「きらりの旅日記」

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

2022.02.22
XML
カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​パリとスペインを行ったり来たりしたジョアン・ミロは、陶芸家アルティガスと意気投合します


PARI

​​ Joan Miró 
ジョアン・ミロ

1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)

​​Joan Miró i Ferrà​ ジョアン・ミロー・イ・ファラー)​​

スペイン・カタルーニア地方出身の

画家・彫刻家・陶芸家・壁画家。

ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)

パリでシュルレアリスム運動に参加し

20世紀美術に独自の地位を築いた。


ミロが 陶芸家:ジョセブ・ロレンス・アルティガス

1915年 のことである。


二人はアルティガスが創った

クールベ・グループで出会ったのを機に

ちょくちょく会うようになり、

パリ滞在中は互いに同じ熱望を分かちあう間柄だった。


1940年、 アルディガスはバルセロナに戻り、

ジェリ・ベルネ街にアトリエを構えた。

ある日、

彼は友人で、やはり陶芸家のレグアントに

彼が作った製法に合う陶土を都合してくれるよう頼んだ。

ところが残念なことに、

使った素材の質がいつものと違っていたため、



彼はこうした失敗作をいずれ壊すつもりで、

アトリエの隅に山のように積んでいた。


1944年、 ミロとアルティガスはバルセロナで再開。

画家は陶器に強く惹かれ、

テスト用に上薬を用意してくらないかと頼んた。

そして約束の日、

アルティガスのアトリエで失敗作の数々を偶然目にし、

こう尋ねた。

​「これをどうかするのかい?」。​

​「いや、特にどうもしないよ」​



​「それなら、テスト用に使わせてもらうよ」。​

新たな予期せぬ事実を生んだ目の前の失敗作の数々に、

ミロはすぐにもワクワクした。


窯の中で爆発したり、

粗雑になった陶器の断片。

彼はそれらに上薬を用いて絵を描き、火で固定した。


これが、ミロの陶器制作に関わる最初である。

その関わり方は従来とは全く異なり、

そこには彼独特の実に自然で

自由な創作活動を全うしようとする努力や、

バラバラな耐火粘土の断片とか

失敗作を使って創作しようとする気力や

積極性を見てとることができる。


ミロはまた、これとは別に、

アルティガスの手を借りて

総計200枚もの小型の陶板を制作した。


だが、これらはいずれも

満足いく仕上がりではなく、ほとんど残らなかった。

陶器というよりは、

イーゼルに描いた絵に近いように思えたのだ。


こうした最初の段階での三番目の試みで、

彼はようやくより満足のいくものに近づくことができた。


ある日のこと、

壊れかけた古い窯のなかに、

彼は偶然、耐火粘土の断片をいくつか見つけた。

それらは思いもかけぬ形に変わっていたのだ。


彼はそれらを取り出し、両面に絵を施した。

絵柄の題材は陶板に描いたものと同じだったが、

描写はもっと込み入っている。


この最初の段階では、

テラコッタ製の彫像も何点か制作している。

これはミロの陶器制作に新たな道を切り開いたと言える。


題材は常に人物とか鳥、

あるいは頭部だったりするが、

これらの彫像には、

ユーモアに満ちた人間の姿が表わされていた。


陶器制作が第二段階に入るのは1953年からで、

いわゆる成熟の時代とか、

素材に熟達した時代と言われる段階である。


ミロとアルティガスが ​“大火の世界”​ として

まとめた一連の作品を生んだのはこの頃で、

これはもともと 1950年から、

1953年にかけて

制作した石膏焼きがきっかけとなっている。


モンロチにミロを訪ねた

アルティガスと、息子ジョアンソは、

そこでごく最新の彫刻用の素材を見せられ、

ただちに共同制作への意欲を新たにした。


だが、直面する技術上の問題は、

なまやさしいものではなかった。


新聞紙とか、藁とか針金を

どうやって陶器に組み入れることができるのか?


結局、

手のかかるものは別々に扱い、

後で一つにまとめることにした。


焼きの過程は、

まず素焼きをし、

その後、

せっきを作り、

最後にミロが釉薬を塗って固めるというものだった。


1954年 2月25日、​ 最初の窯入れ が行なわれた。​

この時は同時に75点が焼かれ、

これには・・・60トンの薪が消費された。

そして最終的には234点を数え、

いずれも自然な仕上がりとなっている。


この第二段階では・・・

とりわけ大型の作品制作に没頭したように思われるが、



たとえば 『小さなふくろう』 のような

エキゾチックな美を漂わせる小型の作品も生まれている。


またこの段階では、

素材や技巧面においてもさらに複雑化している。

アルティガスは・・・

彼はこの頃すでにガリファに工房を構えていた

・・・いつも自分の手で陶土を用意した。


彼が使ったのは二種類で、

一つは、

粘土、長石、カオリンから成るせっきタイプのもの、


もう一つは、

普通の粘土と

非常に細かく砕いた粉末状のテラコッタを混ぜ合わせた耐火粘土である。


時には、一つの作品に両方が使われる。

耐熱が少なく造形しやすい耐火粘土で原型を作り、

表面を固めるためにその上をせっき用粘土の層で包むのである。


また、ザラザラした耐火粘土の表面を

滑らかな粘土で上塗りした作品も珍しくない。


そしてさらにミロは、

パンチやビュリンで表面を彫刻するような感じで削り、

上塗りを剥がし、

粘土の地肌そのものをむき出しにして

違った質感や肌理を表したりもしている。


釉薬は、

ミロのいつもの色彩をうまく、

確実に出せるように入念に選択される。


この場合の成分は、

可溶性のある要素を含んでいなければならない。


たとえば、

長石とか、鉛丹などは焼きが低温か高温かに関わっている。


また、

着色材には、

コバルトや銅、鉄、マンガンなどが使われるが、

これらは焼きのタイプによって違った色彩をもたらす。


たとえば、

銅は、還元すれば赤くなるが、

参加すれば、使用量によって緑にも、黒にも変わる。


ミロはいつでも、

窯のなかの火の効果が生み出す色彩を

ワクワクした気分で待ち望んだ。


​​この 1953年 から 1956年 にまたがる時期は、​​

他の時代をはるかに凌ぎ、

あらゆる技法をさまざまに探求した時代だった。


この時期をして、

とりわけ陶器の時代と呼ぶのはそのためである。


​​ 1960年 から 1963年 にかけて制作した陶器作品は、​​

記念碑的な性質を特徴としている。

この間の最も代表的な作品は、

サン−ポール−ド−ヴァンスのマグ財団の庭 にあるものである。


アルティガス父子との合作による壁画は特筆に値しよう。

1955年、 ミロはパリのユネスコ本部より2枚の大壁画を依頼された。

『太陽の壁』 (3mx15m)と

『月の壁』 (3mx7.5m)がそれである。


1958年 に発表された

「私の最新作は壁である」 と題する記事中に

ミロは次のように書いている。

「作品中のチェス盤のような形とか

 人物のフォルムは、

 ユネスコ本部ビルの、

 たとえば窓のデザインなどの

 細かな部分からヒントを得ました。

 大きな方の壁画には荒々しい表現を、

 小さな方には

 より詩的な暗示を出そうと努めました。

 そして構成的にはそれぞれに、

 ダイナミックで荒っぽい図案を

 明るい色彩を施した平坦な部分や、

 格子模様の部分を対峙させ、

 はっきりしたコントラストを

 持たせたかったのです」。


この壁画制作に入る少し前、

ミロとアルティガスは、

サンティラナに著名なコレギアテ教会を訪れ、

そこで心を強く打たれた。

​「湿気で浸食された古い壁のなんと見事な美しさか」​

ミロの一言であった。


そして、 「太陽の壁」 のための250枚が仕上がったが、

二人ともこれには満足しなかった。


技術的にはすべて完璧だったが、

あのサンティラナのコレギアテ教会で見た

自然のままのでこぼこした古い壁の感触に欠けていたのだ。


二人は迷うことなく、

再度、その作業にとりかかった。

アルティガスは、

陶器の表面にほうきで絵を描く

画家の姿を固唾を飲んで見守っていた。

二度と修正はきかなかった。


​最後の焼きが行われたのは 1958年 5月29日 だった。​

やり直したのは合わせて35枚だったが、

これには25トンの薪と、

4000キロの粘土、

200キロの釉薬が使用された・・・

ちなみに、

最初に作った不要分には、

4000キロの粘土、

250キロの釉薬、

10トンの薪が使われている。


1958年、 ミロはこれら2点の陶壁画により、

グッゲンハイム財団 から 国際大賞 を贈られた。

このことは、

これらの作品が明らかに

国際的な成功を納めたことを意味している。


1961年、 ハーヴァード大学 より、陶壁画の依頼を受ける。

これはミロが10年前に同大学のために制作し、

のちに、 フォッグ美術館 に移行された壁画に代わるものだった。


画家は、自分が以前に描いた作品そのまま

陶板に再現することの不可能さを充分承知していた。


筆致も手法もその頃とは異なっていたからだ。

そこで彼は、

下絵も描かずに陶板に直かに絵を描いたのである。

結果は、

当時のミロの特徴だった詩的表現と見事に調和し、

ものすごい迫力の黒い線が全体を支配していた。


1964年から1972年にかけて、

以下の5か所から陶壁画を依頼される・・・

スイス聖ゴールのヘンデル大学(1964年)、

ソロモン・R・グッゲンハイム美術館(1966年)、

バルセロナ空港当局(1970年)、

チューリッヒ美術館(1971年)、

パリのフィルムライブラリー(1972年)。

これら5件の依頼は、

それぞれサイズもまちまちなうえ、

設置条件も、

野外もあれば屋内もありでさまざまな問題を抱えていた。


だが、ミロは、それぞれに

一番ふさわしい解決策をを見出し、

彼特有の“神聖なる不満”をもって、

それぞれに他とは違った個性をもたらすよう

可能な限りのあらゆる手段を講じたのだった。


(参考文献:美術出版社/Joan ​Miró​​ジョアン・ミロより)
(写真撮影:ほしのきらり)



​​ミロにぽち にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.02.22 00:10:09
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: