真理を求めて

真理を求めて

2004.06.30
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僕は、小学生の頃に多湖輝さんのベストセラー「頭の体操」という本をもらってから、パズルマニアの子供になった。パズルの面白さは、常識にとらわれて一面的な見方をしている間は問題が解けないのに、ある一点を突破するような発想に気がつくと、その問題の全貌が見えてきて答がはっきりと見えてくることを体験できることだった。世界をつかんだという気分だろうか。

そういう傾向を持っていたので、数学にとりつかれた中学生くらいの頃も、パズル的な面白さを持っている図形の証明に心を惹かれていた。図形の証明も、たった1本の補助線を引くことによってその全体像が明らかに見えてくることがある。発想の面白さを味わうという楽しみがあった。

僕にとって数学の証明は、これ以上確かなことはないという言明の連鎖のように見えたけれど、数学以外のものでは、その確かさを納得できない言明がどこかに入り込んでくるようで、真理を証明できるのは数学だけではないかと若い頃は思い込んでいた。

その後哲学や文学の世界を体験し、板倉さんの自然科学と実験の考え方を知ってからは、数学と他の分野では証明の仕方が違うんだなと言うことを感じるようになった。

数学というのは、その世界を自由に自分で設定できる。ただ一つの制約をのぞけば。それは、論理的な内部矛盾を起こさないようにするという制約だ。この制約を守るならば、何を前提にしてもいい。それは、自分が好きなように設定できる。僕が数学を気に入ったのは、この自由さにあったかもしれない。

そして数学は、その設定した前提のみから論理的に導かれる結論だけを真理とする。設定した前提以外のことは認めないのである。これが、証明をするときに、直ちに他の数学者の賛成を得られることにもつながってくる。前提とすることに共通の理解があるから、論理の正しささえ保証されれば、その証明を全面的に信じることが出来るのである。

数学の証明は、理解さえ出来れば直ちに了解できる。これが証明というものだと僕は思っていた。しかし、数学以外の世界を見てみると、全く正しいと思われる証明でもなかなか認められないものがあることを知った。それは、ずっと無理解から生じるものだろうと僕は思っていた。数学も理解できなければ、それは単なる主張にすぎないものであり、証明として受け取ることが出来ない。

確からしい言明に対してそれを認めない人は、そのことを理解していないだけなのではないかと僕はずっと思っていた。だから、大事なのは、いかにして理解してもらうかと言うことだと言うことではないかと思っていた。

そんなとき板倉さんの仮説実験授業を知り、この方法なら、自然科学の正しさを証明できると思った。自然科学は、数学と違ってその前提を恣意的に選ぶことが出来ない。現実を相手にしているので、現実の存在というものが前提になる。そうすると、現実の前提というのは、無限に多様でたくさんあるのだから、そこで共通の了解を持って前提とすることを選ぶのは限界があるように感じた。どうしても前提としていないことが入り込んでくる可能性を排除できない。



重さが集中するような質点というものは現実には存在しないが、それを設定することで数学に近い厳密な論理が使えるようになる。それは、現実には存在しないから、現実との誤差がいつも問題になる。理論上は成り立つけれど、実際には違うと言うこともありうる。しかし、それでも抽象化することで、理論的に証明するという道を開いたのだと思う。

しかし、理論的に証明するだけなのなら、これはほとんど数学と同じになる。自然科学なら現実とのつながりも問題にしなければならない。この理論と現実とのつながりを証明するのが板倉さんが考えた「実験」の概念だったような気がする。

実験というのは、具体的な問題を設定して、未知の事実を予想しようと言うものだった。その予想に、理論的に証明された「仮説」を使うのである。数学ならば、証明されたものは直ちに数学的な真理になるが、自然科学では理論的に証明されたものは、まだ「仮説」に過ぎない。それは、現実を抽象化しているので、無限に多様な現実の条件を考えの中に入れていない。もしかしたら、理論に都合のいい事実だけしか抽象していないかもしれない。重要な前提が抜け落ちていれば、理論で予想したことが実際には起こらない。その抜けた前提が影響を与えるからである。しかし、捨て去った現実が大した影響を与えないものであり、重要な前提をすべて考慮に入れてあれば、実験は予想通りに成立するようになる。

実験が常に予想通りになることが確かめられれば、その理論は、正しく現実を反映していると受け取ってもいいだろう。理論が、理論上だけでなく、現実に対しても真理であることが証明されたと受け止めていいだろうと思う。自然科学においては、実験をすることが証明になるというのは、こういうことなのだと僕は思う。

もっとも抽象度の高い数学と、それに準ずる自然科学においては、真理を証明する方法があると僕は思う。では、もっと現実に密着した事柄では、真理を証明することは出来るのだろうか。

証明は、抽象化されたものに対する方が易しい、というのは奇妙に聞こえるかもしれないが、同意を得る証明は、一般論として証明された方が同意を得やすい。前提条件を同意しやすいからだ。一般論なら、立場や利害というものが深刻にかかわってくることがないからだ。

これが具体的なものに密着していると、そこに絡んでくる立場や利害のために、一方の側では捨象して前提からはずしているものを、もう一方では重要な前提として組み入れていると言うことがいくらでもありそうだ。世間から、かなり優秀だと思われている人々の間でも、現実を論じているのを見ると、その意見が一致しないことがよくある。ほとんどの場合は、違う前提のもとに主張している意見を、相手の前提を検討することなく、自らの前提のみを正しいとして主張していることが多い。

このような状態の中で証明をするというのはたぶん不可能だと思う。証明が了解できるのは、前提を共有している人間との間だけだ。だから、僕は何事かを証明したいと思ったら、前提を共有している人間と話し合うか、あるいは共有できそうな人間と前提そのものについて議論するという道を選ぶ。

前提が共有できない相手には、何を言ってもたぶん共感することはないだろう。すべては、立場・視点・見解の相違が表れてくるだけだろうと思っている。もちろん、僕は自分の方が正しくて、相手が間違っていると思っているわけだけれど、それを証明しようという考えはもうあまり持っていない。

僕は、僕の前提のもとに考えを進めれば、僕の前提が正しい限りにおいて正しい結論を出している、というふうに考えるだけだ。僕が前提の正しさに疑問を抱くようになれば、結論を捨て去ると言うこともあるけれども、前提の正しさを感じている間は、結論を棄てることはないだろう。

相手もおそらく同じ状況だろうと思う。僕と反対のことを考えている人間も、その人間が前提としていることが正しいという条件の下ではそのような結論が出るのだろう。しかし、自分が前提としていることをすべて自分で意識しているかというと、それは難しい。無意識のうちに正しいと思い込んでいることもあるからだ。



僕が、信頼関係のない相手との議論を不必要なものと思うのは、信頼関係のない相手とは、このような自覚を持って相手の言葉を受け止めると言うことが出来なくなるからだ。このような自覚がなくて議論をすれば、おそらく相手がバカなヤツだと感じるだけで終わるだろう。

それでもどうして、このような見解が分かれるような意見をインターネットで公開するかと言えば、前提となることを共有できそうな人間の目にとまって、そういう人間との間で、意義のあるコミュニケーションが出来るかもしれないと言う淡い期待を持っているからだ。

大きなニュースがあるときは、そのニュースに関して記述する人が多くなる。イラクでの主権移譲というニュースは、それを語る人が何人かいた。これに関しても、その前提とすることをどうとらえるかで、「解釈」というものが違ってくる。

「主権移譲」というものを、文字通り受け取る人もいれば、これは言葉だけであって、実際には「主権」など少しも移っていないと現実を解釈する人もいる。僕もそう思う。そこで、僕はそのように語っている人を見つけると、そのことを話し合いたくなってくる。どの程度前提を共有できるだろうかと言うことを話し合いたくなってくる。

主権が本当に移譲されるのなら、イラクという国が、主体性を持って自己決定できることがいくつかあるはずだ。それが本当に実現されるかどうかで、「主権移譲」という言葉が実現されたかどうかが証明されるのではないかと僕は思う。セレモニーをしたから「主権移譲」がされたなどとは受け取らない。



僕が分からないのは、議論を深めて、より深い真理をつかみたいと思っていないのに語りかけてくる人たちだ。何が目的なんだろうか。たとえば、その主張に反対する人間が、質問を問いかけてくるものを見かけることがよくあるが、その質問は、本当に答を知りたくて質問をしているのだろうか。答を聞くまでもなく、自分で答を持っているのなら、質問をする必要はない。その答を主張すればいいだけのことだ。僕ならそうする。どうして、主張をせずに質問をするのか、その深層心理にはかなり興味があるけれど、そこから実りある議論が生まれるとは僕は思えない。

考え方や意見が反対であっても僕は別にかまわないと思う。思想・信条の自由があるのだから、どんなことを考えようと自由である。また、現実は無限に多様なのであるから、どのように現実に切り込んでいくかで、様々な視点があり得るだろう。自分の立ち位置からくる見方があって当然だ。そういうのを、すべて許容する前提で、どうして議論を考えることが出来ないのだろうか。

僕は、前提を共有できない人を説得しようとは思わない。そういう人は、そういう立場で自己主張をしてくれればいいんじゃないかと思っている。僕が見落としていた前提を指摘していることに気がつくような書き方をしてくれていたら関心を持つけれど、そうでなければ僕は前提を共有している人の方により大きな関心を抱くだけだ。

証明を証明として受け止められる人となら議論が出来る。僕はそう考えるので、議論をする相手を選びたいと思っている。





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最終更新日  2004.06.30 09:16:36
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