「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2023.08.21
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カテゴリ: 話題の人
朝ドラ「らんまん」のモデルとなった牧野富太郎氏の生涯と「らんまん」との違いは

小石川植物園内にて

「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」の地図


まきのとみたろう
牧野富太郎の生涯 ​・・・その3

1867年5月22日〜1957年1月18日(94歳没)


​19歳の時、

番頭の息子と会計係の2人を伴って初めて上京。

朝ドラでは、番頭のイケメンの息子と2人で上京したことに


東京市で訪れたのは・・・博物局の

​田中芳男​ (たなかよしお)

1838年9月27日〜1916年6月22日(77歳没)

幕末から明治期の

博物学者・動物学者・農学者・園芸学者・物理学者。

「日本の博物館の父」として知られる。


​小野職 ​​ ​愨​ (おのもとよし)

1838年4月24日〜1890年10月27日

田中芳男のもとで、

明治の植物学の教育のための




彼らを訪ね最新の植物学の話を聞いたり、

植物園を見学した。

​​​

帰京した1881年(明治14年)富太郎は、

2歳年下の従妹で兼ねてから許嫁の

猶(旧姓:山本)と祝言を挙げ、

牧野
猶は、本家岸屋の若女将となる。

ここは、朝ドラ「らんまん」と少し違うところ


1884年(明治17年)、

富太郎は、本格的な植物学を志し、

22歳の時に再び上京する。



​​​​そこで東京大学理学部、

(のちの帝国大学理科大学)植物学教室の

​矢田部良吉​ 教授を訪ねる。
​(やたべりょうきち)​

1851年10月13日〜1899年8月7日(47歳没)

明治時代の植物学者・詩人・理学博士。

植物学者としては、いくつかの命名を行う。

・・・・おそらく要潤さんの役・・・


矢田部教授の教室に出入りして、

文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。


そのとき、

富太郎は東アジア植物研究の第一人者であった

ロシア帝国の カール・ヨハン・マキシモヴィッチ

標本と図を送っている。


カール・ヨハン・マキシモヴィッチ
​​ Carl Johann Maximowicz
1827年11月23日〜1891年2月16日
19世紀のロシアの植物学者。


富太郎は・・・

天性の描画力にも恵まれており、

マキシモヴィッチから図を絶賛する返事が届いた


やがて、

25歳で、同教室の

大久保三郎や田中延次郎・染谷徳五郎らと共同で

『植物学雑誌』を創刊。

同雑誌には、

澤田駒次郎や白井光太郎、三好学らも参加している。


・・・これはドラマとほぼ同じ・・・


(つづく)

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最終更新日  2023.08.21 07:48:47
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