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2008.09.11
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カテゴリ: フランス映画
LADY CHATTERLEY

135min(1 : 1.66、フランス語)
(桜坂劇場 ホールAにて)

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この映画、本国のフランスではセザール賞5部門受賞、ルイ・デリュック賞受賞、『カイエ・デュ・シネマ』誌は2006年最優秀作品に選出、と高い評価なんですが、日本でのウケはいまいちな感じですね。ブログや映画サイトの不評の観客レビューをちらちら見てきた印象では、フランスと日本の社会的コンテクストや、映画の見方の違いに起因している感じ。日本文化の中では、案外と作品の真意を汲むのが難しい作品なのかも知れません。そしてそれには予告編やチラシ等の解説も寄与しているかも知れません。それは「チャタレー裁判から50周年を迎える今年」といったものです。これは単に日本に於ける猥褻と表現の自由の訴訟事件であって、この映画には何の関係もないこと。でもこういうことを書かれてしまうと、観客の関心はロレンスの小説に必要以上に向いてしまいます。でも今我々がこの映画に見るべきなのは、ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』ではなく、パスカル・フェランの『レディー・チャタレー』という2006年のフランス映画なんですね。

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別の映画を見にいったとき何度も予告編を見せられ、実は自分の中にも、理由は少し違いますが、この作品に対する抵抗感や警戒感がありました。あまりに森の自然、木立や若葉や花々や小鳥のさえずりなどが描かれていて、人間のセックス、ここではコンスタンスとパーキンの性の営みを自然との対比で美化しようという雰囲気が感じられたからです。こういうことを無反省、あるいは低レベルの哲学でやられると、たいてい興醒めします。監督が女性であることもあって、それに対する警戒感も強かった。でも実際に見たら、ギリギリのところで安っぽい世界に堕せずに踏み止まっていました。このパスカル・フェランという監督さん、詳しいことはあまり知らないのだけれど、唯一見ている 『a.b.c.の可能性』 はなかなか良い映画だった。それ以来10年ぶりの彼女の長編劇映画です。その『a.b.c.の可能性』を見て感じたことの一つは観念的で、頭でかなり論理的に考えていることを映画にしていたこと。でもちゃんと映画らしい映画になっている。今回の自然描写云々のこともそうだけれど、この人はなかなか映画に対する感覚を的確に持っているのではないでしょうか。

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この映画の見方で一つ重要だとボクが思うのは、上に書いた「ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』ではなく、パスカル・フェランの『レディー・チャタレー』」ということ。そして映画の二重構造。監督フェランは、ロレンスの原作に含まれていたことを、21世紀現代のフランス的コンテクスト(これは日本にも共通する)で 読み直し た。その意味ではロレンスの小説の現代的翻案。しかし物語自体は1920年代のイギリスのものとして描いている。物語の背景になる社会環境とか登場人物の心性・価値観はあくまでも1920年代のイギリスのものとして観なければならない。コンスタンスの性知識の無さや二人のセックスの稚拙さを現代的視点で批判するのは見当違いだ。この現代性と時代性を混同して観てはならないのだと思う。こんなことを書くのは、その混同による作品への無理解や批判を少なからず目にしたからだ。だから表面的には1920年代のイギリスの物語だけれど、実は21世紀現代のフランスの物語でもあるのだ。フランス人がフランス語で演じるイギリスといったあり方に普段なら抵抗感を感じる自分だけれど、今回それがなかったのもそういう理由からだろう。ちなみにコンスタンスを演じたマリナ・ハンズという女優さんは、フランス人の母とイギリス人の父をもった、フランスの女優さんだ。

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不貞妻 であるコンスタンスの行動を正当化するのだ。

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もう一つの重要な会話は、映画最後のパーキンとコンスタンスのもの。コンスタンスは有産階級の出身だから、祖母の遺産か何かを、毎年500ポンドという年金として受け取っていた。500ポンドというのがどれほどの金額なのかはわからないが、パーキンは100ポンド貯金があることも稀であるようなことを言っていた。パーキンは独りを好むタイプの男。仲間と一緒といったことは苦手だ。この設定の裏には普通の男、階級こそ違え女性を支配しようとする男性ではないという含みがあるかも知れない。森番を続けることが出来なくなり、彼の性格には合わない工場や炭坑での仕事をするしかなくなったパーキンに、コンスタンスは自分のお金で小さな農場を買って一緒に暮らそうと提案する。しかし彼の意識、あるいはプライドは、女の金を頼りにするわけにはいかないというものだった。男性優位であろうとするとか、金で女を支配するという意図がなくても、こういう感覚を男性は棄て切れない。もちろん女性にもその意識が残る。これは21世紀的現代のことだ。気が合ってデートをすることになった男女。それは例えば映画を観て、食事をして、その後場合によっては・・・、というのでも良いけれど、男は自分が映画代・食事代・ホテル代を出さなければいけないと思い、女は相手の男性が出してくれるものと思っている。経済活動をして金銭的収入があるのは主に男だけという社会体制なら当然だとしても(しかしその社会を支えているのはクリフォード的思想だ)、女も相手の男のように仕事をもって自活して生活している現代。何故に男だけが費用負担をするのか。それでは結局男は女の性を金で買い、女は自分の性を金で売っていることになるのではないか。コンスタンスの500ポンドの年金は彼女の労働による収入ではなく、単なる生まれの偶然による不労所得だから、仮にパーキンが彼女の提案を受け入れたとしても、ヒモというのとは本質的に意味が違う。

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そしてそういう支配とか売買とかいったものから離れて、男だけが金を払っても手に入れようとする女の性ではなく、対等である男と女が、互いの拘束や支配もなく、互いに求め合う性の当然性を描いたのが、作品全体のパーキン/コンスタンスの関係なのだ。セックスは男だけのためのものでもなければ、女だけのためのものでもない。両方にとって同じように必要なものだということだ。こういう風に見ると、女性であるフェラン監督による一種のフェミニズム映画、あるいはジェンダー論映画であると言っても良いだろう。女性も男性と同じように働いて自活し、法律など制度的にも男女平等が推進されている21世紀の現代、心理的深層に残る旧制度(男女不平等社会)のしこりのよなもの、その存在による不自由を指摘しているのだと思う。あるいは男女という階級闘争、あるいは性解放、そういうことを美しい純愛物語(コンスタンスの不倫の正当性は既に指摘した)の中に見せてくれた作品だ。

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Last updated  2008.09.13 04:47:27
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