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Tuesday, December 10, 2019 午前4時半起床。晴れ。 何もしない日があってよい、朝からそんな気分でした。昼前、仕事に出かけるという妻曰く「職場のみんなへお土産に焼き芋をもっていくわ。焼いて頂戴」 そうしました。 ところが炉にくべたそれを失念。加えて火加減が強すぎました。人様へあげるにはちょっと焦げがひどい。私と彼女の昼ご飯になってしまいました。 本を手にの合間、居間に薪を運んだり、庖丁を研いだり。写真は木片と一緒に入り込んだアトモンサビカミキリです。ゴツゴツ感あり、冬眠中を起こされたのか、動作が緩慢でした。 歳をとったのか、動くものに然程関心を示さなくなりました。刺身には未だ目のないんですが。カミキリを横目に見るだけのトラです。 今日の夕食当番は私でした。トマトの缶詰があったので、トマトソースにしました。大蒜をみじん切り。玉葱もキッチンカーッターでグジャグジャに。オリーブオイルで炒め、塩と胡椒で味を調えて出来上がり。ウィンナーソーセージはタテに4分割、ドライ大蒜の粉末を振って炒め、ソースと煮込みました。パスタを茹でるのは妻の戻って、でした。写真は片付けを終え、研いだ庖丁です。左右、同じものですが、右側は外使い。野菜の収穫に使います。以前、台所で使っていて、長らく貢献してくれました。研いで減っているのが判ります。 余談です。ステンレスは直ぐに切れ上がります。妻に鉄のそれを使うよう促しているのですが、錆を嫌うようで、ちょこちょこ使いの時にはどうしてもこの方に手の行くようです。濡らして放置しても問題なしですから。 夕刻、着替えました。ランシューズを履いて、玄関から煙突を見上げました。煙が透明になると、炉内が完全燃焼中であることを示しています。写真は薪を放り込んで直ぐの状態。白煙の次第に薄くなっていく様子に見入ってしまいました。 ぼんやりしてしまい、走る気力が薄れました。散歩に切り替えよう。ウォーキングを1時間でした。写真はブタクサ冬枯れの図です。アレルギーの原因となる花粉を飛ばす黄色の花も、こうなってはお終いです。 行き遇わせた柴犬です。名を聞いたのですが失念。よく躾けられていました。 熊野神社の銀杏は9割方、葉を落としていました。それが参道を埋めていました。正月まで後20日。早いものです。 家に戻って風呂。冷凍庫の宗八を解凍して焼きました。ハイボールで流しながら、妻の戻るまで映画を1本。「羊と鋼の森」。本屋大賞受賞作を映画化です。若いピアノ調律師が主人公。ストーリーよりもロケ地、舞台となっている旭川でしょうか、富良野でしょうか、そのまちの風情と十勝連峰の風景がよかったです。10点満点中6点。甘いかな。 書くことがないので、つまらぬ話をひとつ。先日、風呂に浸かってラジオを聴きました。STVの夕刻に「牧やすまさ路地裏のスピリッツ」という番組があります。その内容を少し脚色。失礼に当たるかと思いますが、nkucchanと禁玉さんに登場して貰います。nkucchan:禁玉さん、手塚治虫は好きかい?禁玉さん:勿論ですよ。鉄腕アトム、ジャングル大帝、よかったなぁ。nkucchan:ふふふ、やっぱり禁玉さんだね。ウブだ。通はね、ふしぎなメルモだよ。キャンデーを食べて少女が大人の女になるとき、痺れるね。禁玉さん:赤いキャンデーと青いキャンデーですね。nkucchan:青いキャンデーを1個食べると10だけ歳をとり、赤いキャンデーはその逆だったはず。禁玉さん:ああそれでnkucchan、青いキャンデーが好きなんですね。盛り場に出撃の折り、よく小さな青いキャンデーを口にするのを見かけますよ。 お粗末でした。今日の一句冬眠の虫を起こして詫び入れて今日のランなし今日の酒ハイボール2 麦焼酎お湯割り2 ワイングラス3今日の写真はこさえたパスタです。下手くそな盛り付けです。
2019年12月10日
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平成30年5月9日(水) 午前5時起床。世の白む頃まで曇っていました。日中はほぼ快晴。気持ちのいい風が吹きました。写真は出勤前、荒ら家の犬走り端に咲いたユキノシタです。可憐です。 終日デスクワーク。途中、午後、僅かの時間を利用し、某サイトを有効利用の研修がありました。弊社、営業部門は同業他社の商いに関する情報収集も仕事のうちです。ともすればおろそかになりがちです。目を光らせておくに如くはなし。日経を捲るのと同じです。 まっすぐ帰宅。次の写真は帰りの道すがらです。コシヒカリの苗が北風にそよぐの図。日毎、水田の緑が増していくのが判ります。 日が長くなりました。着替えて走ろうか。ジャージを着てランシューズを履きました。カメラを持ち、スマホでカープ戦を聞きなら。体が重く、結局30分のウォーク。走ったのは1kmでした。次の写真は歩き始める前に写した庭先のソメイヨシノです。花が散って一月半、青々の葉です。この時期、薪ストーブの煙突姿は興醒め。 拙宅は写っていませんが、裏山と元越山に続く稜線の緑が空の青と相まっていい感じでした。 おっ、先日、オタマジャクシが群れていたところに今日はイモリです。野郎、背中は黒いですが腹は赤い。腹黒でないのが救いです。さて、書くことがありません。連休に書いたショートショートの続きを以下に。「瀬田唐橋」 思い出其の2 壬申の乱 先に申した通り私は1300年あまり前に生まれました。しかし、実を申しますと生年を知りません。その頃の自分の姿も記憶に曖昧、往時の絵も残っていません。ということで生を受けて覚えている最初の記憶は「痛み」です。 西暦672年、それは暑い夏の日のことでした。太陽がじりじり照りつけて、琵琶湖の水面は油を流したよう。風ひとつない昼下がり。ぼんやりしていると、遠くに土ぼこりの上がるのが見えました。みるみる大きくなって近づいてきました。息も絶え絶えの集団が、数倍の人数はあろうか、追手と切り結びながらこちらに逃げてきたのです。私を見つけて渡りに船、大慌てで西の方に渡りはじめました。逃避行の中には大けがをし、背負われて意識のない者もいるようでした。 と、その時でした。逃げる兵の一人が立ち止り、突然、掛矢で私の板張りを打ち壊しにかかりました。もともと琵琶湖の水は安定しています。流れ出すところ、私の架かる瀬田川の流れは緩く、水位もほぼ一定です。水害で壊れることもないため、当時、架橋技術の幼稚さと相まって、杭に板を並べたような代物でした。従い、橋は簡単に落ちます。壊そうと思えばわけのないことです。しかし私にとっては背中を剥がされる行為。気分のよいはずがありません。しかも掛矢で打たれるのですから痛のなんの。兵は一心不乱、飛び越えることのできないだけの長さ分、忽ち板を外してしまいました。押し寄せた追手はそこで立ち往生。上手はそれに矢を射かけ始めました。今度は流れ矢が私の橋脚に刺さってこれまた閉口しました。周りは怒声が飛び交い、弓弦、射落とされて水面に落ちる大きな水音。騒然とはこのことです。生まれてよし来し方、背中に喧嘩や逃避、橋を向こうこっちに渡る数多くの人間模様を見てきましたが、命を落とすところを目の当たりにしたのはその時が初めてでした。 さて、形勢は多勢に無勢、押し寄せる追手に逃げる側の矢が尽きました。くい止めることを諦め防御を放棄、あっというまに散りじりとなり、姿が見えなくなりました。追手はどこで工面したのか今度は私の背中に丸太をドスン、渡しました。足場をこさえ、その上を次から次と渡って行きました。彼らの姿が見えなくなると、後には川を流れ下る死体が浮き沈み、陽炎だけの静けさが戻りました。これが世に言う壬申の乱、瀬田唐橋の戦いです。 この内乱は天皇の嫡子大友皇子と伯父にあたる大海人皇子の皇位継承争いと、風の噂に聞きました。追手が大海人皇子の軍勢、追われたのが大友皇子を担ぐ一党。大友皇子は橋を渡った翌日、自裁したとのことでした。双方のどちらに正義のあるか、私には全く判りません。どうのこうのという気持ちは毛頭ありません。ただ、橋は万人のもの。落とす行為はいただけません。戦において、道を絶ったり放棄する城の井戸に毒を投げ込むのは常套手段です。しかし、後のことを考えるといけません。橋の道、いや人の道に反します。因果応報、罰の当たるのは必定。大友皇子の死は私の板張りを剥がした報いと密かに思っています。 さても壬申の乱、皇太子と天皇の異母兄による皇位継承争い、眷族と取巻豪族も二手に分かれ双方命運をかけての乾坤一擲でした。遷都も絡み、のちの政治情勢を大きく左右したこともあって後々、古代最大の内乱と位置付けられたそうです。人間が世情のことは判りませんが、橋の私がこの有様をして、人は身分の高い方々も市井の人たちも変わらずの人間五十年、朝露の如しなのに、どうして醜いことを好むのか、恐れ多いですがそう思う毎日でした。しかもこの乱は骨肉絡みです。哀れなことです。 話が横道にそれてしまいました。戻りましょう。その後、橋の修繕がなされるまで、連中がここを渡らなければと悔やむ毎日でした。とばっちりも甚だしい。羽目板の打ちこわし、その痛みが最初の記憶として残ったのでした。 この記憶には、もう一つの「痛み」もあります。或るやんごとなき方の思い出です。 ここで後述の理解を易くするため確認をしておきます。天智天皇は若かりし頃中大兄皇子と呼ばれていました。645年、中臣鎌足と行った政治改革「大化改新」は人口に膾炙した歴史の大きな節目です。その弟が大海人皇子、すなわち天武天皇です。天智天皇の息子が大友皇子。覚えておいてください。 さても古代最大の内乱です。その原因、一つには骨肉、嫡出か否かという処に尽きると言われています。別に遠因として天智天皇が朝鮮半島へ出兵にあるとされることもまた事実でしょう。白村江の戦いで一敗地にまみれ、戦後処理の経済的負担を豪族に強いたこと、天智天皇はそれを自分の派閥とそれ以外で差をつけたようです。息子の大友皇子は身内ですから当然身贔屓。割りを喰ったのは兄の大海人皇子とその一派でした。彼らが都を落ちていく際、私を渡りながら「覚えていやがれ、お前の思うようにはさせない。このうえは大海を担いで示しをつけてやる」その声を聞いたのです。厭戦気分に加え、戦費の負担と兵の動員に手心を加えると、不満の滾るのは致し方のないことです。手心と取巻きの重用はどこぞの国の政府と一緒、今も昔も変わりません。 大方の見方は上の二つでしょう。しかし、私にはもうひとつ、この乱のきっかけは骨肉とはまた別の人間の性、横恋慕に原因がると思うのです。その理由、おそらく私しか知り得ないことをお教えしましょう。 それは天智天皇の性癖です。彼は古代の大革命・大化改新を起こした英雄です。血筋血統言うことなしの傑物。政争に明け暮れ革命に勝利、日の当たる舞台を過ごしました。世は帝の光ばかりに注目し、彼が漁色であったことは語られていません。陰の部分、人の世界に「英雄色を好む」という言葉がありますが、彼は実をいうと難しい性癖を抱えていたのでした。それが証拠、后を始め関係を持っ相手は9名、合計16名の子をもうけましたから。采女、宮人も手当たり次第だったと、暇を出され国に帰る内裏の小間使いだった男が話していました。手当たり次第、許されたそこまではよかったのです。しかし、人妻に関係を迫ったのがいけませんでした。魔がさしてなのか、インモラルは蜜の味、禁断を犯してしまったのです。その人妻というのが絶世の美女・額田王でした。しかも彼女はこともあろうに大海人皇子が妻だったのです。天皇の手練手管に弄され肉欲に溺れたとの噂が流れててきました。天智天皇は異母兄の夫人を籠絡したのです。大海人皇子の怒らないはずはありません。美しい妻を凋落されて私怨の嵩じたこと、さもありなんです。私はこの鼻下長族がそもそものことの起こりと思えてならないのです。傾城という言葉がありますが、その意味ではまさに王朝存亡の危機でした。これが壬申の乱の本質と思えてならないのです。その証拠があります。私は瀬田唐橋の戦い直後、橋のたもとに伏せる佳人を認め、自害の一部始終を目の当たりにしたのです。 それは大友皇子が首をつってわずか数日後でした。夜の明け始めた時刻、夏というのに空気の済んで秋を思わせる空の高さでした。その女性は華やかな内掛けを纏っていましたが、よく見ると裸足に血が滲んで今にも蠅が舞いかかりそう、抹香と汗の混じった匂いをさせていました。陽がさし始めて暑さに生気が戻ったのか、よろり立ち上がり私の背中を渡り始めました。「ああ、どうしてこのような誤りを犯してしまったのでしょう。あの時、百済再興に向かう夫について行きさえしなければ。悔やんでも悔やみきれない。出雲国でまばゆいばかりの帝が姿、キラキラ光る目に見つめられて許してしまった私が悪い。それがせいで夫は甥を殺めてしまった。もう愛する子どもの許へ戻ることは許されまい。今はただ亡き帝に受けた寵愛の日々を懐かしむことだけが生きがい。しかしそれも今日で終わります。ここ、瀬田唐橋で喉を突き、瀬田川に身を投げましょうぞ」 震える声でそう呟くや、震える手で懐剣を握りしめました。苦しむ様子は見るに堪えませんでした。背中に女の血を浴びたのは後にも先にもこの一度だけです。しかもその女性こそ額田王だったのです。やんごとなき女性皇族、胸を締めつけられるつぶやきはまさに「悲痛」の極みでした。先に書いた痛み、掛矢に打ち壊されたり矢の刺さるそれのの比ではありません。この二つが私の記憶の最初なのです。体の痛みと心の痛みを一度に知りました。今日の一句田の水面夏空映し井守這う今日のラン1km今日の酒冷酒2合 芋焼酎5勺今日の写真はイモリです。散歩途中アスファルトの上に見つけました。干からびていました。可哀想に。
2018年05月09日
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平成30年5月7日(月) 午前4時過ぎ起床。雨。一時雨脚が強かったです。 長い休みがあると、明けての出勤は憂鬱です。しかも雨模様。クールビズになってネクタイを巻く必要のないのがせめてもの救いでした。写真は自宅を出ての裏庭です。夜来の雨に今日も梅の実の落下多しでした。毎日これだけ落ちても猶鈴なりです。適度な摘果になっているのでしょう、今年は豊作のようです。 終日デスクワーク。お客様がお見えになったりミーティングが入ったり。調べ物の時間も十分にあり、難なくウィークデーモードに戻ることができました。ところが夕刻、またぞろ頭から仕事のことが抜け落ちました。羨ましいメールを受け取り、暫し白昼夢を見てしまったのです。Aさんからの便りでした。彼は私のまち出身です。5年来、高誼を得ています。K大を卒業、大手商社に勤め、リタイアの後も文化活動に活躍の方です。N県にある有名なリゾートタウンに別荘を持ち、都内と行き来の生活をしています。内容は「資料を送った、仕事の参考にされたし」とのことでした。後段には「数日後、フランスへ旅に出る、パリ、エトルタ、オンフルール、モンサンミシェルを回ってくる」とありました。エトルタか。ルパンで有名、針岩のあるまちです。綺麗な景色なんだろうな。そう思うともう仕事どころではありません。楽しい旅行になるよう返し、パソコンを閉じました。 まっすぐ帰宅。走ろうか。しかし強い降り様です。本を手に取りました。ハヤカワepi文庫、グレアム:グリンはこれでお終いです。 読み始めて勃然、よし、合羽を着て梅林下の草を刈ろう。草刈り機を背負いました。暮れゆく中、濡ぼそりの40分。家の南側をやっつけました。写真は梅林の端、妻の手入れする花壇に咲く花です。背丈は1mほど。名を失念。これに間違っても草刈り機の刃を当てはなりません。切ってしまったら大叱られです。気をつけないと。 シャワーを浴びました。風呂上がりは塗り薬を。このところ左手の肘痛に悩まされています。患部にこれを塗っています。心持ち症状が改善した様な気分になります。安静が一番のようですが、そうもいかない。だましだましです。 さて、書くことがありません。連休に書き始めた雑文を以下に。 「瀬田唐橋」 初めまして。皆さん、瀬田の唐橋と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。ランナーやマラソンに興味のある方にはびわ湖毎日マラソンのコースになっているので印象深いと思います。その通り多くのランナーが私の上を走りました。そう、私は瀬田唐橋と申します。下を流れるのは瀬田川。琵琶湖の水は宇治川、淀川と名称を変え大阪湾に注ぎます。さて、この徒然を認めるに当たり、橋ごときが何を出しゃばるのか、そう物申す方もいると思います。しかし、人間様の一生は粗方80年。この一生は、天上界の時間勘定ですと僅か1日余りでしょうか。昔、幸若舞「敦盛」に謡われました。出家した熊谷直実が「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」儚いことを嘆いています。化天とは天上界のことです。一昼夜は人間界の800年にあたります。化天の時間に比べたら人間の一生は朝露の如し。蓮如上人のおっしゃるとおりです。この意味において、人間様よりは多少長生きの私です。ここに来し方のあれこれを綴る自由は許されると思いまして筆を執ってみる気になりました。 思い出其の1 びわ湖毎日マラソンに託けて 冒頭、マラソン大会のことを書きました。本題に入る前にそのことを少し振り返ってみましょう。びわ湖毎日マラソンは古い大会です。戦後すぐに始まりました。開催地は大阪でした。私の背中を走るようになったのは1968年、第23回大会からです。その折は宇佐美彰朗が優勝し、メキシコシチーであったオリンピックに出場しました。以降この大会にはミュンヘン五輪金メダリストのフランク・ショーターやモスクワ五輪メダル間違いなしと言われた瀬古俊彦もやってきて優勝をさらいました。近いところではウィルソン・キプサング。彼がこの大会の記録保持者、2011年に優勝しています。途轍もなく速かったことは記憶に新しいです。残念に思うこともあります。1975年からの6年間、私の傷みがひどく改修工事が始まりました。コースは琵琶湖大橋に変更されました。日本マラソン界が誇った名ランナー宗茂、宗猛の二人は奇しくもその間に相次いで優勝。私は兄弟の雄姿を見ることはできませんでした。一方、マラソンがここを走り始める1967年以前に目を移しますとこれまた有名選手が優勝者リストに名を連ねています。メキシコで銀メダるを獲得の君原健二、ローマ、東京、二つの五輪を連覇した裸足の英雄アベベ・ビキラ・・・。私の装いが新たになって、またレースが戻って来ました。その間迂回の琵琶湖大橋は橋齢50年余り、1300余年の私のほうに大会関係者が敬意を表したかどうかはかどうかわかりませんが、嬉しいことではありました。さて、私なりに思い出深い選手を一人挙げるとするならば采谷義秋(うねたによしあき)でありましょう。何時の五輪も代表枠を巡る混迷は巷間をにぎわしますが、メキシコ五輪の際、君原健二、佐々木精一郎、宇佐美の3人と代表の座を争った当時のことは今も語り草です。彼は元祖市民ランナーでした。広島県の高校教師とランナー、二束の草鞋でした。今年、ボストンマラソンを優勝の公務員ランナー川内優輝選手が脚光を浴びたことは記憶に新しいですが、何を隠そう采谷選手もこのマラソンを勝っているのです。しかも選に漏れたメキシコ五輪後に臥薪嘗胆・捲土重来、ミュンヘン五輪に出場を果たしました。結果は36位と振るいませんでしたが瀬田唐橋としては判官贔屓、エリートランナーを押しのけてつかんだ栄光と、現役引退後も定年まで教師を続けたこと、喝采を送りたいです。さて、日が傾き、湖西の山々がシルエットを際立たせ始めました。今日はこの程度にして筆を置くことにします。次回は遙か昔、壬申の乱の折、被った痛みのことを綴ってみましょうか。(続く) 今日の一句鯉のぼり降り込められて鼻を上げ 今日のランなし 今日の酒冷酒1合 今日の写真は週刊文春の最新号です。私、dマガジンの会員です。月400円で200種類以上の雑誌が読み放題。その中の1冊です。パソコンやipad、スマホでも閲覧OK。暇に任せてペラペラ捲っています。なによりの利点は本屋の店頭で衝動買いをせずにすむことです。以前、男の隠れ家、一個人、サライ、日経おとなのOFF、dancyu、おとなの週末などを買っていました。今はそれがなくなりました。普段、AERA、Newsweek、週刊ダイヤモンド、週刊東洋経済に目を通しています。著作権の関係でしょうか、時々、肝心の記事だけ不掲載の場合があります。残念です。えっ、で、何故文春の表紙かって?決まっているじゃないですか、ブロ友禁玉さんの家に飼われているゆう君がモデルになっているんだもの。
2018年05月07日
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平成30年4月25日(水) 目は早くに覚めていましたが、床を出たのは午前4時半。晴れ。ミルクティーとチョコパイの朝読書がいい感じでした。 終日デスクワーク。夕刻1時間早退。S内科へ血圧降下剤の処方箋を貰いに。飲んでますかと訊かれ、最近は4勝3敗、あまり走っていないことを伝えました。忙しそうですねと言われ、まあまあですと返しました。 真っ直ぐ帰宅。着替えて走りに出かけました。近所の家に繋がれたチビと目が合いました。この春に死亡したJのKやんが愛犬です。散歩の折り行き遇わせて頭を撫でてやったことがありました。よし、ランを止めて連れ出すか。そうしました。あらかじめ飼い主、Kやんの奥さんには断りを入れてありました。おーよしよし、一緒に行こう。 途中で大きいウンコを大量に。溜まっていたのでしょう。幸い、FのRさん所有の畑、草むらの中でした。大丈夫、肥料になる、そう独りごちました。写真は木立小学校の脇に咲いたコデマリです。グラウンドで木立ファイターズが練習をしていました。この少年野球チーム、結成時、エースは私でした。息子が通った頃は監督をしました。今は全校生徒が60人くらい。少人数になって寂しいです。ナインも低学年を含んでいるようです。 チビを元の柿の木に繋ぎました。またな。家に戻りました。茶畑の隅に1本、李の木があります。実の生っているのが目に入りました。豊作のようです。梅雨入りの頃、楽しめます。 妻が湯を張っていてくれました。カープ戦を訊きながらドボン。先制点を取りました。そのウラ、ひっくり返されましたが、次の回に大量点。もう勝ったも同然です。中日相手の3連敗は何だったんでしょうか。食卓につくと妻が手造りハンバーグ。仕方がありません、赤ワインを舐めました。写真は変な構図になりました。箸をつけたせいです。さてかくことがありません。久しぶりにショートショートを。 夢を見ました。就職の斡旋でした。橋守にならないか。老後を保障するという話でした。詳しいことを尋ねました。次のような話でした。 三瀬川に架かる橋に橋守です。三瀬川とは別名を三途の川と呼ばれています。どこからどこへ向かって流れているのか誰も知りません。架かる橋はたった1本です。人間は死ぬとここを渡らねばなりません。その際、懸衣と奪衣の役目をするのが橋守です。魂はまだ人の格好をしています。身にまとうものを剥ぎ取るのが女の仕事。剥ぎ取るといっても服や着物ではありません。罪業のことです。男がこれを受け取り、衣紋掛けに掛けて罪業天秤の木、俗に賽の木と呼ばれているそうですが、その枝に吊るします。賽の木の根はよく張り、橋の欄干に伸びています。枝がある程度の重さを感じると、根が橋げたを離れ裸の人間に巻き付きます。哀れ、助けを乞い願い訴えるを無情、流れの中に引き込みます。川の中には人間を丸呑みする足の生えた呑舟の大魚が棲んでいます。飲まれた魂は10万年の間、暗い腸の中で粘ついて異臭のする消化粘液に苛まれながら溺れ続けます。息のできない苦しみが続きます。精も根も尽き果て、苦しみや痛さを感じなくなって猶幾千万年。己が誰だかとうに判らなくなって久しい、いやもう物になりさがり意志の片鱗もない状態になって、肛門から放り出されます。その後、川を流れていきます。運がよければお釈迦様の気まぐれに救われます。しかしほとんどの魂は僥倖に巡り合うこと能わずと聞いています。その後がどうなったのか、どこへ流れ着くのか、誰も知りません。 見学に来いというので言われるまま。そこに着くと、勲章を首に下げた男が橋を渡りにやってくるのが見えました。とても美しい女が優しく罪業を剥がしにかかりました。随分と重いようでした。しかし、衣紋掛けを賽木の枝に掛けると思いのほか撓(たわみ)みません。欄干の根も男に巻き付こうか否か、逡巡の動きでした。男は早く通せと急かしました。仕方ありません。橋守、傴(せむし)姿の男は衣紋掛けを枝から外し、当の男に持たせました。手を引いて閻王の間に連れて行きました。大きな扉を開くとそこは真っ白の空間でした。閻王の間と言いながら壁も境目も、振り返って入ってきた扉さえ消えていました。傴男もいません。しばらくすると目の前に大きな水晶玉が現れました。球面は鏡になっていました。照魔鏡ともいわれる浄玻璃の鏡です。途端、ものすごい勢いで水晶の球が回転し始めました。ぼんやり像が浮かび始めました。男の幼少のころ、若い母に手を引かれる姿でした。次いで少年期、一心不乱に勉強したころの背中、大学の合格に喜ぶ笑顔、父の死に沈む母子、奨学金を得て苦学、卒業して一流といわれる会社に奉職。喜ぶ母の姿。それまで鏡面に一点の曇り無しでした。しかし入社した会社が清濁併せ呑む環境。次第に座敷仕事の居心地を覚え、賄賂に味をしめていきました。鏡が曇り始めました。それからは見るも無惨、人を貶めて這い登る猟官と背任。手柄横取りと責任のなすりつけ、浮気と嘘のつき通し、経営陣に上り詰めた時の背中に烏天狗が負ぶさっていました。勲章をもらう場面はありませんでした。ベッドの上で死を迎える時が来て水晶玉の回転が止まりました。その時でした。首に下げた勲章は梅干しの種に変わっていました。その糸が切れ、ポトリ、足元に落ちました。 背中の扉が開いて傴男がのぞきました。また手を引かれ橋のたもとに戻りました。途端、賽の根に絡めとられ川面に落ちました。忽ち呑舟の魚がそれを飲んでしまいました。後には何も残りません。気がつくと美しい女性が梅干しの種を拾い、賽の木の根元に穴を掘って埋めました。 家に戻ったところで目が覚めました。ぼんやり考えました。それもいいな。今日の一句三瀬の川暴れ狂いて夢の覚む今日のランなし今日の酒冷酒5勺 赤ワイン2グラス 白波1合今日の写真は満開のベルビアナです。今年3度目の掲載です。美しい。
2018年04月25日
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平成30年3月14日(水) 午前4時起床。晴れ。外気温4℃。日中は20℃を超えたようです。 S内科の先生に、起きがけに血圧を測定するよう言われています。ほぼ毎日、そうしています。測定器は義弟が関係する社の製品です。プレゼントしてくれました。 次の写真は出勤時「門の鼻」付近で撮りました。霧の朝でした。春です。 もう1枚、会社の昼です。不知火を忘れたので、朝のうちにバナナを買ってありました。これに慣れると悪くない。夕刻、腹の空くのが快感になりつつあります。 真っ直ぐ帰宅。車を降りたら、妻が本腰になっていました。「丁度よかった。あなた、手伝ってよ」 ネクタイを解き、作業着に着替えました。畝に穴を掘って並べたジャガイモに鍬で土を被せました。次いで肥料を撒いたところをトラクターで耕耘。そこに鍬を入れました。畝を2列こさえました。そこに妻がキャベツを植えていきました。20ばかり。親方に貰った苗です。私は別の畝に廻り、薩摩芋を伏せました。芽が出て伸びたら摘みます。芋蔓の苗として使います。以上1時間、日の落ちるのと競争でした。カメラを持つ余裕はありませんでした。 地下足袋を脱いでシャワー。抜栓したのは銀盤です。北アルプスに降った雪が解けての酒です。遥かです。ウーッ、甘露甘露。 やっぱり生に限ります。 当ては菠薐草のお浸し。三月初めの寒波をくぐり抜け、この陽気に伸び放題。毎日、食卓に上ります。 メインは八宝菜。先週末、これも親方がくれたキャベツを使っています。それにしてもです。夕刻、一緒に野良をしたのに、料理がすぐ出てくる。あらかじめ仕込みをしていたから、のようです。毎日、手料理をこさえてくれるのには頭が下がります。 さて、書くことがないので久しぶりにショートショートを。(或る小惑星の商品開発研究所)主任研究員「博士、全く売れなかった製品に注文がありました」博士「どこからだ?」主任研究員「地球からです」博士「ほほーっ」主任研究員「そうなんですよ。驚きました」博士「そいでもって引きあいのあったのは地球のどこからだい?」主任研究員「東洋の島国、某国の国会からです」博士「そうか、宇宙名士録に、その国の総理大臣は『お友だち』を大切にする方と聞いている。商品には万全を期しなさい。完動品に仕上げて届けるように。それと今後の商品開発に役立てたいから、使用後の感想も聴かせてくれるよう頼んでおきなさい。支払いはその後でよい、ともな」主任研究員は倉庫番に命じて商品を発送しました。しばらくし、某国から連絡がありました。主任研究員「博士、効果は絶大だったようです。何でも永田町とか霞ヶ関とかいう町の大掃除の大掃除ができたとのこと。それが地球で評判となり、引き合いが沢山寄せられています」博士「そうかそうか。我が研究所の嘘発見器は完璧だからな」今日の一句各社とも盤振る舞いの春となり今日のランなし今日の酒冷酒3合 ウイちゃん1ショット今日の写真は3枚。一枚目はシャワーの折に見つけたひっかき傷です。週末の山でこさえました。痒い。弊社3階のカウンターに飾ってあった花です。この心遣いが嬉しいです。裏千家に所属する嘱託さんが手によるもの。この花に勝る綺麗な方です。こちらは拙宅玄関の蕾です。魚の名前はあらかたですが、植物はいけません。門外漢なので名を知らない。
2018年03月14日
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平成29年12月18日(月) 午前4時起床。晴れ。外気温0℃。霜降。終日寒し。薪ストーブをガンガン燃やしています。室温は朝、火の細った起きがけが20℃前後。薪をくべ足し、しばらくすると25℃位になります。その暖かさに慣れて、昼、会社の低暖房に寒さを覚えます。妻の勤め先は尚更です。「家が暖かすぎるので、外に出たら風邪をひくわ」なるほど、贅沢な悩みです。でも田舎に閑居、荒ら屋に住み襤褸を着て野良仕事です。一つぐらい贅沢な悩みがあってもいい。一点豪華主義でいいじゃないか。それに「お前に暖かい思いをさせようと、週末、寒いのを我慢して山に入るんだよ。薪の手当ては大変さ」心にもない空言を添えて、冬の朝、起きがけにガウンを着る必要のない生活です。 終日デスクワーク。夕刻、資料調べをしていたら、難儀な相談がありました。ちゃぶ台返しというか、自分を棚に上げて腹を立て、どうにでもしやがれ。居直ったような態の人がいるという話でした。困ったというより面白いな、そういう感じを覚えました。明日はその事案に朝から対応します。楽しみだな。会社を後にし、真っ直ぐ帰宅。「あなた、今日は鍋よ。後は具を入れるだけ。走るの?だったら一緒に歩かないこと?」言を入れました。ブクブクに着膨れて、星の瞬き始めた下を二人連れ。百鬼の水神を往復しました。折り返したら満天の星。東側は山が迫っています。北斗七星やオリオン座はまだでした。カシオペアと北極星は妻も知っていました。じゃーあれを知ってるかい?ミニ北斗七星といわれる星の粒群を示しました。「へーっ、昴ってあんなに小さいの」なにいってんだ、重工業メーカーSUBARUの自動車にブランドマークが着いてあるだろう。その形がそうだよ」それを聞いて納得の妻でした。それにしても冬空は星が美しい。ましてや今日は朔。新月です。次の新月は1月17日(水)です。この日に倒した材木は背割りの必要無しと木挽きはいいます。用材の当てはありませんが、その日が迫ると、木を切りたくなるから不思議です。 閑話休題、風呂の後、鍋を囲みました。 書くことが無いのでショートショートを。「くそ爺」 その日はよく晴れて、麗らかな小春日和でした。股引を穿いて半纏姿、集落の奥で行き止まりの道端に大きな石があるんですが、そこに腰をおろしてぼんやり。座ったまま舟を漕ぎはじめました。いい気持ちです。 さて、その道に最近、登山の格好をした老若男女の姿を認めるようになりました。道の奥、突き当りに元越山の登山口があるからです。公民館に車を止めて歩く道すがらがここなんです。南に聳える元越は九州百名山のひとつです。世の中、登山ブームなんでしょう。こんな藪山にも足を延ばし始めました。それにしても今日は絶好の登山日和。頂上は四界遮るものなしの眺望だろうな。 その時でした。20台と思しき若者の男女グループがすれ違いざま、道を訊いてきました。「おじいさん、元越山はこっちでいいんですか?」登山口の方向を指してそう言いました。「違うよ。そっちは浦代へ行く道じゃ。登り口はあっちですぜ」蒲江に抜ける国道に向かう方の道を教えてやりました。「有難うございます」丁寧に礼を言われました。育ちのいい好青年でした。ヘッヘッヘ。ざまーみやがれ。遠回りするがいい。そうなんです、私は意地悪じいさんなんです。違う方向に向かう彼等の背中を眺め、せせら笑ってやりました。「おじいさん、お茶が入りましたよ。また若い人たちに何か悪いことを言ったんじゃーありません?悪さするのはやめて下さいな」「喧しい。これが儂の唯一の楽しみじゃ」嘘をつくことほど面白いことはありません。人の慌てたり、悔しがったりするのを見るのは蜜の味です。ばれたらばれたでしらばっくれたらいい。相手の怒った顔が、これがまたいいんですよ。私は年寄りです。殴りかかられはしませんや。「おっ、この羊羹、うまいなぁ。誰にもらったんだ?Sさんか?ああ、あそこの家には色々といいものがある。気兼ねしないでくれるものは何でももらっておけばいい。えっ、でも悪い?かまうもんか。気になるんだったら大根の1本2本引いてやればいい。さてと、一寝入りするか」 長い昼寝になりました。陽が少し西に傾きました。そろそろだな。さっきの石に腰掛けました。案の定、登山口の方から最前のグループが下りて来ました。その一人が私を見つけ「あっ、あのジジイだ」こちらを指さしながらそう言っているのが聞こえました。近づいてきました。「じいさん、さっき、違う道を教えただろう?」好青年とは別の、少し額の狭い若者が喰ってかかってきました。「バカめ、おまえは道がつながっちょるのを知らんのか。そっちから下りてきたんなら、登ったんだろう?頂上はよかったか?ヘッヘッヘ」その青年、年寄りの私に掴みかかるわけにもいかず「このクソジジイ、おまえなんか早く往生してしまえ」フッフッフ、青年よ、料簡が狭いぞ。この年寄りのユーモアが判らんのか。それじゃー女子(おなご)に持てんぞ。あと1年経って別の山に登る時、思い出話に「去年、元越に登った時は妙な爺がいたな、そういう会話が出来るじゃーないか。ただの登山と違う色を付けてやったんだ。礼の一つもいわんか、この馬鹿たれが。まあそれはいいとして、春にこの山の山開きがある。そうよ、この梅林が満開の頃だ。もう一遍やってこい。その時、儂がまだ生きてこの石につき座っていたら、お前たちに自家製の梅酒を馳走しよう。帰りは気をつけてな」いや、若いモンとの会話はいいものです。今日の一句白菜を刻む菜切りや冷える夜今日のランなし ウォーク40分今日の酒冷酒5勺 焼酎お湯割り1合今日の写真は購入したスチール棚です。本の始末に困っていました。先送りする考えでしたが、妻の言を入れ、とうとう買ってしまいました。幅はもとより奥行きも段の間隔も充分あるので、1つの棚に2列2段重ねをすればかなりの冊数が収まるはずです。今年中にやっつけないといけません。面倒です。
2017年12月18日
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平成29年12月13日(水) 午前4時起床。晴れ。霜降。寒し。 出勤の折、トレーラーの後につきました。写真は信号停車中に撮した1枚です。これ、何に使うのだろうか。私の見たては、地中に埋設する光ケーブル用の管だと思うんですが。特種なものを運ぶ車両に出くわすと、あれこれ想像をかき立てられて面白いです。 昼休み、食事を急いで終えました。所用あり、近くの郵便局に行きました。番号札を取り、長椅子に座りました。隣に2歳くらいの男の子がやって来ました。目が合いました。ニコッ、してあげました。彼もニンマリを返してくれました。飾ってあった局のぬいぐるみを掴み、ポンポン放り投げ始めました。注意しようかと思いました。しかし、可愛さに加もあり、ままよ。独りごちました。少し匂いました。大をお漏らししているのかな。母親と思しき人は窓口で込み入った話のようでした。放り投げがエスカレート。と、その時でした。窓口の女性が私の方を向いて「おじいさん、ちょっと注意してください」ガビョーン。 リーマン仕事を終え、P葬祭に向かいました。かつて部下だったSさんの母が亡くなったと言う知らせ午前に受けていました。患いの長かった親を、結婚せずの看病でした。通夜の始まる前でした。その時刻、弔問客はいませんでした。線香を手向け、悔やみを言いました。訪ねてよかったです。 帰宅して風呂。ラジコを聴きながらゆるりの時間がよかったです。頭を拭いて、足に痒みを覚えました。2週間前だったか、山で打ったところです。こんな感じになりました。まだ腫れていますが、それでも小さくなりました。年を取ると、打ち身や切り傷の治りを遅く感じます。書くことが無いのでショートショートを。「白子姫」 寿永2年、旭将軍の叡山に至るを聞いた宗盛は、幼少の安徳天皇と三種の神器を奉じて西国に逃れました。山陽道を西へ西へ、落ちた先は大宰府でした。しかし時流を見てか、緒方氏をはじめ在の豪族は平氏へ与さず、でした。一門は再び瀬戸内の海路に。島々を辿り、讃岐の屋島に内裏を構えたのでした。この話はその折、鎮西から屋島への途上にはぐれた某姫の話です。 その日、緒方惟栄(これよし)の所領を抜け、胸をなでおろしました。家人二人を連れた白子姫は、西日の沈む祖母山を振り返り「ああ、もう追手は来ない」そう呟きました。下を向くと、わらじに赤いものが滲んでいました。「姫様、今日はもうここいらにいたしましょう。あの椎の陰がよろしいかと。横になってくださいませ」老家人の吉平は促すと、若い郎党サメともども、柔らかな柴を集め始めましたた。 それから幾日か、佩立の峠を越えた某日、豊後の海にそそぐ番匠川の川面に3人の姿が見てとれました。糊口は、吉平の持つ砂金が頼りのようでした。落人旅はつらさを極めたようで、姫の白き項も赤黒く焼けていました。谷の両側に屹立の山が低く遠くなりました。栂牟礼をかわすと、海が近いのか潮の香がしました。「吉平、海が近いようです。渚はまだでしょうか。そこで船に乗り、聞こえし伊予の村上を頼りましょうぞ」 これを聞いた吉平は、姫自身、それが空しい独り言と知ってのことだけに、不憫を通り越して、この旅のいよいよであることを感じました。 小春日和の午後、潮の引いた洲を渡り、木立の郷に入りました。「姫様、土地の者によりますと、あの神武代を越えたら蒲江でございます。伊予に渡る船もきっと見つかることでしょう。今夜は手前の木立郷名主に御厄介となりましょう」吉兵は軽くなった砂金袋を握り締め、当てのない運命を嘆くのでした。 その夜はナキリの板間に横になることができました。湯を通した布で身体をあらためて、白子姫は熟睡することができました。しかし、京・西八条のこをが夢に見たようで、朝、瞼の端に涙の後が見て取れました。吉兵は不吉な予感を覚えました。「朝立ちを急がなければ」 前の晩から、ナキリの家は土地の者に覘かれていました。噂にしか聞いたことのない都人の美しさ、重そうな行李、従者の刀。見るものも京ことばも初めてでした。キツとキシの目が光りました。時に群盗をする連中でした。ニシ、マエ、ナガを誘い、郷名主の家を出た3人を、鎌と鍬を手に追いました。 数日後、キツの家の女が小袿を着る姿がありました。 話はそれだけです。しかし、これには後日談もあります。木立の人たちは白子姫の話を語り継ぎました。戦後、木立の奥、大中尾に防災ダム建設の話が持ち上がりました。そこはまさに伝え聞く白子姫の殺められた場所でした。大きな自生木が立っていました。それを土地の人は白子木と呼んでいました。さて、堰堤の工事はそれを切り倒さないと建設能わず。工事監督が手当てをはずむからと促しましたが、木立の人足は誰も手を出しませんでした。神主のお祓いにも拘わらず、鋸をひく人は出てきませんでした。とその時でした。酒を飲んだニシが、勢いに任せて「ままよ」。一気に切ってしまいました。ニシはその夜、熱を出して意識不明。そのまま目の開くことはありませんでした。ダムの工事は進み、完成をみました。携わった地元の人たちは堰堤の端に小さな祠を建て、赤い字で「白子姫命」と書きました。その祠が現存します。今日の一句手の皺に吾の余命をかみしめる今日のランなし今日の酒冷酒5勺 燗酒1合 焼酎お湯割り1合今日の写真は夕食の石狩鍋。酒粕、バターによる味付けがよかったす。野菜は自家製。市井は高騰しているだけに天の邪鬼の私はいい気分です。
2017年12月13日
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「仕業」 師走のこの時期になると、思い出すことがあります。 もう20年前の話です。 その席に座ったのは開演時刻ぎりぎりでした。年末、大晦日を翌週に控えた金曜日、夕刻、大学の講義を終えて東武鉄道に乗りました。池袋で乗り換えて日比谷。やっと間に合ったのでした。公会堂は大変な混みようでした。日フィルの第九コンサートは、合唱が音大の学生合唱団。客にその家族と思しき人たちが多く混じっているようでした。ロビーの受け付けには花束の山。華やぐ歳末の光景でした。その時、私は35歳。やっと職にありつき、その祝いにと北海道に住む両親がチケットを贈ってくれたのでした。クラシックコンサートに出かけるのは久しぶり。学生の頃、札響を聴きに通ったことを母が覚えてくれていたのでした。 私、学生時代はその街、札幌の大学に通いました。大学院まで親の脛を齧りました。就職先が見つからず、オーバードクターを3年。数学、代数が専門でした。線形代数学ならまだしも、環論の分野でした。解析や幾何の連中が、企業に採用され始めたころでした。自動車や造船、一部上場会社に迎えられていく同級生の後ろ姿は羨ましかったです。結局、職にありつけず上京しました。予備校で受験指導の臨時講師をして糊口をしのぐ生活が始まりました。暮らしはひっ迫。アルバイトの3年間は、音楽会から遠ざかりました。食べるのに精いっぱい。人間は衣食足りて知るのが礼節だけでないことを、身をもって知りました。 人生、こんなものか。三十路も後半。襟裳岬を口ずさむ毎日でした。「日々の暮しはいやでもやってくるけど、静かに笑ってしまおう。いじけることだけが生きることだと飼い馴らしすぎたので、身構えながら話すなんてああおくびょうなんだよね」そんな悟り、いや諦めに似た気持ちになり始めた矢先でした。母校の講座で世話になったA先生が電話を下さいました。埼玉の私学に講師の口があるという内容でした。嬉しかったです。二つ返事を返し、願書を出しました。面接を受けて採用されました。以来、池袋の端に借りた安アパートから東武東上線に乗って通う生活が始まったのでした。余談ですが、今はその学部が都心に移り、私の住まいも地下鉄有楽町線沿い、月島のマンションです。 20年前に戻ります。日比谷公会堂のその席に座り、オーバーを脱いで、カバンと一緒に席の下へ突っ込みました。と、その時でした。隣の女性に私の肘が当たりました。書きものをしていたのか、彼女が鉛筆を取り落としました。謝り、それを拾って返しました。その時チラッ、紙が見えました。コンサートの感想を記すアンケート用紙でした。開演前なのに早くもアンケートを書こうとする理由が判りませんでした。 見事な第九でした。合唱もすばらしかったです。割れんばかりの拍手でした。私もパンフの中にアンケート用紙を見つけました。感想欄上に職業と年齢を書くところがありました。職を得た嬉しさもあって、そこに会社員と書くところを、大学で数学の講師をしている旨を書きました。ふと視線に気がついて、隣の席を立たない女性と目が合いました。私のそれを覗き込んでいたようでした。涼しい目が印象的でした。 その時はそれだけ。聴衆の流れに任せ、階段を降りはじめました。公会堂の階段は急でした。もしかして先の女性は私に興味を持ったのかもしれない。なんとなくそのような気がして振り返りました。5段ほど上を彼女が降りてきていました。再び目が合いました。ハッとなりました。恋の予感というのはこういうものなのか。啓示でした。しかし、途端、彼女は眼を逸らせました。私も階段を降りなければなりません。振り返り振り返り。今思うと、なんとも様にならない様子だったことでしょう。彼女は小首を傾げるふりをしました。しかし、私には判りました。彼女も私のことを気にしているんだ。直感でした。大学の教室で「解」について議論し、糸口の見えた時に感じるあの感触でした。道筋が見えたのでした。視界のパッ広がる感覚は久しぶりでした。なりふり構うことはありません。そう思いました。 今から思うと、久米正雄の小説を地でいこうとしたのかもしれません。作品名を忘れましたが、彼の本に次のようなシーンがあります。記憶に頼ってのものですから、文意だけ同じと考えて下さい。こうです。 ぼんやり下宿の二階から通りを眺めていたら、向こうから和服姿の日傘がゆらりやってくる。窓下で丁度止まった。クルリ振り仰いだその瞬間、目が合った。天真爛漫にして涼しい目、俺はこの人に決めた、階段を走り下りた。彼女はたまさか通りかかっただけの人、暑い陽気にため息をつくため空を見上げただけだった。にも拘らず、俺は追いかけた。入った玄関の引き戸の閉まらぬうちに飛び込みんで、丁度在宅だった彼女の父へ直談判。お宅のお嬢さんを自分に下さい・・・。 えい、ままよ。この時、この「俺」と同じ心境でした。 私にとって、20年前の日比谷がまさにその日でした。ロビーに降りて互い逸らさぬ目線。促し促され、ロビーの隅に向き合いました。 彼女は歳恰好30を少し超えた位でした。装いは普通。地味なセーターとスカートにこげ茶色の靴。脛を覆う白い靴下が少しの垢ぬけなさを含んでいました。音楽会に似合わずの普段着というか、目立たぬ出で立ち。化粧っけのない顔が素敵でした。しかし、何とはなし、その清楚感の中に薄幸の匂いが漂っていました。それが妙に気になりました。その場でお茶を如何、約束をしました。近場の喫茶店を知らず、少し歩いてTホテルの玄関に入りました。私も仕事帰りの地味な格好でした。少し敷居が高かったです。ロビーは広々して、外国人の顔が多かったです。オープンスペース、喫茶と区別のつかないような席に掛けました。さてと、一目ぼれはよしとして、話の糸口が見つかりません。先のアンケートをだしに問いかけました。 彼女は小学校の教師でした。勤務先はこの近場、対明小学校でした。次いでコンサートの感想、クラシックは好きなのか。もっぱら趣味の話に終始。コーヒーが出た後に彼女が34歳であることを知りました。一つ年下でした。恋の予感とはこういうものでしょうか。左手に指輪のないことは承知でしたが、独身であることと住まいを彼女の口から聞きだしたのは、別れ際でした。アパートは勝鬨橋のたもと、築地でした。ああ、よかった。その時はもう天にも昇る気持ちでした。 それからというもの、彼女に会うため、週末は勤務先と反対方向、繁く東銀座へ通いました。デートを重ね、互いの身の上を話しました。 彼女は幼少のころから苦労したようでした。父親は鉱夫。福岡の三池で働いたそうでした。争議に嫌気がさし、仕事を求めて北炭に移りました。夕張で母と知り合い、彼女が生まれました。幸せな生活もつかの間、彼女が2歳の時、父親が炭鉱のガス爆発で命を落としました。もともと母親に親戚は少なく、以降、親子二人、身を寄せるところはなかったようです。母親は彼女を連れて札幌に出ました。水商売をしながら彼女を学校に通わせたようでした。多感の時期になると、情夫の出来た母を嫌いました。家を出ようか、悩んだこともあったようです。父の出自を訪ねようかと考えましたが、調べようがなかったそうです。うっ憤とやるせなさを勉強に向けたようでした。高校3年の時、担任に進学を進められました。母に相談したところ、既に籍を入れた母の夫が学費を出してくれることになったとのことでした。実の父親の思い出が残り、母親の再婚相手のいる北海道を抜け出したかったとは、彼女の問わず語り。その時、高校の進路指導担任の母校が東京の教育大であったこともあり、茨城県に開学して間もないT大を受験。合格しました。やっとしがらみから抜け出た思いの大学2年、突如、彼女の母親が夫婦して石狩の国道で事故死。砂利トラと正面衝突してあっというまでした。連絡を受けましたが、如何せん、ではありました。実の父と母の両方とも、いまわの際に間に合いませんでした。 交際し始めて、驚くことに、彼女は私と接点がありました。私の両親は二人とも高校の教師でしたが、なんと、彼女の進路指導担任が、なんと私の母だったのです。私が大学に入学した折、彼女は札幌東高校の3年生。そしてその折、母も同校なのでした。その時は奇遇ということだけで話が終わりました。 第九コンサートから半年が経ちました。いつしか気ごころを許し合い、結婚の約束をしました。私は北海道に暮らす両親に連絡を取り、彼女をを連れて千歳空港に降りました。彼女は16年ぶりの道内でした。札幌郊外に実家を訪ねたら、父も母も喜んでくれました。特に母は、当時の彼女の家庭事情を承知、頑張り屋の女の子がまさか息子と結婚してくれるとは。破顔してよかったよかったを繰り返しました。勿論父にも異存はありませんでした。 すぐさま一緒になりました。彼女は良妻賢母でした。娘を一人授かりました。以来此の方、襟裳岬の歌詞を口ずさむことは一度もありません。幸せでした。私は今55歳。変わらず、同じ大学で学生相手に教鞭を執っています。娘は17歳。母に似て涼しい目元です。来春が受験です。一つだけ変わったことといえば、今は父一人子一人。50を前にして教頭になった妻は、無理を重ねて愁訴を我慢。癌の見つかった時は手遅れでした。やがて7回忌がやってきます。 さて、一つ、どうしても腑に落ちないことがあります。妻が他界しての後、遺品を整理していた時でした。妻の部屋の小箱に、私の母が彼女へ宛ての封筒を見つけました。広げてみました。それは20年前、母が独身の妻に宛てたものでした。拝啓 千明さん、ご無沙汰しています。お変わりありませんか。この春、小用のあって上京したのに会えずじまいでした。夏を越して、妙にあなたのことが懐かしくなって、電話を差し上げたわよね。まだ独身だと聞いて驚いたわ。根っからの真面目なあなただから、仕事熱心がよくわかってよ。でもほどほどにして素敵な彼を見つけるに如くは無しよ。12月が誕生日だったわよね。師走の近づいて、急にあなたのことを思い出し、プレゼントを贈るわ。第九のチケットよ。ひと時、日々の喧騒から離れて楽しんで下さいね。お気づかいは無用よ。それでは。かしこ 平成9年霜月 封筒の中には手紙に合わせ、その年の暮れにあった日本フィル第九コンサートのチケットの半券が入っていました。既に他界の母が文字でした。懐かしさもありましたが、読んで大きな疑問が心の中に首をもたげました。 今は週末の夕刻です。月島のマンションから眺める丹沢の夕日がきれいです。予備校から娘が帰ってきました。母親に似て涼しい目です。ただいまぁ~、という声が亡き妻のそれにそっくりです。親の贔屓目か、娘には清楚、薄幸の影はありません。多感な年ごろに母を亡くしましたが、中学、高校と成長するに従い、向日葵のような明るさが出てきました。彼女には炭鉱で命を落とした祖父、交通事故で落命の祖母、それぞれ、私が知っているだけのことは話して聞かせました。しかし、そのチケットのことはまだ伝えていません。 こうして振り返ると、妻との馴れ初め、恋の予感、20年まえの師走は、今日の今日まで、その時が来たら前に進め、踏み出せ。私のインスピレーションに叶う女性を見つけての得意が自慢でした。それが、なんと亡き母の差配だったとは。妻の死んで以来此の方、いろいろ考えました。母は妻と示し合せたのか、それとも偶然に期待したのか。妻は妻でそれを承知だったのか否か。もしそうだとしたら、日比谷公会堂のあの晩、私が振り返らなかったら彼女はどう出たのか。そもそも私が進路指導の教師が息子であることを妻は最初から知っていたのか。今となってはそれを知る由もありません。頼みの父も、認知症を患い、札幌の施設に入所しています。私のことすら判らない状態です。 どうしましょう。夢に妻が出てきて、訊ねてみるしかありません。教えてくれた時が娘に伝える時です。その日が来るといいです。平成29年12月5日(火)午前6時起床。晴れ。 起きがけからなんだか身体に力が入りませんでした。出勤して、少し悪感がしはじめました。思い返すと、昨日の昼ごろから頭痛がありました。頭の痛いことはめったにありません。頭痛薬不要が杣夫です。その日はYシャツ姿で仕事をする者もいるのに、寒かったです。上着を羽織って猶、でした。 昼前にポカ休を取りました。まっすぐ帰宅。病は気からと言いますが、風邪かなと思うと、途端にガクガク。震えながらネクタイを解きました。妻は仕事で不在。トラが食事を用意してくれる筈もなく、一人、インスタントラーメンを作り、啜りました。ロキソニンを1錠飲んで布団へ潜り込みました。うつらうつら。 ピンポーン。宅急便の配達でした。ゴホゴホ咳をしながら「すみません。風邪をうつしてはいけないので勝手口の方へ置いて下さい。サインは巧いことやっておいてください」 ブツはワイン1ケース12本。嬉しいですが、今夜は抜栓する気分ではないな。 すぐに布団へ戻りました。ところが再度、間をおかず再びピンポーン。またもや宅急便。同じことを伝えました。今度のブツは日本酒。ふなぐちを大人買いしたんですが、それが届きました。これもお預けだな。 夕刻までうつらうつら。ご飯を食べてまた布団へ。熱が出たようです。イトヨリの塩焼きは味がしない。 次の写真は親方にもらったキャベツとブロッコリー。ペッカー(ハンディチェーンソー)を貸し、スナップエンドウの苗をあげたら、これをよこしました。写真がそれですが、これも無味。霍乱がせいでした。 おやすみなさい。今日の一句霍乱に一人身の憂癒し猫今日の酒イモ焼酎お湯割り1合今日の写真はトラです。主人の不如意も我関せず。平成29年12月6日(水) 午前6時起床。晴れ。 出勤しようか、それとも大事を取ろうか。今日は大切な内部協議を控えていました。でも管理職が出しゃばっては出る意見も出ない、若手だけで揉んでもらった方が、結果、いいのかもしれない。そう独りごちて昨日に続きポカ休。仕事に行く妻を見送って、葛根湯のありかを訊き忘れたのを後悔。横になったら忽ち睡魔がやってきました。午前の早い時刻、目が覚めて水分補給。陽射しの入る居間、まきストーブの横にごろり。Amazonビデオで映画を2本。お茶漬けを食べて、また横になりました。寝入ってしまいました。夕刻、妻に声を掛けられ、目が覚めました。むっくり起きて、まともになっているのを覚えました。休んでひねもすがよかったんでしょう。頭痛も消えました。 夕食は、妻が知り合いを介して漁師の朝取りを横流ししてもらった赤足(クマエビ)です。クルマエビよりも旨味が濃いんだ、とはつね三が大将の常套弁。絶品でした。横の貝柱は帆立。これは北海道・野付漁協謹製。A先生、ありがとうございました。年末年始に少しずついただきます。 それが証拠の野付半島。 冷酒を一口。次いで白霧のお湯割りを少し飲んでおしまい。隣のおばちゃんがこさえてくれた茶碗蒸しが美味しかったです。OTTABAを聴きながら水平飛行。おやすみなさい。今日の一句口中に野付の帆立冬の海今日のランなし今日の酒冷酒5勺 白きりしまお湯割り1合 グラスワイン1杯今日の写真は昨日届いたワイン。タカムラワインハウスの格安セットものです。千円未満、コスパの優れものもスーパーやコンビニに置いていますが、これならアぺラシオンを日替わりで楽しめます。平成29年12月7日(木) 午前3時に目が覚めていました。晴れ。外気温0℃。トラの野郎がネコカリ催促、布団の周りをごそごそ。無視して早起きをしませんでした。 体長復活。午前5時に起床。待ちわびたおとったんに先ずはネコカリ。次いでまきストーブの火を大きくし、OTTABAを聴きながらコーヒーの準備。豆を挽きました。血圧測定。義弟に貰ったオムロンが手軽でよろしい。ん?今日は高いぞ。おかしいな。 新聞に目を通しました。トランプ大統領が大使館をエルサレムに移すニュースの見出し。就任以来、オバマ政権、いや歴代大統領が是としてきた政策の大きな転換です。財政、医療などの内政問題、アメリカが一番の保護主義貿易、いずれも大きく舵を切りましたが、これは孕む問題の大きさからして、歴史を動かしかねません。その意味においてはパンドラの鍵を廻したと言えます。どうなることやら。 ヨーグルトの掛かったリンゴとバナナのスライスが朝ごはんでした。家の外に出るのは40時間ぶり。霜が降っていました。 終日判子押し。書類が溜まっていました。夕刻、真っ直ぐ帰宅。大事を取って走りませんでした。今夜は鴨鍋でした。昨日届いたふなぐちを抜栓。次の写真は配達のあったその姿です。 この中に1.5リットルパックが6つ入っていました。 パックの下にコックがついてありました。 ボタンを押すとジャーッ。コップがすぐ様満タン。こぼさぬよう注意が必要です。嗚呼甘露。 鴨鍋とはいいながら実質野菜鍋。それでも満腹。今日も早く寝ることにします。読書が捗らない。今日の一句 ふなぐちを抱えて注ぐ手の震え今日のランなし今日の酒ふなぐち1合今日の写真は茶の葉に降った霜です。厳しい結晶です。
2017年12月07日
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平成29年11月30日(木) 午前4時起床。曇一時小雨。夜は寒くなりました。 リーマン仕事も木曜になればあと一日、という気持ちが昂じます。午前、来春に迫る案件の議論。午後は判子押しと調べ物。定時に会社を出ました。残業、前のポストのときもそれほど多くありませんでしたが、この4月に異動してからは、居残りは全くといっていいほど無くなりました。早く帰って走るにうってつけです。それでもこの歳になると、冬の日暮れ、ランが億劫になります。まっすぐ帰宅しましたが、重い腰を上げることが出来ませんでした。写真は昼食、毎度のサンドイッチと野菜ジュースです。夕刻までエネルギーの保たずはこれがせいなのかもしれません。 午後6時、ネクタイを外しました。NHKのラジオニュースを聴きながら身体を湯船に伸ばしました。酒の待つこの時間も、至福といえば至福です。その晩ご飯はトマト煮。安ワインを抜栓しました。 チーズをつまんでいたら、早速やって来ました。彼、乳製品が好物です。この目に見つめられると、間食をさせぬ掟も今日だけは、ということになってしまいます。1欠片だけだぞ。 食事の後も妻は猶台所。ん?いい香りがし始めました。ああこれか。柚子でした。見た目はイマイチですが、醸す匂いは一等です。 これに使ったのか。チリメンの酢物に混ぜたのでした。これを当てにもう一杯もらおうか。でも太るな。止めました。明日の楽しみに取っておきます。 さて、いよいよ書くことが無くなりました。仕方がない。ョートショートを一つ。「片腕を失った理由」 随分前の話です。仕事で大分に出張した帰り、鈍行列車に老人と同席しました。日豊線は窓外に海の見えるところもありますが、ほとんどが山間を走っています。本を手に取りました。活字を追い始めてすぐ「ほらよ」黒く節くれだった左手が蜜柑を差し出してきました。隻腕でした。それに気がついて、すぐさまそこから目を逸らせました。彼の眼が二ヤリ、早く受け取れと語っていました。初冬の昼下がり、車窓に冬の陽が射し込むポカポカ陽気。皮をむき食べ始めたら「兄さん、どちらまで」声を掛けられました。それがきっかけとなり、問わず語りを聞く羽目になりました。 おたく、どちらまで。ああ、延岡な。で、仕事は?おお、税務署な。堅い仕事ですわな。出張帰り?パリッとしちょりますなぁ。私なんか生まれて此の方、ネクタイなんて締めたことがありませんな。いえね、私、中学を出て色々ありましたよ。あなたの年頃は、宇目で牛の牧場を失敗しましましてね。昭和30年代、牛乳を売って一儲けする腹がうまくいきませんでしたよ。それから馬方をしたり山師をしたり。いいこともありましたが、浮き沈みの果て、今はまちのはずれに小屋を建て、かかあと二人糊口凌ぎですわ。兄さんは奥さんがおいでで?ああそうですか、二人子供さんがあるんですね。家族は大切にしないといけまんせんよ。私はね、馬喰をして羽振りがいいとき、一人娘に縁談がありましてね。相手は百姓の長男なんですわ。もちろん断りますわな。当時も農業は辛い仕事。手塩に掛けた娘を水呑なんかにやりたくないのが親の気持ちでしょうが。ところがですよ、若い二人はとんとん拍子。惚れ合ってにっちもさっちもいかなくなってしまいましたね。腹が立って娘を叱りつけ、結婚まかりならん。捨て台詞したんですよ。娘は手塩にかけたというと大げさですが、鳶、いや烏が鷹を産むとでもいいましょうか、親に似合わず、まじめ一途、勉強して看護婦になったんですね。銭もかかりました。しかしですよ、それが仇となって、勤める病院から眠り薬をくすねやがった。心中未遂ですよ。早くに見つけて事なきでしたがね。警察へは市会議員に中へ入ってもらい穏便に済ませましたよ。病院の院長には叱られましてね。首になりました。まあそんなすったもんだあって仕方がない、養子に迎える算段になりましたよ。見えもありましてね、派手な祝言をし、先方との約束もあり、新宅を造ってやったんですよ。なにね、銭を出すのは私ですが、普請は娘夫婦任せ。出来上がって訪ねたら「お父さん、どうですか、この床柱、無節なんですよ」馬鹿養子が自慢げに言うんですよ。空いた口がふさがりませんでした。案の定、1年たって娘が「お父さん、家の中を白い小ハエが舞うのよ」シロアリでした。材料、海に浮かべて引っ張ってきた外材を使うからでした。叱りつけてやりましたよ。何が無節だ。米松の善し悪しがわからんのか。根太の修理に金がかかりました。しかし、一度入ったシロアリはいけませんや。手当のしようがないんですわ。さてね、その養子ですが、勤める会社、大層人使いが荒く、辞めたいと言い始めたんです。養子に迎えた折、私の知り合いに頼みこんで雇ってもらった会社です。私の面目が潰れますわな。とんでもないと、また叱りつけたんです。そうしたら、もう孫が二人いたんですが、奴ら、二人を連れて家を出やがった。探しましたよ。そりゃーもー四方八方、手を尽くしてね。養子の実家に怒鳴りこみ、隠さず早く出せ、悪態をつきました。匿ってやしないかと疑いましたね。でも見つかりませんでしたよ。1週間も経った頃でしょうか。夜遅くに電話がリンリンなりやがって。受話器を取ったかかあが泡を吹きましてね。それで何があったのか判りました。今度は子どもを道連れ、無理心中でさぁ。参りました。これくれえのことで死ぬなんて。しかも子どもを道連れにしてですよ。合点がいきませんわな。わけーもんは弱い。多分、何もかもあの青びょうたん、養子が悪いんですわ。我慢をようせんようなやさ男でしたからな。なんもかんもねーとはこのことですわ。白蟻の入るを知らぬとは、とんだ見当違いの婿をもらったと後悔しましたよ。え?この右腕?そうなんですよ、これを落としたのもそれがせいといえばいえなくもありません、はい。しばらく不自由を味わって、この頃、漸く自分が頑なだったと思うようになりましたね。悔やんでも悔やみきれません。生き死にの痴話も濫觴は些細なことから、ですわ。終わってしまったこととはいえ、おかげで態です。万事、因果律ですな。おっと、とんだ身内話をしてしてしまいました。兄さんのネクタイを見て、つい本気になってしまいました。いえね、兄さんに似ているんですよ、その養子が。おっと、もう延岡ですよ。ここで降りるんでしょう。私は乗り換えて高千穂のほうです。ほれ、みかんをもう一つ上げますよ。さようなら。 一期一会、相席老人の話、引き込まれてしまいました。聞き終わって虚言癖かと疑いました。しかし、片腕がそのせいという彼の悔み節、加えて自業自得の吐露。嘘偽りなしに思えました。二つ目のみかんも冷たい味がしました。腕を落とした訳を訊いてみたかったな。今日の一句梅の先高みの百舌や霜の降り今日のランなし今日の酒冷酒5勺 グラスワイン3杯 ウイちゃん1ショット 焼酎お湯割り1杯今日の写真もトラです。おーよしよし、お前が一番だ。ブラッシングしてやるぞ。その後、夜長を彼と二人、カラヤンオムニバスを楽しみました。カルメン幻想曲、カラヤンタクトが絶品。聴かせてくれました。
2017年11月30日
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平成29年8月30日(水) 午前5時起床。晴れ。 リーマン仕事を終えての帰りは快晴でした。絶好のラン日和です。家に着いて、あっ!まずい。梅林下に積んだ薪が荷崩れしていました。それに併せて、イチゴハウスに使ったお古、ビニールの覆いが剥がれていました。仕方がない。作業着に着替えました。ラジコで広島・巨人戦を聴きながら一輪車を使って、薪小屋へ運び込みました。写真はありませんが、割った櫟の乾きがとてもよかったです。まだ1年経ってないのですが、ビニールの温室効果でしょう。いますぐにでも使えます。今度、木材水分計で測定してみよう。 ジョグの代わりに野良仕事。それでも汗びっしょりになりました。作業中、干からびた玉虫を2匹、見つけました。後で写真を撮ろうと丸太の上に載せました。気がついたら滑って落ちたのでしょう、不明。美しかったな。 写真はシャワーを浴びた後の晩ご飯です。青椒肉絲。珍しく茄子が入っていません。今夜はその漬物が出ただけでした。書くことが無いのでショートショートを。仄かの 私は日雇いの仕事をしています。目の覚めたのは午前5時。硝子戸の白むと同時でした。板敷きの二間続きに敷いた布団が汗ばんでいました。起きだして、台所のコップで水を飲みました。流し横にある鏡が、縦に動く自分の喉仏を映しました。「俺も歳をとったな。妻が死んで20年、か」 ガスコンロに薬缶を載せました。急須1杯分の水を量ってのことです。みそ汁とご飯は昨晩の残りでした。毎日のことです。食べ終えて「今日で木立の現場も最後だ。あの奥さんと会えるだろうか」 1か月前のことでした。時々声をかけてくれる管工事店の親方について、田舎を訪ねました。合併浄化槽の工事でした。私の家からそこまでは10kmの距離がありました。私の移動手段は自転車です。この歳です。休み休み、1時間かかりました。親方がやって来るまで、その家に植わった梅林の陰で涼みました。 と、その時でした。その家の奥さんが勝手口から出てきました。麦わら帽子をかぶって、普段着でした。お茶を出してくれました。お礼の言葉が見つからず「奥さん、ナスが生っているね」そういうと「あら、ナスはお好き?差し上げましょうか」二つ返事の目元が涼しげでした。久しく思い出さなかった妻の笑顔が急に頭を過りました。 次の日はマクワウリとキュウリを貰いました。 3日目、パイプの配管をしていた時、開け放った居間の中から歌声が聞こえてきました。美しい声色に、思わず手を止めました。聴き入りました。知らない曲でした。 その家の工事は4日間で終わりました。最後の日、帰りにナスと小玉スイカを持たせてくれました。帰り道、老いらくの、仄かの思いのあるのを禁じえませんでした。癌を病む前の妻に奥さんを重ねてのことです。似てはいませんが、重なるから不思議です。これが老いらく、なのでしょうか。 それから1カ月。親方がまた声をかけてくれました。現場は奥さんの家の近所でした。いつもより早くに出かけよう。家を覗いてみよう。その気持ちを止めることができません。近づくにつれ、高ぶりました。 家まであと僅かのところにさしかかった時、奥さんのご主人とすれ違いました。出勤途中のようでした。目が合いました。彼と話したことはありませんが、会釈をしてくれました。 奥さんは家にいました。初めての日と同じで麦わら帽子、少し透けて見えるワンピースを着て、ナスに水を遣っていました。「あら、お久しぶり。お元気でした?」見たかった笑顔でした。今日もナスを貰いました。手渡してくれた時、甘い匂いがしました。 俺は惚れたんだろうか。もう会うことはないと思うと、寂しさが募ります。妻が死んで此の方、寂寥に慣れ、誤魔化すことを覚えたつもりでした。それがこの為体です。明日、現場が終わります。踏ん切りをつけないといけません。独り身、老いの寂しさがジワリ迫ります。歳をとった男にとって、優しくしてくれる女性との一期一会は辛いです。縋りつきたくなるのが老いての性です。判ってはいるけれど、悲しい。お粗末でした。今日の一句玉虫の遺骸美し秋の夕今日のランなし今日の酒アサヒスーパードライレギュラー2缶 日向木挽ブルー1合今日の写真は、いよいよのネタ切れ。トラ煮もそっぽをむかれました。先日、所用あり、本屋を覗きました。いつもの「新潮文庫の100冊」を手に取ってみました。捲ると、恋する、シビレル、考える、ヤバイ、泣ける、の括りでそれぞれ20冊を紹介。うーん?ヤバイ本とはどんな・・・。米澤穂信や柚木麻子、松岡圭祐に混じって太宰治、カフカ、スティーヴンソン、カミュが。ああ、そうなのか。
2017年08月30日
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