JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.07.07
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カテゴリ: JINさんの農園
「大庭城址公園管理事務所」内の展示室の見学を続ける。 
次に訪ねたのが「 3.大庭城を掘る 」。



近づいて。



3.大庭城を掘る!
大庭城址公園の中を注意深く歩くと、地面が不自然にへこんでいる場所や、逆に盛り上がって
いる場所があります。それらの多くが大庭城に関連する防御施設の名残です。地面がへこんで
いる場所は当時の堀(ほり)が埋まりきらずに残っているもので、土が盛り上がっている
場所は土の壁である土塁(どるい)の名残です。
大庭城はこれまでに複数回発掘調査がおこなわれており、特に昭和40年代の調査では、様々な
中世城郭に関連する遺構・遺物が確認されています。
発掘調査では、文献からではおぼろ気にしかその姿を見ることのできなかったお城の実像を、
現代に蘇らせることができます。大庭城は扇谷上杉氏が使用した状態を現在に伝える数少ない
城郭であるとともに、当時の遺構が良好に残っているということで、城郭の研究者から近年
非常に高い評価を受けているお城の一つです。」


発掘で確認された大庭城関連の遺構 」 



近づいて。
ーーーーーー 発掘調査で確認された堀
ーーーーーー 等高線から存在が確認できる堀

図を見ると、城の中心部である館跡を取り囲むように複数の堀と土塁が配置されており、
大庭城が単なる居館ではなく、高度な防御機能を備えた本格的な中世城郭であったことが
分かる。石垣や天守はなくとも、まさに「土の城」の実像を伝える貴重な資料なのである。




子供用パネル
大庭城の建物
大庭城址公園の一番南にある「館址広場」を掘ったところ、4棟の建物が見つかりました。
建物はとてもりっぱなものであったことから、ここに城主が住んでいたものと考えられて
います。またここからは、焼けたお米が見つかっています。」 



「1~4号 掘立柱建物」配置図



1号掘立柱建物(北東から)。



2号掘立柱建物(東から)。



3号掘立柱建物(南から)。
炭化米が出土した柱穴。



3号掘立柱建物の柱穴から出土した炭化米(左上)



4号掘立柱建物(南から)。




大庭城の館跡
大庭城址公園の最南端の「館址広場」は昭和43年(1968)から昭和45年(1970)にかけて
3回発掘調査がおこなわれました。その結果、4棟の掘立柱建物跡・土塁などの遺構や、
かわらけ・瀬戸製品などの食器が出土しました。
掘立柱建物は合計4棟確認されており、この内2号掘立柱建物を除く3棟は、建物の規模も
大きく、また4周に庇(ひさし)が付いていました。
このような庇付きの建物は相応の身分の人物が使用していたと考えられており、ここが
大庭城の中心的な場所(主郭)であったと考えられています。
また、3号掘立柱建物の柱穴からは炭化した米が出土しています。この米を平成28年
(2016)に化学分析にかけた結果、15世紀の中頃から16世紀初頭の時期に籾殻が付いた
状態で燃えたことが判明しました。
土塁は館を囲むような形で築かれており、昭和40年代の調査では南側を除く三方の土塁が、
平成30年(2018)の調査では改めて西側の土塁が、令和2年(2020)の調査では新たに
南側の土塁が確認されています。このように土塁は館址広場を囲むように築かれており、
この場所がいかに重要であったか知ることができます。」 




大庭城の堀
大庭城にはたくさんの堀がほられています.
この堀は「ローム層」という、オレンジ色の土までほられています。なぜローム層まで
掘り下げているのでしょうか?
じつはローム層はすべりやすい土なので、お城を守るのにとてもむいているのです。」


堀・土塁 配置案内図




8号堀周辺の現状(南から)



8号堀(東から)



1号堀(南から)



5号堀(南から) 」。 



6号堀(東から)



9号堀(西から)



12号堀(西から) 」。



22号堀(南から) 」。



第25次調査の成果
大庭城跡西側斜面の法面整形にともない、令和2年(2020年)12月14日から
令和3年(2021年)4月27日の期間で第25次調査が行われました。
等高線の状況から当初の予定として、堀が2本確認されるものと考えていましたが、実際に
発掘すると2本の堀のほか、斜面を盛土して造られた**帯曲輪(おびぐるわ)**が存在していた
ことが確認されました。
この調査により大庭城の西側斜面には複雑な防御施設が存在していたことがわかりました。」


中央に 「23次調査」時の「22号堀 」。



帯曲輪(西から) 」。 
帯曲輪とは、山城や丘城の斜面の途中に帯状に設けられた平坦地で、
・敵の侵入を妨げる
・兵士の移動路となる
・防御拠点となる
という役割を持っていました。
調査前は「堀が2本あるだけ」と考えられていましたが、実際には
・2本の堀
・帯曲輪
・急斜面
が組み合わされており、大庭城の西側が多重防御になっていたことが判明しました。



24号堀(北から)



25号堀(南西から)



4.台地に刻まれた城山の歴史」展示。



4.台地に刻まれた城山の歴史
大庭城が築かれた城山台地上では、戦国時代のお城以外にも様々な時代の遺跡が
確認されています。現在のところ、城山で人々の生活が確認されるのは弥生時代に
なってからと考えられています。弥生時代の遺跡は、1984年におこなわれた公園整備の調査で、
方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が確認されています。
台地での人々の活動が活発になるのは、古墳時代になってからとなります。古墳時代は、
大きく前期・中期・後期と分けられますが、中期の遺跡は市内全域でもあまり確認されて
いません。ところが、城山台地上ではすべての時期の遺構・遺物が確認されています。
また奈良時代・平安時代の遺跡も台地の北西側の調査地点で確認されているほか、遺物だけ
ですが、鎌倉時代の資料も出土しています。

方形周溝墓
弥生時代から古墳時代前期にかけて造られた墓のことです。
墓穴の四周を溝で区画した形をしていますが、時には区画溝の中に骨を壺に入れて
埋葬することもあります。」 



子供用パネル
城山台地の歴史
大庭城がある場所は「城山台地」とよばれていますが、ここにはお城ができる前から人が
住んでいたことがわかっています。この公園を造った時の発掘では、古墳時代や奈良時代の
家やお墓などがみつかっています。」 



公園整備に伴う発掘調査遺構配置図 」。
 SI:竪穴住居
 SD:方形周溝墓



SD05〔古墳時代前期〕(西から) 」。



発掘状況-1 」。



発掘状況-2 」。



個別に。
SD04 〔古墳時代前期〕 (南から) 」 



SD04 遺物出土状況



SI30〔古墳時代前期〕(東から) 」 



SI30 遺物出土状況 」。



SI08 遺物出土状況 」。



SI08〔古墳時代前期〕(北から) 」 



SI22〔古墳時代前期〕(南から)



SI07〔奈良時代〕(南から)



SI19〔奈良時代〕(南から)




                                  ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・



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Last updated  2026.07.07 00:00:12
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