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October 15, 2015
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カテゴリ: 抜き書き
日蓮学者たちが、日蓮を過激な人と認識する理由として、高木豊が挙げているのが「是一非諸」の論理である。「一つの実が是で諸々は非である」という意味であろうか。耳慣れない言葉であるが、高木豊の造語であろうか。高木豊によると日蓮がこの立場にあったから、日蓮が過激であったと認められなければならないとする。

しかし、この高木豊の日蓮認識は正しいであろうか。日蓮は、その根本とすべき一法として法華経を置いていることは事実であるが、その法華経はまた「蘇生の法」であるととらえているのが日蓮である。阿弥陀仏や大日如来ではなく、法華経を根本におくならば、念仏信者や真言信者のすべてが否定されるのではなく、彼らの持つ良き本質が蘇生してくるという立場である。だからこそ、多くの念仏信者が日蓮の法華へ改宗することができたのである。具体的に言えば、日蓮の信徒に阿仏房や千日尼がいる。この名前は明らかに阿弥陀信仰から来ている。しかし、日蓮は彼らに改名を迫ることは決してなかった。入門してからも「阿仏房」の名で、「千日尼」の名で彼らに呼びかけたのであった。



客観的にみて、日蓮が過激な主張をしていたとはとても思えない。だからこそ、多くの女性信徒が安心して供養を捧げられたのであった。だからこそ、生まじめな宮仕えの武士や百姓たちが弾圧にもめげず信仰を貫けたのであった。権力の側からの合理的解釈ではなく、日蓮を信仰せざるを得なかった当時の信徒たちの側から、ものごとを見ていくことが必要であろう。

日蓮が厳しかったのは、根本・本尊を取り違える当時の指導者たち、当時の僧侶たちに対してであった。彼らこそ民衆を塗炭の苦しみに追いやっているとみなしていたからである。

このような日蓮の言葉が「阿仏房尼御前御返事」にある。
「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし」(御書1308頁)
日蓮のこの無類の優しさは、その立脚点が、原理主義や過激思想とは無縁であることを示している。


【日蓮自伝考――人、そしてこころざし】山中講一郎著/水声社





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Last updated  October 15, 2015 06:47:00 AM
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