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--Blo-katsu AD--Blo-katsu AD--これは何だろう?「めなもみ草を揉んで付ける」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十六段の一めなもみという草がある。蝮(まむし)にさされた者が、このめなもみ草を、揉んで付けると、たちまち癒えるという。見知っておくべきだ。めなもみ---キク科の一年草。山野に生え、高さは約1メートル。九十七段の一全体に毛があり、葉は卵形で対生する。秋、黄色い花が多数咲く。花を包む総苞(そうほう)に腺毛があり、粘液を出す。漢方にも用いられ全草を腫瘍(しゅよう)などの薬用。その物に寄生し、それを捕食し、結果的に食い尽くしてしまう物は、数知れないほどある。身体にはシラミがつき、家にはネズミが走る。国には反逆者がいて徳の劣る者に財産があり、徳の勝る者に仁義がある。僧には仏法あり貴重だが、捉われすぎ金儲けに走らない。
2023.06.30
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「ある有職故実に詳しい人」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十五段の一箱のくりかた(穴)の所に緒をつける時、左右どちらに付けますかと、ある有職故実に詳しい人に尋ねた所、軸(左)に付ける説や、表紙(右)に付ける説や両方に付ける説があるので、どちらでも差支えないようだった。文を入れる箱は、多くは右側にくくり付けるが、手箱には軸に付けるのも普通のことであると仰せられた。ある専門家に聞いてみた。右側と左側、諸説ありますが、どちらでも問題ありませんと同じ回答。箱を文入れとして使う場合は右側、道具入れにする場合は左側にする。ある人が久我縄手を通った所、小袖に大口を着た人が、木造りの地蔵を、田の中の水に浸して念入りに洗っていた。事情がわからず見ていた所、狩衣を着た男がに三人出てきて、ここにいらっしゃったといって、この人を連れて去ってしまった。久我内大臣殿でいらっしゃった。正気でいらした時は、立派で気品のある方でいらっしゃった。
2023.06.29
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「北面の武士のある者は」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十四段の一相国(最高位の官吏)は、後になって、北面の武士のある者は、勅書を、持っていながら、下馬をするような者であり、このような者が、どうして院にお仕えすることができるのだろうかと申し上げた。上皇はその北面の武士の職を解いたというが、このような場合には、勅書を馬上にて拝辞して、お見せしなければならない。下馬をしてはいけないと言われている。常盤井相国が出仕された時に、勅書を持った北面の武士が大臣に会って、馬から下りたとの事を、相国、後に、北面なにがしは、勅書を持ったまま下馬した者で、このような者が、なぜ君にお仕えできましょうかと申して、北面をクビになる。勅書は騎乗して見せるべきで下りるべきではなかった。
2023.06.28
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「願いが満たされる事は無い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十三段の二その人が言う事に、だから人が死を憎むなら、生を愛すべきだというのだ。生きている喜びを日々に楽しまずしてなるものか。愚かな人は、この楽しみを忘れて、わざわざ外に楽しみを求め、この宝を忘れて、危なっかしくも他の宝を貪っていては、願いが満たされることは無い。生きている間生を楽しまずに、死に臨んで死を恐れるなら、それは矛盾だ。人が皆生を楽しまないのは、死を恐れないからだ。いや、死を恐れないのではなく、死の近いことを忘れているのだ。あるいはまた、生や死といった現象に関与しないと言うなら、それは悟りの境地に入ったというべきだと言ったところ、聞いていた人はますますあざけ笑った。
2023.06.27
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「夜の間に牛が死んでしまった」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十三段の一牛を売る者がいた。牛を買う人があって、その金額を払う契約をして、牛を引き取ろうという。だが、夜の間に、牛は死んでしまったが、この場合買おうとする人に利があり、売ろうとする人に損があると語る人があった。これを聞いて、傍らにいた人が言うことに、牛の主は、実際損はしたが、また大きな得もしていると話す。というのは、生きている者が死の近い事を知らない事は、牛がこの通りで、人も同じ事だ。図らずも牛は死んでしまった。牛は死んだが牛を買った主人は生き延びた。一日の命は万金よりも重い。牛の値段は、ガチョウの毛よりも軽い。万金を得て一銭を失う人に、損があったとはいえないと言ったところ、皆がバカにしてその理屈は、牛の主人に限ったことではないと言う。
2023.06.26
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「二つの矢を持ってはならない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十二段の一ある人が弓を射る事を習うのに、二本の矢を持って的に向かった。師の言うことに、初心者は、二つの矢を持ってはならない。後の矢を当てにして、初めの矢を放つ時にいい加減な心が生じる。毎回ただ当たりはずれなく、この一本の矢にて事を決すべきだと言う。わずかに二本の矢を持ち、師の前で一本も疎かにしてはならない。怠けおこたる心は、自分自身は気付かない思っても、師はこれを知るのだ。この戒めは、あらゆるのことに当てはまる。道を学ぶ人は、夕方には朝が来るだろうと思い、朝には夕方が来るだろうと思って、その時になってから身を入れてやればいいと心づもりをする。まして一瞬のあいだに、怠け心がある事を、どうして分かるだろう。現在の一瞬において、やるべきことを直ちにする事はとても難しい。
2023.06.25
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「言った事やした事は叶わない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十一段の二赤口に言った事やした事は叶わないとされ、赤口で得たものは失う事になり、計画した事柄も成す事ができないというが、そんな迷信は愚かだ。暦の大安吉日を選んでやろうとした事で、良い結果に終わらなかった事を数えてみれば、赤口にやろうとして上手くいかなかった事と、同じくらいあるだろう。その理由は、世の中は常に移り変わっていて、絶えず変化しやすいからである。あると思ったものがあるとは限らず、始めがあっても終わりがないこともある。志は遂げられず、欲望は絶えない、人のこころは不安定なものであり全てのものは幻影のようなものであり、どんな事柄であれば、暫くの間でも変わらずに存在し続けられるのだろうか、いや、そういった変化しないものなど無いのだ。変わらないものがあると言い張るならば、この諸行無常の理を知らないというだけである。吉日に、悪をなすに必ず凶なり。悪日に善を行うに、必ず吉なりと言われている。吉凶は人間の行いによるものであり、暦の日付けの縁起とは関係がない。
2023.06.24
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「乙鶴丸は袖をかきあわせて」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十段の二やすら殿とは在俗の男か、出家した法師かと法印がまた聞くと、乙鶴丸は袖をかきあわせて言いづらそうに、どうでしょうか、剃髪しているか否かを頭を見ることが出来ませんでしたと答えた。どうして、頭だけが見えないという事があるのか。僧侶と稚児(小さな子)の間で慣習的に行われていた『男色・同性愛』についての話である。法印(高位の僧侶)は、自分のお気に入りの稚児である乙鶴丸が、他の僧侶と浮気しているのではないかと嫉妬しているような口ぶりである。九十一段の一暦の赤口を忌む習慣というのは、陰陽道では忌むべき理由のない事である。昔の人も赤口を忌む事はなかった。最近、誰が言い始めた事なのだろうか、赤口(しゃっこう/火の元や刃物に注意すべき日)にする事は、先が通らず、将来で良い結果にならないと言われる。
2023.06.23
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「やすら殿の所へ行っていた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。九十段の一大納言法印が召し使っていた乙鶴丸が、やすら殿という者とねんごろになり、常に行き通っていた所、ある時乙鶴丸が外出して帰ってきたのを、法印が、どこへ行ってきたのと質問すると、やすら殿の所へ行っていたと言う。そのやすら殿は、俗人か法師かとまた質問されて、袖をすり合わせて、どうでしょうか。頭を見ませんでしたとお答えした。どうして頭だけ見えなかったのだろう。九十一段の一赤舌日(しゃくぜちにち)という事は、陰陽道には問題にしないことである。昔の人はこれを忌み嫌う事はしなかった。何者が言い出し始めたのか。この日ある事は、最後まで成し遂げられる事はないと言った。
2023.06.22
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「川の中から抱き起こす」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十九段の二松明を灯して走り寄ってきたが、どうなさいましたかと言って、川の中から抱き起こして上げると、連歌の賭けで賞品として貰った扇や小箱などの価値あるものが、水に浸かってしまっていた。危機一髪で助かったという様子で、這うようにして法師は家に入った。しかし、この猫又騒ぎの真相は、法師が飼っていた犬が周囲が暗いので、主人が帰ってきたのを知って喜び、飛びついてきただけという事だった。九十段の一大納言法印が召し抱えていた稚児の乙鶴丸は、やすら殿という男を知って、いつも通っていた。ある時、乙鶴丸が寺を出て行き帰ってきた時に、法印が、どこへ行っていたのだと聞いた。乙鶴丸はやすら殿の所へ行っていたと言う。(ノウゼンカズラの花言葉は名声・名誉・栄光・豊富な愛情・華のある人生)
2023.06.21
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「宇治に住んでいた男」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十九段の一山奥には猫又という化け物がいて、人を食べてしまうと人は言っているが、山奥じゃなくても近所の猫でも、異常に長生きした猫は猫又になって人を襲うそうだという人もいる。 それを聞いた何阿弥陀仏とかいう連歌をする行願寺の法師は、一人歩く時、猫又には十分に気をつけようと思っていた。ある所で夜が明けるまで連歌をしていた法師は、一人で歩いて帰っていたが、小川沿いの道で噂に聞いていた猫又と紛れも無く出会い、その猫又が足元へすっと寄ってくる。そのまま飛びついてきて、首の部分に噛み付こうとする。恐怖に耐える気持ちも無くなって、防ごうとしても力が入らず、怖くて足腰も立たなくなってしまった。法師はそのまま小川に転がり込んで、助けてくれ猫又だ、猫又が出たと叫んだ。周囲の家々から松明を灯して走り寄ってきたが、この辺りで見慣れた僧が小川の中にいた。
2023.06.20
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「先祖伝来の言い伝え」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十八段の一ある者が、小野道風(とうふう)の書いた和漢朗詠集として持っていたのを、ある人が、先祖伝来の言い伝えが根拠のない事と言う訳では無いが、四条大納言藤原公任卿が編纂された和漢朗詠集を、それより前の時代の、小野道風が書いたという事は、時代が違っていたのでは怪しい事と言った。だからこそ、世にも珍しい物なのだといって、益々大切にしまっておいた。藤原公任は小野道風が亡くなった年に生まれており、小野宮太政大臣の藤原実頼の孫にあたり、関白太政大臣藤原頼忠の子である。母は代明(よあきら)親王の女で、正二位権大納言に至り、四条大納言とも、言われ、漢詩文・和歌・管弦すべてに優れた当時最高の文化人である。三十六歌仙の選者『和漢朗詠集』の選者としても知られている。
2023.06.19
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「里人たちに切りつける」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十七段の三下僕は具覚房に傷を負わせた上に落馬までさせ、その上、山賊だと大声で、騒いだので、里人が多数がそろって立ち向かう事になり、我こそは、山賊だと言って、走り廻りながら、里人たちに切りつける。その暴れ回る男を、大勢で傷を負わせ、押えこんで縛り上げた。返り血を浴びた馬は、宇治の大路にある男の家に、駆け戻った。家の主人の男は呆れて、下僕たちを大勢走らせ、具覚房を探させた。くちなしの野原にうめいて倒れていたのを、探し出して担ぎ上げて、カゴに乗せ宇治へ連れてきた。具覚房は、何とか一命は取り止めたが、腰を切られるという大怪我をして、不具の体になってしまった。
2023.06.18
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「弓の弦に矢をあてがう」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草」の物語を公開してます。八十七段の二僧兵の下僕が、彼らに立ち向かって、もう日暮れになった山中を歩くとは、怪しいやつらだ。止まりなさいと言って、太刀を引き抜いたので、相手方も、皆、太刀を抜き、弓の弦(つる)に矢をあてがうなどして、戦う準備を始めた。具覚房は、これは大変な事になったと思い、手を摺り合わせ奈良法師たちに、この男は、正体もなく酔っぱらっているだけで、許してやって下さいと懇願し、僧兵たちはそれぞれ、下僕をあざ笑いながら通り過ぎて行った。下僕は具覚房に向って、お坊さまは、残念な事をされましたね。自分は、少しも酔ってなどおりません。折角山賊を退治して手柄を立てようと、思っていたのに、抜いた太刀を無駄にしたと怒り、具覚房を切りつける。
2023.06.17
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「宇治に住んでいた男」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十七段の一下僕に酒飲ませる際には細心の注意を、はらうべきである。宇治に住んでいた男が、具覚房といい、少し世俗的な雰囲気も残っている遁世(とんせい)僧が、妻の兄弟に当たるので、いつも親しく交際していた。ある時、宇治の男から具覚房に、迎えの馬をやったところ、具覚房は、遠い所からご苦労さん。馬方の男にまず一杯、酒を飲ませて上なさいと言い、酒を出した所、盃を受けて何杯も、気持ちよさそうにグイグイ飲む。2尺以上の太刀も腰に下げ、動作や話しぶりも元気よく、頼もしく思い、召し連れて宇治へ向かった所が、山賊がよく出るという噂の木幡の辺りで、奈良法師が僧兵を大勢連れてやって来たのと行き会った。
2023.06.16
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「千里を駆ける駿馬に学ぶ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十五段の二古代の伝説的な徳の高い王である舜に学ぶのは、舜の同士なのだ。千里を駆ける駿馬に学ぶのは千里を駆ける駿馬の同類なのだ。嘘にでも賢いことを学ぶものを賢いというのである。(7年間もものお陰で大病もせず幸せな日々が過ごせる)人が年老いても、なお若者と変わらぬ大志を抱くこと。もとは、年老いた足の速い馬である駿馬(しゅんめ)が活躍の場を失い、馬屋に伏していながら、なお若いころの千里を駆ける志を捨てない意。また、能力のある人が、それを発揮する事なく老いる例えとしても用いられる。八十六段の一平惟継(たいらのこれつぐ)中納言は、詩歌・文章に才能のある人である。生涯修行に励み、読経をして、三井寺の寺法師の円伊僧正と同じ寺に住み、文保(ぶんほう)年間に三井寺が焼かれた時、坊の主人円伊にあり、御坊を寺法師と呼んだが、寺が少なくなり、以後は法師と言うようになった。
2023.06.15
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「賢い人を見て羨む」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十五段の一人の心は素直ではないので、うそ偽りがあるものである。そうは言っても、稀に正直な人もいる。素直ではない人が、賢い人を見て羨むのは、世の常である。極めて愚かな人は、賢い人に会うと、これを憎む。大きな利益を得るために、小さな利益を受けない。偽り飾って名を立てようと、していると文句を言う。自分の心と違っている事によって、バカにして笑う。こんな事からお里が知れるというもので、この人は愚かの極みである。その性質が良くなる事はなく、嘘にでも小さな利益を辞退する事もできず、かりそめにも賢い人から学ぶ事の出来ない者であり、狂人の真似といって、大路を走るなら、狂人であり、悪人の真似といって人を殺せば悪人である。
2023.06.14
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「経・律・論からなる仏典の総称」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十四段の一天竺に渡り13年間滞在し帰国後、仏典の翻訳に努めた法顕三蔵(三蔵法師)が、三蔵法師は経・律・論からなる仏典の総称で戒律に通じている高僧の事で、天竺に渡り、故郷の扇を見ては悲しみ、病に臥しては中国の食事を欲した。あれ程の人が、酷く心弱い様子を、外国で見せたものだと言った所、弘融僧都(吉田兼好と同時代の人で兼好の友人で兼好より四歳ほど年下)仁和寺(にんなじ)の僧で弘舜(こうしゅん)僧正の弟子が、優しく情け深い三蔵と言ったのは、実に法師のようにでもなく、奥ゆかしく思われた。華厳院の弘舜僧正は、九条家の人で東寺の長者であり、故実に詳しい人。 成長しない世界では、しきたりだけが豊かになっていく。華厳院は仁和寺の別院の一つで、弘舜僧正は、法印権大僧都公玄の子で厳しい修行を積んだ。
2023.06.13
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「長生きするわざである」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十二段の二何でもすべて皆、物事の整っているのは悪いことである。やり残した部分を、放置しているのは、面白く、長生きするわざである。内裏を造るにも、必ず作り終わらない所を残すことであると、ある人が話したそうだ。仏典やそれ以外の書物にも、章段の欠けた事がとても多い。八十三段の一竹林院入道左大臣殿が、太政大臣に昇進されるとき、何の障りなく、来られたが、珍しい事も無い。左大臣で止めようという事で、出家された。洞院左大臣殿(実泰)が、この事に共感され、太政大臣になる望みはなかった。亢竜(こうりょう)の悔---昇りつめた竜はあとは下るだけ。高い地位についた人、名声を得た人、大金持ちになった人など、栄耀栄華を極めた人たちは、つつしまないと大きな失敗をして後で後悔するということ。月が満ちると必ず欠けるし、物が盛えると必ず衰える。万事、先がつまっているのは、破滅に近い道なのである。
2023.06.12
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「うるさく趣向をこらしている」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。八十一段の二破損しないためということで、下品に醜く仕立て、めずらしいだろうと、要りもしない物を多く添えて、うるさく趣向をこらしていると言っている。古めかしいようであり、大袈裟でなく、費用もかからず、品質がよい物がよい。八十二段の一薄い絹を書物の表紙に貼ったものは、すぐに痛むので困るとある人が言った。頓阿(とんあ/時宗の僧。兼好の友人。二条為世門下で和歌四天王の一人)が、薄い絹の表紙は、書物の上下がほつれ、貝を散りばめた巻物の軸は、貝が落ちてからが味わい深いと申したことこそ、立派だと思う。ひとまとまりの書物などの形が統一されていないのを、人は見苦しいと言う。弘融僧都(こうゆうそうず/仁和寺にんなじの僧)が、物を必ず人揃えに、整えようとするのは、愚か者のする事である。不揃いこそ味わいがあると、言ったのも、たいそう立派と思う。
2023.06.11
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「運に乗って敵を砕く」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十九段の一法師だけではなく、上達部・殿上人といった身分の高い人々まで一様に、武道を好む人多く、百度戦い百度勝っても、未だ武勇の名を定められない。なぜなら、運に乗って敵を砕く時、勇者でない人は無いからだ。八十段の一兵が尽き、矢が無くなり、最後まで敵に降伏せず、易々と死んだ後、はじめて武勇を表す道理だが、生きてる間は、武勇に誇るものではない。武勇の道は人間の道に遠く、鳥や獣に近い振る舞いであるので、武士の家に生まれたのでなければ、好んでも無益である。八十一段の一屏風・障子の絵も文字も、見苦しい筆運びで書いたのは、見辛いというより、宿の主人がくだらなく覚えるものだ。およそ持っている道具類によっても、その持っている主人の人柄がくだらなく思えることはあるようだ。
2023.06.10
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「言い馴れている言いぐさ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十七段の二世間で言い尽くされてしまうまで、その事を知らずにいる人は奥ゆかしい。新しく来た新米の人がある時、こちら側で言い馴れている言いぐさ、物の名前などを、心得た仲間同士で言葉の一部を省略いて言い合う。七十八段の一目を見合わせて、笑いなどして、意味を知らない人に不審に思わせることは、世間知らずで教育の無い人が必ずやる事である。何事も深く知らない様子をしているのがよい。立派な人は、知っている事でも、あまり言わない。そのように知ったふうな顔で言うであろうか。言わないのではないか。片田舎から出てきた人が、あらゆる道に心得たような受け答えをする。聞いている方が非常に恥ずかしくなるような所も時にはある。
2023.06.09
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「悲しい事も喜ばしい事も」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十六段の一世間の誉れ高く華やかな暮らしをしている人のもとに、悲しいことも喜ばしいこともあって、多くの人が訪問している中に、聖法師が混じって、取次を頼んでたたずんでいるのは、そんなことせずともと見える。然るべき理由があっても、法師は世間の人から遠ざかっていてほしいものだ。世の中に、人が話題の中心として噂しあっている事に、直接関係してない人が、よく事情を知っていて、人にも語り聞かせ、尋ね歩いているのは感心しない。七十七段の一片田舎の聖法師が、世間の人の身の上について、自分のことのように尋ね聞き、どうしてそこまで知ってると思えるほどまで言い散らすようだ。最近の流行の事柄のめずらしさを言い広め、もてなすのは、またこれも感心しない。
2023.06.08
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「ただ一人でいるのが良い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十五段の一手持ち無沙汰な生活の中で寂しく孤独を感じる人は、どんな人たちなのか。寂しさを紛らわす方法もなければ、只一人でいるのが良い。世俗に従えば、心は外界の欲得に埋もれ汚れてしまい、他人と交流すれば、他人の言葉に従うことになって、自分の心が自分のものでは無くなってしまう。人と戯れ遊び、物を巡って争い、ある時は恨んで、ある時には喜ぶだろう。俗世間では、心が定まる事がなく、好き嫌いの分別がやたらと湧き起こる。損得の感情が止む事がなく、惑いを感じて、目先の利害で酔ってしまう。酔いの中で夢を見て、走って忙しくしたり、ぼんやりして大切な事を忘れる。未だ本当の道を知らなくとも、血縁・友人の縁を離れて一人になる事、そして周囲の雑事に関わらず、心を安らかにする事が、その場限りと云えども楽しむ事だと言える。生活・人事・伎能・学問等の縁をやめよと天台宗の根本聖典の一つである摩訶止観にも書いてある。
2023.06.07
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「虚言が事実になってしまう」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十三段の三みんなが面白がっている嘘に対しては、自分ひとりだけが違うと言っても仕方がなく、そのまま聞いているうちに、自分が虚言の証人にすらされてしまい、そのまま虚言が事実になってしまう。兎にも角にも、虚言の多い世の中である。人の言うことなど、当たり前で、珍しい事などあるはずもないと思っていれば、虚言に流される事もない。世間で噂される虚言は、驚くようなものばかりだが、まともな人間は真偽の怪しいことを語らない。だけれども、仏陀の伝記や、神仏の奇跡については、信心もあって信じないわけにはいかなく、世間の虚言をまともに信じる事はばかげて仏教の説話については何をいっても仕方がないことである。本当の事と思いながらも、むやみに信じない事や疑いや嘲けりすべきではない。
2023.06.06
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「聞くと見るとでは大違い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十三段の二その道の専門家が書いた本になると、その方面に明るくない人は神の如くその内容を信じるが、その道をよく知る者であれば簡単には信じない。聞くのと見るのとでは、何事も大違いなのである。すぐに嘘がばれることも気にせず、口に任せて虚言を言い散らせば、そのうち、根も葉もない嘘だと分かってしまう。また、虚言を聞いた者が、内心ではあり得ない事だと思いながらも、人から聞いたままに、鼻を動かして興奮しながら語るのは、その人本人のつく嘘ではない。いかにも本当らしく所々を曖昧にし、肝心の部分は良く知らないふりをして、さりげなく辻褄を合わせて語る虚言は、世の中を乱す恐ろしいものである。 自分の面目を立てて名誉にもなる虚言には、人々は全く否定しようとしない。
2023.06.05
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「硯に筆が多く入っている」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十二段の一卑しくて下品に見えるものは、座っている周囲に道具が多いこと。硯に筆が多く入っていること。寺院の持仏堂に仏像が多いこと。庭に石や植木が多い。狭い家の中に家財多く、子・孫が多いこと。人に会った時に余分な言葉が多く伝えたい事が自分でも分からない。神仏に祈願する文書に、善行を為す方法(造寺・造仏・写経・布施・禁欲など)を余りにも多く書き記していること。多くても見苦しくないのは、文車(書物を運搬する車)に、積んだ本(書物)やゴミ捨て場のゴミである。七十三段の一世に語り伝えられていることは、本当のことは面白くないのだろうか。その多くはみんな嘘である。実際にあった事以上に人は大袈裟に言うが、年月が過ぎて、国境も隔たってしまえば、書きたい放題に語り伝えて、書物に記録されると、やがてその誇張された嘘が真実となってしまう。
2023.06.04
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「昔の人の家がその辺にある」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十一段の一その人の名前を聞くと、すぐにその人相まで想像できる感じがするが、だが実際に会ってみると思い出したままの顔をしている人はいない。昔の物語を聞いても、昔の人の家が今ではその辺にあるのだろうかと思う。(近鉄特急が通過するとリードが千切れんばかりに興奮する)昔の人物にしても、今いる人々に重ねて想像してしまうが、誰もがそのように思っているのだろうか。また、ふとした時に、たった今、人の言った事も、目で見た物も、自分の心の中で、こういう事が、以前にあったような気がすると思ったりする。それがいつだったのかは思い出せないんだけど、本当にこれらの事が過去にも確かにあったはずだと感じるのは、私だけが思うのだろうか。一度も体験した事がないのに既にに何処かで体験した事のように感じる現象。現代風に解釈すれば、既視感(過去に見た事のあるように感じる)なのだろうか。
2023.06.03
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「老いと死が待っているだけ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十四段の一蟻のように集まって、東西に急ぎ、南北に走る人々。身分の高いアリ、身分の低いアリ。老いたアリ、若いアリ。行く所があって、帰る家がある。夜に寝て、朝に起きる。行列の先には何があるのか。生を貪って、利益を求めて、とどまることがない。健康のために養生して、何を待っているのか。ただ、苦の原因となる老いと死が待っているだけである。老いと死は速やかにやってきて、瞬間瞬間の思いの間にも止まっていることがない。これを待つ間に、何の楽しみがあるのか。心が惑いのうちにあるものは、死をも恐れず、名声や利益に溺れて、死が近づいている事を顧みない。愚かな人は、死を悲しむ。人は永遠には生きられないことを知って、諸行無常を理解しなければならない。
2023.06.02
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「琵琶の柱を探って確認」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の1から100」の研鑽を公開してます。七十段の一後醍醐天皇即位の前祝いの席で、琵琶の名器の玄上が盗まれていた時期で、菊亭大臣(琵琶の名手とされた藤原兼季)が琵琶を弾くことになった。菊亭大臣は同じく琵琶の名器とされる『牧場』で音楽を弾くことになった。(ももは踏切で遮断機が下り電車が通過するのを待っている)演奏の座についた菊亭大臣は、まず琵琶の柱を探って確認をしてみたが、琵琶の弦の支柱が一つ落ちてしまった。しかし、懐に糊を持っていたので、糊で支柱をつけて、神へ供え物を捧げる儀式の間にすっかり糊が乾いた。糊が乾いた事により、事故にはならなかったが、一体どんな恨みが、あったのだろうか、見物していた衣をかぶった女が、琵琶に寄ってきて、支柱を放り投げて、元のように戻したんだと言われている。
2023.06.01
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