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前回紹介した、六角井戸の横に祀られている弘法大使像なのですが、何故か横には薬師如来像も祀ってあります。花立は新しいものですが、六角形にしてあるのは六角井戸に合わせてなのか、キリシタンの象徴としての六角形か、分かりようもありません。薬師像は、過去に壊れたのか修復してあるようです。大師像の祀られている祠の扉は、この地方では当たり前の模様ですが、下の方にはアンデレ十字とも見る事の出来る×模様で、扉を閉めると真ん中に、逆さ十字にも見える模様が出来ます。 祠の唐破風には、菱卍模様が彫られており、お寺や神社の妻飾りに良くある模様の、スペードを逆さまにした様な形が、ωを重ねた様な模様で彫られています。 そして、大師像の数珠の形が丸型です。この丸型に彫られた数珠には、何か意味が込められていそうです。 話は飛びますが、今日は少し足をのばし、ある曹洞宗の寺院を見て来ましたが、入口には、お決まりの蘇鉄が植えられており、地蔵さまが多く並べてありました。その中には、水子地蔵と説明してある、子供を抱いた地蔵様も有りました。意外に感じたのが、曹洞宗のお寺の敷地内に大師堂が有った事です。その中を除いてみると、沢山の大師像が祀られており、その一番上の席には、水色の服を着て、手には球を持った観音様が祀られていたのです。そして、その沢山の弘法大師像の持っている数珠の、ほとんどが丸型に彫ってあったのです。 そこで話は戻りますが、今回紹介した弘法大師像も、やはり数珠の形を丸く彫ってあります。キリシタン宣教師の伝説が、弘法大師伝説にすり替えられているのかもしれません。その裏には、何かを隠す必要が有ったように思えて来ますが、日本人には多神教の人が多いので、あまり気にならないのでしょうね。
2011年01月30日
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上の写真の六角井戸の屋根部分は、元々は無く、最近になって作られたものだそうです。この井戸ですが、下の写真の説明によると、弘法大師が水源の発見者に成っていますが、「六角井戸」と言えば、長崎県指定史跡の五島列島福江島にある「六角井戸」、県指定文化財 「平戸の六角井戸」など、いずれも明(中国)の海商であった王直(倭寇の頭目)に関係した物の様に伝わっています。王直と言えば、あのフランシスコ・ザビエルを、日本に連れてきた人(異説あり)としても有名な人です。ここで、六角井戸が倭寇の関係地にある事を考えると、この井戸のある雲仙市小浜町も、やはり倭寇との関係の深い、天草、島原の中に位置します。しかも、ここには海と山しかありませんし、農業で生活するには不向きな土地柄ですから、当然、昔は倭寇に関係した地域であったろうと考えられます。キリシタン伝来や鉄砲伝来に深い関係を持つ倭寇と、キリシタンが持つ西洋文明の東洋への伝来には、深い関係がありそうです。そこで私の勝手な想像の出番ですが、この六角井戸を作ったのも、キリシタン宣教師達ではなかったかと考えてしまうのです。それは何故か、井戸の形は六角形、六角形はキリシタンの象徴でもある事を考えると、どうしてもこの井戸は、キリシタン宣教師の指導によって、造られたのではないかと思ってしまうのです。弘法大師伝説の中には、かなりのキリシタン宣教師の功績が、埋め込まれているように感じます。これまで島原半島の神社や、お寺等を調べて見て感じる事は、神社の内外にも弘法大使像が祀られていたり、檀那寺の宗旨に関係無く、僧や神官の介在しない、大師(弘法)講や八天講などの、さまざまな観音信仰の組織が存在しているからです。しかし、戦後の経済発展と共に、その様な組織が徐々に衰退している事も、歴史の証人が消えて行くことに成ってしまうようです。
2011年01月30日
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昨日紹介したものと、同じ紋様の彫られた台が、この墓地にも有りました。昨日紹介した墓碑は、紗綾形・卍崩し文様(さやがた・まんじくずし)の文様が、全体に彫られた敷茄子の上に四角柱の墓碑でしたが、この墓碑は六角柱の墓碑です。おそらく、同じ石工が作ったものと思われます。そして、どちらも同じ地域にあり、同じような年代に建てられた、比較的新しい墓碑です。
2011年01月29日
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ケルト十字に見える紋様が彫られている、花立や水鉢の置かれる台です。【ケルト十字と言えば、イギリスが思い浮かびますが、元々のキリシタンはカトリックであることから、イギリスの宗教とは江戸時代には、すでに違いが有ったものと考えられます。もし、この模様をケルト十字と判断するなら、日本のキリスト教は、カトリックからプロテスタント系に、変容してきたようにも考えられそうです。事実、江戸時代には、鎖国政策でオランダと通商をするように成り、そのオランダも、確かプロテスタント信者が多かったと思います。もし間違いであったならば、どなたか、お教えください。】下線の付いた部分は間違いです。孤峰庵宗信さん から指摘を受け、間違いであることが分かりました。 訂正させて頂きます。 尚、これと同じ文様の彫られた台が、この墓地の近くの、他の墓地にも有りました。その画像は、明日、紹介したいと思います。
2011年01月28日
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上の写真を見ると、狐が祀られている稲荷神社にも思えますが、何か変な感じがします。下の左の写真の像は、肩の方が壊れていますが、何かを抱えていたようにも見えます。それに、右の写真の像ですが、あまりなじみの無い形の像です。頭にはフードの様なものを被り、腰ひもを巻いています。そして、全体的には、マントの様な物をまとっているようにも見えます。上の写真の左下には、恵比寿様と思われる像も置いてあり、その上には、六角形の台座の上に立つ、弘法大師と思われる像もあります。何とも不思議な社ですが、このそばにも蘇鉄の木が植えられています。おそらく、キリシタンに関係のある社と思われますが、この社の横の神社が生目神社。 イクメと言えば、ロシア正教などでは、聖母マリアの事を生神女(しょうしんじょ)とも言うそうです。生神女を、少しひねりをきかせて生女神(いくめしん)と読めば、生目神社を利用して、生神女(しょうしんじょ)を祀った社ではないかと、考えてしまいます。 それにしても、右下の写真の像は、宣教師の様に見えて成りません。
2011年01月27日
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没年が享和元年の墓碑です。この墓碑には、幻?童子と彫られていますが、?の文字が私には読めません。形からして、夢ではないのかと思うのですが、あまり戒名に使われる文字でもないようです。上に彫ってある仏像は、何の変哲もない仏像の様ですが、宝珠が球形の様で、その下の着衣の線や袖口の線を合わせて見ると、何となくアンク十字のようにも見えて来ます。キリシタンの隠語でもあると言われている、「幻」の文字に惑わされ、隠れキリシタンに関係あるのではないかと考えた時、着衣のヒダの線まで、十字に見えてしまいます。ついでですが、この墓地には、没年に天の文字が彫ってある墓碑も、幾つもありました。
2011年01月27日
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上の六地蔵の写真の内の一体の、地蔵様の持っている物が、どうもハートマークに見えます。下のアップの写真を見て、皆さん、どのように見えますでしょうか?この六地蔵は、先ほど紹介した、切り妻家型墓碑の在る墓地の、入り口に建てられています。この墓地も、ほとんどの お墓が新しくなっており、江戸時代の墓碑は、幾つかしか残っていません。昔からの伝統が、消えて行っているのが分かるようです。しかし、新しいお墓にも、花菱や菖蒲などの紋様が、家紋のほかに彫られている墓碑が、まだあるようです
2011年01月26日
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切り妻家型と分類している墓碑です。墓碑に彫ってある文字には、隠し隠語と言われている、真の字や宗の字が使われた戒名です。 それに帰真釋と書かれた後が空白に成り、下に不退位と書いてあります。真ん中の空白部分の両側に、戒名の一部らしい文字が書いてありますが、妙の下の文字は読み取れません。全体的には、十字を意識して彫られた戒名のようにも、見えます。 この墓碑の横に彫ってある方の没年は、享保二年と正徳3年で、ご夫婦の墓碑のようです。
2011年01月26日
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この帝釈天王の石碑は、先ほど紹介した、没年に天の彫ってある墓碑が多くある、墓地の入口に建てられている物です。建立年は大正四年、台座には、建立年月日と施主の氏名が列挙してあります。この石碑の不思議なところは、普通ならば帝釈天と書けばいいのに、下の王が付いて天王に成っている所です。猿田彦は神道、帝釈天と青面金剛は仏教で、「庚申会」で祀られる仏像とされているようですが、私の住む地域には、猿田彦と共に竿御前と言われる道祖神を、祀ってある場所が多いように思います。しかし、ある神社境内には、最近立てられた庚申塚と共に、水神などが一か所に祀ってある場所もあります。水神と言えば前に紹介した、手にはアンデレ十字の彫られた宝珠を持ち、胸には二重に重なった三角山が彫られた石像も、水神様でした。その水神様の横には、弘法大師像も、別の社に祀ってあった事を思い出しました。色んな繋がりがありそうです。
2011年01月24日
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この墓地には、没年に天と書いてある、江戸時代の墓碑が多くあります。その中の一つで、安永三年に亡くなられた人の、お墓のようです。手には丸い球の様なものを持ち、羽織のような物を身に付け、胸に羽織の紐と思われる物が、横一紋字に彫られています。そして、頭上には丸く渦巻いた物が三つ付いた被りものを被っています。 戒名の部分の文字が読み取りにくく、下の方しか分かりませんでした。一番上は、梵字のようですが、次の文字が分かりません。しかし、戒名にしては、飾り気のない戒名です。この戒名の中にある、月や自という文字は、近藤進という方の研究によるとキリシタンが使う、象徴隠語でもあるそうです。
2011年01月24日
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とにかく不思議な墓碑です。墓石自体には、正面は十字型の彫り込みがありますが、そこには、最初から何の文字も彫った形跡がありません。そして、下の方にある花立は、前にも紹介した、横から見ると十字に見える形をしています。おそらくキリシタンと、何らかの関係のある墓碑だとは思えますが、墓石の上に背もたれの片方が欠けた、椅子の様な形をしたものが乗せてあり、その前面には氏名が記されています。その下には、靴と思われるものが一足と、栓をした徳利の様なものも彫ってあります。 おそらく、この椅子の形の台の上には、弘法大師像が置かれていたものと思います。その考えの根拠として、ある大師講の、主催者の旧家に祀ってある祠に、ここに彫ってある靴とそっくりの、木製の靴が一足、弘法大使像の前に置いてあったからです。椅子や靴が、西洋だけのものとは思いませんが、弘法大使とキリシタンの関係が、見え隠れしているように思えます。この墓石は、先日紹介した、没年月日に旧と書いてある墓石の近くにあります。ついでですが、この墓地の入り口には、私がキリシタン関係物を探す目安にしている、蘇鉄の木も植えてありました。
2011年01月23日
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この墓碑のからっている点は、まず、戒名が書いてないところです。没年だけが二人分書かれていますが、一つは安政四年、もう一つには弘化元年と彫ってあります。そして、一番変わっていると思われる点が、写真で確認できるかどうか分かりませんが、旧十二月、きゅう二月と書いてある点です。江戸時代に、わざわざ旧暦を書くと言う事は、この墓碑を作った家の方が、この時代に、すでに太陽暦(西暦)を知っていたことになります。おそらく西洋文明の影響を受けての太陽暦と思われますが、この家の方は、日常的に太陽暦と太陰暦の両方を使っていたと考えられます。当時、何故、太陽暦が普通の家に使われていたのか、色んな妄想が浮かんできます。
2011年01月22日
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八十八ヶ所平和塔とは、聞きなれない呼び名ですが、横に祀ってある石仏も変わっています。どうも錫杖を持っている所から、地蔵様であろうと思われるのですが、何故か左手には子供を抱いています。子安地蔵とでも言っておけば良いのでしょうか? この地蔵様も平和塔も、まだ新しいものの様ですが、これを祀られた方は、どのような人なのか興味のあるところです。八十八カ所と言うからには、他にも、この様なものがあるのでしょうね。そして、今でも信仰者の方がいらっしゃると思われます。この石仏の、云われを聞いてみたい気がします。
2011年01月21日
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没年が、明治二十亥 天 旧十月十日と彫ってある墓碑ですから、おそらくキリシタンに関係のある墓碑度と思います。二体の仏像が彫ってありますが、向かって右側の仏像は、右手に五鈷杵、左手に数珠を持っている所から、弘法大師像だと思えます。向かって左側の仏像は、蓮の蕾を持ち頭上に菊のティアラを付けた、観音様の様に見えます。菊の花も、キリシタンと関係あると聞きますが、弘法大使とキリシタンも、何か関係があるのでしょうか?それとも、没年に天の字を使うのは、何か他の意味があるのでしょうか?それに、この墓碑には二名の戒名が彫ってあるのに、真ん中の上には梵字が彫られ、下には両霊と彫ってあります。霊は神道やキリシタンで、使われる文字では無かったのでしょうか?
2011年01月19日
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子安観音堂に飾ってあった写真ですが、観音堂改築前の物と思われます。今は、御堂も綺麗に改築され中も綺麗に飾って祀ってありました。この写真で気に成る所があったので、良いのかなと思いつつも紹介する事にしました。この写真には、尼僧の方が写って居られますが、何故か手を隠して居られます。そして、下の写真の矢印の手の形を見て下さい。普通、仏教徒の方が合掌をする時、この様な形の合掌をするでしょうか。 私の知る限りでは、子供の頃、祖母の葬式の時でしたが、その頃の棺は、棺桶と言う四角い箱に死者を座位で納め、ガンと言う御神輿の形とそっくりの物に収納し、焼き場まで担いで行って、そこで火葬をしていました。その棺桶に座らせて、死体に合掌をさせるのですが、その時に指を曲げて合掌している、写真の矢印で示した様な形の合掌をさせ、その手に数珠をかけるのが、当時の、この地区の風習だったと記憶しています。 余談に成りますが、島原半島では、棺桶を納めて担ぐ為の神輿の様なものを、ガンと言います。そして、あの高級魚のフグの事を、ガンバと言います。何故、ガンバと言うかと言えば、「ガンバ」を標準語に直した時に、棺桶を納める「ガンヲ」と言う意味に成ります。フグを食べるには、それくらいの覚悟をして、食べろと言う事でしょうね。 それと、もう一つ、矢印の合掌をしている人の、後ろの人の手にしている物は、何でしょうか。知って居られる方が居られましたら、お教えください。
2011年01月15日
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横から見た豊乳河童像の横にある、地蔵堂ですが、ここにもやはり弘法大師像が祀ってあります。それに、蘇鉄の木も定番の様に植えられています。蘇鉄の植えられている所には、何かがあるようです。私の持論では、河童の正体が宣教師であるとしていますので、河童の話のある所には、キリシタンも関係していると考えてしまいます。それに、この地蔵堂には、男根も祀ってあります。道祖神や蘇鉄の木も、キリシタン隠しに使われているようにしか思えません。それに加え、弘法大師像や天狗像、観音像等が信仰の対象に使われていたように感じます。これも、いつもの勝手な妄想ですが。
2011年01月15日
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八雲神社の祭殿です。横に小さい鳥居がありますが、この鳥居が、この八雲神社の裏に隠れた、空っぽになっている天満宮の鳥居です。この八雲神社の神紋は、中に飾ってある垂れ幕の図柄である、織田木瓜だと思うのですが、何故か下の写真に写っている正面の破風の懸魚(げぎょ)には、八弁の菊紋様が飾られています。この紋様も見方によっては、ギリシャ十字とアンデレ十字を、組み合わせた形にも見えます。それに、この破風には一般的な神社にみられる屋根の反りが、屋根の下部にしか無く、正面から見る破風部分は綺麗な三角形をしています。偶然の一致でしょうか。
2011年01月14日
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確かに天満宮と思われる社です。この空っぽの神社には、梅の家紋が彫られています。それに、梅紋様の手水鉢もありますし、とても小さいですが鳥居もあります。しかし、今は何も祀って有る気配がありません。それに引き換え、八雲神社は立派な祭壇が設けられ、今年の正月の奉納物も上げてありました。どのような経緯で、この神社の祭神が変わっていったのか、興味をそそるところです。しかし、私には、それを知るだけの知識がありません。梅紋様の手水鉢は、明治期に造られていますから、その頃は天満宮だったのでしょう。八雲神社の二の鳥居は、寛文十二年六月八日(1672年)建立と、旧町の教育委員会が建てた案内碑に書いてありました。それによると、「肥前鳥居の古型で形式は島木鳥居で、また島原半島においては最古級である」と書いてあります。松平忠房が島原藩に着任したのが1669年、その3年後に建立された鳥居には八雲神社。調べたところ明治になってからは、祇園宮は仏式の名前である為に、強制的に八坂神社や八雲神社に改名されたと書いてありましたが、なぜこの時期にと不思議に思います。祇園宮が八雲神社に成り、その後天満宮と成り、また八雲神社に戻っているとしか、考える事が出来ません。何かが隠れているような気がします。
2011年01月13日
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天使像と言われる石像の祀ってある、祠の全景です。祠の正面の唐破風には、ドングリの様な形のものが三個彫ってあります。又天使像の後ろに隠すように、やはり首が落としてある恵比寿様が祀ってありました。それに意外に思ったのが、祠の横に置いてある大黒様の珍しい立像と、祇園宮と書いてあったと思われる、鳥居に付けられる壊れた扁額、祇園宮なら、そのままの神社名で良かったと思うのですが、それが、なぜ八雲神社に変えられたのか?それに天満宮の鳥居は、身をかがめて通らねばならないほどの小さなものが、八雲神社拝殿横にあり、八雲神社の後ろには天満宮であったろうと思われる、空っぽの社。とにかく変わっています。
2011年01月13日
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この石像についてですが、嶽南風土記の伊東豪健氏の記事には、天使像と紹介されており、「日ノ江城の役小角の服装に良く似ているが、足を出している。 首のところはローマンカラーをつけ、右手に剣を持っている。」と、書いてあります。私の気になったところは、帯とその下に垂れ下がったものが、タウ十字に見え、手に持った剣が、ペテろロ十字を持っているように見えてしまいます。そして、この祠の周りには、歴史の移り変わりがそのまま残されているような気もします。そう感じるのは、この祠のある八雲神社の横には、天満宮の小さな鳥居があり、八雲神社の裏には室内がからの状態の社があります。そして、この石像の祀ってある祠は、その社の裏にあるのです。
2011年01月13日
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この燈籠も、八雲神社にあるものですが、基本的には六角形の燈籠の様に思われます。しかし、火袋は円柱で四方の窓は四角形ですが、土台の部分が何処にでもある土台ではありません。御覧の通り、4本足の土台で、真上から見ると、十字に見える構造になっています。ここにも、キリシタンの隠れ信仰があったように思われてなりません。 又、この神社の裏には、嶽南風土記で伊東豪健氏が紹介して居られる、大きな翼をもった、首の落とされた石像も在りました。
2011年01月13日
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無縁法界塔周辺の墓碑群ですが、転キリシタン墓碑の特徴を備えている墓碑が、多いように感じます。御覧の通り、切り妻家型、Ω家型、壊れた五輪塔の様なもの、首なし地蔵や地蔵墓碑などです。そして気になるのが、切り妻家型の墓碑が板碑の様に薄いものが、ここに多い事。それと、無縁法界塔の前には、真新しい無縁物と彫られた板碑と、由来地蔵と彫られた小さな板碑が祀ってあることです。
2011年01月11日
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前回紹介した無縁法界塔の、文字部分をトリミングしてみました。施主が巡礼??、後は私には判読不能ですが、この無縁法界塔の周りには、多くの墓石が寄せ集められています。もしかして巡礼とは、キリシタンの司祭が全国を廻り、隠れキリシタンの世話をしていたのではないのでしょうか?これも私の勝手な妄想ですが。
2011年01月11日
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頂点に、どの方向から見ても、十字の様に見える物が乗せられています。この無縁法界塔の建立年月日には、「安永九子天 八月吉良日」と彫ってありますから、勝手な憶測ですが、おそらく隠れキリシタンによって、建立されたものと思えます。安永九年と言えば、島原藩主松平家(深堀)が、下野国宇都宮藩から戻って、五年後です。ウィキペディア・・・(深溝松平家は、代々島原藩主として九州の隠れ目付役的存在であったが、兄・忠祗が父・忠刻の急死を受け寛永2年(1749年)、12歳の若さで家督を継いだことから、その年、下野宇都宮藩の戸田忠盈と交代する形で宇都宮に移封されていた。忠恕が家督を継承後、安永4年(1775年)に再度戸田氏と交代転封し、先祖伝来の島原藩に戻された。) 松平忠盈子公の幼名が八十之助(耶蘇之助?)とは、何か不思議なものを感じるます。松平公は、宇都宮で隠れキリシタンの領民との、上手な付き合い方を学んできたのではないかとさへ思えますが、これも私の勝手な妄想です。
2011年01月11日
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この祠には、中に何も祀ってありませんでしたが、狐の焼き物が一つだけ置いてありました。だからと言って、お稲荷様とは思えません。祠の扉には、狐らしい模様が彫ってあるのですが、まるで狼の様な感じに見えました。 それと不思議に感じたのが、写真でも分かる通り、屋根の棟に綺麗なロレーヌ十字が彫られています。それに唐破風の上部には、ペテロ十字と思える形も浮き上がっています。この祠は、八雲神社の境内にあるのですが、この八雲神社には、ほかにも変わったものが在りますが、私の様な素人には、その意味が分かりません。 そして、この神社の近くには、鎮西八十八ヶ所の子安観音堂も、あります。その観音堂には、最近作られたと思われる、豊乳河童と書いてある、豊かな乳房を持った河童の像が祀られています。河童と子安観音堂、不思議な関係ですね。
2011年01月10日
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正面にマ南無弥陀仏と彫ってありますが、全体的には草書体で書いてある様ですが、南の文字が、あまりにも装飾的な字に変形しているように思われます。この墓碑も、丸印を意識して作られた墓碑では無いのでしょうか。 尚、この墓碑の側面には、文化十二年正月七日と書いたすぐ下に、俗名とも書かずに氏名が書かれています。この時代、氏を名乗っていたのは、苗字帯刀を許された人か、帰農武士くらいでは無かったのでしょうか。しかし、この墓地のある地区には、この村の庄屋さんの屋敷跡があり、その庄屋さんの苗字と、この墓碑の苗字は全く違います。そして、この周辺の村には、江戸時代に建てられた神社等の奉納物に、奉納者の氏名の書かれている物があるのですが、その方達の氏は、今も、そのまま子孫であろうと思われる方達の、氏として残っています。又、その方達の祀って居られる、神社等の様子を考えれば、信仰を隠す必要も無かったように考えられます。何故かと言えば、その氏を名乗って居られる方々は、戦後まで農地を沢山持っておられる有力者の方達が多かったからです。
2011年01月09日
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上の写真の上部の彫り物ですが、蛙が、お腹を出した変わった彫刻です。その下には、菊の葉っぱと、花が彫られているように見えます。それに下の写真には、桃の葉っぱと、実が彫られているようです。 菊の花は、キリスト教のシンボルの花と聞きますが、もちろん、仏教でも菊の花は、御仏前の花として飾られる、代表花であることには違いありません。それに桃は、キリシタンでは、「救済」のシンボルと言われているようですが、仏教を日本にもたらした中国でも、「不老長寿」の縁起物です。 桃と菊はともかくとして、蛙が彫ってあるのには、どのような意味が在るんでしょうか?蛙は帰る、「帰はキリストのキ」、隠れキリシタンに興味を持ったせいで、ついついそのように考えてしまいます。
2011年01月08日
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ある藩主の菩提寺にあった子安観音と思われる石仏ですが、わりと新しく、明治十七年に奉納されているよです。キリシタン禁制の高札撤去、弾圧の停止の後ですが、わずか十年程度後に、この石仏が奉納されている事には、何か不思議な感じを受けます。子安観音ならば、隠れキリシタンと思うのが普通の考えです。禁制が無くなったとは言へ、それも藩主の菩提寺に、この石仏が奉納されている事は、藩主が隠れキリシタンを、容認していたとしか考えられません。このお寺には、まだまだ不思議に思える事が多くあります。
2011年01月06日
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戒名の釈の字の上に、歸眞や帰元、法號や法名と彫ってある墓碑は良く見るのですが、帰西と彫ってあるものにはあまり出合いません。どのような意味でしょうか。しかし、この墓碑にも、転キリシタンであろうと思われる、没年に天の文字も見られます。そして、自然石に戒名の彫ってある墓碑も、少ないように思います。明和年間没で、姓が無く名前だけの、一般庶民と思われる人の珍しい墓碑です。
2011年01月06日
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おそらく、この石柱は、古い鳥居の石柱ではないかと思われます。その石柱に、盃状穴が幾つも彫られています。この石柱は、前に紹介した六角燈籠のある、若宮神社の境内にあります。この様な物が在ることからして、この神社は、何か強い信仰心を表す場では無かったのかと、思えて成りません。
2011年01月05日
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山伏の墓と紹介してありますが、私にはキリシタンの墓の様に思えました。三角錐になった石に丸が彫ってある。キリシタンに関係あるとしか思えません。なぜならば、伴天連追放令の後も、この近くにはハンネと言う修道士が住んでいて、キリシタンの布教をしていた地区でもあるのです。結局は、ハンネは住民の一人から公儀に訴えられ、牢に監禁されたと言い伝えられています。その年は、1614年で26聖人殉教の10年後だったそうです。
2011年01月05日
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先ほど紹介した小夜姫像から、あまり離れていない場所にある、竿御前に祀ってある小夜姫像です。横の祀ってある、変わった石像の正体が何なのかも知りたいものです。そして、この像の横には、道祖神のシンボルである、木製とセメント製の男根が立ててあります。
2011年01月05日
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小夜姫様と言われている石像と、何だか分からない石像が祀ってあります。 「小夜姫」様とは道祖神の事だそうで、史跡巡りガイドには、【島原半島では「道祖神」を「さよごぜ」「さよ姫」「竿(さお)御前」等と呼んでいるようだ。猿田彦大神等と集合、混用されている。】と書いてあります。 この石像の台に穴が彫られている事に、ある意味が込められているようです。嶽南風土記にある林田津誉毅氏の記事によると、この様な盃状穴は、祈り、供養のために何かを祈りながら、堅い石で擂鉢状の穴を人の手で彫った結果、残ったものだそうです。以下は、盃状穴についての林田氏の記事の抜粋です。【同じことを満遍なく祈りながら繰り返す行為は、仏教でも神道にもあるようだ。 盃状穴は朝鮮半島から日本各地に分布し、古くは支石墓の石蓋などにも刻まれている。 時代と共に少し形態を変え民間信仰となり、古い神社の手水鉢・階段など祈る所に刻まれ、身近かな所では島原大変の供養塔の台座、三界万霊塔碑の台座、島原の乱の供養の台座などにも刻まれている。 江戸末期か明治初期くらいまで信仰がみられるが、その後パッタリと姿を消し遺物だけが現在も残されている。】と書いてありました。 この石像の横には山伏の墓と言われている、三角錐に丸のマークの付いた墓碑もあります。
2011年01月04日
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昨日投稿した石碑のあった墓地から少し離れた墓地にある墓碑ですが、この墓碑の文字は非常に乱暴に彫ってあり、文字の判読が出来ません。しかし、この墓碑も、文字の配列だけの形は十字をしているように見えます。そして、この墓碑の周りには、やはりキリシタン墓碑であろうと思われる、没年が天と彫ってある墓碑も在り、歳と彫ってある墓碑、稔と彫ってある墓碑も在りました。
2011年01月04日
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南無阿弥陀仏と彫ってある石碑ですが、上部が壊れています。何か隠したいものが彫ってあったのかも分かりませんが、この墓地には堂々としたキリシタン遺物集に載っている、逆さ卍の彫って有る、前に紹介した墓碑も有ります。壊れた部分も近くには有りませんし、修復も成されていません。 この石碑の変わったところは、見てもお分かりだと思いますが、向かって右に「南」、左に「無」、下に「阿弥」そして真ん中に「陀佛」と彫られています。無茶苦茶な配置の、南無阿弥陀佛の文字列ですが、全体の形は十字に見えはしませんか。上に何かの文字か紋様が彫ってあったなら、確実に十字架の形になります。文字の配列で、十字を表していると思われる墓碑も、他にありますので、やはり、その類の石碑だと思います。
2011年01月03日
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