浜松中納言物語 0
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「蘇州旅情2-26」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州寒山寺の四天王殿に安置される像。四天王の像であるが黄金色で統一されていた。宝剣を持っているのは増長天と呼ばれ増長天は須弥山の中腹で南方の門を守っている。上の画像の琵琶を持っている持国天である。持国天は須弥山の中腹で東方の門を守っている。下の画像の右手に蛇を持っているのが広目天で広目天は須弥山の中腹で西方の門を守っている。更に下の傘を右手に持っているのが多聞天で多聞天は須弥山の中腹で北方の門を守っている。日本の四天王の像の表情は凛々しく鎌倉時代の武士の背後で見守るという感じだが中国の四天王の表情には厳しいところが見受けられない。「中国の旅」
2011.10.01
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「蘇州旅情2-25」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。 宋以後は寒山寺は盛況であり皆の誇りだった。だが1366年張士誠と朱元璋の間の戦闘により焼失してしまっていた。明朝ぼ初めの1369年に恵貞により再建されたがそののち火災によって再び焼失してしまった。1436年に王況鐘が寒山寺を再建し本寂が吊り鐘を鋳造したが、1618年に再び火災に遭って遭ってしまうことになる。宋代976年の太平興国初年には、節度使の孫承祐によって7層の仏塔が建てられた。「中国の旅」
2011.09.30
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「蘇州旅情2-24」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。寒山寺は、1500年の歴史がある。中国では南北朝時代で武帝の時代に創建され寒山寺の寺名は唐代に改名された。630年頃に寒山が草庵を結んだ事に由来。8世紀の頃、張継が「楓橋夜泊」を詠んだ。寒山寺の全盛期の面積は広大であった。「馬に乗って山門を見る」ほど広かった。その昔は、蘇州を訪れる旅行者の多くはまず寒山寺を参詣してから蘇州の街に入った。寒山寺の歴史を見ると中国の歴史を見るようで何とも興味深いものがある。 「中国の旅」
2011.09.29
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「蘇州旅情2-23」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州絹織物展示場と土産物売り場では結局は何も購入しなかった。始めての旅行時には沢山の土産物を買っては重たい思いをしながら帰ったものだったが、土産物を頂く立場の人々は何となく不満げである。土産物を購入する方としては予算を考え土産物を買うのであるが最終的に重たい買い物になってしまう。だが帰宅し近所の人達に手渡すと小さなものになってしまうのでこれだけ?と本音が出るのかも知れない。写真は寒山寺前の運河から撮影した。「中国の旅」
2011.09.28
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「蘇州旅情2-22」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。絹の糸で織られた布地に綺麗な刺繍が施されており、色んな枠に収められていた。値段を確認すると結構な高値が付けられ手作りの良さと相まって新婚の部屋に飾るには良い雰囲気などと思った。椅子の背もたれのところに入れられ人が腰を掛けると、折角の刺繍が隠れてしまい勿体無いとも思った。刺繍が痛まないようにプラスティックでカバーがしてあり贅沢な家具の一品である。「中国の旅」
2011.09.27
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「蘇州旅情2-21」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蚕の繭から紡いだ絹糸で織られた商品が展示されており店員目を盗んでは撮影した。カラフルなスカーフが並べられており旅行者からは評判が良く買う人も多かった。中国の白酒を入れる綿入れの袋の置物まで造られており、買って行く中国人の女性に「プレゼントですか?」と質問したところ自分の部屋に飾るために買ったと応えた。中国の女性も酒が強い人や全く飲めない人と日本と変わらない。ただアルコール度数は27度から43度ほどと結構強い。「中国の旅」
2011.09.26
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「蘇州旅情2-20」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。中国での若者の結婚に際しては家を構えて花嫁を迎えるという風習がある。だが、全ての若者が家を持てるかと言うと疑問であるが、私の知っている限りでは皆マンションなり一軒家なり持っている。中国では夫婦共稼ぎというのは常識である。日本の場合、その昔は妻は専業主婦であり中国人は、その時代の日本女性の姿を学習しているのか、日本の女性は良いという。日本へ留学なり仕事なりで来ている中国人は日本の女性の働く姿に新鮮な驚きを見せている。「中国の旅」
2011.09.25
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「蘇州旅情2-19」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。華やかな新婚さんカップルが使うような布団類が現れ、少し爽やかな気分になった。ここでは布団に使われている布地から布団の中の真綿まで蚕の絹の糸から出来ていると説明を受けた。「畳絲被庁」と書かれたフロアに立っていたが「絲」とは絹の事で「被」とは布団の事である。そして絹糸で織られた生地で布団を作らないかと言われたが日本までは大変だからと断ったが日本からのお客さんが沢山買って行かれるとの事。私は兎に角布団は間に合っていると断り続けた。「中国の旅」
2011.09.24
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「蘇州旅情2-18」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州の絹織物博物館で蚕から糸を紡ぐ所を実演して見せてくれたが、蚕を熱いお湯の中に入れ、暫くすると糸をつかみ機会に掛けると蚕の繭から作られた糸が出てくる。時折、繭からの糸が切れたりするのでつなぎ合わせる作業をして見せてくれた。蚕から絹糸が作られていくパネル紹介や絹糸で出来た商品売り場へ案内されたがやはり営利目的だったかなどと思いながら中へと入った。「中国の旅」
2011.09.23
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「蘇州旅情2-17」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州の街には小運河が作られており蘇州を訪れたヨーロッパの人達からは「東洋のベニス」などと呼ばれ親しまれている。シルクの展示からシルクの商品を販売する所へ連れて行かれたが、蚕から糸を取り出し巻き付けている所は何度見ても飽きなかった。日本で蚕から糸を取り出している所は映画野麦峠などでも何度も見たが実際に蚕から糸を取り出している所は面白い。真綿も蚕の糸から作られているとこの時初めて知ったが、蚕から糸を紡ぎそのシルクの糸を織って出来た衣類を展示しており絹織物販売店でのイベントである。「中国の旅」
2011.09.22
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「蘇州旅情2-16」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。歴史上の早い時期に中国と西方世界を結ぶ主要な交通路は「シルクロード」だった。だが宋代に入った頃、ラクダに荷を積み陸路を危険と隣り合わせで進むシルクロードより中国の沿海都市を起点とする海洋航路が発達した。海のシルクロードが取り入れられるようになり物を運ぶコストが大幅に下がり更に栄えた。蘇州近郊は河川が多く内陸運河を利用した水運は織物などの工業製品を運ぶだけでなく農産品の運搬にも好都合だった。「中国の旅」
2011.09.21
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「蘇州旅情2-15」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。絹織物歴史館のような所へ入って行った。蘇州は1000年の宋代になると絹織物の産地として繁栄しシルク製品が多く出回る。蘇州のシルクは特産品として人気が高いが1000年程の歴史があるが、木綿の生産も絹織物産業と並び生産も盛んに行われた。10年ほど前までの蘇州の繊維産業は重要な花形の産業だったが世界的恐慌の裏で陰りをみせる。世界的にみても多くの商人が蘇州が最先端の絹製造技術に恩恵をと集まった事は間違いない。経済都市・蘇州が出来た背景には、世界的な物流ルートの再構築という要因もある。蘇州はシルクロードの基点になっていた事もある。「中国の旅」
2011.09.20
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「蘇州旅情2-14」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州波止場には多くの遊覧船が繋がれていた。遊覧船といっても30人ほどが定員の船である。波止場で船に乗り10分ほど待っているとまだ空き席が大分あるのに船は出発した。遊覧をするというより次の目的地までの連絡船という言い方のほうが似つかわしかった。15分ほどして降りて下さいとメガホンで言われた。船を降りると地元のガイドが待機しており絹織物や製品を販売する土産物屋まで案内された。「中国の旅」
2011.09.19
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「蘇州旅情2-13」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。獅子林は高い塀に囲まれ長い回廊や池があり静かな佇まいを見せてくれるが、こちらも詩を詠む心のゆとりを持って接すると良いが時間から時間へと追われる今は余裕がない。獅子林の茶屋の中でお茶を飲んだが瞬く間に30分が過ぎ去ってしまった感じだった。蘇州埠頭から遊覧船に乗り絹の館へと向った。「中国の旅」
2011.09.18
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「蘇州旅情2-12」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。獅子林が一般公開されたのは修繕された2年後の1954年2月の事だったが元朝に獅子林が出来て実に600年後の事だったが一般市民は無関心だった。写真の石が太湖周辺で採取した太湖石であるが何となく人造石に見えてしかたなかった。1985年には以前蘇州市文化財の管理委員会が使っていた庭園の北東側にある祠堂と一部住宅が蘇州民俗博物館の管理下におかれることになった。「中国の旅」
2011.09.17
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「蘇州旅情2-11」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。獅子林は多くの人の手に渡り変貌を遂げたが最終的には見捨てられ荒れ果ててしまった。1917年に大富豪の貝潤生が獅子林を買いとり大規模な改修を行い殆どの建築物を再建した。再建に当たっては西洋のデザインを参考にした為倪雲林の「獅子林図」の中で描かれていた庭園と比較してみると大きく変わってしまっていた。時代は大きく動き中華民国の時代へと移っていた。獅子林の楼閣の壮大さや雅やかな飾りつけは中華民国時代蘇州の庭園の頂点に立っている。日中戦争で日本軍の占領当初は貴賓館として使われた所も抗日戦争終結後、国民党の軍隊が獅子林に駐屯したことがあり兵士の心を癒した。1952年には市文化財管理委員会は獅子林の東側の貝家の祠堂を事務所として使っており貝潤生の子孫はこの獅子林庭園を国に寄付した。「中国の旅」
2011.09.16
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「蘇州旅情2-10」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。獅子林では当時の文人たちが詩を詠んだり絵を描いたりする景勝地になっていた。だが20年もすると寺の僧侶たちは獅子林から離れ去ったため庭園は豪族に占用されてしまった。その後、獅子林は段々と荒れ果てることになった。明朝万暦の頃に、江盈科が再訪した際嘆き悲しみこの庭園を修繕し、仏殿、経閣、山の門を再建した。清朝の順治5年に、再び修繕をおこない、60年後の康煕42年に、康煕皇帝が南方巡察の際に獅子林を訪れ「獅子寺」の横額揮毫を下賜したという。乾隆の初期に寺と庭園が分割される事となった。庭園に五株の古松があったため「五松園」と称される。乾隆帝弘歴は幾度も獅子林を訪れ倪雲林が描いた「獅子林図」の上に詩を題した事で更に名が広まった。「中国の旅」
2011.09.15
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「蘇州旅情2-9」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。獅子林は、蘇州市園林道通りにあり1963年に江蘇省の文化財保護指定を受け、37年後の2000年に世界文化遺産として登録された。獅子林は宋代の官職別宅であったが1342年に日如禅師のために弟子が出資して家を建てた。明代の洪武の頃には、釈如海がここに住んでいた。洪武6年に画家の倪雲林が獅子林を通りかかった時釈如海に頼まれて「獅子林図」という絵を画いた。話によると獅子林図の絵は台湾に保存されている。如海は違う画家に頼み「獅子林12景図」を描かせそれ以後獅子林の名が知られるようになったという。「中国の旅」
2011.09.14
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「蘇州旅情2-8」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州市内には八箇所の園林が世界遺産に登録されており、写真の太湖石はその全ての園林に配置されており人気なのだろう。だが写真の獅子林だけは本格的で太湖石を利用した迷路を造り良く考えないと迷ってしまう。獅子林を探索してみると入口の横に出口があり案内の矢印に沿って進まなければ出口に来てしまうので撮影する人は気を付けなければ何度も同じ所を迷ってしまう。初めて獅子林を訪れた人は何処も同じように見えるようで何処にも似たような岩や通路がある。だが見晴らす景観が違っているので実際は迷路に迷い込むという事はない。「中国の旅」
2011.09.13
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「蘇州旅情2-7」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州庭園へ初めて来たのは1985年の事。獅子林へも来たと思うが記憶に残っていない。2度目に蘇州庭園を訪れたのは16年後の2001年の事であるが仕事の合間に来たので庭園を落ち着いて鑑賞するほどではなかった。上海に住むようになってからは列車で50分ほどの時間で来れるので結構庭園を訪れるようになった。獅子林の回廊から庭園を見ると石灰岩で出来た太湖石が配置されているが岩肌は長い年月に侵食され深いシワのように見えるがマッチしている。太湖石の風貌は美しいと形容出来るがむしろ奇怪な感じを受ける。蘇州の人達は自分の庭にも太湖石を置いているようであるが岩とはまた違った趣が感じられ長い間眺めていても飽きない。 「中国の旅」
2011.09.12
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「蘇州旅情2-6」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州庭園の中に留園と呼ぶ世界遺産の庭園があるが、留園にある太湖石は4箇所の庭園最大で6.5mの高さがある。獅子林にある太湖石は高さこそ留園にはほど遠いが量的には蘇州庭園の中で最大である。太湖石とは蘇州の太湖周辺の丘陵から切り出される石に穴の多い奇石である。太湖の丘や湖の島は青白い石灰岩で出来ており長年の侵食により石灰岩に多くの穴があいている。 太湖石は中国各地の庭園で鑑賞のために置かれ始めこの太湖石を見た所は北京だったが人工的に造られた石のように感じられた。「中国の旅」
2011.09.11
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「蘇州旅情2-5」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州四大名園と言えば滄浪亭、獅子林と拙政園、留園の事を指すが獅子林は蘇州四大名園のひとつに数えられる。元代の1342年に造園された庭園と紹介があるが清朝の時代にかなり手が加えられている。獅子林の園内は太湖石で埋め尽くされ通路は迷路のようにも感じられる。獅子林は獅子の名前のとおり園内には獅子の形に似た岩が沢山あるが実際の所長い時間眺めていて、何となく獅子に似ているかなと感じる程度である。「中国の旅」
2011.09.10
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「蘇州旅情2-4」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。獅子林庭園に入りまず目に入るのは石である。石と言っても一般の石ではなく太湖周辺で採取した「太湖石」で築山にした公園である。獅子林には東屋や回廊が多く造られている。その建物は蘇州庭園の水や橋で輝きを増している。 獅子林の築山の洞窟の天井が低く子供たちが遊ぶには丁度良いかも知れないが大人が子供たちの後を同じように追って遊歩ならば怪我をし兼ねないほど狭く低い洞窟である。獅子林は元王朝の時代に造営されたもので700年程前に造られ蘇州の四大名園の一つである。「中国の旅」
2011.09.09
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「蘇州旅情2-3」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。写真の蘇州庭園は拙政園のすぐ南側の獅子林と呼び蘇州四大庭園の一つである。1342年の元代に高僧天如禅師のために弟子が禅式の庭園を築造したのが獅子林である。獅子林とは禅師が浙江省の天目山の獅子崖で修行し如来の仏典の獅子吼から獅子林と名付けた。獅子林内には花崗岩の奇石や太湖石が林立し太湖石を積み重ねて作った築山は狭く気を付けないと頭を打ちそうな洞窟となっている。獅子林は別名「築山王国」とも呼ばれる。清朝の康煕皇帝と乾隆皇帝は南方巡回の際数回にわたり獅子林を訪れ北京の円明園や避暑山荘に獅子林を真似て太湖石の築山を作らせその史実が一躍天下に知られ獅子林の名が広まった。 「中国の旅」
2011.09.08
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「蘇州旅情2-2」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州の園林へは多くの観光客が訪れる。日本からの観光客も多いため通訳が重宝されており、庭園のあちらこちらで日本語が飛び交っている光景が見られる。拙政園や留園また網師園などは1997年に世界遺産となり拙政園(zhuozhengyuan)と留園(liuyuan)は中国四大名園に数えられる。広大な拙政園は池がその約6割を占めている。「中国の旅」
2011.09.07
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「蘇州旅情2-1」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。中国には「上有天堂、下有蘇杭」という言葉があるが蘇州と杭州の事を指しおり天に楽園あれば、地に蘇州と杭州があると言う意味に捉えれば良いが中には蘇州だけを指して言った言葉であると豪語する人もある。上海から蘇州までは列車で40分ほどの距離である。車でなら上海から1時間半のところにある。蘇州には運河が張り巡らされていることから「水の都」とか「東洋のベニス」などと呼ばれている。蘇州へは6回ほど観光したが、四季折々の風情が楽しめる街でもあり紀元前6世紀頃からの歴史があり古典庭園は世界遺産に指定されている。「中国の旅」
2011.09.06
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「上海旅情2」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上海のホテルに荷物を置いた私はその足で近くの地下鉄乗り場から目的地まで向った。予定していたのは上海新天地近くのレストランで中国人の人達と夕食をする事になっていた。まだそれまでには時間があるので新天地まで先に出向き1年ぶりの新天地を見ておきたいと思った。上海の地下鉄はカードを購入しておき料金が無くなり掛ける前に購入して入れておくと楽である。中国の地方から出てきた人は地下鉄のチケットの使い方にまだ慣れていない人もいるので近くへ行って教えてあげないと、そこだけ列が膨れ上がる。そしてバッグなど無防備になっているので上海の地下鉄改札口近くにはプロのスリがいるのでバッグは必ず体の前に持ってくるようにと要らぬお節介を焼いたりしている。上海の地下鉄では乗降口に別の安全ドアーが設置され人が押されて線路への落下を防止している。また電車への乗降マナーは目に余るものがある。我先にという中国の人々へ常識を教えないのも悪いが人を押し退けても自分が先に乗りたいという心理は昨日今日に始まった事ではなく国民性の問題でもある。「中国の旅」
2011.07.20
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「南京旅情143(終)」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京駅ホームに入って来ていた「和諧号」の写真を「和諧号」の先端部分まで小走りで行き撮影したが、発車のベルが鳴り出し慌てて飛び乗り通路からゆっくり歩いて座席へ戻った。「和諧号」といえば今日本のニュースで話題の「新幹線」だが「パクリ」問題の車両と同型。元々日本松本の川崎重工業の技術が導入され長野新幹線の「はやて」として使用されている。中国人は日本へ観光に来て「和諧号」と同じ車両を指差して、中国の新幹線がここまで入っていると言ったそうであるが、日本の状況を知らない人達はそのような錯覚を覚えてしまうのだろうかとまで思った。南京駅を午後3時前に出発し上海駅に5時過ぎ着いた。2時間強で南京上海間を走る「和諧号」に空席はなかった。途中の停車駅は上海までの5駅あり、もし直通なら2時間を軽く切れる速さで来れるのではと思った。停車した5駅は、「鎮江、常州、無錫、蘇州、昆山」で駅弁などもホーム毎ににぎやかなほどである。「和諧号」は350キロで走行するが、北京天津区間で南京上海の区間は停車駅の数も多く時速210キロで走行。「和諧号」も日本の「はやて」と全く変わりはない。ただ何となく垢抜けしていない感じがするのは何故だろうと思っていたが中国人の服装の色にも左右されているようだ。この6月に北京と上海を結ぶ専用線が開通したが1328キロ一度に開通した距離では世界最長であり時速も350キロだ。上海駅へ到着した私は、徒歩でバス停までゆっくり歩き定期バスで予約したホテルまで行き、シャワー後街へ出た。 「中国の旅」
2011.07.15
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「南京旅情142」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京駅でまず構内に入る前にチケットのチェック後、少し歩くと持ち物検査がある。空港と同じように持ち物の中に不審物が入っていないかをチェックされる。そのチェック方法は空港とほぼ同じ感じで危険物混入や金属探知機で調べられる。全ての手荷物をコンベアーの中へ入れるように促され、私の場合荷物よりカメラ機材で質問を受ける場合が多く面倒でもある。持ち込み荷物のチェックを受けたのち待合室まで行くように促されるので撮影など出来ない。待合室へ入るまでの通路の上には案内板があり発車時刻と目的地が表示されてチケットと照らし合わせて待合室を間違えないようにする。稀に中国人の若い女性が壁に掛けてある時計と手に持っているチケットとを何度も見比べ、何事かと彼女を見ると目が合い立って来る。チケットを私に見せ、この待合室でいいですか?と聞いてくる彼女の服は真新しく故郷から出てそれほど経っていないのではないかと思われた。私は彼女のチケットを手に取り、現在時刻と彼女の目的地を照合すると全く違う待合室だった。私は彼女に奥の待合室だから手荷物を持って早く行かないと、あと10分ほどで発車ですよと促した。今まで長い時間椅子に座って不安に思っていたのではと思いながらも彼女の歩く後姿を目で追っているとこちらを振り向きペコリと何度もお辞儀をしていた。もう少し確認が遅れていたら列車には乗れなかった。こちらも改札が始まり、走ってホームへ行く人もありこの時の人の心理状態や性格が分かり面白い。「中国の旅」
2011.07.13
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「南京旅情141」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。私は南京駅の外の撮影を終えた後、直ぐに南京駅のターミナルに入ったが人は多かった。日本で言うならばJRの駅構内と同じである。JRの場合はまだ人々が整然としているが、こちらでは、あちこちに人の塊りが出来ていて、その中にはタバコをパカパカ吸っている人も見かける。中国の鉄道事業も急ピッチで進み今では世界でもトップクラスに入るほど躍進している。1876年に開通した上海呉淞鉄道からするとすでに135年の歴史がある中国の鉄道であり文化大革命時代でも鉄道が重要視され飛躍してきた事は間違いない。ここ南京でも全く同じで1986年頃から飛躍的に伸びており、鉄道だけに留まらず車両には目を見張る。だが、その殆どがパクリに近い状態なのが残念である。南京駅は2005年3月に改修工事が開始され、構内配線が8本から10本へ、ホームは3箇所から4箇所へ増やされる。地下鉄も2005年8月に 南京地下鉄1号線が開業している。2005年9月始め中国国鉄改修工事完成後の試験運用開始。2010年7月に新しい鉄道が開通し、現在のホームの北側の新ホームが使用開始になるなど目まぐるしい。構内は飛行場を感じさせるような広々としており何枚もシャッターを切るうちに警備の人から手でレンズを塞がれて、あまり沢山撮影されては困ると言われたが、カメラ機材を担いでいるので報道関係と間違えたようだ。「中国の旅」
2011.07.12
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「南京旅情140」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。ホテルで清算を済ませた後、直ぐにタクシーで南京駅まで急いだが、南京駅まで10分ほどで着いた。南京は歴史も古く、中国六大古都の一つであり北京、西安、洛陽、開封、杭州、南京の六都を言う。夏ともなると盆地になっており暑さも相当なもので武漢、重慶とならび中国三大釜戸と呼ばれるほど。南京は歴史が古いという事も手伝い見どころも多い。以前欲張ってスケジュールを組み過ぎてしまい上海、蘇州、南京、杭州と結局、時間が足りずに何れの所も中途半端になってしまった経験がある。今回、かなりの余裕を見て南京を見て周ったがそれでも多くの所が見れず、お決まりのコースしか見て周れなかったというのが現実である。1968年以前は、長江(揚子江)は船で渡っていた。南京長江大橋の開通とともに大きく変化していった。六朝は、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁と陳の総称であり歴史も1700年以上前に遡る。 呉の滅亡から東晋の成立までの時代を含め、222年から589年の時代を六朝時代呼んでいる。またこの時期の文化を六朝文化と称している。「中国の旅」
2011.07.10
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「南京旅情139」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。4年ほど前に良く交流のあった同じ楽天ブログのメンバーが今も健在かどうかを検索してみた。ブログのタイトル名を入力し検索、一発で出た。4年ほど前は筆不精だった友人も今では一日に10ページほど更新して驚いたが健在だった。毎日10ページの更新は大変なものである。確かに日記的なもので「おはよう」とか「今日は朝からカレーライスでした」などと簡単な内容のブログだったが、それでも更新は大変である。私のブログは1日1ページがやっと更新できる感じ。旅行の記憶を辿りながらの更新なので時間が掛かる。それでもこのスタイルは今後も変わらないだろう。総統府の庭から出口へ出て、少し歩くと煦園への入口へ出た。本来なら私はここから入るべき所を裏を通り抜け、中の事務員の人に孫文の執務室を聞き、案内された方向へ歩き見学していた。表に出れば、孫文の執務室の案内や煦園への案内など出ており、それほど苦労をする事はなかった。だが、普段観光客が歩く通路ではない所を歩いた事に何となく別な意味で貴重な体験をしたように思った。しかし、結局の所、観光客が感動して入る表からは入れなかったので、その感動分何となく損した事になる。今回の予定には入れていなかった総統府の観光も慌ただしく過ぎて、間もなくホテルへ戻って荷物を取り南京駅まで行かなくてはならず、慌ててタクシーを止めた。「中国の旅」
2011.07.09
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「南京旅情138」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文の執務室から裏庭を抜けると風情ある庭が目の前に広がりを見せていたが、一人での観光は、自分が一体何処の場所にいるのかが分からなくなってしまうので注意が必要だ。後で分かる事であるが煦園の庭園に入り込んで一般の観光ルートとは逆の方向から見ていた。この庭園に造られた住居は600年前の明初永楽帝の次男で第4代皇帝洪熙帝の弟にあたり庭園も熙の一字を取り煦園と呼ばれていたが、清代には総督府がここに設置され、康熙帝は両江総督府に逗留した。乾隆帝の南京訪問時の為に乾隆行宮の建設をし庭園の一部分が、現在の煦園あったため入り組んでいる。 清末には、洪秀全の太平天国の乱が起こり男女平等を唱えて南京を首都と定めて、総督府跡を天朝宮と命名。だが、理想を求めて10年ほど続いた政権も、内部崩壊や天朝宮の放火や略奪で、理想郷の大半が消失してしまった。その後は辛亥革命が勃発、孫文の中華民国臨時大総統。明代初めに煦園を造った、傍に孫文は執務室を設けた。孫文の病死後、1928年に蒋介石は中華民国の主席となりこの地を政府所在地と定め、20年後には総統に就任した。しかし、誰もが考えなかった総統府は1年持たずに共産軍との内戦に破れ蒋介石は、台湾に亡命する事になる。歴史が目まぐるしく動く中で中華人民共和国の成立後現在は歴史保存のため総統府跡として整備されている。「中国の旅」
2011.07.08
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「南京旅情137」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文の生涯は革命に明け暮れる日々だった。中国での革命に何度も失敗しては亡命をして孫文縁の地である日本へも亡命をしていた。清朝政府は当時破格の70万両の白銀を孫文の首に懸賞金にして、孫文の命を狙い刺客が追う。 孫文は革命地盤である日本を脱出し清朝政府の手の届かないマレーシア・ペナンへと向かう。中国映画「孫文 100年先を見た男」の中では清朝を倒した1911年の辛亥革命の1年前の孫文の姿をマレーシア・ペナンの地で5ヶ月間に渡り描いている。また孫文の革命を支えた陰に、女性の姿が見え隠れする。女性の思いは革命なくして孫文はなく、孫文を愛する事は、すなわち革命を愛することだった。孫文の革命は女性自身の革命であり、孫文の苦しみもまた同じように彼女の苦しみでもあった。中国映画「孫文 100年先を見た男」は、孫文に付き従った20年間の軌跡の、一部分しか描写されていない。革命家を描くドラマとしては、どちらかというと静かな部類に属する映画でありドラマである。映画の冒頭の部分で、凄まじい記録フィルムが登場し一瞬目を奪われ釘付けになるが、それを除けば静かだ。孫文が唱えた「三民主義」は力で相手に接するのではなくそれぞれの民族が自国の歴史や文化に誇りを持ち思いやることが、世界の調和をもたらすと説いている。この思想が、最後には革命を成功させたが民族、民権民生の三民主義の事だが、今では理想でしかない。理想の世界の実現には、まだ遠い未来への道のりがあり孫文はそれを見る事もなく世を去った。孫文が残した「天下為公」天下は人が人らしく生きることを意味する。「中国の旅」
2011.07.07
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「南京旅情136」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。孫文のことを中国では孫中山と呼んでいる。生まれが広東省の中山で1866年に生まれて中山の名前が付いたが中山市の発展も目を見張る。アメリカ国籍を持つキリスト教信者だった。中華民国時代には国家の父として愛された。中国広東省に中山大学があるが孫文が命名している。中学時代からアメリカの兄や母を頼って行くが、大学に入るころに中国へ戻され医学の学校へ入り、香港で医師免許を取得するまでになった。孫文は革命家の父としても知られているが、何度も革命を起こしては失敗しており日本へも亡命したが、丁度明治維新の渦中であったので、中国へ帰国後、革命を指揮し勝利を収めている。その孫文が国民党総統府へ執務室や住居を構え孫文が使っていたままで保存されている。孫文は志半ばで、病気が原因でこの世を去る。それが引き金となり、中華民国は直ぐに滅亡する。孫文の後を引き継いだのは蒋介石であり、この総統府に事務所を並べている。「中国の旅」
2011.07.06
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「南京旅情135」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。1928年、蒋介石は民国政府の主席となりこの地を政府所在地と定め総統府を建てた。その南京総統府の中で部屋を見て周ったがどの部屋に入っても重厚な雰囲気がある。蒋介石の執務室の説明があったので収めた。1936年に国民政府の事務所として使われ中間にある事務所を蒋介石が執務室して使用。1937年12月日本軍が南京を占拠し全ての部屋を明け渡す事になったが蒋介石は脱出した後。1946年戦争終結と共に、蒋介石は国民政府を重慶から南京へ新たに移し変え執務室とした。1948年には総統に就任し総統府と正門に掲げた。だが、その翌年には、共産軍との内戦に破れ蒋介石は上海より台湾に亡命することになる。元々総統府では、孫文が臨時大総統の執務を執り外国との接客業務などの会議場も再現されている。1949年4月に共産党軍が南京を解放し総統府の看板は降ろされ同時に、中華民国の青天白日旗も降ろされたが、直ぐに中国の国旗が正門に掲げられた。共産党の幹部将校達は破壊活動を続けたが、4月27日に南京入った「トウ小平」が制止した。その時の指示が「総統府は国家の宝であり重要な文化遺産のため総統府を愛護する立場にある。直ちに部隊は全員出て行くよう」と指示をした。今多くの文化遺産が残っているのもトウ小平が守ってくれていたのかも知れないと思いながら撮影した。蒋介石が外国からの賓客と記念撮影をしたり会談をした場所だが目を閉じると当時の首脳陣たちが座って会談をする姿が瞼に映り目を開けると、まだ目の前に各国の要人たちが、私を見ているようだった。数知れない荒波の中で残った総統府は世界の人に一般に開放されており各部屋に一歩ずつ足を踏み入れると当時の息吹が肌で感じられ私一人だけで中に居る為か武者震いまで覚えた。壁には国民党を作った孫文の写真と旗が掲げられその当時をしのぐ事が出来るが、他にも幾つか部屋が公開されており、ゆっくり見て周るとよい。「中国の旅」
2011.07.04
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「南京旅情134」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。上の写真は中国軍の刀だが日本刀とは幾分違う。1864年7月の中旬過ぎに清朝の軍が再び南京を奪回して勢いを盛り返されてしまったが天朝宮殿は無残にも焼かれてしまう事になった。1890年に焼かれたままになっていた天朝宮殿は再建され現在の総統府の姿の基礎が出来たようだ。1911年に辛亥革命が起こり革命軍が12月に南京へ入場すると1912年の元日には孫文が中華民国の臨時大総統に就任し総統府に執務室を構えた。だが孫文が臨時大総統として執務を行ったのは3ヶ月間の91日間だけで、4月3日には袁世凱に大総統の地位を譲った孫文は3ヶ月で離れている。孫文亡き後の総統府の留守をあずかった黄興が南京で執務を行う約束を破った袁世凱を討とうとしたが失敗。総統府は袁世凱軍の総司令部となってしまった。1927年、蒋介石軍が北伐に成功した3月には南京に入城し南京を首都と定め「国民政府」掲げられた。だが10年後の1937年、日本軍が南京に侵攻する。南京が陥落するとここに維新政府が誕生した。目まぐるしく総統府の中は代わって行ったが1945年旧日本軍が降伏し蒋介石の国民政府が南京に入場する。再び「国民政府」の看板が掲げられ1948年に蒋介石が中華民国総統に就任すると「総統府」が復活した。蒋介石が幹部たちと記念撮影をした当時の写真が壁に飾ってあり幾分光りを調整し撮影したが宋美齢がいる。 「中国の旅」
2011.07.03
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「南京旅情133」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。国民政府と呼ばれるものは複数あったものの1950年までの中華民国は常に政治的に混乱して一時的に2つの国民政府が並立することもあった。 再度中華民国の国民政府の事を考えてみると武漢国民政府と呼ばれた1937年からの1年間の期間日中戦争時に南京政府が武漢へと遷都していた時期。重慶国民政府は長く1938年から8年間を重慶にて日中戦争時に、重慶へ遷都していた時期の事を呼ぶ。 中華民国政府への支持は中華人民共和国成立後の1949年以降から今日に至るまで続いている。上の写真は中華民国政府の発足時に清国の幹部が集まり新政府への誓いを立てた儀式に参加したメンバー。 写真の刀は日本の敗戦が決定した折に将校たちが総統府へ置いて行き大切に保管されているものである。孫文の打ちたてた新時代に相応しい大屋根建築や四合院だけでなく西洋風建築も擁した庭園の煦園の造園がなされ、完成後はこの庭園をいつでも散策し構想を練っていたとされるが、今は裏側に孫文の宿舎兼執務室が造られ西洋風廊下も取り入れられた。東西文化「華洋折衷」の建築群が「総統府」にある。「総統府」の名は短期間しか使用されていなかった。1912年1月1日に孫文が中華民国の臨時大総統になり指揮を執った時と1948年5月に蒋介石が中華民国の総統となった時に「総統府」名前が使われなかった。総統府付近の歴史も古くまた伝統ある地域でもある。明王朝の始まりにこの辺一帯に皇帝の別荘があり、頻繁には訪れてはいないが、ここ地域で政治が動いた。明朝が滅亡すると同時に清朝は華南地方統治の拠点を置いたが1853年に太平天国が南京を占領したおりに南京を天京と変え首都と定めると、この総統府一帯は規模を拡大され洪秀全の天朝宮殿となった。「中国の旅」
2011.07.02
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「南京旅情132」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。今日は7月1日で90年前の今日中国共産党が結成された記念日で、中国の皆さんのブログには「七一、おめでとう」と書かれて祝っていました。孫文の建てた国民政府の写真の紹介の中で共産党の話題は不謹慎かも知れませんが、7月1日は何の日か、知っておくのも良いです。しかし、中国の話ですがね。国民政府や台湾、また孫文の墓である中山陵へ行くと「天下為公」と書かれているのを見かけると思う。私が一人で中山陵の「天下為公」と書かれてある所で大きな声で「天下老公」と言ったら、私の周りの知らない中国人が大笑いして「あなた何処の人」と聞いて来たので台湾人と答えておいた。「天下為公」の意味は、天下は権力者のものではなくそこに暮らす人々つまり公の人のものである」という意味。私が言った「天下老公」は、この訳し方からすると「老公」とは夫の意味で、天下は夫のものであるとなる。これを聞いた中国人は、やはり笑うだろうな~と思った。上の写真は孫文の絵で、下の写真は劉伯承とトウ小平だ。このときは国民党と同じ釜の飯を食べていたが、孫文亡き後から徐々に亀裂が入り共産党として闘う。国民政府と呼ばれるものは、常に南京が基地となっていたが旧日本軍との戦闘状態の時に、国民政府を南京から湖北省の省都の武漢へ移しており、武官国民政府などと呼ばれた時もあったが、蒋介石が四川省の重慶へ政府を移したため重慶国民政府と呼ばれた時代が8年続いた。「中国人のコピー&ペースト」
2011.07.01
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「南京旅情131」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。写真は国民党が樹立した政府の総統府である。孫文が国民政府を樹立させ総統府を建て中華民国の要人が執務を行った場所である。南京に中国国民党政府として国家元首は主席とし1925年以降に国民党が樹立させた政府であり中華人民共和国の意向を反映し1949年までの24年間、国民党が中国大陸で樹立した政府。1971年に中華民国が国際連合から脱退。1972年9月中国との国交正常化のため、日本と台湾の国交が断絶してから日本では国民政府の呼び名はなくなった。中国では1925年の広州国民政府樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政府が樹立し憲政が開始されたがそれまでの間、国民党が運営していた中央政府の機構及びに最高行政機関が置かれていた所である。私は今回総統府へ立ち寄る予定はなかったが朝食を食べているときにホテルの人から有意義な旅でしたかと聞かれ、総統府へは行かなかったがという話をした。南京まで来ていて総統府へ行かないのは勿体無いと話があり、急ぎ総統府へ行って来たが、2時間ほどの時間でホテルから総統府へ行き、見学をしてまたホテルへ帰って来て、南京から上海までの列車に乗らなければならず、相当慌てて総統府を目指した。「上海紅楼夢の旅」
2011.06.30
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「南京旅情130」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。玄武湖への通用門になり本来ならこの門より入りチケットを購入して、玄武湖巡りをする。私が入った所の門も入口には違いなかったがこの門から2キロ以上離れており結果的には地下鉄に近いこちらの方へ来れたので良かったのではと思った。私が行った時にはオフシーズンを利用して玄武門の化粧直しをしている最中であった。この玄武門を出て、少し歩くと地下鉄のホームへと出れた。南京の玄武門近くに大きなスーパーもあり多くの人で賑わっているようだったが私は疲れのためそのまま地下鉄のホームに入ってくる電車に乗った。玄武湖公園から8つ目の駅が私の宿泊するホテルがある夫子廟駅であった。疲れのためか、少しウトウトし15分ほどがあっと言う間に着いてしまった。夫子廟は繁華街という事もあり人の往来が多かった。中国共産圏の地下鉄とは思えないようなカラフルな壁絵が描かれていたので画像に収めた。ホテルまで歩いて8分ほどの道のりだったが、カメラバッグがズシリと肩に食い込みタクシーで帰ることにしたが、タクシーを待つのに5分ほど掛かりこれなら歩いて帰った方が良かったのかとも思った。その日はホテルの部屋のシャワーで済ませ食事もホテル内のレストランで済ませ、早くにベッドへ入った。「上海紅楼夢の旅」
2011.06.29
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「南京旅情129」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。 玄武湖公園に入ったのが午後4時過ぎていた。鳥類の世界で鳥と戯れていた時間は多くはないと感じていたが、辺りを見渡すと薄暗くなっていた。薄暗くなり湖越しに対岸のビルの上を見ると夕焼けの空が湖面に映えシャッターを切ったが、太陽の熱量が多く太陽の色が飛んでしまっていた。玄武湖は古来より龍の伝説で多くの武将に知られておりこの辺り一体で、武将たちの訓練が行われていた。近くで鳥に餌をやり、後片付けをしている女性にここから、玄武湖の出口まで徒歩でどれくらいかを、聞いた所、30分ほどか掛かるとの事だった。指で玄武湖出口方向を教えてもらい、その方向を眺めてみたものの30分の距離は近くはなかった。貸し自転車も有ったのにと言われたが、遅い時間に入って来た自分の責任であると歩き出した。暫くの間、夕陽を眺めており、前方に向き直ると夕陽に目が慣れてしまったのか、一段と薄暗く感じた。玄武湖に浮かぶ5つの島は人工的に造られた道路で結ばれていた。その道路の幅は広い所で25mほどかなり広い道路である。車が通れるように中央部分は舗装されていたが、今は規制されており静かだった。湖の畔へ行くと畔には沢山の木が植えられておりその下には沢山のベンチが備え付けられていた。夕方近い今、この玄武湖の道を通って帰宅する人も多く、この辺りは市民の憩いの場にもなっていた。「中国雲南の旅」
2011.06.28
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「南京旅情128」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。現在私が立っているのは玄武湖の内で菱州と呼ばれている島で、その昔菱の実の産地で名声を馳せた島という事だったが、その中の「鳥類の世界園」に入り込んでしまっている。鳥類園では世界各地200種類の鳥を飼っている。「中国鳥類第一園」の称号があるが、中国では何処の観光地へ行っても「第一」と付いている。東方白鸛と言っているので始めは何のことなのか分からなかったが、急ぎ電子辞書で調べてみた。コウノトリと言う事が分かったが、餌を食べるために我先にと飛んで来て私の横に羽根をすり寄せる鳥も写真では一部分を切り取っているので分からない。鳥の飛び交う情景としては辺り一面、写真の情景である。色々な鳥がいるが、これでも鳥の餌の種類が違うため何度かに分けて餌をやっていた。私はその真中に居た。黒い首の灰色のコウノトリやアヒルや白いハトも一緒になって飛び交っていたがシャッターを押すのが難しく感じた。シャッターチャンスは何度もあったが鳥が飛ぶ瞬間にシャッターを押しても絵にはならない。白色のガチョウやシラサギやアオサギなどもいた。餌を覗いて見ると沼や水田や海岸などの環境に則してカエルの種類やエビのカニや昆虫など生きたままだった。黒いハクチョウだと言われてそちらの方向を見たがやはり白鳥は白い方が似合っているのかもと思った。飛び交う鳥の餌やりが終わると今度は違う音色の笛を吹いて鳥を呼び寄せていたが、現れたのは孔雀達だった。「中国雲南の旅」
2011.06.27
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「南京旅情127」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。玄武湖の中を見れる統一券しか売っていなかったのでその統一券を買ったもののチケット売り場の人からこの入場券は当日限り有効だと聞かされたが致し方ない。更にチケット売り場の年配者は夜は遅くまで開いてなく6時には鍵を閉められるから注意しなさいよとニッコリ微笑むがその微笑が私には嫌味にしか感じなかった。5つの島を見て周る共通券ということなのだが結局の所撮影をしたりしている間に時間が来てしまい1箇所を見るのが精一杯でだったが、その場所は鳥類の世界。近くまで歩いて行くと少し離れた所からでも鳥の鳴き声が聞こえて直ぐにそれと分かった。シラサギにも似た鳥だった。私はこの時点で大分慌てていたのか入口を間違えて従業員の出入り口から入って行ったので私が網の中で2.3人の観光客が私を指差して笑っているので私も笑った。鳥の飼育をしている従業員のおばさんが、あんた何処から入って来たのか聞いてきたので、チケットを差し出すとチケットを見ながら、「第一の見学場所がここかい」と今度はオバサンが私を見て笑っていた。「とにかく今から鳥たちに餌を撒くから」と隅に行くように促され待っていたが、餌に群がるように色々な鳥たちが集まって来て少し異様ささえ感じていた。「中国雲南の旅」
2011.06.26
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「南京旅情126」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。玄武湖は南京の紫金山から車で10分掛からない。孫文が清王朝から革命で創立させた中華民国の時代には、玄武湖の事を五州公園と呼んでいた。毛沢東の中国成立後に現在の玄武湖と改名した。玄武湖が五州公園と呼ばれた由縁は玄武湖に五つの島があり島一つ一つに州の名が付いていたからである。 玄武湖は南京駅目と鼻ほどに近い距離にある。1800年以上前の南朝年間に湖より黒龍が現れた伝説が受け継がれ王朝時代に玄武湖で水軍の訓練を行った。六朝以前は昆明湖と呼ばれ古代中国では帝王大臣たちの園林であり、当時の名残が残る石碑なども後世造られた。明代のころは宮廷の庭とされ明孝稜や南京城からも近く全国の戸籍簿を管理する「黄冊庫」があった。中国歴代の有名な文人である郭璞、杜牧、劉禹錫、李白や欧陽修、王安石、曹雪芹らも玄武湖で詩を詠んだとされる。玄武湖の水源は東方向にある紫金山から入り込んでいる。その水は玄武湖から南京城内の秦淮河へ流れ込んでいる。その流れた水はやがて揚子江へと注がれ大海へ。玄武湖は周囲約15キロの広々とした湖が広がる公園で観光地でもあるが南京市民の憩いの場として愛されている。時期的に人出も少ない時期ではあるが、のんびりと歩いた。古びた地震でもあれば直ぐにでも倒れそうな家があった。中には入れなかったが、昔の戸籍簿などが保管され、鍵が何箇所にもかけられ厳重に保管されているようだった。湖の畔には柳の枝が風が吹くたびにそよぎ癒してくれていた。
2011.06.25
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「南京旅情125」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。南京の紫金山の麓に造られた宋美齢の別荘を後にした私は、南京市内へ向うバスに飛び乗りまずは市内へ行き、ゆっくりと銭湯に入りたかった。ホテルの部屋のシャワーでも良いのだが日本人としてやはり大きな湯船で肩まで入り癒したかった。そんな事を考えていると玄武湖と書かれた看板が目立つ道路へ出たが、バスに乗り5分も経ってなく私は運転手に向って次で降りますと言っていた。玄武湖公園と聞くと何となく聞こえは良かったが実際中に入ってみると何にもない所だった。入口の警備している人に何処か見所を教えて下さいと聞いても、何にも無いよ。ただ湖があるだけ・・。玄武湖という名前だけで、バスを降りてしまった事に重たいカメラバッグを横目に少し後悔もしてみた。南京城壁を通り抜け中へと入って行った。私は入場チケットが必要だろうと売り場を聞いてみた。だがそこは、市民が通り抜けるための通路でしかなく中に入って500mほど行った先に売り場があった。玄武湖の本来の入場門は私がバスを降りた所ではなく正門は2キロほど先にあり、そこから入るべきだった。玄武湖には環州、桜州など5つの島が浮かぶが全部を周るためには丸一日掛けても周り切れないようだ。それを私は夕方の4時過ぎ来て周ろうとしている。何も下調べもせず、名前が気に入ったから入るという実に奇妙な行動を取ってしまった事を情けなく思う。あのままバスに乗っていれば、今頃は地下鉄でホテルまで近づいていたと思ってもみたが致し方ない。
2011.06.24
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「南京旅情124」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。蒋介石は学校時代というより小さいころからせっかちで頑固な所もあり、悪戯が好きだった。いつも満足感が無いようなイライラしているようなそして失敗すると当たり構わず怒り散していた。1926年に蒋介石は10万の兵を率いて軍閥掃討を開始。1927年周恩来による南昌起義が発生した。竹馬の友であった蒋介石と周恩来は互いの道を求め歩き出す。周恩来中国共産党。蒋介石中国国民党。1927年、蒋介石は南京に国民政府を樹立。その年に財閥の力が必要と孫文の未亡人宋慶齢の妹の宋美齢と挙式。宋財閥の三女であり蒋介石の財産の10倍以上の財産を保有していた。クリスチャンである宋美齢との結婚は欧州の支持が得られると報道されたが実際蒋介石にも追い風だった。1928年、蒋介石は中国全土を制圧し南京を首都とし「国民党政府」の発足を正式に宣言する事となった。同時に北京にあった孫文の遺体を南京へ運び巨大な陵墓「中山陵」を造成し埋葬する式典を行った。全ての言論を制圧し共産党員を逮捕していったが宋美齢が蒋介石を裏で操っていたことになる。また宋美齢が年間使う化粧品は400万ドルで月に33万ドルの化粧品を使用し浪費を繰り返していた。1936年蒋介石が軟禁された西安事件が起こった。だが日本天皇軍と戦う事を条件に周恩来に直談判した。宋美齢は国共合作で日本軍と戦うことを条件に蒋介石を釈放させ、裏で糸を操る女帝ぶりを更に発揮させた。1949年中華人民共和国の建国のその時、上海の港から中国を終われ台湾へ向ったがこの時宋美齢52歳だった。蒋介石の死後、アメリカに移住し106歳で世を去った。
2011.06.23
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「南京旅情123」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。広東省広州に孫文が創立した陸軍学校に蒋介石が通っていたが感情の起伏が激しい生徒だった。蒋介石が学校で一番熱中した言葉が「戦とは人を欺くことなり」と孫文の兵法をいつも口にしていた。蒋介石は15歳で4歳年上の村の「毛福梅」と結婚。孫文の影響を受けていた蒋介石は、1906年19歳の時に 日露戦争の勝利国である「日本」へ留学した。日本で3年余りの軍隊教育を受けて日本語を流暢に話せるようになるまでになり帰国したが2年後の1911年の革命軍による「辛亥革命」が起こった。中国を300年に渡り統治して来た清王朝がは1914年崩壊。時代の波は第一次世界大戦に突入し蒋介石は各地の革命軍を指導し上海の地下組織で暗躍するようになる。魔都上海と言われた時代に愛人の「歌姫・姚治誠」との間に2番目の子供である「蒋緯国」をもうけていた。その頃の蒋介石の信念は孫文の教えに輪をかけたように「人が予測出来ない兵を用い、はかりごとをめぐらし人の思いもつかない方法で、敵の意表を突事である」と次第に戦いに対してエスカレートしていった。故郷に妻「毛福梅」がいたが1921年16歳の女学生の「陳潔如」にプロポーズし蒋介石は二度目の結婚をした。「自分の愛を証明の証に指を一本落としてもよい」というプロポーズの言葉は中国では有名になっていた。 蒋介石の結婚を知った妻の毛福梅は悲しみ仏門へ入った。孫文の軍の若きリーダーとして活躍していた蒋介石は、孫文の急死によって、どんどん思いがけない方向へ進む。孫文の妻の宋慶齢に蒋介石が再婚を迫ったが余りにも身勝手な求婚に、きっぱりと断られるのである。
2011.06.22
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「南京旅情122」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。壁に掛けてある写真を室内照明の光りの中で撮影しているので自然な感じの空や瓦の色が出せていないが残念だが致し方ない。「革命の父」である孫文の後を継いだのは蒋介石ではあるが、権力をつかむため二人の妻を捨てたという伝説は有名である。権力と目標に向かい宋家の一人の女性と新たな出発をし権力への階段を駆け上がった。その女性の名は宋財閥の三女・宋美齢である。 蒋介石を権力の座に登らせた宋美齢は流暢な英語力で政治の舞台へも幾たびか登場する。自らの英語力を生かし ファーストレディとしてあたかも「女帝」の如く歴史を動かすことになる。 だが大陸での日本との戦いに勝利したとはいえ、疲れ切った兵力と体で中国共産党との戦いに敗北。中国にある貴重な歴史的な宝や金銀財宝を持ち出し大型船に載せ上海から台湾へ追われるように去った。その後、蒋介石夫妻が中国大陸へ戻る事はなく台湾に辿り着いた後の人生を妻と共に大陸反攻を誓い闘ったが「無念の死を遂げ」先に逝った。夫の死後も台湾に帰ることもなくニューヨークで2003年10月に106歳の生涯を終えた宋美齢だった。 また宋美齢の長男の蒋経国は父である蒋介石の考えと合わずに反抗し続けたが父の権力を支え、父の死後に一族が築いた歴史に終止符を打ち1988年この世を去った。中国近代史に於いて華麗さを極めた一族だったが悲劇に追いやったものは、やはり壮絶な愛と葛藤なのだろうか。
2011.06.21
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「南京旅情121」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。明孝稜の参道を抜けて案内地図を探すため紫金山のバス道路を暫くの間歩く事となった。10分ほどバス道路を歩いたもののバスは通らずポツリポツリと車が行き交っていた。人は目的地が分かっていて歩くのと一体何処を歩いているのか分からずに歩くのとでは足取りさえも変わってくるものだと思った。更に歩くと親子連れに出会い道を聞いてみた。「この辺に観光案内地図はないでしょうか」「バス停の近くには案内板がありますが・・」子供が「ね~、早く行こうよ」と不機嫌そうである。「ではもう少し歩いてみますから」と言って先へ行こうとすると「何処へ行くんですか?」と、行き先を聞かれたので「まだ時間があるので何処か見てみたいと案内地図を探していた」と話す。年の頃30過ぎの女性は「宋美齢の別荘は行きましたか」と聞いてきたが、その別荘が一体何処にあるのかも分からず「まだ行っていませんが・・」と答えると「この先を50mほど行くと宋美齢とありますから入ってみて下さい」50mなら100歩ほどかと数えながら歩いていくと100歩を越えたあたりに矢印で「宋美玲」とあった。中へ入ろうとすると守衛がいたので、身分証の提示を求められたのでパスポートを見せると中を確認する前に日本国の菊の模様と国名を見て扉を開けてくれた。「宋美齢」は「宋慶齢」の妹で蒋介石の妻である。姉の宋慶齢は孫文に嫁ぎ、妹は蒋介石に嫁いで戦争という歴史の渦の中で二人は一生会う事はなかった。中国では革命・戦争・内戦の中国で「悲劇の伝説」を繰り広げた一族と呼ぶが中国と台湾に別れてしまった。
2011.06.20
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