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「だけど、それはそういう未来の技術? があったから出来たことだと思います。今回のような場合いだと、どうなるのかな、えーと……」「一つの世界に、同一の存在は同時に存在し得ないそうだねぇ?」友人はそう言っていたよと、伯父さんはこちらが落ち着かなくなるような笑みを浮かべてみせる。「……SFでは、別の世界から来た存在に、同一の存在はさらに別の世界に弾き出され、その別の世界でも、弾き出された存在に、同一の存在が弾き出されて──というのを、繰り返すとされることが多いですね」AがA’に弾き出され、A’はA’’を弾き出して、それが無限に繰り返される──。「合わせ鏡の中みたいに、果ての見えない話です」そして、とても怖い話だ。もしや、この世界の鳥居さんは、A’ の世界に弾き出されたんでは──。俺の顔色を楽しんでいたらしい伯父さんは、真久部さんにつつかれて、名残り惜しげに軽く唇を尖らせてみせてから、わざとらしい笑みを作った。「何でも屋さんが何を考えてるのかはわかりますが、そういう心配はないんじゃないかなぁ? だって、この“鳥居”は友人の頭の中から直接転がり出たんだ。だから、同じ存在はこの世にはいないと思うなぁ。別の世界に弾き出されるような存在は、ね」「……」“そういう心配”するような怖いことを考えさせようとしたくせに、このヒトは……。そんな伯父さんの、いつもの調子にイラっとしながらも、俺は思う。SFは読まないと言っていたけど、なかなか詳しいんじゃないかな……。友人だったという、あのSF作家さんの話を聞いているうちにそうなったのか、それとも、鏡の中の不思議な世界が伯父さんの好みに合っていたのか──。「ふふっ」俺がぼんやりしているあいだに何を思い出したのか、伯父さんは軽く吹き出している。「鏡の中は、面白いところらしいですよ。もちろん、私は見たことはないが、|彼ら《・・》の話はとても興味深かった」鏡の中は光に満ちていて、影すら激しく輝きながら眩しく伸び縮みし、外からの光が射すたび、キラキラとそこいらじゅうを跳ねまわっているらしいよと、この慈恩堂店内の手鏡だの、小さな鏡台だのが置いてあるエリアを示す。「光で織った虚像……まあ、そこにいるはずのない人物とか、景色だね。そういうのを表に映してやると、驚きすぎて目を開けたまま気絶するのがいるから、瞳の中に入り込んで遊ぶんだって。そして次にそいつが見た鏡の中に飛び込で、また同じことをしてやるんだとか。ねぇ、面白いと思いませんか? 何でも屋さん」好みに合ってたみたいだな。悪戯な瞳がこころなしか輝いて見える──。だけど、誰視点の話なんだろう……? いやいや、考えたら負け。そう思い、俺は話を戻そうとした。「えっと、つまり。そういう感じで、あの鳥居さんはあの、萩の鏡の中に飛び込んだってことですか?」「元の世界に帰ったんだよ」にったりと笑い、またわけのわからないことを言う。「……どこの世界に?」別の世界に弾き出されるとかじゃないというなら、並行世界の話じゃないってことだろう? 「友人の創り出した世界にさ。あの鏡の中には、幾つも幾つもそんな世界が広がっている、それこそ萩の枝のように。現実で完結させた話も、まだ途中の話も、思いついただけの話も、ただのアイディア、形にもならなかった何かですら」それらがぶつかり合い、融合し、残された欠片が欠片を集めて大きくなり、ぐるぐる回り始めたり──。「なんというか、そうだねぇ。思考の渦、というのかな」「……」なんだろう……銀河の渦を、銀河系を連想した。まさか、あの鏡の中には、それほどの時空が存在してるっていうんだろうか。「どうしたね? とてもSF的な話だと思わないか?」「思いますけど……どうしてそれがわかるんですか?」見えるんですか、とか聞きたくなったけど、怖くて聞く気になれない。だって、伯父さんたら本当に楽しそうなんだよ。何がそんなに楽しいのか、聞くのをためらっているうちに、本人が答えてくれる。「あの鏡に、※※が育っているからさ。ある意味、呪物になっているんだよ」「じゅ、呪物?」俺の耳にはいつもぐにゃっとして聞こえない単語と、怖い言葉が飛び出して、俺は肩を跳ねさせた。つづく……。四月から異動になりましてね……。以前より、ちょっと遠くなってしまいました。
2024.04.26
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「愉しく酔っぱらってさ、萩の鏡をモチーフにしよう、と言っていたのを覚えているよ。萩の枝の一本一本が並行世界だ、交わることはないけれど、根は同じ。咲き乱れる花は星の光、さて、どんな宇宙が広がるのか、広げようか……と友人が考え込んでいたから、私は言ったんです。広げるならばその鏡を使えばいいじゃないか、合わせ鏡にすれば見かけ上、無限に増えて見えるだろう──」だけど、鏡面と萩の絵柄は表裏一体、背中合わせ。どうやって映すのかねぇ、とさらに混ぜっ返してやったら、ならもう一つ同じ鏡を出そう、反物質というのがあってね、と話し出すから、きりがなくて勘弁してもらいましたよ、と苦笑い。「同じアイディアから始めても、そのプロット、筋道と結末は、それこそてんでに伸びる萩の枝ほどあると言っていた。どれを選ぶか、どこに行くか、決めた先でまた枝分かれ。だから先に結末を考えておくんだけれど、それでもどの道を通るか幾通りでも思い浮かぶ。クォ・ヴァディス! などと、時々呻いていたね、意味は何だっけ、キリストの……」ああ、確かドミネ、を付けて『主よ、何処かに行きたまう』という意味だって、友人は言ってたっけ、と伯父さんは自分の記憶にうんうんと頷いている。「イエス・キリストの弟子、べテロの言葉で、平たく言うと、どこへ行くんですか? ってことだな。キリストの返事は、ペテロが逃げてきたローマに赴く、ということだった。古代ローマ帝国ではキリスト教徒が迫害されていた、というのは世界史でも習うことだからご存知かと思うが、老齢のペテロはこのキリストの幻なのか何なのか、とにかく、既に十字架に掛けられこの世にいないはずの師の姿に遇わなければ、そのままローマの迫害を逃れ、どこか別の場所に行ったかもしれないし、そこでもまた迫害され殺されることになったのかもしれない。あるいは生きて布教活動を続けていたかもしれない」現実でもそれくらいの運命の枝分かれがありますよね、と伯父さんは続ける。「でも、その最中にいる者にはそれが見えないから、迷いようもない。あるいは、迷った挙句自分で選んだ運命を突き進む。しかし、その<運命>を決められる立場の者は悩む。テーマやら、話の流れやら、設定した登場人物の性質やら……考えることが山ほどある。そしてその通りに動かそうとするが、枝道が多くて迷う」そこで、クォ・ヴァディス、らしい、と元に戻った。「友人にとっては、自分の生み出した登場人物、設定、ストーリーこそが、ペテロがアッピア街道で出会ったイエス・キリストの姿のようなものだったんだろう。「どこへ行くのか?」。──結末が決まっているならそのまま進めればいい、と私なんかは思うんだが、書き手の考えはわかりません。より良い道中を、より良い景色を求めて行き惑う。友人の頭の中には、常に並行世界が、萩の大木があったんでしょう」どの枝を選ぶか、枝から枝へどう渡るか。それが作家の個性であり、また、いかにそれを魅力的な枝に見せることができるかが、腕の見せどころであり、才能というものなんだろう、と結ぶ。「きっと友人は、自宅の廊下を歩きながら、頭の中の<鳥居>に、クォ・ヴァディスと問いかけていたんでしょう、いつもそうやっているように。そして、たまたまその瞬間に滑って転び──どこへ行くのだと問われた<鳥居>が、この世界に落っこちたんだと私は考えていますよ。ちょうど渡りかけの枝から枝のあいだで、足を滑らせてね」作者の死により、元の場所に戻ることもできず、行く先もわからず。だから自分の持っているものだけを頼りに<生きて>きたんだろうね、と続ける。「設定おいたちと、性格と、名前と。それだけを持ってこの世界に来て、たまたま空き家だった本当の鳥居さんちに嵌まりこんだ。そこが作者が自分のために用意した場所だと、<鳥居>は思う意識もなく思い込み──暮らしていたんだ、父を思う息子として」「でも、仕事は? あの鳥居さんは仕事が忙しいことや、同僚の話もしてくれましたよ」実体はあったのかどうか、そこも気になるけど……また伯父さんが怖がらせようとしてきそうだから、はっきり聞くのが怖い。「そういうところはたぶん、SF小説をたしなむ何でも屋さんのほうが詳しいんじゃないかな? 私は映画の『時を駆ける少女』くらいしか知らないが、未来から来たも、別の世界から来たも、来られた方からしたら、同じようなものだと思いますがねぇ」どうです? と笑みを含んで訊ねてくるその顔は、完全に猫ま……いや、この人は機嫌が良いだけなんだ。胡散臭さが孫の真久部さんの三倍以上に感じられるから、猫の妖怪を想像してしまうだけで。真久部さんは──うん、彼の場合は古猫の笑みくらいで収まる。それはそれで、やたら意味ありげで怖……いや、伯父さんに比べたら、うん。つい慄いてしまう自分をなんとか誤魔化しつつ、俺は伯父さんの言ったことを考えてみる。「記憶操作、っていうやつなんでしょうか……? 『時を駆ける少女』の場合はそうでしたけど」未来からやってきて、主人公の少女の前に現れた少年(?)は、自分が<過去>に滞在するあいだ、周囲の人の記憶を操っていたんだっけ。自分の存在が不自然でないように、目立たないように。つづく……。伯父さんが観たのはどのバージョンだったのか。外、雨が酷いです。
2024.03.26
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鏡にまつわるあれやこれやの怖い話が、頭の中を駆け巡る。鏡の中の自分が語りかけてくるとか、そこに存在しないはずのものが映っているとか、鏡の中に引きずり込まれるとか──。「……いや、あはは。鏡って、光を反射するから物が映るんですよね。鏡ほどはっきり映るものはないというし、光の魔術師っていうか、やっぱりマジシャンじゃないですか。あははは」我ながら何言ってるのかと思うけど、とにかく笑う。笑っておく。わざとらしくても気にしない。「また、そこに戻るのかい! マジシャンに」一瞬ポカンとしていた伯父さんが吹き出した。俺、そんなに面白いこと言ったかな。この人のツボが分からない……と思っていたら、真久部さんの肩まで震えている。何で?「だから、何でも屋さんの|コレ《・・》は手強いって言ったでしょう、伯父さん」そう言う真久部さんの顔は真面目を装ってるけど、苦しそうな咳払いの中には笑いがにじんでる。なんか気に入らないけど、伯父さんの怖い語りを遮ってくれたんだろうから、そこは気にしないでおく。「いい加減、横道に逸れてないでちゃんと説明してあげてください」そうだそうだ、と心の中で真久部さんを応援していると、笑い涙の滲んだ目元をぬぐい、横道じゃないんだよ、と甥っ子の苦言をいなして伯父さんはお茶を啜る。笑ったら、喉が渇いたらしい。「人がなんとなく鏡を畏れてしまうのは、その向こうに本当に別の世界があるからだ。──それをね、言いたかったんですよ何でも屋さん」「は、はぁ……」だから、怖がらせるつもりはなかった──なんてことはないだろうな、その楽しそうな瞳を見ていると。「並行宇宙って知ってるかな?」「知ってます。パラレルワールドですよね」SFにはよく出て来ます、と言うと、伯父さんは意外そうな顔をした。「おや、何でも屋さんはそっちも嗜むのか。じゃあ、私の友人の作品も読んだことがあるのかな?」言われた名前を聞いて、俺は驚いた。寡作だが、わりに知られた作家だったのだ。「『井戸』とか読んだことがあります──真久部さん、作者とお友だちだったんですか」それは、どこにでも井戸を発生させることのできる“手”を持つ男の話だった。泉ではなく、井戸。水は汲めるけど、奥が見えない。ある日、転びかけた男が“手”をついた牛の腹にも井戸が出来てしまい、聖なる牛と崇められることになった牛と男は──という、|少し《S》|不思議《F》な話だった。「『井戸』ですか。私はあんまりそっちは読まなくてね。それだけは主人公のモデルが私だというから、読んでみましたが……」あんまりよくわからなかったなぁ、と苦笑いする伯父さんを見ながら、俺は遠い目になる。──あの作者、友だちのことをずいぶん良いように書いてたんだなぁ……。「友人は、これから書く話のプロットとか、よく話してくれたものでしたよ。私にはほとんどチンプンカンプンで、聞いてもよくわからなかったけれど……本人はそれでも良かったらしい。頭の整理ができると言っていたっけ。『SFは思考実験だから、いったんアウトプットしてみると、そこからまた新しい思考のツリーが生まれる』なんてね、難しいこともね」「……」これから書く予定の話を聞かせてもらえるなんて、ファン垂涎ものの立場だけど、本人は特にありがたそうでもない。まあ、そういうものなんだろうなぁ……。「最後に会ったときだったよ、鳥居という、少々寂しい境遇の男を主人公にした話を考えている、と聞いたのは。母を早くに亡くし、父と二人暮らし。何もないけど穏やかな日々が、父の入院で変わってしまった。父も自分も、特に趣味もなく、何かに夢中になることもなく生きてきた。だけど、それで良かったのか。男手ひとつで自分を育ててくれた父だったけれど、幸せだったんだろうか、再婚したいと思ったことはなかったんだろうか、自分たちにはもっと色々な可能性があったのではないか──と、思い悩む男の話だ」もし、母が生きていたら、もし自分に兄弟がいたら。もし父が自分を省みず、仕事に全振りした生活を送っていたら──父を失うかもしれない未来に恐怖する男が、何かのきっかけで自分が想像したような別の世界に移動してしまう、そういう「IF」の話だったよ、と伯父さんは語る。「私は、ふーん、と聞いていただけだが、友人は語りながら頭を忙しくしていたようだった──。私はだんだん退屈してきて、つまり、『胡蝶の夢』のようなことなのかい、とまとめようとすると、そういう方向もあるね、と笑っていたっけね」自分の夢か、蝶の夢か、どちらが夢でどちらが現実か。鳥居のいるこの世界は、別の世界の鳥居の想像した世界ではないのか──。「『胡蝶の夢』を書いた荘子は、夢だろうが現実だろうが、どっちでもいいんだ、ということを言いたかったようだがね。自分が在って、蝶が在る。そのどちらもが自分で、だが同時に同じ夢には存在しない──そのあたりが、友人の考えていた並行世界に彩りを添えたらしい。とても喜んで酒を奢ってくれて、本が出たら送るよ、と言ってくれていたんだが、その矢先にあんなことに」困り顔に似た、複雑な笑み。伯父さんには、ご友人の書く小説より何より、ご本人が生きているほうが、ずっとずっとうれしかったんだろう、と伝わってくる。つづく……。今朝は寝坊して、最終防衛ラインの目覚まし時計の、けたたましいベルの音で目が覚めました。
2024.03.14
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「友人は、別にそっち方面に関心があったわけでもなかったんです。私の持ち物を見て、古そうだけどなんか良いね、とか言うくらいでねぇ。なのに旅先で買ったと、こんな割れてないだけが取り柄の古道具を見せられたときには驚きました。本人は、なんか良いと思ったから、とか言ってたけれど」呼ばれたのかねぇ、と、この人には珍しくたぶん普通の冗談を言う。「鏡の裏の、萩が気に入ったとは聞いたよ。さすがに、鏡面が割れていたら買わなかったとも言っていた。塗りが剥げ、螺鈿もいくつか欠けていたが、それでもこの萩がいいと──好みというか、本人の感覚と合っていたんでしょう」石ころの中に見つけた宝物、他の人間には石ころに見えても、と思い出の中に向ける瞳はどこか微笑ましそうだ。「別にその道具に**が育っていなくても、呼んで呼ばれて出会うことがある。それも縁というのさ。友だちに出会うのと同じことだよ」道具に育つ**何か──。いつもそこだけ耳がぐにゃっとして聞こえないけど、古い道具には“何か”が育つことがあって、その“何か”がある道具は、とても魅力的に見える、らしい。この慈恩堂のあちこちで俺にアピールしてくるやつらなんかは、俺からすると、無駄な存在感がある、ように見える。そうでないやつらも、なんかツヤツヤしてたりテカテカしてたり……まあ、伯父さんが言ってるのはそういうことなんだろう。それに中てられ、惹かれて出会う縁もあるけど、この場合は本当にただの偶然だと──「友人は、きれいに拭き上げただけで、特に修理もせずにいた。ただ書き物机の上に置いて、時々眺めては気分転換をしていたそうだよ。古ぼけてところどころ破損している萩の姿、その裏側の古い鏡とそこに映る自分の顔、周囲の資料や本、ドア、窓の向こうの庭木の枝、反射する光、光──。そういったものが面白くて、気づけば煮詰まって止まっていた筆も動き出すと笑っていましたね」道具と、良いつき合いをしていた、とかつての友を思う表情は柔らかい。「ドジを踏んでポックリ逝ってしまった後、残されたこれ。大切に扱われてはいたけれど、傍目にはやはり見窄らしい、ただの壊れた道具だ。奥方が気味悪がってね、これのせいで主人に悪いことがあったんじゃないか、なんて──まだそんなトシじゃなかったからね」奥方は、怖がりのくせに怖い話が大好きな人だったから、鏡の出てくる怪談あたりにちょっと影響されてしまったんだろう、と苦笑い。「かといって、捨てるのも怖い。どうしたらいいかと相談されたので、形見分けにもらってきたんだ。ちゃんときれいに修繕してお返ししますよ、と提案したんだけれど、やっぱり怖いからいいです、と遠慮されてしまった」うっかり者のあの友人と添い遂げただけあって、朗らかで懐の深い人だったが、一度怖いと思ってしまうともうダメだったんだろうね、と言う。「まあ、鏡は昔から神秘的なものとされ、祭祀にも使われるほどだし、その向こうにもう一つの世界が広がっているという考え方は、古今東西変わらない。神秘的というのはつまり、得体が知れないってことでもある。今では気にしない人もいるが、それでも、だいたいは昔からの扱いのルールを守っているね。迷信に囚われるというほどではないにしても」「……」そういえば、手鏡は使わないとき伏せておきなさい、とか、三面鏡も開きっぱなしはダメ、とかいうよな。俺も子供の頃、母に注意されたことがある。何でも屋の俺を贔屓にしてくれてる布留のお婆ちゃんも、嫁入りに持ってきたという古い鏡台の鏡に、着物みたいな生地の覆いを被せてる。「確かに、あんまり鏡をむき出しにしてることってないですよね。鏡面を保護するためかと思ってましたけど、それだけでもないのかな……」「もちろん保護の意味も大きいですよ、単純に割れやすいもの。もっと昔の、石や金属を磨いた鏡は傷つきやすいし」そう言って、伯父さんは笑う。「洗面台の鏡とかトイレの鏡なんか、昔の人が見たら仰天するだろうね。量産できるようになったんだから、普及するのは当たり前だし、あったほうが便利なんだから仕方がない。だけど、何でも屋さん、不気味に思ったことはありませんか?」「──何を?」「学校の、誰もいない放課後のトイレ、薄暗い雑居ビルや地下街、古い旅館の洗面所で見る鏡。あるいは、夜、作りつけの鏡の前を横切るときなんか。どうです? 何も無いけど気味が悪い。これまでに、そんなことはなかったですか?」「……」俺の顔色を眺める意地悪仙人は、とても楽しそうだ。「誰でも、一度はそんな思いをしたことがあるはずだよ。鏡を畏れる気持ち、それはほとんど本能的なものだ。ただの虚像だと、理性は判断する。けれど、そうでない部分が囁く、そこに映っているのは、本当にこちらの世界なのか? と。あれはこちらの世界に似た別の世界で、そこに映る自分の顔は、もしかしたら、自分にそっくりのあちらの世界の住人の顔ではないのかと──」つづく……一月も二月も逃げて行ってしまいましたね……恐ろしい!
2024.03.04
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ぼーっとしたまま考えていると、悪戯っぽい瞳が俺を捉える。「ほう、猫又ねぇ? 会ったことがあるのかい?」俺、思ったことをうっかり口に出してた?「まさか。見たことないですよ!」いくらこの人が胡散臭いからって、そんな妖怪(猫又って、妖怪だよな?)と一緒にしたら失礼……なはず。だから俺は慌てて首を振った。こっちを見てニヤニヤしてる伯父さんは気にしてないような気もするけど、ここは否定しておくべきだと本能が警告してくる。「……ふーん? 本当に?」「ええ、もちろんです」見たことないっていうのに、疑わしそうな瞳が不思議だ。俺の無意識失礼発言(本当に口に出してたのかな……?)より、そっちのほうが気になってそう。だけど、猫又なんて空想の産物、現実にその辺を歩いてるわけないじゃないか。彷彿とさせる人物は目の前にいるけど。「まあ、いいですよ。──きみのその腕時計、なかなか面白いねぇ?」そう言って、またもや思わせぶりに目だけで笑い、伯父さんは美味そうにお茶を啜っている。この人が古い道具と会話できることは知ってるけど、まさか、こんな新しい時計とも話せる、のか? だとしたら、何を……。「……」ふと、何かが頭の隅を過って行った。それは、時々見掛ける野良の白い猫の姿をしていたような気がする。俺を事故の直撃から護ってくれたとしか思えない、あの不思議な猫──。朝焼けの中の幻は、心の中に大切に仕舞ってある。「いや、その、ですね」複合商業施設のショップで適当に買った腕時計なんて、どうでもいい。「その、鏡は、どういう……」目の前で突然人が消えた恐怖が、伯父さんの胡散臭い言動で薄まったというか、なんというか。俺はようやく萩の鏡の不思議さに意識を向けることができた。「これは、私の友人の大切にしていたものでねぇ」ほんの少し、懐かしそうな目になる。「鳥居さんの、お父さんですか」倒れる前に修理を依頼したのは、慈恩堂じゃなくて、真久部の伯父さんのほうだったのか。そう思ってたずねたら、あっさり否定された。「いや、違いますよ」「え?」「“鳥居”なんて人間は、この世に存在しないんですよ。同じ苗字の人はたくさんいるだろうけどね」「え……?」俺、ちゃんと鳥居さんに会ったよ? お邪魔するとき、表札だって確認したし。「でも、あの人、鳥居さんでしたよ。呼び鈴押したら出て来てくれたし、話だってしたし……俺のことも知ってました、あのご近所の植木の剪定してたことも」「|棲《・》んでいたからね。あれは」「鳥居さんちに住んでた鳥居さんが、鳥居さんじゃない……?」真久部の伯父さんの言ってることがわからない。何故かとびきりご機嫌なのはわかるけど、ほんと、それしかわからない。混乱してきた俺の頭は、考えたくない答を弾き出してしまった。「もしかして……今日俺がしゃべってたのって、幽霊だったんですか、鳥居さんの……?」この世に存在しないというなら、生きてる人間じゃないってことになる。ってことは、やっぱりあれは幽霊だったとしか──。「大丈夫ですよ、何でも屋さん。きみが今日会ったのは、幽霊なんかじゃないですからね」慄く俺に、真久部さんが力強い言葉を掛けてくれた。「だから、怖がらなくてもいいんだよ。きみは何もおかしなことはしていない。ただ、鏡を持って行っただけでね」「そう、鏡を持って、捕まえて来てくれた」伯父さんが、ニイッと笑う。こ、こわ……。「俺は、何を……捕まえたっていうんですか?」スタイリッシュ仙人の笑顔の圧力に負けて、俺はストレートに聞いてしまった。直球を投げるしかなかった。「登場人物、というやつさ。小説の中の」「へ?」「私の友人は、小説家だった。それなりに売れてたんだが、ある日うっかり死んでしまってね。──本当にうっかりだったんだよ、自宅の廊下で滑って転んで頭を打つなんて」「……」「元々、何もないところで転ぶような奴だったよ。そんなことで死んだら、葬式で笑ってやるんだからな、と呆れてたものだが──、実際は笑えないものだねぇ」ここではないどこかを見ながら、苦笑い。しょうがない奴だな、と呆れつつ、でも諦めるしかなかった|友《伯父さん》の気持ちが伝わってくる。「“鳥居”というのは、あいつの絶筆となった作品の主人公だ。作者に死なれて、いきなり道先が断たれた。だから逃げ出した──というより、迷い出てしまったんだね、現実世界に」本来この世界にいるべきものではない、という意味では、やっぱり幽霊みたいなものだと思わないかい? と、ちょっと意地悪な顔をしてみせる。「でも、幽霊とは違うんですから」「マジシャンでもないだろう?」|俺《何でも屋さん》を怖がらせるな、と窘める甥っ子に、意地悪仙人はわざとらしく首を傾げてみせる。「……」のらりくらりと言い抜ける伯父に閉口してしまったのか、真久部さんはあとは黙って俺に茶菓子を勧めてくれるだけだった。俺がまだ手をつける気になれないのをわかってくれてるんだろう、個包装のものばかりだ。「この手鏡はねぇ、その友人が蚤の市で見つけたものなんだよ」そんな甥の姿を楽しげに眺めながら、真久部の伯父さんは言った。つづく……<俺>は、猫又よりも珍しい猫イタコがその辺を歩いていることを知りません。
2024.02.14
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ちりんちりん、と慌ただしくドアベルが揺れる。駅裏ビルの半地下の、慈恩堂の入り口ドアを開けるのに、いつもは必ず少しは緊張するのに、今日の俺はそれどころじゃなかった。「真久部さん! 真久部さん! 真久部さん!」だって。人が一人、目の前で消えてしまった。茫然自失の驚愕のあとに、遅れてやってきた恐怖。それに追いかけられるようにして、俺はここに逃げ込んできた。もしかして一番ダメな場所かもしれないけど、今の俺にはこの慈恩堂しか逃げ場がなかった。雑多な骨董古道具にあふれた通路を縫い、息を切らせて帳場の前にたどり着くと、いつもは地味に整った男前面に読めない笑みを標準装備の店主が、今日は何故だか申しわけなさそうな顔で頭を下げてきた。「すみませんでしたね、何でも屋さん」何が、と考える間もなく、隣の畳エリアから暢気を装った面白げな声が掛けられる。「いやあ、きみならやれると思っていたよ、何でも屋さん」白い髪、白い髭。白い眉の下に悪戯な瞳を光らせる真久部の伯父さんは、今日もスタイリッシュに仙人めいている。甥っ子の真久部さんよりも、数段胡散臭くて怪しい笑みを浮かべているのはいつもどおりだけど、今日はなんでそんな満足そうな顔……いや、今はそんなことどうでもいい。「消え、消えちゃって、人が。鳥居さんが消え──真久部さん!」訴える俺の肩を、帳場から下りてきた真久部さんが労わるように叩き、そっと腕を引いて畳エリアに上がるよう導いてくれた。「それは吃驚しましたね。わかりますよ。まずはお茶でも飲んで、落ち着いて。ね? 何でも屋さん。──伯父さん、お茶を淹れてあげてください」そんな言葉をぼんやり聞きながら、気がつくと、俺は慣れ親しんでしまったこの店の畳エリアの、ちゃぶ台の前に座らせられていた。「ほら、何でも屋さん。温めにしてあるから、まずは一杯お上がりなさい」真久部の伯父さんが機嫌良く勧めてくれるお茶を、言われるままにひと口ふくむ。「……」喉がカラカラだったことに気づき、俺は残りを一気に飲み干した。吐きだした溜息とともに、身体の力が抜けたような気がする。「さ、次は熱いのを。|あのラーメン屋《・・・・・・・》の甘茶ほどじゃないけど、このお茶もなかなかの甘露だと思うよ。お茶にうるさい何でも屋さんのために、|産地で仕入れてきた《・・・・・・・・・》からねぇ」スタイリッシュな仙人は、いちいち何かを含んだような言い方をしてくるけれど、あの甘茶とか産地ってどこだとか、そんなことに反応してる余裕までは、お茶はもたらしてくれなかった。「……今日は揶揄いがいがないねぇ。やっぱり、ショックだったか」「当たり前でしょう、伯父さん。何でも屋さんは普通の感覚の持ち主なんですからね」俺を挟んで、二人が何か話してる。「もう慣れてると思ったのになぁ」「あなたや僕とは違うんですから。──僕だって、あなたほど慣れてはいませんよ」「謙遜しなくてもいいのに。素直じゃないねぇ?」「謙遜なんてしていないし、素直でなくて結構です。今は何でも屋さんですよ。あなたが事前に説明しなかった理由はわかりますけど、何でも屋さんにとっては災難でしかないんですからね」「災難か」そう言って、伯父さんはくすくす笑った。邪気なんて無さそうな、そのくせ邪気しか感じさせない笑み。「幽霊なら、見たことあるんだろうに、何でも屋さん。この店でもさ。怖い思いはしても、害はなかったでしょう? それならそんなに怖いことじゃないんだよ」「……!」怖い言葉が引っかかって、俺は思わず声を上げた。「ゆ、ゆゆ、幽霊だったんですか、鳥居さん、あの人、あれ、幽霊だったんですか?」たしかに、俺、幽霊見たことある。この店でも見た──見てしまった。二回目のアレは……思い出したくもない。「幽霊以外の何だと、きみは思うかね? 何でも屋さん」ようやく反応した俺に、にったりと、伯父さんは古猫よりもさらに怪しい笑みを浮かべてくる。「ま、マジシャンとか」怖い方向から逃れたくて、俺が脳みそを絞って答えると、伯父さんはブフッと吹き出した。「マジシャンと来たか! 相変わらずボケがすごいというか、なかなかの食わせ者だねぇ。アハ、ハハハ……! ああ、腹が痛い」まだ笑ってる。そこに甥っ子が冷たく釘を刺す。「何でも屋さんのソレは、筋金入りですから。あまりいじめると嫌われますよ」僕だって気をつけてるんですからね、と真久部さんは悪戯っ気たっぷりな伯父を睨み、ぼんやりしている俺には、気遣うように、穏やかな声を掛けてくる。「さあ、何でも屋さん。伯父の預けた鏡を出してください。物騒なものは、もうこの人に返してしまいましょうね」「あ、鏡……?」そうだ、鏡。萩の手鏡。「ええ。もう怖くないですから。さあ、あの鏡を」どうしたっけ、あれ。俺が鏡を持って、それを鳥居さんがのぞきこんで。植木鉢から爆発してるような、あの萩の枝が映っていると。鏡の中にも萩が見える、そこにお母さんがいると言って、子供のようにお母さんを呼んで、呼んで、そして消えて──。「……」大事な預かりものだから、無意識にポーチに仕舞ったらしい。斜め掛けしたままのそれを肩から下ろして、俺は中からあの袱紗包みを取り出した。「どれ」真久部さんが受け取る前に、伯父さんが手を出してするりと奪っていく。「伯父さん……!」甥っ子の抗議の声もなんのその、無造作に袱紗をめくり、鏡をのぞき込んでいる。「……ああ、うん。無事に捕まえることができたみたいだねぇ。いいことしたよ、何でも屋さん」にいっ、とご機嫌な猫又のような笑みを向けてくれるけど、何が? 俺が何をしたと?つづく……。一月終わってもう二月? 嘘だと思いたい……!
2024.02.01
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「……」それは違う、と俺は首を振る。「一方通行なんてことないです、そうじゃないですよ。娘に心配されて、俺はうれしいです。お父さんだってうれしいんですよ。うれしいから、心があったかくなるんです。幸せなんですよ。だからあったかい笑顔を向けられる。鳥居さんだって、お父さんに心配されてうれしいでしょう?」心配して、心配されて。あたたかさをわけあってるんです、力説すると、鳥居さんはちょっと微笑んだ。「幸せなのかな、僕も、父も、何でも屋さんも」「もちろんです。どうでもいい人の心配なんてしないじゃないですか。しても、すぐに日常に紛れてしまう……。だけど、大切な人のことは、忘れたりしないでしょう? 心配って、ときどき苦しくなるけど……でも、そうやって誰かを思うのは、幸せなことだと思うんですよ」たとえ、それが思い出の中のことでも──俺は、俺と同じ顔の弟のことを思い出す。もう心配することもできないけれど、その記憶が俺の心の中をあたたかくしてくれる。「──幸せなことが、俺、楽しいです! 幸せを楽しむことが、あー、生きる歓びってやつなのかな、なんて。あはは……」気障な言葉に自分で照れて尻すぼみ、俺はひとりで空笑い。でも、鳥居さんは真剣な顔で荒ぶる萩を見ている。「……楽しむって、難しいことじゃなかったんですね。父は心配を楽しんで、僕も心配を楽しんで」楽しさを自覚してなかったってことなのかな、とやっぱり難しい顔になる。「えっとほら。元ネタは何か知らないけど、こういう言葉があるじゃないですか。『Don't think, feel』って。そういうことだと思うんですよ」考えるな、感じろって、なかなか深い言葉だと思う。「この爆発した萩だって、きっと何も考えずに枝を伸ばしてると思うんですよね……こっちのほうが伸びやすいな! とか感じて、だんだんこんなふう、に──」鳥居さんがいきなり吹きだしたから、おれはびっくりした。「爆発……! たしかに。この萩を見て、何て表現したらいいかわからなかったんですが、そうですね、爆発してますよね」ウケてる。笑いのツボに入ったみたい。そっか俺、コレ見たら誰でも爆発してると思うと思ってたけど、そうでもないんだな……。でも、鳥居さんが楽しそうだから、いいや。「あはは。枝の一本だけ見てたら、楚々とした秋の風情、って感じですけどね」自分で言った言葉に、ようやく俺はここに来たそもそもの理由を思い出した。「えっと、今日こちらに伺ったのは、お届け物があって。えっと、こちらの──」斜め掛けしてる、繊細なものを持ち運ぶ用にしてるポーチを開けて、俺は袱紗包みを取り出した。「萩の絵柄の手鏡です。預かるときに確認させていただきましたが、本当に楚々としていて、こっちの萩と同じものとは思えないかも」しれません、と言いながら鳥居さんを見ると、何故か驚いたような、信じられない、といったような、複雑な表情をしている。「萩の、手鏡ですか……?」「ええ。あれ? ご存知のものじゃないんですか? 古い蒔絵で、修理にはお金がかかったと聞いてますけど」鳥居さんの様子に首を捻りながら、俺は包みを手渡そうとする。「まさか──、だってあれは空き巣に盗まれて、そのまま……」震える手が危なっかしい。もしかして、これのこと知らなかったのかな、誰かのサプライズ? とか思いつつも、落としたら危ないので、俺は袱紗に包んだまま持ち手を持ち、絵柄が見えるように開いて見せた。「……お母さんの、鏡」信じられないものを見るように、目が見開かれる。全身の神経がこの鏡に注がれているかと思うほど。「これと……、お母さんの笑顔だけ覚えてる。きれいでしょう? って僕に持たせて見せてくれた。四歳の僕には重かった。母が支えてくれて、ほら、ここに秋の蝶がいるのよ、って萩の花を指さして──」「亡くなったお母様のものだったんですか! 盗まれたって、災難でしたね……。でも、戻ってきて良かったですね。俺、何も事情を知らずに預かってきただけなんですが、じゃあ、これはお父さんのサプライズかな?」修理には時間がかかったと聞いてるし、お父さんが倒れる前にどこかの古道具市ででも見つけて、慈恩堂に依頼してたものだったのかも。「この、背面の蒔絵の部分がかなり破損していて、それを直すのが大変だったと聞いています。特にこの蝶の部分の、螺鈿細工のうす黄色い色を再現するのが難しかったと──、そう、翅の片方だけが残っていて、その色に合う貝がなかなか見つからなかった、ということでした」「……」鳥居さんは、震える指で蝶の部分に触れる。「でも、鏡は割れも、ヒビも欠けも無かったそうです。幼い鳥居さんとお母さんを映した、そのまんまの鏡ってことになりますね。不幸中の幸いっていうのも変ですけど……」割れてなくてよかったです、と手鏡を表返してみせると、古めかしいけどきちんと磨かれた鏡面が現れる。俺のほうからは、ちょうど荒ぶる萩の、楚々とした枝だけが映って見えた。反射した光が、キラキラと辺りに散る。「鳥居さん?」鏡を凝視したまま、鳥居さんは動きを止めた。「鏡の中にも萩が……、お母さん……? お母さんそこにいたの? お母さん、おかあさん、おかあさーん!」母を求める子供のままの声で、必死に呼びかける様子に驚く間こそあれ、今度はその姿がふっと消え失せ、俺は腰が抜けそうになった。なんで? どうして? 鳥居さんはどこ行った?思わず落としそうになった手鏡、それはただ、真っ青な俺の顔と、風に揺れる萩の枝を静かに映しているだけだった。つづく……。
2024.01.17
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「──うちは父がね、楽しみの無い人で。仕事、仕事で、趣味も無くて。男手ひとつで僕を育ててくれて、感謝はしてるけど……テレビも見ず、音楽も聴かず、娯楽のために本を読むわけでもなく。休みの日も仕事の書類を広げてパソコンに向かっている背中を見ていたら、僕もテレビを見る気になれなくて」「……」「勉強は好きだったから、仕事をしてる父の近くで、いつも勉強してました。そうすると、父はときどき僕のほうを見て、目が合うと微笑んでくれるんです──無口な人でした」でも物事の要領がよくて、家事なんかもそつなくこなしてました、と鳥居さんは言う。「旅行にも、連れて行ってはくれました。でも、だいたいどこかの鄙びた温泉か、山登りともいえないハイキング程度かな。人混みが苦手だったんでしょうね。一度、萩が有名なお寺に行ったことがあって……ちょうどシーズンだったのに、あまり人がいなくて。そのせいかな、僕、迷子になっちゃって」植わってる萩の株のひとつひとつが大きくて、壁みたいに見えたんですよ、と小さく思い出し笑い。「怖くなって走って、走って。そんなことはないのに、何かに追いかけられてるような気がしてきて、必死になって。迷路みたいだった、その頃の僕は年齢のわりに背が低かったから、よけいにそう思えたんでしょう。つまずいて転んで、ようやく父の僕の名を呼ぶ声が耳に入りました。声を上げると、父が萩を掻き分けて来て、安心した僕は泣きそうになったんですが──僕を抱きしめた父が、先に泣きだして」静かに、静かに泣くんです、と呟く。「母は僕が四歳の時に病死して、幼い僕は母を呼びながら毎日泣いてばかりいました。父はいつもそんな僕を抱きしめて、泣き止むまで背中をとんとん叩いてくれていたけど──きっと、父はそうしながら、やっぱり泣いていたんだなと、こんなふうに静かに泣いていたんだなと、子供心に申しわけなくなって、どうしていいのかわからなくなって──」「……」「泣きじゃくりながら、お父さん、泣かないでって。そうしてるうちに、僕は眠ってしまって、後のことは覚えてないんだけど──その晩は、久しぶりに一緒の布団で寝たなぁ」静かな瞳は、遠い思い出を振り返っている。俺はただ黙って話を聞いている。「父はきっと、僕まで失ったらと、恐怖したんだと思います。息子を、亡き妻の忘れ形見を。──無口で、人に対しては不器用な人だったけど、僕にはいつだって、目で、態度で、愛情を示してくれた。母を失った僕は確かに寂しかったけど、父の、包み込むような愛情に、いつしかそれも薄れていって、ただ、僕は父を大切にしようと、父より先には、絶対死んだりしないと、そう心に決めて……」言葉は、細い溜息のように風に消える。「でも父は、倒れてしまった──。手術をして命は助かったけど、すっかり弱ってしまって。見舞いに行くと喜んでくれるけど、それまでのように一緒に暮らせそうにない。貯えがあるからと、父は僕に手術費用も入院費用も出させてくれない。きみの貯金はきみに何かあったときの備えに置いておきなさい、そう言うばかりで」風が、萩の長く伸びた枝を揺らしていく。「……お父さんは、きっと心配なんですよ。親ってものは、いつだって子供のことが心配で、その行く道が安全なものであってほしいから──俺にも娘がいるからわかるんです。こういうのは順番だから、親のほうが先に逝く。できれば、子に苦労はしてほしくない」だから、お父さんも、と言うと、鳥居さんは困ったような、泣きそうな顔で萩を眺めたまま。「子供だって、親に元気で長生きしてほしいんですよ。世の中、そうでない親子もいるだろうけど、親が子に幸せを望むなら、子だって親に幸せを望む。何もできなくても、そばにいて労わりたい……」何でも屋さんも、娘さんの気持ちを考えてあげてくださいよ、そう言われ、俺は苦笑いしてしまった。俺も、娘のののかによく心配されている。風邪で高熱出したり、熱中症で倒れたり……。うん、まあ俺が悪い。「あはは、そうですね……耳が痛いです」苦笑いする俺に、鳥居さんは言う。「心配くらいはさせてほしい。父が心配してくれる気持ちもわかるけど──、僕だって心配したい……してしまう。こういう気持ちは同じなんでしょうか? 一方通行なのかな。そうだとすると、寂しいな……」つづく……。
2024.01.11
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季節外れですみません……。それは、その家の雑草だらけの庭に居た・・──。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ……!ついつい叫ぶ。心で叫ぶ。俺は思わず、横に立ってる鳥居さんの顔を仰ぎ見た。この人、背が高いんだ。「び、びっくりしますよね」そんな俺に、気弱そうな背中をさらに丸め、鳥居さんはなんとも情けない顔をする。「どうしたらいいでしょう?」何でも屋さんならアドバイスもらえるかと思って、と縋るようにされる。今日は頼まれてここに来たけど、でも。俺、園芸の専門家じゃないし──。「先週、お向かいの飯島さんちの庭木、剪定してましたよね?」「いや、でも……」頼まれれば、植木屋さんの真似事もするよ? 俺、何でも屋だし。高枝切りばさみだってそれなりに使いこなしてるさ。だけど、きっと植木の大事なこと何も知らない。「……」「……」物体・・の前で、ふたり、しばし無言。そう、物体だ。これをただの萩の鉢植えと、俺は呼びたくない。だって、爆発してるんだよ、萩が。何を言ってるかわかんないだろうけど、俺は今見たことそのまま話してる。誰だってこんな小っちゃい植木鉢から、夜空の花火みたいに枝がわさわさ突き出してるのを見たら、爆発してるっていうよ。斜めになったプラスティック鉢から、今にもふんっ、と脚を引き抜いて、長く伸びたその枝をバッサバッサと振り乱し、暴れ出しそう。どこかの三又植物のように、人間を襲いそう。The Day of the Triffids、じゃなくて、ザ・デイ・オブ・ザ・ 萩。昨夜、緑色の流星雨なんか流れたっけ……なんて、ウィンダムの『トリフィド時代』を読んだことのある人にしかわからないことを考えていると、鳥居さんがまた「どうしたらいいと思います?」とたずねてきたから我に返った。フィクションの怪奇植物のことを思い出したりして、俺、逃避してたらしい。「うーん……嫌なら、根っこから切ってしまえばいいと思いますけど……」かわいそうだけどさ。「嫌ってわけじゃないんです。ただ、こうなってしまうと、何をどうしていいやら」花も咲いているし、と鳥居さんは困ったように言う。「ああ、まあ……お月見の季節ですし、風情はありますよね──」赤紫の可憐な花が細かく枝を飾っているさまは、とても秋らしくて良い。普通に地植えにしてあったら、こんな、ひっくり返ったびっくり箱みたいなことになってなかったんだろうなぁ。今の状態は、枝ぶりに無理があるというか。「一昨年、気まぐれに買ったときには、枝が一本くらいのひょろっとした株だったんです。後でちゃんとした植木鉢に植え替えようと思ってたのに、すっかり忘れてて」というか、仕事が忙しくて、そんな心の余裕がなくて、と鳥居さんは続ける。「去年のぞいたときは、ちょっと枝が増えたかな、程度だったんです。もっと大きな鉢を買ってきたら植え替えよう、それなら土も買わなくちゃ、なんて思うとハードルが上がって、ただ思ってるだけで時間が過ぎて──去年もだけど、今年は暑すぎて、雨戸を開ける気にもなれなくて、いつまで経っても暑いし……久しぶりに庭を見たら、これです」水も遣ってなかったのに、と鳥居さんは弱々しく溜息をつく。「帰ってくるの、いつも夜遅かったし、休みの日は寝て過ごすしで、本当に気づかなかったんです。自分ちの庭なのに」「……そういうこともありますよね」心に余裕がないと、見えてるはずのものも見えてなかったりするもんな──。うん、俺も知ってる。「こんなことなら、独身なのに家なんて建てなけりゃよかったな」呟くように、鳥居さん。「働いてばかりで、趣味も無いし、お金は貯まるけど、ただそれだけで、虚しくなってきて……そんなとき、同僚が家を建てるって聞いて、すごく楽しそうで。あ、僕も家建てよう、なんて安易に考えたのがいけなかった」庭の手入れだってする余裕無いのに、同僚の奥さんのガーデニングの話が楽しそうで、ついその気になって土を入れてもらったりして、と肩を落とす。「私生活が行き当たりばったりなんですよね。仕事ではそんなことないんですけど」「……」日々の憂さ晴らしは人それぞれだ。コンビニでお高いアイスを買うのがやめられないとか、ついついブランド品を買ってしまうとか、うっかり百均で豪遊して、後から落ち込むまでセットとか──。鳥居さんの場合は、どーんと家一軒だったんだな。「でもほら、行き当たりばったりにしろ、家は財産なんですし。ほら、生活音とか、あんまり気にしなくてもいいじゃないですか」「そうですね……夜中に掃除機かけたり、洗濯したりはできますね」掃除機かけるのが、趣味といえば趣味なのかも、と気弱に笑う。「いいじゃないですか、掃除機! 埃も取れるし、きれいになるし。好きなときに好きなだけ好きなことできるって、あんまり無いですよ!」「そ、そうでしょうか……」「そうですよ! 有るものを楽しみましょうよ。そうですよ、この萩も、こんなの他所に無いじゃないですか。ちょっとスマホで写真でも撮って、その同僚さんに見せてみたらどうですか? 珍しがられると思いますよ」「有るものを楽しむ……」俺の、元気を出してほしくて苦し紛れに言った言葉を、噛み締めるように鳥居さんは繰り返した。「楽しむって、こんな簡単なことでいいのかな……」「いいに決まってますよ!」何故か難しい顔をしている鳥居さんに、俺は一所懸命うなずいてみせる。そんな俺を、どこか遠い目で見、また萩に視線を移しながら、鳥居さんは話し始めた。遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年は元日から石川県を中心に大きな地震が起こりました。時間が経つにつれ、被害が明らかになっていきます。犠牲者の方や、そのご家族ご親族の方々には、お掛けする言葉もありません。一日も早く被災者の皆さまの上に日常が戻りますように、被災地の復興が成りますようにと、ただ祈るばかりです。
2024.01.10
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王直々に手ほどきされ、吾も人の姿に化けることができるようになった。鍋島のや有馬のは、血を啜ったり、食い殺したりした人間に化けるのが一番楽だと語り合っていたが、吾は人のイタコに師事した猫だからか、そういったものは必要ではなかった。……ああ、だが、吾の飼い主は円満に寿命を全うしたが、鍋島のや有馬のの飼い主は、非業の死を遂げたのだ。それゆえ、あれらはその無念を晴らすのに一心であったのであろう。吾は男にでも女にでも、好きに化けることができる。だが、好んで化けるのは、吾の飼い主であったあの老イタコである。吾がこの世に生まれて一番尊敬する人間であり、一番慕っている人間である。その姿を留めておきたいと思うのは、感傷というやつであろうか。立派な猫の嗜みとして、踊りの稽古もあった。手拭いを被り、手振り足上げ艶やかに、あるいは陽気に踊る。吾はこれが上手くなかった。見かねた武蔵の国は戸塚の、醤油屋の猫どのが、根気よく教えてくれた。その踊りは巧みなもので、かつて夜な夜な踊りの宴を開いては、朋輩どもの好評を博していたという。飼い主の醤油屋をも納得させたというのだから、さすがの踊り手といえるであろう。満月の夜、新月の夜。猫じゃ猫じゃと皆で踊ったものだが、時折飛び入りで輪に入る、阿波のお松大権現様の三毛猫殿は、見事な踊り手であった。聞けば、時折お松様に披露して、喜んでいただいているということだ。一匹で踊っていて、踊りが鈍るのを防ぐため、根子岳にきて稽古するのだとか。真面目な御仁である。そんなこんなで、根子岳での修行も終わった。猫の王からは、|猫生《びょうせい》是全て修行である故に、これからも励むが良い、とのお言葉をいただいた。お山を下りて放浪していると、大きな虎猫と出会った。成りばかり大きな虎猫は、身の程知らずに地域の頭目猫に勝負を挑んでは負けておったが、そのきょうだい猫が吾に寄りついて、弟を諫めてほしいという。頭目猫はきょうだい猫たちの父だというのだ。吾が虎猫の前に現れると、気の荒い虎猫はすぐ吾に勝負を挑んできた。するりと躱すと悔しがり、また襲い掛かってくる。普通は吾の佇まいなりに何かを感じ、気安く近寄って来ないものだが、この青二才は鈍いようであった。吾がきょうだい猫を寄り付かせると、吾の毛色が変わる。そこで初めて驚いておった。驚き、怯え──失禁しておったな。そのようにして、寄り付いてきた者の言葉を、生きている者に伝えておった。伝える相手が人の場合、吾の言葉を解してくれた飼い主はもうおらぬので、身体を貸すことにした。自分や他の猫を残虐に殺害した人間を許せぬと、己のしたことがどういうことか知らしめたいと、強く願う猫も多くいた。吾の身を借りてあれらのなしたことは……まあ、語らなくても良いであろう。満足したあれらは、皆、明るいところに向かったのでな。放浪するのも飽きたころ、吾はとある町に定住することにした。生垣や公園など、緑が多い。猫からすると隠れやすい場所もそちこちにあって、野良もそれなりにいる。そういうところは、居心地が良い。面白い人間もいるしな。その人間は、よくあちこちの庭で草むしりなどしており、吾の姿を見ると、人間相手のように声を掛けてきた。ほかの、野良のものたちも、その人間を悪く思ってはいないようだった。ある夕方のことである。真夏に生まれて、暑い中でも元気に走り回っていた仔猫が、あまり車の来ぬ道に侵入してきた車に当てられ、瀕死になった。母猫も猫の身でどうしようもなく、ただ死にゆく我が子といっしょにいるしかない様子であった。哀れだが、よくあること。それに吾はただのイタコ猫である。できることなど何もなかった。そこに、あの面白い人間がやってきた。瀕死の仔猫を見つけると、何か葛藤しておったようだが、母猫に向かって「医者に連れて行く」と律儀に語りかけ、本当に連れていったようだ。それで助かるならばそれで良い、そうでなくても仕方ない。猫の生き死には、人の生き死にと同じだ。生きるべく生き、死ぬべくして死ぬ。仔猫は助からなかったらしい。何故なら、その魂が吾に寄りついてきたからだ。──なに? 最期に美味いものを食べ、暖かい寝床で眠れた。ほう、それは良かったな。ついては、恩返しがしたいと。どうやって? ……ふむ、明るいところに行く途中で、たくさんの糸を見たと……あれが見えたのか。其方、素質があったのだな。ほうほう、あの人間の糸が、事故に巻き込まれる先に繋がっていたと……近い先だとな。なに? そこであの人間は、自分のように、頭を打って動けなくなっていた……そうか。その糸を別の糸に、事故に遭わなかった糸に繋げ替えたいというのだな。ふむ……。もう起こってしまったことは変えられない、けれど、起こる前ならばなんとかなりましょう? ああ、そうだな。律儀で賢い子だ。吾は時が来れば仔猫に身を貸すと約束した。それは|彼は誰時《かはたれ》の時の|端境《はざかい》の、猫も息を潜める禍時であった。空がこんなに赤いのも、常にないことだ。この赤は昼に通じ、夜に通ずる。ああ、恩返しのために未だこの世に留まる仔猫の魂も、安らぐことができるだろう。さて、まず吾があの人間を呼び止めてやろうか。おお、立派にやり遂げたな。危ないところであったが、ふふ、やはりあの人間は面白い。吾に寄り付いた仔猫を猫又かと言い、そのくせ怖がりもせぬとは。端境の朝焼けも、仔猫に味方するようであったな。仔猫め、あの人間への礼の言葉に添えて、何やらがおいしかったよ! と最後に言うておったが、ちゃ……ちゅーる? とは何であろう。まあ良い、いつか吾もそれに出会うこともあるだろう。仔猫は、永久の暁と永遠の黄昏の庭に還っていった。薄赤い光に鎖されたあれは参道であり、産道でもある。尊いお方の御座所に参り、御役目を戴いてまたどこかに産まれ出るのだ。吾も話にしか聞いたことがなく、あの庭が開かれるのを見たのは初めて── ん? あの赤い光と、猫心をくすぐるヤツデの葉むら……何か見覚えが……。まあ、いい。吾は霊媒師、生者と死者のあいだを仲立ちするもの。此度の仕事はことに上手くいった。|お山《恐山》に行った吾の飼い主も、褒めてくれるだろうか。「きっと仔猫は、きみにありがとうって言いたかったんだよ、何でも屋さん。白い猫は、そうだねぇ……人間にもいるんだから、猫にいても不思議じゃないかなぁ」慈恩堂店主のこの言葉から生まれた、猫のイタコが主人公の番外編でした。この話の後半の、根子岳のあたりを書いていたら、お気に入りの場所でいつものように寝ていたうちの猫が、ちょっとおかしくなりましてね……。起きているにもかかわらず、寝言みたいな、というか、寝言よりもっと激しい謎の鳴き声を上げながら、落ち着かず、行ったり来たり。宥めてもダメで、いったん収まってもまた「うなんなんめろめろべろべろ」と始まって、薄暗いところに出たり入ったり。泡でも吐くのかと思いました。数時間後には元に戻りましたが、まさか、ね……? というか、そんな悪いこと書いてないんだから、止めて!
2023.10.23
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吾は猫である。名前はあったが、忘れてしまった。吾はもと、とあるイタコの飼い猫であった。イタコが恐山に赴くのは年にほんの数回だが、この者は能力が高く、故にその名に<恐山の>と冠され、畏れられた存在であった。常の|住処《すみか》は陸奥の国のどこかであり、吾の母猫はその辺りの家の居付き猫であったそうだ。ある日、母猫が吾を咥えてイタコの住処を訪い、託していったのだとも、捨てていったのだともいうが、定かではない。イタコというとインチキだ、ただの思い込みだと今では蔑まれておるが、昔は違った。死者の声、祖霊の声を求め、多くの者が吾の飼い主の許にやってきた。既に高齢ではあったが、飼い主は良く死者の声を聞き、失せもの、人探し、縁談の良否や、依頼者の人間関係の仲裁までも成していた。吾は恐山にこそ付いていかなかったものの、それ以外は常に飼い主とともにいた。飼い主は盲目であったが、身の回りのことを全て己でなし、吾の世話をもしてくれた。口寄せの礼にと、寄越されたという新鮮な魚も吾に与えてくれた。良い飼い主であった。吾は飼い主の祓詞を聞き、オシラ祭文を聞いて育った。独特の抑揚に興味を惹かれ、囲炉裏の端で微睡みながら無意識に尻尾で板の間を打っていたものだ。そんなある日、吾が飼い主の仕事道具の梓弓にじゃれつき、面白半分で弦を|弾《はじ》いていると、何かが来た。何なのかはわからん。ただ、本当に何かが来たのだ。すると、血相を変えた飼い主がやってきた。吾の目には見えぬが、飼い主の盲目の目には見えたのであろう。飼い主は吾から梓弓を取り上げ、仕事のときのように細い竹棒で麻の弦を叩き始めた。それから祓詞を唱える。しばらくして、何かは消えた。いなくなった。飼い主は深い溜息をつき、吾を引き寄せ、抱き上げた。どうやら吾には力があるらしい。だから修行をせよと命じられた。吾はただの猫だというのに、どうしてかこのとき、飼い主の言う言葉の意味をはっきりと理解できた。これまでにもまして、吾は飼い主の傍に侍った。そして経文を聞き、祭文に声を合わせ、尻尾で板の間を打った。飼い主の神寄せの経文を聞きながらのオシラ遊ばせは、上手だと褒められた。オシラ様とは二体一対の小さな人形で、簡単にいえば家の神である。それを、飼い主は吾のために猫の形で作ってくれたのだ。ちょいちょいと猫のオシラ様と遊んでいると、吾はいつの間にか踊っているという。そのときに何か鳴いて、まるで人のように猫の言葉で何かを語るのだとか。飼い主だけはその鳴き声の意味を解し、託宣として人に聞かせていた。吾に下りる霊は人のものではなく、猫であった。猫はあちこちの家で主にネズミ捕りとして飼われ、生きて、死ぬ。死んだ猫が吾に憑依し、そのものが見聞きしたことを語り、飼われた家の心配事を教えるのだ。人の目にわからぬことも、猫にはわかることがある。その家の幼子の咳が止まらぬのは、寝床の枕元の違い棚の奥に鼠の巣穴があるからだとか、屋根の瓦がズレているから、そのうち雨漏りがして、大事に飼っているお蚕様に害があるぞとか、吾に寄り付いた猫の言葉を、飼い主がその家のものに伝えてくれたのだ。初めは「猫のイタコ擬きなぞ」と馬鹿にしていた者どもも、吾の白い毛色が、己のかつての飼い猫のものになるのを見て、怖れ慄き腰を抜かしていた。そして、けして猫を虐めたりなどしない、と固く誓って帰っていったという。元の飼い主を心配して吾の口を借りにくるのは、飼われて有り難い、と思った猫だけだ。当たり前のことであろう。やがて、吾の飼い主たるイタコも死すべきときがきた。床に就いていた飼い主は、「オラは死ねば、お山さいぐ。おめぇさは根子岳にいって、今度は猫の修行さするだ」と言い、吾のオシラ様を上等な風呂敷に包んで吾の背に括りつけてくれた。そうしてから、満足そうに息を引き取った。吾は鳴いた。泣いた。飼い主の魂は、恐山へ飛んで行ってしまった。吾の泣き声を訝しんでやってきた隣家のものが村長を呼び、飼い主の葬式を取り仕切ってくれた。埋葬までを見届けて、吾は根子岳を目指した。根子岳は肥後の国の阿蘇五岳のひとつで、猫の本山である。吾のような猫は、いつかはそこに行って修行をしなければならぬと、飼い主から常々教えられていたのだ。吾は旅をした。長い長い旅の果てに辿り着いたときには、吾は生身の身体を無くしておった。だというのに、いまも吾は元のものと同じ身を持っている。それは、吾の口寄せに身が必要だからであろう。飼い主の作ってくれた猫のオシラ様は、いつの間にか吾の魂に同化していた。意識をすればいつでも遊ばせることができる。根子岳で、修行の傍ら吾は多くの猫の口寄せをした。母者に会いたい、きょうだいに会いたい。猫も人と変わらぬ。根子岳に住まう猫の王はそんな吾らを面白げに見ておった。猫の王は時折お山を下りて人の世をも見回っているようであった。王の縄張りであったのだろう。
2023.10.22
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「何でも屋さん!」「あ、田中さん……」田中さんは、こちらから見ると路地を挟んで左側の家の人だ。草むしりを頼まれることがある。「そこ通ってきてたの? 大丈夫だった? どこか打ってない?」矢継ぎ早に掛けてくれる声はどこか焦っている。ひしゃげた車体を恐々と避けながら、それでもこっちに来てくれた。──俺は、また座り込んでいたようだ。「いや、その……野良猫に構ってたら、ドーンって……」俺はそう言うしかない。知らなかったんだ、自分があと一、二歩で道路に出るような位置にいたなんて。気の抜けたような返事を聞いて、田中さんはあからさまに胸をなでおろした。「良かった。見えないところを怪我したりしてないわね? 猫に感謝かも──。もしかしたら、もろにぶつけられてたかもしれないわよ。……こんな言い方もアレだけど、私も、血まみれの何でも屋さん見なくてすんで、良かったわ……!」「あ、あの、ドライバーは?」警察に連絡、と内心の混乱のまま回らない口を開くと、田中さんは、大丈夫よ、と教えてくれた。「鈴本さんちの息子さんが、通報してくれたって。二階の部屋から丸見えだものね」「そ、そうですか……」それなら良かった。「──何でも屋さん、本当に大丈夫? 顔が真っ青」「え……あ……」今ごろ震えが来た。このまま動けなくなりそうだ。それでは困るから、なんとか立ち上がる。「ちょっと、無理しないで……。うちで休んでいく?」心配そうな顔に、無理やり笑みを浮かべてみせた。「いえ、大丈夫です……俺、犬の散歩行かないと」「でも──」遠くから、パトカーと救急車のサイレン。そういえば、わりと近いところに警察署があったっけな。そんなことをぼーっと考えつつ、ドライバーを助け出そうとする人たちや野次馬のざわめきを聞く。早朝にもかかわらず、スマホを構えて事故車や怪我人を撮ろうとする何人もの野次馬、近づきすぎた者がいたんだろう、いい加減にしろと叱責する声。俺、よっぽど頼りなかったのかな、気づけば折り畳み椅子に座らせられていた。田中さんが、顔を出した娘さんに言って、持ってこさせたものらしい。「どこの犬を散歩に連れて行くの?」「あ……吉井さんちの、伝さん……」「ああ、よく何でも屋さんが連れてる大きな犬ね。吉井さんなら電話番号わかるから、事情を話しておいてあげるわ。何でも屋さんは、ほら、目撃はしてないかもしれないけど、まさにその瞬間現場にいたんだし、ほら、警察に証言とか、ね?」なだめられ、俺はただうなずく。こうして座り込んでみると、今はまともに歩けそうにない。近くなったサイレンの音を聞きながら、俺は思い出していた。あの仔猫は、俺が助けられなかった仔猫だ。先月の、八月三十日。俺は野良の仔猫を保護した。暑い最中に生まれたらしい仔猫は、母猫とともに夕方の路上にいたり、雨水の溝や、民家の植え込みの中に潜んだりしていた。仔猫の好奇心か、ちょろちょろ走り回るようになり、俺の自転車の前もよく横切られたものだ。車に気をつけろよと、猫にはわからないだろうけど、声を掛けずにはいられなかった。それなのに……。その日、仔猫は道端で不自然に丸まっていた。俺が近づくと、いつもなら勢いよく逃げていくはずが、じっと丸まったままでいる。まさか、こんなところで眠っているのかとよく見ると、顎のあたりに血がついている。母猫は俺を警戒しているが、逃げるでもなく、子の近くにいる。仔猫は動かない。暮れる寸前の夕方、雨がポツリ、ポツリと降ってくる。目脂の張りついた目は閉じられたまま、薄く息をしている。撫でようとするとさすがに逃げかけ、野良猫の矜持か、威嚇はしてきたけれど──、それも力なく、すぐ捕まえられる。これでは、明日まで保たない。俺にもそれがわかった。野良の世界は厳しくて、その寿命は長くても三、四年という。この仔猫みたいな子はいっぱいいる。弱って、疲れ果てて息絶え、鴉に抓まれて連れ去られて……。それが自然界の掟って、わかってる。わかってるけど──。痩せこけた小さなからだ。どこか雨の当たらないところで、ひっそりと死んでいくなら、見ないふりができたと思う。なんとも中途半端で狡い、俺の良心。わかってる、俺は狡い。だけど、今、目の前で小さな命が消えようとしている。このまま放置すれば、雨に降られて冷たいまま、確実に息絶えてしまう。びしょ濡れの小さな骸。冷えて固まって、虫にたかられ、最後は鴉に──。そう思ったら、もうダメだった。俺はタオルハンカチを取り出し、そこに仔猫をそっと包んだ。遠巻きにしつつも離れない母猫に、「おまえの子、病院に連れて行くから」と告げる。そのまま馴染みの動物病院まで走った。お願いします、俺、この子飼いますから、と息を弾ませ言う俺に、時間外なのに仔猫を診てくれた先生は「……難しいと思いますよ。でも、やれることはやってみましょう」と言ってくれた。そして、俺の思ったとおり、たぶん車にでもはねられたんだろうと。仔猫は鼻を打っているらしかった。頭にも影響があるかもしれないと言われたけど、仔猫の生命力に掛けるしかなかった。だから、俺は仔猫が助かったあとのことを考えた。家には、居候の三毛猫がいる。かつて、盗まれた仔犬を拾って帰ってきたあいつなら、新参の仔猫にもよくしてくれるんじゃないかと思う。もしすぐに仲良くなれなくても、俺の何でも屋事務所兼住居は独り暮らしだ。ケージを設置するくらいの空間はある。翌日、仕事の合い間を縫って様子を見に行くと、仔猫は少しは餌を食べるという。点滴の管を噛みちぎったと聞いて、元気が出てきたんだと思いたかった。仔猫用の小さなエリザベスカラーを付けられたからだは、くったりと力が無く、冷えている。その冷たさに、胸が重くなる。無言で、そっと触れる俺に、助手さんは、たくさん撫でてあげてください、と言った。きっと助手さんにもわかっていたんだろう。ふと、心に浮かんだ名前を付け、この名で生きよと、ただ撫で続けていた。俺の手のぬくもりよ、この小さなからだに伝わり、そして命を繋げてくれ──。祈りは届かなかった。翌日朝、連絡が来た。覚悟はしていたから驚きは少なかった。けれど、あともう一日生きてくれたらなぁ、と思った。あと一日、もう一日、もっと生きてほしかった。重い足取りで病院に行き、先生の説明を聞く。それから、申し訳なさそうに助手さんが告げた治療費を払った。手を尽くしてもらったのはわかっているし、それでも及ばないのは神の領域だ。時間外に受け入れてもらった礼を重ねて言い、スーパーで買ってきた明るい色の花をあの子の箱に入れた。仔猫の顔は、眠っているみたいだった。八月の三十日に保護して、三十一日に名前を付け、九月の一日に見送った。たった三日の縁。事故に遭う前に拾ってやったら、仔猫は今も元気でいただろう。だけど、元気でいるなら、拾わなかった。中途半端に助け、中途半端に後悔する。俺は身勝手だ。そんな俺を、あの子は助けてくれたのか。「……」視界がぼやけそうになる。固く眼を閉じ、上を向く。太陽が顔を出した空は明るくて、目蓋の裏も明るくなる。深い朝焼けの色にも似たその視界の隅を、あの子が駆けていったような気がした。不思議な話ですね、と店主は言った。午後、店番に訪れた慈恩堂で。「俺、夢見てたんでしょうか……」俺の問いに、店主はわざとらしく首を傾げてみせる。「お蔭で、事故に遭わなかったのに?」「……」「きっと仔猫は、きみにありがとうって言いたかったんだよ、何でも屋さん。白い猫は、そうだねぇ……人間にもいるんだから、猫にいても不思議じゃないかなぁ」わかりやすく勿体ぶってみせるから、どういうことですか、とたずねてみると。「霊媒師。あるいは、口寄せ。わかりやすく言えば、イタコかな?」デミ・ムーア主演のロマンティックな恋愛映画を思い出してもいいけど、と店主はつけ加える。白猫は、ウーピー・ゴールドバーグの役どころだとも。「きっとその仔猫の願いを聞いて、身を貸してやっていたんでしょう」真っ白ならば、他の柄も重ねやすいんじゃないですか、なんて機嫌さそうに笑む顔は、いつにもまして古猫に似ていた。番外編もあるのです。それは次回にて。
2023.10.20
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空が、赤い。時が止まったような不思議な色に満たされて、見慣れた街がまるで見知らぬ人のよう。空のすべてが赤く染まるような朝焼けは、たまにしか会えないレアキャラみたいだ。見られるとちょっとうれしい。でも、朝は青系の空でないと、朝! って感じがしないな。なんとなく安らいでしまうというか……。そんなことを考えながら時計を見、朝の犬散歩のお迎えに、まだ余裕があるなと思う。早く行って、余裕ぶん長めに散歩したらグレートデンの伝さんも喜ぶかな。にゃあ静かな住宅街をのんびり歩く俺を呼び止めるのは、いつもこのあたりで見かけるお野良だ。白い毛が、空の色を映して薄赤に染まっている。「おはよう。見回りか?」にゃん「そっか、ご苦労さん」にゃーん鳴きながら、猫は歩いては止まり、歩いては止まりして俺の顔を見てくる。まるでついて来いと言ってるみたいだ。「なんだよ。俺もそっち行くからいいけど」猫の道案内、ファンタジーだなぁ、なんて思いつつ、薄赤い光をまとった白猫の後をついて行く。よく通るこの路地の先は、一応車の通れる道路だ。でも道はちょっと入り組んでて、外部の車はあんまり来ない。行っては止まり、俺が追いつきそうになるとまたトコトコ歩き出す。……──あれ、この路地こんなに長かったっけ。それぞれの家の敷地越しに、曲がったり多少はジグザグしてるけど、もう向こうの道路が見えるはず……。にゃあ赤い空、ほの赤い光に閉ざされた路地。その途中、どこかの家の裏口なんだろう、開いた木戸の前で白猫がちょこんと座ってこっちを見てる。「……俺、道を間違えたのかな?」この路地に、こんな木戸のある家、あったっけ。初めて開いてるとこ見たのかもしれないけど──。覗き込んでみると、庭木のヤツデの葉が繁ってる。重なり合ったその奥は、空の色を映した薄暗がりになっていて、建物の影は見えない。「……」なんとなく振り返ってみると、来たはずの路地もまた、ほの赤い光の中に溶けている。「──お前、お野良じゃなくてここんちの子だったのか?」にゃあ返事されても、わからない。猫は木戸をくぐらず、まだそこにいる。路地に、今まで知らなかった横道があったのかな、と考えながら、俺はとりあえずそいつを撫でて落ち着こうとしゃがみこんだ。「あれ? お前、腰に柄が……尻尾、グレーだったのか。ん? 耳も……」頭をすりすりしてくる猫は、頭と背中、両足は真っ白で、腰のあたりに雲のような形をしたグレーの縞、尻尾と尻尾の付け根、両耳も同じ柄になっている。それに、さっきまで大人の猫に見えたのに、どうしてか、今は仔猫だ。「なんでお前、小さくなって……」思わず呟くと、仔猫が鳴いた。だけれど、声が聞こえない。きっと仔猫特有の、甲高くも愛らしい声だろうに。「お前がここに連れてきたのか?」また、仔猫が鳴く。声のない声で。「……猫又なのかな? 尻尾、一本しかないけど」間抜けなことを呟く俺に、仔猫はただ、うれしそうに鳴き声の形に口を開ける。でも、やっぱり聞こえないんだ。機嫌よく細められた目は、何色だっただろう。俺、知りたかったのに──。仔猫が目を開けた。大きな目を、ゆっくりまばたく。──ああ、思ったとおり、きれいな色だ。うれしくなって、抱き上げようとしたのに、仔猫はするりと俺の手を離れた。タタッ、と木戸の前で止まり、俺の顔をじっと見上げる。小さく口を開けて、またひと声鳴いたようだ。そしてそのまま木戸を潜って、ヤツデの影に見えなくなった。あれは、あの仔猫は──。思い出そうとしたその時。 ドーン!ほとんど耳元で何かが爆発した。したと思った。一瞬の風圧と轟音に反射的に目をつぶり、しゃがんだままの姿勢から尻餅をつく。何が何だかわからなかったが、咄嗟に事故だと思った。そのとおり、目を開けると、ほんの目の前鼻の先、路地の出口に車が斜めに突っ込んでいて、腰を抜かしそうになった。あとほんの何センチかズレてたら、頭がスイカみたいに砕け散っててたんじゃないか──? 今更ながらの死の恐怖に、心臓が乱れ打つ。息が苦しい。耳鳴りがしてクラクラする頭を押さえながら、路地の壁伝いになんとか立ち上がる。見えたのは、ひしゃげたフロント部分。飛び出したエアバッグとシートに挟まれたドライバ―、そして額から流れる赤い──。朝焼けは、いつの間にか消えていた。雲が多めの青い空、この時間はまだ輝きが弱い。茫然としつつ、機械的に時計を見る。路地を抜けるのにけっこうな時間が掛かったと思うのに、いつもの路地を通り抜けたくらいの、一分ほどしか経っていない。にゃあ足元で声がする。最初に見た、よく見掛ける大人の白い猫。仔猫じゃない。柄も違う。あの仔猫はあの木戸の奥へ……。目だけで探して、さらになんとか身体ごとふり返ってみたけど、赤い光に閉ざされた路地に口を開けていたあの木戸は、朝焼けの光とともに消えていた。にゃーん白い猫は挨拶のようにひと声鳴くと、事故車など一顧だにせず、素早く路地を引き返していった。空と共に、路地も明るくなりつつある。見送りつつ、現実に戻らなきゃと気づく。ドライバーの呻き声。俺、何やってんだ、早く警察に連絡しないと、いや、救急車呼だ。いや、どっちも──。焦るのに、身体が動かない。俺が色んなことを消化できないでいるうちに、近隣の住民が家から出て来ていたらしく、騒がしくなっていく。後編に、つづく……。
2023.10.19
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慄きながらたずねると、眼の前の地味な男前は、ちょっと不貞腐れたように息を吐いた。「形代を。わかりやすく言えば、|人形《ヒトガタ》。呪術的にその人の代わりになるもの。神社の行事の夏越の祓だの、大祓だので使われる、紙で作られたあの人の形」きみにもたまに持たせることがあるから、知っていますよね、と真久部さん。「あの子の茅場に行くときは、必ず身につけているんです。それだけは、伯父も忘れてはいけないと真顔になるくらいだし。あの伯父がですよ?」「……」何でも面白がっちゃう愉快犯、いつも平気で甥っ子を振り回してるあの人が、真顔で注意……うん、事態の危険度がうかがえる。「形代は毎回、帰りには無くなっているんです。きっと僕の影、身代わりとなって、あの子と一緒に遊んでいるんでしょうね。だから本当に、絶対に、今まで一度も忘れていったことはないんだよ。だというのに……」僕がもう少ししっかりしていれば、あの石に触れて本当に全く何もないわけがないと、想像くらいついたはずなのに、と悔しがる。「あのホテルのオーナー一族には、もっとキツい障りがあったようだから、指輪を無くすくらいどうってことなかったのかもしれないけれどねぇ……」「……」「石はね、動かそうと、誰かが触れるたび、一族が悪夢を見るんだそうです。みんな同じ夢で── 一族の長となる人ともなると、心臓が止まりそうになるくらい、恐ろしい結末を見せられるのだそうです。それまで、どれだけ魘されても目が覚めないのだとか……。子供たちは、大人たちに比べると夢の初めのあたりで目が覚めるそうですが、それでも引きつけを起こすくらいには、怖いものだったようです」子供にも容赦ない障りだったんですね、と真久部さんは淡々と語る。「夢以外にもいろいろ、もっとシャレにならないことがあったそうだけど、一族と関係のない人間の場合は、本当にただ、小さな物を無くすくらいで済むんだとか……彼もまあ、麻痺してたのかもしれないけれど、石を動かそうとした人に何かなかったか、僕は聞いたのにね。どんな小さな、良いことでも悪いことでも、とにかく、少しでも引っかかることがあれば教えてほしいとあれだけ言っていたのに」せめてボルトを無くした人の話くらい、聞かせておいてくれるべきだったと思いませんか、と静かな怒りを強く握った手にまとう。「……」俺は何も言えない。重要説明義務、って何にでもあると思うけど、何を重要と思うか、どこまで説明するべきか、認識の差はあるかもしれない。わざとなのか、うっかりなのか──ボルト消失の件は、わざとの気がする。「知っていたら、何でも屋さんを紹介なんてしなかったですよ。あの一族とは何の関係もない人だし、もし石を動かせなくても蹴ったり叩いたりしない。仮に何か無くしたとしても、きっと無くしたことも気づかないようなものだったでしょうけど。それでも──ああ、何も知らないからこそ、石は何でも屋さんのことが、よけいに気に障らなかったのかも……」考え込んでいる。真久部さんが俺のことを大事にしてくれてるのはわかったから、俺は話をちょっとだけずらせてみた。「あの石と、薄のあの子って、何か関係があったりするんですか?」地味な男前の、黒褐色と榛色のオッドアイが軽く見開かれた。「考えたこともなかったですね。でも、ありませんよ。たぶん、あの子のほうが先です。石は──きっと、あの一族の誰かがどこかから運んできたんでしょう。あのあたりの地質と明らかに違う」一族の繁栄のために、きっと何かしたんでしょうね、と言う。「良からぬことをね」「あはは……」笑っておく。「えっと、今回の真久部さんの不注意……自己嫌悪の元って、それだったんですね。形代を無くしたばかりに、薄のあの子の夢に巻き込まれそうになって、道がわからなくなって──」ここまで落ち込んだ真久部さんって、なかなか無いもんなぁ。以前、伯父さんの悪戯(?)を詫びてくれたときも暗かったけど──。「……あの子や、伯父や両親を悲しませることに、うっかりなっていたかもしれない、ということは、確かに大きいです。──どうしてあのとき、野点の後で、せめて形代を確認しておかなかったのか、と」自分の不注意、油断、不明、いろんなことが悔しくて情けなくて、本当に自分が嫌になるんですが、と続ける。「一番はね、僕の命の掛かっている形代が、レシートクーポンなんかと同じ扱いだった、ということなんです……。あの石からすれば、同じ小さな薄い紙だし、似たようなものなのかもしれないけれど、でも」それこそが、人の価値観など関知しない存在による等価交換の結果なのだと、理解は出来る。でも、分かりたくない──。そう呟いて、がっくり首を垂れる「……」俺に、掛ける言葉はなかった。 ボ………ン ボー……ン…… ぽー……ぼー…… …… …… …… ………… ……ォーン…… ォーン…………古時計たちが、店主を気遣うかのように控えめに正時を告げる。いつもの……、いや、いつもよりちょっとだけジメッっとしている、慈恩堂の午後だった。……村人たちに疎まれるのは、もういい。あれは鬼の子だと、聞こえよがしに蔑まれるが、鬼の子ならば、もっと頑丈なからだでいただろう。この身は長く生きられまい。日にあたることもできないのだから。ああ、自分が死ねば、母は楽になれるだろうか。こんな自分を産み、育て、慈しんでくれた母。母にはしあわせになってもらいたい。ああ、だけど、友だちがほしかったな、いっしょに遊んでくれる友だちがほしかった。どこかにいないかなぁ、この白い髪も赤い目も、怖がらないやさしい子──。そんな子がいたら、いくつでも笹舟つくってあげる。小石でお手玉つくってあげる。ひとりで遊ぶのはさびしい。さびしい……。ようやく、おわり。ジメッとしている真久部さんに、励ましのお便りを! なーんて。長い期間に渡った長いお話におつき合いくださり、ありがとうございました。※最後の、<あの子>の心の内を入れるのを忘れてました。さびしかった<あの子>でしたが、後に真久部さんというお友だちができたのでした。
2023.10.06
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やっぱり、何でも屋さんは上手いこと言いますね、と真久部さんは小さく笑う。「人は迷い、神も迷う。あの子の迷いは、寂しさ。だけど、寂しいからといって、あの子は迷い人を連れて行ったりはしない。──鎖を越えて薄の中に踏み出し、行方不明になる人は、迷いに誘われて、自ら迷いに行った人が大半だよ。方向音痴を自覚してる人は、見えている順路を外れたりはしないでしょう」そして、そういう人たちのためにあのベンチがあるのだと、真久部さんは言った。「あの場所は地元の人以外は立ち入り禁止。だけど、あの反対側の薄原で迷った人も、気がつけばベンチの前だといいます。地形の錯覚で歩き続けたせいなのか、それとも──僕は、あの子の優しさだと思っていますよ」かつて、<怖い大人に追いかけられている子供>をいつも助けていたように、あの子はたとえ夢うつつの状態であっても、薄の迷路に迷って恐怖している人を、人の側に属する<物>であるベンチの前に導いているのだろうとそう言い、真久部さんは冷めたお茶で喉を潤す。自然の中に人工物があれば、人が戻ってきやすいのはたしかだけれど、あの子にもいい目印になるんでしょう、と。「あの子は眠っている。でも、夢の中でうつつを感じてもいる。あの薄の原はあの子そのものだから、そこで起こることを、自分のことのように感じてる──」僕が道に迷って危うかったのを、何でも屋さんが引き戻してくれたとき、何があったのか後で話すと言ったのは、あの子の無意識が聞いているから、と続ける。「あのとき、あの子は僕と追いかけっこでもして、楽しく遊んでたんだと思う。あの子のいるあの場所と、僕のいるこの世界の狭間になったあの道で──あの子に、夢のつもりが現実で、実は僕を危険に晒してしまっていたなんて、知ってほしくなかったんだよ」「……」もしも知ったら、薄のあの子は悲しむだろう──。俺もそう思う。「僕の不注意が原因ですしね」と、さらに苦い顔をするけれど。「不注意っていっても……しょうがなかったんじゃないですか? なんかよくわからないけど、今回たまたま|波《・》|長《・》が合っちゃったとか、そんな感じなんじゃ……それに、ちゃんと一人じゃないようにしてたじゃないですか。分かってない俺がうっかり見失ったりしないように、見守っていてほしいって、わざわざ注意もして行ったし」プールの監視員みたいにね、とお道化て言うと、黒褐色と榛色のオッドアイがふっと和む。「そうなんだけど、そちらじゃなくてね……。今回、僕はいつもなら必ず肌身離さず持っているものを、持ってなかったんだよ。そのせいであんなことに」あの子が望まないことにならなくて、本当によかったです、と真久部さんは溜息を吐く。「忘れちゃったですか?」用意周到なこの人が、珍しい……とか思っていると。「忘れたんじゃないんだよ。失ったというか、失わされたというか──」「落っことしたとか?」「そういうことでもなく……」「?」煮え切らない。どうしたんだ、真久部さん。いつもは胡散臭かったり怪しかったりする笑みを浮かべている唇が、苦々しげに引き結ばれて、何だかどこだか悔しそう……?「今回のお仕事、ね。石の」「はあ……」俺以外が運ぼうとしたら、重くて持ち上がらなかったというアレね。あのホテルの屋上で祀られることになってたらしいけど、重機でも持ち上がらなかったなんて、今でも信じられないというか、ただの普通の石だったんだけどなぁ……。「あれ、僕も持ち上げようとしたけど、無理だったって言ってたでしょう?」思い出していると、なんでか、真久部さんは据わったような目をしてる。「え? はい」「失礼の無いよう、試すぶんにはそうそう悪いこともないだろうと思ったんだけど──」触っただけで、あ、これはダメだな、と思ったらしい。一応力をこめてはみたけど、案の定、地面と一体化してるみたいに、ぴくりとも動く気配がなかったとか。「心の中で、謝罪はしたんだけれどねぇ……実は、あの石を動かそうとした人は、みんな何か小さな失せものがあったらしいんだよ」話を持ってきた知り合いは、そのことを黙っていたんだけどね、と平坦な声で続ける。「十枚つづりで買った宝くじの、一枚も当たらなかったとか」……十枚つづり三千円とかだと、三百円は当たるんじゃなかったっけ。「大事に大事に取っておいた、次回二十パーセントオフのレシートクーポンを無くしたとか」……偶然じゃない?「本当の意味で梃子でも動かない石に苛立って、足蹴にした者は、昔の事故の骨折治療で足に入っていたボルトが、いつの間にか無くなっていたんだそうです」……。「急に歩けなくなって、当時の病院で診てもらったら、レントゲンにボルトが写っていなくて大騒ぎになったとか。足に怪我をしたわけでもなく、どこにも傷も何もない。なのに、入っているはずのボルトだけが消えた」……怖い。「お気に入りのペンを無くしたり、大事なマスコットを無くしたり、ね。結婚指輪を無くした者もいたそうです、件の知り合い同業者ですが」ついでに|奥さんも失った《離婚した》そうです、と皮肉な笑み。「あの……真久部さんは何を無くしたんですか?」つづく……。次で最後。
2023.10.05
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「ちからみず?」「ええ。それだけで、あとは何も。伯父のあらゆる|知《・》|り《・》|合《・》|い《・》に聞いて、尋ねて、いろいろ探したり、条件を揃えたり……まあ、そんなふうにして作ったんだと思います。ただの塩水にしても、普通の塩水ではない。矛盾していますが」伯父が僕のために奔走してくれたことは、今でもありがたいと思ってるんです、と真久部さんは呟く。「好奇心旺盛で、何にでも顔を突っ込むし、横紙破りも平気でする。怖いものは何も無く、好き放題しているように見えるけれど、あの人ほど慎重で用心深く、注意深い人を、僕は見たことが無い。|趣《・》|味《・》のためとはいえ……」「……」伯父さんの趣味、それは骨董古道具たちから、彼らの長い人生ならぬ、|物《・》|生《・》の中で傍観傍聴してきた話を聞きだすこと。前に真久部さんが教えてくれたから、俺も知ってる。伯父さんならではの方法で、伯父さんならではの楽しみ方をしている、らしい。もちろん、普通の人にはそんなこと出来ないし、やったら命やら精神やら、いろんなものを持っていかれてしまうという。「きっと──、そのための知識とか経験、技術とか力を、フル回転させて真久部さんを守ろうとしたんでしょうね。薄のあの子は<保護>したつもりだけど、伯父さんからすれば<神隠し>で……そこにヨモツヘグイの要素まで加わったとなれば、やり過ぎなのか、まだ足りないのか、伯父さんにもきっとわからなかったんじゃないかなぁ」感じたことをそのまま言うと、真久部さんはちらっと笑みをよこした。「何でも屋さんは、相変わらず叔父に甘い。でもまあ、きっとそういうことだったんでしょうね」「あはは……」俺、甘いのかな、真久部の伯父さんに。俺がこの慈恩堂にすっかり慣れてしまった(馴染んだって言いたくない)のも、伯父さん絡みの体験のほうが強烈過ぎて、古時計たちの悪ノリくらい、どうってことなくなってしまったせいかも。そういえばこの春も、賽の河原に連れられて、疫喰い桜の応援をさせられたっけ──。人の魂を乗り物に、報恩謝徳の桜を蝕みにくる“鬼”。前の年よりは少なかったような気もするけど、また増えすぎても困るので、来年も河原の見回りにつき合うようにと強要、じゃなくて要請というか、依頼? されたんだ。俺が応援すると、疫喰いのアイツが張り切るからって。「|例のラーメン屋の店主《お地蔵様》にも頼まれてるからねぇ。忘れないでくださいよ、何でも屋さん」なんて、逃げ腰なのを悟られたのか、胡散臭い上に鋭い笑みで釘を刺されたけど、忘れようにも……。「……真久部さんが毎年あの茅場に行くのは、あの子のためなんですね。忘れてないよ、って」真久部の伯父さんは、もし俺が忘れていたって絶対忘れさせてくれないだろう。だけど、あの子は──。「薄のあの子の、ただひとつの望みを叶えるために」あの子は違う。ただ望み、願うだけなんだ。『忘れないで、覚えていて』──気休めの約束すら、求めなかった。「……眠っているあの子の夢に、少しでも届けばいいな、と思っていますよ」小さな薄の神様の、儚くもいじらしい思い。その心に添うために、真久部さんは年に一度、必ずあの茅場に足を運ぶんだ。「只人である僕では、自分からあの子の夢に繋がることはできない。でも、あの子は僕の夢を見ると言っていた。だから、あの茅場に行けば、あの子のゆめうつつの夢の端に、その時どきの僕が現れることができるんじゃないかと、そんなふうに考えてね。あの子のことを忘れていない僕を、僕の心を、感じてもらうことができるんじゃないかと……」実はけっこう危ない橋なんですよ、と苦笑する。「心が幼くなってはいても、あの子の理性では、僕を連れて行くことはしない。でも、夢だから、夢の中だから。ただの夢のこととして、僕と遊ぼうとしてしまう。友だちを見つけて、笑顔で走って来ようと──、近づきすぎるのは危ないんです。今のあの子には、夢と現実の区別がつかないので……」「引っ張られてしまう、っていうのは、そういう意味だったんですか──」真久部の伯父さんの危惧。今ではそれも理解できる。「そう。行くのはいいけれど、一人では絶対行くな、と言われていたのはそのためです。一人であの茅場に立ち入って、道に迷って疲れた挙句、選んだ道があの子の眠る場所に繋がっていたら、僕は今度こそ戻れなくなる。僕の中に眠るあの子の力が、大元のあの子の中に戻ろうとする──それが、僕にはわかるんですよ」「……」「不知の茅場は、ああいう地形なのもあって、元々人の感覚を狂わせやすい。空を歩く道、どこまでも下る坂道。現実にはそんな道はないのに、人は視てしまう。あの子のせいではないけれど、でも、あの子の無意識が作った道も混じってる。心に迷いがあればあるほど、道は増え、薄の中に消えていく。だから別けておかないといけないんです、薄の中に消えた道が、どこに通じているかわからないから」薄と人、別けておかないといけないのは──。「あの順路に渡してある鎖は、心の迷いに迷子になっている人を、守るためでもあるんですね……」「心の迷いの迷子……そうだね」つづく……。あと、二話。
2023.10.04
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「そう……そうだね。目の前のまやかしにやられて、赤信号なのに車の前に飛び出そうとしてたら、止めるだろうね」「……」なんか、例えがリアルで怖い。俺、慈恩堂の仕事は、絶対真久部さんに指示されたとおりの約束事、守るんだ……。「だけど、助けられてすぐの眠りにあの子が会いに来てくれなかったのは、どうしてなのかなぁ」ちょっとビビってる俺に、いつもみたいに笑ってみせるけど、その目には傷ついた、小さな寂しさが滲んでいる。「何でも屋さんの言い方を借りるなら、僕の夢にあの子が繋がれなかったのは、どうしてなんだろう………数日目覚めなかったと、あの子は知っていたようなのに」今でも時々、思い出すとついああでもない、こうでもないと考え込んでしまうんだよ、と真久部さんは困ったように笑う。「僕が女の子じゃなかったから、がっかりしたのかな、なんて、当時はうじうじしたものです。伯父はあの子が僕に『さよなら』を言いたくなかったから、と言うけど……。夢だから会えるというなら、いつでも夢に会いに来てくれれば、いっしょに遊べるのに何で? といじけたりね。──それは危ないことだと、もうわかってはいるけれど」生きている人間が、違う世界の存在と長くふれあうのは、良いことではないといつも真久部さんは言うし、俺だってなんとなく知っている。だって各種怪談によくあるじゃないか。|あ《・》|ち《・》|ら《・》が意図しなくても、生きている人間の生命力が削られるというか──。そうそう、子供の頃に事故死したはずの両親の幽霊と出会い、交流してた男の映画もあったっけ。男が衰弱したのは、別口で憑いてたほうのせいでもあったみたいだけど……。「誘拐されて怖い思いはしたけれど、あの子に保護されて楽しく遊んで……せっかく楽しかったのに、お互い性別を勘違いしていたって知って……僕はあの子が男の子でもよかったけど、あの子は本当に唖然としてたから──がっかりしたんだろうなぁ、と思うと、子供心にもね、傷つくものがありました」「──なら、真久部さんのほうが拒否してたんじゃないかなぁ」ふ、と俺は声に出していた。「え?」「あ、その」何だ俺、何も考えずにこんなこと……えーっと。「あの、ほら! 真久部さんだって子供だったじゃないですか。他愛ない遊びに夢中になるような年頃の。一緒に遊んでた子から『え? 男の子だったの?』って、それが単に驚いただけにしても、急に遠ざけられたら、何で? と思うし、あ、それはちょうどご両親に呼ばれて目を覚ましたせいだけど、うーん、つまり、子供だから、納得できなくて腹を立てるっていうか」とっちらかった説明なのに、真久部さんは虚を衝かれたような顔をしている。「ま、真久部さん?」見開いた眼は俺を見ているようで、見ていない。「そうか……腹を立てて……怒っていたのか、僕は──」自らの内側の、どこか深いところを覗きこんでいる様子だ。「女の子みたい、とはよく言われていたし、慣れてはいたけれど──あの子は、みたい、じゃなくて本当に僕が女の子だと思い込んでいた……他の誰にそう思われてもどうでもよかったけど、あのときの僕は、何だかとても悔しくて──、そう、確かに僕は腹を立てていたよ」顔を上げて、苦笑して見せる。僕だってあの子のこと、ちょっと年上の女の子だと思っていたから、お互いさまなのにね、と。「何でも屋さんのお蔭で、やっと腑に落ちたというか……納得できたよ。どうしてあの子が最初、夢に現れてくれなかったのか。僕のほうがあの子を拒否していたせいだったんだね。うん──それですっきりしたよ。伯父の『さよならを言いたくなかったから』説よりも、ずっと素直ですっきりしてる」長年の心の痞えが取れたような表情、だけどそこには、かすかな寂しさが過っていく。「伯父の飲ませてくれた水は、確かに効果があったんだろうね。無理強いをしなかったあの子の力を届けやすくしたか、それとも、僕の心身をこちらに繋ぎ止めることによって、反動を狙ったか──」向こうを向いて走って行こうとする子供の肩をがっしり掴んで、くるりと後ろを向かせるみたいに、と真久部さんはわかりやすく言い換えてくれる。「振り向いて、さよならを……けじめををつけることによって、相手にもそれを願う──もとより、僕はあの饅頭をひと口しか食べなかったから、連れて行かれることはないと伯父は踏んでいたんだろうねぇ。最悪、熱を出すくらいで……それでも、|相《・》|手《・》の気分次第でどうにでも転ぶ可能性は無くもないから、繋がりを断ち切りたかったんでしょう」二十歳まで生きられないとかね、なんてさらっと続けるから、俺は無言になった。──伯父さん、色んな可能性を思い当たるだけに、小さな甥っ子が心配で心配でたまらなかったんだろうな、と思う。「大人になってから、あの水は何だったのかと伯父にたずねたことがあるんですよ。伯父は<力水>だとか言ってましたが、詳しくは教えてくれませんでした」つづく……。あと三話です。いつの間にか十月。驚くよ十月。ああ、十月よ、何故おまえは十月なのか──! などと、意味不明の供述をしており……。
2023.10.03
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お腹痛くなったりしないかとか、気にしてたみたいだし、と考えながら俺は続ける。「──きっと、伯父さんが何もしなくても、薄のあの子の力は、子供の真久部さんの身体にゆっくり馴染んでいったんじゃないかなぁ……」あの世とこの世のあいだみたいな、不思議な世界のことだから、俺にだって確かなことは言えないけれど……とか思いながら顔を上げると。 「……」真久部さんが驚いたみたいに俺を見ている。「え……何ですか? 俺、何か変なこと言いました?」「何でも屋さんは、伯父とは逆のことを言うんだね」「そ、そうなんですか?」この道のエキスパート(?)な真久部の伯父さんと意見が違うってことは、俺のが間違ってるんじゃないかな。「そんなことはないと思いますよ」無意識に声が出てたらしい。真久部さんは首を振る。「伯父は、一度目の昏睡であの子に会えなかったのは、あの子が僕に会おうとしなかったからだと思っていたようです」「え……」「もちろん悪意ではなく、さよならを言うのが寂しいから……そして、あの子のほうから『さよなら』を言ってもらうのが、黄泉竈食の約束事をほどく一番の鍵だと考えていたようです」「……それも、わかるような気がします」嫌いでないのに、さよならする。それは、俺もしたことのある選択。心の中の何かを、断ち切る決意が必要で、あの時の俺はなんとかそれができたけど……俺はまだ良い。だって、離婚したって娘には会えるし、元妻は快く会わせてくれる。彼女にだって吐きたい弱音も沢山あっただろうに、元妻は俺の弱さに寄り添ってくれた──それは、彼女が大人だったから。そして、俺も大人だった。お互いにとって、どうするのが一番いいか、理解し、納得することくらいはできた。「きっと伯父さんは、ヨモツヘグイは、|子《・》|供《・》|に《・》|と《・》|っ《・》|て《・》重すぎる約束事だと考えたんだと思うんです。俺もそう思う……ただ会わない、距離を置くだけでは、|寂《・》|し《・》|い《・》|子《・》|供《・》の心が納得できず、引き摺ってしまうのではないかと、そんなふうに。だから伯父さんが心配するのも無理はないとは思います。約束事としての、契約の解除が必要だと。だけど──」俺は考えながら言葉を足していった。「あの子……薄の神様は子供だけど、とても心がやさしい上に、物わかりの良い……いや、良すぎる子供だったんじゃないかと、俺、真久部さんの話を聞いて思ったんです。諦めることに慣れているというか……」「……」目を伏せて、真久部さんは膝の上に置いた手を見つめている。「でも、そんなこと、当時の伯父さんにはわからないわけで……結果を見てやっとわかる、っていうたぐいの事柄というか。甥っ子の真久部さんの、楽しくいっしょに遊んだ話を聞いても、|子供《甥っ子》にはその危うさがわからないから、自分が何とかしてやらないと、って必死になっていたのかも」ほら、行方不明になってた真久部さんを探してるとき、地元の人が言ってたっていうじゃないですか、と俺は続ける。「“知らずの茅場”には、薄の神様がいるって。それは片目の神様で、子供をさらって薄にしてしまうって。普通はそんなのただの御伽噺か、モッタイナイおばけレベルの戒めだと思うものだけど、伯父さんの場合は、ほら、その、普通とは違う視点があるせいで、どうしても深刻に受け止めざるを得ないというか──」迷い家のラーメン屋やってるお地蔵様の友達がいたり、古道具と話をしたり。只の人がそんなことをして、無事でいるために、伯父さんは様々な約束事に通暁してるんだろうと思うけど、この場合はたぶん、伯父さんの取り越し苦労だったんじゃなかと俺は感じる。「普通とは違う視点、ですか」呟くように、真久部さん。「はい。知ってるからこそ、怖い、とか思うことあるじゃないですか。山で熊に出会う→襲われる、とか。ガスが漏れる→爆発する、とか。密室でストーブが不完全燃焼→一酸化炭素中毒になる、とか。熊が獰猛だとか、充満したガスは静電気でも爆発するとか、一酸化炭素の恐ろしさとかを知らなければ、何も怖くない、そもそも何が怖いのかすらわからない。でも、知ってたら?」「……そうだね。子供は知らなくても、大人なら知っていて、危険を取り除こうとするでしょうね」「俺、|普《・》|通《・》|の《・》例えしか出来ないけど……伯父さんは、そんな感じで頑張ったんじゃないかなぁ、と。甥っ子の命が掛かってると思って必死になったんでしょう。だって、ヨモツヘグイって、やっぱり怖いじゃないですか」どんな漢字を使うのか知らないけど、何か怖そうな字面に違いないと思ってる。「真久部さんだって、古道具を扱うときの約束事を守ってるでしょ? そういうのちゃんとしてないと、こんなお店だって無事にやっていられないって、前に言ってたじゃないですか。俺、|こ《・》|っ《・》|ち《・》|系《・》|の《・》|仕《・》|事《・》|は《・》いつも真久部さんの言う通りにしてるけど、もし、俺が約束を守らず、そのせいでおかしなことになったりしたら、焦るでしょ? なんとかしなきゃ! って」真久部さんはかすかに微笑んだ。つづく……。
2023.09.06
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「攫われてからのことは、すべて夢か幻だったのかもしれない──幼い頃の記憶は、誰だって夢と現実が混じって、違うものに変わっていたりするからね。でも、僕はあの子に会ったこと、あの子の言ったこと、それがすべて子供だった僕の心が作り出した幻だったとは、思いたくないんです」淡々とした声で、だけどその目は遠く、もう二度とは無い時間を、/会えない誰か/人を、どこかに探しているかのようだった。 …………チ…………ッ ッ……チ……ッチ……ッ………… …………チ…………チ………… ッ…… ……ッ ……ッ ……息を潜めるような、静かな古時計たちの音。珍しく沈んでいる主に、遠慮しているように聞こえるのは、俺がこの店にすっかり染まってしまっているからだろうか。だけど。「きっと、本当のことだったんですよ、だって──」夢でも幻でも、幼い記憶の改変でもない。俺はそう思う。「ふふ、何でも屋さんなら、そう言ってくれると思ってました」きみはやさしい人だから、と真久部さんは寂しげに微笑む。いや、俺は大人のおためごかしを言ってるんじゃない。ちゃんと根拠があるんだ。「だって、このあいだ真久部さん、普通なら有り得ないくらい、道に迷ったじゃないですか! あれはおかしかった。神隠し寸前って言っていいくらいに」狐でも狸でもないなら、神隠ししかないじゃないですかと続けながら、いつもは怖いからあんまり認めたくない怪異だけど、今回ばかりは全面的に肯定する。「俺、本当に心配したんですよ。でも、子供の頃のお話を聞いてわかりました。姿が消えていたとき、真久部さんはきっとその子──薄の神様の領域に近いところにいたんです。そうに違いありません!」危ない目に遭ったのだから、それは現実だったんだと、俺は逆説的に言い募る。 「いつも余裕の人なのに、あんな危なっかしい真久部さん、神様のせいじゃなきゃ有り得ない!」そうだよ、この人には胡散臭い笑みが似合うんだ。猫又寸前の怪しい古猫みたいに、じっと物事を観察してるみたいな、全てわかっていて愉しんでいるような、そういう余裕が何より似合う人なんだ。「何でも屋さん……」少しびっくりしたみたいに目を瞠って、それから、花がほころぶように微笑んだ。「何でも屋さんらしくないのに、とても何でも屋さんらしい……ありがとうございます」褒められてるのか、貶されてるのかわからないと思いつつ、素直な真久部さんなんか、真久部さんじゃない/やい/! なんて捻くれた照れに襲われそうになった俺だけど、そんな照れは投げ捨てる。だって真久部さん、本当にうれしそうなんだ。「今までこの話、伯父にしかしたことがなかったんですよ。途中までは両親にも話したけれど、あからさまに信じていないのが、子供心にもわかって……」当時は悲しかったです、と苦笑いする。「伯父だけは信じてくれた、どんなに不思議で、常識はずれな出来事でも。それは伯父が普段から、自ら好き好んで不思議な世界に片足どころか両足を突っ込んで、そのくせしっかり現実世界に命綱を繋ぐような、そんな本人だけが楽しい綱渡りみたいなことしているからだ──なんて、大人にならないとわからなかったですけどね」「……」なんか、プールサイドに座って、両足で水をパチャパチャ跳ねさせて愉しんでる真久部の伯父さんの姿が思い浮かんだ。その腰にはぶっといワイヤーロープが結わえられている。 「だけど、そのお蔭で僕がこの世に留まれたことも事実です。あのとき病室で飲まされた水、あれが無ければあの子と夢で逢うことも難しかったと──そう思うんだよ、勘だけれど。ただの夢で逢えるなら、その前の、助けられてからの昏睡で逢えなかったのはおかしいと思うから」「そう、ですよね……」俺はうなずいていた。「その……薄のあの子は、それを心配してくれてたんじゃないかなと思うんです。饅頭の欠片に籠められた自分の力が、真久部さんにどういう影響を与えるのかって。只の人には大きい力なんでしょう? 取り入れた力が中途半端だと、あの子のそばに居られるようになるには足りないってことだけど、ただの人のままで/いさせる場合/いて、それはどうなるのか……なかなか目覚めない真久部さんに、不安になったんじゃないかなぁ」 ──今の眠りの前に そなたは 数日目覚めなかったようだな 親御たちが心配していた 我も心配だった「たぶん、そのときはあちら側から真久部さんの夢に繋がることができなかったのかも。だから、古主様が、その力は害にならない、っておっしゃったとしても、やっぱり心配になったのかも」つづく……。.
2023.09.03
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偉い神様だという、古主様までそうしないといけないというからには、あの子も従わなければならないのだと、子供心にも理解することができました。 そうなの…… よくわかんないけど、 僕、男の子だから、残り食べちゃダメなんだね。 きみ、眠っちゃうの? 食べちゃったものは返せないけど、 お饅頭なら、僕があげるよ このあいだ、お祖母ちゃんと作ったの いちご大福、おいしいんだよ きみが起きたら遊びに行くよ それならいいでしょ?あの子は、ただ寂しそうに微笑っているだけでした。 古主様も 酷なことをおっしゃる このような いとけない子供の 命を…… こく? いや 何でもない ああ だが…… もし そなたが 寂しい悲しい子供 だったなら 我は 伴侶ではなく 友として そなたを ここに招いたよ 残りを すべて食べさせて ただ一度の 妻問い それが しくじりで あったとしても 友は 得られた だが そうではない そなたには そなたを 大切に思う者が たくさんいる 友だちだよ、僕ときみは友だちだよ! いっしょに遊んだもん。楽しかったもん。 僕だって、きみが大切だよ。 ねえ、また遊ぼうよ! ああ そうだな 遊んだな ああ 遊んだ 楽しかった 我は 生まれて初めて 楽しかったよ ふふ…… …… 我に やさしくしてくれたのは 母と そなただけ 眠りについても 忘れまい そなたのこと 母のこと小さな声で呟くと、それからすっと背を伸ばし、あの子は真っ直ぐに僕を見て、唐突に言いました。 そなたは 長生きするだろう 長生き? まもるくんのひいお祖父ちゃんみたいに? その翁のことは 知らぬが 曽祖父と いうなら 長生きなので あろうな そうだ そなたは 長生きをする 我の力 そなた自身の害には ならぬ むしろ益に なると 古主様は 教えてくださった それを お聞きして 我は 心が 楽になった 安心したよ 我の 力は そなたの 命 と混じり そなたの中で ひとつとなった 病なども 時には得ようが 死ぬことはない 必ず治る 渇水や 日照不足 長雨 我が どうすることも できないことで 茅の 薄の 芒の その勢いが 一時 衰えようと 必ず また 盛り返すように 元気で 頑丈で 日々 健やかでいる そんな そなたの姿を思うと ああ ──もし、しくじったら 残りを食べさせるのに、失敗したら 取り返せ、己が力を 妻問い相手の命ごと、取り戻すのだ さすれば全て元に戻る── 我は 取り返そうとは思わぬよ何を取り返そうというのか、聞き返そうとしたのにあの子は答えてくれなかった。その代わり、大きく息を吸うと、厳かな表情で言ったんです。 いま、我は言の葉に乗せ、 改めてここに|誓約《うけい》を成す そなたは、元気で頑丈な身体で 長生きをする姿は子供なのに、本当に大人になったようなあの子。戸惑う間にも、続けます。 天寿をまっとうする、その日まで そなたは、健やかだ 「うけい」とは何かと、後に叔父に聞いた。伯父は、「言葉にしたことが本当になったら、それを言った人が正しい」ということだ、と教えてくれました。「逆に言えば、正しい人が誓約をすれば、言葉にしたことが本当になるのだろうね」とも。誓約を終えたあと、あの子はまた元の穏やかな、少し寂しげな子供の顔に戻りました。 さあ、もう目覚めるが良い そなたを待つ 者たちの許に うん。また来るね。 葉っぱのバッタ、教えてね。あの子はもう何も言わず、やさしい寂しい笑顔で、袖を振りました。 ……どうして小さくなるの今よりも、最初に会ったときよりも、あの子が小さく、幼くなってく。まさか、そのままもっと小さくなって、赤ちゃんになるんじゃないかとハラハラするうち、足を動かしてもいないのに、薄の生い茂る不思議な場所が、あの子ごと遠くなっていきます。 待って! 小さく、豆粒のようになっていくのは、遠離っていくからか、あの子が本当に小さくなるからか。 待ってよ! なんで、なんで!薄の原は遠く、遠く……あの不思議に明るい雲を抱く空との境目が曖昧になり、ふわふわと、ところどころを淡い金と茜の夕日の色に彩られ──ふと、僕は気づきました。金と茜のあわいに、うすい茶色に少しだけ緑を混ぜたような色が、ふわりとひと刷け増えていることに。あれは、僕の目の色。明るい榛色をしたほうの、瞳の色。それを理解をしたとき、かすかな風があの子の、幼い声を運んできました。 忘れないで 覚えていて 我は眠る 眠りの中で そなたの夢を みる ゆめ みながら みながら ゆめのゆめを ああ ゆめうつつの おぼえていて わすれないで われ の のぞみ それだけ……泣きながら目覚めると、枕元にいた母に何度も名を呼ばれ、父にも呼ばれ──伯父は、ただ黙って手を握ってくれていました。診察のあと、父と母が医師の話を聞いているあいだに、伯父がそっとたずねてきました。「|あ《・》|の《・》|子《・》は、さよならを言ってくれたかい?」と。「また来るって言ったのに、黙って手を振るだけだった」と答えると、ようやくホッとしたように、伯父は長い溜息を吐きました。「これが、僕の昔話です」真久部さんは言い、冷めたお茶で喉を湿した。昔話は終わりで、つづく……。
2023.08.31
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ずっといっしょにいられると そう聞いてうれしくなったが 妻問い というものをせねばならぬらしい 妻問いとは何でございますか とお訊ねすると 古主様はお笑いなされたなぁ そちは、まだ心が幼いのだな そうだな ずっとともに居たいと そう思える相手ができたら 聞いてみるがいい そちと、遊んでいたいかと ずっといっしょにいたいかと 相手がうなずいたなら 与えるがいい 簡単なことに思えた 古主様のおっしゃるような相手が みつかりさえすれば だが、ひと口、ひと欠片ではいけぬぞ 必ず全て食わせねば わざわざ そのようにおっしゃるとは いったい 何故であろうと 不思議に思って お訊ねした 只人をそちの隣に留めようというのだ 簡単なことではない 代価が要るのだ 茅よ、薄、芒の主よ そちのその強い生命力 その一部 欠片を この中に籠めてある 欠片といっても そちにとっては大きいぞ 只人にとっては、もっと大きいだろう 我の生命の一部を 我から取って 饅頭に籠めたと いわれても 我は この身に何も感じなかった ああ、そうだ 何も違いは 今はわからぬであろう そちが、そこに持っている間はそれで良い そちの身体の中にあるのと 同じことよ また 全て食わせた只人を、そこに、 そちの隣に置くなら、 それも同じことよ ひと口 ひと欠片 半端にしか食べぬなら 只人はそちの傍に留まれぬ 只人がそちの傍に在るには 力が足りぬ また ひと口とはいえ そちの力を食べたままの 只人を、元の居場所に戻してしまえば そちはそのぶん、力を失う 心に空白が増え 何かを思うことは 減ろう そちは薄の守り主よ 茅よ 芒よ 薄よ その弥栄を守り また 弥栄そのものであらねばならぬ故 大元の力は、そちらに使わねばならぬ 失った力は、そちの自我を保つもの 元に戻るには 時間がかかる その間、そちは眠りにつくだろう 長い眠りになろうが 心根のやさしいそちならば 浅い夢の中でも、人を害すまい もし、全てそちのものになる前に 只人を戻してしまったなら 追いかけて 残りを食わせよ さすれば 力が失われることもなく そなたは伴侶を得ることができる 古主様は そうおっしゃったが 残りを食べさせることが できなかったら その只人は どうなるのか 我は気になった 我の力は 古主様とは比べものにもならぬが 只人には 大きいようだ 半端にひと口 食べただけでは 欠片の欠片を 残したままでは 腹が 痛くなりはしないかと そう思い 何を聞いてくるのかと思えば そちは…… ふふ 古主様は どうしてかお笑いになり そのあと おっしゃったのだ ふむ、妻問いをしくじらないように その時がきたら そちを 少しだけ 大人にしてやろう 努々忘るるではないぞ 寂しさを抱えたまま ゆめうつつの眠りにつきたくないなら しくじるなよあの子が古主様から聞いたという話は、ところどころ難しくて、やっぱりそのときは半分も意味がわからなかったけれど、これだけは、わかったと思った。 きみは、僕を迎えに来たの? そうだな だから僕、またここにいるの?一面の白い雲。そのところどころを、夕日の色が淡く彩っている。太陽は見えないけれど、不思議に明るい空の下、見渡す限りの薄が揺れる。ふわりふわりと風に添い、憂いなどはなさそうなのに、どうしてだか寂しさを感じる……。 病院に来てくれたの? 僕、寝てたんじゃないかな。 眠っているから ここにいることができるのだ 今の眠りの前に そなたは 数日目覚めなかったようだな 親御たちが心配していた 我も心配だった え? どうして。 怖い人はもう捕まったって、伯父さん言ってたよ。 だから、心配しなくていいんだよ。 きみが遊びに来れないなら、 僕が遊びに来るよ。 また、あの葉っぱのバッタ作ってよ。 作り方教えて!子供だったせいか、夢の中にいるせいか、ちぐはぐなことを言い、『眠っているからここにいることができる』というあの子の言葉を、僕は深く考えなかった。楽しかった遊びを思い出し、期待に満ち満ちた僕はにこにこしていた。なのに、あの子は寂しそうに首を振る。遊びの誘いを断られるなんて思わなかったから、僕は悲しくなって俯いてしまった。 僕のこと、嫌いになっちゃったの…… 泣く寸前の声でたずねると、そういうことではないのだと、あの子は慌てたように僕の頭を撫でてくれた。 そなたの食べた饅頭の残り 食べさせたくはあるけれど そなたは寂しい悲しい子供ではない それに そちは女子ではない 我はそちを 伴侶とすることはできぬ はんりょ、って何? 男の子ははんりょにはなれないの? 花には雄蕊と雌蕊があろう? 雄花と雌花が分かれているものもあるが 雄蕊どうし 雌蕊どうし 雄花どうし 雌花どうしでは 種はできぬ 人も同じ 男同士では 子はできぬ それは世の理ことわり 我とて 理を無視することはできぬ 古主様であろうと 従わなくてはならないものつづく……
2023.08.29
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あの子には、どうすることもできないと。雨が降るように、風が吹くように、当たり前のように病は湧き漂い、風が熄むように、雨が止むように、いつしか治まる。そういうものなのだと、あの子は言いました。 いにしえよりの 力ある御方々なら違うかもしれぬ だが 我は小さな神 もう 村に帰ることも出来ぬであろう 哀れな子供を 茅の中に かくまってやることしか出来なかった 泣く子供を宥めようと 我が姿を現すと 子供はよけい激しく泣いた 我の白い髪 赤い目 怖がっていたよ 化け物を見たように 村にいた頃と同じ 人であった頃と同じ 少しは我にも期待があったのだ 追い立てられ 放り出された子供なら 我と遊んでくれるのではないかと 葉の船も お手玉も 子供は見向きもしなかった ただ泣いている 泣き疲れて 眠ってしまった子供 我はどうすればいいのかわからなかった 古主様にお聞きしたかったが そう気安くお会いできるものではない 翌朝 目覚めた子供の前に 我は姿を見せなかった 怖がられるのは 辛いものだ いっしょに遊びたかったのだがなぁ 我は子供を返すことにした 人身御供の子供を返すには どうすればいいか考えた 一所懸命考えた 益があればいいのだ 送り出した側に そうすれば 子供は再び追い立てられはすまい 我は朝露を集めた 我に力はないが 人里離れた野山の草木に下りる露には |天地《あめつち》の神々の 御力の片鱗が宿るという 我の薄の葉を 折り結び折り結びして 作った水筒に 集めた朝露を入れて 子供に持たせた 我のことは忘れさせた ゆめうつつのまま 子供は歩いて一番近い里に帰った 我の教えたとおり 子供は 村で一番大きな水瓶を持つ家に行き 水筒の朝露を 注いだ 茅で作った蓑を着せ 子供の身体を護持したので ふらふらと歩くその子を 村人たちは止めることができなかった が それでいいのだ 水瓶から柄杓で水を汲み 子供は その屋の病人の枕元に立った 口元に水を垂らすと 病人の荒れた息が 穏やかになった 子供はそこで正気づき わけもわからず 大声で泣いたが 戻ってきたことを 叱られることはなかった 人身御供の子供は 芒の神の遣いとなって 帰ってきた そのように 村人たちは考えたのだ 捧げられた子供に 満足した神が 悪疫を癒すため 神水を恵みくださったのだとそれ以来、悪い病気が流行ると、子供が連れて来られるようになったのだと、あの子は憂い顔になりました。 連れて来られる子供は いつも 寂しい悲しい子供だった |父《てて》無し子 母無し子 沢山いるきょうだいの 末っ子 身体の弱い子 村の中で いらない子 …… 正直に言うと 子供を見れば 少しだけ心が浮き立った 我は やはり寂しかったのだ 最初の子供が来るまでは 我も 知らなかったが いつも子供は 大人たちに追われてくる 村々の者どもは それが我の心に叶うのだと思っている 違うのに 追われる子供が かわいそうで だというのに 少しだけ 待ち望む気持ちもあって 我はときどき 自分の心がわからなくなった だが すぐに冷める 我のように追われてきても 子供たちは 我と同じではない 同じではないから 我を怖がる それでも 遊んでくれないかと 怖くても 我と遊んでくれないかと 薄の葉で船をつくり お手玉をつくり そこらで飛び跳ねている 虫を模って 小さな茅葺きの小屋をつくったときは 喜んでくれた 子供もいた 遊んではくれなかったが みんな 里に返した 全てを忘れさせ 天地の神々の御力の宿る 朝露を持たせて そのように 時折りの人身御供は続き 流行り病の無いときは 十年に一度と勝手に決め 送られてくるようになった 寒い季節 薄が枯れる頃 子供を捧げて 来春の弥栄を願ったものか そんなものがなくても 我がここに坐すかぎり 芒の絶えることはないのに 勝手に願い 勝手に貢物を送ってくる 見返りを期待して 茅は 薄は 人の暮らしになくてはならないもの それ故 細ったりすることを恐れていたのだろう昔の茅葺きの屋根は、茅場で刈った茅、薄を使っていたのだと、前に言いましたね。茅葺き屋根は、一度葺けば何十年も保つ反面、火に弱く、また、強風で吹き飛ばされることもあり、常に大量の薄を確保しておく必要があった。その他にも、農耕用に飼っていた牛の餌にもなり、今とは違い、茅場はとても大切なものでした──もちろん、これは後から本で読んだりして知ったことだけれど。そのときは、あの子が言うならそういうことなんだろうと、僕はただ聞いているだけでした。 頑丈な身体で日を浴びて 風に吹かれて 手足を伸ばす それだけで 我は満ちていたはずなのに 勝手な貢物のせいで 心に欠けができた 寂しいのだ かといって 我は求めはしなかった ただ 待つだけで 我のために 追われてくる子供 遊んではくれぬが 言葉を交わすこともある たまには 笑い顔を見ることも ああ 早く来ぬか 十年はまだか だが かわいそうだ 追われる子供は かわいそうだ 中には 転んで死ぬ子がいる それも我のせいにされ 益々恐れられ ああ だが 来ぬのは寂しい 寂しい 寂しい そんなふうに思っていると/我はだんだん元気がなくなったようで 自分では気づかなかったが 春に萌え出す芽が小さく 細く 薄の葉が少なく 艶もなく / 我自身である薄に 元気がなくなったようで あれほど強く繁っていたのに どうしたことだと 古主様が 来てくださった 我の話を聞くと 古主様は 饅頭をくださった そなたに与えた あの饅頭を そちを見ても 怖がらぬ子がいれば 妻問いをせよ 承諾したなら これを与えよ 子が全て食したならば そちと ずっと共に在れるであろうつづく……。24話で終わりになります。怖い、もう八月最終週……怖い。
2023.08.28
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古主様にこの地に置かれてから 長い時間が経った 我の手足たる薄をよく育て、古主様にもお褒めいただいた そんな頃、どこかの村から人がやってきた垣間見た出来事が、あまりにあの子に惨すぎて、衝撃を受けた僕がただ無言でいると、あの子はまた語り始めました。 その男たちは 我の薄を刈らせてほしいと願った そのかわり より強く元気に育つよう世話をすると あの子の薄、茅は、他の茅の出来が悪い年でも、良く育った。それに気づいた近隣の村々は、自分たちの茅場に不作が続いたある年、ついにあの子の統べるこの地にやってきた。 その時に知ったのだがな 我の薄、茅は怖れられていたそうだ どうして? 我は古主様のお力で薄になった 願ったとおりの頑丈な身体をいただいたのだ 我自身である薄を 我は季節に合わせて繁らせた ただそれだけだったというに 元の村の生き残りがどう吹聴したものか 我は人を嫌う薄と忌まれていたのよ …… 元は忌み地 草も生えぬ岩地 古主様のお蔭でそうでなくなったというのにあの子の言ったことを、僕はよく考えてみました。そして、伯父の教えてくれたことを思い出したんです。 えっとね、その人たちのこと、よく分からないけど…… いじめっ子ってね、自分がひどいことをするものだから、 みんなが自分と同じことをするって思うんだって。 だから、自分がいじめられるって思ったとき、 ものすごく怖いんだって。 それって、自分がひどいことしてるって、 わかってるからなんだって。 そうか…… きみは何もひどいこと、していないのにね。 そうだな寂しげな表情を浮かべたあの子に、僕は聞いていました。 きみは、その人たちのこと、嫌いだと思ったことはないの? 元の村の者たちのことは ただただ恐ろしかった 恐ろしい者たちだから 恐ろしいことをするのだと思った ただ 母は 母のことだけは …… 母は 世の中にはきっとやさしい人もいる と言っていた 己と己の子を 村の者たちに疎まれ 蔑まれながらも きっといるのだろうな 母のような人が だから我は人を嫌うことはない そっか。きみはやさしいんだね。お母さんがやさしい人だったから、きみもやさしいんだね、と素直な気持ちを告げると、あの子は微笑んでくれました。 我はもう 人を恐れることはない それもあるのだろうな だから 我の薄を刈りたくば 勝手に刈ればいいと 我は放っておいた 春に萌え出し 夏には伸び 秋になれば尾花を垂れて 冬には枯れてまた春を待つ いくらでも刈ればいいと 我は放っておいた 刈りたいと申し出てきた者たちは いくつかの村の長たち 我を茅神 芒の神と呼び 祀り上げ 大勢で我の薄の手入れをし始めた 年に一度の祭 上げられる祝詞 御饌が供えられ その前で神賑わいの飲み食いし 踊り騒ぐ 我は見ているだけで楽しかった 人のときには 暗い小屋の中 祭の笛や太鼓の音を 遠く聞くだけだったゆえ それだけで良かったのに ある年 やせ細った子供を連れてきた 泣きじゃくる子供を追い立て 帰ってくるなと叱りつけ また追い立てる 我のされたことと同じ ひとみごくうにされた子なの? ああ そうだ 我は求めておらぬのに求めても、欲しくもないのに連れてきたのだと、あの子は言いました。 止めさせようと 我は薄を騒がせた 恐ろしい顔つきで 子供を追い立てていた者たちは 立ち止まり 怯えだし そして逃げて行った 子供を置いて 我のような子なのかと どこか人と違う 蔑まれる見かけの子なのかと そう思い よく見てみたが 髪の色も 目の色も ごく普通の子供 子供はきれいな格好をさせられていた 祭のときだけ見るような 華やいだ衣 子供は泣いている 何が起こっているのかと 訝しく思い 我は手足の先に意識を向けてみた 我の坐すこの薄原のふもと いつも祭のとき 御饌を供え 神賑わいの飲めや歌えをする場所に 村々の長や世話役どもが畏まっている その先頭に額づく神主が祝詞を唱え その中で我に願っている 我等の子を一人 御前に捧げ奉らん そのことをもって 我等の上に降りかかる 一切の禍事を払いのけ給え 悪しき病を払いやり給え 悪疫が流行ったが故に それを我に鎮めてくれと願い 鎮める代償に 子供を一人捧げると そう言っているのだ 我にそのような力はない だというのに悪疫を鎮める力が我にあると あの者どもが信じるのは 母が殺され 我が追い立てられる元となった あの悪疫が 我の仕業であったと 我には悪疫を操る力があると そう思われているということ 我は悲しかった 未だにそのように思われているとは ああ だから かつての我がされたように 追い立てた子供を供物にするというのか あの時 古主様のお力により 我が薄に変わり 忌み地が薄の原に変わった 同じようにすれば 何かが変わり 万事が良くなると考えたのか 自分たちに都合よく そんなわけもないのに 我は悪疫をもたらしはしなかったし 鎮めもしなかった そんなことは埒のほか 我に出来るのは きつい夏の日差しにも負けず 頑丈に 我自身である薄 茅を保つことだけ 我は古主様に定められた 茅の守り主 ただそれだけのために この地に坐すもの この地に坐し 来たり過ぎ行くものを見てきた 悪疫もまた同じ 来たり過ぎ行くもの 我が手出しできることではない つづく……。今月も、もうど真ん中、お盆。時の流れの早さが怖い。もっと怖いのは、今の物凄い暴風の中を、出勤しないといけないということ……。怖いです。走行中に車が飛びそう。マジで。
2023.08.15
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僕は、何と言ったらいいのかわかりませんでした。ただ、あの子が僕のことを心配してくれていたことだけはわかりました。寂しいのだということも……。 ねえ、きみはここに一人でいて、寂しいんだよね。 僕といっしょにおいでよ。 お父さんとお母さんに頼んであげる。 うちに来て、いっしょにテレビ見よ。 それから、いっしょに伯父さんのお話聞こ。面白いんだよ。 またいっしょに遊ぼうよ。 我はこの地から動けぬ え? なんで? この地を統べよと 古主様に定められたが故に統べる、の意味を教えてくれてから、あの子の昔語りが始まりました。 かつて、この地は草も生えぬ荒地であった その麓に、我の生まれた村があった 我ら母子は村はずれに住まいしていたためか 悪疫が流行っても罹らずにいた だが、それを村人たちは怪しみ、憎み 悪疫は化け物の我の仕業である、と断じた 我の命を奪えば悪疫は終息せんと 我を殺しに来たのだ 我は母に逃がされたが、母は殺された 逃げよという母の声、村人たちの怒号 追いかけられ、我は逃げた 忌み地とされ、誰も立ち入らぬこの地に 我は逃げた 追われ、必死に走って、走って…… 岩の裂け目に落ちたのよ 死ぬ瞬間、母への申しわけなさを思った 我を産まずば、父も姿を消さず、村八分にもされず 母は、もっと楽に生きられたのではないかと それでも我を捨てず、虐げず、慈しんでくれた母への 申しわけなさを思った 自らの生が短いのは、わかっていた 身体が弱く、日の光も浴びられぬ いまも、落ちて岩にぶつけた傷よりも 日差しに当たって火ぶくれになった肌が痛い だが、こんなふうに、追われて殺されるとは ああ、我も村の子と同じように 明るい日差しの中で、遊びたかった 働いてばかりの母の、手助けがしたかった 母の、力になりたかった 頑丈な身体が欲しかった いっぱいの日を浴びても負けぬ 頑丈な身体が欲しかった そうすれば、茅をいっぱい取ってきて 小屋の屋根を葺けただろうか 雨漏りのする中で、母と二人 惨めに肩を寄せ合うこともなかっただろうか── 消えゆく意識の下でそんなことを思ったとき 頑丈な身体が欲しいか 頭の中に声が聞こえた 欲しいか、頑丈な身体が ほしい 欲しいか、強い日にも負けぬ身体が ほしい なれば、そちを茅にしてやろう 茅は強い 頑丈だ きつい夏の日にも負けぬ 葉は枯れても 根は枯れず 年ごとに芽吹いてまた背を伸ばす そちを茅にしてやろう その地に茅を生やしたかったが 良い守り主がおらぬでな 守り主がおらずば その地に茅は生えぬ そちは茅の良い守り主になろう 励むがよい そうして、気づけば我は茅になっていた 茅とは薄 薄になって、腕を、足を伸ばした あんなに痛かった日差しが、今は心地よい 我が手を伸ばせば、村人は腰を抜かして逃げて行った 我が足を伸ばせば、忌み地を全て覆い尽くせた 我はこの地を統べる者 そちといっしょに行くことはできぬあの子の話は難しすぎて、僕にはわからなかったけれど、映画を見るように、頭の中に映像が浮かんだ。病み窶れ、目ばかりギラギラさせながらあの子を追いかける村人たち。彼らの手には鋤や鍬が鈍い光を放ち、鉈には血がこびりついている。岩ばかりの荒地を逃げるあの子。遮るもののない眩しい日差しの中、あの子の肌は火傷のように真っ赤になっている。目蓋も腫れあがり、目があまり見えないのか、何度も躓く。それでも足を動かすあの子。けれど重なる岩のその向こう、大きな亀裂があるのに気づかず足を踏み外し、落ちた。嫌な音がした。あの子を追いかけていた大人たちは、喜びの声を上げた。子供が、あんなところに落ちたというのに。でも、薄が生えてきた。あの子が落ちた岩の裂け目から、長い茎と長い葉を持った薄があふれだす。日を弾くそれは銀色に輝いて、さっきまで、喘ぎながら必死に走っていたあの子の髪のよう。後から後から薄が広がっていく。岩を突き破り、地の底から噴き出した溶岩の流れのように、荒地を覆って薄の原になっていく。村人たちは腰を抜かした。血走った目は恐怖に満ちて、わななく口は意味のない声を上げる。這うように元来た道を戻ろうとするが、薄の広がるほうが早い。たちまち彼らは薄に閉じ込められる。猛烈な勢いで伸びる薄に身体を突き破られるかと恐慌するが、そんな彼らなど一顧だにせず、薄はただ丈高く伸び広がっていく。やがて薄は彼らの村近くまで押し寄せてきた。あの子が住んでいたらしいみすぼらしい小屋、その前でこと切れ、放り出されていた母の骸を包むと、そこで止まった。薄は、大事に大事に母を包み込み、葉を結び合い、大昔の貴人の墓のように、丸く盛り上がった。這う這うの体であの子の薄の中から逃げ出してきた村人たちは、一瞬で変わってしまった景色に驚いた。そして、そこにある、薄でできた大塚が、あの子の母の死体のあったところだと気づくと、恐れに慄き、喘ぎながら村に逃げ帰った。あの子とあの子の母を虐げ、殺した村は、そのまま悪疫に人を減らし、生き残りは散り散りになり、打ち捨てられたまま雑草に呑み込まれることになった。だけれどそれは、もちろんあの子のしたことではなく、当時どこにでもあった、不運な出来事のひとつでしかなかった。つづく……。暑いです。しみじみ暑いです。職場の辺り、何故かあんまり雨が降らないのです。窓から見える遠くの方で、真っ黒な雨雲が大雨を降らせていたりするというのに……。見えてるのに、こっちは青空。うーん。皆さまも熱中症にはお気をつけください。
2023.08.10
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俺は酷い顔になっていたようだ。真久部さんが困ったように小さく笑って、大丈夫、と言うように軽く首を振る。「ただ、僕は饅頭を全部食べたわけではなかった。伯父はそこに希望を見出して、様々な対策をしてくれたようです。やたらにしょっぱい……まあ、実際ただの濃い塩水だったんだと思いますが、そんなものも飲まされた覚えがあります。──医者と弟夫婦に怒られていましたが」それでも、|当《・》|時《・》|は《・》伯父さんに懐いていた真久部さんは、その塩水を飲んだそうだ。「すると僕は急に眠くなって、寝入ってしまった。そういった成分は入っていなかったということですがね。そして──僕は夢を見たんです」見上げた空は、太陽は見えないのに不思議に明るかった。白い雲がどこまでも広がっていて、ところどころに淡い金色や薄い茜色が入り混じり、明るいのにちっとも眩しくない。ああ、あの場所だ、と思い──ふんわりふわふわ輝くあの薄の穂は、やっぱり空に上って雲になるのかな、なんてことをぼーっと考えていました。 そなたには、やさしい|父御《ててご》と|母御《ははご》、伯父御がいたのだな気づくと、薄の中にあの子が立っていました。 うん、そうだよ。きみのお父さんとお母さんは? 父は知らぬ。母は身罷った。 みまかった、って何? 死んだということだ。 …… 昔のことだ。……泣かずともよいそんなふうに言うあの子は、一緒に遊んでいたときとはなんだか印象が違っていて、大人っぽくなったように感じました。 そなたも、他の子供たちと同じように 無理に連れて来られ、ここに棄てるために 追われたのかと思ったのだが ちがうよ、知らない怖いおじさんに車に乗せられたから、逃げたんだ。 きみがいてくれたから、僕、こわくなかったよ。ありがとう、と言うと、あの子は寂しそうに笑った。 初めての妻問いであったというのにつまどい、って何? とたずねたけれど、あの子は答えてくれなかった。その代わりのようにさあっと風が吹いて、あの子の真っ白な髪が揺れ、薄も大きく揺れたから、僕はそちらに気を取られた。白い雲と、それに混じる茜色と淡い金色は、夕日を浴びたあの子の色かもしれないなあ、なんてことをぼーっと思っていると、ようやく言葉が返ってきました。 詮無き事よ。そなたが男子だと気づかなかった我が悪いのだ 僕もきみのこと、女の子だと思ったよ。あの子はやっぱり笑っているだけでした。 ……古主様がおっしゃったのだ 寂しくば、いつか妻問いをせよと 我は元は人であった故に、一人では寂しかろうとな ふるぬしさまって?様、がついているからには人の名前だと思って、僕は聞いてみました。 遠い昔からこの地に|坐《いま》すお方のことよ そうだな、そなたには偉い神様と言えばわかりやすいか 神様? ああ。このような姿に生まれて虐められ、 母を殺され、追い立てられ、死んだ我を 古主様は憐れんでくださったのだ ……なんでそんなひどいことされたの? 村に悪疫が……ああ、悪い病気が流行ってな それを我のせいにされたのよ 母は巻き添えだ 人であるのに人ならぬ姿の我を産んだせいで夕焼けの色を凝らせたような赤い目が、どこか遠いところを見ているかのようでした。 むずかしいよ。きみは人でないなら何なの?本当は、村に悪い病気が流行ったのが、どうしてこの子のせいになるのかが分からなかったんだけれど、それをどう言えばいいのか、その時の僕にはわからなかった。 何であったのだろうな? 村人たちにとっては、我は化け物だったのだろうよ このような、人と違う色を纏って 日差しを嫌い、夜に外を歩く ああ、そなたもその目の色で、苛められたりはしていないか?あの子がとても心配そうに言うから、僕は慌てて首を振った。 ううん。変わってるね、って言われるけど、 いじめてくる子はいないよ。 だってね、僕のこの目は、僕の伯父さんといっしょなんだ。 日本ではほとんどの人が黒い髪に黒い目をしてるけど、 外国に行ったら、金色の髪に青い目の人もいるし、 肌の黒い人もいるし、いろんな人がいるんだよ。 テレビで見たことない? てれび、とやらは知らぬ 我は見たことも聞いたこともない だが、そうか。そういうものなのか…… では、そなたは追われることはないのだな 人身御供にされることもひとみごくう、の意味がわからなかったけれど、さっき言ったような、無理やりこの場所に連れて来られる子供のことだと、あの子は教えてくれました。 怖いおじさんが僕を連れてきたけど、 じゃあ、僕もひとみごくうなの? いや。そなたはただ攫われてきただけだったのだ ……季節外れゆえ、おかしいと思うたに 久しく人に会うことがなかったせいか、寂しくて 我はそなたのことを 望みもせずのに、我に勝手に捧げられてきた いつもの人身御供だと、勘違いをあの子は苦笑いをした。 だが、そなたが人身御供でなくてよかった 寂しい悲しい子供でなくてよかったつづく……。もう七月最終週? 嘘! という心の叫びをあいきゃんとすたんどあっぷとぅ……。
2023.07.26
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時の流れの早さに、慄く……。「神様だったあの子のこと、調べてくれたのも伯父でした。──両親は、僕の話を聞いてもただの夢だと思っていたようだけど、伯父だけは信じてくれた。信じて、負担にならないよう少しずつ訊ねてくれて、だから僕はあのときのことを、今でも鮮明に思いだすことができるんだと思います」 「……」俺、すっかり普通に聞いちゃってたけど、そうだよな、普通は限界状態で見た夢か、恐怖から逃避するための幻か、と思うよなぁ。子供の真久部さんはそんなに長い時間に感じなかったみたいだけど、実際には発見されるまで三日も経ってたっていうし。慈恩堂の仕事を請けるようになってから、不思議な体験をすることが多すぎて、そんな話もつるっと呑み込んでしまっていたよ……。俺、馴染みすぎじゃない? じんわり思うも、そんなことは今はいいと、真久部さんの話に耳を傾ける。「伯父には心配ごとがあったんです。だからこそ、あの子のことを必死になって調べてくれたんだと思うんだよ。そのときの僕には何も言わなかったけれども」いつもの古猫の笑みは薄れて、頬に憂いの影がある。そんな真久部さんの様子に、俺はそこはかとなく不安を感じた。「真久部さんは無事に戻ったし、誘拐犯も逮捕されたのに……?」その不安の根は、これまで経験した不思議の中にあるような気がしたし、実際それは当たっていたようだ。「伯父は、あの子がくれた饅頭のようなものを、僕が食べたと言ったことをとても気にしていた。何故ならそれは、黄泉竈食に通じるものだから」「よもつへぐい?」何だか、怖い感じの言葉に思う。「黄泉竈食とは、あの世の食べ物を食べること。あの世のものを口にすると、現世に戻って来れなくなってしまうと言われています」──わたくしは黄泉の国の竈で煮たものを食べてしまいました。もう現世に戻ることはできません。それは神代の神代の昔々。根の国の暗闇の中で、伊邪那美命が伊邪那岐命に告げた言葉。伊邪那美命は、火の神を産んだために命を落とした。妻の死を嘆き悲しんだ伊邪那岐命は、死者の国である根の国、黄泉の国にまで彼女を迎えに行ったのだが──。「見てはいけない、と言われていたのに見てしまった。見たものの恐ろしさに伊邪那岐命は逃げ帰り、この場はおしまいです。黄泉の穢れを祓うために禊を行ったときに、また沢山の神様が生まれましたが、それはまた別のお話」真久部さんの語ってくれたこの話は、俺も知ってはいた。日本人なら誰でもどこかで読んだり聞いたりしたことがある神話に、特に何も思ったことはない。──神様でも、死んだら生き返ることはないんだな、としか。俺の感想に、真久部さんはうなずいてみせる。「そう、生と死は不可逆的なもの。死者は生者になれないし、生者も死ななければ死者になれない。それは真理なんですが、この神話の中に、その生死の間を少しだけ曖昧にするものがある。それが黄泉竈食という概念です。黄泉の国の竈で煮たものを食べたから現世に戻れない、ということは、食べなければ戻れるのか? という疑問が生まれる」「……約束事の、抜け道、的な?」「ええ、そういうことです」曖昧な笑み。その顔を見ながら、俺はこれまでこの人から頼まれた仕事の数々を思う。 決して蓋を開けてはいけません。 月の光を見せてはいけません。 指示通りの順番で、指示通りのことをしてください。 その場所で誰かに話し掛けられたとしても、返事をしてはいけません。 繋がってしまうから、ドアは開けて! 何でも屋さんが名前を付けてください。そうすれば護り刀になります。……最後のはちょっと毛色が違うけど、古い道具を扱うときの約束事、俺は破ったことはない。俺が破らなくても他の誰かが、たとえば真久部の伯父さんとかが勝手に破ったりして不思議なことが起こったりするけど、俺自身は必ず約束事は守る。仕事上の指示だからっていうのもあるし、何か怖いから──。そんな俺を、真久部さんは信用してくれている。「道具にかかわる約束事でも難しいのに、神様にまつわる約束事はさらに難しい。そしてこの場合の、つまり黄泉竈食は、世の理でもあるわけですから、それ以上のものになる。神様でも破ることはできないのだから」あの子がくれた饅頭を食べた僕は、あの子のいる世界、あの世の住人になっていたかもしれない、なってもおかしくなかったんだよ、と真久部さんは続ける。「……伊邪那美命は死んでからあの世の食べ物を食べて、真久部さんは生きてるのに同じようなものを食べて、えーっと……」あんまり考えたくなくて、そこで思考を停止したかったのに、/はっきりと/先を言われてしまう。「約束事の抜け道。それは逆にも当てはまる。死んでも、あの世の食べ物を食べなければ戻れるかもしれない、ということは、生きていてもあの世の食べ物を食べれば、死んでしまうかもしれない、ということ」「……」抜け道だって約束事のひとつだ。その約束事に絡め取られ、世の理の中に捕えられたとしたら──。つづく……。七夕のお話を書きそびれました……毎日へたって、土日はしんでる管理人でした。
2023.07.09
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嘘……もうひと月……?ちゃんとストックあるのに、間が空いてすみません……。「……わからないです。でも、遊ぼって言われたら、何も考えずに仲間に入れるかも」そんなふうに言えるのは、色んな人種がいて、いろんな体質の人がいるという認識が当たり前の、今の時代に生まれたからかもしれない。外のことは何も知らない、狭い世界が全てだったであろう時代の子供たちを、責める気にはなれなかった。俺の言うのを黙って聞きながら、真久部さんはもう一枚、銘々皿を取り出した。包装紙から取り出したお菓子を、丁寧に盛り付ける。小さなマグカップには甘いココア。ちゃぶ台の端に置いたそれを、少し寂しそうな笑みを浮かべて眺めている。「怖がられたり、そこにいるのにいないもののようにされるのは──知らないふりをされるのは、寂しいものです。大人でも、子供でも、神様でも……」「……」中には、単純に神様が見えなかった子もいるかもしれませんがね、と軽く言ってみせる。「あの子には、もうひとつ変わっているところがありました。赤い目の、そのもう片方の目。それはは、淡く青みがかって見えた」俺はまじまじと真久部さんの顔を見た。正確には、目を。黒褐色と、榛色の……。「真久部さんの目と、似ているところがあったんですね」それは、左右で色が違うオッドアイ。この人のはよく見ないとわからない程度だけど、珍しいといえば珍しいし、変わっているといえば変わっている。「僕もね、今は違いがわかりにくいけれど、子供の頃は薄いほうはもっと色が薄くて、珍しがられたものです。遊び仲間の子たちは慣れてくれたけど、小学校に上がると他所から来た子たちに気味悪がられて……薄いほうの色もだんだん濃くなって、そのうちわかりにくくなるよ、と伯父は慰めてくれたけど」真久部さんの苦笑い。この人の伯父さんは、両目の色が甥っ子とお揃いだ。だから、そのうちわかりにくくなるというのは、説得力があっただろうと思う。あの、真久部さんと似てはいるけど、とうの昔に大人になったというのに、未だ子供の無邪気な残酷さを忘れていないとでもいうような、何ともいえない悪戯っぽい瞳を思いだしていると、そういうところは伯父に似ず、常識人に育った甥っ子は言った。「僕はだから、よけいあの子の見た目が気にならなかった。あの子はだから、よけい僕のことを気に入ってくれたのかもしれません」「……」見掛けが人と違うせいで、人と違う扱いになる。疎まれたり、逆に崇められたり。違うことは罪ではなく、ましてや罰でもないけれど、子供の頃の真久部さんもオッドアイのせいで、いやな目にも遭ったことが他にもきっとたくさんあるんだろう。「あの子が<神様>だというのは、行方不明中の僕を探してくれていたあの地域の人たちの話からわかりました。──不吉なので、さすがに父と母の前では言わなかったそうですが、知らせを聞いて慌てて来てくれた伯父が小耳に挟んだそうです」「不吉……?」「“知らずの茅場”には、薄の神様がいると。それは片目の神様で、子供をさらって薄にしてしまうのだと」「確かに、それは……親なら、そんな状況でそんな話は聞きたくもないですね……」娘のののかがそんなところで姿を消したら、俺、半狂乱になる自信ある。「僕を攫ったのは神様でも何でもない、ただの人間の男だったんだけどねぇ」「そういえば、そいつはどうなったんですか? 逃げたんですか?」子供の真久部さんが行方不明になったのは、誘拐犯のせいじゃないか。だから真久部さんは逃げて……あれ? 神様、は保護をしたつもりだったって、真久部さんは──。「男は、僕が逃げたときの様子と、僕に逃げられたときの態度が不審すぎたようで、前後を軽トラと乗用車に挟まれたまま足止めされ、警察に通報されて、そのまま捕まったようです。──僕と一緒に線路を描いて遊んでいた子たちも、僕が車に引っ張り込まれたところを目撃したらしく、親に知らせ、親が警察に通報して、となって、すぐにあの茅場に逃げ込んだ子供と結びついたようで」「厳罰にしてやりたいですよね」何目的だったかなんて考えたくもないけど、俺も子を持つ親として強い憤りを感じる。真久部さんのご両親、伯父さんだって、皆同じ思いだろう。「余罪がいくつもあったようで、結局、終身刑になったそうだよ」後から伯父が教えてくれましたが、と続ける。「その後の……薄の中での体験のほうが強烈で、攫われた記憶のほうはどこかぼんやりしていたけれど、ふとした時にあの男の蛇のような目つきを夢に見て、魘されて。それが長い間続いていたので、伯父は僕を安心させようとしてくれたんでしょう。──実際、あの男はもう刑務所から出て来れないよと聞かされて、僕は心が軽くなったように思ったものです」怖い思いをした僕と、被害に遭った他の子たちのぶんまで、仕返ししておいたから、と今思えばとてもいい笑顔で教えてくれましたっけ、と少しだけ遠い目になる。……きっと伯父さん、持ち前の不思議な力で犯人に何かしたんだろうな、と俺もちょっと遠いところを見たくなった。その男には、一切同情はしないが。つづく……
2023.07.05
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いきなりですが、「芒の神様」続きです。直前は「芒の神様 9」です。。茅場から駐車場まで下ってきて、携帯で呼んだタクシーの中でも、ホテルに預けた荷物を取りに戻って、駅までホテルのマイクロバスで送ってもらったときも、その後の電車の中でも、徒歩で移動するとき以外はずっと寝てた。 「体力を消耗するというより、頭が疲れるみたいなんだよね」「頭が?」どういうこと?「道に迷ってしまうのは、ほとんどの場合、同じような風景のせいで方向を見失ってしまうからなんだろうけど、それとは別に、存在しない道をいくつも見せられる、というのがあると思うんだよ。どれが正解なのかわからなくて、頭が混乱して動けなくなる」今回の僕みたいにね、と続ける。「言ったでしょう? 数えきれないくらいの道が、目の前に現れたと。瞬きするたび、違う道になる。新しい道が現れる。天に伸び、地に向かい、上りなのか下りなのかと戸惑ううちに、気づくと真っ直ぐ伸びているかに見えたのが、途中からカーブして戻ってきているように感じられたり」「う……頭がこんがらがりそうです」「そう、そういうことなんだよね。精神的な緊張と、困惑と、恐怖。どの道を選べばいいのかわからないのに、先に進まなければならないという強迫観念に駆られ、でも動けない。脳が押し潰されるような重圧と混乱と、ああ、つまり──」情報処理が追いつかない、っていう感じかなぁ、と真久部さんは首を捻る。「脳がオーバーヒートして気絶するか、処理落ちみたいに眠くなる──そんな感じだと思う」熱が出たりしなかっただけ、マシなのかも、とちょっと考え込んでいるようだ。「でもねぇ、幼かったあのときは、不思議な体験をしただけだった。その意味も、何もかもわかっていなかったんです」「真久部さんと遊んだというその……神様? は、真久部さんを助けてくれたんですよね?」「ええ、たぶん。──|怖《・》|い《・》|大《・》|人《・》|に《・》|連《・》|れ《・》|て《・》|来《・》|ら《・》|れ《・》|、《・》|追《・》|い《・》|か《・》|け《・》|ら《・》|れ《・》|た《・》|子《・》|供《・》を、|ま《・》|た《・》一人保護したつもりだったんだと思います」それは妙な言い回しだったのに、俺は何も思わず、だから普通にうなずいて、誘拐犯から逃げることのできた幼い真久部さんの幸運を思っていた。実際に見たからわかるけど、あの広大な薄の原、背高の茎や根の密集する中に子供の小さな身体で逃げ込めば、もはや誘拐犯に捕まることはなかった、とは思う。だけどもし、その前に車から逃げられなかったら、どんなことになっていたか──。外遊びの子供を不審者から守るには、とつい難しい顔になってしまった俺をよそに、真久部さんは先を続けている。「同じような子を、|何《・》|人《・》|も《・》助けたみたいだったけど、あの子は誰も自分と遊んでくれなかったと言っていた──。後から、何度もその時のこと、あの子の言ったことを思い返していたんだけど……」子供だった僕には何も思いつかなかった、と寂しげにこぼされた言葉にハッとして、逸れかけていた意識を話に戻す。「でもね、ものを知るようになってから、わかったんです。──あの子は、異形だった」「異形……?」あんまりいい意味では使われない言葉のような……。俺の目に理解の色を見て、真久部さんはうなずいてみせる。「今でも、時々思い出しますよ。あの子の、透けるような白い肌。白い髪、赤い、目──」当時、幼稚園で飼ってた白兎を思い出したものですよ、と言うのを聞いて、俺は、あ、と思いついた。「それって、|白子《アルビノ》?」確か、生まれつきメラニン色素が少ないっていうか、無いっていうか、そういう体質の人だったっけ。「神様だから、人と違うところがあって当たり前なのかもしれません……。ですが、現代では、誰もそれを異形だなんて思いませんよね。ただ珍しいだけで。──昔々の大昔、西洋人ですら見たことのない人たちにとっては、自分たちとは色彩が違い過ぎる存在は、それだけで単純に怖かったんだと思います」子供は無邪気で偏見が無いとはいうけれど、子供だって身の回りで見たことのないもの、知らないものは怖がるでしょう、と真久部さんは言う。「周囲の大人の価値観の中で生きているからね。大人が怖がるものは、子供だって怖い。だから、あの子に……神様に助けられたとしても、一緒に遊ぼうとはとても思えなかったんでしょう」「……」 チ…… チ…… チ…… ……チ……チ……ッ ッ……チッ……ッ…… …… …… ッ……珍しく静かな古時計たちの音。店のそこここでは、影ともいえない気配たちがひっそりと息づいている。それは店主の集めた古い道具たちの夢だろうか。それとも、夢に惹かれて引かれた夢……? 手をつなぎ、輪になって遊ぶ、垣間見えるその姿は少し不思議だ。声の無い歌。歌の主たちははしゃいでいる、俺の無意識が向けられたのが嬉しいのか──遊ぼうよ。ああ、いいよ…………ああ、なんか一瞬眠りそうになった。この店にいると、何故か睡魔に負けそうになることがよくある。しゃべってるときになるのは珍しいけど──。「──何でも屋さんなら、大昔の価値観の中でもあの子と遊んでくれそうですね」ふと呟いた店主の顔は、微笑ましいものを見るような、慈しむような。それでいて少しだけ悲しいような、なんともいえない色を浮かべていて、その目は店の中を──それを通してどこか遠いところを見ているかのようだった。つづく……。
2023.06.09
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あ、と思って俺は立ち止まった。だって、桜の花が開いてきてる。このところずいぶん蕾が太ってきてたけど、一昨日ここを通ったときは、まだ咲く気配が無かったんだ。昨日は春分の日で、びっくりするほど暖かかったから、それで目を覚ましたんだな。花の周りの、これから開いていくだろう丸いピンクの蕾が、ころん、と鈴ラムネみたい。かわいいなぁ。ここは昔高等学校だったらしいけど、統廃合で廃校、その後は役所の庁舎として使われている。桜は、かつて校庭を囲むように植えられていたというが、今は駐車場になってしまい、わずかに東側の列が残されているのみ。開花し始めた木は、その列の一番南端だ。等間隔で、同じように日を浴びているだろうに、やっぱり南から咲くのは……なんか、不思議だ。そう思いながら、俺はスマホのカメラを立ち上げた。──うん、俺もついにガラケーからスマホになったんだよ。元義弟の智晴がさぁ……。カシャ、と桜のベストアングルを撮る。午後の明るい空の下で、開き初めた花たちが笑ってるように見える。『桜が咲いたよ』という件名で、娘のののかに送信。ののかにも、このかわいい花を見せたくなったんだ。そうしたら。そのののかからもメールが来てた。同じように画像が添付されている。『春だね!』俺がいま見ているのと同じような、丸くふくらんだ蕾たちと開いた花たち。あ──昨日来てたのか。忙しくしてて気づかなかった。でも、うれしいな。あの子も俺に見せたいと思ってくれたんだな。ののかのくれた画像と、目の前の桜と。濃いピンクの蕾、薄紅の花びら。昨日の曇天と、今日の青空を繋いでいる。日本全国にある桜が、俺と大切な人たちを繋いでいる──。そんなふうに考えたら、涙が出そうになった。いい大人というのに。離婚後、元妻の許で暮らす娘にはなかなか会えないけれど、でも。きれいなもの、うれしいものを、俺は娘に見せたいと思っている。きれいなもの、うれしいものを、娘も俺に見せたいと思ってくれている。俺は、幸せだ。桜ももう、満開になってきましたね。日当たりのいいところでは、散り始めたのもちらほら……。
2023.03.30
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「普段は食べるどころか、見向きもされないものだからねぇ。慣れていないから、場合によっては毒抜きが不十分だったりもするわけですよ。それをわからず食べてしまって、生死の境を越えたり越えなかったりして危うい目に遭う人が多数。──そういう人たちが|道《・》を作ってしまった結果だと、僕は思うんですよね」「……」「戦中、戦後の食糧不足のときは知らず、近年では食べる人もいないから命を養うこともないし、うっかり彷徨う人もいなくなりました。それで力が弱くなり、今ではもう、亡くなった人に会える人も少なくなった、ということなんじゃないかなぁ」「でも……執着云々は、どういうことですか──? 強く願えば、それだけ伝わりそうに思うんですが」彼岸花の特異性──霊性? はわかったけど、そこがやっぱりよくわからない。老婦人はとても会いたかったようなのに。「……たぶん、あの世はふわふわしてるんですよ、シャボン玉みたいに」少し困ったような、曖昧な笑み。「シャボン玉、ですか?」「そう。追いかけると逃げるし、割れる。空気の流れでね、そうなるでしょう? 勢いがあればあるほど、正面からそれて横に流れたり」執着は、それと同じだと真久部さんは言う。「遠いようで近い、近いようで遠い。場所により、意識により、定まらない。ふわふわと不確かで、だけど、この世と同じくらい、絶対の存在で──同じくらいに頼りないもの同士だと、互いに何となく近づいたりするけれど、強い執着はそれ自体が圧を持つ、強い風のようなものだから、シャボン玉のようなあの世の界の端っこは、その風に押されて遠ざかってしまう」薄く伸びたシャボン玉は、弾けることもなく淡く消える──そんなふうに呟いて、店主は目を伏せ、どこか遠いところを見ているようだった。「……」なんとなく、真久部さんにも何か似たような体験があるのかな、と思ったりもしたけれど……、俺は何も言わなかった。ただ、憂う姿は地味でもやっぱり男前だなぁ、なんてぼんやり考えたりしながら──納得、はできたように思う。当たれ当たれと願うほど、宝くじって当たらないけど、それと同じようなことなのかな、って。──今、この場では似合わない喩えな気がしたから、口に出したりはしなかったけど。「だけどねぇ、今回、僕は|そんなつもりで《・・・・・・・》何でも屋さんを紹介したわけじゃなかったんですよ」その男前面が、珍しくほろ苦い笑みを見せる。「え……?」思わず声がでる。いつも、何らかの思惑とか、企みとか、期待があると思っていたのに。「阿加井さん、困ってらしたんです。昔に庭の世話を頼んでいた人は、そういうことはなかったらしいんだけど、最近の人は、花の季節になるとちょくちょくおかしなことになったらしくて。何かに取りつかれたみたいに、せっかくの花を箒の柄で折ってしまったり、彼岸花の向こうを見たまま突っ立って、その間の記憶を失っていたり」かといって、お年だし、四阿の周囲だけとはいえ、ご自分で草取りをするのもキツかったそうで、と続ける。「|約束事《・・・》を守れる何でも屋さんなら大丈夫と思っただけで。でも──いい|寄坐《よりまし》になったみたいだねぇ……」ここではないどこかを見るような目でそう言い、ふと息を吐いてから、気分を変えるように、「やっぱり、兄は兄どうしで馴染みやすかったのかな?」なんて、わざとらしく小首を傾げて俺を見る、黒褐色と榛色のオッドアイ。さっきと違って悪戯っぽい光を宿すそれに、なんとなく安心した。だけど。「……」そこ、せっかく考えないようにしてたのに。でも、いいんだ。俺の心身の安全には、万全の注意を払ってくれてるらしい真久部さんがこんなふうだということは、今回の仕事、本当に危険がなかったってことだから。いつもの胡散臭い笑みに戻り、冷めちゃいましたね、とお茶を熱いのに淹れ換えてくれるのを見やりながら、俺はリーフパイの包装を破り、豪快に齧りついた。サクッとしてるのにこの濃厚なバターの風味……美味い! 残りのパイも、すぐに胃の中に消える。 ボーン ボーン ボーン…… ……ボン……ボン……ボン ン……ボー……ン……ボ―…… ポポポン……ポ…… 古時計たちが控えめに時を打つ。正時になったらしい。店主がすっ、とそちらに目をくれると、ズレた音を刻もうとしていたやつが、急に静かになった。いつもの、慈恩堂の風景だ。来年のお彼岸には、きっと彼女にも彼の姿が見えるんじゃないかな──。恥ずかしそうに手を振る、彼のその姿が。
2023.03.10
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もちろん村の人たちも、モグラやネズミ、虫除け目的で田の畔や畑の縁などに植えていたようだけれど、と真久部さんは続ける。「あの庭の透垣の向こうは池で、昔はもっと大きかったといいます。池の堤は耕作などする場所ではないから、雑草である彼岸花だけは株分けしてまで増やし、増えて群落となった彼岸花は堤から続く阿加井の家の庭まで覆い尽くして、花の時季にはそれは見事なものだったとか」秋──。真っ赤な花に包まれた静かな池。夕刻ともなれば、花は傾いた陽射しに染められて朱金の帯となり、家と池をひとつに結ぶ……。「きっと、この世のものとは思えない眺めだったことでしょうね……」頭に浮かんだ光景に向かって呟くと、店主は頷いた。同じものを見ているかのように。「昔は彼岸花は不吉と忌まれたものだけど、あまりにも美しすぎるから、現実に存在するのが間違いじゃないかと、それで畏れられたのかもしれないね──。その池も浄土池という名だし、彼岸の頃のあのあたりは、近隣の在所に阿加井浄土などと呼ばれていたというよ」今も地名にその名残りがあるとつけ加え、飲みごろになったお茶で喉を湿す。「江戸時代、何度も記録されている大飢饉。作物は育つ前に萎び、草も枯れ果てる。食べられるなら草の根でも掘り出して食べ、食べられなかった者は衰弱の果てに飢え死にし……そんなときでも、阿加井の在所では死者は少なかったそうです。彼岸花の球根が他所より豊富だったお陰で」彼岸花は、極限状態の村人たちの命を何度も養ったんだよ、と真久部さんは言う。「そのような食べ物を、霊的食物というそうです。命の御祖みおやであり、贄──。日本における絶対的なそれは稲だけれど、稲でなくても条件次第でそうなるものがあり、阿加井の在では、稲に準じる形で彼岸花がそのようになったようだね」飢饉が起こるたび、人の命をぎりぎりのところで救い、養ってきた。阿加井の家とその周囲に根差した、彼岸花──。「稲は、祭祀において重要な位置づけがなされています。御饌みけとして神前に捧げられるし、皇室には御田植や稲刈りの神事がありますよね。即位の年の大嘗祭や、新嘗祭……諸説あるけれど、それは稲が霊的食物、つまり命の御祖であり、同時に、人に食べられる贄であるからなんだよ。そのようなものは何らかの、不思議な力を持つとされている。稲に準じた阿加井の彼岸花にも、同じように不思議な、独自の力が宿ったようです」「どんな力なんですか……?」俺の問いに答えるのは、捉えどころのない笑み。「今回、何でも屋さんが体験したことだよ。彼岸の人となったご両親に会えたでしょう? それこそが阿加井家の、彼岸花の力」──この場所ではね。彼岸花の咲くこの時期だけ、あの世とこの世の境目が曖昧になると言われているんですよ。耳の奥に、あの老婦人の声が甦る。「彼岸花の時期だけあの世とこの世の境目が曖昧になると……、聞きました」真久部さんはうなずいた。「此岸に咲く、彼岸の花。それはあの世を連れてこの世に咲き、この世を連れてあの世に咲く花。境目が曖昧になるのはそのせいです。全国各地に似たような場所はあるだろうけれど、どこがそうなのかわからない。でも、阿加井の彼岸花には確かにその力がある──あると、言われているから、噂を聞いた人が、彼岸になるとあの庭を訪ねたものだそうだよ、懐かしい人に会うために」あの世の影であり、この世の影であるというのは、このときのこと、と真久部さんは続ける。「別の方向から同時に色の違う光が当たって、影が二つ出来るのと似ているんじゃないかなぁ。あの世からの光とこの世からの光と。そこに|何もなければ《・・・・・・》、影は出来ない」「影が、ふたつ……」影の、本体。俺。両親。この世に生きる誰かと、かつてこの世に存在した誰か。「そう。あちらの影がこちらに映り、こちらの影があちらに映る。だから、何でも屋さんのご両親が見えたし、ご両親にも何でも屋さんの姿が見えていたんです。──影だから、触れ合うことはできないけどね」「……」「彼岸花がそういう力を帯びたのは、ひとつは名前のせい。もうひとつはねぇ──」思いに沈みかける俺を引き留めるように、言葉を切る。思わずその顔を見ると、目元に笑みはあるけれど、きっと本人にも自覚のない、憂いにも似た影が差す。「──彼岸花を食べて、実際にあの世とこの世を彷徨う人がたくさんいたからだよ」「え! それはどういう」焦ってそう口走ったけど。「あ……元々、毒があるんでしたっけね」そうだった。彼岸花は有毒だ。適切な処理をしないかぎりは。
2023.03.08
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蛇足というか、真久部さんパートですね。「執着していると、物事、却って上手くいかないものですよ」機嫌の良い猫のように目を細め、真久部さんが言う。古美術雑貨取扱店慈恩堂の店内は、いつもと変わらぬ独特な雰囲気に満ちて、急須と茶壷がてらてらといぶし銀の鈍い輝きを競い、陶器の大黒様がこれ見よがしに小槌を振り上げれば、木彫りの恵比須様が釣り竿と釣果を見せびらかせ、お調子者の古時計たちはいつものようにてんでに時を刻んで──。 ……ッチッ…………チ………………チ…… …………ッ………… ツ…………チッ……ツチッ……ツ…………チッ…… ヂー……ヂヂ………… ……今日の古時計たちは、何だか元気が無い。よくわからないけど、俺が来る前に何かあったらしい。気にしたくないのに彼らが気になる俺の、微妙な表情に気づいているのか、いないのか、いつもの帳場横の畳エリア、ちゃぶ台の前から一番近い古時計をじっと見つめながら、真久部さんは続ける。「たとえば、時計も同じだよ。時を刻む事に執着しすぎる時計などは、周りを|見ずに《・・・》自分勝手な時を創り出しがちだ。また、そういうのに感化されるのがいたりして、一時、相乗効果で店の時間が酷いことに──ああ、」せっかくだから、この話聞きます? とたずねられ、俺は慌てて首を横に振る。頼まれて店番の仕事しに来ただけなのに、聞きたくなんかないよ、怪しい古道具屋における、怪しい時計たちの店内限定時間革命未遂なんて。断固拒否の俺の姿勢に、一応つまらなさそうな顔をしてみせてから、怪しい店の怪しい店主は、何事もなかったかのようにさっきの話に戻る。「何でも屋さんがご両親に会えたのは、執着してはいないからでしょう。運も良かったのかもしれないね」「執着……」今でも会いたいと思うけど、それはまた違う感情なのかな。たずねてみると、真久部さんは「感情の処理の問題だと思いますよ」と、わかるようでわからない返事を返してきた。「阿加井さんは、あの世の影であり、この世の影だって──」何でこんな話になっているかというと、このあいだのあの出来事について、俺が真久部さんに訊ねてみたからなんだ。彼岸花の見せた夢のような、あれは一体何だったのかって。やっぱり、どうしても気になるし──、阿加井さんちの仕事を紹介してくれた真久部さんなら、何か知ってるかと思ってさ。「影ですか」照明が暗いわけでもないのに、薄暗いというか、仄明るいというか、そんな店内の、いたるところに古い道具たちの影が落ちている。その一部が形を変えようとしているような、眩暈のような錯覚を起こしかけていると、店主がちらりとそちらに眼をくれて、影はぴたりと動かなくなる。「影には必ず本体がある──。ご両親が確かにこの世に生きていらしたということだよ、何でも屋さん。あなたという息子が存在するんだから、それが一番確かなことだけど」「……つまり、元から存在しないならば、あの世にもこの世にも影が無い、っていうことですか?」何となく聞いてしまう。「そういうことだねぇ。──存在という言葉の定義によるけれど」にっこりと、古猫の笑み。胡散臭い。どういう意味ですか、と俺がたずねることを期待してるみたいだけど、俺は乗らない。だって話がややこしく──。「まあ、そこらへんを突くとややこしいから、今日のところは止めておきますよ」珍しくそんなことを言いながら、新しいお茶と、お菓子を勧めてくれる。今日のお茶請けは大きなリーフパイ。美味しそうだけど、彼岸花の件が気になって、あんまり食べる気がしない──。そんな俺に読めない笑みを向けつつ、止めておく理由を教えてくれる。「何でも屋さん、まだお悩みのようだから。でも、あまり気にしないほうがいいですよ。あの阿加井家の彼岸花は特別なんだよ。何でも屋さんも、彼岸花が救荒植物だということを知っているでしょう?」きゅうこう……? 急行とか、休耕じゃなくて、えっと──。「飢饉のとき、食べるものがなくて藁をもつかむ気持ちで手を出すという、有毒なやつのことでしたっけ」「そうそう。地面の下の球根を掘り出し、擂って潰して、水に晒して毒を抜いて──通常の何倍も手間を掛けないと、口に入れることのできない本当の非常食。彼岸花の根は球根というか、百合根のような、玉葱のような、そんな形をしているそうだよ。毒があろうと、食べられそうには見えるんでしょうね」僕も見たことはありませんがね、と真久部さんは言う。「飢饉や食糧不足のときにしか出番の無いものだから、現代の僕たちが見ずにいられるのは幸せなことなんでしょう。旱魃や冷害、水害、地震、地震による水源移動……かつては色々あったようです」「……」現代でも台風や大雨で酷い災害が起こるんだから、もっと昔はもっと酷かっただろうなぁ……。「阿加井家は、昭和初期まではあのあたり一帯の大地主だったそうで、代々の当主は災害が起こるたび、被災した村の人たちのために様々な対策を行ったとか。災害が起こると、一番に困るのは食料。そのために年貢を納めた後の残りの米や、その他雑穀、芋、豆などを備蓄してはいたけれど、それすら尽きることがある──。そういうときの備えとしての、庭の彼岸花だったそうです。備えというか、ただ生えるままに放置していたというか……他の作物が不作のときでも彼岸花は変わらず生えてくるから、飢饉に対する最終防衛ラインのようなものだったんだろうね」おまけは3までです。
2023.03.07
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彼岸花おまけの前ですが、一月の話を。もう三月も六日ですが……。ブログデザイン、まだお正月のままにしていた自分に衝撃……! 何か春っぽいのに変更します。昨日の雪がまだあちこちに残ってる。こんなに寒いというか、冷え冷えに冷えてる日の朝に、なんで首輪抜けしちゃったんだ、ミックスのサクラちゃん。しかも通りがかりのバイクを追いかけて迷子なんて、困ったもんだ。まあ、だからこそ俺みたいな何でも屋に声を掛けてもらえるんだけどね。あ、いたいたサクラちゃん。ほら、顔見知りの俺だよ! いつもグレートデンの伝さんや、セントバーナードのナツコちゃんと散歩してるから、匂いは覚えてるだろ? 飼い主の吉野さんも探してるんだから、早くこっちおいで。公園の木の影に隠れてしまうサクラちゃん。そんなに人見知りだったっけ? ほーら、ほーら、大好きなジャーキーだよー。こっちにおいでったら。……なんか俺、お菓子で子供を釣ろうとする怪しいオジさんみたいかも。ちょっと落ち込む。「サクラちゃん、捕まえ──」た、と手を伸ばそうとした瞬間、ピシッ! デコに桜の枝が。尻尾ふりふりのサクラちゃんしか見てなかったから、うっかりしてたよ。「あ」額を撫でながら見てみると、いつの間にやら桜の芽がふくらんできてる。ちっちゃいゴジラの爪みたい。一所懸命伸びて、春を掴もうとしてるみたい。寒い寒いと思ってたのになぁ。知らないあいだに成長していて。「くーん……?」ジャーキー握ったまま動きを止めた俺に、また逃げかけてたサクラちゃんが戻ってくる。「──今度こそ、捕まえた! ほら、これお食べ。飼い主の吉野さん、心配してるから。帰ってから怒られるかもね」飴と鞭ならぬ、ジャーキーとお説教さ。首輪抜けは悪いことだとわかってるサクラちゃん、俺にまた首輪とリードを装着させられてシュンとしてる。ちょっと笑ってしまうけど、しっかりと地面を掴む彼女の足の爪も桜の芽に似てて。「ふふ……おっきくなったなぁ」桜のように愛されて、成長を見守られてるよ、サクラちゃん。仔犬のときに捨てられて、桜の木の下で吉野さんに見つけてもらえた君は。
2023.03.06
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新年あけましておめでとうございます。「『そうですね。考えなしでした。あなたに、いつまでも覚えていてほしいような、忘れてしまってほしいような……私は卑怯だ。朝に向かうとも、夜に向かうともしれない赤い空のように、曖昧な心のまま──』」あなたの心を信じられなかったのは、私の心の弱さ、とまた俺の口が紡ぐ。「『あなたのような闊達な女性には、私のような面白みのない男より、自由気ままでいて、人好きのする、明るく陽気な弟のほうが合うのではないかと……』」「──同族嫌悪という言葉を、知らなかったんですか、兄さん」短い沈黙のあと、そんなふうに思っていたなんて、と阿加井さんが小さく呟く。「そうよ!」鳳仙花の実が弾けるように、彼女の言葉が跳ねる。「死んでまでうじうじして……! だけど……、そんなあなただからこそ、わたくし支えてあげたかったの! すぐに黙ってしまうのは、思慮深いからだって、わたくし知っていたもの。そんなあなたに──」いつも、つい考えなしに振る舞ってしまう、わたくしを捕まえていてほしかった──そう続けた彼女の瞳が潤み、ついに涙が一筋こぼれ落ちる。「……優秀だった兄さんが死んでから、この阿加井の家を守っていくために、俺がどれだけ苦労をしたか。──俺は勉強の出来ない、只の阿呆だった。出来の良い兄と比べられて苦しくて……だから何も知らないふりをして、強がっていただけなのに……」「『優秀だったのは、きみのほうだよ、克彦。私は、ただ優等生だっただけさ。きみは何でもできるはずなのに、やらなかったのは見てて歯痒かった。──私は馬鹿だよ、あの時、あなたは私の名前を呼んでくれたんですね。ああ、私は……。──私は、そろそろ戻らなくては。静謐で、何も無い、……ただ、赤いこの花だけが揺れている……』」「敦彦さん!」「兄さん!」二人の必死な声。あれ、俺、どうしてたんだろう……?「名前、一字違いなんですね」ふっと声が出た。あつひこ、と、かつひこ。頭にKが付くか付かないか。って、あれ?「俺、阿加井さんの名前、知ってましたっけ……?」我ながら、間の抜けた声だったと思う。二人は、虚を衝かれたような顔をしていたけど。少し身体を休めていきなさい、と勧められ、もう一杯お茶をいただくことになった。俺、途中から頭がぼーっとしてあんまり覚えてないんだけど、知らないあいだに何かしゃべってたらしい。二人とも、笑って教えてくれなかったけど、俺何しゃべってたんだろ? 何か良い事らしいんだけど……。阿加井さんも、老婦人も、どこか吹っ切れたような顔をしていた。老いてなお美しい彼女の目が、泣いたらしく赤くなっているのが気になったけど──、二人も俺と同じように、あの彼岸花の向こうに、懐かしい人の姿を見たんだろうか。そんなことを考えてたら、あの人、案外そそっかしかったのね、そう言って彼女は空を見上げ、口元にほろ苦いような笑みを浮かべた。「ここに来るのは、今年で最後にしようと思っていたのだけど……でも、来年も来ることにしました。──生きていれば、ですけれど」ふふ、と笑う声は、少女のよう。そんな彼女に阿加井さんは、お茶を立てているその所作と同じくらい、自然な口調で応じた。「きっとあなたは長生きするでしょう。兄はまだあなたに会いたくないに違いない。何故なら、今日、人様の口を借りて兄が語ったことは、きっと本人にとっては恥ずかしいことでしょうから──」人様の口? もしかして……なんて俺が怖い想像をしかけていると、それにしても、と阿加井さんが続けるから、積極的にそちらに意識を向ける。「我が兄ながら、無口で、何を考えているのかよくわからない人でした。良く言えば物静か、有体に言えば陰気。それなのに目が離せない、どこか不思議な魅力があった──。思えば、兄はこの花に似ていたのかもしれない。この、陰気なくせに人の目を引かずにはおかない、彼岸花に……」その言葉に誘われたように、ふわり、と赤い花たちが揺れる。傾いた陽射しに、長くなった影を揺らしながら、あるともないともいえないほどの風を受け、まるで海のよう。傾いてきた午後の日差しが、山の端にかかる。するとこの阿加井の庭に西日が当たって、彼岸花が赤みを帯びた金色に輝いた。父さん、母さん。二人とも、あのきれいなところにいるのかな。静かで何もないけど、彼岸花の美しい──。父も母も、穏やかな顔をしていた。弟は……。この庭のどこかで、彼岸花の彼方、その遠い向こうを眺めているような気がする。俺たち三人と同じように、美しく、それでいて、どこか翳りのある朱金の光に満たされて。おまけというか、蛇足的に、少しだけつづく……。
2023.01.04
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「ただの──影みたいなものですよ」「影……」でも、本当にそこにいたんだ──。考え込む俺に、阿加井さんが追い打ちを掛ける。「あの世の影であり、この世の影──ただの影法師だ」「ここでしか、会えない影でもありますよ」知っているはずでしょうに、と挑むようにつけ加え、彼女はまだぼんやりしている俺に向き直った。「何でも屋さん。阿加井の庭の、この場所ではね。彼岸花の咲くこの時期だけ、あの世とこの世の境目が曖昧になると言われているんですよ。あなたはご両親に会えたのね……もう何十年もそういう人はいなかったのに、きっとあなたは運がいいのだわ」うらやましいわ、ぽつんとそんなことを言い、彼女は群生する彼岸花を見る。その目は遠くの山より、もっと遠いところを見ているようだった。「馬鹿々々しい」阿加井さんが言う。言葉とは裏腹に、口調は優しげだ。「執着してるから会えないんですよ。あなたもご存知でしょう」「執着? そうかしら」不思議そうにたずねる顔は、童女のよう。「執着でしょう」「わたくしは聞いてみたいだけなんですよ。どうしてそんな誤解をしてしまったのかと」「あなたがずっと思っていたのは、兄だけだったのにね」「……」「でも、本人に会ってそれを聞いてしまえば、あなたは気が済んでしまうでしょう」「そうね」「そうして、今度こそ忘れてしまうでしょう。もしかしたら兄は、それが嫌で姿を現さないのかもしれませんよ」「あなたたち兄弟は、どちらも意地悪だわね」彼女はふっと目を伏せた。「──もう、忘れてしまいたいのに」呟いた声が風に溶ける。言葉を含んだ風が、彼岸花をそよがせて空へ、遠くの山へと吹き渡ってゆく。午後の日差しに溶ける赤。それは何かを俺に思い起こさせた。夜と朝の間を、繋ぐ赤──。夕焼けと、朝焼け……。無意識に、俺はそれを口に出していたらしい。「そうだね、黄昏の色だ」「夜明けの色だわ」二人の軽いやり取りが、何故だか遠くなる──。「『私たちはすべて、踊る光の万華鏡。太陽の光に踊り、宙の闇に踊らされる万華鏡──』」あれ? 俺、今、何か言ったっけ。二人が、すごく驚いたような顔で俺を見てる。「踊り続けるのに疲れて……赤い世界に逃げたんだ。慌ただしく移り変わる光と闇、そのあわいに現れる、黄昏と夜明けの静かな薄明り。赤く透き通った光は、彼岸花の色。あんまり綺麗で美しくて、静かで──つい、戻るのを忘れてしまった」「……あなたは、馬鹿だわ。そこは── 一度行ったら戻れない世界よ」彼女の声が、震えている。つづく……。あと一回で済むと思います。
2022.12.21
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「母さん?」気づくと、母もその隣に立っている。二人は、微笑んでいた。九九をうまく言えるようになったとき、自転車に乗れるようになったとき。本当にうれしそうに笑ってくれた。子供の成長を見守り、喜ぶ、その親の顔。「え、なんで……」父も母も、薬物中毒者に殺された。逃げてきたその男の、子供もろとも惨殺されてしまったんだ。犯人は心神喪失ということで措置入院になったと聞いたけど、そいつのその後のことなど知らない。両親の、あの無残な姿を覚えてる。双子の弟と、ただ身を寄せ合って手と手を握り合い、必死で正気を保ったあの日──。「父さん、母さん!」必死になって呼ぶと、二人は少し困ったような顔になった。こっちに来てはダメだというように、首を振る。「なんで! 俺もそっちへ! ── だって」弟の名を口にして、俺は軽く混乱した。だって、弟は、ああ、弟も死んだんだ。麻薬を憎んで警察官になって、捜査の途中で襲われ刺され、血まみれになって……。あの時の胸の痛み。弟が心臓を刺されたであろう、あの瞬間に感じた、命を切り取られるような痛み。「 」弟の名前。「 」弟の名前を呟いた。と。──ダメだよ、兄さん「え?」声、声が。弟の──「何でも屋さん!」気づくと、俺は阿加井さんに羽交い絞めにされていた。「ダメよ」老婦人にも手を握って諫められている。何で? 何が? ああ、父と母が、生前のような綺麗な姿で──。そう思って彼岸花の向こうを見やると、透垣の向こう、遠くの山が、いつの間にか雲の影を払って明るく輝いていた。高い空のどこかで、のどかな鳥の声。「……今、そこに俺の両親が」力が抜けて座り込みそうになっる。そんな俺の背中を、阿加井さんが抱くように支え、老婦人が手を引いて、元の四阿に連れて行き、座らせてくれた。「これを飲みなさい」煎茶茶碗を渡される。普通よりさらに温めにされたお茶を、言われるまま飲み干した。──そのまま、俺は放心していたようだ。「味はするかい?」たずねられて、俺はのろのろと顔を上げた。阿加井さんと老婦人が気づかわしげに覗き込んでくる。「味……、ですか……。あ……」上手く口が動かない。だけど、何をしゃべっていいのかもわからなかった。「これをお上がりなさい!」言葉を理解するより早く、口の中に何か丸くて軟らかいものを突っ込まれた。驚いて、眼を白黒させてしまったけれど、味はわかった。「どうです? わかるかしら?」緩慢に舌を動かし、顎を動かしながら、俺は首を頷かせた。「……甘い、です」「そう。良かったわ」老婦人は微笑んだ。その笑みは上品で、とても俺の口に茶菓子を詰め込んだのと同じ人とは思えない──。「でも、今そこに父と母が……俺が中学生のとき、死んで」「それは幻よ。夢よ」きっぱりと、言い聞かせるように彼女は言う。さらに少し、つづく……。指の悴む季節になってきましたね。
2022.12.05
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よし! と気合を入れて軍手を嵌め、草をむしるためにしゃがんだ俺に、何故かまだそこにいた阿加井さんが、躊躇うように言葉を継いだ。「もし……もしあの彼岸花の向こうに何かが見えたとしても、決してそちらに行ってはいけません」「え?」思いもかけない言葉に驚いて顔を上げると、阿加井さんは既にこちらに背を向けて、母屋に去って行くところだった。「……」意味もわからず、見送った背中。揺れる赤につられ、しゃがんだ姿勢で見る彼岸花畑は、まるで夕焼けの空のよう。風に揺れて、海のように果てなくも思える──。だけど俺は知っている。花畑の向こうは、ただの透垣だってこと。隙間から見えるのは遠くの山で、借景のひとつの形式なのかな、と俺は思っている。そう、山! ごく普通の住宅地なのに、ここのお家のこの透垣の方向だけ、地形の関係で山が見えるんだ。だからさ、そんなとこに見えるのなんか、鴉か、野良猫くらいじゃないか? 別に珍しくもなんとも……、そんなことを考えながら草むしりに没頭するうちに、謎めいた言葉のこともすっかり忘れてしまった。「……さん、何でも屋さん」「え?」呼ばれて顔を上げると、そこには母屋に戻ったはずの阿加井さん。「一日早く客が来てしまってね。これだけきれいにしてもらったら、もういいよ。屋根の落ち葉は、また後日」「そうなんですか。わかりました」軽く手を払って立ち上がり、腰を伸ばしながらふと見やると、群れ咲く彼岸花たちが午後の陽射しの中で揺れている。こうして見ると、そう陰気でもない。ただ、葉の無い大きな花だけがたくさん咲いている姿は、まるで異世界の光景のようで、ちょっと不思議な感じがするけれど。むしった草を袋に詰めているあいだに、阿加井さんはお茶の道具を四阿に運んでいたようだ。「せっかくだから、何でも屋さんも一服いかがです?」「いや、でも……こんな格好じゃ……」誘ってもらえてうれしいけれど、汗かいてるし、軍手だって草の汁と泥まみれだし……。「手なら、そこの蹲踞で」指されたほうを見ると、石を刳り貫いて作られた水鉢に、真新しい柄杓が添えてある。きれいなそれを汚れた手で触ることを躊躇していると、阿加井さんが柄杓を取って俺の手を流してくれた。「ありがとうございます」「いえいえ。正式な茶会でもなし、こんな庭の端の四阿で、格好を気にすることはありませんよ。さ、どうぞ」恐縮しながら四阿に向かうと、そこには先客があった。一日早く来たというその人は、既に供されていたお茶を手にしながら、軽く会釈してくれた。「すみません、こんな格好で……」さらに恐縮してしまう。だってその人はとても威厳のある老婦人だったんだ。九月も下旬だけどまだまだ暑いというのに、きっちりと和服を召している。ゆったりと微笑んで俺の言葉を受け取ると、茶碗を置いた老婦人はあとはただ黙って静かに彼岸花を眺めていた。風の音、たまに聞こえる車の音も、鳥の声と大差ない。静かで騒がしい山の中と同じように、いろんな音が風に混じって聞こえてきて、それ故にすべてが遠いような……。揺れる赤い花たちを見ながら、彼女は誰にともなく呟いた。「今年も、会えないようですわね」ただ確認するためだけに、発した言葉。「そうですか」立てたお茶を、俺に渡してくれながら、事務的に応える阿加井さん。「冷たいわね」「私は期待しておりませんのでね」淡々としたやり取りのあと、二人はまた沈黙する。会えないって、他の招待客のことかな、と思あたけれど、なんとなく違うような気がした。他に会話はなく、彼らはただ彼岸花を眺めている──いや、その向こうの透垣の、さらにその向こうを見ているんだろうか? 静かな時間が過ぎる。時折交わされる二人の会話は、言葉だけだと友好的とはいえないけれど、刺々しいわけではなく、いたたまれない雰囲気とかそういうのではない。何となく、この場を辞すための言葉を見つけられず、この人たちは何か同じものを待っているのかもしれないと、ぼんやりとそんなことを思った。透垣の向こうは、遠くに霞む山。雲の影か、今はその半分が暗く沈み、その半分がくっきりとした輪郭を見せている。空が高くて、眩しくて──。「え……」知らず、俺は声を漏らしていた。「父さん?」俺が中学生の時に死んだはずの父が、生前の姿のまま彼岸花の波の向こうに立っている。まだもう少し、つづく……。
2022.11.18
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もう立冬を過ぎましたが……。ある日突然、現れる。その、鮮烈な赤。喩えるなら、夜空に咲いた花火が散る寸前に散らした火花。くっきりとしていながら、気づけば闇に散り溶ける。美しさを否定されることはなく、むしろ賞賛されるのだけど。「綺麗ではあるよ」どうしてだかそれだけでは済まされない、この花、彼岸花。「でも、陰気なんだよねぇ」そう言って、阿加井さんは溜息を吐く。「どう思う? 何でも屋さん」「いや、まあ……」聞かれた俺も、同意見ではある。だけど。「この花が咲くと、ああ、秋だなぁ、って思います」うん、秋を彩る花だよ。昼間はまだまだ暑くても、朝晩涼しくなってきたし。「そうだね。だけど私は……好きじゃないんだよ。血みたいな色でさ。本当は根っ子っていうか、球根ごと掘り返してしまいたいんだけど、ね」家を建て替えても、これだけは手を付けるな、って昔から言われてるんだよ……と、また阿加井さんは溜息を吐く。「何か理由があるんですか?」訊ねてみつつも、思う。ケバくて陰気だけど(言っちゃった……! でも心の中だからいいだろう)、とても綺麗な花だから、観賞用に置いておけってことなのかも? 手を掛けるどころか、放置してても、忘れていても毎年咲くし、ここのお庭みたいに群生してると、見事というほかはない。「どうだろうね……今では、もうよくわからないんだ。ただそのように伝わってるだけで」阿加井さんは歯切れが悪い。「家伝、ってやつなんですね!」だけど、俺はそれで納得できてしまった。旧いお家みたいだものなぁ。家屋こそ近代のものになってるけど、この敷地自体にこう、歴史というか、伝統の重みを感じる。どこがどう、って説明はしにくいんだけど、しっとりと湿った庭の土や、端の方に生えてる庭木、さりげなく置かれた庭石も苔むしていて、よく見れば枯山水のような趣もある。その庭の一隅に。「何にしても、圧巻ですね、この眺め。彼岸花畑というか、曼殊沙華畑」お花畑、というと可愛すぎるかもしれないけど──これはお花畑だよな。「枯れるときは溶け崩れるように枯れていくから、死人花の異称がよく似合う」「……」彼岸花には曼殊沙華のほかにも、死人花だの、幽霊花なんて名前もあったっけ。聞いたことがある。「あはは。見た人の見たように見えるのかもしれませんね」枯れ尾花が幽霊に見えたりもするし。俺だって、葛の花のシルエットがお地蔵様に見えたことも……。「見た人の見たように見える、か……。何でも屋さん、なかなか鋭い視点を持っているね」「そ、そうですか? ありがとうございます! あはは。──俺は今日は、あっちの四阿の周りの草むしりをすれば良いんですね? あと、屋根の上の落ち葉なんかを払っておけば」阿加井家では毎年この時期になると来客があって、ここでお茶のもてなしをするのだという。「梯子は言ったとおり、向こうの物置の中にあるからね。じゃあ、頼みましたよ、何でも屋さん。わからないことがあったら、私はあちらの縁側のある部屋にいるので、声を掛けてください」「はい!」ちょっとだけ続きます。ちょっとだけです。
2022.11.09
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もう明日から九月かぁ、なんて思いながら、仕事の段取りを考えつつ自転車を押して歩いていると、驚きの光景に出会った。「えっ!」思わず声が上がる。だって、そこは不毛の大地のはずだったんだ。大地ってか、ついこのあいだ俺が草刈ったばかりの空き地。ちょっと前にも通りかかったけど、刈られた草はすっかり萎びて枯れ果てていて、俺は密かに自分の仕事に満足していた。というのに。力なく折り重なった一面の枯れ草を貫いて、超ミニチュアの樅の木のような鮮やかな緑が点々と顔を出している。スギナだ。スギナの野郎だよ! ライバルたちが復活する前に、自分たちだけでこの地を支配せんと、いち早く萌え出てきたんだ。その様子は、まるで遠目に見たアフリカのサバンナ。テレビでしか見たことないけど、乾季のサバンナって、茶色と飛び飛びの緑で出来てるような気がする。凄いな、スギナ。さすが地獄草。地下茎が寸断されても、しつこく再生するだけのことはある。「……」生命の神秘というか、植物の逞しさに慄きながら思う。スギナ、見た目が杉の木に似てるからそういう名前になったらしいんだけど、俺が樅の木って思ってしまったのは、街中で杉の木なんて見ないからだろうな。樅の木は見るんだ、まがい物のクリスマスツリーの形で。クリスマスかぁ……。外歩き、一人の今、マスクは外してポケットに突っ込んである。きっとまだ、これからもしばらく手放すわけにはいかないその存在に、心がちょっと重くなる。今年のクリスマスは、娘のののかと過ごせるかなぁ……。いや、頑張れ俺。負けるな、俺。地獄草を見習え! どんなに刈られようと、毟られようと、逞しく生えてくるじゃないか。なんたって、恐竜が生まれる前から生えてるらしいからな、アイツ! 俺たちだって、めげずに日々を過ごしてたら、また前のように何の憂いもなく皆で集まって、小さなパーティくらい開けるようになるさ。マスク無しでね!もう来週の土曜日には十月ですが……。遅筆で遅筆でどうしようもない管理人ですが、それでも、ちみちみと頑張っていきますので、よろしくお願いします……。
2022.09.21
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草むしりに一心不乱。暑かろうが、寒かろうが、俺はやるぜ、頑張るぜ。ひゃっはー! 雑草は敵だ! けど、寒いときは生えないな、草! なんて一人乗りツッコミを脳内自動機構に任せて無になっていたら。ん? 何かひらひらしたものが……? ふと我に返って見てみると、カラスノエンドウの花に止まったそれは、シジミチョウ。そこはかとなく水色がかったような灰色の翅に、黒っぽい点々が雀斑みたいに散っている。ぼーっと見ていると、シジミチョウは次の花に。しばし留まり、すぐに飛び立つ。花から花へ、小さな翅が翻る。まるで太陽の光を跳ね返すみたい。ひらひら、ひらひら。ちょうど目の前のカタバミの花に止まったから──。捕まえた。両手をお椀のようにくぼませ、その中にぽふんと閉じ込める。指の隙間から見えるシジミチョウはじっとしてる。手の中で息づく、小さな生き物。ぱっと手を開くと、シジミチョウは何事もなかったみたいに飛んでった。ひらひら、ひらひら。日差しを浴びて、いっそ眩しいほど。太陽の光の欠片みたいだ、そんなことを思いながら、しばしその姿を見送る。……ああ、子供の頃、よくこんなふうにしてシジミチョウを捕まえたっけ。捕まえては放し、放しながら、一体何を思っていたんだろう。もう覚えてはいないけれど、同じようにくぼませた両手の中を覗きこんでいた、双子の弟の姿を思い出す。弟は、とても真剣な顔をしていた。その中に、何かとても大切なものを閉じ込めているみたいに。合わせた手に木漏れ日が当たって逆光になり、それはまるでオレンジに輝く鬼灯の実のようにも見えた。手を開いて解放し、その飛んでいく先を真摯な眼差しで見送っていた弟は、同じようにして小さな蝶を放した俺と眼が合うと、共犯者のように悪戯っぽく笑ったんだ。俺も笑った。きっと、兄である俺も同じような顔をしてたんだろう。何を思って、あるいは何を願ってそんなことをしていたのか。今はもういない弟に、たずねることはできないけれど、でも。そっと捕まえては注意深く放すたび、俺はいつも不思議な気持ちになっていた。きっと弟もそうだったろう。そして……いや、憧れはあった。祈りも……それはとても曖昧な感情で、何に対しての憧れか、何に対しての祈りなのかわからないけれども──。大人になった今、思う。人の身と、小さな蝶と。違うものだからこそ、託せるものがあるのかもしれない。八月半ば。暑さは増すばかりと感じる。だが、夏至とはまた違う季節の翳りが肌に、心に、薄く忍び込んでくるような気がした。小灰蝶はまだ、飛んでいる。この蝶は、冬でもその姿を消すことはない。八月、八月はね……。室温連日30℃の部屋で、死んだようにお仕事してました。設定温度ではなく、実際の室温が28℃だったら良かったなあ……室温、31℃になったときもあったっけ……遠い目家に帰ったら、冷やしまくってました。ご無沙汰しています。一応、毎日ちみちみ書いてます。見捨てずにいてやっていただけるとうれしいです。
2022.09.02
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先月のこの日はこんな天気だったんだなー、と思いながら読んでやってください……。風はひんやり、空は灰色。六月入って数日は暑いくらいだったのに、日曜から妙に冷えて、月曜と、火曜日の今日はちょっと寒いくらい。動くとそうでもないんだけど……やっぱり冷える。だからか、さっきからじんわり腹の具合が良くないような、そうでないような……。無意識に腹を撫でながら、次の仕事の前に、一旦帰ってトイレに座っておくべきか、と思案しながら歩いていると。「ちょっと、ちょっと姐さん……!」今、まさに曲がろうとした角の向こうから、妙に潜めた声が。「姐さん、ほら、こっち!」あの声は……望月のご隠居かな? ああ、そうだ、この路地は、ちょうど望月さんちの生垣に沿ってるんだった。「おや、ご隠居」応える女性の声は、ちょっとハスキーだけど艶がある。なんだか、時代劇に出てくるような、婀娜な姐さんを思い浮かべてしまった。洗い髪を簪でまとめただけで、気怠げに煙管を使っている系の。「例のブツ、今日はあるかい?」「ふふ、ヤクならたぁんとございますとも。ほうら──」え、ヤク?「それじゃないヤクだよ……! わかってるくせに」「まあ、ご隠居。アタシはただの末端の売人なんですよぉ。アタシの一存ではどうにもこうにも」ま、末端の売人? まさか……こんな住宅街のど真ん中で麻薬の密売? 「そこを何とか」縋るようなご隠居の声。「ふふ……」嬲るような含み笑いの後、女の声がさらに潜められる。「──実は今朝、若いもんがひとり、トんじゃいましてねぇ」「え? そりゃまたどうして?」「さあ。何かしくじったらしい、という噂ですが……こういうのは詮索しないのが吉、ってもんで」アタシだって自分の身が可愛いんですよ、と女は嗤う。「一日一本、ヤクをキメなきゃ身体がシャキッとしない、なんてアタシにはありがたいお客様だったんですが──どうでしょう、そいつに卸すぶんを今回はご隠居に、特別にご融通いたしましょうか?」「そいつはありがたい!」歓喜の声。「姐さんのお蔭で、家に居ながらにして極上品のヤクを手に入れられるよ」「他のヤクも極上品でございますよ。ふふふ」「あ……だけど、横流しして大丈夫なのかい?」「ふふ、お気になさらず。ご隠居とアタシの仲じゃないですかぁ。そのかわり──」そのかわり、何なんだ。もう隠れてなんか聞いていられない! 俺は路地の角から飛び出した。「も、望月さん! 違法薬物の売買はいけません……よ……」言葉が、尻すぼみになっていく。だって、望月家の玄関側の生垣の前で会話していたのは──。「え? 何でも屋さん?」俺のいきなりの登場に驚いて、きょとん、とした顔の望月のご隠居と。「今日も一日、お健やかにお過ごしになってく、ださ……?」言い差した言葉を途中で遮られて、ポカンとした顔のヤク〇トレディ。レディはあの、いつ、どこで見てもわかる特徴的な制服を着こんでるから、すぐわかる。そばには、商品を満載した大きなバッグを積んだ、ロゴ入りのレディ専用バイク。「……」混乱した俺が口をパクパクさせていると、状況を理解したらしいレディが、くすくすと笑った。「たぶん、<ブツ>とか、<ヤクの売人>とかいう言葉でびっくりしちゃったんですね」あ、そうか、とご隠居も頭を掻く。「いや、これね。この人と俺のお約束のやりとりなんだよ。お遊びというか」「今日はちょっと悪乗りしちゃったみたい。驚かせちゃってごめんなさいね、何でも屋さん」望月さんに聞いていたよりずっと男前ねぇ、なんてお愛想言ってくれるレディは、人の好さそうなふくよかな女の人で、とうてい裏社会の住人には見えない。あの艶やかな声も、今は単にこの女性を魅力的にする彩りになっているだけだ。「いや、あはは。すみません。俺、勘違いしちゃって」は、恥ずかしい……!「紛らわしい会話してた俺らが悪いんだから。確かに声だけだと、相当アヤシイよねぇ。見ればただの小芝居ってわかると思うんだけど、悪かったね」望月さんもちょっと恥ずかしそうに、でも事情を話してくれた。「ヤク〇トって、道行くレディに声掛けても、一本から売ってくれるっていうから、つい甘えちゃってねぇ。コレ甘いから毎日飲むのはキツくて。あんまりいい客じゃないから申しわけなく思ってるんだけど、姿を見かけるとついつい」いつも悪いねぇ、と頭を下げるのに、レディは、そんなことないですよ、と同じように頭を下げて、にこにこと語る。「ちょうどルートに入ってますし、声を掛けていただけるのはありがたいんです。ただ、ご希望の商品が品薄で、ご不自由をお掛けするのが申しわけなくて……。今日はたまたまキャンセルが出たものですから、望月さんにご購入いただけると思うとうれしくて、つい悪乗りを」「いやあ、ヤク〇ト1000は滅多に手に入らないんだよ。レディの専売品なんだよね?」「はい。私どもが自信を持ってお届けできる商品なんですが、ちょっとしたことで人気が出まして。今はご契約のお客様にしかお求めいただけなくなったんです。少し前までは多めに持って出て、時々の方にもご購入いただけたんですが……」「それで、俺にも勧めてくれたんだよね、ヤク〇ト1000。普通のヤク〇トと飲み比べてみたりしてたんだけど、俺の場合は買っても週に一、二回くらいだから。1000のほうがいいかな? と思い始めた頃には、余裕がなくなってたんだよねぇ」本当にご不便をお掛けして、とヤク〇トのスタッフとして詫びるレディに、望月さんは首を振る。「姐さんに責任はないよ。それこそ、末端の売人だもの。需要と供給のバランスを考えるのは上の仕事だろう? キャンセル分を回してくれるだけで充分ありがたいよ。何でも屋さんだってそう思うだろう?」もちろん、と俺は何度もうなずいた。あなたは悪くないよ、素敵な声のヤク〇トレディ! 「こっちのヤクなら、ホント、大歓迎ですよ! 実は俺、ちょうどいま、腹の具合が微妙で。せっかくだから、俺も買っちゃおうかな、ヤク。普通のならあるんですよね?」「はい。お試しください」にっこり笑ってヤク〇トレディ、バッグの中からあの小さな容器を取り出す。代金と引き換えに受け取って、柔らかい銀紙の封をめくる。俺、ストローはいらない派。一気に飲むと、馴染みのある甘味──子供の頃、今は亡き弟と一緒に、牛乳を混ぜてのばしたり、凍らせて食べたりした思い出が甦ったりして。「純度百パーセントの、極上のヤクです!」そう言うと、望月さんとレディはウケてくれた。──ちょうど通り掛かったジョギングの人が、びくっとこっちを見たのがわかったけど、気にしない。だってその人、すぐプッと吹き出して、遠ざかる肩が震えてたから。ちょっとバタバタしたり、環境が変わったりしてなかなか集中できません。かたつむりのようにのろのろしていますが、見捨てずにいていただけるとうれしいです。
2022.07.18
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桜も葉桜も遠くに霞み、新緑が日々濃くなりまさるこの頃──。暑い。空は真っ青、カンカン照り。六月入ったばかりというのに、もう真夏みたい……って、あれ? 六月ってことは、今年もそろそろ半年過ぎようとしてるってことだよな……? 今更だけど、慄いてしまう。正月、餅三昧で怠惰に過ごしたのがついこの間のような気がするのに。ああ、起きて寝て仕事してるだけで時間が過ぎていく──って、当たり前か。そんな寝惚けた一人漫才を頭の中で繰り広げながら、俺は草をむしる。むしる。キリがないなと思いながらも、頑張ってむしり続ける。スギナめ、スギナめ、スギナめ。ヒメオドリコソウめ。カラスノエンドウめ。スギナめ。根の深い上に硬いお前は確かイネ科の……何とかいうやつ。お前は仕方ないから鎌で刈る。スギナ。スギナめ。あと、カタバミ。カタバミめ。流れる汗が鬱陶しくて、首に掛けた手拭いで乱暴に顔を拭う。あー、太陽がSUNSUN、そんなに主張しなくてもお日様は太陽以外に見えないから──とか思ってたら。つぅ、っと。オレンジと黒のシマシマが視界をよぎる。同時に、ブゥーンと重い羽音。す、スズメバチ! 息を潜めて、気配を消す。とにかく消す。俺、草刈り草むしり仕事のときは、白っぽいシャツとズボンって決めてるんだ……! だって、蜂は黒いものを襲うというし。頭だって麦わら帽子だ。不吉な重低音を聞きながら、ゆっくり、ゆっくり退却。まだむしってない雑草たちの上を、行ったり来たりしているあのスズメバチ、俺の親指くらいの大きさありそう。もしや、女王蜂? この時期、一匹だけでいるスズメバチは、己の巣作りを目論む女王蜂だという……。下見か? 下見に来たのか? この丸谷さんちの庭に巣を作ろうと? ヤメロ……! ここんちには小さいお子さんがいるんだ。ああ、今ここにジェットスプレー型の殺虫剤があったら……。とにかくあっちへ行け、ここに留まるな! と必死に念じていると、ふと風向きが変わった。すると、どこからともなく、ふわっと蚊取り線香のニオイが──。 ブゥーン ブゥゥゥーン……ひっくり返された植木鉢に関心があったようなのに、スズメバチは速やかに飛び去った。オレンジと黒のシマシマが遠ざかり、すぐに見えなくなる。「……」詰めていた息を、大きく吐く。暑さとは違う汗も拭う。世界最強といわれるスズメバチも、蚊取り線香のニオイは不快ではあるんだな……。巣作りの環境に悪いと思ったのかも。今日の俺の装備には取り入れてなかったけど、蜂の活躍する時期は必ず蚊取り線香を身につけよう。そうしよう。それより、丸谷さんに報告だ。スズメバチの巣作り注意って。とりあえず、空っぽの植木鉢放置はやめてもらおう。危険性は減るはず。ハチが嫌うという、木酢液の散布も提案してみようか。毎年四月から六月上旬、スズメバチの女王にご用心。彼女たち、居心地の良い物件を、鵜の目鷹の目で探しているからね!大きかったですよ、スズメバチ……。羽音が怖い……。
2022.06.07
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昨日投稿した、はずなのに、されてなかった……。なぜ……。春たけなわの、真っ昼間。淡いピンクの、まさに桜色としか言いようのない桜の花が満開で──満開で、くらくらする。咲きそろったのが、たった今この瞬間かと見えるほど、吹く風にも花びらのひとつも散らず、ただそのままで満開でいる。俺以外、誰も、何も通らないこの道。静かに、ただ静かに、桜の花が咲いている。ふと、自転車を止めたここは上り坂の入り口。道の両側から桜に覆われて、覆われて──どこまでもふわふわとしている花に、酔いそうだ。 この世のもののはずなのに、すぐそこに、手を伸ばせば触さわれると、触ふれられるとわかっているのに、どうしてか、触れようと思うこともできなくて。この世界に、俺と桜しか無いみたい。桜と俺しかいないみたい。……降りそそぐ太陽の光、吸い上げる水はもう冷たくなくて、からだの隅々までめぐりゆくのが心地よい。うす明るい灰桜色の濃淡がまぶたの裏でオーロラのようにはためいて、光に身をゆだねながらうっとりと呼吸する──。はっ!俺、いま何してたっけ。桜の花びらを通して当たる日の光が気持ち良くて、眼を開けたまま寝てたみたい。桜は満開、まさに満開、淡いピンクの、灰桜の、あらゆる桜の色と透明な光のあいだの色がふわふわと日に透けて、ゆらめいて、ふわふわとただそこで咲いていて──。 ホー……ホケキョ!ふいに聞こえたウグイスの声に、びっくりしてまた我に返る。俺、こんなとこでぼーっとして、何やって……っていうか、いつの間に坂道上ってたんだろう? 歩いた覚えが──。「……」ふり返ると坂の下、ふわふわ、ゆらゆら。春の霞が凝ったような、あの花の中を歩いてきたのか俺は。見上げれば、まだ途切れずに続く桜並木の隙間から見える空は青くて、風が少し強くて、でも桜は散らず、満開で──。ぼーっとした頭で思う。……俺、桜に化かされた?二ヶ月も前の話ですみません……。管理人、生きております。この楽天ブログの編集ですが、けっこう前からおかしくて、下書き保存が上手くいきません。保存したつもりが、真っ白な編集画面になって、頭も真っ白になりかけたのも遠い(?)昔。今は毎回ブラウザの<戻る>矢印で元に戻り、淡々と保存し直しています。やり直し一回めはかならずエラーになるので、二回めが必須です。
2022.06.05
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昨日は全国的に荒天とかで、このあたりも午後から雨になった。一夜明けた今日は、朝からとってもいい天気。雨の翌日は、公園脇のお家から樋掃除の依頼が入りやすい。地面に散ってる落ち葉を見て、ウチの樋は大丈夫かと心配になるらしく、専門業者が必要になる前にと、俺みたいな何でも屋にも声を掛けてもらえるんだ。屋根の上から見る空は、ことさら青く、太陽が眩しい。思わず深呼吸してお日様の光を身体の中に取り入れる。はー、気持ちいい。なんかこう、植物にでもなった気分。やる気を光合成してるみたいで。よし、頑張って樋掃除続けるぞ、と落ち葉除去用に使ってる箒の柄を持ち直したとき。「にゃーん」現れたのは、顔見知りのお野良一匹。ぶっとい茶虎猫が、軽快に瓦を踏んでやってくる。「こら、どっから登ってきたんだ、お前は」「にゃ」不安定な場所に立ってる俺の足に、すりすりすすりと身を摺り寄せてくる。「こ、こら。俺はお前らと違って二本足で立ってるの。危ないから、よせ」「にゃー?」たまらずしゃがむと、お野良はにゴロゴロとご機嫌で……地面の上ならつきあってやるけど、屋根の上では止めて!しょうがないな、と適当に構っていると、す、と俺に興味を無くしたようで、二階ベランダの下あたりに居場所を決めて、寝そべり始めた。あ、ころんころんしてる。よく転げ落ちないよなぁ。まったくもう、と苦笑しながら、俺は樋掃除を再開した。以前からの古い落ち葉もあるけど、昨日のぶんと思しきは思ったほどでもないから、ごみ袋は今のぶんだけで足りるかな。集めた枯葉を袋に詰めて、ふう、とひと息つく頃には、茶虎猫は熟睡。ほどけた感じのニャンモナイト姿で、だらんとしてる。瓦が温かくて気持ちいいんだろうな。猫は日光浴でビタミンDが活性化されるというし、これもある意味光合成かも。「……」青い空、太陽が眩しい。降りる前にしばしの休憩、深呼吸。猫も欠伸で深呼吸。一人と一匹、それぞれぼーっと陽射しを浴びて、生きていくための何かを光合成する。目を閉じれば、瞼の裏が明るい。お日さまの光は平等だ。もう四月ですが……。頭の中が、間延びした時間の中にあるのかも……。
2022.04.06
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カーテンの向こうが、仄明るい。朝、目覚めるたびに明るくなるのが早くなるから、ちょっとびっくりする。ついこの間まで真っ暗だったのに、このごろは五時前でもうっすら明るい。脳がバグってしまう。「……」眠いけど、起きる。起きれば、目が覚める。目が覚めたら、トイレ、居候猫の餌やり、洗顔、メシ、歯磨き、そして仕事! ──家主より居候のメシが早いのは、腹が減ったとにゃあにゃあ五月蠅いからだ。普段はクールなくせに、三毛猫め。さて、今朝の一番仕事は、いつも通りグレートデンの伝さんの散歩。次がアフガンハウンドのランボーくん。その次は不動産会社の人に頼まれてちょっと遠出する。空き地のススキが枯れて、チビた箒みたいになってるんだけど、最近そのあたりで煙草を捨てる奴がいるから、小火が怖いんだって。火は怖いよな、火は。犬散歩の後はいったん戻って、道具を積んだ自転車でいざ出発だ。春先のススキは枯れてるけど、枯れてるからこそ、硬い。バッテリー式の草刈り機じゃちょっと役不足かも、とは思うも、刃はチップソーだからまあまあイケる。これくらいの範囲なら鎌との合わせ技で何とかなるかな?うーん、もっとパワーのあるエンジン式に憧れる……、だけどあれは燃料がややこしいんだよなぁ。ガソリンとオイルを混合しなきゃいけないらしくて、一応住宅街に住んでいる身、ガソリンを保管するのは憚られる。ま、しょうがないよね、と草刈り機を止め、ゴーグルを取って手拭いで汗を拭いたとき。 ホー……ケキョ ホーホケキョ ケキョ ケキョ ホケキョ空き地に接する竹藪から、鶯の声。「春だなぁ……」空は水色。風もなく、穏やかな春の日。鶯も、そろそろ鳴いてみたくなったのかもしれない。「……」ああ、移り行く季節の中で、己の鳴く時を知る鶯よ、教えておくれ。春になり、これからさらに勢いを増す草を刈る仕事のために、俺も新しい替刃を買うべきだろうか──?草刈り機のチップソー、さっき当たった石でちょっと欠けたみたいなんだ……。今日はホワイトデー。バレンタインデーにチョコくれた人たちに、俺もお返し。グレートデンの伝さんの飼い主、吉井さんを始め、大人組にはうぐいすボール。フレンチブルの文さんの飼い主、菅原さんちの娘さんたちと、塾送り迎えお得意さんの及川さんちの唯ちゃんには、星屑屋の色とりどりの金平糖。うん。喜んでもらえたよ。──赤いニンジンのせい、じゃなくてお蔭で、翌日カレーをご馳走になってしまった古美術雑貨取扱店慈恩堂の真久部さんには、うぐいすボールの変わり味セットを持って行った。そしたら、何故かお茶を頂くことになって……一緒に味比べしたけど、どれも美味かったよ! そろそろ三月も終わりですね……。
2022.03.27
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腹が減っていた。とにかくすぐに食べたかった。ご飯は無い。パンも無い。インスタントラーメンは切らしてる。あるものとすればパスタのみ。Oh, My!まあ大変!ってことで、ペペロンチーノだ。手っ取り早く電気ポットの湯を鍋に移し、もう一度沸騰させてから、目分量でパスタを投入。塩も入れる。茹でてるあいだに、鷹の爪は輪切り、ニンニクはみじん切り。右手に文化包丁、左手にはフォークを握って。いや、手に臭いが付くから……この後まだ仕事あるから……。客先行くならまずペペロンチーノは止めておけよって話だけど、歯磨きするから……牛乳も飲むから……。などと、誰にともなく心の中で言い訳しながら、フライパンを用意。火をつけるのは後にして、鷹の爪とニンニクを入れる。フライパンを温めてからやると焦がしてしまうから、俺はいつもこのやり方。さてオリーブオイルを融かさなきゃ……寒くなってから、ずっと固まってるんだよなぁ。使うときは手で温めたりコンロの火で炙ったり、手間が掛かって面倒で──。「あ」オリーブオイル、融けてる。液体に戻ってる。ああ、春だ。もう春なんだなぁ。弥生ついたち、今日から三月。朝からずっと雨で、ちょっとだけ気が滅入ってたけど、何か元気出てきた。さっきのお客様の、わりと傲慢な無茶ぶりにお応えしてきた疲れが、オイルと同じように融けて流れていった気がするよ。ひゃっはー! ニンニクましましで景気よく炒めてやるぜ!あ……ちょっとコゲた。ま、いいか。茹で上がったパスタを入れて、塩と胡椒と──。うん、我ながら美味い。よっしゃ、午後からも頑張るぞ!もう12日ですけどね……。
2022.03.12
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──え? 二百円? マジで?眼を疑って、俺は立ち尽くす。だって、白菜ひとつまるまる二百円っていうんだ、二百円。今はさ、野菜が高くなってて、スーパーでも半分に切って百九十八円だというのに。しかもここコンビニ。便利なかわりに、何でもちょっとお高いところ。期間限定キャンペーンのポスターの貼られた、ガラス壁の内側。隣が本売り場で、ちょうど一番近い端っこがアダルトな雑誌なのがアレだけど──、違うんだ、俺が用があるのは、白菜なんだ。ん? 白菜に驚いて気づかなかったけど、ジャガイモもある。これは小さくてちょっと使いにくそうだけど、やっぱり安い。買う。レンチンしやすそうな大きさ。アンパン買うつもりだったのに、すっかり忘れて白菜とジャガイモ抱えて帰ってきた。レジで支払いするときに聞いたら、ここのオーナーの兄弟がどっかの道の駅に野菜を出荷した帰り、週一で寄って置いていくんだって。出会えたら、ラッキーですよ、とコンビニバイトの子が教えてくれた。いつもはすぐ売り切れちゃうとか。俺ラッキー! と喜んだけど、よく考えたらすぐ食べられるものが欲しくてコンビニ行ったんだ……。しょうがない、食パンを冷凍してあるから、なんちゃってチーズオムレツ(ただのチーズ入り掻き卵だ)でも焼いて、簡単サンドイッチとしゃれ込もう。ケチャップ多めにかけると美味いんだ。作るの面倒、でも腹が……と思ってアンパンだったんだけど、作り始めるとどうってことないんだよな。よし、インスタントのスープも付けよう。昨日の残りのほうれん草のおひたしをオムレツに混ぜたら、野菜も摂れるしな。色もキレイだ。白菜は、鍋にする。今日の晩メシはそれに決定。鶏肉あるし、たしかブナシメジとシイタケもあったはず。土鍋に昆布茶を適量といた出し汁を作って、そこにに材料全部入れて蓋して炊けばそれで出来上がり。顧客様に良いポン酢をもらったのがあるから、美味い鍋になるぞ。今から楽しみ。シメは雑炊にするんだ!それにしても、二月ももう明日までか……。他の小の月は三十日まであるのに、二月はそれより二日も少ない二十八日。なんかこう、歩いてていきなり断崖というか、道が途切れててびっくりするというか──。まあ、すぐに三月だ。三月は三十一日まであるし、なんか安心。さて、腹もくちくなったし、次の仕事、頑張るぞ!
2022.03.03
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空は晴れて、とても穏やかな良い天気なのに。「まったく。こんな茶葉で、ダージリンを名乗らないで欲しいですねえ」紅茶がなければ一日が始まらない、という左文字さん、お怒りである。「ま、まあ、通販だと味がわからないですし……」そう、初めての通販で買った紅茶のティーバッグが、ことのほか不味かったのだそうだ。紅茶通なのにティーバッグ派になったのは、トシのせいだとか。「まるでアッサムのような濃さです。ダージリンっぽい味はしますが……」だがこれは、茶葉より茎のほうが多そうです、と言ったきり、ぐっと唇を結ぶ。まだまだ出そうな酷評を、我慢しているご様子だ。「──それなりのお値段のものには、それなりのものを期待しますよね。安ければ、そんなもんだと思いますけど……元々期待なんかしないというか」無言でうなずく左文字さん、こめかみに青筋立ってそう。「えっと、スーパーで買ってくるのはここのブランドでいいんですね?」書いてもらったメモを、俺は確認する。「ええ」「有名ですよね。よく知られている」英国王室御用達なブランド。黄色いラベルが有名なあのブランドとともに、わりとどこででも見掛ける。だからこそのご指定なんだろう、これなら間違いようもない。「紅茶は、せめてこの辺りからですねえ、許せるのは」「は、はぁ……」「ウイスキーでいえば、ジ〇ニ黒です。そこからですよ、ウイスキーも」俺、酒の味はあんまりわからないけど、ジョ〇ーウォーカー赤ラベルより黒ラベルのほうが高いのは知ってる。「ああ! 通販の紹介文など、信用するんじゃありませんでした。遠くのネットショップより、近所のスーパー。口直ししたいので、お願いしますよ、何でも屋さん」神経痛が痛むから、出掛けるのが億劫で通販してみたのに、と深い溜息を吐く。「ダージリンを三パックですね……そういえばここ、五つの味のバラエティーパックなんかも出してますが」「ああ、そういうものもありましたねえ。じゃあ、それも一つお願いし……つッ……」顔を顰めて、痛みを堪えているようだ──。だから、こんなに怒りっぽくなってるんだろうなぁ。「できるだけ早くお願いします。こういうときにかぎって、普段の買い置きまで切らせてしまって」もっと暖かくなって神経痛が良くなったら、百貨店の紅茶売り場に行くんです……、と遠い目で何かのフラグのようなことを呟く高齢の左文字さん──。待って! 銘柄のご指定があれば、ちょい遠出の買い物依頼も承っておりますよ! 今は取り敢えず、近所のスーパーまで急いでこよう。一時間も掛からないから、左文字さん、あと少しの辛抱です!ようやく当日の日付……。
2022.02.26
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今、鳩村さん宅で猫タワーを組み立ててるんだけど。蹴り蹴り蹴り!パンチパンチパンチ!「こら、ろうそく! 何でも屋さんの邪魔はダメ!」鳩村さんが仔猫のろうそくちゃんを叱る。ろうそくちゃんは鳩村さんが会社近くで拾ってきたという元野良で、白地に濃いグレーの縞が地図みたい。尻尾も全体にそのシマなんだけど、先っちょだけが白い。うん、蝋燭の先みたいだね。ろうそくちゃん、ダーっとあっち走ってこっち走って、カーテンに登ってまた叱られて。パンチ、パンチパンチ!蹴り!俺にちょっかいかけて、大興奮で走り回る。「すみません、何でも屋さん……」「あはは。仔猫ってこんなもんですよ。元気でいいと思います」そう、若い猫ってこんなんだよ。うんちんぐハイも激しいし……猫って、何でウンチの後で走り回るんだろうなぁ。謎だ。てなこと思いながら、部品をはめ込もうと立ち上がろうとしたら。ダダダダダダー!俺の足から背中を駆けあがって、頭を踏んでカーテンに飛び移る。悲鳴を上げる鳩村さん、苦笑いするしかない俺。こら、ろうそくちゃん。俺は猫タワー組み立ててる人で、タワー本体じゃないの!キジトラのお花ちゃんは、上から見るとツチノコに似ている。「……何だい、お花ちゃん」すりすり、すすり。すりすり、すすり。灯油のポリタンクを運んできた俺の足に、全身をなすりつけてくる。でっぷりと太ってるから、なかなかの重さ。「何でも屋さんにまで、餌をねだってるのかなぁ」飼い主の飯倉さんが苦笑いする。「もう! お花ったらゴハンもらってない子みたいに。ダメ! さっきあげたばっかりでしょ!」なー!なーあ……!憐れを誘う声だけど……、飯倉さんは首を振る。「お花っ子は、“餌もらってない詐欺“を働くの。母からもらったのに、私にお腹減ったって鳴いて、私にもらったばかりなのに、また父に餌くれって鳴いて」そうやって餌ばっかりもらって、こんなに太ってしまった、と飯倉さんが嘆く。「詐欺ですか」思わず笑ってしまう。「そうなんです。──ダメ! そんな土管のようなプロポーションしてるくせに。病気になるから、食べ過ぎはダメ!」土管って、飯倉さん……! 俺はツチノコって思ったけど。なんにしろ、詐欺はダメだよ、お花ちゃん。コンクリート打ちっぱなしのボロビルの一室、何でも屋事務所兼住居。隅に設えたなんちゃって畳エリアに設置したコタツで、俺は本日の事務仕事をしている。件数と各種内訳と売り上げと……えーと、所要時間は……。発泡酒を舐めながらぽちぽちキーボード打ってると、欠伸が出てくる。晩飯も風呂も済ませて、お腹も身体もホコホコで……でも、その日のぶんはその日のうちにやっておかないと、後から地獄を見るって知ってるから、頑張る。コタツの中の足を組み替えると、ずっと中に入っていた居候の三毛猫が太股のあたりの隙間から出てきた。そのまま、何を思ったか膝の上に乗ってくる。重いよ、こら。ごろごろごろ……ぐるるるーぐるるるー……よくわからないけど、ご機嫌だ。「いいなぁ、お前。いつも気ままで」ぐるるるーぐるるるー……猫の幸せそうな顔を見ていると、しょうがないなぁ、と苦笑がもれる。普段のヤンチャも許してやろうという気になる。──まあ、猫なんて、何の役にも立たなくていいっていうか、それが許される存在だ。ごろごろごろ……ぐるるるーぐるるるー……喉を鳴らしながら、今度は腹を揉んでくる。クリームパンみたいな手をグーパーして、おおう、けっこうな力だ。あんまりご機嫌だから、なんかこう、こっちも幸せな気分になってくるんだけど。「おい、そろそろどいてくれよ」仕事も終わったし、メールチェックしたりとか、軽くネットサーフィンしたりしてたんだけど、三毛猫めが膝から動く気配を見せない。「こら」どいてくれない。時折思い出したように喉を鳴らしながら、熟睡している。「……」俺も寝たいんだけど。コタツで寝ると風邪引きそうだし、新型コロナだのオミクロンだの怖いから、ちゃんと布団で寝たいんだけど。「おい……」膝で寝ている猫を退かせるのって、なんでこんなに罪悪感を感じないといけないんだろう?今日は猫の日。もう24日ですが……。
2022.02.24
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ごおーごおーと風が吹く。とにかくすごい風が吹く。「このところ、毎日風が強いですよねぇ」ご住職へのお届け物の帰り、渡り廊下の拭き掃除をしていたお坊さんと立ち話。「そうですね。掃き掃除をしようにも、集めるそばから飛ばされてしまいまして。これも修行と頑張ってみても、あまりのことに虚しくなってしまいます」我ながら修行が足りません、とまだ若いお坊さん。「あはは……。虚しいの、わかります。秋の落ち葉かきもキツいですけど、こういう強風の敵わなさはまた別ですよね。大自然の脅威というか、どうにもこうにも」話しているあいだも風が吹く。ごおおおー! とものすごい風が吹く。「……うわー、裏の竹林が」お寺の裏手には、小さな竹林がある。竹垣の補修なんかに使われるから、手入れはされてるんだけど、高さは屋根を越えている。それが、今の強風で折れそうなくらい真横に撓り、わっさーわっさーと揺れている。「激しいヘドバンですよね」なんとなく言った言葉に、お坊さん、吹き出した。雑巾を握りしめて笑いを堪えている。「へ、ヘドバン」激しく震える背中。俺、そんなに面白いこと言ったかな?「いやー、ほら。とってもヘビーな強風ライブに、竹林オーディエンスがノリノリでヘッドバンギング──」「な、何でも屋さん、もう、その辺で」勘弁してください、と笑い涙の滲んだ目で懇願してくる。──そういえばこの人、ロック系の音楽が好きで、前にも声明声でその辺の歌うたってたことあったっけ。きっとヘドバンにも馴染みがあるんだろうな……。「す、すみません」こんなところで大声で笑ってたら、ご住職だって何かと思うだろうし、若いお坊さん、叱られちゃうかも。俺、悪いことしちゃったかな……。そんなことを思って縮こまっていると、また、ごおおおおーっと風が吹く。大自然の奏でるサウンドに、竹林オーディエンスが激しく応えてる。折れそうで折れない、なんとも恐ろしい光景だ。「こんなん、人間だったらムチ打ちになっちゃうよなぁ……」「……!」うっかり呟いたのが、またツボに入っちゃったらしい。お坊さん、笑いに悶絶してしまった。「……」これ以上自分がお馬鹿を言う前に、俺はそそくさとお暇した。掃除の邪魔して、ホントごめんなさい!本日、猫の日。忘れていて、今日の話を書きそびれてしまいました。
2022.02.22
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