ラッコの映画生活

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2007.01.09
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L'ECLIPSE
Michelangelo Antonioni

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いきなり最後の「END」マークの画像を引用しました。街灯の光のアップによる日食を思わせるような映像です。この映画の原題は『日食』、太陽が月の陰になって見えなくなる天体現象です。この映画の日食は実際の日食ではありません。太陽が沈んで闇となり、街灯の灯りが太陽にとってかわる。自然物を人工物が覆い隠す日食。物の世界に埋没した人間の空虚感が映画の中心テーマ。21世紀の今見るとやや古い時代を感じさせないでもありません。しかし20世紀になり、2度の破壊的大戦を経験し、自然や神の存在が希薄となった時代、米ソの核の不安もあった時代の精神風土を反映した60年代的作品ではあっても、結局のところ表面的には変わったようで、当時の「現代」は2007年になった今も実は継続しており、そういう意味ではアントニオーニの映画作法的完璧さだけではなく、内容的にも今日的意味をまったく失ってしまった作品ではないような気がします。

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(以下ネタバレ)
タイトルロールが終わって最初のショット。電気スタンド、コーヒーカップ、本、その本の上の白い物体。それは男の腕。空気の流れ、しかしそれは扇風機の人工的な風。ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)と婚約者リカルド(フランシスコ・ラバル)が2人のことを話し合って明けた重苦しい朝。カーテンを引くとわずかな木々と人工的なキノコ形の給水塔。彼女は彼との関係を清算する。何故か?。「君を幸せにしたかった。」「あなたを知った20才の頃、私は幸せだった。」「もう僕を愛してないのか、それとも結婚がイヤなのか。」「わからないわ。」何か特別の出来事があったわけではない。とにかく「幸せじゃないのよ。」

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彼女はリカルドの部屋を後にする。ヴィットリアは証券取引所へ。そこには母がいた。素人投資家として株の売買に夢中。娘の話を聞こうともしない。死んだ株式仲買人の死を悼んで取引を一時中断して1分間の黙祷。人々は静かな中、電話など物だけは鳴り続けている。ヴィットリアは証券仲介業者のピエロ(アラン・ドロン)に声をかけられる。

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夜部屋に戻ったヴィットリア。彼女が買ってきたのは植物の化石が残る石板。お隣の奥さんのケニア帰りの友人宅に遊ぶ彼女。そのご主人の操縦で小型飛行機の遊覧を楽しむ彼女。でも空虚な彼女の心を満たしてはくれない。

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証券取引所では株式が大暴落。ヴィットリアの母も何百万もの負債を負うことに。5000万を失った男をヴィットリアがつけると、彼がカフェに座ってメモ用紙に描いたのは花の絵だった。彼女はカフェでピエロに一杯誘われる。失われたお金はどこにいくの?、という問いに対する彼の返事は「いや、どこにも。」と。株式の相場などというのはもともと実体のない数字なのだ。事後始末に忙しいピエロ。夜ヴィットリアの部屋の窓辺の下を通る酔っ払い。そしてピエロがヴィットリアと話しているとその酔っ払いがピエロのアルファのオープンカーに乗って去っていく。翌日川に水没したアルファが昨夜の酔っ払いの死体を乗せたまま引き上げられる。立ち会うピエロとピエロによばれたヴィットリア。

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ピエロはヴィットリアに迫るが彼女はなかなか受け入れない。彼が語るのは新しい自動車のこと、つまり「物」のことだ。彼女は言う。「愛していれば、わかり合えるもの。わかろうとする必要はないわ。」そしてピエロに「私が望むのはあなたを愛さないことか、もっと深く愛すること。」と。簡単に愛すればそれはリカルドのときと同じ。それなら愛したくはない。苦しみが待っているだけだから。でも本当に深く愛すことができるのなら、そうしたい。そういう意味だろう。しかしそれが難しいからヴィットリアは躊躇する。2人は彼のオフィスで抱き合う。そして別れ際に、明日も会おう、明後日も、そしてその次の日も。今夜も8時にいつもの場所で。しかし去っていく彼女には愛することへの不安が過っている。

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アントニオーニに冠される「愛の不毛」とは誰が流行らせた言葉だろう。なるほどアントニオーニは愛人モニカ・ヴィッティを使って愛の物語を中心に4本の作品を撮った(本作以外に『情事』『夜』『赤い砂漠』)。しかし愛を含む現代の人間を表現した。戦後の混乱・荒廃から脱し、日常の生活が戻ってきた60年代に、人々の心性としてあったのは、信じる価値観(場合によっては神)を失い、人と人との相互理解や、もっと根本的に自分自身の生きる根拠を失った空虚感。日常の楽しみにごまかすことも一つのあり方だが、根源的に何か空漠としている。物に支配され、自然や人間性を失った世界。戦争とて人と人が直接にぶつかり合って血を流す肉弾戦ではなく、兵器という機械に支配されているだけだ。そしてその最大のものとしての核兵器があり、ボタン一つで世界の終末さえもたらしかねない。人一人一人になせるものは何もない。そういう精神の空虚感、空漠感を描いた作品だ。この映画から半世紀がたとうとしている今日、表面的には変わってみえるが、実は根底に流れる同じ疑問はまだ未解決ではないだろうか。

画面は実に美しい白黒画像だし、フレーミングやモンタージュは計算に計算しつくされている。映画作法の観点で分析し、論じれば、まだまだ書きたいことはたくさんある。例えば最初の枠だけの額縁に物を配置するヴィットリアや、ケニア帰りの女性の家を湖畔の写真の外の壁面に指差すヴィットリアなど、フレームに入っているものとフレームの外にあるもの。これは映画のフレームの問題でもあり、とても興味深い。それにしても今日のDVDというメディアはそういうことを分析するにはとても便利なものだ。



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Last updated  2007.01.09 06:30:46
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