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中村勘九郎、中村七之助『春暁特別公演2023』は待ち侘びた春に心浮き立つ舞台でした四番目の演目は相生獅子 あいおいじし『相生獅子』・・・とは?演じるのは、「藤姫」のちに獅子の精になる二代目中村七之助「鶴姫」のちに獅子の精になる二代目中村鶴松後見は・・・中村小三郎澤村國久中村仲之助中村仲四郎長唄獅子連中【解説&見どころ】享保19年(1734年)春、江戸中村座にて初世瀬川菊之丞が初演。作詞:不詳作曲:七世杵屋喜三郎と伝えられる。謡曲の『石橋』(しゃつきょう)を素材とした石橋物(獅子物)で、本名題は『風流相生獅子』(ふうりゅうあいおいじし)。石橋物(獅子物)・・・とは?文殊菩薩に仕える獅子が、中国清涼山の麓の石橋に現れ、咲き乱れる牡丹の花に戯れて勇壮に千秋万歳を祝うという内容のもので、歌舞伎舞踊にも数多くの作品がありますが、本作は、その中でも中で最古の石橋物です。(中村鶴松)江戸中期まで舞踊は女方が勤めるものとされており、当時は「石橋物」も、前半は、女方の演者が手獅子を持って踊り、後半も、女の姿で狂いを見せるものとなっていました。本作初演の瀬川菊之丞は、上方で大評判を得て江戸に下ってきた名女方で「三都随一の女方」と言われていました。初演時は、所謂「浅間物」の後日談として演じられ、亡霊となった傾城奥州が雌雄の手獅子を持って、かつての恋人小次郎の夢に現れた後、いつしか獅子の姿となり狂いを見せる、という内容だと伝えられており、男女の恋の情緒が描かれていたことが『相生獅子』の題名の由来となっています。能の指導を受けた菊之丞が、謡の聞かせ所である乱曲に合わせた拍子を取り入れた「乱曲の所作」として本作に臨んだと伝えられていますが、当時の振りは現存しておらず、今日では、様々な演出にて上演されています。(東京:ティアラこうとう大ホール)3月11日、本公演では・・・前半は、艶やかな二人の姫が美しい舞を見せ、後半では、牡丹の枝を手にした振袖姿の姫が、毛振りをして勇壮に舞を納めるという演出にてお届け致します。古風な歌舞伎舞踊の品格と、女方による獅子の狂いの迫力を堪能できる見応えに溢れた作品です。世界遺産にぽち
2023.04.08
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中村勘九郎、中村七之助『春暁特別公演2023』三番目の演目「仲蔵狂乱」は、六代目中村勘九郎が演じました。 なかぞうきょうらん『仲蔵狂乱』・・・の歌詞天明4年(1784年)11月、江戸桐座(市村座の控櫓)にて初演。作詞:初世瀬川如皐、作曲:杵屋正二郎、振り付け:二世西川扇蔵。いざさらばありし雲井の花の袖思えばかかる執着(しゅうちやく)の定家葛(すいかかずら)の離れぬ仲をへだてられてもそもやそも思い出すとは忘るるからよ何の忘りょうぞいたいけ盛りさてもさても和御寮(わごりょ)は踊る振りが見たいか踊る振りが見たくば北嵯峨(きたさが)へ御座れの北嵯峨の踊りは対の帽子をしゃんと着て踊る振りがよいとの吉野初瀬の花よりも紅葉よりも君が面影うつつにも夢にも見たや懐かしや古(ふ)りにし事を聞くからに比翼連理(ひよくれんり)の契りさえ花に嵐の情なや更に別れの無かりせば千代も人には添いてましよしや草葉に忍ぶとも色にぞ出し我が恨み千草も冬枯れて雲のあなたに春や来て風に散り飛ぶ雪の花ちりやちりちりやちり漂(ただよ)う君が袂(たもと)に積(つも)るも嬉し千々(ちぢ)に心も乱れて恋しや昔ゆかしやとあなたへ走り此方(こなた)を慕い別れの床(とこ)のうてなぞと人目もわかず伏(ふ)しまろぶ小野良実役:中村勘九郎軍兵役:中村仲助軍兵役:中村仲侍後見:中村いてう長唄囃子連中世界遺産にぽち
2023.04.07
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中村勘九郎、中村七之助『春暁特別公演2023』3つ目の舞台は「仲蔵狂乱」です〜その配役とは?『仲蔵狂乱』とは、仲蔵を描いていない!?なかぞうきようらん仲蔵狂乱 配役 長唄囃子連中小野良実役:中村勘九郎軍兵役:中村仲助軍兵役:中村仲侍後見:中村いてう【解説&見どころ】天明4年(1784年)11月、江戸桐座(市村座の控櫓)にて初演。作詞:初世瀬川如皐、作曲:杵屋正二郎、振り付け:二世西川扇蔵。顔見狂言のじゅうにひとえこまちざくら『重重人重小町桜』の一番目大詰めに演じられた所作事で本名題は・・・きょうらんくもいのそで『狂乱雲井袖』。座頭であった初世中村仲蔵が得意としていた所作事を拾うしました。今日も舞作として上演され続けている『関の扉』は、この狂言の二番目に上演されたもので、本作は、その前の場面にて演じられました。『関の扉』が有名になったため、影が薄くなり上演されることは少なくなりましたが、舞踊として珍重されるべき作品と言えます。【どんなお話?】平安初期の出羽の国。郡司の小野良実には、小町という美しい娘がいました。この小町に惚れ込んだのが、当時の皇位をめぐり謀反を起こしている王子。あらゆる手段で小町を奪おうとするために良実は、小町を逃がし、狂乱の姿を演じてその場をごまかし取り繕うという内容になっています。『仲蔵狂乱』という演目ですが・・・仲蔵を描いた作品ではなく主役の小野良実を勤めた初世中村仲蔵が大好評を博したため『仲蔵狂乱』と名付けられ、今日に至っているものです。それでは、どんな内容なのでしょうか?この中村仲蔵は、稀代の名役者といわれ、個性に溢れた独特な技法を持った踊りの名手としてその名を轟かせました。その技法は、今日でも「仲蔵振り」として、重んじられており、その魅力的な人物像と併せて現代に至っても小説やドラマに取り上げられています。狂乱物とはいえ・・・あくまでも娘の為に狂乱を装っているだけなので、時には正気に戻るという表現も必見です哀愁に満ちた曲に乗せ、切なくも温かい父娘の絆が描かれている古風な味わいの一幕です世界遺産にぽち
2023.04.06
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中村座のメンバーを知っておきたくお写真とともに初舞台もご紹介なかむらかんくろう中村 勘九郎(六代目)六代目 中村勘九郎本名:波野雅行(なみのまさゆき)生年月日:昭和56年(1981年10月31日)41歳昭和61年1月、『盛網陣屋』小三郎役にて初御目見得(歌舞伎座)昭和62年1月、『門出二人桃太郎』兄の桃太郎役にて、二代目中村勘九郎を名乗り初舞台(歌舞伎座)なかむらしちのすけ中村 七之助(二代目)二代目 中村七之助本名:波野隆行(なみのたかゆき)生年月日:昭和58年(1983年5月18日)39歳昭和61年9月、『檻』祭りの子勘吉役にて初御目見得(歌舞伎座)昭和62年1月、『門出二人桃太郎』弟の桃太郎にて、2題目中村七之助を名乗り初舞台(歌舞伎座)なかむらつるまつ中村 鶴松(二代目)二代目 中村鶴松本名:清水大希(しみずだいき)生年月日:1995年3月15日(28歳)平成12年5月、『源氏物語』竹麻呂で子役として本名で初舞台。平成17年5月、『菅原伝授手習鑑』車引の杉王丸で、二代目中村鶴松を名乗り部屋子披露(歌舞伎座)なかむらこさぶろう中村 小三郎(初代)初代 中村小三郎昭和24年2月10日生まれ(74歳)中村屋、最年長の門弟。昭和29年、国立劇場第二期歌舞伎俳優研修終了。同年4月、国立劇場『妹背山』の捕手で初舞台。昭和52年10月、一七代目中村勘三郎に入門。中村仲二郎を名乗る。平成20年4月、歌舞伎座で中村小三郎を名乗り名題昇進。さわむらくにひさ澤村 國久(初代)初代 澤村國久1963年生まれ(今年60歳)女方平成2年3月、劇団前進座付属養成所卒業。同年11月、澤村藤十郎に入門。平成3年3月、歌舞伎座『助六曲輪初花桜』の地回りの若い衆ほかで、澤村國久を名乗り初舞台。平成22年2月、歌舞伎座にて名題昇進。なかむら いちょう中村 いてう(三代目)三代目 中村いてう生年月日:1981年12月29日(41歳)立役平成12年、国立劇場第十五期歌舞伎俳優研修終了。同年4月、国立劇場『夏祭』の祭りの若い衆、捕手で初舞台。平成13年4月、中村屋一門に入門し、歌舞伎座『義経千本桜』の軍兵ほかで、中村いてうを名乗る。平成27年4月、平成中村座にて名題昇進。なかむら なかのすけ中村 仲之助中村仲之助年齢不詳(11月18日生まれ)女方平成8年、国立劇場第一三期歌舞伎俳優研修終了。同年4月、歌舞伎座『井伊大老』の警固の侍ほかで初舞台。同年12月、中村屋一門に入門し、中村仲之助を名乗る。なかむら なかしろう中村 仲四郎中村仲四郎1976年生まれ(今年47歳になります)女方平成14年、国立劇場第十六期歌舞伎俳優研修終了。同年6月、国立劇場『俊寛』の船頭で初舞台。同年10月、中村屋一門に入門し、歌舞伎座「忠臣蔵」の諸士ほかで中村仲四郎を名乗る。なかむら なかすけ中村 仲助 (六代目)六代目 中村仲助1991年生まれ(今年32歳)立役平成25年、国立劇場第二十期歌舞伎俳優研修終了。同年4月、六代目中村勘九郎に入門し、中村仲助を名乗る。同年、明治座『与話情浮名横櫛』の貝拾う浜男役などで初舞台を踏む。なかむら なかや中村 仲弥中村仲弥1987年10月13日(36歳)女方平成25年、国立劇場代第二十期歌舞伎俳優研修終了。同年4月、二代目中村七之助に入門し、中村仲弥を名乗る。同年5月、明治座『与話情浮名横櫛』の貝拾う浜娘役などで初舞台を踏む。なかむら なかじ中村 仲侍中村仲侍1994年生まれ(今年29歳)立役平成29年、国立劇場第二十二期歌舞伎俳優研修終了。同年4月、六代目中村勘九郎に入門し、中村仲侍を名乗る。TBS赤坂ACTシアター『夢幻恋双紙ー赤目の転生』の男衆・長屋の男などで、初舞台を踏む。どばし けいいち土橋 慶一土橋慶一平成元年11月新橋演舞場「仮名手本忠臣蔵」侍ほかで初舞台。歌舞伎をはじめ多数の舞台に出演。世界遺産にぽち
2023.04.05
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中村鶴松さんは、テレビで特集されてから知った歌舞伎役者さんです。にだいめ なかむらつるまつ二代目 中村鶴松・・・とは?生年月日:1995年3月15日(28歳)本名:清水大希(しみずだいき)襲名:二代目中村鶴松出身地:東京都屋号:中村屋定紋:角切銀杏愛称:鶴ちゃん ツルマティ 大ちゃん所属事務所:株式会社ファーンウッド公称身長:165cm体重:53kg血液型:B型学歴:早稲田大学文学部卒業。役者:立役から女形、双方を演じる。演じたい役:『一本刀土俵入り』茂兵衛。『道成寺』白拍子花子(2022年12月、歌舞伎座で拝見しファンになりました)『春興鏡獅子』小姓弥生『刺青奇遇』半太郎(2015年当時)好きな色:赤好きな食べ物:お寿司、カレー趣味:サウナ 旅行 ボーリング鶴松さんは・・・興行で訪れる行く先々で少しの時間を見つけては、サウナでととのえを楽しむのが最近の趣味。二代目中村鶴松は・・・日本の歌舞伎役者・俳優。一般家庭から、歌舞伎界という厳しい道に進み芸道に精神した。十八世中村勘三郎の部屋子となり、研鑚を積む。十八世の逝去後も、六代目勘九郎、二代目七之助兄弟らとともに中村屋を盛り立て修行を重ねている。立役と女形の双方、また異形や人以外までこなす。2021年8月、歌舞伎では、一般家庭出身の身で異例の抜擢を受け歌舞伎座で主役を務めた。勉学にも努力を惜しまず、東京都立白鸚高等学校を卒業したのち、大学受験の際には、センター試験英語全国一位早稲田大学と慶應大学、合計4学部受験し全て合格早稲田大学文学部文学科演劇映像コースに進学し卒業。2022年6月、運営から主演、出演者のギャラ交渉など、全てを一人で担う自主公演『鶴明会』を開催。1日の単独公演で、2000人を動員した。世界遺産歌舞伎にぽち
2023.04.04
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中村七之助さんは、勘九郎さんの弟で兄弟で中村座の舞台を盛り上げております美しく華麗なお姿『歌舞伎の花宴』白拍子和歌妙役なかむら しちのすけ中村 七之助・・・とは?本名:波野隆行(なみのたかゆき)屋号:中村屋代数:二代目生年月日:昭和58年(1983年5月18日)39歳日本の歌舞伎役者、俳優。定紋:角切銀杏替紋:丸に舞鶴出身:東京都身長:174cm血液型:O型好きな球団:阪神タイガース目標:坂東玉三郎(憧れ)華麗なる【中村屋さん一族】を受け継いで曽祖父:三代目中村歌六(父方の父方) 六代目尾上菊五郎(父方の母方) 五代目中村福助(母方の父方)祖父:十七代目中村勘三郎(父方) 七代目中村芝翫(母方・波野好江の父)父:十八代目中村勘三郎母:波野好江(七代目中村芝翫の娘)兄:六代目 中村勘九郎甥:三代目中村勘太郎(兄の長男)甥:二代目中村長三郎(兄の次男)1983年(昭和58年)5月18日、18代目中村勘三郎(当時は五代目中村勘九郎)の次男として誕生。2歳上の兄は、六代目中村勘九郎、義姉は、女優の前田愛。伯母は、女優の波乃久里子。【中村七之助の初舞台】文京区立第五中学校卒業。1986年(昭和61年)9月、『檻』の祭りの子で初お目見え(歌舞伎座)1987年(昭和62年)1月、『門出二人桃太郎』弟の桃太郎役にて、二代目中村七之助を名乗り初舞台(歌舞伎座)兄の桃太郎は、実の兄:勘太郎(現在の勘九郎)爺と婆は、二人の実の祖父である17代目中村勘三郎と7代目中村芝翫であった。幼少期より、兄弟の姿がドキュメンタリー番組で取り上げられた。ほっそりとした容姿と、やや寂しげな美しい風情が魅力の女方の役者さん。【中村七之助のビックな友人】堀越高等学校在学時は、同級生に・・・松本潤と松田龍平がおり、現在でも交流があるらしい。歌舞伎界では、同じ堀越高等学校の1学年後輩に二代目尾上松也がおり彼とも親しくしている。主にカラオケ世界遺産にぽち
2023.04.03
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中村勘九郎さんと言えば、NHK大河ドラマ「いだてん」マラソンのランニング姿を思い出してしまいますが歌舞伎の衣装を身につけると・・・まるで別人物『双蝶々曲輪日記』濡髪長五郎役いだてんの時は・・・このお顔ろくだいめ なかむらかんくろう六代目 中村勘九郎・・・とは?本名:波野雅行(なみのまさゆき)屋号:中村屋定紋:角切銀杏替紋:丸に舞鶴代数:六代目生年月日:昭和56年(1981年)10月31日(41歳)出生地:東京都襲名:二代目中村勘太郎→六代目中村勘九郎日本の歌舞伎役者、俳優。妻:前田愛(まえだあい)女優身長:174cm体重:65kg血液型:0型好きな色:なす紺→黒→緑。好きな食べ物:寿司。1986年1月「盛綱陣屋」の小三郎役として 初お目見得。歌舞伎座1987年1月「門出二人桃太郎」の兄の桃太郎役。 2代目中村勘太郎襲名初舞台。歌舞伎座2012年2月、父の前名の 「中村勘九郎」を六代目として襲名。新橋演舞場青山学院初等部・中等部卒業。高等部を中退し、堀越高等学校に転校、卒業。東洋大学中退。2017年2月「二月大歌舞伎」で 長男が三代目「中村勘太郎」を襲名。 次男が2代目「中村長三郎」を襲名。 ともに初舞台を踏んだ。華麗なる【中村屋さん一族】を受け継いで曽祖父:三代目中村歌六(父方の父方) 六代目尾上菊五郎(父方の母方) 五代目中村福助(母方の父方)祖父:十七代目中村勘三郎(父方) 七代目中村芝翫(母方)父:十八代目中村勘三郎母:波野好江(七代目中村芝翫の娘)弟:六代目中村七之助。妻:前田愛(波野愛)1983年10月4日生まれ(39歳) 身長:157cm 女優 妹:前田亜希長男:三代目中村勘太郎(かんたろう) 本名:波野七緒八(なみのなおや)2011年2月22日(12歳) 歌舞伎役者、俳優。次男:二代目中村長三郎(ちょうざぶろう) 本名:波野哲之(なみののりゆき)2013年5月22日(9歳) 歌舞伎役者、俳優。(昨年も兄弟で徹子の部屋に出演)【中村勘九郎はアイドル好き】10代の頃は「モーニング娘。」市井沙耶香2016年からは「欅坂46」ゆいちやんず「日向坂46」富田鈴花が推しである。世界遺産にぽち
2023.04.02
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『元禄花見踊』とは、なんとなくだけ分かるような微妙な理解だけできてきたような気がしますがさらに、詳しく・・・今更ですが理解できたら楽しいお花見が中村勘九郎 中村七之助 春暁特別公演2023げんろくはなみおどり『元禄花見踊』・・・の歌詞は、吾妻路(あずまじ)を都の春に志賀山の花見小袖の縫い箔も華美(はで)をかまはぬ伊達染や斧琴菊(よくこときく)の判じ物思ひ思ひの出来栄連れて着つれて行く袖もたんだ振れ振れ六尺袖のしかも鹿の子の岡崎女郎衆袖に八つ橋染めても見たがヤンほんぼにさうかいなそさま紫色も濃いヤンそんれはさうぢゃいな手先揃へてざざんざの音は浜松よんやさ花と月とはどれが都の眺めやらかつぎ眼(ま)深に北嵯峨御室二条通の百足屋が辛気 こらした真紅の紐を袖へ通して繋げや桜ひんだ鹿の子の小袖幕目にも綾ある小袖の主の顔を見たならなほよかろヤンそんれはへ花見するとて熊谷笠よ飲むも熊谷武蔵野でござれ月に兎は和田酒盛りの黒い盃闇でも嬉し腰に瓢箪毛巾着(きんちゃく)酔うて踊るがよいよいよいよいよいやさ武蔵名物月のよい晩は をかた鉢巻蝙蝠羽織 無反角鍔(むぞりかくつば)角内連れて ととは手細に伏編笠で 踊れや踊れや布搗く杵も 小町踊の 伊達道具 よいよいよいよいよいやさ 面白や 入り来る入り来る桜時 永当東叡人の山 いやが上野の花盛り 皆清水の新舞台 賑わしかけりける次第なり「元禄花見踊」歌詞の最も詳しい意味・・・とは? 時は、元禄上野の山は花見に集まる丹前侍、供の奴、湯女、町娘などが、踊り騒ぐ様子が描かれています。「よきこと菊の判じ物」・・・とは?斧琴菊 当時人気の團十郎、菊五郎のデザインを小袖に描いたものを言います。「たんだ振れ振れ」「さざんさ」・・とは? この「ん」のつく字は、単に調子言葉で、あまり意味はありません。「小袖幕」・・・とは?花見の「場所取り」のことです。当時は、女性が着ている小袖をつないで、幕のようにして「花見幕」にして場所取りをしていました。現在のビニールシートで囲う場所取りとは、ずいぶん粋な場所取りですよね「武蔵野」とは・・・?広くて「野見尽くされない」ことにかけて大きな盃のことを言います。ちなみに、「和田酒盛」とは・・・?立派な盃のことです。「清水の新舞台」・・・とは?花見をしている上野の清水堂に、まさに新築した「新富座」をかけてのことを言っています。 げんろく『元禄』・・・とは?日本の元号。1688年10月23日〜1704年4月16日までの16年間。案外、短い貞亮の後で、宝永の前まで。この時代の天皇は・・・東山天皇。江戸幕府将軍は・・・徳川綱吉。やっと、イメージできました 世界遺産にぽち
2023.04.01
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昨日、元禄花見踊の歌詞をUPしましたが、どうも内容が理解できませんでしたそもそも『元禄花見踊』・・・とは?いつの時代のお話なのでしょうか?げんろくはなみおどり元禄花見踊の解説と見どころ明治11年(1878年)6月、東京の新富座にて初演。作詞は・・・竹柴瓢助、作曲は・・・三世杵屋正治郎、初演の時の振り付けは・・・初世花柳壽輔等。正式な外題は・・・『元禄風花見踊』であったと言われています。天保の改革で、当時の江戸三座は、日本橋から浅草の猿若町に移転されましたが、明治に入り、十二世森田勘弥が、座元であった「守田座」を「新富座」と名を改めて、初めて都心の新富町に戻しました。明治9年、京橋界隈での火災により消失しますが、明治11年、大々的に新築開場しました。ガス燈を設置するなどの洋風化をはかった斬新な設計で、開場式には、在京の大使や外国人などの多数の要人を来賓に迎えました。そして、関係者は、洋装に身を包み、観客は、椅子に腰を掛けて観劇をするという文明開化の新しい時代に合わせた画期的なスタイルが実現されました。本作は・・・その開場式の大切(おおぎり)に余興として上演されたもので、新時代の新しい劇場の誕生にふさわしく派手で煌びやかな演出となっていました。初演時の振付等の詳細は・・・現存していませんが、所謂(いわゆる)、元禄歌舞伎の集大成とも言える作品で、新しい時代を迎える中でも、古き良き江戸の風情、その中でも特に贅が尽くされた元禄時代を懐かしむ思いが取り入れられた演出となっています。衣装の美しさや、当時の頭のかつらの結いにもこだわりを見せて勢ぞろいした役者達が、それぞれの個性を生かして花見を楽しむ風俗を見せる華麗な総踊りは圧巻です。桜の花の名所である上野の山を舞台にした長唄きっての派手で華やかな親しみやすい本曲は、現在では、歌舞伎や舞踊のみならず様々なショー等にも用いられており、心浮きたつ春に相応しい絢爛豪華な長唄作品です。中村屋『元禄花見踊』の配役元禄の男 中村いてう元禄の男 中村仲助元禄の男 中村仲侍元禄の女 中村仲之助元禄の女 中村仲弥元禄の女 澤村國久世界遺産にぽち
2023.03.31
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春の歌舞伎にふさわしい「元禄花見踊」を楽しみに出かけましたお花見の踊りは、豪華に中村屋さんに踊ってもらいます中村勘九郎 中村七之助 春暁特別公演2023げんろくはなみおどり『元禄花見踊』・・・の歌詞吾妻路(あずまじ)を都の春に志賀山の花見小袖の縫い箔も華美(はで)をかまはぬ伊達染や斧琴菊(よくこときく)の判じ物思ひ思ひの出来栄連れて着つれて行く袖もたんだ振れ振れ六尺袖のしかも鹿の子の岡崎女郎衆袖に八つ橋染めても見たがヤンほんぼにさうかいなそさま紫色も濃いヤンそんれはさうぢゃいな手先揃へてざざんざの音は浜松よんやさ花と月とはどれが都の眺めやらかつぎ眼(ま)深に北嵯峨御室二条通の百足屋が辛気 こらした真紅の紐を袖へ通して繋げや桜ひんだ鹿の子の小袖幕目にも綾ある小袖の主の顔を見たならなほよかろヤンそんれはへ花見するとて熊谷笠よ飲むも熊谷武蔵野でござれ月に兎は和田酒盛りの黒い盃闇でも嬉し腰に瓢箪毛巾着(きんちゃく)酔うて踊るがよいよいよいよいよいやさ武蔵名物月のよい晩は をかた鉢巻蝙蝠羽織 無反角鍔(むぞりかくつば)角内連れて ととは手細に伏編笠で 踊れや踊れや布搗く杵も 小町踊の 伊達道具 よいよいよいよいよいやさ 面白や 入り来る入り来る桜時 永当東叡人の山 いやが上野の花盛り 皆清水の新舞台 賑わしかけりける次第なり 世界遺産にぽち
2023.03.30
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中村座の歌舞伎公演を見てきました(^0^)春らしい元禄花見踊に楽しいトークコーナーですティアラこうとう大ホール江東区の公会堂見たいですが・・・立派ですね中村勘九郎 中村七之助 春暁特別公演2023一、トークコーナー二、元禄花見踊(げんろくはなみおどり)三、仲蔵狂乱(なかぞうきょうらん)四、相生獅子(あいおいじし)会場は、満員になりました歌舞伎座と違って、中入りのお弁当なっどの販売は、ありません!しかし、中村屋独特の家族的な舞台です最初は、アナウンサーが出てきてご挨拶。満員の大拍手の中、左手から中村勘九郎さんがスーツ姿でスタスタと舞台の中央まで進み弟の七之助さんが後に続き二人で長い椅子に座り、右手から、中村鶴松さんも入って来て右の椅子にひとりで座ります。トークが早速始まりますが・・・歌舞伎のお話だろうと思うのですが、昨日のWBC野球のお話で大盛り上がりです。鶴松さんが、サウナ好きだという話から・・・中村家の行きつけの温泉旅館のお話に、旅館では、家族で大きなお風呂で泳いだりもしていたところが、そのお風呂は、一年に二回しかお湯を代えていなかった!と言う衝撃的な事件が報道されて、家族で、これはお湯を代えてから入ったのか?汚れて菌だらけのお湯に入ったのか?との論争になったが、時期的にアウトなタイミングだったそう。トークの会場は、大爆笑で歌舞伎を知らなかった方にも中村座が大好きな方々も楽しいトークコーナーとなりました。世界遺産にぽち
2023.03.29
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東京・両国をおさんぽ途中に「吉良邸跡」を発見!吉良上野介像の後ろは忠臣蔵ギャラリーですきらりの『両国旅日記』・・・その16 ちゅうしんぐら「忠臣蔵」・・・とは?江戸時代中期の元禄14年(1701年4月21日)、江戸城殿中松之廊下で、赤穂藩主・浅野長短(内匠頭)が、高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及んだことに端を発する。この一件で加害者とされた浅野は、即日切腹となり、被害者とされる吉良は、お咎めなしとなった。その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名、いわゆる「赤穂四十七士」(あこうしじゅうしちし)は、紆余曲折のすえ、元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び、見事その首級をあげる。そしてその浪士たちの切腹までの一連の事件を総称して、今日の史家は「赤穂事件」と呼んでいる。「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪士討ち入りの場面が浮世絵の様式で描かれており、軒先や建物のラインが奥行きを感じさせます。赤穂浪士に囲まれて、孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪、小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曽祖父であると、北斎自ら語ったそうです。この錦絵は・・・討ち入りをとげた義士団の引き上げを描いたもので、表門組が、左手の一団 大星由良之助(大石蔵之介)裏門組が、右側一団 大星力弥(大石主税)の一隊である。これから、義士団は両国橋のたもとで奉行・服部彦七の役目上の渡橋拒否にあい、両国橋は渡らず、永代橋を渡っていったといいます。悪役を演じた方はきらこうずけのすけよしひさ吉良上野介義央(1641年〜1702年)坐像吉良家は・・・清和天皇の後裔で、先祖は足利左馬頭義氏。江戸城における一切の典礼を司る高家の地位を得たのは、祖父義弥の時です。寛永18年生まれで三郎の幼名を名乗った義央は、13歳で将軍家綱に謁見しました。のちに、京への使者を任され、立派にその大任を果たしたことから以後有職故実の家柄として重用されるようになりました。賓客を応待することにかけては、義央はまさに天才だったようです。忠臣蔵では悪役に仕立てられた上野介でしたが、領地の三河の吉良(愛知県西尾市吉良町)では評判が高く、町の人は今でも「吉良様」と呼んで敬っている善政の殿様でした。新田の開拓や塩業の発展に尽力するなど、多くの事業で成功をおさめ、特に一昼夜で築いたといわれる長さ128mの堤があり、この治水工事で豊作が保証されたことから今でも「黄金堤」と呼ばれています。領地に滞在している間は、赤い馬に乗って領地を巡回するのが日課としており、「吉良の赤馬」は、名君吉良様と共に今でもその名を残しています。「みしるし洗いの井戸」忠臣蔵Site of Former residence of lord Kira吉良邸跡吉良上野介の敷地は広大で、東西七十二間、南北三十五間で、二千五百五十坪。(約8400平方メートル)だったとされています。世界遺産にぽち
2023.02.20
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七つ面は、お面を使って複数の人物を踊り分ける所作事の原型ですが、しばらく途絶えていた演目でした ななつめん「七つ面」七つ面(ななつめん)・・・とは?二世團十郎が面打ち元興寺赤右衛門に扮し、面箱を開けると、團十郎が扮するさまざまな面が現れる趣向だったようだが、詳細は不明。二世は何度か上演したが、その後途絶えた九世團十郎は、明治26年(1893年)福地桜痴脚本のより、能様式の所作事『新七つ面』を上演し、「新歌舞伎十八番」と銘打った。また、十世團十郎は、昭和11年(1936年)5月歌舞伎座において、山崎紫紅補綴で上演。十三代目團十郎も、平成21年(2009年)1月新橋演舞場にて、今井豊茂の改訂により、元興寺赤右衛門が七つの面を使って踊る舞踊として復活上演し、大阪松竹座でも再演した。さらに平成28年(2016年)1月新橋演舞場において、松岡亮による新たな脚本でも上演している。ほかに二世尾上松緑も復活を手がけている。不動(ふどう)・・・とは?初代は、信仰心の強い人で、色々な神仏を信仰していました。中でもお不動さまを大切にしたのは、子宝に恵まれなかったところが、お不動さまに祈誓を掛けて男の子を授かったからです。子供の名前は久蔵、後の二代目團十郎です。信心深い初代は感謝して、自ら不動明王を演じたといわれています。ふどう「不動」不動(ふどう)・・・とは?独立した演目ではなく、不動明王の扮装で登場する演技形態をいう。初世以来、市川團十郎家は、成田山の不動尊を篤く信仰しており、『不動』が「歌舞伎十八番」に制定されたことも深い関わりがある。元禄10年(1697年)江戸中村座の二世團十郎による『兵根元曽我』が原型とされる。現行のものは、寛保2年(1742年)1月大坂佐渡嶋座、二世團十郎の『雷神不動北山桜』が初演。昭和42年(1967年)に二世尾上松緑が、戸部銀作脚本で復活した。「歌舞伎十八番」ではないが、十二世團十郎は、平成4年(1992年)8月歌舞伎座で、『成田山分身不動』を復活させ、十三代目團十郎(当時・七代目新之助)とともに胎蔵界・金剛界の不動を演じている。象引(ぞうひき)・・・とは?ぞうひき「象引」象引(ぞうひき)・・・とは?荒事には、ふたりの勇者が互いにひとつのものを引き合い、力を競い合う「引き合い事」という演技がある。象引もそのひとつで、象を引っ張り合う場面があったと想像されるが、詳細は不明。元禄14年(1701年)1月初世團十郎が演じたとするのが通説。「歌舞伎十八番」制定時にはすでに絶えて演じられていなかったが、十世團十郎が、昭和8年(1933年)10月歌舞伎座で、山崎紫紅脚本により上演。十二世團十郎も、平成21年(2009年)1月国立劇場で、石橋健一郎補綴により復活上演された。ほかに、二世市川左團次、前進座、二世尾上松緑らも手掛けている。(写真撮影:歌舞伎座ギャラリーにて/ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.12
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蛇柳というのは高野山の奥の院へ通じる道のほとりにあった柳の木のことですこの木は、弘法大師の法力によって執着の象徴である蛇が姿を変えたもの。高野山は、女人禁制の寺ですから、男に捨てられた女の怨念が籠ることのあるのを、蛇に通わせて生まれた伝承である。それにしても、このお顔は、怖すぎますじゃやなぎ「蛇柳」蛇柳(じゃなぎ)・・・とは?高野山にある柳の木で、弘法大師の法力により、蛇が姿を変えたものといわれ、この伝承を題材とした。宝暦13年(1763年)5月江戸中村座『百千鳥大磯流通』の三番目『夏柳烏玉川』がその初演とされる。四世團十郎が勤める丹波の助太郎に清姫の亡霊が乗り移り嫉妬の荒事を見せる趣向の作品であったが、上演は絶える。十世團十郎が昭和22年(1947年)5月東京劇場で川尻清潭の脚本により上演。また、十三代目團十郎は、平成25年(2013年)8月、東京Bunkamuraシアターコクーンにおける市川海老蔵第一回自主公演「ABKAI」で、初演の資料を基に新たな構想で復活。その後歌舞伎座でも再演されている。『蛇柳』は・・・高野山の麓にある柳で、弘法大師の功徳で千年の緑を得たという逸話があります。実は・・・柳ではなく杉の一種で、花に蛇の鱗のような模様があることから蛇柳と呼ばれたという説もあります。嫐(うわなり)・・・とは? うわなり「嫐」「嫐」うわなり・・・とは?女・男・女と書いて「うわなり」と読みます。後妻、もしくは、女性の嫉妬を意味する言葉。古代に、離縁になった先妻の親類の女性たちが、後妻の家に乱入して復習する習俗があり、「うわなり打ち」と呼ばれていた。やがて「うわなり」は、嫉妬の怨恨の意味に転じ、「嫐」という和製漢字を宛てるようになった。元禄12年(1699年)7月江戸中村座で、初世團十郎が演じた『一心五界玉』は、妾に対する本妻の嫉妬の怨念が娘に憑依する芝居で大当たりしたという記録がある。昭和11年(1936年)4月、十世團十郎は、三世歌川豊国の描いた歌舞伎絵をもとに山崎紫紅脚本で復活。十三代目團十郎も、平成27年(2015年)10月、シンガポール・マリーナベイサンズ「EBIZO ICHIKAWA XI'S JAPAN THEATER 2015」にて、まったく新たな着想により上演した。ほかに二世尾上松緑も復活上演を手がけている。(写真撮影:歌舞伎座ギャラリーにて/ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.11
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十三代目市川團十郎白猿は、歌舞伎十八番を新たな着想で通し狂言『壽三升景清』として、『関羽』『鎌髭』『景清』『解脱』の4作品を上演しました。 かんう「関羽」関羽(かんう)・・・とは?「三国志」の英雄関羽は、江戸時代の人々にとって馴染みが深く、二世團十郎が、元文2年(1737年)11月江戸河原崎座の『閏月仁景清』一番目大詰で、畠山重忠が扮する関羽を演じたのが初演。二世團十郎は、その後趣向を変えつつ、二度「関羽の荒事」を演じているが、その後上演は絶えた。九世團十郎は、明治6年(1873年)劇中劇として演じ、十世團十郎は、岡鬼太郎の創作した脚本で上演している。これは、二世市川左團次が復活したものの再演である。また、二世尾上松緑も復活を試みている。十三代目團十郎は、平成26年(2014年)1月新橋演舞場において、歌舞伎十八番の内『関羽』『鎌髭』『景清』『解脱』の4作品を、新たな着想で通し狂言『壽三升景清』(川崎鉄男・松岡亮脚本)として再構成し上演。京都南座でも再演されている。鎌髭(かまひげ)・・・とは? かまひげ「鎌髭」鎌髭(かまひげ)・・・とは?鍛冶屋四郎兵衛(実は三保谷四郎)が、廻国修行者快哲(実は悪兵衛景清)の首を髭剃りにかこつけて鎌で掻こうとするが、景清は、不死身のため切れない。安永3年(1774年)4月、江戸中村座で四世團十郎が演じた『御誂染曽我雛形』が初演とされる。十三代目團十郎は、平成25年(2013年)5月京都南座で、川崎哲男・松岡亮改訂により「大荒事」として復活させた。また、平成26年(2014年)1月新橋演舞場において、川崎哲男・松岡亮脚本の通し狂言『壽三升景清』として上演し、9月南座でも再演。さらに、平成28年(2016年)7月歌舞伎座において、『壽三升景清』から『鎌髭』と『関羽』の場面を「歌舞伎十八番の内」として上演している。(写真撮影:歌舞伎座ギャラリーにて/ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.10
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煩悩に負けた景清が「解脱」に至るまでのお話です〜なんと美しい景清さんですげだつ「解脱」解脱(げだつ)・・・とは?「景清物」と呼ばれる演目のひとつ。源氏に怨みを抱く悪七兵衛景清が、煩悩から解放され解脱に至る。宝暦10年(1760年)3月江戸市村座、四世團十郎による『曽我万年柱』の所作事『鎌入解脱衣』を初演とするのが通説。大正3年(1914年)に、二世市川左團次が山崎紫紅脚本で復活した作と、昭和7年(1932年)に、十世團十郎が山﨑紫紅脚本で復活した作がある。十二世團十郎は、吉井勇脚本を用い、平成4年(1992年)1月国立劇場で上演している。十三代目團十郎は、平成26年(2014年)1月新橋演舞場で、川崎哲男・松岡亮脚本の『毒三升景清』を作りあげた。9月南座でも再演している。(十二代目市川團十郎さんのお話より)歌舞伎十八番の中には『景清』のほかにも、『関羽』『鎌髭』『蛇柳』といった景清物があり、『解脱』もその一つです『解脱』は・・・四代目の当たり役でしたが、原作は残っていませんその後、大正3年に歌人の吉井勇の脚本で、二代目左團次が復活上演し、昭和7年には、祖父:三升が、山崎紫紅の脚本で上演しています。平成4年、国立劇場初春歌舞伎公演で『解脱』を上演することになり、できることなら、祖父の演じた『解脱』を再演したいと思いました。しかし、この脚本では、登場した景清は、すぐに釣鐘の中に入ってしまい、主役としての活躍の場がありません!結局、左團次さんが、演じられた脚本を基に、国立劇場の方と再検討して上演にこぎつけました。【国立劇場の解説】とは?景清は、京の清水寺に身を隠し、平家再興の機をうかがいながらも、遊女阿古屋と馴染を重ね、酒に溺れる放蕩三昧の日をおくっていました。梶原平三景時の計略で、釣鐘に閉じ込められた阿古屋をなんなく救い出した景清ですが、平家の重痣丸をめぐる争いに負けてしまいます。己の放埒を恥じた景清は、煩悩の原因でもある阿古屋を再び釣鐘に閉じ込め、「平家滅ぶも滅ばぬも、 みなこれ蜉蝣(かげろう)の夢」と悟り、解脱するというのが「あらすじ」です。 解脱とは煩悩の束縛を解き、 世俗の苦しみから脱するという仏教語です。 景清を迷わせた阿古屋は、 九代目澤村宗十郎さんが演じてくださいました。景清は、「牢破り」「錣引(しころびき)」という怪力伝説のある武将で、『解脱』には、大きな釣鐘を持ち上げて、超人振りを発揮する見せ場があります。この場面は、歌舞伎十八番の荒事らしい絵面になるように熟考しました。きのこ雲のような不思議な形をした景清の髪は、錦絵の中から探しだしたものです。また、解脱した景清の衣装は、黒地に北斗七星に象徴させてみました。『解脱』には検討したいところがたくさんあります。(参考文献:新版歌舞伎十八番/十二代目市川團十郎著より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.09
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景清は平家のお侍で、牢屋に捕らえれてしまいその牢破りのお話ですですが長い間演じられなかった演目ですかげきよ「景清」景清(かげきよ)・・・とは?平家の侍・景清が、捕らえられた牢を破る荒事を見せる演目。享保17年(1732年)江戸中村座おおいちょうさかえかげきよ『大銀杏繁栄景清』で、二世團十郎が演じたのが始まり。以降代々の團十郎が「牢破りの景清」を演じているが、七世團十郎以後上演は絶える。十二世團十郎は、昭和48年(1973年)8月の国立劇場第七回荒磯会にて加賀山直三補綴で復活上演した。同作は野口達ニの改訂で歌舞伎座でも再演された。十三代團十郎は、平成26年(2014年)1月新橋演舞場において、歌舞伎十八番の内『関羽』『鎌髭』『解脱』の4作品を、新たな着想で通し狂言『毒三升景清』(川崎哲男・松岡亮脚本)として再構成し上演。京都南座でも再演された。さらに平成28年(2016年)7月には、歌舞伎座において、『毒三升景清』から『鎌髭』と『関羽』の場面を「歌舞伎十八番の内」として上演している。(十二代目市川團十郎さんのお話より)『景清』は・・・二十代の時に荒磯会(あらいそかい)で初めて演じました。荒磯会はもとは父が弟子のためにつくった発表会で、新富町の松志満(まつしま)という料理屋の座敷で内輪にやっていた浴衣会(ゆかたかい)のようなものです。この発表会を少し大掛かりな勉強会に発展させて、昭和38年に永田町の砂防会館で、第一回荒磯会を催しました。当時、高校生だった私(十二代目)は、『勧進帳』の弁慶を初めて勤めました。荒磯会は、父(十一代目)の存命中に2回公演し、その後もしばらく続けていました。【景清の復活】歌舞伎十八番の中でも、陰(いん)の英雄ともいえる平家方の武将「景清」を主役にすえた演目には、以前から興味があり、自分のやりたい狂言が自由にできる荒磯会で悪七兵衞景清(あくしちびょうえかげきよ)を演じてみたいと思い立ちました。脚本は、加賀山直三先生にお願いしましたが、髪も衣装も役者の動きも、全て自分で考えるという経験はこの時が初めてでした。隈取りは、痩せ衰えた顔を表現する「半隈(はんぐま)」にし、『景清』の眼目である牢破りは、どんな動きで暴れ、牢はどのように壊れるのか・・・芝居を構築していく復活の作業は、実に勉強になりました。景清が材木を持って暴れている絵を参考にして、立ち廻りもつくりましたが、実際に動いてみると角材は、しだいに重くなり、手があがらなくなる程でした。私(十二代目)はこの芝居で、理想の舞台を創るたのしさと、実際に舞台で表現する難しさを知りました。また、劇中では景清の恋人阿古屋(あこや)と、娘の人丸(ひとまる)が、三曲(琴・三味線・胡弓)を弾く場面があります。女方が三曲を弾く芝居は、『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』の阿古屋の琴責(ことぜめ)が有名ですが、あれほど長い演奏ではなく、女方の見せ場として三曲が生きるように演出しました。『景清』は、初めて復活に取り組んだ思い出深い狂言なので、もう一度あらい直して再演したいと思っています。(参考文献:新版歌舞伎十八番/十二代目市川團十郎著より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.08
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お正月らしい演目。外郎売(ういろううり)は、七代目新之助襲名披露でパパも六歳で演じています十三代目市川團十郎白猿(パパ)の外郎売ういろううり「外郎売」外郎売(ういろううり)・・・とは?享保3年(1718年)1月、江戸森田座の『若緑勢曾我』で、二世團十郎によって初演された。小田原の外郎という薬の効能を言立てる芸であり、独立した上演はなく絶えていたが、七世團十郎が、天保3年(1832年)に、『助六』の中で当時子役だった八世團十郎に演じさせて復活した。大正11年(1922年)十世團十郎は、平山晋吉脚本で舞踊劇として上演。昭和55年(1980年)には、十二世團十郎が野口達二脚本で復活させた。昭和60年(1985年)5月、十三代目團十郎は、七代目新之助を名乗っての初舞台で、野口達ニ改訂により、貴甘坊が言立てを演じる趣向で上演。(八代目新之助の外郎売)令和元年(2019年)7月歌舞伎座でも、八代目新之助が早口言立てを勤めた。(十二代目市川團十郎さんのお話より)『外郎売』も独立した芝居ではなく、一つの演技形態といえます。「外郎」という名の渡来人が、小田原で売り出した薬とうちんこう「透頂香(通称:ういろう)」を売り歩く時の宣伝口上つまり「言い立て」を弁舌爽やかにお聞かせする趣向です。父は、市川宗家と養子縁組をして、九代目海老蔵を襲名した昭和十五年五月、歌舞伎座で川尻清澤先生の脚本による『ういろう』で外郎売を演じています。舞台は鬱蒼とした箱根権現の杉林、ちょうどつじあんどん いもせやまおんなていきん辻行燈が並んでいる『妹背山婦女庭訓』の道行のような装置で、外郎売に身をやつした曾我の五郎と虚無僧の十郎が、そこで仇の工藤裕経と出会うという筋です。この『ういろう』には、眼目の言い立てがなく、その部分は長唄と常磐津による踊りでした。私(十二代目)は、昔のように外郎の言い立てを復活できないものかと構想を練りましたが、肝心の言い立てをどのようにしゃべったらいいのか見当がつきません。その後、思いがけなく外郎の言い立てをしている講談師のテープの断片が見つかり、それが突破口となりました。さっそく劇作家の野口達二先生に構想を伝えて台本を書いていただきました。野口先生は、ひとりでしゃべるにはあまりにも膨大な量の「言い立て」を大薩摩を入れてちょうどいい寸法にしてくださいました。舞台装置も背景を富士山にして、松を配し、二代目が活躍した頃の芝居小屋を模して破風造りの屋根をかけるなど、私の希望をくんで、鳥居清光先生に道具帳を描いていただきました。『外郎売』復活には、また現実的な理由もありました。歌舞伎の正月公演には、曾我物を上演する習慣があり、長い間に上演された曾我物の芝居は数知れずあるのです。ところが、近年ではことぶきそがのたいめん『寿曾我の対面』ばかりで、若手の頃の私も朝の序幕に『対面』ばかりやらされていました。『対面』にかわる明るくめでたい曾我物はないかと考え思いついたのが『外郎売』でした。こうして復活した『外郎売』は、その後幾度も再演する機会を得て、2002年、襲名した松緑も演じてくれました。倅の新之助(現:十三代目團十郎幼少期)は、六歳の初舞台に私(十二代目)とふたりで外郎売を勤めました。そして2022年12月孫の八代目市川新之助は九歳での初舞台襲名披露で外郎売を演じています。お爺ちゃまもきっと喜んでいらっしゃることでしょう。(参考文献:新版歌舞伎十八番/十二代目市川團十郎著より)(写真撮影:歌舞伎座ギャラリーにて/ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.07
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成田屋のお家芸「勧進帳」は、歌舞伎十八番で成田屋にとって特別な演目なのです。そのお稽古とは十三代目市川團十郎白猿の勧進帳かんじんちょう「勧進帳」勧進帳(かんじんちょう)・・・とは?兄・頼朝と不和になり、奥州に落ち延びる源義経と武蔵坊弁慶をはじめとする一行が、加賀国安宅関にさしかかり、弁慶の動きと、とがしのざえもん関守冨樫左衛門の温情により無事関所を通過する人気作品である。天保11年(1840年)3月、江戸河原崎座で、七世團十郎により初演された長唄の舞踊劇。初團十郎が『星合十二段』で演じて以来、代々の團十郎が、弁慶が勧進帳を読んで、関所を通る趣向の演目を上演してきた。本作は、それらと内容趣向が大きく異なり、能の「安宅」や講談、一中節などの先行作を取り入れた作品であり、「松羽目物」の嚆矢(こうし)とされる。(十二代目市川團十郎さまのお話より)歌舞伎十八番は・・・七代目團十郎が、祖先の得意とした十八番の演目を制定したものですが、十八番の中でも、初代、二代目、四代目が創ったものと、七代目が新しく加えた『勧進帳』とでは、演劇的に大きな変化がみられます。それまで永く町人がみることのできなかった能の世界を、歌舞伎の舞台に移した完成度の高い本と演出は、荒事系の十八番と比べると演劇的に成熟しています。また、知・勇・仁の揃った芝居で、「仁」がはいったところが面白いと思います。『勧進帳』という演目が、我が家にとって特別であると感じたのは、父に弁慶をおそわった時です。私は十六歳でした。その時の稽古は、いつもとはまったく違って、まず自分の台本を丁寧に書き写し、父子で神仏にお参りをし、ようやく机に向かい合わせの正面で、せりふの講義に入りました。それは神聖な儀式のような稽古で、私は父の教えのなかに、魂の叫びのようなものを感じました。家の芸に対する認識は、この時の真剣な稽古から自然に植えつけられたように思います。江戸時代は、家の芸と言いますと、「他家は遠慮してやらない」というのが不文律でした。いろいろな方がなさるようになったのは、明治以降です。「またかの関」と言われるくらい『勧進帳』が頻繁に上演され、大切な狂言の乱発を許していいのかというご意見をいただき、叔父の二代目松緑に相談したことがあります。「そんなのは、 やりたい奴にやらせればいいじゃないか。 そのかわり、 お前が他の人のやれないような 立派な弁慶になればいい」と励まされましたが、未だに結論は出ず、悩むところです。(参考文献:新版歌舞伎十八番/十二代目市川團十郎著より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.06
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江戸時代のお正月のお芝居では「矢の根」という演目が必ず演じられたそうです やのね「矢の根」矢の根(やのね)・・・とは?曽我五郎が矢の根(矢じり)を磨く場面で知られている。正月に五郎が矢の根を研いでいると、大薩摩主膳太夫が年始に来て、年玉の扇子と宝船の絵を置いていく。その絵で見た初夢で、兄・曽我十郎の危機を知った五郎は、裸馬にまたがり兄の危機を救いに行くという内容。享保5年(1720年)1月江戸森田座のゆずりはこんげんそが『楪根元曽我』で、二世團十郎扮する曽我五郎が矢の根を研ぐ趣向が初めて演じられ、2度目の享保14年(1729年)1月江戸中村座のすえひろえほうそが『扇恵方曽我』の時、現行の台本や演出の基礎が出来上がったと考えられる。五世團十郎、七世團十郎、そして九世團十郎から現代にとその古風な演出が伝えられている。江戸時代は、正月の芝居に曾我十郎、五郎兄弟を主役にした曾我狂言を出すという決まりがありました。『矢の根』は、その曾我狂言のひとつです。芝居の筋は実に簡単で、初夢を楽しんでいる曾我五郎の夢枕に兄の十郎が立ち、父の仇工藤祐経の館に捕縛されていると語ります。飛び起きた五郎は、兄の窮地を救うため馬で駆けつけるというものです。二代目團十郎が、この『矢の根』を初演した時、芝居は大当たりで、正月狂言が五月まで続演されました。この大入りのお陰で座元は、薬研堀に衣装蔵を建て、蔵は「矢の根蔵」と呼ばれたそうです。なぜ、それほど人気が出たのでしょうか?炬燵櫓(こたつやぐら)に腰をかけた五郎がたずさえている身の丈ほどの大きな矢は、曾我兄弟の大志の象徴です。矢という武器は、特殊な威力があると信じられていましたから、隈取りをした五郎の姿は、魔を払う荒事の主人公らしい力を舞台いっぱいに漲らせ、それだけでも充分に江戸の観客を魅了したことでしょう。(参考文献:新版歌舞伎十八番/十二代目市川團十郎著より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.05
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歌舞伎の「なるかみ」というお話です〜鳴神(なるかみ)は、歌舞伎十八番の内 なるかみ「鳴神」鳴神(なるかみ)・・・とは?高僧が美女の色香に迷い破戒し、荒事になるという内容を持つ演目は、初世團十郎が始めたといわれるが不祥。二世團十郎も何度か上演し、寛保2年(1742年)1月大坂佐渡嶋長五郎座の『雷神不動北山桜』でほぼ確定したといわれる。その後、さまざまに改訂を加えながら上演されたが、幕末に八世團十郎が上演した後、絶えた。現行の「歌舞伎十八番の内」『鳴神』は、明治43年(1910年)5月、明治座において、二世市川左團次が、『雷神不動北山桜』により復活上演し、これが元となっている。『雷神不動北山桜』には、『鳴神』のほか、『毛抜』『不動』の場面があり、戦後全幕復活上演され、十三代目團十郎は、さらに独自の工夫を加え、通し狂言『雷神不動北山桜』としても上演している。(十二代目市川團十郎さんのお話より)主人公の鳴神上人(なるかみしょうにん)は、戒壇の許しが叶わぬことに腹を立て、日照りを起こし人々を苦しめているのですから、普通の芝居では悪僧になるのでしょうが、庵の中から現れる鳴神上人は、気品のある高僧で演じます。その高僧が大内第一の美女、雲の絶間姫(くものたえまひめ)の色香に迷って破滅する話が、『雷神不動北山桜』五幕目の『鳴神』です。『毛抜』の粂寺弾正が陽のエロスなら、鳴神上人は、陰の絵ロスで、『雷神不動北山桜』では、陰陽ふたつの男のエロスがみられます。したたかな女性が、何らかの目的のために男性を誘惑するには、「一角仙人」の昔から今日まで、男と女がある限りのくりかえしで、その微妙さは絶えずつきまとうことでしょう。雲の絶間姫は、「日照りの原因をつきとめ、雨を降らせる」という使命を全うすれば、許婚と結婚できることになっているので、あらゆる手段で上人を騙します。歌舞伎十八番のなかでも、『鳴神』と『解脱』は、女性の色香を主題にした特異な存在といえます。しかし、歌舞伎十八番の男女には、和事的な情熱や未練、精神的な屈折などはあまりなく、肝(はら)のなかに思いはあってもカラッとしているのです。歌舞伎十八番ができた頃の江戸の芝居には、こういうものが根本にあったのでしょう。(参考文献:新版歌舞伎十八番/十二代目市川團十郎著より)(写真撮影:歌舞伎座ギャラリーにて/ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.04
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私が観たい歌舞伎は「しばらく」という演目です。あのメイクと衣装はどうなっているのでしょうしばらく「暫」暫(しばらく)・・・とは?善人たちが悪人に苦しめられ、あわや命の瀬戸際という際に「しばらく」と声を掛け、超人的な力を持つ正義の味方、通称「暫」が登場し、悪人どもをやりこめるという内容。江戸歌舞伎では・・・毎年11月に時代や場所、名前を変えて「暫」を上演するのが恒例であり、さまざまな役名、趣向の「暫」が創作られた。そのため「暫」は、この場面の通称であり、主人公の通称でもあった。元禄10年(1697年)1月江戸中村座において、初世團十郎が『参会名護屋』で、この趣向を演じたのが始まりとされる。現在の上演は、明治28年(1895年)11月歌舞伎座における九世團十郎上演時の台本(福地桜痴改訂)と演出を受け継いでいる。(十二代目市川團十郎さんのお話より)しばらく『暫』は・・・歌舞伎十八番の中でも、荒事の代表作と言える芝居で、内容は荒事の基本である勧善懲悪です。「しばらく」とは・・・主人公が登場するときの掛け声で、善人たちが悪人の刀にかかろうとするその瞬間に「しばらく」と声をかけて主人公が現れ、悪人どもを成敗します。そのため主人公は通称「暫」と呼ばれます。暫の【扮装】・・・とは?暫は、小山のような大男です。海老の胸鎧と手甲(てっこう)をつけ、足には高さ30cmほどの継ぎ足を履き、背中には、仁王襷(におうだすき)、その上から柿色の素襖(すおう)を着込みます。素襖の両袖には、竹の張りが入っているので、かなりの大きさになります。暫の頭は・・・角前髪(つのまえがみ)の車鬢(くるまびん)に力紙(ちからがみ)をさします。これだけ大掛かりな扮装ですから、歌舞伎座の鳥屋口(とりやぐち)でも出入りはギリギリいっぱいです。昔の小さな芝居小屋で、あの扮装をした人間が花道に出てきたら、お客様はさぞ驚いたことでしょう。山が動くような光景を昔の小さな小屋でどのように演じていたのか、大変興味深いところです。暫の扮装は、足に履いている継ぎ足の重みで、全体の均衡を保っています。上半身も下半身も重いので重さが相殺されるのでしょうか、よく考えたものです。衣装は・・・専属の衣装方と弟子が5人がかりで、汗だくになって着せてくれます。紐を締めるときは、私の体に足をかけて、左右に一人ずつぶら下がるようにしっかりと締めます。素襖の袖に入れる2本の張は、交差させる加減が大変微妙で・・・角度や位置がわずかにずれると、花道で両袖を押さえていられないくらい辛くなりますとにかく重い扮装ですが、すべてがきちんと収まった時は、存外楽なものです。暫にかぎらず、荒事の衣装は着せ方次第なのです。また、衣装は25日間使いますから傷みが激しく、作り替えることが多いのですが、新調は思いのほか難しいものです。暫の衣装は特殊なので気を使って作ってもらいますが、以前新調した時は、生地がわずかに厚かったため仕立て上がったものは身動きのとれない程重くなってしまいました。寸法も染めも同じはずなのに、新規のものはほんのわずかなことですがどこか違うのです。(参考文献:新版歌舞伎十八番/十二代目市川團十郎著より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2023.01.03
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カレンダーは、あまり多くお部屋に飾りたくないのですが〜これは、ちょっと欲しいかも2023年「かぶきカレンダー」表紙は・・・「景清」です1月〜2月 3月〜4月5月〜6月7月〜8月9月〜10月11月〜12月ネットでも買えるみたいです(定価:1600円)世界遺産にぽち
2023.01.02
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新年明けましておめでとうございます〜今年もよろしくお願い申し上げます 2023年1月1日 東京 日本橋 歌舞伎座にて ほしのきらり若むらさきに とかえりの花をあらわす 松の藤浪一目せき笠 しゃんと振りかかげたる 一枝は、紫深き 水道の水に 染めてうれしかりきゆかりの色にいとしと書いて藤の花エエ しょんがいな裾もほらほら しどけなく鏡山 人のしがより この身のしがをかへりみるめの 汐なき海に娘すがたの はづかしや男ごころの憎いのは、ほかのおなごに 神かけてあはづと三井のかねごとも堅い誓いの石山に身はうつせみの から埼やまつ夜をよそに 比良の雪とけて 逢瀬の あた妬ましいようものせたにゃ わしゃのせられて文も堅田の かただよりこころ矢崎の かこちごと松を植よなら 有馬の里へ植えさんせいつまでも 変わらぬちぎりかいどりづまで よれつ もつれつまだ寝がたらぬ宵寝まくらの まだ寝が足らぬ藤にまかれて 寝とござるアア何とせうか どせうかいなわしが小まくら お手まくら空もかすみの夕照りに名残し惜しみて 帰る雁金世界遺産にぽち
2023.01.01
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成駒屋「九代目中村福助」さん・・・とは?九代目 中村福助きゅうだいめ なかむらふくすけ1960年10月29日-(2022年末現在:62歳)本名=中村栄一日本の歌舞伎役者・俳優。屋号=成駒屋定紋=成駒屋祇園守襲名=中村屋児太郎→九代目中村福助父=七代目中村芝翫(なかむらしかん)弟=八代目中村芝翫長姉=二代目中村梅彌(日本舞踊家)次姉=波野芳江(十八代目中村勘三郎夫人)長男=六代目中村児太郎娘=一般人。青山学院高等部中退。身長=172cm血液型=O型福助さんのエピソード福助さんは、Mだと思う。少なくとも舞台の上では・・・S役より、M役の方が輝いている。おうしゅうあだちがはら「奥州安達原」で、雪の中で切腹してしまう盲目の娘、袖萩(そではぎ)の可哀想さったらなかったその哀れさを盛り上げていたのが「母性」。一人娘の「お君」をかばう様子は情が深く、M役に「母性』がプラスされると、さらにいい感じ。さかなやそうごろう「魚屋宗五郎」で、折檻されて殺されるMの見本のような「お蔦」役も、憂いとコクが、これまた絶品だった。そもそも福助さんは・・・「傾いた」女形だ。発散する役では、はじけ過ぎじゃないかという意見もある。でも私は、「やれば出来る子なんだから!」と、声を大にして言いたい。ポイントは「拘束具」だ。表に出ようとする過剰さを、押し込める拘束具。それは時代物だったり、大幹部との共演だったり、我慢を強いられる役だったり。拘束された福助さんてば、なんとも言えない色気があるのよね。そんなことを思う私って、Sなんでしょうか?2013年著者「辻和子」さま(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)良いお年を・・・。無形文化世界遺産にぽち
2022.12.31
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幸四郎さんは、歌舞伎座十二月大歌舞伎の舞台で「鞘当」の名古屋山三のイケメンを演じました十代目 松本幸四郎じゅうだいめ まつもとこうしろう1973年1月8日-(2022年末現在49歳)本名=藤間照薫(ふじま てるまさ)日本の歌舞伎役者日本舞踊松本流の三世家元=松本錦升(まともときんしょう)屋号=高麗屋定紋=浮線蝶替紋=四ツ花菱襲名=三代目松本金太郎→ 七代目市川染五郎→十代目松本幸四郎出身地=東京血液型=AB型父=二代目松本白鸚(はくおう)母=藤間紀子姉=松本紀保(女優)妹=松たか子(女優)妻=藤間園子長男=八代目市川染五郎長女=松田美瑠身長=175cm体重=80kg血液型=AB型高麗格子こうらいごうし太い筋と細い筋が交互に交差している格子模様。横より縦の間隔が広い。歌舞伎衣装につけられた「歌舞伎模様」の一つ。四代目松本幸四郎の屋号「高麗屋」にちなんだもの。五代目松本幸四郎が「幡随院長兵衞」の役のときに、この格子縞の合羽を用いて好評を博した柄。幸四郎さんのエピソード染ちゃん(染五郎時代の話)2013年「辻和子」さまの著書より戦国時代の凛々しい先鋒歌舞伎座休業中に、ベテランの歌舞伎役者が続々と鬼箱に入った。歌舞伎の世界も、否応なく世代交代が進んでいる。若い世代は、これからは「戦国時代」に入るだろう。その先方となりそうなのが、平成24年の大けがから復活した「染ちゃん」だ。いやホントに、国立劇場の奈落に落ちたと聞いた時は、ヒヤリとしましたよ。しかし、この不運な出来事も、染ちゃんには力になりそう。舞台が大好きな染ちゃん、休業中は、さぞかし不安だっただろう。身体は元のように動くだろうか?舞台勘は、取り戻せるだろうか?しかしその心配は、杞憂に終わった。先輩の例を見ても、試練を経験した役者さんは、みな一回りも二回も大きくなっている。染ちゃんも当たり役の「龍馬がゆく」の坂本龍馬のように、果敢に挑んでいってほしいぜよ!(2013年)(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.30
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12月の歌舞伎座で、六代目中村勘九郎は、京鹿子娘二人道明寺で白拍子花子を見事に演じ二代目中村七之助は、助六由縁江戸桜で、美しい三浦屋揚巻を演じました来年、観覧予定の中村屋さんについて調べてみました六代目 中村勘九郎ろくだいめ なかむらかんくろう1981年10月3日-(2022年末現在:41歳)襲名=二代目中村勘太郎→六代目中村勘九郎本名=波野雅行(なみのまさゆき)日本の歌舞伎役者、俳優。屋号=中村屋。日本の歌舞伎役者、俳優。屋号=中村屋。定紋=角切銀杏、替紋=丸に舞鶴。出身=東京身長=174cm体重=65kg定紋=角切銀杏、替紋=丸に舞鶴。出身=東京身長=174cm体重=65kg血液型=0型好きな色=なす紺→黒→緑。好きな食べ物=寿司。華麗なる【中村屋さん一族】を受け継いで曽祖父=三代目中村歌六(父方の父方) 六代目尾上菊五郎(父方の母方) 五代目中村福助(母方の父方)祖父=十七代目中村勘三郎(父方) 七代目中村芝翫(母方)父=十八代目中村勘三郎母=波野好江(七代目中村芝翫の娘)弟=六代目中村七之助。長男=三代目中村勘太郎次男=二代目中村長三郎。(今年も徹子の部屋に出演)二代目 中村七之助にだいめ なかむらしちのすけ1983年5月18日-(2022年末現在:39歳)本名=波野隆行(なみのたかゆき)日本の歌舞伎役者、俳優。屋号=中村屋。日本の歌舞伎役者、俳優。屋号=中村屋。定紋=角切銀杏、替紋=丸に舞鶴。出身=東京身長=174cm血液型=O型曽祖父=三代目中村歌六(父方の父方) 六代目尾上菊五郎(父方の母方) 五代目中村福助(母方の父方)祖父=十七代目中村勘三郎(父方) 七代目中村芝翫(母方)父=十八代目中村勘三郎母=波野好江(七代目中村芝翫の娘)兄=六代目中村勘九郎義姉(兄の嫁)=前田愛。中村屋のエピソード2013年著書「辻和子」さまより、私の自慢のひとつが、「中村屋三代をリアルタイムで見ている」事。十七代目 勘三郎十八代目 勘三郎そして、現中村屋兄弟。このぶんでいくと・・・たぶん四代は見られそうだ。十七代目が没した直後の事もよく憶えている。当たり役だった「髪結新三」のいなせな新三を、当時勘九郎だった十八代目が演じた時、客席から「ジワ」(感嘆のどよめき)がきた。「お父さんそっくり!」というジワ。そして十七年後、十八代目の襲名披露公演で、長男の勘九郎(当時、勘太郎)の声姿に接した観客からも、またまた同様のジワがきた。十七代目が父を失った時は、三十代前半であり、現在の勘九郎の年齢にも近い。当時、十七代目も途方に暮れたそうだが、中村屋兄弟も同様だろう。でも十七代目は、父の死を乗り越えて大きな役者になった。勘九郎の「鏡獅子」や「土蜘蛛」の頼もしさ、七之助の女形の清新さ。芸の魂は、人の身体を乗り継いで進化する。そんな不思議にうたれている。(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.29
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坂東流の家元であった坂東三津五郎さんは、アナウンサーの近藤サトさんと結婚していたことでも有名坂東三津五郎ばんどうみつごろう十代目 坂東三津五郎前名=五代目 坂東八十助本名=守田寿(もりたひさし)1956年1月23日-2015年2月21日(56歳没)日本の俳優・歌舞伎役者。日本舞踊=坂東流家元。定紋=三ツ大替紋=花勝見俳名=一万尺青山学院大学文学部中退。身長=167cm体重=61kg血液型=B型父=九代目 坂東三津五郎母=守田喜子(八代目 坂東三津五郎 長女)妻=1.寿ひずる(1983年-1997年)妻=2.近藤サト(1998年-2000年)長女=守田菜生(女優)次女=守田幸奈(舞踊家)長男=二代目坂東巳之助。従妹=池上季実子(女優)2013年8月、腎臓に腫瘍が見つかり手術・治療・入院。2015年2月21日、腎臓癌のため死去(享年59歳)坂東三津五郎・エピソード「この人誰?」「伽羅先代萩」の通しを三階席で観た時の事。正義のお局・沖の井を演じる役者さんに見覚えがない。悪役・八汐を、悪計の証拠の手紙をヒラヒラ見せびらびらかして、からかう様子を見てわかった、三津五郎だ!珍しい女形だが、その身のこなしは、とても鮮やかなのだった。踊りの上手さは現代歌舞伎界トップ。重力を感じさせない柔らかさと切れ味。芝居では・・・何を演じても「らしさ」が漂う。「髪結新三」の若い手代と老獪な大家、武家のお局から、勧進帳の弁慶まで、「オール5」の秀才役者だ。でも私は・・・そんな秀才の隙間が愛しい。たとえば、「大江戸りびんぐでっど」のお間抜け侍。「この角度が気に入っているんだ」と、終始寝違えたように首をかしげてキメ目線、そして、ゾンビにされた姿の好いたらしさったら!遠い昔、俳優祭で、演歌歌手に扮した姿を見た時から、秀才の見せるそんな瞬間に、今でも胸キュンなのだ。2013年「辻和子」さま著(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.28
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坂東玉三郎と言えば〜女方の美しい人間国宝の「玉さま」です〜一度で良いので最前列でそのお姿を坂東 玉三郎ばんどうたまさぶろう五代目 坂東玉三郎1950年4月25日〜(2022年末時:72歳)日本の歌舞伎役者・映画監督・演出家。出身地=東京。屋号=大和屋定紋=花勝見(はなかつみ)替紋=熨斗菱(のしびし)重要無形文化財保持者『人間国宝』日本藝術院会員。武蔵野音楽大学特別招聘教授。十四代目森田勘弥(もりたかんや)の養子。本名=森田伸一(もりたしんいち)通名=森田親市(もりたしんいち)旧姓=楡原(にれはら)身長=174cm体重=61kg血液型=B型坂東玉三郎・エピソード「玉さま」が、花道に現れた途端。オーラが見える本当にそこだけ明るくなっているみたい。「ニザさま」にしても、「玉さま」にしても、テレビや普段のお姿は、たれ目だったり、撫で肩だったりするフツーのオジサマで、ものすごくかっこよくも美形でもないのだが、舞台に立った時の、この変わりようはどうだろう。そんな「玉さま」の美意識は、衣装や小道具、舞台から照明、果ては、相手役に至るまで行き届いている。衣装の刺繍の一部を見ただけで、「こことここは違う人が縫っている」と看破する「玉さま」。当然、その「美へのオーケー出し」。もしくは、「ダメ出し」は、自分に最大限、向けられるだろう。「うん、今の僕、オーケー」。玉さまの凄いところは、このオーケー出しが、観客のオーケー出しと、寸分たがわずピタリと重なっているところ。自分の美を信じきれる力がなければ、オーラなんて出ないのだ。 2013年著者「辻和子」さま(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)(写真撮影:ほしのきらり)国宝にぽち
2022.12.27
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二代目中村吉右衛門さん・・・とは?人間国宝です。中村吉右衛門なかむら きちえもん二代目 中村吉右衛門1944年5月22日-2021年11月28日(77歳没)本名=波野辰次郎(なみの たつじろう)日本の歌舞伎役者。屋号=播磨屋定紋=揚羽蝶替紋=村山片喰日本芸術院会員重要文化保持者「人間国宝」位階=正四位。旭日重光章受賞(没後追贈)身長=178cm体重=79kg血液型=B型星座=ふたご座襲名歴1.中村萬之助2.二代目中村吉右衛門 別名=松 貫四(まつ かんし)二代目父=初代松本白鸚初代吉右衛門(養父)母=藤間正子(初代中村吉右衛門の娘)兄弟=二代目松本白鸚(兄)妻=波野知佐子供=娘四人(うち3人は独身?)四女は、波野櫻子(なみのようこ)四女:夫=尾上菊之助と2013年結婚。菊ちゃんとの間には、現在:子供は3人2013年11月28日(長男)和史くん・・・歌舞伎デビュ済2015年7月14日(長女)知世ちゃん2017年9月4日(次女)新ちゃん後継問題は、解決できるのでしょうか?中村吉右衛門・エピソード面白い芝居、楽しい芝居を魅せてくれる役者さんはたくさんいるが、なかなか「あっち側」に連れて行ってくれる人は、そうはいない。あっち側とは・・・たとえば花咲く高原を散歩していて、ふとたどり着いた崖下を見ると、吸い込まれそうな深い谷間が広がっていて、思わず息を呑むという感じ。高原は・・・山の高さと堆積の深さがあってこそ、美しい花も咲く。キッチーの芝居には、そんな深みと、ゴツゴツした面白さと、見知らぬ昔へと誘う闇がある。「一条大蔵ものがたり」「熊谷陣屋」などの時代物はもちろん、「盟三五大切」の殺人鬼・源五兵衛や、「引窓」の滋味あふれる町人・南与兵衛、「極付番随長兵衛」の苦みばしった親分肌は、現代歌舞伎の最高峰だろう。そして芝居とは、面白くなければならない。登場人物が「今何を思っているか」を表現するキッチーの技は、折り紙つき。あっち側を存分見せてくれるのだ。2013年著者「辻和子」さま(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.27
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尾上菊之助さんの菊五郎パパさんについて知っておきます〜このお方は、人間国宝です七代目 尾上菊五郎しちだいめ おのえきくごろう1942年10月2日〜(2022年末現在:80歳)本名=寺嶋秀行(てらしまひでゆき)日本の歌舞伎役者。屋号=音羽屋定紋=重ね扇に抱き柏身長=167cm体重=65kg血液型=AB型父=七代目尾上梅幸妻=富司純子長女=寺嶋しのぶ長男=五代目尾上菊之助尾上菊五郎のエピソード・・満足力と変身力・・私(辻和子)が、菊パパを思う時、まず足、尻はしょりした着物、そして頬かむりした顔、という順番で、頭の中に浮かんで来る。そう〜「雪暮夜入谷畦道」の直次郎の姿だ。おたずね者の直次郎は、雪の降る夕暮れ時、この寒いのに酔狂にも、素足に下駄でやって来る。この足が貧相に見えたらこの役目は終わりだが、菊パパの足はいい。どういう訳だか菊パパの当たり役は、弁天小僧やら、魚屋宗五郎やら、露出する役が多い。ちなみにパパは「変身」も大得意だ。みやこどりながれのしらなみ「都 鳥 廓 白 浪」のように、男から女へ、女から男へ、こんなに違和感なく、羽織一枚、手ぬぐい一本使うだけで、スイスイ変われる人はいない。菊パパ着せ替えフィギュアがあれば、ぜひ買い求めたい。素足力と変身力の秘密がわかるかも知れない。 約10年前の記事=2013年著者「辻和子」さま(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.26
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片岡仁左衛門さん!片岡孝夫さまとお呼びする方が多いかも知れませんニザさま。とは?片岡仁左衛門かたおかにざえもん1944年(昭和19年)3月14日〜(2022年末現在:78歳)本名・芸名=片岡孝夫襲名=十五代目 片岡仁左衛門日本の歌舞伎役者。屋号=松嶋屋定紋=七つ割丸に二引替紋=追っかけ五枚銀杏父=十三代目 片岡仁左衛門出身地=大阪府大阪市子=片岡孝太郎片岡仁左衛門のエピソード 魅惑の神器一声 二振り 三姿という言い方がある。役者にとって大事なのは、まず声の調子、身のこなし、ルックスというわけだ。ニザさまは、この「三種神器」全てを備え、セクシーさと上方出身者らしい愛嬌も搭載。さらに生まれ持ったセンスで、「涼やかなセクシーさ」という、必殺の個性を打ち立てた。十分突っ込んだ芝居なのに、少しもベタつかない、暑苦しくない、くどくない。神器は人気に通ず。それがニザさまである。器そのものの立派さを思わせるエピソードも。平成十九年、大阪松竹座に出演中の海老蔵の突然の事故。代演を伝える館内放送に、観客席はどよめいた。座頭のニザさまが、「女殺油地獄」の与兵衛を代演したのだ。ニザの当たり役だが、本人は、若さが必要な役だと、もう演じないつもりだったそう。しかしこれが昔と少しも変わらぬ若々しさで、場の混乱も避けられ、座頭としての責務も立派に果たした。これぞニザ様である。 2013年著者「辻和子」さま(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.26
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12月歌舞伎座公演では「京鹿子娘二人道成寺」の白拍子花子を演じ美しい舞を披露しています五代目尾上菊之助・・・とは?五代目 尾上菊之助ごだいめ・おのえきくのすけ本名=寺嶋和康(てらしまかずやす)1977年(昭和52年)8月1日〜年齢=2022年末現在:45歳日本の歌舞伎役者。屋号=音羽屋。定紋=重ね扇に抱き柏。替紋=四つ輪。歌舞伎名称=尾上菊之助。青山学院大学中退。身長=173cm血液型=B型祖父=七代目尾上梅幸父=七代目尾上菊五郎母=富司純子姉=寺島しのぶ妻=二代目中村吉右衛門の(四女)長男=二代目尾上丑之助約10年前の記事=2013年著者「辻和子」さま(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)アンドロイドからの脱皮 尾上菊之助どこか、アンドロイドみたい・・・。以前は菊ちゃんを観るたびに、そう思っていた。美貌でソツがないのだが、何かの血の通っていない感じ。しのぶお姉ちゃんとはずいぶん違うなあと。そんな印象が、しんれいやぐちわたし「心霊矢口渡」のお舟役で一変田舎の美少女・お舟が、一夜の宿を請うイケメン貴公子をひと目見るなり、たちまち恋に落ちる場面。貴公子を見た瞬間の、菊ちゃんの表情が、もう最高「ウッソ〜」と、花が開いたような満面の微笑み。それは、アンドロイドからの脱皮だった。それから数年後、菊パパと共演した「生身感」にあふれていた。そして、この原稿を書いている最中、婚約のニュースが飛び込んで来た。しかも、お相手は、中村吉右衛門のお嬢さんやったね菊ちゃんこれでもう〜すっかり生身の人だ。尾上菊之助さんのご家族父は、歌舞伎役者:七代目尾上菊五郎。母は、女優:富司純子。姉は、女優:寺嶋しのぶ。2013年2月、二代目中村吉右衛門の四女:瓔子(ようこ、30歳)と結婚。11月28日、第一子(長男)が誕生。2015年7月14日、第二子(長女)誕生。2017年9月4日、第三子(次女)が誕生。2019年5月3日、令和元年5月大歌舞伎「團菊祭」の「絵本丑若丸」に於いて長男が初舞台を踏み、自身の前名である「尾上丑五郎」を七代目として襲名した。(現在9歳)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.25
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猿之助さんは歌舞伎座2022年12月大歌舞伎の「鞘当」に出演、留女の重要な役でしたメリクリ最近「最初はパー」というドラマに出演してSix TONESのジェシー君と漫才師役を演じ特にリスペクトしている猿之助さんです四代目:市川猿之助・・・とは?四代目 市川猿之助よだいめ いちかわえんのすけ本名=喜熨斗 孝彦(きのした たかひこ)1975年(昭和50年)11月26日〜(2022年末現在:47歳)日本の俳優・歌舞伎役者。屋号=澤瀉屋(おもだかや)定紋=澤瀉。替紋=三つ猿。手ぬぐい(三つ猿紋)出身=東京。血液型=0型2012年6月、二代目市川亀治郎改め、四代目市川猿之助襲名。親=市川段四郎学歴=慶應大学。猿軍団の若きプリンス(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より) 2013年著者「辻和子」さま「才人」という言葉が良く似合う。「変幻自在」という言葉も似合う。歌舞伎や現代劇のみならず、エッセイから書評までこなし、福山雅治の年末コンサートでは、市川中車とともに襲名披露口上を述べ、中乗りまで披露して見せた。舞台演出も手がける、そのクリエーターぶりは、先代を彷彿とさせる。身体感覚のキレを生かし、女形も立役も踊れるのが強み。「義経千本桜」・四の切の狐忠信は、狐と人間の演じ分けが、まさに変幻自在。中車とは・・・近年になって顔を合わせたそうだが、親切に指導している様子に「大人」を感じて、感慨深かった、亀ちゃん(前名:亀治郎)、立派になったねえ。立派といえば、浮世絵や陶磁器の逸品をコレクションしているらしく、魯山人やら広重やら、役者の浮世絵絵に至っては、2000枚も所蔵しているそうで、その「何者?」感も、八面六臂のプリンスらしい。(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より)(写真撮影:ほしのきらり)メリクリにぽち
2022.12.24
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コロナウイルス蔓延のために襲名披露が遅れた海老さまの舞台を拝見できるようになりましたあの睨みが効いたのでしょうか?十三代目市川團十郎白猿・・・とは?十三代目 市川團十郎白猿じゅうさんだいめ いちかわだんじゅうろうはくえん1977年(昭和52年)12月6日〜(2022年末現在44歳)歌舞伎役者、現代劇や大河ドラマにも主演。本名=堀越孝俊(ほりこしたかとし)屋号=成田屋定紋=三升 替紋=杏葉牡丹旧名・・・七代目 市川新之助(いちかわ しんのすけ)十一代目 市川海老蔵(いちかわ えびぞう)俳名=白猿(はくえん)2022年10月31日、十三代目市川團十郎白猿襲名。愛称=海老さま、海老ちゃん身長=176cm体重=80kg血液型=AB型古典の大役を多くつとめ、高く評価を得ている。「海老さま」と人気のあった祖父:十一代目市川團十郎に、重ね合わせるファンもいる。現代歌舞伎を担う花形役者の一人。妻=小林麻央長女=四代目市川ぼたん長男=八代目市川新之助。市川海老蔵の三つのチカラ(参考文献:魅力満載!一番わかりやすい歌舞伎イラスト本より) 約10年前・2013年著者「辻和子」さま著旧、市川海老蔵の三つの力とは?目ヂカラ、家ガラ、これから。これが海老蔵の三つの力だ。市川家のお家芸・荒事には、「睨み」とうパフォーマンスがある。「ひとつ睨んでご覧に入れます」の口上とともに、大きな目でググッと睨んでもらうと、厄もはらえちやうのだ。だから、「目のちっちゃな團十郎や海老蔵」は、あり得ない。事実、「先代萩」のクールな悪人・仁木弾正などを演じる、海老蔵の目ヂカラときたら、これはもう「リアル浮世絵」だ。市川宗家は・・・そういった呪術的司祭なのである。先ごろ海老蔵は、父であり荒事の師でもある團十郎を亡くした。荒事(あらごと)・・・とは?荒々しい演技をする役柄で、超人的な力と稚気を併せ持っているのが特徴。しかし、團十郎も、十九歳で父を亡くしている。それからは自身で「人柄芸」とでも呼びたい、大らかな芸風を作り上げた。だから海老蔵だって、「これから」だ。團十郎パパとは違った「狂気」が魅力なので、どんどんかぶいてもらいたい。ただし舞台の上で、お願いね。(約10年前・2013年著者「辻和子」さま著書より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.23
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歌舞伎座でまず買いたいのは、手拭いかしら?昔からの名前があるのですね〜役者さんの手ぬぐいは江戸っ子のおしゃれアイテムだったみたいですね3300円團十郎の襲名披露の手拭いも売っております。歌舞伎座タワー5階の【お土産処・楽座】手拭いがいっぱい市川團十郎襲名披露で売っていた手ぬぐいの意味を調べてみました。構わぬかまわぬ「構わぬ」という言葉を絵文字で表現した「判じ物」江戸の歌舞伎役者、七代目市川團十郎が用いた柄として知られている。江戸時代の流行った模様で、鎌の絵と輪の絵と「ぬ」の文字を重ねたもので、「鎌わぬ」にかこつけたもの。 はんじもの「判じ物」・・・とは?文字や絵画に隠された意味を当てる謎解きのこと。発祥は、詳しくはわかっていないが、似たような遊びが、平安時代からあったことはわかっている。江戸時代の町民文化において、浮世絵で描かれた判じ物が出回るようになり、庶民が手軽に楽しむようになった。当時は「なぞ」と呼ばれていた。三桝みます初代市川團十郎が「稲妻文」から考案したもので、その後、一門の定門とした。大中小の枡を入子にして、上から見た形を模様化したものを、「三枡文」といいます。その「三枡」を散らしたものや、縞の間に「三枡」を配したものなど、いろいろなバリエーションがある。「枡」は「増す」に語呂が合い、縁起がよいとされる。「三つ入れ子枡」ともいう。斧琴菊(良き事聞く)よきこときく「よき(斧の別称)」「琴」「菊」の絵と文字を合わせた模様。判じ物の趣がある。尾上菊五郎の歌舞伎衣装に採用された。斧の絵は「よき」と読み、その下は「琴」、丸い形は「菊」の花です。当時流行していた市川團十郎の「かまわぬ」に張り合って取り入れたと言われます。高麗格子こうらいごうし太い筋と細い筋が交互に交差している格子模様。横より縦の間隔が広い。歌舞伎衣装につけられた「歌舞伎模様」の一つ。四代目松本幸四郎の屋号「高麗屋」にちなんだもの。五代目松本幸四郎が「幡随院長兵衞」の役のときに、この格子縞の合羽を用いて好評を博した柄。三つ猿紋ちらしみつざるもんちらしくくりざる「括り猿」をモティーフにした猿紋。「三つ猿」とも呼ばれる。梨園の名門「澤瀉屋」(おもだかや)の家紋「三つ猿」を日向と影で全体に散らした洒落た模様。この家紋は、歌舞伎の市川猿之助さんが、舞台で使われている小道具にも、この紋が記されている。芝翫縞しかんじま4本の縦縞の間に、かんつなぎ鐶繋ぎを交互に配置した模様。鐶は、箪笥の引き手のこと。初代中村芝翫(三代目中村歌右衛門)が、流行させた。播磨屋格子はりまやこうし中村吉右衛門さんの屋号「播磨屋」の役者文様。はりまやの「は」を表す8本の横線と、はりまやの「り」を表す2本の縦線で格子をつくり、はりまやの「ま」の字を変体仮名で配した。豆絞りまめしぼり手拭いで最もメジャーな柄(水玉模様)。元々は、細かく絞った染め方法の一つ。青海波せいがいは扇型を魚の鱗のように敷き詰めることで、大海原の海を表現している。「平穏な暮らしが続く」という意味。紗綾さ や卍という記号をくずして組み合わせる形。「卍崩し模様」と呼ばれている手拭い模様。卍の模様が連なっていることから縁起が良いと言われる。斧琴菊よきこときく「かまわぬ」と同じ絵文字を使った判じ物。「良きこと聞く」にかけた模様。江戸時代に大きく流行した模様。「犬神家の一族」でモティーフに使われ、再び知名度が上がった。花亀甲はなきっこうその名の通り甲羅の模様に見立てた正六角形の幾何学模様。平安時代の頃から亀は長寿のシンボルとされる。七宝しっぽう金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・珊瑚・めのう・しゃここれらは大変な貴重なものということで、仏典用語で「七珍」といったのでそれが変化して七宝になったとされる。同一サイズの真円を上下左右1/4ずつ重ねて繋げていく「七宝つなぎ」「輪違い」などとも呼ばれる。吉祥模様のひとつで、円満を示す伝統的な模様。吉原つなぎよしわらつなぎ江戸時代頃から手拭いの模様として人気。四角形のそれぞれの角をくぼませたものを、鎖のように繋ぎ合わせた模様。吉原の遊郭に入るとその魅力に繋がれてしまい、なかなか解放されないことにちなんで、この名がついたと言われています。歌舞伎によく登場する模様とは?鱗紋うろこもん三角模様を規則正しく並べた模様。 もみじがり きじょ「紅葉狩」の鬼女。「蛇柳」蛇の亡霊のうろこ模様。市松いちまつ石畳模様のこと。佐野川市松が衣装に用いて、この名称になった。弁慶格子べんけいごうし幅の広い線が交差している格子模様。正式には、黒系のみが「弁慶格子」縦より横の方が少し太くなっている。藍色は「藍弁慶」柿色は「柿弁慶」と区別される。なつまつりなにわかがみ だんしち「夏祭り浪花鑑」の団七の衣装。翁格子おきなごうし太い格子の中に細い格子が交差。「勧進帳」の弁慶の衣装。「弁慶格子」は、弁慶格子ではない。亀甲きっこう正六角形を基本とした吉祥模様。くまがいじんや「熊谷陣屋」の熊谷直実。麻の葉あさのは生長が速く丈夫な麻の葉柄は、産衣や若い娘役の衣装に多用される。「櫓のお七」のお七。こんな模様の衣装ですよね〜ちゃんと決まり事があるのですね。最低限このくらいの柄は覚えておきたいですね(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.22
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市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿襲名披露十二月大歌舞伎八代目市川新之助初舞台令和4年12月5日初日(月)〜26日(月)千秋楽(休演)12日(月)・19日(月)【昼の部】一、鞘當 (さやあて)ふわはんざえもん おのえしょうろく不破半左衛門=四代目尾上松緑(音羽屋)47歳 NHK大河ドラマ「葵徳川三代」徳川家光役。とめおんな(奇数日)いちかわえんのすけ留女=四代目市川猿之助(澤瀉屋)46歳ドラマ「最初はパー」の漫才コンビ役。とめおとこ(偶数日)いちかわちゅうしゃ留男=市川中車(澤瀉屋)香川照之(57歳)ドラマ「六本木クラス」の長屋茂役。なごやさんざえもん まつもとこうしろう名古屋山三=十代目松本幸四郎(高麗屋)49歳ドラマ「マイファミリー」の阿久津役。(年齢は、2022年末時点)二、京鹿子娘二人道成寺 (きようかのこむすめににんどうじょうじ)鐘供養より『歌舞伎十八番の内 押戻し』までおおだてまさごろう (成田屋)いちかわだんじゅうろう(45歳)大館左馬五郎=海老蔵改め十三代目市川團十郎しらびょうしはなこ(中村屋)なかむらかんくろう白拍子花子=六代目中村勘九郎(41歳) 勘三郎の長男どうけ (音羽屋)ばんどうひこさぶろう所化=九代目坂東彦三郎(46歳)どうけ(音羽屋)ばんどうかめぞう同=三代目坂東亀蔵(44歳)どうけ(萬屋)なかむらまんたろう同=初代中村萬太郎(33歳)どうけ(成駒屋)なかむらたねのすけ同=初代中村種之助(29歳)どうけ(滝野屋)いちかわおとら同=七代目市川男寅(27歳)どうけ(成駒屋)なかむらふくのすけ同=三代目中村福之助(25歳)芝翫・三田寛子の次男どうけ(加賀屋)なかむらたまたろう同=五代目中村玉太郎(22歳)どうけ(成駒屋)なかむらうたのすけ同=四代目中村歌之助(21歳)芝翫の三男しらびょうしはなこ(音羽屋)おのえきくのすけ白拍子花子=五代目尾上菊之助(45歳)こうけん(橘屋)いちむらかきつ後見=十七代目市村家橘(73歳)三、歌舞伎十八番の内 毛抜(けぬき)八代目市川新之助初舞台相勤め申し候粂寺弾正 初舞台八代目市川新之助くめでらだんじょう(成田屋)いちかわしんのすけ(9歳)文屋家の家老。豪快な強さと知性を併せ持ち、使者として訪問した小野家のお家騒動を解決する。小野春道 四代目中村梅玉おののはるみち (高砂屋)なかむらばいぎょく(76歳)公家で小野小町の子孫。国家転覆を狙う早雲王子の策略で苦難に陥る。小野春風 坂東新悟おののはるかぜ(大和屋)ばんどうしんご(32歳)春道の子息。胸元恋外仲になる。家宝を持たせた恋その消息不明により、責任を取る覚悟をしている。錦の前 二代目大谷廣松にしきのまえ(明石屋)おおたにひろまつ(30歳)小野春道の息女。原因不明の持病のため、婚約者文屋秀吉との婚礼を先延ばしにしている。秦民部 二代目中村錦之介はたみんぶ (萬屋)なかむらきんのすけ(63歳)忠義心が厚い小野家の家老。家宝の探索に力を注ぐ。八剣玄蕃 三代目市川右團次やつるぎげんば(高嶋屋)いちかわうだんじ(59歳)小野家の家老だが、早雲王子と通じ、小野家の乗っ取りを画策する。腰元巻絹 五代目中村雀右衛門こしもとまきぎぬ(京屋)なかむらじゃくえもん(67歳)小野家の美しい腰元。小原万兵衛実は石原瀬兵 八代目中村芝翫おはらのまんべえじつはいしはらせへい(成駒屋)なかむらしかん(57歳)小磯の兄を名乗るが、実は早雲も王子の家来。正体を弾正に見破られる。【夜の部】十三代目市川團十郎白猿&八代目市川新之助襲名披露 口上(こうじょう)柿色裃勢揃いにて相勤め申し候海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿(成田屋)45歳初舞台八代目市川新之助(成田屋)9歳二代目松本白鸚 はくおう(高麗屋)80歳十代目松本幸四郎(高麗屋)49歳三代目市川右團次(高嶋屋)59歳六代目市川男女蔵 おめぞう(滝の屋)55歳七代目市川男寅 おとら(滝野屋)27歳八代目市川染五郎(高麗屋)17歳祖父:白鸚 父:幸四郎五代目市川團子 だんこ(澤瀉屋)18歳父:中車二代目市川右近(澤瀉屋)12歳父:右團次二代目市川青虎 せいこ(澤瀉屋)39歳四代目市川九團次 くだんじ(高嶋屋)50歳二代目市川寿猿 じゅえん(澤瀉屋)92歳二代目猿之助の弟三代目市川笑三郎 えみさぶろう(澤瀉屋)52歳二代目市川笑也 えみや(澤瀉屋)63歳二代目市川猿弥 えんや(澤瀉屋)55歳九代目市川中車(澤瀉屋)57歳 父:市川猿翁三代目市川錦吾 きんご(高麗屋)八代目市川門之助 もんのすけ(瀧野屋)63歳十一代目市川高麗蔵 こまぞう(高麗屋)65歳四代目河原崎権十郎 ごんじゅうろう(山崎屋)68歳二代目市川齋入 さいにゅう(高嶋屋)75歳四代目市川猿之助(澤瀉屋)46歳四代目市川左團次(高嶋屋)82歳二、團十郎娘 (だんじゅうろうむすめ)近江のお兼 四代目市川ぼたん(成田屋)11歳 團十郎:長女漁師 六代目市川男女蔵 おめぞう(滝の屋)55歳同 初代中村種之助(播磨屋)33歳同 七代目市川男寅 おとら(滝野屋)27歳同 三代目中村福之助(成駒屋)25歳 芝翫:次男同 三代目市川右團次(高嶋屋)59歳三、歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜 (すけろくゆかりのえどざくら)河東節十寸見会御連中花川戸助六 海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿三浦屋揚巻(5~15日)五代目坂東玉三郎(大和屋)72歳 (6~26日)二代目中村七之助(中村屋)39歳 勘三郎の次男通人里暁 四代目市川猿之助(澤瀉屋)46歳三浦屋白玉(5〜15日)五代目尾上菊之助(音羽屋)45歳 (16〜26日)四代目中村梅枝 ばいし(萬屋)35歳福山かつぎ 二代目坂東巳之助 みのすけ(大和屋)33歳男伊達山谷弥吉 六代目市川男女蔵 おめぞう(滝の屋)55歳同 田浦富松 中村萬太郎(萬屋)33歳 時蔵の次男同 竹門虎蔵 三代目大谷廣太郎(明石屋) 右衛門の長男同 砂利場石蔵 三代目中村福之助(成駒屋)25歳 芝翫:次男同 石浜浪七 三代目中村吉之烝 きちのじょう(播磨屋)傾城八重衣 坂東新悟(大和屋)32歳同 浮橋 六代目中村児太郎(成駒屋)28歳同 胡蝶 二代目大谷廣松(明石屋)30歳同 愛染 二代目中村鶴松(中村屋)27歳同 誰ヶ袖 三代目市川笑三郎(澤瀉屋)52歳茶屋廻り 五代目中村玉太郎(加賀屋)22歳同 四代目中村歌之助(成駒屋)20歳 芝翫:三男同 八代目市川染五郎(高麗屋)17歳 祖父:白鸚 父:幸四郎同 五代目市川團子 だんこ(澤瀉屋)18歳 父:中車文使い番新白菊 歌女之氶・・・よこぼう奴奈良平 四代目市川九團次 くだんじ(高嶋屋)50歳朝顔仙平 二代目市川猿弥 えんや(澤瀉屋)55歳国侍利金太 六代目片岡市蔵(松島屋)64歳遣手お辰 二代目市村萬次郎(橘屋)72歳三浦屋女房 八代目大谷友右衛門(明石屋)73歳白酒売新兵衛 六代目中村勘九郎(中村屋)41歳 父:勘三郎(長男)髭の意休 坂東彌十郎 やじゅうろう(大和屋)66歳 新悟の父くわんぺら門兵衛 四代目市川左團次(高嶋屋)82歳曾我満江(5〜15日)六代目上村吉弥 きちや(美吉屋)67歳 (16〜26日)五代目坂東玉三郎(大和屋)72歳口上 十代目松本幸四郎(高麗屋)49歳後見 二代目市川齋見 さいにゅう(高嶋屋)75歳(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.21
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助六のお話の続きです〜助六のお話は、どこからきたのでしょうか?その背景を知りたいです延宝の頃、京都で男達の万屋助六と、島原の遊女揚巻が心中する事件があった。この事件を、上方の歌舞伎や浄瑠璃が、盛んに劇化して上演した。よほど人気のある題材だったのだろう。この上方で作られた「助六物」を江戸歌舞伎の中に持ってきて、上方とは異なったキャラクターの人物達が活躍する江戸人好みの芝居として、創造したのは・・・二代目團十郎の功績だった。正徳三年(1713年)三月江戸山村座で、二代目團十郎は、はなやかたあいごのさくら『花屋形愛護桜』の狂言で初めて助六を演じる。上方の助六とは違い、よほど荒っぽい演出だったらしいが・・・当時の役者評判記では、「荒時去って濡れ事がかりの男立て」と記した。初代團十郎が始めた荒人神の演技を「荒事」と認識していた当時の人々の目から見ると、二代目最初の助六は、軟弱な侠客と映ったのであろう。二度目の正徳六年(1716年)二月江戸中村座の しきれいやわいそが『式例和曾我』の時、「助六実は曾我五郎」の人物設定が始まる。これ以後、助六劇は、狂言の二番目として、弥生(陰暦三月)の狂言として親しまれる。二代目が、最後に中村座で演じた寛永二年(1749年)三月『男文字曾我物語』の時、助六の扮装は、ほぼ現行のそれになったとされる。この時には、吉原仲の町に桜の樹を植える習慣が始まったのに合わせ、舞台も花道も桜で飾ったその後、市川家最高の「家の芸」になった『助六』は、江戸っ子に愛好され、彼らの美意識の集約された役になって、代々の團十郎が演じてきた。助六の出端に用いる音楽として最初は、半大夫節が使われていたが、享保十八年(1733年)上演の時、初めて河東節(かとうぶし)が用いられた。浄瑠璃名題を『富士筑波二重霞』と据えた。『助六所縁江戸桜』の浄瑠璃の名題は、宝暦十一年(1761年)三月市村座で、市村亀蔵(のちの九代目羽座右衛門)が、上演した時からである。江戸時代に團十郎が、『助六』を上演する時は、役者が吉原と魚河岸に挨拶まわりをし、吉原からは、「助六さんへ」「揚巻さんへ」として、傘や大箱提灯などを贈る習慣が古例として守られていた。助六や揚巻はもちろんのこと、この芝居に登場する人物は、みんな江戸っ子らしい悪態をつく。悪態は口汚い悪口ではなく、一種の爽快感をともなう啖呵と受け取られていた。祝祭的な楽しさの中で、「悪態のドラマ」が展開する。江戸町人の憧れの的でもある美男ぶりと、洗練された通人趣味の扮装の助六、江戸の遊女の理想である意地と張りを備えた揚巻、この二人が権力を笠に着る金持ちの意休と対立して負けないところに、江戸町人たちが快哉を呼んだのは当然だった。「花の江戸歌舞伎」とは、こういう芝居なんだと胸を張ってきたのが『助六』の伝統である。七代目は「歌舞伎狂言十八番」を制定、公表した天保三年(1832年)三月の市村座で、自身は海老蔵と名乗り、十歳の倅に八代目団十郎を襲名させた。その時に上演したのは『助六』だった。私は、七代目による歌舞伎十八番制定の中心となったのは、『暫』と『助六』と『勧進帳』の三部だったのではないかと想像している。[十二代目団十郎]2022年12月歌舞伎座【夜の部】一、十三代目市川團十郎白猿 八代目市川新之助 襲名披露口上(こうじょう)歴史的な大名跡襲名を寿ぐ舞台上に、裃姿の俳優がそろい、一人ひとりお祝いの口上が述べられます。今回は、「團十郎茶」とも呼ばれ、市川團十郎家の色である「柿色」の裃にて勢揃いいたします。十三代目市川團十郎白猿、八代目市川新之助より、ご来場の皆様へ、このたびの襲名披露のご挨拶を申し上げます。二、團十郎娘(だんじゅうろうむすめ)力強くもたおやかな娘が魅せる舞踊近江八景の一つの琵琶湖のほとりに暮らすお兼は、その美しい見目からは思いも寄らず、力自慢で評判の娘。暴れ馬を手なずけ、やがて、切ない恋心を近江の名所にかけて明かすと、田舎娘らしい純朴な姿を垣間見せていきます。『團十郎娘』は、文化10(1813年)に七世團十郎により初演された所作事で、『近江のお兼』や『晒女(さらしめ)』とも呼ばれます。市川團十郎家所縁の、趣向に富んだ楽しい舞踊をご覧に入れます。三、歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜 (すけろくゆかりのえどざくら)江戸一の男伊達が魅せる晴れやかな舞台花川戸助六は、江戸一番の男伊達。桜が咲き誇る吉原中之町は、助六が姿を表すと花魁(おいらん)たちが、競って吸い付け煙草を渡すほどの人気ぶりです。助六は、恋仲の花魁・揚巻に言い寄る髭の意休に喧嘩を仕掛け、その手下たちを一蹴すると、白酒売新兵衛に姿を変えた兄の十郎に呼び止められます。実は助六は、紛失した源氏の宝刀・友切丸を探す曽我五郎で、夜ごと吉原に表れては、喧嘩を仕掛け、相手の刀を見定めていたのです。そこへ編笠を被った侍が、揚巻に伴われてやってくると・・・・・。絢爛豪華に繰り広げられる江戸歌舞伎の華。河東節の演奏による助六の花道の出端から幕切まで目が離せません。粋でいなせな男伊達・花川戸助六を新團十郎が勤めます。襲名披露狂言ならではの顔ぶれが揃う賑やかなひと幕にご期待ください。(参考文献:世界文化社/新版歌舞伎十八番より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.20
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歌舞伎座2022年12月講演「十三代目市川團十郎白猿」襲名披露の【夜の部】三幕、助六です三、歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜 (すけろくゆかりのえどざくら)江戸一の男伊達が魅せる晴れやかな舞台助六(すけろく)・・・とは?丁寧に上演した場合の【あらすじ】を知る江戸吉原で全盛の花魁(おいらん)揚巻の愛人である侠客花川戸の助六は、武士の髭の意休と対立する。さんざんに悪態をついて、喧嘩を仕掛けて意休を怒らせ、刀を抜かせようとする。助六は、曾我五郎の仮の姿で、源家の重宝友切丸の行方を詮議していたのである。江戸っ子の代表のような美男子の助六と、意地と張りを特徴とした吉原の遊女。悪所を背景にして展開する大衆の祝祭劇。春三月江戸は、新吉原仲の町三浦屋の門前。紙衣(かみこ)の老婆(実は曾我兄弟の母江)が、提灯の紋を頼りに、遊女の揚巻を探して徘徊している。やくざ者の親分格のくわんぺら門兵衛が、乱暴をして迷惑がられる後に、白酒売り新兵衛(実は曾我十郎)が来て白酒の言い立てをする。彼は、揚巻の恋人である花川戸の助六を探している。三浦屋抱えの遊女たちが来て舞台に居並ぶ。そこへ、揚巻が華やかな花魁道中で登場する。満江が提灯の紋から揚巻と知り、どうか助六の喧嘩好きをやめさせてくれないかと、丁寧に頼む。武士で揚巻に惚れている髭の意休が揚巻に言い寄るが、拒絶される。揚巻は意休にきっぷのいい悪態をつき、たとえ殺されても助六との恋を貫くと言い切る。河東節の浄瑠璃になり、花道から、粋ないでたちに蛇の目傘を持った助六が登場する。刀を抜かせようとして、助六は意味に悪態をつき挑発するが、意休は、じっとこらて乗ってこない。遊女に振られて憤懣やるかたないくわんべら門兵衛は、福山のかつぎに言いがかりをつける。助六は門兵衛をやっつけ、うどんを頭にかける。白酒売りに身をやつした曾我十郎が、助六(実は弟の五郎)に対面し、喧嘩に明け暮れしている不心得をさとす。助六は、侍に喧嘩を仕掛けて刀を抜かせ、源家の重宝友切丸を詮議していることを打ち明けた。事情を理解した十郎は、それならば自分もしようと、五郎にその仕方を教えてもらう。通りかかった田舎侍や通行人に股くぐりをさせる滑稽が挿入される。二人の母満江が武士の扮装で現れ、誤って喧嘩を仕掛けた兄弟に意見をし、短期な五郎の身を案じて、喧嘩のできないようにと紙衣を着せて立ち去る。助六と揚巻の色模様の場へ意休が現れる。揚巻は裲襠(うちかけ)の裾に助六を隠す。助六は発見されるが、意休が刀を抜いて香炉の台を切ったことから、これこそ探している友切丸と確認し、意休の帰りを待ち受けて刀を奪い返す。廓の騒ぎに、天水桶の中に隠れた助六は、揚巻の機転で助けられ、屋根を伝って逃げる。上記に記したのはすけろくゆかりのえどざくら「助六由縁江戸桜』をていねいに上演した場合の【あらすじ】である。省略なしにこれを演じると・・・3時間以上を要する。現在は、最初の部分をカットして、揚巻の出から始めるのが普通である。また、満江が入った後の、助六と揚巻の色模様のところ、最後の「水入り」も上演しないことが多い。・・・2022年12月【夜の部】・・・一、十三代目市川團十郎白猿 八代目市川新之助 襲名披露口上(こうじょう)歴史的な大名跡襲名を寿ぐ舞台上に、裃姿の俳優がそろい、一人ひとりお祝いの口上が述べられます。今回は、「團十郎茶」とも呼ばれ、市川團十郎家の色である「柿色」の裃にて勢揃いいたします。十三代目市川團十郎白猿、八代目市川新之助より、ご来場の皆様へ、このたびの襲名披露のご挨拶を申し上げます。二、團十郎娘(だんじゅうろうむすめ)力強くもたおやかな娘が魅せる舞踊近江八景の一つの琵琶湖のほとりに暮らすお兼は、その美しい見目からは思いも寄らず、力自慢で評判の娘。暴れ馬を手なずけ、やがて、切ない恋心を近江の名所にかけて明かすと、田舎娘らしい純朴な姿を垣間見せていきます。『團十郎娘』は、文化10(1813年)に七世團十郎により初演された所作事で、『近江のお兼』や『晒女(さらしめ)』とも呼ばれます。市川團十郎家所縁の、趣向に富んだ楽しい舞踊をご覧に入れます。三、歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜 (すけろくゆかりのえどざくら)江戸一の男伊達が魅せる晴れやかな舞台花川戸助六は、江戸一番の男伊達。桜が咲き誇る吉原中之町は、助六が姿を表すと花魁(おいらん)たちが、競って吸い付け煙草を渡すほどの人気ぶりです。助六は、恋仲の花魁・揚巻に言い寄る髭の意休に喧嘩を仕掛け、その手下たちを一蹴すると、白酒売新兵衛に姿を変えた兄の十郎に呼び止められます。実は助六は、紛失した源氏の宝刀・友切丸を探す曽我五郎で、夜ごと吉原に表れては、喧嘩を仕掛け、相手の刀を見定めていたのです。そこへ編笠を被った侍が、揚巻に伴われてやってくると・・・・・。絢爛豪華に繰り広げられる江戸歌舞伎の華。河東節の演奏による助六の花道の出端から幕切まで目が離せません。粋でいなせな男伊達・花川戸助六を新團十郎が勤めます。襲名披露狂言ならではの顔ぶれが揃う賑やかなひと幕にご期待ください。(参考文献:世界文化社/新版歌舞伎十八番より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.19
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歌舞伎の美しい踊りといえば娘道成寺を思い出すのですが、どんなお話なのでしょうかむすめどうじょうじ『娘道成寺』・・・とは?きようがのこむすめどうじょうじ「京鹿子娘道成寺」どうじょうじ「道成寺」あんちんきよひめ安珍清姫の恋の伝説が生んだ大曲登場人物は、しらびょうしはなこ白拍子花子【あらすじ】紀州道成寺に安珍清姫伝説というのがあった。・・・清姫という美しい娘が、安珍と名乗る若い僧に恋をする夫婦の契りを交わすが、安珍は修行中の身だからと約束を果たさない。安珍は、追いかける清姫から逃れて、道成寺の釣鐘の中に身を隠す。嫉妬のあまり蛇身となった清姫は、鐘に怨念の炎を吹きかけ、鐘は焼け落ち、男も死んだ・・・この日、その鐘が再興されて、鐘供養が営まれる、というところから、『娘道成寺』が始まるのである。女人禁制の鐘供養に、美しい女が現れて、鐘を拝ませてくれ、とせがむ。仕方なく坊主は、舞わせてみる。はじめは、能係の荘厳な舞だったが、やがて長唄、組唄、流行唄を綴り合わせた組曲で、女の情念が多彩多様に表現されていく。坊主たちが見とれていると、女は鐘の中に入り、蛇体に姿を変えた。女は、清姫の亡霊だったのかもしれない。【役者の花】道成寺を踊りたい、と願わなぬ女方はいない。長い年月にわたって、多くの役者が『道成寺』に挑んできた。それぞれに魅力の花を競ってきたが、各時代の観客は、その時代の好みに合った道成寺役者をほしがる。玉三郎はいま、当代の道成寺役者なのである。【観どころ】浄瑠璃の、「月は程なく出汐(いでしお)の、 煙みちくる小松原、 いそぐとすれど振袖」で、白拍子花子が、花道から出てくる。道行(みちゆき)と呼ばれるところ。「さりとてはさりとては、 恋を知らざる鐘つきの」と鐘を織り込んだ詩章に連れて、鐘を見込む。ここが第一ポイント演奏が長歌となり、「鐘に恨みは数々ござる」で、気分が変わり、「いわず語らずわが心」は、砕けた手踊りである。鞠唄(まりうた)、花笠踊りのあと、「恋の手習い、 つい手習いて、 誰に見しょとて 紅鉄奨(べにかね)つきょぞ、 みんな主への心中だて・・・」と、よく知られた唄になり、ここは、手拭いを使っての見せ場。つれない男を恨みながら、思いを捨てきれない女の心を、しみじみと訴える。そして、男への執着が、そのまま鐘への執着と重なっていくのである。鞨鼓(かつこ)の踊りは、「山尽くし」ともいわれ、活気のある振り。つづいて、鈴太鼓を持っての、早間の手踊りとなる。『娘道成寺』を得意としていた六代目菊五郎は、鞨鼓や鈴太鼓の楽器を用いて踊る振りがむつかしい、といっていたそうである。やがて、長唄が、「思えば思えば恨めしや」となり、鐘が降りてくると、蛇体となった花子は、鱗模様(うろこもよう)の姿になって、鐘の上に上がるのである。【芝居の季節】長唄、お囃子連中の居並んでいる背景には、いまを盛りと咲く花の景観がある。『娘道成寺』には、花がなくてはならない。明治年間の台本を見てみると、そのころは東西の桟敷にも、向こう正面にも、花の飾りがあったようだ。花で囲まれた劇場で、満開の花のような白拍子花子の舞台に酔ったことであろう。【エピソード】『娘道成寺』を初演した初代中村富十郎が、ある人から、もっと振りをむつかしくしたらどうか?と問われ、次のように語った、という話が残っている。・・・もっとこみ入った振りの工夫がなくはないが、わたしが自由にむつかしい振りをしたなら、道成寺はわたし一代限りで廃ってしまうだろう。そこで、末まで道成寺が残るよう、誰でもできるような振りを付けたのです、と。(参考文献:世界文化社/あらすじで読む歌舞伎50選より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.17
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歌舞伎座2022年12月講演の(公式より)見どころです。続きのお楽しみは見てからですね〜【昼の部】一、鞘當 (さやあて)江戸歌舞伎の美学を凝縮した華やかなひと幕桜が満開の吉原仲之町。雲に稲妻模様の着物の「不破半左衛門」と、雨に濡れ燕模様の着物の「名古屋山三」がやってきます。二人は、すれ違う際に刀の鞘が当たったことから斬り合いとなりますが・・・・・・。歌舞伎ならではの様式美あふれるひと幕。華やかな廓(くるわ)風情漂う舞台。二、京鹿子娘二人道成寺(きようかのこむすめににんどうじようじ)女方舞踊の大曲と、勇壮な押し戻し鐘供養が執り行われている春爛漫の道成寺に、花子と名のる二人の白拍子が現れます。鐘を拝むために奉納の舞を踊る花子ですが、実は、恋の恨みから蛇体となって道成寺の鐘を焼いた清姫の怨霊。その本性を表すと、勇猛な大館左馬吾郎が登場し、怨霊の前に立ちはだかります。白拍子花子の華やかな踊りから一転、後半では、新團十郎演じる左馬吾郎が、怨霊を退散させるために花道から本舞台へと押し戻します。歌舞伎舞踊屈指の大曲と、荒事の力強さをご堪能ください。三、歌舞伎十八番の内毛抜(けぬき)粂寺弾正が活躍するおおらかな歌舞伎十八番小野小町の子孫、春道の屋敷。家宝である小町の短冊が盗み出されたうえ、姫君錦の前は、原因不明の病にかかり伏せっています。そこへ、姫君の許婚である文屋豊秀の家臣「粂寺弾正」が、様子をうかがいにやって来ます。髪の毛が逆立つ姫の奇病を見た弾正は、手にした毛抜きが、ひとりでに踊り出したことから、姫の奇病の仕掛けを見破り・・・・・・。歌舞伎十八番の一つで、二世團十郎が寛保2(1742年)に大阪で演じた『雷神不動北山櫻』のなかのひと幕。豪快な荒事の演技のなかにおおらかさも感じられる作品です。このたびは、八代目新之助が、成田屋最年少で、粂寺弾正を務める、明るく華やかでユーモアたっぷりの荒事のひと幕にご期待ください。【夜の部】一、十三代目市川團十郎白猿 八代目市川新之助 襲名披露口上(こうじょう)歴史的な大名跡襲名を寿ぐ舞台上に、裃姿の俳優がそろい、一人ひとりお祝いの口上が述べられます。今回は、「團十郎茶」とも呼ばれ、市川團十郎家の色である「柿色」の裃にて勢揃いいたします。十三代目市川團十郎白猿、八代目市川新之助より、ご来場の皆様へ、このたびの襲名披露のご挨拶を申し上げます。二、團十郎娘(だんじゅうろうむすめ)力強くもたおやかな娘が魅せる舞踊近江八景の一つの琵琶湖のほとりに暮らすお兼は、その美しい見目からは思いも寄らず、力自慢で評判の娘。暴れ馬を手なずけ、やがて、切ない恋心を近江の名所にかけて明かすと、田舎娘らしい純朴な姿を垣間見せていきます。『團十郎娘』は、文化10(1813年)に七世團十郎により初演された所作事で、『近江のお兼』や『晒女(さらしめ)』とも呼ばれます。市川團十郎家所縁の、趣向に富んだ楽しい舞踊をご覧に入れます。三、歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜 (すけろくゆかりのえどざくら)江戸一の男伊達が魅せる晴れやかな舞台花川戸助六は、江戸一番の男伊達。桜が咲き誇る吉原中之町は、助六が姿を表すと花魁(おいらん)たちが、競って吸い付け煙草を渡すほどの人気ぶりです。助六は、恋仲の花魁・揚巻に言い寄る髭の意休に喧嘩を仕掛け、その手下たちを一蹴すると、白酒売新兵衛に姿を変えた兄の十郎に呼び止められます。実は助六は、紛失した源氏の宝刀・友切丸を探す曽我五郎で、夜ごと吉原に表れては、喧嘩を仕掛け、相手の刀を見定めていたのです。そこへ編笠を被った侍が、揚巻に伴われてやってくると・・・・・。絢爛豪華に繰り広げられる江戸歌舞伎の華。河東節の演奏による助六の花道の出端から幕切まで目が離せません。粋でいなせな男伊達・花川戸助六を新團十郎が勤めます。襲名披露狂言ならではの顔ぶれが揃う賑やかなひと幕にご期待ください。なるほど・・・こんな感じなのですね(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.16
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640万アクセス達成ありがとうございます〜世界を旅した後は歌舞伎「江戸時代」を旅しています日本の「浮世絵」歌舞伎絵です歌舞伎十八番について調べております。 さやあて「鞘当」・・・というお話。【解説】延宝八年(1680年)三月、江戸市村坐の『遊女論』で、初代團十郎が演じた不破半左衛門が好評で、初代の当たり芸として有名な役である。その具体的な筋立ては不明。江戸時代の初期に流行した名古屋山三物にあって、不破半左衛門の役は、名古屋山三郎に対する役柄である。元禄十年(1697年)正月、江戸中村座上演の『参会名古屋(さんかいなごや)』は、狂言本によって、あらすじを知ることができる。全盛の「傾城葛城(けいせいかつらぎ)」を得ようとして、名古屋山三郎と、不破半左衛門が、恋争いをするのが大筋で、「暫」「鞘当」「髪梳き」の趣向があり、大切に不破の本地としての「鍾馗(しょうき)」の心霊事が付いていた。歌舞伎十八番の「不破」が、具体的にどの狂言を念頭に選ばれたのかは明らかではないが、七代目團十郎自身が不破を演じた「鞘当」が念頭にあったとすれば、文政六年(1823年)三月江戸市村座の『浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくいなずま)』(鶴屋南北作)に仕組まれた不破・名古屋の鞘当のシーンである。この『鞘当(さやあて)』は、現在も演じられるが、とくに「歌舞伎十八番の内『不破』」とはしない。近代になり、昭和八年(1933年)正月の歌舞伎座で、市川三升(十代目團十郎)が復活上演した作(川尻清澤補綴)と、昭和三十四年五月の読売ホールで前進座が「参会名護屋より」の副題を添えて復活上演した作(冨田鉄之助脚本)がある。初代が演じた不破判左衛門は、当たり役となり、度々演じたといわれていますが、『不破』の固定した脚本は伝えられていません。傾城葛城(けいせいかつらぎ)を張り合う不破半左衛門と、名古屋山三が、夜桜爛漫の仲之町ですれ違いざまに刀の鞘を打ち当て、あわやという中を留女(とめおんな)または、留男(とめおとこ)が割って入り、その場を無事に納めるのが『不破』の鞘当です。半左衛門は・・・豊臣秀次の小姓不破万作(半作)のことで、名古屋山三に引けととらない美少年ですから、初代の演じていた半左衛門も、初めは二枚目でした。『参会名護屋(さんかいなごや)』で、鞘当の趣向をみせるようになってから、山三が二枚目で、半左衛門は、色悪(いろあく)という敵役に変わっていったようです。(参考文献:世界文化社/新版歌舞伎十八番より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.15
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成田屋のお家芸・歌舞伎十八番のユーモラスな「毛抜き」の弾正を9歳の少年が演じるのであります歌舞伎『毛抜き』は・・・『歌舞伎十八番」の一つ。歌舞伎十八番・・・とは?七代目市川團十郎(1791年〜1850年)が定めた「成田屋」のお家芸のことです。今回の歌舞伎座大歌舞伎では、八代目市川新之助が初舞台として演じています。9歳の粂寺弾正は、史上最年少ですが驚くほど立派でした衣装は全て、八代目新之助くんのサイズで新調してものです。これは、大人の弾正サイズ「毛抜」の大人サイズも展示されていました。柄は、全てお決まりの柄です。新之助「いつかやりたいと思っていた役です。」と夏休みからみっちりお稽古したそうですが、いやいや〜9歳の弾正なかなかの迫力です【解説】小野家の家老:八剣玄蕃(やつるぎげんば)は、ひそかにお家横領をたくらんでいる。忠臣の家老:秦民部(はたみんぶ)とその弟:秀太郎は、日ごろ彼の振る舞いに怒りを抱いていた。天下旱魃のため、民百姓の難儀を救おうとして、当家の家宝である小町の雨乞いの短冊を献上するようにと、桜町中将が勅使(ちょくし)となって、小野春道(おのはるみち)の館へやってくる。ところが、その短冊は盗まれて紛失している。小野家の若殿:春風(はるかぜ)は、責任を取って切腹しょうとするが止められ、短冊の行方の詮議(せんぎ)を決意する。春風の息:女錦の前(にしきのまえ)は、宮中で評判の美男子の文屋豊秀と許婚(いいなずけ)の関係だったが、病気を理由として、婚礼の日限がずるずると延期されていた。病気の様子を実際に見て問ただすために、豊秀の家臣:粂寺弾正(くめでらだんじょう)が使者として館に乗り込んでくる。玄蕃は、姫には時々髪が逆立つ奇病があるため人間の交わりができない、所詮この縁組はととのわないと言う。そして、恥ずかしがる姫を連れ出して、かぶっている薄絹を取り、髪が逆立つ様子を見せるので、弾正は驚きかつ怪しむ。弾正は、春道と面談したいと取次を頼み、一間に待っている間に、毛抜きで髭を抜いたり、胸元や小姓に戯れかけていずれにも振られるなど、色を好む英雄のユーモラスな一面を見せる。そのうちに、下に置いた毛抜きが、自然に立ちあがって踊るので怪しみ、思案してこのからくりを推理している。折角、小原の万兵衛(こはらのまんべえ)と名乗る百姓が現れて、春風に無理難題でゆすりかかるのを、弾正はその偽りを見破り、万兵衛の企みを明察して万兵衛を殺し、盗まれた短冊も取り返す。ふたたび登場した姫の髪が逆立つのを見て、弾正は、姫が髪に挿している櫛笄(こうがい)を抜くと、今度は逆立たない。銀製とは偽りで、実は鉄製の櫛笄だったのである。弾正は、病の根源を断ってお目にかけようと、槍で天井を突く。すると、巨大な磁石を持った忍びの物が落ちてくる。弾正の推理は正しかった。すべてお家横領を狙う玄蕃が、姫の縁談を邪魔しようとして仕組んだ陰謀だった。弾正は悪家老の玄蕃を成敗し、めでたく両家の縁談はととのう。磁石の吸鉄作用という科学的知識の珍しかった時代の産物。ヒントは、『金銀ねぢぶくさ』(宝永元年刊)の中にある。お家騒動を背景に、意表を突いたからくりを見破る推理小説の運びが新鮮だった。寛保二年(1742年)正月大坂の佐渡島長五郎で上演したなるかみふどうきたやまざくら『雷神不動北山桜』に含まれていた一幕。荒事だけでなく和実(わじつ)の演技にもすぐれていた二代目團十郎(当時:海老蔵)が大坂で初演し、その地で高く評価された狂言である。その後、粂寺弾正の役は、四、五、七代目の團十郎が演じたが、七代目による文化九年(1812年)の所演以後一世紀近く絶えていたのを、明治四十二年(1909年)九月の明治座で、二代目市川左團次が岡鬼太郎の補綴で『歌舞伎十八番 毛抜』の外題で復活。『鳴神』とともに、いわゆる「古劇」の典型として、近代歌舞伎の人気狂言の一つになっている。【主な配役】歌舞伎十八番の内「毛抜」けぬき八代目市川新之助初舞台相勤め申し候粂寺弾正 初舞台八代目市川新之助くめでらだんじょう(成田屋)いちかわしんのすけ(9歳)文屋家の家老。豪快な強さと知性を併せ持ち、使者として訪問した小野家のお家騒動を解決する。小野春道 四代目中村梅玉おののはるみち (高砂屋)なかむらばいぎょく(76歳)公家で小野小町の子孫。国家転覆を狙う早雲王子の策略で苦難に陥る。小野春風 坂東新悟おののはるかぜ(大和屋)ばんどうしんご(32歳)春道の子息。胸元恋外仲になる。家宝を持たせた恋その消息不明により、責任を取る覚悟をしている。錦の前 二代目大谷廣松にしきのまえ(明石屋)おおたにひろまつ(30歳)小野春道の息女。原因不明の持病のため、婚約者文屋秀吉との婚礼を先延ばしにしている。秦民部 二代目中村錦之介はたみんぶ (萬屋)なかむらきんのすけ(63歳)忠義心が厚い小野家の家老。家宝の探索に力を注ぐ。八剣玄蕃 三代目市川右團次やつるぎげんば(高嶋屋)いちかわうだんじ(59歳)小野家の家老だが、早雲王子と通じ、小野家の乗っ取りを画策する。腰元巻絹 五代目中村雀右衛門こしもとまきぎぬ(京屋)なかむらじゃくえもん(67歳)小野家の美しい腰元。小原万兵衛実は石原瀬兵 八代目中村芝翫おはらのまんべえじつはいしはらせへい(成駒屋)なかむらしかん(57歳)小磯の兄を名乗るが、実は早雲も王子の家来。正体を弾正に見破られる。(参考文献:世界文化社/新版歌舞伎十八番より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.14
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京鹿子娘二人道成寺は、白拍子花子が2人ですから〜豪華絢爛の舞踊で感動でした京鹿子娘二人道成寺きようかのこむすめににんどうじょうじ2022年 歌舞伎座十二月大歌舞伎では、襲名披露の十三代目市川團十郎白猿(成田屋)が、竹を持った大館左馬五郎。白拍子花子は二人、六代目中村勘九郎(中村屋)と五代目尾上菊之助(音羽屋)が共に華麗で美しくシンクロして舞いましたおおだてまさごろう (成田屋)いちかわだんじゅうろう(45歳)大館左馬五郎=海老蔵改め十三代目市川團十郎しらびょうしはなこ(中村屋)なかむらかんくろう白拍子花子=六代目中村勘九郎(41歳)どうけ (音羽屋)ばんどうひこさぶろう所化=九代目坂東彦三郎(46歳)どうけ(音羽屋)ばんどうかめぞう同=三代目坂東亀蔵(44歳)どうけ(萬屋)なかむらまんたろう同=初代中村萬太郎(33歳)どうけ(成駒屋)なかむらたねのすけ同=初代中村種之助(29歳)どうけ(滝野屋)いちかわおとら同=七代目市川男寅(27歳)どうけ(成駒屋)なかむらふくのすけ同=三代目中村福之助(25歳)芝翫・三田寛子の次男どうけ(加賀屋)なかむらたまたろう同=五代目中村玉太郎(22歳)どうけ(成駒屋)なかむらうたのすけ同=四代目中村歌之助(21歳)芝翫の三男しらびょうしはなこ(音羽屋)おのえきくのすけ白拍子花子=五代目尾上菊之助(45歳)こうけん(橘屋)いちむらかきつ後見=十七代目市村家橘(73歳)そもそも・・・むすめどうじょうじ『娘道成寺』・・・とは?歌舞伎舞踊の演目のひとつ。また、その伴奏音楽である長歌の曲のひとつ。今日では、きようかのこむすめどうじょうじ『京鹿子娘道成寺』が正式な外題である。古くは道成寺伝説を題材にした「道成寺もの」と呼ばれる演目や、踊りが複数あり、それぞれお家芸である独特の所作や、振り付けなどを盛り込んだものだった。初代富十郎は、そうした「道成寺もの」の中から、初代瀬川菊之丞が踊った ももちどりむすめどうじょうじ『百千鳥娘道成寺』を構成の土台とし、自らの当たり芸である『娘道成寺』を作り上げた。そして、現在まで、曲と振り付けが揃って伝わるのは、初代富十郎が演じたものを指す。なお派生として・・・二人の白拍子が踊りを競う ににんどうじょうじ『二人道成寺』や、立役が主役のやっこどうじょうじ『奴道成寺』また男と女二人で踊る めおとどうじょうじ『男女道成寺』があるが、いずれも曲や構成は、『娘道成寺』のものを基本として使っている。【娘道成寺のあらすじ】桜満開の道成寺。清姫の化身だった大蛇に鐘を焼かれた道成寺は、長らく女人禁制となっていた。以来、鐘がなかったが、ようやく鐘が奉納されることとなり、その供養が行われることとなった。そこに、花子という美しい女がやってきた。聞けば白拍子だという。鐘の供養があると聞いたので拝ませてほしいという。所化(修行中の若い僧)たちは、白拍子の美しさに、舞を舞うことを条件として、烏帽子を渡して入山を許してしまう。花子は、舞ながら次第に鐘に近づく。所化たちは、花子が実は、清姫の化身だったことに気づくが、時遅く、とうとう清姫は鐘の中に飛び込む。と、鐘の上に大蛇が現れる。・・・と、一応上のような「あらすじ」ではあるが、実際には、その内容のほとんどが、構成の頃で解説した主役による娘踊りで占められている。つまり、本作のあらすじは、舞踊を展開するための動機と、舞台を用意するための設定で、劇的な展開を期待すると、作品の方向を見失ってしまう。まずは、演者の踊りそのものを鑑賞するのが、この作品の要点である『娘道成寺』は・・・舞に華麗さ、品格の高さが要求されるのみならず、1時間以上をほとんど一人で踊り切るので、芸の力と高度な技術に加え、相当の体力が必要となる。歌舞伎の頂点をなす作品で、過去に多くの名優がこれをつとめてきた。初演以降は、三代目坂東三津五郎、四代目中村芝翫、九代目市川團十郎、五代目中村歌右衛門、六代目尾上菊五郎、七代目坂東三津五郎、六代目中村歌右衛門、七代目尾上梅幸などの名優がつとめ、近年では、七代目尾上菊五郎、十八代目中村勘三郎、四代目坂田藤十郎、五代目坂東玉三郎が得意としている。成駒屋では・・・五代目中村歌右衛門がこれを当たり役として以来、一門の歌右衛門、芝翫、福助の襲名披露興業で必ず演じている。「劇聖」と呼ばれた九代目團十郎は、立役でありながら十代の頃は、『娘道成寺』を毎日踊ることを日課としていた。のちに本人は、この踊りには踊りの要素のすべてが入っており、所作の基礎練習には、格好の教材だったからだと述べている。また、六代目菊五郎も『娘道成寺』で、多くの評価を得たが、本人はまだまだ不本意だという感が常にあったらしく、死去する際の辞世の句「まだ足らぬ おどりて あの世まで」の「おどり」は、この『娘道成寺』を指している。現在では『娘道成寺』を上演する際、その役名を「白拍子花子」とするが、江戸時代には、この役名は一定していなかった。たとえば、宝暦3年の時に演じた富十郎の役名は、花子ではなく横笛であった。横笛という娘が殺される場面が、この舞踊の前の幕にあり、その亡霊が白拍子となって鐘供養の場にあらわれる・・・という筋書きが、この時演じられた娘道成寺にあったという。そして富十郎以降においても、『娘道成寺』は違う芝居の一部に加えられ、白拍子もその芝居の中の人物に名を変えて当てはめられた(ちなみに鐘の供養をする寺の名も、当然道成寺に限らなかった)。もっとも江戸時代においても、その時の芝居の内容とは関係がなく、独立した所作事として上演される例はあったが、それでも役名は、「白拍子桜木」や、「白拍子花子」、または単に「白拍子」としていた。「白拍子花子」というのは、明治以降定着したものである。(参考文献:Wikipedia様より)(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.13
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歌舞伎の舞台内容をまず知ってからですね〜歌舞伎が楽しめます今回は、楽しみな配役歌舞伎座ギャラリーにて『不破』島原で全盛の遊女である葛城をめぐり、不破半左衛門と名古屋山三のふたりが「恋の鞘当」をするというもの。「歌舞伎十八番」の中でも、最も古い演目で、延宝8(1680)年に初世團十郎が演じた『遊女論』が初演されている。現行の演出の基礎となったのは、元禄10(1697)年1月江戸中村座の『大福帳参会名古屋』。初世團十郎は・・・主役の不破半左衛門を得意とし、生涯で12回も演じた。現在、同場面は、四世鶴屋南北作『浮世柄比翼稲妻』の一部を独立させた『鞘当』として定着している。昭和8(1933)年1月歌舞伎座にて、十世團十郎が川尻清澤補綴で復活。ほかに、前遊座や二世尾上松緑も手がけている。歌舞伎座 十二月大歌舞伎 ・・昼の部 配役・・不破半左衛門=四代目尾上松緑(音羽屋)(奇数日)留女=四代目市川猿之助(澤瀉屋)ドラマ「最初はパー」の漫才の相方役。(偶数日)留男=市川中車(澤瀉屋)香川照之ドラマ「六本木クラス」の長屋茂役。名古屋三蔵=十代目松本幸四郎(高麗屋)ドラマ「マイファミリー」の阿久津役。「鞘當」さやあて・・・とは? もっと簡単に!鶴屋南北(つるやなんぼく)の、「浮世柄比翼稲妻(うきよのがらひよくいなずま)」という長〜いお芝居の一部。ただ、「鞘当」の場面は、このお芝居ではじめて作られたものではなく、さらに古いルーツがあるのです。【ストーリー】(お話は短くて単純なのです)場面場面の、もとのお芝居から引き継がれた細かい意味がわからないと、あっさり終わってしまいます。舞台は・・・吉原、仲の町です。舞台中央に桜の木がある定番のセット。この桜は・・・一年中植えてある桜並木ではなく、桜の季節だけ、業者さんが、桜の木を何十本も運び込んで、通りに沿って植えたもので、本物の桜の木です。桜が終わると撤収するのです。夏になると・・・同じ場所に堀を切って水を流し、かきつばたを植えます。夏の終わりには、堀を埋め戻して、盆灯籠をずらりと並べます。というように季節の風物を次々に街全体をディスプレーしたのです。吉原という街の財力を、このセットから感じ取りましょうこのお芝居では・・・花道から、2人の登場人物が出てきます。「不破半左衛門(ふわはんざえもん)」と、「名古屋山三(なごやさんぞう)」です。「不破」は、コワモテの乱暴者。黒字に「雲に雷(いかづち)」今回は、松緑です。「名古屋」は、色男です。衣装は浅葱(あさぎ、薄い水色)に、「雨に濡れ燕(ぬれつばめ)」今回は、幸四郎で、それぞれビシッと決まっています。ふたりで、順番に台詞を言います。ここは、ふたりが、別々の道から向かっているところなので、設定上は、お互いの声は聞こえないのですが、セリフとしては、つながっています。「渡り台詞」と言います。役者さんの「出の口上」という演出のパターンのひとつ。歌舞伎は、この台詞遊びが楽しみ特にお花見のシーンに多用されます。【何を話しているのでしょう】吉原が、美しいところだとか、遊女は、踊りも楽器も上手で、天女のようだとか・・・そこに、「雷(いかずち)」のような荒々しい男と、「濡れ燕」のような女にモテるイケメンが、やって来た!!最初に・・・(吉原の様子を)「遠くからんものは音にも聞け、 近くは寄って目にも見よ」とかっこよく言います。ここで、「音」を「音羽屋」、「見よ」を「三桝(みます)」というかもしれません。これは、「不破」の役は・・・「市川團十郎」の代表的な役のひとつであり、團十郎の家の紋が「三桝」であり、「名古屋」は・・・「尾上菊五郎」がやることが多く、菊五郎の屋号が、「音羽屋」である、ということからのシャレです。全体に、ちゃんと真面目にお芝居しているのですが、セリフの中に役者さんの屋号や、いろいろ「当て込み」が散りばめられていて、お遊びが多い舞台です後半に出てくる人物の役名が、「松助」だったら「お松」だったりします。こういう、「お遊び」を探すのも、歌舞伎の楽しみのひとつふたりは、ゆったりと歩いて舞台にやってきます。「丹前六法(たんぜんろっぽう)」と呼ばれる独特の歩き方です。「丹前」というのは・・・今でいえば和服の一種で、ドテラのような厚ぼったいアレですが、本来は、江戸初期の頃の一種の風俗をさします。江戸にあった丹波さまのお屋敷の前(つまり丹前)にお風呂屋さんがありました。当時のお風呂屋さんは、お姉さんが「垢すり」をしてくれるサービスが売り物でした。とくに、この「丹前」にあったお風呂は、美女の湯女(ゆな)が多くて、サービスもいいので評判でした。ここに通って来たのは、荒っぽく、しかしお金は持っていた客たち。華やかで男臭い文化のはじまりです。この風俗を、「丹前風」と呼びました。「丹前」「丹前振り」という芝居用語は、じつはもっと深い意味があるのですが、ものすごく長くなるのでカットです。「六法」は・・・歌舞伎に特有の歩き方の名称。いろいろ種類があります。花見を歩くときの大きな動作での歩き方、とおおまかに覚えておきます。動きを見せる!一種のショーです。「丹前六法」・・・というのは、「当時の丹前風を模した、 ゆったりと大仰な雰囲気の歩き方」という理解をしておきましょう。さて、舞台中央で、行き合うふたりですが、どちらも深い編笠をかぶっているので、お互いの顔が見えません!これは、当時の風俗では、遊郭にいくときは、とくにお侍は、傘や頭巾で顔を隠すのが普通でしたので、それをふまえた衣装設定です。むしろ「顔を隠す」のは、身分がありげでお高くとまった雰囲気を表します。【時代設定もっと詳しく】時代設定は・・・元禄の頃。江戸前半の少し荒っぽくイケイケの時代。旗本が徒党を組んで暴れていた時代。「不破(ふわ)」も、実際は佐々木家というお大名の家来ですが、「旗本組」に入って暴れてているという設定。「稲妻組の闇大尽」と呼ばれています。吉原では有名人。「名古屋(なごや)」も別の意味で有名人。モテモテのイケメンです。そして、いま吉原で全盛の「葛城大夫(かつらぎだゆう)」という遊女の、恋人なのでも有名。さて〜不破半左衛門は・・・ワガママな男。その葛城大夫に横恋慕しています。名古屋山三もそれを知っています。なので、会ったことはないながら、「ウワサの闇大尽」には警戒心を持っています。もちろん不破も、葛城大夫の今カレである名古屋の存在は知っていて、敵対心を燃やしています。さて〜お芝居の話に戻って、舞台でふたりが出逢います。傘をかぶっているので相手の顔は見えないのですが、上記のような事情で、だいたい「あいつか・・?」という見当はついています。服が派手だし!!お互いの牽制し合いながらすれ違おうとして、刀の鞘がぶつかります。「無礼もの」と言って喧嘩になります。この部分が「鞘当(さやあて)」というタイトルの由来です。ところで、これは長〜いお芝居の一部ですので、さらに裏設定があります。「不破」と「名古屋」は・・・もともと同じ佐々木藩のお侍、同輩でした。いろいろあって、名古屋は、今は浪人しています。同じ藩にいた時から、ふたりは、藩内の政治的立場の違いから対立していました。さらに、このお話のこの段階では、まだわかっていないことなのですが、不破は、名古屋の父を殺した犯人でもあります。というわけで、舞台で出会ったふたりは、吉原で有名なあいつだな、という以外にも・・・昔からお互いの遺恨のある、あいつだ。ということにも気づきます。もみあいながらお互いの編笠に手をかけて、同時にお互いの編笠を取ります。顔が見れます、やっぱり!!ここは、お互いの正体がわかって一気に緊張が高まる場面であるとともに、ここまで顔を隠していた人気役者ふたりが、やっと顔を見せる場園でもありますから、そういう意味でも非常に盛り上がるところです。お互い遺恨もあり、言いたいこともあった相手です。まず、不破が、「葛城大夫をもらい受けたい」と切り出します。実際、不破は藩内では、いま実権を握っていて羽振りがよく、名古屋は、浪人で借金まみれで貧乏です。しかし、名古屋は承知しません。そもそも葛城大夫が吉原にいるのは、名古屋にお金をつくってあげるためです。よその男に渡してしまっては、本末転倒です渡せ!嫌だ!で喧嘩になり、ついに刀を抜いて斬り合うふたりですが、それをとめに入る人がいます。これはだいたいは、吉原の茶屋のおかみさんですが・・・茶屋の亭主なこともあれば、鳶の親方なこともあり、通りすがりの芸者さんでも構わないのです。「留女(とめおんな)」または、「留男(とめおとこ)」と呼ばれる大事な役柄です。このお芝居は・・・歌舞伎界でもトップクラスの幹部俳優ふたりが、ダブル主人公として「不破」と「名古屋」を演じるのが通例なのですが、喧嘩を止めに入る役の人は・・・現実の役者さんの人間関係でも、そのふたりに「ものを言える」ような立場の人が演じることになっています。役者さんのランクだけでなく、尊敬できる人間性など、いろいろ必要ですので、選択肢はあまり多くはありません。その選ばれた役者さんに似合いそうな役柄を適当に当てます。なので、止めに入る人の役柄も役名も、毎回違うのです。一応、ここでは、「茶屋のおかみ」ということで話を進めます。以下の部分は、現行上演出ないかもしれないので一応。おかみの顔を立てて、この場は喧嘩をやめよう、と決めるふたりなのですが、しかし、武士にとって「刀を抜く」というのは特別なことです。決死の覚悟で刀を抜くのです。武士が一度抜いた刀なのに、何もせずにまた鞘(さや)に収めるのは納得がいかない、とごねる不破です。困った茶屋のおかみは、ふたりの刀を取り替え、お互いに渡します。取り替えっこしたわけです。これで、「一度抜いた刀をそのまま鞘に収めた」という状態は避けられたことになります。そして、刀を取り替えることで、杯を取り交わすように、お互い仲良くしよう、というおかみです。ところで、刀というのは、ハンドメイドの一点ものです。全て形が違います。鞘は、刀にぴったり合うように後から作られます。つまり、刀と鞘は1:1対応で、違う刀の鞘に他の刀がハマることはあり得ないのですが、不思議なことにお互いの刀は、お互いの鞘にピッタリとおさまります。驚く、名古屋さて、この場面では出ないのですが、前の段に説明があります。名古屋は、父を殺した犯人を探しています。父を殺した奴は、家の家宝の刀のうち1本を盗んでいきました。それは、陰と陽の2対になって作られており、2本まったく同じ形です。残った1本は、名古屋がさして持っているこれです。不破の刀が、自分の鞘にピッタリ合った。ということは、不破の持っている刀は、盗まれたあの刀なのか・・・!!盗まれた刀を不破が持っているということは・・・不破も、「バレたか・・・!!」と思います。緊張が高まります。と、ここまでの刀に関する部分が「鞘当」の趣旨とは、直接関係ないのですが・・・。お互いに意気込むふたりですが、今は斬り合いはいけません!おかみに止められます。モメ流のは今ではなく、また今度の機会に。この場は、お互い丸く収めて、にらみあったままで、ひっぱりの見得で幕。・・・おわり・・・裏設定やっていることは単純なのですが・・・「裏設定」がいろいろあり、じつはかなりタイトなやりとりをしている舞台。そういう緊張感も楽しんでみたいと思います。【お芝居の歴史】現行上演台本は、鶴屋南北の描いた「浮世柄比翼稲妻(うきよのがら ひよくのいなずま)」という長いお芝居の一部。たまに通して出ることもありますが、大体はこの「鞘当」だけが出ます。もともとの原型は・・・「参会名護屋(さんかいなごや)」という、非常に古いお芝居の1場面。この「参会名護屋」で使われた「不破半左衛門(ふわ はんざえもん)」と、「名護屋山三(なごや さんぞう)」というふたりのキャラクター、そして、ふたりが遊郭で行き会った時、刀の鞘が当たって喧嘩になる「鞘当(さやあて)」のシーン、このふたつのモティーフが、いろいろなお芝居で繰り返し使われ、伝わってきました。なので、現行上演の「鞘当」の台本は、南北の上記の作品の一部ではありますが、ある意味独立したひとつの作品と言ってもいいような舞台です。【さらに古〜いお話のルーツ】「参会名護屋」の方は、古すぎて完全台本はなく、ほとんど上演されることはない。【「不破」と「名古屋」の古〜いルーツ】「名古屋山三(なごや さんぞう)」という人物は、室町後期に実在した色男らしく、当時から、江戸時代にかけて、名古屋を題材に数々の古浄瑠璃作品が作られた、かなりの人気者。歌舞伎の創始者として名高い「出雲お国(いずもの おくに)」の恋人としても有名。いろいろ作品が作られるうちに、「恋人の葛城大夫」や、「恋歌の不破半左衛門」などの後付け設定が加えられ、定着していきました。その集大成に作られたのが、「参会名護屋(さんかい なごや)」なのです。この時の主演が、初代団十郎で、団十郎が演じたのは、芸風的に「不破」でした。「不破」を主人公として、この「参会名護屋」を書かれました。「名古屋」は、上方の色男キャラクターであり、「不破」は、江戸の荒事キャラクターです。元禄期、江戸の文化が徐々に上方を凌駕し、ついに色男の「名古屋」が、荒々しい「不破」に主人公の座をゆずる。歴史的にも意味のある役割交代であったと思われます。この作品では名古屋は、どちらかというと、頼りない感じの色男で、でも不破とは仲がよく、ふたりで悪役に立ち向かいます。が、途中で女がらみで仲違いしてしまいます。という筋です。不破のこの華やかな衣装も、「参会名護屋」の、不破が主役だった時に作られたものです。そのあとも作品は、いろいろとアレンジされ、再び「名古屋」が主役のストーリー展開が主流になります。ですので、現行上演では、「不破」は「悪役」設定です。しかし、主人公っぽい衣装や、演技で出てくる上に、座頭(ざがしら)格の役者さんが、なさることになっています。また、「参会名護屋」の出だしの部分は・・・「暫(しばらく)」の原型でもあります。非常に歴史的に意味のある作品です。(写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.12
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市川團十郎に白猿という名前が付け加えられていますね〜何故?・・・どんなお猿?いちかわはくえん市川白猿・・・とは?歌舞伎役者の名跡及び俳名である。その由来は、「二代目市川團十郎」(1688年11月3日-1758年10月25日)以降の團十郎が名乗ってきた俳名である栢莚(はくえん)を、「五代目市川團十郎」が、(1741年-1806年12月9日)「猿は人間に毛が三筋足らぬ」という俗語になぞらえ、「祖父や父たちの足元にも及ばない」という意で、白猿と名乗ったものとされてる。【市川團十郎の家系図】『五代目市川團十郎』自身の子である「六代目市川團十郎」が早逝した後に、(1778年-1779年6月16日)「白猿」の名で、舞台に上がった記録が残っている。「七代目市川團十郎」-「五代目團十郎」の孫で、(1971年-1850年4月25日)祖父の名跡を俳名に使っている。「八代目市川團十郎」-「五代目團十郎」の孫かつ、(1823年11月7日-1854年9月27日)「七代目團十郎」の長男。祖父および父の俳名を自らも使っている。「七代目市川海老蔵」-「五代目團十郎」の孫かつ、(1833年-1874年7月13日)「七代目團十郎」の三男。祖父および父・兄の俳名を自らも使っている。「十三代目市川團十郎」幼少期「十一代目團十郎」の孫「十二代目市川團十郎」1946年8月6日- 2013年2月3日「八代目市川新之助」「十三代目市川團十郎白猿」襲名妻:小林麻央(2010年-2017年)長女:四代目市川ぼたん(2011年7月25日-)長男:八代目市川新之助(2013年3月22日-)かんげん君の背が伸びて海老さまになり、十四代目團十郎になる姿を観たいと思いますきっと新しい團十郎カラーを生み出すことでしょう。そんな歴史を舞台上に綴っているのですね(歌舞伎座にて写真撮影:ほしのきらり)無形文化世界遺産にぽち
2022.12.11
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『歌舞伎座』2022年12月5日(月)〜12月26日(月)十二月大歌舞伎が始まりました市川團十郎と新之助くんの襲名披露です。大御所も・・・ずらり市川海老蔵改め十三代目 市川團十郎白猿襲名披露「十二月大歌舞伎」八代目市川新之助初舞台歌舞伎座へのアクセス〒104-0061東京都中央区銀座4-12-1503-3545-6800銀座の4丁目です。【地下鉄とタクシー利用での行き方】銀座をぶらぶら歩きながらもいいですね東京メトロ日比谷線・都営浅草線「東銀座」3番出口すぐ上。東京メトロ銀座線・丸の内線・日比谷線「銀座駅」A7番出口5分 JR「東京駅」タクシーで10分。2022年12月5日(月)〜12月26日(月)【昼の部】午前11時開演【夜の部】午後4時開演かぶきざ歌舞伎座・・・とは?東京都中央区銀座4-12-15にある歌舞伎専用の劇場である。火災や戦災に遭うなど、さまざまな変遷があったが、今日に至るまで名実ともに代表的な歌舞伎劇場として知られる。歌舞伎座は・・・1889年(明治22年)に開場した。従来の劇場は、地名や座元の名を冠にするのが例であり、「新富座」「中村座」など・・・「歌舞伎座」という名称は異例であった。「歌舞伎座」は、もともと普通名詞として用いられた言葉で、「卑賤視されていた小芝居の 対局にある大芝居の劇場を意味していた」。現在の歌舞伎座設立にあたり、「その普通名詞を、 福地桜痴は、 固有名詞として天下に示したものである」。しかしこれは間違いで、普通名詞としての用法は、なかったという説もある。歌舞伎座は、大正時代から、松竹の直営で経営を行ってきた。4度建て直しており、2014年完成の現在の建物は、5代目のものである。「株式会社歌舞伎座」が、劇場を所有している。世界遺産にぽち
2022.12.08
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