珍島イヤギ・・・イヤギってなあに?

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恵子3126

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ありがとうございます!@ Re:珍島ソルビーチ(コンドミニアム)の全景です。(09/10) はい^^ 何とか生きてます。 実家にも帰…
たかとう@ 早くコロナが収まりますよう祈願します 大昔にコメントさせていただき、ちょっと…
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June 22, 2006
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カテゴリ: 倭徳山

遭亀企嘘-4.jpg

全羅南道の海南郡と珍島郡の間に架かるのが珍島大橋である。
1984年10月18日に開通し珍島は陸続きになった。
珍島大橋

そして2005年12月15日には第2珍島大橋が開通した。
写真の右が古い橋で、左が新しい大橋である。
dekyo-yakyon

夕方には夜景が美しい・・・
この海峡は東洋一といわれる潮流が流れ
まるで海が鳴くような音がすることから
鳴梁海峡と呼ばれている。

美しい観光名所になっている珍島大橋だが
今から約400年前、この場所で激しい戦があった。
豊臣秀吉による朝鮮出兵!慶長の役である。

時は1597年9月16日早朝!
日本水軍は兵船133隻(一説には300隻とも・・)
対する朝鮮水軍は13隻であった。
海戦が始まった頃、潮流は東から西に向かい
朝鮮水軍にとっては逆流となっていた。
李舜臣将軍は海峡の中流に船を連ねて碇を下ろし、
船が流されるのを防ぎ、日本水軍を攻撃した。

日本の兵船は鳴梁海峡は狭く、潮は満ち、
水は益々急になり、日本水軍は上流より潮に乗り
まさに山を圧するがごとく襲来した。
ところが戦闘が続くさなか、潮流が西から東へと変わり
攻守所を変えた朝鮮軍は潮流に乗り逆襲した。
「豊臣秀吉の朝鮮侵略 北島万次著」

鳴梁海峡(地図)

李舜臣将軍が書き残した「乱中日記」には
鳴梁海戦の闘いで日本水軍「馬多時」を撃った!
と記録されている。

珍島大橋を案内するときは過去の歴史を語るのだが、
ここで韓国人から「馬多時」という日本人武将のことを
質問されると返答に困った。馬多時なんて名前は
見たことも聞いたこともない!

だが最近偶然にも「来島通総=馬多時」
の一行を日本の本から見つけ、
珍島郡庁での勤務10年目にして
胸の中のモヤモヤが解決した。

来島通総とは瀬戸内海に武威を誇った
村上水軍・村上(来島)通康の三男である。
しかし、なぜ来島通総が馬多時になったのか
新たな疑問が生じるのではあるが・・・・・・

HAKA-1
日本の水軍兵士が眠る倭徳山の合同墓地
珍島の古郡面、内洞里から馬山里に抜ける用水路を超えると
荒れ果てた小高い丘のような場所がある。
昨年、ここが珍島大橋の下で亡くなった日本人水軍兵士の
合同墓地であることが珍島の歴史家により明らかにされた。

現在は干拓事業のため当時の面影は残ってないが、
400年前は海水が内陸まで入りくんでいた。
日本人兵士の死体は五山里まで流れてきたのだ。

漁民は海で死体を発見すると、そのまま過ぎることはない。
必ず収拾し安らかに埋葬してやるのが礼法である。
海に浮く死体を見つけ、それを放置すると
その死体が船の後を付いてくる!ということわざを
今も信じている。

「倭徳山」といわれるこの場所は今は誰も訪ねる者がない。
菜の花が淋しく揺れるだけだ。

今にして400年前の歴史が紐解かれ、
ここに眠る魂の恨みが少しでも解かれることを祈るだけである。






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Last updated  June 27, 2006 08:35:47 AM
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