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AWAY FROM HERSarah Polley110min(1 : 1.85、英語)(リウボウホールにて)英米系の映画をあまり見ないので、もともと女優のこのサラ・ポーリーという人を知りませんでした。オードリー・ウェルズ監督の『写真家の女たち』という映画を1年ほど前にたまたま見て注目し、その後イザベル・コイシェ監督の『死ぬまでにしたい10のこと』と『あなたになら言える秘密のこと』、そしてローランド・ズゾ・リヒター監督の『Re:プレイ』を見ています。美しいのはもちろんだとして、とても知的そうで、一見弱そうに見えて実は頑として動かない芯の強いところがあって、ある意味とても お・ん・な らしい雰囲気を持っていますね。調べてみるとバリバリの左翼系活動家で、あとは大のハリウッド嫌いらしいです。そんな彼女の初監督長編劇映画とあって、非常に興味がありました。結果はと言うと、女優さんの余技などというものではなく、なかなか立派なものでした。かなり評判も良いようですね。ただ良くも悪くも、物語にしても映画の作りにしても、彼女の生真面目な性格そのもののような作品。ジュリー・クリスティからあれだけの演技を引出したサラ・ポーリーの演出力は大したものです。とにかく素敵なジュリー・クリスティを見るだけでも千数百円の入場料は損はない。でも映画全体としては、その「良くも悪くも生真面目」の「悪くも」の方が少々気になってしまいました。それは映画として何かが欠けているという印象です。以前にもどこかで引用していることなのですが、クシシュトフ・キェシロフスキの「これで映画になった」という言葉に要約されることです。映画作家、ここではハリウッド等とちがい編集権を監督自らが保持した「作家の映画」の映画作家という意味ですが、そんな監督さんたちの中にも色々な映画があり、また作り方がある。でもたとえばキェシロフスキで言うと、撮影が終わってから、ああでもない、こうでもないと、シーンを丸ごと削除してみたり、シーンの一部をカットしてみたり、シーンの順番を入れ換えたりして、とにかく彼の考える、あるいは感じる「映画らしい映画」にする。そのために彼の場合は撮影後に第1バージョン、第2バージョン、第3バージョン・・・と、再編集をくり返す。たとえば『トリコロール 青の愛』では、ジュリーとアントワーヌだったかな、事故を目撃した青年が拾ったジュリーのペンダントを返すために会うシーンがある。このシーンをどの辺に入れるか、あるいは入れないか、色々試行錯誤したようだ。『ふたりのベロニカ』では女友だちに頼まれて主人公のヴェロニックがその友人の離婚請求訴訟で偽証を引き受ける話の扱いも監督は迷ったようだ。この逸話は映画の本筋には全く無関係だけれど、これがないとヴェロニックがあまりに天使か雲上人になってしまい、地に足のついた一人の生きた人間には見えなくなってしまうという。この監督のやり方がすべてではないけれど、映画というのはこういうバランスが大切なんですね。そのためには、ホラーなどサスペンス性の高い映画や反戦が主題の真面目な映画であっても、どこかにゆとりとか遊び、あるいは一見無駄に見える部分があることが必要。何でこのシーンがあるのか解らないなんてシーンも、実は全体の映画らしさや、主人公などのなんとなくの性格付けに必要だったりするんですね。そういう意味で、この『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』の作りは、風景描写なんかは美しいけれど、サラ・ポーリーの生真面目さが出てしまったというか、無駄がなさ過ぎるし、逆にちょっとした不足(つまりはアレっ?と思うような物語のちょっとした飛躍とか)がないんですね。そして生真面目ですべてを丁寧に描こうとするから、110分にもなってしまう。ボクの印象では100分をちょっと切る98分とかぐらいがこの映画の適切な長さのような気がします。そういう映画全体のバランス感覚がやや欠如した印象です。もちろん専業の映画監督の中にはこのサラ以上にダメな人はたくさんいますが。サラが女優として出演したイザベル・コイシェの2作品なんかは、どちらも真面目な内容の作品だけれど、コイシェ流に映画らしい映画になっています。サラ・ポーリーはこれからも女優業と平行して監督もしていくつもりらしいから、この「映画らしい映画」という感覚を次回は彼女なりに体得して欲しいと思います。物語も映画のタイプも違うから、どちらが良いの悪いのという比較はできませんが、同じく女優さんの初監督作品としては、結果の質は議論もあるけれど、『パリ、恋人たちの2日間』のジュリー・デルピーはこの「映画感覚」を感性的に持っている感じですね。結婚44年目という退官大学教授グラント(ゴードン・ピンセント)と妻フィオーナ(ジュリー・クリスティ)。幸せそうな老後の二人の生活なのだけれど、妻フィオーナがアルツハイマーで認知症の症状を呈し始める。夫グラントは気が進まなかったけれど、フィオーナ自ら決断して老人介護施設に入所することになる。それらしい理由はつけているけれど、要するには施設の都合で、入所最初の1ヶ月間は夫であっても外部者の面会や電話は禁止される。そして待ちに待った1ヶ月が過ぎてグラントが面会に行くと、フィオーナは同じく入所している車椅子の男オーブリーの世話を恋人のようにかいがいしく焼いている。そしてグラントが夫であることもわからない。若い女性の看護士はグラントの過去を察して「幸せだったと言うのはいつも男の方で、女の方はそうでもなかったのよ」と言う。フィオーナはかつて若い女子学生とのグラントの浮気に苦しんだんですね。これは妻の意識的あるいは無意識の復讐なのか、あるいは天罰か。自らは身を引いてそんな妻を見守ることしかグラントにはできない。この映画には主演老夫婦(グラントとフィオーナ)の他にもう一組の老夫婦(オーブリーとマリアン)が出てくる。グラント夫妻の方はかなりお金持ちのようだけれど、オーブリー夫妻の方はそれほどでもない。老後の設計を立てて持った家だったけれど、介護施設の高い料金をオーブリー夫妻は払うことができない。そのためには家を手放すしかない。だからマリアンはオーブリーを家に引き取る。でも結果彼に会えなくなったフィオーナは寂しい。それでグラントはなんとかならないものかと考える。これ以後の物語の進行は書かないでおいて、ある種の感想のようなものを書いてみたい。こんな過去を抱えた夫婦なんていうのは掃いて捨てるほどいるのかも知れないけれど、若い介護士の言った言葉の真実と、その根底にある夫婦の誤りを感じる。フィオーナにとって、夫が自分の方だけを向いてくれて、少なくも表面上幸せな日々をどれだけの長きに送ってきたのだろう。10年?、20年?。でもそれはあくまでも夫婦どちらにとっても未整理なことを前提としている。これはもちろん浮気をした夫に責任はあるけれど、では何故夫は浮気をしたのか。あるいはそういう性癖の男だとしたら、そんな夫と結婚をした妻の責任は?。そしてそれでも結婚生活を続けた理由は?。グラントだけの責任ではなく夫婦2人の責任だ。もちろん映画は夫グラントの心理の視点で語られているから、実際に妻が過去を根に持っているかどうかはわからない。しかし認知症の妻が自分のことを忘れ、オーブリーと恋人のようになっているのを見たとき、グラントは単に失恋のような困惑を感じただけではなく、過去の自分の過ちのことを思う。つまり少なくともグラントにとっては過去は整理できていなかった。これはカップルの問題だから、夫にとって整理出来ていなかったということは、妻にとっても真に整理は出来ていなかったということだ。人は惰性に流れがちだ。しかしたとえ30年、40年の結婚生活であったとしても、必要なのはその関係の日々更新なのだ。つまりは現在に生きることの必要性。この物語の設定でボクがいちばん関心を持つのはその点。ありがちではあっても、二人のわだかまりは、そのことは起きてしまった前提とされているだけで、そのことには一切触れられてはいない。そこがボクにとってはこの映画の根幹としてつまらなかった点だ。その意味ではグラントとマリアンの取る行動の方を中心に据えた方が、一般受けするかどうかは別として、実り豊かだったのではないだろうか。やはりこの映画はカナダ・アメリカ系の発想の産物かも知れない。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2008.09.15
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THE PASSENGERFrancois Rotger88min(DISCASにてレンタル)伊勢谷友介とか加瀬亮とか、ファンの方は多いようですね。ボクはほとんど知らない俳優さんたち。加瀬亮の方は『誰も知らない』でコンビニの店員やってた人ですか。ネットでブログやレビューをちらちら見ていたら内容に触れたものよりも2人のファンの方のものばかりでした。映画としてはある意味雰囲気先行で、筋にとりとめがないので感想を書きにくいのかも知れません。題名のせいもあるのでしょうが、見終わってアントニオーニの『さすらいの二人』を思い出していました。1975年のアントニオーニの映画の題は PROFESSIONE: REPORTER で「職業:報道レポーター」という意味なんですが、THE PASSENGER という別題もあるからです。主人公のジャック・ニコルソンがマリア・シュナイダーの運転する車の乗客、まさにパッセンジャーとなる予定の映画だったのが、撮影を始めたらマリア・シュナイダーが車の運転が出来ないことがわかり、運転はニコルソンがする作りになってしまい、パッセンジャー が不似合いになってしまったんですね。この映画はアフリカの砂漠地帯で始まり、途中ミュンヒェン、ロンドン、バルセロナといった都会も出てきますが、後半は ピレネ山脈の向こう側はアフリカだ と言われるような意味で暑く荒涼とした土漠のようなスペインで、そういう殺伐とした地理的雰囲気の中でニコルソン演じるイギリス人男性の荒んだ孤独と先のない人生が描かれる。一方今回見た THE PASSENGER、舞台は東京とカナダのモントリオールだろうか?。日本の方は東京だか神奈川だか良く判らなかったが、兎に角古くからの下町でも都会のビル街でもなく、場末感のある、半ば工業地帯のような殺伐とした風景。カナダの方では別荘の場面は自然の美しい風景だが、そこまではやはり自動車修理工場か解体屋のあるような殺伐とした風景。どちらも人の生活感や温もりはあまり感じられない。そこで描かれる人々の孤独。そして主人公のコウジが明るい先のない人生に突き進んでいくしかないのもジャック・ニコルソンの役ともつながる。この2本の映画は全く違う映画なのだけれど、なんか基本構成が似ているように感じます。同じタイトルを付けたことからしても、監督にはアントニオーニの作品がイメージとしてあったのではないかと推理してしまう。どちらもあまり明確なストーリーがない点も共通するし。このロトゲールという監督がどういう人かあまり知らないのだけれど、だいたい何処系の人なのか、その名前も本当に ロトゲール と読むのか、フランス語読みなら ロトジェ なり ロトジェール なり、たんに ロジェ なんではないかとも思ってみたりなのだけれど、かなり個人的な映画らしいですね。彼は若い一時期ロンドンとアムステルダムを行ったり来たりで、仲間と徒党を組んで不良生活をしていたらしいんですが、仲間の一人でいちばん女の子にももててお金もたくさん稼いできた一人が駅の近くでときどき体売ってたり、子供の頃に友達だった日本人がある日突然いなくなったりとかあったり、家族に憧れながらも良い関係を持てなかったり。そういうことからこの映画のコンセプトを作り上げたらしいです。その消えた友達の物語を自由に想像したものでもあるらしい。コウジとヒロコは幼馴染み。ヒロコの父は三道はヤクザの幹部でまだ子供のコウジの世話などしていたらしい。でも大きくなった二人は、と言ってもこの映画の中でヒロコはまだ高校生だけれど、秘かに愛しあうように。抱き合っているのを偶然見て裏切られたという思いの三道は怒り、コウジは沖縄へ。数年して三道は仲間だったカナダ人タネールに組織の金を持ち逃げされたらしく(←あくまでも "らしく" )コウジにカナダに行ってタネールを探すことを依頼する。コウジは成功すればヒロコとの関係をまた持てるという思いでカナダに出発。そこでタネールを追う。金もないからホテルで男に体を売ったり、タネールを追ううちにタネールの妻(元妻?)と知り合って関係持ったり。別荘に行ったタネールを追い、殺害を計画する・・。一方日本では三道と同じヤクザの息子だか甥だかのアキラが三道に不審を持ってヒロコに近付く。そしてヒロコは父三道の秘密を知ることになる。純愛のヒロコとコウジのどちらにも幸せも未来のない、ただ殺伐とした風景の中で課された人生をわずかな期待を持って行動し、生きるだけの孤独。雰囲気だけとも言えるし、あるいは人物たちの孤独感はひしひしと伝わってくるけれど、だから決して悪い映画ではないけれど、見ている方としての感想はやはりあまりにも物語の背景がわからない。たしかに突然消えた友達の物語を監督が勝手に想像したものなのだろうから、監督自身にも明確な筋はないのだろうけれど、やや不満を感じないわけにはいかなかった。それでもまったく嫌いではない映画です。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.12.20
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THE LITTLE GIRL WHO LIVES DOWN THE LANELA PETITE FILLE AU BOUT DU CHEMINNicolas Gessner92min(DISCASでレンタル)この映画は20年くらい前にテレビ放送かレンタルビデオで見て、またいずれ見たいとずっと気になっている作品でした。この映画カナダとフランス(そして米国)の合作映画ということになるのでしょうか。言葉は英語だけれど、カナダはもともとフランス語圏もある国で、クレジットロール見ていてもフランス人やフランス系の名前が多いですね。13か14のジョディ・フォスターの演技には脱帽ものです。最後のカットはジョディのアップで、なんと3分以上もある。この映画のことかどうかは知りませんが、当時「私は子役じゃなくって女優よ」と生意気な発言をインタビューでしているらしいですが、それも当然といった堂々とした演技です。映画の雰囲気も上記のような理由もあってややヨーロピアン・テイストですが、それがそう成り切っていない中途半端さが映画の弱さかも知れません。それでもボクの好きな映画です。レンタルしてしまいましたが、千円以下の廉価盤もあり、DVDを買ってしまうべきだったかも知れません。場所は米国ニューイングランドなのでしょうか?。海岸に近い村外れの家に13才のリン(ジョディ・フォスター)が詩人の父と一緒に暮らしている。もともとイギリス人で、夏頃父と娘はこの家を家賃3年分前払いで借りて越してきたらしい。映画はハロウィンの夜で始まり、地方の名士であり家主でもあるハレット夫人の息子、ロリコン変質者のフランクが訪ねてくる。ちょうどリンの誕生日らしく、リンはバースデーケーキに立てた13本のローソクに独り火を点したところだった。しつこくまとわりつくフランクに、母は既になく父と二人暮らしで、父は今書斎で仕事中だとリンは言う。しかしこの後も父親は書斎に籠っていると言い、疲れて既に寝たと言い、ニューヨークに行っていると言い、決して姿を現さない。彼女はひとりで住んでいるのだろうか?。父親っていうのは本当に存在するのだろうか。この映画は1976年12月が初公開。雪のシーンもあるが、撮影されたのは1976年秋冬だろうか。1962年11月生まれのジョディが14才の誕生日をむかえた頃だ。はっきりとした価値観を持ち、頭が良い聡明なリンの物語なのだけれど、早熟な聡明さを持ち頭が良く、大人顔負けの演技をするジョディ・フォスター自身がどうもリンの役と重なって見えてしまう。それがこの映画の魅力の一つでもある。父親と共同名義だという銀行の貸し金庫に入れてあるトラヴェラーズチェックを独り出して現金に換えに行くのだけれど、サインの確認のために別紙にしたサインを、確認が済むと返してくれと言って受け取って破り捨てる。決して13才の子供とは思えない行動だ。余談ながら、海外旅行で詐欺やトラブルに合うことの多い日本人観光客だが、こういう映画を見ると西洋的に慎重な大人の行動(笑)を学ぶことができる。(以下少しネタバレ)詩人の父とリンは2人暮らし。ところが父は病気で先が長くないことを知る。たぶん離婚した詩人の妻が俗物の性悪女で、自分が死ねばこの妻が母親としてリンのもとにやってきてリンを虐待し、また金をいいように自分のものにするだろうこと、そうなれば娘リンは苦しめられ、またせっかくの才能や個性のある娘が潰されてしまうと危惧する。でも娘はやっと13才で成人にはまだまだ。その状況で父親が一計を案じる。つまり自分が死んでも生きていると世間には見せかけ、娘が大きくなるまで一人で暮らせるようにすること。それがこの物語の背景。そこにこの計画を邪魔する状況や人々が出てきて、それがこの物語のサスペンスになっている。娘が18か20才くらいならきっと何も問題はない。まだ子供で精神的成長が不十分ならしょうがないとして、リンの場合は早熟でもう既に独りで自分の価値観で生きていくことができる。なのに実際に13とか14とかの年令では何故自己決定権がないのか?。この映画の原作&脚本のレアード・コーニッグ、あるいは監督のニコラス・ジェスネールにそういいう意図があったのか無かったのかは分からないが、そういいうことを考えさせらる。この映画でリンがかかわらなければならない大人はハレット夫人であり、またロリコン変質者の息子であり、性悪なリンの母親であり、決して良い人々ではない。そういう大人の社会と比べればリンの価値観の方が立派なわけで、そのリンの側にいるのがやはりまだちょっと未成年のマリオ。フランクにしてもロリコンゆえの何らかの事件の容疑もあるらしいけれど、母親が名士で揉み消されているようなのがこの大人の社会なわけです。リンは「教師の価値観を押し付けられるだけだから」と言って学校には行っていないけれど、結局はこういう欺瞞の大人社会への順応を強いるものでしかないかも知れない。特異な才能と個性を持ったリンは、父親が存在すれば父親に保護されて個性を全うすることも可能なのだけれど、一人となってしまったとき、あるいはバカな母親と一緒にされてしまった場合、どうして潰されてしまうのか。その辺の不条理が強く感じられる。ヨーロピアン・テイストが中途半端と上で書いたけれど、こういいう点をはっきり描くのでなくとも、映画を作る基本的意識としてもっと強く持っていれば、フランス映画的な良さを持ったのではないかと思い、ちょっと残念な気がする。(以下完全ネタバレ)13才であるゆえに母親が迫って来たときに抗する術はない。だからこうなることを父親が予想して用意しておいた青酸カリで母を抹殺する以外に方法はない。2人目のハレット夫人の死は事故死。しかし自分を守るためには隠すしかない。そして最後はそのことを知ってロリコンとしてリンに迫るフランク。これも抹殺する以外に方法はない。リンは2件の殺人・死体遺棄と1件の死体遺棄という犯罪を犯すことになるのだけれど、1件は事故死で、2件の殺人は彼女に危害を加える2人であって、大人になってないゆえに殺すことでしか対応はできないのだから、一種の正当防衛として犯罪性は無いと言ってもいい。そういう状況に追い込まれたリンの孤独な人生が痛くも美しい。父親の価値観を押し付けられたリンの不幸と見る向きもあるようだけれど、それは少し違う。それは対するものとして描かれる社会はハレット母・息子やそれを許容する欺瞞の社会なのだし、利己的で性悪なリンの母親であり、一方リンの父親の価値観は個性の全うにある。リンの物語を離れても、ここには欺瞞の社会糾弾という雰囲気さえ見てとれる。そこに染まることを良しとしない少数者の苦悩を物語的に体現したのがリンの孤独であるような気がする。深読みと言えばその通りだけれど、そういいう背景を感じさせる中での13才のジョディの演技が魅力的な映画だ。無関係な人々の死はなく、派手な殺害シーンなどもない。どちらかと言うと静かなサスペンス性が良い。死の恐怖が迫るようなサスペンスではなく、状況のサスペンスの物語だ。最後のシーンでフランクはシルクハットにマントというマジシャンの服装で、びっこをひくマリオに自分を見せかけていて、また懸賞の賞品を届けるのを電話でリンが断ったのを誉めるが、どちらも結局自分のためではなく実はリンのためになっているという落ちなど、脚本も良く練られている。(ボクの好き度90点。)監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.08.21
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MAELSTROMDenis Villeneuve86min寸評:クシシュトフ・キェシロフスキの最後の作品『トリコロール/赤の愛』以後の作品で、彼の遺稿をもとにした『ヘヴン』と『美しき運命の傷痕』は除くとして、自分の見た中で最もキェシロフスキの世界に近い作品。解体される古代魚(?)の語りなど表面的イメージは異なるが、人の生死や人生の意味、人生に対する責任、偶然など、キェシロフスキの世界に近いと感じた。主演女優マリ・ジョゼ・クローズの容貌・雰囲気もどことなく『青の愛』のジュリエット・ビノシュや『ふたりのベロニカ』や『赤の愛』のイレーヌ・ジャコブに似ている。 Nobubuさんから質問いただいてお答えしたのが縁で、自分も見てみることにしました。不思議な部分もありますが、なんか良い映画です(Nobubuさん、ありがとう)。主演女優マリ・ジョゼ・クローズの持っている雰囲気が良かったのかも知れません。「渦」は原題「MAELSTROM」の直訳ですが、副題の「官能の悪夢」は不要ですね。内容に殆ど無関係だし。どうせ無茶苦茶な副題つけるならオシャレなのにしておけばもっと女性客を呼べたのでは?。 まな板の上の鯉ではないんですが、暗くてちょっと怪し気な魚解体所のような所で、まな板の上の魚が解体される前に物語を語るという妙な枠にはまっていて、途中にも何度かこの解体所が挿入されます。物語の途中に女性主人公が地下鉄のホームのベンチで行きずりの男性に相談するシーンと、男性主人公がバーで行きずりの相客に相談するシーンがあるんですが、その相談相手はどちらも同じ人物。顔の大きな太ったおじさんなんですが、その顔はまな板の上で物語を語る魚とソックリな顔をしている。たぶん特徴的な顔の俳優さんをまず選んで、その顔に似せて作り物の魚を作ったのだと思います。ある事件をキッカケとしての主人公ビビアンの心の変化の物語でもあり、別の言い方をすればキェシロフスキ的な意味で人生に対する責任の物語でもあり、ビビアンと後半で登場する男性との恋の物語でもあるんですが、「生と死」が中心テーマでもあり、また語り手であるまな板の上の魚以外にも魚が色々使われています。あとは題名の通り海の水の渦の映像も挿入されます。 映画は主人公の妊娠中絶手術のシーン、つまり一つの殺人で始まります。その罪悪感や、任されてやっている店の経営が上手くいってないことなどの苦悩の中で酒を飲み、酔っぱらって運転をしていて過ってある男性をはねてしまう。でもそのまま逃げてしまうんですね。結果的にこれはまた第2の殺人。でもこの事故にしても10秒狂えば事故にはなっていなかったわけで偶然の結果でしかない。それは魚に似た男が言うように死んでしまったら犯人が分かろうと分かるまいと同じことで、また彼が言うように「事故」、つまりは偶然でしかない。そういう中で主人公がどういう風に人生に責任を持ち、また再生するかの物語です。 最初にも書いたように映画の質感、それと人物の深みは違うんですが、基本としてキェシロフスキの世界に共通する。また偶然の連鎖や、その他モチーフも共通する部分がある。主人公ビビの友達クレールはノルウエー人で、後半でビビが出会う男性もノルウエー人。ビビがクレールと行った中華料理店でいつもは柔らかいタコが固いのは、仕入れ先の鮮魚商の仕入れ担当がいなかったせいなのだけれど、この仕入れ担当こそビビが車でひいてしまった男だ。ビビも、彼女が後で出会うノルウエー男性も同じ(魚面)男に相談する。ボーとした運転の結果の事故が物語を動かすのは『赤の愛』と同じ、偶然見た新聞で事件を知るのも『赤の愛』と同じ。偶然の結果人は他人と関わりを持つけれども、そういう他者に対して自分にどういう責任があるかということ、言い換えれば自分の人生に対する責任とは何かというのがこの物語の主旨だと思うが、これは『ふたりのベロニカ』等の世界と共通する。 あと感覚として興味深かったのは、人が死んで遺体となり、火葬されて遺灰となる。どこまでが生前の人と関わりを持つのか?。遺灰とはただの物理的モノなのか。火葬場の係員が丁重に御悔やみの言葉とともに遺灰の入った壷を息子に渡すのだけれど、持ち帰るのに「袋が要りますか?」と係員は尋ね、次のショットで息子は白いビニールのレジ袋に入った壷を抱えている。レジ袋の遺灰壷が妙な違和感を感じさせていた。遺灰を部屋にバラ撒き、また電気掃除機で吸ってもとに戻す。実に遺灰の扱いが面白かった。(余談:何故か2日続けて遺灰もの[?]を見ることになってしまった。) 監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから
2007.07.18
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