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いま、歌姫の存在を感じている彼女の声に纏わり付くギター、右から左から、上へ下へその掛け合いを、押し出し押し上げるベースキーボードが振り掛ける魔法の粉でキラキラと輝きだすその絵が零れてバラバラにならないように、しっかりと額縁を守るドラムス生の温もりが見えるような、圧倒的な存在感・・・それぞれが個性を魅せるナイト達時に、置き去りにして力強く前へ前へと走る時に、浮かれながら音と音がはしゃぎ時に、表から裏へ、裏から表へを居場所を変えて遊び出すそれぞれが、その音ひとつひとつが楽しげに弾んでいるその中心に彼女の存在があるから・・それが歌姫の存在いつか形にしたいと願っていた言葉達残すともなく、伝えるともなく、形にするだけで良いから歌声に音が重なり溶け合い伝えたい気持ちが形になって行く一つ一つの思いは、それぞれのベクトルに向かって作品となって生まれて行く彼女の歌う夏の海辺には恋が溢れていた陽気なナイト達の手綱を少しだけ緩めて、音が走るナイト達のマイクからも声が集まって来るラテンのテンポの中に、彼らの個々の存在感が際立った瞬間彼等の存在が一つに解け合い、継ぎ目無い一つの存在となって行くその存在から溢れる涙は、切なさであり温もりであり優しさでもありその涙の雫の一粒ずつが、熱を持ち、伝わって行くその一粒を貰って、感動することを思い出した人達その一粒を見つけて、自分の中に生きる力を発見した人達彼女から教えて貰った沢山のこと生きている瞬間を楽しむこと楽しめたことを喜ぶこと支えてくれたことに対して感謝することそして、いつも幸せでいること・・・心の中に、しっかりと刻み付けておきたい存在を心に刻み込み、いつも一緒に居られるように道標を失ったナイト達が、いつまでも歌姫と一緒に居られるように歌姫がかけて行った沢山の魔法から、いつまでも醒めないように・・・黙祷・・・
Mar 1, 2008
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遠く離れた空から、いつも気にしていたよ。離れているって、とっても都合の良い部分も有るんだ。キミの姿が、最後に話した時の笑顔のままだという事。あれからたった2ヶ月の間の事なのに、キミは沢山の経験をしたんだね。酸素ボンベをキャリアに乗せて、満員電車を楽しんでたね。洋服見て、女の子である事を再認識して、歌をカマして。ドクター中松までオマケで付けて・・・この2ヶ月間、大急ぎで沢山の人生を楽しんだキミは、満足だったんだろうか?遠く離れてると、時間が止まったまま。キミは前と何も変わらず、そのまま存在している。。。。生きることの辛さと喜びを天秤にかけて、辛さが勝つようになったのかも知れないね。色々な症状を抱えたがん患者は、随分忙しかっただろうから。沢山の時間や体力を「痛みを堪える事」と「諦めない気持ちを持ち続ける努力」に使ってたよね。その合間に、やれ食べろだとか返事が欲しそうな表情を浮かべて話し掛けられて・・正直それどころじゃ無かったんじゃない?そんな気がすると、声をかける事すら躊躇われて・・・いや、キミはその全部を楽しんでたね。何時だってオシャレだったし、料理だって手を抜かずに。 ・・・・最後まで海に戻りたがってたし。お疲れさま。本当の意味で、思いっ切り休んで下さい。気を遣う周囲の目も、もう無いから。いつまでも、キミのファンです。
Feb 26, 2008
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応援したい仲間がいます。命の大切さを歌に載せて伝えてくれた人です。今も入院してベッドの上で、一人で戦っています。 応援したい仲間がいます。励ましのリレーが、CPSPの仲間の「seimama」さんの提案から始まりました。写真は、同じくCPSPの仲間の「雨のち晴れさん」がモルジブで撮影され、彼女への励ましに載せてくれたものです。 私達の蓮さんに、沢山の想いが届きますように! ・「蓮さん」のブログ・「雨のち晴れさん」のブログ・「seimamaさん」のブログ気が付いた仲間の皆さんも、リレーに加わって蓮さんを応援しませんか?
Dec 12, 2007
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最近、泣くような音を出し始めていたノートPCここ2年を、色々な情報の収集や運動の道具として活躍してくれた焦ると調子悪くなるネットは、何故か調子が良くなっていた音だけ気にしなきゃ、いい子になって来ていたこの半年、悲しいニュースが続くようになったPCは、その報せを受け取る毎に重くなって行った時々、画面を切り替え切れない事が起きるようになったこの数日、その傾向は顕著になっていた励ましたい仲間が居るのに、なかなか辿り着かないネットへのアクセスの幾つかは、携帯が中心になってしまったその分増える、誤字や脱字大切な仲間の、最愛の人が旅立ったその悲しみを何とかしたくて、PCを煽ったこのPC、拒絶したのかも知れない
Oct 8, 2007
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長くここで暮らして来た何人もの仲間と共有した目的目的に向かって果たして来た自分だけの役割一緒に暮らして来た家族いくつもの判断が自分から出て行った生活を続ける為に続けてきた自分だけの役割だけど、もう旅立たなければならないいつまでもここで、自分の役割にしがみついてる訳には行かないいや、もう旅立ちたいのだ今の自分には、もうこれまでの役割を望んで欲しくない望む事は一つだけ明日も同じように始まって、同じように過ぎてくれることもちろん、自分が居なくてもみんなが強くなって欲しい泣かないで、私はもう強くなれないそんなに弱い顔を見せられたら安心して旅立てない自分は、ずっと愛される存在でありたいと思う自分は、ずっと見守られる存在になりたいと思う好きな人、好きなものに囲まれた、慈しみに満ちた空間その中で、満足と安心に包まれていたいずっと、ずっと、自分がここに居なくなっても私の愛した慈しみの空間を、あなたに残して行きたい
Oct 4, 2007
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何をしていても楽しい気分が残せない膨らみかけた気持ちが、一人でいる間に萎んで行く求められるもの一つ一つに興味が湧かない明日には何があるのだろう?多分、やらなければならない事ばかり自分にとっては興味の湧かない事ばかり興味が無いから、勘違いや間違いばかりしてしまう上手くやれる自信は湧いて来ない上手くやろうと思える自信すらない彼に言われましたこれ位やって貰わないとってすみません、興味が湧かないのです自分の仕事が何になるのか想像出来ないのです自分にとっては関係ない事としてしか考えられません彼女に言われました巻き込まないで欲しいってごめんなさい、そんなつもりはないのです別に一緒に苦しんで欲しいとなんか言った事も有りません暗い顔して塞ぎ込んでるだけでも迷惑なのだそうですどうだって良いと思う別に迷惑をかけたいとも思ってないし楽しい事が起きないからってガッカリもしない別に成功したいとも思っていないし、競争も要らないもっと時間がユックリ流れる世界で過ごしたい欲しいのは考える時間じゃなくて、何も考えなくても良い時間なんてね
Sep 23, 2007
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生きていられなかった人達は頑張っていなかった?冗談じゃない! 彼がどこまて頑張っていたかを知ってますか?意識が無いままでも生き続けてたんだ聞こえた標しに反ってくるだけの返事何を言っても同じ返事だけど、生きてるじゃないかどれだけの頑張りが必要なのか、想像が付きますか? 彼女の頑張りを知ってますか?治療方法の無い中、死線をさ迷う手術もした助かるなんて言って貰えないまま、頑張って生きたんだ誰も想像すら出来なかったのに、みんなの元に復帰だってした貴方にはその頑張りが想像出来るのですか? 何度も意識を失いながら発見された彼女最後まで同じ時を頑張った仲間を励まし続けていた自分では歩けなくなっても他の人を励まし続けていた頑張る事を捨てた人に、励ます事が出来るとでも思いますか? 頑張らなかったからなんて、何故言えるんですか? 頑張りは、運と運を繋ぐ為の一本道を進む力果てしなく続く、長く心細い道頑張らなければ届かない道だから、頑張っているだけ その道の先に、大きな幸運が待っていると信じて
Sep 19, 2007
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メチャクチャな暑さの中、RFL・芦屋の会場で24時間を過ごして来ました。天気予報では、雨の確率が下がらないままだったので、そんなに暑くなるという想定もしていなかったのですが、当日になると気温がグングン上がり、湿度の高さも手伝って、亜熱帯地域にでも来たかのような日になりました。今年はノンビリと一般参加者としてイベントを楽しんでみようと思っていたのですが・・・やっぱりアッと言う間に捕まり、あっちへこっちへ走り回っている間に日が暮れて、トラックなんて回る前から足の指にはマメが・・・ま、そんなもんかと。着いた早々リヤカー引っ張って、気が付いたら雨に濡れてビッショリと・・・そんなもんだろな。 一緒のテントになった、NEXT STEPの皆さん。楽しい2日間を有難うございました。ルミナリエでお世話になった、きゃっぷ、スタッフの皆さん、ボランティアで駆けつけてくれた、おーちゃんの奥さんの同級生のお嬢さん方、制服のまま頑張ってくれた学生ボラのお嬢さん方、朝早くからの撤収に協力な助っ人として活躍して下さった、若者達、みんな、どうもありがとうございました。それから、不覚にもつかまってしまった後始末を、最後まで汗だくになりながら一緒に頑張った君達、本当にお疲れ様でした。(おかげで腕までパンパンです)来年こそは、ノンビリ手抜きの一般参加を目指したいと思います。ではまた、来年も会いましょう!
Sep 17, 2007
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自分は二つ、苦手を持っている 苦手の一つは人の目を気にしないこと人に好かれていたいと思ういつも嫌われないように、気を遣って人と接している時々する失敗が、人にどう思われたかが気になり続けている取り繕った方が良いものか、何の気にもしていないふりをした方が良いものかそんな事すら迷ってしまう気にしていることがプレッシャーでそれを感付かれることがプレッシャーで人と合う度に疲れてしまう一人で居るのが一番楽 苦手の一つは人を好きになること嫌いな人と一緒にいるのが億劫だどんなに頑張ってみても、心がどんどん離れて行くだけそんな素振りが、相手にも周りの人にもどう映ったのがが気になる無理して笑顔で居れば良いのか、近付かずに背中を向けたままでも良いものなのか気にしていることがプレッシャーでそれを感付かれることがプレッシャーで人と合う度に疲れてしまう一人で居るのが一番楽 本当は、どちらだって良い事を知っている好かれていなければならないわけでもない嫌いな人が居たって良い苦手だと思って、構えてしまうから余計に意識してしまう自分の意識が、一番のお荷物だって知っているだから、周りなんて気にしないで、自由に息をしてみれば良い 自分は嫌われてる訳がない失敗したからって、嫌われる訳もない好きになれないことを気にしなくたって良い苦手だから避けたくなるだけなのだから みんなが自分を歓迎してくれる日自分もみんなを歓迎する事を約束した日だから、何も気にしないで自由に息をしてみよう なんてね・・・・
Sep 14, 2007
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何かしているようで何もしていない時間。時の流れだけを感じている、心地良い時間。そんなものを感じている余裕が有るのだろうか?何をしている訳でもないのだから、纏まった時間が必要な訳でもない。ほんのささやかな、寛ぎを感じ取れる隙間が有れば充分。 感じられないのは何故?感じる事を忘れている間に、一日ずつ日が改まって行く。本当に必要なのは、時間ではなくて気持ちの余裕?本当に必要なのは、明日への安心感だったのかも知れない。
Sep 9, 2007
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台風が過ぎて行った。電車の中で、自分を濡らさない為に他人の身体に傘を押し付ける人が居た。傘を持っている事を忘れてつり革につかまり、揺れる度に石突を振り回している人が居た。上品に下ろした傘の先を、わざわざ他人の靴の中に入れる人が居た。そんな人達を、尖った目で睨んでる自分の心が居た。 台風が過ぎて行った。陰湿で破壊的な低気圧の化け物。どんどん巻き込んで、通り過ぎた後には大きな傷跡を残して行く。冠水、事故、交通機関の乱れ、計画の否定・・・・余裕を持った者達には、酷い目に有ったで済むような被害。余裕を持たなかった者にとっては?命を落としたり、生活が奪われたり、事業が失われたり・・・ そんな台風は気圧の高まりに向かっての進路を決めて行く。憧れに向けて、必死に追い掛けているように。そしていつか、熱帯低気圧になり、消えて行く。まるで、憧れのグループに迎え入れられて、馴染んで行ったかのように。 自分でも良く、心の内側に向かって塞ぎ込んでしまう。でも、台風のように自ら追い掛けて行けているだろうか?いつも、誰かが迎えに来てくれるのを待っているだけのように思う。しかも、自分が谷底のように深い低気圧を抱え込んでいるという事を、アピールさえしないで。かと言って、人に迷惑がかかるって分かってて行動する訳にも行かないしな・・・
Sep 7, 2007
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子供の頃、絵の沢山載った本が好きだった。友達が遊びに来てくれれば一緒に何処へでも行ったが、行き先を考える役になった記憶はなかった。そんな自分が、消極的に思えて来た高学年の頃、気が付くと周りには憧れのお喋り軍団が居た。その中に混ぜて貰って、一緒に騒いだ。あっと言う間に、お喋りで仕切りたがりになって行った。大人になってからは、本なんて面倒臭いものでしかなかった。そのまま、遊びたがりな人間になったつもりでいた。気が付くと、足踏みをしている事が多い。恥ずかしかったり自信が無かったりで足踏みをしているのではない。ただ何となく、気乗りがしないから足踏みを選択している。いつの間にか、走りっ放しである事に気付く。いや、気付かなかったのではなくて、走っている事を嬉しく思っていたから、それが続いている事が苦にならなかった。次の手を思い付いたのに、試せない事への憤りを感じたりした。走ったり止まったり。どっちかが幸せで、どっちかが不幸という事もない。ただ、走りたい時が有るだけ、足踏みをしたい時があるだけ。どっちにしても、自分がやりたい時にそう出来れば嬉しい。問題は、世間の目が気になる事だ・・・
Sep 4, 2007
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これといって、言及したい話題が有る訳ではない。強いメッセージを渡したい相手が居る訳でもない。でも、時々感じる言葉の響きを残したいと思うことがある。誰とはなしに、何と言う訳でもなく、残しておきたい言葉。少しずつ書き留めて行こうと思う。
Sep 2, 2007
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兄の納骨が終わりました。5月4日、実家の地方では桜が満開の季節です。前日まで愚図ついていた天気も、当日は上手い具合に雲を切らしてくれました。集まってくれたのは、母方の親戚から6人と兄嫁の実家の方から2人、実家に自分を加えて、14人での式となりました。霊園は9700区画を超える大きなもので、30年前に購入した当時とは見違える程に立派なものになっていました。ところどころに設けられたロータリー、霊園の中央に配置された碑や白樺林。縁取りの片側にも芝生の上に碑が配され、逆側には桜並木が並んだ向こうにキャンプ施設が見え隠れしています。まさか兄が最初に入ることになるとは、と思っていました。しかし、読経を聞いている間に、何となく分かって来た気がしてきました。実家は2世帯家族で、実際に建てたのは建築家だった兄であったものの、所有は父のもので、何となく父の実家に兄一家が同居しているという感覚が支配していました。肩書きとしては幾つもの立派な資格を持ち、仕事の結果を見ても、決して恥ずかしくないものを残して来た兄です。家での自分の位置は、納得の行くものではなかったのではないでしょうか。だからこそ、最後の最後に「先に行って皆を迎え入れる」という立場を勝ち取ったのではないか。そんな思いが湧いた瞬間に「やりそうな事だな」と感じてしまいました。生前の頑張りに敬意を表したものか、墓石は周囲よりも頭一つ分高くなっていました。墓全体を敷石で覆い、両側には一体構造の石のベンチがしつらえてありました。香炉の上の燭台回転してしまえ、両サイドの線香立てにも石の蓋が付いていました。石が高過ぎて、水を汲んだ柄杓が届かないというアクシデントも。雨の心配は要らなかったものの、当日は風が少し出ていました。その風が読経と共に強くなり、たっぷり水を汲んで重くなった筈の花立てが、カタカタカタカタ音をたてます。思い返してみれば、亡くなって自宅に戻った日にも山を霞ませる程の強風を伴う初雪、火葬の日も強い風に里に初めて降った雪の日、今回は強い風の中を桜の花びらが舞っています。穏やかな日は1日もなく、全てが記憶に残る風の強さでした。これも、兄の演出だったのでしょうか?そう言えば、もう一つの出来事を報告しなければなりません。葬儀の為に帰省した11月、帰ったその日のうちにコートが行方不明になっていました。冗談で、寒い日だから兄が着て行ってしまったと言っていたコートです。春になり暖かくなったら出て来るかもね、と言ったままだったコート。誰もが電車の中に忘れて来たと理解していました。そのコートが、納骨式の前の日に出て来たのです。どういう訳か、行き先が無くてクローゼットの中に入れたロッカーの中に、普通に下がっていました。しまった筈の母の記憶にも無く、また、偶然にも納骨の前日まで開かなかったロッカー。これもやはり、兄が「もう要らないよ」と返してくれたのかも知れません。とにもかくにも、これで兄は落ち着き先に納まりました。自分が立てた家に、家族全員を住まわせ続けながら・・・
May 4, 2007
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明けて葬儀の日。この日で、一通り兄を送り出す儀式は一段落になる。その日もまた、お坊さんの長い読経に続いて、焼香となる。実家の地方では、正式なお悔やみは通夜でするもので、都合の付かなかった人達に葬儀を開放するものだという事だった。その為、通夜と比べると席数が圧倒的に少ない。法会としては、四十九日までを一緒にやってしまう事になっている。これで、年内の公の法会は終わりで、それまでは家族が自宅で法要を行う事になる。葬儀の後、会食には親族と兄の勤め先から25人程度が列席してくれた。どこも明るく話が弾んでいる。揉める事もなく、責める声が聞こえる訳でもなく、どこも笑顔になっている。会食場のしつらえた祭壇には、運ばれた兄の遺影と共にマーチンも鎮座している。兄も一緒に笑っている。きっと、会社でも兄の居る宴会は、明るく笑顔が溢れていたのだろう。一段落して家に戻ると、祭壇は片付けられて仏壇の前に納められていた。昨日まで遺体が安置され、その手前に立派な祭壇が供えられていた。更に手前の仏間は、弔問客を迎えて偲ぶ話が続いていた。続きの二部屋を使っていた兄の送り出しが、仏壇の前の一角に納まってしまった。当たり前だ・・・ホッとした気分で家族の何人かが仏壇の前で寛いでいた。兄の思い出話だったり、通夜に来てくれた思いがけない人の話だったり。いつしか話は、自分のコートの話になった。コート、どこで忘れて来ちゃったんだろうね。いや、着て来たと思うよ。もう一回探してみなくちゃね。きっと兄貴が着て行っちゃったんだよ。寒い日だったし、棺にコート入れなかったからね。そうか、そうだよね、着て行っちゃったかもね。それなら春になる迄出て来ないね。その瞬間、仏壇が明るくなった。仏壇に供えられた、ロウソクの形の電球が、突然点いたのだった。そこにいた4人は、それが兄の答えだと納得して笑った。後で確認してみたら、電球が緩んでいた為に接触が微妙になっていただけだった。それにしても、タイミングが絶妙だった。これも、不思議な出来事として、記憶しておきたい。いつの日か、コートが見つかる日が来たら、この日の出来事を思い出すだろう。この日も、ロウソクの火は丸くなったり瞬いたり、忙しく形を変えていた。
Nov 22, 2006
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火葬場からそのまま通夜の会場に向かう。もう、誰の心にも悲しみなど入り込む隙間は無いだろう。みんな、誇らしげに、自慢げに式場入って行った。そこで目を奪ったのは、祭壇の端に乗ったギターだった。兄の自慢のマーチン。そうと分かるように、特有の形をしたギターケースも一緒に乗っていた。持ち込んでくれるようにお願いした記憶はなかった。バスの中でも、忘れてきたと思っていた。そのマーチンが、誇らしげに祭壇の端に陣取っている。葬儀屋さんが、思い出話の中に出て来るマーチンの話で気を利かせてくれていた。嬉しかった。祭壇から後ろを振り向いた瞬間、最も大きな不思議が目に飛び込んだ。兄の手掛けた仕事の中で、最も兄が満足していた仕事。常に自慢げに話していた屋内スケート場が、目の前に存在していた。間を遮るのは高速道路だけ。正に道1本挟んで、巨大なスケート場の前に立てられた斎場だったのだ。兄が仕組んだ、最大の自慢話がそこに有った。家族の誰もが笑った。自分の田舎では、訃報は新聞に掲載される事が多い。兄の訃報も、勤め先が新聞に載せてくれていた。その訃報を見て、どんどん弔問客が集まって来てくれた。200席近くを、殆んど埋め尽くして、通夜が執り行われた。外には、兄が旅立った日以来の雪が、チラつき始めていた。
Nov 21, 2006
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出棺の日には、冷たい雨が降り出していた。霊柩車を追う様に追走するバス。乗っているみんなの顔は特に哀しみに包まれている訳ではない。しかし、気が付くと会話が無くなっている。黙々と進むバス。途中で兄の働いていた会社に立ち寄って貰う。雨の中、社員全員が建物の前に並んで、兄を見送りに出て来てくれていた。一旦、建物の入り口の前に停め、低い警笛を残して霊柩車は走り出す。兄は、この職場で命を燃やしていたのだ。目の前に並んでくれた人達と、一緒に冗談を言いながら沢山の結果を残して来たのだ。思いもかけず、そこに居た兄の姿が見えるかのような気がして来ていた。ここに居る人達とう共有した苦労、喜び、躊躇、決断、日常・・・悲しみよりも誇らしさを感じながら、涙が止まらなくなっていた。兄は、ここでみんなに好かれていたという事が、何故か分かった。闘病中も、入院してからも、歩けなくなっても、それでも籍を置いてくれた会社。生存しているだけになっても、一員として認め続けられていた。その兄が、命の全てが燃え尽きるまで頑張って、戻って来たのだ。凱旋を祝って貰えているのかのような、誇らしさを感じてしまった。その空気を引き摺るように進むバス。誇らしさを失うことなく、バスはそのまま火葬場に付けられた。住職の読経が進む間も、その誇らしさは失せる事がなかった。最後の挨拶をして炉に入って行く姿を見送っても、家族の涙は長くは続かなかった。会社を一周した時に感じた誇らしさが、みんなを満足感に包み込んでいたのかも知れない。火葬を待つ間に、もう一つの不思議に出会う事になった。ドアノブに引っ掛けて、礼服のボタンが飛んだ。自分の礼服はダブルで、ボタンホールを介して力のかかるボタンは、礼服の外側に一つ、内側のベルトに一つ。そして、外側のボタンの逆側に、何の負荷もかからない飾りボタンが一つ。飛んだのはその、飾りボタンだった。ドアノブは確立を無視して、そのボタンを選択的に引き千切っていた。火葬の済んだ骨は見るからに脆く、崩れ落ち、手足の関節から先はその形を失ってしまっていた。目に付いたのは、腹の左側に位置する茶の列になった灰。丁度、ストーマから先の、出口を失った大腸の位置になるのだろうか。そこの何が有ったのか、明らかに他とは違う色の灰の列が鮮やかだった。そして、腰骨の左側を染める、紫色の斑点。いつも痛がっていた、骨転移部分なのだろうか。残った骨は脆く、一番太い腿の骨すら箸で拾う際に崩れてしまった。半分だけ原型を留めていた頭蓋骨も、箸で挟んだ瞬間に割れ、表と裏に剥がれてしまった。耐えられるだけ耐えたのだろう。志半ばでなどという言葉は、兄の生き方には適用出来ない。何もかも、果たしたという言葉の形容が相応しい。ここまでやった、自慢の兄の最後の仕事の結果を、見せ付けられているようだった。
Nov 21, 2006
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納棺の日の朝、上の甥(兄の長男)が不思議な体験を教えてくれた。兄の事を考えながら寝入ってしまった昨夜。ストーブも点けっ放しで眠ってしまったようだ。朝起きるみると、ストーブの火は消えていた。これは納得が行く機能であるらしい。ところが、腑に落ちないのは窓が開いていたという事。まるで、酸欠になるのを防ぐように開けられた窓。本人には当然のように、ストーブを点けたままで窓を開けた記憶なぞない。彼は、寝ている間に父親が会いに来たのだと主張していた。もう一つの不思議が起きていた。他界から明けた日、慌しい中での食事を作って来てくれた、叔母の話だった。朝早くに、ご飯が炊けている筈だった。ところが、どういう訳か炊飯器の中は水と米のまま。手動でもう一度試みるが・・・いつまでたっても熱が入らない。こういう、ご飯にまつわる話は、珍しくないらしい。今回のように炊けなかったり、水の分量を間違ってもいないのに、粥のようになってしまったり。酷い時には、炊き上がりの時間に、既に腐敗してしまったという話も有るのだという。ご飯が主食の、日本特有の現象なのだろうか。納棺では、家族がみんなで身体を拭き清め、死出の衣装に着替えさせる。顔の艶はそのままなのに、身体はことごとく冷たく、抜け殻である事を主張しているようだ。手足は、これ以上無いという位に細り、腕も足も骨の形がそのままに見えている。膝関節だけが大きく、瘤のように自己主張をしていた。衣装を着替えている間に、父が大きくシャクリ上げながら泣き出し始めた。母が悲しんでいるだろうと思うと、可哀相で泣かずにはいられなかったと言い訳をした。父は、昨年の夏にくも膜下出血から水頭症を引き起こし、全てが自分中心でしか考えられない。その父にとって、可哀相なのは兄ではなく、泣き出してもいない母の事だった。棺おけに納まった兄は、益々穏やかな表情になったように見えた。兄には、常に一緒に有った趣味として、ギターが有った。何本か所有しているもののなか、部屋にも3本が飾られたままだった。再発して治療が完治を目的とするものでなくなった時、兄は癌センターまで出て来ている。結果は、それまでと同じように延命為の治療を続けるのが良いという判断だった。半ば想像していた通りの回答を、確認しただけだった。その時は、本人も最後の長旅と覚悟していた。その旅の最後に、これまで頑張って生きて来た自分への褒美として、1本のギターを買った。自慢の30万円のマーチン。会社でも、若者達に自慢していたマーチン。しかし、そのマーチンは一度もお披露目の場を貰えなかった。兄の棺の横に、マーチンを飾ってやった。
Nov 19, 2006
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兄が他界した朝は、山が白く霞むほどに吹雪いたのだという。今年の初雪の日、旅立って行った兄。翌朝早く東京を発ち、実家に着いたのは昼過ぎ。親戚の叔父と従兄弟が駅まで迎えに来ていた。家までたかだか100mの距離を、わざわざ車で迎えに出ていた。車の中で状況を聞くまでの時間もなく、帰り着いた実家。いつもと同じように玄関に入り、いつもどおりの挨拶で上がる。いつもと違うのは、そのまま入ったのが居間ではなく、仏間の奥の和室。そこに兄は、キチンと仰向けに寝ていた。寝相の悪い兄は、そうでなくても仰向けに寝る事などはなかった。去年の6月に腎ロウの設置の後は、常に左を下に横たわっていたのだが・・・兄の顔は、8月の見舞いの時に見たよりも、穏やかだった。黄疸のせいか、青白さも消えて見易くなっていた。痩せて頬骨が出たせいで、明石家さんまばりの、良い男になっていた。その頬は、胸に仕込んだドライアイスのせいで、不自然に冷たかった。顔を寄せた瞬間、聞こえる筈も無い呼吸音が聞こえたように感じてしまった。その感覚は、出棺の日(21日)までの間、幾度も感じることになった。兄に挨拶をして、荷物を持って2階へ上がる時、一つ目の不思議が起きた。家から来て出た筈のコートが消えていた。どこで脱いだのだろう。新幹線で脱いだコートを、降りる際には着直した記憶が有る。コートの下は緑色のセーター。前日初雪が降ったばかりの土地で、セーターで駅に降り立ったら、それだけで目立つ季節。家に入る時にも、誰も不自然を感じていなかった。
Nov 18, 2006
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17時55分、お客様を迎えての打ち合わせ中に、携帯が鳴った。実家の母からだった。これから、兄の入院している病院へ向かうという。その声にはうろたえた様子も無く、穏やかだった。病院で兄についている姉から、今日明日がヤマという連絡が入ったのだという。ヤマと言われたのに、お前は来なくて良いからねと言う。さっき、父の食事が終わったから行って来るのだと言う。声の調子、来なくて良い、父が食事を取ってから出発?状況の緊急性に対して、伝えられる状況に臨場感が無い事に、違和感を感じながら電話を切った。まだまだ新幹線の時間には余裕が有るつもりでいた。先ずは打ち合わせを終わらせて、それから考えれば良いと思っていた。帰省するのなら、必要なものは何だろう?着替えさえ用意出来ずに行くべきだろうか?実家に帰っても誰も居ないのだ。深夜にタクシーを捕まえて病院に押し掛ける事は、兄への負担になるのではないか?それでも客を送り出して席に戻った頃には、とにかく新幹線に乗る事を心に決めていた。滞在期間が長くなる事を想定し、1週間先までのスケジュールを確認する。その間に立ち上がって来る問題も想定し、各所への指示を洗い出そうとしてみる。自分が居なくては進まない事も無いような気もするし、居なくては進まないような気もして来る。とりあえず、同僚に、予定されるそれぞれのイベントを声に出して伝え、想定に甘さが無いかの確認をする。その合間に終電の時間を・・・20時4分発。思っていたよりも、相当に早い時間だった。後片付けは復帰してからとして、先ずは駅に向かって走った。山手線に乗って東京駅に向かいながら、接続を確認する。何と、東京駅への到着は20時2分と表示される。乗り換え時間が2分。切符も買っていないのに、無理なんじゃないのか?そんな事より、今無理して行っても着くのは日付が変わった後の深夜。間に合わないなら無理しても意味が無いのだろうし、持ち堪えるなら明日の朝だって変わらないんじゃないか?でも、行きもしない自分を納得させる事は出来なかった。東京駅。自動券売機には、Suicaが入らない。何故だ?折角の自動化が意味無いじゃないか!有人の窓口には、それぞれに2~3人の待ち行列。2分しか無いのに、ハケる筈が無い。女性の係員に、ダイヤの乱れは無いのかと確認するが、定刻通りという。絶望感の中、案内板の表示から、目当ての列車の名前が消えた。20時4分・・・・乗れなかった。その瞬間、再度携帯が鳴った。高揚と落胆を含んだ、母の声だった。今、息を引き取った・・・19時59分だった・・・・・・来なくて良いからね、今はみんな泣いてるけど、大丈夫だから・・・急いで実家に向かう意味が無くなった。不思議に、大きな動揺も哀しみも湧かなかった。
Nov 17, 2006
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輸血が続いている。骨髄が造血の機能を働かせなくなって来ているようだ。腎臓が上手く浄化出来なくなって来ているようだ。ポートから強制的に入れ続けて来た高カロリー輸液。血は随分汚れてしまい、生命活動を続けるだけの力を失ってしまった。外から力を持った血液を補充して貰っている。自分の中で作り出せなくなった力。心ある人達の余裕の部分で分けて貰った力有る血液。どこまで行けるのか分からない。何かを改善出来る程の力を受け取れるのかも分からない。ここからでも立ち直せた人って居るのかな?そんな事は、理論上有り得ない事なのかな?もし、立て直せる可能性が有るのなら、そのタイミングを掴んで欲しい。そのキッカケを、逃さずに波を掴んで欲しい。もしもそれが、起こり得る奇跡なのなら。おじさんが亡くなった。疎遠で、会った記憶もない叔父。だが、父の話の中に何度も出て来た名前だった。一人ずつ減って行くのは当たり前の事。自分の人生に関与していなかった人が人生を閉じた話も、冷静に受け取れてしまう。たとえそれが、血の繋がった親族であっても。その亡くなった時の状況も、気にはならなかった。苦しんでいたのか、消えるように人生を閉じたのか。残された遺族の気持ちすら、心には浮かばなかった。兄の命、どこまで繋ぐ事が出来るのだろう。目覚める事のない彼は、何を感じているのだろう。何かを考えているのだろうか。考える力、感じる力は、残されているのだろうか。少しずつ薄まって行くように見える命。本人にしたら、ハッキリとした区切りなんて無いのかも知れない。朦朧とし、混沌とした状態が進んで行った先で、全てが止まるだけなのかも知れない。その瞬間を変化として受け取るのは、残されたと感じた遺族だけなのかも知れない。本人にとって、その瞬間とは?家族にとって、その瞬間からの変化は?自分にとって、その瞬間にすべき事は?選択が出来るなら、その瞬間が訪れない方を選びたい。生きろ!!
Nov 16, 2006
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体調は決して上向きではない。強張って運動しなくなった身体は、到る所に痛みが走る。落ちてしまったまま固定された首の付け根には、辱創が出来ている。言葉はハッキリしないが「痛い」という言葉だけが耳に届く。そんな中で、一つだけ改善した点がある。足の浮腫みが取れて来たのだという。未だ、足首はパンパンに腫れたままではあるが、指には関節の形が戻って来ている。本人にしてみれば、楽になっているという感覚も無いのだろうが、周囲で見守るだけの家族にすれば、そんな変化も嬉しいニュースとして伝わる。家族・・・一人一人が自分の辛さを口にする。自分の身動き取れない状況を訴える。幸せな気分を味わってはいけないという気持ちに心が縛られる。口に出しても良いのは、悲しさ、辛さ、苦しさ。疲れている。家族みんなが期待してはいけない状況に疲れている。本当に期待してはいけないのか?データやマニュアルで計れるものなのか?人生って、命ってそんなもんなのか?普通に生きてる事だって奇跡なんじゃないのか?生きろ!!
Nov 12, 2006
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地域の病院の環境は良い。空気についても音についても、心を癒すには申し分がない。そして、都市部から遠い。長い療養を必要とする、幼い世代が居る。特に専門の医療を必要とする訳ではない、老いた世代が居る。だから、地域の医療施設には掛け替えの無い、存在の意味がある。反面、専門医療が届かない地域。先進的医療との接点を持たない地域。日本全体で共有される、マニュアルによる医療。世界的に話題になる治療にも、関心は示されない。経過の分からない治療を継続させて起きた、状態変化へのマニュアルは無い。学会で報告された、機序の解明している薬の投与も、検討には上らない。そこには、エビデンスの無いものへの保証をする名前が存在しない。長期療養型の医療により、患者一人一人への心が通う。毎日の表情の違いまで見て、状況を積み上げて行く。心が通う医療。心が通っていれば良いのか?拒絶しなければならない程、ルールが大切なのか?一番大切なものは何なんだ?生きろ!!
Nov 3, 2006
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NHK総合TV『命のリレー ~生きる希望をつないだ400メートル~』11月3日(金・祝日)14:00~14:50 放送<一部、放送時間・放送日が異なる地域がございますのでご注意ください。>◇山口県 11月3日(金)15:05~15:55◇四国地方 11月4日(土)10:05~10:55◇近畿地方 11月5日(日)13:05~13:55 今回の特集は、前回の番組の流れを柱にしつつ、アメリカで始まったRFLの歴史や、今回参加された方々の表情やメッセージを更に詳しくお伝えする内容となっています。番組全体のストーリーはほぼ同じですが前回以上に、【RFLの意義】が伝わる内容となっているとの事です。前回の放送を見逃された方は勿論、前回ご覧頂いた方にも 再度楽しめる内容となっています♪がんサポートキャンペーンがん患者支援プロジェクト
Oct 31, 2006
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特別には、トイレが付いている。だけど、もう自分で使う事はないだろう。特別室になって、景色が変わったのが分かるかい?という問いかけには「分からない」と答えたという。見えてるものか、見えてないものか。寝てる時間が長くなった。目が覚めている時間が、無くなって来たというべきか。食べ物も、飲み込めなくなった。葡萄の皮を剥いて種を取ったものを口に当てるが、中に入らない。カルピスだけは相変わらず、細いストローから飲めている。腎ロウから漏れて、パウチに拾われる尿は500ccを超えている。殆んど、うまく抜けていなかったという事じゃないか。それでも処置に2時間もかかるなんて、専門医じゃないから?足の浮腫みも相変わらず。針を刺したら、一気に破裂しそうな程に腫れているのだという。尿は出ているのだから、この上に利尿剤も効果は無いのだろう。痛い場所が、少しずつ増えて来ているそうだ。本当に痛い所なのか、力が入らない所なのかも、実は分からない。こうなっても、未だ抗がん剤を入れて、何かの期待が出来るのだろうか?家族が一つにならない。親の見舞いよりも、家の手伝いよりも、友達との夜遊びを優先する息子。息子の辛さに負けまいと、自分の不自由を訴え続けている父親。その我が侭は、末っ子だから故のものなのか?もう少し、自分の優しさを、力にして使ってみようよ。一番辛いのは誰なんだ?自分に出来る事は何なんだ?生きろ!!
Oct 29, 2006
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特別室が空いたのだという。少しだけ、立派な個室らしい。この冬は、ちょっぴり贅沢な部屋で暮らしてもらおう。体調は変わりがない。寝たり、起きたり、また寝たり・・・落ちた首は、やっぱり持ち上がらない。浮腫んだ足は、パンパンのまま。だけど、今週は、熱は上がっていない。腎ロウからの尿漏れは、パウチを貼る事で対処されている。家族がそれぞれに問題を抱えている。ところどころに背中合わせが大きくなって行く。言い争い、干渉、非難、主張・・・一番辛いのは誰なんだ?自分に出来る事は何なんだ?生きろ!!
Oct 22, 2006
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Rexin-Gの、投与モニターの募集が始まった。日本での反応が高いので、薬の生産の量を増やすことを考えてくれたようだ。勉強会への出席者には優先的に・・・しかし、超えられそうにない壁が立ち塞がる。未承認薬であるため、公立の病院で扱われる可能性は極めて低い。まして、地方の地域診療と療養を目的とした施設では、国の定めから外には出れないだろう。もしも、受け入れてくれる開業医を見つけられたとしても、そこまで移動が出来ない。もう、体力は病院間を移動出来る程残ってはいないように見える。起きるどころか、反応すら曖昧になって来ている。冷凍庫が必要だというのなら、買って寄付したって良い。だけど、兄への投与が出来ないのなら、そんな事への意味は感じない。地方で苦しんでいる患者の為に・・・そんな高尚な気持ちは持っていない。可能性なんて無くても良い。長男に、記事をプリントして見舞いに行ってくれるように頼んだ。兄は読めないだろう。主治医には、会えも出来ないだろう。それでも、偶然や奇跡が重なった時に、その情報が無ければチャンスも拾えない。せっかく日本もここまで来たんだ。生きろ!!
Oct 14, 2006
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足の浮腫みは、先月から出ていた。月が替わってから、手にも浮腫みが出てきているという。直接見る事が出来ないので、どの程度の浮腫みなのかは分からない。分かったとしても、解消してやる術も持ち合わせてはいないのだけれど・・腎ろう部分からの尿漏れが、やけに多い。先月の熱も、腎ろうからの感染が原因だったのではないかという事だ。浮腫みが腎ろうの状態と関係有るのかどうなのかも分からない。やはり分かったとしても、どうしてやることも出来ない・・・分かっているのは、母が少しずつ気弱になっているということ。父は、相変わらず自分だけの世話を要求している。兄の世話に手がかかると、自分の世話が疎かになるようで気が気ではないらしい。次男の朝帰りも相変わらず、いや、若干拍車がかかっているかも知れない。家に居ても父(彼から見ると祖父)から小言を言われ、反発がすぐに罵り合いになってしまう。父親の容態と弟の性行、祖父の小言で、長男は疲れている。その全てを上手くやろうとして、母の心の疲労はピークの様に感じる。だから・・・きっとそのせいで気弱になっている。「こうやって覚悟が出来て来るんだろうね」世間では、どんどんがんの治療方法が確立されて来ている。画期的であるウィルスを使った治療、遺伝子に働き掛ける治療も、珍しくなくなって来た。日本では一つも認可されていないものの、その症状に合わせて適応を分けて考えられる程。時間との競争だと思って来た。確かに、もうすぐ手が伸ばせる所まで来ているように思う。だが、そこに辿り着けたら、がんの治療が出来るのだろうか?がんを治せたら、元気になるのだろうか?もうずっと、問題はがんではないものと戦い続けている。がんさえ治せたらという訳ではない。生きろ!!
Oct 9, 2006
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入院先に泊り込んでいる姉から、何の連絡もない1週間だった。元々、問題が起きた時と頼み事の有る時位しか連絡は無い。という事は、調子は悪くないということ?兄の入院している病院は、かつて結核の隔離病棟を持つ療養所だった国立病院。都市部から離れてはいるものの、施設はゆったりしており、設備もある程度の充実を誇っている。しかし、古い・・・治癒を目指した治療よりも、長期療養が得意な病院な為、先進的な医療には縁遠い。病院の基本理念でも、二次的医療施設を謳っている。いざ、未承認薬を使った治療に踏み切る時には、外部の個人病院を頼るしかないだろう。今、想像できる問題は二つだ。先進的どころか、既成の医療自体が後退を続けている地方。個々の医師が抱える患者の数は、限界を超えようとしている。勉強している時間すら作れない中で、未承認の治療に手を付けてくれる医師が見つかるのか。医師が見つかったとして、その医師の待つ医療施設にまで、兄を運ぶことが出来るのだろうか。世界中で競争の始まった、細胞レベル、遺伝子レベル、タンパク質、アミノ酸レベルで行われる治療方法の確立。先行した幾つかは、医療現場まで降りて来ている。続く幾つかは、量産と共有路の両方から、道を固めながら進んで来ている。後発の幾つかの方法は、直接的な治療よりも起きている症状の解消を目的とする事も考えられている。それらが合流するのは、いつ頃のなるのだろう。日本の国政は、それまでに医療体制の再生をして、最も効率的な供給が出来るようになるのだろうか。1年、着手が遅れれば、30万余の命が失われる。その労働力が、生産する側から医療費の消費の方に回って行く。その判断遅れによって喪失する金額によって、後進国の命はどれくらい救えなくなるのだろう?先ずは、兄を救ってくれ!いや、兄を救える環境を作ってくれ!誰と話せば良いんだ?何に金を出せば良いんだ?生きろ!!
Oct 7, 2006
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フィリピンで認可されて、注目を集め出しているRexin-G。アメリカからは、ツアーを組んで治療に向かうのだそうです。この、Rexin-Gの勉強会に出てみました。Rexin-Gは、細胞周期の中のDNAを複製する段階を阻害する薬となるようです。細かい仕組みまでは分かりませんが、細胞が分裂する周期の中には、染色体を複製する前段階のDNAとしての複製をする段階が有るようです。しかも、その複製をする時には、それが上手く行く環境が整っているのかどうかのチェックが働いているみたいなのです。どうもRexin-Gは、そのチェックが失敗するように遺伝子の働きを変えてしまおうという薬のように感じました。ただ、この薬が安全なのは、この動作を引き起こす為に組み込まれる遺伝子構造が、レトロウィルスという、何もしないウィルスのベクターに組み込まれているという事です。何もしないと言いながら、がん細胞に対してだけは感染して、遺伝子構造をうつしてしまうように作られているようです。イメージ的には、細胞の分裂を阻害する薬がレトロウィルスでコーティングされて運ばれ、がん細胞に対してだけウィルスが感染力を発揮してうつしちゃうと・・・合ってるかな?この薬の遺伝子レベルの働きは、それほど過激なものではなく、緩やかにがん細胞の増殖を阻害して行くようです。その為、急速に広がっている元気な(?)がんには、追い付いて行けない可能性も有りそうです。その分、薬の投与による劇的な体調変化も引き起こさないような気もしますが・・ゆっくりと穏やかに、しかし確実に効果を発揮する方法。少なくとも進行の勢いが抑えられることは、間違いのないところのようです。また、がん細胞が分裂する事を阻害する以外、何もしないので、いわゆる副作用というものも無いという事になります。副作用が少ないとか、問題ではないというレベルではなく、基本的に薬の持つ効果には「主作用しか無い」ようにすら見えます。ならば、進行の穏やかで、だけど治らずに長期治療に入っている患者には、うってつけの治療になるように思えます。が・・・問題が有るのです。ウィルスを殺さずに移動、保管する為に、マイナス70度前後の環境が必要なのだそうです。その温度を保つ為に、専門の冷凍庫が用意されていなければなりません。日本に持って来れるとしても、この冷蔵庫が無いと、ウィルスは使えないんですね。現在、この冷凍庫を手に入れているのは、たった一軒の千葉の病院だけ。他の場所には存在していない為、ウィルスを入手しても無駄になってしまいます。なんか、一気に何十万人もの命を亡くさなくて済む方法が分かっているのに、冷凍庫が無いから手を出せないって言われた気分。投与の仕方は、普通に点滴するだけなんだから、真面目にウィルスを活かしたままで薬が手に入るだけで投与出来そうなもんです。誰か、冷凍庫買ってくれないかなぁ・・・移動式の冷凍庫でもあれば、日本中、どこでも治療が受けられるのに・・・そのうちと言っても近い将来、大きな冷凍庫を完備した医療トラックが各町を回って、がん治療をして回る時代が来るかも知れません。老人ホームを回る、床屋さんのように。。。。
Oct 6, 2006
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9月2日につくば大学で行われた、リレー・フォー・ライフの模様が、NHKから放送される事になりました。・10月4日(水) 生活ほっとモーニング 総合テレビ 午前8:35~ つなごう!『命のリレー』(仮) NHKがんサポートキャンペーンこのイベントを共有した仲間達の、それぞれにスポットが当っているようです。みんな、それぞれの思いを抱いて参加したイベントですが、その気持ちまでをも共有させた、重要なイベントになりました。私達、みんなのイベントです。参加出来なくても見守っていた人達まで含めて、共有したみんなが私達でした。行けなかった方も、気付かなかった方も、一緒に楽しんで下さい。
Oct 1, 2006
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ほんの少し、元気が戻ったのかも知れない。薄く切った梨を、食べる事が出来た。また別の日には、プルーンを1個。抗がん剤が入っていた頃には、飲み物すら口に出来なかった。あの日々と比べると、確かに元気になっている。副作用と付き合っていた日々と比べる事に意味があるとすれば・・・副作用から開放されて、若干機嫌は良くなっているようだ。しかし、体力は、何も戻っていない。頭が持ち上がらないのは相変わらず。飲み物を飲む時には、長男に言って頭を持ち上げさせる。筋力が無くなってしまっている。今でもベッドから起きる時には、自力で立ち上げる頃は出来る。しかし、その足は、自分では1歩も動く事はなくなっている。車椅子に足を乗せるのも、自力では出来ない。そんな体力、筋力からでも、体力を戻す事は出来るのだろうか?見た事も無い程にやせ細ってしまっていて、想像がつかない。誰か、そんなになってしまった身体でも大丈夫と、知ってる人は居ないだろうか。誰かに「大丈夫」と言って欲しい。自分からも「大丈夫」と言ってやりたい。大丈夫、大丈夫、このまま繋げば行けるゾ!生きろ!!
Oct 1, 2006
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遺伝子レベルでの解析が進み、細かく、正確な情報を知る事が出来るようになった。遺伝子どころか、タンパク質やアミノ酸のレベルでの働きで、予想が進む。日本発の研究名古屋大学で研究が進められた、単純ヘルペスウィルスHF10東京大学の医学部で牽引した、G47Δウィルスオンコリスバイオファーマの、テロメライシン海外では既に治療の現場に持ち込まれている中国で実績を積み上げつつある、ゲンディシンフィリピンで使われ日本にも持ち込まれようとしている、Rexin-Gどれもこれも、あと1歩というところまで来ている『治療薬』の有力候補。特にRexin-Gが、日本での現実に、最も近いところまで来ている。そして今日、又新しい発見が新聞に載った。動脈硬化の予防等に活躍するタンパク質、アディポネクチン。アディポネクチンは、健康な人達の血中に沢山存在しているホルモン。このホルモンが、抗がん剤並みの抗がん作用を持っている事が分かった。このホルモンは、既に医療の現場に存在している。医者が選択すれば、すぐにでも利用出来るのではないか?待てれば勝てる、そんな時期に差し掛かって来ている。誰も負けるな。生きろ!!
Sep 28, 2006
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抗がん剤を止めて貰えたらしい。8月の末に見舞いで見た兄の下唇には、大きな内出血が出来ていた。その後、指先にも内出血が始まり、真っ黒になって行ったと聞いていた。口の中も酷くなり、飲み物すら飲み込めなくなったと・・・見舞いの時に点滴袋に見た、抗がん剤(5-FU)の副作用が気になっていた。体力が失われて行く事が心配だった。そしてその副作用としか思えないものが、家族の目にもハッキリと出て来ている。それが直接の問題とならないのであれば、止めて欲しいと思っていた。その言葉を、そのまま姉から主治医に伝えて貰えたのかも知れない。唇の内出血は、もう取れていた。指先も、表面の皮膚が剥がれて乾いた血の塊がかさぶたになっているという。そして、氷を口に含むだけだった状態が、カルピスを飲める位に戻って来た。これで病気の進行が、すぐに生死にかかわる問題を引き起こすのでなければ・・首はそのまま項垂れた姿勢のまま、動かない。しかし、長男に言って持ち上げて貰うようになった。苦しいからばかりではないと思う。項垂れた顔から見える視界と、首を起こした目に入って来る視界。少し、周囲を見るだけの余裕が出来て来たのだと思いたい。それまではずっと、自分の内面を見ているだけだったのだと思う。自分の身体の中の痛みの原因を探していた。痛みを紛らわす事の出来る、心の置き場所を探すだけの毎日だった。少しだけ余裕が戻って来たのだと思いたい。立ち上がる回数は、相変わらず多い。以前は、その都度トイレに向かっていたが、今はベッドを半周するだけ。もともと腎臓から直接ドレーンで導尿しているので、トイレに行っても殆ど出るものは無い。ただただ、ハッキリしない自分の身体が、尿意と似た感覚を訴えているだけだったのだろう。口数も、少しだけ戻って来たようだ。以前のように、冗談が口から出たり憤りを顕にすることは無い。しかし、家族からの話し掛けにボソリと返すのが、言葉になって来ている。体力が戻って来ているという程でもないのだろう。しかし、心と体調に余裕が出来てくれば、少しずつ戻って来てくれると思いたい。このまま、治療が出来る時まで生き続ける事が出来れば、兄の勝ちだ。生きろ!!
Sep 24, 2006
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ちっとも良くはなっていないと言う。いつも見るのは、これ以上どうにもできない程に弱った姿。痩せて、内出血だらけで、首はガックリ落ちて、何も飲み込めない・・そうなっても、回復する事は有るのだろうか?もう期待してはいけないのではないか?そんな気持ちも心に浮かんで来てしまう。そう考えるのは勝手。そう感じるのが自然な症状であるように、自分にも見えた。体力と言えるものは、何も残っていないように見える。生きる為の動作、心臓が動いたり肺が動いたりしているだけでも驚きのように・・だけど自分達は、衰弱で亡くなる人を見た事もない。どれだけ力が無くなったら衰弱に負けるのだろう?そもそも、完全看護の状況下に置かれて、衰弱で亡くなるって有るんだろうか?世の中に幾らでも存在する現象でありながら、未だ医療を信じている自分に気付く。口内炎で大変な事になっている口には、もう何の刺激も与えることが出来ない。無理に突っ込んでも、首が上がらないから嚥下する事が出来ない。母は、氷を病室に持ち込んだ。良い加減に溶けて、口に入れ易いサイズになっていた。その氷だけは兄の口も嫌がらずに、頬張る事が出来たそうだ。母が見舞いから引き上げる時には、いつもより機嫌が良かったようだ。車椅子に身体を移し、出口まで長男に後を押させた。途中、自販機の前の窓から、キレイに夕日が見えた。首が落ちている為、見れなかった筈が、そのときばかりは少し持ち上がった。夕日が見える所まで上がったのかどうか。でも、キレイだという言葉に、ウンウンと返事が返って来た。体力が無くなっても、口内炎が酷くなっても、未だ抗がん剤が入り続けている。5-FUが、時間をかけてゆっくり流し込まれている。消化器系のがんに対して、細胞の複製を妨げる薬。その代表的な副作用、口内炎、食欲不振、全身倦怠感・・・それらが無くなるだけでも随分体力の保全になるように思える。今、抗がん剤を止めるとどうなるんだろう?一気にがんの増殖が進んでしまうのだろうか?もう一度、医師と相談をして貰おうと思う。生きろ!!
Sep 17, 2006
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口内炎と唇や指先の内出血が激しくなって来た。固形の食事が出来なくなってからは長いものの、これまではジュースや水分の多い果物は喉を通っていた。大腸に入る手前に付けた二つ目のストーマの為に、口から摂取しても殆ど吸収する事もないのだろうが、家族にとっては自分の口から摂取してくれているというのは、それなりに安心をもたらしてくれていた。しかし、それも最近には難しくなって来てしまった。口の中一杯に広がった口内炎と、もう持ち上がらなくなってしまった首。どうしても嚥下し切れなくなって来てしまっていた。下唇と指先は、内出血の為に赤紫色に変色している。下唇の内出血は唇の3分の1にも及び、もう1ヶ月以上の間、全く改善されて来ない。この頃は両手の指先も、同じような色に変色して来ている。バランスが取れなく自由にならない身体を倒れないように支える指先には、全身を震わせる位に力が籠められる。自分の力で寝起きが出来ない為、一日に何十回も座る便器への移動の度に、震える腕で身体を支える事になるのだ。ダメ押しのつもりの抗がん剤が、血小板を減らしてしまっているのだろう。体力と引き換えに癌細胞を叩き続けて来た抗がん剤。でも、もう身体がそれに耐えられなくなっている。ここまで来たら、残った体力の温存が最優先。出来ることなら、もう一度自分の足で歩きまわれる位に体力を戻して、来るべき時代を待つことは出来ないものだろうか。そんな事が奇跡じゃなく起きるのであれば、兄の症状もそちらへ向かって欲しい。生きろ!!
Sep 10, 2006
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兄の体力は、益々失われているようだ。母から電話で聞く兄の容態は、「弱くなった」から始まった。2週間前に見た兄の姿からは、もうこれ以上に削り取る体力はないように見えた。その後の変化として「弱くなった」という言葉は、どんな状態を意味するのだろう。首を支えるだけの力は無くなっていた。ベッドの上で身体を小刻みに震わせながら耐えている兄の首は、ガックリと落ちている。細くなった声で「首が痛い」と言っていた。あんなに首を落としていたら、健常者なら1日も耐えられないだろう。ずっとあの体勢が続いているのだから、痛くならない訳がない。その言葉を聞いた父が「バンテリンを塗れ」と言う。だが、兄の首にはバンテリンを受け入れる筋肉が無い。塗っても何の改善もされないのは、もう随分前に試している。だが、父は去年のくも膜下出血から、自分との違いを理解出来なくなっている。食べられないのに、無理やり食べさせようとする。食べないから痩せるのだと思い込んでいる。父の言葉は、全て兄を責めているのかも知れない。元気だった頃から、噛み合わなかった二人。自分勝手で強かった父に、逆らえない兄。いつも父の機嫌に気を遣い、争う事を避けながら生きてきた兄。今日もその心が働いたようだ。「バンテリンを塗ってくれ」「頼むからじいちゃんに逆らわないでくれ」父に逆らわないという事が、それほど大切な命題なのだろうか?いや、ぶつかり合う事が厄介な事、鬱陶しい事なのだろう。体力を失ってしまった兄にとっては、父だけでなく訪れる者全てが鬱陶しいだろう。それが、天皇陛下や総理大臣の見舞いだったとしても。鬱陶しいものを避けて、生きる事を選択している。兄の気持ちは、まだまだ強く生きているのだと思いたい。上手く先に繋いで欲しい。命は、生きる事を止めるまで続いている。その命が続いている限り、彼は勝者であり続けるのだと思いたい。生きろ!!
Sep 3, 2006
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RFL当日、朝はいつもの平日と同じ時間から始まりました。7時からの朝ごはん、おかずは大ぶりの鯵の開きに納豆、味噌汁に味海苔。「納豆は食べれない」というMOMOさんと一緒の食事は、自分にとってはとても嬉しいものになりました。この人がみんなから好かれる理由も何となく納得が行き、その勢いを貰って現地入りです。スタッフとはいえ、「無くてはならない」という役割ではなくなったメインステージ部。朝のミーティングの後、それを痛感させられる事になりました。ステージの上では、朝から入ってくれている各ボランティアバンドのリハーサル。その間に更衣室となる部屋や食堂の位置を確認し、音響さん達との段取りの確認が終わると・・やる事と居場所が無くなってしまったのです。皆さんが忙しく動き回っている間、ボーっとリハーサルを眺めているのも申し訳ないのです。それぞれが役割を果たす為のテントを持っている各部。それに対して、更衣室も出演者控え室も、自分達の場所ではないメインステージ部。準備するものは、何も有りません。手順を確認した後は、それぞれのテントにお手伝いに回る事にしました。お手伝いというよりも、足手纏いに回ったような面も有りましたが・・;;イベントの開会と閉会部分を仕切った中里さんとお会いしたのも、この時でした。誰も居ない絵本朗読テントに、一人佇んで竹トンボや幾つかの印刷物を眺めている女性。スタッフの方と勘違いして話し掛けてしまいましたが、彼女から出た言葉は違っていました。「このテントを、どう紹介すれば良いんでしょう?」短い会話で、何をする所というより子供達の集まる場所であって欲しい、とお伝えしたのでした。勿論、司会の方だと思っていなかった自分は、あくまでも世間話のつもりでしたが。。。そうこうしている間に、スタートの時間。中里さんが仕切る型通りのイベントの開始。サバイバーズ・ラップオープニング・ウォークそして、ほりきんバンドからの皮切りです。軽快なベンチャーズサウンドは、スタッフを元気付け、ウォークを後押ししました。それぞれの出演者には、JCSからの案内や音響さん達からの指示が入っています。こちらで作ったステージの進行予定とも、微妙にズレている予定の時間。どちらにせよ、ステージの進行具合によってズレるのでしょうから、気にはなりません。呼び出しの順番だけ、確かに合っている事を確認して、後は連携です。出来るだけ出演者の皆さんが緊張しないでステージに上がれるようにとだけを気を付けました。少し早めに出演者の方と接触して、チョッピリお話をさせて頂きながら時間の確認です。出番になる時間を伝え、また近付いたら迎えに来る事を約束しながら走り回りました。出演者によって、時間の気に仕方って違うのですね。2時間も前から控え室に入ろうとする人。前の出演者が最後の曲になるまで、控えに入らず練習を続けるチーム。控え室に誘導している間にトイレに寄って、そのままテントに戻ってしまうメンバー。本当に人それぞれ、チームそれぞれなんですね。初めの頃こそヒヤヒヤしましたが、途中でふと気が付きました。ステージの上に居るのは、ほりきんさんとミーミさんなのですよね。何が起きたって、その起きてる状況さえ分かれば何とでもしてくれる二人。そう思ったら、何一つ問題には感じなくなっていました。そう、メインステージ部としては、何も難しい事が起きませんでした。問題が起きたのは、自分の身体でした。日焼け止めを塗らずに歩き回った報いで、気が付くと腕は真っ赤になっていました。同じように焼けてしまった首は、ヒリヒリなのか筋肉痛なのか分かりません。それ以上に大きな問題は、足の薬指に出来たマメ。特に左足のマメは長さ2センチ、厚み7ミリ程にも膨れ上がっていました。普段、履き慣れないスニーカーに厚手の靴下が産み出した困難でした。痛いんだか感覚が無いんだか・・・皆さん、後半に自分の動きが悪くなった理由は、疲れではなくマメです。準備不足でごめんなさい。途中から、否応なしに盛り上がって行くステージ。CaRAVANの出演には、会場全体が期待していたのでしょうか。次々に集まってくる参加者は、ステージ前に座り込ん行きます。DEWには、演奏を聴くというより心に染み込ませるような表情で聞き入っていました。MMさんのHHCバンドでは、3人のお嬢さん達が可愛く3色の頭で和やかに。ほりきんさんの娘さん率いる大学バトン連盟はダイナミックに。J-BANDが命のリレーを歌う頃には、辺りは薄暮に包まれて行きます。本当は少しやんちゃな目をした小比類巻さんのオカリナ。参加者がルミナリエに記した名前の人に、思いを馳せる時間になりました。対象的に、ステージではとても元気な横内さん。ステージからは、体力的にも集中力的にも、殆ど空になって降りて来ました。・・・ルミナリエ・・・・・・最終ラップ・・・周りが暗い闇に包まれても、ほとんど人数が減ると感じることもありませんでした。トラックをラップする人の数も、逆に増えて行ったのではないかと思わせる程。参加者みんなで共有して、みんなが同じ方向に向かったエンディングのようでした。みんなの気持ち・・・また来年!そんな希望に満ちた目が、あちこちに見えていました。スタッフの皆さん、お疲れ様でした。これだけのスタッフを集めた、シュウさんは、やっぱり凄い!!
Sep 2, 2006
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リレー・フォー・ライフへの参加の為、研修センターへは前日入りしました。仕事の切れ目が悪く、職場を出るのが遅くなってしまい、つくばに着いたのは11時過ぎ。地上のバス乗り場に行ったら、丁度出発するバスが・・・バスの運行は、確か20分おき。バス停からの歩きを考えると、30分。歩いた方が早いかな?目の前の交番で道順を確認して、スーツに革靴で歩き出す。真っ暗な道、ちょっと怪しかったかな?道中、色々な事を考えながら歩いていました。自分は何の為に参加してるんだろうか?兄は、TVを見れなくなってから、もう1年にもなる。今年に入ってからは、新聞にも目を通せなくなった。自分の身体を生かしておくだけで精一杯の毎日。周囲で何が起きていようが、そこに喜びも感動も無い毎日。自分の身体と相談して、時間を先に繋いでいる。RFLの事を最初に家族に話した5月。「何様になったつもりなのか?」「お前が世界を動かしてるつもりにでもなっているのか!」「それをすれば、兄が助かるのか」「医者に知れたらどうするつもりなんだ」「治療を止められたら、お前のせいなんだよ、分かってるのか?」「頼むから止めてくれ!」家族の反応は、徹底して否定的なものだった。毎日、兄と時間を共有して、世界からの隔離感を味わい続けた家族。それ比べ、離れた地で普通の生活を送る自分は、当事者ではない。そうやって区別されるのが悔しかった。弱った兄を見舞いに帰った8月。この時も、初めの言葉は、決して理解のあるものではありませんでした。「このイベントは一体何なんだ」「お前の説明は分からない、何故アメリカのイベントにお前が動いてるんだ」「お前は日本の代表なのか?」「そんなに立派なイベントならこっち(青森)にも知られてる筈だろう」「じゃぁ、こっちの代表は誰なんだ?」年寄り達には、ネットによる社会の繋がりが理解できない様子でした。一部の人達の間で広く広がるムーブメント。政治が先導する訳でも、企業の宣伝による扇動もなく広がる意識の輪。それでも離れて暮らしながら動いている自分への理解をしめそうとしてくれました。「じゃ、知事に電話をしておいてやろうか?」「○×医院の院長にだったらお願いしてやれるぞ」そういう事ではない。そういう事ではないのだけど、何とかしようと思ってくれる気持ちが嬉しかった。そうして今日、こうやってみんなとの合流の為に歩いている自分が居ます。明日はどんな日になるのか、そこはスタートなのかゴールになるのか。兄にとっては、きっと何の影響を与える事も出来ないままでしょう。救うことも、励ますことも出来ません。少なくとも今は・・・
Sep 2, 2006
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2日しかたっていない。たった2日なのに、兄のコンディションは深刻なものに戻ってしまった。相手の顔を見ていた目は半ば閉じ、首はガックリ落ちてしまった。父の言葉が鬱陶しい。自分から聞こえない所に行く事は出来ない。だから、早く帰って欲しい。寂しさよりも、人と一緒に居る事の煩わしさが先行してしまう日だった。心なしか、足の浮腫みが進行しているようだ。足だけが皺も無く、ツルンとしている。だけど、未だそんなもの。丸く膨れてる訳でもないし、足首だったちゃんとある。体力の落ちるスピードをうんと遅くして、その時を待とう。フィリピンでは、ウィルスを介した遺伝子治療が全ての癌への適用となった。製薬会社の本国、アメリカでもすぐに認可プロセスが進むだろう。そうなれば、日本にだってオキサリプラチンの時よりももっと早く入ってくるだろう。待とう。先延ばしにして。
Aug 29, 2006
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少しだけ元気を取り戻して、会話が出来るようになった。放蕩息子の次男への苦言を少し零した。トイレも、そんなに頻繁ではなかった。長男に車椅子を押させながらの往復。背中を向けたまま、全てを否定していた長男に押させた椅子。彼等の間にも、会話は有ったのだろうか。この関係は、明らかに進歩した。長男は当てにされ、その期待に応えようとしている。自分で親戚に電話をかけて、見舞いに来て貰っていた。自分が子供だった頃から好きだった、とても若いおばさん。その頃からずっと、おねぇちゃんと呼んでいた。還暦を目の前に迎えた、今でも。嬉しいのは、今でもこうして調子の良い日がある。寂しいのは、元気な日でも歩ける程の体力は無いという事。
Aug 27, 2006
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見舞った兄は目を瞑り、寝てるとも起きてるとも付かない、朦朧の中に居るようでした。いつも通り腰の痛みを逃がす為、上半身を起こしたままで大きなクッションで支えていた。自分達が病室に入った物音にも気付かないかのように、何の反応も見せない。と思うと突然身体を起こし、トイレと一言発して立ち上がりだす。病室にもポータブルトイレが置いてあり、用足しを試みる。だが、兄はストーマに腎臓に直接挿した導尿管で、トイレに行っても何も出るものは無い。ただ単に、兄の薄く、細くなった身体を確認する羽目になったばかりだった。174センチに、40キロを切る体重・・・骨と皮の間を埋める以外には、もうふくよかな肉は付いていない。 本当に削げてしまった兄は、残尿感を感じるらしくて幾度も幾度も繰り返す。その度に身体を震わせながら、立ち上がる。それでも兄が嫌がらないならと、慌てて車椅子をセットし、兄を乗せてトイレに運ぶ。幾度も幾度も運ぶ。トイレの中では、時間を掛けて尿意が膀胱の中身を押し出してくれるのを待っている。何も出ないまま、病室へ戻る。戻って少し目を閉じたかと思うと、またトイレへ。その繰り返し・・・ふと気が付くと、ポートに入る高カロリーの点滴バッグに貼られたシールには、5-FUの文字が。唇には、真っ赤に爛れた大きな口内炎。身体は限界に来ているのに、それでも抗がん剤で腫瘍の増大を抑え続けている。気休めなのかも知れないが、粘膜が傷付いて苦しいかも知れないが、それでも戦うしかない。兄からは、諦めの言葉が出て来た事すらないのだから。兄の当面の敵は癌ではなく、体力の低下であるのだろう。院内感染に気を遣っている結核も扱う郊外の病院であることが、救いに感じる。調子の良い日が、戻って来て欲しい・・・
Aug 20, 2006
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8月19日(土)、とても暑い日になりました。この日はRFL直前のCPSP全体会議でした。暑くて暑くて、呼吸するだけでも体温が上がって行きそうな日。駅からの道も、出来るだけ穏やかな呼吸で、エネルギーを燃やさないイメージを作って現場入りしたのでした。それでも汗が噴出し、自分の顔の紅潮している様が想像出来そうな位にのぼせて会議室にに入って行くと・・・居る居る、沢山の元気な顔!!みんな笑みを湛えながら楽しげに話していました。その中に・・・オッ、MOMOさんだ!プレの時に見た、ステージの上の人。オッ、隣はseimamaさんだ!なぜかミーハーな気分で気持ちが高揚して行くのでした。そして現れたのが、CaRAVANのバグースさんと蓮さん。こちらは確実に憧れの二人・・・・お話をさせて貰うと、何とバグースさんは自分と同郷だし、蓮さんは同い年だという事が判明。一気に一人だけテンションが上がって行ってしまいました。会議の中では、随所に検討や要求しなければならないポイントが見つかり、皆さんの中には問題意識が高まって行くようです。そんな中、一人だけ(ハルチさんもかも?)喜びに浸っていたのでした。会議の終盤、一足先にお暇させて頂いて、故郷に向かう新幹線へ。日付が変わる頃には、兄が戦っている故郷に辿り着くのでした。
Aug 19, 2006
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先週の連絡は混乱を伝えるものだった。若干、心配しながらの1週間になっていた。だが、兄の容態は安定に向かった。今週は、目もキチンと相手を向いており、会話も出来ている。もうすぐ見舞い客が来る事も、ちゃんと認識出来ている。さすがに、笑みがこぼれる程の余裕まではないようだが・・食欲が無いのは相変わらずで、少し食べると戻す、寝込むが続いている。高カロリーの点滴が入ってるから、栄養分としては問題ないんだろうけど。体液はどんどん悪液化が進んでいるのだと思うと、何か改善しないものかと期待してしまう。もう少し、元気出して行こうか!
Aug 13, 2006
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薬を足しても眠れないのだと言う。夜間に起き出しては、トイレに行く。兄は1年も前から腎臓からドレナージによって直接排尿している。トイレに行っても何も出るものは無く、感覚的な要因が強い。でも、離れている自分にしたら、動けるなら動いた方が安心と思う。日に3度も家に電話をするのだと言う。看護士の他に嫁も24時間付いていて、不自由という事も無い。それでも携帯から電話をする。眠っていないせいか、電話番号を確かめる事も出来ず、色々な所にかけてしまっているという。何処にかけても「あ、かぁさん?」と呼び掛けているのだそうだ。眠ってないのだから、そんな間違いは当然であって、それは錯乱でも何でもない。訪ねて来た父に向かって、挨拶をしてしまう。肉親であるという認識が無くなってしまったものか、他の誰かと間違えているのかは不明。そう言えば、父もくも膜下で入院中に、孫に向かって「どちら様ですか?」とやっていたっけ。これは、強い薬の影響なのか。問題は眠れない事なのだと思う。薬をどんどん足している。痛みを訴える事はない程に、足してしまっている。それでも神経は尖って行く・・・沢山の混乱が起きている。今日、母が見舞っている間に、少し眠っていた。本人に眠るつもりが無かったのか、不自然な体制のまま眠っていたそうだ。起きたらまた、まともな兄に戻っているかな?
Aug 6, 2006
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兄の眼鏡が壊れたのだと・・・元々、眼鏡はそんなに必要としていない。増して、今年に入ってからは新聞すら読んでいられない状態になっている。文字どころか、TVすら見ていられないのだから。昨日の朝、兄から突然電話がかかって来たそうだ。いつもは連絡するのは姉からばかり。本人は自力で起きて移動する事すらままならないというのに。去年の緊急入院の時も、同じような事が有った。突然の電話で「今すぐに来てくれ、間に合わなくなる」と。その時は、薬のせいで幻覚が現れている時だった。だが、今はそういう状態でもないし、話の内容も筋が通っている。もしかしたら、姉と喧嘩をしたのかも知れない。一人になって寂しくなり、家族を呼ぶ為に口実に眼鏡の事を言ったのかも知れない。実家には、父と母と息子達が2人。長男は仕事に出掛けていたらしく、3人だけ。母は免許を持たないし、父はくも膜下出血の後遺症で運転は危険。運転どころか、自制心が無くなっている為、母が付き添っていなければならない。とすれば、次男に行って貰うことになるのだが・・兄の入院には、色々な謎が多い。この謎は、病院側の対応がどうのとかいった問題が有る訳ではない。単に、こちらが素人なだけに、病院側からの説明が受け取りきれていないだけの話。先ず最初に2ヶ月間の入院という事で、余命2ヶ月と受け取ってしまった。その後、加療計画が1ヶ月分しか提示されなかった為、余命1ヶ月と勝手に解釈を変えてしまっている。入眠剤(薬の名前すら知らない)の医師からの説明も、途中までしか聞いておらず、その途中までの説明の中に「体力の無い老人ならば、そのまま亡くなる事も」と有った為に、勝手に意識レベルを下げる為の施術と解釈している。先週、以前の主治医が来て、2ヶ月の入院期間が過ぎた際、上手くすれば元の病院に呼び戻せるという事を言われ、保険適用の為の2ヶ月と理解した。治療計画は、そもそも1ヶ月毎に見直すものだという事も、この時点でやっと理解。薬は?薬についても、話を良く聞くと、夜間の熟睡を確保する為のもののようだった。そもそも、この1ヶ月の間にも、抗がん剤の24時間常注が行われていたようだ。未だ、緩和だけでなく、治療も継続しているのだ。確かに、体力はギリギリまで失っているのだろう。自分の口からの食事が出来なくなっている程に、厳しい状態が続いているのだと思う。しかし、兄は戦いをやめていない。気力が勝っている間は、急激な変化は起きそうもないようにも思えて来た。体液の悪質化だけは、どうしても心配が拭い切れないが・・・
Jul 30, 2006
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どうも良く分からない状況になって来ている。確かに兄は元気ではない。再入院した時から食事は出来ておらず、栄養摂取は首の付け根のポートから入るだけだ。身体の中は、かなり悪液化して来てもいるだろう。だけど、未だ意識はちゃんとしてるゾ!ビシッとしない息子達を呼んで、嘆きながらの説教だってしている。親戚が来ると、無茶して病院の出口まで送ろうとする。(当然、家族に車椅子を押させてだが・・・)ここで入眠剤の登場は、何を意味してる?医療に詳しくない、母の言葉を介している為に、状況が分からない。本人は、眠くて仕方のない事を、不思議に思っているという。という事は、本人にとって眠るべき時に薬が入ってるという事ではないのだろう。苦しんでいるから、それを緩和させる為に眠っている時間を延ばしている?家族は、そう感じているようだ。医者の説明も、その辺を掠ったようだ。(兄が長男に車椅子を押させて通ったので話は中断した)とにかく楽な時間を増やして欲しい。身体の負担を軽くして、1日でも先まで命を繋いで欲しい。1日延びれば、その分治療が間に合う可能性が増すと感じられるまで。いや、出来れば治療出来るような社会になる、その日まで。兄は、まだまだ生きる事を選択し続ける筈だ。
Jul 23, 2006
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兄の入院している病院。そこは以前、筋ジスを中心とした神経筋疾患を対象とした国立の療養所だった。今、国立病院機構として、小児診療を中心にした総合病院として生まれ変わっている。その中で、政策医療として取り組む、がん。病院は広く、古さと新しさが共存している。その立地には、子供達を扱いながらも療養所としての閑静を保っている。広いから、そのどちらも手に入れる事が出来ている。看護に携わる人達にも、その両極が現れているようだ。毎年新たに配属される、とても若い、沢山の看護士の方達。その殆どは、小児病棟に配属されるようで、兄の病棟には頼れる年配の方達が居てくれる。とても心地良い空間。しかし、兄は戦いの中に居る。人との交流を楽しめる程までに回復してくれない。自宅で頑張り過ぎたのだろうか・・・今週、休みを利用して親戚が見舞いに訪れてくれたそうだ。兄は、礼を失しないよう、車椅子で出口まで見送ったという。しかし、それは今の兄にとっては残る体力のギリギリまで使うような行動。見送った後、気を失うように眠りに落ちて行く。そんなに無理をしなくても良いのに。そうなのか?彼の精神は何と言ってる?彼のプライドは、生きる事を選択している。今までも一度も「死にたい」という言葉を口にした事はない。逆だ。彼は辛い時間に「死んでしまう」という言葉を口にする。本当に死んでしまいそうに辛い時間を、何度も、何百回も過ごして来ている。だけど、彼はその時間を越せない事を恐れている。彼の時間は、今までずっと未来に向かって伸びている。彼は治る事を信じているのか?このままずっと、生きていたいのか?いや、そんなんじゃない。彼は、死にたくないんだ。どんなに辛くても、死にたくないんだ。その想いが、彼の命を未来へ未来へと進めている。どこまでも強い男だと思う。
Jul 16, 2006
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兄の容態は、決して良いものではなかったらしい。再入院してから暫くは、吐き続けていたという。自宅での療養を続ける為に、無理に口から摂取しようとしていたが限界だったらしい。そもそもが抗がん剤で潰瘍だらけの胃に、薬をあれだけ詰め込んだのだから、当然の結果だったのだろう。入院してからはポートを再設置し、食事無しの生活を続けている。入院時には、吐き気と痛みで転げまわっていたようだが、緩和治療のおかげでようやく眠れるようになって来たようだ。モルヒネを強制的に入れ続ける装置(あれって何て言うんだろう?)を付けて、疼痛をコントロール出来るようになったと。未だ、量はそれほどでもないのだから、悲観的に受け取る必要もないだろう。本人が楽になれば、それだけ時間を先延ばしに出来るのだろうから・・・
Jul 8, 2006
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兄は転院していた。いや、一度退院しているから、別な病院に再入院したというべき?新しい環境は、以前は療養所だった国立病院。郊外に立つ、静かな環境の病院だった。昨年末より、主治医から勧められていた養生の場。治療の為の喧騒から離れて、自分の体力と相談しながら時を待つには丁度良いだろう。本人の希望は、ずっと自宅での療養だった。確かに自宅に帰れば、自分の知ってる空間の中で自分の工夫の中で過ごす事が出来る。 しかし、その自宅にだって、元より距離を置いた父親との関係や、家に寄り付かない次男の事が気にならない訳ではない。自分に訪れる変調に対して、その場で診て貰えない不安。葛藤は、慌しい病院にも、自宅にも有ったのだ。今、やっと手に入れた静かに暮らせる環境。2ヶ月だけの、仮の居場所ではあるが、ここで体力の温存だね。
Jul 1, 2006
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