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人類の平和と幸福を実現する〝発想の母体〟に
第4回入学式 1974年4月18日
創造的生命の開花を
きょうは講演というより、あいさつという内容で話をさせていただきます。海外訪問から戻ったばかりで、時差による体の変調もまだ残っていますし、そのため話にも飛躍があるかもしれません。また聞きづらい点があるかもしれませんが、ご了承ください。
まず最初に、入学試験の難関を見事に突破して、晴れて合格の栄冠を勝ち取られた諸君に対し、私は心よりお祝い申し上げる次第であります。本当におめでとうございました。(拍手)
ご承知のとおり「知識」や「学問」そのものには、善悪はありません。皆さんは、子の最高学府において余年間、優れた学問を研鑽した結果、社会へ出ていってからきわめて巧妙なる知能犯にもなれるし、秀でた有益なるインテリゲンチア(知識人)にもなれるのであります。いずれになるかは、皆さん方各人の自由意志の発動次第であります。ですから、この世年間、願わくは全員、良心に基づいた学究生活を送られんことを、切にお祈り申し上げるものであります。
私はこの春、新善と文化交流を行うために、三月七日から四月十三日までの約四十日間、北米、中南米に行ってまいりました。創価大学の創立者として、いくつかの大学を訪問し根本的な転換を要求されている現代文明、教育の本質的なあり方について、さまざまに語りあいました。それについての二、三の提案も行い、講演もしてまいりましたので、最初にその報告を、簡単にさせていただきたいと思います。
まず、最初に参りましたのは、カルフォルニア大学バークレー校であります。同校には十人のノーベル賞受賞の教授がおられますが、ここでは、ポウカー総長と懇談いたしました。
次に音連れたニューオリンズ大学でもヒット総長と「教育国連」構想、さらにはその前段階として、世界の大学を結ぶ「世界大学総長会議」や学生連合である「学生自治会会議」を開催することを話しあい、意見の一致をみました。
このことは、カルフォルニア大学ロサンゼルス校のミラー副総長との対話においてもテーマに上り、教育交流を中心にして寄与していくことを、強い共感をもって確認しあったしだいであります。また、同校(ロサンゼルス校)では、「二十一世紀への提言」(=『池田大作全集』第一巻所収)と題して、講演も行ってまいりました。
このほか、中南米においてもパナマ国立のパナマ大学、ペルーのサンマルコス大学を訪問し、個々意見を交換しました。
とくに、サンマルコス大学のゲバラ総長からは、同大学訪問に寄せてメッセージをいただきました。総腸から創価大学の皆さまにぜひともお伝えただきたいとのことでしたので、そのメッセージを学長にお渡しし、諸君への伝言といたします。(拍手)
今回の訪米だけでなく、過日、香港においては中文大学を訪問し、同様に提案を行ってまいりました。昨年はヨーロッパの各大学も訪問しております。今後、いよいよ本格的に世界のさまざまな大学から教授や学生が数多く本学を訪れるであろうし、諸君がどんどん行かなければならないような時代が来るかもしれない。忙しくなると思いますが、またそこには、大きな張り合いがあることを、知っていただきたいと思います。
私は、私の信念として、諸君のためには、いかなる苦労も惜しまず、新しき世界への道を開いてまいりたいと思っております。私が、世界の人々のなかを駆けめぐるその胸中には、つねに大切な、そして心より信頼する諸君の存在があることを知っていただきたいと思うのであります(拍手)。どうか、諸君は〝点〟と〝点〟とを〝線〟で結び、さらに、それを壮大な立体とした世界の平和像をつくりあげてほしいのであります。これは、私の諸君に対する遺言と思ってください。お願いします。(拍手)
「教育国連」の発想は、国際政治による平和への努力が空転し、行き詰っている現代に在って、それを教育の力で真実の世界平和を勝ち取るための、最後の、そして確かな切り札であると、私は思っているのであります。そのために、「世界大学総長会議」も提案してきたし、学生諸君が平和へ立ちあがるために「学生自治会会議」の提案も行ってきたわけであります。これらは私一人ではとうていできないし、やがての時代、諸君たちがその実現に努力してほしいのであります。
学生こそ大学の主役
ともあれ、世界はますます、この〝発想の母体〟である創価大学に、注目してくるでありましょう。創価大学の諸君こそ、それにふさわしい世界的偉材と育っていかなければなりません。そして、人間と人間のスクラムによって、脈動しゆく世界交流、信頼関係への樹立へ向かって、いかなる波動をおこしていかなければならない、と私は諸君に期待をかけるものであります。
私がサンマルコス大学を訪問したさい、総長との会談の席に同席した二十数人の教授の方々から、各人のモットーを贈られました。この教授の方々のすべては、ペルーにおいては第一級の矜持と承っております。その一つに「教授も学生も大衆とともに歩み、人類と幸福と平和と英知という目標に到達するまでは、一切の困難を乗り越えるべきである」という言葉がありました。
現代知識人の悪しき習慣は、この〝困難〟をいつも避けているところにあります。私は避けない。民衆の真っただ中にあって、いかなる困難をも乗り越え、人類の崇高な目的に立ち向かっていく精神こそ、大学の存在理由であり、古くまた新しい大学の使命であると、私は生命の底から叫びたいと思いますけれども、諸君、どうでしょうか。(拍手)
わが創価大学をはじめ、世界の各大学が、そしてすべての教師と学生が大衆とともにこの共同作業に取り組むならば、必ずや人類平和の目標は達せられるに違いありません。私が今回の大学訪問を通して、数々の提案をしてきた意義も、ここに帰されるのであり、本大学の学風建設の当事者たる諸君に、その英知事業を託したい気持ちでいっぱいであります。
若き創立者との自覚で
昨年の第三回入学式の折、少しばかり大学の発祥について、歴史をさかのぼって考察を加えていきました。そのとき、大学というものが制度や建物からではなく、新しい知識と学問を求めようする若者の情熱と意欲から起こったものであることを、述べておきました。
すなわち、真理をこよなく自らのものにしたいという若者の情熱がまずあって、それが学問的職業人、つまり教師を生み出し、そしてこの教師と学生との人間的共同体が、今日の大学の淵源となっていったのであります。つまり、もともと大学というというものは、学問を求め真理を愛する学生たちの熱性から始まったということなのであります。
これこそ、大学の始原であると同時に、奇数であると、私は思うのであります。学生不在の大学となれば、もはや目的の手段化であり、大学の生命はない、と言いたい。残念なことに、今日の大学には、方向喪失と停滞がつきまとっています。ゆえに、今こそ、大学の原点に立ち返る必要があると考えます。
そこで、本日、めでたく入学された諸君に、心の底から要望したいことは、諸君こそ私と同じく、若き大学の創立者であり、創造者であるという一点を、決して忘れないで欲しい、ということなのであります。在学中のみでなく、生涯、創価大学を皆の手で建設し、守っていただきたいというのが、私のお願いなのであります。(拍手)
教授と学生の断絶の問題について、サンマルコス大学の副総長と話あったさい、副総長は、次の二点を述べておりました。
その第一点は、対話が絶えず行わなければならないこと、第二点として、学生が責任をもって大学諸行事に参画できうる体制を講ずべきである、というのであります。私は、この対談で、苦難のなかにも新しい大学の方向を真剣になって模索しているところは、学生をいかにして大学の主役にするかという点に、新たなる、また時代の流れとして、問題の解決を見いだそうとしている、と感じとったのであります。
そこで私は、諸君たちは大学から与えられるのを待っている、という姿勢ではなく、能動的に、かつ情熱的に〝これこそ、大学の新しい希望の灯である〟といえる、誇りに満ちた勇気ある建設作業に、取り組んでもらいたいと思うのであります。
とくに対話という問題でありますが、価値ある対話というものは、それぞれの責任感と、信頼感から生まれるものであって、無責任な討論ではないのであります。すなわち、自分たちの大学であるとの強い自覚に基づく責任と、創価大学を人類文化の跳躍台としていくのである、という目的観に結ばれた相互の信頼関係が、必ずや実りある対話をもたらすことでありましょう。そして、本大学に見事な人間共同体を創出していっていただきたいことを、私は強くお願いするものであります。
これに関連して、私立大学の特質についてふれておきたい。言うまでもなく、私立大学の存在意義というものは、国家権力からの制約を受けることなく、自主的に見学の信念を貫きとおすところにあります。こうした大学の教育にあっては、広く人類の未来に思いを馳せ、世界的視野に立って有為な人材を、自由に伸び伸びと育成することができるわけであります。
狭い国家意識や、民族意識のワクにとらわれることなく、世界のひのき舞台に雄飛すべきスケールの大きな視野の青年たちを、荒れ狂う社会の変革のために送り出すところに、私立大学の特色の一つを、見いだしたいのであります。
学問と文化の精華を守る砦
次に、あらゆる大学の使命の一つである学問の研究の場にあっても、私立大学には学閥的閉鎖性の陰りがない。自由な、それでいて活力に満ちた気風がみなぎっていなければならない、と思います。思想の自由、発表の自由、といった学問研究における絶対条件を満たしうるもの、私立大学に課せられた特色である、と私は考えます。
このような、みずからの信条に基づいて築きあげた学問の場こそ、独創的な研究成果を生み、個性豊かな研究者を育てていく母体となり、土壌となるにちがいない。また、泡沫のような時流にとらわれることなく、長大な展望に立っての息の長い研究に取り組めるのも、私立大学に課せられた役割であります。
私が私立大学のもちうる特色として挙げた教育の研究の在り方こそが、人類歴史の流転の中で産声を上げた、大学という制度のもともとの目標であり、使命であった。
これに対して、国立、公立の大学にも種々の長所があり、特色があることも認めなければなりませんが、国立、公立の大学は、なんといっても国家からの要請、制約を無視できないという条件を背負っております。
私立大学には、一国家、一民族の要請を受け入れつつも、さらに遠大な視野に立っての教育と研究を、自由に行いうるという最大の長所が備わっている。また、国家権力のあくどい介入に対抗して、真実の学問と文化の精華を守りぬく砦は、私立大学にこそ見いだしうると、考えたいのであります。
現在、我が国の習性は、明治以来の流れとして、国立、公立の大学に、青年たちの教育と文化交流の源泉を求めがちであります。いわば、国立、公立の大学を主流とみなしてきたのが、教育者をはじめとする多くの人々の固定観念でもありました。
しかし、私は日本と世界の将来を思うにつけても、大学精神を人類社会の中に生き生きと通わせるには、私立大学こそが主流となるべきではないかと、主張しておきたいのであります。諸君、どうでありましょうか。(拍手)
私立大学に学び、その自由闊達な精神を骨髄にきざみこみ、毒性的な知恵を培った俊逸たちが、海を越え、大地を踏みしめて、この地球上のあらゆる民衆の真っただ中に入りゆくとき、初めて人間と人間、民族と民族、庶民と庶民の生命交流が可能となり、異なった文化の見事なゆうごと昇華が成し遂げられるものと、確信するからであります。
陸続と続く友の輪の広がりから、民衆と民衆をつなぐ強固な交流の懸け橋が築かれ、新たなる地球文化、人類文化の胎動を告げる鼓動が、やがて人々の心を揺り動かすにいたるでありましょう。ともかく、諸君は、民衆間に架けられるべき平和と文化の橋をつくりあげる使節であり、建設者であり、担い手であります。
同時に私は、未来の世界に響き渡る地球新文化誕生を告げる暁鐘を、諸君の手で、打ち鳴らしていってほしいのであります。そして、諸君の連打する暁鐘の音には、幾多の無名の人間庶民の切実な祈りにも似た願望が込められていることも、決して忘れないでいただきたい。
新たなる〝生〟を創り出す弛みなき錬磨を
「力」を使いこなす「知恵」を開発する
ところで最近、世界的に有名な社会学者の著した書に『力と知恵』(中岡哲郎・竹内成明訳、人文書院)という本があります。諸君のなかにもすでに読んで知っている方もあるかもしれませんが、その学者とはジョルジュ・フリードマンというフランス労働社会学の長老であります。
この「力と知恵」の意味するものは〝力〟とは人間が技術の開発、発展によって得てきた環境支配の力であります。〝知恵〟とは、この〝力〟を使いこなし、人間の幸福のために価値判断していく英知を指しております。
今、私はフリードマンの著書の内容を、諸君に説明するつもりはありません。ただ、この〝力〟と〝知恵〟という立て分け方雨を用いて、訴えおきたいことがある。
それは、明治から戦前までの日本の教育、なかんずく大学教育の目標を振り返ってみるとき、あまりにも〝力〟に偏った至高性があったのではないかということであります。知識を吸収し、技術を身につける、そして、〝力〟の面で一日も早く世界的レベルに追いつかなければならない。これが、日本の教育が追求してきた最大の課題であったと思うのであります。
もちろん、その背景には、長い鎖国によって、科学技術の分野において欧米諸国から立ち遅れていたこと、もし一日も早く〝力〟をつけなければ、欧米の諸国によって植民地化され、蹂躙される恐れがあったことは否定できません。そして、この所謂富国強兵政策によって、事実、ほかのアジア諸国が次々と自由と独立を奪われていったなかにあって、日本は独立を維持することができたのであります。
しかしながら、こうした〝力〟を崇拝し、富国強兵を追求し続けた結果が、日本が未曽有の敗戦という事態におとしいれたことも、歴史の尊い教訓の一つとして、とくに諸君たちは胸に刻んでいていただきたい。
また〝力〟の追求のための道具とされた教育が、本来、教育の生命である。ここの人間の尊重、人間の尊厳の樹立という一点を失って、国家や企業にとって価値ある人間、すなわち国家、企業という組織のなかの歯車のような部品に甘んずる人間をつくりだしてきた。教育がその手段となってきたということも、忘れてはならない重大な問題であります。
〝力〟の追求も大事だが、それは同時に〝力〟を使いこなせるだけの〝知恵〟の開発をともなわなければなりません。〝知恵〟とは、人間主体に根ざしたものであり、ソクラテスがいみじくも喝破したごとく「汝自身を知る」ことから発するのであります。ここにこそ、人間を機械の部品に堕落させない、人間を他のいかなるものとも交換しえないものとする、尊厳性樹立の起点があるわけであります。
真実の学問とは、戦ずるところ、この自己への〝知〟にある。創価大学が目指す学問、教育の理想も、ここにあるといってよい。〝力〟への学問においては、優れた大学や研究機関が世界に数えきれないほどあるでありましょう。だが、それらは人間に何をもたらしたか。それは、惨たんたる現代文明の虚像ではなかったかとも、見えるのであります。
諸君の使命は、あらゆる〝力〟を人間の幸福と平和のために使いこなす〝知恵〟を、身につけることにあると言いたいのであります。それは「汝自身」を知り、それに結びついた形で、学問を究めることであります。それが自分に、すなわち人間にとってどういう関係にあるか――すべてをここに引きもどして知恵、技術、芸術の再編成をするとともに、新たな人類の蘇生を、もたらしていただきたいのであります。
その着実な作業の積み重ねの中に、人類文化の偉大なるルネサンスがあることを確信し、諸君の成長を、心より祈ってやまないものであります。
フランスの著名な文化人であり、歴史家であるルネ・ユイグ氏も、過日東京大学での講演で、次のように述べられていります。このユイグ博士とは、あす夕刻、お会いする予定になっておりますが(=後に両者は対談集『闇は暁を求めて』〈『池田大作全集』第 5 巻収録〉を出版)、その講演「自然と芸術における形態と力」というテーマの中で一部を要約しますと、「現在の危機は文明の危機である。人間の文化の欠点は、それがそれぞれの分野に分けられてしまい、全体というものを見失っている。私は人類の文かは唯一不可分のものと考える。また、知識人は自己の力と知識のすべてを挙げて、文明のために尽くさなければいけないと考える。今日の危機は社会的危機、政治的危機よりも根本的な文明の危機というべきものである」という意味の警告の論調を展開しておられました。
ここで、二十一世紀にはばたきゆく諸君に、私の友愛の情を込めつつ、若干、付言しておきたい。
私は同じく昨年、本大学において、〝創造的人間を目指すように〟ということを、要望してまいりました。そのことに関連して「創造的生命」という点に、言及したいのであります。私は何も、むずかしい哲学の解説をするつもりはありません。そしてまた、一般的定義つけをしようという考えも、毛頭ありません。
ただ私は、諸君に、この長い尊い人生にあって、敗北の陰のある、暗い人生の旅行者になってもらいたくないのであります。私自身の体験のうえから、〝諸君の前途に栄光あれ〟と願いつつ、一つの示唆として、お話するわけであります。
逆境への挑戦の中に「人間革命」が
私の胸に触れてやまぬ〝創造〟という言葉の実感とは、自己の全存在をかけて、悔いなき仕事を続けたときの自己拡大の生命の勝どきであり、汗と涙の結晶作業以外のなにものでもありません。〝創造的生命〟とは、そうした人生行動のたゆみなき錬磨の中に浮かび上がる、生命のダイナミズムであろうかと、思うのであります。
そこには嵐もあろう、雨も強かろう、一時的な敗北の姿があるかもしれません。しかし〝創造的生命〟は、それで敗北し去ることは決してない。やがて己の胸中にかかるであろう、さわやかな虹を知っているからであります。甘えや安逸には創造はありえません。
愚痴や逃避は脆弱な一念の反映であり、生命本然の創造の方向を腐食させてしまうだけであります。創造の戦いを断念した生命の落ちゆく先は、万物の〝生〟を破壊し尽くす奈落の底にほけなりません。
諸君は、断じて新たなる〝生〟を建設する行為を、一瞬たりともとどめてはならない。創造はきしむような重い生命の扉を開く、もっとも峻烈なる戦いそのものであり、最も至難な作業であるかもしれません。極言すれば、宇宙の神秘な扉を開くよりも「汝自身の生命の門戸」を開くことの方が、より困難な作業、活動であります。
しかし、そこに人間としての証があります。否、生あるものとしての真実の生きがいがあり、生き方があります。〝生〟を創造する歓喜を知らぬ人生ほどさびしく、はかないものはありません。生物学的に直立し、理性と知性を発現えたことのみが、人間であることのゆえんであると思いますけれども、諸君、どうでありましょうか。(拍手)
あらたなる〝生〟を創りだす激闘のなかにこそ、初めて理性を導く輝ける英知も、宇宙まで貫きとおす直観智の光も、襲い来る邪悪に挑戦する強靭な正義と意志力も、悩める者の痛みを引き受ける限りない心情も、そして宇宙本源の生命から湧き出す慈愛のエネルギーと融和して、人々の生命の歓喜のリズムに染めなしつつ、脈打ってやまないものがあるからです。
逆境への挑戦をとおして開かれた、ありとあらゆる生命の宝を磨きぬくにつれて、人間は初めて真の人間至高の道を歩みぬくことができると、私は確信するのであります。ゆえに、現代から未来にかけて〝創造的生命〟の持ち主こそが、歴史の流れの先端に立つことは疑いない、と私は思います。
この〝創造的生命〟の開花を、私はヒューマン・レボリューション、すなわち「人間革命」と呼びたい。これこそ諸君の今日の、そして生涯かけての課題なのであります。
最期に私は、十九世紀後半のフランスの作家であり、詩人であるペギー(一八七四年―一九一四年)が「教育の危機は教育の危機ならず。そは生命の危機なり」(『半月手帖』平野威馬雄訳、昭森社)と叫んだ言葉を思いおこすのであります。現代の危機は、まさに学問、教育の内部まで入り込んでいるところに、その深刻さがあるといってよいでしょう。
ゆえにまた、このことは教育こそ未来への突破口があることを物語るものであります。創価大学に私がかけているところのものも、そのためであります。
それでは諸君、どうか楽しく有意義な四年間でありますよう――。そして教授の諸先生方、本年入学された〝未来の宝〟をよろしく、と心よりお願い申し上げて、私の話を終わらせていただきます。
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