる。などなど。神経症だと言って精神科にかかれば、抗不安薬などの薬を処方される。あるいは様々な精神療法を行う。代表的なところでは認知行動療法であろう。薬物療法や認知行動療法の暴露療法は、対症療法的に不安を軽減することを目的としている。まったく仕事や家事に手がつけられなかった人が、不安が和らぐことによって、手をつけられるようになる。それが、ここで言われている症状だけが良くなったということではあるまいか。これは表面に現れた症状だけを見て、応急処置をしているようなものだ。だから容易に再発をする。また、神経質な人によく見られる抑うつ感情はそのまま継続するので、生きていくことが苦しいのは全く変わらない。だから神経症の治療を対症療法だけに限ってしまうということは大いに問題があるのだ。それらは足の骨を骨折した時の松葉杖の役割は果たしてくれる。全部否定するものではないが不十分だといいたい。根本的には森田療法の学習と実践によって完全に神経症から回復することができる。それは森田療法が神経症になぜ陥ったのか、そしてそこから回復するための理論的な裏付けを提供してくれているからである。そこには多くの認識の誤りについて、気が付くことができる。それは神経症が治るだけではなく、神経質性格の持ち主としてのこれから先の生き方が示されている。そこらあたりの学習をしていかないと神経症を克服することは、どだい不可能であると言わざるを得ない。次に行動が変わった人が治っていくということ考えてみたい。不安、恐怖、不快感、違和感などで押しつぶされそうになりながらも、なんとか仕事や日常生活を維持していく。つまり、不安を抱えながら、目の前の仕事や日常茶飯事に取り組んでいく。それができれば、まず第一段階の症状の克服となる。初めて森田理論に取り組む人は、そこに焦点を当てて実践して行けばよいのである。しかし、これは、言うは易く行うは難しである。今までの生活態度から、一変するのであるから、なかなか容易ではない。集談会では、実践課題を立てて実行し、それを来月の集談会でみんなの前で発表する。そして集まった人から感想やアドバイスをもらう。自分1人の力で乗り越えようとするのではなく、同じような症状を持った人たちが協力し合いながら、取り組んでいくのである。それが、自分が変わっていくきっかけとなるのである。集談会にはいろんな役割分担がある。それらを引き受けて取り組むと、自分の症状ばかりに向いていた注意や意識が次第に外向きに変わっていく。次第に弾みがついて行動の幅が広がってくると、神経症のつらい気持ちは和らいでくるはずだ。ただ、そこで治ったと思って集談会から離れていく人が多いが、これは治るという事を10段階で考えると3から4のところだ。この段階でも会社などでは打って変わって、顕著な活躍をすることはできる。しかし、心の中ではいつも症状のことが気になり、症状に押しつぶされそうになり、生きた心地がしないのである。生きることが苦しいのは以前と変わらない。この原因として、森田理論では、認識の誤りが解消されていないからだという。特に、 「かくあるべし」という理想主義、完全主義から現実、自分、他人を見ると不十分なことばかりである。現実と理想のギャップに苦しんで、自ら葛藤や悩みを作り出しているのである。森田理論で言うところの思想の矛盾を解決しないと神経症は完全には治らない。この部分が残りの6から7の部分だ。簡単に言ってしまえば、普通の人間は、現実でのたうちまわっている自分と、それを雲の上から見おろして非難、否定している自分がいる。つまり1人の人間の中に2人の人間が住みついているようなものだ。雲の上の人間が、地上に降りてきて現実でのたうちまわっている自分によりそう状態になれば葛藤や悩みがなくなる。森田理論によって行動力ができるようになった人は、ぜひその段階にまで進んでもらいたいものである。すると、ほぼ完全に神経症を克服できる。克服できた暁には、不安を活用しながら、思う存分生の欲望の発揮に邁進すれば、素晴らしい人生が約束されているのである。
2017.09.28
コメント(0)
森田先生は心臓神経症の患者に対して次のように治療された。今夜寝るときに、発作が最も起こりやすいという横臤位をとり、自ら進んで、その発作を起こし、しかもその位置のままに苦痛を忍耐し、かつその発作の起こり方から、全経過を熱心に詳細に観察するようにしてください。そうすれば私は、あなたの体験によって、将来決して発作の起こらない方法をお教えする。もし今夜このために、どんなに激しい苦痛があって、徹夜するようなことがあったとしても、長い年数の苦痛と不安と取り去ることができれば、 十分忍耐する価値があることである。患者さんは、 「その夜教えられたように実行したけれども、自分で発作を起こすことができないで、 5分間ほどもたたないうちに眠りに入り、翌朝まで知らなかった」ということである。森田先生は、あなたはそのとき、一晩中発作の苦痛を覚悟したのである。恐怖そのものの内に突入したのである。この時は、発作が、あるいは起こりはしないかという疑念もなければ、また発作から逃れようとする卑怯な心があるのでもない。これこそ発作が起こって来なかった理由である。今までは知らず知らずの間に、発作の襲来を予期してこれを迎え、一方にはこれから逃れようとして心に迷いが生じ、いたずらに苦痛不安を増大させたのである。 (神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 129ページより引用)同書のあとがきで、河合博医師がわかりやすく解説をしておられる。この治験例は、できるだけ発作を起こすように努力してみよということである。症状は神経質患者の意識の中心にあり、これを忘れよう、意識すまいと努力する。すなわち意識の中心より周囲に押しやろうと押し込めようとする。そうすればするほど、それは意識の中心を占領する。意識しまいとすればするほど、ますます、 1点に凝集強化される。これが神経質の症状である。しかし、意識は、絶えざる流動・変化である。神経質症状も、環境の中で力動的に変化消長する。そして症状が意識の中心より、やや遠ざかった時に、意識的に無理にこれを中心に持ってくるように完全に努力させる。発作を起こすようにさせる。これは平素の患者の努力とは反対の心の働きをさせるのである。すると、ここに意外なことには、中心に持っていこうとする努力とは逆に、周囲に退くのである。(同書 267ページより引用)心臓神経症の患者さんは、発作が起きると、いつ突然死するかもわからないので、いつもそのことに恐怖している。つまり、頭の中は全神経を1日中心臓発作のことで占められている。森田先生は器質的な疾患がないという事を確認した上で、森田療法が有効であると判断されたのである。認知行動療法では、不安を10段階ぐらいな階層に分けて、簡単なことから恐怖突入をさせる。次第に慣れさせて、段階を上げて、更に恐怖突入をさせる。次第に不安が遠のいて、日常生活はなんとかできるようになる。これに対して森田療法では、患者さんは死にたくないという強い欲望を持っている。強い欲望の裏には強い不安が沸き起こってくるのが当たり前のことである。だから、決して不安を排除しようとしてはならないという。そうは言っても、この方の場合は、不安を取り去ることにばかり神経が集中している。不安を取り去るという意識をなくするためには、逆説的に不安を受け入れて、その不安の行き着く先を確認させようとされたのである。症状にとらわれてなすすべがない思考パターンから抜け出すための究極の選択である。そうすることによって、心臓発作が起きなかったということを体験させることが治療につながるのである。これは、不眠で悩む患者さんに対しても有効な治療法であったという。
2017.09.23
コメント(0)
私の知り合いにかって胃腸神経症で苦しんだ人がいる。その方は、車で会社に通っているが、会社が近づいてくると急にお腹が痛くなるという。会社着くやいなや、毎日トイレに駆け込むのが習慣になっていた。いわゆる神経性下痢である。同僚たちは、事情が分からないので、用便は家で済ませてくるようにといつも嫌味を言っていた。もともと人間は毒物を体内に入れると、吐き気をもよおしたり、下痢症状を起こして毒物を早急に体外に排出しようとする。その方は朝食で賞味期限を過ぎたものなどは決して食べないように気を付けていた。また病院で、定期的に大腸のポリープの検査もおこなっている。そのたびに何ら問題はないと言われていた。それなのに毎朝下痢症状が現れるのはどういうことなのか。納得できないので大学病院でも調べてもらった。その結果精神的なストレスが、自律神経に影響を与えているのではないかということだった。その方は土木建設の会社に勤めておられる。主な仕事は安全管理の仕事である。労災事故などが起きると、担当部長としての自分が対応することになっていた。労働基準局との折衝や工事現場における近隣からのクレームに対しても、その方が対応しておられる。会社での安全管理教育もその方の担当である。精神的にはきつい仕事だといわれる。近隣からのクレームではヤクザなどが絡んで、とても一筋縄ではいかないことが多い。無理難題に対して相手を怒らせないように、穏便に解決しなければならない。そんな時は勤務時間はあってないようなものだ。夜中に出かけていかなければならないこともある。時間もかかるし、費用もかかる。集談会に来られるくらいだから、神経質性格の人だ。その性格のため取り越し苦労が多く、目の前の解決しなければならない問題に対して、どうしても精神的に自己内省的になって自分を責めてしまう。胃腸神経症といえば、元メンタルヘルス岡本記念財団の理事長さんもそうだった。岡本さんという理事長さんは、終戦後、しばらくシベリアに抑留されていた。その時の食事は量も少なく、本当に劣悪なものであったという。その食べ物をめぐって、捕虜の人同士の争いもあったようだ。岡本さんはその食事をとるたびに胃がキリキリと痛んでたという。次第に食べることが恐ろしくなった。それが胃腸神経症に陥った原因だった。その後、日本でスーパーニチイの副社長になられた。取締役営業本部長の時、大変な胃腸神経症を経験されている。その時は、いつも抑留中の経験がよみがえってきたそうだ。その恐怖のために全く食事は取れなくなったのである。体が食べ物を受け付けないのだ。そのため、体重が激減し、 30キロ台にまで落ちたという。もちろん著名な胃腸の専門医に数多く見てもらったが、改善には至らなかった。そんな折、仕事上の知り合いから、胃腸神経症の原因は精神的なものだから、森田療法が合うのではないかと紹介された。岡本さんはすぐさま森田療法に取り組まれた。その成果は3ヶ月後にすぐ現れたという。次第にに体重が回復してきた。岡本さんは、それまで食事をとると必ず胃腸がおかしくなるという観念で頭の中ががんじがらめになっていた。その先入観や決めつけが自分を窮地に追い込んでいったのだ。森田療法によって、少しずつ食べ物の中に流し込むことを実践してすることで、短期間のうちに胃腸神経症を克服された。神経症を克服されたとき、こんな優れた森田療法が、どうして日本で埋もれたままになっているのか。一念発起して森田療法普及のための財団を造られたのである。今森田療法が中国で盛んに取り入れられている。その端緒を切り開らかれたのは、まさに岡本さんの力である。さて、私の知り合いの人であるが、この方も森田療法によって胃腸神経症を克服された。集談会における集団森田理論学習の成果が出たのである。特に森田理論の学習の中で、 「ものそのものになりきる」と「物の性を尽くす」を座右の銘として、生活の中に活用するという方法によって、緊張した場面で胃腸の調子が途端に悪くなるという症状が出なくなったのである。注目すべき点は、胃腸神経症を正面から向き合って治癒されたという事ではない。それではかえって胃腸神経症を乗り越えることは不可能だったと思う。症状はどうすることもできないと観念して、仕事や日常茶飯事に丁寧に取り組むようにされたのだ。今やそのつらい経験を基にして、神経症に陥って苦しんでおられる人たちを支援しておられる。神経質性格を自覚し、森田理論によって自分の進むべき道を発見されたことが大きく寄与していると思うのである。
2017.09.06
コメント(0)
精神科医の阿部亨先生のDVDの中から、これはと思ったこと2つほど紹介したい。1つ目は、神経質者に、 「今抱えている不安を100だとすると、どの程度まで下げたいのか」と質問すると、限りなくゼロに近づくまでなくしたいという。不安が全て片付かないと承知しないのである。普通一般の人に同じような質問をすると、 70とか、 60位に下がってくれば十分だという。精神的な苦痛が多少なりとも少なくなれば、その分目の前の仕事や日常茶飯事が何とかこなせるようになると考えている。これなら精神科医で十分対応できる。しかし不安を100%なくしてくれと言われても、対応できない。普通一般の人は、不安を抱えたまま、仕事や日常茶飯事をこなしているといえよう。目の前に異なる2つの問題や課題を持ちながら、どうにか普通にこなしているのである。普通の人はそういうことができる能力を持っているといえるかもしれない。神経質者の場合は、今抱えている不安や恐怖が全てなくならないと落ち着かない。また不安を抱えたまま、同時平行的に目の前の仕事や家事、育児をうまくこなせないと考えている。仮に手をつけたとしても、十分に満足できる成果が上がらないと考えている。やることなすことがデタラメになると考えている。100%の成果が上がらないようなことが最初から予想される場合は、手を付けない方がましであると考えているのだ。その結果、会社を休んでしまったり、食事の準備を放棄して、出来合いの惣菜で済ませたりする。本来、自分ができる仕事や家事なども、 他人に肩代わりしてもらって、自分は今抱えている不安をなんとかしようとしているのだ。 1つのことに集中しているのだ。しかしなんとかしようとすればするほど深みにはまってどんどん増悪して、抜け出すことが困難になるのである。そういう意味では、普通一般の人に学び、不安を抱えながらも、目の前の仕事や家事がこなせるような能力を身につけることが大事になってくる。そのためには、森田理論学習が欠かせないと思う。次に阿部先生は、神経症が治るということについて、次のように指摘されている。神経症が治るということについて、どうも誤解があるようだ。小さなことが気になり、いつもビクビクしながら生活している性格を変えて、心の中に小さいことを気にしないようなおおらかな別の性格を持った人間に変身することを目指している節がある。このような考え方は間違いなんですね。心の内面が変わってきたとか、よくなってきたとかと言う事ではないのです。そういう人は、気分を測定しているのです。今までは嫌なことがあるとすぐに憂鬱になっていた。神経症を克服すると、嫌なことがあっても、あっけらかんと受け止めることができるようになり、落ち込む事はなくなるはずだと考えているのですね。神経質者がこのようなことを求めて、いくら森田理論を学習したとしても無駄な努力に終わってしまいます。そもそも治るという事は、内面が良くなったとかというのではなく、生活態度の改善が図られたということをいうのです。それはその人を第三者から客観的に見ているとよくわかります。神経症で悩んでいた頃に比べて、仕事に一生懸命取り組むようになった。勉強もそうだ。家事や育児もそうだ。好奇心を生かしていろんなことに挑戦するようになった。課題や目標を持って少々の困難を乗り越えて頑張れるようになった。心の中では様々なことに悩み、不安や恐怖に押しつぶされるようなことが度々起こってくるが、それらを持ちながらも生活面では、以前と比べて少しずつだがかなり改善できてきた。そういう変化が見られるようになったとき、その人は神経症を克服したといえるのである。決して精神的な苦悩や葛藤がなくなったということではありません。神経症を克服した姿というのを間違えないでいただきたいのです。もう一度言いますと、内面が良くなったと言うのは、間違いであり、それをもって神経症を克服したということは考えられないことなのです。あくまでも普段の生活態度の改善が中心になるのです。(森田療法ビデオ全集 第4巻 悩める人の生きるヒント 阿部亨 参照)
2017.09.01
コメント(0)
森田先生の言葉です。心機一転の普通の場合は、心の内向的が外向的に一転することかと思う。例えば自分が、いままで、足元ばかりを見、自分の勇気の有無ばかりを考えて、どうしても渡ることのできなかった丸木橋を、思いっきり捨て身になった拍子に、前の方ばかりを見つめて、すらすらと渡り得たときのようなものである。(森田全集第5巻 229ページより引用)これは私も経験がある。小さい時に川をせき止めたところに丸木橋があった。私は川に落ちるのが恐ろしくて、どうしても渡ることができなかった。友達は難なく渡ることができていた。一回渡ることができた人は、何度も行ったり来たりできるようになった。最初は友達は恐ろしくないのだろうかと思った。実際には、友達も恐ろしいと言っていた。それでも友達は落ちるかもしれないというスリルがあるのが面白いのだとも言っていた。またできるようになったことで、ますます自信がついたようだ。いったん渡り始めると、途中もたもたしないで、両手を広げてバランスをとりながらスタスタと歩いて行った。それをまねているうちに私もなんとか渡ることができるようになった。その時の心境を思い出してみると、落ちたらどうしようという恐怖心はあるが、むしろ恐怖心によって適度な緊張感が生まれていたようだ。緊張感があると真剣になる。それ以上に大事な事は、渡りきりたいという目標を強く持っていたことだ。失敗したらどうしようなどという気持ちよりも、友達ができるのだから自分もできるようになりたいという強い目標を持てた。自分の心が内向きになることが全くなく、渡りきるという目標に向かって外向きになっていたということだと思う。欲望が強くなっていった。神経症で苦しんでいる人は、気持ちの方向が自分の身体や心に内向化している。森田先生は心の内向化が神経症を発症の原因となっている。神経症が治るにあたっては、普段の生活において、内向化しやすい性格傾向を、外向的な方向に転換していく必要がある。その精神的なからくりを、ある経験を体験することによってたちどころにのうちに会得するのが心機一転と言われているのだと思う。心機一転の話は、薪割りの話、ボール投げの話でも同じことだ。薪割りでは、精神状態が薪を割っている自分の仕草やその姿を見ている周囲の人の思惑を気にしていると、なかなか正確に薪に当たらない。それらをすっかり横に置いて、薪の一点に神経を集中させた方がうまくいく。ある入院先の人が、そのことに気づき、急いで部屋に戻って、その時の心境を日記に書きとめたという。その人は、自分が長く神経症で悩んできたのは、心の使い方が間違っていたことに気が付いたのである。このように心機一転によって神経症克服のヒントが得られたという事は、大変羨ましい限りである。キャッチボールをする場合でも、心の使い手としては相手のグローブや体に向かって集中していないといけない。投げる時の動作やうまく投げられるだろうかという不安な心に向かって言っては、決してコントロールよく投げることはできなくなってしまう。私はキャッチボールからヒントを得て、心の使い方としては、内向的な方面ばかりではなく、それ以上に外向的な方面に移動していかないとうまくはいかないと気がついた。神経症の克服にはそれを応用すればよいのだと気付いたとすると、これも立派な心機一転となる。対人恐怖症や強迫神経症の場合は、心機一転というのはなかなか難しいように思う。私のような場合は、玉ねぎの薄皮をはぐように時間をかけて少しずつ改善して行く方法が性に合っていると思う。1年経って何か少しでも変わっている。少しずつ症状に振り回されるといった生活が改善できている。そういう経験を積み重ねることで、少しずつではあるが着実に神経症からの回復に向かって動き出していくのだと思う。神経症を長くかけて克服した人は再発とは無縁である。
2017.08.31
コメント(0)
森田先生は、 「神経症から解放されるための最も大事な条件は、とらわれから離れることである」と言われている。そのためにはどうすればよいのか。 1つには、常に目的物から目を離さないことである。もう一つは、自分の心がとらわれから離れられないときには、そのままにとらわれていることも、同時にとらわれから離れるところの1つの方法である。 (森田全集第5巻 244 ページ)この言葉は、もう少し説明しないとわかりにくい部分だと思う。まず、とらわれたときは、その不快感や恐怖などに対して、やりくりをしたり、逃げ出してはならない。不快感や恐怖をそのまま味わいつくすという態度になればよいのだ。苦しければ苦しいままに、恥ずかしければ恥ずかしいままに、イライラすればイライラするままに、沸き起こってきた感情をそのまま素直に感じていればよい。単純で簡単なことのように思えるが、これを実践すること大変に難しい。一般的には不十分な人が多い。仮に実践することができれば、神経症のアリ地獄の底に陥ることはない。普通の人は、不安や恐怖、不快感や違和感などに対して、その感情を十分に味わう前に、すぐにその感情と対決して取り除こうとしている。あるいは、目をそむけてその場からすぐに逃げようと考える。そうすれば、我々にもともと備わっていた自己内省力がマイナスに働いてくる。注意や意識が身体の震えなどのちょっとした心身の変化に向けられくる。また、自分の性格やふがいなさに向けられていく。森田理論では、注意や意識をとらわれに向けると、注意と感覚の相互作用が始まる。 一旦始まった相互作用は、坂道を転げ落ちる雪だるまのように加速がついてどんどん増悪していく。だから一旦始まった。不快感や恐怖などに対しては、とことんまで味わい尽くしてやろうという姿勢をとることが大変重要なのである。最悪なパターンは、十分に味わう過程を無視して、すぐに対策を立ててしまうことである。これが森田先生が言われている、 「とらわれたときはそのままにとらわれていること」という意味だと思う。しかし、とらわれた時にとらわれたままにしておくだけでは、神経症からの解放という意味では不十分である。一方で森田先生は、とらわれたときは決して目的物を見失ってはならないと言われている。これは、目の前にある仕事や家事や育児を簡単に放棄してはならないという事である。あるいは、問題点や課題、夢や目標を見失ってはならないという事である。森田理論ではこれらのことを幅広く、生の欲望の発揮といっている。私たちは、不安、恐怖、不快感、違和感などに襲われると、そちらのほうにばかり注意を集中させて、目的物はすぐに蚊帳の外になってしまう。しまいにはすっかり忘れてしまって、自分の気になる症状の解決に向かって全エネルギーを集中させてしまう。つまり不安と欲望のバランスが崩れ去っているのだ。症状に陥った時は、森田先生の言われていることとは反対のことばかり行っている。とらわれた時に、そのとらわれをなくそうとしたり逃げたりしている。そして目の前の仕事や日常茶飯事は無視している。こんなに苦しいのだから、他人は私に同情して、大目に見てくれるべきだと思っている。東京から新幹線に乗って大阪へ向かうはずのところを、列車を間違えて、仙台方面に向かっているようなものだ。いつまでたっても神経症から解放されるときはやってこないだろう。神経症から解放されるということは、このように口で言ってしまえば簡単なことだ。しかし実行は難しいことを肝に銘じて、森田理論の学習と実行で、ぜひ自分のものにしてもらいたいものである。
2017.08.29
コメント(2)
私は具体的な話やエピソードの中から、森田理論を膨らませていくことが楽しみである。今月号の生活の発見誌に、ある雷恐怖の男の話があった。大変興味深く読ませていただいた。この人は雷に異常なほどの恐怖心を持っており、山で木を切っているときに雷が鳴れば大変驚愕して、仕事道具のおのやのこぎりを放り出して家まで逃げかえるほどであった。家にいる時に雷が鳴ると怯えて押し入れの中に入り、小さく縮こまって雷が治まるまで押し入れから出られないような有様で、妻もそういう夫を見てあきれるばかりであった。この男性は、自分でもこのような状態を非常に情けなく思って、何とかしてこの雷恐怖を治そうとして村の禅寺に行って座禅を組んだり、それに関する本を探し回った。そんな中で森田療法と巡り会うことができた。しかし、本を読んだだけでは、雷が恐ろしいという恐怖感は相変わらずで、改善の方法が見つからなかった。その後は森田先生の手紙相談を受けていた。しかしその後、この方に転機が訪れた。あることをきっかけにして雷恐怖を乗り越えたのである。8月末の夜のことである。夜半には強烈な稲妻の閃光とゴロゴロと天地を揺るがすような大きな音とともに激しい雨が降り出した。そして時折どこかに落雷したようなドカーンという凄まじい音が聞こえてくる。この男性は全く生きた心地がしなくなり、いっそう身を縮めて「くわばら、くわばら」と念仏を唱えるようにつぶやき、脂汗を垂らしながらひたすら雷が過ぎ去るのを待っていた。そういう状況で布団をかぶりながらも、ふと気がつくと、妻が「うーん、うーん」という苦しそうな声を上げている。何だか様子がおかしい。慌てて「どうしたんだ」と声をかけても返事はなく、苦しそうに喚いているだけである。額を手で触るとものすごく熱く、高熱が出ているようである。 「これは放っておけない、一刻も早く医者に見せなければ」と瞬間的に思った。森田でいう初一念である。この男性は、雷恐怖なので外に出ることができない。頭が真っ白になった。その時森田先生の「必要ならどんなに雷が恐ろしくてもやらなければならない」という手紙相談の言葉を思い出した。ここで医者を呼びに行かないで、妻に万が一のことがあれば、一生後悔することになるし、何よりも大事な妻を失うことになりかねない。この男性は雷が鳴る真っ暗などしゃ降りの雨の中を、カッパを着て、懐中電灯だけを持って飛び出した。往診した医者は、 「もう少し遅かったら危なかった」と言い残して帰っていった。すんでの所で妻の命が助かったのである。この体験を森田先生に伝えた。森田先生から次のような返事が来た。「貴重な体験をした。何よりも奥さんが助かってよかった。あなたは座禅をしているようだが、このような場合、禅では次に同じようなことが起こったときには恐ろしくないよ、と教えるが、自分の療法では次に同じことが起きたらやっぱり恐ろしいよ、と教える、その違いを考えてみるように」ということであった。この男性は世間で一般的に言われている禅は心の安らぎを求めることもありそうだが、森田は心の安らぎなどは微塵も求めず、必要なことに焦点を合わせて実行していくことの大切さを説いているのだと思った。(生活の発見誌8月号、 16頁より引用、生活の発見誌は会員になると送られてきます)この文章を読んで、私が感じたこと書いてみたい。この男性は、書籍によって森田理論を学習し、森田先生の通信療法を受けていた。それでも、自分の雷恐怖症は治すことができなかった。それがだだ一度の心機一転の体験によって雷恐怖症を治すことができた。切羽詰まった状況に追い込まれ、背水の陣で事に臨んだのである。この体験がよかったのだ。不安神経症等の場合は、こういう話をよく聞く。乗り物恐怖の人が、止むに已まれぬ事情により、思い切って飛行機に乗ってみた。その体験が心機一転になり、乗り物恐怖症を乗り越えるきっかけとなったと言うような話である。森田理論でも、数は多くはないが、この心機一転の体験により症状を乗り越えたという人は存在する。私の身近なところでは、胃腸神経症を乗り越えられたメンタルヘルス岡本記念財団の元理事長の岡本常男氏などはまさしくそうであった。心機一転は野球で言えば逆転サヨナラホームランのようなものである。私は対人恐怖症なのでこういう経験はない。私の場合はそういうタイプの治り方ではうまくいかないと思う。野球で言えば、きちんとバントをする。フォアボールを選ぶ。大きいのを狙わずに小さなヒットを積み重ねるようなタイプだと思う。その積み重ねが、イチロー選手のような偉大な記録を作り上げるのだと思う。私のようなタイプの人は、正統派の森田理論学習を続けて、生活面では森田の基本を忠実に守り、ある程度の時間をかけて、神経症克服し、人生観を確立していくものだと思っている。拙速に結果を求めてはかえって失敗する。年の初めに、過去を振り返って眺めたときに、その変身ぶりに感慨深さを覚えるというようなタイプではないかと思う。神経症の治り方には、心機一転もあれば、玉ねぎの薄皮をはがすように徐々に治っていく道もあるのである。
2017.08.28
コメント(0)
森田先生は強迫観念の治し方について分かりやすく説明されている。強迫観念とは、身体の病根や死を直接に恐怖するのではなく、自分で「つまらぬ事を気にし余計なことを心配する」のを、自ら、あるいは自分の気質の病的異常かと思い違えて、これを排除し、気にすることの苦痛を逃れるとするためにかえってますますそれに執着を深くして逃れることのできなくなる苦悩が、すなわちそれであります。すなわち、これは誰にでも普通に起こる感じや取り越し苦労を強いて感じまい思うまいとする不可能の努力を重ねるものですから、ますます苦しくなるのは当然のことでも、ただ苦しいものはそのまま苦しみ、恐ろしいものはそのまま恐れると言う風であれば、何も強迫観念にはならないで、心の自然の絶えざる変化のうちにおのずから気が紛れて忘れるようになるべきはずであります。発作性神経症でも同様です。苦しいことは苦しい、恐ろしい事は恐ろしい、ただ一途にそのことになりきりさえすればよろしいのです。いたずらに発作を起こさないようにさまざまの工夫や、心の態度をとり、あるいはスースーハーハーやって気を楽にしたり、心を紛らせたりしようとすれば、するほど、その執着が深くなるのであります。(森田全集第4巻 白揚社 562ページより引用)結局、あなた方はいろいろに心に思い出すことは、いかに苦しくともそのままにして、自分のなすべき義務をなし、またしたいことを思い切りやっていくよりほかありません。もし、あなたがたが断然そうすることができれば、あなたがたの強迫観念も、霧の晴れるように、自分でも知らぬ間に心が朗らかになるのです。その他に、あなた方はいかなる方法や治療法を焦っても、かえってますます悪くなるばかりで、決してよくなることはありません。 (同書 566ページより引用)気になることは大いに気にして、イヤなことは大いに気にしてもよい。決してその感情をなくそうとやりくりしてはならない。また安易に逃げ出すことを考えてはならない。できるだけその感じを十分に味わうようにすること。不快な感情は味わうだけにするのだ。味わい方は、抹茶や地ビール、日本酒を味わうように、ゆっくりと堪能するまで味わうことだ。神経質者の場合は、美味しい料理を堪能することなく、ただ食べているだけという人が多い。それなのに、料理評論家のように辛辣な論評を加えようとしているように思える。逃げだすことはやりくりするよりも始末が悪い。注意や意識が内省的に傾き、自分を攻撃するようになるからである。自分自身を否定することが一番不幸である。自分がどんなに問題を抱えていても、自分は自分にとって最大の味方でなければならない。でもそれだけでは感情は流れない。目の前にある仕事や家事に手を付ける。最初はイヤイヤ仕方なしでもよい。そのうちにきっと弾みがついてくるはずだ。さらに好奇心を活かして、自分の興味のあることには積極的に手を出してみる。こういう気持ちで生活できるようになると、精神的な病気にかかることなく健康に暮らしていくことができる。さて、森田全集第4巻は外来指導、日記指導、通信療法の記録である。森田全集第5巻と同様、実際森田先生の個人相談の記録であるのでとても役に立つ。現在森田療法家には日記指導を取り入れておられる人もいる。顕著な効果をあげる場合があると聞いている。あるいは精神科医によるスカイプを利用した面談も可能となっている。集談会でもできないことはないが、基本的に余暇を利用したボランティア活動なので、個別集談会では難しい。もし4巻を読みたい人のためにワンポイントがある。5巻の読み方と同じことだ。この本は、 「現代に生きる森田正馬のことば」 (白揚社 生活の発見会編)に多数取り上げられているので、その部分をあらかじめマーカーなどで印を付けたり、ポイントの項目を記入しておくととても読みやすくなる。
2017.08.15
コメント(0)
全190件 (190件中 51-100件目)