JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.07.06
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カテゴリ: JINさんの農園
大庭城址公園管理事務所 」まで戻り、 館内の展示品を観る

自宅近場の「大庭城址公園」訪問(2009/9/27) | Dakusai's Blog

独り占めの展示コーナー入口。



藤沢市 西部開発事業区域現況模型
縮尺 水平=1:3000
   垂直=1:2000」 



開発前の大庭地区
1970(昭和45)年頃
縮尺 水平=1:3000




移動して。



「大庭城址」に近づいて。 



廻り込んで。
青緑の部分は沼や水田地帯だったのであろうか!?



扇谷上杉氏の家紋
竹に二羽飛び雀

扇谷上杉氏は藤原北家勧修寺流藤原氏の流れで、鎌倉の扇谷に住したことから扇谷上杉氏と
呼ばれるようになった。勧修寺流藤原重房は、丹波国何鹿郡上杉庄を領し、そこを名字の地
とした。この重房が鎌倉幕府六代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って
鎌倉に下向したのが上杉氏の始まりである。その子頼重の女清子が足利貞氏に嫁して、
尊氏・直義を生んだことで、足利氏と密接な関係を持つようになった。
頼重には重顕・顕成・憲房らの子がいたが、長子重顕は「元弘の動乱(1333)」に
尊氏・直義兄弟に従って活躍した。重顕の家督を継いだ朝定は、室町幕府の引付頭人として
主に京都にあった。嫡子朝顕も京都八条に住み、幕府に仕えてその子孫は八条上杉氏といわれた。
朝定の養子の顕定は、鎌倉扇谷に住んで鎌倉公方に仕え、扇谷上杉氏の祖となったのである
そして大庭城(神奈川県藤沢市)は、15世紀末に扇谷上杉氏によって築かれた中世の山城
(市指定史跡)。相模国東部における上杉氏の重要な拠点でしたが、1512年に北条早雲
(伊勢宗瑞)によって攻め落とされました。歴史の概要築城・改修:文明年間
(1469〜1487年)に扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が改修し、扇谷上杉朝昌(ともまさ)
らが在城したとされています。落城とその後:永正9年(1512年)、扇谷上杉氏の
城主・朝良の時代に北条早雲の攻撃を受け落城しました。その後、北条氏によって
利用・改修されましたが、玉縄城(鎌倉市)の築城に伴い重要性が薄れ廃城となりました と。



1.はじめに
大庭城跡は、舌状台地の先端部に立地しており、東側には引地川、西側には小糸川が流れる
天然の要害です。現在でも公園内には、往事を偲ばせる土塁や堀の痕跡を目にすることができます。
大庭城の知名度は、残念ながら高いものとは言えませんが、近年の研究で関東でも数少ない、
小田原北条氏以前の姿を残した非常に重要なお城であることが分かってきました。
ここでは、これまでに分かっている大庭城について解説したいと思います。



子供用パネル
ようこそ大庭城へ!
今日は大庭城址公園にあそびにきてくれて、ありがとうございます!
ここには昔「大庭城」というお城がありました。
ほかにも色々な時代の遺跡が、この公園ではみつかっています。
いったい、ここはどのような場所だったのでしょうか?下の2人(?)がご案内します。
(イラスト部分)
上杉朝昌(うえすぎともまさ)
「いっしょに大庭城の歴史をべんきょうしようぞ♪」
享徳3年(1455年)から勃発した享徳の乱の初期には相国寺鹿苑院の喝食だったが、
後に何らかの理由で還俗して扇谷上杉氏の領国支配の一翼を担い、相模七沢城に入った。
七沢城は相模中郡の、また後年守備した大庭城は相模東郡の要衝であることから、
扇谷上杉氏の両郡支配を実質的に担う立場にあったと考えられる。
すぱ郎
「よろしくね~」」 



大庭城址公園の空撮写真
中央から下部が現在判明している「大庭城址」。



大庭城および扇谷上杉氏関連略年表
年号 //////// 西暦 /////////////////////// 主な出来事
享徳元年 ///// 1452 ////// この頃までに、扇谷上杉氏が大庭御厨を所領とする。
寛正六年 ///// 1465 ////// 伊勢神宮、大庭御厨からの年貢未進を扇谷上杉氏の家臣、
////////////////////////// 太田道灌に訴える。
文明元年 ///// 1469 ////// 伊勢神宮の荒木田氏経、大庭御厨代官の出口氏・室田氏により、
///////////////////////// 年貢が横領された旨を、太田道灌に訴える。
長享二年 ///// 1488 ////// 扇谷上杉朝昌、山内上杉氏との合戦に敗れ、守備していた
///////////////////////// 七沢要害(厚木市)を放棄し、大庭城へ移る。
明応八年 ///// 1499 ///// 『玉隠和尚語録』に大庭に城郭が存在していた記述がある。
永正九年 ///// 1512 ///// 伊勢宗瑞(北条早雲)、扇谷上杉方の城を攻撃し、岡崎城
//////////////////////// (伊勢原市・平塚市)や大庭城が落城。
永禄二年 ///// 1559 //////
////////////////////////// 180貫文で大庭を知行。(『小田原衆所領役帳』より)」



伝承の中の大庭城
「大庭城」の名前が文献上初めて登場するのは、天保12年(1841)、昌平坂学問所で編纂
された『新編相模国風土記稿』です。この中で地元の伝承として、大庭城は平安時代後期に
活躍した大庭三郎景親の居館跡を扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が城郭として改修した
ものの、永正9年(1512)、伊勢宗瑞(通称:北条早雲)により落城したとあります。
現在伝わる大庭城のイメージは、『新編相模国風土記稿』の記事を見ても分かるように、
すでに江戸時代の後半には出来上がっていたようです。ただし、当時の資料を見ると必ずしも
この伝承が正しいわけではないことが分かります。
なお大庭城に関連する伝承は、大庭城の南側に鎮座する舟地蔵や築山、稲荷神社などに
残されています。」 

この解説板で興味深いのは、
・江戸時代にはすでに「大庭三郎景親の館跡を太田道灌が城に改修した」という伝承が
 成立していたこと
・しかし近年の研究では、その伝承をそのまま史実とは見なしていないこと
・大庭城の歴史を考える上で、伝承と史料を区別して捉える必要があること
を示している点。
つまり、大庭城は単なる「景親の館跡」ではなく、近年の発掘や研究によって、扇谷上杉氏の
重要な城郭として再評価されている中世城郭なのです。



新編相模国風土記稿 大庭城蹟
「(前略)土人傳て大庭三郎景親の居城なり。後太田道灌暫時居城とし、北條氏の頃は
その旗下某在城せりと云う。(中略)修理大夫朝良の時、永正九年北條早雲に攻落さる。
是より北條氏の持城となる。」
意訳
「(前略)大庭の住民には、 大庭城は大庭景親の居城 であり、 後に太田道灌が城に改修して、
しばらくの間居城としていた 。そして小田原北条氏の頃は配下の某氏が在城していた。」
という伝承がある。
(中略) 上杉朝良の代にあたる永正九年(1512)に北条早雲に攻め落とされた。これ以降、
大庭城は北条氏の城となった。 」」 

このパネルは、前の「伝承の中の大庭城」で紹介されていた『新編相模国風土記稿』の記事の
原文を示したもの。
ここで注目すべき点は、
・大庭城を大庭景親の居城とする伝承
・太田道灌が城郭として改修したという伝承
・永正9年(1512)に北条早雲(伊勢宗瑞)によって落城したという伝承
が、江戸時代に記録されていたこと。
しかし近年の研究では、
・太田道灌が実際に大庭城を改修したことを示す同時代史料は確認されていない
・大庭景親の館と中世城郭の大庭城を直接結び付ける証拠も十分ではない
と考えられており、現在では「伝承」と「史実」を区別して扱っているのだ。



子供用パネル
大庭城はいつのお城?
大庭城は、今から約500年くらい前の戦国時代につくられたお城です。このころのお城が
そのまま残っているのは、とてもめずらしいのです。
大庭城はナゾの多いお城です。でも最近いろいろな歴史の先生たちが調べて、新しいことが
わかってきました。
(写真の説明)
こんな大きな堀があったことがわかっています!」


大庭景親 」。
石橋山の合戦で敗れた頼朝が隠れる伏木の上にまたがる大庭景親



ネットから。

頼朝追い詰めた大庭景親 「恩こそ主よ」坂東武者の気概 | 茅ヶ崎 | タウンニュース

大庭景親
大庭景親(おおばかげちか)は大庭御厨を所領とする武士で、当初源氏に仕えていましたが、
平治の乱(1159)以降は平氏に接近し、平清盛の信任を得ました。
源頼朝が治承4年(1180)に旗揚げした際、景親は平氏方の総大将として源頼朝と戦い、
石橋山の合戦で勝利を得ます。
しかし安房国(千葉県南部)に逃れた頼朝が徐々に勢力を拡大し、鎌倉に入ると景親は
対抗しきれずに京都へ逃亡を図ります。しかし途中で行き先を塞がれてしまったため、
やむなく頼朝に降伏しますが、許されず、片瀬川の河原で斬首されてしまいます。」
この解説板は、大庭城の伝承に登場する 大庭三郎景親 の人物紹介。
大庭景親 は現在の藤沢市大庭を本拠とした豪族で、1180年の 石橋山の戦い では平氏方として
挙兵直後の 源頼朝を破った。
その後、頼朝が勢力を盛り返して鎌倉に入ると景親は敗れ、最終的に片瀬川付近で処刑されたと
伝えられている。
大庭城の伝承では、この大庭景親の居館跡が後に城郭化されたとも語られていますが、
この展示パネルでも説明されているように、現在の研究では伝承と史実は分けて考えられて
いるのだ。



舟地蔵
大庭城の南に鎮座しています。大庭城を攻める際に合戦の犠牲となった老婆を祀っているとの
伝承があります。伝承の詳細は、現地にある説明板をご覧ください。」


築山
築山(つきやま)は大庭城の南に位置する丘陵 です。
この山は伊勢宗瑞(いせそうずい)が大庭城を攻めた際、なかなか矢が届かなかったので
一夜にして築いたという伝承があります。 」 



「舟地蔵」の南、熊野神社(大庭神社舊蹟)の北側の が「築山(つきやま)
考えられているようだ。



模型にも手前に「築山」の場所 が示されていた。。
 


大庭城の実像
大庭城が築城された室町時代の記録に『玉隠和尚語録(ぎょくいんおしょうごろく)』という
ものがあります。この中で、玉隠和尚が明応8年(1499)に扇谷上杉持朝(おうぎがやつ
うえすぎもちとも)という人物の三十三回忌の法要をおこなった際の言葉が記載されて
いますが、それを見ると 大庭城と大庭景親の館跡は別の場所にあること、大庭城の城主は
扇谷上杉朝昌(おうぎがやつうえすぎともまさ)という人物であったこと が分かります。
扇谷上杉氏は、享徳元年(1452)頃までには、大庭御厨(おおばみくりや)を支配していた
ことが知られており、関連する古文書が伊勢神宮などに残されています。 」 




「大庭御厨(おおばみくりや)」の推定範囲と、平安時代から中世前期にかけての
地名を示した地図
凡例
赤色 の線
→ (推定)大庭御厨の範囲
橙色 の線
→ 現在の市境
白いラベル
→ 文献に登場する平安時代~中世前期の地名
地図からわかること
大庭御厨は伊勢神宮の荘園で、その範囲は現在の藤沢市西部から茅ヶ崎市北部、寒川町の
一部にまで及ぶ広大なものであった。
地図には、
・大庭郷
・羽鳥郷
・石川郷
・長後郷
・渋谷郷
・高座郡
・田村郷
・稲荷村
・遠藤郷
・村岡郷
・善行郷
・打戻郷
などの古い地名が記されています。
大庭城との関係
地図の中央付近に「 大庭郷 」があり、その中心部に 大庭城 がある。
つまり大庭城は、
大庭御厨という広大な伊勢神宮領を支配するための重要拠点として築かれた城であった
ことが分かる。
現代の地名で見ると、推定範囲はおおよそ、
・東:境川
・西:小出川
・南:相模湾
・北:寒川町付近
に囲まれた地域です。
現在の行政区分では、
・藤沢市の大部分
・茅ヶ崎市北部
・寒川町南部
を含む広大な地域になるのだ。
現在の私の住居は「大庭郷」に含まれていたことが解かるのであった。


子供用パネル
大庭城はだれのお城?
大庭城がいつ築城されたかは、まだあまり分かっていません。ただ上杉氏という一族が
築いたのではないかと考えられています。
ちなみにこの一人に上杉朝昌(うえすぎともまさ)という人がいたことが当時の記録に
残っています。」 



幟「 湘南の名城 大庭城 」。 



扇谷上杉氏の家紋「竹に二羽飛び雀」 



扇谷上杉氏と朝昌
上杉氏は鎌倉時代後期、初代・重房が丹波国上杉荘を領したことに始まります。
室町幕府の初代将軍・足利尊氏の外戚であったことから、幕府内に大きな影響力を持つ
ようになり、一族は様々に分家して勢力をのばします。扇谷上杉氏は、顕定が鎌倉の扇ヶ谷に
居を構えたことに由来します。
応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱では、扇谷上杉氏は鎌倉公方や関東管領である
山内上杉氏と協力し、上杉氏の有力氏族であった犬懸上杉氏を滅ぼします。その後、
山内上杉氏のもとで力をつけた扇谷上杉氏は相模国守護職に就任します。
この相模国守護職は朝興の代まで、嫡流に継承されることになります。
朝昌は『玉隠和尚語録』に出てくる持朝の子であり、父・持朝、兄・顕房と定正、甥・政真、
子・朝良、孫・朝興が相模国守護職に就任しています。このように扇谷上杉氏の中でも嫡流と
血縁上最も近しい関係であることから、相模国の重要拠点である大庭城の守備を任されて
いたものと考えられます。」 



扇谷上杉氏略系図 」。 



扇谷上杉屋敷跡の碑
鎌倉市扇ガ谷に建つ扇谷上杉屋敷の碑。関東管領は上杉氏だと山内上杉氏と
犬懸(いぬかけ)上杉氏のみが就任できたので、石碑にあるような扇谷上杉氏が管領に
就任したという事実はありません。」 



ネットから
扇谷上杉管領屋敷
内大臣藤原高藤十三代ノ裔ニ重房アリ。宗尊親王ニ從ヒテ鎌倉ニ下リ、食邑ヲ丹波國上杉荘ニ
賜リテ、始メテ上杉氏ヲ稱セルガ、其曽孫憲顯、管領基氏ノ執事ト為リテヨリ一族勢力ヲ
關東ニ占ム。門葉數家、重房五世ノ孫、顯定扇谷家ヲ創ム。文明ノ交、扇谷家六代ノ主、
定正、賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲ヲ揚クルヤ、世ニ宗家山内ト共ニ兩上杉又ハ兩管領ト稱ス。
此ノ地即チ其ノ邸址ナリ。
大正十一年三月建  鎌倉町青年團」 
説明
【藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり、
鎌倉6代将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。
そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。その3代後の上杉憲顕
(のりあき)は、将軍基氏(もとうじ)の高官となり、一族の勢力は関東に広がりました。
さらに重房から5代後の顕定(あきさだ)は、扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、
扇谷家の6代目の定正(さだまさ)は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、
山内(やまのうち)家と共に、両上杉または両管領(かんれい)と言いました。この場所が
その屋敷の跡です。】

鎌倉扇谷上杉管領屋敷跡裏のやぐら』鎌倉(神奈川県)の旅行記・ブログ by ドクターキムルさん【フォートラベル】

子供用パネル
上杉氏ってどんな一族?
上杉氏は今から約750年前の鎌倉時代に京都から鎌倉に来た一族です。
室町幕府の将軍である足利氏の家来として活躍し、関東で2番目の地位をきずきます。」 

上杉氏の家紋
「竹に二羽飛び雀」
※家紋とは、家をあらわすマークのことです。ちなみにスパ郎は、この雀がモデルに
なっています。


悲劇の武将 太田道灌
『新編相模国風土記稿』の中で、大庭景親の館をお城として改築したとされる太田道灌とは
どのような人物だったのでしょうか。
扇谷上杉氏定正の時、家宰・相模国守護代として活躍したのが太田道真・道灌親子です。
特に道灌は、文明8年(1476)に起きた長尾景春の乱の際には、破竹の勢いで長尾氏の
諸勢力を破り、相模国北西部における扇谷上杉氏の地位を確たるものとします。
しかし文明18年(1486)7月26日、太田道灌は突如として扇谷上杉定正により相模国糟屋館で
暗殺されてしまいます。この時、道灌が叫んだ「当方滅亡!」の言葉は有名です。
扇谷上杉氏の勢力は道灌の死後衰退し、当時新興勢力であった伊勢氏(2代後の時に「北条」と
改姓)により次々と拠点を落とされ、天文15年(1546)、河越城の戦いで当主・朝定が
討ち死にすることで実質的な滅亡を迎えることになります。」

長尾景春の乱
山内上杉氏の家宰である長尾景春が起こした乱。
父・景信が死去した際、主人の山内上杉氏が家督相続を認めたものの、家宰の職は相続
させなかった。これに不満を感じた景春が反乱を起こし、山内上杉氏と扇谷上杉氏の領国は
大混乱となった。」  



「太田道灌」像 。 



近づいて。



ネットから。

太田道灌 - Wikipedia

太田道灌の首塚
伊勢原市の大慈寺近くにある太田道灌の首が埋葬されたとの伝承が残る塚。
この他に同市の洞昌院には荼毘に付した胴を埋葬したと伝わる塚があり、
鎌倉市の英勝寺にも道灌の首塚があります。」



ネットから。
太田道灌は文明18年(1486)7月26日、現在の伊勢原市上粕屋にあった糟屋館で主君の
扇谷上杉定正によって謀殺されたと伝えられています。 

太田道灌公霊地 クチコミ・アクセス・周辺情報|伊勢原 - フォートラベル

北条早雲像(堀内天嶺模写図)[原本所蔵 小田原城総合管理事務所] 」。



【初代】北条早雲(伊勢宗瑞) ​👈️リンク をネットから。

初代】北条早雲(伊勢宗瑞)ってどんな人? [ざっくりわかる北条氏] | 攻城団 全国のお城好きによるクチコミや写真の共有サイト

2.「土の城」と「石の城」」展示コーナー。



2.「土の城」と「石の城」
お城と言って多くの方々がイメージするものが、天守閣(てんしゅかく)と石垣を
持つものだと思います。大庭城にも天守閣と石垣は存在していたのでしょうか。
実は関東地方では、戦国時代のお城は、**土塁(どるい)と空堀(からぼり)で構成された
「土の城」**で、大庭城もその例に洩れません。石垣と天守閣を持つ「石の城」は
江戸時代になってから登場するものです。
なおこの管理棟付近にある石垣について、当時のものかとのお問い合わせがよくありますが、
これは公園整備の際に積まれたものであり、大庭城とは関係ありません。 」 



子供用パネル
大庭城はどんなお城?
城というと「天守閣」や「石垣」というイメージがありますよね。でもあれは江戸時代に
なってからのお城です。
大庭城は地面を掘って造った「堀」と、そこで出た土をカベのようにつみ上げた「土塁」と
いうもので、お城を守っていました。公園の中には堀や土塁がまだ残っています。」


「土の城」と関東ローム層
神奈川県内の「土の城」と切っても切れない関係にあるのが、関東ローム層(赤土)です。
藤沢周辺では、地上から1mほど掘り下げると、黒土からローム層へと変化します。
この土の特徴として、非常に滑りやすい点が挙げられます。
土の城は、堀をローム層まで掘り下げ、その際に出た残土を突き固めて土塁(土の壁)と
します。堀はローム層に掘り込まれているため、一度落ちたら登ることが容易では
ありません。これらの堀は当初水が無い空堀でしたが、北条氏の時代になると、堀内部に
小さな区画を設けた「障子堀」が登場します。
見た目が障子の桟のように見えるためこのような名称がつきました。堀の中に小さな区画を
設けることで、雨水などが溜まり、より一層身動きが取れないような工夫がしてあります。」 



大庭城の斜面
平成30年(2018)に館址広場の西斜面を発掘した際、確認された大庭城の切岸。
斜面を急角度に削り出し、ローム層を露出させています。


山中城の障子堀[静岡県三島市] 」。



ネットから。

山中城・富士山写真撮影スポット、行き方・駐車場 - 和様写真家 まつきよ

数の少ない「石の城」
東日本で天守閣と石垣を持つ本格的な「石の城」が神奈川県に築かれたのは、
天正18年(1590)に 豊臣秀吉 により築かれた 石垣山城 です。
ただし、これ以前にも津久井城(相模原市)や八王子城(八王子市)など部分的では
ありますが、石垣を持つ城はありました。
関東地方には1000を超える戦国時代のお城や館がありますが、その中で石垣を持つお城は
16城のみです(2020年現在)。いかに少ないかが分かるのではないでしょうか。」


津久井城の石垣
津久井城は鎌倉時代に地元の豪族である筑井氏により築城されたと伝わっています。
城の全体は土の城ですが、部分的に石垣を採用しています。
石垣山城が築城されるまでは、神奈川県内で唯一石垣を持つ城です。」


ネットから。

津久井湖城山公園 津久井城について

石垣山城の石垣
天正18年(1590)に豊臣秀吉により築城された、東日本の城で初めて天守閣を持ったと
されています。
後世に改修されていないので、戦国時代の石の城を知るためには欠かせない重要な城です。」 



ネットから。

石垣山 文化遺産オンライン

                                 ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・



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