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February 15, 2022
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牧口常三郎——人道と正義の生涯

アメリカ サイモン・ヴィーゼル・センター 1996 6 4

時代背景と講義の意義

1996 6 4 日、池田先生はアメリカの著名な人権団体「サイモン・ヴィ―ぜル・センター」で講義を行った。

当時は、東西冷戦の終結から 6 年半。冷戦構造の崩壊により、ルワンダや旧ユーゴースラビアなど各地で、民族紛争や内戦が勃発し、その影響を受けて、世界で大量の難民と避難民が生まれていた。

国家や民族、宗教の違いによる差別や憎悪が原因で、生命と人権が脅かされるという深刻な問題が人類を取り巻く中、池田先生は正義の人権闘争を貫いた初代会長・牧口常三郎先生の足跡を紹介。「国権よりも人権を」「国家主義よりも民衆主義を」との信念に言及した。そして、その遺志は「世界の禅の人を結束させる」という創価学会の平和運動に継承され、発展していると述べた。

講演会の冒頭、同センターの創立者であるハイヤー会長は語った。

「昨年 (95 ) の冬、日本のある主要な雑誌が、死の収容初・アウシュヴィッツのガス室で大量殺人を否定する記事を掲載し、ユダヤ人社会は衝撃をもって受け止めました。 ( 中略 )

その意味で、本日、日本にもユダヤ人の大切な友人がいると紹介させていただけることは大きな名誉であります。

池田 SGI 会長と、会長の創立された大楽——創価大学は、寛容の橋を架ける作業を、ただ語るだけでなく、実践してこられました」

国家主義ではなく民衆主義 人間主義を

シャローム ( ヘブライ語で「平和を」 )

尊敬するハイヤー会長ならびに令夫人、尊敬する気センター理事会ならびに来賓の諸先生方、私は、貴センターの「寛容の博物館」を、三年前の一月、オープンの直前に見学させていただきました。

ホロコーストの歴史は、人間の人間に対する「非寛容」を示す、究極の惨劇であります。

私は、貴博物館を見学し「感動」しました。いな、それ以上に「激怒」しました。否、それ以上に「このような悲劇を、いかなる国、いかなる時代においても、断じて繰り返してはならない」と、未来への深い「決意」をいたしました。

そして、「人々が忘れなければ希望は続く」という、ウィーゼンタール博士の言葉を抱きつつ、わが創価大学は、ただ今、会長のお話にありましたように、貴センターの全面的な協力を経て、一九九四年五月から、日本各地で「勇気の証言——アンネ・フランクとホロコースト」展を共催したのであります。

東京都庁舎での東京展の開幕式には、クーパー副会長をはじめ、貴センターの御一行が参加してくださり、アメリカのモンデー駐日大使など二十カ国の大使館関係者も出席されております。戦後五十年に当たる昨年(一九九五年)の八月十五日には、ハイヤー会長をはじめ、多くの御来賓をお迎えし、広島での開催となりました。さらに、沖縄など全国十九都市に巡回され、今も継続されております。

直接、同展を訪れた人々は、一日平均で約五千の市民、合わせて約百万人に及んでいることを、謹んでご報告いたします。なかでも、けなげな乙女アンネと同じく十代の青少年が数多く訪れ、憤激に紅涙をしぼっております。親子づれでの見学も絶えません。

当に、「正義」を教える最高の「教育」の場となり、「啓発」の場となっているのであります。

開催にあたって、私は、胸中で、牧口常三郎初代会長の愛弟子であり、私の恩師である戸田城聖第二代会長の遺訓を反芻しておりました。

それは、「ユダヤの人々の不屈の精神に学べ 」という言葉であります。

幾世紀から幾世期を重ねた迫害の悲劇に、ユダヤの人々は決して屈しなかった。その偉大な強さと勇気から、学ぶべきことは、あまりにも多いと、私は思ってきた一人であります。

ユダヤの民は、迫害への挑戦のなかから、不滅の教訓を刻み、そしてそうお英知と精神と強さを、後世の子孫に厳然と残してこられました。

「忘れない勇気」とは、同時に「教えていく慈愛」でありましょう。

「憎悪」が植えつけられるものであるからこそ、「寛容」を植えつけていかねばなりません。

いかなる困難にも価値を創造する人格を育む

仏法では、「怒りは善悪に通ずる」と教えております。いうまでもなく、利己的な感情や欲望にとらわれた怒りは、「悪の怒り」であります。それは、人々の心を憎しみで支配し、社会を不調和へ、対立へと向かわせてしまうものであります。

しかし、人間を冒涜し、生命を踏みにじる大悪に対する怒りは、「大善の怒り」であります。それは、社会を変革し、人道と平和を開きゆく力となります。まさに、「勇気の証言」展が触発するものこそ、この「正義の怒り」にほかならないのであります。

冷戦後の世界における重大な課題は、異なる「民族」や「文化」や「宗教」の間に横たわる無理解と憎悪を、いかに乗り越えていくかということでありましょう。

私には、昨年十一月、「国連寛容年」の掉尾を飾る第五十回国連総会でのウィーゼンタール博士の演説が、強く胸に響いて離れません。すなわち、「寛容こそ、この地球上のあらゆる人々が平和に共存するための必要条件であり、人類に対する恐ろしい犯罪に至った憎悪に代わる、唯一の選択肢であります。憎悪こそ、寛容とは対極の悪であります」と。

ここで確認したいことは、「怒り」に積極と消極の両面がはらまれるように、「寛容」にも、消極的な寛容と積極的な寛容があるということであります。ともすれば、現在の社会一般の通念となっている、他者への無関心や傍観は、その消極的な寛容の一例といえるかもしれません。日本においては、無原則の妥協を「寛容」とはき違える精神風土が、軍国主義の温床になってしまった痛恨の歴史があります。

真の「寛容」は、人間の尊厳を脅かす暴力や不正を断じて許さぬ心と、表裏一体であります。

「積極的な寛容」とは、他者の立場に立ち、他者の眼を通じて世界を見つめ、共鳴しゆく生き方にあります。すなわち、貴センターが範を示しておられるように、異なる文化と進んで対話し、学び合い、相互理解を深めていく。そして、人類の共感を結びゆく「行動の勇者」こそ、まことの「寛容の人」なのであります。

この崇高なる「人権と平和の城」である貴センターにおきまして、わが先師である牧口常三郎初代会長について講演の機会をいただきましたことは、私にとりまして、無常の光栄であります。

本日は、「正義の怒り」、そして「積極的な寛容」という二つの点を踏まえつつ、牧口が生涯、貫いた信念、その思想と行動について、簡潔にご紹介させていただきたいと思うのであります。

日本の軍国主義の時代にあって、牧口は、「悪を排斥することと、全を抱擁することは同一の両面である」(『牧口常三郎全集』 9 、第三文明社、参照)、「悪人の敵になりうる勇者でなければ善人の友とはなりえぬ」(同全集 6 )、「消極的な善良に甘んぜず、進んで積極的な善行を敢然となし得る気概の勇者でなければならない」(同前、参照)等と強く主張しております。そして、「戦争」に反対し、「信教の自由」を奪った軍国主義に敢然と抵抗して、投獄されました。過酷な弾圧を受け、七十三歳で獄死したのであります。

牧口常三郎は、一八七一年、日本海の一寒村であった新潟県の荒浜に生まれました。この六月六日で、生誕満百二十五年を迎えます。牧口は、自身のことを「貧しい寒村出身の一庶民」であると、誇りをもって言い続けておりました。小学校を卒業後、苦しい家計を助けるために進学を断念。やがて単身、北海道にわたり、働きながら、時間を見つけては、本を読み、学び続けております。

その才能を惜しんだ上司の援助もあり、独学で師範学校に入学し、二十二歳の春、卒業しました。牧口は、若き情熱を教育に燃やし、恵まれぬ子らのために、教育の機会を大きく広げていくのであります。教え子たちからの感謝を込めた追想は、枚挙にいとまがありません。

時代は、国を挙げて「富国強兵」を推し進め、軍国主義の道を歩み始めた時であり、教育においても、盲目的な愛国心が鼓舞されていきました。

しかし、牧口は「そもそも、国民教育の目的とは何か。面倒な解釈をするよりも、汝の膝元に預かる、その可憐な児童を『どうすれば、将来、最も幸福な生涯を送らせることができるか』という問題から出発すべきである」(同全集 4 、参照)と論じたのであります。

牧口の焦点は、「国家」ではなく、どこまでも、「民衆」であり、そして一人の「人間」であったのであります。それは「国権の優位」がことさらに強調されるなかで、「個人の権利と自由は、神聖侵すべからざるものである」(同全集 2 、参照)と言い切って憚らなかった。

彼の人権意識は、あまりにも深く、強かったのであります。

一九〇三年、一千ページに及ぶ大著『人生地理学』を、三十二歳で出版しました。

発刊は、日露戦争の前夜であり、東京帝国大学の教授ら、高名な七人の博士が、そろって、「対ロシアの強硬策」を建議したことも、開戦論を高めました。そうした時勢にあって、無名の学究者牧口は、足元の「郷土」に根ざして、しかも「狭隘な国家主義」に偏らず、「世界市民」の意識を育むことを提唱したのであります。その後、四十二歳で、東京の小学校の校長となり、以後二十年にわたり各校を歴任し、東京屈指の名門校も育て上げております。

牧口は、アメリカの哲学者であるデューイ博士らの教育理念に学びながら、日本の教育改革を進めました。しかし、権力の露骨な介入である「視学制度」の廃止などを直言する牧口には、常に圧迫が加えられたのであります。地元の有力者の子弟を特別扱いせよという指図を拒否したために、政治家の策謀によって、追放されたこともあります。この折、生徒も、教師も、父母も、皆、こぞって牧口校長を慕い、留任を求めて同盟休校までしました、

後に、転任校でも、同様の干渉を受けましたが、牧口は、自分の辞任と引き換えに、子どもたちが伸び伸びと遊べるように、運動場の整備を実現させ、他校へ移っていったというのであります。

こうした歩みは、ほぼ同時代のホロコーストのなかで、命をかけて、子どもを守る奮闘を続けた、ポーランドの偉大なユダヤ人教育者コルチャック先生の人間愛とも相通ずるのではないかと思う一人であります。

一九二八年、牧口は、仏法に巡りあいます。すべての人間生命に内在する、尊極の智慧を開発しようとする仏法は、それ自体が、社会に開かれた民衆教育の哲理であると信ずるのであります。

教育を通しての社会の変革を強く志向してきた牧口は、この仏法との出会いによって、理想の実現への確かな手応えを実感していったようであります。時に五十七歳。人生の総仕上げの刮目すべき展開が始まります。二年後、弟子の戸田とともに、『創価教育学体系』第一巻を出版。この発刊の日、一九三〇年十一月十八日を、私ども創価学会の創立の日としております。

「創価」とは、「価値の創造」の意義であります。

その「価値」の中心は、何か。牧口の思想は明快でありました。それは「生命」であります。

デューイらの実用主義の検地を踏まえつつ、牧口は、「価値と呼ぶことのできる唯一の価値とは、生命である。その他の価値は、何らかの生命と交渉する限りにおいてのみ成立する」(同全集 5 、参照)と洞察しました。

人間の生命、また生存にとって、プラスになるか、そうか。この一点を根本の基準としたのであります。「生命」の尊厳を守る「平和」という「大善」に向かって、挑戦を続け、いかなる困難にあっても、価値の創造をやめない——そうした「人格」の育成にこそ、「創価教育」の眼目があります。

掲載範囲のポイント

大悪に対する怒りは「大善の怒り」

「行動の勇者」こそ、まことの「寛容の人」

軍国主義に対峙し世界市民の育成を提唱

【創造する希望 [ 池田先生の大学・学術機関講演に学ぶ ] 】創価新報 2021.1.20






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Last updated  February 15, 2022 05:38:37 AMコメント(0) | コメントを書く
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