浜松中納言物語 0
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「無錫旅情32」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。日本で三国志といえば漫画家横山光輝の三国志であろう。また、三国志の原作に忠実に描かれており1992年頃のバブル時代の最終章でテレビ東京では大好評であった。三国演義に基づいた三国志ブームの中で人物設定や出来事など一部の事柄を正史に基づいて再構成したところに興味が湧いた。三国志演義は江戸の大衆文化に大きく入り込み武士の間で広く読まれ続けた。 『三国志演義』の伝来時期は定かではないが江戸初期には詩文などの中に演義の影響を受けたものも多く見られるようになった。儒学者の林羅山は徳川家康に抜擢された。のち徳川家光に重用されて幕政に参画し儒学の官学化に貢献したが三国志を読了した。「中国の旅」
2012.01.14
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「無錫旅情31」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。日本での三国志ブームが起こったのは1977年から12年掛けて三国志全集が出てから。『世界古典文学全集24 三国志』『三国志』が初めて日本語完訳され改訂再刊されてからである。その後、幅広い世代の三国志愛好家が正史を読めるようになり多くの人々が『三国志演義』の固定化していたイメージに疑問を持つようになった。これ以後、三国志の解説書が多数登場し漫画やゲームなどにも作品が現れるようになった。「中国の旅」
2012.01.13
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「無錫旅情30」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。朝鮮の中世以降に五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基づき三国志の人物を論評した。諸葛亮が帝王の補佐をするのに相応しい才能がある人物か否かについて学者たちは肯定する者や否定する者もいた。江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれており特に関羽と諸葛亮が讃えられた。明治以降の正史に基づいた史伝としては『諸葛武侯』や『三国志実録』など出版された。また『秘本三国志』などの小説の一部には正史の記述が取り入れられているが三国志といえば『三国志演義』の物語を指す。「中国の旅」
2012.01.12
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「無錫旅情29」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録には当時の日本に存在した後漢時代の史料として『三国志』の名を見出す事が出来る。平安末期の藤原通憲『通憲入道蔵書目録』には『魏呉蜀志』二十帖があり、藤原頼長は読了した漢籍として『三国志』を挙げている。『太平記』には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ義貞の戦死を予感するという描写を見つけたという。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど史実や演義などと異同がある上日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。「中国の旅」
2012.01.11
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「無錫旅情28」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。日本へ三国志が伝来した時期については正確には判明していないようである。 760年の天平宝字4年に成立した藤氏家伝の大織冠伝には蘇我入鹿の政を批判する記述がありすでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。 天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」や「孫子九地」といった陣法を修得させている。 769年の神護景雲3年には称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』また『三国志』『晋書』を下賜している。 「中国の旅」
2012.01.10
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「無錫旅情27」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。中国中央テレビ(CCTV)の連続ドラマである『三国演義』いわゆる三国志のテーマパークに来た。もともとはオープンセットであり「劉備招親」や「火焼赤壁」また「草船借箭」などの名シーンはいずれもここで撮影され1994年に放映された。中国の歴史の中の漢と晋の間に「魏、呉、蜀」の三国が並立していた時代の物語りで漢の末期悪徳な役人によって漢王朝は腐敗していた。そんな時代の中、張角が仙人から妖術の書を授かり、腐敗した漢王朝を倒すために黄巾の乱を起こしたが漢王朝はこの乱を何とか鎮めた。「中国の旅」
2012.01.09
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「無錫旅情26」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。戯作家曲亭馬琴は水滸伝を日本を舞台とする物語に取り入れ「新編水滸画伝」を著した。水滸伝を代表作となる「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」を書いておりパロディの「傾城水滸伝」も知られる。江戸時代後期の侠客である国定忠治の武勇伝はのちに「水滸伝」の影響を受けた。脚色され浪曲や講談で知られている「天保水滸伝」は侠客笹川繁蔵と飯岡助五郎の物語に水滸伝の名を冠した。「中国の旅」
2012.01.08
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「無錫旅情25」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝が日本入って来たのは江戸時代の中ごろの1728年で一部和訳され普及し19世紀初めには翻訳、翻案が数多く作られた。また浮世絵師の歌川国芳や葛飾北斎が読本の挿絵や錦絵に描き広まった。半世紀後の1773年には「本朝水滸伝」が成立したが、本編をの表現や発想などを基にしながら創意を加えて独自の作品とした。さらには日本の歴史をも改変したというが水滸伝は現在の伝奇小説の先駆けとなった。「中国の旅」
2012.01.07
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「無錫旅情24」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝は清代に入り京劇の題材になった。108人が皇帝に従うという展開が西太后などに好まれたようであった。 中国共産党では降伏経験のある幹部から妥協的であるとされる幹部への批判として水滸伝批判が行われた。1975年の毛沢東による水滸伝批判では宋江が前首領を棚上げして実権を握り自ら首領となり朝廷に帰順したことが革命への裏切りであるとして非難された。文化大革命の最中では批判的に読むための連環画形式の水滸伝も出版されたが大革命が党によって全面批判された後の水滸伝は政治的位置付けは無くなり京劇も復活している。「中国の旅」
2012.01.06
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「無錫旅情23」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝は儒教道徳を兼ね備えまた知識人にも評価される文学作品となった。だが、反乱軍を主人公とする水滸伝は儒教道徳を重んじる知識人にはあまり高く評価されずにおわったようである。ほとんど民衆の読む通俗小説として扱われるようになり、その風潮の中で明末の陽明学者の李卓吾が儒者の偽善を批判し水滸伝の通俗小説を高く評価した。明代末期に水滸伝は農民反乱を扇動する作品であるとして禁止令が出されている。「中国の旅」
2012.01.05
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「無錫旅情22」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝の物語を講談した人たちは南宋の12世紀中頃には宋江反乱の史実をもとに物語を講談していった。13世紀頃に書かれた「大宋宣和遺事」に宋江以下36人の名前と物語が掲載されている。 15世紀頃に書かれた水滸伝では36人の豪傑は3倍の108人に増やされ、また荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改めた。梁山泊は朝廷への忠誠心にあふれる宋江を首領とし反乱軍でありながらも宋の朝廷に帰順し忠義をつくすことを理想とした。「中国の旅」
2012.01.04
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「無錫旅情21」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。朝廷から官爵を授ける機会を辞退し故郷へ帰ったものもいた。波瀾の人生を送った宋江や他の者たちしかし、3分の1ほどの者は残りの人生を何事もなかったように生き始めたのである。どんなに波瀾万丈な人生を生きようと結局すべては夢のようなものだと水滸伝は語っているのかも知れない。水滸伝の物語は実話ではない。しかし徽宗期の12世紀初めに宋江を首領とする三十六人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されている。「中国の旅」
2012.01.03
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「無錫旅情20」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝では軍師だった呉用と花栄は宋江の死を夢で見るとすぐにもその墓を訪れ、その場所で二人一緒に首を吊って死ぬことを選んだ。最も幸福だった者たちは、戦争で生き残りながらも国が与えた官爵を辞退し故郷に帰った者たちかも知れない。「中国の旅」
2012.01.02
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「無錫旅情19」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝の最終で梁山泊軍の宋江は自分が死ぬことを悟ったとき腹心の部下だった李逵を呼び寄せた。李逵に毒見役をさせ杯を飲ませた。杯を飲み干し暫くしてより酒に問題はないと宋江に目配せをし宋江も酒を飲み干した。だが朝廷の悪臣たちは酒にジワジワと効く毒薬を入れていたため宋江が酒を飲んだ後毒見役の李逵は宋江に手を挙げながら死んだ。悪臣の悪巧みを悟っていた宋江は暴れん坊の李逵が反乱を起こしてはならないと毒殺する道を選んだ。「中国の旅」
2012.01.01
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「無錫旅情18」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。梁山泊軍の戦いは作戦会議の中に朝廷の回し者が参加しており全ての作戦が明るみに出ており以後の戦いは失敗する。多くの梁山泊軍兵が死んだ中で生きて都へ凱旋した者の中にも容赦なく不幸は訪れた。梁山泊軍の総大将の宋江は凱旋後は高い官爵を与えられ楚州の司令官に任命された。だが不満に思っていた朝廷の悪臣たちの陰謀で毒殺されてしまうことになる。「中国の旅」
2011.12.31
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「無錫旅情17」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。梁山泊軍は4つの戦争を勝ち抜き首都に凱旋すれば当然のように英雄である。凱旋した者たち全員に朝廷から官爵が与えられ梁山泊軍の勇者達は誇り高かった。 水滸伝を読んだり見たりした人は結末がハッピーエンドには終わらないと分かる。最終段階では108人の豪傑の大半が罠にはまって戦死してしまう。討伐戦までは1人の死者もいなかったが朝廷からのスパイに手の内を読まれ最後の戦で59名が戦死し10名が病死した。「中国の旅」
2011.12.30
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「無錫旅情16」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝では見方によっては悪が勝つという物語にも受け取られるが勝利を得たものが歴史を動かしていく存在になる。正直者が馬鹿をみるが当てはまる物語りで朝廷の中に巣くった輩はいつの世にも存在して後を絶たないのが常である。都に戻った梁山泊軍は休む暇なく河北の反乱者と戦うため出兵し次々と戦争を繰り返す事になる。どの戦にも勝利を収める事になるが梁山泊軍は心身共に疲れていたが朝廷に招安されたことで反乱者であった梁山泊軍が反乱者を退治する側に回り士気も上がり皆の力をまとめる事ができた。「中国の旅」
2011.12.29
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「無錫旅情15」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝の梁山泊は朝廷に帰順が朝廷では梁山泊の山賊集団の扱いに困っていた。朝廷の悪臣たちは梁山泊集団を迎え入れることに反対の者も多かったからである。だが宋国北方の遼国が十万の兵を動員して宋国の領土に侵入して来たので朝廷では梁山泊軍を遼国と戦わせる事となった。梁山泊軍の処遇は進入を食い止めた後に再度検討する事で意思統一した。梁山泊軍の宋江はこの命令を受けたとき国の為に尽くしたいと考えていたので喜んだ。宋軍として戦争に臨んだ梁山泊の豪傑たちは思いのほか活躍し遼国を降伏させ都に凱旋した。「中国の旅」
2011.12.28
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「無錫旅情14」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝の中で108人が星の生まれ替わりだと知った宋江は盛大な宴を設け役職分担を決めた。朝廷では梁山泊の山賊を退治するために何度となく討伐軍を派遣するがそのたびに撃退されてしまう。朝廷側は討伐ではなく梁山泊の山賊たち全員を称えて官爵や褒美を与えるという作戦に出た。強敵を朝廷の配下にしてしまうというものだが山賊の配下の者に話をつけようとしても武力で行使するだけで作戦は上手く運ばない。朝廷は朝廷から追われていた宋江に話をし宋江の号令で梁山泊は皆朝廷に帰順するのでる。「中国の旅」
2011.12.27
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「無錫旅情13」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝のはじめに出てくる史進は一人前の腕前になり村々を困らせていた山賊たちを退治する。だが山賊の頭領3人と仲良くなったがそのために史進は役所の警察から追われ屋敷を捨て故郷から逃げ出した。 旅に出た史進は渭州という町の茶屋で駐屯軍の隊長の魯達と知り合う。魯達は後に魯智深と呼ばれる大豪傑で二人は酒を酌み交わし意気投合する。物語りは魯達の物語へと進んで行く。水滸伝は大豪傑が登場し次の大豪傑と出会い物語りが続いて行く。「中国の旅」
2011.12.26
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「無錫旅情12」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝の物語で108の魔王が四方八方に飛び散ってより60年ほどが経ち時代は8代皇帝・徽宗の代になっていた。8代皇帝の世になり60年の歳月の間に108の魔王は完全に人間に生まれ変わる。108人の豪傑たちの物語が始まり、それぞれ東京dongjing)に集結することになる。水滸伝では108人の豪傑たちを一人一人順番に登場させ、その活躍ぶりを描いて行っている。最初に登場するのは華州の大庄屋の一人息子で九紋竜の史進で年齢は19才程、全身に9匹の青竜が彫ってあり、この村で武芸を習い旅立つ。「中国の旅」
2011.12.25
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「無錫旅情11」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝は中国宋の千年前の時代の物語で中国宋の4代皇帝・仁宗の時代に都の東京(ドンジン)で疫病が大流行した。皇帝と政府の高官たちは道教の大本山の法主の祈祷で疫病払いをする旨使者として大将軍の洪信を派遣した。洪信が法主を迎えに来ると法主は自分一人で雲に乗り東京に向かった。洪信は折角道教の総本山へ来たので唐の時代に108人の魔王を封じ込めた伏魔の殿という祠を見たくなった。洪信は道士命じて無理矢理に伏魔の殿を開けさせ中にあった石碑をどけ、穴を掘らせたのだ。やがて黒雲が湧き上がり108の魔王たちが金の光となって飛び散り、人間に生まれ変わり梁山泊に結集するというのが水滸伝の始まり。「中国の旅」
2011.12.24
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「無錫旅情10」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝のあらすじに書いてある事柄を抜粋すれば、空から火の玉が落ちて来た。その火の玉の落ちた場所から掘り出された一枚の石版に道教が説く天?星や地?星108星の名と豪傑たちの名が記されていた。梁山泊に集まった108人の豪傑たちは運命によって集まると定められていた。 石版に記されていた108人は梁山泊での順位通りに順番に記されていた。はじめに天?星36人の名前があり、次に地?星72人の名前があった。天?星というのは大親分であり、地?星というのは小親分である。108人が星の生まれ替わりだと知った宋江は盛大な宴を設け役職分担を決めた。「中国の旅」
2011.12.23
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「無錫旅情9」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。無錫にある水滸伝のテレビドラマのセットが保存してる水滸城へ来ている。山賊たちが集まり新しく梁山泊という新天地を生まれ変わらせたが最終は108人のうち残った者は10人ほどだった。水滸伝の物語の輪廻の部分などは同じく中国四大名著の紅楼夢の物語にも似た所があり何度も見る内に共感する。梁山泊を生まれ変わらせた豪傑が梁山泊を見る前に亡くなってしまったため七日七夜の供養を行った最後の夜に不思議なことが起こる。「中国の旅」
2011.12.22
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「無錫旅情8」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。中国の四大名著の一つの水滸伝は多くの庶民に愛読されてきた。梁山泊や主人公宋江のモチーフがキューバ島やカストロを象徴している。全共闘世代である北方の経験や心境を投影した革命戦記としての要素が漂う。 中国の多くの若い読者が水滸伝を読み胸に希望を膨らませ語り継がれて来た。だが水滸伝は中国政府として若者には刺激が強すぎると好ましくないとされた。政府に対して攻撃をしかける物語は非難され三国志などの名著を奨励した。「中国の旅」
2011.12.21
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「無錫旅情7」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。私が水滸伝を読んだのは学生の頃で何ともいえないほど吸い込まれて行った。水滸伝の梁山泊の事に触れてみると梁山泊の泊とは湖や池のことであり湖水にぐるりと囲われた一座の山が水滸伝の彼らのねぐらであり梁山泊だ。水滸伝の前半は108人が陸続と梁山泊に集まって来るまでの物語が描かれている。 梁山泊の108人は生まれも育ちも性格も違い荒っぽい大男から風流な青年もいた。また武芸自慢に書道の先生や医者やまた皇族に連なる貴人から百姓まで痛快な善を勧め悪を懲らしめる場面や酒に酔い知らない内に殺人を犯し追われる場面など実に面白い事件など経て梁山泊に集結する。 「中国の旅」
2011.12.20
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「無錫旅情6」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。水滸伝は北宋の末期1130年ごろの物語。物語は封印された108の星が開放され下界に転生し、その輪廻転生した108人がそれぞれ違う経緯を経て徐々に集まる。各地で108人は無法者にされ梁山泊に終結し朝廷の重鎮に対し攻撃を仕掛けるが朝廷側のスパイにより作戦がことごとく打ち砕かれ最後は滅んでいく物語である。「中国の旅」
2011.12.19
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「無錫旅情5」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。無錫水滸伝の物語では紫石街にて離れ離れになっていた武松が武大と再会をするカットで使用されたセット。武松は喧嘩をして人を殴り逃亡していたがてっきり死んだと思っていた喧嘩相手が生きている事を知り故郷に帰る途中に兄の武大に遭う場面であり武松は体も大きく武芸に長けていたため梁山泊の歩軍頭領となり南側第二の関門を守備していた。「中国の旅」
2011.12.18
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「無錫旅情4」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。中国山東テレビで放送した水滸伝は1996年中国で高い人気を得た。私は後にDVDに収録された水滸伝43話を購入して見たものの字幕が入っていなくまた山東の方言が強いようで難しかった。水滸伝の視聴率は中国全土で46%ほどだった。中国政府は水滸伝の物語の内容をあまり快くは思ってはいない。実話ではないが108人の豪傑が朝廷に逆らい歯向かうパワーをあまりよくは思っていないが大衆には絶大な支持を得た。「中国の旅」
2011.12.17
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「無錫旅情3」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。前夜ホテルで予約した地元観光ツアーでお決まりの無錫にある中央電視台のドラマ水滸伝や三国志のオープンセットに行った。太湖に接した無錫市街は典型的な中国の古い城壁都市であり中心を隋代以来の「大運河」があり京杭運河となった今でも多くの船が行き来する街でもある。「中国の旅」
2011.12.16
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「無錫旅情2」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。蘇州駅から列車を待つ事1時間掛かったが発車すると無錫まで20分ほどで着いた。無錫駅からタクシーに乗りホテルまで15分ほどで着いたがフロントでは予約が午後6時からになっていたのでキャンセルして他の旅行者を入れようかとフロントで相談していたところだった。ホテルを予約した折に電話番号を固定の電話のにしていたので連絡が着かなかったようである。四つ星ホテルなので旅行客の身なりもそれなりに小奇麗だった。部屋に通されたあと直ぐに外に出て酒の美味そうな飲み屋を探した。「中国の旅」
2011.12.15
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「無錫旅情1」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。無錫という地名を聞いて思い浮かぶのは無錫旅情という歌ではないだろうか。君の知らない 異国の街で 君を想えば泣けてくる 俺など忘れて 幸せつかめとチャイナの旅路を 行く俺さ 上海蘇州と汽車に乗り 太湖のほとり 無錫の街へ歌詞をコピーペーストすることはあまり好ましい事ではないが敢えて船にゆられて 運河を行けば ばかな別れがくやしいよ あんなに愛して あんなに燃えてた命をかけたら できたのに 涙の横顔ちらついて 歴史の街も ぼやけて見える「中国の旅」
2011.12.14
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「周庄旅情41(終)」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄バス停から蘇州駅まで向かい無錫行きの列車に乗るためのチケットを求めたが次の列車は満席だった。無錫のホテルをネット購入していた為に蘇州駅で1時間半待って後から来る列車に飛び乗ったが満席状態だった。その夜は無錫にて宿泊した。周庄の旅は終了したもののネットで調べた観光地点の全ては見れなかった。「中国の旅」
2011.12.13
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「周庄旅情40」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。元代中期ころ沈万三は周庄鎮の北側の白研江の水運を利用して西は京杭大運河へ東北は劉河から海に出て外国と貿易を行った。周庄の河筋は「井」という文字になり建物が河沿いに建てられ水路が街の中にある。元・明・清代に建設された古い橋が14個ありその中には国内で唯一の二重橋富安橋がある。周庄の河沿いに建てられた建物の約60%は明代、清代に建てられたものである。周庄は中国の水郷の美を代表していると表現した書に周庄は中国第一の水郷と記される。「中国の旅」
2011.12.12
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「周庄旅情39」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。「中国の旅」
2011.12.11
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「周庄旅情38」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄と書かれた提灯が掛けられておりその風情ある河沿いを暫く歩くと周庄内に作られた古劇台入口に出た。重厚な入口を通り抜けると広場があり広場には木製のベンチが数多く並べられ劇の始まりを待っていた。古い劇と書かれていても京劇によく似た劇を披露してくれるので興味ある人はのんびりと見てみるのもよいかも知れない。私は前回訪れた折に見たので舞台の裏側に行き昔の打楽器を撮影した。「中国の旅」
2011.12.10
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「周庄旅情37」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。水郷周庄の旅も終わりに近づいて来た。水路に架かる石橋は街中に14座ある。石橋は元、明、清の3代の間に造られたものであり造形美は評価される。東西に掛る世徳橋と世徳橋が直角につながる永安橋とを合わせて双橋と呼ばれているが古代のカギのような形であることからカギ橋とも呼ばれる。「中国の旅」
2011.12.09
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「周庄旅情36」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。水郷周庄の街を大分歩き出口へ向う途中周庄大橋を渡り暫く進み橋のたもとの階段を降りきると写真の雲海塔の前に出られる。雲海塔の歴史もさぞ古いのだろうなと思っていたが1999年12月末に落成とあり周庄の街の九重の塔は解放の波の中で計画が立てられ6年の歳月の末落成した。「中国の旅」
2011.12.08
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「周庄旅情33」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。「中国の旅」
2011.12.05
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「周庄旅情32」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。「中国の旅」
2011.12.04
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「周庄旅情31」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。「中国の旅」
2011.12.04
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「周庄旅情30」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。「中国の旅」
2011.12.02
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「周庄旅情28」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の街中を歩きながら撮影を続けた。街中をまだ見終わっていない私は出口付近まで来た所で来た道を引き返した。水郷周庄の街で暮らす人は観光業や飲食業漁業や農業をしているが農業が少なく近郊の村から食材を仕入れている。生活の交通手段は運河の水路を利用して近郊から食材を運搬している。蘇州や江南一帯は農業が栄えてきたがこの周庄などの水郷においては農業から観光業に変わって来た事は農業に比べてきれいな仕事、金儲けの出来る仕事として若い年代層では農業に戻る人は少ない。「中国の旅」
2011.11.30
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「周庄旅情26」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の南側に位置する全福講寺を出て湖に架けられた橋を渡り対岸から全福講寺の姿を横側から撮影した。千年の歴史を彷彿させる全福講寺だが全貌は文化大革命が終了して改革路線が打ち出されてより改修されている。橋でつないでいる全福講寺への人通りは少なく感じたが季節も冬なのでオフシーズンも手伝っていた。春節に行った広東省のお寺の賑わい振りにも閉口してしまうので返って人出が少ない方が風情があるようにも感じた。「中国の旅」
2011.11.28
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「周庄旅情25」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の全福講寺の弥勒菩薩像が安置してある本堂へやって来た。弥勒菩薩は釈迦の次に仏陀となる事を約束されたがシッダッタの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現し多くの人々を救済すると経典に記される。弥勒菩薩の事を未来仏とも呼ぶが実際に出現する時代は遠い未来の比喩として56億7千万年後と伝えられている。弥勒菩薩は娑婆世界に出世してシッダッタ同様に出家したのち竜華樹下で悟りを得て三度にわたり説法を行い多くの人々を救うという。中国では弥勒如来や弥勒仏と呼ばれている。「中国の旅」
2011.11.27
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「周庄旅情24」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。全福講寺は周庄の街の南側まで歩くと見えて来る。千年前の宋代に建てられた寺だ。全福講寺は、湖上に橋でつながれ建ち並び山門や指帰閣、また大雄宝殿や蔵経楼等より形成される寺院であるが南湖園の5分の1ほど。写真には指帰閣と出ているが帰命を指しており空海の三教指帰の出家宣言の書にも使われる。 空海が書いた三教指帰は西暦797年なので寺はそれから200年以上未来に建てられたのか。空海は24歳の時に著し、仏教の教えが三教つまり儒教・道教・仏教の三教の中で最善と示されており弁証法的な手法によって仏教が論理的に称揚されている。「中国の旅」
2011.11.26
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「周庄旅情23」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の全福講寺の中に入り香炉近くで長い線香を撮影しているが、これは誰かが長い線香を持って現れないかと暫く周りを見学しながら待ってみた。すると年の頃45歳ほどの中国人夫妻が写真の長い線香を二人で抱えて持って来た。暫く見ていると本堂の方へ一礼し左右にもそれぞれ一礼をした後に二人で香炉の中へ線香を支えながら差し込んでた。深々と一礼をしている写真も有ったがあまり良くないと、ここでは公開していない。細くて短い線香も売られてはいるが日本のような細い線香は売られていない。「中国の旅」
2011.11.25
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「周庄旅情22」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の全福講寺は900年線香を絶やさず守って来たが仏像や貴重な品々は全て破壊され周庄の街にとっても残念だった。だが改革開放の中で周庄も観光事業を始め次第に発展させていく事になる。周庄南湖の歴史人物と人文の景観を背景に南湖園を1995年3月より建築工事を着工。1995年3月18日には全福講寺の工事の為地鎮祭のような事をやったようである。南湖園の大型の絵巻は水郷の古い街である周庄の土地の中で新たな歴史を開始した。全福講寺は「水中の仏の国」とも呼ばれる。中国では仏教は段々と庶民に根付いて来ている。
2011.11.24
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「周庄旅情21」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の南湖園の中にある全福講寺を訪れたがこの寺への人出は少なかった。全福講寺は11世紀に建てられたが元々周迪功郎の邸宅だったが信仰の熱い周迪功郎が邸宅を寺とした。全福講寺には重さ1500キロの仏像や江南地方で一番大きな如来像もあった。だが1950年代初期に食糧倉庫に改造され寺内の仏像や経典等は別の棟に移された。文化大革命に入ると仏像や大きな如来像も完全に破壊されてしまう事になる。「中国の旅」
2011.11.23
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「周庄旅情20」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の余功橋から南方向へ曲がり富安橋の下を潜り抜ける観光舟や狭い水路を観光舟で観光客を乗せて時には船頭が歌を歌いながら舟を漕ぐ。石橋の下を潜る観光船と同じ形の舟で川魚を獲りに行くが殆どが投網漁である。時には石橋の上から投網をするとの事で投網で獲った魚の多くは周庄の食堂や市場に出され、また干魚が売られる。私は干した小魚を摘まんで口に運んだ。淡水魚なので塩の味は海魚ほどしない。干し魚なので噛んでいると甘みがあるが何となく土の匂いがしたように感じた。「中国の旅」
2011.11.22
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