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「あれ、は……鹿とかでしょうか? いや……人だ! 花見に来たんですね」あー、良かった。もしかしたら今いるところはこの世の場所じゃないのかも、なんて怖い考えが心のどこかというか、けっこうド真ん中あたりに居座りかけてたんだけど……、だって、意地悪仙人が変なこと言うからさぁ……。俺たちの他にも花見客が来るようなところなら、ちゃんとこの世だ、現実だ。「花見は花見でも、アクティブ馬鹿の花見だけどねぇ」伯父さんが、また妙なことを言う。──まあ、確かに、いま流行中の新型コロナ対策のひとつとして叫ばれる<三つの密を避けよう>からは、外れた行動だものな、花見って。密集・密接・密閉──外だから大丈夫ってもんじゃないんだよ。三月の連休に、家でじっとしていられなかったたくさんの人たちが、桜の名所に繰り出したけど、その二週間後の感染者数が全てを物語っている……。って。今こんなところでぼーっと花を見てる俺も、どうやってか連れてきた真久部の伯父さんも、他人のことは言えない、どっちも危険を省みないアクティブ馬鹿じゃないか。「……」俺は慌ててポケットに突っ込んであったマスクを取り出した。ラーメン食べるのに外したままだったんだ。ちゃんと装着。しっかりマスク。そうしながら、若干の非難の気持ちをこめて伯父さんのほうをじっと見ると、何故かちょっと楽しそうにしながらも、きっちりマスクを着けてくれた。「手作りかい? そのマスクは」「あ、はい。娘が作ってくれて」つい顔をにやけさせてしまう。それをやたらに微笑ましげに眺められているのに気づいて、照れ隠しにひとつ咳払いをしてから、こちらもたずねてみた。「真久部さんのも手作りですよね。それは、甥のほうの真久部さんが?」「いやいや、まさか。自分で縫えるでしょ? とか冷たく言われて放置だよ。ま、縫えるんだけれどもね」そう言う目元が、胡散臭く笑んでいる。「よかったら、何でも屋さんにも縫ってあげるけど、どうだい?」「い、いえいえ。まだまだたくさんあるので。娘も作ってくれるんですけど、顧客様の中にも自作のを下さる方がいて」ウイルス付いてないと思うけど、心配だから使う前に一回洗ってね、と、久米のお爺さんやら、布留のお婆ちゃんが。他にも、ハンドタオルとゴム紐の自作キットをくれた人も。「相変わらず愛されてるねぇ──ん? ああ、ほら見てごらん、何でも屋さん。増えたよ花見客が。まさかね、ここまで来るほどの者が、これほど居ようとは」え……?つづく……。
2020.05.27
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間違っても、銀杏並木の通りにあった<走りぎんなん>出たとこじゃないよね? 駅前の、<チンとんシャン>でもないだろう。いくら店が迷い家だからって、ほんと、ここは何処なんだ? ──行ったことないけど、<あまりりす>でもないはずだ。そのあたりでだって桜は終わってるはずだから。「……」あるかなきかの風に、花びらがひとひら、ふわりとほどける。それについ見惚れていると、隣から低く謡うような声が聞こえてきて、俺はハッと真久部の伯父さんの顔を見る。「これはこの世のことならず──」妙に穏やかな表情。いっそ気味が悪いほどの──。「死出の山路の裾野なる 賽の河原のものがたり……、なあんてね。知りたいのかい、何でも屋さん。ここが何処なのかを」本当に? そう問う顔は、一転、とびっきりの笑みを浮かべていて。それがまたとびっきり胡散臭くて。「え、えーと」怖くなったから、俺は思わず日和ってしまった。「それほどでも、ないかなぁ……あはは」「ふうん? 成長したもんだと思ったら、そうでもなかったみたいだね?」にやにやと、揶揄うように言う。小首を傾げられても……それって真久部さんと同じ仕草だけど、でも──。似てるようで似てない、似てないようで似てる伯父と甥、比べなくてもまだ甥っ子の真久部さんのほうが優しい、っていうか、常識人なんだろうなぁ……。「あー、真久部さんが見せたい面白いものって、この桜の森のことだったんですね!」ありがとうございます、とてもきれいですね! と感謝だけしておく。ここがどこだとか──きっと、俺の住むあたりより、桜の開花が遅いところなんだよ。北海道の山奥とか……それはそれで、いつの間にそんなところまで連れて来られたんだって話になるけど、いらぬ疑問は封印するんだ。何でも屋版・慈恩堂店番心得<見ない見えない聞こえない。全ては気のせい気の迷い>に、<考えたら負け>をつけ加えよう、そうしよう。「ああ、いい景色だろう? |い《・》|つ《・》|来《・》|て《・》|も《・》こんなんだから、見飽きてしまうんだけどねぇ」いつ来ても? また怪しいワードが出てきたけど、無視。──伯父さんは、俺の表情を観察しながら楽しそうだ。「あはは、お花見し放題ですねぇ」「……手強いなぁ、何でも屋さんは。もっと素直に怖がってくれてもいいのになぁ、この前だってまあ上手いことはぐらかすものだから、後から|あの子《甥っ子》にも笑われて──……ああ、来たようだ。そら、あれをごらん」また俺をちりちり追い詰めようとしていた伯父さんが、ふと何かに気づいたように眼をすがめたかと思うと、すっと桜の木のひとつを指さした。「ん?」俺と伯父さんが立っているここは、ちょっと土手みたいになっていて、桜の木々が生えているところとは高低差がある。だから全体を見渡せるんだけど、その端っこのほうに何か動くものが──。つづく……。
2020.05.26
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短い話です。今朝の空は、グレーと白のグラデーション。一部鉛色もあり、風がきつい。じっとしてると冷えるから、草むしり頑張ろう。一昨日の大雨が効いていて土がやわらかく、根っ子まで引きやすい。それでもスギナのヤツは、やっぱり手強いな。さすが地獄草。根が深くて──あー、千切れた。しょうがないなぁ。上の草部分だけならすぐ取れるけど、根っ子が……。その脇に、どこから飛んできたのか、これから咲きそうな蕾をつけてるムラサキツユクサ。こいつも根が深い。ええい、お前らまとめてスコップでほじくり返してやる!──そんな俺を、ちょっと離れたところから澄ました顔で眺めていやがるナガミーこと、ナガミヒナゲシ。ふ、綺麗な顔をしてるからって、お前もこの庭では侵略者。向こうの道路の隅っこに、お仲間が群生してるのを知ってるんだぜ? 様子見で生えてみたのかもしれんが、後からむしってやるからな。ふふふ……。などと、ちょっとアブナイ殺人者のようなことを考えながら手を動かしていたら。「うわっぷ!」風と共に飛んできた何かが、俺の頭を直撃。「……」微妙に湿気った布、それはたぶんこの近所で干されてた洗濯物。風に誘われ旅立ってしまったんだろうが、アイキャンフライできたのは短かったみたいだな、派手柄のトランクス。うげー、他人の下着が頭に……とは思ったけれど、男物で良かった。これが女性用下着だったら気不味い、というか、下手したら下着泥棒と間違えられてしまう……。「きゃー! ヘンタイ!」「え?」飛んできた下着を手に立ち上がると、甲高い女性の悲鳴。この庭と道を挟んでのお隣の、三階建てマンションのベランダに、うら若い女性が立ち尽くしている。その脇には、風にはためく洗濯物……ということは、そっから飛んできたのかな、このトランクス。「いや、あの──」飛ばされたものを拾っただけなのに、ヘンタイ呼ばわりはひどい。それにこれ、男物だよ? いや、ちょっと、お嬢さん! 誤解したまま引っ込まないで! まさか、警察呼ばれたりは──。警察は、呼ばれなかった。俺も慌てて、今回初めて仕事を頼んでくれたここんちの奥さんに事情を話し、潔白を訴えたら、奥さん「もちろん」とうなずいてくれた。窓から庭見えるもんなぁ。それもあってか、拾った洗濯物を持って、件のマンションの部屋まで返しに行ってくれた。ありがたい。「過剰な反応して、すみません、って謝ってたわよ」奥さんはマスクの下でくすくすと笑いながら、ちょっと声を潜めて先を続ける。「あのね、さっきのあれ、自分のなんですって。だから、恥ずかしくって、反射的につい──ってことらしいわ。風で飛んじゃったのはすぐわかったけど、とにかくいろいろ恥ずかしくて、変なこと言ってごめんなさい、って」はき心地が良いからと、トランクスを下着にしてる女性もいるんだとか。通気性が良いとか──そりゃ、まあね。「部屋着にしてる人もいるらしいわよ? 若い子の形式に囚われない自由な発想、楽しいわね」そう言って、先ごろ曾孫が産まれたという奥さんはにこにこと微笑んだ。「でね、これ、お詫びにどうぞって。実家から送られてきたばかりのものらしいわよ」白いビニール袋の中には、パックに入ったさくらんぼ。風に吹かれて、こいつらも寒そうだ。わかってくれたんなら、別にそれでいいんだけど……。まあ、いいや。奥さんにご足労願うことになってしまったし、ありがたく受け取っておこう。その後は奥さんにお礼を言って、さらに力を入れて草を引き、むしりまくって頑張った。結果、またよろしくね、とうれしい言葉をいただいた。よし、顧客様ゲット!帰りの道で、ふとさくらんぼをひとつつまんでみる。ほんのり甘酸っぱくて、とってもジューシー。これ、お店で買うと高いぞ。いっぱいあるし、こまめなビタミン補給に使えるな。ラッキーかも?──あの彼女には黒歴史になっちゃったかもしれないけど、洗濯物拾うなんて、何でも屋の俺にとってはよくある話だし。何なら、俺だって自分のパンツを飛ばしてしまいそうになったこともある。「……」俺も、出かける前にぼろビル屋上に干した洗濯物が心配になってきた。──娘のののかがくれた派手な武将パンツ、飛ばされて道に落ちてたりしたら軽く死ねるかも……。こんな風の強い日は、洗濯物にご用心。だって、やつら、隙あらば飛び立とうと全身はためかせてノリノリだからね!
2020.05.20
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「ご、ごちそうさま! 美味しかったです!」眼をそらせ、俺は慌てて立ち上がった。座っていた椅子が倒れそうになり、さらに慌てる。「えーっと、仕事! そう、次の仕事があるんです」そうだよ、浜野さんちで洗車のお仕事。時間には余裕あるはずだけど、道具取りに戻らないといけないからな。──大きな車を洗うのはけっこうキツイけど、真久部の伯父さんと鯉のループタイの会話? なんか聞いてるよりマシ。「今日はありがとうございます。今度、俺にも何かごちそうさせてくださいね!」そっちを見ないまま、焦って椅子を直そうとしている俺に、何故か伯父さんが猫なで声で。「そう急がなくても、何でも屋さん」「え? いやでも、いったん戻って道具を取りに──」言いかけたとき、俺のガラケーに着信音。え? |こ《・》|こ《・》って電波が入るの? 一瞬混乱していると、「出ないのかい?」と面白そうな声。助けを求めたいのか何なのか自分でもわからないけど、カウンターの中の店主を見ると、慈悲深い笑みでうなずかれてしまった。「じゃあ、すみません。ちょっと失礼して──」ポケットからガラケーを出し、遠慮しつつ耳に当てた。「はい。お待たせしました。ああ、浜野さん……はい、……え? あ、はぁ……そんなことが……ええ。そうですね、とにかくふやかすのが……ええ、あとは乾いた布などで……、取れそうですか? 良かったです。ええ。はい……。はい……いえいえ、お気になさらず。……カラスには困ったものですけど、怪我の功名といいますか。……あはは。それではまた何かありましたら。はい……はい。では、失礼します」見えない相手にぺこぺこしながらの通話を終え、壁の隅を見ながら俺はしばし無言。「……」「どうしたね、そんなに暗い顔をして」悪い報せだったのかな? そう問う声は、そっちを見なくてもニヤニヤと悪い顔をしているのがわかる。「仕事、キャンセルになりました……」カラスの悪戯のせいで。今の、浜野さんからの電話。外であんまり五月蠅くカラスが鳴くから、窓から覗いてみたんだって。そしたら、玄関脇の屋根付き車庫に入れたワゴンの、ルーフの上でそいつが飛び跳ねてて。また糞を落とされたらたまらない、と慌てて外に出て追い払ったら、そこには何故かびしょ濡れの新聞紙。どっから拾ってきたんだ、とイラつきつつも浜野さん、家の中から取ってきた椅子に乗って取り除いてみると、乾いてこびりついていたはずの鳥の糞たちが、おや、ふやけてる? となり。そのまま新聞で拭いてみると、どうやらきれいに取れそうな感じ……。それならもう、これからガソリン入れがてら、自動洗車機で洗ってしまおう──となったらしく、申しわけないけど……と、連絡くれたんだ。いや、まあ、それはいいんだけど──。「キャンセル? それは残念。ふむ、それなら急ぐ必要がなくなったねぇ」おそるおそる振り返ると、スタイリッシュ仙人の満面の笑み。髭に埋もれた唇の両端がきゅっと引き上げられて、露骨にご機嫌でいらっしゃる。「……」俺、うっかりしてた。妙な力? があるんだよ、真久部の伯父さん。もう決まってる予定にこのヒトが割り込みたくなったら最後、その予定が次々キャンセルになってしまうんだ……。それも、悪いことが起こってのことじゃなくて、今回の浜野さんみたいに、自力で簡単に解決できるようになったりとか、そもそも必要がなくなったりとか、とにかくお客様にとっての幸運が理由で。「どうだろう、空いた時間で、ひとつ私につきあってはくれんかね? 何でも屋さん。お仕事メニューの、<ご老人の話し相手>をお願いしたいと思うんだが」面白いものを見せてあげるよ、なんてことを言うから、怖くてお断りしようとしたけど。「どうぞ」カウンターから出てきた店主が、何かお茶のようなものの入ったコップを渡してくれる。そのふわっとした、穏やかな笑みを見ていたら──。コップの中身は、甘茶だった。この世のものとは思えないくらい、美味かった。水も甘露だと思ったけど、甘茶も負けず劣らず甘甘露。すっとした爽やかなほの甘さが喉の奥を滑り落ちたと思ったら、頭がふわっとなって──。「|あれ《甘茶》は大将のスペシャルだよ。レアもレアだ。良かったねぇ、何でも屋さん」「……」「私は一度も飲ませてもらったことがないんだが……まあ、いいか」「……」「コイツは鯉の|性《しょう》だから、熱いものは苦手でねぇ。ラーメンには見向きもしないんだが、冷たい飲み物には興味あるらしくて。でも、あそこの水に手を出したのは今日が初めてだよ、びっくりした。いくら何でも屋さんの飲むのが美味そうだったからって、莫迦だなぁ、お蔭で**がちょっと減ったじゃないか。これであのレアな甘茶まで飲んでたら……何? ひと舐めくらいはしてみたかった? ……ほう。お前の悪食は本物だな。自分のからだに障るものでも口にしたいとは。実に本性に忠実だ。そうは思いませんか、何でも屋さん?」「……」「何でも屋さん?」「……それより、俺、聞きたいことがあるんですけど」怪しい鯉のループタイの生態なんて、今はどうでもいい。「ここ、どこですか?」霞か雲か、ふわふわと、見渡すかぎり満開の桜。うららかな春の日の、幸せな白昼夢のような──。いやいやいや。変だろう? このあたりの桜の季節はとうに過ぎてる。遅咲きの八重桜ですら葉桜になっているのに。つづく……。
2020.05.19
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この頃は、新型インフルエンザでした。ある日の<俺> 5月17日。マスクをしよう新型インフルエンザもアレでしたが、新型コロナはもっとアレだし重症化するとエグいので、まだまだ油断しないようにしましょう……!
2020.05.17
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「怖いっていうなら、今はラーメン怖いです! もちろん、饅頭怖い的な意味でですけど」ここのラーメン、美味しすぎて、と俺は続ける。「前にご馳走になったとき、おかわりあったら何杯でも食べられるって思いましたもん。瞬間風速ならぬ瞬間食欲がどーんと。あの美味しさは本当に」伯父さんのほうを見ないようにしながら、そんなことを言ってみる。「ふーん?」疑わしそうな声。でも、悟られるわけにはいかない。本当の気持ちを──。怖いに決まってるさ! どこでもない、ここでもない、そこでもあって、ここでもある、らしいこんな場所で、店主は人ではないらしいし。でも、俺の目に見えるのは、ただのラーメン屋。カウンターがあって内側が厨房になってて、こちら側には椅子があって──。「ラーメン怖い、ねぇ……」俺の心を見透かすように、意地悪仙人はじっとこっちを見てるけど、気づかぬふりで。代わりに、カウンターの向こうを熱心に見つめてみたりする。でっかい鍋にお湯が滾っていて、店主が巨大茶漉しの底をぎゅーっと伸ばしたような道具で麺を茹でている。その白い割烹着が、ほのかに発光しているように見え……いやいや、白い服って、ハレーションを起こしがちだよね! 天気の良い日に外で見る白はとても眩しいものだし、これくらいはフツーだよ、うん。店の照明はそこまで明るくないかも、とか考えてはいけない。だって、甥っ子のほうの真久部さんが言ってたみたいに、店主の輪郭はまだ透けては見えない……って。まだ、って何だよ、まだって。俺としたことが。でも、麺を入れたどんぶりにスープを注いで軽くほぐし、チャーシューや仕上げのナルトを丁寧にのせるその指先が、淡く光って見えるような……。いやいや、そんなの気のせい気の迷い。はっはっは!などと、いらないことを考えないでおこうと必死になっていると、「お待ち」と、おっとりした声。いつの間にか出来上がっていたラーメンが俺と伯父さんの前に置かれ、ふわっと湯気が揺れて……うわあ、美味そう! 一瞬で、何かが飛んだ。穏やかに微笑む店主に、俺は辛うじて「いただきます!」とだけ返した。もどかしく割り箸を割って、まずはスープ。くうっ……! 濃厚なのにあっさりと、舌の上でとろける! 次に麺。こしがあって、つるっつる。スープがいい感じに絡んで……チャーシューもやわらかすぎず、固すぎず、しっかりお肉の味。なのにスープの邪魔はせず、だから麺もスープも啜って啜って、いくらでも食べられる。ナルトが意外なアクセントになってしこしこで──はあ、美味かった。すっごい満足感……。「──美味そうに食べるねぇ、何でも屋さん」苦笑しつつも、同じようにスープを飲み干す真久部の伯父さん。あれ? 俺、すっかりこの人のこと忘れてた。「……ラーメン、怖い」隣の人の怖さを忘れるくらいの、本当に怖いほどの美味しさ。「なら、もう一杯いくかい?」饅頭怖いに肖ってみるかい、と悪戯な声に、俺は我に返って首を振った。「いえいえ。これで充分です。一日十食限定なんでしょう? こんな美味しいラーメン、できるだけたくさんの人に食べてもらいたいですもん」そりゃ、あと一杯や二杯余裕でいけそうだけど、ここは幻のお店。この一杯食べられただけで幸運なんだから、心はそれで満足満腹。「だってさ、大将」伯父さんが店主に向かって言う。「足るを知る。何でも屋さんは、合格だよねぇ」店主は微笑むだけで、何も言わない。ただ、水を入れたコップを出してくれた。ありがたくいただく。はぁ、ラーメンのあとのただの水が甘露甘露。飲み干して、ふと隣を見ると、伯父さんが何やら苦い顔をしていた。「こら。お前はまたこういうことを」え、俺? 一瞬びくっとしたけど、違うみたいだ。スタイリッシュな意地悪仙人は、俺の苦手なあの鯉のループタイを首元からずらし、目の前に持ってきていた。「澄んだ水は嫌いなはずだろう──? 人が飲もうとしているものを横取りするとは、どういうことだ」空っぽになったコップを片手に、伯父さんが窘めている。「……」丑の刻参りにヘビーユーズされていたという桜の材、それで彫られた鯉。|悪《・》|食《・》なアイツのツヤが、ちょっとだけ落ち着いてる──?「ん? 何でも屋さんがあんまり美味そうに飲むから、飲んでみたくなった?」「え……?」俺のせい? っていうか、鯉のループタイ、物理で飲食できるの──? 古い道具に育った良くない|性《しょう》だか何だか、そういう眼に見えないモノを食べてるんじゃあ?…………いくら真久部さんが説明してくれても、そこだけ耳がぐにゃっとなって聞き取れない何か。そのモノの名前。過ぎれば人を害することもあるというソレは、古い道具を彩るものでもあり、人の心の中にも存在するという……。「何でも屋さんは、お前のように**を食べて生きているわけではないんだぞ?」ほらね、伯父さんが言っても、俺にはそこだけ聞こえない。ってか、その「生きてる」は俺だけに掛かってるんだと思いたい。……確認する勇気はないけど。「悪食のお前といっしょにするな。……何? 何でも屋さんも**を喰ってみればいいのに、だと? 阿呆、そんなことをしたら、普通の人間ではなくなるわ」ひえ~!つづく……。今日は冷えますね……。
2020.05.16
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本日二回目の投稿。久しぶりに短い話です。今日は朝からずっと晴天。強い風が、青い空を磨きに磨いて輝いて、本当に眩しいほどだった。自転車でちょっと遠征した草刈り仕事は、汗をかいてもちょっと休憩入れてる間にさらっと乾いて、どっかから聞こえてくるウグイスの声は長閑だし、サイコーだった。昼飯は自分で作ったお握りだけだったけど、美味かった。ちょっと握りすぎて固いのが、却って食べやすかったっていうのは負け惜しみじゃない、はず。独りで、ただもくもくと作業するだけだったから、にっくきウイルスのことあんまり気にせずに済んだ。マスクを外してたのは食べてるときだけだったけど、なんだかやたらに空気が美味かった。五月の、爽やかな風のお蔭かな。うっかり旅に出たくなった……。まあ、そんな気になっただけだ。あとは買い物代行したり、樋掃除したり。ご老人の話し相手や盤上遊戯のお相手は、しばらくお預け。お得意さま方は寂しがってくれるけど、もしものことを考えたら俺が怖い──。無意識キャリアの危険性は誰にでもある。俺が媒介して、お年寄りにあんな恐ろしい病気になってほしくない。そんなこんなで一日の終わり、後は風呂に入って寝るだけ。思っていたより冷えていた身体を、熱めのお湯でほぐす快感。無意識に「おおおお」とか声が出てしまう。はあ、今日も頑張った……。…………いけないいけない。トリップしてしまった。なんか俺、無になってた。眠ってたんじゃなくて、無。これが悟りの境地ってやつか──。なんてことを考えつつ、やっぱりぼーっとする。気持ちよすぎて湯船から出たくないけど、ダメだ、このままじゃ本当に寝てしまう……。そう思いつつも、堪えきれずにまた意識がぼんやりしてまった、そのとき。すう……と風が通るのを感じた。え……なに……? ピチャ…… ピチャ……どこか遠く……いや、近く? 水音が……。 ピチャピチャピチャ……頭の芯が、痺れる、ように眠くて……あれ、眼が明かない。動けない。夢──? ピチャピチャ ピチャピチャ密やかな水音はまだ続いてる。これは、何かの怪異……? 気味が悪い。早く眼を開けないと。 妖怪 に 呑まれ て 俺 このまま死んでしまう?「ぶはっ!」鼻まで湯船に沈み込んでた。慌てて起き上がると、足元側に畳んだ蓋の上から、素早く飛び降りる影──。あれは何だ? 妖怪なんかじゃない、居候の三毛猫だ!咳き込み、洟水垂らしてまた咳き込む俺を、細く開いたドアの向こうから、メタリックグリーンの瞳でじっと見つめている。「……」三毛猫め……。よく風呂の落とし水を舐めてたけど、まさか浸かってるときまで舐めにくるとは、油断も隙も……。そういえば風呂のドア、パッキンが緩んでたの忘れてた。だから開けられたのか、あいつ。にしても、脅かしやがってこのー。まだごほごほしながら涙目で睨みつけていると、ヤツはするっと向こうの暗がりに消えて行った。一瞬光った眼が、こんなときにはちょっと不気味……。はあ。猫が風呂の水を舐めにくるのは猫飼いあるある話だけど、掃除の邪魔だし(猫が水を舐めてるあいだは洗剤を使えない)、ついどっかの古道具屋さんに「ちゃんときれいな水を入れてやってるのに」と愚痴ったら、「猫って、人間汁が好きですよね」ってコメントしてくれたっけ……怪しく微笑みながら。にんげんじるって、店主──。まあ、いいや。今夜は助かった。サンキュー三毛猫、パッキンの修理さぼってた俺、グッジョブ! ──なぁんて馬鹿なこと考えてないで、早く上がって寝よう。ん? あいつ用の湯たんぽ、入れてやったっけ? まだまだ夜は冷えるから、入れてやらないと……そっか、寒かったのかもしれない。すまん、三毛猫。ちょっと待っててくれ。それにしても、俺、もう少しで溺れ死ぬところだった。反省。風呂場で居眠り金縛り、今この瞬間コロナより怖いかもしれん。くわばらくわばら。こんなご時世でやむなくオーバーワーク、お疲れの皆様も、風呂の転寝にはご用心。「疫喰い桜 2」に加筆訂正いろいろしましたので、よかったら見てやってください。
2020.05.07
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「お、お久しぶりです……」この前この人に会ったのっていつだっけ? 胸元の、鯉のループタイがまたつやつやイキイキしてるじゃないか……。曰くつきの桜材を使った一刀彫のアイツに、伯父さんたらまた何を食べさせたんだろ、なんてこと考えたらダメだ! ──芋づる式に怖いことを思い出してしまう。「えっと、今日は真久部さんに会いに、慈恩堂へ?」咳払いをして、たずねてみる。それにしては、ここはあの店のある駅裏から遠すぎるけど。「んー、あの子の顔も見たいところなんだけどねぇ、今日はまあ、別件で」「そ、そうなんですか」別件、について聞いてほしそうな顔に見えるのは、きっと気のせい。「じゃあ、俺はこの辺で──」「次の仕事かい?」「え? ええ」そうだよ、次は浜野さんちの庭先で洗車の予定が入ってる。でかいワゴン車なんだけど、屋根にいっぱい鳥のフンを落とされたんだって。気づいたときにはすっかり乾いてしまっていて、ガソリンスタンドの洗車機では取れなさそうだからって言ってた。「今日は寒いねぇ、何でも屋さん。風がきつくて」わざとらしく肩をすぼめてみせて、真久部の伯父さん。いかにも邪気の無さそうな笑みが、嘘くさくて──。「そうですね。こんなふうに立ちっぱなしだとよけいに。あはは……」だから、そろそろお互いの目的地に向かいませんか? 俺の言いたいことはわかっているだろうに、知らん顔で伯父さんは続ける。「ここはひとつ、熱いラーメンでもどうだい?」ご馳走するよ、とにっこり笑う。甥っ子の真久部さんより数段怪しいから、本能的に俺は逃げを打つ。「ありがたいですが、もう行かないと。それに、こんな時間に開いてるラーメン屋、このあたりにはないですよ」わんこたちの散歩には時間かけたけど、まだ九時前だしな。駅前まで戻ったって、早いところで十時開店だ。喫茶店なら七時から開いてるとこあるけど。「おや? あれは見間違いかな?」そう言って伯父さんが指さすほうを見ると。「え?」誘うように揺れる、赤い暖簾。お地蔵様の涎掛けを思わせる──。「ほらほら、行こう、何でも屋さん。ラーメン一杯食べるくらい、そう時間もかからないだろう?」にーっこり。──いつか見た覚えのある光景に、うっかり動揺した俺は、スタイリッシュ仙人の怪しい笑顔の圧力に負けた。 暖簾をくぐって店に入ると、ふわっと暖かい空気、それにラーメンの美味そうな匂い。カウンターの中には、見覚えのあるラーメン屋の主人がいて、温かいぬくもりのある笑みで迎えてくれた。色白で、穏やかな面差しの──。…………ラーメン屋の親爺というより、保育園の保父さんのように優しげなこの人を見たのは、ここじゃない。ここじゃなくて。「──<チンとんシャン>って、駅前じゃなかったですか?」つい、口に出していた。チンとんシャン。それは幻の店と呼ばれるラーメン屋。不定期開店、先着十名。だから開いてるところを見るのすら奇跡と言われる。俺だって、真久部の伯父さんに連れられて一回入っただけだけど……、それまで食べたことがないほどの美味しさだった。「そうだねぇ、<チンとんシャン>は駅前だ。でも、この店は……何だったっけね?」「<走りぎんなん>ですよ」どんぶりを用意しながら、店主が答える。初めてはっきり聞いたけど、やわらかい、耳に心地よい声だ。この人のこの声で、お経を読んでもらったら気持ちいいだろうなぁ、なんて……。…………ダメだ! 俺は無言でぎゅっと眼を瞑り、頭を振った。うっかり変なことを考えそうになった己を、密かに責める。そうして眼を開けると、伯父さんが俺に向かってニヤリと笑ってみせていた。意味ありげに。「そうそう、<走りぎんなん>。そして、<あまりりす>でもある」「へー、そうなんですか」言葉だけは冷静に。へー、ほー、ふーんだ! 怖がらせようったって、その手には乗らないんだからね! ──<あまりりす>っていうのは、真久部さんも伯父さんとよく行くという、伯父さんち地元のラーメン屋の屋号だ。それ知ってるけど知らんふり。「おや? 驚かないんだねぇ」つまらないな、なんて伯父さんは呟いてる。「真久部さんに聞いてますから」店自体が“迷い家”だって。「へえ?」面白そうに、伯父さん。「どのお店もオーナーが一緒で、味はすこぶるつきの太鼓判、あんまり美味しいから心も身体も満足して、ちょっとした不調や風邪くらい、すぐ治ってしまうって」いろいろ端折ったけど、だいたいこんなふうなことを。「やっぱりあの子は気づいていたのか……」伯父さんはうれしそう。でも、真久部さんは正直に答えてくれないと思うよ。「で? 何でも屋さんは怖くないのかね?」内心のワクワクを隠しもせず全面に押し出して、とても楽しげにたずねてくる。「怖い」って言わせたいんだろうなぁ、と思うけど、でも。このヒトのこんなふうな期待に、素直に応えるなんてしたくない。それはあまりに無防備、あまりに危険。──それに、シャクでもある。つづく……。同日、加筆訂正いろいろ入れました。
2020.05.07
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「五月の雨と竜の鈴」途中ですが、思いついてしまったので……。長くなったりしませんよ。しませんとも! 桜も葉桜、散る八重桜。名残りの花冷え風強く、薄着を後悔しながら俺は歩く。朝の犬散歩を連続で三件終えたとこだけど、二件目三件目は小型犬。一件目のグレートデンの伝さんとの長距離早歩きで火照った身体も、すっかり落ち着いてしまった。ポメラニアンのりんごちゃんも、ミニチュアダックスのダークくんも、小っちゃいあんよで一所懸命歩いてたんだけどね。びゅん、とまた風がうなる。並木の銀杏は着々と新しい緑をまとい、とっくに春も過ぎかけだと教えてくれるけど、風に煽られる|幼気《いたいけ》な葉っぱたちは今日の寒さに震えているようだ。五月も目前、寒の戻りというにはいささか時期外れではあるけれど、本日の曇りの空はつれなくも、お日さまの顔を見せてくれるつもりはないらしい。そのせいで気温上がらず、風がよけいにヒャッハー! とばかりに吹き荒れる。我が物顔で。「……」つい、溜息が出る。気持ちが塞いでしまうのは、何も寒いからだけじゃない。今年に入って日本じゅう、いや、世界じゅうで猛威を振るっている新型コロナのせいなんだ。だって、せっかくの面会日にも、娘に会えない。離婚後、元妻とも、彼女に引き取られた娘とも(ついでに、元義弟とも)関係は良好で、月に一度は必ず娘と会ってた。だけど、新型コロナ流行の兆しが見えてきたあたりから、俺が会うのが怖くなってしまった。この二月から面会を自粛してる。だって俺は何でも屋。仕事柄、お得意さま始め、不特定多数の人と毎日接触してる。この町では幸いまだ感染者は出ていないけど、それは現時点であって、先のことはわからない。──もしかしたら既に感染してても無症状の人がいるかもしれないし、それは俺かもしれない。そう思ったらさ、とても会えないよ。インフルエンザはもちろん、普通の風邪でであったとしても。あの子に、誰かにうつすかもしれないと思ったら怖いし、嫌だ。今回の新型コロナみたいなのだったら、なおさら。一緒に暮らしてるなら接触のリスクもやむなし、となるんだろうけど、違うからさ……。避けられる危険ならば、避けるべきだと思うんだ。あの子も──ののかもわかってくれてる。元妻からのメールでは、「ののかのパパなのに、なんで会えないの?」と不満そうだったらしいんだけど、「いま流行ってる病気はね、とても怖い病気なの。自分は平気でも実は罹ってて、家族やお友だちにうつしてしまったっていうのがあるのよ。もしかしたら、ののかがそうで、パパにこの悪い病気をうつすかもしれない。それは嫌でしょ? パパも同じなの、ののかに病気になってほしくないのよ」と言葉を変えて何度も説得したら、寂しそうにしながらも、何とかわかってくれたということだった。代わりに、ののかは彼女の母と一緒に作ったマスクを送ってくれた。元々よく使うから、買い置きはそれなりにあるけど(寒い時期の風邪予防や、作業中の埃避け等)、先の見えない状況で、これは心強い。買い物依頼でよくドラッグストアやらに行くけどさ、まだまだマスクは品薄なんだよな。手作りマスクは二重仕立てで、内側にはののかが赤ちゃんだった頃のガーゼの肌着や、おくるみなんかを再利用してるみたいなんだけど、表側の布地の柄がなかなか斬新だったりする。猫の口プリントみたいなのとか。このあいだなんか、攻めてる感じのヒョウ柄(紫)、ちょっと恥ずかしいかも……とか思いながら着用してたら、関西出身だという増田のお婆ちゃんに褒められた。他にも藍染の和柄とか(元義父さんの浴衣かな)、サーモンピンクの絞り染めみたいなのとか(元妻の持ってた風呂敷にそんなふうなのあったような)、いろいろある。柴わんこ柄とか、ねこあつめ的な柄とか、丸っこい小鳥がいっぱいいるのだとか──うん、寂しいけど、パパうれしいよ。毎日ちゃんと使ってる。サージカルマスクのカバー的に使うのもいい感じ。今日のは、小さな鯉のぼり柄。五月の子供の日にも会えないだろうからと、豆サイズの鎧兜模様なんかと一緒に、昨日追加で送ってくれたやつ。白地に明るい色の鯉のぼりたち、ほえーっとした顔で可愛い、というか、癒される。うん。癒される──。路駐の車のサイドミラーに映った、マスクの柄に思う。どんよりしてる場合じゃないよな。せっかくののかが俺のこと思って作ってくれたのに(パパは男の子だから、よろいかぶとと鯉のぼり! って添えられてたカードに書いてあった)、俺だって頑張らないとな。そう思って、よし! と前を向いたら、あれ? あっちの短い横断歩道の向こうに、見覚えがあるような人が──。「おや、何でも屋さんじゃないか」ゆっくりと道を渡ってきた人は、ちょっと長めの真っ白い髪に、白い眉。大判の、白地に薄い染め柄の入った生地で出来たマスクの下には、きっと綺麗に手入れされた白い髭があるはず。スタイリッシュ仙人みたいな──。「ま、真久部さんの伯父さん?」ニイッと悪戯っぽく微笑んでみせる顔は、甥っ子の真久部さんより数段胡散臭い。「奇遇だねぇ。こんなところで会うなんて」つづく……。
2020.04.28
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何かを含んだような表情に、俺の背中までうっすら寒くなる。「そ、それはどういう……?」たずねる声まで震えそうだったけど、真久部さんはそれには触れてこなかった。代わりに、もっと怖いことを言う。「昔々あの辺りではねぇ、子供がなかなか育たなかったらしいんだよ。他所と比べても明らかに」「……」「七つまでは神の内、という言葉が何より重かったというか……。そんなふうに考えて無理やり納得するしかないような、そんな時代が過去にはあったらしいんです。──近隣から、何かの祟りじゃないかと遠巻きにされるくらいには」「……違うんですよね?」恐る恐るたずねると、「もちろん」と、今日の真久部さんは思わせぶりに怖がらせることなく、すぐにうなずいてくれる。「祟りなどという超自然的な現象ではなく、おそらく風土病というものだったんじゃないかと、僕は考えています」「風土病、ですか」とある一定の地域にだけ流行る病気のことだっけ。「ええ。かつてあのあたりの水源近くの窪地に、気味の悪い湿地があったというんです。他では見られない草や苔、藻が繁茂し、そこにしか棲息していない虫や、小さな生き物がたくさん潜んでいたとか。南北に細長く、南側にはよく日が当たるのに、北側は常に日陰でじめじめしていて、常に眼に見えない何かが渦巻いているような感じがしたということだけど──」「……」眼に見えない何かって、何……? とびくびくしてたけど、すぐに「単純に考えて、暖かい空気と冷たい空気が対流していただけだと思うんだけどね」と続けてくれたので、ホッとした。「そ、そうですよね! 南側の、陽射しで暖められた水面から空気が上に上がって、北側の冷えたままの空気が下から流れ込んで、ぐるぐると。浜風みたいに」「ぐるぐる、というほどではなかっただろうけれどねぇ。小さな溜池程度の広さしかなかったようですし」真久部さんはちょっと笑った。「ただ、そこはさっきも言ったとおり窪地だったので、そういった空気の揺らぎを感じやすかったとは思うよ? ごく狭い範囲で、ゆるり、ゆるりと蠢き棚引く、生暖かいような冷たいような空気──。さぞ、薄気味悪かっただろうと想像できますよね。さらに、他の水辺とは明らかに種類の違う|草木《そうもく》に、見慣れない虫や蛙やイモリなど、そこここに隠れている小さな生き物たちの気配。しかも周辺は荒地で、稲作にも畑作にも向かずとくれば、近寄る人も滅多になかったというのは、さもありなんと言うしか」「……ですね」うん。そこが他と比べて異質である理由を理解はできても、俺だって近づきたくないなぁ。「なんか、悪いものが溜まりやすそうというか──」「悪いモノ、ですか?」ちょっとだけ面白そうに、真久部さん。「ち、違いますよ! オカルトな悪いモノじゃなくて、現実的な悪いもの。ほら、何かのバイキンとか! たとえば、その湿地で小動物が死んで、その遺骸が腐ったりしたら。覿面に水が汚れるじゃないですか」疫病って、そんなふうにして発生することがあるって、俺だって知ってるぞ。「ええ、何でも屋さんのおっしゃるとおり」満足そうな猫みたいに眼を細め、さらりと肯定してくれる。「空気も水も、そこに棲息するすべてが閉じて澱んでいるような場所だったので、一種独特の|黴菌《ばいきん》だか、ウイルスだかが発生していたんだと僕も思いますよ。そんな場所が水源に近かったとなれば、ねぇ。乳幼児の死亡率が他所より高かったというのもうなずける。しかも、成人しても、他の地域に比べて早死にの人が多かったとなれば──」「風土病、ですね」俺は深くうなずいていた。土地に根付いて生き、土地に根差した病に脅かされ、それでもそこで生きてきた。台風が来るのも地震が起こるのも当たり前のこの国だから、土地の病も当たり前のこととして受け容れて、ただ懸命に日々を送る……。「でもね、それもある年から急速に収まったということなんだよ」「何か対策できたんですか?」よく効く薬草が見つかったとか?「地震があったらしい。かなり強く揺れて、崖崩れなどもあって一部川の流れも変わるほどだったとか。それからしばらくして、湿地は枯れたそうです。地下の水脈が断たれたんだろうね」幸い、村の井戸には変化がなかったという。「建物が崩れるなどの被害はあったらしいだけれど、それで命を落とした人はいなかったとか。地震があったのが昼間だったから、みんな野良仕事で外に出ていたのがよかったんだろうね。赤子は籠に入れて親の近くだし、小さい子たちは皆で遊ぶか親の手伝い。一部家にいたお年寄りたちもすぐに外に逃げたといいます。季節も寒くはない頃のことだったというし、井戸の水さえ飲めればなんとかなっただろうねぇ」「水、大事ですよね──」地球は水の惑星という。だからそこに生まれた生き物は、みんな水の申し子だ。水がなければ生きて行くことができない。「そう。そして水といえば水神様、つまり竜神様。その竜神様が、今回ちょっと暴れたんだと村人は考えたようです。川の流れが変わったのがその証拠だと。だからすぐに昔からある山の中の祠に詣でて、人死にのなかったことへの感謝と、今までと同じようにお祀りを欠かさないので、どうかどうかお鎮まりくださいとお願いをしたそうです」件の湿地が枯れているのに彼らが気づいたのは、その冬のことだったそうです、と真久部さんは続ける。「寒くなると毎年何人かが病の床に就き、特に体力のない幼児かお年寄りが亡くなることが多かった。その辺りではそれが当たり前のことで、誰もが何かを覚悟していた。だというのに、その年は病が重くなる者が一人もいなかったというんです。有り難いことだけれども、何故だろう? 誰もがそう思い、不思議がっていた」つづく……。
2020.04.13
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「へ?」 どういう意味かと戸惑っていると、真久部さんはまた、ふふっと笑いながら新しいお茶を淹れてくれた。茶殻を茶こぼしに捨て、茶葉を換える。瑞々しい緑色をしたお茶からは馥郁たる香が立ち上がり、この季節の新緑の森を思わせた。「何事も考え方次第──。わかっているはずなのに、つい悪いほうに流されてしまいそうになっていましたよ」自分にも温かいのを淹れ直してゆっくりと啜っている。そして、いま初めて気づいたかのように、「美味しいですね」と言った。薄く立ち上る湯気を遠い眼で追っている。「……だって真久部さん、いつもいい煎茶出してくれてるじゃないですか。あ、ほらマフィン! 作っても自分ではあんまり食べないみたいだけど、こっちも美味しいですよ!」俺ももうひとつもらいますし、一緒に食べましょうよ。勢い込んでそう言うと、ちょっと驚いたように眼を瞬かせる。でもすぐに笑ってうなずいて、デパ地下に売ってるのと遜色ない自作マフィンを、丁寧に割って口に入れた。「……」「ね?」ゆっくりと噛みしめながら和んでいる姿に、この人の真似をして首を傾げてみせると、少しだけ照れたような微笑みが返ってくる。「ふふ……手前味噌ですよねぇ」残りの半分を眺めつつ、そんなことを言う。「んー、これは自家製味噌じゃないから、手前マフィン?」思いついて、つい口走ってしまった俺のしょーもないギャグに、真久部さんは肩をふるわせた。「何だか、元気が出て来ましたよ」「そ、そう? それなら良かったです」俺のオヤジギャグだって、役に立つことがあるんだ! ──元義弟の智晴には、毎回冷たい眼で見られるけど。「──今日は怖い話ばかりして、すみません。脅かすつもりはないんですが」いつもと違ってねぇ、なんてちょっと意地悪く、でもいつものこの人らしいことを言う。それから、ふうっと息を吐いて、話し始めた。「尼入道──。アレはかつて、あのあたりの村にあった小さな寺の尼僧だったそうです」「あー……その。アレって、ちゃんとした尼さんだったんですか……?」ちゃんとした、っていうのも変だけどさ。あまりに悍ましいモノだったんで、本当に御仏に仕える存在だったなんて信じがたい気がしたんだ。「剃髪した姿で出てきたでしょう? 尼僧、僧といっても昔のことだから自称などもあったようですが、アレはちゃんと尼さんだと周囲に認識されていたようですよ」「はぁ」そうなのか……。「村は、当時としては大きなものだったそうです。だから、村はずれにあった寺もそれなりのものだったとか。ただ、前の住職が亡くなってからは無住になっていて、住職と前後して亡くなった寺男が寝起きしていた離れなどは、荒れるに任せるしかなかったらしい。──そこにいつからか旅の尼僧が住み着いて、本堂の仏様の世話をしていたというんだよ。尼入道はその尼僧の連れていた、小坊主ならぬ小尼だったのだとか」「小尼……」なんか、全体的にゴツゴツして、女性としては大柄だった印象があるんだけど。「──何でも屋さんが何を考えているかわかるような気がするけれど、それが後に化け物になるような者だったとしても、誰にだって子供の時代はありますよ?」眼だけで軽く咎めてみせる人に、俺は、あはは、と笑ってごまかしてみた。「尼入道の師にあたる尼僧が、どこから流れてきたのかは伝わっていません。ただ、村人が気づいたときには粗末な離れを庵とし、本堂に通って仏様に野花を捧げ、清掃や朝夕のお勤めをしながら質素に暮らしていたのだとか」「勝手に住み着いたりして、村の人に咎められたりしなかったんですか──?」今の時代なら、不法侵入って言われそう。「いくつもの御経を読める、まともな修行を積んだ尼さんだったようですから。次の住職もなかなか来てくれず、住職の代わりに経を唱えられた村長むらおさも高齢で、本堂の仏様の御世話やら、仏事にも困っていたところだったらしいので」住まいしたのが、本堂に近い庫裏ではなく、あばら家のような離れだったのも良かったんでしょう、と真久部さは言う。「己の分を弁えて、ただただ御仏に仕える姿勢。素性はわからないけれど、それなりの教養もあるようだし、そういう人物ならば寺を任せてもいいだろう、と。昔は大らかでしたからね」今のようには、学問も教養も簡単に学べない時代であったし、少しでもそれを身につけている人間は貴重だった──。そう説明されてみれば、俺にもその尼僧の価値が理解できた。「これも仏縁だろうと、村長も村人も納得したようです。改めて、離れを庵として住まうことを許し、尼僧もそれに感謝して、日常のお勤めのほかに、村の子供に字を教えたりなども始めたそうです。庵主さまとして、それなりに親しまれていたようだね」「優しい人だったんですね」「そうなんだろうねぇ。空き家とはいえ、勝手によそ様に住み着いたのも、元はといえば連れていた小尼が体調を崩したせいらしいし」昔の旅は、子供には特に過酷だったでしょうから、とつけ加える。「そっか。歩きですもんね……そういえば、その時の小尼は幾つくらいだったんでしょう?」「さあ、そこまでは」伝わってないからわからないけど、七つは越えていたんじゃないか、と真久部さんは首を捻る。「でないと、体調不良から快復するのは難しかったんじゃないかなぁ。──その村のあった、あの地域的に」そう言って、うっすらと笑った。つづく……。
2020.03.23
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「へ?」どういう意味かと戸惑っていると、真久部さんはまた、ふふっっと笑いながら新しいお茶を淹れてくれた。茶殻を茶こぼしに捨て、茶葉を換える。瑞々しい緑色をしたお茶からは馥郁たる香が立ち上がり、この季節の新緑の森を思わせた。「何事も考え方次第──。わかっているはずなのに、つい悪いほうに流されてしまいそうになっていましたよ」自分にも温かいのを淹れ直してゆっくりと啜り、いま初めて気づいたかのように、美味しいですねとひと言こぼした。「……だって真久部さん、いつもいい煎茶出してくれてるじゃないですか。あ、ほらマフィン! 作っても自分ではあんまり食べないみたいだけど、こっちも美味しいですよ!」俺ももうひとつもらいますし、一緒に食べましょうよ。勢い込んでそう言うと、薄く立ち上る湯気をぼんやり追っていた人は、ちょっと驚いたように眼を瞬かせる。でもすぐに笑ってうなずいて、デパ地下に売ってるのと遜色ない自作マフィンを、半分の半分に割って口に入れた。「……」「ね?」ゆっくりと噛みしめながら和んでいる様子に、この人の真似をして首を傾げてみせると、微笑みが返ってくる。「ふふ……手前味噌ですよねぇ」残りの半分を眺めつつ、そんなことを言う。「んー、これは自家製味噌じゃないから、手前マフィン?」つい思いついて口走ってしまった俺のしょーもないギャグに、真久部さんは肩をふるわせた。「何だか、元気が出て来ましたよ」「そ、そう? それなら良かったです」俺のオヤジギャグだって、役に立つことがあるんだ! ──元義弟の智晴には、毎回冷たい眼で見られるけど。「──怖い話ばかりして、すみません。脅かすつもりはないんですが」いつもと違って今日はねぇ、なんてちょっと意地悪く、でもいつものこの人らしいことを言う。それから、ふうっと息を吐いた。「尼入道──。あれはかつて、あのあたりの村にあった小さな寺の尼僧だったそうです」その名を聞いて、俺の心臓がちょっと跳ねた。つづく……。ご無沙汰していてすみません。仕事でへたれきっております。その上、また咳喘息的な感じになって夜も咳き込んでいた時期があり、けっこうよれよれになっています(コロナではありません)。ちみっと書いては消し、書いては消し、それでもじわじわと進めてはいますので、見捨てないでいていただければ幸いです。新型コロナの流行が深刻な社会問題になっており、不安な毎日が続きます。今はただでさえ風邪を引きやすい時期なので、皆様もご自愛ください。久しぶりに画像を貼ります。図書館などで見かけられましたら、ぜひ読んでみてください。映画もあります。復活の日 角川文庫 / 小松左京 【文庫】
2020.03.17
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「そして何でも屋さん、きみの場合は」若い日の記憶にうっかり気を取られていた俺を、穏やかな声が引き戻した。「心の油に危険な火を近づけないようにしている──。おそらく、想像力を逆の暗示で抑えているというか、コントロールしているんじゃないかな? ……無意識に」どこか生温いような、何ともいえない慈愛に満ちた表情で、真久部さんは俺を見ている。「それは、どういう──」「怖いと思うから怖い。そして、怖くないと思えば、本当に怖くなくなる。思い込んでしまえば、心の油に火が近づいても、それは燃え上がることはない。何故なら、その火には熱はないから──。熱くも冷たくもない、プラスでもマイナスでもない曖昧な暗示の力が、想像力の海を凪いだままにしている……」──見ない見えない聞こえない。すべては気のせい気の迷い。「……」何とも答えることができず、俺は黙ってしまった。意地悪な人は、ふふ、と笑って瞳を和ませる。「有ると思えば有る、無いと思えば無い。禅問答みたいだけれど、でもねぇ。見えないと信じていればそこに有るものすら眼に入らないし、見えると信じれば、見えないものまで見えてしまう──」何もない暗闇に何かの気配を感じて怯えたりするのは、火を持たず、夜闇に潜む外敵に怯えていた原初の恐怖の名残りだから、自然なことではあるんだけれど、と続ける。「度が過ぎるのは、ね……。よくたとえで言われる枯れ尾花、それを幽霊と見間違うのはいいけれど、ただのススキに怯えて正気を失い、逃げ出して車にはねられたり、池に落ちて死んだりとなると、それはもう自分の想像力に殺されたようなものだと思いませんか? 昔話には、狸に化かされたとかいう話がちょくちょく出てきますけど、あれも、そう、|半《・》|分《・》|く《・》|ら《・》|い《・》|は《・》そういうことなんじゃないかなぁ──」どう思います? そんなふうに言って、ちょっと小首を傾げてみせる。誘うように。「あー……度が過ぎるのは、何でもよくないですよねぇ」だけど俺は誘いに気づかぬふりをして、無難にうなずくだけにしておいた。下手に反応して、「え、残りの半分は本当に化かされたってことですか?」てなこと言ったら、喜ばれてしまいそう──っていう俺の気持ちなんか全てお見通しなのか、何故かうれしそうに眼を細め、真久部さんは言葉を継ぐ。「──ほらね、きみはよくわかっている。きみの心の結界はとてもしなやかで、滅多なことでは壊れない」「はあ……」結界……? 俺、単純に怖がりなだけなんだけどなぁ。「きみは怖いのが嫌いだけれど、どこか遠いというか──そうだね、獰猛な白熊を、動物園の透明な壁越しに見ているようなところがある。心が張った、結界の内側から。だから、まやかしの恐怖に呑み込まれるようなことがない──。きみのそういうところに、僕は頼もしさを感じているんですよ」「……」想像力。時に人を殺すほどの力を持つそれ。暗示の力だけが、唯一その想像力を制御することができるのだとさらに告げられて、俺はようやく真久部さんが何を言いたいのかわかった、つまり──<見ない見えない聞こえない……>という俺的慈恩堂心得は、間違ってはいないということだ。そんなふうにせっかく納得してみたのに。「だけどねぇ、何でも屋さん。その頼もしさでも太刀打ちできないことが、世の中にはあるんですよ……恐ろしいことに」「え……」「尼入道が、まさにそういったもののひとつなんです。暗示すら退ける恐怖──それ故直接的な脅威となり、人を害する……だから、出会ってはならないし、出会わないようにしなければならない──」真剣に語られる言葉に、またぞろ寒気がしてきて、俺は無意識に両腕を擦っていた。「言い伝えはまさにそのためのものであり、大鈴は対策でしかなかった──。五十川さんが覚えていなかったことを後悔しているのも、僕が──己の勉強不足、不明を申しわけなく思っているのも、そのためです。今ではすっかり忘れ去られていた化け物ではあるんですが、かつてはもっと身近なもので、それはもう、たいそう恐れられていたということなんですよ……」だんだん小さくなる声でそう言って、真久部さんがまた眼を伏せてしまう。丸められた肩がなんだか小さく見えて──いや、ホント。俺だってアレを思い出したくはないんだけど……ないんだけど、でもさ。「五十川さん世代で、既に過去のものだったみたいだから……昔に怖かった話が、現代ではちっとも怖くなくなったなんていうのは、よくある話というか──」昔はさ、<がんばり入道>とか、何のためにいる(?)のかわからないような妖怪もいたみたいだし。<すねこすり>って怖いかなぁ? 夜中のトイレが不気味だとか、なんかいきなり足元がくすぐったい気がしたとか、大して意味のないことに意味を求めてるうちに、そういう存在を創り出したんじゃないかと俺は思ってる。「昔は、夜の闇が深かったですからね──」眼を伏せたまま、真久部さんは言う。「蝋燭の明かり、行燈、提灯。消えてしまえば真っ暗で、自分の鼻の先すら見えない。だから闇に蠢くものは何であれ恐ろしかった、たとえそれが自分の影であったとしても。けれどもそれは想像力の産物であって、本来は害がない。──真っ昼間に現れる尼入道とは、そこが違うところです」「……」つまり、あまりにもはっきりと姿を現すので、絶対に気のせいにさせてくれないヤツってこと……? それって、かなり、ものすごく──。「目立ちたがり……?」ぽろり、そんな言葉を呟くと、ずっと固くなっていた真久部さんの頬がゆるみ、いつもより白かったそこにちょっとだけ血の気が戻った。「もう、まったく何でも屋さんは──」そう言っていつものように笑うから、俺はなんとなく安心した。別にウケを狙ったわけじゃないんだけども。「何でも屋さんは、僕の心の結界も張り直してくれるんですねぇ」つづく……。前後に分けるのはやめて、ひとつにしました。それにしても雨が酷いです……。
2020.01.23
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「そして何でも屋さん、きみの場合は」過去の記憶にうっかり気を取られていた俺を、穏やかな声が引き戻した。「心の油に危険な火を近づけないようにしている──。おそらく、想像力を逆の暗示で抑えているというか、コントロールしているんじゃないかな? ……無意識に」どこか生温いような、何ともいえない慈愛に満ちた表情で、真久部さんは俺を見ている。「それは、どういう──」「怖いと思うから怖い。そして、怖くないと思えば、本当に怖くなくなる。思い込んでしまえば、心の油に火が近づいても、それは燃え上がることはない。何故なら、その火には熱はないから──。熱くも冷たくもない、プラスでもマイナスでもない曖昧な暗示の力が、想像力の海を凪いだままにしている……」──見ない見えない聞こえない。すべては気のせい気の迷い。「……」何とも答えることができず、俺は黙ってしまった。意地悪な人は、ふふ、と笑って瞳を和ませる。「有ると思えば有る、無いと思えば無い。禅問答みたいだけれど、でもねぇ。見えないと信じていればそこに有るものすら眼に入らないし、見えると信じれば、見えないものまで見えてしまう──」何もない暗闇に何かの気配を感じて怯えたりするのは、火を持たず、夜闇に潜む外敵に怯えていた原初の恐怖の名残りだから、自然なことではあるんだけれど、と続ける。「度が過ぎるのは……。よくたとえで言われる枯れ尾花、それを幽霊と見間違うのはいいけれど、ただのススキに怯えて正気を失い、逃げ出して車にはねられたり、池に落ちて死んだりとなると、それはもう自分の想像力に殺されたようなものだと思いませんか? 昔話には、狸に化かされたとかいう話がちょくちょく出てきますけど、あれも、半分くらいはそういうことじゃないかなぁ──」どう思います? そんなふうに言って、ちょっと小首を傾げてみせる。誘うように。「あー……ホント何でもねー、度が過ぎるとよくないですよねぇ」だけど俺は誘いに気づかぬふりをして、無難にうなずいておいた。下手に反応して、そう、「じゃあ、残りの半分は本当に化かされたってことですか?」とかたずねたら、喜ばれてしまいそう──っていう気持ちなんか全てお見通しのようで、うれしそうに眼を細め、真久部さんは言葉を継ぐ。「──ほらね、きみはよくわかっている。きみの心の結界はとてもしなやかで、滅多なことでは壊れない」「はあ……」俺、単純に怖がりなだけなんだけど……。「きみは怖いのが嫌いだけれど、どこか遠いというか──そうだね、獰猛な白熊を、動物園の透明な壁越しに見ているようなところがある。心の結界越しに。だから、まやかしの恐怖に呑み込まれるようなことがない──。きみのそういうところに、僕は頼もしさを感じているんですよ」「……」想像力。時に人を殺すほどの力を持つそれ。暗示の力だけが、唯一それを制御することができるのだとさらに告げられて、俺はようやく真久部さんが何を言いたいのかわかった、つまり──<見ない見えない聞こえない……>という俺的慈恩堂心得は、間違ってはいないということだ。そんなふうにせっかく納得してみたのに、次の言葉でまた不安になってしまう。「だけども、その頼もしさでも太刀打ちできないことが残念ながらあるんですよ、何でも屋さん……。暗示すら退ける恐怖──それ故直接的な脅威となり、人を害する……尼入道はそういったもののひとつで、だから、出会ってはならないし、出会わないようにしなければならない──」「……」消えそうに低くなる声。またぞろ背中が寒くなってくる。「そのための言い伝えであり、大鈴は対策でしかなかった。五十川さんが覚えていなかったことを後悔しているのも、僕が──己の勉強不足、不明を申しわけなく思っているのも、そのためです。今ではすっかり忘れ去られていた化け物ではあるんですが、かつてはもっと身近なもので、それはもう、たいそう恐れられていたということなんですよ……」押し出すようにそう言って、真久部さんがまた眼を伏せてしまう。丸められた肩がなんだか小さく見えて──いや、ホント。俺だってアレを思い出したくはないんだけど、でもさ。つづく……。謹賀新年。今年もよろしくお願いします。ぎゃー、遅刻キケン域!行ってきます!
2020.01.08
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朝、五時起床。顔を洗い、コンタクトレンズを入れようと思ったら。レンズケースの中には片方しか入っていませんでした。…………先週も無くしたばかりなんです、片方。そして買い直したばかりなんです、片方。どうせ両方無くすなら、一回で済ませてほしかったなあ、と遠い眼……。きっとこれは厄落とし。そういうことにしておこう。無理やり自分を納得させた、憂鬱な冬の日。なかなか続きが書けずにすみません……。仕事がね、仕事が……。
2019.12.06
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今朝の空は概ね青空。午後に向かってだんだん曇ってくるらしいけど。グレートデンの伝さんと、ボーダーコリーのリコちゃん、ブルドッグのウスターくんとの散歩を終えたら、次は宮間さんちの庭掃除だ。秋になっても放置していた枯れ朝顔を、そろそろいい加減何とかしたくなったんだって。蔓どうしがぐるぐる絡まって、ジャングルみたいになってたもんなぁ……。夏のあいだ、何度か水遣りを頼まれたんで知ってる。宮間さんの設置した、適当感あふれる添え木をすべて巻き込んで立ち上がり、伸びあがり、近くに垂れ下がっていた簾にまでがっちり蔓を絡ませていた。そこに次々花が咲くから、もう何が何やら。園芸用ネットで棚に造れば見栄えがしたのに、なんて、思いついた頃には後の祭りでしたねぇ、そう言って宮間さんは遠い目をしていたけど、聞いてた俺もあはは~と空笑いするしかなかった。だってさ。まさか自分が適当に譲った種が、そんなことになるなんて思いもしなかったんだ。そう、あれは去年の十月。家と家の隙間の狭い敷地、小さな祠の近くに一輪だけ咲いてた遅咲きの朝顔──。頼まれて草むしりをしてるときに見つけたんだけど、次に出会ったときには、茶色く枯れた葉っぱの影で同じ色の実がやっぱりひとつだけ熟してて。中から種がこぼれそうになってたから、何となく採取してしまった。売ってる朝顔の種よりずいぶん小さかったし、あんな場所に放っておいたら、次は芽も出せずに終わってしまうと思ったんだ。季節になったら、うちの屋上プランター農園の隅っこにでも植えてやろうかと思案しつつも、いつもと違う場所を探検したがって、俺とあの朝顔を再会させてくれた好奇心旺盛なお転婆わんこ、ミックスのルーシーちゃんをなんとか抑えながら散歩させてたら、同じく飼い犬の柴わんこ、花ちゃんと散歩中の宮間さんと出会って。花ちゃんとルーシーちゃんが犬同士の挨拶をしているあいだの立ち話で、「来年は朝顔を植えたいと思ってねぇ」なんて聞いたから、よかったらこれ、植えてやってくれませんか、って事情込みで頼んでみた。そしたら快諾してくれて。屋上の狭いプランターなんかより、宮間さんちの庭で地植えしてもらったほうが朝顔ものびのび育つだろうと考えて、持っていた種を全部預けたんだ。そして今年五月。あの時の種、忘れずに植えたよとうれしい報せをもらった。親株が痩せて矮小な感じだったから、そこから採った種も芽を出すのはひとつかふたつか──、と案じてたんだけど、もれなく芽吹いたと聞いたときは驚きつつも喜んだ。しかしまあ、あんなにすごい勢いで生長するとは。遠目から見るとまるでグリーンモンスター。宮間さんちの土が、よっぽど合ってたのかなぁ、と感心するやら呆れるやら。けれど、そんなふうに栄華を誇った朝顔も、八月末あたりから勢いを無くして、九月半ばからは茶色い葉っぱが増え、だんだん枯れて来てはいたのは俺も知ってた。それでも、十月になってもちょこちょこ花を咲かせているから、無碍に引いてしまうのも可哀想だと宮間さんも様子を見ていたらしい。けど、さすがに十月も下旬に入って、ここ数日花も見ないし、もういいか、と思ったということなんだ。「おはようございます!」低めのフェンス越し、庭に向かって挨拶すると、花ちゃんを遊ばせていた宮間さんが立ち上がり、出入口を開けてくれた。「ああ、おはよう何でも屋さん。今日はお願いしますよ」「はい。朝顔の片づけと、草引きですね」歓迎してくれる花ちゃんの耳をひとしきりわしゃわしゃしてやりつつ、確認。宮間さんちの庭は、草もなんだか元気なんだよな。「いやあ、この朝顔には長いこと楽しませてもらいましたよ」もう終わりかと思ったら、次の日にはまた花がいくつも咲くから、なかなか始末できませんでした、と苦笑いする。「きっと、まだまだ引かれたくなかったんだねぇ」「あはは。元の花は一輪だけだったのに、その一輪だけの種でこんなに増えるなんて、俺もびっくりしました。すごいですよね」「本当に。けど、もういいでしょう……。もうすぐ十一月だし、さすがに花も終わりだね」種もたくさん採れたし、と宮間さんは感慨深げだ。「このあいだ来た親戚に言われてねぇ、枯れてしなびた葉っぱが見苦しいと。わさわさ盛り上がって密集して干からびてる様が、何かの着ぐるみのオバケみたいだって」俺はちょっと吹いてしまった。うーん、確かに。今のこれは、グリーンモンスターならぬベージュモンスターだ。「まだ枯れ切ってはいなくて、裏側や下のほうには緑の葉っぱがあるんだけど──、ここ数日は花を見ないよ」「朝晩、けっこう冷えますもんね」「そうそう、お陰で神経痛が出て来て」宮間さんは情けなさそうに腰をさすり、溜息をついた。「そんなわけで、まあ頼みますよ」任せてください、と俺は請け合った。あ、そうそう。「残りの種、少しもらっていいですか?」完熟した実が鈴生り状態だから、そこから三つ四つもらっただけでも屋上プランターに植えて、さらに娘のののかに分けるくらいにはなると思う。ひとつの実には、だいたい六つくらい種が入ってるからな。「もちろん。元は何でも屋さんにもらったものだしね」鷹揚にうなずいてくれた。「そんなこと。でも、投資だとしたらすごい利益率かも」「違いない」あはは、と笑って宮間さんは花ちゃんにリードをつけた。俺に庭を任せ、これから散歩に出かけるという。「行ってらっしゃい。お戻りの頃には、ここらへんさっぱりしてますよ。あ、蔓の絡んだ簾、ちょっとささくれてて割れたりしそうですけど、大丈夫ですか?」そこはちゃんと確認しておかないとな。「ああ。元から傷んでるし、それも片づけてもらえるかな。来年は簾のかわりに朝顔カーテンにしようと思ってるんだよ」「いいですねぇ。きっと素敵な日除けになってくれますよ。……あれ?」まずは根元を切ろうとしゃがみ込んだ俺は、思わず声を上げていた。「ん? どうかしたかね?」花ちゃんを連れて歩きかけた宮間さんがたずねてくる。「宮間さん、ほら、ここ! 咲いてます、朝顔──。小さいのが」絡み合って、手強い太さになっていた蔓をそっと掻き分けてみせると、俺の親指の爪くらいの大きさの花が、ひとつだけぽつんと咲いていた。ああ、と宮間さんは嘆息した。「ああ、本当だ……。枯れかけの、残り少ない力で咲かせたんだろう」いじらしいね、と呟く宮間さんに、俺もうなずく。花ちゃんは、ご主人様いいことあったの? というようにぱたぱた尻尾を振っている。「こんなに小さいのに、ちゃんと花の形してるのがすごいですよねぇ……ん?」枯れもつれた葉と蔓の合間にちらり小さく、爽やかな青がのぞいているのに俺は気づいた。ミニチュア朝顔と同じ色の。「こっちにも花が──あ、これは昨日咲いたやつかな、まだ新しいみたいだけど、窄まってますから」「ああ、咲いてたのか……。気づいてやらずにかわいそうなことをした」こんな時期になっても、精一杯咲いている姿を愛でてやりたかったなぁ、と宮間さん。「……」同じように思いつつ、根元しか見えないその青を、せめて蔓の縛めから解放してやろうとしたら。「……あ!」枯れ蔓の間から出たとたんするりとほどけて、立派な花が青い衣を振り開いた。真夏の鮮やかすぎる空とは違う、冬の、小春日和の空の色。「──押さえつけられていただけだったみたいだね」「ええ……」俺と宮間さんの視線の先、季節外れの朝顔の花は晴ればれと晩秋の日差しを弾いている。「……佳い日になりそうですね」「ああ、佳い日になりそうだ」何となく顔を見合わせると、お互い顔が笑ってる。花ちゃんもわふわふと喜んでいるようだ。今日は午後から天皇陛下の即位の礼があるという。お天気はこれから下り坂のようだけど、小さな花と大きな花は、この佳き日にお祝いをするために咲いてきたのかもしれない──そんなことを思った俺だった。この日、皇居のある東京では雨だったという。不思議なことに、即位礼正殿の儀が始まる直前に雨は上がり、東京の空に虹が架かったという。あの朝顔の青は、虹の青色を紡ぐための糸のかけらだったんだろうか。大嘗祭も無事行われましたね。……ええ、10月22日当日に書き始めましたとも。なんという遅筆!その日、うちの朝顔がまさにこんな感じで咲きまして。思いついた話でした。令和の御代がよき時代になりますように。っていうか、仕事行ってきます。
2019.11.15
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「……」ほ、誉められてるのかな? なんか顔が引き攣る、じゃなくて、照れるなぁ。あはは。でも、きっとそれだって気のせいだよ、真久部さん。そうに決まってる。怪しのものなんてさ、ただの想像の産物なんだ、足元の自分の影に怯えるみたいなもので──。「想像力は、時に人を殺すほどの力を持つ」「へ?」微笑んだままの唇から、ひょいっとそんな言葉が飛び出してきて、俺は変な声を上げていた。頭の中で捏ねくり回している誰に対してかわからない言い訳に、思わぬところから返事が返ってきたみたいで、虚を衝かれたような気持ちになる。「──好奇心は猫をも殺す、じゃなくて?」注意しないとわからないレベルの、黒褐色と榛色不思議なオッドアイをまじまじと見つめると、真久部さんはちょっとだけ苦笑をしたようだった。「そうと信じる気持ちが、ときにそういう力を持つ、と言い換えてもいいよ」「信じる気持ち、ですか……」「催眠術のショーで、見たことがないですか? ──あなたはだんだん眠くなる~」急に真顔でそんなこと言うから、うっかり笑ってしまう。「あれって本当に眠くなるそうですね、かかってしまうと」「そう。身体がひとりでに揺れる、と言われれば勝手に揺れるし、芋虫みたいに転がる、と言われれば、本当に転がってしまう」「そうそう!」大学時代、一般教養の心理学、第一回めの講義。担当教授が最初の掴みとばかりに、最前列にいた学生を相手に、催眠術を披露してくれことを思い出した。ちょっとパリピな感じの学生が、教授の言うまま片足立ちをしたり、後ろ歩きしたり、その場に金縛りになったり、歌ったりしてた。本人も、その場の全員大ウケで、みんな俄然心理学に興味を持ったけど、催眠術はその一回だけで、あとはどんなに学生が頼んでも、二度と見せてはもらえなかったっけ。だから、つまらないと顔を見せなくなった学生や、出て来ても寝てる学生がほとんどになってしまったけど、熱心に講義を聴く学生たちもいた。俺? 俺はまあ、ちゃんと聴いてたよ。単位を落とすわけにいかなかったし。「暗示とは、想像力を刺激するもの……ある意味、増幅させるようなものです。身体が揺れたら? 転んだら? そう考えた時点で既に術中にはまっている。『これは灼けた鉄の棒だ、とても熱い。それを今からあなたの背中に押し付ける』と言われ、実際背中に当てられたのはただのスプーン。なのに、その部分の皮膚が火傷をしたように赤くなる、ということまである。暗示を掛けられた本人の想像力がそれをするんだよ、自分で自分を火傷させる」「……」暗示と想像力の関係は、ある意味、火と油のようなもの──。そんな言葉を聞きながら、俺はあのちょっと退屈だけど、興味深いと言えば興味深かった講義のことを考えていた。教授は、専門家だからこそそういう危険物・・・の取り扱いについて慎重だったんじゃないだろうか。もう内容はすっかり忘れてしまったけど、「心というものに、形は無い。その形の無いものが身体を支配している。その意味について考えてほしい」という、最後の講義の最後の言葉が頭を過った。12に、つづく……。台風19号の残して行った爪痕が酷むごすぎて、言葉もありません。すべての被災地の方々が、一刻も早く平穏な日々を取り戻されますよう、そして、今回不幸にも犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます……。
2019.10.16
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「結界、ですか──?」そう言われても、俺、覚えがないんだけど……。お寺とか神社にあるような、竹でできた通せんぼするようなやつ、ああいうのを結界って呼ぶのは知ってる。けど、真久部さんが言ってるのは、そういうんじゃないんだろうなぁ。「あちらとこちらを別けるもの──暖簾もそうだと、以前お話ししたことがあると思いますが」「あ……」視線で示されて、俺はこの帳場のある畳部屋の、鴨居に張り巡らされた目立たない暖簾に眼を向けた。頑丈そうな木綿で出来た、小さな四角い布をいくつも繋いだ形状のそれは、店とこの畳部屋を隔てる結界だとそういえば前に教わったっけ……。暖簾といえば、商店街の蕎麦屋『二八』みたいに屋号を染め抜いたやつとか、居酒屋お屯の縄暖簾だとか、ここの台所側の戸口にあるような、目の前に垂れ下がる目隠し的な布しか普段は意識しないから、すっかり忘れてた。「──そういえば、いつかの、お、怨霊、的な人も、このエリアには入れなかったですね」今も店の隅にひっそりとある、寄せ木細工のオルゴールにまつわ……ってほしくなかった怪異。いつもは<見ない見えない聞こえない>してる俺だけど、アレだけは露骨すぎて、気のせいにも気の迷いにもさせてもらえなかったよ……。つい遠い目になってしまった俺に、真久部さんはうなずいた。「ええ。確かそのときにお話ししたんじゃなかったかな。あのとき、瘴気は漏れてしまったけれど、|本《・》|体《・》は防いでいたでしょ?」「そう、だったみたいですね……」怖かったけどな。「もっとわかりやすいのは──そうだねぇ、竜田さんのお願いで遠出していただいた、いつかの祠掃除のときのことを思い出してみてください。飛び入りの佐保青年のせいで危ない目に遭いかけはしたけれど、あの四つの祠を結んだライン、それは、内側に入った人を良くないモノから守ってくれる、紛れもない結界でした」「そうでしたね……」怖かったけどな。 「何より、何でも屋さん自身の在り方が良い。本来怖くもないものを、|徒《いたずら》に怖いものだと思いたがらないし、おかしなものを見たと思ってもさらっとスルーできるでしょ? ──|うち《慈恩堂》でそうしているように」「……」<見ない見えない聞こえない。すべては気のせい気の迷い>。それは、俺がこの店で仕事をするときのために編み出した、苦肉の策の心得だ。掛け軸の中の仙人っぽい老人と談笑してる、身体が虎で顔が人の姿をした神獣に「こっちにきて|蟠桃《ばんとう》の実でも食べないか?」なんて誘われたような気がしたり、通路の暗がりからかすかに祭囃子の音が聞こえたりしたような気がしても、コンキンさんや血まみれ怨霊のように害を感じられないものを、いちいち怖がったり気にしたりしてちゃやっていられない──。「怖いと思うから怖い、んじゃないかなー、なんて」あはは、と笑ってごまかしておく。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」って言葉があるけど、それはそういうものだと信じていればいいと思うんだ。正体もなにも、元から枯れ尾花なんだってね。そう、たとえ、恐ろしげな化け物がいきなり出現したように見えようと、その正体は何てことはない、両手の指を組んで作っただけの、ただの影絵だったりするんだよ。──枯れ尾花のふりした幽霊もいるかも、とか、考えちゃいけない。特に、この慈恩堂では。そんな俺の、微妙な葛藤を知ってか知らずか。「ええ、本当にそのとおり」真久部さんはちらりと眼だけで微笑む。「何故ならね、何でも屋さん。そういった気持ちの持ちようが身を守る、つまり、その心構えが既に、結界の役割を果たしているんだよ。きみはその心の結界で、ほとんどの怪しのものを寄せ付けないでいる──」つづく……。「11 前」なのは、書いたり消したりしているので、なかなか2000文字分溜まらないからです……。
2019.10.08
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「何でも屋さん!」真久部さんの声で、我に返った。「あ、ああ……」何か言おうと思ったけど、何も言葉が出て来ない。俺はたぶん無意識に、深く考えないよう、詳しく思い出さないよう、記憶に薄い紗幕を掛けてたんだと思う。──がっつり蓋をすると今度はその蓋が気になって、却って意識してしまうからかもしれない。その、ふわっと薄暗い垂れ幕の隙間から、化け物尼のあの異様な白目がギロリと覗いているようで、嫌な動悸が止まってくれない。「──すみません、思い出させてしまったんですね」申しわけなさそうに表情を曇らせて、真久部さんが言う。「何でも屋さんの強みは、怪異をさらっとスルーして、何も無かったことにしてしまえる能天気なところなのに」とか、よく考えると失礼なことをそれでも痛ましそうに呟きつつ、顔が真っ青ですよ、と気遣ってくる。「……」心の底に押し込めた恐怖。そのうち薄れていくはずの。だけど、今はまだその恐怖は鮮明で、記憶の表面に張った忘却という日にち薬の薄皮が破れれば、あのときの感情がどろりと溢れ出す。心の防衛反応か、ふだん思い出すのは<記憶>だけだけど、その<記憶>から切り離したはずの<感情>を伴ったとき、背中が寒くなるとか通り越して、頭の中がフリーズする。「……五十川さんもこんな気持ちだったのかなぁ」フリーズしたまま、まだ逃避したくて、そんなことを呟いていた。「俺から、尼入道の話を聞いたとき。子供の頃聞かされて、ものすごく怖かった御伽噺が、実はノンフィクションだったとか知ってしまったら、ショックかも……」遠い昔、とっくに忘れたはずの幼い記憶の向こうから、そのときの<感情>が、今の俺みたいにぶわっと──。そりゃ一気に血圧下がって気を失いそうにもなるかも、と妙に納得してしまう。納得しつつも無意識に顔を擦ると、何だよ、えらく強張ってるじゃないか──。「でも! 五十川さんお年寄りだし。しかも身体が弱ってらっしゃるところだから、ちょっとしたことがこたえるのはしょうがないと思うんですよ。だけど俺みたいに健康な成人男性が、終わったことをいつまでも怖がってるのは馬鹿みたいっていうか、情けないにもほどがあるっていうか、もっとこう、年齢なりの図太さを身につけないといけないかなー、なんてね。あはは」そんな自分が恥ずかしくて、笑ってみせる。強がりみたいなことを言ってしまった自覚はあるけど。「──何でも屋さんは、ちっとも情けなくなんてありませんよ」真久部さんの思わぬ優しい声に、ふと背中の力が抜けた。「……」いつも怪しいはずの店主は、まるで小さい子供をあやすみたいな微笑みを浮かべてて、俺はなんとなくその顔をじっと見つめてしまった。やっぱり、今日はあんまり胡散臭くない──。そんなことを思ってる俺の心を知ってか知らずか、真久部さんは穏やかな顔のままでいる。「普段の生活とは、まったくかけ離れたところでの話だからね、怖くて当たり前なんだよ。ほら、正体のわからないものって不気味じゃないですか? 行動の意味や理由がわからなかったりするのもねぇ。普通の、つまり人の世の常識で計れない存在というのは、恐ろしいものですよ。狂人を相手にするのと似たようなもので、……本当に、何が相手の気に障るかわからない」実際、アレは人ではないものですしね、とさらっと続ける。「世の中のほとんどの人が、そんな存在になど気づかず知らず、一生関わることもなく過ごします。自分に見える世界と背中合わせに重なり合った、鏡の向こうのその向こう……無限に同じ風景を繰り返しているかに見えて、実は少しずつ違う世界──ひとつ遠ざかるごとに、光の色が微妙に違っていくような、そういう世界、そういう存在には」「……」えっと、何ていったっけ、そういうの──。「パラレルワールド並行世界……?」たずねてみると、真久部さんはゆるりと首を傾げる。「さあ、平行パラレルなのか、垂直シリアルなのか、それは僕にもわかりません。僕も、見えるわけではないのでね──。ただ、知っているんだよ、この世とズレた世界があると」「……」こういう話は前にも聞いたことはあるけど、考えれば考えるほど、自分がいまどこに立っているのか曖昧になってきて、不安になる。「でもね、そういうのは僕や、伯父みたいな人間に任せておけばいいんだよ。今回何でも屋さんにかかわらせてしまったのは、僕の落ち度です」「でも……、こう言っては何ですけど、怖い思いをしたのは今回だけじゃないです、よ……?」反省してる人を鞭打つようだけど、本当にそうなんだ。ある意味慣れっこ? ──慣れたくなかったけど、うん。だから今更そんなに悄気しょげられても、なんか困るっていうか、居心地悪いっていうか、だいたいさぁ、慈恩堂の店内はいつも怖いし、コンキンさんも怖かったし……寄せ木細工のオルゴールの、あの逆恨みの血まみれ女も怖かった──。「そう言われると耳が痛いですけどね」真久部さんは苦笑する。「でもね、そんなときでも何でも屋さんは、だいたい何らかの結界の中にいるのでねぇ」つづく……。仕事環境激変にアップアップしているうちに、またもやモニタ三分の一強を覆ってネジリアメ復活!orz一日百文字とか、のろのろしつつも書いてはいるので、生温かく見守ってやってください……。
2019.09.12
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大人が、とても軽い気持ちで子供に与えてしまうトラウマの功罪について考えていると、真久部さんがそっと手作りのお茶請けをすすめてくれた。ん? そうえいばちょうど昼のおやつ時か。俺が黙り込んだのは、小腹が空いたせいだと思われたとか? 違うんだけど、でもこの人の作るものは何でも美味しいから……。お? 割ってみると、ふわっとお茶のいい香り。粒あん入りの抹茶マフィンか! ほころんだ俺の顔を見て、真久部さんは少しだけ表情をゆるめた。「──新作なんですよ。何でも屋さんは緑茶がお好きだから、抹茶味もいいかなって」抹茶味、最高です! 俺はぶんぶんうなずいた。口の中いっぱいに広がる、小麦粉とバターと抹茶の絶妙なハーモニー。卵だってとってもいいのを使ってるって俺知ってる。そこにしっとり上手に炊いた粒あんが加わって、甘さ控えめの生地部分と相性がばっちり! ──今の俺は多分、満面の笑みになっていると思う。真久部さんもちらりと微笑んで、さっきの話の続きを始めた。「幼い頃の五十川さんのトラウマはともかくね、何でも屋さん」言いながら、空になってる湯呑み茶碗に新しいお茶を淹れてくれる。「尼入道の話はしょせん、大人が子供に言うことを聞かせるための方便、ただの御伽噺だと心の中で片をつけて、今回のことがあるまで細かいことはすっかり忘れてしまっていたと、そういうことらしいんです。──あまりに空想的な存在だし、無理もないとは思いますが」「そりゃ、まあ……」同じく空想的な、たとえば河童とか、天狗とか、実際見たことあるなんて人いないもんな。あんなのはみんな、御伽噺の中だけの架空の存在だ。尼入道とかいうのもその手の類だと、普通は思って当然だろう。だというのに、俺。何故かそういうのと遭遇しちゃった、らしい。もう全て気のせいだったということにしておきたいんだけど……。気のせいがダメっていうなら、狐と狸が久々に通りかかった人間に大ハッスル、がっつり手を組んで大いに化かしまくり、怖がるさまをきゃっきゃうふふと楽しんでいたんだよー、とか考えておくほうがメルヘンでいいんじゃないかな──。とかぼーっと思ってたら。「忘れていたせいで、人様を危ない目に遭わせてしまったと、五十川さんはとても後悔してらしてね……」シリアスに目を伏せる真久部さん。うん、そう言う真久部さんも同じくらい落ち込んでるっぽいよね──。「いや、まあ……そりゃ確かに、尼入道避けってことこそ知らされなかったですけど、怪異に遭ったら鳴らすようにと、そこはきっちり大鈴を持たせてくださったわけだし」対策グッズを用意してくれて、使用方法も教えてくれてたんだから、いいと思うんだ! ──落としちゃったのは自分の落ち度だし、と言うと、真久部さんは首を振った。「御札を納めに行くとき、あの大鈴を持っていくようにと指示をしたのは、単純にそうするのが仕来りだったから、というだけのことらしいんだよ。つまり、それが必要な理由は覚えていなかった。それでも、五十川さんはこういったことの仕来りや決まりは守るほうが良い、という考えでいらして」それはとてもいいお心掛けなんですがね……、とまた真久部さんは溜息を吐く。「──鈴のついたキーホルダー、持っててくださって本当に良かったですよ、何でも屋さん。それが無ければ危なかった、いくら護りの強い君でも」「え……」思わず声が漏れる。あんまり考えないようにしてたけど、俺、そんなに危なかったの……? 「五十川さんの忘れていたこと、それは、<もしもクログツナに出会ったら、絶対に見送られてはいけない>というものでした。──話によると、どうやら君は見送られる形になってしまったらしいね」「……クログツナ?」って何。わかってない顔してる俺に、真久部さんは教えてくれる。「黒い朽ち縄。クチナワから転じてクツナ。──クチナワとは、蛇のことです」黒い蛇を見たんでしょう? そう言われ、俺は思い出した。氏神様の神社に通じる細道の入り口で、俺を驚かせてくれた小さなカラスヘビ。赤い舌をチロチロ出し入れしながら、まるで俺を見張るようにしていた……。「俺、そいつにびっくりしてスッ転んだんです! 大鈴は、そのときに落として。拾ったつもりが似たような大きさの小石を──」ポケットに入れていて、肝心のときに鈴が無かったんだ。そう言うと、真久部さんは難しい顔をした。「もう、そこから魅入られていたのかもしれないね……。もしもクログツナのことをあらかじめ聞いていたら、蛇を見たところでそんなに驚かなかったと思うよ」「……」確かに、心構えがあればあそこまで驚かなかったかもしれない。小さいやつだったし。「見送らせないためには、近くに石でも投げて追い払えばいいということです。追い払うだけで、決して殺してはいけないそうですがね──」何でも屋さんは言わなくてもそんなことはしないだろうけど、と呟く。「クログツナは、尼入道の眷属とも、あるいは、尼入道自身が姿を変えたものとも言われているそうです。その小さな眼で対象を見つめ、遠ざかる背中を見送ることにより、尼入道の視線を繋ぐのだとか。氏神様を恐れているので、御札を持っているあいだは襲ってきませんが、御札を納めて神域から出てくると姿を現し、じわりじわりと対象を睨み殺すそうです」「睨み、殺す……?」あの、醜く膨らんだ白目。ぎろりぎろりと蠢きながら俺の動きを追っていた、あの小さな黒目──。「……!」丈高い草の中、不気味な尼にどこまでも追いかけられた。真横から顔を覗き込まれ、どんどん恐怖を煽られて。粘つくような敵意と害意、悍ましい呪言。怪異に遭ったら鳴らせと渡されたその鈴が、小石に変わっていたときのあの絶望感。ののかのくれたキーホルダー、そこについてた小さな鈴の音だけが俺の支えだった──。つづく……。昨日は帰り、道が川になっていました。靴がびしょ濡れ……。
2019.08.20
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「そんなわけで昨日、面会時間早々にお邪魔したんですが、挨拶するなり泣かれてしまって……」あれには焦った。四人部屋の同じ病室の他の患者さんたち、全員リハビリとかで不在でよかったよ。でなきゃ、骨折で弱ってる老婦人を泣かせるなんて、コイツどんな悪いヤツなんだろう、とかヒソヒソされてしまう羽目になったかも……初対面なのに。事情を説明──はややこしくなるからしなくていいけど、知ってて周囲に取りなしてくれそうな真久部さんの知り合いの人は、数日前に退院したっていうしさぁ。「まあ、お孫さんの八歳の誕生日までに御札を納めることができるかどうか、ずっと張りつめてらしたようなので……あんなに喜んでもらえたら、俺も何でも屋冥利に尽きるというか」なだめるの大変だったけど。けどまあ、伝言だけじゃやっぱり不安だったみたいだから、時間をやりくりして最速で報告に行ったのは正解だったと思う。「こういうの・・・・・は、何でも屋さんに任せておけば大丈夫──、なんて。五十川さんにはわからないことでしょうからね」はぁ、と真久部さんは悩まし気に溜息を吐く。「いやあ、はは……」こういうのって、どういうの? 怖いからたずねるわけにもいかず、愛想笑いでごまかすも、しょげてる様子の真久部さんはいつものようにつついてくるでもなく、両手に包み込んだ湯呑み茶碗の中身をじっと見つめ、意味もなく揺らしながらぼそぼそと話す。「御札のことに関しては、僕はちっとも心配してなかったんだよ。だけど、まさか尼入道が出るなんて──」思ってもいませんでしたと呟きながら、結局飲まなかったお茶を茶托の上に戻して項垂れる。「いつもの備えで充分だと、安易にも考えてしまっていたんです──」「せ、線香と煙草と酒に塩、ですね?」俺が相槌を打つと、真久部さんは無言でうなずく。「ま、まあ、それでだいたいはいけるんですよね!」何が、とは言いたくない。それを聞いた真久部さんはまた溜息を吐く。「小物はね。──一番大切なのは決まりごとを守ることだけど、それに関しては君はほぼ完璧ですし」「……」仕事をするにあたって指示された手順や決まりは、守るのが当然だと思うんだけどな。たとえそれが素人目・・・には無意味に感じられたとしても……。まあ、真久部さんが俺を買ってくれている一番の理由はそれみたいだから、ここは素直に喜んでおこう。うん。「僕はね、何でも屋さん。今回の大鈴は、既に形骸化した慣習に過ぎないと考えていたんだよ。五十川さんだって、御札を納めるときに鈴を持つのは昔の縁起担ぎみたいなものか、単なる熊除けだろうとおっしゃっていたし……あの辺りに熊は出ないそうですがね──」だから、大鈴が壊れた経緯を聞いて、五十川さんもだいぶん慌ててらっしゃいました、と続ける。──いつもは読めない怪しい笑みを浮かべている真久部さん、その黒褐色と榛色の、色違いの瞳がわかりやすく愁いを帯びているので、俺は何だかへどもどしてしまった。「いやー、はは……く、熊は怖いですよねぇ。あはは。あー、とにかく。俺は今回粗忽にも、お預かりしたものを壊してしまったわけで。弁償しないといけないと思って、落としたときの状況とかをお話したんですけど、五十川さん、聞き上手で──」つい、軽い気持ちでしゃべっちゃったんだよな、気味の悪いモノに追いかけられたけど、どうやら狐か狸に化かされたみたいです、って。笑い話のつもりだったのに、五十川さん、みるみる青くなって──。骨折以外にも持病があると聞いてたし、慌ててナースコールを押したさ。すぐに来てくれた看護師さんが慌ただしく脈を取ったりし始めて、お邪魔な俺はそっと病室を出たんだ。次の仕事まで、もうそんなに時間もなかったし。今日、また様子を見に行くつもりだったけど、昨夜、そろそろ寝ようかという頃に真久部さんから「五十川さんの依頼の件で話があるので、お時間のあるときに|店《慈恩堂》に来てください」と暗い声で電話があったから──。「その、尼入道ですか? 怖かったけど、怖いだけのやつだと思ってたんですよ……」怖かったよ。あの時は本当に怖かった。今でもあの膨らんだ白目とぎろぎろ動く小さな黒目を思い出すと、ぞぞっ! と全身に鳥肌が立つくらいだし、笑い話にでもしないとやってられない……。だけどさ、それ以外の害はなかったんだ。──真久部さんが普段、この手の依頼・・・・・・をするにあたり危険視しているらしい、夢見や体調の悪化に繋がるようなことは。尼入道はねぇ、と真久部さんは語る。「最後の目撃例は、江戸時代の終わりか、明治の初め頃……百数十年ほど昔のことらしい。五十川さんが子供の頃、昔話として御祖母様から聞いたことがあるというくらいでねぇ。今の人はほとんど知らないんじゃないかとおっしゃってました」悪い子のところには尼入道が来るよ、白目で睨まれるよ、とおどろおどろしい声で言われて、子供心にトラウマになるほど怖かったそうです、とつけ加える。「……」娘のののかがもっと幼かったとき、あんまり食べ物の好き嫌いをするから、「もったいないオバケが出るぞ~」と脅したら、その夜、もう収まりかけてたオネショが再発したことを思い出した。反省……。ののか、今でももったいないオバケを怖がるからな──。つづく……。毎日暑いですね。こんな時間なのに27℃。熱中症には気をつけたいものです。もきっと気をつけているはず……。
2019.08.08
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「そんなわけで昨日、面会時間早々にお邪魔したんですが、挨拶するなり泣かれてしまって……」あれには焦った。四人部屋の同じ病室の他の患者さんたち、全員リハビリとかで不在でよかったよ。でなきゃ、骨折で弱ってる老婦人を泣かせるなんて、コイツどんな悪いヤツなんだろう、とかヒソヒソされてしまう羽目になったかも……初対面なのに。事情を説明──はややこしくなるからしなくていいけど、知ってて周囲に取りなしてくれそうな真久部さんの知り合いの人は、数日前に退院したっていうしさぁ。「まあ、お孫さんの八歳の誕生日までに御札を納めることができるかどうか、ずっと張りつめてらしたようなので……あんなに喜んでもらえたら、俺も何でも屋冥利に尽きるというか」なだめるの大変だったけど。けどまあ、伝言だけじゃやっぱり不安だったみたいだから、時間をやりくりして最速で報告に行ったのは正解だったと思う。「こ・う・い・う・の・は、何でも屋さんに任せておけば大丈夫──、なんて。五十川さんにはわからないことでしょうからね」はぁ、と真久部さんは悩まし気に溜息を吐く。「いやあ、はは……」こういうのって、どういうの? 怖いからたずねるわけにもいかず、愛想笑いでごまかすも、しょげてる様子の真久部さんはいつものようにつついてくるでもなく、両手に包み込んだ湯呑み茶碗の中身をじっと見つめ、意味もなく揺らしながらぼそぼそと話す。「御札のことに関しては、僕はちっとも心配してなかったんだよ。だけど、まさか尼入道が出るなんて──」思ってもいませんでしたと呟きながら、結局飲まなかったお茶を茶托の上に戻して項垂れる。「いつもの備えで充分だと、安易にも考えてしまっていたんです──」「せ、線香と煙草と酒に塩、ですね?」俺が相槌を打つと、真久部さんは無言でうなずく。「ま、まあ、それでだいたいはいけるんですよね!」何が、とは言いたくない。それを聞いた真久部さんはまた溜息を吐く。「小物はね。──一番大切なのは決まりごとを守ることだけど、それに関しては君はほぼ完璧ですし」「……」仕事をするにあたって指示された手順や決まりは、守るのが当然だと思うんだけどな。たとえそれが素・人・目・には無意味に感じられたとしても……。まあ、真久部さんが俺を買ってくれている一番の理由はそれみたいだから、ここは素直に喜んでおこう。うん。「僕はね、何でも屋さん。今回の大鈴は、既に形骸化した慣習に過ぎないと考えていたんだよ。五十川さんだって、御札を納めるときに鈴を持つのは昔の縁起担ぎみたいなものか、単なる熊除けだろうとおっしゃっていたし……あの辺りに熊は出ないそうですがね──」だから、大鈴が壊れた経緯を聞いて、五十川さんもだいぶん慌ててらっしゃいました、と続ける。──いつもは読めない怪しい笑みを浮かべている真久部さん、その黒褐色と榛色の、色違いの瞳がわかりやすく愁いを帯びているので、俺は何だかへどもどしてしまった。「いやー、はは……く、熊は怖いですよねぇ。あはは。あー、とにかく。俺は今回粗忽にも、お預かりしたものを壊してしまったわけで。弁償しないといけないと思って、落としたときの状況とかをお話したんですけど、五十川さん、聞き上手で──」つい、軽い気持ちでしゃべっちゃったんだよな、気味の悪いモノに追いかけられたけど、どうやら狐か狸に化かされたみたいです、って。笑い話のつもりだったのに、五十川さん、みるみる青くなって──。骨折以外にも持病があると聞いてたし、慌ててナースコールを押したさ。すぐに来てくれた看護師さんが慌ただしく脈を取ったりし始めて、お邪魔な俺はそっと病室を出たんだ。次の仕事まで、もうそんなに時間もなかったし。今日、また様子を見に行くつもりだったけど、昨夜、そろそろ寝ようかという頃に真久部さんから「五十川さんの依頼の件で話があるので、お時間のあるときに|店《慈恩堂》に来てください」と暗い声で電話があったから──。「その、尼入道ですか? 怖かったけど、怖いだけのやつだと思ってたんですよ……」怖かったよ。あの時は本当に怖かった。今でもあの膨らんだ白目とぎろぎろ動く小さな黒目を思い出すと、ぞぞっ! と全身に鳥肌が立つくらいだし、笑い話にでもしないとやってられない……。だけどさ、それ以外の害はなかったんだ。──真久部さんが普段、こ・の・手・の・依・頼・をするにあたり危険視しているらしい、夢見や体調の悪化に繋がるようなことは。尼入道はねぇ、と真久部さんは語る。「最後の目撃例は、江戸時代の終わりか、明治の初め頃……百数十年ほど昔のことらしい。五十川さんが子供の頃、昔話として御祖母様から聞いたことがあるというくらいでねぇ。今の人はほとんど知らないんじゃないかとおっしゃってました」悪い子のところには尼入道が来るよ、白目で睨まれるよ、とおどろおどろしい声で言われて、子供心にトラウマになるほど怖かったそうです、とつけ加える。「……」娘のののかがもっと幼かったとき、あんまり食べ物の好き嫌いをするから、「もったいないオバケが出るぞ~」と脅したら、その夜、もう収まりかけてたオネショが再発したことを思い出した。反省……。ののか、今でももったいないオバケを怖がるからな──。つづく……。梅雨明けから、しみじみ暑いですね。
2019.08.06
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気力と体力を、保っているのが難しい。惰性で足を前に出し続ける。敷石に躓かないでいるのが奇跡だと、頭の隅でぼんやり思う。逃げ場なく、道を行くしかない俺を、じわじわと嬲るように尼はついてくる。追ってくる、御経擬きの呪言を詠誦えいしょうしながら。手に持った小さな鈴の音だけが、今の俺にとっての光だ。思うようにならない指先を懸命に動かし、あえかな音がちりん、と鳴るときだけ、ふわっと意識がしっかりして周囲が見える。両側に続いていた丈高い草が、来るときに通ってきた樹高の低い木々に変わった。鉈ででも払わなければとうてい歩けないほど枝が密集しているのに、この世のものではない尼には関係ないんだろう、ただじっとりと俺を睨みながらついてくる。ちり、また鈴を鳴らすことができた。忌々しそうな尼だが、俺がもう限界に近いのがわかっているんだろう、牙剥き出しに吠え猛る犬さながらの醜い表情をさらに歪め、厭らしい嗤いの形にしようとしている。人を追い詰め、いたぶり、絶望させるのが何よりの愉しみだとでもいうように。 ちゃりん しり……ん「……ぁ」力の入らない指先から、鈴のついたキーホルダーが鍵ごと落ちた。土から浮き出した敷石の縁に当たって、最後の音を響かせる。ニヤァ、と尼が分厚い唇を歪めた。勝利を確信したような笑み。異様に膨らむ白目と、きょろりきょろり、小狡そうに動く小さな黒目──。空がさぁっと翳って、太陽が隠れる。さっきまでの輝きが嘘のように、視界のすべてが一瞬で色褪せる。「……──」動く黒目がきろきろと、舐めまわすように見つめてくる。白目が睨みつけてくる、真正面からいつの間に。恐怖に硬直してしまった俺を嘲笑い、面白がるように、きろりと黒目が動く。ぬろりと白目が|睨《ね》めつける。「……っ」鈍色にびいろの雲のあいだから、細い雨が降ってきた。山で、無防備に雨に濡れる。それは死に直結しかねないことだ。頬に、うなじに雨粒が当たる。そのたびに、竦んだままの身体が冷えていく。視界いっぱいに広がる、醜怪な尼の白目と小さな黒目。俺もこれでお終いなのか、そう思ったとき。 しゃらーん しゃらーん しりりりーん鈴の音。 しりりーん しゃららーん しゃらららーん幾千幾万もの小さな鈴が、いっせいに鳴りだしたかのように。 しゃららーん しりりーん しりりりーん りーん雨が、幾重にも重なり合う緑の葉を叩く。銀色の細い糸が天と地とを繋ぎ、低く連なる森の枝葉を揺らしていく。耳に沁みいるような、その音。聞くともなしにただ感じていると、尼の悔しそうな白目が視界のどこかで一瞬だけひらめいて、そのまま消え失せた。 しりーん しゃらーん りーん しりーん しりぃーんなんてきれいな音だろう。 りーん しゃらーん りぃぃーん しゃーん しゃらーん しゃん しゃらん……気づけば、雨は止んでいた。雲は遠くに引いてゆき、腰高くらいの不思議な森は、眩い陽の光に満たされている。名残のしずくに飾られた蜘蛛の巣たちが、きらきらと輝きながら深い緑の木々を彩っている。放心し、ふとかえり見すれば、鮮やかな五色の虹が遠くの山と山を繋いでいるのが見えた。──尼入道。それは嫌われ者の比丘尼の成れの果てだと、真久部さんは言った。いつもの慈恩堂、古時計たちが好き勝手に時を刻む店内で。 ……タ……タ……タ…… タット……タット……タット…… チ……ッ……チ……ッ…………今日のあいつらは、なんだか大人しい。いつもはもっと自己主張が激しいのに。「成れの果てというか、妖怪ですね。この世への執着が過ぎて、地獄へも極楽へも行けずにさ迷っているというか──」店主である真久部さんも大人しい。というか、元気がない。珍しく落ち込んでいるようだ。「僕の見識の浅さで、何でも屋さんを危険な目に遭わせてしまって……申しわけありません」「いや、あの……」ええと。何て言ったらいいのかな。今回、めちゃめちゃ怖い思いはしたけど、そんなんこの人のせいじゃないしさぁ。「昨日、五十川さんから電話で話を聞いたとき、思わず受話器を取り落としそうになりましたよ──。大鈴が、壊れてしまったんだって?」「えっと……」俺は、|帳場《レジ》にある古めかしい黒電話に眼をやった。ここではいまだ現役の、あの重たい受話器をうっかり落としたら、机の天板がへっこんでしまうんじゃないだろうか──そんなことを思いつつ、なんとか言葉を探す。「いや、それは俺のミスというか……」常日ごろ、怖い話を小出しにし、びびる俺の反応を愉しむようなところのあるこの人が、こんなふうに萎れていると、何故だか罪悪感に似た後ろめたさがこみあげてくる。「氏神神社への細道の入り口で、落としてしまって、ですね──」そんで、拾ったつもりで、何でか似たような大きさの石をポケットに入れてたんだよな。「行って、とにかく戻ってきたら、そこに転がってたんです。落っことしただけで、わざと石に叩きつけたりしたわけでもないのに、どうしてかひしゃげてたのが五十川さんに申しわけなくて……預かりものだったのに」あれってさ、ちょっと重いなーと思ってたら、実は銀製だったらしいよ。「本当は一昨日帰ってすぐ、五十川さんに報告と謝罪をしたかったんですが、時間的に無理で。ただ、御札のことだけは──無事納めましたと、病院の時間外受付の人に伝言をお願いしましたけど」無事納められたかどうか、気が気でなかっただろうからなぁ……。つづく……。
2019.07.30
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発見した大きな矛盾とは、家系が男系か女系かの部分でした。そんなわけで、「五十川さん」は男性ではなく女性、五十川家は女系、と思って続きを読んでいただければ。1から最新まで細々と推敲したので、そこの部分も読んでやるか、という方は、五月の雨と竜の鈴をどうぞ。では、以下から「五月の雨と竜の鈴 6」です。足元だけを意識して、ただ歩く。ひたすら歩く。見なければいい、見なければ……。俺は歩いているのに、視界の隅の尼さんの位置は変わらない。まるで互いに静止しているかのような錯覚に陥って、一瞬足がふらつきかける。同じ速度で並走する列車の片方に乗っているように、自分が動くのではなく、周りの景色が後ろに流れていくようだ。汗が、眼に入る。拭うために上げた腕を、尼さんに掴まれてしまいそうで恐ろしい。瞬きをする。尼さんがこちらの様子をじっと覗っているのがわかる。周囲の草がなびく。俺のシャツがはためく。尼さんの衣は動かない。睨む白目だけが鈍く光を弾く。何者に対してかもわからない、憎悪に濁った小さな瞳。質の悪い3D映像だ、きっとそうなんだ。実体なんてない、ただの映像。怖い以外に害なんてない──。そう思ったときだった。「……っ!」尼さんが、首だけをにゅっとこちらに突き出してきた。突き出して、じっとりと俺の顔を覗き込む。もう眼の端だけではなく、片目の三分の一ほどの視界を奪われてしまった。──見ない、見えない、聞こえない。すべては気のせい、気の迷い。心の中で、怪しい古道具屋・慈恩堂で店番をするときの心得を繰り返す。童子人形があくびをしたように見えても、招き猫がやたらに小判を光らせてくるような気がしても、大きな金具のついた船箪笥の中から波の音が聞こえるように思えても、それはみんな気のせいだし、気の迷いだった。──そうすることができた。今、それがとても難しい。慈恩堂の古道具たちには感じない、粘りつくような敵意を感じるからだろうか。──見ない、見えない、聞こえない。すべては気のせい、気の迷い。気づいているくせに、と尼さんの唇が動いたような気がする。乾いて、ささくれた分厚い唇。──見ない、見えない 見えてるくせに──……聞こえない。すべては気のせい 気のせいやったら──気の迷い 気の迷いやったら、なんでそんなに先急ぐん──見ない 見えてるから──見えない 見えへんと思いたいんやろ──聞こえない 聞こえてるんやろ?──見ない、見えない、聞こえない 見えてるし 聞こえてるはず 見ぃや 聞きや 吾ん姿 吾ん恨み耳元で聞こえるそれを、幻聴と思うのは難しかった。尼の唇が動いて、御経のようなものを誦じゅする。早回しに高くなり、遅く伸びて低くなる。甲高い子供の声にも獣の唸りにも聞こえるそれは、御経ではなく、不吉な呪言のようにも聞こえた。 なぁ~まぁ~んだ~ダダダダダダ…… ょよ~ぜ~ガモンガモンガモン いっさいショショぎょう~ねぇんぎょ~違う、違う、聞こえない。そんなもの聞こえてなんかいない。そうだ、鈴、鈴を振って音を──ポケットの中の鈴は、落としたときに石とすり替わってしまった。 ょ~だいピクピクピクシュシュシュシュ し~ょーゆーさんま~くドドドドう~う~ さい~ぞ~ううう~さいぞう~ウウウウぅゥ~鈴は、今が必要なときだったんだ。ようやくそれがわかった。だけど、鈴、鈴は……ああ、ののか、パパ、もしかしたらもうお前に会えなくなってしまうのかも……ののか、俺の可愛い娘……。「!……」ののか、鈴。ののかのくれたキーホルダー。家の鍵をつけてウエストポーチに入れ──てない。鍵を掛けてポーチの中に仕舞おうとしたとき、近くでいきなりパトカーのサイレンが鳴ったから、びっくりしてズボンのポケットに──。震えそうになる手で、尻ポケットを探った。尼のいるほうと逆で良かった、そう思いながら、小さな鈴のついた鍵を取り出す。狭いポケットから外に出されたことで、鳴ることを思い出した鈴が、可愛らしい音を立てる。 ちりん ちり ちりそのとたん、俺の頬につくくらいに突き出されていた尼の顔が少しだけ遠のいた。 ちりちり ちりん澄んだきれいな音。呪言を唱えていた唇が、悔しそうに歪むのがわかった。 ちり ちり ちり顔は引いたが、尼はまだついて来る。ついて来て、しつこく呪言を唱え続ける。 ウぅウウぅゥ~さ~い~ぞ~ううう~さいぞう~ し~ょーゆーさんま~くドドドドう~う~ ピクピクぴくしゅ~尼の白目がさっきよりも膨らんだ気がした。嫌悪と恐怖で息が苦しい。ハッハッハ、自分の呼吸音が耳障りだ。どうやって息をすればいい? ちりちり ちりちり鈴を振れ、娘のくれた鈴を。あの子が俺を思う気持ちが、俺を護ってくれる。 ちりちり ちりん「……」五十川さんから預かった鈴があんなに大きかったのは、このためか。小さい鈴では、尼を撃退するまでには至らないのかもしれない。 ぞ~あ~くくクククくさぁぁ~いぞぉぉ~ アァ~くふげんふへんんん~ンン~ へぇんへぇん~んん~しょ~きキキィキィィ~悍ましい響きの呪言が、伸びたり縮んだりしながら虫のように耳の奥を這い回り、じわじわと精神を侵そうとする。──息ができない。目の前が、昏くなる。ああ、空はあんなに眩しくて、爽やかな風が吹き、ウグイスは長閑な鳴き声を響かせていた。そんな明るい五月の山の片隅で、俺はこの尼に殺されてしまうのか──。つづく……。尻と尼って、似てるよね。
2019.07.28
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六月二十六日に『五月の雨と竜の鈴 5』を投稿して以来、音沙汰の無かった管理人ですが、実はPCモニタがこんなことに……。最初は背景の壁紙が受信状況の悪いテレビ画面みたいになっていたのですが、最終的にコレに落ち着いて、けっこう長かったです。たまにチカチカチラチラするし、やたらに眩しいしで、思わずこの捩じらないネジリアメみたいな部分に布を掛けてしのいでいました。ブラウザの窓の大きさを調節すればネットをできなくもなく、左側に椅子を寄せる日々……。ただ、気が散るのでとても小説とか書く気になれませんでした。もう買い替えるしかないのかな、困ったな、と思いつつ、これ以上ネジリアメ部分が広がらないのであれば……とそのまま耐えていたら、掛け布の向こうでいつの間にか直っていました。謎です。気が散っているあいだ、既に書いた部分に大きな矛盾を発見。悩みつつもなんとか訂正。思いつきで設定を変えるものじゃないですね。5まで投稿したけれど、もう一度投稿し直さないといけないかなぁ、と悩む……。それくらい大きな矛盾なのです。読めば、誰でもすぐに気づくほどの。描いているときに気づかなかった管理人は、脳がとろけていたのかもしれません orz。なろうのほうは同じ場所に上書きで訂正できますが、ブログ形式だとなんだかやりにくい……。どうしようかと思いつつ、もう少ししたら出掛けなければならないので、保留にさせてください。管理人PrisonerNo.6 拝
2019.07.27
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そんなところでどうしたんだろう? その人は、鳥居から少し離れた叢くさむらの中に突っ立っているようだ。「……」うっかり道を外れたハイカーか麓の村の人が来たところで、俺が神社に礼をしているあいだ、話しかけるのを待ってくれているのかな? そんなふうに思って顔を上げ、挨拶しようと思ったけれど──、動けない。金縛りじゃない。そうじゃないんだ。ただ、下手に動けない、動いてはいけない。声も出しちゃいけない。そんな気がして身動きできない。その人も動かない。頭を下げたまま、眼だけで俺はそっちを見てみた。氏神様の森の道は、途中の樹高の低い木々の続くあたりまでは、左右から丈高い草に覆われている。だから、普通は道から外れないだろうし、もしわざわざ叢の中に入ったというのなら、草が踏まれて道がつくはず。なのに、そういう痕跡が見当たらない──。するり、風が抜けていく。木々や草がざわざわと揺れる。俺の着ている長袖シャツの袖や、腰に縛っているパーカーがはためく。なのに、その人の着ているものは微動だにしない──あれ? 服だと思ったけど、違う。黒い、着物……? どうして今まで気づかなかったんだろう、粗末な布地が破れてほつれて、まるで萎びた海松みるが垂れ下がっているみたいだ。それなのに、風などまったく知らぬげに、襤褸切れの端がそよぎさえしない。それに気づいたとたん、恐怖が押し寄せてきた。何故かはっきりと、煙草も線香も頼りにならないと思った。背中が重苦しいほど冷たく、寒くなった。脂汗がにじむ──。その人は動かない。怖い。怖い、怖い怖い! 走って逃げたい! そんな衝動に駆られたけれど、鳥居の向こうに頭を下げたま姿勢のまま、俺はなんとか深呼吸をした。息が極端に浅くなっていたことに気づく。落ち着かなきゃ。焦っちゃダメだ。いくら昼間で明るく見えても、ここは山の中。異界なのだ。──理解できないことが起こっても、理解しなくていいんです。 ただそのまま立ち去りなさい。真久部さんはそう言っていた。だから、俺は何も考えないようにゆっくりと頭を上げた。動かない人影など気づかぬふりで眼もくれず、くるりと向き直って鳥居を背にし、前だけを見る。帰るんだ、人のいる世界に。──勢いをつけるために、もう一度深呼吸をする。その人は動かない。……ただじっとそこにいるだけ。だから、大丈夫。リュックを揺すり上げ、俺は歩き出した。晴れた空、輝く新緑。明るい世界だけを見て、二重写しのその向こう、異なる世界など見えない、知らないふりをする。一度通った道だから、二度目は歩きやすくなっている。不規則不揃いな敷石には慣れたし、左右から覆いかぶさる草も、歩いたぶんだけ折れている。登山仕様の靴がしっかりと足元を掴んでくれて、踏み出す足が頼もしい。 ホーケキョ ケキョ ホーウグイスの声。無意識に強張っていた顔が、のどかな鳴き声に緩んだのがわかる。帰りはゆっくり、ハイキング気分で心楽しく──。そう思ったときだった。視界の隅に、またあの人影が見えた。草の海を、音も立てずに移動してくる。俺の後をついてくる。黒い、着物……ああ、あれは坊さんの墨染めの衣だ。見てもいないのに、見える。剃髪したでこぼこの頭、ささくれた衣。下に着ている小袖の襟元は、元は白かっただろうに、煮しめたように汚れている。風が吹く。草はそよぐ。なのに、衣を揺らすこともなく、滑るように坊さんがついてくる。俺のすぐ横に。「……!」ドッと汗が出た。前を見ているのに、坊さんが真横から睨んでくるのが目の端に見える。三白眼というのでもないだろうに、その憎悪の表情は何故か白目が目立つ──。何かに似ている、と気を紛らわすために考えながら足を動かす。そうだ、樋口さんちのチョコちゃん。あの子に似てるんだ。誰にでも乱暴に吠え掛かり、飼い主の樋口さんさえ何度も噛まれているという、しつけのなってない豆芝の──。毎日朝夕散歩に連れて行ってもらい、餌も水もたっぷりもらっているのに、どうしてか人間すべてを憎んでいるかのようなチョコちゃんの、高く低く唸りながら今にも襲い掛からんと吠え猛るあの顔。散歩を頼まれたけど、俺が唯一お断りした犬。絵に描いたような、まさに猛犬。ああいう表情を人間がすると、こんなにも醜くなるのかと俺は内心で驚嘆した。ギロギロと、ぬめるような白目の光。賢くなさそうな瞳が、憎悪に凝り固まって縮んでいるかのようだ。小さい子がふくれたときにするように、顎を傾けて突き出すように引き結んだ唇はいかにも愚鈍そうで、その下の喉は……喉仏がない? ってことは、尼さんなのか……?「……」どうでもいい。尼さんだろうが、坊さんだろうが。もういい加減ついて来るのはよせ。何で俺を追いかけるんだ、俺はお前になんか気づいてない。気づいてないんだ!「ぁ……」そうだ、鈴! 怪異に遭ったら鈴を鳴らせと渡された、でっかい鈴。この道に入るところで一度落としたけど、しっかり拾ってポケットに入れた。震えそうになる指先で、ポケットのボタンを外す。中の鈴を取り出そうとして、違和感を覚えた。違う! これは鈴じゃない、似たような大きさの、ただの石だ!真横の尼さんが、俺の焦りを嘲笑うように厭らしく唇を歪めるのがわかった。つづく……。
2019.06.26
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頭に浮かんだ猫の笑みを、頭を振って振り払う。同時に風が吹き抜けて、明るい緑の天蓋がしなやかに揺れ、風の形を遠くまで伝えていく。五月の山は、本当に気持ちがいい。時折思い出したように鳴くウグイスの声も耳に楽しい。真久部さんのいぢ・わるなんかどうでもよくなって、俺はうーんと身体を伸ばした。さて。そろそろ帰ろうか。「えーっと、御札は納めたからこれで良くて……でも風で飛びそうなんだけど、いいのかな? 五十川さんはいいって言ってたけど──」水泳のゴールタッチじゃないけど、とにかくお社の前に置けばそれで納めたことになるんだそうだ。過去、置いたとたんに御札が風に飛ばされて、必死に追いかけたけれど見失い、泣きながら帰った親もいたそうだけど、子には何も悪いことは起こらず、その後も無事に成人したんだとか。神様は見てる、ってやつかな。でも俺は小心者なので、ヒダル神対策(その正体は、山で特に気をつけるべき低血糖。いわゆるハンガーノックってやつね)で余計に持ってるおにぎりから米粒をちょいと取って御札の裏にくっつけ、供物台に貼り付けさせてもらった。これで俺が安心。ワンカップ酒を重しにすることも考えたけど……御札に何かものを乗せるのは失礼な気がしたんだ。なんとなくもう一回手を合わせて、「五十川さんのお孫さんのしゅんすけ君のこと、できればこれからもよろしくお願いします」とお願いしておいた。だってさ。しゅんすけ君は今、ご両親と一緒に海外にいるっていうから。三つから四つになろうという頃にお父さんの海外転勤が決まって、家族でそこの国に行くことになったんだって。やっと授かった子供だし、義理の父の五十川さんから送られてきた子護りの御札をお母さんもとても大切にしてて、しゅんすけ君の手荷物として忘れずにその国に持って行ったらしいんだ。しゅんすけ君、産まれてすぐはNICU(新生児集中治療室)に入らないといけないくらい身体の弱い子だったそうなんだけど、お医者さんの許可をもらって御札を枕元に置いたら、そのお医者さんも看護師さんも、みんな驚くくらいの勢いで良くなって、ほどなく退院できるようになったっていうから、そりゃ大切にもすると思う。そう、たとえそれが鰯の頭であったとしてもさ。有り難く思う気持ちわかるよ、俺だって一児の子持ちだもん。健やかに育ってほしいという気持ちは、痛いほど。いま息子さん一家のいる国は、ちょっと治安に心配のある国だけど、しゅんすけ君は病気も怪我もすることなく、無事に生まれて七つめの年を迎えたという。本当はその少し前、小学校入学に合わせて帰国する予定だったらしいんだけど、お父さんの仕事上の何かがあって帰れなかったらしい。日本で満七歳、日付の一日違うその国でも同じく七歳になったとき、義父に言われているとおり、御札を納めるためにお母さんのほうだけ数日帰国しようとしてたらしいんだけど、お母さん、急に体調を崩してしまい、とても飛行機に乗れるような状態じゃなくなってしまったらしい。妻の看病と息子の世話、仕事で、お父さんもとても動けない。八歳までの猶予があるとはいえ、そうなると不安だ。国内ならそこまで焦らなかったんだろうけど、なにせ飛行機で日付変更線をまたいでしまう距離だ。だから仕方なしに航空便で祖父である五十川さんに送ったんだって。なのに、それがいつまで経っても届かない──。必死になって行方を探し、何故か郵便局で宛先不明になっていたのをようやく発見。しゅんすけ君の八歳の誕生日を一週間後に控えて、五十川さんも息子さんご夫妻もようやく眠れない日々を脱することができたと思いきや、今度は五十川さんが足を骨折……。なんかね、五十川さんの家系では、ここ数代男の子が生まれて来なかったらしいんだ。五十川さんもそのお父さんも傍系からの養子らしい。お兄さんたちの子供も女の子ばかりで、しゅんすけ君が何代ぶりかの男の子なんだって。だから、何かの力があの子の命を取ろうとしている、と五十川さんは思ったらしい。何かって、人の力の及ばない、何か。こうなると、御札を作ってくれた親戚の小父さんに郵送か宅急便かで送って納めるのをお願いする、というのも怖くなる。手元から離したら、また御札が行方不明になりそうで。もう、松葉杖をついてでも、這ってでも行くしか──。そう思い詰めていたとき、たまたま五十川さんと同じ病室にいた知り合いの御見舞いに来ていた真久部さんが話を聞き、「そういうことなら、御札を納めるの最適な人がいますよ」と俺を推薦したんだそうだ。困ってる人のお役に立てるのはうれしいけど、遠方出張になるから、そんなこといきなり言われて俺も困ったんだけど──なんでか、先に入っていた依頼がキャンセルになったり延期になったりして、ぽかっとまる一日空く日が出来たんだよ。それが今日、しゅんすけ君の満八歳の誕生日ちょうど三日前。晴れで良かった、けれど。もしかして真久部さんも、真久部の伯父さんと同じ力持ってる──? スタイリッシュ仙人みたいな真久部の伯父さん、俺に自分の望む仕事をさせるために、元から入ってる依頼を、その依頼主にとって良いことを起こし、必要なくてしまうという妙な力を……。「いやいやいや」俺はもう一回頭を振って、そんな疑念を振り払った。いいトシして悪戯小僧な真久部の伯父さんはともかく、真久部さんはそんなことしないって、俺、信じてるよ! ──よっぽどの理由がなければ、たぶんね。真久部さんは、俺に不思議な仕事をやらせはするけど、俺の心身に後々悪影響の出るようなことはやらせない。そこは信用してるんだ。笑顔の怪しい人だけど、悪い人ではないからさ。今回も、注意事項は五十川さんから細々と聞いてきてくれてるし。さらにうっかり・・・・道に迷ったとき用に、煙草だの線香、塩だのも持たせてくれている。ワンカップでない日本酒もな。御札は、病院脱走までも視野に入れていた五十川さんが、それ持って入院してたしね。あと、鈴も。こんな明るい五月の真っ昼間、鈴が必要なことにはならなさそうだ。そんなことを思いながら、俺は供物台に供えたアンパンだけ、「お下がり頂いて帰ります」と断ってリュックの中に入れた。年に一度の祭祀のときには草刈りと大掃除がされるということだけど、アンパンは置いておくとなぁ。腐っちゃって、見苦しくなってしまうはずだから。さてさてと、また参道にあたるルートの草を軽く引きつつ鳥居まで戻り、一歩踏み出し外に出て、内側に向かって軽く会釈をしたとき。──あれ? こんなところに人がいたっけ?下を向いた眼の隅に、黒い服の端が見えた。
2019.06.24
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何故なら、最強なのは七年間だけで、八年目になると最凶・・になるんだってさ。──なんか怖いけど、そういう決まりらしい。この神社の神様との、それが約束なんだって。昔から「七つまでは神の内」っていうけど、そんな言葉ができたのは、乳幼児の死亡率が今よりもずっと高かったからだ。だけど、そんな時代でも、ここの御札にはすごいご利益があったんだって。御札を頂いた子は、必ず生き延びて元気にその年を迎えたっていうんだから。ただ、御札を粗末に扱ったり、八つになるまでにここの神様に返さなかったりした場合は、それまでその子がどんなに元気でいても、ころりと死んでしまったそうだ。それはたまたま偶然のことだったのかもしれないけれど、子供を死なせてしまった親たちの中には、「あれは子取りの神様だ」なんていう人もあったという。七つまでは養うけれど、七つ過ぎれば人になる。だからそれを待って喰ってしまうのだとか、何とか。御札はその目印で、粗末に扱ったりしたらそれはそれでその子は氏神様の「神の内」でなくなるから、それで喰われてしまうのだとか。だけど、決まり通りにした親の子供はやっぱり元気に育つから、誰もそんな訴えを取り合わなかったらしい。この神社の神様は優しいけど、約束を守らない者には厳しい。それだけの話だと。厳しいのはともかく、今と昔では数えたり数えなかったりで年齢の概念が違うから、そこのところはどうなってるんだろう、とふと疑問に思ったので五十川さんに聞いてみると、そこは時代に連れて変わっているのだという。社会的にこの子は七つと認められる年齢が、その子の七つでいいんだって。昔は生まれていきなり一歳、次の正月が来たら二歳とするならわしだったから、極端な場合は年末大晦日に生まれても、翌日元日にはもう二歳だったりしたけど、今は満年齢が採用されていて、生まれて七年めの誕生日がその子の七歳になるから、それでいいということなんだ。どうして「それでいい」とわかったのかというと、その頃になると、子供の親が我が子の数え年七つで御札を納めても、満年齢七つ、数え年九つで御札を納めても、何も悪いことが起こらなくなったから。その頃というのは、国が満年齢の概念を取り入れ、それに倣うよう国民にも知らしめ、推奨し、さらには義務付け、国民全体に数え年よりも満年齢のほうが浸透してきた頃。だから、満年齢で我が子の年を数えていた親は、親族などに指摘されて真っ青になって御札を返しに行ったけれど、そのあいだも子供は変わらず元気に育っていたんだって。だから今では、数え年過ぎても大丈夫になったということなんだ。それでも、満年齢の七つを過ぎて満八歳になるまでに御札を納めて返さないと、やっぱり悪いことが起こるらしい。数え年七歳で御札を納めても、それはそれで氏神様は良しとしてくれている、ということで、何だかわけがわからなくなってきたから、思わず今回の仕事を仲介してくれた古美術雑貨取扱店慈恩堂の店主、真久部さんにたずねてみると。「神様だって、時代にフレキシブルに対応してくれているんでしょうね」いつもの読めない笑みで、そう答えてくれた。「もちろん、人の都合に合わせるばかりではありません。あくまで決まりごとの枠は崩さずに。この場合の枠は、御札を頂いた子供の年。七歳になったなら、それが数え年でも満年齢でもいい。数え年七歳で御札を納めても納めなくても、それは決まりごとの範囲。ただし、最長である満年齢の七歳、それを越えて八歳になるまで放置してはいけない、その前に必ず納めて返しなさいと、そういうことなんでしょう」そう言って、神様との約束はきちんと守らないとね、と柔らかい声で、歌うように。「御札ごとき、と舐めてかかるとしっぺ返しに遭うこともある、ということです。そこらへん、鷹揚な神様も多いけれど、五十川さんの故郷の氏神様の子護りの御札は、御加護の力が強いぶんけじめが必要で、氏神様も甘い顔はできないし、人の側もそれを守らないと悪い返しが来るんでしょう」御加護の力かぁ。御札を頂いて、ちゃんとお祀りして、子が七歳になったらきちんと御札を納めた親の子供は、それからも恙なく成長することのほうが多かったから、噂を聞いた近隣の村からも、御札をもらいに来る人がそれなりにいたって話を、五十川さんからも聞いてた。だから、あそこの氏神様の子守りの御札は、よほど強い力を持っているんでしょうね、とうなずいた俺に真久部さんたら。「ええ。よく効く薬みたいですよね。でも、薬と同じように、ときには劇薬になるんですよ。扱いを間違うと、命を落とすというところもほら、おんなじ」てなこと言って、びびらせにかかってくれた。「ほら、狭心症の薬のニトログリセリンなんて爆薬ですし、猛毒植物のジギタリスだって昔は心臓の薬として使われてましたし。片や爆発物、片や毒薬。それをいいものにするのも、悪いものにするのも人間次第ということで。何でも屋さんならそんなこと、言わなくてもわかると思いますけど」にーっこり。信用していますよと、いつものあの、古い猫みたいな怪しい笑みで。「……」思い出すと、何だか背中が寒い。まあ、もう御札も納めたし、あの人もからかってるだけだし。もう忘れとこ。つづく……。
2019.06.21
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不規則に敷かれた石にうっかり足を取られそうになりながら、しばらく歩く。と、周囲の視界が少しだけ開けた。相変わらずの森ではあるんだけど、何故かそのあたりだけ樹高が低く、せいぜい俺の腰くらいの高さ。厚めの葉っぱが濃いめの緑を連ねていて、ちょっと不思議な光景。何でここだけ他と木の高さが違うんだろう、とは思うも、道が隠れてないならいいや、とそっちに意識を向け、小枝を踏み、枯葉を踏み、しるべの石を辿る。陽射しが眩しい。緑の葉のてっぺんを吹き渡る風が少しだけ強く、うなじに当たる直射日光の熱さを和らげてくれる。波のようにざわめく低い樹木たち、葉擦れの音。視界に入った小さな影に、ちらりと眼だけ上げてみると、何かの鳥が、気流を上手く使ってあまり羽ばたくことなく滑空しているところだった。気持ちよさそうだなぁ……。「『飛び立ちかねつ鳥にしあらねば』、なーんて」そこしか覚えていない何かの和歌の一節を呟いて、俺は地道に細道を行く。──鳥だってそんなに自由でもない、空には風の道がある……これは誰の言葉だったっけ? ああ……あの授業の時の古文の先生だ。当時はふーん、って聞いてただけだけど、オッサンになった今はわかるよ、人も鳥も柵しがらみだらけだ。柵。理ことわり。何かの決まり。時により、所により、様々に。窮屈だけど、面倒だけど、それがなければ物事は成り立たないし、人は暮らしていけないのだと、先生は言っていた。「決まりなんてなくたって、生きていくことはできるじゃん」なんて、ちょっと生意気な同級生が口答えしてたけど、「もし、この世に物理の法則がなければ、どうなるね?」逆にそうたずねられて、後に理系の大学に進んだそいつは黙ってしまったんだった。 ホーホケキョ ケキョ ホーケキョはっ! いかんいかん、歩くのが単純作業になっていた。それでもいいけど、ぼーっとしてるのはダメだ。山は異界なんだから(某古道具屋主人・談)、もっと周囲に気をつけないと。さっきも転んだしさぁ、足元からマムシが出たりなんかするかもしれないし。あと、蜂とか、虻とか、ダニとかヒルとか──。対策はしてるけど、今だってうっかり蜘蛛の巣にはかかってしまった。そう、現実とはこんなもの。やっぱり多少は緊張してないとな。細いのにやたら存在感のある糸を払うと、迷惑そうに親玉が逃げていく。ごめんよ、蜘蛛。帰りも通るから、同じところに巣をかけるのは明日にしてもらえるとうれしいな。「ふぅ……」この道に入ってから、かれこれもう三十分にはなると思うけど──、と足元から前方に視線を向けると、樹高が通常の木々と同じに戻った、さらにその向こうに道は続いているようだ。神社はたぶんあの森の中なんだろう、鳥居らしきものがちらりと枝のあいだから見えた。「よし!」足元見つつ、周囲に注意を怠りなく。獣道よりはずっとマシな、でもごつごつ歩きにくい道もそうやって歩いていれば、やれやれ、ようやく目的地に到着だ。鳥居は小さなもので、赤い丹の色がだいぶん剥げている。その奥に、鳥居のわりに大きいお社。まあ、こんな山の、無人の神社なんで、境内だって周りとおんなじ草ぼうぼうだ。草引きは頼まれてないけど、参道にあたる真ん中あたりだけ、申しわけ程度に引いておいた。お社の正面を塞ぐように生えてるのは、もう少しだけ丁寧に引いて、毟って。社の前にある、石の供物台、っていうのかな? それを持ってきたタオルで拭いて払ってきれいにして、ようやくここに来た目的を果たす。自主的に持ってきたワンカップ酒とアンパンを供えてから、リュックの中で折れないように、大事に預かってきた古い御札を真ん中に置いた。 代参ですみませんが、御札を納めに参りました。 どうぞよろしくお願いします。心の中でそう呟いて、二礼二拍手一拝。これで依頼完了。木々のあいだを縫ってさらりと吹き過ぎる風が、汗ばんだ肌に気持ちいい。溜息とともに眼を開けて、新緑と木漏れ日の織り成す明るい森の景色をしばし眺める。本日の仕事は、五十川いそかわさんのお孫さん、しゅんすけ君の七つのお祝いに、元々の氏神らしいこの神社まで御札を返しに来ることだった。五十川さんは元々この麓の農家の出だったんだって。三男だった五十川さん、結婚をきっかけに街に出て行ったけど、たまに帰ってきてお兄さんの田圃や畑を手伝ってたらしい。だから縁が切れていたわけじゃなく、この氏神様にだってたまに参っていたらしい。で、七年前のこと。なかなか子供ができなかった末の息子さん夫婦に男の子ができて、それはそれは喜んだらしい。んでもって、さっそくこの氏神様の御札を作ってもらい、お祝いと一緒に息子さん夫婦に送ったんだってさ。なんか、身体の弱い子も強い子も、病気や怪我で命を失ったりしない、最強の御札らしいよ。御札を作ったのは、この村にいる親戚の小父さんらしいけどね。古い田舎によくある兼業神主ってやつ。普段はごく普通の農家のお爺さんなんだけど、小父さんは年に一度の祭祀を司ってるから、御札としての効力はちゃんとあるんだって。それはともかく、御札を返すなら、なにもわざわざ俺みたいな何でも屋を雇って、こんな山奥まで御札を返しに来させなくても、普通にどこかの神社に返せばいいと思うんだけど、どうやらそういうわけにはいかないらしい。この御札の効力は、七年。七年過ぎたら、その子が八つになる前に、必ずこの氏神様に御札を返しに来なくてはならない、らしい。つづく……。
2019.06.18
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通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ ちょーっと通してくだしゃんせ 御用の無い者通しゃせぬ この子の七つのお祝いに 御札を納めにまいります 行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも── 五月の空はぴっかぴか。風爽やかに、緑が眩しい。木漏れ日に眼をすがめながら、俺は背中のリュックを軽く揺すり上げる。頬をくすぐる風が気持ちよくて、何だか鼻歌でも歌いたい気分だ。ここは国定公園に近い里山。ハイキングには最適の、歩きやすい道が通っている。実際、国定公園のハイキングコースに繋がってるらしい。麓までの民家は別にして、ここまでのあいだ誰にも行きあたらないからちょっと不安になってきたけど、平成から令和にかけて最長十日の黄金週間も過ぎ、そろそろ浮かれた気分も落ち着く頃合い。こんな週日ど真ん中に、山歩きするような人間は──いるかもしれないが、そういう人はもっとメジャーなとこへ行くだろうな。あ、ウグイスの声。 ホーケキョ ケキョケキョ笛の音みたい。とてものどかだ。「……」立ち止まって伸びをする。木の匂い、草の匂い、土の匂い。全てが絶妙に入り混じって、これぞ森林浴って感じ。バス停からけっこう歩いてるのに、ちょっと汗ばむくらいで暑くも寒くもなく、とても空気が美味い。見上げたイロハモミジの薄緑が、お日さまに透けて光にさざめく。それはまさに絵にも描けない美しさで、独り占めするのがもったいない気持ちになってしまう。あー、娘のののかを連れてきてやりたいなぁ、なんて思いつつ、再び歩き出す。蝶がひらひら、蜻蛉もつーいつい。木の緑に混じって雑多な下草が生えており、白っぽい花があちこちで咲いてる。たまにピンクの、黄色っぽいの。赤いヤマツツジの花だけはわかるかな。えーっと、目的地まであとどれくらいだろう。んー、このまま道なりに歩いて、右側に現れる細道を曲がる、か。大きな石が目印で──。「あれか……」俺は手の中の地図と、実際の場所を見比べた。手書きの地図には、「麓から四十分くらい歩くと、右手に大きな石が見えてくる(そのまま道を突っ切ると、別の山に入ってしまうため、行き過ぎ注意)。そこに細い道があるので曲がる。目的の神社までだいたい三十分」とある。「石は草に埋もれてるかもしれないが、この時期ならその上に根を生やしたヤマツツジの花が咲いているだろうから、それも目印になる」──道の端だから元気に草が生い繁っていて、確かに石が隠れる勢い。それに、灰色の表面に走るひび割れに根を張ったたくましいヤマツツジの花が、スポットライトのように木漏れ日を浴びちゃって、そっちのほうが目が行ってしまう。こりゃ、下手すると見逃してしまうかも。んー、だけど、そこだけ周囲から浮き上がって、なんだか花帽子みたいにも見えるから、やっぱりいい目印なのかもな。石のところまで来ると、地図のとおり細い道が口を開けていた。今まで歩いてきた道と違い、枯葉や小枝がちょっとした絨毯みたいになっている。そんなふうに聞いていたから、足元はきっちり登山仕様。この程度で滑って転んだりなんかしないさ!──なんて、思ったのがフラグだったのかもしれない。「わっ!」足元、走り抜けていったの、リス? ヤマネ? 何だろう、イタチ? とにかく驚いた俺、思いっきり尻餅をついてしまった。それだけだから怪我とかしたわけじゃないけど、転んだ足のほうが傾斜が上。この状態から立ち上がるには、リュックが重い──。一旦背中から降ろして、ようやっと立ち上がる。と。 りりーんおっと。預かったでっかい鈴、落としてしまった。ボタン付きポケットにきっちり仕舞っておいたんだけどなぁ。ツツジ石(勝手に命名)の反対側、そっちにもあった小さめの石の前まで転がってた。尻を払いながら、拾おうと身をかがめて──。「ひへっ!」石に絡みつくように、小さな蛇。ちろちろとこれ見よがしに真っ赤な舌を出し入れしてるけど、怖くなんかないんだからね! 何故ならお前はカラスヘビ(たぶん)。こういうのはシマヘビの黒化したやつらしいから、毒蛇じゃない、はず。 草刈り仕事とかしてると蛇を見ることもあるから、まったく馴染みがないわけじゃないけど、手を伸ばしたその先で鎌首をもたげられたりしたら、そりゃ驚くって。って、俺は誰に言い訳をしてるんだ。変な悲鳴、上げちゃったなぁ、と苦笑いしつつ、蛇を刺激しないようにそおっと手に持った小枝を伸ばし──鈴をこっちに転がして、すぐに拾ってポケットに納めた。きっちりとボタンを閉めて、と。「じゃあな、黒いの!」リュックを背負い直して石を見ると、黒い蛇はまだこっちを見ながら舌をチロチロさせている。なんか、見張ってるみたい──。そんなわけないない。山で弱気になるのは禁物だ。道に迷ったわけでなし、心を強く持って、さあ、目的地の神社へ。枯葉とかに覆われてるけど、昔のなんちゃって石畳が見え隠れしてるから、それに気をつけてさえいれば道を踏み外す心配はない、って地図にもメモ書きしてある。一本道らしいしんだけど。つづく……。もう六月も半ばになってしまいましたが。今度は短く終わりたい……。
2019.06.16
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猫が、竜を目指す? いきなり斜め上なことを聞かされて、思わずぽかんと口を開けてしまった俺の顔を眺めながら、真久部さんは満足そうに眼を細めている。「だって、ある意味アレは、水無瀬家の家神様の眷属になったようなものだからね」俺を驚かせてご満悦の様子だけど、そんなん、誰だって驚くと思うんだ。だいたい猫と竜なんて、まるっきりジャンルが違うじゃないか。「……眷属って、何でですか? いくら温和しくなったとはいえ、元は敵だったのに──」「言ったでしょう? アレは家神様のことを兄貴と慕っているって」「ええ……」ただの喩え話じゃなかったの?「それに、呪物としてではあったけれど、アレだって一応水無瀬家の“魚もの”です。魚持ってるでしょ?」「……」水無瀬家の魚もの。衝立にも、襖にも。畳の縁や硝子戸の隅、お盆に湯呑み茶碗、ふと眼を上げたら欄間にも。眼につくところ、思いがけないところにも、さりげなくあしらわれている魚の意匠たち。「水無瀬家の魚ものは、全てが家神様の影響を受けるんだよ。たとえ御本体が力を失って動けなくなっているときであっても、場というのか──あそこの敷地に入った魚の形をしたものは、なんとなく微妙に、その意に添うようになるんです」まあ、ふわっとした傾向程度のものですけど、と真久部さんはつけ加える。「そんなわけで、元々眷属の素地があったところに、長いあいだ家神様のお力に浸っていたので──最初は魚を獲る猫だったはずが、今は持っていた魚と一体になったというか、魚風味の猫になったというか」「魚風味の、猫……?」俺の頭の中を、上半身が猫で下半身が魚な半魚猫? が猫掻きで過って行った。わけがわからなかった。まだ、化け猫とか猫又のほうがマシというか、わかりやすい、ような──? などとぼーっとする俺をよそに、「話していて、自分でもだんだんどちらがどちらなのか、わからなくなってきましたけど」なんて勝手なことを言い、楽しげに笑う。「アレ自身の意識も、きっとそんな感じなんでしょう。自分が猫なのか魚なのか曖昧になって……今は、元々の招き猫の性質として、千客万来ならぬ千魚・万来と、水の無い瀬船で魚を招きながら、自分を見つけて大事にしてくれる人とその周りを護りつつ、竜の眷属である水無瀬家の家神様がそうなろうとしているように、自分もいつかは竜になろうと──」「だから、なんでそうなるんですか!」あまりに意味がわからなすぎて、つい大きな声が出てしまう。なのにまったく動じず、黒褐色と榛色の瞳をしらじらしく瞬かせて。「そう簡単に成れるわけじゃないですよ? もちろん。でも、憧れの兄貴みたいになりたいものじゃないですか? チンピラって」わざとらしく唇の端を上げてみせる真久部さん。「そうじゃなくて。何でそう、なんでもかんでもあいつら古道具たちは、竜になろうとするんですか……!?」いつかの自在置物の鯉も、真久部の伯父さんの飼ってるループタイの鯉も。店の隅に並べてある江戸時代の一刀彫の兎や、なんかよくわからない禿山を描いただけの掛け軸、水仙を模った矢立だって。あいつら、みんなうとうとと微睡みながら、子供が「うるとらまんになりたい」って言うのと同じように、「竜になりたい……」って夢見てるってこの人から聞いてる。──ひとつだけ、本当に竜に成ったヤツがいるけどさ。「だって、日本は竜の国ですから」「へ?」俺の間抜けな声を、真久部さんは軽くいなして続ける。「ほら、地図を思い出してください。ああ、テレビの天気予報のやつでいいですよ。竜の形をしているでしょう、日本列島は」にーっこり。「……」確かに、日本の国の形は竜に似てる──。そう思ってしまった俺は、お茶のおかわりを淹れましょうか、そうそう、デザートに水菓子でも、と機嫌よく立ち上がり、台所への戸口に消えていく着物の背中を見送るしかなかった。「……水無瀬家の敷地が家神様の“場”だっていうなら、日本列島は竜の“場”ってことになるのかな」ぽつり呟く俺の言葉を聞いていたのは、店の道具たちだけ。 チッタチッタチッタ…… ……チ……チ……チ…… チツツチツツチツツ…… チツ……チツ……チツ……勝手気ままに時を刻む古時計たちの、自己主張の激しい秒針の音。その隙間を埋めるように、気配のない気配、影のない影が陽炎の濃淡のように揺れる──ように感じられるのは、俺の気のせいに決まってる。そんな、いつもの慈恩堂の午後。あとからわかったことだけど、元水無瀬家の呪いの招き猫、いま俺心で命名<魚招き猫>を買っていったのは、純喫茶・野梅系ヤバイケイマスターの、年の離れた従弟さんだったみたい。常連の桜庭さんから聞いた。なんか、脱サラして奥さんの実家の稼業を継いだけど、上手くいかなくて、大昔に同じく脱サラして喫茶店を始め、そこそこ成功してるマスター従兄に、愚痴を聞いてもらいにいこうとしてたらしいよ。お店慈恩堂に迷い込んだってことは、あの招き猫と縁があったんですねぇ、と真久部さんにそのことを話してみたら。「道具は結局、使われようだし、育てられようです。だから出会いと、相性がとても大切なんだよ」なんてことを言う。「ああ、でも人も同じで、ある程度の年になったら、自分で自分を良いように使いつつ、育てないといけないんだよねぇ……」誰にとってもなかなか難しいことだねぇ、と苦笑した顔は地味に男前で、いつものように胡散臭かったけど──そのとおりだなぁ、と素直に思った俺だった。そんなことのあった、さらに数ヶ月後のこと。水無瀬家の蔵整理に出かけたら、庭に大きな猫がいた。水無瀬さんが言うには、どこかからふらっとやってきた元野良猫らしい。池の金魚を狙ったりしないんですか? と聞いてみたら、逆にカラスとか、他の野良猫が来たら追い払ってくれるんだって。やたらに温和しい猫で、水無瀬さんや家政婦さんにもよく懐くので、飼うことにしたらしい。「儂は猫は苦手だったんだがなぁ……」と、自分で自分が不思議そうな水無瀬さんだったけど。「金魚を護る猫ならば、うちの家神様もお気に召すかもしれんしな!」そんなこと言いながら、足元すりすりする猫を抱っこ。手慣れた様子で耳をカリカリ掻いてやっている。どうやら溺愛されているらしい猫は、安らいだ顔をしている。ああ、ここでもお互いにいい関係だ──。なんだか幸せな気持ちになりつつ、きらきら光る水面に惹かれてふと池の中をのぞくと、元気に泳ぐ金魚たち、と、あれ? 底のほうに、なんか丸くて平べったいものが……?「ああ、あれか」猫を抱っこしたまま、水無瀬さんが教えてくれる。「あれは皿じゃ、家宝のな。金魚・・が戻ってきた・・・・・・・ので驚いて……慈恩堂さんに相談してみたら、池の底に沈めておいてはどうですか、と。──儂もそれが良いような気がしたから、そうしてみた」家神様の祠のそばだし、水の中だし、あれでなかなか居心地良いのかもしれんな、と笑う水無瀬さんと腕の中の猫のそばで、赤い金魚が楽し気に宙返りしているさまを幻視した……ような気がした。うん。そんな気がしただけさ!ようやく、おわり。おつき合い、ありがとうございました。ナガカッタヨ……
2019.06.09
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「そう、ですか……」良かったなぁ、水無瀬家の招き猫──。いや、今はもう水無瀬家のじゃないし、魚持ってるヤツだったから、アイツのことは心の中で“魚招き猫”って呼んでおくか。「こびりついた汚れが、ゆるゆると川の流れに洗い流されていったみたいな感じなのかなぁ……。だったら、元々の|性《しょう》、でしたっけ。それもきっと無くなってしまったんでしょうね。それこそ、成仏するみたいに」水無瀬さんのお蔭で、さ。性しょうというのは、古い道具に育つ<何か>らしい。性質というか、性格というか、それがあると魅力的に見えるもの・・。作られた時から既にあるものも稀にはあるらしいし、魚招き猫はそれなんだろうけど──人が好きという性質を捻じ曲げられ、好きなものを害する呪物としてあることに傷つき、苦しみ続けるくらいなら、愛され可愛がられた猫として、ゆるゆる消えていくほうが幸せだったかもしれないなぁ、なんて思ってしまった。なのに。「いえいえ、そんなことはありません」怪しい笑みで、どこか楽しげに否定する真久部さん。「……違うんですか?」「ええ。アレから無くなったのは呪いの残滓だけで、性しょうは残っています。──多少、変容はしましたが」「へんよう……変容?」どういうこと? 難しくて意味がわからない。だいたい俺、この店にあるときもあんまり見ないようにしてたし、性しょうがあるとかないとか──。「ほら、あの招き猫は、水無瀬家の家神様と家宝の皿の金魚の力・に、触れたというか、やられちゃったわけじゃないですか」「え、ええ」前に説明された話を思い出しながら、うなずく。確かアイツにとって、家宝の皿の金魚はそれまでアイツが喰らってきた小魚・・たちとは勝手が違い、下手に手を出すこともできず、睨み合うしかなかった相手だし、家神様に至っては、目の前に顕れて早々、易々と抑え込まれて力を奪われ、長いあいだ見張られていて身動きすらできなかったんだよな。「アレの性質は、招き猫だからもちろん猫。猫なんですが──何というか、参ってしまったんだよ、金魚に」「へ?」金魚に参る、猫?「たとえば現実でも、獲ろうとした金魚に思いっきり水跳ねを飛ばされて、びしょ濡れになるなんてことが何度もあれば、猫だって近寄らなくなるでしょう? あるいは、うっかり耳の中に飛び込まれたりとか」「……」耳の中に飛び込みは滅多にないだろうけど、もしそんなことがあったら猫的にトラウマになるかもなぁ。あいつら耳弱いし。「アレも、家神様に見張られているあいだ逃げたくても動けず、そのままずっと力・を感じ続けていたせいか、もう降参という境地に至ったらしくて」「うーん……つまり、絶対に逆らってはいけない相手と認めた、みたいな感じですか?」「そうそう。実はすごく強い一般人にちょっかいかけて、コテンパンにやられて土下座するチンピラみたいなのいるでしょ? そういうのに近いんだと思うんです」「はぁ」招き猫が、チンピラ……? 俺の頭の中で、目つきの悪い猫耳不良少年が青年になったかと思うと、ちゃらくて趣味の悪いアロハを着用してしまった。「そのせいか、アレは水無瀬家の家神様のことを、兄貴と慕うように……」「兄貴?」なんでいきなりそんなことに。「ほら。グレてはいるけど心根は腐っておらず、本当は堅気になりたい、とか思ってるようなの、いるでしょ?」「……」俺はなんとなく、元チンピラ、今はたこ焼き屋のおにーさんをやってるシンジのことを思い出した。あいつはグレるとかじゃなく、単に不器用だったからチンピラなんかやってたんだと思うんだけど……。元気かな、シンジ。昨日も駅前で元気にたこ焼き焼いてるの見たけど。「そういう輩って、自分より絶対的に強い格上の相手に出会うと、何故か懐きたくなるみたいだねぇ。それこそ『兄貴! 一生ついて行きます!』、みたいな」「……」現在ただ今ついて行けてない俺に、単純に<調伏された>っていうのが正しいのかもしれませんけど、と真久部さんは言い直してくれる。「家神様も家宝の金魚も、一番は水無瀬家の人たちだけど、とにかく人を護るという意思が強いでしょう? そこにアレは痺れたり憧れたりしたんじゃないかなぁ、と思うんだよ。漢気というか、なんというか」「おとこ、ぎ……」よくわからないけど、わからないといけないのかなぁ……。そう思う俺は今、遠い目をしているに違いない。「だからね、店に並べたときにはワクワクしているようだったよ。自分も兄貴・・と同じように、自分を選んでくれた人を一所懸命護るんだ! と」ね、とっても“良い子”になったでしょう? と真久部さんは唇の端をきれいに上げてくれる。目元も笑ってる。「呪具にされる前は、普通の温和しいだけの・・・・・・・・・・人間好きだったようですが、今はもっと、アクティブになったみたいですねぇ。──何にせよ、猫好きの猫八の作った招き猫を、不幸のまま終わらせることにならなくて、本当に良かったと思っています」にこにこにっこり。──うん、真久部さんがうれしそうで何よりだ。「じゃあ今頃は、自分を見つけて買ってくれた漁師さんを、頑張って護ってるんですね」「そのようですよ。さっそく、アレに助けられたのかもしれない、というお礼の電話があって」「え!」俺は思わず声を上げてしまった。一体、何があったんだろうと慄きつつ、話を聞く。「お買い上げのときに一応ね、自宅に飾っておくよりも、船に乗せておいたほうがいいと思いますよ、とアドバイスしておいたんですが、それをちゃんと守ってくれていたみたいでねぇ。操舵室の隅に棚を作って、そこに固定していたそうなんですが──」購入以来、漁に出れば毎回予期した以上の水揚げ量で、「こういう縁起物も、馬鹿にしたもんじゃないな」と、ほくほくしながら魚招き猫を毎日磨いてやっていたらしい。「つい先日、ご本人がうっかり船から海に落ちたというんですよ。運の悪いことに僚船もなく、エンジンはかかったまま、船は遠ざかっていく。潮の流れの激しいところで、いくら泳ぎが得意でも海岸まで泳ぎ着けるかどうか──というところで、猫の鳴き声が聞こえたというんだよ」「そ、それで……?」まさか、魚招き猫が泳いで助けに来たとか……いやいや、さすがにそこまでわかりやすく化け物じみてるはずが──。「幻聴か、と思っていたところに、なんと、船が戻ってきたんだとか」ああ。なんだ、そういうことか。「もう一人漁師さんが乗ってて、その人が落ちたことに気づいて慌てて助けに来てくれたんですね!」それならわかる、と思ったのに。「いえ。漁にはいつも一人だそうですよ」俺の考えはあっさり否定されてしまった。「……じゃあ、何で戻ってきたんでしょう?」「何ででしょうね? 僕にもわかりません」怪しい笑みを浮かべたまま、真久部さん。「ただ、あれはどう考えても潮の流れに逆らっていたと、その漁師さんはおっしゃってました」「はあ」「それだけだと船に上がるのに苦労するものだけど、不思議なことに船首のほうから網が、海面までのぶんだけ垂れていたんだそうです。落ちたときは、たしかにきっちり畳んだままの状態だったそうですが」「……」航行中の船から下手に網だの綱だの垂らしてたら、プロペラに巻き込んでしまうよなぁ。「お蔭で九死に一生を得たと、大変お歓びで」「そりゃあ……。でも、助かって良かったですね」俺、カナヅチじゃないけど、海のど真ん中から生還できるほど泳げない。状況を想像してみたら怖かった。「招き猫のお蔭だと、そう何度もお礼を言ってくださるので、これからも大切にしてやってくださいと、改めてお願いしておきました」もちろんです、と請け合ってくださいましたよ、とまたにっこり。えらく胡散臭い笑みだけど、自分の繋いだ古い道具と人との縁が、そんなにいい形になっているのを知ったなら、この人がこんなに機嫌が良いのもうなずける。いろいろあったけど、その漁師さんも真久部さんも、魚招き猫も良かったなぁ、と思って俺もつられて笑ってたら。「あの招き猫も、竜を目指してこれからも頑張ることでしょう」え? なんで?つづく……。次でようやく終わりです。
2019.05.23
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「身勝手な理由で酷い目に遭わされた猫たちも、何とか成仏できたようです」猫たちのためにも、水無瀬家のためにも、とても良いことですと呟くように言う。「そうですか……」恨みも苦しみも洗い流されて、軽くなって、空に上っていったのかな。そうだといいなぁ……。「──招き猫本体のほうは、どうしたと思います?」しんみりしていると、気持ちを切り替えるように次をたずねられ、俺は考えてみる。今回の場合はお焚き上げとかじゃないのはわかるけど、うーん……。「鰹節でも供えてやったとか──?」それくらいしか思い浮かばない。「鰹節。それもいいねぇ」それこそ猫のような笑みで、真久部さんは唇の端を上げてみせるけど。「いいんですか?」肯定されて、俺は驚いてしまった。──そういえば、富貴亭の板長は、毎朝仕込み前に竈猫の入った・・・招き猫に煮干しを上げているって、確かこの人から聞いたことがあったっけ……。「アレ水無瀬家の招き猫はねぇ、飼い主に可愛がられることのなかった猫みたいなものだから。ちゃんと存在を認めているというしるしに、好物を与えてやるのは良い方法です」「そ、そうなんですか」よくわからん。頭の中がこんぐらかりそうになってる俺を知ってか知らずか、読めない笑みのまま、さらに不可解なことを言う。「だからね、水無瀬さんにお願いして、アレを可愛がってもらったんですよ」「可愛がる?」招き猫を、どうやって? 供え物をするのはわからなくもないけど……、そんな思いで顔を上げると、真久部さんが悪戯っぽい目をしてる。「部屋に置いて声を掛けてやったり、撫でてやったり。一緒に日向ぼっこしたり。そんな感じでね」抱っこまではしなくてもいいです、と説明したんですが、膝に乗せてやったりはしてくださったそうですよ、と微笑む。「幼少の水無瀬さんにとっては悪い呪いの招き猫でしたが、今はもう、ね。悪人に利用された不憫な道具を、救ってやっていただけないでしょうかとお願いしてみたら、ちょっと複雑な表情はされましたが、快く」「……」心が広いな、水無瀬さん。でもまあ、今回は真久部さんのお蔭で昔のいろいろなことが判明したんだし──、何より、水無瀬家の家神様の磐座の件は、この人が動いてくれなければどうにもならなかったと俺でも思うから、恩返しのつもりもあったのかもしれない。「それで、“良い子”になったというわけですね?」店に並べられていたんだし。売れていったし。そう言うと、真久部さんはうれしそうにうなずいた。「アレはねぇ。本来は本当に人間のことが大好きな道具だったんです。猫好きな職人が、亡き愛猫を思いながら大事に大切に作ったものですからね。大事にされれば、もっと人間のことが好きになる」もともと猫八の作る招き猫は人懐こくて、ちょっと声を掛けてもらったり、なんとなく頭を撫でてもらったりすると喜んで、せっせと人を招いたといいます、と続ける。「ただ置いてるだけのところはそれなりに。でも、粗末に扱うと──」「そ、粗末に扱うと、ど、どうなるんですか……?」意味ありげな間に、思わずごくりと唾を呑む──。そんな俺の反応に満足したかのように、真久部さんはにっこり笑って言った。「どうもなりません。何もしないだけです。猫八の招き猫は、“悪い子”ではないからね」「もう! 怖い話かと思いましたよ……」意味深な言い方はやめてほしいとプチ抗議すると、怪しい笑みを浮かべたまま、まあまあ、と宥めてくる。「だいたいね。猫好きの人間は、猫を怖い存在だと考えたりしないでしょう?」たとえ暗闇で眼が光ろうと、気配を消して物陰から覗かれようと、雨の日に外にいたのにからだが濡れていなかろうと、とそれだけ聞くとなんだかコワイような例を軽く挙げていく。「だから基本、猫好きの作った猫の形をしたものは、そのようには・・・・・・ならないんです。それに、ほら。猫八の頭のなかにいる猫は、生きていたときからいつもだいたいウメ。かなりぼーっとしていたというウメが、放置されたくらいで人を恨むと思いますか?」「いや……なんとなく、そのままぼーっとして、隅っこで生きていそうな気がします」可愛がられると喜ぶけど、ぞんざいに扱われたとしても何も主張せず、いつの間にかいなくなっているイメージ。「そう。水無瀬家の呪いの媒体に使われた招き猫は、本当はそんな性質だったんですよ」なのに、正反対のことをさせられてね、とほろ苦い笑みを浮かべる。「傷ついていたと思うんです。──ウメも、うっかり猫八を引っ掻いて流血させたことがあって、そのときは長いあいだ床の下から出て来なかったといいます。いくら賢くなくても、自分の大事な飼い主を傷つけたら、自分が悪いんだとわかって落ち込むんだよ」「ああ……」うちの居候猫だって、好き勝手してるようでも、俺に怪我させるようなことないもんな。猫パンチや猫キックかましてきても、どこか軽くて遊んでいるみたいだ。あいつも俺のこと好きなのかな。まあ、嫌だったら居ついたりしないだろうけども。「倉木さんちの猫も、引っ掻いたあとに“ヤバッ!”って顔して、傷跡を舐めてくるって言ってました。それで痛がって泣くふりをしたら、一日元気なかったって」宥めるのが大変だったって言ってたな。真久部さんはうなずく。「人を傷つけるつもりはないのに、そんな自分の性質を捻じ曲げられ、悪い呪いの招き猫にされていたことにアレは傷ついていましたが、それでも残る呪いの残滓は、元はそれを向けられていた人に許され、可愛がられることによって消えると僕は考え──実際、消えたと思います」つづく……。
2019.05.07
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「ふ、ふーん……」水無瀬さんと一緒に長持の中に入ってるアイツを見つけたときも、この店で再会して驚いたときも、俺、そんなものには全然気づかなかった。長持のときは、いわくありげな御札の下から出てきたモノに拍子抜けして、二人で顔を見合わせて笑ったことしか覚えてないし、この店では小判猫ともども、あんまりそっち見ないようにしてたし──。なんて、心の中で言い訳をしていると、僕はねぇ、と両手に持った湯呑みの面を眺めるようにしながら、真久部さんが小さく息を吐く。「猫八に申しわけないと思ってしまったんだよ。水無瀬家の招き猫を見て、当時猫好きで有名だった彼の作だと気づいたとき。自分の作ったものが、まさかあんなふうに呪物に仕立てられるなんて、猫八は思いもしなかっただろうし……さらに調べてみたら、生身の猫まで贄にされていたこともわかったしね──」「……」道具は道具。だけど──と、真久部さんも思ってたんだな。人に愛されるために、人の幸せのために。その形に心をこめて作られたものが、人を呪うための道具に変えられてしまったんだから……考えてみれば、あいつも不憫なやつだよなぁ。ああ、そうか。だから──。「だから、真久部さん、あの招き猫を引き取ったんですね」そう言うと、真久部さんは黙って目を上げ、微笑んでみせる。「この子、本当は悪い子じゃないんです、みたいな?」「──何でも屋さんの表現は、いつも面白いねぇ」楽しそうに、ふふっと笑う。「でもまあ、概ねそんな感じかな? 愛されて作られたものだしね」その方向で喩えるなら、悪い仲間に唆された不良少年を更生させる、みたいなことになるかなぁ、なんて首を傾げている。──俺の頭の中で、猫耳老婆がトンボを切って、目つきの悪い不良少年に変身した。もちろん猫耳は隠れていない。「呪物としての力は家神様に封印され、負わされた役目から結果的に解放されたとはいえ、放置すればまた魚ものを集めて力をつけて、|名前を書かれた人《水無瀬さん》に害をなすからねぇ」「そうですね……」家神様と一緒にあの招き猫の力を削ぎ、それ以上悪さができないように懲らしめた水無瀬さんの叔父さんは、「家宝の皿を使って招き猫を長持に封印するように」とだけ言い残し、出征して行った。お祖父さんは指示を守り、お父さんは蔵ごと全てを嫌悪して、その後は中に入ることすらしなかった。「六十年以上ずっと、皿を通して家神様に見張られていたんです、だいぶん温和しくなったようですよ。ただ、体内に呪いの依り代、つまり<対象者の名前>を残したままではずっと悪い子・・・モードなので、真っ先にそれを取り払ったわけです」「……」アレ招き猫が悪いものだというのはわかっても、どういうふうに悪いのかまでは当時はわからなかったもんな。だから丸ごと封印するのが一番安全だったんだんだろう。真久部さんが調べるまで、呪いの仕組み・・・がどうなってるのかわからなかったわけだから──。「でも、それで一気に良い子になるわけじゃないですよね……?」呪物だったんだし。「まあねぇ」真久部さんは苦笑する。「紙に書かれた水無瀬さんの名前を取り払うことによって、ターゲットのリセットをしたわけですが、それは的を失ったということ。下手をすれば、それは無差別の呪いの元になってしまう可能性もありました」ある意味、呪物としての進化を促す結果になったかも、なんてことを言う。「し、進化……?」猫の進化といえば、やっぱり猫又に化け猫……いやいや、招き猫は本物の猫じゃないし! てなこと考えてる俺の頭の中を見透かすように、「かといって、なにも猫の妖怪になるわけではありませんよ?」と首を傾げてみせるその目は笑ってる。──俺ってそんなにわかりやすいかな……。ちょっとやさぐれた気分でお茶を啜っていると、しれっと真久部さんは続ける。「進化というか、迷走が近いかもしれないね。道に迷った人が街中を走り回って目的地を探すように、失われた目標を探し求めた結果、運悪くぶつかった人を呪いに巻き込む──」「そんな……! 止めることはできないんですか?」「次の名前名前ターゲットを与えればねぇ、迷走は止まりますけど」個人を呪われても困るし、無差別に呪われても困る。いずれにせよ質が悪いですよねぇ──そう言ってにったり唇の両端を吊り上げてみせる、地味だけど、こういうときは派手に怪しい男前。「……」俺は震えあがってしまった。次の名前云々は、この人のいつもの思わせぶりなただのブラックジョークだとわかってるからいい。だけど、無差別の呪いと言われると、つい連想してしまうこのあいだ観たばかりのホラー映画のカヤコ。それは袖すり合うも他生の縁レベルでしかかかわってない人たちを、次々呪い殺す理不尽な怨霊……。まだ「ビデオを見る」というスイッチが必要なサダコのほうがマシに思えるレベル。「そんな顔しなくても、大丈夫ですよ何でも屋さん。アレがため込んで増幅していた悪意のエネルギーは、アレを呪物にした張本人に返されて・・・・しまったし、喰われていた魚たちも家神様に救い出されたのは知ってるでしょ? ただ、呪いのターゲットを失わせただけだと、またいらぬものを集めて力をつけてしまうから、さらなる処置が必要だったというだけのことなんだよ。──もう一度封印するのもかわいそうだし、問題解決にならないし」店慈恩堂に迎え入れるにしても、さすがにあのままではねぇ、と一応困ったようなポーズは装っている。「いやあ、はは……でも、処置っていうと……?」カヤコの説明をする気にならなかったし(口に出して言うのも怖い!)、もう先を聞きたくなかったけど、ここまで聞いたら最後まで聞いておかないと却って不安になってしまう。「あまり詳しくは言えませんけれど、例の木釘と台座だけは念入りに供養してもらいました」そこだけは真面目に、真久部さん。「ああ……」猫の血に浸して作ったという、あの真っ黒な木釘と、それが打ち付けられていたという台座かぁ……。つづく……。次のネタもあるのですけど、なかなか終えられません。もっと早く書けるようになりたいものです。
2019.05.03
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本日祝日。管理人も休み。でも、昨日も一昨日も、明日も明後日も、仕事です。ゴールデンウィークって何? それっておいしいの?令和元年、新しい朝。昨日と今日の何が違うのか、わかりませんが。それでも。『初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す』何だかめでたい。令和が、良い時代でありますように!では。用事があるので出掛けてきます。
2019.05.01
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平成最後の夜なのに、リンスと間違えてシャンプーを使い、また泡だらけになってしまいました。平成最後の夜なのに、上記のショックで短編を書き上げられませんでした。途中まで書いていたのに。遅筆ってつらい。おやすみなさい。ありがとう、平成。さよなら、平成。ごきげんよう……!
2019.04.30
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「え? え? 違うんですか?」俺は焦った。だって、真久部さんの笑みが怪しすぎて……これは機嫌がいいんだと思うんだけども。「実際、廃業しようとはしたらしいんだけどねぇ」「は、はぁ……」楽しそうに語る店主の話に、店内の古道具たちがわくわくと聞き入っている、ような気がする──のはまさに気のせいに違いないな、うん。「もう捨ててしまおうとした材料の粘土に、ウメの足型がついていたというんですよ、いつの間にか」「……それは単純に、以前からついていたのに気づかなかったんじゃ?」考えられる現実的な可能性としてはそうだよな。「どうでしょうねぇ?」真久部さんはにんまりする。「それに気づいて捨てられずにいたら、翌日また足型が増えていたんだそうです。次の日も、また次の日も。それで、猫八は廃業するのを止めたのだといいます」ひとりでに増殖する猫の足型。なんという怪奇現象──……。「猫って、足型つけるの好きですよね! ほら、固まる前のコンクリートに、よく肉球丸出しの|梅鉢マーク《猫の足跡》がついてるじゃないですか」古川さんちの車庫の床、海老沢さんちの玄関先。何故か猫の足型が点々とついているから、見つけたときは笑ってしまった。面白いというか、滑稽味を感じるというか。湯沢さんちの場合、新築の家の塀の、レンガをモルタルで埋めたその目地にピンポイントで足型をつけられたんで、笑うしかなかったって溜息ついてた。「きっと、ウメがいなくなったから、他の猫が入ってきて粘土を踏んでいったんですよ」自分をごまかしながら、うんうんうなずいていたら、「そういう可能性もありますね」と真久部さんも同意してくれる。「でしょう? 困ったもんですよね、猫って」あははー、と笑っていたら。「だけどね、何でも屋さん。ウメの足には特徴があってねぇ。他の猫に比べると、足型がちょっと大きかったんですよ」ヘミングウェイの猫みたいなものですね、と言う。「ヘミングウェイ? 有名な『老人と海』の、あの?」「そう。小説家のね。ヘミングウェイは友人の船長から猫をもらったんだけど、スノーボールと名付けられたその猫は、ちょっと指が多い猫だったんです。猫八のウメも同じで、他の猫より少し足が大きかったんだよ」人間にもあるけれど、猫にも多指症というのがあるんだね、と続ける。「だから、肉球の数もひとつ多いので、すぐにウメの足型だとわかるんです」「へえ……」猫の足なんかそんなしげしげと眺めたことないけど、いろいろ個性があるんだなぁ。「もしかしたら、他にもウメと同じような猫がいて、踏んで遊んでいたのかもしれません。でも、裏側にまでついているのはねぇ……」まさか、猫がわざわざ粘土をひっくり返して足跡をつけて、また戻したなんてこともないでしょうし、と続ける。「え? 裏?」「そう。置いてあった粘土の裏側にも足型がついていたといいますよ」「……」襖を開ける猫はいるけど、閉める猫はいない。もし開けて閉めるまでするのがいたら、それは化け猫だって何かの本で読んだことがある。……足跡をつける猫はいるけど、つけた後、ひっくり返しておくなんてのも、やっぱり化け──。「化け猫とは違うと思うんですよ」俺の心を読んだように、真久部さんは言う。ほっ。「今にそのように伝わってはいるけれど、猫八の気のせいかもしれないし、本当に別の猫が仕事場に侵入して、足型をつけていったのかもしれない。でも、大切なのは、そのおかげで猫八に気力が戻ったということ。その一点に尽きると思うんだよねぇ」「ま、まあそうですよね」元気が出たんなら、きっかけは何でもいい。俺もそう思う。「復帰して後、猫八の作る招き猫は全部が三毛柄になったといいます。ウメが三毛猫だったからでしょう。──そこの小判の猫は、ウメが生きている頃のものだね」「白猫ですもんね……」納得する俺の目の端で、小判がキラッと光る。いや、だから俺、別に招き猫欲しくないし。うちには居候の三毛猫もいるしさ──。「──何でも屋さん?」「え?」呼ばれて、すぐに目を上げると、ふふ、と真久部さんが笑った。「いえ。何でも屋さんはやっぱり大丈夫みたいですね」<何でも金運招き猫>にあんなに誘われているのに、魅入られないとはさすが、なんてわざとらしく呟いているけど、俺は聞こえないふりをする──乗らないの、わかってて言ってるって、俺知ってるんだからね! っとにもう、このヒトは。「えーっと! 水無瀬家を呪っていたというか、この場合は呪わされていたって言ったほうがいいのかもしれないけど、あの招き猫って三毛猫でしたよね。つまり、あれはウメがいなくなった後に作られたものなんでしょうか?」足型なんかついてましたっけ、とたずねると、首輪の下に付いていましたよ、と機嫌よく真久部さんは教えてくれる。「猫八が会心の作には、鈴代わりのようにそこに付いていたというよ。それはウメが特に気に入った印だと、猫八は喜んでいたといいます」つづく……。では、行ってきます。
2019.04.11
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予測変換の中にあった「令和」。『昏きより』で使っていた「陽狩りの玉」なんていうのも、実は予測変換で出て来たのですが、もう出ません。ちょっと不思議。令和になるのはまだ来月。今月は平成最後の月となります。何がどうなってどうなるやら。穏やかなひと月であってほしいです。新元号記念書き込み。おやすみなさい。明日から六連勤。やだなぁ……。
2019.04.01
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なかなか更新できず、すみません。リアルでの話ですが、シフトがある上に精神的にかなりキツい職場で、だいぶん参っています。季節的なことで、来月は五日以上の連続勤務をするよう強いられており、色々考え出すと昨夜はなかなか眠れませんでした。前任者もいびり出されたみたいなものだと、今の部署の先輩的な人からこっそり聞いています。パワハラでブラック。たまったもんじゃないんですが、前任者もだいぶ病んでいたそうなので、管理人の心が軟弱すぎるというわけでもないようです。それでもなんとか少しずつ続きを書いていきたいと思っているので、よろしくお願いします。ファンタジーな「おっさん草~死んでたまるか蔓延ってやる!」と並行して書いているので、どうしても間が空いてしまいますが、見捨てずにいてやってください……。今日も仕事、行ってきますあたまがおもい……
2019.03.31
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「猫の、血を、使ってあったんじゃなかったですか……?」恐ろしいことを口にするのが嫌で、つい声を潜めてしまう。幼い水無瀬さんを呪うため、その名前を書いた|人形《ヒトガタ》を招き猫の台座裏に縫い留めていたのは、猫の血に浸して真っ黒になっていたという木釘ではなかったか。「そんなことする人が……俺、信じられないです」俺の知っている猫好きさんたちの顔が頭に浮かぶ。猫好きがそんなことするわけない──できるわけがない。そんなん認められない。「──僕も同じだよ、何でも屋さん。呪物を作った人間が、猫を好きだったとは思いません。もちろん、他のどんな動物であれ」唇がへの字になってるに違いない俺をなだめるように、真久部さんはしっかりそこのところを肯定してくれる。「己の欲望のため、ただそれだけのために小さな命を犠牲にするような人間に、生き物を慈しむ気持ちはない──。だからね、この招き猫を作成した人と、呪物に変えた人間は別人なんだよ」「そうなんですか……?」つい疑いの眼で見てしまう俺に、困ったようにわずかに首を傾げて微笑む。「ええ。ただの招き猫が後から細工をされ、呪物にされていたというのが本当のところなんです」「……」何てことするんだよ! とは思うものの……道具は道具。所有者がどう使おうと勝手だけど──。「もちろん、作製者はそんな目的で注文されたとは知りませんよ。彼はどうやら色んなタイプの招き猫を作っていたようで、ほら、あの小判を持っているものも同じ作者によるものです」「え?」驚いて、俺は思わずそっちを見てしまった。いつも持ってる小判をきらりと光らせて、見せつけてくるアイツも……? ──自分が話題になったのがわかったのか、黄金の輝きがいつもより眩し……。「あれもね、水無瀬家にあった招き猫と同じく、ごく|普通に《・・・》作られたものだったはずです。──途中の持ち主のせいで、少し|個性的《・・・》になったようだけど」「そ、そうなんですか……」個性的すぎると思うよ、真久部さん。でも、この慈恩堂では普通程度だよなぁ……って。俺、やっぱり毒されてる。いかんいかん。「作った人は猫八といい、当時招き猫上手と言われた職人で、この人の作った招き猫を置いておくと、店が繁盛すると評判になったといいます。猫八は子供のころから猫が大好きで、親方から独り立ちしてすぐの、まだ売れないときから一匹飼っていたとか。その猫に食べさせるため、わずかな収入をやりくりし、当の自分は飢え死にしかけた、なんていうエピソードも伝わっています」「本当の猫好きですね……。でも、そんな時代なら、猫は勝手に鼠とか獲って食べてそうですけど」俺、このあいだ、でっかい鼠をくわえて悠々と歩いている猫を見た……そいつが入って行ったお家から、飼い主らしき女性の、すごい悲鳴が聞こえた──。「ちょっとトロい猫だと、それも難しいようだねぇ」真久部さんは苦笑いする。「ウメという名前をつけて可愛がっていたそうだけど、このウメは小鳥を見てもぼーっとしていて、鼠を見つけても首を傾げるだけだったとか。ほら、たまにいるでしょう、自力だと、絶対獲物を獲れなさそうな猫が」「──いますね」俺も苦笑してしまう。「猫母さんが人間に預けにくるような仔猫って、そういう子が多いみたいです。この子はどんくさくて、とても野良で生きていけないだろうって判断したら、そうすることがあるみたい。澤乃井さんちのドンボくんも、野良母さんが玄関前に連れてきて、置いて行った子だって聞きました」うん、ドンボくん、おっとりしてるっていうか、猫タワーの上の段に登ろうとしたはずが、隣のソファにぼとんと落っこちて、ただきょとん、としてるらしい。何故、そこで頭をぶつけるのか、みたいなところで頭を打ったり、入った隙間から出られなくなって、にゃーにゃー鳴いて澤乃井さんに助けを求めることがあるんだそうだ。「ウメもきっと、そういう猫だったんでしょう。色を付ける前に乾かしている招き猫を、うっかり落として壊したり、足型をつけたりということもあったようです」「あー、商売ものにそれは」材料費とかかかるんだし、台無しになったらたまらないなぁ。「でもね、いつからかウメの足型の付いた招き猫は縁起が良いと言われるようになって。猫八の招き猫が、今でいうブレイクするきっかけなったようです」それで猫八は生活に困らないようになったそうです、と真久部さんは言う。「だからますますウメを可愛がって……人より短い猫の寿命が来たときは、たいそう落ち込んだといいます。招き猫を作ることすら、止めてしまったとか」ペットロス、ってやつかぁ……。飼っていたペットを喪って、悲しすぎて、辛すぎて、鬱になっちゃう人もいるもんな──。「じゃあ、今に残ってる猫八の作品は、ウメのいた頃のものなんですね」「そう、思いますか?」真久部さんが、にいっと唇の端を吊り上げた。つづく……。
2019.03.17
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何となく、最後にひとつ残って寂しげな塩むすびを見ていると、読めない笑みのまま可愛い柄の小皿を取り出してそこに載せ、帳場机の上に置きにいった。ん? 俺の不思議そうな顔に気づいているだろうに、戻ってきた真久部さんは何も言わずにまたにっこりしてみせ、そのままちゃぶ台コタツの上をささっと片づけてしまうと、少しの間店番お願いしますね、と台所へ去って行った。──ご馳走になったんだから、洗い物くらいさせてもらいたかったんだけど、まあ……。 チッ チッ チッ チッ…… ッチッチッチッチ…… チチツツチチツツチッチッチ……古時計たちの秒針の音。一部乱れ打ちのようなのがいるけど、無視。台所とは戸と短い廊下を隔てているので、あっちの物音は聞こえない。時計の音以外、しーんとしてる。足元はコタツで暖かいし、腹はくちくなってほこほこ。そうなるとだんだんと眠く──。 おにぎり おにぎり しろまんま しろまんま おむすび おむすび わーい わーい小さい子供たちのはしゃぐような声が、遠く聞こえる。あれ、ラジオなんかつけてたっけ? ここ、外の音も聞こえにくいし。夢?あ、そうか、夢なんだ。ってことは俺は眠ってるのか……? ダメだ、よそ様で居眠りなんかしちゃ。|ここ《慈恩堂》ではついうっかりうとうとしてしまうことが多いけど、もてなしてくれた主が洗い物してるっていうのに、お客の俺がコタツで寝てるなんて……。 おにぎり うめえ おむすび わーい ほら、持って行っていいから、静かにしなさい「!……」パチッと目を開けた。閉じていたってことは、やっぱり居眠りしてたんだ。いかんいかん。頭を振っていると、目の前にいつの間にか湯気を立てる湯呑み。「どうぞ、食後のお茶です」気づくと、いつの間にか真久部さんもコタツに入っていて、梅の柄の湯呑みを持って指先を温めているようだった。「……誰かと、しゃべってました?」頭がぼーっとしてる。「いいえ……? ああ、きっとお疲れなんですよ、何でも屋さん。朝の早い仕事だものねぇ。──何なら、ここで昼寝していきますか?」そう言って、悪戯っぽく首を傾げてみせる。「いや、あはは。まさか、そんなずうずうしいことは」っていうか、うっかりうとうとするのと、本格的に昼寝するのは違うと思うんだ、よそ様で。それに、慈恩堂で仮眠なんて、意識的にするのは無理。古時計たちの音や何かの軋むかすかな音が気になって、とても眠れないと思う。目蓋の裏の暗闇と、店の隅の暗がりが繋がってしまうような気がして……。「何でも屋さんはそう言うと思いましたよ。──きみが眠ると……たちがきみと遊べるから喜ぶんだけどね」店内のどこか、並べられた品物たちの落とす影の向こうを見ながら、後半、呟きに紛らせて真久部さん。店番のたびについうとうとしてしまう俺は、そんな覚えはないんだけども──。「あ、あの、えっと……そう、水無瀬家の招き猫! 店の中に無いようなんですけど、売れたんですか?」「そうそう、あれねぇ」唇の両端をにったり上げて、地味な男前がうれしそうな顔をする。──怖いこと考えそうになるのを避けようとして、もっと怖いほうに話を振ってしまった。俺の馬鹿!「呪術の痕跡は取り去ったものの、|クセ《・・》があるので大丈夫かと案じていたんだけど、幸い気に入ってくださった方がいて」「そ、そうなんですか」もう、話を聞くしかない。出してもらったお茶をずずっとひと口、俺は無理やり気持ちを落ち着かせた。「先日、ふらっと店に入ってきた人でねぇ」駅裏の喫茶店に用があって来たのに、道に迷って途方に暮れていたんだそうです、と言う。「店名を聞いたらすぐ近くだし、場所の説明をしようとしたところ、あの招き猫に目を留めて」「……」みょーに存在感あったもんな、アレ……。隣の小判持ったヤツもたいがいアレだけど。「その場でお買い上げくださいました。三毛柄が気に入ったということでねぇ。もうひとつふたつ招き猫はあるけれど、そちらは全部白でしょ? 船にはやっぱり三毛猫が良いと喜んでらしてね」その方、実は漁師さんらしいんですよと聞いて、ああ、と俺は納得した。「昔は、船に雄の三毛猫を乗せると縁起がいいって言われてたんですよね」「ええ。しかもあの招き猫はよくある小判ではなくて魚を抱えていたでしょう? だからなおさら縁起がいいと」一目ぼれだったそうですよ、とにっこり。「きっとあの道具とその方は縁があったんでしょう──。それも、とても良い縁だったと思うんだよ」古い道具と人との縁を繋ぐことを仕事にしている真久部さんにとって、とてもうれしいことだったというのはわかるから、俺もうれしくなった。「そうですね。──あれって、元は良くない目的で作られたものだったけど、良いようになるなら、お互いに幸せってことかぁ……」うんうん、とうなずいていると、真久部さんは読めない笑みのまま続けた。「あの招き猫を作成した人は、きっと猫が好きだったと思うんです」え? だって──。つづく……。今、この話と、<俺>とは全く関係のない『おっさん草 ~死んでたまるか、蔓延ってやる!~』という話を交互に書いています。毎朝ちみちみ書いていますが、そのせいで間が空いてしまいます。仕事から帰ってきたらもう、何もする気になれなくてorz出勤前の、正味一時間くらいだと、500文字か、頑張っても700~800文字書けるくらいですね。そして推敲に時間がかかるという……。自分の頭のCPUの遅さをしみじみ感じる管理人PrisonerNo.6 拝
2019.03.05
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「こんにちはー」俺は元気よく挨拶を返す。──昼の光の中のこの人は、整った顔立ちも相俟って爽やかにすら見えてしまう。そういうところが、やっぱ胡散臭いなぁ……。ま、いいけど。だってそれが真久部さんだし。「ちょっと今、ひと仕事終えたところなんです。真久部さんは?」ご近所とはいえ、こんな時間に外を歩いてるなんて珍しい。そう思い、たずねてみると、唇の両端をわざとらしくニッタリと吊り上げてみせる。「何でも屋さんを迎えに来たんだよ」「え?」俺、今日、慈恩堂の店番請けてたっけ──? 昨日お客さんといっしょにカヤコの出るホラーなDVDを観たから、雰囲気のありすぎるあの店で、たった一人で過ごすのはちょっと……最近慣れてきちゃったような気もするけど、でも、二階への階段の暗がりから子供の白い顔が現れたりしそうで、怖……、などと混乱していると、真久部さんがくすっと笑う。「冗談です。ちょっとそこの富貴亭まで、おにぎりを買いにね」いつも出前してくれる若い衆がインフルエンザに罹ったらしくて、今日はいないというから散歩がてら出てきたんです、と言う。「あ、そうか。富貴亭はこの喫茶店のすぐ向こうですもんね」この辺りの地図を頭に浮かべて、納得した。今風高級料亭の富貴亭は、かまどで炊いた美味しいご飯で有名になりつつある。お昼限定でおにぎりも販売するようになり、板長に指導されながらかまど炊飯の修行をしている若い衆も、だいぶん上達しているようだと、ちょっと前にこの人から聞いた。「つい十個も買ってしまって、自分でもどうしてだろうと思ってたんですが……そうか、ここで何でも屋さんに会うことになっていたからなんだねぇ」謎の納得をしながら、真久部さんはひとりうなずいている。「……」俺は何だか危険を感じ、下りていた自転車にまたがり直した。「じゃ、じゃあ、俺はこれで。お仕事のご用命がありましたら、また声をかけてくださいね!」勢いをつけてペダルを踏み出そうとした、その時。「あ痛っ!」足が滑って、ペダルで思いっきり脛を打ってしまった。いだだ……。「まあまあ、そう焦らずに」大丈夫ですか、と言いながら、真久部さんがまた読めない笑みを浮かべている。「この時間だから、これからお昼なんでしょ、何でも屋さん」「え、まあ……」「いま言ったとおり、おにぎりがたくさんあるので、|うち《慈恩堂》に来ませんか? すぐそこですし」富貴亭のかまど炊きご飯は、やっぱり格別ですよ、と寄り道を唆してくる。「いや、その──」「実はね、今日はどうしてか、朝から大量の粕汁を作ってしまって……。いえ、粕汁というより、粕汁風味の豚汁、かなぁ? 豚肉をたっぷり、玉ねぎ、人参、大根、ささがきごぼうを入れて、細かく切ったサツマイモを入れるのがうちの味なんですが、いかがですか?」「う……」今日のような寒い日に、熱々具沢山汁物の誘惑なんて──。 ぐー……。腹が勝手に返事を。やめろ! でも、一度鳴ったら止まらない。くっ! 今日は朝飯のあと、軽食を摂る暇がなかったんだよ。いつも早朝五時頃朝食だから、昼までのあいだに何か食べないと腹が保たない──。「富貴亭のおにぎり、塩むすびも美味しいですけど、海苔もなかなかなんですよ。いい海苔を使っているようですから。中の具はすっきりした梅干しでねぇ」美味しいご飯に、熱い粕汁。「炊き上がりを握ってもらいましたけど、店に着くまでに冷めるから、軽くレンジでチンしてほかほかにすると美味しいですよね。さあさあ、行きましょう」にーっこり。読めない笑みで、怪しく笑う真久部さん。怪しいんだけど、胡散臭いんだけど──。俺は、温かいご飯と熱い粕汁の誘惑に負けた。 ぼーんぼーんぼーん…… チッぼーんチッぼーん…… ぼんぼんぼんチッぼんぼんぼんチッ……今日も慈恩堂の古時計たちは好き勝手に時を刻んでる。入ってすぐの棚にある見慣れた布袋様の腹を横目に、薄い煙を上げているように見える鯉の香炉をスルー。鯉こわい鯉こわい……なんて思ったらダメだ。眼をそらせたら、あっちは怪しい招き猫エリア……ん? 小判を見せつけてくるあいつはいるけど、水無瀬家から引き取ったという、元は呪いの招き猫が、いない……?…………いや、気にしちゃいけない。見ない見えない聞こえない。すべては気のせい気の迷い。うっかりここ慈恩堂に来ちゃったからには、いつもの呪文、いや、心得を──。「どうぞ、上がって待っててください。すぐ運んできますからね」帳場のある畳エリア、その真ん中のちゃぶ台こたつを示すと、真久部さんは土間の方からさっと台所に入って行った。「……」何度も店番を務めて、勝手知ったる慈恩堂。俺は無言で座布団を二つ出してきて、いつも自分と真久部さんが座る場所に置く。こたつのスイッチを入れると、中はすぐに暖かくなる。慣れてしまったこの手順、俺はちょっと真久部さんに転がされすぎじゃないだろうか。うっかりそんな疑問を浮かべてしまったけど、ほどなく畳側の引き戸から入ってきた店主の持つお盆の上に載ってる器から立つ濃い湯気に、どうでもよくなってしまった。「おかわり沢山あるから、遠慮なく言ってください」「ありがとうございます!」だって、真久部さんの作るものって、美味しいんだ。ミネストローネスープとか、マフィンとか、パウンドケーキとか。栗入りのやつは美味かったなぁ──って、それよりも今は、粕汁粕汁。大きめの汁椀に、食欲をそそる味噌と酒粕のかぐわしい香り。ひと口啜ると、濃厚な味わいにもっともっととすきっ腹の胃が騒ぐ。ほどよくとろけた玉ねぎに、千切りにした大根と人参の煮え具合は絶妙、たっぷりの豚肉は脂が多すぎず少なすぎず。ささがきごぼうのクセが具材と酒粕にいい感じに絡んで、細かく切ったサツマイモの甘さがいい舌休めになる。あっというまに一杯食べてしまい、次のターゲットにかかる。かまど炊きご飯の塩むすびの、噛むほどに広がる甘みに感動し、大きな海苔で包まれたおにぎりの、上等な磯の香とすっきりした梅干の酸っぱさのコラボレーションを愉しむ。気づけば、俺はおにぎりを五つ、粕汁を三杯も食べていた。いや、真久部さんがさっとおかわりを入れてくれるから……。「ご、ごちそうさまでした……」俺、ちょっとがっつきすぎだよなぁ。「おそまつさまでした」真久部さんがにっこり笑う。──この人も、いつの間にかおにぎりを四つ食べている。粕汁も俺と同じタイミングでおかわりしてたみたいだし……。つづく……。<俺>はいいなぁ……。管理人は昨日、お昼を食べはぐれましたよ。
2019.02.24
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三月初め、まだ寒い。でも、梅の花はそろそろ満開。近くに寄るといい匂い。東風吹かば匂い起こせよ梅の花……なんて風流ぶって口ずさみつつ、自転車漕げば駅が裏、すすけたビルの一階に、昭和風味の純喫茶。「こんにちは。梅野さんいますか~?」ドアを開けてのぞくと、ああ、探し人はやっぱりここにいた。もう一人のお客さんと、カウンターの中の大将と、同年代のご老人どうし三人で呑気に雑談してる。「あー、ウチのやつ、何でも屋さん呼んじゃったか」俺の顔を見た梅野さんが、久しぶりの外出なのになぁ、と頭を掻いた。「ダメですよ、スマホの電源切っちゃあ。──奥さん、心配してらっしゃいましたよ。退院したてだっていうのに、出歩いちゃダメでしょう」梅野さん愛されてんなぁ、なんて、お客さんと大将に笑われてる。「帰りは歩くんじゃなくて、タクシーに乗ってくださいね。奥さんからの伝言です」「いやー、出歩くってほどじゃないんだよ、何でも屋さん。ここにだってバスに乗ってきたんだから。僕だってちゃんと考えてるんだよ」それにしても、何でも屋さんは何でここがわかったんだい、と梅野さんは不思議顔。「勘です! って、言いたいとこですけど。俺、実は前に、何度かここに入っていく梅野さん見たことあるんですよ。──奥さんに、内緒の場所なんでしょう? 事前にお聞きした、梅野さんが立ち寄る可能性のあるお心当たりの場所に、このお店の名前なかったですもん」梅野さんの秘密のお店、純喫茶・野梅系……これ、“ノウメケイ”じゃなくて、“ヤバイケイ”って読むんだって。といっても“夜露死苦”的な感じじゃないよ? ちゃんとした読み方で、梅の原種に近い系統? のことをそういうんだって。物知りな大仏の御隠居から教えてもらった。「阿漕が浦だよ、梅野さん」お客さんが笑う。「悪いことはできないねぇ」「コーヒー飲むのが悪いこと? そんなことないよねぇ、マスター」マスターは笑っているだけ。「何度も通っていれば、そのうちヨメさんにだってバレてたさ。まあ、俺もここを隠れ家にしてるからなぁ。いや、俺もバレてんのかもな、ヨメに。俺に言わないだけでさ。ああ怖い怖い。梅野さん、四の五の言わずに帰りなよ」マスター、タクシー呼んでやってよ、なんてお客さんは勝手に仕切る。「山の神は怒らせると怖いよ。早く帰んな」「桜庭さんは相変わらずイヤミだねぇ」あ、桜庭さんっていうのかこの人。覚えておこう。人の顔と名前を覚えるのは、営業の基本さ。「だって梅野さん、まだ顔色戻ってないもん。病み上がりが生意気言ってちゃいけないよ。ヨメさん口煩いって言うけどさ、心配だから五月蠅く言うのさ。俺みたいに放って置かれてるのとは違うよ。ありがたいと思わなくちゃ」「そういう桜庭さんだって、前に奥さんと一緒に買い物してるの見かけたことあるよ。百貨店の宝石売り場で、仲良さそうだったなぁ」「あ、あれは結婚記念日だったから──」桜庭さんは、らしくもなさそうなのに赤くなった。「苦労かけたし、誕生石の指輪が欲しいっていうからさぁ……」「愛妻家だねぇ」反撃しておいて、梅野さんはマスターと俺たちに断ってスマホでタクシーを呼ぶ。「さて。駅近だし、すぐ来るだろう。それまでここにいる。何でも屋さん、ウチのやつに連絡してやってくれないか? 一時間もしないうちに帰るって」タクシーなら三十分もかからないだろうけど、余裕を見ておいたほうがいいからね、と苦笑してみせる。「わかりました。あの……俺なんかが言うのは何ですが、あまり奥さんに心配かけるようなことは……。昼前から姿が見えなくなって、薬も服まずにどこかで倒れていたらどうしようと、真っ青になってらっしゃいましたから──」何でも屋なんかに捜索を依頼するなんて、よっぽどのことですよ、と俺は大袈裟に言葉を盛っておく。「薬は持って出たのに……」溜息を吐いて、梅野さん。「昼だって、マスターの特製クラブハウスサンドを──」「食べきれないって、半分俺によこしたのは誰だよ」「喜んで食べてたくせに」「まあまあ」マスターが割って入る。「桜庭さんも心配してそんなこと言ってるんですよ。梅野さんも、お二人とも大切なお客様です。お身体大切にしつつ、末永くうちの売り上げに協力してください」ね? と笑うマスター。かなわないなー、と苦笑いするご老人たち。そのあいだに俺は梅野さんの奥さんにメールをする。「今、奥さんに梅野さんのご無事と、帰宅目安時間をお伝えしましたので、俺はこれで。──ここのこと、奥さんには黙っておいてあげますから。お二人とも仲良くしてください!」にっこり笑ってそう言うと、何でも屋さんにもかなわないなー、と二人同時に笑い声を上げ、「僕もウチのに指輪でも買うべきかなぁ」「それがいいよ」なんて会話が始まった。俺はマスターに黙礼して。外に出ようとドアを開け──「ヨメさんの誕生石は何よ?」「えっと、一月生まれだから……何だろう?」「一月ならガーネット。柘榴石ですよ」──柘榴石かあ。ドアが閉まる寸前、聞こえた石の名前に、何となく立ち尽くす。いやいや、もう水無瀬家の家神様の遷座も無事終わったことだし。今月も蔵整理に行くけど、前回は真久部さんが手伝ってくれたお蔭でかなり捗ったし、実地でいろいろアドバイスもらったから、次は手際よくやれそうだし……。さて! 俺も家に帰って昼メシを、と思いながら、自転車に跨ってペダルを踏もうとしたとき。「何でも屋さんじゃないですか。こんにちは」振り返ればそこに、古美術雑貨取扱店慈恩堂店主、真久部さんがいつもの胡散臭い笑みをたたえて立っていた。つづいてしまうのです……。仕事環境が激変し、いろいろよれよれです。ちみちみと書いていきますので、よろしくお願いします。
2019.02.21
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ひきつづき、昔話ふう。元気に泳ぐ金魚を見てほっと息を吐いた男は、今度は平たい石を見つけ、そこにきれいな盃を置いた。「竜神様ぁ、申しわけございません」腰に付けていた徳利から盃に酒を注ぎ、男は水の落ちない滝に向かって平伏する。「この盃は昔、位の高い坊さんが一夜の宿の礼にと置いていったものだと聞いちょります。大石を転がしたのはわしらの村のもんじゃございませんが、同じ川の恵にお縋りするものとして、お詫びにこうして酒もお供えいたします。ですから、どうか御怒りをお収めくだせぇまし」どうか、どうか、と男が祈っているのを、赤い魚は桶の中で聞いていた。意味はわからなくても、男が真っ直ぐな気持ちで竜神様に何かをお願いしているのはわかったので、畏まり、一緒になって願った。──わしからもお願いいたしやす。どうかこの人間の願いを聞いてやってくだせぇ。死にかけのわしを助けてくれるような心のやさしい人間じゃぁ。悪いことを願うはずもねぇ。どうか叶えてやってくだせぇ一人と一匹は、日が傾くころまで一心になって祈っていた。そして、木立のあいだから赤い夕陽がすっと斜めに差し込んだとき──。さあっと小雨が降ってきた。首筋に、桶の水面に、雨の粒を感じて、びっくりした男と赤い魚は上を見る。すると、そこには小さな七色の虹がかかっていた。「ひゃあ! 竜神様のお恵みじゃあ!」男の喜んだ声と。『これ、魚よ』人のものとは思えぬ、威厳のある声が赤い魚の頭に響いてきて、驚いた赤い魚は目をきょろきょろさせた。『魚よ、これ。お主じゃ。色違いに生まれて、仲間に疎まれていた魚よ』──はあ? この声は、もしかして竜神様でいらっしゃいますかぁ?『そうだ。死にそうになっても誰も恨まず、よく頑張ったな』──あ、ありがとうごぜぇやす……!やっぱり竜神様は自分のことを見ていてくださったのかと、赤い魚は涙をこぼした。『この人間も、他人ひとのためにこんな山の奥まで来るような善い人間だ』──ひとのためにでごぜぇやすか?『ああ。この人間の住む家の裏にある井戸は、旱ひでりでも枯れることはない。だというのに、わざわざこの滝まで吾に願いに来るとは、他人ひとのためにしていることよ』──ああ……自分を助けてくれた男は、やっぱりやさしい人間だったのだと、赤い魚は喜んだ。『この人間に免じて、吾は雨を降らせてやろうと思う。──お主はな、こやつに桶に入れてもらわねば死んでいたところだった』──はい……。ありがたいこってす『そうか。恩義を感じるか?』──へえ。それも、めぐりあわせてくだすった竜神様のお蔭でごぜぇます『ほお。吾にも感謝するか』──へえ。もちろんにごぜぇやす。竜神様に感謝御礼申し上げやす『そうか。お主とこの人間は、相性が良さそうだ──。これからは助け合って生きるがよい。お主を吾が眷属としてやろう』──わしが、竜神様の眷属に……?赤い魚は驚いた。まさか自分のようなものが竜神様の眷属になれるとは、考えたこともなかったのだ。『そうだ。吾はお主の素直な心根が気に入った。これからよく務めるがよい。この人間は善良すぎるゆえ、助けた他人に足をすくわれることがある。そんなときには助けてやるがよい』──わかりました、竜神様ぁ。わし、がんばります『水の無い瀬で、お主は救われた。感謝するがよい。瀬の無い水にあっても、お主は吾が眷属。よく精進せよ。吾は見ておるぞ』──竜神様に恥ずかしくないよう、努めまするははーっと赤い魚が畏まったとき、七色の虹は金の光となって消え、男が言うのが聞こえた。「竜神様、ありがとうごぜぇます。庭に池をつくって、この赤い魚を竜神様の子と思って大切にいたします」今度は男の言葉の意味がわかった。畏れ多いことを言う、と慌てながらも、男に抱えられた桶の中、赤い魚は竜神様に向けて神妙に頭を下げた。男も滝に向かって深く礼をしている。そして、来たときより歩きやすいと不思議がる男といっしょに、小雨降る山道を男の家に向かって下っていった──。「だから、<水無瀬>なんですか……」乾漆仏のあと、話を聞きながらさらにいくつか撮影を終えていた。真久部さんが次の被写体を設置してくれるのを待っているあいだ、俺はうーん、と固まっていた背中を伸ばす。「そのようですねぇ。この頃はまだ“金魚”という名前はなかったんだけど、水無瀬さんのご先祖が最後に見た金の光に|肖《あやか》って、めでたい魚だからと“金魚”と呼ぶようになったようです。時代が下るにつれ、他の赤い魚も“金魚”と呼んで大事にするようになり──今は家神様の認識も“金魚”のようですね。とはいえ、魚全般でもあるようだけれど」鱗を持つ竜神様の眷属ですからねぇ、とそんなふうに言うけど、俺はだんだんわからなくなってきた。「えっと……家神様って、最初は普通の魚だったんですよね?」「たぶん」撮影台に、色鮮やかな茶碗を置いてくれながら、真久部さんはうなずく。「それが、いつの間に|磐座《いわくら》というか、あの割れちゃった柘榴石に変わっちゃったんですか?」「さあ。同じ滝で拾われた石に、惹きつけられたのかもしれませんねぇ……」眷属の務めを果たしているうちに<力>がついて、生身のからだでいるより、そちらに宿るほうが楽になってきたのかも? なぁんて、小首を傾げてにっこりし──茶碗の裏も撮影するように、と指示をくれた。「あ、はい」言われたとおり、パシャ、っと。──椀皿立て、買ってよかった。撮影に便利ですよと、真久部さんがその存在を教えてくれて、売ってくれたんだけど。まだ|店《慈恩堂》に並べる前だから、怖がらなくても大丈夫ですよ? なんて胡散臭く笑われ……。いやいや、これはただの木製椀皿立て。普通の道具。慈恩堂で買ったからって怪しくはない、はず。「でも……そんなふうに神様になるものと、例の招き猫みたいに呪物になるものと、何が違うんでしょうね」石は、道具というのでもないけど、きれいな柘榴石は鑑賞されるモノだし、招き猫だって同じく鑑賞されるモノではあると思う。ある意味、骨董品仲間なんじゃないかなぁ。「そうだねぇ……」真久部さんは考えるように顎に手をやった。「崇め奉られるのと、ただの道具にされるのとの違いかもしれないね」「どういうことですか……?」「道具は道具として使えるけれど、神は祀るか鎮めるかしかない。その違いでしょう」「……」わかったようなわからないような、なんとも言えない気持ち。そんな複雑な心境が顔に出てたんだろう、慰めるように微笑んでみせる。「そんな難しく考えることはないですよ、何でも屋さん。決まりごとを守らなければならないのはどちらも同じ。自分の分以上を求めたりせず、道具は使えばいいし、神様は拝んでおけばいいんだよ」「はあ……」まあ、そうなのかもしれないけど。「何でも屋さんは大丈夫」にっこり笑って、真久部さん。「何しろ、きみはうち慈恩堂で店番できる貴重な人材。──誇ってもいいんですよ?」お道化たようにそんなことを言う、悪戯っぽい瞳。今は周囲の照明のせいで、片方の榛色が緑に近い色に見えた。片方が黒褐色で、片方が榛色──。そんな瞳を持つ人を、俺はもう一人知っている……。「……ねえ、真久部さん」「何ですか? 何でも屋さん」「この話、つまり、まるで見てきたような・・・・・・・“水無瀬家縁起”ですけど──」当時を知る証人・・から、直接聞き出したとしか思えないような、こんな話を。「水無瀬さんには話したんですか?」たずねてみると、うふふ、と困ったような笑みが返ってきた。「出所が出所ですからねぇ……どうしましょうね?」滝壺のそばにあった、今はもう風化してただの石にしか見えないお地蔵様から聞いた・・・なんて、信じてもらえるかどうか──、と悩ましそうに溜息を吐く。「……」石のお地蔵様目撃者から直接話を聞き出すなんて、そんなことができるのは、俺が知るかぎり一人しかいない。やっぱり、真久部の伯父さんか──! そう思った瞬間、俺は寒さによるものではない鳥肌を、盛大に立ててしまった。だって、うっかり想像してしまったんだ、今日は慈恩堂で大人しく店番しているという真久部さんの伯父さんが、甥っ子の目がないのをいいことに、店の道具たちと面白おかしく輪になって談笑している姿を。──古い道具は冬の金魚のようだ。今は時ではないとじっとしているけれど、きっかけばあれば目を覚まして動き出す。「え、えーっと……」今日は絶対! 絶対、慈恩堂に近づかないようにしよう。そうしよう。固く決心した俺は、胡散臭い笑みを浮かべてこちらをうかがっている真久部さんに、白々しくも引き攣った笑みを返すしかなかった。おわり。長かったです。おつき合いくださって、ありがとうございました。
2019.02.02
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「え? そうなんですか?」いきなりの情報に驚いた。そりゃ、金魚というか、魚といえば<水>だけど、<水無瀬>だと<水の無い瀬>って意味になって、金魚的(?)には良くなさそうな……?「そもそも金魚というものは、室町時代、大陸から渡来したものです」真久部さんは言った。あちらの年号でいうと、元の時代後半から明の時代になるでしょうか、と補足してくれる。「その頃に来たものが今は“和金”と呼ばれて、江戸時代に入ってきたほかの金魚と区別されているんですが、あれは原種であるフナと形が似ています──。最初の赤いフナは突然変異で、緋鮒と呼ばれていたらしい。それが固定されて<金魚>になったんだね」「突然変異──ああ……ときどき、黄金のカエルとか、金色のイモリとか見つかりますけど、ああいう感じで?」黄金とか金色とかいっても、濃いオレンジだったり薄い黄色だったりするんだけど。もっと色素が少ないと白っぽくなるんだっけか。「そうだね。金魚といえば赤ですが、元はもっと赤の色が薄くて、光の当たりようによってはそれこそ金色に見えたのかもしれない。こういった生き物の突然変異はそう珍しいものでもなく、時たま現れては固定されず淘汰されて消えてく、そういうものなんだよ。白鹿や白狐、白いカラス──珍しいから自然界では目立つし、弱いことが多い。弱肉強食の常として、生き物は強い遺伝子を求めるから、他と色が違うものは異性に受け入れてもらえなかったり、仲間にいじめられたりするし」だから、白いカラスを見ても、その群れを見たことはないでしょう? と言う。「珍しいのが好きな人間に、追いかけられたりもするしねぇ」「確かに……。たとえば自然界で青い薔薇は咲かないけど、もし咲いたらすごく目立つし、うっかり人間に摘まれて終わっちゃいそう。そんな珍しい色に咲かなきゃ摘まれないのに」目立つって、自然界では不利なことなんだな……。「青い薔薇ですか。なかなか素敵な喩えだねぇ」何でも屋さんはロマンティストですね、なんて真久部さんは悪戯っぽく微笑んでみせるけど、スルー。すぐ人を揶揄おうとするんだから──。俺も何で薔薇? と口に出してから思ったけど、究極に珍しいものとしてぽんと思いついたんだから仕方ない。青い薔薇。「まあ、他と違うと、色々苦労するわけですよ。子孫は残しにくいわ、いじめられるわ」「そうですね……」話しながらも、俺は俺で三脚にデジカメのセットをしていたので、真久部さんが箱から出して撮影台に置いてくれた仏像を、ファインダー越しに睨んだ。──んー、もうちょっとズーム……。パシャ、パシャ、と試し撮り。照明の具合は、こんなもんか。「それでね、何でも屋さん。そういうちょっと他と色が違って生まれてしまった魚は、日本のどこかの川にもいたわけです」「へ?」まあ、そういうこともあるか……。「──この仏像、頭部と土台に特徴があるので、それぞれ別で撮っておいてもらえますか」「あ、はい」ひょいっと出された指示に戸惑う俺をよそに、真久部さんは話の先を続ける。「奇跡的に成魚となって数年。仲間に相手にされなくても、なんとかひっそりと生きていたのに、ある年の旱魃で──」この夏は梅雨に雨が降らず、ついに滝から水が落ちなくなってしまった。滝裏にまだらに生えていた水苔の裏を、ときおり雫が伝っていく。それも下に落ちるか落ちないかでなくなってしまい、もはや滝壺はただの水たまりでしかなかった。両岸は既に干上がっている。仲間の魚たちも数を減らし、今は数匹がこの水たまりでじっと息を潜めているだけだった。水は無慈悲に減っていく。乾いた川底が広がる。他と色の違う赤い魚は水の端に追いやられていた。押されるたび、何とかそこに留まろうと頑張っていたが、また押され、慌てて鰭を動かした拍子に、すぐそこにまで迫っていた岸の砂地に飛び出してしまった。乾いて、苦しくなるからだ。口をパクパク、鰓を無意味に動かしながら、赤い魚は冷たい水を恋しく思っていた。この滝には竜神様が棲むという。仲間の誰もそんなことを本気にしていなかったが、赤い魚は信じていた。いつも一匹だけで寂しかったので、自分には見えないけれど、きっと神様がそばにいるのだと、そう信じたかったのだ。死ねばもう苦しくないし、もしかしたら竜神様にも会えるのかもしれない。赤い魚はただぼんやりと己の死を待っていた。そのとき。「おお、かわいそうになぁ」人間の男の声が聞こえた。「こっちの川がこんなに干上がってるとはなぁ。おまえ、鮒の色違いかぁ? まだ生きてるのか」言葉の意味はわからなかったが、捕まれば終わりだと赤い魚は観念した。干上がって死ぬのと人間に食われて終わるのと、どちらがマシかと考えようとしたが、もはや何も考えられなかった。──竜神様ぁ、これまで、ありがとうごぜぇました赤い魚は、己の生きるよすがだった竜神様に礼をのべた。ずっと一匹で寂しかった。けれど、そばにいつも竜神様がいると思えば耐えられた。本当にいるのかいないのか、見たことはないからわからない。それでも、礼を言いたかった。「この上の山でなぁ、赤い石が採れるからっちゅうて、掘り始めたのはいいがのぉ、おかしな掘り方をしたもんで、川に大石が転がったんじゃと。それで流れがちいっとばかし変わったと聞いて心配しておったんだが……雨が降ればまた流れが戻ると思っていたに、今年はこんなことでなぁ」川下の村には溜池があるから、まだ何とかなっておるが、と呟き、男は溜息を吐いた。赤い魚は、ただぼうっとして男の声を聞いていた。「昔から、この滝には竜神様がいらっしゃるといわれておるで、わしゃ気になってのぉ。酒と、うちの裏の井戸の水を持ってきたんじゃ」男は持っていた小さい桶を傾けて、乾いた川底に少しだけ水をこぼして手を合わせた。何かむにゃむにゃと唱えると、いまにも死にそうだった赤い魚をそっと両手に掬い、桶の中に残った水の中に入れてくれた。──ああ、冷たくて気持ちいい。生き返ったみてぇだ赤い魚は、動かせなかった尾や鰭を動かして、狭い桶の中で宙返りして喜んだ。つづく……。次でようやく終わりです。昔話ふうのところは、ぜひ市原悦子さんと常田富士男さんの声で。市原さんは今年、常田さんは昨年に逝去されました。ここにあらためて、お二方のご冥福をお祈りいたします。
2019.02.01
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頭の中に、獲物を狙う猫の姿が過った。物陰に潜み、隙あらば飛び掛からんとして、爛々と眼を光らせている──。「空腹を満たそうとして、手近にいる、もう少し食べでのある魚に手を伸ばそうとしたわけなんですが」シーツの皺をすっすと伸ばしながら、真久部さんはさらっと怪異の原因? について語る。ここ、慈恩堂じゃないのになー、と遠い目になりつつも、自分で振った話題なんだから俺は聞いているしかない。「かつて招き猫に食われ、家神様の御力によってようよう解放された経験のある魚たちも、慌てたわけですよ。強いモノたちはともかく、弱い小魚たちは逃げようとして──」新参の、こんなビニールテープの柄に比べれば、小魚でもここの魚たちはもっとずっと強いので、力の小さくなった招き猫ごときに、まだそうやすやすと獲られなかったはずなんですが、と続ける。「パニックになったんでしょう、ちょうどそこにいた人間を利用して──、蔵の外に逃げたんですよ」「え……?」びっくりするようなことを言ってヒトの度肝を抜いておいて、さっき俺が出してきた箱を開けた。中の色褪せた包み布を除け、「これは乾漆造……に似せた造りのようだけど、そう悪くない出来ですね」などとのんびり呟いている。「ちょうどそこにいた人間って……?」もどかしくなって、つい先を促してしまう。「もちろん、何でも屋さんと水無瀬さんのことに決まってるじゃないですか」何かの仏像らしきものから顔を上げ、真久部さんはにこりと笑う。「ほら、二人とも、長持ちの蓋を開けて招き猫を見つけてからの記憶が無く、次に気づいたときにはそれぞれ覚えのない箱を持って外にいて、蔵の文句家鳴りを聞いていたといっていたでしょう? あれは、危険な捕食者から逃げようとした魚たちの、苦肉の策だったんです」「……」あの時のことを思い出してみる。箱の中に入っていたのは、水無瀬さんのが香炉、俺のが灰皿だったんだけど──。「もしかして、いわゆる緊急避難ってやつですか……? 俺たちに持ち出させて」確認する俺に、真久部さんはうなずいてみせる。その目がなんだか笑っていて……。「面白がらないでくださいよ……。“泥棒製造機”な蔵に入ったせいで変になっちゃったのかと、あのとき俺、ちょっと焦ったんですからね!」抗議すると、すみません、と言いながらもくすくす笑いが止まらない。「真久部さん──?」「すみません、想像したらおかしくて……もちろん、笑ったのは何でも屋さんたちのことじゃないよ。もし視える人がその場にいたら、なかなかの見ものだっただろうとつい思ってしまって」じと目になってる俺に、スキューバダイビングをしているところを想像してみてください、なんてことを言う。「青い海、色とりどりの小魚たち。群れを成して泳ぎまわる、そこは彼らの楽園です。長いあいだ、彼らは脅かされることがなかった。なのに、いきなり大きな魚が現れて、小魚たちを捕食しようとする。彼らは慌てて漁礁に隠れたけれど、大きな魚はじっと彼らを狙ってる──」──小魚たちは、そのまま水無瀬家の蔵に眠る道具類についているという魚モノたちで、大きな魚が招き猫か。……サメってほどじゃないんだな。サメはわざわざ小さな魚を狙わないもんなぁ。「そこに、ダイバーたちが現れた。大きな魚を連れてきた張本人たちでもあるけど、彼らの手で漁礁ごと外に逃げてしまえば、大きな魚は追ってこれない」漁礁というより、この場合は生簀かな? なんてことを呑気に呟いている。「香炉には鮎、灰皿には出目金の意匠がほどこされていました。鮎と出目金は今の招き猫に食われるほどではなく、特に逃げる必要もなかったんだろうけれど、他の小魚たちを匿ってやれるくらいの力があった。だから、慌てる彼らといっしょに頑張ったんでしょう。水無瀬さんと何でも屋さんに目眩ましを掛けることができたのは──、そうですね、“火事場の馬鹿力”のようなものだったんじゃないかな」「火事場の馬鹿力……」「小魚たちが食われたら食われただけ、それが招き猫の力になってしまうからねぇ。自分は大丈夫だからと放置すれば、結局自分の身に返ってくる。運命共同体ですからね」きっと、かつてのことを思い出して焦ったんでしょう、と真久部さんは魚たち──香炉と灰皿に同情しているようだ。──うん、真久部さんだもんな。「特に、灰皿は容量・・が大きかったようだよ。分厚い硝子で出来ていて、硝子は彼らにとって水のようだから。たぶん居心地もよかったと思います」持っているのが何でも屋さんと水無瀬さんだから、彼らも運ばれ心地が良かったんじゃないかなぁ、などと、ファンタジーな推測を語ってくれた。「水無瀬さんは水無瀬家の血を引く金魚好きだし、何でも屋さんは何でも屋さんで、池の金魚を好もしく眺めていたでしょう? こちらの魚たち・・・は、水無瀬家の魚らしく、海のものでも金魚寄りだからね」「はあ……」金魚寄りの海のもの魚って──不思議というか……どういうことだろう?「何しろ、<水無瀬>の名前、その縁起は金魚にあるようだから」つづく……。「冬の金魚」、73でようやく終わりました。こちらには推敲して投稿していますが、あと二話くらいならさっさと読みたい、という方は、こちら↓へどうぞ。『古美術雑貨取扱店 慈恩堂奇譚』
2019.01.31
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「……冷えますね、何でも屋さん」ぶるっと震えて、真久部さんが溜息を吐く。「そりゃ、冬ですし。下手な暖房を入れるわけにもいかないんだから、寒いに決まってるじゃないですか」俺と真久部さんは、ただいま蔵の中。お茶やお菓子をいただいているあいだに、ようやく照明機器が届いたので、暖かい部屋から出て、気合を入れて仕事を始めたところ。梱包ほどくの、けっこう大変だったよ。「真久部さんたら寒がりなのに。無理してつき合ってくださらなくても」段ボールインデックスで分けた最初のエリア、その一番端から箱を持ちあげながら俺は言った。──うーん、これって大きさのわりに軽いけど、中身は何だろ。「そうなんですけどね……」なんとなく歯切れの悪い真久部さん。そりゃ、中のもの、俺が撮影するついでに鑑定してもらったら一石二鳥だけど、このヒト、本当に寒がりなんだよ。いや、俺だって寒いけど、さっきしるこドリンクでリセットしたし。カイロ、腰だけだったけど、背中にも貼ったし。真久部さんにも、貼ってください、って予備を渡そうとしたんだけど、貼るタイプは着物が傷むからと残念そうに断られた。肌着に貼っちゃうと低温火傷が怖いしなぁ……。曖昧に微笑む真久部さん、弱ったように続ける。「帰っても、伯父の相手をしないといけないと思うとねぇ……」あー……。「しかも、せっかく来たんだから何でも屋さんの顔も見たいなぁ、とか言ってるし」髪も眉毛も真っ白な、お洒落な仙人みたいな真久部の伯父さんが、ニコニコしながら俺を手招きしちゃってるのが頭に浮かんでしまった。「そ、それはその、あはは……」笑ってごまかすしかない。俺、今日だってここが終わってから、犬の散歩とか子供の塾お迎えとかまだまだ仕事あるし。真久部さん、それわかってるからガード? してくれてるのかな……。伯父さんがその気(?)になったら、なんでか入ってた依頼が全部先方の都合で(パパがお迎え行けるようになったとか、家族の誰かが犬を散歩に連れて行ったとか)キャンセルされてしまうから……。 「これを近くに置いておけば、大丈夫とは思うんですが」言いながら、印伝の和装バッグの中からピーチネクターを取り出した。ピーチ……桃……魔除け……。「あははは……」甥の真久部さんよりずっと得体のしれない、どこか不気味に妖怪めいたところのある伯父さんだから、それ魔除けに関しては何もコメントできない。だって、実際効いたことがあったし……うん、あのときは効いたんだと思う。真久部さんに任せて逃げちゃったからわからないけど。「まあ、僕も動いていれば身体も温まると思うので、お手伝いさせてください」真久部さんは懐から襷たすきを取り出した。今日は最初からそのつもりでいてくれたのか……羽織を脱ぎ、襷の端をくわえてささっと邪魔な袖を絡からげてしまう。背中に出来た見事なバッテン──。あ、そうだ!「真久部さん、薄いハンカチ持ってませんか? いま俺の持ってるのハンドタオルなんで、出来れば薄いのがいいんです」「ハンカチなら袂に……」「あー襷掛けしちゃいましたもんね。んー、ハンドタオルでもいけるかな」いや、解いてもすぐ掛け直せます、というをまあまあ、となだめながら後ろを向いてもらい、襷のバッテンの内側にハンドタオルを当て、そのままバッテンの上からカイロを貼る。もちろん、すぐあったまるように揉んでおいた。「これだと着物も傷まないし、イケると思うんですよ」襷からはみ出た粘着面はタオルでガード。着衣の上からだから、間に挟む布は薄いほうが熱が伝わりやすいと思うけど、ハンドタオルでもまあいいんじゃないかな。「……なるほど。これはいいですね」ちょっと明るい顔になる。「もうひとつ、シールは剥がさないで帯の腰のところに挟んでみたらどうでしょう?」「ありがとうございます」カイロを受け取りつつ、何でも屋さんは臨機応変に工夫ができてすごいですね、と怪しくない笑みを見せてくれるけど。真久部さんが風邪なんか引いちゃったら、慈恩堂の店番誰がやるのかって話なんだよ……。出来れば俺、あんまりやりたくない……。それに頼まれても、今週は予定の調整をしてもちょっと難しいんだ。真久部の伯父さんなら何日でも代わりに店番できるだろうけど、そのあいだの真久部さんの心労が──。だいたい真久部さん、いったん風邪引くと普段の頑丈さが嘘みたいに酷くなっちゃうみたいだからさ。以前、ヘルプを受けて看病したことあるけど、キツそうだった。そのくせ、病院嫌がるし……。要は、体調を崩されるといろいろ厄介ってことなんだけど。「……どういたしまして。そういえば、この段ボールインデックスのテープ。金魚柄が元に戻ってますけど、結局どういうことだったんですか?」せっかくいいように思ってくれてるんだからと──、曖昧にするつもりでうっかりキケンな話題に踏み出してしまった。「ああ、その件についてはまだ話してなかったですね」古い木製の踏み台に乗り、撮影用背景のために用意した白いシーツを衣桁に広げつつ、振り返った真久部さんがにっこり笑う。うう、俺のバカ……。「あれはねぇ。ほら、長持に貼ってあった御札がはがれてしまいましたよね? それはたまたま経年劣化だったんでしょうし、仕方がなかったと思うんですが、同時にふわっと目覚めかけた招き猫が自分の力を取り戻そうと……というか、まあ、とにかく空腹だったんだろうね、近場で一番弱い魚、つまりテープの柄としてそこにあった金魚たちを食べてしまったんですよ」アレの力は小さくなっていたので、そういう弱いものしか受け付けられなくなっていたんです、と続ける。──病み上がりのお粥みたいな扱いだったの? テープの金魚柄。「……」今は戻ってる、黄色地に、赤と黒の金魚たち。──なんとなく、ぴっちぴち。「ちょっとだけ力が出て、蓋を動かしたまではいいけれど、それ以上は家神様の御力で抑えられているから、どうにもできなかったはずなんだよ。でも、何でも屋さんたち、二人して蓋を完全に開けてしまったじゃないですか」「う……」だって、何だか変だったんだもんさ……。「ずっと頭を押さえつけていた封印、つまり家宝の皿を通した家神様の監視と力から逃れられた招き猫が、もっと空腹を満たそうとして──」つづく……。
2019.01.25
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思わず遠い目になってしまう俺をよそに、話は続いてる。「さて。一介の骨董屋が係われるのは、ここまでと思います」真久部さんは一礼する。「あとは、神職の方の領分でしょう──。家神様に、いま宿っておいでの場所から新しい磐座にお遷りいただこうというわけですから。前回はやむにやまれぬ事情でご自分で居場所を遷されましたが、場所を用意したので今回もご勝手にどうぞ、というわけにはいきません。ふさわしい祭祀を執り行う必要があります」「それはもちろん」水無瀬さんはしっかりとうなずく。「もちろん、慈恩堂さんのおっしゃるとおりじゃ。明日にでも例祭の時に世話になる神社に直接行って、宮司さんに相談してみることにしますよ」「古いほうの……割れた磐座についても、神職の方にご助言いただけるならそのほうがいいと思います。長いあいだ、坐しておられたものですから」ああいうものは、そのまま放っておいて良いようなものではありませんから、と続ける。「我々のような者業者が扱って良いものでもありません。下手に売り買いなどしよいうものなら、命を持っていかれます。──もし。誰かが聞きつけて欲しいと言ってきても、水無瀬さん、絶対渡さないでいただきたいんです」「あ、ああ……だが、そんな人がいるのかね?」欲しがる人が、とたずねられて、真久部さんがにっと笑った。「人だけとはかぎりませんよ」「……」水無瀬さんが困ってる。慈恩堂さん真久部さんが本気なのか冗談なのか、図りかねてるのがわかる。「いや、ほら! 人間でも狸みたいな人いるじゃないですか。そう、お代官様と越後屋みたいな! どこから何をどう聞きつけてくるかわからなかいような、得体のしれない人たち。狐と狸の化かし合いっていうか」俺は焦った。何で焦ってるのかわからないけど焦った。「異様に耳の早い人って、どこにでもいますもん。ここにいる三人が誰にも話さなくても、祭祀をしてもらう関係でどっかから洩れて……ほら、石だから。パワーストーンとか、勘違いする人が。ね? 真久部さん」「……そうですね」真久部さんが目だけで笑って、俺をちらりと見る。「何でも屋さんのおっしゃるとおり、世の中には色んな人・がいますから。でもたぶん、祭祀のあとは焚き上げるか──、池に沈めるのが良いと神職さんもおっしゃると思います」こちらの池の金魚なら、家神様の力の残滓に触れても大丈夫でしょうし、と続ける。「きっと、良いようにしてくださるでしょう。処置が適切であれば、問題はないものと考えます──僕が心配するような、妙なもの・・・・も寄り付かないでしょうね。いずれにせよ、餅は餅屋に任せておけば憂いなし、ということですね、何でも屋さん」にこりと微笑んでみせてから、お茶で口を湿らせるふりで、フォロー、ありがとうございます、と呟く。「あはは……」フォロー。そうか、俺、フォローしてたのか。いや、だってさ、ああいうのは、|お店《慈恩堂》だけにしておいてほしいっていうか。真久部さんたまに悪ノリして、引かれて、分かりにくく落ち込んでるときあるから……。──さっきのは本気だったとか、俺は知ってるけど知らないよ。「こちらの大きい石は磐座として、欠片の石はどうすればいいでしょうかな、慈恩堂さん」ガーゼハンカチの上にちまっと置かれた、柘榴のつぶっぽい小さい石を見つめている。「それは、水無瀬さんがお持ちになっているのが良いでしょう、と伯父は申しておりました」真久部さんが答える。「磐座が定まれば、元はその一部だったこの小さな欠片も染まる・・・からとか何とか。──一応、こんなものを縫ってきたんですが」そう言いながら、小さな袋を懐から取り出してみせる。「薄浅葱の、いい縮緬布がありましたので……水に似た色で、良いかと思うんです。中に入れれば水の中の金魚ということで……水無瀬さんの若くして亡くなった叔父様が、水を通して寄り付きやすくなるんじゃないかと伯父が申しましてね」ああ……そうだ、水無瀬さんの叔父さんは、南の海に散ったんだった。海水でも淡水でも水は水だから、こういう約束事には添ってるのかもしれない──。なんて、何で俺は理解しちゃってるんだよ!「叔父様は、家神様の御力をまとって行かれましたから。磐座の欠片石になら宿りやすいと僕も考えます。大きくなっても、幾つになっても、あの頃、身体が弱くて小さかった甥っ子のこと。ずっと心配してらっしゃると思いますよ」「……つい最近まで、思い出しもしなかったのになぁ」もう怖い夢も見ないのに、と、水無瀬さんは泣き笑いのような顔で呟いた。つづく……。ようやく終わりが見えてきました。
2019.01.21
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今日は成人の日ですね。昨年は晴れ着関係でとてもひどい事件がありましたが、今年は穏やかにうらうらと……。新成人の皆さんのご多幸をお祈りしております。管理人PrisonerNo.6です。先日、「星月夜の天使」という話を書きましたが、天使はともかく、眼鏡にマスクで街灯の明かりがゴッホの「星月夜」のように見えたのは本当なんです。視界は息で真っ白で、まるで濃霧の中にいるようで。煌々と輝く街灯の灯を、虹の円環がぐるりと取り巻いて。白い夜空に、虹をまとった星月夜──。それはもう、たいそう幻想的な光景でした。昔見た、四日市のコンビナート群の夜景を少し思い出しました。あまりにもそれ以外見えないので、管理人の場合は眼鏡を外してしまいました。足元は……まあ、わりに広い道だし、歩道も平坦で狭くはなかったので、マスクのほうを優先しましたよ。よく知っている道だし、すべてがぼやけた、夢の中のような視界には慣れてます。街灯の少ない、もっと細い道だと眼鏡を優先したと思います。側溝が見えなかったりしますから。日常の中の非日常をネタにしたお話だったのでした。さて。休憩を終えたので、「冬の金魚」の続きを書いてきます。昨日は「おっさん草」3話と4話を投稿しました。
2019.01.14
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「交通費と……まあ、その他諸経費だけいただきまして、残金はここに」懐から出した封筒を、水無瀬さんの前に置く。「──どういうことですかな?」中身を確認した水無瀬さんは、困惑の表情で封筒と真久部さんの顔を交互に見ている。──察するに、中身がほとんど減ってなかったんだろうな。外から見ても厚みあるし。「僕と、これを探してきてくれた伯父とで、意見が一致したんです。そういうもの神様の磐座には、出来るだけお金は介在しないほうが良いと」「……」水無瀬さんはさらに困った顔になる。まあまあ話を聞いてください、と真久部さんはなだめるように微笑んでみせる。笑顔は胡散臭いけど、言葉は本物だと思うから、俺も黙って聞くことにした。「この石は、とある深い山の中の、小さい滝壺の中に沈んでいたものだそうです。滝壺といってもそう深いものではなく、太股くらいだったそうですが。──胴付き長靴とゴム引き合羽、長ゴム手袋を装着した完全装備で、その辺に落ちていた木の棒と持って行った魚籠を使い、水から揚げたと伯父は申しておりました」さすがにこの季節の滝壺は冷えたそうですが、と他人事みたいに言う。──真久部の伯父さん、大変な作業だったみたいなのに、甥っ子にこんなふうに言われてちょっと可哀想、と思いつつ、俺はつい気になったことをたずねてしまった。「いや、でも……勝手に拾ってきて良かったんですか? こんな凄いの」俺の疑問に、水無瀬さんも「土地の所有者は知ってるのかね?」と懸念を重ねる。「土地の所有者は、水無瀬さんですよ。ほら、…県の水魚山。あそこは水無瀬家の所有ではありませんか?」首を傾げてにこり、としてみせる真久部さんに、え? と水無瀬さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。「あ、ああ……確かにあの山はうちのものじゃが──、柘榴石なんてもの、採れたかな……」顎に手をやって、親父には聞いたことはないがのぉ、と考え込んでいる。「水魚山の隣の、若榴山では昔よく採れたそうですよ」「若榴山……」ああ、うちの東側の、今は国有地になってるところか! と水無瀬さんが言い、ええ、そうです、と真久部さんはうなずく。「あの滝の、さらに上流が若榴山の昔の採掘場近くを流れる川に繋がっているらしいんです。大水のときなんかに、水魚山側に流されてきたんじゃないでしょうか。──そうそう、滝壺近くの川岸で、細かい粒の柘榴石も見つけたとのことで……」これがそうです、と真久部さんは袂から小さいガーゼハンカチに包んだものを取り出した。──薄い夕焼け空みたいな色。本当に柘榴の実のつぶつぶのひとつみたいだ。「恐らく、この石の塊から剥がれたものではないでしょうか。──伯父が申しますには、割れてしまった磐座は、元々水無瀬さんのご先祖が同じ川から拾ったものではないかと」「あ、ああ──そうかもしれませんな……」唖然としたように目を瞠り、それでも水無瀬さんは納得したらしい。ゆっくりとうなずいている。「──それにしても、どうやってこの石がその滝壺に沈んでいると突き止めたんですかな、慈恩堂さんの伯父君は」普通は人の行かないような、満足な道も無いようなところなのに、とそこは不思議そうだ。「それが伯父独自の伝手・・・・・・・でしてね」真久部さんの笑みがまた妙に深まってしまう……。「馴染みの知り合いたち・・・・・・・に、『こういう条件の石を探しているんだが』と聞いて回ってくれたそうです。その中に、偶然あの近くの出身者・・・・・・・・がいて、あの山のあの川のあの滝壺になら、ひとつくらい落ちてるんじゃないかと教えてくれたということなんですよ。──水と、魚に馴染んだ石……滝壺の底にあった石ならぴったりですよね」にっこり。「……」その出身者・・・って、もしかしなくても何かの古い道具なんじゃないでしょうか。あるいはズバリ、かつて若榴山から産出した柘榴石だったりなんか──。水無瀬さんの手前、聞くに聞けない俺は黙っているしかなかった。「他にも候補はあったそうですが、伯父が山に入るにあたり調べてみると、どうやらそこは水無瀬家のゆかりの地。ということで、そこにしたのだと聞いています」「それは……。伯父君は、石に詳しい方なのですかな」うちにも磨いた菊花石などありますが、と水無瀬さんは呟く。「そうですね……詳しいとは思いますが、専門家ではありません。ただ、石に限らず何でも鑑賞・・するのは好きなようです。興味の持ちようがちょっと・・・・人とは違いますが──」真久部の伯父さんは、古い道具たちの声を聞くことができる、らしい。甥の真久部さんには「骨董の声は聞くな、聞こえても知らないふりをしておけ」と言っておいて、ご本人は聞きたい放題。伯父さんが話しかけると、彼ら・・喜んで応えてくれる、らしいよ? 書画骨董古道具と意思疎通のできるような人間は、普通はいないから。真久部さんによると、そういうの本当はとても危険なことらしい──。なのに何で伯父さんは嬉々として彼ら・・の声を聞くのかと言うと、歴史書や記録、伝記小説にツッコミを入れるためなんだって。普通じゃない方法で聞き出した事柄と比べて、違いを愉しむんだってさ。歴史上の偉人や英雄も、まさか酒の席での盃や、身に着けている根付、文箱や笛や簪が自分の見たこと聞いたことを、後世の人間に語るなんて誰も思わないもんな。つづく……。
2019.01.11
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