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世紀への提言——ヒューマニティーの世紀に㊦
カルフォルニア大学ロサンゼルス校( UCLA ) 1974 年 4 月 1 日
「小我」を乗り越え「大我」に生きよ !
仏教の真髄は、煩悩を断ち執着を離れることを説いたものでは決してない。無常を悟って、諦めを説いた消極的、虚無的なものではなく、煩悩や執着の生命の働きを生み出す究極的な生命の本体や、無常の現実の奥にあり、それらを統合、律動させている常住不変の法のあることを教えたのが、仏法の真髄なのであります。すなわち、無常の現象に目を奪われ、煩悩に責められているのは「小我」にとらわれているのであり、その奥にある普遍的真理を悟り、その上に立って無常の現象を包み込んでいく生き方にこそ「大我」に生きるといえましょう。
この「大我」とは、宇宙の根本的な原理であり、またそれは同時に、私達の生命の様々な動きを発展させていく、根本的な本体をとらえた「法」であります。
トインビー博士は、此の本体を哲学用語で「宇宙の究極の精神的実在」と呼ばれておりましたが、それを人格的なものとしてとらえるより、仏教のごとく「法」としてとらえるのが正しいと思うといっておられました。
この「小我」でなく「大我」に生きるということは、決して「小我」を捨てるということではない。むしろ「大我」があって「小我」が生かされるということなのであります。
文明の発達というのは、人々に執着があり、煩悩があるからこそあるものともいえます。もしと身への執着がなければ経済の発達はないし、厳しい冬を克服していこうという意思がなければ、自然科学の発達もない。恋人を愛するという煩悩がなければ、文学の重要な部分は張ったつぃな買ったでありましょう。(笑い)
仏教の一部では初期においても、煩悩をなくそうという考えはあり、そのために、肉体をも焼き尽くす試みさえ行われた。しかし、煩悩というものは、生命が本来持っている根源的な本体から発現してくるものであり、なくすことはできない。というより、行動の原動力さえあります。ゆえに、個の煩悩にとらわれた「小我」を正しく方向づけることが、不可欠であります。
真実の仏教はいま、その根本の「大我」を発見した。「小我」をなくそうとするのではなく、逆に「小我」にとらわれるものではない。「小我」をコントロールし、方向づける「大我」のうえに立ってこそ、文明は正しい発達を告げるといいたいのであります。(大拍手)
したがって、仏教が無常を説き、死を見つめることを教えたのは、逆に常住不変の法の実在することを教えるためであったわけであります。つまり仏とは諦めを教える人ではなく、常住の法を悟った人をいうのであります。死を恐れずに見つめ、無常を明らかに悟ったのは、その奥に常住不変の法があり、わが生命もその法則のうえに立って運動する尊き存在であることを、知っていたからこそであるといえましょう。
死は私たちの肉体を、必ず包み込む。それは、避けることができない。しかし、それを超えて、永遠に生起し、展転しゆく不滅の生命の裏付けられていることを仏法は教えている。その絶対の確信のうえに立って、死を、無常を見つめることを指し示したのであります。
内なる生命を見つめ〝人間謳歌の文明〟つくる
仏法では「生死不二」と説きます。生も死も、永久不変に流れゆく生命の二つの現れ方であって、どちらかに他方が従属するものでもない。時間、空間の認識の枠を超えた「空」の次元でこそ、この生死をつかさどる永遠の究極的生命がとらえられているといってよい。トインビー博士と、その永遠性の問題は繰り返し論議いたしましたが、博士も「究極の精神的実在」は、仏法で説く「空」の状態でしか捉えられないと言っておられました。
この「空」ということを、短い時間で説明しきることは困難ですが、一般的に考えられている「無」ということでは絶対にありません。「有」や「無」は時間、空間という私達の通常の認識尺度で判別しうるものでありますが、「空」はその奥にある本源の世界を問題にしていけるわけであります。
私達は、生まれて成人に達するまで、肉体的には大変化を行っている。幼い時の肉体とは、別人のごとくであるといってもよい。これからの人生の長い道程にあっても、数知れない変化を行っていくうえでありましょう。精神的にも大きな変化が見られるのは当然であります。しかし、その中に一貫して変わらぬ自分というものがある。それは単に記憶の問題にとどまらず、一個の生ある個体としての、本源的な「我」の問題であります。
子の本源的な「我」は、肉体や精神のうえに顕れてきているけれども、そのもの自体を認識することは困難であります。肉体や精神をつかさどり「有」や「無」の世界の奥にある本体であると言わざるを得ない。
仏法は子の本源的な「我」が、宇宙大の生命に通じていると説くのであります。更に、この「我」は、永遠に不滅の働きをなし、ある時は「生」に、ある時は「死」の姿をとる。これが生死不二という考え方であります。私達は、その「大我」を、わが生命のうちに持っている。そして宇宙生命とともに呼吸しながら、無常の世の中に生きて行くのであります。
翻って、現代文明を見るとき、私達の文明はまさしくこの「小我」に翻弄され、その最大限に暴れさせた文明であったことは悲しい。人間の欲の権化が環境を汚染し、石油資源を掘り尽くして、巨大な科学文明を作りだした。巨大なビル、高速の交通機関、さまざまな人口食料、そして最も忌まわしい兵器——それらのすべてが、人間の執着、煩悩の現象であります。
それらのなすがままにまかせ、人間を従属させていくならば、必ずや人類を自滅に陥れるに違いありません。
世界的な主張として、今、現代文明の暴走への反省から、「人間」に目を向けるようになってきたのは、ようやく人間が人間であろうとしている兆しであるといえましょう。
欲望に支配され、無常の現象の世界ばかり追い回すのであれば、そこにいかに知性が発揮されるといっても、本源的には、本能に生きる動物と変わるところがない。現象の奥にある、目には見えぬ実在に目を向けてこそ、人間は人間たる価値を表すのではないでしょうか。(拍手)
トインビー博士は、自らのエゴにとらわれた欲望を「魔性の欲望」と認識され、それに対し「大我」に融合する欲望を「愛に向かう欲望」と名づけられました。そして「魔性の欲望」をコントロールするためには、人間一人一人が内なる自己を見つめ、制御することが必要不可欠であると、二十一世紀への警鐘として述べられたのであります。
きたるべき二十一世紀の文明は「小我」に支配されてきた文明を打ち破る、「大我」を踏まえ、無常の奥にある常住の実在をつかんだうえに立っての円満な発達が要請されるべきであります。それでこそ、初めて人間は、自らが人間として自立し、文明は人間の文明になるのであります。そのような意味から、私は、二十一世紀を「生命の世紀」でなければならないと訴える次第であります。(大拍手)
私達の人生は、また宇宙のあらゆる現象は車輪が回るがごとく、展転きわまりないものであります。しかし、煩悩、欲望の泥沼の上をあえぎながら走るか、確固とした「大我」を悟った生命の大地の上を走りゆくかによって、その回転は変わってくる。その時、初めて文明は確かな足どりを持って動き始めるといえるでありましょう。
二十一世紀が夢に見た人間謳歌の文明になるかどうかは、一にかかって、人間そのものに目を向け、常住不変、不動の力強い不変の生命を発見しうるかどうかにかかっている。そしていまは、まさにその分起点にあることを、本日、私は皆さんに訴えたいのであります。
二十世紀後半から二十一世紀にかけての現代は、まさしく人間が真に人間となるか否かの転換期であると、私は考える。
これまでは、極論かも知れませんが、人間は知性を持った動物の域を出なかった。私の信奉する七百年前の日蓮大聖人の経典の中に「才能ある畜生」(御書 215 ㌻)という表現がありますが、現代において、この言葉の持つ意味が極めて明確になりつつあります。人間は知性的に人間であるだけでなく、精神的、更に生命的にも、人間として跳躍を遂げなければならないと信ずるものであります。
その課題は、今日の誰人にも課せられております。まず、自ら人間としての自立の道を模索すべきだと思います。私は仏法によって、その「生命の旅」を開始いたしました。皆さんも、一人一人が未曽有の転換期に立つ若き建設者、開拓者として、それぞれの「人間自立の道」を考えていただきたい。私は本日、そのための参考として仏法の英知の一端をお話いたしました。この講演が、皆さん一人一人にとって何らかの指標となれば幸いであります。(大拍手)
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