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今、鳩村さん宅で猫タワーを組み立ててるんだけど。蹴り蹴り蹴り!パンチパンチパンチ!「こら、ろうそく! 何でも屋さんの邪魔はダメ!」鳩村さんが仔猫のろうそくちゃんを叱る。ろうそくちゃんは鳩村さんが会社近くで拾ってきたという元野良で、白地に濃いグレーの縞が地図みたい。尻尾も全体にそのシマなんだけど、先っちょだけが白い。うん、蝋燭の先みたいだね。ろうそくちゃん、ダーっとあっち走ってこっち走って、カーテンに登ってまた叱られて。パンチ、パンチパンチ!蹴り!俺にちょっかいかけて、大興奮で走り回る。「すみません、何でも屋さん……」「あはは。仔猫ってこんなもんですよ。元気でいいと思います」そう、若い猫ってこんなんだよ。うんちんぐハイも激しいし……猫って、何でウンチの後で走り回るんだろうなぁ。謎だ。てなこと思いながら、部品をはめ込もうと立ち上がろうとしたら。ダダダダダダー!俺の足から背中を駆けあがって、頭を踏んでカーテンに飛び移る。悲鳴を上げる鳩村さん、苦笑いするしかない俺。こら、ろうそくちゃん。俺は猫タワー組み立ててる人で、タワー本体じゃないの!キジトラのお花ちゃんは、上から見るとツチノコに似ている。「……何だい、お花ちゃん」すりすり、すすり。すりすり、すすり。灯油のポリタンクを運んできた俺の足に、全身をなすりつけてくる。でっぷりと太ってるから、なかなかの重さ。「何でも屋さんにまで、餌をねだってるのかなぁ」飼い主の飯倉さんが苦笑いする。「もう! お花ったらゴハンもらってない子みたいに。ダメ! さっきあげたばっかりでしょ!」なー!なーあ……!憐れを誘う声だけど……、飯倉さんは首を振る。「お花っ子は、“餌もらってない詐欺“を働くの。母からもらったのに、私にお腹減ったって鳴いて、私にもらったばかりなのに、また父に餌くれって鳴いて」そうやって餌ばっかりもらって、こんなに太ってしまった、と飯倉さんが嘆く。「詐欺ですか」思わず笑ってしまう。「そうなんです。──ダメ! そんな土管のようなプロポーションしてるくせに。病気になるから、食べ過ぎはダメ!」土管って、飯倉さん……! 俺はツチノコって思ったけど。なんにしろ、詐欺はダメだよ、お花ちゃん。コンクリート打ちっぱなしのボロビルの一室、何でも屋事務所兼住居。隅に設えたなんちゃって畳エリアに設置したコタツで、俺は本日の事務仕事をしている。件数と各種内訳と売り上げと……えーと、所要時間は……。発泡酒を舐めながらぽちぽちキーボード打ってると、欠伸が出てくる。晩飯も風呂も済ませて、お腹も身体もホコホコで……でも、その日のぶんはその日のうちにやっておかないと、後から地獄を見るって知ってるから、頑張る。コタツの中の足を組み替えると、ずっと中に入っていた居候の三毛猫が太股のあたりの隙間から出てきた。そのまま、何を思ったか膝の上に乗ってくる。重いよ、こら。ごろごろごろ……ぐるるるーぐるるるー……よくわからないけど、ご機嫌だ。「いいなぁ、お前。いつも気ままで」ぐるるるーぐるるるー……猫の幸せそうな顔を見ていると、しょうがないなぁ、と苦笑がもれる。普段のヤンチャも許してやろうという気になる。──まあ、猫なんて、何の役にも立たなくていいっていうか、それが許される存在だ。ごろごろごろ……ぐるるるーぐるるるー……喉を鳴らしながら、今度は腹を揉んでくる。クリームパンみたいな手をグーパーして、おおう、けっこうな力だ。あんまりご機嫌だから、なんかこう、こっちも幸せな気分になってくるんだけど。「おい、そろそろどいてくれよ」仕事も終わったし、メールチェックしたりとか、軽くネットサーフィンしたりしてたんだけど、三毛猫めが膝から動く気配を見せない。「こら」どいてくれない。時折思い出したように喉を鳴らしながら、熟睡している。「……」俺も寝たいんだけど。コタツで寝ると風邪引きそうだし、新型コロナだのオミクロンだの怖いから、ちゃんと布団で寝たいんだけど。「おい……」膝で寝ている猫を退かせるのって、なんでこんなに罪悪感を感じないといけないんだろう?今日は猫の日。もう24日ですが……。
2022.02.24
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ごおーごおーと風が吹く。とにかくすごい風が吹く。「このところ、毎日風が強いですよねぇ」ご住職へのお届け物の帰り、渡り廊下の拭き掃除をしていたお坊さんと立ち話。「そうですね。掃き掃除をしようにも、集めるそばから飛ばされてしまいまして。これも修行と頑張ってみても、あまりのことに虚しくなってしまいます」我ながら修行が足りません、とまだ若いお坊さん。「あはは……。虚しいの、わかります。秋の落ち葉かきもキツいですけど、こういう強風の敵わなさはまた別ですよね。大自然の脅威というか、どうにもこうにも」話しているあいだも風が吹く。ごおおおー! とものすごい風が吹く。「……うわー、裏の竹林が」お寺の裏手には、小さな竹林がある。竹垣の補修なんかに使われるから、手入れはされてるんだけど、高さは屋根を越えている。それが、今の強風で折れそうなくらい真横に撓り、わっさーわっさーと揺れている。「激しいヘドバンですよね」なんとなく言った言葉に、お坊さん、吹き出した。雑巾を握りしめて笑いを堪えている。「へ、ヘドバン」激しく震える背中。俺、そんなに面白いこと言ったかな?「いやー、ほら。とってもヘビーな強風ライブに、竹林オーディエンスがノリノリでヘッドバンギング──」「な、何でも屋さん、もう、その辺で」勘弁してください、と笑い涙の滲んだ目で懇願してくる。──そういえばこの人、ロック系の音楽が好きで、前にも声明声でその辺の歌うたってたことあったっけ。きっとヘドバンにも馴染みがあるんだろうな……。「す、すみません」こんなところで大声で笑ってたら、ご住職だって何かと思うだろうし、若いお坊さん、叱られちゃうかも。俺、悪いことしちゃったかな……。そんなことを思って縮こまっていると、また、ごおおおおーっと風が吹く。大自然の奏でるサウンドに、竹林オーディエンスが激しく応えてる。折れそうで折れない、なんとも恐ろしい光景だ。「こんなん、人間だったらムチ打ちになっちゃうよなぁ……」「……!」うっかり呟いたのが、またツボに入っちゃったらしい。お坊さん、笑いに悶絶してしまった。「……」これ以上自分がお馬鹿を言う前に、俺はそそくさとお暇した。掃除の邪魔して、ホントごめんなさい!本日、猫の日。忘れていて、今日の話を書きそびれてしまいました。
2022.02.22
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ばびゅーんと突風、ガラン、と落ちる物干し竿。さっきまでくるくる回ってたパラソルハンガー、別名“タコの足”もたくさんの洗濯物を抱えたまま落ちる。洗濯物の一大事、目撃したからには早くこの家の住人に知らせねば。ピンポン押すのももどかしいけど三回くらい押して、重い米袋を抱えたままドアの向こうに声を掛ける。「小松さん! 今、庭の物干し竿が風で落ちましたよ!」「ちょっと何でも屋さん? え?」びっくりして顔を出したのは、この家の一人暮らしのお年寄り、小松さん。「ご依頼のお米、スーパーで買ってきて戻ってきたら、庭の物干し竿が落ちるのが見えて。タコの足も落ちちゃいましたよ」「え! 拾わないと!」慌てる小松さんだけど、片足が不自由で素早く動けない。「俺、拾いましょうか?」ここん家の玄関から庭は、中を通るか、横の柵の鍵を開けてもらわないと入れない。「……頼めるかい? 悪いねぇ、何でも屋さん」そう言いながら、柵の鍵を開けてくれる。米は取り敢えず玄関先に置いて、洗濯物を救出するべく庭に飛び込む──。だけど、ああ……何てこったい。「これ……」待っていた小松さんに、畳んだパラソルハンガーを見せると、無理もないけど苦虫を噛み潰したような顔になる。「このあいだの雨で、地面がまだじくじくしてましたから……」よりによって、その一番湿気ってるとこに落っこちたというか、飛んだというか。「あー……」あーあ、と溜息を吐く小松さんに、慰めるように俺は続ける。「今日は風が熄んでるときと、強くなるときの差が激しくて、ほんと困りますよね」「……風の音も、竿が落ちる音も、全然聞こえなかったよ」トシだねぇ、と苦笑いする。それには俺は何も言えない。たぶん、意図せずとも困り笑顔になってると思う。「──お天気が怪しい日は、お家の中に干すのが吉かもしれません」「洗濯物は、外に干すほうが気持ちいいんだ」「それはわかります! お日様に干した洗濯物ってやっぱり気持ちいいですね。でも、俺も仕事柄外回りが多いんで、お天気が心配なときは屋根のあるところか、部屋の中に干すことにしてます。一回雨にやられたことがあって、懲りました」強風でパンツ飛ばしたこともあるんです、と恥ずかしい失敗談も話しておく。「こういうタコの足で、吊るすタイプじゃなくて設置型のやつもありますよ。こんな天気の日は、そういうのを買って、縁側とかに置いておくのはどうでしょう?」「この吊るすタイプと、ハンガーしか使ったことないが」「ホームセンターなら、いろんなのが売ってますよ──ん? 駅前商店街の雑貨店でも扱ってたかも……」「そうか。何でも屋さん、適当なの見繕ってくれないか」「え? 俺でいいんですか?」「ああ、任せるよ。あんたなら、使いやすいのを選んでくれると思うから」「ありがとうございます! この後空いてるんで、さっそく探しに行ってみますね。あ、でも、買う前に、画像とかで小松さんに見てもらって、それで選ぶことにしませんか? メールで送りますから」日用品は、使う人が気に入るのが一番ですから、と提案する。「そうか……そうだなぁ。お勧め上手だな、何でも屋さんは」小さく笑う。「新しいのとか、慣れないのとか私は嫌いなんだけど、何でも屋さんが勧めてくれるなら、悪いものじゃないと思えるよ」人を信用するのは苦手だったけど、気づけばいつの間にかあんたのことを信用してしまっていたよ、と小松さんはまた笑った。「……そんなふうに言っていただけると、俺、張り切っちゃいます! 最初は慣れなくてもすぐ慣れちゃいますよ。それが便利グッズ! さあ、お米は取り敢えずお台所に運びますか。小松さんが洗濯物を洗い直してらっしゃるあいだに、ひとっ走り行ってきますね!」顧客様に信用していただいたり、頼りにしていただいたりするのは、本当にうれしい。誰かの役に立って、喜んでもらって、それが収入に繋がって生活していけるんだから、何でも屋はやめられない。さあ、今日も頑張るぞ!
2022.02.21
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そう、料理上手なんだよ、この人。同じような材料使って同じようなレシピで作っても、俺が作るのとは一味も二味も違う。だから、あの伯父さんが甥っ子の美味料理を求める気持ちもわからないではない──。甥っ子以上に怪しい上に、意地悪な仙人みたいな真久部の伯父さんだけど、実は甥っ子を可愛がってるらしい、っていうのは俺知ってる。甥っ子本人には、ちっとも伝わってないみたいだけど。「適当に作ってるんですけどねぇ」そう言って、にっこり笑う──俺はちょっと背中が寒くなった。だって、この流れは……。「良かったら、うちに来ませんか? 同じカレーなんだし。たくさん作りすぎちゃったんですよねぇ。ご飯もあるし」ほら~! って、ホラーかも……ってオヤジギャグかましてる場合じゃないって、俺!「いや、でも、もう玉ねぎは飴色に仕上げてあるし」俺は逃げ腰。だってあの店、店番に慣れてはいてもやっぱり怖……。「ジップ□ックに入れて、冷凍保存すれば次回また使えますよ?」マスクの目元、古猫の笑みが深まる。「今日のカレー、牛すね肉をね、圧力鍋で煮込んでみたんです。そしたらもう、トロトロで。赤ワインを隠し味にしたら、我ながらなかなかの出来になってねぇ」「トロトロの牛すね肉……」俺はクラッときた。半額のときに買って、そのときもカレーにしたことあるけど、普通に煮込んだだけだから、しみじみと二日目のほうが美味かった……。「トッピングに、昨夜のハンバーグなんかどうかなぁ、と思ってるんですが──」いかがです? にーっこりと、マスク越しでも唇の両端が吊り上がってるのがわかるいつもの笑みに、俺は負けた。結論から言おう、真久部さん特製牛すね肉カレーは絶品だった。カレーのかかったハンバーグは、肉汁じゅわー。「ごちそうさま。美味しかったです!」カレーのおかげで、赤い大根ショックで落ち込んでいた気持ちも回復。すっかり元気。俺、今にっこにこな顔になってると思う。ハンバーグも美味かったよ!「お粗末さまです」にっこり笑う真久部さん、俺の反応に満足そう。「ツナと大根のサラダも美味しかったです。新鮮な大根って、シャキシャキしてていいですよね」「ツナはお届け物帰りに商店街で買ったものだけど、大根は先日、神崎さんにいただいたものなんですよ」「え?」俺ももらったよ、ニンジンと思ったら大根だった大根。「皮が赤くて、珍しい大根ですね、と言うと、残念そうな顔をなさって」「え……」「ニンジンに間違えてくれると思ったのに、と悔しそうでした。お友だちの大仏おさらぎさんはしっかり間違えて、ニンジンだと思ってお嫁さんに渡したらしいんですが、お義父さん、これ大根ですよ、と呆れられたとかでお冠だったらしくて。神崎さん、それに味を占めて、何でも屋さんにもあげてみたのに、とんと反応が無いから騙されなかったか、と残念がっておられましたよ?」「……」「ニンジンは、あんなサツマイモみたいな色をしていませんよねぇ。質感は大根そのものなんだし。引っ掛けようったって、ふだん料理しない人くらいしか引っかからないんじゃないでしょうか」大仏さんは見るからに「男子厨房に入らず」時代の方ですものねぇ、と苦笑してみせる真久部さん……俺、ちゃんと自炊してるけど、引っかかったよ。神崎の爺さんの、トシくってるくせに、時々ガキ大将みたいに悪戯っぽく光る瞳を思い出す。「さ、最近は、野菜も色んな種類が出ててびっくりしますよね! あはは!」神崎さんめ……! 今度将棋で勝ったら、俺、いつもと違ってわざとらしく得意になってやるんだ! ──そんなチンケな復讐を胸に誓っていたら。「ときに何でも屋さん。この後、何かお仕事は入ってますか?」たずねられ、ドキッとした。「ええっと、はい。今日の午後はまるまる空いてます……」嫌な予感はするけれど、正直に答えるさ。ああ。「それなら良かった。午後から店番をお願いしたいんですが──」いかがです? と、焦げ茶と榛色のオッドアイをひらめかせ、地味な男前がにっこり笑って首を傾げてみせる。「あ、はい。もちろん!」喜んで! と、心にもないことを言いつつ……いや、ありがたいんだよ、お仕事いただけるのは。でも、それがここの店番となると──。「はあ、良かった。今回、何でも屋さんの予定を押さえられなかったから、今日はもう店仕舞いするしかないかな、と思ってたんですよ。昼前だって届け物に出掛けなきゃならなかったし……まさか、帰りに寄った商店街でお会いするとは。いやあ、幸運でした」「あはは。そう言っていただけると。俺も、こんなに美味しいカレーを食べさせてもらって、ありがたいです!」それは本当だし、真久部さんも喜んでくれてるし。俺も正直になれるところは正直になっとこう。うん。「天の配剤……いえ、ニンジンの配剤というところでしょうか? 神崎さんには今度何かお礼をしておかないと」そんなことを言って、晴れやかに笑う真久部さん。その目が、俺の買ったニンジンの袋に向けられている。「え?」「そういえば何でも屋さんて、バレンタインデーの翌日はいつもカレーが食べたくなるって、前に言ってましたっけねぇ。──僕、それで今日は急に作りたくなったのかも」「え?」「ふふふ……」楽しげに笑いながら、出掛ける用意をしてきますね、と、上機嫌で二階の自宅に上がって行った真久部さん。どゆこと?頭の中ではてなマークが飛び交う。え? 何? 真久部さん、どこまでわかって動いてるのかな? 偶然だよね? 今日のことは偶然だよね? 引き寄せたりしてないよね?唖然として、今日、俺がこの店に来るきっかけになったニンジン、駅前商店街の八百屋で三つ百円の、見慣れたオレンジ色を凝視していたら。 チッチチッチリ……チッチチッチリ…… チックンタックンチックンタックン…… チ チ チ チ ッチ……チ チ チ チ チッチ…… チッ……チッ……チッ……古時計たちの時を刻む音が、俺を笑ってるように聞こえるのは、ただの被害妄想なんだろうか──。大っ嫌いだ、紛らわしい色したニンジンなんて!
2022.02.18
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昨日はバレンタインデー。昨日はチョコで大変な思いをした女性がいたけれど(彼女、あれから大丈夫だったかな?)、実は俺もそれなりにチョコが大変なんだ。オトコとしてはモテなくても、何でも屋としてはありがたいことにあちらこちらでモテモテで。グレートデンの伝さんの飼い主の、吉井さんからチョコレート。フレンチブルの文さんの飼い主、菅原さんちの娘さんたちからもチョコレート。草むしりに伺った古田さんからも、電球交換にお邪魔した藤森さんからも、塾に送り迎えした及川さんちの唯ちゃんとお祖母さんからもチョコレート。チョコレート尽くし。新型コロナのご時勢だからか、皆さん手作り系は自重してるみたい。いろいろ考えてくださってるお気持ちがありがたいよね。もちろん、元妻と暮らす可愛い娘のののかからだって、宅急便で送られてきたさ。なんと今年はウィスキーボンボン! 『アルコールがけっこうきついみたいだから、休みの日か、夜しか食べちゃダメよ』と元妻のメッセージ付きだった。俺、別に酒に弱いわけじゃ……。──うん、チョコは好きさ! 忙しいとき、小腹が空いたとき、手っ取り早くカロリー補給できるし、冷凍保存もできて便利だ。今の時季は、普通に置いておいても溶けないしな。だけど。部屋にあま~いチョコレートのかほりが充満すると、いつもどうしても食べたくなるものがある。甘いものとは正反対の、激しくスパイシーな──。そう、カレーだ。辛口のカレー、絶対に。午前の仕事帰りに、じゃがいもと玉ねぎ、牛肉はやっぱりお高かったので、鶏もも肉を買ってきた。ニンジンはちょっと前に神崎の爺さんからもらったのがある。今から作れば、昼メシ晩メシと食べられる。明日の昼もイケるはず。朝は……朝からカレーは、このトシではさすがに。鼻歌を歌いながら玉ねぎ切って炒めて、合い間にじゃがいもむいて、お次はニンジン、と、そのちょっと変わった赤い色の皮をむく前に、ヘタを切り落としたら……。「なんじゃこりゃー!」このあいだ顧客様がアマ〇ラで観てた、探偵な物語のマツダユウサクのように俺は叫んだ。──突然の大声に、視界の隅、居候の三毛猫が迷惑そうにコタツに潜り込んでいくのが見えたけど、そんなのどうでもいい。「中身、大根じゃないか!」赤い皮一枚の下は、雪のように白い大根。白雪姫も真っ青かもしれない、などと思いつつ、もしかしたらこういう種類のニンジンなのかもしれん、と一縷の望みを掛けつつ、匂いを嗅いでみる。大根だった。紛うことなき大根のニオイがした。「……」何でだ。ラディッシュこと、二十日大根が赤いのは知ってるさ。でも、あれは小さくて丸い。この大根は、普通にニンジンぽかったんだよ! ……大根でもおかしな形ではなかったけどさ。「……」どうしよう、コレ? もう玉ねぎは飴色だし、じゃがいももむいた。なのにニンジンが大根。いや、カレーに大根入れるってのも聞いたことはあるよ? でも、俺は入れないんだよ。うちのカレーは、母が作ってくれたのも、元妻が作ってくれたのも、どっちも玉ねぎ・じゃがいも・ニンジンのカレー。……肉はいろいろだったけども。大根入りのカレーに挑戦してみるべきだろうか? でも、大根は味噌汁に入れるほうが好きなんだ。母の作ってた謎のレシピ、ぜんぜん風呂吹き大根じゃない“ふろふき大根汁”も好きだけど、カレーはなんか違うんだ。「……」今日の俺は、カレー気分。もうカレーの口になっている。「ニンジン、買ってこよ……」火の始末をして、フライパンに蓋をして。財布を持って俺はとぼとぼと出掛けた。コンビニでも野菜を売ってるとこあるけど、駅前商店街の八百屋さんに行けば、半端な大きさの野菜が安く売られているはず──。やったね! 三つで百円のニンジンを見つけて、ちょっと気分が浮上してたら、後ろから誰かに肩を叩かれた。「買い物ですか、何でも屋さん」ふり返ってみると、そこには胡散臭い笑みを浮かべた古美術雑貨取扱店慈恩堂の店主、真久部さんが。「あ、はい。カレーを作ってたんですけど、材料が足らなくて……」あはは、と愛想笑いしておく。このヒトはいつどこで見てもそこはかとなく怪し……じゃなくて、いつもにこにこしてて穏やかだなぁ。あっはっは! なぁんて、顔で笑って心の中は逃避して、をやってたら。「カレーですか? 奇遇ですね、僕も今日は朝からカレーを作ってたんですよ」「へ、へぇ……」「特に食べたいわけでもないのに、どうしてかなぁ、と不思議だったんですが──、今日ここで何でも屋さんに会うことになってたからなのかなぁ……」怪しい笑みを標準装備の地味な男前が、聞き捨てならないような、全力で聞き捨てておくべきのような、そんな怪しい台詞を呟いている。「白いご飯だけはたくさんあるから、カレーは正解なのかもしれないけれど……。昨日、伯父が来るって言ってたのに、結局来なかったから。僕の作ったハンバーグが食べたいと、うるさかったんだけどねぇ」「真久部さん、お料理上手だから……」後編に、つづく……。真久部さんを出したら、長くなってしまいました。
2022.02.17
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今日はバレンタインデー。モテるモテない関係なしに、たくさんのチョコレートが飛び交う日。義理チョコ、友チョコ、気持ちチョコ。本命チョコは誰のため? 贈らず食べちゃあダメでしょう。「だって、あの人に恋人がいるって知らなかったんだもん」お高いお店の生チョコを食べ過ぎて、キモチ悪くなってしまったという彼女。「あー。その場合は義理チョコってことにして、もうあげてしまえば……」「アッツアツの恋人たちに、一万越えの高級おやつを提供しろっていうの? バッカじゃない?」「だからって、公園で独りヤケ食いなんて……」するから、こんなところで酔っ払いみたいにリバースすることになってしまったんじゃないかなぁ。──生チョコは、食べ過ぎると胃にクるよ。「そうでもしなきゃ、やってらんないんだからしょうがないじゃない! ……う、うぐ──」あー……。「……まあ、そういうのは吐ききったら楽になると思いますよ」背中をさすってあげたいけれど、相手は若い女性。オジさんはそこの自動販売機で冷たい水でも買ってきてあげよう。「胃の具合、どうです? 落ち着きましたか?」街灯の下、青白い顔の彼女がうなずく。「この水あげるから。良かったら手、洗う? うがいもすればいいですよ」手を流してあげてから、残りの水も渡す。「まだ若いし、綺麗なんだし。もっといい人がいるよ、きっと」まだ俯いてる彼女。でもなぁ。「もう暗いし、若い女の子が一人でこんなとこにいると危ないよ。さ、落ち着いたんなら立って。帰りましょう。身体冷えてコロナにでもなったら困るでしょ?」家まで送るよと、俺はずっとお座りして待ってくれていたグレートデンの伝さんを示す。「犬の散歩の途中だし、オジさん、おかしなことしないよ。心配なら近所のコンビニとかまででもいいんだし。な、伝さん?」「おん!」「──でんさんっていうの? おっきな犬……」「おふん、ふん」しげしげと見つめられて、伝さん何だか誇らしそう。「グレートデンっていう犬種なんだよ。伝さんたら、こう見えて漢オトコでね、前に、あの公園で危ない目に遭ってる女の子を助けたこともあるんだ」驚いたように顔を上げる彼女に、俺はうなずいてみせる。「だから、きみを放って置くことができなかったんだよ」近頃物騒だし、心配でね、と続けると、彼女は小さな声で「ありがとうございます」と言い、しおらしく頭を下げた。──冷静になったら、なんだ、礼儀正しくて良い子じゃないか。「……生きてると、色んなことあるよね。な、伝さん」「おん」実は犬好きだったらしい彼女、伝さんの頭を撫でながら「でも、生きてても辛いことばっかり……」と呟く。立ち直りにはまだ時間がかかるようだ。「あはは、失恋は辛いよね。でもさ、昔、女友達が言ってるのを聞いてね、けだし名言だと思ったんだけど──」その言葉を、俺はちょっと女性っぽくして言ってみた。そしたらウケた。その場にしゃがみ込むほどウケた。『どんな男との別れより、諭吉との別れが一番辛い』笑えるなら、もう大丈夫だ、お嬢さん。な、伝さん?「おん!」俺もつられて笑いながら、学生時代のあの日、空き教室で友チョコパーティを開いて、モテない男どもを|労《いた》わってくれた女の子たちの、あの賑やかな笑い声を思い出す。ありがとう、きみたちの明け透けな会話にはドン引きだったけど、そのとき聞いた言葉が、きみたちの人生の後輩さんにも役に立ったよ!
2022.02.14
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空は穏やかに晴れて、日差しが暖かい。高いところに白い雲、青い空を飾るリボンみたいに。まだ寒いけど、気持ちいい天気。こんな日は自転車のペダルを踏む足も軽くて──だけど耳は冷たいな、耳は。「何でも屋さーん!」お、俺を呼び止めるあの声は。「氷室さん、こんにちは」自転車を止めて、挨拶する。「ちょうど姿が見えたから声を掛けちゃって。今、移動中? この後またどこかの仕事?」「いえ、空いてますよ。何かお困りごとですか?」ちょっとしたご不便お困りごと、何でもお申し付けください! と、氷室さんもよくご存知の<あなたの町の何でも屋さん>チラシの宣伝文句を連ねてみたら、ウケてくれた。「うん、今まさに困っていてねぇ。腰が痛くってさ」「え? 大丈夫ですか? 病院行きますか?」氷室さんのいる庭先に自転車を止めさせてもらって、その体調を気遣う。どっか痛いなら、早いめに病院行ったほうがいいよ!「いやいや、これはいつものことでね、トシ取るとあちこち痛いのが当たり前でさ。日によっていろいろだけど、今日は腰が特にねぇ。だから屈むのが辛くて」言いながら、氷室さんは庭の隅を指さした。「何でも屋さん、あれ、あそこにある水仙ね。全部こっちのプランターと、足りなければこの空の植木鉢に移してほしいんだ」指されたほうを見ると、隣の植え込みのせいで日当たりは良くないみたいだけど、鮮やかな黄色の花たちが群れ咲いている。「あ、はい。わかりました。お庭の模様替えですか?」たずねてみると、そういうのじゃないんだけど、と氷室さんは溜息を吐く。「春に娘夫婦が越して来るんだけどさ、庭を潰してガレージにしたいっていうんだよ。まあ、俺も庭いじりの趣味は無いから別にいいといえばいいんだけど、つれあいがさ。生前に植えた花なんかもう消えてなくなったと思ってたら、水仙がね」あんな日陰でも咲くんだねぇ、と続ける。「工事は今月の予定で──気づいたら、花が咲き出しててさ。一月、あんなに寒かったのに、それでも咲くんだな、とちょっと驚いてねぇ、こっちはすっかり忘れてたのにさ。今日も眺めてて……ふと思いついたんだよ、植え替えしてやればいいかって。だけど、」放置してたプランターと植木鉢を出してきたら、腰に来たみたいで、どうしようかと困っていたんだよ、と苦笑いする。「諦めようかと思ったところで、何でも屋さんを見つけたからさ。声を掛けてみたんだよ」「それはありがとうございます。喜んでやらせていただきますね!」顧客様に頼りにされてうれしい。これぞ何でも屋の醍醐味! ──あ、喜びのあまりうっかりしてた。これ、素手ではできない作業だよ。「あの、スコップとかありますか? 無かったら、ちょっと家までひとっ走りして取ってきます」事務所兼自宅のボロビル一階は、シャッター付きの大きな駐車スペースだ。免許は持ってても車なんて持ってない俺は、道具倉庫として便利に使ってる。皆さまのご不便お困りごとに、臨機応変で対応するための何でも屋お道具コレクション、いつでも出番を待ってるぜ!──と、逸りそうになったけど、スコップは多分あると氷室さんは言う。「庭仕事の道具なら、まだ取ってある……というか、放ってあるな。そこの物置に入ってるはずだよ」「んー……、あ、そうですね。一通り揃っているようですね。奥様、庭がお好きだったんですね」スコップとか、小さな鍬、園芸バサミ、ミニ熊手や大小の如雨露、液肥のボトルに肥料の袋。「しょっちゅう庭いじりをしていたよ……。その頃は、この家はいつも花に囲まれていたな」今は亡き人を思う、遠い目。俺も鏡の中に見たことのある、その目の意味に気づかないふりをして、作業の開始を告げた。「じゃあ、さっそく始めますね」水仙の花レスキュー・プロジェクト、開始です! とお道化てみたら、氷室さん、笑ってくれた。それから小一時間頑張って、葉っぱと花の出ている水仙は土ごと全てプランターと植木鉢に移せたと思う。小さい球根がいっぱい出てたなぁ。「移植する時期ではないけど、たぶん大丈夫と思いますよ。水仙って頑丈ですから」庭用蛇口から、大きな如雨露に汲んだ水を撒きながら俺が言うと、氷室さんは目を細めた。「そうかい。ありがとうね、何でも屋さん──ここだけ春だね」黄色の水仙は、明るい陽射しの下でまるで輝いているようだ。「あったかい色ですよね。あ! そういえば、今日は立春じゃなかったです?」「立春……」「今日から春ってことですね。──ああ、水仙って、陽だまりの光を集めて、花の形にしたみたいだなぁ。春の光の花束」ちょっと乙女チックだったかも~、なんて笑い飛ばそうとしたんだけど。「……若いときはお金がなくて苦労を掛けたけど、誕生日に花束を贈ったことがあったよ。歌に肖ってさ、土手に生えてたやつだったけど。それでも、彼女は喜んでくれたっけな──」そう呟いて、氷室さんは半分泣き笑いのような顔になった。「忘れていたことを思い出したよ。若いころのお返しに、今度は彼女が俺にこの水仙を贈ってくれたのかもしれない──そんなふうに思うのは、ロマンチックにすぎるかな?」いいトシをして、それこそ少女趣味だねぇ、と空を見上げる。青い空に雲のリボン、地上には明るい黄色の水仙──。その目にきらりと何かが光って見えるのは、きっとこの日の陽射しの悪戯だったんだろう。「今日はいい日だ。ありがとう、何でも屋さん」愛するきみに捧げよう七つの水仙の花 ──『Seven Daffodils』 訳詞 なかにし礼もう十日経ちましたけどね……。
2022.02.14
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強い風に煽られて、横殴りの雨になる。折り畳み傘なんてとうてい役に立たないし、雨合羽も持ってない。下手に濡れたら風邪引く→抵抗力下がる→インフルエンザ、の連鎖が来そう、新型コロナだと洒落にならない。というわけで、俺は走る。チワワのちーちゃんを抱えて走る。ちーちゃん、飛ばされそうだし。散歩に出る前はここまで風は強くなく、昨日は散歩に行けなかったというちーちゃん、風を切って楽しそうに歩いてたんだけど。「ちーちゃん、散歩はまた明日な?」「くぅーん」「雨はダメだよ。ちーちゃん、小っちゃいからなぁ」「くんくん」「お洋服が濡れたら、風邪引いちゃうぞ」「くぅん」ちーちゃんのお洋服は、今日もメリケンサイズの毛糸靴下。飼い主の伊吹山さんのお友だちのアメリカ土産だ。最初にもらったときにちーちゃんに着せた写真見せたらウケて、毎回買ってきてくれてたらしい。新型コロナが流行ってからは、お友だちも渡米を控えていて、ちーちゃんの靴下コレクションは増えてないらしんだけどね。「帰ったら、一応お着替えしような。小型犬は保温が大事!」そんなこと言いながら走って、伊吹山さんちに着いたあたりで雨は降らなくなった。止んだのか? また降るのか? 空の色は当てにならない。「雨になるとは。すみません、何でも屋さん」ピンポンしたらすぐ玄関先に出て来てくれた伊吹山さん、外の濡れてる地面にけっこう降ったんですね、と驚いていた。「降り出してからすぐにチーちゃん懐に入れたんですけど、念のため、すぐ着替えさせてあげてください」「わかりました。ありがとうございます」報告しながら伊吹山さんに渡そうとするのに、ちーちゃん、何故か俺から離れたがらない。「こら、ちーちゃん」伊吹山さんが軽く叱るけど、ちーちゃん知らん顔。「どうしたんだ、ちーちゃん。もっとお散歩したかったのかい? ──って、これかな?」ちーちゃんが離れたがらない理由が思い当たって、俺はジャケットの内ポケットを探った。「さつまいも、か……」伊吹山さん、苦笑い。「ちーちゃん、好きでしたね」迎えに来る前、宮藤さんにもらったんですよ、と説明する。「おやつにどうぞ、ってもらった時はまだ熱々で。カイロ代わりに入れてたんですが、ちーちゃんに嗅ぎつけられちゃったなぁ」「好物だけど、甘いから。あんまり食べさせるのも良くないし、控えてるんですよ。こら、ちーちゃん、何でも屋さんから離れなさい」飼い主さんにじーっと見つめられながら怒られて、ちーちゃんはしょんぼりと力を抜く。つい笑ってしまいつつ、俺は小っちゃいからだを渡した。「今日はいきなりの雨で散歩が短くなっちゃったし、ひと口ぶんだけならどうでしょう?」覗ってみると、伊吹山さんがうなずいてくれた。まだほんのりと温かいさつまいもをちょっとだけ千切り、ちーちゃんの鼻先に出してやると、一瞬で口の中。「わんわん!」尻尾ふりふり、おかわり要求。「もうダメだよ~、ね、伊吹山さん」「そうそう。お前はちゃんとご飯を食べなさい。さつまいもはオヤツなの!」「あはは。ちーちゃん、またね」伊吹山さんにも挨拶して、外に出る。雨が止んでるうちに、いったん家に帰ろう。おおう、風がきつくて寒い。慌ててジャケットのジッパーを上げながら、小走りに急ぐ。一月の、この冬一番寒かった日々に比べると、今日なんかは暖かい気がする。寒いけど。はぁ、もう二月なんだなぁ。── 一月は行って、二月は逃げて、三月は去る。昔聞いたそんな言葉を、しみじみ実感するよ。一分一秒一時間、一日一月一年間。息継ぐ間もなく続いていく、時間とは、連続しつつも過ぎ去るものなのだ──。なぁんてこと考えてたら、うっかり道路の縁石に蹴躓き。「うおっ──!」なんとか踏み堪えた。一秒にも満たないその間、どうやって転ばずに済んだのか。一瞬が永遠にも思えて……今の俺、ちょっと映画の『マ〇リックス』みたいだったよ!もう二月も五日ですが、一日の話。チワワのちーちゃん初出はこちら。
2022.02.05
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「僕が攫われてから、見つかるまで、三日経っていたそうです。目を覚ますまでも三日」どこか複雑な色を帯びた笑みで、真久部さんは続ける。──地味だけど、今でも男前というか整った顔をしているので、子供の頃可愛かったと言われれば、そうだったろうな、と思う。ちっちゃい子が、男の子か女の子か見ただけではわからない、っていうのはあるあるだけど……。「なんかそれって、もろに神隠しのような」「ですよね」うなずいて、真久部さんはお茶でひと口、喉を湿す。「僕は子供だったし、歩いて行ける距離に住んでいなかったのもあって知らなかったんだけど、その辺り……つまり、あの茅場は昔、“不知の茅場”と呼ばれていたんだそうです」「しらずのかやば?」「ほら、“八幡の藪知らず”って聞いたことないですか? その“藪知らず”と同じで、そこに足を踏み入れると二度と外に出られなくなる、と恐れられている土地だったんだよ」「……」芒の海に、目の前のこの人が呑まれて、消えてしまったように見えたあの日を思い出す。「シャレになりませんよ、それ……」唇を「へ」の字に結んでいる俺に、少しだけ困ったような、申しわけなさそうな笑みを向け、なだめるように真久部さんは言う。「実際は、ただの縛めだったんじゃないかな? 芒の下に隠れて見えないけど、あそこはかなり複雑な地形になっていてね」周囲の山の、その裾が互いに大きく入り組むようになっていて、大小の丘陵が溶け合い絡み合うみたいな形になっているという。「毎年、二月ごろに山焼きをするんですが、茅場を覆っていた芒が燃やされて地面が露わになると、その起伏の激しさに驚きますよ。おまけに、中心地がすり鉢のように窪んでいてねぇ。そのすり鉢がまたけっこう大きい。そんな土地だから、芒の季節には下手をすると、慣れた人でも方向を失うことがあるというよ。だから、“不知の茅場”と呼んで、気を引き締めるようにしてたんだと思います」「まあたしかに、あんな場所でパニックしたら、どこがどこやらどっちやら、わからなくなるかも……」本人のコンディション次第で、何でもないところでも迷路のようになってしまうことってあるよな。精神状態や、体調や……。 「芒ってかなり背が高いし、あそこの道は踏み固められたぶん低くなってるから、本当に向こうが見えなくなるし。狐や狸がいなくても、セルフでぐるぐる堂々巡りしてもおかしくないかもしれませんね」セルフで堂々巡り、と呟いて、真久部さんは表情を和ませた。「何でも屋さんの喩えは、なかなか的確ですね。そう、感覚はときに人を裏切ることがある。ちょっとした勘違いくらいで済めばそれも笑い話だけれど、取り返しのつかないことになることも、残念ながらやっぱりあるのでね」僕もあの日は、天地がわからなくなりかけました、と笑えないことを言う。「そんなわけで、観光地としてからは、順路というか、歩いても差し支えない|道筋《ルート》には、両脇にずっと鎖を渡してあるんです、ガードレールのように。腰より低くしてあるので、景観は損ねないし、それでいてきっちり区切ってくれるからね」芒と人を、と続ける。「立ち入って良い場所、立ち入ってはいけない、人。──別けておかなければ、どちらも・・・・混乱する」立ち入ってはいけない人って? と疑問には思うも、真久部さんもいつものツッコミ待ちなふうではないから、俺も深読みするのは止めておいた。だけど……。「真久部さんの歩いていた道って、鎖ガードがなかったような……」うん。あの小島みたいな丘から伸びてた、踏み固められただけの細い道。全部は知らないけど、真久部さんが通っていった道には、そんなものは見当たらなかった。「あそこは、観光客立ち入り禁止エリアだからね」「そうなんですか?」俺たち、入ってよかったのかな?「あのベンチのある丘の登り口は、普段は鎖を渡して閉ざしてあるんですよ。丘より向こうは、昔から|道惑《みちまど》いが多かったらしいんです。大勢で入るぶんにはそんなことはないというけど──、観光客対策が万全ではなかった頃は、他所から芒見物に来た人たちの迷子が続出したらしくて」それは、ほぼ九割があの丘よりの向こうでのことだったという。「封鎖を無視して登って、周囲の景色を見るだけで満足していればいいのに、その先まで分け入って迷う人は毎年ちらほらいるようだよ。だけどね、人工物があると戻ってきやすいらしい。だからベンチを置いてあるんだよ」自然の中の人工物は異物だから、とこともなげに言う。だから人の意識が向きやすいのだと。「観光客用・・・・って、そういう意味だったんですか?」闇夜の灯台的な。「あれって、休憩用に置いてあるんだと思ってましたよ……」普通に、公園のベンチ的な意味で。「道惑いからからくも逃れた人は、疲れ果ててるらしいからねぇ。休憩用といえば、休憩用かな」僕も、あの日はかなりよれよれでした、と答える声音に、薄く自嘲の色が混じる。「そういえば、帰りの乗り物ではずっと眠ってましたね、真久部さん……」つづく……。
2022.01.25
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後ろから大人の声が聞こえて、追いかけられるように僕は芒の中を闇雲に突き進んだ。それはあの男の声ではなかったかもしれない、でも、そのときの僕には、自分を捕まえようと引き留める、怖い人の声にしか聞こえなかったんです。初め疎らだった芒は、奥に行けば行くほど密集してきました。視界は全て砂色の芒の茎、僕は泳ぐように進んだ。子供は身体が軽いから、実際泳いでいたのかもしれない。地面に、足がつかなかった気がするんです。ただもう我武者羅に手を動かし、足を動かして……あっ、と思ったときには、丸い広場のようなところに転がり落ちていた。唐突に現れた空間で、僕はまるで水から飛び出した魚のように口をパクパクさせていた。驚きと、限界まで身体を動かした苦しさで、しばらく動けなかった。見上げた空は、太陽は見えないのに不思議に明るかった。白い雲がどこまでも広がっていて、ところどころに淡い金色や薄い茜色が入り混じり、明るいのにちっとも眩しくなかった。見えるかぎりの芒の穂がふんわりふわふわ輝いていて、それが空に上って雲になるのかな、なんてことを考えていました──恐怖とパニックの限界で、意識を逃避させていたんだろうね。どれくらいそうしていたか、ふと気づくと、着物を着た子供が傍に立っていました。逆光で顔は見えなかったけれど、長い髪をしていて、色白で、手足も細かったので、女の子だと思いました。 どうしたの? 早いね、いつも来るのは冬なのに初めて会ったはずなのに、知ってるふうにその子が話しかけてきた。頭のどこかでちょっと変だとは思ったけれど、自分がとても怖かったことを訴えるほうが、そのときの僕にとっては大事だったから、怖いおじさんから逃げてきた、と答えました。 ここには、怖い人は来ないよその子はそう言って、僕を立ち上がらせてくれた。並んでみると、背は僕よりずっと高くて、遊び友達のお兄ちゃんと同じくらいの年頃に見えました。一重の涼やかな目元、赤い唇が印象的で、きれいなお姉さんだな、とぼうっとその顔を眺めていました。 どうしたの、もう怖くないよ不思議そうに彼女が言うので、僕はうなずいた。ずっと心に圧し掛かっていた恐怖心が、嘘のように消えていきました。 遊ぶ?それにもうなずくと、相手の表情が花が咲いたようにパッと明るくなりました。 うれしいな。遊ぶのうれしいな いつも遊んでくれないのに 今日は遊べる、うれしいな はしゃぐ様子に僕もうれしくなってきて、彼女が教えてくれる遊びに没頭しました。芒の葉を折って結んで、中に小石を入れてお手玉にしたものや、笹船もどきをいくつも作ってくれて、彼女はとても器用だった。特に驚いたのは芒の葉を虫の形に作ったもので、バッタなんかは本物そっくりでした。 楽しいな 楽しいね うん、楽しい。楽しいね。 さびしかった ずっと一人で 寂しかった ひとりじゃないよ、もっと遊ぼうよ。 遊ぼう、遊ぼう ずっといっしょに遊ぼう うん。いっしょに遊ぼ。 ほんとうに? ずっと一緒にいてくれる? うん、いるよ。もっと何か作って! 作ってあげる 何でもつくってあげるから 作り方教えてくれる? 教えてあげるよ 特別だよ 特別だからこれあげる、と言って渡されたのは、何か半透明の……似ているものでいうと、葛饅頭のようなもので、とても甘い、美味しそうな匂いがしました。 これあげる 食べて ありがとう!僕はそれに齧りついて、びっくりした。食べたことがないくらい美味しかった。だけど幼い僕には大きすぎて、一度に半分も口に入れることができませんでした。一所懸命頬張っている僕を、彼女はにこにこして見つめていたんですが、ふと。 ──! ……── ──…………!何かが聞こえた気がしたんです。 あれ? 誰か呼んでる? 呼んでないよ、 あれは風の音だよ ……── ──……──! ……! ……ぉ……ぃ 風の音? うん、風の音だよ それより、ちゃんと全部食べて うん、でもちょっと大きいんだ。 食べてくれたら ずっといっしょにいられる うん。 いっしょにいたら もう寂しくない、寂しくない …………ぃ ……──……! ──…… ………… あれ……? やっぱり誰か……。 風だよ あれは風の音だよ 風の音を聞いてはいけない 連れて行かれてしまう 行かないで うん、行かないよ。 行かないで これもあげるからあげる、と言われたのは、芒のかんざしでした。耳のあたりに挿してくれたのが、目の端で垂れた穂がゆらゆら揺れるのが面白くて、僕は笑った。 似合うよ、似合う だからそばにいて それは ずっといっしょにいられるしるしずっと一緒にいられるしるし、と聞いて、僕は饅頭の残りをいったん芒の葉の上に置き、一番形が綺麗だと思った芒の穂を取って、同じようなかんざしを作り、これをあげる、と彼女に差し出しました。 ちょっと屈んで。おそろいにしよ。僕がそう言ったときのあの子の驚いた顔。今でも忘れられません。 我は女の子じゃないよ え? 僕も女の子じゃないよ、男の子だよ。 ……女の子じゃない? そうだよ。きみこそ、女の子じゃなかったの? そなたは そんなに愛らしいのに でも、僕男の子だよ!「女の子みたいに可愛い、愛らしい」はその年でも言われ慣れていて、ふだんは聞き流していたのに、あの子に言われたのが悔しくて、大きな声で否定しました。そのとたん。気づいたら、僕は母に抱きしめられていた。後ろに立つ父が泣いているのを見て、変だな、と思ったら、抱きしめながら母も泣いていた。僕は何が何やらわからなくて──次に気がついたら、病院のベッドでした。つづく……。真久部さんの回想、これにて終わりです。ところで、今日は1月18日。そして、まさにその1月18日の話が、これ↓。2008年1月18日の<俺> 一年で一番 寒い 日 1今日のように寒い日の話です。きっと忘れているだろうから既読の方も、未読の方も、是非。
2022.01.18
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「……かみさま、ですか?」いきなり大物? っていうか、真久部さん、あのとき何が起こったのかだけじゃなく、どうしてあんなことになったのか、何が自分を惑わせたのか、全部わかってるみたい。「ええ、神様です。だからこそ質タチが悪いというか、困るというか──」本当に困った顔をしてる。珍しい。「ってことは、その……神隠しに遭うとこだった、とか?」俺の脳内修羅場が、現実になるとこだったってこと? そんな馬鹿な、と思いつつもたずねてみると、真久部さんは曖昧にうなずくようだった。「それに似た感じかな……あちらには、そういう気持ちは無いとは思うんですが……いや、どうかな? 僕にはわからない……、たぶん向こうもわかってないんじゃないかな──」途中から呟くように自問自答をしながら、とても遠い目をしている。未だ答の出ない問題に手を付けかねて、ただそこに立ち尽くすしかないような、諦めにも似た瞳。「よくわかりませんけど、見ててほしいとか、声を掛けてほしいっていうのは、そういう心配があったからなんですね」芒の原に入っていく前、この人は言ったんだ、何か変だと思ったら声を掛けてほしいって。「ええ」短く答える。「下手をすると連れて行かれるから、歩くときは同行の人に必ず声を掛けてもらえと、伯父が」「……」真久部さんの叔父さんか……。この人も胡散臭いとこがあるけど、伯父さんはそれよりも数段胡散臭いというか、怪しいというか。「お話の感じだと、真久部さん以外の人にはそういう危険というか、心配はなさそうなんですが」「引っ張られることは、ないでしょうね」無礼を働かなければ、と呟くようにつけ加える。いつものそういうのは、俺を怖がらせて反応を愉しむためのレトリックだったりするんだけど、今日のこの人にはそんな心の遊びを楽しむ余裕はなさそうだった。「それなら単純に、あの場所に真久部さん、行かなければいいじゃないですか」だから、俺も普通に受けて、適切だと思う助言をしたんだけど、そういうわけにはいかないのだと首を振る。「年に一度、必ず行かないといけないんです。それが僕の義務だから」「義務?」「約束したわけではないけど、そうしなきゃいけないと思ってるんだよ」ふう、とひとつ息を吐いて、真久部さんは言った。「僕、子供の頃可愛かったんですよね」唐突に話が変わって目を白黒させてる俺に、昔話を聞いてもらえますか、と口元だけに笑みを作ってみせた。僕、子供の頃は女の子みたいに可愛かったんです。幼稚園の頃の写真なんか見ると、まるでお人形のようですよ。今では想像できないでしょうが。だけどごく普通の子供で、ごく普通にその年頃の子供らしい遊びをしていました。住んでいたのはあの茅場かやばの麓──というにはちょっと遠いですが、同じ地方の小さな街で、近所の子たちと、毎日どろんこになって走り回ってました。公園の遊具から飛び降りて怪我をしたり、大勢で無意味に地面に穴を掘って大人に怒られたり。見かけによらないって溜息を吐かれたこともあったけれど、子供にそんなこと言ってもね。逆上がりが出来なくて、笑われて、他の出来ない子といっしょに鉄棒特訓したこともありましたっけ。まあ、とにかくどこにでもいるような、ごく普通の子供だったわけです。その日は、道路のアスファルトに、チョークで線路を描いて遊んでいました。道路といっても車の来ない袋小路で、三方は高い塀と駐車場のフェンスと空き地になっていて、近隣では準公園のような扱いでした。だから近所の子供たちがそこで遊んでいても、大人に叱られることはなかったんです。袋小路の奥から出口に向かって、車の通れる道路まで、細くて長い線路を一所懸命描いていたことを覚えています。チョークの足りないところは道脇に生えていた雑草の茎を使ったりして、みんな子供なりに工夫して真剣でした。袋小路の出口まであと少し、というところでチョークが無くなり、茎の使えそうな草も足りなくなって、僕は何か使えそうなものはないかと向こうの道路に踏み出しました。ちょうど僕一人きりになって……、気がついたら、知らない車の中でした。端的に言うと、攫われたんですね。このあたり、記憶も曖昧です……ただ、怖かったことだけ覚えています。逃げたかったけれど、どうしていいのかわからなかった。茫然としているうちに、車は山のほうに向かっていた。しばらくすると親戚の家の屋根が遠くに見えて、僕はそれが自分の知っている道だと気づきました。隣の大きな街へ続く近道だけど、細くて、対向車があれば、どちらかが道の端ぎりぎりで待たないと通れないような道でした。向かいから軽トラックが来て、僕を攫った男は舌打ちをした。こちらが少しバックしないと、とうてい対抗できない。父はいつもその手前で対向車を待っていたので、僕は知っていた。男は相手に道を譲らせようと考えたのか、軽自動車と睨み合いになった。そうしているうちに、こちら側にも後続車が現れた。男の車は前後を挟まれ、動けなくなったんです。僕は咄嗟にドアを開けた。掛けられたシートベルトを抜けて、外に飛び出した。男は慌てていました。後から思えば、軽トラか後続車のドライバーに助けを求めれば良かった。だけど、僕はとにかく男が怖くて、怖くて……道の端に迫る芒の中に逃げ込みました。丈高い芒が、僕を隠してくれると思ったんです。つづく……。まだ松の内だから、お正月デザインのままです。──決して新年明けて数日経つまでこのデザインに変えるのを忘れていたからではありません。
2022.01.12
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クリスマスだというのに、11月の話……。満月なのに、欠けている。「すごいなぁ、伝さん。もう三日月みたいになってる」「おん!」俺は今、グレートデンの伝さんと散歩中。駅前コースの帰り道、向かう先の空に欠けた満月が見える。真夏のこの時間帯はまだ明るいけど、十一月も半ばを過ぎた今は、すっかり暗くなっている。「月蝕ってさあ、あの欠けてるとこ、地球の影なんだよ。月から見て、地球の後ろに太陽があるってことだ」「おふん」「でっかい影絵だよなぁ」「おん!」「もし地球が三角形のおむすび型だったら、あの影、どんな形になるんだろうな」「おぅうん?」「ドーナツ型だったらどうだろう。真ん中だけ明るかったりするのかな? な、伝さん」「おふ」「……腹減ったな」「おん!」何を見ても食べ物を連想してしまう、腹ぺこの宵。せっかくの天体ショーなのに、風流なんて言葉は、薬にしようにも見当たらない。だけど。「あ、伝さん、それ」「おうん?」「ススキのかんざし!」誰が折ったのか、道端にちょこっと生えてるススキ。通り掛かった伝さんの、耳のあたりでちょうどいい具合に揺れている。街灯の明かりに浮かぶススキと伝さんを、欠けた月が見下ろしている。このシチュエーションはちょっと風流かもしれない。「おぅおん?」「似合うぞ~! いいなー、絵になるなぁ。写メ撮れたらなぁ」薄暗いから、ガラケーカメラじゃ無理。まあ、どんな高画質のカメラでも、絶対いま俺が見てるようには写らないだろうけど。人間の眼とカメラは違う。今見てる伝さんが、俺の眼に映る伝さん。唯一無二、なーんてな。「ま、いいか。伝さんの艶姿は俺の心のアルバムに残しておくよ」「おん!」「行こう、伝さん。帰ったらメシだな。俺は──あー、芋満月が食べたくなってきた」そんなこと言いながら、速足で歩く一人と一匹。今宵の月は、一夜のうちに新月から満月までを駆け抜ける。稀な夜ではあるけれど、これが最初でも最後でもない。次はいつ見られるかなぁ。伝さんを連れて戻ったら、飼い主の吉井さんから海老満月をもらった。ラッキー! うん、俺、食べられるなら何満月でもいいや! 欠けたら戻らないこの満月は、ビールのお伴に良さそうだ。次の、塾のお迎え仕事終わったら、帰って食べよっと。年内に冬至とクリスマスの話は書けない、かもしれない。たぶん。諦めるべき……?悩む管理人でした。遅筆かなしい……
2021.12.25
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「昔から、一人であそこに行ってはいけないと、伯父には言われてたんです。だから今までも、必ず誰かと一緒だったんですが」今回何でも屋さんにつきあってもらったのも、ただの保険のつもりだったんです、と言いながら、視線は手の中で湯気を立てている湯呑み茶碗にある。「こんなことになったのは初めてで……ご迷惑をおかけするつもりはなかったんですよ」その言葉が心外で、俺はちょっとムッとしてしまった。「何でですか、真久部さん。迷惑だなんてありえませんよ。だって、俺なんかちょっと探しに行っただけじゃないですか。真久部さんすぐ見つかったし。何も迷惑じゃないです」「何でも屋さん……」「ほら、真久部さんも一緒にこれ食べましょうよ!」胡散臭さの少ない気弱な笑みなんて、この人らしくない。元気を出してほしくて、俺は茶菓子の山の中からヨッ〇モックの細長いクッキーを取り、用意されてる銘々皿にのせて差し出した。俺の好物〇セイのバターサンドは、調子悪いときにはちょっと重いかな、と思ってやめといた。「せっかくのお菓子、俺ばっかりいただくのも申しわけないですもん。さあさあ!」出してもらったほうが言うのも変だけど、どれも五つ星の美味しさですよ、とお道化てみせると、ちょっと笑ってくれた。「そうだね。僕も食べようかな……」「疲れたときは、甘いものにかぎりますよ!」身体でも、心でも、という言葉は心の中だけにしておいた。 …… …… …… チ……チ……チ…… チッ……チッ……チッ…… ッ……ッ……ッ……古時計どもが時を刻む店内は静かで、今日もお客の来る気配はない。それでもいいんだ、これが慈恩堂。誰が来ても来なくても、いつだって、じんわりほんわり怪しい気配は変わらないから、真久部さんもそれと同じでいてほしい。俺もすっかり毒されてるのかもしれないけど、いいんだよ、それで。心の中で俺が自分に言い聞かせてるあいだに、クッキーをみっつほど食べ終えた真久部さんは、温くなったお茶を片付けて、新しいのを淹れ直してくれた。ちょっと熱めで、二人してゆっくりと味わうように啜る。「──野点もいいですけど、こうやっていつものように飲むお茶もいいなぁ。落ちつくというか」どう話したらいいかと迷いながら、俺はとりとめもなく言葉を続けた。「なんかね……あの時、何があったのか俺、気になってて、落ち着かなくて。でもそれって真久部さんが心配だから気になるというか、何か変だったし……だけど、話したくないなら、話さなくていいんですよ。うん。今、一緒にこうやってお茶飲んで、甘いもの食べて。それだけでいいように思うんです」「……」湯気を見ながら黙って聞いていた真久部さんは、湯呑み茶碗を茶托に戻すと、すっと頭を下げた。「お気遣いありがとうございます、何でも屋さん。だけど、話したくないってことはないんだよ。ただ、自分が情けなくて、それでちょっと落ち込んでるだけなんです」焦げ茶と榛色のわかりにくいオッドアイに、小さく自嘲の影が差す──。情けないって……ああ、やっぱりそういうことか。そうなんじゃないかな、とはうっすら思ってたんだけどさ。「真久部さん、煙草と塩とワンカップ酒を持っていくのを忘れちゃってたんですね。あの日」「え……?」真久部さんてば、何故かぽかんと口を開けている。いやいや、つき合いも長くなってきたし、俺だってわかってますって。「ほら、慈恩堂の仕事のとき、いつも俺には用意してくれるじゃないですか。何かわからないけど、何があるかわからない時のための、念のためセット」同じところをぐるぐる歩いたりとか、特に意味もないのに妙に怖い思いをしたりした時とか用の。「今回の俺の仕事は、あのホテルの敷地内で完結するから必要なかった。そうですよね? 真久部さんも見えるところから立ち会ってたし」「え? ええ、それはそうですけど」「だからうっかりして、ご自分のぶんを忘れちゃったんでしょう? 広い芒の野原を歩くのに。それで迷わないようなところで道に迷って……おかしなことになったのって、今回が初めてだっていうし。きっと油断しちゃったんですね」なんだっけ、こういうの。「医者の不養生っていうか、紺屋の白袴みたいな。専門家って、ついつい自分のこと疎かったりするじゃないですか。だからあんまり気にしなくても……」「……」「真久部さん?」地味ながら男前な顔が、にっこり笑ったまま固まっている。「何でも屋さん」「はい?」「今回のは、何でも屋さんが思ってるみたいなのとはちょっと・・・・違うんですよ。そういうものではない」「え?」道に迷わせられる系っていうと、狐や狸のたぐいだと思ったんだけど、違うの? 「えっと、それじゃあ──」俺の考える程度のことはわかっているのか、真久部さんは首を振る。「何でも屋さんが以前出会った“悪いモノ”とも違います──先日のあれには、煙草の煙は効かないんだよ」そういうものではないんです、ともう一度同じことを言う。「だって、あれは神様だから。神様は煙草の煙でどうこうなるものではない」つづく……。
2021.12.25
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「あの時はホント、肝が冷えましたよ……」俺のぼやきに、真久部さんが神妙に頭を下げてくる。「今回はご心配をお掛けしてしまい、申しわけありませんでした」 チッチッチッチ…… チ……チ……チ……チ…… ……チッ……チッ……チッ…… …… …… ……店主に合わせてか、古時計たちの時の刻みもなんとはなしに大人しい。古美術雑貨取扱店慈恩堂は、今日も微妙に怪しい空気の中にある。仄暗いような、それでいて少し明るくもあるような──。つい先日の、俺の出張仕事兼、慈恩堂店主主催の慰安旅行。穏やかに和やかに、そして楽しく過ごして終わるはずだったのに、最後の最後で急転直下。風にうねくる丈高い芒の海、その真っ只中に、まるで呑まれるみたいに真久部さんの姿を見失ったときにはもう、胸の奥が冷えてぎゅっと縮こまるような、何かがごそっと崩れ落ちていくような、そんな気持ちになって、本当に焦りまくったよ。あのときあの場所で何があったのか、帰ってから話すって真久部さんが言うから、今日はこうやって時間を作って出てきたんだけど……。「それにしても、あんなに呼んだのに、どうして何も言ってくれなかったんです? それまでは返事してくれてたのに」呼んでも呼んでも返事が無いばかりか、見渡す限りの芒の穂波は、まるで最初から俺以外に人なんかいなかったみたいに、ただただ風に吹かれているだけだったから、俺、もう不安でどうしようかと思ったよ。「すみません、本当に……」目を伏せて、再び謝罪の言葉を口にする。「……」真久部さんたら、今日はなんだかテンション低くてやりにくい。いつもはハイテンションかって言われると、全然そんなことはないんだけど、この人、わりに機嫌がわかりにくいんだ。基本的に読めない笑みを浮かべてて、あんまり感情の起伏を見せることがない。──俺を揶揄うときだけ、ちょっと楽しそうだったりするんだけどさ。「いえ、その、謝ってほしいとか、そういうんじゃなくて。ただもう、あのときはマジで真久部さん、どっかの穴ぼこにでも落っこちたのかもって、俺、焦って。ほら、たまにあるじゃないですか、いきなり地盤沈下とか」もしかして神隠しにでも遭った? とかまで考えてしまったのが、俺の脳内修羅場。言わないけどさ。「何でも屋さんが探しに来てくれて、助かりましたよ」ありがとうございます、と言いながら、真久部さんはどこか力なく微笑み、良いお茶を淹れてくれる。俺の好物のお菓子も勧めてくれる。──なんかお高い店のがある。とりあえずお茶を頂くことにして、俺は心からの言葉を告げた。「心配ですもん……そりゃ探しに行きますって。とにかく無事でよかったです、ほんとに」あのあと俺は、この人の姿があったはずの場所を目指して駆けに駆けた。高台から細々と続く道ともいえない道を、硬い芒の根に足を取られそうになりながら必死に走った。たどり着いても、そこに居なかったらどうしよう、俺が間違ってたらどうしよう、と気が気じゃなかった。結果、間違ってはいなくて、わりとすぐ発見できたのは良かったんだけども。「でも、何であんなところでぼーっとしてたんですか?」踏み固められただけの道の途中、雨が降ったら確実にぬかるみそうな窪地に、真久部さんは突っ立っていた。そんな地形のせいか全方向から芒の穂が被さっていて、まるで芒でできた籠に|籠《こ》められたみたいだ、と思ったのは覚えている。「なんか顔色も良くなかったし、今は話せないっていうから俺、問い質したりするのは我慢したんですけど」今は、ってことは、その場でその話はダメなんだな、と思い、俺はその時の、安堵のあまりの文句を呑み込んだんだ。そのぶん、いま真久部さんのこと責めちゃってるんだけどさ。「──何でも屋さんはこういうこと・・・・・・には察しが良くて、本当に助かります」ふうっ、と溜息を吐いてから、うっそりと笑う地味な男前。どこか自棄気味な様子が気にかかる。「だって、何か変だったから……」ふわっと醸し出されたなんともいえない雰囲気に呑まれて、心配のあまりの威勢の良さが尻すぼみ、ごにょごにょと言い訳みたいになってしまった。「あの場で話せなかったのは、聞かれて/い/たからです」聞かれてるって、誰に? とかたずねる前に次の言葉を始めるから、俺は黙って耳を傾けた。「あのとき、実は道がわからなくなってしまってたんだよ。一本道のはずなのに、いきなり数えきれないくらいの道が、目の前に現れて」あそれは地面だけではなく、空中にも伸びていたのだという。「その前に一度迷いかけた時は、何でも屋さんの声でなんとかなったんだけど、そこからちょっと進んだら、また、ね……。これはどうしたものかと、ほんの少しのあいだ立ち止まっていただけのつもりだったのに──思いのほか時間が経っていたんですね。あのときは、もう、きみの声すら届いてなくて」「なんか……危なかったんじゃないですか?」「まあ、そうですね」否定はせずに、真久部さんは困ったように笑んでみせる。つづく……。
2021.12.21
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「へ?」いきなり何を? あ、写真でも撮るのかな? 芒をバックに和服の真久部さん。映えるかも。でも、そんなことくらい、仕事でなくても喜んでさせてもらうのに。「見ててほしいんだよ」「何を?」「僕はこれから芒の中を歩くので、それを。もし何でも屋さんから見て何か変だと思ったら、声を掛けてほしいんです」「変、ですか……?」歩いてて、変? よくわからない。「姿が見えなくなったりとか──まあ、おかしなことが起こったら、呼んでほしいんだよ、僕を」「ええと、真久部さんを見張っていればいいんですね? プールの監視員みたいに」海みたいな芒の原で、揺れる穂波の下に、真久部さんが溺れたり、沈んだりしないように気をつけていればいいってこと? なぁんてね。そんなわけもないだろうけど。「プールの監視員、ですか?」いつのも胡散臭い笑みが、ちょっとだけほんわり緩んだ。「やっぱり何でも屋さんは面白いですね──。ああ、そうだね、そんな感じで見張っていてほしいんだよ」「はあ……」頼みましたよとにっこり笑って、真久部さんは高台から続くいくつもの細道のひとつを選び、歩いていった。ただ踏み固められただけの道が、丈高い芒の間に消えてゆく。羽織の背中が遠ざかる。「……」揺れる芒。風にいっせいに靡いているように見えるけど、よく見てみると芒の穂って、出る角度がそれぞれ少しずつ違う。だからか、揺れるタイミングも微妙に違ってくる。ふわっと揺れる、ふっと斜めに揺れる、するっとずれてまたふわりとそよぐ。穂の一本一本が指のようで、そうするとやっぱり芒の穂は招く手のようで、その手が何千何万と──。「真久部さん!」思わず、俺は声を上げた。その瞬間、揺れ動く穂波の向こうに薄れかけていたその姿が、レンズを拭ったようにはっきりして、何故だかほっとした……今のは何だろう? 何かおかしい。何か変だ。視界を埋める芒の原が、真久部さんの全身を絡め取ろうとしてるみたいで──。また風が吹いて、何事もなく歩く姿が揺れ動く芒の間から見える。「真久部さん!」「──はい」もう一度大きい声で呼ぶと、良かった、返事があった。けっこう離れたかな? 真久部さんたら足が速いな。芒は背が高くて、場所によっては道に被さるようになってるみたいだから、歩きにくいだろうに。足元はスニーカーだから、コケたりはしないかな? そんなことを思いながら、湾曲する道に沿って歩いている和装の人を見守る。今は少し上りになっているようで、さっきまでよりも見えやすくてホッとする。だけど、ふと思った。ここって観光地だって、さっき真久部さんは言った。だから手入れがされていると。それなのに、俺たち以外誰の姿も見えないのは何故だろう? 確かに今日は土日でもなければ祝日でもないけど、平日だって観光客はいるはずだ。実際、宿泊したホテルのロビーにはけっこう人がいたし、タクシーでここに来る途中だって、何台も県外ナンバーの車を見た。芒の原以外にも、近辺に観光名所はあるらしい。連なっている滝だとか、屏風のように切り立った岩だとか。だけど、今は桜でいうなら満開の、芒が最も美しい季節。そんなときに誰も来ないなんてあるんだろうか。天気が悪いなら、そういうこともあるだろうけど……。晴れた空の下、芒の穂波が風にそよぐ。風の姿を露わにする。うねるように揺れ動く芒の原は、風が吹くから揺れるのか、揺れるから風が吹いてくるのか。ああ、そんなこと考えるより真久部さんを見ていなくちゃ。上りから向こう側に下って行かれたら、ここから見えなくなってしまう……あ、よかった、ちょっと立ち止まってる。道を探してる?「真久部さん、真久部さん、こっち!」背の高い芒に埋もれるようになってるから、方向がわからなくなったのかな? 俺は焦ってその場でぴょんぴょん飛び上がり、両手を振って真久部さんを呼ぶ。「こっちですよ、真久部さーん!」「ありがとう──」何でも屋さん、と遠くから声が聞こえる。そしてこちらに戻る道を見つけたのか、また歩き始めた。下りは足元が不安なのか、慎重な足取りでいるようだ。その辺りはひときわ丈高く芒が繁茂しているようで、いったん姿が隠れてしまう。隠されてしまう。芒の原に。風が吹く。ざあざあと芒が揺れる、大きくうねくる。誰もいない芒の原は、明るい陽射しに包まれているというのに、まるで大荒れの海のようだ。逆巻く銀の穂波が砕け散り、また次の波が。そして、幾千幾万もの銀の根の、底の底に全てを引きずり込むみたいに──。「……!」いや、誰もいないなんて、そんなことあるはず無い。真久部さんがいるんだ。さっき見てたあのあたり、ひときわ大きくうねっている、みっしりと丈高い芒の群れ、その下にいるはず!「真久部さん、真久部さーん」俺は叫ぶ。必死に叫ぶ。「真久部さん! こっちです、真久部さーん!」返事がない。本当に溺れちゃった? 芒を海にたとえたけれど、まさかそんなはずは。「真久部さん! 真久部さん! 真久部さーん!」つづく……。
2021.12.14
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「ってことは、あの石は御神体……」「そういうことになりますねぇ」にこにこと、真久部さん。「いや、だけどその」俺は嫌な汗をかいてしまう。「普通そういうものを扱うときって、精進潔斎とかしなくちゃいけないんじゃないんですか? 俺、前の晩メシ、ニラ入り餃子……」一昨日、顧客の笹井さんにもらったんだよ……なんか、彼女にふられたんで、一人餃子パーティしようと、それだけは得意という餃子をひたすら包んで、包んで、包みまくってたら、その彼女からまた連絡があって……ふられたと思ったのは誤解で、えっと、とにかく、彼女のご両親が来ることになったから、ニラ入りの上、ニンニク生姜マシマシの餃子なんて食べられないし、冷蔵庫に入れといても臭いそうってことで、近所に住んでる俺に全部くれたんだ。美味かったなぁ、餃子。ひたすら焼いて、貪り食って。で、翌日早朝から、今回の仕事を兼ねた慰安旅行(?)に行くのを思い出し、焦って牛乳飲んだり、リンゴ食べたり、ひたすらガム噛んでから何度も歯を磨いたり、長風呂して汗かいたりしたから、特に臭わなかったとは思うんだけど──。臭い、しませんでした? とおそるおそる聞いてみると、特に気づきませんでしたよ、と真久部さんはあっさり首を振る。「大丈夫だったんじゃないですか? だって、石を持ち上げられたでしょう? あの石には、自然体の何でも屋さんが良いような気がしたので、僕も今回、特にそういう指示を出さなかったんだよ。きっとそれが正解だったんだと思うなぁ」気負ってない感じが良かったんじゃないですか、なんて、敢えてのことか、適当っぽいことを言う。 「嫌なら動いてくれなかっただろうしね。あれは、重軽石おもかるいしみたいなものだったんじゃないかと僕は思ってるんです。叶わない願いか、叶う願いかで重軽なんじゃなくて、自分が・・・気に入らないか、気に入るか、それで決まる感じの」「は、はぁ……」そんなんで、いいの……?「オーナー一族も、ホテル関係者も、僕もだけど。誰もあの石のお眼鏡に叶わなかった。だけど、遠くから呼んだ何でも屋さんだけが、気に入られたのか、気にならなかったのか、とにかく運ぶことができた。それだけで、もうあちらは万々歳。部屋だって、うちで一番いい部屋にお泊り下さい! ってもんですよ」「……」作業のあと案内された部屋は、豪奢な設えの角部屋で窓も大きく、そこからの眺めは、屋上から見た絶景と遜色ないくらいだった。紅葉と渓谷、遠くに見えた金色の芒の原。設備もすごくて、びっくりするほど広い内風呂もあった。いや、本当にびっくりしてしてたし、心配したんだ。真久部さん奮発しすぎじゃないかなぁ、って。それが、俺に対するお礼だった……?「食事も、通常とは違ったグレードで、最上級のおもてなし。お相伴に与ったのは僕のほうです。何でも屋さんのお蔭」だから、僕の懐は痛んでないんですよ、とにっこり笑う。「そ、それならよかったです。は、ははは……」なんかもう、笑うしかない。そんな俺の心を知ってか知らずか、古猫のような笑みを浮かべたままの真久部さん、「ああ、話すばかりじゃなくて、そろそろお茶にしましょうね」と袱紗に包んであったらしい銘々皿に、小箱から出した生菓子をのせてくれた。「あ! そのお菓子って、あのホテルの……?」金箔を飾ったリッチな栗きんとんの姿に、俺の意識がさらわれてしまった。むしろ、積極的にさらわれに行った。石について、もうあんまり考えたくなかった。「ええ。一階和カフェ併設和菓子屋さんの、秋スペシャル詰め合わせです」真久部さん、俺の好みなんかすっかりお見通し。「あの店の! 美味そうだなって思ってたんです。いただきます!」自分の顔が笑み崩れてるのがわかる。カフェのショーケースの向こうでさ、『とっても美味しいよ!』なオーラ放ってたんだよ。でも、さすが高級ホテルのお店でさ。値段が恐ろしくて、見ないふりしてたんだ。「──何でも屋さんは、いつも本当に美味しそうに食べるねぇ」楽しそうに言いながら、真久部さんは抹茶を立ててくれる。温めて湯をこぼした茶碗に、茶筅でまず「の」の字を描いてから、シャシャシャシャシャッっと、おおう、いい感じの泡が。「どうぞ」ベンチの上で、す、と差し出され、俺は一礼して見様見真似の作法で茶碗を回し、一服いただいた。「美味しいです。──やっぱり良い和菓子には、良い抹茶ですよね」美味しい、しか言葉がないのもアレかなぁ、と思って、もっと言い直してみる。「こんなところで野点なんて、すごい贅沢気分です! ありがとうございます、慰安旅行に、連れてきていただいて」そのために重い荷物も持って上がってくれたんだから、ここはしっかり感謝しなくちゃ。贅沢な部屋は今回の依頼主の好意かもしれないけど、最初に誘ってくれたのは真久部さんだし、今も確かに慰安されてる。俺、慈恩堂の正式な店員じゃなくてただの何でも屋だけど、もう慰安旅行でいいや。「どういたしまして」地味ながら整った顔の男前が、俺の言葉ににっこりする。外の、こんな爽やかな場所で見るこの人は、案外健康そうに見える。いや、別にいつもが不健康そうってわけじゃないけど、お日さまの下と、あの怪しい店の中とでは、同じ人でも違って見えるというか──。って、俺は何を言い訳してるんだよ。真久部さんも自分のぶんのお茶を立て、きれいな所作で茶碗を傾けている。青い空の下、銀の芒の海。風の起こす葉擦れの音が、ゆるやかな波のように。勧められてまた茶菓子を頂きながら、とってもラグジュアリーなひととき。ふう、と満足の溜息をついたとき。「さて」す、と真久部さんが立ち上がった。もう充分ゆっくりできたし、そろそろお開きかな、と思ってたら。「ここからは、僕からのお仕事依頼です、何でも屋さん」真久部さんのお仕事依頼とは? つづく……。
2021.12.11
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「僕が最初に予約してたのは普通の部屋だったんだけど、あの仕事、何でも屋さんが見事成し遂げてみせてくれたものだから、あちらが大喜びで」「え? 成し遂げたっていっても、あれ……」今回請けた仕事は、この人からの紹介だった。遠方で、泊りがけ。特急乗ったりバス乗ったりして、遠かったよ。始発と終電で無理したらぎりぎり帰れなくもなかったけど、それじゃあ身体がキツいし、「たまには旅行気分もいいでしょう? 経費で落としますよ」と怪しくない笑みで誘ってくれたから、ご厚意に甘えることにしたんだ。これまでにもいろいろあったから、実は真久部さん紹介の仕事っていうのには若干及び腰だったりするんだけど、今回はご本人も一緒に来て立ち会うっていうし。それに、何だかんだ言っても、俺、結局この人のこと信用してるんだよな……提示された報酬が破格で、魅力的だったのもある。で、わざわざ俺みたいな何でも屋を呼ぶなんて、どんな仕事内容なんだろうとちょっとだけ慄いてたら、ホテルの敷地内に転がってた石を、屋上に設えられた台座まで運ぶだけっていう、超簡単なお仕事だったんだ。拍子抜けしたよ。台車あったし、エレベーターも使えたし。「何も俺でなくても、っていうか、わざわざ遠方から人を呼んでやらせるようなことでもなかったんじゃないですか?」「まあねぇ、あちらも、そもそもの最初はそこまで思ってなかったでしょうね」「いやあ、普通はそうでしょう」だって石を運ぶだけだよ? ブロック二つぶんくらいの大きさの。「あの石、誰も持ち上げることができなかったんだよ」「え?」見た目より、ずっと軽かったよあの石。「何でも屋さんには、軽かったんでしょう?」素直に頷くと、真久部さんがいつもの胡散臭い笑みを見せた。「ホテルスタッフの中には、元重量挙げの選手もいたらしいんだけど、それでも持ち上げられなかったと聞いてるよ。実はね、僕も一応試してみたけど、やっぱり重くて無理でした」ちなみに、重機を使っても動かせず、重機のほうが横転したんだって、と言われて、俺は沈黙した。「元は建て替え前の古い旅館の庭にあったものらしい。工事の邪魔だから取り除こうとしても、どうしても動かせなかったというよ。仕方なくそのまま今のホテルの敷地の隅に放置してたらしいけど、何か障り・・があったとかでね。屋上に祠を作って祀るようにとアドバイスされたのはいいけど、誰にも持ち上げられなくて、困ってたんだって」先月この近くであった骨董市で、知り合いの同業者から愚痴をこぼされたんだよ、と真久部さんは溜息を吐く。「それがまた、けっこう切羽詰まった愚痴でねぇ。何でも、彼はオーナーの一族らしいんだけど……気が済むならと話だけ聞いてたら、ぐいぐい画像まで見せられて。あの石、不思議な感じはしたけれど、僕には悪いものとも思えなかった。だから、何か方法は無いかと頭を捻ってみたんだけど、まあ、そういう時・・・・・はやっぱり何でも屋さんかな、と思ったんだよ。きみは護りも強いし」ね? とにっこり笑う顔がちょっと怪しいから、最後の言葉は聞こえないふりをした……。そういう時って、どういう時? とか思うけど、聞くのは止めておこう。うん。「でも、遠いから、どうかなぁ? と思案してたら、あちら、何か感づいたのか、『石を移動させてくれたら、もう何でもする、幾らお金を出してもいい』とまで真顔で言うんですよ。それなら試しに紹介してみるのもいいかな、って。遠いなら旅行代わりにすればいいかと思ったしね」実際に見てみて、やっぱり危ないかな、と思ったら、止めればいいかと思ったんです、と続ける。「それは……ありがとうございます」この人の、こういうところ。怖い話して、俺を怖がらせて喜んだりする趣味の悪い人だけど、何か変わった仕事をさせるときには、そのせいでおかしなこと・・・・・・にならないよう、いつもきちんと気を配ってくれるんだ。そういうとこが、憎めないんだよなぁ。「引き受けてくれて良かったですよ。僕の思った通りに何でも屋さんは石を運べたし、あちらは大喜びだし。石をひょい、と持ち上げて、台車に乗せて押していく姿を二階の窓から見守りながら、支配人なんか泣いてました」「そ、そうなんですか……?」石を乗せた台車を押してホテル内に入り、フロア、廊下、エレベーターから屋上に至るまで誰にも会わなかったから、そんなこと全然知らなかった。「具体的には聞かなかったけれど、障り・・があってから、関係者は皆、かなり大変な思いをしたらしくてね。その場で作業に立ち会いたかったようなんだけど、僕はなんとなく、何でも屋さん一人のほうがいいような気がしたので、離れてもらったんです。屋上までのルートも人払いしてもらって、石のご機嫌・・・・・を損ねないようにして」「……」にっこり笑ってツッコミ街の真久部さん。その手には乗らないんだからね!「屋上の台座に乗せた後は、どうするんですか?」知らぬ顔でたずねると、ちょっと残念そうな顔をしてみせてから簡単に教えてくれた。「あれはねぇ、祠の台座なんだよ。上物は既に造ってあって、あとは被せて嵌めこむだけになっているとか。この近くの有名神社から神職の方に来ていただいて、きちんとお祀りするそうですよ」つづく……。
2021.12.08
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『五月の雨と竜の鈴』を忘れているわけではないのですが、今、ススキのシーズンだから…。派手にわさわさしてるから…。季節に敏感なわりに、書いているうちにいつも季節外れになってしまう遅筆の哀しみ…。芒すすきの穂が、風に揺れている。明るい日差しの中で、まるで輝く波のよう。ふわふわと、光でいっぱいの穂波が眩しくて、ふと見上げれば青い空。こっちも同じくらい眩しいかも、だって秋晴れ、日本晴れ。清々しいほどの上天気。「すごいですね、ここ!」前を行く真久部さんに、俺は思わず話し掛ける。「一面の芒の原なんて、普通めったに見られないですもん」この季節、道の端とか、空き地の隅でちょこちょこ芒を見掛けるけど、こんなふうに芒しか生えてないような光景はなんというか、人里離れたというか、山奥というか、そういうところでしか見られないと思うんだ。「ここはねぇ、茅場なんですよ」歩きながらちょっとだけふり返って、真久部さん。お手製らしい布製のリュックが、和装の背中で揺れている。「かやば?」聞きなれない言葉だから、俺はつい聞き返してしまった。今度は前を向いたまま、少し大きな声で教えてくれる。「ほら、昔の家って屋根が茅葺きだったじゃないですか。その材料である茅を、ここで刈ってたんだよ」けっこう傾斜がキツいのに、足元だけは草履からスニーカーに履き替えた真久部さん、苦もなさそうに上っていく。インドア専門に見えるけど、体力はあるんだよなこのヒト、とか思いながら、俺は疑問を口にする。「かや……茅って、芒のことだったんですか? 俺、なんとなく別のものだと思ってました」「ああ、」と真久部さんは、ずれたリュックを背負い直しながら続ける。「そういうのって、よくあるよね。たとえば、アシとヨシも同じものなんですよ。簾すだれとか葦簀よしずの材料の」「えーっ! そうなんですか?」驚いた。アシとヨシって、<似てるけど違う>的な、別々の植物なんだと思ってた。「そこらへんの名前はねぇ。大昔から親しみがあるからこその呼び変えやら、縁起担ぎやら」そんなことを話しているうちに、ようやく平らな場所に出た。ふう、と言いながら真久部さんは立ち止まる。風が一瞬、着物の袖や裾を翻らせて吹き過ぎる。「──さて。ここが一番見晴らしの良いところです。茅場もいつしか利用が減ったけれど、この景色を見ようと観光客が来るので、今でも昔のように手入れされているんだよ」「……」高台から見る芒の原は、まさに絶景だった。緩やかに起伏しながら連なるスロープは丈高い芒に覆い尽くされて、逆光がそれを全て白銀に輝かせている。「きれいですね……登ってくるまでもきれいだったけど──、すごい!」きれいとすごいしか言えなくて、自分の語彙力の無さにトホホとなってしまうけど、目の前の光景はやっぱりきれいですごいので、もういいや、と俺は思考を放棄した。風が吹く。芒が靡く。葉擦れの音が打ち寄せる波のように遠く近く響き合う。高い空のどこかで、甲高い鳥の声。テレビや画像でしか見たことのなかった光景に圧倒されていた俺は、真久部さんの声で我に返った。「ここらで一服お茶でもいかがです? 何でも屋さん」「あ……そこ、ベンチがあったんですね」今いる場所は、芒の原を海だとすれば、小さな島のようなところだった。ここだけ短い芝草に覆われていて、真ん中あたりにごろっと大きな石、その脇にちょろちょろ生える赤松。赤松の手前に、木製のベンチがひとつ。「観光客用にね。さあさあ、こちらにどうぞ」そう言って俺に場所を示すと、和服のままでこんなところまで登ってきた強者は、リュックサックの中からポットと竹籠を取り出した。籠の中にはお茶の道具。渋い色味のお茶碗に、茶筅と棗、茶匙。「真久部さん、こんなん持ってきてたんですか?」ちょっと景色を見るだけって言ってたのに、なんか荷物が多いと思ったら、本格的なお茶の用意が。「たまにはこういうのもいいでしょう? ──今回は、何でも屋さんのための慰安旅行を兼ねてるからねぇ」「いやいや、俺、臨時店員なだけですからね?」胡散臭い笑みの似合う、年齢不詳の地味な男前こと、真久部さんの営む不思議の店、慈恩堂。店番を雇っても何故か人が居つかず、皆その日のうちに逃げ出してしまうという、怪しい古道具店。そんな中、俺だけは一人でもなんとか一日中店番していられるけど、でも。「お仕事料をいただいて、店番を請け負ってるだけのただの何でも屋なんですから、そんなに気を遣っていただかなくても」絆されて、正店員になんて、ならないだからね! ──だって、あの店、怖……。「わかってますよ」真久部さんはあっさり頷いてみせる。「まあ、いいじゃないですか。僕、憧れていたんですよ、慰安旅行。うちの店にもちゃんと店員がいて、元気に働いてもらって……、福利厚生とか、普通にそういうのをやってみたかったんだよ。季節の良いときには、こんなふうに旅行に連れて行ったり──」ふっ、と笑った顔がどことなく寂しげに見えるから、俺は何も言えなくなった。「店慈恩堂はあんなの・・・・・だけど、それでもあれはうちの店で……そこで普通に・・・働いてくれる人のことは、大事にしたいんです」まあ、いいじゃないですか。もう一度同じことを言い、ちゃんとお茶菓子もあるんだよ、と話を変えるようににっこりしてみせるから、俺もそれに乗ることにした。「昨夜の宿は──あんまり豪華で、俺びっくりしました。部屋もグレード高そうだったし」前にいた会社の慰安旅行でも、なんなら元妻との新婚旅行でだって、あんないいところに泊まったことないです、とつけ加える。「料理も豪勢で、すごく美味しかったなぁ。俺は贅沢できてうれしかったけど、何だか申しわけなくて。真久部さん、かなり懐が痛んでしまったんじゃあ……」「あれはあのホテルのお礼だもの。何でも屋さん、お仕事したでしょう?」わざとらしく小首を傾げてみせ、真久部さんは言う。つづく……。
2021.11.20
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「……」ラーメン屋の亭主云々は聞き流すことにした。だって、迷い家の主だし。善い人(?)なのに伯父さんと親しいのが謎だし、前に賽の河原に連れて行かれたのも、そこの店を経由してだったし。だからその藤の花の咲いてる場所にだって、簡単に行けるのかと──。「なら、それを、どうやって手に入れたんです……?」ただ俺をびびらせて楽しむためだけに、そこらの公園から毟ってきたとか……? それなら、いま聞かされてる怖い話はフィクションなんだ! そう思いたかったのに。「だから、物々交換なんだよ」「──誰と?」俺の問いに伯父さんニヤリと笑い、自分の居るちゃぶ台の後ろ、つまり、端に俺の座る帳場レジ|帳場のある畳エリアの、その床の間の掛け軸を指さした。「……?」今日ここに来たとき見たから知ってるけど、それって葉桜の影に女人が一人で佇んでいる絵柄のものだったはずだ。彼女は片手に藤の花を持っていて、ちょっと変わってるな、と思ったのを覚えている。藤の花は、八重桜が葉桜になる頃から咲き始める。だから、花の時季としてはそうなんだろうけど、絵として、どうして<葉桜に藤>なんだろう、何か判じ物的な意味でもあるのかな? と不思議だった──そう、彼女は片手から藤の花房を垂らしていたんだ。藤の……。この世ならぬ場所にあるという、藤の森の怖い話をさんざん聞かされたあとだから、背筋が凍りかけたけど。「あれ?」今見ると、女人は何故か藤の代わりに新巻鮭を手に持っていた。え? 伯父さんたら、勝手に掛け軸を掛け変えた? っていうか、どっかの大衆的イタリアンレストランの、暇つぶしに用意されてる間違い探しくらいそっくりな絵なんだけど──そのわりに、すんごいわかりやすい間違いなんだけど……。わけがわからなくて混乱している俺に、伯父さんがニヤニヤしながら種明かし(?)をしてきた。「この前交渉したとき、彼女が新巻鮭となら交換してやるっていうから。知り合いの魚屋に頼んで、最高級のものを用意してもらったんだ。そしたらとても喜んでくれてねぇ。手に持ってるやつだけじゃなくて、もっとたくさん花を取ってきてやろうかと言ってくれたんだが、必要以上にもらっても、ねぇ?」始末に困るし、売るわけにもいかないし、と伯父さん同意を求めてくるけれど。「そ、そんなもの、持ち込まないでくださいよ! この世に!」俺は、叫んだ。この店の中だけで収まる程度には我慢した。頑張った……。「おや? 褒めてくれないのかな?」意外そうな顔を装って、伯父さん。「褒められませんよ! どこかわからないけど、そっちの世界のものを、何でこっちに持ってくるんですか! この世に存在しないものって、この世に存在しちゃいけないから存在しないんじゃないんですか!?」俺、いい事言った、と思ったのに。「うーん、でも、この世に存在しなくても、似たようなものを作る奴はいるよ?」何でも屋さんも、それで嫌な目に遭ったことがあるよね。あの子から聞いたことがあるよ、と言われると、いつかの水無月の不可思議な体験を思い出し、言葉に詰まってしまう。「この世でだって、似たようなものが自然発生することはあるしね。だいたいさぁ、呪物と、古道具たちに育つ**は性質が違うけど、ある意味似ているといえば似ているんだよねぇ」「……」古い道具たちに育つ、|何《・》、だろう? やっぱり聞き取れない言葉、きっと聞き取れなくてもいい言葉。だけど、存在するのであろう言葉──。呪物も、そんなようなものなんだろうか。見ることも聞くこともできないくせに、ただ空気を震わせてその存在を主張するものに似た、禍々しい……。「呪物なんてもの、作るのは割に合わないよ、手間もかかるし。材料・・を集めるのはもっと大変だしね。その点、この世ならぬ場所に、ごく自然に発生した天然もののコレ・・ならば、新巻鮭一本で交換してもらえるし、使用しても返りの風・・・・も吹かないし、」それとも、何でも屋さんは私に、この世で自分で呪物を作れっていうのかな? と伯父さんは嫌な感じに笑んでみせる。「そんなことは、ありませんよ……」「だよねぇ。常識人の何でも屋さんが、たくさんの動物たちを犠牲にしないと作れないような呪物を作れなんて、言うわけないよね。私だってそんなものを作りたいとは思わない。生き物を虐めるなんて趣味じゃないし」だから、この世ならぬ世界の、この藤の花なんだよ、と結ぶ。「雅じゃないか、花の呪物なんて。いい匂いもするし……使い方は簡単。花の房から小さい花をひとつ取って、枕の下に置いておくだけ。それだけで、眠る相手に悪夢を見せてくれる。この世ならぬ藤の森に捕らわれて死んだ動物たちの、その苦しみを夢の中で追体験させてくれるんだ。房から花がなくなれば、それでおしまい。この世に呪物が残ることはない」彼女の夫も、しばらくは浮気どころじゃないんじゃないかな、と伯父さんは含み笑うけど。「……」なんか俺、そんなような夢をここで見てたような……。「そう、この花の香りがね。起きてるときならなんてことはないんだよ? だけど、眠ってるときに嗅いでしまうとねぇ。ただの夢だからさ、魘される以外、身体に害はないんだけども──ねぇ、何でも屋さんもさ、さっき私が彼女と世間話してたとき、花の香りがしてただろう? 繋がってた・・・・・からねぇ。眠っていても話の内容が聞こえていただろうから、ちょうど夢に見たと思うんだ、きみは魘されてたし」あの牡鹿は、苦しんでいただろう? そう言って、無邪気な邪気全開で意地悪仙人がニッタリ笑って……。「……」俺は、無言で目の前にある店の電話に手を伸ばした。骨董古道具屋にふさわしい、とてもレトロな黒電話。ダイヤル式で、その数字を回すたび、ジーコジーコと行って戻って時間がかかる。──はい。「あ、真久部さん?」──店番お疲れさまです、何でも屋さん。何かありましたか?電話の向こうはざわざわしてる。きっとまだ骨董市にいるんだろう。何も知らずにいるであろう店主の、その落ち着いた声が、今はちょっとだけ恨めしい。「あの、今、」お店に伯父さんが、と言おうとしたとき、プツッと電話が切れた。ぐるぐる螺旋の受話器のカールコードごし、本体のほうを見ると、いつの間にこちらに来たのか、人差し指をフックに乗せ、通話を切ってる伯父さんの姿が。「何するんですか!」思わず抗議。当然の抗議。なのに、酷いなぁ、と責められる。「酷いなぁ、何でも屋さん。私がここに来たことがバレたら、あの子に叱られてしまうじゃないか」だから、眠って忘れてください、そう言って伯父さんは、黒褐色と榛色のオッドアイを悪戯っぽくきらめかせ、今日一番の胡散臭い笑みを見せると、俺の額にデコピンを──。すうっ、と瞼が重くなる。「もう掛け軸の向こうとは繋がってないし、藤の香りは漏れてこないから。怖い夢は見ないはずだよ」ただそれだけが耳に聞こえて、俺は安心したのだと思う。眠気に抗う気もおきず、そのまま素直に眼を閉じた。ふわふわ、ふわふわ、頭がふわふわ。影のない、不思議に明るい世界。たくさんの何かの姿があって、あれは……蝶や、蜻蛉、蛙を背中に乗せた牛に、花の上で顔を洗う金色の猫、犬なのか狐なのかわからない象より大きないきもの、鮎、鯛、金魚に鯉……鯉はいらん、鯉は……。……青い蜥蜴や、白い蝙蝠、ところどころ虹色の鱗を光らせる小さな蛇に、輪郭だけの馬、それから──。 おじちゃん、あそぼ!いつものあの子たち。 お花つもう! おりがみしようよ! お歌うたって!子供たちの期待に満ちた瞳に、俺は我知らず微笑んでいた。ああ、そうだね、小父さんと遊ぼう。お菓子もあるよ。金平糖に、せんべい、クッキー、お饅頭。ほら、慌てない。たくさんたくさんあるからね……。甥っ子真久部さんは声だけの出演。ようやく、完結。おつき合いくださって、ありがとうございました。
2021.09.01
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舞い降りた白鷺は、地面近くの太めの根の上に留まろうとしたようだ。足が着くと同時に、中空に伸びていた蔓が撓り、別の蔓が浮き上がる。頭上から葉や花房が被さるのを嫌がってか、白鷺は再び飛び立とうとする。細い足が、蔓に絡まった。身を捩ると別の蔓を引っ張り、また花房たちが被さってくる。白い翼にむらさきの花が映える。花は、そんなふうにして白鷺の白い体を飾ってゆく。葉と蔓が覆ってゆく。藻掻く白鷺の動きに、しばらくは揺れていた花房たちだが、徐々に静かになり、今はもう動かない。ただ、時折の風に花をこぼすのみ──。「猪でも、猿でも、兎でも、そんなふうにして皆、藤の森に捕らわれてしまうのだそうだ。一度足を踏み入れたら、もう逃げられない。藤の木は何もしないのに、その柔らかい葉や花に惹かれた動物たちが、勝手に絡まって死んでしまう」一見、楽園のように見える藤の花畑、その葉陰には、数えきれないほどたくさんの動物たちの死骸が隠れているらしいよ、と伯父さんは続ける。「腐り落ちた肉の隙間に蔓が伸びて、骨までも絡め取り、いつしか同化していくのだという。干からびた骨は朽ち、蔓に絞められて砕け、落ちた肉とともに土に返る。そこからまた新芽が芽吹き、花が咲き、楽園に加わる──」「あの! 物々交換の話じゃなかったんですか?」ひたすら気味の悪い話を聞かされて、現在ただ今、俺が精神的に懲らしめられている気分。俺、伯父さんに何か悪いことしたっけ?「せっかちだねぇ、何でも屋さんは」困ったような顔をつくり、伯父さんは言う。「ものには順序というものがある。今の話は、いかにして私の求める呪物の、その大元が出来上がるか、という説明なんだよ」「じゅ、呪物?」「そう。理不尽に命を落としたたくさんの動物たちの、焦り、怒り、苦しみ、恐怖。あらゆる負の感情。そこに蔓延る藤たちは、彼らの苦しみに関与するが、関知はしない。ただ、その全てを吸い上げて根を張り、蔓や葉を伸ばし、花に咲かせる──自然発生的な呪物になるのさ」その藤の森は怖いと思うけど、自然発生なら仕方ない。今はそれよりも。「呪物が欲しいって、ど、どうして……?」そっちのほうが怖いよ!「もちろん、浮気者を懲らしめるための道具としてさ。──私には、何の力も無いからね?」小首を傾げてみせる意地悪仙人のわざとらしい笑みに、嘘だ! と俺は心で叫んだ。いつも何か、怪しいことしたり、妖しいことしたりしてるじゃん、伯父さん! 不思議な力、持ってるの俺知ってるぞ。だいたい、今日はいつもの相棒、俺の苦手なあの鯉のループタイはどうしたんだよ? 怖いから指摘しなかったけどさぁ!「……」俺の無言の非難を、伯父さんは聞き取ったのだろうか。眼だけが楽しそうにきらめいている。「残念ながら、鯉のアレ・・・・はこういうことに向かないんだよ」そんなふうに言う。「アレ・・はあんまり加減が出来ないからねぇ。意趣返しどころか、彼女の夫が廃人になってしまうかもしれないし」丑の刻参りにヘビーユーズされた桜の木、その材から造らせたという一刀彫の、叔父さんお気に入りの鯉のループタイ。骨董古道具に育った……俺にはいつも聞き取れないんだけど、良くない“気”だか性しょうのようなもの、それを喰ってしまうので、店主の真久部さんからは蛇蝎のごとく嫌われている。喰われて無くなってしまうと、道具がただの我楽多になってしまうんだって。鯉のアイツは貪欲で、人間の心に巣食う良くない“気”も好む、らしい。負の情念に凝り固まっていたり、過剰な欲を持っていたりする人の“気”を、心ごと喰らってしまうことも──。「……」俺の反発のエネルギーが、しゅるんと小さくなるのを、面白そうに伯父さんは見ている。「だから、アレ・・以外の別の道具が必要だったんだ。もっとマイルドで、継続的なもの、素人・・でも扱いやすいもの。それには、話に聞いていた藤の木が最適だと思ってさ」昔、そこの道具が教えてくれたんだよ、と指さす先には、俺が出入りするずっと前からそこにあるらしい、何を模っているのかわからないどっしりとした木彫りの塊。特に気にしたことない道具だったけど、そう言われると意識してしまう……。「生身の人間ではとうていたどり着けない、深い深い山の中に、不思議な藤の森があると。それは勝手に来ては勝手に死んだ動物たちの恨みで、ごく自然に呪物の性質を帯びていると。花でも葉でも、どこを使ってもいいが、根が一番強く、花が一番弱い、つまりマイルドらしいんだ」そう言って、伯父さんは懐からジッ〇ロックの袋を取り出した。中に、紫色の藤の花房が入っている。とても瑞々しくて、まるでたった今、摘んできたばかりのように……。「え……。真久部さん、まさかそこに行ってきたんですか?」ドン引きつつも、俺は、この人ならば可能かも、と思ってしまう。「いやいや、私だってさすがに、どことも知れない場所には行けないよ。生者には足を踏み入れることのできないところだというし。一応、何でも屋さんもよく知る・・・・・・・・・・・、例のラーメン屋の亭主・・・・・・・・・・にも聞いてみたけど、そんな場所は知らないと言われたよ」つづく……。さすがに次で終わりのはず。最近出してないからって、甥っ子真久部さんを出したりしなければ……。
2021.08.29
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「道具?」「ああ、コレさ」そう言って、伯父さんは傍らの信玄袋から布包みを取り出した。表側が縮緬、裏が絹地でできた袱紗の中から出てきたのは、ひと目見ただけで息を呑む美しさの──。「簪、ですか?」それは二本足の扇のような形をしていて、平たい飾りの部分には、螺鈿細工の小花が散りばめられている。淡い虹色の光をまとった花々に、小粒の輝石や真珠などが輝きを添え、素人目にもとても高価な品物に見えた。「そうだよ。駆け引きの末、彼女の言い値で買ったんだ。どうやらあんまり価値がわかってないみたいで、驚くほど安く手に入れられた。名のある職人の手掛けたものだから、そうだねぇ、どっかの鑑定団に出したら七桁は軽くいくんじゃないかな? それを、ねぇ。彼女は吹っ掛けたつもりだろうけども」初心なことだ、とにったり笑う伯父さんは、よほどその駆け引きとやらが楽しかったらしい。目を細め、ご機嫌な様子で、自分用に淹れたらしいコーヒーを啜りながら、思い出しの含み笑いをしている。「……」そんな意地悪仙人全開な姿にドン引きしつつ、いくらで買ったのかな……と思いはしたものの、聞くのは止めておくことにした。だってさ、あからさまに誘ってるんだもの、そういう質問を。俺が乗ってこないとわかったからか、読めない笑みを浮かべつつ、伯父さんはまた話し始めた。「まあね、だからサービスだよ。本来、彼女が得られるはずだった代金のぶんのさ。この簪だって、とても面白いことを語ってくれたしね・・・・・・・・ぇ」聞けば、簪の元の持ち主は女系で続いた旧家の当代らしく、この簪も、代々の女主人に受け継がれてきた道具のひとつなのだという。そんな古い家の、昔むかしのその昔の出来事を、いろいろたくさん語って聞かせてくれて、興味深かったよと伯父さんがニヤリと笑うから、俺は顔を引き攣らせた。このヒトには、とても悪趣味な趣味がある。それは、“骨董古道具の声を聞く”というものだ。年経た道具たちが見聞きしてきた、人々の営み、諍い、恋模様、歴史の大事件の裏側。そういったことを聞き出して、聞き出したまま、そのままを己の胸にだけ秘めておくという、常人にはよくわからない愉しみ。そのためにわりと手段を選ばないところがあると、甥っ子の真久部さんはいつも苦い顔をしている。「ソレハヨカッタデスネ」棒読みで、俺は答えた。好奇心は猫をも殺すというけれど、俺は猫にはなれない。だって、離れて暮らす可愛い娘の成長を見守りたいし、彼女がいつか幸せな結婚をするのを見届けたい。孫の顔を見るまでは、俺は元気に生きていたいんだ。曾孫の顔だって見たいと思っている。「……話し甲斐がないねぇ」古くも、美しい道具。長い年月丁寧に手入れされることで、さらに美しくなっていったのであろうその簪から、どんなことを聞いたのかと、尋ねてもどうせはぐらかして俺の反応を見て楽しむだけだろうに、口調だけは残念そうだ。「ちょっとくらい、興味を示してくれてもいいのに」「いやあ、はは。俺ってば、常識が好きのつまらない男なもので」だから、底の見えない得体の知れない世界に、引きずり込もうとするのはやめてください。「その簪は確かに見事だし、とても素晴らしい古美術品だとは思いますけど、本題はそれじゃないんじゃないですか?」古道具の語る昔話、なんて非現実なことから離れたくて、俺はそう言ったんだけど。「いやあ、これはしたり」わざとらしく声を上げ、伯父さんは自分の額をぺちりと叩いた。「私の悪い癖だ、つい話が寄り道してしまう。そうだねぇ、何でも屋さんだって、私が物々交換で何を手に入れたのか、知りたいよねぇ?」滲み出る、無邪気な邪気。罠にかかった獲物を見るような、甚振るような──。「……!」しまった、と思ったときには遅かった。俺、言わされたんだ、伯父さんが、本当はいま、一番聞かせたかった話を、聞かせてほしいと。俺の、青くなっているであろう顔を楽しそうに眺めながら、伯父さんは続ける。「能天気な浮気者の夫をさぁ、物理的に殴るのは私には無理だけど、精神的に懲らしめたいというなら、面白いし、それなりに心当たりもあってね。なに、それも別の道具から教えてもらったんだが」白い髭の下、唇の両端を吊り上げて、意地悪仙人がニッタリと笑った。──深い深い山の中に、それは美しい場所があるという。一面にむらさきの藤の花咲く、まるで楽園のようなところ。樹冠を覆うほどに繁った蔓や葉のせいで、陽射しは柔らかく、芳しい花の香りが立ちこめる。風が吹くと花房が揺れ、穂先からほろほろと小さな花をこぼす。重なる葉や花の影には、その美しさとは裏腹、太く節くれだった根が、絡み合った蛇のように這う。黒々としたそれは、あるいは曲がり、あるいは土の下に隠れて伸び、静かに何かを待っている。空から、白鷺がやってきた。何か獲物を見つけたのだろうか?つづく……。終われなかった。そして怪しくなる〇編仕立て。数字にしておけばよかった……。
2021.08.22
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「いやあ、はは……」曖昧に濁しつつ、俺はちょっと考えてしまう。いや、嫌いじゃない、もちろん嫌いじゃないよ、真久部さんのこと。だって伯父さんよりマシっていうか、あの人も俺のこと揶揄うけど、ぎりぎりの手前で引いてくれるっていうか、追い詰めるように見せて、わかりやすい逃げ道を残しておいてくれるかというか。似たようなものといえば似たようなものかもしれないけど、でも。…………いや、あんまり考えちゃいけない。考えたら慈恩堂ここで店番の仕事できない。【見ない見えない聞こえない。全ては気のせい気の迷い】。よし! 何でも屋版・慈恩堂店番心得を胸に! ──次来るときは、眠気に負けないよう、何か気付け代わりになりそうなもの持って来よう。キン〇ンとかメン〇レータムとか目がスースーするもの……。マグカップにお湯を入れて、その上にキ〇カンとか垂らしたら、キ〇カン・アロマの効果で頭がすごくすっきりしそう……などと、現実逃避的なことを考えてたら。「まあ、いいさね。常識に縛られてるほうが幸せなら、それはそれで」憎たらしい物言いなのに、声がどことなく寂しそうに聞こえて、俺は微妙に逸らせていた視線を、思わず伯父さんに戻した。「私はつまらないと思うけど、そんなのは人それぞれだって、あの子には窘められたな。伯父さんの面白いは、それ以外の人間にとってはシャレにならないんだから、押し付け禁止だし、余計なお世話だって」「……」ここで何かコメントすると、何だか絡まれてしまいそうだから、俺は沈黙を保つことにした。金平糖を一粒口に放り込んでこりこりと噛み、冷めてしまったお茶の残りを飲む。うん、美味い。そんな俺を、どこか不可思議な笑みで眺めながら、伯父さんが話を変える。「実はね、今日はここで、会いたい人がいてねぇ。あの子がいたら邪魔されるから、鬼の居ぬ間ってことで」「……? 待ち合わせですか?」後から誰か来るんだろうか? 伯父さんの骨董仲間か何かなのかも。「待ち合わせというか、相手はいつもこの店の中にいるんだ/けどね/よね」そんなことを言って、またにんまりと笑うから、俺はちょっと寒気がした。「またー。俺を怖がらせようとして。真久部さんたら相変わらずお人が悪い」「相変わらず?」うっかり漏れた俺の言葉尻を軽く突きつつ、伯父さんは楽しそうに首を振ってみせる。「ちょっと欲しいものがあったんだよ。こっちでそういうもの・・・・・・を作ろうと思ったら、手順がややこしいからねぇ。材料を揃えるのも大変だし」「はぁ……」どこかの特産物かなんかだろうか? 「その点、あっちは天然もの・・・・だからなぁ。あの子の眼を盗んで交渉してみたら、応じてくれてね。物々交換してくれるっていうから、今日は希望の品物を調達してきたところなんだんだよ」「そうなんですか」よくわからないけど、わからないままでいいような気がしてきたから、これ以上は聞くのをよそうと思ったのに。「まあ、その欲しいものって、自分用じゃないんだけどね?」面白げに俺の表情を観察しながら、伯父さんが勝手に話し始める。「最近知り合った、とある女性がさ、ダンナの女遊びに悩んでいるらしくてねぇ」新型コロナのこのご時勢に、仕事と偽って出歩くわ、LINEでも五人くらいの女の子とアタマおかしいやり取りをしてるらしいよ、と続ける。「ま、マメですね……」「そうだね。あと、何をするにもそれなりに財力があるからねぇ、奥さんの」入り婿らしいよ、とつけ加え、莫迦だよね、と笑う。「奥さんが従順だからって、いい気になってるみたいだよ。大人しい人を怒らせたら怖いって、まだ知らないみたいだね」「あー……たとえば、夫側有責で離婚を考えられてるのに、気づかずそういうのを続けてる、とか?」「離婚は考えてないらしいよ。一度は好きになった相手だから、って彼女は言ってたな。だけど、私の見たところ……」変なところで声を潜めるから、つい身を乗り出してしまう。「大人しげに見えて、彼女、けっこう激しい人だよ。表に出さないだけで。従順さの影に、支配欲を秘めてる。一度手に入れたモノは、絶対に手放したくないという、強い執着心を持っていると思う──まるで、木に絡みつく蔓みたいに」「……っ」絡みつく、蔓──。その言葉が、とても怖く思えた。知らず、肩が跳ねる。「おや、どうしたのかな、何でも屋さん」面白げに眉を上げて、真久部の伯父さん。「な、何でもないです」首を振る。何か思い出してしまいそうで、必死に振る。「そうかい? ──で、まあ、彼女に別れる気は無くても、妻として腹立たしいのは事実。よく、相手が浮気したとき、男は女を憎み、女は女を憎むというけど、彼女はそのあたり誰が悪いのかを理解していて、浮気者である夫のほうに意趣返しがしたいと」「はあ……」そういう浮気者にとって、もっともダメージになるのは、慰謝料ふんだくられて一文無しで放り出されることだと思うんだけど。「優しいことに、肉体的に苦痛を与えたいわけではないというんだよ。たとえば、ちょっと有毒な植物を料理に混ぜるとか、古くなった牛乳を飲ませるとか、そういうのはねぇ。だけど、精神的には、大いに懲らしめたいと彼女が言うからさ」何か、いい方法はないかしら? 世間話に、そんなふうに尋ねられたのだという。「ひと肌脱ごうと思ったわけだよ。なんたって、とても素敵な道具を売ってくれたことだし」つづく……。完結編で無事に終われるのだろうか……。
2021.08.17
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「ば、バイトのバックレって、どこでもたまに聞きますよね」あはは~、と笑っておく。──『堂々と居眠りしてた』って。そんなこと、一体誰・から聞いたんですか、なんてたずねたりしない。店番を置いたというなら、店主は出掛けてたんだろうし。店番以外は誰もいないはず……。「あー、ところで、真久部さん? 今日お店に来られるってこと、こっちの真久部さんはご存知なんですか?」たずねる笑顔が失敗してないことを祈りつつ、俺は心で叫ぶ。──真久部さん、お店に伯父さんが来てますよ~! 知ってたら、早く帰ってきて!! てか、伯父さんがいるなら、今日はここの店番いらないじゃないですか!「知るわけないよ。連絡してないもの」しれっと、真久部の伯父さん。「今日は大きな骨董市があるから。あの子、きっと何でも屋さんに店番頼んで出掛けてると思ってね。あの子好みの出物もあるみたいだし」「そ、そうなんですか」なら、何で来ちゃったのかな? まさか──。「お、俺に何か御用だったんでしょうか……?」恐る恐るたずねてみる。聞きたくなかったけど、≪日常のちょっとしたご不便、お困りごとを何でもおっしゃってください!≫をキャッチフレーズに、何でも屋という仕事を生業/と/にしている身としては、聞かないわけにもいかず……。「うん? 何でも屋さんの顔は見たかったかなぁ? 久しぶりに」意味ありげにニヤリと笑ってみせるから、俺は内心慄いた。「あの、俺、今日は体調が悪くて……」だから、お地蔵さんの依り代やらせるとか、迷い家なラーメン屋使って、この世でないような場所に連れて行ったりするとか、やめてください。お願いだから。「そうかい? 体調がねぇ。ああ、だからさっき魘されてたのかな?」「魘されて……?」そうだった、何か怖い夢を見てたんだ。一面の紫、意識を絡め取られるような芳香が、濃く香り立って──。…………俺は……どうやら、ぼんやりしていたらしい。伯父さんが、俺の座っている帳場レジまでお茶を運んでくれるまで、気づかなかった。思わず恐縮してしまう。「すみません!」「いやいや、たまには私も、何でも屋さんを接待しないとねぇ?」胡散臭い笑み。でも、他意はないはず、たぶん。「接待なんて、あはは。ありがとうございます。いただきます……」甥っ子の真久部さんが淹れてくれるのとそっくり同じ、煎茶の味と香り。美味だ。こういう甘みのあるお茶には、落雁とかの干菓子が合う。こりこり噛んで楽しい、色とりどりの金平糖も── ──ん? これは何かって? お菓子だよ。お星さまみたいだろう、こんぺいとうっていうんだ。 食べてみる? ほら……。あまい? うん、甘いね。おいしい? それはよかった。「何でも屋さん?」「え?」あれ? 俺は今、何を? 目の前には中身の減った茶碗と、いつの間にか置かれた銘々皿。そこには金平糖がいくつか転がっていて、そして俺は。「あれ?」指先にひとつ、そのちっちゃい星の粒を摘んでいた。何で? ……お茶は飲んでた記憶ある。「急に菓子盆を開けて取り分け始めるから、私にくれるのかと思ったら……」俺の戸惑いをよそに、伯父さんは微妙な笑みを浮かべている。「そっち・・だったのか。ああ、いいことしたねぇ、喜んでるよ。──ん? お日さまの味がする? あったかい味かぁ。そうかい、よかったな」「……」俺の位置からは見えない、帳場机の下のほうに目をやって。誰としゃべってるのかな、真久部の伯父さん……。「まあ、きみは、眠っていても人が好いってことさ、何でも屋さん。だからここの道具たちにも好かれてる。そのせいでよく眠らせられてる・・・・・・・みたいだけど──害はないよ。気にせず眠るといい」そのほうが彼らもうれしいだろうし、と伯父さんは怪しく笑うけど、俺は笑えない。ここで店番してると高確率で眠くなるんだけど、それってやっぱり、何か常ならぬ現象……?「いやあ、ダメですよねぇ! 仕事中に寝ちゃうなんて、俺、プロ意識低すぎて、何でも屋失格かも。もっと精進しないといけませんよね。あははは」我ながら、笑い声が白々しい。そんな俺に伯父さんは、古猫を通り越して猫又になったみたいな、怪しく謎めいた笑みを見せる。「ふふ。そう言いなさんな。ここの店番は遊び相手も兼ねてるからねぇ。何でも屋さんはよく遊んでくれるから」本当にきみはこの店向きだ、と、猫がちょちょいと鼠をいたぶるように、そのままの笑顔で俺を追い詰めてくる。「何でも屋さんはさぁ、起きてると常識に縛られるみたいだから。彼らの声・・・・・を聞きながら相手できるくらいになったら、怖がることもなくなると思うけどなぁ」私のように、と、まるで悪い遊びに誘うように。「いやあ、はは。俺ってホント、常識大好きなつまらない人間で。でも、怖いものを怖いってわからないほうが怖いっていうか。平凡が一番! なんて思っちゃいます、あははは」甥っ子には「骨董の声を聞いてはいけない」とか言ってるらしいのに、何で俺には勧めるんだ、このヒトは。「……あの子と同じことを言うねぇ」ほんの少しだけ、伯父さんは不思議な表情になる。どこか困ったみたいな、うれしそうな、寂しそうな……? 複雑な表情が入り混じる、甥っ子と同じ黒褐色と榛色のオッドアイ。「だからあの子と気が合うのかな」なんて呟いてるけど、俺って、店主の真久部さんと気が合ってるのかな……? つづく……。
2021.08.15
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前後編で終わるつもりですが、念のために数字にしたほうがいいのかな……。書こうか書くまいか迷って、結局書いた話です。季節がずれまくりだけど、お許しを。ふわふわ、ふわふわ。頭がふわふわ。温かい湯に浸かり、ふっと目を閉じてしまったときのような、抗いがたい心地よさ。眠るつもりじゃないのに、眠っちゃいけないのに……ゆめとうつつが遠くなったり近くなったり──。 ──今の時季になると、山中やまじゅうむらさきで、それが藤で。ぜんぶ藤の花で藤の花……?──ああ……他の季節だと、気配も見えないのにね。確かに、山を覆う勢いだ ──あれは蔓だから、巻きついた木を締めて、締め殺して立ち上がって──ほう ──根も伸びる、うねくりあってさ、好き勝手にどこまでも這うように伸びて──ほほう。 ──どれがどの木ともわからない。まるでひと元の大樹のように見える──そこには藤しか生えていないのかい? ──ああ。蔓も根も絡まり合って、締めあって、その伸びようがまるで掴みあいみたいで──それではさぞかし歩きにくかろう ──生者の足を踏み入れるようなところじゃないよ──だろうなぁえ……なに? 何の話……? ──このあいだ、鹿が迷い込んで来てね──ほう、鹿が ──この時期の葉も花も、柔らかくて美味いらしくて ──ほうほう ──進めば進むほど、蔓と根に四方八方から足を取られ、角を絡め取られて──それは恐ろしい ──頭を振って蔓を千切っても、撓ってた別の蔓が突き出してくる。立ち往生さ──なんと、なんと ──何も殺そうとはしてないんだ。勝手に絡まって死んでしまう……どこかで、水のしたたる音がする。明るい緑に染められて、ひんやりと湿った山の空気。四月も末、八重桜も葉桜に変わる頃。人里から遠く離れたそこは一面むらさきに見えて、何か良い匂いが……ああ、あれは藤の花じゃないか。見渡す限り藤で、藤の花で、世界は藤の花で出来ているかのようで……。きれいだなぁ……。桃源郷っていうのかな? いや、藤・源郷?あれ? 大きな鹿がやってきた。角が立派だから雄の鹿だ。むしむしと藤の若い葉や花を食べて……ああ、本当に美味そうだ。美味いからもっと食べたくて、どんどん奥へ……。ふわり、と藤の香りが包み込んでくる。あ、角が藤の蔓に引っかかった。鬱陶しげに鹿は頭を振る。蔓が少し緩む。目の前に藤の花房、鹿はまたそれを食む。あれ、今度は根に前足を取られた。進むことでそれをほどこうとするけど、角がまた蔓に引っかかる。他の足にも絡む。根も絡む。藤の芳香が濃くなる。暴れるけれど、新たに蔓を引っかけるばかりで。角も四本の足も節くれだった蔓や根に絡まれてがんじがらめ。苦し気に口を開けるけど、鳴き声は聞こえない。鹿が身動きするたび、藤の花房が揺れて。揺れて、鹿の体に藤の花が被さって覆って、覆われて、覆い尽くされて。後には、ただ噎せかえるほどの芳香が漂うばかり──。「……っ!」荒い息を吐きながら、俺は必死で目を開けた。さっきまでそこに広がっていた、あの紫に染まった世界は消えてしまった。目の前には、磨き込まれた古い和机、これは古道具屋慈恩堂の|帳場《レジ》。その天板に突っ伏して、俺は居眠りしていたらしい。そうと分かっても、夢の余韻が俺を苛む。藤の蔓が、花房が、ぎっしりと身体に絡みついて、囚われて身動きできずにいると、ひんやりとしたあの紫色の花房が、俺の口や鼻を塞いできて、吐息すら絡め取られて──。「おや、起きたのかい、何でも屋さん」のんびりとした声に呼ばれて、俺は飛び上がった、ら、天板の裏に嫌というほど膝をぶつけてしまった。「いってぇ……!」思わず呻くと、楽しそうな笑い声が聞こえる。「ああ、気をつけないと。怪我でもしたら大変だ」大丈夫かい、と心にもない言葉とともに、この店慈恩堂の店主よりも数段胡散臭い笑みを向けてくるのは、真っ白い髪に髭、真っ白い眉をした、怪しい仙人みたいな──。「真久部さん……」というか、真久部の伯父さん。「いつから、いらしてたんですか?!」びっくりして、挨拶もすっ飛ばしてついそんなことを口走ってしまった。本日の何でも屋お仕事メニュー、<店番>依頼にあたり、あなたの甥っ子である店主の真久部さんから聞いてないよ、あなたが来るなんて。「何でも屋さんが居眠りしてるあいだ、かなぁ?」にやにやと、揶揄うような笑み。うっ、それを言われると……。「すみません、つい、うとうとしちゃって……」いくら客が来ないからといっても、店番失格だよなぁ。店主の真久部さんは「気にしなくていいですよ」と言ってくれるけど、いやしくも一人前の社会人、プロの何でも屋として、これはいただけない。──でも、ここの店番してると、いつもどうしてか眠くなって困るんだ。だいたいは何とか堪えてるんだけど、意識しないうちに眠ってしまっていることも……。「いいんだよ。この店では、何でも屋さんはそれで。あの子もそう言ってるだろう?」「ええ、まあ……」だからといってさあ、はい、そうですかと眠るわけにもいかないよ、まともな神経してたらさ。なのに俺、何で居眠りを──。「前にあの子がバイトを雇ったときには、誰もいないし客も来ないからと、堂々と居眠りしていたようだがねぇ」「そ、そうなんですか……?」タチ悪いとは思うけど、店番さえいれば店を開けてはいられるから、そんなんでも良かったのかな? 真久部さん。確かに|ここ《慈恩堂》は滅多に客は来ないけど、もし来たらさすがに接客くらいはするだろうから、店主の留守中だけなら勤まらなくもなかったのかも……。「だけどそのバイト、眠りの中で・・・・・何をしたのやら、道具たちに嫌われたらしくてねぇ、さんざん怖い思いをさせられて、半日も経たずに逃げ出して行方知れずだよ」行方知れずといっても、連絡が取れなくなったというだけのことだが、とにたりと笑う。つづく……。昨日は「山の日」で、今日は振替休日ですね。今年の7月8月の祭日はカレンダーと違っているので、うっかりしそうで困ります。<見たまま編集>のチェックを外すか外さないかで、公開したときの見た目が変わるのを忘れてました。ルビも直したので、読みやすくなったと思います。
2021.08.09
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前後編で終わるつもりですが、念のために数字にしたほうがいいのかな……。書こうか書くまいか迷って、結局書いた話です。季節がずれまくりだけど、お許しを。ふわふわ、ふわふわ。頭がふわふわ。温かい湯に浸かり、ふっと目を閉じてしまったときのような、抗いがたい心地よさ。眠るつもりじゃないのに、眠っちゃいけないのに……ゆめとうつつが遠くなったり近くなったり──。 ──今の時季になると、山中やまじゅうむらさきで、それが藤で。ぜんぶ藤の花で藤の花……?──ああ……他の季節だと、気配も見えないのにね。確かに、山を覆う勢いだ ──あれは蔓だから、巻きついた木を締めて、締め殺して立ち上がって──ほう ──根も伸びる、うねくりあってさ、好き勝手にどこまでも這うように伸びて──ほほう。 ──どれがどの木ともわからない。まるでひと元の大樹のように見える──そこには藤しか生えていないのかい? ──ああ。蔓も根も絡まり合って、締めあって、その伸びようがまるで掴みあいみたいで──それではさぞかし歩きにくかろう ──生者の足を踏み入れるようなところじゃないよ──だろうなぁえ……なに? 何の話……? ──このあいだ、鹿が迷い込んで来てね──ほう、鹿が ──この時期の葉も花も、柔らかくて美味いらしくて ──ほうほう ──進めば進むほど、蔓と根に四方八方から足を取られ、角を絡め取られて──それは恐ろしい ──頭を振って蔓を千切っても、撓ってた別の蔓が突き出してくる。立ち往生さ──なんと、なんと ──何も殺そうとはしてないんだ。勝手に絡まって死んでしまう……どこかで、水のしたたる音がする。明るい緑に染められて、ひんやりと湿った山の空気。四月も末、八重桜も葉桜に変わる頃。人里から遠く離れたそこは一面むらさきに見えて、何か良い匂いが……ああ、あれは藤の花じゃないか。見渡す限り藤で、藤の花で、世界は藤の花で出来ているかのようで……。きれいだなぁ……。桃源郷っていうのかな? いや、藤・源郷?あれ? 大きな鹿がやってきた。角が立派だから雄の鹿だ。むしむしと藤の若い葉や花を食べて……ああ、本当に美味そうだ。美味いからもっと食べたくて、どんどん奥へ……。ふわり、と藤の香りが包み込んでくる。あ、角が藤の蔓に引っかかった。鬱陶しげに鹿は頭を振る。蔓が少し緩む。目の前に藤の花房、鹿はまたそれを食む。あれ、今度は根に前足を取られた。進むことでそれをほどこうとするけど、角がまた蔓に引っかかる。他の足にも絡む。根も絡む。藤の芳香が濃くなる。暴れるけれど、新たに蔓を引っかけるばかりで。角も四本の足も節くれだった蔓や根に絡まれてがんじがらめ。苦し気に口を開けるけど、鳴き声は聞こえない。鹿が身動きするたび、藤の花房が揺れて。揺れて、鹿の体に藤の花が被さって覆って、覆われて、覆い尽くされて。後には、ただ噎せかえるほどの芳香が漂うばかり──。「……っ!」荒い息を吐きながら、俺は必死で目を開けた。さっきまでそこに広がっていた、あの紫に染まった世界は消えてしまった。目の前には、磨き込まれた古い和机、これは古道具屋慈恩堂の|帳場《レジ》。その天板に突っ伏して、俺は居眠りしていたらしい。そうと分かっても、夢の余韻が俺を苛む。藤の蔓が、花房が、ぎっしりと身体に絡みついて、囚われて身動きできずにいると、ひんやりとしたあの紫色の花房が、俺の口や鼻を塞いできて、吐息すら絡め取られて──。「おや、起きたのかい、何でも屋さん」のんびりとした声に呼ばれて、俺は飛び上がった、ら、天板の裏に嫌というほど膝をぶつけてしまった。「いってぇ……!」思わず呻くと、楽しそうな笑い声が聞こえる。「ああ、気をつけないと。怪我でもしたら大変だ」大丈夫かい、と心にもない言葉とともに、この店慈恩堂の店主よりも数段胡散臭い笑みを向けてくるのは、真っ白い髪に髭、真っ白い眉をした、怪しい仙人みたいな──。「真久部さん……」というか、真久部の伯父さん。「いつから、いらしてたんですか?!」びっくりして、挨拶もすっ飛ばしてついそんなことを口走ってしまった。本日の何でも屋お仕事メニュー、<店番>依頼にあたり、あなたの甥っ子である店主の真久部さんから聞いてないよ、あなたが来るなんて。「何でも屋さんが居眠りしてるあいだ、かなぁ?」にやにやと、揶揄うような笑み。うっ、それを言われると……。「すみません、つい、うとうとしちゃって……」いくら客が来ないからといっても、店番失格だよなぁ。店主の真久部さんは「気にしなくていいですよ」と言ってくれるけど、いやしくも一人前の社会人、プロの何でも屋として、これはいただけない。──でも、ここの店番してると、いつもどうしてか眠くなって困るんだ。だいたいは何とか堪えてるんだけど、意識しないうちに眠ってしまっていることも……。「いいんだよ。この店では、何でも屋さんはそれで。あの子もそう言ってるだろう?」「ええ、まあ……」だからといってさあ、はい、そうですかと眠るわけにもいかないよ、まともな神経してたらさ。なのに俺、何で居眠りを──。「前にあの子がバイトを雇ったときには、誰もいないし客も来ないからと、堂々と居眠りしていたようだがねぇ」「そ、そうなんですか……?」タチ悪いとは思うけど、店番さえいれば店を開けてはいられるから、そんなんでも良かったのかな? 真久部さん。確かに|ここ《慈恩堂》は滅多に客は来ないけど、もし来たらさすがに接客くらいはするだろうから、店主の留守中だけなら勤まらなくもなかったのかも……。「だけどそのバイト、眠りの中で・・・・・何をしたのやら、道具たちに嫌われたらしくてねぇ、さんざん怖い思いをさせられて、半日も経たずに逃げ出して行方知れずだよ」行方知れずといっても、連絡が取れなくなったというだけのことだが、とにたりと笑う。つづく……。昨日は「山の日」で、今日は振替休日ですね。今年の7月8月の祭日はカレンダーと違っているので、うっかりしそうで困ります。<見たまま編集>のチェックを外すか外さないかで、公開したときの見た目が変わるのを忘れてました。ルビも直したので、読みやすくなったと思います。
2021.08.09
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前後編で終わるつもりですが、念のために数字にしたほうがいいのかな……。書こうか書くまいか迷って、結局書いた話です。季節がずれまくりだけど、お許しを。ふわふわ、ふわふわ。頭がふわふわ。温かい湯に浸かり、ふっと目を閉じてしまったときのような、抗いがたい心地よさ。眠るつもりじゃないのに、眠っちゃいけないのに……ゆめとうつつが遠くなったり近くなったり──。 ──今の時季になると、|山中《やまじゅう》むらさきで、それが藤で。ぜんぶ藤の花で藤の花……?──ああ……他の季節だと、気配も見えないのにね。確かに、山を覆う勢いだ ──あれは蔓だから、巻きついた木を締めて、締め殺して立ち上がって──ほう ──根も伸びる、うねくりあってさ、好き勝手にどこまでも這うように伸びて──ほほう。 ──どれがどの木ともわからない。まるでひと元の大樹のように見える──そこには藤しか生えていないのかい? ──ああ。蔓も根も絡まり合って、締めあって、その伸びようがまるで掴みあいみたいで──それではさぞかし歩きにくかろう ──生者の足を踏み入れるようなところじゃないよ──だろうなぁえ……なに? 何の話……? ──このあいだ、鹿が迷い込んで来てね──ほう、鹿が ──この時期の葉も花も、柔らかくて美味いらしくて ──ほうほう ──進めば進むほど、蔓と根に四方八方から足を取られ、角を絡め取られて──それは恐ろしい ──頭を振って蔓を千切っても、撓ってた別の蔓が突き出してくる。立ち往生さ──なんと、なんと ──何も殺そうとはしてないんだ。勝手に絡まって死んでしまう……どこかで、水のしたたる音がする。明るい緑に染められて、ひんやりと湿った山の空気。四月も末、八重桜も葉桜に変わる頃。人里から遠く離れたそこは一面むらさきに見えて、何か良い匂いが……ああ、あれは藤の花じゃないか。見渡す限り藤で、藤の花で、世界は藤の花で出来ているかのようで……。きれいだなぁ……。桃源郷っていうのかな? いや、|藤《・》源郷?あれ? 大きな鹿がやってきた。角が立派だから雄の鹿だ。むしむしと藤の若い葉や花を食べて……ああ、本当に美味そうだ。美味いからもっと食べたくて、どんどん奥へ……。ふわり、と藤の香りが包み込んでくる。あ、角が藤の蔓に引っかかった。鬱陶しげに鹿は頭を振る。蔓が少し緩む。目の前に藤の花房、鹿はまたそれを食む。あれ、今度は根に前足を取られた。進むことでそれをほどこうとするけど、角がまた蔓に引っかかる。他の足にも絡む。根も絡む。藤の芳香が濃くなる。暴れるけれど、新たに蔓を引っかけるばかりで。角も四本の足も節くれだった蔓や根に絡まれてがんじがらめ。苦し気に口を開けるけど、鳴き声は聞こえない。鹿が身動きするたび、藤の花房が揺れて。揺れて、鹿の体に藤の花が被さって覆って、覆われて、覆い尽くされて。後には、ただ噎せかえるほどの芳香が漂うばかり──。「……っ!」荒い息を吐きながら、俺は必死で目を開けた。さっきまでそこに広がっていた、あの紫に染まった世界は消えてしまった。目の前には、磨き込まれた古い和机、これは古道具屋慈恩堂の|帳場《レジ》。その天板に突っ伏して、俺は居眠りしていたらしい。そうと分かっても、夢の余韻が俺を苛む。藤の蔓が、花房が、ぎっしりと身体に絡みついて、囚われて身動きできずにいると、ひんやりとしたあの紫色の花房が、俺の口や鼻を塞いできて、吐息すら絡め取られて──。「おや、起きたのかい、何でも屋さん」のんびりとした声に呼ばれて、俺は飛び上がった、ら、天板の裏に嫌というほど膝をぶつけてしまった。「いってぇ……!」思わず呻くと、楽しそうな笑い声が聞こえる。「ああ、気をつけないと。怪我でもしたら大変だ」大丈夫かい、と心にもない言葉とともに、この|店《慈恩堂》の店主よりも数段胡散臭い笑みを向けてくるのは、真っ白い髪に髭、真っ白い眉をした、怪しい仙人みたいな──。「真久部さん……」というか、真久部の伯父さん。「いつから、いらしてたんですか?!」びっくりして、挨拶もすっ飛ばしてついそんなことを口走ってしまった。本日の何でも屋お仕事メニュー、<店番>依頼にあたり、あなたの甥っ子である店主の真久部さんから聞いてないよ、あなたが来るなんて。「何でも屋さんが居眠りしてるあいだ、かなぁ?」にやにやと、揶揄うような笑み。うっ、それを言われると……。「すみません、つい、うとうとしちゃって……」いくら客が来ないからといっても、店番失格だよなぁ。店主の真久部さんは「気にしなくていいですよ」と言ってくれるけど、いやしくも一人前の社会人、プロの何でも屋として、これはいただけない。──でも、ここの店番してると、いつもどうしてか眠くなって困るんだ。だいたいは何とか堪えてるんだけど、意識しないうちに眠ってしまっていることも……。「いいんだよ。この店では、何でも屋さんはそれで。あの子もそう言ってるだろう?」「ええ、まあ……」だからといってさあ、はい、そうですかと眠るわけにもいかないよ、まともな神経してたらさ。なのに俺、何で居眠りを──。「前にあの子がバイトを雇ったときには、誰もいないし客も来ないからと、堂々と居眠りしていたようだがねぇ」「そ、そうなんですか……?」タチ悪いとは思うけど、店番さえいれば店を開けてはいられるから、そんなんでも良かったのかな? 真久部さん。確かに|ここ《慈恩堂》は滅多に客は来ないけど、もし来たらさすがに接客くらいはするだろうから、店主の留守中だけなら勤まらなくもなかったのかも……。「だけどそのバイト、|眠《・》|り《・》|の《・》|中《・》|で《・》何をしたのやら、道具たちに嫌われたらしくてねぇ、さんざん怖い思いをさせられて、半日も経たずに逃げ出して行方知れずだよ」行方知れずといっても、連絡が取れなくなったというだけのことだが、とにたりと笑う。つづく……。昨日は「山の日」で、今日は振替休日ですね。今年の7月8月の祭日はカレンダーと違っているので、うっかりしそうで困ります。
2021.08.09
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ネタは思いついたけれど、書くのにまたひと月ぐらいかかってしまうんだろうな……と、二の足を踏んでる管理人。タイトルまで決めたのに、うーん……。夏至の夜、月の光は雲を通しても明るい。明日も暑そうです。今夜はとりあえず、もう寝ます。おやすみなさい……。
2021.06.21
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俺は間抜けな顔をしていたと思う。お祖母さん孝行の彼女も、傘の中でパカッと口を開けているけど、そんなことは一切気にせず、山田さんは続ける。「ほら、駅前商店街に、戎橋心斎堂ってお店があるでしょ? あそこ、エビスヤのお孫さんが脱サラして始めたのよ」「ええっ! そうだったんですか?」驚いた。だって戎橋心斎堂といえば、何でも屋の俺の顧客様。商店街でのイベントなどの際には、ちょくちょく声を掛けてくださるし、年末には餅の配達を頼まれることもある。「そうよ。息子さんの代に、チェーンの和菓子屋が進出してきてね、一気にお客を取られてしまったの。その時にお店を仕舞ったのね。チェーン店の方はほんの数年で撤退しちゃったんだけど」嫌だけど、よくある話よねぇ、と山田さんは溜息を吐く。「当時、ちょっとご病気をされたのもあったみたいよ。お孫さんは店を継ぐ気は無くて、大学出て、けっこういい会社にお勤めだと聞いたけど、実家が家業を廃止したことで何か思うところがあったのかしらね。お父さんの下で十年くらい二足の草鞋で修行して、商店街に空きが出たとき、会社辞めてそこにお店を出したのよ」「そんな事情があったんですか……」あそこの店主はわりとのほほんとして見えるけど、努力の人だったんだなぁ。「でも、どうして店の名前を変えてしまったんですか? 愛着ありそうですけど」「もちろん、<エビスヤ>を引き継ぐつもりだったそうよ。でも、その名前は縁起が悪いからダメ! ってお父さんに大反対されたみたい。チェーン店が来たときに、かなり大変な思いをしたらしくて。それでも<エビスヤ>の名前を残したくて、今の店名にしたって聞いてるわ」カタカナを漢字にして、さらにちょっと捻ってみた、らしい。<エビスヤ>と<戎橋心斎堂>かあ。確かに字面は全然違うけど、捻りすぎでは? と思ってたら、店主は大阪の大学出身だと聞いて、なんとなく納得してしまった。「ありがとうございます、山田さん。こちらの女性、エビスヤの柏餅を求めていらしたので、同じ味がまだ食べられると聞いて、良かったです。──今日は、これでいいお土産買って帰れますね!」さっき俺がご紹介しようと思った和菓子店って、戎橋心斎堂だったんですよ、と言うと、お祖母さん孝行の彼女は嬉しそうに笑った。「駅前まで戻ればいいんですね?」「そうそう。タクシー乗り場の──」「そちらの方、戎橋心斎堂に用があるの? なら、ちょうど良かったわ。私もこれから行くところなの」柏餅を買いに行くのよ、と山田さんは続ける。「せっかくの子供の日なのに、孫がコロナのアレで来れないし、雨で散歩も行く気がしないって、うちの人が鬱陶しくて。相手するのも疲れるから、気分転換しに出てきたの。これくらいの雨、傘させばいいじゃない。ねぇ?」「あはは。じゃあ彼女も一緒に連れて行ってあげてください。今日<エビスヤ>の柏餅を探しにいらしたのは、お祖母様のためなんですって」傘だし、ソーシャルディスタンスもばっちりですよね、と言うと、二人で笑いながら駅に向かって歩き出す。お祖母さん孝行の彼女は一度振り返り、俺に向かって深々と礼をして行った。──そう、お祖母様と同居なの……昔、この辺りに住んでらして、お父様の転勤で……お名前、悦子っておっしゃるの? もしかして、旧姓は中村さん? ──ご存知なんですか?──まあ! えっちゃんのお孫さんなの? 私は十志子よ、としちゃんって聞いてない? ──としちゃんって、斎藤さんちの? 子供の頃、よく遊んだって祖母が。──あらあらまあまあ! えっちゃんのお孫さんに会うなんて! 明るく咲いた傘の花の下、楽しそうな会話が遠ざかっていく。背中でそれを聞きながら、俺はうれしくなっていた。新型コロナで、雨で、寂しい子供の日だけど、でも。柏餅の、時を経ても変わらぬ味が、古い縁を引き寄せて、そっと繋いでみせてくれたんだ。彼女たちの喜びが、沈みがちな俺の心を明るくしてくれる。柏餅の妖精さんって、本当にいるのかもしれない……なーんてね!<俺>の黄金週間、ようやく終わりました。もう六月も中旬に入りかけていますが……。
2021.06.10
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そぼ降る雨の中を、右往左往している人がいる。何を探しているのか。「あの……何かお困りですか?」声を掛けると、赤い傘が戸惑うように揺れて、ビーズのような雨粒が散る。「え? あ……、その、このあたりに、和菓子屋さんがありませんか?」困惑顔の女性。縋るようにたずねてくるけど、でも。「俺、よくこの辺通りますけど、和菓子屋さんは無かったような……」「え!」「この並びですよね? ケーキ屋さんならありますけど」「そんな……エビスヤ、って、ありませんか?」「うーん、少なくとも俺は見たことないですね。ケーキ屋さんは<ラパンンナジル>っていう名前ですし」「……」「スマホでネット検索とか、してみましたか? この辺の住所は……ほら、そこの電信柱に」「あ! そうですよね。やってみます!」エビスヤはたぶん無いと思うけど、彼女があんまり必死だから、雨の中、つい見守ってしまう。「無い……」項垂れる女性。「お探しの場所が違ってるか、もしかしたら……お店自体が別の店に変わってるのかもしれませんよ」このあたり、長く続く店もあるけど、入れ替わり激しいとこは激しいし。「そう、ですよね……。四十年前の話だから──」「あー……、それは難しいかもしれませんね」「……」うつむいた彼女の視線の先には、冷たく濡れるアスファルト。傘を叩く雨の音しか聞こえない。このまま、じゃあ、と立ち去るのも心苦しくて、できるだけ優しく聞こえるように俺はたずねてみた。「何か、そのお店で買いたいものがあったんですか?」落ち込んだ声で、それでも彼女は答えてくれた。「祖母が……祖父を亡くしてから、すっかり弱って食が細くなってしまった祖母が、珍しくエビスヤさんの柏餅が食べたいって言うから……、何十年も生きてきて、エビスヤさんほど美味しい柏餅は食べたことがないって言うんです。二十歳頃までこの辺りに住んでいて、毎年、子供の日が楽しみだったって」そっか。今日がその五月五日だしな。「あなたはお祖母さん思いのお孫さんなんですね。エビスヤさんが無くなってたのは残念だけど、柏餅の美味しい和菓子屋は他にもありますよ。ちょっとここからは離れてますけど──お祖母さんの思い出の味とは違うだろうけど、そこのお店のもなかなかなんです。今日は遠くからせっかく来られたんでしょう? 良かったら、買って帰られたらどうですか?」手ぶらで帰るのも辛いんじゃないかな、と思って提案してみると、彼女はゆるゆるとうなずいた。「えっと、ここからだと、いったん駅前まで戻ってもらって、タクシー乗り場の向こうに──」「あら、何でも屋さん。雨なのに、こんなところでどうしたの?」声を掛けてきたのは、俺がよく塾への送り迎えを頼まれる、リク君のおばあちゃん。「山田さん、こんにちは。ちょっと道案内をしてたんです。あ! そうだ。山田さんはずっとこの町にお住まいなんですよね? エビスヤという和菓子屋さんをご存じないですか? 三十年くらい前、ここらへんにあったらしいんですが」「エビスヤさん? もうだいぶ前に店仕舞いされたけど」「あー、やっぱりそうなんですか……」視線の端で、赤い傘の彼女は、突きつけられた現実にまた項垂れてしまった。「あそこの和菓子は何でも美味しかったのよ。うちのすぐ近所だったから、よく買いに行ってたんだけどねぇ。特に美味しかったのが柏餅で──」「もう食べられないなんて、残念ですねぇ」「食べられるわよ?」「へ?」六月になってしまった、と嘆きつつ、後編に、つづく……。ほぼ書き終わっているので、明日にはお届けできると思います。
2021.06.09
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昨日の雨に洗われて、今日はくっきり明るい天気。心が浮き立つような、そうでもないような。ちょっと複雑なのは、どれだけいい天気だろうと自粛生活にはなんら関係ないことだからかな。だけれども、やっぱり空が青いから、足取りも軽く自転車を漕ぐ。うーん、気持ちいい。真夏の真昼の青空は、容赦ない暑さと対になってるけど、五月の青空は爽やかなばかりで。吹く風は心地よく、新緑が眩しい。なんかこう、ピクニックにでも行きたい気分。まあ、新型コロナのせいで、そういうことは推奨されないけれど、でも。今日の俺は気分だけは味わえるのさ。 なんたって、午前から午後にかけて樋掃除依頼が多数。顧客様んちの屋根に上りまくるぞ~! そんで、昼には甍の波を見ながらピクニック気分でおにぎり食べるんだ。酷い風雨の翌日は、千切れて飛んだ葉っぱが水を含んで重いけど、そんな労働の対価に美味いメシを食えると思えば、何てことはない。大きく握った梅干しおにぎりと、ポットに入れた熱い直茶。ふふ、ふふ、ふふふふふ。眼の前に、自分でニンジンぶらさげて、今日も一日頑張るぞ!黄金週間はもうとっくに終わっていますが……あとひとつ書きたいような、慈恩堂絡みの短い話に行きたいような、そんな複雑な気持ち。遅筆は辛いよ。
2021.05.11
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今日は荒天。荒れてる天気。昨日も一日雨か曇りか油断のできない空模様だったけど、今日はもう、酷い。雨がザーッ、風がバビューン。危なくて、自転車なんか乗ってられない──と、思ってたら、目の前でピザ配達バイクが横転。「おい、大丈夫か!」慌てて駆けつけると、からくも下敷きを免れた配達員が道にへたりこんでいた。「だ、大丈夫? 怪我はないですか?」頭打ってないか、心配しながら声を掛けると。「大丈夫、です……風に煽られてコケたけど、風に煽られて巻き込まれずに済んだみたいで」転倒の瞬間、着ている雨合羽ごと持ち上げられるような突風が吹いたらしい。「あー、壊れてないかな……」自分よりバイクを心配する配達員とともに重い車体を起こしてみると、とりあえず故障はしてないようだった。「良かった~! できるだけ早く行って帰って来い、ただし安全運転で、っていつも店長に言われてるから……」「こんな天気の日に、難しい注文だね。怪我なくてよかった」この手の配達バイクって、いかにも強風に弱そうな構造になってるよな。「ま、配達後でよかったです。途中だったら品物が台無しになってたりして、配達遅れて客からクレームが」運が良かった、と笑う配達員は逞しい。礼の言葉を残し、じゃ! と元気に配達バイクに跨って去って行った。気をつけて! という俺の声に、ウィンカーをチカチカさせて応じてくれる。ふう。俺も気を付けなくちゃ。なんたって、これからバッテリー切れの電動自転車を拾いにいかなきゃならないんだもの。何でこんな日に乗ろうと思ったかな、大居さん。四月末の誕生日、お孫さんからプレゼントされた電動自転車がうれしいのはわかるけど、充電忘れちゃダメ!充電切れの電動自転車って、重いんだよなぁ。はぁ……。
2021.05.05
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昭和の日、雨。週間天気予報によると、どうやら黄金週間中は雨が多いみたいだ。せっかくの長期休みではあるけれど、あまり出歩くなよ、という日本の神様のご意思か──。てなこと思いつつ、俺は犬の散歩中。在宅の飼い主さんも多いけど、雨の日はやっぱり歩き回るのは億劫らしくて、ご新規さんもちらほら。「コンちゃん、こら、そっち行くな、って──」雨もものともせず、飛び跳ねるように歩いていた斎田さんちのゴールデンレトリーバー、まだまだ仔犬のコンちゃんが、ブランコの下の水たまりに突進しようとする。「わん! わふ!」「こらこら、ダメ。もう濡れちゃって同じだからって、わざわざ水たまりに飛び込む小学生みたいなことしちゃダメ!」「わんわん!」遊びたいよ~! というように、俺を見上げて激しく尻尾を振るコンちゃん。仔犬といっても図体はデカい。引っ張られると持ち堪えるのが大変。「ダメだってば。せっかくレインコート着せてもらってるのに」濡れちゃうって、と言いながら、リードをしっかり握り直す。「ほら、もうすぐお家だから。斎田さんが待ってるから」この公園突っ切ったら、すぐに斎田さんちが見えてくる。俺はポケットからジャーキー入りの小袋を出し、コンちゃんの目の前で振ってみた。「わんわんわん!」「よーしよーし、ちょっと走ろうな。おやつはお家についてからな~」斎田さんがいいって言ってくれたらな~。心の中でそうつけ加えつつ、新顔わんことともに雨の公園を駆け抜ける。あ! 俺が水たまり踏んじゃった! 靴に水が入って気持ち悪い……くっ!もう五月ですが、ゴールデンウィーク初日の話。あとひとつふたつ、短い話が書けたらいいな……。
2021.05.03
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雨の翌日。太陽がまぶしい。空は青空良い感じ。土も湿気っていい感じ。こんな日は、草むしりが捗ってうれしい。気温も低めだから、無駄に体力も消耗しないし。そんなことを思いながら、むしむし草をむしっていると。「あの……何でも屋さん? ですよね」ん?「お隣の、ええっと」庭の低いフェンス越しに声掛けられて、隣家の表札を思い出そうとする。「室井です。おはようございます」そうそう、室井さん。「おはようございます。今日はご覧のとおり、中村さんちの草むしりさせていただいてます」「ああ、よくやってくれる人だって聞いてるよ。うちはあんまりお世話になることないけど──」うん、室井さんちの庭には、テラコッタのタイルが敷き詰められてるんだ。まだ新しいのもあって、欠けた隙間から雑草が生えてるとかいうこともない。「草むしり以外も承ってますよ。日常のちょっとしたご不便、お困りごと、何でもおっしゃってくださいね!」営業営業。にっこり笑っておく。「うーん……」そんな俺を見て、何かを言おうか言うまいか、曖昧な表情の室井さん。「何かお困りですか?」「いや……大したことないんだけど、不思議に思ってることがあって。ちょっとだけ見てもらえないかな」そう言われ、土にまみれた軍手を払いながら立ち上がる。「これなんだけど」と示されたものは、室井さんちの庭の隅に設置された大きめのプランター。俺が草むしりしてたとこからは見えなかったな。「……」そこには、無数の細い茎が。毛羽立った紡錘型の頭を一様にくにっと曲げて、皆で太陽に向かって祈ってるみたいなんだけど、どこか異様で気味が悪い──。「レンゲって、こんなんじゃない、ですよね?」困惑気味の室井さん。「違いますね」うん、全然違う。「やっぱり……? 去年、スーパーの花屋でレンゲの種を売ってるのを見つけてね。小さいレンゲ畑っていいなぁ、と思い立って、プランターと土を買って、撒いてみたんですよ……」その後、ちゃんと発芽したので、この春を楽しみにしていたという。「レンゲだって雑草の仲間なのは知ってますが、なんだか……だんだん違う感じの草になって。おかしいなぁ、と思ってるあいだに、いつの間にかこんなのが生えてきて……ちゃんとレンゲの種を植えたはずなんですよ──」くなりと頭を垂れる集団は、まるで邪宗教徒たちの祈りの図──なんて嫌な喩えは置いといて。これの前にプランターを覆っていたという草の特徴を聞くと、たぶん俺もよくむしってるあの雑草だろうな、というやつだった。もちろん中村さんちの庭にもたくさん生えてる。「土は買ってきた新しいものだったし、レンゲ以外の種を植えた覚えがないのに、なんでこうなったのかって」色んな雑草が入り混じって生えてくる、っていうならわかるんですが、と続ける。「とにかく、見た目が変わるたび一面同じものになるんです。だから、最初に種を撒いたものの成長段階がそうなのかな、と思ってたんだけど……」種から発芽して、発芽から双葉。双葉から本葉。本葉が伸びて枝が出て、と植物はその姿を変えていく。だからそのうち、レンゲの花が咲くだろうと期待してたんだけど、と室井さんは言う。「これ、何ですか? よく庭で作業してる何でも屋さんならわかるかな、と」「ナガミヒナゲシですね」俺は断じた。「ながみ、ひなげし? 芥子の花ですか?」最初の種、パッケージ間違いだったのか、と呟いてるけど、違うと思う。「芥子は芥子だけど、これ、観賞用に種が売られてるようなものじゃないですよ。雑草です」「雑草……」「いや、元は普通にレンゲの種だったんだと思いますよ。でもたぶん、そこに雑草の種も混じってたんじゃないかな。そういう話、聞いたことあります」どうやら国産の種じゃなかったみたいだし。「で、その雑草に、発芽率だか、繁殖力だかでレンゲが負けちゃったんですよ。レンゲを駆逐したのが、俺が思うに、たぶんコレ──」俺は足元を探して、目当ての雑草を見つけた。ひとつ抜いて、室井さんに見せる。「あ! そうだ、こんな草でした」「やっぱり。これって何だったかな、えーっと、ヒメオドリコソウ? だと思います。春になるとよく生えてくるんですよね。名前は可憐だけど、しぶといというか逞しいというか」まあ、雑草はみんなそうなんですけど、と俺の言葉に室井さんは複雑そうにうなずく。「で、そのヒメオドリコソウもこのナガミヒナゲシに負けたみたいですね。みんな同じ角度にくにっと曲がってるの、蕾なんですよ。花はねぇ、きれいなんですけど──ほら、そこの電信柱の影。あそこに咲いてるのがそうですよ。きっと種が飛んできたんです」明るいオレンジの、ポピーっぽいの。まあ、ポピーもナガミヒナゲシと同じ芥子の仲間なんだけどさ。「え? ああ……あの花、よく道路の端っことかに咲いてますね。きれいだとは思うんだけど──」どうしてか好きになれない、と言う室井さんに、俺もです、とうなずいた。「きっとこう、あまりにも逞しすぎるというか、繁殖力強すぎというか、そういうのを感じて嫌になるんじゃないかなぁ」植えた覚えのないところに、いつの間にか“居る”。そしていきなり花を咲かせる。勝手に増える。「ここに生えてる様子も、図々しく見えません? まるで最初から、このプランターは自分のものだって感じで」「……他の雑草、生えてないのに、この蕾をつけた細い茎だけが無数に……気色悪いですよ、なんていうんだろう、異様すぎてエイリアンみたいで」「そう、まさにエイリアン、侵略者です」抜いちゃったほうがいいです、とアドバイスしておく、「今ならまだ花が咲いてないから──実が付いちゃうと、厄介なことになりますよ。これって帰化植物ってやつでね、そういうのは繁殖力が強いっていうの、ご存知でしょう? 放置すると、もうこのプランターではコレしか生えなくなりますよ」「……レンゲの花、楽しみにしてたのになぁ」がっくりと肩を落として、室井さん。全然違うモノに一所懸命水を遣ってたのか、と遠い目をしてるから、気の毒になってきた。「来年がありますよ! でも、せっかく立派なプランターを買われたんだから、今年は花の苗を植えられたらどうでしょう? ホームセンターとか行くと色々売ってますし。これからだと、ミニトマトなんかもお勧めですよ」うん、ありがとう……、と力無い返事が返ってくる。「でもまあ、助かりましたよ、何でも屋さん。これでもう、疑いながらもひょっとして、と無益な期待をすることがなくなったから」あはは~、と乾いた笑いが痛々しい。でも、一応念押ししておこう。「抜いたあと次を植える前に、土を換えるか、せめて熱湯でも掛けておいたほうがいいですよ。ナガミヒナゲシって、本当にしぶといんです」「そんなにですか?」「そんなにです」マジで? という顔をするので、大きくうなずいておく。「ほら、こっちの土のお庭を見てください。色んな雑草が入り乱れて生えてるでしょう? 彼ら、こうやって覇権を争ってるんです。土がなければ、石を割ってでも生えてくる。雑草はいつでも陣取り合戦の、戦国時代なんですよ。そして」室井さんちのプランターの覇者が、ナガミヒナゲシ。そう言うと、おもむろにぶちぶち抜き出した。「……あとで熱湯を掛けておきます」「そうしてください。じゃ!」黄昏た背中を見送って、俺も中村さんちの草むしりに戻る。それから四、五十分後、むしった草を袋に詰めていると、ナガミーのやつを退治してから、さらに薬缶で三往復ほどしてた室井さんに声を掛けられた。「これ、よかったら」渡されたのは、大容量の柿ピー。「アドバイス料ということで。邪魔をして悪かったね」「いえいえ。ちょっとご助言さしあげただけですし、却って申しわけないですよ」「まあまあ。気持ちだし、嫌いじゃないなら」「大好きです! ありがとうございます」これ、前にお土産でもらったことある。製造販売してるところのやつだから、いつでも出来立てで美味いんだよな。「それで、うちも仕事お願いしたくて。急がなくていいんだけど、何でも屋さんチョイスで、このプランターに合いそうなもの、何か買ってきてもらえませんか?」「わかりました! 明日の今頃はいかがですか?」「明日? もちろんです。よろしく頼みますよ」笑顔で会釈し、中村さんにも仕事終了を報告して仕事料をもらい、ペダルも軽く自転車を漕ぐ。前カゴに入れた柿ピーが、がさがさ揺れるのも楽しい。ふふ、今夜はビールで晩酌だ。この季節、道の端によく生えてるオレンジのナガミヒナゲシ。お前のこと好きじゃないけど、お蔭で今日は新しい顧客様をゲットできたから、感謝しておくぜ。草むしりで見つけたら、容赦なくむしり倒すけどな!
2021.04.28
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「だけど土が合わなかったのか、御衣黄だけが植えてしばらくは花付きが悪くてね。珍しい種類だから、カミさんが楽しみにしてたんだけど……」「今は樹勢もいいですね。どの木にも花がたくさん咲いてるし」本当に花盛りなんだよ。下から上まで、けっこう大きめの緑の花がいっぱいついてる。「これって、花期が八重桜とちょうど同じ頃なんですねぇ」「うん、そうだね。咲き始めは緑色だけど、だんだん中心部に赤みが差してきて、薄緑と薄紅のグラデーションみたいになる。そして全体が薄紅に染まった頃、散るんだよ──」最後のほうは独り言のようにして、広瀬さんは俺に背中を向けて御衣黄を見上げる。「──カミさんとは見合い結婚でね。厳しい家に育ったせいか、あの人はいつもきっちりしてて、きっちりしすぎてて……でも今は、私を見ると頬染めて、まるで少女のようなんだ。あれがあの人の本質だったのかなぁ……」もっと甘えてくれてよかったのにな、とぽつんと呟いた。「今年こそ、ここに連れてきてやりたかったよ。満開の御衣黄を、見せてやりたかった」「……」背は高いけど、痩せた背中。奥さんとともに歩いてきたであろう、幾年月もの歳月を感じさせる。「──写真。写真撮りましょうよ。今日のこの花の姿。あ、スマホお持ちですよね?」「持ってはいるけど、使い方がよくわからなくてね」ゆっくりと振り返った広野さんは、困った顔で電話とメールだけは覚えたけど、と苦笑する。「俺が撮らせていただきます! 写真撮るの、案外簡単なんですよ。ガラケーと大して変わらないし」俺、けっこう上手なんですよ、とアピールすると、そうかい、と黒いカバーをつけたスマホを貸してくれた。目の前で、ここ、このカメラのマークを押して、と説明しながら、満開の緑を撮影していく。「広野さんも映りましょうよ、花といっしょに」「……写真、苦手なんだ」「いいじゃないですか。ちゃんと男前に撮りますから」せっかくだし、奥様に見せてさしあげてください、と言うと、黙って俺の指示する位置に立ってくれる。でも、カメラ向けたとたん、仏頂面。真面目顔というか、緊張しちゃうのかなぁ。うーん、もうちょっとこう、くだけた感じにならないかなぁ──。「じゃあ、撮りますよ……あっ、カラスが桜餅食べてる!」驚いた顔を作って広野さんの斜め向こうを指さすと、え? という表情でそっちを見る。素の表情を、パシャッと。「あはは。今のは冗談です。いいお顔が撮れましたよ」「何だい、何でも屋さんは。一瞬本気にしたよ」言いながら、こっちを見て苦笑いする広野さん。そんな顔ももちろん撮る。「すみません。でも、自然な表情が撮りたくて。──ねえねえ、広野さん。俺、緑色の桜を見てたらヨモギ餅食べたくなりました」草餅でもいいんですけど、なんて続けたら、ツボにはまったのか大爆笑。笑顔を撮る。パシャパシャと撮る。緑の花陰、葉陰の中で、青白かった頬に赤みが差し、なんだか少年みたい。「いい画えがたくさん撮れましたよ!」「はあ、もう……笑い過ぎて腹が痛い。かなわないなぁ」ちょっと疲れて、気が抜けたような広野さんにスマホを返しながら、すみません、と謝っておく。「えっとね、今撮った写真を見るには、ここをこうして……たしか、そうそう。このマークを選ぶんですよ。ほら、ね」「あ──そうか、こんなふうになってるんだね。それにしても、たくさん撮ってくれたんだね」満開の御衣黄の、時を留めて画像データがみどりに染まる。「あはは。つい張り切ってしまって。ほら、これなんか広野さん、いい感じで映ってますよ」選択して、拡大すると大きな口を開けて笑っている広野さん。我ながら、いい写真が撮れた。「今はいろいろ便利になって、コンビニの複合機で写真も印刷できるんですよ。よかったら、何枚か印刷しませんか? 次回の面会のときにお見せしたら、奥様も喜ばれるかなぁ、なんて思ったんですけど……」差し出がましいかな、と思いつつ、頑張って提案してみる。「スマホから? そんなことができるのかね?」「はい! お客様のご依頼で、やったことあるんですよ。けっこうきれいに印刷できました」「そうか……なら、頼んでみようかな」スマホの画面は小さくて、たぶんカミさんには見にくいだろうから、とどこか寂しそうに言う。「普通の写真なら、見てくれるかもな」「クリアファイルに挟んだら、写真もヨレたりしないし、そういうの何枚か作って、枕元に置いてもらえば──」「あの人も、満開の御衣黄に囲まれる、か。そうだな……そうだね……」広野さんは小さく呟いた。そして、微笑む。「ありがとう、何でも屋さん。次の面会日が楽しみになったよ」「いえ! 俺のほうこそ……ありがとう、ございます……」俺の拙い気遣いを、気遣ってくれた。大きい、人だ。「ありがとうございます、連れてきてくださって。緑色の桜、本当にびっくりして、きれいで。俺も、娘に見せたいな! ガラケーですけど、俺ので撮っていただけませんか?」そう言って携帯のカメラを起動し、ここ押してください、とお願いする。「えっと、じゃあ──」広野さん、にやっと笑って。「何でも屋さんの後ろに、草餅をくわえたカラスが!」一瞬目を瞠り。そして俺は吹き出した。同時に、パシャっとカメラの音。──空は青空 花はみどりに 風光る
2021.04.19
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春は四月。四月は十日。ソメイヨシノの街路樹たちは花衣を脱ぎ捨てて、若葉の色をまといつつある。はらはらと、名残りの花が風に舞い、無慈悲に過ぎ行く季節に連れられながら、そちこちで存在感を増してきた八重桜たちに別れを告げている──。花と葉っぱを見ながらぼーっとしてると、一緒に歩いてる広野さんが不思議そうな顔をする。「何でも屋さん、どうしたね?」「へ? いやあ、八重桜を見てると桜餅が食べたいな、って」うっかり、感じたまんまを口に出してしまった。──心の中で詩人ぶってみても、シリアスになりきれない俺、なんか間抜けで恥ずかしい。内心でちょっとだけ身もだえていると、言われてみれば、と広野さんは笑ってくれた。「色といい、形といい、確かにそんな感じだね」「でしょう!? 最初に桜餅を作った人は、ぜったい八重桜をモデルにしたと思うんですよ!」わかってもらえたのがうれしくて、つい熱く語ってしまう。そうしながら老人の、杖をついた足に合わせてゆっくり歩く。天気はいいけど、吹く風はまだ冷たい。「──途中でバス降りちゃって、大丈夫ですか?」今日の俺の仕事は、荷物持ち。広野さんの奥さんが入院する病院まで、朝から一緒に出掛けてたんだ。広野さん、少し前にちょっと腕を捻ってしまって、今は無理できないらしい。新型コロナのこのご時勢だから、着いたら中の人が荷物を預かってくれて、俺は建物の外で待ってたんだけど──面会を終え、広野さんは笑顔で職員さんに手を振っていたけれど、行きよりも顔色がすぐれないのが気にかかる。「大丈夫、大丈夫。私は特に持病もないしね。ただ……」広瀬さんは遠くを見つめて溜息を吐いた。「……何でもないよ。ちょっと眠いのかも。昨夜はうっかり夜更かししてしまって」そうなんですか、とだけ返しておく。──心の中の諸々を、言葉にしたくないってこと、誰にでもあるよな。俺のしょーもないポエムみたいなのでなくても。「もうそろそろ次のバス停が見える頃ですけど……降りるときにおっしゃってた、見せたいものって」「もうすぐだよ。──ほら、そこに小さい公園、見えてきただろう?」「え? あ、ほんとだ」いい天気の昼間だけど、公園に人気はない。ブランコに滑り台、シーソーなんかの遊具が、明るい陽射しの中、静かに眠っているようだ。「ここも八重桜以外はほぼ葉桜だけど……ソメイヨシノじゃなくて、あれは、なんだろう?」入り口から見て奥の真正面の木。白っぽい花びらが七分、淡い緑の葉が三分くらい。薄青の空にとけるみたいに──。「色白の桜?」ぽろっと呟いたら、吹き出されてしまった。「色白って! 何でも屋さんは面白いねぇ」「いやー、あはは。なんか全体的に色が薄いから……。山桜の一種でしょうか?」「ああ、たぶんそうだと思う。この公園ができる前からあるから」「へえ……大きいなぁ。樹齢、幾つくらいだろ」隣のソメイヨシノの幹を、五本くらい束ねたくらいの太さ。高さは二倍くらいあると思う。「立派な木ですね。広野さんが見せたいものってこれだったんですね」盛りは過ぎてるけど、じゅうぶん見ごたえがある。来年の春に、また見に来ようかな、と思っちゃう。満開の頃は見事だろうなぁ。「うーん、これもだけどね……。見せたいのはあっちの木なんだ」老人の、骨ばった指のさすほうを見ると、滑り台の向こう、木の姿と葉っぱの形からすると桜なんだろうけど、全体的に緑の木が五本くらい立っている。「あっちはすっかり葉桜じゃないですか?」特別、見るものはないと思うけど……。「もっとよく見てごらん。ちゃんと花が咲いてるんだよ」「花……?」そう言われ、近づきながらよく見てみる。あっ……!「みどりだ。緑色の花が咲いてる。え? 何これ」緑の葉と、緑の花。どっちも若葉の色で、花はふわふわと柔らかそう。「緑色の、桜?」「そう。御衣黄ぎょいこうっていうんだよ」「ぎょいこう?」「うん。緑色の桜なんだ」「へえ、そういう桜があるんですね。俺、初めて見ました。連れてきてくださって、ありがとうございます!」桜に色んな品種があるのは知識として知ってたけど、緑の桜は知らなかった。こういうのも、きれいだなぁ。「これ植えたの、うちなんだよ」「え? そうなんですか?」「ああ。このあたり、元はうちの土地でね。子供もいないし、地主もなかなか大変だから、あの桜の古木を残すことを条件に、市に譲ったんだ。市はここを公園にするというから、ソメイヨシノと八重桜と、この御衣黄を寄贈したんだよ」古いものを残してもらうんだから、新しいものもあったほうがいいかと思ってね、なんて、こともなげに言うから、凄いなぁ、と思うと同時に、いいお金の使い方だなぁ、と感心した。後編で終わりです。
2021.04.18
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──いつもお世話になってます。いきなりで悪いんですが、もし午後から空いてたら、うちの店番をお願いしたいんですが……。なんと。これは渡りに船、というか地獄で仏!「今からでも、すぐに行かせていただきますよ!」前のめりに答える俺に、うれしそうな声が返る。──いいんですか? 助かります。「何でも屋ですから! 日常のちょっとしたご不便やお困りごと、何でもお気軽にお申し付けくださっていいんですよ! 店番でも何でも、喜んでやらせていただきます!」ハキハキ答えて通話を切り、直ちにこの場を立ち去るべく挨拶をしようとした俺に、苦笑しつつ伯父さんが言う。「あからさまにホッとした顔だねぇ。憎らしいことだ……私の相手はそんなに嫌かい?」「まさか、嫌だなんて、あはは~……今日はほら、普段行かないところに行ってびっくりしすぎたというか、非日常のオーバーフローで溺れそうというか」怪しい店だけど、現実の場所にあるだけまだ慈恩堂のほうがマシというか。──伯父さんのことは嫌いじゃない、よ? たぶん。でも苦手なんだよ。「とにかく! 次の仕事が入ったので。今日はこれで失礼しますね!」甥っ子の予定は動かすの難しいって、さっきそう言ってたよね、真久部の伯父さん! あ、でもこれだけは──。「えっと、その。ラーメン屋の御亭主にはよろしくお伝えください!」ラーメンは、伯父さんのおまけで店に入れただけでも食べられたかもしれないけど、あの甘露なお茶は店主のご好意だったみたいだしさ。そんな俺に、ふっと伯父さんは笑った。「直接言えばいいのに。今後は何でも屋さんがあのラーメンを食べたいな、と思えばだいたいは|暖《・》|簾《・》|が《・》|見《・》|え《・》|る《・》はずだよ」ひえ~!「いえ、そんなのもったいないというか。めったに食べられないからこそ、よけいに有り難いというか」俺以外の人に見えない暖簾なんて、嫌だよ! ──前に、その時は俺と甥っ子の真久部さんにしか見えなかったらしい暖簾を、あの人がどうにかして、たこ焼き屋のシンジと恋人のるりちゃんにも見えるようにしてたけど、俺にそんな芸当できるわけないし。「ふーん? 私などはいつ食べても美味いがねぇ」きっと俺だって、あの味には毎回感動するとは思うけど、でもさ。「特別なもので! スペシャルなものであってほしいんです!」この世のものではないラーメン屋と知って平気で通えるほど、俺、ずぶとくない。臆病者と笑わば笑え、真久部の伯父さんみたいに、この世とあの世を股にかけて飄々としてるような仙人になるのは無理だ。「当たり前だとか、思いたくないんです。ほら、報恩謝徳の桜だって、お地蔵様の御慈悲を皆が当たり前だとか思ってたら、きっとあんなにきれいに咲いたりしないでしょう? だからあのラーメンだって、当たり前にしたくないんです。たまに、そう、ごくたまに連れて行っていただくらいで、俺には充分なんですよ」人には、分相応とか不相応とかあるんです! そう言い置いて、じゃ、これで、と今度こそ逃げようとしたのに。「あ、そうそう、言い忘れてた」絶妙のタイミングで掛けられた声。反射的に振り返ると、伯父さんは読もうにもどうにも読めない不思議な笑みを浮かべてる。「何でも屋さんのその、マスクの鯉のぼりね。コイツの眷属になったから」「へ?」鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているだろう俺に、悪食鯉のループタイを指さしてみせる意地悪仙人──。どういうこと?「|あ《・》|の《・》|場《・》ではさ、そうしておくほうが安全だったからさぁ。きみは護りが強いけど、あれだけ大量の“鬼”だ、護るものがひとつでも多いほうがいいからね。偶然だろうが、今日はうってつけの柄にしてくれたもんだよ」|そ《・》|い《・》|つ《・》|ら《・》、散ってきた花びらを一枚ずつ食べてたから、と面白そうに伯父さんは続ける。「報恩謝徳の桜の……?」「そう。あ、もちろん“鬼”は喰ってないよ? それはコイツにしか無理だ。だけど貪欲さは受け継いでいるからねぇ。最初に食べたものがものだ、とてもいい|も《・》|の《・》だから、何でも屋さんを護ってくれるよ。|主《・》のコイツは何でも屋さんのこと気に入ってるし、なにより、それはお父さん思いの娘さんの手作りだよね? だからさ」力は微々たるものだけど、今の悪疫くらいはきみの身体に入る前に喰らってくれるだろう、と笑う。「私のこのマスクも」言葉を失った俺に、伯父さんは細長い指で自らの口元を示す。「鯉の柄なんだよ」「……え?」そう言われ、思わず伯父さんお手製だというマスクを凝視してしまった。白地に薄く、何か染め柄が入ってるとは思ったけど、それのどこが鯉柄? 魚の形に見えない──ん? もしや、真ん中にある丸く見える柄は、口……両脇の波線もどきは、まさか鱗?!「こ、鯉の正面顔?」硬直する俺を満足げに眺めながら、伯父さんの目元が笑いの形になる。「眷属にするにはそういうのがいいって|コ《・》|イ《・》|ツ《・》が言うから、ろうけつ染めで作ってみたんだよ。なかなか良いデキだろう? 報恩謝徳の桜も、花びら一枚どころか、花をまるまる三つくらい喰らってたしねぇ」これをしているかぎり、私も新型コロナなんかに罹らないよ、と自信満々に。ニッタリとマスクの下の唇も、きっと笑いの形に吊り上がっているに違いない──。「~~~!」俺は逃げた。後も見ずに逃げた。伯父さんの笑い声に追いかけられながら、必死で足を動かした。鯉怖い。鯉怖い。伯父さんと疫喰い桜な悪食鯉の組み合わせ超怖い。眷属なんかが加わったら、鯉の三乗倍々ゲーム! とかわけのわからないことを考えてしまうくらい恐ろしい。必死で走って息切れした駅前、千円カットの鏡みたいな看板の端。パステルな色が、妙に鮮やかになった鯉のぼり柄マスクをした自分が映って、思わず飛び上がった。ののかの作ってくれたこのマスクまで、あの貪欲鯉の眷属になったって? 俺は、俺はどうしたらいいんだ~!翌年の春。桜の散る頃。俺はやっぱりまた、この世ならぬあの場所に連れて行かれた。ああ、頑張って応援したさ。疫喰い桜を。ようやく終わることができました。大して長くもないのに、まる一年ほどもかかったという……。おつきあいくださり、ありがとうございました。これからも<俺>をよろしくお願いいたします。管理人PrisonerNo.6 拝
2021.03.28
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「え、いや、それはちょっと困るというか、ほら、突発的な依頼だと、スケジュールの関係でお受けすることができないことも──」「スケジュール、ねぇ」意味ありげに、真久部の伯父さんは目を細める。「そうだね、あの子の依頼だと動かすのはちょっと難しそうだなぁ」そう言うマスクの下の唇は、大きく吊り上がっているに違いない。ここで突っ込んだら負けだ──。毎回伯父さんに都合よく先に入っていた依頼がキャンセルになるのって、やっぱり偶然じゃなかったんだとか考えてはいけない!「よ、予定は未定っていいますしね! さてと、今日はもう帰って事務仕事します。つい溜めちゃってるんですよね、いや~、ここんとこ忙しくて」あはは~、と意味もなく笑っておく。本当のことだし。いくら意地悪仙人でも、溜まった事務仕事を無くすことはできないだろう。俺、個人事業主だもん、何でもかんでも一切合切ぜんぶ一人でやらなくちゃならないんだから。「未定な予定なら、<ご老人の話し相手>の続行を──」怪しい笑みとともに告げられた恐ろしい提案を、とにかく断らなくちゃと焦っていると、俺のガラケーから受信音が響いた。まさか──今日は元々午後から空いてたけど、夕方の犬散歩までキャンセルに? そんな……俺、今日は一日中伯父さんにつき合わないといけないの?じわりと嫌な汗をかきつつ、発信者名を確認する余裕もなく電話に出ると。──何でも屋さん? 慈恩堂です。「ま、真久部さん!」いつもは微妙な緊張とともに聞く店主の声が、今はまるで天人のもののように思えた。もう少し、つづく……。19で終われる、はず。
2021.02.08
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<夢見草>から出たら、そこは<走りぎんなん>だった。満開の桜の森から、緑の小さな三角葉っぱが寒そうに揺れてる銀杏並木へ。…………保育園の保父さんのようなイメージの、色白で優しげな面差しの店主が、慈愛に満ちた笑みで「お疲れさま」と労ってくれたけど。俺、疲れたのかなぁ? よくわからない。多分、疲れてるんだとは思う。主に精神的に。なんかこう、一週間くらい高熱出して寝込んでもおかしくないような感じがするんだけど──、大丈夫なんだって。迷い家なラーメン屋でラーメン食べて、甘露な水と、それから店主スペシャルの甘茶を飲んでいったから。「心配しなくても、私だってちゃあんと何でも屋さんのこと考えてるんだよ」と真久部の伯父さんは笑うけど、そうなのかもしれないけど、何だかさぁ!悪食鯉を応援させるためだけに、わざわざ連れに来るってどうなの? そんで、あんな不可思議かつ超自然的というか、この世とあの世の境目的な場所へ、説明も無く……別に俺でなくても、と思うんだけど、生身であそこに行って|大《・》|丈《・》|夫《・》でいられる人は少ないんだって。たとえば甥っ子の真久部さんはどうなの、あなたに似て大丈夫そうじゃん、と遠回しにたずねてみたら、「あの子には、素直さが足りないねぇ」と笑う。「木彫りに咲く花に、あの子が何でも屋さんほど驚いてくれると思うかい?」とも言われてしまった。──まあ、確かにあっちの真久部さんだったら、驚く前に怒りそうだ。だけど、あっちの真久部さんだって、必要とあらば疫喰い桜をおだてるくらい、してくれるんじゃないかと思うんだけどなぁ。そんなことを考えていると、胡散臭い笑みで鯉のループタイを指先で弾きつつ、伯父さんがニッタリと笑う。「コイツの御指名だったし」「……何でですか?」訊ねたくもなるだろう? ついさっきまで、しゃべった(?)こともなかったのに。「気に入ってるみたいだよ、何でも屋さんのこと」にぃっと笑って、意地悪仙人。「初めて会った日、きみの連れていた鯉の自在置物が──」「いや、あれは連れていたんじゃなくて運んでたんですよ!」慈恩堂の真久部さんの依頼で。「まあいいじゃないか。とにかくさ、きみの連れていたアレがさ。古くからあのあたりにいた**を喰らって竜に成り上がっただろう? そんな怪異に遭ってものほほんとあの子の店に出入りして、しかもあそこの道具に好かれてるみたいだし」コイツを連れていると、私はあの子の店に出禁にされるけど、と続ける。「アイツら、つまりあの店の道具たちのことだけど、アイツらはズルい、とコイツはいうんだよ。自分だって何でも屋さんと遊びたいのに、だってさ。怖がられたり、本当は気づいてるくせに無視されたり、嫌な顔されたり、そういうコミュニケーションがしたいらしい」「……」コミュニケーション? 俺、古道具たちと交流した覚えなんかないよ!「俺はごく普通の人間なんで……そういうのは荷が重いです……」時にじんわり怖かったり、時にひやりとしたり、時に恐怖に慄きながらも、何でも屋版・慈恩堂店番心得を胸に必死で平常心を保っているのに。見ない見えない聞こえない。全ては気のせい気の迷い──。「その普通がいいんだよ、何でも屋さん。そういう普通の人に認識されて応援されたいんだとさ。私などは同類だから、応援されてもあんまりうれしくないというか、張り合いがないんだそうだ」「はぁ……」身内にしかフォローされてないユーチューバー的な?「だから、次があったらまた頼むよ。仕事料ははずむから」つづく……。長いあいだ、音沙汰無くてすみません。遅くなりましたが、謹賀新年。今年もよろしくお願いします。管理人 PrisonerNo.6拝
2021.01.07
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「……まあ、だから、こいつはまだまだ竜に成れないだろうよ」笑ったまま、少しだけ困ったように溜息をついてみせる。「今までだって数多の**を喰らってきたけれど、成れなかった。中てられるのをわかっていて喰らったものも、同じくらい数多あるんだからしょうがない。今回みたいに、せっかく蓄えた**を減らされようが、清浄すぎるものの見えざる後光かオーラのようなものに、本体を浄化されかけようが……それでも懲りない。だからこそ、こんなところで・・・・・・・疫喰いなんぞできるんだろう」それはそれで人様の役に立って何よりだ、と薄く笑む。「ここの主・が案じていた、疫病に乗じた“鬼”どもに乗り物にされていたアクティブ馬鹿どもの魂も、今回は元に戻れるだろう。想像していたよりずっと多くて、私も驚いたよ。──まあ、一部、行き過ぎてしまったような、元々“鬼”と近いような者は知らないがねぇ」「……」そういうのは、“鬼”と一緒に疫喰い桜な悪食鯉に喰われちゃったんだろうなぁ……。あんまり考えたくなくて、うつろな目をしているだろう俺に、伯父さんがわざとらしくニッコリしてみせるから、ちょっとびくっとする。「さて。何でも屋さんにはしっかり花見をしてもらったことだし、そろそろ戻ろうかね」何か妙な言い回し……? 疑問に思うも、すっと動いたスタイリッシュ仙人の細く長い指先に気を取られる。「あ!」そこには、誘うように揺れる赤い暖簾。「……」桜の森以外、そっけないというか、人の営みの見えない場所で、それはなかなかシュールというか場違いというか。好きなところに入り口を作れる迷い家なラーメン屋とは知ってるけど……ん? 店名が──。「ああ。この店・・・は、<夢見草>というんだよ。たまに極卒ども・・・・も食べにくるらしいが」悪戯っぽくひらめく真久部の伯父さんのオッドアイ。極卒・・、に突っ込ませたいんだろうけど、その手には乗らないもんね!「ゆめみぐさ、って何ですか?」だから、店名についてたずねておく。<走りぎんなん>は、銀杏並木のある場所だからのネーミングってわかるけど。「なんだ、そっちか……」わざとらしくも残念そうに、伯父さん。「夢見草とは桜のことだ。夢のように美しく夢のように儚いので、元々そのような異名がある。ここの桜は普通の桜と違って散らないけれど、本来は生きている人間には見ることはできない。何でも屋さんはもちろん、私にだってさ。それに──わかるだろう?」桜の森を指し示しながら、そちらを見やる。「……」ふわふわと霞む薄紅の花びらは、これから明け初める東の空と、夕暮れ間近の西の空の、刻々と変化するその永遠の一瞬を留めたような淡い光をまとっている──。あの花たちは、ここにしか咲かない……。“鬼”はもちろん、きっと人の手にも、触れることはできないのだろう。それはまさに夢見草。夢うつつ、淡く儚く消え失せるまぼろしにも似て、心のどこかやわらかいところが小さく痛む──。と。「あ……!」枝の先に、ふっとやさしい色の光が生まれた。見る間に、それはふわりとほどけて花となる。──たった今、咲いたんだ!「ああ、誰かの感謝が、ここに届いたようだねぇ」伯父さんも同じところを見ている。珍しく普通に微笑んでいた。「幼子か、親か、極卒か……純粋な気持ちでできたものは美しいね。“鬼”退治も無事済んだことだし、しばらくはここも安心だろうが、魂を乗っ取られて乗り物にされるアクティブ馬鹿が、また増えなければいいんだが──」「……」今の、新型コロナの自粛生活はいつまで続けなければならないんだろうか。夏には、秋には……来年の今頃には元の生活に戻れるだろうか──。そんなことを思っている俺の耳に、「ん、何だって?」と伯父さんが言うのが聞こえた。え、俺? とそっちを見ると、どうやら違うようだ。「ここの**は珍味だから、また食べたい? ……まあ、あんな喰らい方はお前くらいしかできないだろうが……」悪食鯉のアイツと、また会話しているらしい。「だけど、次もやっぱり浄化されて果てかけるだろうが、いいのか? ……何? そのギリギリな感じがクセになる? 人間だって通はフグの肝を食べたがるだろう、って、お前──」「……」食通なのか……? 鯉のヤツ。「フグ肝は、四人前食べて死んだ歌舞伎役者もいるがなぁ……あれはそれほどに美味だからであってだな、お前のように不味いのに食おうというのは、ただの悪食というのだ。一緒にするな」ですよねー。「まあいい、わかった。“鬼”がまた増えたら、ここの主・に教えてもらうとしよう。──主・も喜ぶだろう」コロナに罹るだけならまだしも(良くないけど)、うっかり“鬼”に魂を乗り物にされてこんなところに来てしまったら、極楽はもちろん地獄にすら行けなさそうで、そうなったら救いが……。詳しく聞くのが怖いから聞かないけどさ。「──ん? その時はやっぱり何でも屋さんに観てもらいたいと? リアクションが最高って──まあ、今回も、観客がいたほうがやる気が出るというから、彼を迎えに行ったんだしな……」「えっ!」今、聞き捨てならないことを?「ま、真久部さん? どういうことですか?」「おっと、口を滑らせてしまったな」ニッタリ笑って額をこつんと叩いてみせる意地悪仙人、全く悪びれてない。「報恩謝徳の桜を狙う“鬼”が、今年は異様に多いとここの主・が憂いていたのを聞いて、コイツが喰ってみたいと言ったんだがねぇ。いざというと『観客がいないと張り合いがない』と我が侭をいうので──、こういうこと・・・・・・に慣れていて、護りも強い何でも屋さんなら適役だと思ってさ」あの道がきみんちへの近道だと聞いて、訪ねていこうとしてたところだったんだよ、と言う。「偶然じゃなかったんですか……?」奇遇だねぇ、とか言ってたじゃん、真久部の伯父さん。「だって、迎えに行こうと思いついて、行動してすぐだよ? きみを見つけたの。まさかそんなすぐに出会えるとは思わなかったんだ」私だって驚いたよ、と意地悪仙人。胡散臭い笑みが、憎い──。「……もう、いいです」俺は疲れていた。心底疲れてしまった。「用は終わったんですから、帰りましょう。今すぐに!」そう言い捨てて、<夢見草>の赤い暖簾をくぐる。だけど、俺じゃあこの迷い家なラーメン屋の入り口は開けられないんだろうな、と思っていた──のに、開いた!「え……」信じられない出来事に、戸口に立ったまま硬直する俺。カウンターの中で慈悲深く微笑みつつ小さく頷いてみせる店主。後ろから聞こえる意地悪仙人の笑い声──何でも屋さんはやっぱり合格だったね──。「……」今日のすべての出来事が夢なら、いいなぁ。つづく……。次で終わりたい、ってか、朝っぱらから暑い……。
2020.08.21
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あんなにヌメヌメてらてらイキイキとテカッってたのに。「どうしたんですか、コレ……」「ん? ──ああ、これか。単純に中あたったんだよ」あたる? 何に? 全然わかってない俺に、伯父さんはこともなげに教えてくれる。「報恩謝徳の桜にさ」「へ? さっき、吐いてましたよね?」水撒きのホースみたいに振り回されて、無理やりに。盛大にオエーッっと、ふわふわきらきら淡く輝く薄紅色を、たくさんたくさん──。「だって、あんなに美しくて純粋でそして清いものを、一時とはいえ大量に取り込んでいたんだよ? そりゃ、吐いたって影響は残るさ」食中りしたら、我々だって吐けばたちまちスッキリ、というわけにはいかないだろうと言いつつ、伯父さんは慣れた手つきで木彫りの鯉に紐を通し、それを頭から被って、シャツの襟の下、ループタイとしての定位置に戻す。「普通の・・・悪性持ちなら、とうに我楽多になり果ててしまっているはずだが、コイツだからこの程度で済んでいる。しぶといヤツだ」まあ、本人・・が喰ってみたかったというんだから、しょうがないねぇ、と伯父さんは軽く溜息をつく。「あ、そうか! あの“鬼”みたいなの、たくさん食べて取り込んでいたら、いつか竜になれるんでしたね」この人と、この悪食鯉に初めて会ったあの日を思い出す。伯父さんも俺も、昔からその地に棲む“悪いモノ”に引っ張られてたんだよな。だけど、ほんのちょっとしたことで伯父さんは脱落、俺はそのまま引っ張られて……慈恩堂の真久部さんに頼まれて運んでいた鯉の自在置物が、逆に“悪いモノ”を喰らって竜に成り上がり、ループタイの悪食鯉はその機会を逃したんだ。「まあねぇ、普通・・はそうなんだが」「……」普通って、何だろう──? ちょっと遠い目になってしまう俺を横目で楽しそうに見ながら、伯父さんは続ける。「ここ・・では無理だよ」「え? なんでですか?」「どうしたって報恩謝徳の桜ごと食べることになるからさ」「あれ? でも……」一緒に食べて中ったかもしれないけど、栄養(?)になる“鬼”だけぜんぶ濃し取ったんだよな。海水? に当たる桜は吐き出して……。ジンベイザメのプランクトン捕食のように。「ここの桜は、地蔵菩薩の徳に感謝し恩に報いんとする気持ちから生まれたものだと教えたよね? 親と子と、鬼との」「はい」「何度も言うが、きれいな、きれいなものだ。人の魂に乗って侵入してきた“鬼”どもに蝕まれようと、その美しさは変わらない。きれいなまま、儚くも消えかけていたところを、コイツが“鬼”ごと呑み込んだわけだが──」あのラーメン屋、今日のところは・・・・・・・<走りぎんなん>での出来事を、思い出してごらんと言う。「私のぶんの水を横取りした後、何でも屋さんにはこの悪食めが、どんなふうに見えたかい?」「……ツヤというかテカりというかが、少しだけ落ち着いたように見えました」店主の出してくれた、すごく甘露だった水。俺が飲むのが美味そうだからって、どうやってか知らないけど鯉のヤツも伯父さんのコップを空にして……。「あの……悪食で、何でも食べるという性しょうに合わせて鯉の形に彫ってもらったって聞いてますけど……もしかして、その、こちらの主様由来・・・・・・・・のものみたいな、有り難かったりきれいだったりするものって、実は苦手だったりします?」俺の遠回しな言い方に、伯父さんがニッタリと笑う。「苦手どころか。コイツにとっては毒だよ。中るんだし」「え? それを自分でわかってないなんてことは──」「ないね。コイツはちゃあんとわかっているよ。それでも食べたいんだよ」ぺちん、と鯉のヤツを指で弾く伯父さん。「あー……人間でいうと、ポテチとか、ああいうジャンクな食べ物的な感じ、でしょうか?」身体に悪い食べ物ほど、美味しいっていうよなぁ。ビールにフライドポテトとか、マヨネーズたっぷりのポテトサラダ、カラッと揚がってるけど衣の厚いエビフライ──。「んー、ちょっと違うねぇ。食べても、コイツにとっては不味いようだよ。それでも食べる」「なんで……?」素でたずねてしまう。美味しくてついつい、ってんならわかるけど、不味くて、しかもからだに合わないのに?「食べたいからだ」「へ?」「そこに、コイツにとって食べてみたいものがあるなら、何でも食べる。多少身に障ろうが、中ろうが、関係ないらしい。食べたいから食べる、ただそれだけだと言っている」「うーん……」そんな、『そこに山があるからだ』みたいな。登山家のマロリー卿をリスペクトしてるのか、お前は。「ってことは、今テカりが消えて見えるのは、宿酔いで顔が蒼ざめてるみたいな感じで……?」大量にリバースしたもんなぁ。「それもあるけど、どちらかというと浄化されかかったのが大きいね。好物の“鬼”を、それこそ竜に成れるほど喰ったけど、同時に報恩謝徳の桜も大量に喰らった。そのせいで、プラマイゼロどころかマイナスになっているのさ」「……」「腹には溜まらないし、毒になるけれど、それでも食べる。わかっていて食べる。食べただけで満足という、筋金入りの貪欲さだよ」さすがは桜の身に生まれながら鯉の性しょうを宿した世にも稀な徒花よな、と伯父さんは、褒めてるのか貶してるのかどちらともつかない声音で言い、面白げに笑った。つづく……。
2020.08.17
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「群れにとどまっていても、安心はできないよ? 飛び出した本人ではなく、隣にいた者がやられる場合があるから。飛び出す動きで靄が揺れ、濃淡が出来て、|向こう《“鬼”側》から周囲が透けて見える瞬間とかにね。<欲>自体は誰でも持っているものだから、“鬼”の取り憑く受容体は誰にでもあるのさ。そんなわけで、飛び出さなければ安全、というわけでもない」風邪やインフルエンザ、今の新型コロナでも、用心も対策もしてるのに、何故か不運にも感染してしまう人がいるのと同じ、と伯父さんはつけ加える。「……」自業自得、というなら納得もできるけど、自重自粛してるのにとばっちりを食らうのは理不尽だと思う。危険度は違うんだろうけど──。「そんなん、どうしたらいいんですか……」「わからない」微笑んだままで、伯父さん。「え?」「私が何でも知ってると思ってたかい? なら、それは間違いだよ、何でも屋さん。ここの|主《・》だって全てを語ってくれるわけじゃないしね。私も聞かないよ、只人の身で、知っていいことには限りがある──」「え!」俺は、正直驚いた。この人の口からそんな台詞を聞くとは。知ることができるなら、どんなことでも何でもかんでもとにかく知りにいこうとするんだと思ってた。「おやまあ、おかしな顔をして。そんなに意外かね?」くすくすと、伯父さんはとても楽しそうだ。「だって、私はまだ生きていたいし、人間でいたいからねぇ」「え」それって、どういう意味──? いやいや危ない、ここで聞き返しちゃあ……。「隠されたり、隠れていたりする物事の真相を知るのは好きだよ。古い道具たちが問わず語りに垂れ流す、ぐだぐだした昔語りを聞くのも大好きだ。表には裏があって、裏にも表があり、どちらを見るかどちらも見るか、思案するのも楽しくて、ワクワクして仕方ない。だけどねぇ、この世の|理《ことわり》を外れることは、私はしないよ。|ここ《賽の河原》にいるのは、要請されたからだしね」「何故、ですか……」この人なら、好奇心の赴くまま、どんな禁忌でも冒しそうなのに。「理から外れてしまったら、私なんか**になってしまうもの。人間でいられなくなってしまうよ。そうなれば、自我を保てるかどうか」「……」だからその、**ってあたり、耳がぐにゃっとなって聞き取れないんだってば! ──なんで俺、何故、とか聞いちゃったんだろう……。「自我が保てなければ、私のこの、ドキドキワクワクする無邪気な心も消えてしまうじゃないか」後悔してる俺の耳に、びっくりするような言葉が聞こえた。「む、むじゃき?」つい、繰り返してしまう。自分で言う? どの口でHow dare yoよくもそんなことを!、とその口を見ようと思ったら、謎の薄柄マスクの向こうに隠れていたので思わず目を見つめてしまった。それなりのお年なのに、白目部分が濁ることなく子供のようにキレイだ。まるでタウリン2000㎎配合の餌を食べてる猫みたいな、キラキラした瞳。「ん? 無邪気でいけなかったかい? あの子には『子供のように残酷な無邪気さがありますよね』とか言われてるんだが」「……」甥っ子のほうの真久部さんに同意。蟻地獄に落ちた蟻を、結末がわかっているくせにどうなるのかをわくわく見つめているような、無邪気な邪気──。空気のように纏う薄い毒を、俺はいつもこの人に感じている。「楽しい、面白いと、感じるのは心だ。心がなければ、何を見ても聞いても感じるものがない。感じるものがなく、退屈だったとしても、それすら判断できないなんて、嫌だろう? だからさ、心を失うようなことはしたくないんだよ」我ながら、見境のない**になりそうだし、と穏やかではないことをさらっと言う。「私はこれでもこの世が好きなんだよ。その一員でいたいから、世を統べている理には従うし、外れるようなことはもちろんしない」「……本当に?」「本当だよ。私もまた、きみが喩えたヤジロベエのひとつさ。<人・“鬼”・きれいなもの>という三つの腕を持つヤジロベエ。理のギリギリの|際《きわ》で揺れてる自覚はあるけど、こう見えて私はバランスを取るのが上手いんだ」そう言った伯父さんは、今日一番の怪しい笑みに目を細めていた。……うう、背中が寒い。「そう、バランスを保つことができるなら、“鬼”に飛び乗られても大きく傾くことなく、そう簡単に魂を乗り物にされなくても済むんだが──」「難しいですよ、そんなの……危なっかしく揺れてる自覚なんて、ほとんどの人には無いですよ」ゆらゆら、ゆらゆら。足元の不確かな崖の上で、頼りなく揺れるヤジロベエの群れ。その腕のひとつに、いきなり荷重が掛かったら──。「だから支え合うのさ、お互い様の気遣いの靄で。ぼんやりとでも繋がってさえいれば、傾いてもどこかで引き戻される」「そういうものなんですか?」それなら少しは心強い、ような気がする。「ああ。それでも間に合わない、今回の疫病みたいな場合もあるけれど、それはそれで仕方ない。人と“鬼”のイタチごっこは無くならないのだから。きれいなものはそのふたつと一緒に揺れるしかないしねぇ」まあ、単純に見えて複雑な力学が働いてるのさ、と伯父さんはつけ加える。「それは人の身には伺い知れないことだ。だけどまあ、世に疫喰い桜みたいなのが出てくることもあるから、人のほうにまだ分があるかもしれないね」そう言って、鯉のループタイを軽く弾いてみせる。「あれ? なんか……」さっきまでのツヤが。照りが。生気が、ない。「なんか、くすんでる……?」つづく……。
2020.07.20
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飄々と、何でもないことのように伯父さんは言う。でも、俺はただただ恐ろしい。知らないあいだに自我が乗っ取られてしまうなんて──。「“鬼”に操られないためには、どうしたらいいんでしょう……?」したい、したい。何かをしたい。ゲームセンター行きたい。遊園地で遊び回りたい。ショッピングを楽しみたい。スポーツしたい。ライブ行きたい。飲み会したい。美味しいものを食べに行きたい。旅に出て、綺麗な景色を見たい──。そんな、誰にでもある、ささやかな望み──欲。だけど、今は多くの人ががそれを抑えてる。<面倒なことはしたくない>という、怠慢という名の欲望すらも堪えている。風邪でもないのにマスクをするのも、自粛をするのも、強制されてるわけじゃない。罰則だってない。だけど、この恐ろしい疫病に対抗するために、ほとんどの人が自主的にそれをしている。自分だって感染したくないけど、自分のせいで誰かが感染するのも嫌だ。そう思うから、耐える。我慢する。同調圧力という言葉もあり、そういう側面もあるとは思う。それでも、多くの日本人の行動原理は、「人様に迷惑を掛けたくない」だ。そして、「情けは人の為ならず」。回り回って誰かのため、自分のため、みんなのためになっている。お互い様、そんな言葉だってあるんだ──。「何でも屋さんは、One for all, all for one.という言葉を知ってるかな?」たずねておいて、ぼーっとしていたところにたずね返されたので、ちょっと焦った。「あ、はい! 一人は皆のために、皆は一人のために、って意味ですよね。ラグビーの精神」「日本では、そうなっているねぇ。でも、本当はキリスト教の宗派争いがきっかけになって出来た成句らしいよ」「……」そうなの? 全然知らなかった。俺の心の声が聞こえたみたいに、伯父さんが軽く含み笑う。目が楽しそうで、本当にもう。この、意地悪仙人め! ──なんて、俺のちょっとした苛立ちなんか、完全スルーで先を続けてくれる。「そんなわけで、本来の意味は少し違うんだ。『一人は皆のために、皆は一つの目的のために』というのが正しい。ラグビーでいえば、|トライ《勝利》という目的に向けてひとりひとりがそれぞれの役割を果たす、ということになるのかなぁ」「……大して違わないような」「そうかい? よく考えてごらんよ」「ええ? えーっと……」わからん。俺、英語得意じゃないし。でも、訳文のほうは──。「あー、一つの目的のために、ってことは、互いの目的が合致しない場合は、互いに協力はしない、ってことになる、のかなぁ……そう解釈すると、けっこう違うのかも」いや、でも、うーん、と唸っていると、伯父さんが「ほらね?」と言う。「誤訳レベルで違うだろう? 私は、One for all, All for one.を最初に訳した人は、意味の違いをちゃんとわかってたんじゃないかと思っているよ。敢えて『一人は皆のために、皆は一人のために』と翻訳したんだ。だって、そのほうが|日《・》|本《・》|人《・》|の《・》|気《・》|持《・》|ち《・》|に《・》|ぴ《・》|っ《・》|た《・》|り《・》|く《・》|る《・》|か《・》|ら《・》」何でも屋さんもそう思わないかい? といつもの怪しい笑みで問われ──、俺はハッと腑に落ちた。「確かに。俺はそっちのほうが好きです! 和の精神に通じますよね」「そう、それだよ、和の精神だ」満足そうに、伯父さんはうなずいてくれる。「日本は災害の多い国だろう? しつこく纏わりつく梅雨前線、迫り来る大型台風。地震だっていつ起こるかわからないし、休火山がいきなり噴火したりもする。何を目的にして団結するかなんて、決められるものじゃない。だからさ、いつでもどこでも、何となく、実はいつも臨戦態勢で、互いに気遣い合っている。家で独りでいても、ご近所迷惑を考えて生活音を抑えたりしてないかい? 意識してもやっているけど、無意識レベルでも我々は『一人は皆のために、皆は一人のために』をやっているんだよ」それを、お互い様という、と伯父さんはとても納得できる言葉でまとめてくれた。「我々がそうなのは、そうでないとこの国で生きていけないからだ。自分のことしか考えられない人間は、自分が辛い立場になったとき、助けてもらえない。一人は皆のために、皆は一人のために。意識下に通奏低音のように流れるその精神で、我々は日々をサバイバルしている」「言われてみれば……」日常、ああしろ、とか、こうしろ、とか誰も言わない。だけど、公共の場では行儀よくするとか、他人に迷惑かけるヤツがいれば白い目で見るとか。困ってる人がいたら「大丈夫かな?」と心配しつつ、ずっと気にかけていて、自分が力になったり、そうでなくても誰かが助けているのを見てようやく安心するとか。直接する・しないにかかわらず、コミュ障とかリア充とかその人の性格にも関係なく。そういうのが普通すぎて意識することもないけれど。「いつも、誰かのことを気遣ってますね。道を歩くときでも無意識に譲り合ってるし。こう言ってしまうとすごくみんないい人っていうか、大袈裟だけど……、悪い人もいる、とかいうのとは別に、基本的にそうですね」そう、|基《・》|本《・》|的《・》にね、と伯父さんはうなずいてみせる。「裏を返せば、相互監視社会といえるがねぇ。そのお蔭でというか、欧米のように飛びぬけて身勝手な行いをする人間は少ない。良し悪しで言うなら、この日本の国では概ね良いほうに機能している。たまに極端に傾くが、政治経済世界情勢は常春のように変化しないというわけではないから、それに適応していくのも仕方ない。ただ、いざ災害というとき、一致団結してことに当たれるというのは我々の大きな強みだよ。文句を言いつつも、他人のために頑張れる。明日は我が身、という意識があるからねぇ」「……皆で協力してことに当たるほうが、合理的ですよね」そのほうが、早く災害から立ち直れるし。「ああ、そうさ。我々は合理的なんだ。お互い様、明日は我が身、和をもって尊しとなす。無駄に争っているより、そのほうが物事が円滑に進むんだものねぇ。道は譲りあったり、傘は避け合ったりするほうが、お互い早く目的地に着けるんだから」我々が他人を意識するのは、争うためじゃない、と続ける。「助け合うためだよ。それが結局自分のためになるから。お互い様の気持ちで、霞か靄のように薄く広く繋がり合っているのさ。目には見えないがねぇ──さっき、何でも屋さんには見えなかった“鬼”どもを覆う“欲”でできた黒い靄みたいに」「……」忘れてたのにぃ! いや、もう危険はないか。疫喰い桜こと、悪食鯉のループタイが喰ってくれたんだし……。「その、お互い様の霞から飛び出すと、“鬼”どもに見つかりやすくなるんだよ。見つかったからといって、必ずしも取り憑かれるわけではない。ただ、狙われやすくはなる。群れから離れた子羊のようにねぇ」そう言って、伯父さんはニッタリと笑った。つづく……。
2020.07.16
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疫病──蔓延する、悪疫。「つまり、いま流行ってる新型コロナみたいな……」「そう。質タチの悪い流行病だよねぇ?」「本当に……」娘に会えない寂しさを思い出し、しょんぼりしつつげんなりと俺がうなずくと、伯父さんは軽く含み笑った。「天然痘、ペスト、結核、コレラ、インフルエンザ──。古来、人を脅かした疫病は数えきれない。薬やワクチンで抑えられるようになっても、無くなったわけではない。流行の危険はいつでもあるし、そうなれば犠牲者が出る」現代ではほとんどの人が意識もしない結核なんかも、どこからどう感染したのか本人もわからないのに、発病してしまうことがある、と続ける。「投薬と療養で良くなるがねぇ。早期に隔離すれば、他人に感染させることもないし。そういう古いつきあいの・・・・・・・疫病ならば対策もできるし、治療もできるが、新しい、未知の疫病も出てくる。たとえばエボラ、HIV、SARS、新型インフルエンザ、そして新型コロナ」後から後から出て来て、怖いよねぇ、と薄い笑みで。「宿主と病原体、人と病のイタチごっこは、昨日今日始まったものではないし、この先もなくなることはないだろう。“鬼”も同じさ。人がいるかぎり“鬼”も滅びることはない。人がいて、“鬼”がいて、きれいなものがいて──そうやって世の中、上手くバランスが取れているんだが……ほんのちょっとしたことで、どれかに傾いては戻り、また傾いて、完全に平衡することはない。不安定なんだよ」「……それってなんだか、ヤジロベエみたいですね」昔、夏休みに弟と一緒に作ったことがある。人の親になってから公園で拾った松かさで作ったヤジロベエは、娘のののかのお気に入りだった。ああ、と伯父さんは面白そうに目を細める。「ああ、そうだねぇ、腕が三つのヤジロベエだ。人と“鬼”ときれいなものが、根を同じにしながら危なっかしく揺れている。疫病は、平衡を崩すファクターのひとつと考えればいい。現れると、似た性質を持つ“鬼”がそれに手を伸ばし、取り込もうとする。取り込めばそのぶん重くなる。するとヤジロベエは大きく傾き、危うい足場から落ちそうになる──“鬼”の側に」俺はぞぞっとした。「怖いじゃないですか!」怖がる俺を満足そうに眺め、伯父さんは機嫌よさそうな猫又みたいな顔でうなずいてみせる。──猫又なんか見たことないけどさ。「そう感じるのが普通で、疫病なんか遠ざけたいと思うのが大半なんだがねぇ。どうかすると、自分の持つ欲に引っ張られ、自らそれに近づいてしまう者がいる。取り込むのか、取り込まれるのか……」“鬼”に。そう言って、薄ら笑う。「報恩謝徳の桜を狙う“鬼”どもは人を乗り物にすると、さっき言っただろう?」「──ええ」ハリガネムシに意識を乗っ取られたカマキリみたいに、操られて……。「疫病えやみを得て、疫病に動かされ、次々移動する。動き回る。人から人にうつすために。──アクティブ馬鹿と呼ばれる者たちの中には、高い確率でそういうのが混じっているのさ。独善と、自己中心的思考とは相性がいいからねぇ、“鬼”は」花が咲いたから花見がしたいだの、旅行に行きたいだの、カラオケに行きたいだの、このご時勢に娯楽を我慢できないやつらがいるだろう? と続ける。「熱や咳、風邪の症状があっても、それこそ熱に浮かされたように外に出掛けたがる。元々アクティブなのか、疫病のせいでアクティブになるのか……。ああ、もちろんアクティブが悪いわけではないよ? 自分の欲に振り回されるまま行動していると、“鬼”に利用されやすいというだけのことさ」自制できないのは、利己的な自分のせいなのか、それとも“鬼”のせいなのか。知る術が無いから始末に悪い、と伯父さんは言った。「でも……あんまり閉じこもってると、誰だって出掛けたくなると思いますよ」俺は仕事だからほぼ連日外を出歩いてるけど、温和しく閉じこもってる顧客様の中には、自粛疲れしている人も多い。「それでも、ほとんどの人は我慢しているだろう? 出掛けるときにはちゃんとマスクをし、できるだけ人混みを避け、用を済ませればすぐに家に帰る。せっかくの良い陽気に、誘われたって庭先か、近所を散歩するくらいでなんとか耐えてる」「……」みんな、我慢してるよなぁ。通勤の人たちも、店やってる人も。それぞれの立場で、誰もがどこかをジリジリと擦り減らしながら耐えてる。「そんなときに、出掛けたくて出掛けたくて仕方ない気持ち、何かに追い立てられるように遠くへ行きたくてたまらない、そういう衝動を抑えられない者は、“鬼”の乗り物にされている可能性が高いよ」そして、さらに遠くへ疫病を撒き散らす──。その言葉に、俺はまた背中が寒くなった。「まあ、“鬼”は疫病に乗ずる疫病みたいなものだからねぇ。その時々の流行り病を目晦ましに人の心に忍び入るんだ。誰も、本人すら気づかぬうちにそいつのエゴを喰らい、乗っ取ってしまう。そうして操るのさ、もっと欲しがれ、己の欲に逆らうな、とね」つづく……。
2020.07.13
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話がなかなか進まず、申しわけありません。今日は七夕なので、よろしければこちらをどうぞ。 翌年の<俺>の七夕連日の大雨、恐ろしいですね…。被災地の方々のご無事を祈るとともに、これ以上の災害がふりかからないよう、七夕の短冊に願いを掛けたいと思います。
2020.07.07
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空耳? そう思ったのに。ぶうんぶうんと景気よく振り回されている木彫りの鯉、照りだけは本物みたいにぬめってるそいつが、身もだえするみたいにびちびちぐねぐねしたかと思うと。 オエーッ ばしゃっバカッと開いてる大きな口から、噴水みたいに何かが吐き出された。 オエエエー ばしゃー「枯れ木に花を咲かせましょう!」 オエエー ばしゃしゃー「花を枯れ木に、枯れ木に花を!」 オエー ばしゃー「咲かせましょう!」何これ。真久部の伯父さん、超楽しそうなんだけど。スタイリッシュ仙人から花咲かジジイにジョブチェンジ? 鯉のアイツは……苦しそう、なのか、そうでもないのか──? よくわからない。 「……」言葉を失い立ち尽くす俺を置き去りに、何故かいきなり花咲爺さんごっこを始めた主従……いや、類友? ──彼らの関係性を俺は知らないけど、伯父さんが花咲爺さんなら、鯉の役割はポチか? でもポチって犬だし、色々あって灰になったからの話じゃなかったっけ。花咲爺さんが撒くのは、こんなオエーなブツじゃなくて──。ノリノリで鯉を打ち振る伯父さん、その口から吐き出される何か。地面に落ちるでもなく、ゆったりとその辺に漂っている……。吐瀉物にしては、やたらにきれいできらきらしてて、ふわふわとして儚くて。疫喰い桜のギラギラとは違う、奥ゆかしいきらめき。淡く輝く薄紅色は、“鬼”どもに蝕まれて枯れてしまった、あの──。オエー。……また大きくぶん回されて、さらに大量に何かを吐く。さすがにちょっと苦しそう? それでも容赦なく、スタイリッシュ仙人は疫喰い桜の本体だったものを振り回し続ける。と。「あ」何度も吐き出され、漂い、ゆるやかに重なり合った薄紅の霞が、ふわりとひとつはためいて。「報恩謝徳の、桜……」親の。幼子の。地獄の極卒の。深い感謝の気持ちが、地蔵菩薩への献花となった桜の木々。あのきれいな花が、ゆるゆると甦っていく。ふわっとほわっと開いてゆく。ふんわりおっとりやわらかい、薄紅色の花たち。うららかな春の日の微睡みの合い間に浮かぶ、遠い日のやさしい思い出。眩く輝く真夏の海の、太陽の光に溶ける波のきらめきにも似て、ほんの少し哀しく、手に触れることのできない──。 オエップ ウップ人が感動してるのに。 ウプ ヴォェ 鯉のヤツが、最後の嘔吐きにあがいてる。宿酔いのオッサンみたいに……。「ふう。ようやく吐き切ったか」「……」俺、何てコメントしたらいいんだろう。遠い眼になってしまう。「ん? どうしたね、何でも屋さん。変な顔をして。ああ、やってみたかったのかい?」「へ?」何を?「今の、リアル花咲爺さんをさ」ニッタリと笑む、真久部の伯父さん。え……?「軽く尻尾を握って、こう気を入れてねぇ、アレの中の**を刺激しないといけないから、ちょっと難しいんだけど、コツさえ掴めば──」触るの? アレを直接? 木彫りのくせに、いつもぬめっとしてそうなアイツを……?無理! 「いえっ! 結構です、遠慮します! それより」どうして報恩謝徳の桜が元に戻ったのか、そっちの説明をお願いします、と必死で頭を下げる。「残念。何でも屋さんならできそうなんだけどなぁ。──だけどまあ、あんまり苛めるとあの子に叱られるから、これ以上は止めておこうか」くくっと含み笑う伯父さん──。この、意地悪仙人め! 言わないけど。口に出さないけど。態度には出てしまったかも、だってちょっと肩が震えてる。笑いたければ笑えばいいのに。「まあまあその、コホン。つまりね、ジンベエザメの食事のようなものなんだよ。喰って、吐き出したんだ。水ごとプランクトンやら小魚やらを呑み込んで濃し取り、水だけを排出するみたいに」「……“鬼”たちが、プランクトン、ということですか?」「そう。報恩謝徳の桜ごと、あいつらを呑みんだのさ」「桜は、枯らされたんじゃ?」綿あめが溶けるみたいに、じわじわと枯れていった儚い桜の森。疫喰い桜がここの世界樹みたいになったときには、姿も見えなくなってしまっていたけど──。「“鬼”どものまとう“欲”の靄に、まだまだ多くが捕らわれたままだったんだよ。何でも屋さんの眼には一匹一匹別々に見えていたようだが、あれらはあの黒い靄、つまり“欲”で繋がっていてねぇ。薄く広がって、桜の森全体を覆っていたんだ」春先の黄砂に、街全体が覆われるみたいにね、と続ける。「“鬼”も一匹、二匹なら、桜にたまった慈雨の雫に溶けて消えてしまう。が、時折、今回みたいに大量に入ってくることがある。何が原因だと思う?」つまり、人に寄生する“鬼”が大発生する時ってことだよな。魂を持たない“鬼”単体では、ここには来れないっていうから──。「わかりません……天候とか?」現実世界の大陸のほうでは、|飛蝗《ひこう》が発生してるというし。「天候も関係するのかもしれんが、もっとも大きな原因は──疫病だよ」つづく……。
2020.06.29
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「おや……?」まだ笑いの余韻を引きずってにやにやしていた伯父さんが、ふと疫喰い桜を見て呟いた。「今日はなかなか戻らない・・・・と思ったら。どうやらアレは浮かれているようだ」「え?」言われてみれば、さっきより少しテカりが強くなったような──。「何でも屋さんに、褒められてるつもりらしい」可愛いところもあるもんだ、なんて微笑ましそうだけど。「ラフレシア呼ばわりが、ですか……?」他にも、こってりとか、あぶらっこいとか、ぬらぬらとか──。俺、褒めてないと思う。「つまりは変わっている・・・・・・、ということだろう? アレはただの桜ではないと」「ええ、まあ……」悪戯っぽい瞳で、スタイリッシュ仙人。何が言いたいのかわからなくて、俺は曖昧に答える。「只人、じゃなくて、只桜じゃないというか。──だからって、他の桜より価値があるとか、尊いとかは思いませんけど……」そうだよ、さっきも考えたけどさ。俺にとってはただの……なんだろう、そう、ただのヘンな桜だ。そっと見ないふりをして、そのまま忘れてしまうたぐいの。ふふ、と真久部の伯父さんが笑う。「アレはねぇ、変わっている自分が好きなのさ。他とは違う自分、特別な自分、それを誇示したいんだよ。自己顕示欲が強いともいう。アレのその欲が、妙な魅力となって同質のモノを引き寄せるわけなんだが──同類にウケてもあんまりうれしくないらしい」「同類って……」つまり、心の中にどす黒い怨念を滾らせてる人や、人の魂を乗り物に、報恩謝徳の桜を枯らしにくる“鬼”みたいののことですね。「それたちは、ほとんどがアレにとってはただの餌にすぎないからねぇ。餌に持て囃されても……、ということらしいよ。反対に、同類でも餌でもない、自分とはまったく違う存在に認識されるのはうれしいようだ。自尊心が満たされるらしい」「そ、そうなんですか」自分のいる業界だけじゃなくて、他業界でも知る人ぞ知る、みたいな存在になりたいとか──?そういえば俺、心の中ではいつも「伯父さんの鯉のループタイ怖い。木彫りのくせにつやつやイキイキしてて不気味」とか思ってるけど、面と向かって(?)言葉にしたのは今日が初めてかもしれない。「変わっているとか、特別だとかいうのはアレにとっては誉め言葉で、アブラっこいとかいうのも──ああ、さっきの何でも屋さんの評、<桜界のラフレシア>。斬新で特別感があって良い、とても良い、もっと何か言ってくれと言っている」「……」伯父さんの期待に満ちた瞳と、ワクワクしてるようなアイツ。「……わー、疫喰い桜ステキー」棒読みで褒めてみたら、虹色油膜の輝きがテラッと。「ぬらぬらぬめぬめして、すごーく気持ち悪いところがー、かっこいー」 ツヤツヤッ!「敬遠されたり迷惑がられたりしてもー、いっさい気にしないところが誰かさんと似てて感心しちゃうー」 イキイキ!「おや、厭味を入れてきたね」何のことかなー、俺わかんなーい。「脂ぎった中年オヤジの貫禄すごいしー、“鬼”喰っちゃうなんてもっとすごーい」 テカテカッ!「そんな桜見たことなーい。桜越えてるー、ビヨンドしちゃってるー」 ギンギラギンギラ!「──だから、ずっとここで咲いてればいいよ、この賽の河原で」そこだけ低く、真顔で言うと、疫喰い桜がいきなりのたうった、大きな魚がくねみたいに。「わっ!」驚いて尻餅ついた俺の目の前で、虹色油膜がぶわっと膨らんだかと思うと──。 カラン……「あ」そこには、鯉のループタイが転がっていた。──疫喰い桜の艶姿・・は、もはやそこになかった。「何でも屋さん、やるねぇ。どうやって元に戻そうかと思っていたのに」くすくすと笑いながら、伯父さんはそれを拾いにいく。「……ここにずっといるのは、やっぱり嫌なんですね」立ち上がって尻を払いながら、俺は息を吐く。「そりゃあねぇ。地蔵菩薩への感謝の念が慈雨となって降りそそぐようなことろだよ? アレが好むわけないじゃないか」「浄化されるかなーなんて思ったんですけど」そんなわけないよねー、やっぱりさぁ。“鬼”喰らうようなモノが、そう簡単に──。「されかかってるけどねぇ」「へ?」まさかの存在の危機? 「だから吐かせなくちゃ」「え? 吐いたら“鬼”が出ちゃうんじゃ?」「ふふ。ここは本来報恩謝徳の桜が咲く場所。疫喰い桜のような徒花は、本来お呼びじゃないんでね」嘘くさい笑みでそう言うと、伯父さんは俺がこれまで見た中で一番テカッってツヤツヤぬめぬめしてる(気持ち悪い!)鯉のループタイを片手で持ち、左から右へ、大きく打ち振った。そして叫ぶ。「枯れ木に花を咲かせましょう!」また叫ぶ。「枯れ木に花を咲かせましょう!」どこかから、オエーという声が聞こえた。ような気がした。つづく……。
2020.06.25
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「うわ」一番近いところに見えていた花びらに“鬼”が数匹、ひょいっと取りついたと思ったら、カメラのシャッターが閉まるように花びらが閉じて、しゅるん! と内側に消えていった。なんだか食虫植物みたい……っていうか、カメレオンが虫が捕食する様子のほうに、もっと似ているかも──。静から動へ、異様に長い舌を鞭のように伸ばし、獲物を一瞬で捕らえて口の中へ。限界まで伸ばしたゴムが、手を離したとたんすごい勢いで戻るみたいに。「……」そんなふうに思ってしまうと、もうダメだった。疫喰い桜の花のひとつひとつが、カメレオンのピンクの舌を伸ばしたやつにしか見えなくなってしまい、直視するのがさらに辛くなる。虹色油膜の照りも、徐々にきつくなってくるように思えて……。なのに、眼を逸らすことができなかった。逸らしたら、あのつやつやした花がにゅっと伸びてきて、ほっぺたあたりに吸いつかれそうで、とにかく見ているしかできなかった。「ほっほっほ。疫喰い桜め、張り切っているようだ。“欲”を貪るのが大好きだからねぇ。貪欲な鯉の性ならば、なおさら貪るだろう。全ての“欲”を、欲が固まった“鬼”を貪りつくすまで」面白くて楽しくて仕方ない、そんな気持ちを隠すことなく全開で、真久部の伯父さんが語る。「どうだね、何でも屋さん。こういう花見は? なかなか他所では見られないだろう」機嫌よく問われても、俺には返す言葉も思いつかない。しゅっ、ひゅるん。しゅっ、ひゅるん。数えきれないほどの花が、数えきれないほどの“鬼”を捕らえて内へ内へと引っ込んでいく。無数の花、無数の“鬼”。星の数ほど、砂の数ほど。多すぎて、意味がわからないほど多すぎて、たくさん、たくさん──。…………そうして、どれほどの時間が経ったのか、俺は眼を開けたまま意識を失っていたに違いない。何故なら、あれほど大きく広がっていた、世界樹のように巨大な疫喰い桜の姿が、いつの間にか普通サイズに縮んでいたんだ。普通の、っていうのも変だけど、とにかく普通の大木サイズになっている。「ま、真久部さん。あれ、あれ、」何で小さくなったんですか、と聞きたいのに、口がうまく動いてくれない。「ふふ、あれだけいた“鬼”を喰らい尽くすとは。──見事なものだ、疫喰い桜。本性に忠実なお前は、本当に美しいよ」美しい……? 「う……」美しいか、美しくないか、その二択なら、美しいと言おう。だけど──。「こってりを通りこして、あぶらっこくないですか……」ふわふわとした薄紅の花満開の桜樹を彩る、ギラギラでツヤツヤでテッカテカのオーラ。なんていうの? 普通の桜が楚々とした乙女ならば、この疫喰い桜は脂ぎった中年のオッサン。そんな感じ。「なんか……ぬらぬらしてるような気もします……」綺麗だけど、美しいけど──ごめん、キモチワルイ。「それがこやつの魅力なんだよ」薄い笑みで、伯父さん。「普通でないだろう?」「ええ」こんなのが普通の桜に混ざって、どっかの川辺で咲いてたら……たぶん、無意識に遠巻きにしてると思う。「他にこんな桜はない。特別だ。そして、特別ゆえに価値があると感じる者がいる。他よりも尊いと」「……」ええ~? と上がりかかった声を堪える。尊いとは、俺には思えないけど──、つまりは好みの問題ってことだよな。そんなことを考えて心を落ち着かせていると、疫喰い桜のまとう輝きが、こってりツヤリとはためくように揺れた。何だろう、俺にアピールしてるのかな? アイツ。でも、ああいうの、慈恩堂の古道具たちで慣れてるから……。知らんふりしとこ。──伯父さんは、そんな俺を面白そうに観察してる。探るような眼で。「あれは、伐り倒された当時の姿だ。可哀想に、満開のときに伐られたらしいよ」「そ、そうなんですか。さすがに、花くらいはせいいっぱい咲かせてやりたかったですね」花の盛りに強制終了とは、無慈悲に過ぎやしないだろうかと、憐れむ気持ちくらいはあるよ、真久部の伯父さん。「どうかなぁ? その春、花が咲き出してから、丑の刻参りが続けさまに五件あったと聞いているしねぇ」「ご、五件」ってことは、短期間に五人もいたってことだよな、そんな外法に手を染めるほど誰かを恨んだ人が。バッティングしなかったのかな。丑の刻参りは、他人に現場を見られたら呪いが成就しないというから、先客と後から来たのとで「見たなぁ!」「見たがどうだ、そっちこそ!」とかバトッたり……。「極めつけが首吊り未遂でねぇ。この木はいけない、一刻も早く伐らなければ、となったそうだよ」マスク越しにもわかるくらい、ニィッと唇の両端を吊り上げて、俺の反応をうかがう意地悪な薄いオッドアイの瞳。黒褐色と榛色、甥っ子の真久部さんと同じ。でも、そっちの真久部さんとは違い、奥に熾火のような小暗いきらめきを宿しているように見える、どこか疫喰い桜の輝きにも似た、薄暗い──。「未遂、だったんですよね? いや、まさか、それまでもそういうことが──?」いかんいかん。呑まれては。知らないよ、伯父さんの趣味嗜好なんか。俺はあなたの理解者になれないよ、あなたの甥御さんと同じく。ふ、とスタイリッシュ仙人は息をつき、怪しい笑みを収めた。普通の怪しさになっただけだけど。「──いや、そっちは初のことだったらしいな。もしも完遂されていたなら、アレはさらに力をつけていただろう。だからまあ、潮時だったというわけさ。そのまま放置すれば、ドロドロと怨念を抱いた者たちを誘いに誘って、早晩、世の理から外れるような存在になっていただろうからなぁ」「……」あの真っ黒い小さな“鬼”みたいになった人たちが、うようよと、ハエのように……。なんか、南のほうにそういう花があったな。ハエたちに大人気らしい──。「さ、桜界の、ラフレシア」つい、連想してしまった。そしてうっかりこぼした言葉に、伯父さん大ウケ。そんな、咳き込むほど笑わなくても。あ、涙まで拭いてる。「やれやれ、今日一番の大笑いだ。何でも屋さんは本当に楽しい人だねぇ。あの子が気に入ってるのもわかるよ」──甥っ子のほうの真久部さんが気に入ってくれているのは、俺が慈恩堂の店番をできる貴重な存在だからだよ。ご本人がそう言ってる。笑いは求められてないと思う……たぶん。求められてない、はず。つづく……。
2020.06.24
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短い日常話です。本日の夕暮れは、ちょっと不思議な薄むらさき色。雲を染め、空を染め、合い間に見える水色は、琥珀硝子を通して見たように黄味がかっている。梅雨の中日か、今日はだいたい晴れだった。それほど気温も上がらず、湿度も低めで過ごしやすい。外仕事日和で、ペンキ塗りが捗った。あれは下処理に時間がかかるから、晴れてくれててありがたかった。あとは買い物代行や、留守宅見回り、犬の散歩──。「なあ、伝さん」「おうん?」「今年もさあ、もうそろそろ半分が過ぎるよ。早いと思わないか?」「おん!」吉井さんちのグレートデンの伝さんと歩く、いつもの散歩コース。「今頃はまだいいけど、梅雨が明けたら暑くなるんだろうなぁ」「おん」「そしたら、こんな時間に散歩できないよなぁ。伝さん、肉球やけどしちゃう」「おぅぅん」「真夏のアスファルトは、フライパンみたいだもんな」「おんおん!」そんなふうに、いつもの会話っぽいコミュニケーションを楽しんでいたら。「わ、なんだ!」「うおん!」角を曲がったとたん、リアル藪から棒、紫陽花の繁みからステッキ。同時に、何か小さい金属がアスファルトを跳ねる音がして。「す、すみません、驚かせて」「あ、はぁ」ステッキというか、杖を持ってよろよろと立ち上がったのは、ちょっとふくよかなご老人。何でか息が上がってる。「うっかり家の鍵をこの紫陽花の中に落としてしまってね、根元のほうで見つけはしたんだけど、手が届かなくて。杖で押し出そうと」今が我が世とばかりに咲き乱れる紫陽花は、ここんちの敷地ぎりぎりに繁り、道路とのあいだの浅い溝を覆わんばかりになっている。そっちからだと片足がいけない身には危なくて、仕方なく玄関先の石段に這いつくばるみたいにして探してたらしい。お年寄りにはけっこうきつい体勢だったかも。「成功したんじゃないでしょうか、さっきそんな音が──」確かこっちあたりに跳ねたような、と思って見まわしていると。「おんおん!」すぐに伝さんが見つけてくれた。「すごいぞ! ありがとうな、伝さん」大きな頭をがしがし撫でて褒め、銀色の鍵を拾ってご老人に渡した。「いや、助かりました。だんだん暗くなってくるし、そういうときに限って門灯が切れてるしで、どうしようかと思いました」家に入れないかと、と力なく笑う。「良かったですね、見つかって。さあ、どうぞお家のほうに。──さ、俺たちも行こうか、伝さん」「おん!」「あ……そのグレートデン。もしかして、きみが何でも屋さん、かな?」「あ、はい。何でも屋です。日常のちょっとしたご不便、お困りごとがおありでしたら、お気軽に声をおかけください!」そう言って、すかさずウエストポーチから名刺入れを取り出し、一枚手渡す。「そうですか。よく気が利いて親切な人だと聞いてます。朝夕はよく大きな犬と散歩してるとも。──神崎さん、ご存知ですね?」「ああ! 神崎さんとお知り合いなんですね。ええ、よくお声を掛けていただいてます」思わぬところに、繋がりが。「私は飯綱といいます。明日でいいので、何でも屋さん、この門灯を見てもらえませんか?」「あ、はい。またお電話いただけますか? ご都合の良い時間にお邪魔します」「わかりました」うなずく足元、コツンと杖の音。「あ! 足は大丈夫ですか? さっきの無理な姿勢で、どこか痛くしたりしてませんか?」「ありがとう、大丈夫。ちょっと息切れしただけだから──しかし、考えてみればさっきは危ないことをしてしまったな。きみにも伝さんにも当たらなくてよかった……本当に、驚かせてすみませんでした」痩せなくちゃねぇ、と苦笑いしながら杖をつき、飯綱さんは玄関の鍵を開けて中に入って行った。暗かった家に明かりがともる。ああ、もう日が落ちて、すっかり暗くなってしまったな。 「行こうか、伝さん」「おん!」リードを軽く引き、一人と一匹、歩き出す。「俺と伝さん、なんかこの界隈で有名みたいだな」「おん!」「伝さんと神崎の爺さんのお蔭で、顧客様が増えるかも」「うふん」「がんばらなくっちゃな」「おんおん!」一年で一番長い日もいつの間にか暮れて、一年で一番短い夜が始まった。季節の転機、今日を境に昼夜の長さが少しずつ逆転していく。静かに、確実に。有無を言わさず。そうしてまた季節が巡る、びっくりするほど早足で。子供の頃はあんなに毎日が長かったのになぁ……。いやいや、人生にたとえるなら俺は真昼。黄昏にはまだ早い。伝さん送って行って、帰ったら風呂入って飯食って寝て起きて、明日もまた精一杯頑張るぞ!「ちょっと走っちゃおうか、伝さん!」「おん!」
2020.06.22
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それがどうにも気にかかり、俺はさらに花を見つめてみた。見つめてみて、考えた。普通の桜に感じる、儚さとか、可憐さとか、いじらしさとか、そういう繊細な印象はかけらもないように思う。同じような色をして、同じようにやわらかそうに見えるのに。その代わり、何ていうのか、こう、うーん──。「こってりしてる……」そう、こってりしてるんだ。見てるだけでお腹いっぱい。あんなに綺麗なのに。「こってりだって?」俺の呟きを拾って、真久部の伯父さんが吹き出した。「いや、その」花に対してふさわしくない表現だとは思うけど、ほかに言葉を見つけられない。「言い得て妙だね、何でも屋さん。確かに、アレはぎらぎらしてるよ、脂ののりきった魚みたいに」指で押したらじわっとアブラが滲みそうだねぇと言って、さらに笑う。「まあ、仕方ないよ。本性が本性だもの。アレは、元が桜の木だったというのは知ってるだろう?」「……丑の刻参りの人に、大人気だったらしいらしいですね」知りたくなかったけど、前に甥っ子のほうの真久部さんが教えてくれたよ。ホント、知りたくなかったけど。「そうだよ。他にも桜の木はいっぱいあったのに、アレの木にばかり藁人形が打ち込まれたんだ。まるで吸い寄せられるみたいにねぇ。実際、吸い寄せてたんだが」その頃から悪食だったんだなぁ、と楽しそうな顔を見て、あなたは悪趣味ですね、と言いたくなったけど、心の中だけにしとく。だって怖いもん……。「どういう手を使っていたのか、|聞《・》|い《・》|て《・》みたんだがね、そしたら、花を咲かせていたと。もちろん春には他の桜と同じように咲かせていたけど、それ以外の季節に丑の刻参り希望者が来たら、幻の花を咲かせてそいつに見せていたんだと言っていた」「今みたいな……?」もこもこの、もっこもこ。樹齢千年はいってそう。「いや、今ほどの|力《・》はなかったから、もっとささやかだったはずだよ、さすがにね。さて、何でも屋さん。もし、何も知らない状態でこんな桜の花を見たとしたら、どうする? あ、想像は普通サイズでお願いしますよ」そう言われ、俺は疫喰い桜の、虹色油膜の輝きをまといつつも、ふわふわとやわらかそうな花々にあらためて意識を向けてみた。──あんまり見つめていたくない。正体を知っているから、ってことじゃないと思う。なんかこう、あのぎらぎらテラテラした照りのような、妙な雰囲気が受け付けない。「綺麗なんですけど──、ちらっと見るだけでいいというか、遠目に見るならいいのかも」言葉を選びながらなんとかそんなふうに告げると、だろうねぇ、とうなずかれてしまった。「何でも屋さんのように健全な精神を持つ者には、アレの桜はまさに|こ《・》|っ《・》|て《・》|り《・》していて、長く見つめていたいと思えず、無意識に意識をそらせてしまうものなんだがねぇ。藁人形に託した憎い相手に、夜の夜中、五寸釘を打ち込もうなんていう精神状態の者には、それはそれは魅力的に見えるようだよ」「魅力的……」たしかにそうかもしれないけど、俺の本能みたいなものが、何かが違うといっている。だって、虹色油膜の輝きがやたらにツヤツヤてらてらイキイキしてて──それは、俺がいつもあの鯉のループタイを見て感じることじゃないか……! って。「あ」思わず声をもらしていた。だって、“鬼”たちが疫喰い桜の花びらにたかりだしたんだ。うわ、さっきより勢いがすごい。まるで強力な磁石に、砂鉄が吸いつくみたいに──。「ふふ、見惚れていたのが動き出したか」「見惚れ……?」「とてつもなく美しいものに、いきなり出会ってしまったと考えてごらんよ。誰だってびっくりして固まるだろう? “鬼”どもも同じだ、今まで棒立ちになっていたのさ。やつらにとって、報恩謝徳の桜も及びもつかないほど美しく魅力的な、疫喰い桜の出現に驚いて」どろどろとした怨念に凝り固まった丑の刻参り希望者たちと、やつらは同質のものだからねぇ、と続ける。「他人を思いやることのない、欲。己の負の感情以外何も認められなくなり、結果、自ら生み出した怨念に突き動かされるしかない丑の刻参り希望者たちの願望、それもまた欲。桜樹の身に、貪欲な鯉の性を宿したアレの大好物だ」見ている間に、疫喰い桜の花がひとつ、またひとつと、黒く禍々しい靄をまとった“鬼”を捕らえて消える。いや、消えるというより、あれは……え? 内側に引っ込んでいく──? つづく……。
2020.06.21
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「……」おどろおどろしい来歴を持つ桜の木を材に、一刀彫に彫られた鯉は、大きな口を開けている。目の前に落とされた麩を、ひとかけらも余さず呑み込まんとするかのようなその姿は、実物の何分の一かの大きさにもかかわらず、やたらに貪欲そうで、妙に力強くもある──。活躍って何するの? まさか、あの口がこれからパクパク動いちゃったりする? 競争の激しい池に棲む、腹をすかせたリアル鯉みたいに……とか慄いていたら。「え……?」鯉の頭から、ぽわっと一輪、桜のお花。「な、」唐突に咲くそのさまは、幹からいきなり花が開く胴吹きみたいで。「な、なんで──」切り倒され、加工された木って、既に生命活動を終えているはずだよな? |生物《いきもの》的に生きてないっていうか、花とか葉っぱとか、今さら生やすはずなんてないっていうか、いや、だから、その!「ほっほっほ」有り得ない光景に驚愕し、言葉を無くす俺に、真久部の伯父さんが楽しそうな笑い声を上げる。「木彫りから花が咲くのを見たのは初めてかい、何でも屋さん? ふふ、まだまだ咲くよ。もっともっと咲くよ。──ほれ、頑張れ。頑張って見てもらえ、お前の晴れ姿を。咲け、」 疫喰い桜!鋭く命じる声と同時に、伯父さんはループタイを真上に放り上げた。その瞬間。 もこ、もこもこもこ桜の花が、桜の木になる。 もこもこもこ もこもこもこ縦にぐんぐん伸び、横に枝を張って。ポップコーンみたいに次々花が開く。木が膨らんでいく。 もこもこ もこもこ もこもこ もここ綿あめでできた雲のように、広野にかかる霞のように。やわらかそうな薄紅の花が、報恩謝徳の桜の森を覆い尽くすほどに広がってゆく──。まるで、世界樹みたい……。そう思った俺の心の声が聞こえたのか、知らずに口に出していたのか。「ほう、世界樹か……今、ここだけの限定ならば、そうなのかもしれないね」疫喰い桜が世界樹とは、世も末だねぇ、と、機嫌良さそうにスタイリッシュ仙人が笑う。「……あの……桜はわかりますけど、えきくい、って何ですか?」ああ、と伯父さんは説明してくれた。「疫とは、|疫病《えきびょう》、|疫病《えや》みの意味。つまり流行病のことだよ。この悪食の鯉は、疫病みに隠れて人を操る“鬼”どもをも喰らうのさ」「操る、って……」「わかりやすく言うと、寄生虫、だな。何でも屋さんは、ハリガネムシという虫を知っているかい?」甥っ子ゆずりの(いや、年齢から考えればこっちが元なんだろうけど)小首を傾げる仕草で、邪気しかなさそうな無邪気な笑みで。「ハリガネムシは、カマキリやバッタ、カマドウマなどにつく寄生虫だ。元々は水辺の小虫に寄生しているが、最初の宿主が肉食昆虫に捕食されることにより、ハリガネムシは自らに最適な宿主を得る。そして宿主の栄養を啜って成長し──次はどうすると思う?」無邪気な邪気に捕らえられ、俺は身体を強張らせる。気持ち悪い虫として、その名前は聞いたことはあるけど、詳しいことまで知らない。というか、あえて知ろうとしなかった気がする……。「成長すれば、他の生き物と同じさ。ハリガネムシだって子孫を残さなくちゃねぇ。だから次は生殖活動に入る。そうするためには水に戻らなければならない。水から来て、水に戻るんだよ、生まれた川に戻って産卵する鮭のように。だが、宿主に寄生しているだけの分際で、どうやって戻るのか? 陸をフィールドにしているカマキリたちは、普通は水辺に近寄らない」「……」どうするんだっけ、ああ、ネットで見てしまった画像についてた説明を思い出したぞ、たしか──。「そこで、ハリガネムシは宿主の脳をジャックするのさ。自ら分泌した何らかの物質をその脳に作用させて水辺に導き、飛び込ませる。入水自殺させるんだ。宿主が水に入ったら、尻からうねうねと長いからだを脱出させて泳ぎ出し、同じようにして水に戻ったツガイを探す。用済みになった宿主はといえば、可哀想に子孫も残せず、魚に食われて終わりだよ」そうだった。寄生虫が宿主を操るなんて、怖くて気持ち悪くて覚えていたくなかったんだ。「なんでも、キラキラと水面に反射するする光が、こよなく魅力的に見えるようになるらしいよ? きれいだなぁ、近くに寄りたいなぁ、さわりたいなぁ……」頭の奥に、さっきの“声”が甦る。欲しい 欲しい──。「似てるだろう、アレたちに」 欲しい ほしい 欲しいよぉああ、気持ちが悪い。「いくらきれいでも、光など手に入らない。それなのに、憧れて、焦がれて、魅せられて。思考停止したままふらふらと近寄っていく」きれいなきれいな報恩謝徳の桜を、ただただ欲しがるだけの外道──。「……“鬼”」「あの“鬼”たちは、本来ならここに、この賽の河原に来ることはできない。何故なら、やつらには魂がないのでね。だから人に寄生するのさ。寄生して、乗り物にして、ここまでたどりつく──宿主の魂を犠牲にして」「ってことは……寄生された人は、死んでしまうんですか……?」乗り捨てにされるの? ハリガネムシに取りつかれたカマキリみたいに──。震える声でたずねる俺に、真久部の伯父さんは胡散臭く笑ってみせた。「そうならないように、頼まれたのさ。──ほれ、見てごらん」あれを。そう言われ、あらためて鯉の木彫りから生まれた疫喰い桜を見上げた。ようやく膨らみ終わったか、今は落ち着いて、満開の花たちがただふわふわと揺れている──。「……」生気にあふれて、すごくすごく綺麗なんだけど、でも。どうしてそんなにつやつやイキイキぎらぎらしてるのかな。まるで油膜がはったように、虹色の光沢があるのはなぜ?つづく……。
2020.06.18
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