「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2022.02.21
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カテゴリ: 美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ジョアン・ミロの作品を鑑賞していると何と言ってもこの究極のフォルムが・・・手書きハート大好き手書きハート

Joan Miró
ジョアン・ミロ
Borcelona,1893年-Palma de Mallorca,1983

Pintura(Hombre con pipath)

Painting(Mon with a Pipe)1925

Oleo soble lienzo

『パイプをくわえた男』 1925年​

スペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」202展示室。



彼の特徴的な大きな足は・・・

大地の力強さは足元から伝わって来るという

画家の長い間抱いてきた考えを表わしているといえる。

​​ Joan Miró 
ジョアン・ミロ

1893年4月20日〜1983年12月25日(90歳没)
​​Joan Miró i Ferrà​ ジョアン・ミロー・イ・ファラー)​​

スペイン・カタルーニア地方出身の

画家・彫刻家・陶芸家・壁画家・版画家。


ホアン・ミロ(カタルーニア語読み)

パリでシュルレアリスム運動に参加し

20世紀美術に独自の地位を築いた。


ミロの全作品のなかでも 「版画」​ は・・・




仮にステンシル、リトグラフ、エッチング、木版などのすべてを

挿絵用やポスター用に制作したものも含めて計算すれば、

その数は優に1000点以上にのぼるだろう。

もちろん、

作品の数はその質を伴ってこそ価値があると言える。


​1928年、​ ミロはいつもの癖で、

あらゆる技法を試みずにはすまない熱望に駆られ、

リセ・ヒルツ著「それは小さなカササギだった」

の挿絵用に初めてステンシルを8点制作した。​


薄い金属板や厚紙を使い、

色を置く部分だけを切り抜くこの方法は、



最初の実験段階と言える。


一年後の1929年には・・・

トリスタン・ツァラ著



白黒だけのリトグラフを初めて制作。

リトグラフ用の石にインクを盛り、

それを紙に映し込む作業をこの時初めて経験した。


そしてそれから四年後の 1933年、

クリスチャン・ゼルヴォスの依頼により、

ジェルジュ・ユニエの詩集「幼年期」の挿絵として

白黒エッチングを3点初めて制作した。


ミロがこの技法を学んだのは・・・

モンマルトルのラクリエール工房で、

ここで初めて銅板に取り組み、

酸の腐食作用によって、

絵を浮き上がらせる方法を習得しえたのである。


彼はこの素晴らしい技法を再び用い、

エッチングの代表作の一つ

『ダフネスとクロエ』 を制作した。


神話からインスピレーションを得て、

ミロが描いたダフネスは・・・

パイプをくゆらしている。


彼の特徴的な大きな足は・・・

大地の力強さは足元から伝わって来るという

画家の長い間抱いてきた考えを表わしているといえる。


背景の水平線の切れ目には・・・

クロエの姿が見られ、

まるでダフネスの奏でる音楽につれて

海から浮き上がってくるようだ。


彼女の近くでは一匹の山羊が藪の葉を食んでいる。

そして二つの天体、太陽と月が

こうした画面全体を総括しているように思われる。


この エッチングには・・・

ミロの初期の版画に対するはっきりした考えが現れている。

主役はあくまで、

鉛筆で紙に描くように銅板の表面を

ビユランを持って這う画家の手そのものであり、

その結果、

一つの物語が絵になって生まれて来る。


1938年、 ミロは

友人でキュビスムの画家マルクーシスから

ドライポイントの技法を学んだ。

その結果、

二人は共同で 『自画像』 を描いているが、

ミロの自画像は、

綱渡りの曲芸師や星の間に埋もれて消えている。


ところで、

ミロは他にもステンシルによる版画を制作していた。


1934年 の、20世紀芸術に関する専門誌

「ダシ・ダラ」特別号のための2点と、

1937年 に制作した著名な「スペインを救え」である・・・

これは後に、

スペイン内乱の共和国軍を支援するための資金集めに使われた。


この作品では、

こぶしを振り上げた男の下に次の文章が記され、

最後にジョアン・ミロの署名が見られる。


「今日の戦いに私が見るものは、

 衰退したファシストの力と、

 他方、

 世界を驚かすほどの力を

 スペインににもたらす人々の

 巨大な創造的活力である」。


このステンシルは、

最初「カイエ・ダール」誌で発表されたが、

後にポスターに印刷され、

世界中に知られるようになった。


内乱直後の 1939年、

ミロは 『バルセロナ・シリーズ』 の制作に着手し、

​1944年、​ 連作55点の白黒リトグラフ にまとめた

・・・完成が遅れたのは、

材料の入手に手間どったためである。

戦争の悲惨さを訴えたと思われる

この作品を発表したのは ジョアン・プラッツ だった。


先の尖った歯をむき出した攻撃的な人物、

象のような鼻をした奇怪な人物、

カギのような腕、

鋭利に尖った舌など、

ミロが表現したすべては、

集結したばかりの戦争に見た

画家の素直な感情を侮辱的に表している。


1947年、 ミロはニューヨークで知人の ヘイター と再開した。

彼はパリでビユランの技法を初めてミロに伝えた版画家で、

これを機に二人はトリスタン・ツァラの著書

「反頭脳」の挿絵として、

ドライポイント ・エッチングを制作した・・・

これにはミロの他、

イヴ・タンギー マックス・エルンスト の作品も挿画されている。


ミロは 1948年 まで、

彩色版画を制作していないが、

この年から徐々に取り入れ始めている。

事実、

むしろ彩色版画が主流を占めるようになり、

黒は素描と同様、

フォルムの輪郭をとるために使われている。


木版 (版木に絵柄を彫ってインクを盛り、転写をする技法)

に初めて着手するのは 1950年 で、

この年、

ブラジルの外交官:ジョアーノ・カブラル・デ・メロによる

ミロとその作品に関する著書のために挿絵を制作した。


そして 1958年、

再びこの技法を用いてポール・エリュアルの著書

「あらゆる試練に向かって」の挿絵用に

80点の木版画を仕上げている。

丸のみで手に大きな傷を負ったりしました。

と画家はのちに語っている。


だが、

作品にもその結果にも

すべて自分自身で責任をとるべきだと

常日頃考えていたミロは、

他人に版木を彫ってもらおうとはしなかった。


彩色エッチングと最初に試みた作品は 「シリーズ1」 で、

これは 1952年 に制作された。


ミロが多くの詩人や、作家たちと組んで

作品制作を始めるのはこの頃からで、

プレヴェール、

リブモン・ドッセーネ、

ルネ・クレヴェル、

ミシェル・レイリス、

ルネ・シャール、

ポール・エリュアル、

アンドレ・ブルトン、

ジョアン・ブロッサ、

そしてシュルレアリストらによって復活した

ジャリ や、 ローレアモン に至るまで、

彼らの著書のための挿絵を制作した。


ジョルジュ・ライヤー との広範囲なインタビュー

(これはのちに本として出版された)のなかで、

ミロは本の挿絵制作について次のように説明している。

「まず最初に私が

 非常に重要視するのは、

 本の構成と印刷文字で、

 次に詩人の心の中に

 深く入り込もうとします。

 これには多くの時間をかけて

 思考を繰り返します。

 二つの事柄、

 つまり本の構成と

 その精神を同時に思考するのです。

 それから素描をたくさん、

 そう、実にたくさん、

 サッサと素早く、

 その辺にある紙きれに描くのです。

 これが第二の段階ですね。

 そして次の第三段階では、

 本の構成と精神を十分汲み入れながら、


 大きな紙に色を入れて絵を描きます。

 これが済んで初めて

 酸で銅板を腐食させる作業に移るのですが、

 ここではスケッチなどほとんど見ないで

 自由自在に作業をします。

 スケッチは他でもなく、

 間違いを避けるためと

 彫刻職人にどんな精神で

 作業を進めればいいかを

 知ってもらうための習作なのです。

 銅板の作業段階では、

 スケッチは何も見ない。

 仮に見るとしても、

 全体の感じを見失わないためだけなのです」。


1960年代の終わり頃、

伝統的な版画技法を一通りマスターしたミロは、

続いて、

新しい質感をもたらす可能性を見出すことに興味を持った。


1968年には・・・ セメントに、

1969年には・・・ カーボランダムに

模様を彫る試みをしている。


こうした制作方法は、

絵画やジェスチュア、

斑といった新たな素材への

アプローチへとつながった。


線は具体化し、

背景は色斑が置かれ、

またあらゆる種類の衝撃的な図案記号で

表現されたジェスチュアは、

時に画面全体を決定するほどの重要性を持っている。


こうして見ると、

晩年のミロのリトグラフや他の版画は、

最初の 『ダフネスとクロエ』 からして、

それが単に素描画としか思えないほど

はるか遠くまで来たことがわかる。


そしてここに我々は再び、

無力とかささやかな成功におごるようなことを

極力はねのけてきたミロの不屈の精神を見るのである。


最後の二、三年に、

パルマ近郊のソン・ボテルに版画工房を設けたミロは、

自らここに入り、

ジョアン・バルバラ(銅板) や、

ダミア・カウス(リトグラフ) らと共に制作に励んだ。


これらの工房は・・・

版画制作の場を持たない若い作家たちにも

解放することを目的としている。

ミロの深い寛大さがここにも伺われる。

(参考文献:美術出版社/Joan ​Miró​​ジョアン・ミロより)
(写真撮影:ほしのきらり)



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最終更新日  2022.02.21 00:10:10
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