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いろいろ悩んではいるけれど、グーグルニュースの下側をクリックして、他の国のニュースを見ていると、いろいろな外国の言葉はさっぱりわからず、写真に出ている人も知らない人ばかりで、自分がわかっていると思っている日本語の日本の中の出来事もそういう狭さの中で悩んでいるんだなということである。言葉が違えば口喧嘩もできないか。あまりに無力な自分がいる。五木寛之さんも、生きているだけですごいと書かれていたり、明石屋さんまさんも生きてるだけでまるもうけと言ったみたいであるが、もっと落ち着いてみなければいけないと思う。いろいろあせりがあるのか、せっかくくれたコメントを間違えて消してしまったりして、申し訳ないです。明日はまた新たに求職している会社を調べに行くのだから、その具体性があれば、そんなにあせってもどうしようもない。具体的に新たな面接先を探し、面接していくこと。これが具体策だ。一人では生きられないということは十二分に確かだ。家族や周囲のありがたみ。その実感を感じること、一人だけへの恐怖を感じること、それがまた境遇が変わったとしたら、その感覚をなんとか覆していくこと。状況は変わるものである。
2008.06.30
関わりがないのに、文句を違う人の名前を使い書いてくる人の気持ちが理解できない。自分はそういうことはしない。わからない。攻撃性のある人というのはどういう心理状態なのか。わからない。しかし、そういう人の態度が変われば、変身したということだから、そういう人もその可能性はあると思う。だが、ほとんどの人は最初からしないということをなぜかと自問自答すべきだと思う。そういうこともあり、事実が書きにくくなるが、読んでもらいたい人は、多くいるし、コメントはくれなくても読んでくれている人たちがいてくれるので、事実を書いていきたい。明日に結果が出ると思っていたところが今日不合格で、結果待ち1社と書類選考待ち1社という状態になっている。結果待ちのところはやや不思議な関係?になっているのだが、はっきりとは書けない。ありがたいことだと思っている。また明日新しく出たかも知れないところを見つけてくる。その繰り返しである。地域をもっと絞るしかないと思っている。なにかには収束するはずなのだが、(就職と収束となってしまうが、)その収束するまでがどうなるかまったくわからない。でも探して面接をしていかないと、結果が出ない。やがて今日は晴れてきた。「対話 人間と建設」を読了した。読書かネットかほかにやることもない。しかし、なにかしたこともなんだかブログに書いておかないとなんだったのだろうかという気持ちになってしまう。ほんとは自分が楽しければ記録することもないのかも知れない。そういう人も多い。ほんとは、人に楽しいことを分けられる内容が書けたほうが楽しみを共有できると思う。しかし、現実はつらいことが存在している。セーフティーネットの破れということが垣間見えるということが何を表わすのか。生田武志さんは長年、現実として、日雇い労働者などと運動してきた人が実際にいる。自分にはとてもできない生き方である。このブログで人を楽しく笑わせることもできず、つらい話や暗い話などの紹介などをしているようなものであるが、暗部も考えていかなければ、多くの幸福はやってこない。生田さんの文章から、シモーヌ・ヴェイユも、工場で働いた経験から、苦しむ労働者に共感しようとしながらも、周囲の態度のモラルハザードから、救済は無いかも知れないと悩んだらしい。仏教みたいに、地獄界とか阿修羅界とか、心の乱れた周囲に陥ってしまうこともあるのかも知れない。しかし、読んではいないが、フランクルの「夜と霧」のような、ひどい状態の周囲の中でも希望と心の美しさを失わなかった人もいるらしいのだ。限界状況の中に入った人がどうなるか。そこに人間性が試されるのだと思うが、私の場合は、すぐ悪に染まってしまうんじゃないかと思っている。だからこそ、限界状況を作らないようにするしかないのだが、今でさえ、なんだかいらいらしてしまうのだから、よほど人間の出来ていない、私は劣ったレベルの人間だと思う。だがこう思うことも、余計に自分を下げているらしい。「聖なる予言」というスピリチュアルな本では、「被害者」としての感覚も、他人からのエネルギーを奪うという状態なのだそうである。ほかに「傍観者」、「尋問者」、「脅迫者」などがあるという。ユングの心理学の原型みたいな分類なのかも知れないが、自分の気持ちや立場が衰えている時に、そういう関係をしようとする人などもなんらかの網の目に影響されてしまうのかも知れない。変身するための一里塚だと思えれば、時流に乗るための、フローや、思わぬシンクロニシティーなどが起きやすいチャンスだとも考えられるのだが、不安な心や小心がそれを阻んでしまう。チャンスという場所にいるのになあ。自分などは家族に守られ、情けないことにほんとは守る時期なんだが、こうしてブログを書いているが、ホームレスにまで、この社会ではすべり落ちてしまうわけである。そのセーフティーネットの欠如がとても恐い世界だと感じる。セーフティーネットの構築はもっと深い意味をもっているのではないかと思うが、そこまでは他人事のように思わされるように、なんらかの力学が働いてしまっているのだろうか。
2008.06.30
6時起床したが、7時頃パソコンに向かい、書いていたことを操作ミスで消してしまった。簡潔にしておけと自然や潜在意識が告げたのかも知れない。雨模様の曇り。風強く寒い。今週は前半にでも、先週の面接先の結果は動く予定になっている。今日か明日にはなにか動きはあると思う。ブログなどやっていると、いろいろな人がいて、見守っている人ばかりではないので、逆に事実が書きにくくなることもある。コメントや掲示板など使わずに書き続けている人の気持ちもわかるような気がする。しかしこのブログにはとても素晴らしい発言に来てくれる人もいるから、もちろんそういう人のために書いているつもりである。私自身の人生なんかは大したことはないもので、私が1000回転職しようが、1日で辞め続けようが、負担は私自身の現実生活にはねかえってわかっているものなのだから、他人がとやかく文句のような言い方でくるのは変で、コメントするなら言い方があるだろうと思うようなことが起きているが、なにか伝わるものがあるのかも知れない。しかし良い気分では無い。大したことのない人生だとしても人生はとても大切なもので、細胞ひとつでさえ人間はまだ作ることができないらしい。神秘的なものなのだ。人ひとりは。その自分の神秘性に気づけば、どんな人生を過ごしていようと、格調が高いんだ誰もがと思えるはずだ。思っている以上に生きていることは不思議だ。それから思えば、社会などは、人間が人工的な範囲でつくっているものに過ぎない。お金もそうだろう。だが、それもなにかからのはからいによって作らされたことなのかどうかまでは知らない。思い込みの領域の問題なのだろうか。でも人間は、男女に分かれていて、子どもという生命を授かることができる。そういう不思議もある。私は社会に翻弄されたと言ってはいるが、そういう相手に、どこまでも誠実ではなかったのかも知れないし、誠実すぎたのかも知れない。誠実という言葉が正しい使い方かもあやふやに今使っている。人生は想定していないような人との交流なのかも知れないが、楽しいコミュニケーションの延長が、実社会でも現れてくると思うのだが。しかし、こういう出来事をつきつめていくと、一般論になっていくから、なにか示唆しているものなのだろうか。全ての人が中の良い社会になれば、社会も経済も良くなると思う。それは金銭の量が右肩上がりに上がるという状態ではないと思う。どこかで落ち着くのだと思っている。不況は人の心の不安定が作っているのだろうと思う。一見、うまくいっているほうも含めての不安定である。うまくいってない人のほうだけの不安定だとばかり見るから解決しないのだと思う。お金の量だけで判断していると、見失われてしまうことあって、経済的にせっぱつまっていない人でも暴力を起してしまうというニュース報道の例からもそれはうまくいっている、いってないをお金や生活面からだけで判断できない何かがあるということだと思う。その何かとは何か?が究明されるべきものである。その究明は国民全体でやるべき最優先のものである。まず国民(それは世界につながる)の心の安定、安心感が確保されることから全てをはじめることだったのだ。自分より生き方や生活に困っている人が確実にいる。その人はインターネットをしない人かも知れないが、間接的に、昨日の生田武志さんの存在の情報などを経由することによって社会認識が少しでも変化の方向を目指せると思っている。芥川賞作家の平野啓一郎さんが、ネット社会の心の闇を描いた長編小説を発刊したというのが毎日新聞の文化欄に出ている。ネット社会での中傷などの悲しい現実が文化欄という、文化という楽しいイメージのところで出るほかないやるせなさもあるが、平野さんは人間の心の荒廃を捉える感性をそこにもってきている。「ウェブ人間論」では明るいイメージでインターネットの社会を捉えていたと思うが、暗部の方向についても心配していて、今度の著作になったのだと思う。社会や経済の潤滑は、全ての人の安心感のあるコミュニケーションからはじまる。そしてコミュニティーとなる。先日、神風スズキさんが、塾でも、仲間が自然にやってくる生徒と、逆に違うある生徒が入ってくると他の生徒がこなくなってしまう生徒があるのだということを書かれたが、示唆深い話となっている。私自身がコミュニケーションが下手だということも自分におきている人生の現象に関わってしまっているのだろう。明るい言葉で通しているということは、人の心を明るく反射させる。このブログは暗い言葉も現象も含めてしまっている。しかし、きれいごとだけでは、排除されてしまっている人間が現実にいるということが見えなくなってしまう。自分も助かりたいが、他の人も助かることが自分も助かることではないかと思う。家族や人間関係は崩壊してはいけない。一人ぼっちになってはいけない。お金はインフレになったら価値が下がってしまうものである。でも人間の信頼関係はインフレだろうがデフレだろうがつながっているものである。だが、楽しい人に他者はやってきて、ひどい人からは去っていくというのも事実だと思う。ほんとの人間性はわからない。しかしそれぞれの人間の生き方や状況が違うし、ネットでは言葉だけのコミュニケーションとなるから、言葉遣いなどの人それぞれの感覚の違いで、本心と違う方向に行ってしまったりする。他人が誰が優しいか優しくないかはちょっとやそっとではわからない。だからこそ、言葉遣いや、上下という設定が混乱を鎮めようとしてきたのかも知れない。アメリカでは同等な中でのフレンドリーさで、行こうとしたのかも知れない。日本は、伝統的に格式や上下関係を設定して、その敬いで秩序を保とうとしてきたのかも知れない。だが、日本はアメリカの生活感の様式と感受性を取り入れようとしてきて、混乱した。フレンドリーでいこうという言葉遣いが、生意気とか、思いやりがないという捉え方をする人と確執を生んだ。そして統一してくれるところがうやむやになる続けた。それは言葉だけの雰囲気ではわからず、だからネットの初期から、それをなんとかしようと顔文字が発明された。自分自身ももっと柔らかい対応や冗談でもして他人に返せれば違うのになあという事を思いながら、なにかすると真面目というのかどうか、固い対応になってしまって直せない。言葉は同じものだが、相手を理解しあえないというのは、その言葉からの感受性が人それぞれ違って捉えるからなのであろう。数学やプログラム言語の場合は、証明が解けたりするからまた語るための言語とは違う面もあるのだろうが、岡潔さんは、数学でさえ、「情緒」が必要だと語っていた人である。しかし、プログラム言語は、私は扱えないが、不思議なこと(プログラム言語を知っている人は不思議ではないことなのだろう、多分)に、機械というものを動かしてしまう。この説得力がある。科学技術もそうである。機械が動いてしまうのである。だから正しい言葉遣いは人間を正しいほうに動かすことができるなら、プログラム言語と似たような使い方になるが、生活するための言語は、人それぞれの勘違いで喧嘩になったりする。人間には感情があり、言語がある。機械が犬のぬいぐるみを着ていて、かわいらしく動くとまるで生物の犬のようにも感じたりする。こういう研究も相当行われているのだろう。なんらかの検討違いによって、人間間のいざこざが起こるというレベルもあれば、社会状況が関係してしまうレベルもあり、その他要因がもろもろあるのだろうが、解決するためには、どちらかが引くしかないのだろう。執着性ということが恐いことである。執着は欲望から来る。しかしその執着が物事を創造するための原動力となったりする。相田みつをさんに、人生は出会いで生じているから良い出会いをしてくださいね。という意味のフレーズがある。良い心を内的に発動する波長が共鳴し、リズムが生じて、卒啄同時の時機が生じて現実化されるのだろうか。ループ内から脱出することが目指されているのだろうか、循環、バランスが目指されているのだろうか。自分の人生は、生活維持を目指しているだけのことなのかも知れないが、その場合、お金を得るための仕事がない状態が生じた場合、なにが残るのだったろうか。そういうアンバランスが生じた時に、人それぞれの違った立場や状況や感性のずれが摩擦として生じてしまうのだろうか。他者の背景は相当関わってみないとわからない。長年つきあってもわからないよということもあるみたいである。人それぞれ、目標設定に熱中している人もいれば、停滞してしまっている人もいるなかで、それでもみんな人間だから、生存の維持に困っている人が出てしまった場合どう保護されるかのセーフティーネットと、人の心ということについて、寛容性のある、ほがらかなさわやかな感覚をどう新しく、そして共有していけるか。「対話 人間の建設」も読んでいる途中で、五木寛之さんには、「人生の目的」というタイトルの本もある。まだ読んでいない。他人から評価されてきた人の言葉には、評価に値するだけの、良さがどこかにあるはずである。自分でわからないなら、そういう人の言葉をいただいて、人間性も変えて行きたいなとは思っている。養老孟司さんが言うには、人は変わるのだということである。人が発する情報も、時期時期で変わっているはずである。そして、変わるのは自分からだけではなく、他の人から変わっている場合もある。自力と他力という言葉がある。五木寛之さんには「他力」という著作もある。他力とは、人まかせとか投げやりとかいう意味ではなく、不思議な道筋に導かれるようなロマンティックな意味合いを持つものだと思われる。1週間の最初として動きがやってくるし、こちらかもなにかしら動く。
2008.06.30
読書とネットで、一日が過ぎた。一日雨だった。晴れていればまだ明るかろうが、今日はもうすでに暗い。夕方6時を過ぎた。シモーヌ・ヴェイユのことを、ネットで調べていたら、生田武志さんが、ヴェイユについて書かれた文章に出会った。生田武志さんは、「フリーターズフリー」という、非正規労働者などの貧苦の現状を問う活動をしている人であり、ちくま新書の「ルポ 最底辺」の著者であることがつながった。この本は買ってある。しかし読んでいない。「フリーターズフリー」のサイトと生田武志さんのサイトをリンクしたが、「フリーターズフリー」という組織は、「雨宮処凛のオールニートニッポン」で杉田俊介さんという方も「フリーターズフリー」の方であった。生田武志さんは、同志社大学というエリート大学を卒業したにも関わらず、釜ヶ先という日雇い労働者の方々の働く地域において、自ら日雇い労働者となり、一緒になって社会的活動をしてきた人らしい。サイトに自己紹介が載っている。シモーヌ・ヴェイユという人も、哲学教授の地位を捨てて、工場に入り労働をしたり、ほとんどの人なら選ばないコースに自ら進んで入っていき体験したという女性である。ヴェイユの場合は7ヶ月くらいの体験であったらしいが、生田さんは20年にも及ぶ活動ではある。しかし年月は別として、ほとんどの人が採用しない選択をした人ということである。憲法25条の1、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2、国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 を読むと、どう考えてもホームレスに人がなってしまって、貧苦にさらされたり、ホームレスではない他の人間がホームレスの人を襲撃するようなことは間違えていることなのだが、ほんの少し前も、釜ヶ先の労働者と地元の警察が喧嘩になっていることが、生田さんのサイトで知ったが、テレビや新聞はそんなに大きく取り上げてなかったのではないかと思う。秋葉原の通り魔殺傷事件と同じ頃だったか。一般人と言われる個々の人たちの人心の荒廃、攻撃的な衝動行為も生じている。そういう人が、ホームレスの人のことを思うなどということは不可能に近くなっているかも知れない。政治家や国や自治体で働く人が何百、何千人といるかも知れないのに、なぜこのことが何十年も放置されてしまっていくのか。わが身、他人の身というが、最低限度のセーフティーネットがない社会は、まわりまわって全ての人のわが身にはねかえってくるということではないのか。人の心の延長が社会を形づくっているのだとしたら、それは全ての人々が関わっている映し鏡ということになる。塔短歌会の吉川宏志さんが、どこかで「ジンメル・つながりの哲学」を引用してなにか語っていたことがある。その資料がどこの部分だか見落としてしまって思い出せない状態になっているのだが、ジンメルには貨幣論もある。人と人とのつながりと貨幣論を考えた人だとすると、大きなヒントをもっているのかも知れない。自分自身が罪のある過ごし方をしてしまったために、ブログで紹介することしかできないが、なにか社会は今のままではいけないということは感じている。非正規労働を選択した人がそのループで苦しんでいる、使い捨てのようにされているという問題があるというのだ。自分は何度も正社員となりながら、自己都合で自ら会社から離れてきた。なんて贅沢なことをしてきたのかと罪悪感のように思うこともある。家族的つながりの無い人がお金というものも無くなった場合、ホームレスになってしまう人がいる。しかし、自分は家族のつながりがぎりぎりかも知れないがあるために、ホームレスになっていなくてこうしてブログを書いている。この立場ということに関しても、ホームレスになってしまっている人たちのことを考えさせられる。そして、多くの政治家や国や自治体の職員がいるというのに、なぜ生田さんのように支援する人がいて本まで書かなければならない状況であるのか。生田さんのほうがよほど公務をしているような感じに見受けられる。そして、政治家や公務に関わる人たちだけでなく、私の無力も含め、多くの他者の一般の人たちの無関心や冷たい心が、そういう現実を作り出しているということだというと怒られるだけなのだろうか?仏教もどうしてしまったんだろうか。葬式代金が出せないと葬式も出せないというのはどういうことなのだろうか。仏教とは葬式でお金を得ることだったんだろうか。理解しようと思ってもなぜか理解できないのが社会の構造である。個人個人は怒るところを間違えてはいないか。また怒りではなく、どうすれば、改善できるかを生田さんの文章のヴェイユのように、注意してみることが大事なのではないか。と、無力で、ブログにこう書くしかないというか、他になにもしていない自分は思う。だが、こういう何もしていないようなことだと後ろめたく思うような構造になっているのはどうしてなのかとも思っていかなければいけないような気もしている。ハンナ・アレントの「人間の条件」もまだ読んでいないが、活動と行為と賃労働とお金がどう絡み合っているのか、働くことをしない人が非難される社会であると排除されるばかるで生きようが無くなるのではないかという恐怖感、それらを解決することのできる方法とは。これは敷衍しても考えるべきことだと思うことである。科学技術を追求していく範疇の人たちと、持続型の追求型ではない生き方のできる人たちとがいて、どちらも楽しく生活を続けられる構造が求められているのではないかと思っているのだが、日本の人が考えた情報がほとんどであるが、他の人の考えを見つけて取り入れて、文章化してみたい。最低限度のセーフティーネットが、憲法25条がどうみても全ての人にあてはまっていると思える日を願い続けなければならないし、身分や立場など関係なく、それは達成のために全ての人で考えてみるべきことであるはずなのだが、企業と商品と賃金と余暇いうループの中でほとんどの人は、真冬に代々木公園でうつぶせになるホームレスの横をジョギングして通り過ぎる、親子でキャッチボールしているという現実が見えなくされている。テレビドラマだってそうだろう。男女の俳優と女優が愛し合うシーンでホームレスがうつぶせに倒れている現実は作品として映せないのである。ニュース報道とドラマ撮影は同じテレビ局所属でありながら分離しているのかも知れない。いやニュース報道も、あるものが見えていないのかも知れない。そうでなければ、こういう現実になっているはずはないのだから。自分もその中の一人である。人間は誰もが罪を負っているということである。でもそれは絶望ではない。素晴らしいことがあって、人間の絆がまだあるからこそこの人間社会は実現しているということでもある。しかしこの文章をきれいにまとめてしまうと事実と違ってしまう。公共事業をすべきだと訴える側にとっても、仕事が無くなるのは死活問題だろうが、その人たちでさえ、先にホームレスになってしまった人のことはきっと見過ごしているに違いないということに気がつかねば事実とずれるのではないかと見る。苦労している人にとっても、賃労働を基準に考えた場合は、本人より弱者のことが見えなくなってしまう構造なのである。最低限度の生きる保障というのは、ベーシック・インカムというお金での保障と、人と人とのつながりが途切れないことである。お金と心と社会構造の問題は、ものすごくそれについて努力している人がいるのにも関わらず、いまだ誰もが解くことができていない。憲法25条の「すべての国民」という、「すべての」となぜ書かれているかに注意しなければならない。最優先で大切なのは25条なのではないか。それが達成されて全ての人の心が思いやりで満たされて優しい日本になれば、世界にその心が輸出されていくのではないか。隣人の隣人と考えていけば、サラ金の人たちが暴力や脅しで人を悲惨に追い込むことはないだろうし、お金の使いすぎや、職がないということは現実から無くなるはずである。学校や職場でのいじめや、個人攻撃も無くなるはずである。そういう機械的な構造に准じるよりも、他人の救済とはなにかについて全ての人が思い至ることができる世界であったなら、今より何かが違っているはずだ。表現はタナトスではなく、穏やかなエロスになっていくのではないか。エピキュリアンというのは退廃的な享楽主義ではなく、穏やかな生活の安心感の持続だということだったらしいのである。「知性・感性・邪性」牧野昇・高尾建次・松浦陽子という1997年の本がある。邪性というものがなぜ人間に生じるかという研究も真っ先に行われていくべきことだと思う。著作から10年以上が経過していうが最新の動向はどうなっているのだろう。
2008.06.29
それから、松岡正剛さんの千夜千冊を拾って読んで一日を過ごした。どの本もなにが書いてあるのか、私は理解してないし、読んでないのだが、興味はある。中村雄二郎さんの「共通感覚論」石坂泰三さんを書いた、城山三郎さんの「もう、君には頼まない」武田泰淳さんの「ひかりごけ」、この作品や、松岡さんのサイトで知ったが、野上弥生子さんの「海神丸」、大岡昇平さんの「野火」などに、人間の極限状態と善悪ということが書かれているらしい。今これを語るのはつらいものがある。極限状態において、ホームレスか餓死をする人と、窃盗や殺傷をしてしまう人になぜ人間は分かれるのか。塩倉裕さんの「引きこもり」、この本はもっていない。高銀さんの「華厳経」、この本ももっていない。九鬼周三さんの「いきの構造」、この人は偶然について考えた人である。スティーブン・ホーキングさんの「ホーキング、宇宙を語る」、何十回も読まないとわかってこない話だ。それでもわかるかどうか。デイヴィット・ピートさんの「シンクロニシティ」湯川秀樹さんの「創造的人間」、この本はもっていない。湯川さんの物理学はさっぱりわからないが、創造論について、なにかわかれば面白そうなのだが、全然関わっていない。ハンナ・アレントさんの「人間の条件」シモーヌ・ヴェイユさんの「重力と恩寵」この本の紹介のところで松岡正剛さんが、ものすごい文章を書いている。長いが引用する。大変に重要なところだと思う。松岡正剛さん筆「ヴェイユは生涯をかけて「不孝」と闘った。そしてわずかな知らせをたよりに、ひそかに存在の戦線を組もうとした。しかし、なかなか不孝が取り出せない。取り出そうとすると、社会そのものが本質的にもっている悪が邪魔をする。善も邪魔をする。 善というものはつねにこなごなになって悪の中に散らばっているものである。だから、悪を排除しようなどとおもったら、すべてはおじゃんになる。善も悪もヴェイユにとっては同じものだった。けれども神から見れば、そこには潔いちがいがあるはずだ。 では、どうするか。たとえば悪の中に散っている善をひとつひとつ集めればいいかというと、それこそが悪に染まる。善だけを表明しようとすると、自分の中にある悪に嘘をつくことになる。どうすればいいか。ヴェイユは悪を直視することにする。そのためにはぎりぎりな自分をつくる。 そうすれば悪というものが実は単調至極なもので、いつも同じことを繰り返そうとしていることが見えてくる。悪がそういうものであることは、われわれ自身がよく知っている。悪はわれわれの中にも散っているものであるからだ。その悪を、不純なところから自分の中の純粋なところへ移し変えてみたい。ヴェイユはそれをこそ「根こぎ」とか「根こそぎに」と言った。 ヴェイユは、こう綴る。「純粋さとは、汚れをじっと見つめる力のことです」と。」善と悪ののっぴきらない関係が書かれている。人間であるかぎり、全くの善人になることは不可能であり、極悪人でさえもなにかしらの優しさを垣間見せたこともある・・・。松岡さんのいうように、悪は単調で繰り返しのようなものである。それがなぜ生じるのか?ヴェイユさんの言った「根こぎ」とか、「根こそぎ」とはなんだろう。アレントさんやヴェイユさんは女性であるが、彼女たちの考えたことと、お金と極限状況などを結びつけると、なにか人間のあり方について文章化できるのだろうか。
2008.06.29
雨模様のままだが、雨は止んでいるらしく、鳥がさえずっている。このごろ、近所に住み着いた白い猫が2匹子猫を産んで、3匹で雨宿りしていたが、なにか悲惨な感じがする。なにもしてやっていない。「対話 人間の建設」岡潔・小林秀雄を少しずつ読むうちに、ネットで岡潔さんのことを調べていたら、松岡正剛さんの千夜千冊という読書サイトに岡潔さんの「春宵十夜」のことが書かれていて、著作名は出ていなかったが、小林秀雄さんの話から入っていた。今日までで最新の松岡さんの千夜千冊では、「大乗とは何か」という本が取り上げられていて、そういう時機として考えてみたくなる話だった。内山節さんの「貨幣の思想史」がどこかにいってしまって、それを探すのにだいぶ時間をかけてしまった。松岡さんの千夜千冊から引用すると、「六道は「地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界」という六つの段階にいる衆生(しゅじょう)の境遇のことです。衆生って、ぼくたちのことだよ。これ、六凡ともいいます。この境遇にいる者たちは、何かに救われないかぎりはいつまでも六道輪廻する。先へ進めない。どこかで慈悲に出会わなければ、のたうちまわる。つまりわれわれは放っておかれれば、みんな、ひたすらのたうちまわる六道の者たちなんです。」「放っておかれれば、みんな、ひたすらのたうちまわる」ように出来ているのが人間の世界で、社会なのだ。すると、放っておかれず救済されなければ生きられないということである。そして、救済するために変身して現れてくれるのが菩薩であり、観音様であり、誰もが6つの段階にとどまることなく6つの段階の上を目指すステップがあり、「縁覚(えんがく)、声聞(しょうもん)、菩薩、仏(如来)です。」とある。人を救うのは、他者であるが、その他者は菩薩心がなければ助けてくれない。そのこととお金との関係はどうなのか。その納得いく言葉を発見したいと思う。内山節さんは、どうすれば今のような世知辛く、お金と競争で成り立つ世界に変化を起せるかと思い、「貨幣の思想史」を途中に置いたのだと思う。まず、貨幣とはなにか、それから、どうすれば、お金を離れて、全ての人が幸福を感じ取られる世界構造になるのかという想像を言葉で納得したい。亡くなられた今村仁司さんが「貨幣とは何だろうか」という本を書かれていて、今年はじめのころにざっと読んだはずだが、さっぱり身についていない。なにを読んでも自分には身につかない。身につく人にバトンタッチするしか方法がない。サッカーでいうと、すぐにパスしてゴールをねらってもらうしかない。そういうチームメイトがどこかで気づいてくれるはずだと思う。だからブログを書いていく。ただ、自分でもできるかぎりドリブルはしてみたい。もともと人間の生命があって、生きていたのにそれから貨幣が出てきて、人間がもともと生きていたはずなのに後から出てきた貨幣のせいで死ぬことまで追い込まれてしまう人間というものが、どういう事柄なのか。それを言葉で納得したい。そしてドリブルしてパスしたいということである。
2008.06.29
雨。朝から辺りは暗い。毎日新聞の「今週の本棚」で、養老孟司さんが、「地球最後のオイルショック」デイヴィッド・ストローン著という本の書評をしている。原油高から、ガソリン代高騰、食料品まで高騰などが起きているが、石油はいよいよ使える分まで無くなってしまうのではないか。先手はどこで打たれているのだろうか。危機が生じているのなら、その危機に対してどういう対処を為そうとしているところがあるのか、それを知ることができれば、そこの認知度が普及することにより、その改善のための実現は加速するのだろう。それをどうやって知るか。数々の情報が流れている中で、それをどう見極め、選択し、関わっていくか、いけるのか。自分自身はお金という段階でつまずいているので、視野がとても狭くなってしまうが、食糧や空気、水、石油、人心の感覚の枯渇がどこまでも進んでいくと、もっと生き辛い世の中に進んでいくだろう。どうしてこのようになっているのだろうか。歴史的にみると、人心の感覚については、人によってそんなに変わっていないのだろうか。素晴らしい人もたくさん存在されているのに。科学技術の複雑さにそういう良心が追いつかないのだろうか。ドブ川と化してしまった、透明だった川が流れ続ける。「対話 人間の建設」岡潔・小林秀雄という、ネットの古本で取り寄せたのだと思うが、どちらかの人の全集に入っているかも知れないが、調べていないが、どちらの人も故人で昭和40年に初版が出された本である。手持ちにあるのは、昭和53年に新装版になったものである。600円になっている。今なら1500円くらいになる量の本であろうか。それを少し読んでみた。岡さんによれば、昭和40年に初版が出た頃には、芸術にしても学問にしても、真善美に対する感受性の質が落ちてきたと感じていると書かれている。それから霞ヶ浦にしてもどこの河川にしても、どんどん水遊びできなくなるほど環境汚染してきたことが、映し鏡であるはずの人の心に反応しなくなってきているわけなので根は深いだろう。それでもその汚れをきれいにしようとする人たちの地道な「元に戻す」活動が行われているらしい。他人事のように「らしい」と書いているのは、自分自身がそういうことに携わっているわけではなく、ブログで書いているだけということであるが、「元に戻して」いるのであって、その美しさはもともとあったものである。よく読みこんでないので間違いが生じるかも知れないが、性善説、性悪説と二分するならば、天台宗の周辺では、もともと誰もが仏性を持っているとし、性善説に近いのかなと思っている。そのもともともっていた良い心が汚れてしまっているわけである。一念三千という考え方によると、人には、仏の心から悪人の心まで全て兼ね備えてしまっていて、瞬間瞬間ごとにその心がころころ変転している。心は変転するが、それが行動になってしまうと、取り返しのつかないことになる。全ての事柄は人間の心から生じていることなのであろうか。こういうことは、多くの先人が知りたいと思い、哲学、宗教、科学というような方面から調べようとしていったのだろうが、その多くの情報の中で、自分はどういう先人や他者からの考え方を受け取り、同調していけばいいのかなと、この年齢になってもいまだにはっきりしていないところである。どんなに本を読んだとしても、その本がタナトスを含んでいる作品だとすると、読むほどに感受性がおかしくなる。しかしそういう本が多量に出回っていて、自分も他者もおそらく感化されてしまっているところがある。ドブの川をはじめて見た世代にとっては、ドブの川が本当の川だと思えてしまうことだろう。ドブの川は数ある課題の中の一つであり、他にもいろいろ、私の気づかないなにかが、人生をつまらせている何かがあるのかもしれない。自分自身は今こう自分である状態であるが、他の人はもっと千差万別の今を過ごしている。
2008.06.29
祖母の耳が聞こえないというので、耳鼻科まで乗せていった。補聴器が古くなったのが原因らしい。耳鼻科はすごい人数だった。その後、家の中でインターネットを見て過ごしたが、アメーバブログの芸能人ブログランキングをみていたら小林さんという芸能人のブログがあって、あまり芸能の話題がないのでなんだろうと思って、「あいのり」に出演していた人だとわかり、それからテレビでは観たことがないのに、「あいのり」で検索して関連サイトをみていたら、一日終えてしまった。就職についての活動はしていない一日で何も進まず、一日年をとっただけだっただろうか。やらせ疑惑などある「あいのり」であるが、結婚した人が7組あるというのは、その7組にとってはやらせではなかったということだろう。最初のカップルは残念なことに離婚してしまったらしい。誰も助けてくれないということが助からないということなんだろうなと思って、それを考えていて、五木寛之さんのエッセイなどにそういうことが書かれているように思えた。このまま誰も会社に入れてくれなかったら収入が全くないということは、助からないということになってしまう。この社会構造というのは絶対のものなのか。そういうことを考察してみたい。考察する余裕?があるというのは、まだこの状態だからできることだと思うが、そう悠長にはできない。お金が無くなるということが死を結びついているというこの不思議な構造について、誰が語っているか調べていきたいのだが。「愛と経済のロゴス」などはそういうことが書いてなかったんだろうか。人を助けられるのは他人なのだ。誰か他人を助けられる自分になれればいいものを、今は逆に助けを求めている状態になっている。他力のために生きられるためには自力の活用が必要ということだろうか。人事を尽くして天命を待つということなのだが。人に紹介されたり、人からもらった本が過去からあるのだが、どちらの人とも疎遠になってしまったが、五木寛之さんの本は2人から紹介されたと思う。
2008.06.28
次に自分がなにに関わっていくか、必ず決まるはずである。決まらないということだとそれは死を意味するからである。人はしかし死ななくて済んだ分岐点というものがあるのかも知れない。それは多分に他人が関係しているのだろうか。「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説や映画が少し前に流行ったが、自分はテレビで映画をみただけだが、「誰かこの子を助けてやってくれ」という叫びだったような気がする。そういうことも、お金という最終的な救済から見ればまだ表層的なものだとしても、それから見ていけば、ベーシック・インカムの問題につながっていくと思うが、お金がもし無くても生きられるのだとしたならば、それは今よりもっと、今では不可能になってしまった、人間と人間と人間と、全ての人間間の信頼からである。本当に信頼が完全にあれば、借金や借金苦、生活苦は全部無くなるだろうと想像する。その背後に人間を包括することのできる十二分な自然があるという前提があれば。なぜ、テレビが小説が、映画が、ホラーやサスペンスなどの生命を奪う方向のことを人は好んで観るのだろうか。きっと他の人がそのことについて考えて情報として記録してあるものがどこかにあるのだろうが、自分はまだ見出していない。信頼関係というのは、決まりごとを決まりごとだと守ってしまう完全さだけからではなく、人情という許しが入っていて成り立つものであるとしか思えない。コンビニで値切るのがなんだか罪な意識を感じるのは私だけかどうかわからないが、そういう雰囲気に設定してしまう固定観念はなにかいびつなものを経済に投入してしまわないのだろうか。などが一例として思いつく。金貸しにしても、許しがないから、暴力となり、人は自殺に追い込まれるのかも知れない。弁護士や司法書士の事務所が借金問題の解決の広告を出すようになったが、私は、他人を殺した人は許されないと思うが、借金というのは、どうしても収入が無い場合、許されないと死にまで至らしめられる、その許しのない制度というか、仕組みにまで追い込まれる人間を出さないことにおいて、その金貸しの業界の分野が今にない感覚でイメージチェンジされれば、かなり自殺者は減少するのではないかと何度か書いてきた。または、ベーシック・インカムの導入により、死なずに済んだ人はかなり出るように想像する。国や自治体はどんなに苦しい状態でも税金をとられるところばかりというイメージがあり、いざとなると最期になる前に救ってくれるのかというと、湯浅誠さんが、「生活保護マニュアル」で書かれたように、社会福祉事務所はむしろ、貧窮者に生活保護をなるべく出さないように動くみたいな、怖ろしい仕組みと考え方であるということになっているらしいのである。ホームレスが存在してしまうこともそうである。それは排除して見えなくするという意味ではなく、ホームレスまでなる前に人への救済策がないのかということである。従来は、多くの人を助けるためには、公共事業や景気政策で、仕事と関連づけて人をお金というもので助ける調整をしてきたが、すみずみまで開発してきたら、それが矛盾してきた。道路建設の賛成反対みたいな話になってきた。全員を助けるためには、全ての人の人心の汚れが取れることかまたは、ベーシック・インカムの実現であるとしか思いつかない。漫画で読んだ「ホームレス中学生」にしても、助けてくれたのは友達の家族たちであった。テレビ東京には「田舎に泊まろう」という、根本的に考えて恐い番組があるが、人を包括できる自然の中にいることを前提にすれば、人を助けるのは人であり、人を助からなくするのも人である。お金への許しが無くなるところから、経済的な死への束縛がはじまる。しかし、もっとどうしようもないのは、環境破壊や食糧飢餓によって、残りを取り合いになることである。そうなるとこの世は地獄と化すであろう。今、善人だと思っている人が、お金というものの欠如を経験すると悪人に変化する人が出るごとく、環境破壊や食糧飢餓になると多くの人が悪人に変身してしまうような気がしてならない。戦争は経験しないですんでいるが、今70代から上になろうとしている、戦争経験者は極限状態のなかで、人がどう変わってしまうか、最期まで人を思いやることのできた人がいたかどうかについて経験してしまった人も大勢いたに違いない。そういうところからすると、自分は今ブログを書いていられる状態にある。一生同じ組織にいるということや、もらう賃金の量の差など、いろいろなケースがある。自分などは家族がいなかったらすでにホームレスだったはずだ・・・。犯罪をしてしまった人に関しては難しすぎて今は語れないが、生活困窮というのは、受け皿が無いということも含まれているので、自力だけで解決しない問題である。他力がどうしても関わるということである。この現象を、どうしても現実なのだが、生活は、生命に直結してしまうとしかどうしても見えない、『現実』なのだが、仏教書や経済の本やネットでも見て、なにかどうすれば、年間自殺者3万人を10年以上超え続けていき、経済苦がそのうち9000人くらいいるのではないかという事実を、どうすれば自殺者0人に限りなく近づけられるかということは、国民全員で考えるべきことかも知れない。例えば、抽選で裁判に出ることよりも、総理大臣が、国民全員に宿題を出して、「どうすれば自殺者がゼロになりますか」という提出をさせてみるということをすれば名案が出るかも知れない。拒否する人は拒否してもかなりの数は集まるかも知れない。紙だと経済的にはいいかも知れないが、環境的には悪いのでネットを使えば、可能性はあるかも知れない。経済的には働いているからお金が無くてホームレスになる不安や追い立てられて死を感じてしまうことにならない人が今はまだ多いが、そういう人たちが実は反転すると社会を一気に破壊することになる。仕事のことばかり考えているので、それで普通はいいのだが、その間に、限界状況について考えることをしなくなっているからである。これ以上考えがどうにもならないので、読書などをして、他の人の考え方をヒントにしなければつまってしまう。経済的価値にはわかりにくいものもある。例えば、3曲めに売れた歌手の1曲めの歌が売れ始めたなどということがある。その逆もある。どうすれば自分も含めて全てが救われるかというのを自分なりに一生懸命考えたことを文章化しておいたことが、実は価値かも知れないのである。この文章を1000万で書いたいという人が出れば、価値が生じてしまうというような不完全さがお金である。しかし、多くの芸術では特にそういう錯覚が起きているのではないのか。ならば、なぜお金に困っていない人だけ非難されなんだろう?お金は悪さをしても入ってしまう人が実際いるわけである。逮捕されるべきだが、残念なことに逮捕されずにいるということで、お金は正しさを絶対的に証明するものではない。それに人生を翻弄されてしまった・・・。電話がきたので、1社は面接かと思ったら不採用だった。かなり渾身を込めた職務経歴書だったので鼻柱を折られた気がした。そういうものなんだよ。と自分に言い聞かせる。これで、面接先2軒の結果待ちと、1軒の書類選考待ちとなっている。先のことはわからない。もっと違うことが書けるようになるためには、読書するということしかすぐには思いつかない。かなり書いても誰をも特定の人をわざわざ非難するような内容ではないはずだと信じて、パソコンを今日は閉じようとする。
2008.06.27
定期収入のない、このような状態だから気持ちの負担も感じるので、パソコンを閉じて、読書して考えてたいと思うが、再び勤めたら、仕事に頭のほとんどがいってしまうかも知れない。仕事をしている時期はそうだったから。最初に勤めた会社に、暴力的な先輩がいて、自分は今でも嫌いなのだが、その先輩が「愛の反対は憎しみじゃなくて、無関心だぜ」みたいなことを言われたことがあり、それをたまに思い出す。だとすると、いただいたコメントからのヒントでもあるが、多くくるスパムメールやエロトラックバックはあまりに来るものだから、最初ネットをやりはじめたころは驚いたが、今は驚きもせずめんどうだと思うだけで削除してしまっているだけだが、実は、その慣れてしまった無関心が、他人に害を及ぼしていて、自分も知らずのうちに加担させられてしまっているのと同じことなのかも知れない。例えば、楽天さんのスタッフさんたちだって、この膨大な量のブログたちを監視することは不可能なのだろう。たしかに、コミュニティー間の抑制しあうことということも考えられるが、もとをただせば、罪はやはり罪の原因をつくった人である。それに関わるのは余計なことといえば余計なことといって良い。しかし、そうすまなくしてしまうほど、実は、無関心に削除されてしまうようなものは罪が深くなっている。これはプロバイダーさんや、国や警察や自治体が考えるべき問題なのに素通りされている。川の汚れもそうだし、人心の汚れもそうなのだ。こんなことを発言してもなんの影響もないだろうとは思う。しかし、人は問題をつくって、それを解決するために、経済とお金で自作自演するものだから、環境ビジネスという、自分たちで環境を破壊しておきながら、環境を治そうとしてそれでまたお金を動かす。それを応用して、人心環境ビジネスというものが考えられると思う。環境問題の次の流行になるべきものだろう。人心を荒廃してしまった人を助けるためにお金が動き、儲かるという構造の演出である。そうなれば、人は無関心を辞めて、お金目的のために、人心が荒廃した人を救いにかかるだろう。というのも仮説である。人心が荒廃しないためにどうするかをお金目的で無く、誰もが考える状態が清らかだという感覚が保たれていれば、そういうことは起きないだろう。
2008.06.27
事実を書きにくい状態にはなっているが、このブログでこんな人も生きようとしていると思ってくれる人が後で出てくれれば、困った状態も書いておきたい。文句を言うような人に対して作られているブログじゃないんだ。ここは。そういうつらいところがあるが、今日は、ハローワークではパソコンで調べてはみたものの、応募には至らなかった。月曜と火曜の面接先2社の結果待ちと、書類選考中2社の動向に今関わっている時期となっている。土日はハローワークが休みであり、結果待ちのところなどのことがあり、またおとなしくしている2日間となるが、不安感は消えない。ネットの就職サイトをみるということもできるのだが。結婚相談会員のローンが大きいが、解約するともともこもないので、なんとか今月分を預け入れてきた。それもあってはやく転職せねばならない。こういうことを書くのも、悪意のある人も読んでいるから気が滅入るが、具体性がないとブログにならない。気軽に読んで文句を言う人間にはわからない気持ちで3年書き続けてきたのに。仕事とお金がリンクしている構造の世界に翻弄されて、四苦八苦してしまう。それだけで困っているのに、無理解な人間が罪な言葉をもってくる。重罪だと思う。オイルエレメントも交換時期になってしまい、昨日今日と出費が大きくはずんだ。悠長にしていられない。もっと面接をしたり、数多く当らねばならないと思うのだが。しかし、月曜、火曜に面接した先に関わりを持つ時期になっている。どちらも興味ある職種であったのだ。このブログは事実を書いていくだけを目指したい。疲労させるのは悪意の言葉のコメントをする関係のない他人だ。生命の危険のぎりぎりまで貧困してしまい、社会保険事務所で生活保護を受けられなかったための抗議の自殺をした人が実際何人もいるらしい。そこまで社会は人を追い詰め、黙認してしまうところだ。それははっきりしている。餓死までする人がいるのだという。そういう極限の生命を落とすまでの悲しい人生になってしまった人を思うとやりきれない。そして、そんなに余裕はないが、高齢化してしまったが、ほんとは、自分がひっぱらなければいけないし、嫁や孫をみせなければいけないようなところが出来ず、それを見つめてしまうと眩暈を起こしそうな人生にしてしまったが、家族のありがたさが身に沁みる。でも、どうなるかはわからないものだから、それでまた入社できてもすぐ辞めても、それは事実としてブログに書いて行きたい。そういうエネルギーを使い事実を書いていきたいのに、それを文句をいう無責任な他人が出てくる。そういう他人は人を見殺しにするだけなのに、文句だけ書き残す。その延長が世知辛い、ひどい世の中を作り出す。もし自分が軌道にのって、自分自身の問題はいちおう遠のいたような時期がきたとしても、そういう、思いやりの無い人間に対するなんらかの対処については、意図していきたいと思う。なにがそうさせてしまうのか。競争社会なのか。教育なのか。こんなに困った自分であっても、こちらから、他人にわざわざなにも起きてない関係から攻撃を仕掛けるような人間ではないことは、自分は誇りたい。お金という問題が重くのしかかるが、食糧や水や空気の問題にも行き着くものである。それに困っていない人が、心が汚れているというのはなんなのか。潜在的な不安からか。競争社会のため、生き残ろうとするために罵声になるのだろうか。軌道に乗っている人だって実は病んでいる場合がある。それに気づかないほうが怖ろしいことである。究極的に人を助けるのはお金ではなく人である。例えば借金に陥ってしまったほうも悪いと考えるかも知れないが、その人を死にまで追い込む、決まりへの忠実さと冷徹さと事務的な意識など、そういう構造の中にいる人間が恐い。限界状況が他人が起してしまっているということの壁について考えたい。人を救うのは人である。お金のレベルではその通りだと思う。しかし、地球上の環境破壊や飢餓の場合は、人が人を救えないことが起きてしまう。お金というものを介する範囲でさえ、人心の壁にぶちあたる。まして、地球の破壊の問題では、それ以上の混乱を生じるはず。人を自殺に追い込むのは人である。関わる人であり、関わらない人の無関心である。餓死してしまった人に対してもそうであり、社会保険事務所の前で自殺した人に対してもそうである。だが、そこまでで考えを止めてしまったら何も残らない。光が見えるところまで考察しなければ。人に思考があり、そこから実現となる。ブログという発信ツールがあり、文章化して流すことができる。なにが価値かなんてまるっきり論理的に出来ているものとは限らない。殺人場面をひっきりなしに繰り返すような映画やテレビドラマや小説がお金になったりするのだから。自分自身も悪いのかも知れない。それを踏まえながらも、決して経済的にうまくいっている人のほうが全て正しいわけでもないことも忘れてはいけない。自分の立場は変わる可能性がある。また収入の入る立場に変わる可能性は残されている。だが、変わったとしても、個人に対する恨みではなく、こんな社会構造になっていながら、多くの人はその危険性を忘れるくらい、お金というものにある意味騙されてしまっていることに対する恨みは忘れたくない。だから貨幣についての研究は少しずつ人生が残されるならやっていきたい。ベーシック・インカムという大きな思考方法は知らされている。だが、どうにも進ませることができない。エネルギーが物質化する。お金もエネルギーの塊であり、愛もエネルギーである。言葉も。だが、なぜ人間を生命を奪う方向のタナトスが、お金になる場合があるのだろうか。殺人犯や窃盗犯が捕まらない場合が生じてしまうのだろうか。この人間の不完全性に対する恨みは、自分の生活にすぐ危機を感じなくなったような時期にも忘れてはいけない。他人も気がつかない。自身の心が、発言が乱れていることを。そして環境は汚され続けていることを。ドブの川を見ていても、なんにも感じなくなってしまう。もしかしたら、その川で水遊びさえできたかも知れないのに。もう一段上を向かねばいけない。今のようなレベルでくすぶったまま死ぬなんて嫌だ。労働や生活やお金との関わりからくるすったもんだのレベルでは解けない。それを超えたところから、どうするか。それは、誰でも考えていいことだし、全ての人が考えようとすべきことである。考えようとするどころか、実は文句を言う人のほうが、人生を固定化して諦めていて、その観念に他人を固めようとする。自分の恐ろしさには気がつかない。気がつかないからやってしまうのだ。どんな精神状態だろうと、やってしまったことは取り返しがつかない。その罪深さに気づくと懺悔して恐れおののくが、それがわからないままとなる。こんな怖ろしい仕組みの中で、裕福だと思われる人がいることの不思議さがある。浅田彰さんが1984年頃に、「逃走論」という本で、パラノとスキゾということを書かれたが、1978年に、吉成真由美さんが「新人類の誕生」という新潮文庫があるので、単行本はもっと前なはずだが、「トランスポゾン世代」という感覚をかかれている。再読せねばと思う。今年の正月に読んだと思う、「愛と経済のロゴス」中沢新一さんの本もなにか考えるために再読しないと飲み込んでいなかったと思う。悪意が関わってしまう経済という、根源的な病に気づかないでお金が動いてしまうというようなことは、「生きるための経済学」安冨歩さんの本になにかヒントがあるのかどうか。読んでないし、意味がわかるかどうかも、私の頭ではどうなるかわからない。でも手もとにある。まだたくさんのヒントを載せた情報を手もとにもっていると思うのだが、それを活用しなければならない。あまりに勉強不足で、能力不足である。文句を言われたら言い返すなら論理的にもわかるが、文句も言われてもいないのに、はじめての文句を発してくるということがいかに病的なことかを、文章化して、理解したいと思っている。不可解なことは恐怖である。今日もこのブログで書いたこと、自分が考えたことは全て間違いで勘違いなのかも知れない。しかし、なんとか壁を突破したいという気持ちはある。そういう読書がいずれ人と会った時になにかお互いにヒントの架け橋になるかも知れない。まだ、自分は自分にも他人にもなにかできるような気がする。まだ自分を決定付けるのは早すぎると思いたい。希望を失うな。特に祖母や母には感謝している。世の中捨てたもんじゃないんだなって思えることが今後も出てくると信じる。
2008.06.27
夏だと肉体的にも湿気と温度で気持ちにも影響してしまいそうである。それにしてもじっくり読んだらそんなに非難されている内容でもないのかも知れないし、他人の性格もあるからそんなに強く捉えていないのかも知れないが、ブログだからなるべく事実を書きたいんだが、文句に感じるコメントの人がくると気分が悪くなって、事実が書きにくくなる。文句を言う人のために書いているブログじゃないんだよ、これは。性根の良い人と悪い人が人間にはいることがはっきりしているが、ブログは言葉しかわからないんだから、言葉で嫌悪感を感じる人は悪い人だということになる。そんな人と関わりたくない。それは誰だって同じだろう。それは、人間は誰もが欠点だらけだけど、だからこそ、お互いを思いやって、コメントは残すべきである。それと、ぐさりとはこないが、エロトラックバックは削除しているが、そういうのが氾濫していることは、いまに社会全体がもっと悪くなっていくスピードを増して、より生き辛い社会に進んでいくと思う。こんなエネルギーを費やして疲労してしまうようなことを、失業時に関わらないで欲しいものである。ところが、余裕のある人たちがそういうフォローをしてくれないものだからどうにもならない。問題としたいことから全然違うようなことでエネルギーを費やすしかない。ほとんどの人は真面目でまともな人ばかりなのに、少数の人がかきまわしてしまうのである。はっきりいって犯罪なんだから、しかるべき機関に通せば注意されることだと思う。こちらからひどいことを相手にしてしまっているなら、攻撃されるのはわかるが、こちらからなにもひどいこともした覚えもないのに、わざわざ見にきて文句を言って来るものの心理がさっぱりわからない。こういうところをもっと人間全体で考えなければ、いくら便利な世の中でもダメだ。
2008.06.27
今、本文を読み返してみたが、再就職活動とともに、文化の調べ屋のリサーチと書いているということで、リサーチしてはいたが、貯金が少なくなり、下手に動くと貯金がどんどん加速して減るというので、再就職活動のみに集中するように切り替えたということだから、自分はちゃらんぽらんなわけでもないのかなと思ってもきた。それに引越しの手伝いと、ブログ作成ではあったが、1件、文化の調べ屋としては活動したことになる。それも失業手当の申請をしたので、ハローワークには申請した。失業手当で詐欺行為などをして、3倍の返金を要求された人もいて、そういう人が何例も出ているらしい。失業手当申請をしてしまったので、再就職するまでは、文化の調べ屋のような自営に準じるようなことも控えるべきである。再就職した先がやってはいけないというのならやらないが、別にかまわないのなら、再就職してからやれることでもある。たしかに自分の非力から情けない状態ではあるかも知れないが、どうしていいかわからない状態でもある。今日いただいたコメントは自分の琴線というか、コンプレックスに触れるところだった。それを忘れてしまったわけではないが、再就職活動を最優先に意識をもっていかないとくたばってしまいそうである。でもだいぶ運命は今週動いたとは思うのだが。このごろ心が汚れてしまっているので、きれいにするための、出来事なのかも知れない。いろいろやりたいことは残っていると思うが、生活維持のためのものを最優先しないとと思う。その方向でないと、ひどいことになると思っている。でも、そこが独立できる人などには特にふがいなく見えるのかも知れない。でも、サラリーマンとして、休日に自分の好きなこともして、それらを両立して楽しく生きている人たちも多くいる。あと、コメンテーターからの自分の受け取り方も自分が小さいゆえにひどくとらえてしまうんかも知れない。真面目になりすぎているのかな。ちょっと今日空白的な気持ちになっていたので、刺激的なコメントではあった。でも、辛らつなコメントより楽しいコメントをもらっても、動くことは動くような気がしている。ただ、盗みとか傷害とか、明らかに悪いことをしている場合は、怒られて当然だと思う。そういうことのほうが怒ることなく放置されているネットの状況はたくさんあるのだと思うが、なぜ国や自治体は放置するのだろうか。弁護士とか、裁判とか、変な判例があるし、ちゃらんぽらんなのは自分だけでもないかも知れない。と、思いながらも、やはり自分はちゃらんぽらんではある。
2008.06.27
また今日も曇り。月曜、火曜と心動くような面接先だったが、それから小休止状態。辛らつな意味合いを感じる文章からのコメントをもらったので、思考が狂ってしまったが、たしかに、文化の調べ屋も休止せざるを得ない。なにしろ、外出すればガソリンが消費される。今は、所属先を見つけて、お金を得るしか方法がない。それに集中していたら、文化の調べ屋も忘れかけていた。だが、やりたいことはチャンスができれば生きているならばまたやりたくなるだろう。たしかに、自分は筋を通さないちゃらんぽらんだなということも感じる。しかし、再就職しか生活維持は無理だと思う。文化の調べ屋はあとまわしにせざるを得ない。でも、月曜、火曜と面接したところは、文化の調べ屋の活動に近いことのできる仕事場であることはたしかである。こうしていることが信念の無さと非力なんだろうな。ふと考えてみると、たしかに自分の信念の無さやちゃらんぽらんさなどでぐさりと心にくるコメントではあるかも知れない。
2008.06.27
1時から3時30分頃まで、失業手当の初回講習を受けた。国民年金の免除申請のために社会保険事務所のおじさんがきていたが、30人くらい講習をうけた人のうち、申請したのは5人くらいだった。いつ再就職できるかわからないので、月14000円くらいずつの出費は危険であるから、私は申請した。他の人は貯金で払うのだろう。携帯電話代を支払った。ちょっと金額がかさんでいたのでショックだった。しかし、これは今回は支払った。携帯が通じなくなると不便である。昨日田の草取りをしていた時に、母が昔は、車もそんなに使わず、携帯もなかったし、そんなにお金が出費しなくて済んだ。ということを行っていた。お金が必要な社会にそれからなってしまっている。昨日フジテレビで木村太郎さんが、誤解を承知で言うということで、卵の値段が上がることを、インフレという問題もあるが、通貨の量が多く出回れば、それだけ景気はあがるということでもある。と言っていた。こういう話だとかなり偏った見方にならざるを得ないだろうが、お金に困ったことの少ない人の発言だとは思う。立場立場で難しい話題である。電話はそれからかかってこず、面接した会社2社と、書類選考応募中の2社と交渉している状況。はやく生活の不安から解放されたい。在職中に、次の職場に変えるという方法はできなかった。再就職できたとしたら、この考えは続けていきたいが、セーフティーネットを国や自治体がベーシック・インカムレベルまでできる能力の無い日本ならば、家族がセーフティーネットなのに、家族まで壊そうとしてきた日本という国である。科学技術では魔法のようなものを生み出すが、もっと根本的なところでは決して頭の良い国では無いと思う。年間自殺者3万人を出し続けている国が良い国のはずがない。それでも治安の良い、水の良い国だと言われたこともあり、日本は世界一などといい気になっていた時代がちょっと前まであって、人心は荒廃し、お金が無ければ生き辛い国になってしまった。このことに、多くの人は順調ゆえに気がつかない。楽しいと思っていることと思う。自分が再就職できたとしても、この今のようなセーフティーネットの不完全な状態を、経済大国でさえ達成できないということを忘れないでいられるだろうか。直接助けてくれたのは、家であり家族であり、国や自治体は、どんな状態でも税金や保険はとろうとする。でも、今日は社会保険事務所の人がきて免除の申請があると報告にきたが、以前はこういうことはなかったかも知れない。再就職という生活維持の気持ちの安定ができたら、どこかにベーシック・インカムの攻撃をはじめたいと思う。攻撃といっても宣伝のことである。今は下手に宣伝すると出費するようだし、残念ながらこの状態でベーシック・インカムをどんどん触れ回る心の余裕がない。自分なんかなにをしてもその程度である。ベーシック・インカムにしても生活に余裕のある人からさずけられていくものだと思うが、そういう人たちは仕事とお金を商売やサービスで生み出すという考え方なので、そこに考えが至らない。『人間復興の経済を目指して』城山三郎・内橋克人という、2002年だから6年前の本の中に、厚生経済学という考え方が大切であって、失業率5%というのはどうしても出てしまう範囲のことで、失業者が救済される仕組みは保障されていなければならないと書かれている。失業が景気の問題と捉えられると公共事業となってしまうのだが、それはお金儲けしたい人がよりお金儲けする方向にいってしまうということではないか。最低限度のセーフティーネット、人が経済的貧苦で死なない社会をどう構築するかということ。パン一つ盗んで刑務所に入らなければ人が助からない社会ではどうしようもないと思う。宇宙へと飛んで帰ってくるくらいの頭脳があっても、人一人救うことのできない現実がある。ただ、今よりもっと悪い状況の時代はあったはずで、かなりセーフティーネットは進展しているのかも知れず、自分の把握不足、情報摂取不足だと思うが、苦しんでいる人はいろいろな意味で多いはずである。いまだにこんなテイタラクだが、なにか流れが上向いてきたら、なにか報いたい。願いだけでも書いておく。願いがネットに乗ることのできる時代にいる。
2008.06.26
天気はずっと雨模様。ありがたいメールがきて、返信。1ヶ所、不採用の手紙がきて、これで、書類選考で残っているのが2ヶ所。月、火の面接したところとあわせ、4ヶ所と交渉しているところ。メールしたことから、国立ファームのサイトをみたら、新人のインタビューが載っていて面白かった。そんなこんなで、あと昼食を食べたら、ハローワークに向かう。
2008.06.26
かなり雨模様に近い曇り。気温も低い。失業手当の関係でハローワークの指定日。いざお世話になる可能性があると失業保険も有り難味を感じる。だが失業保険はほんとは自己都合ではなく、会社都合で失業をよぎなくされてしまった人のための意味合いが大きいのだろう。月曜に面接した社長が教えてくれたと思う。自己都合でも会社都合でも同じような意味合いの失業保険であっても良いだろうか?構造に人間は規定されていくが、その中でも守ろうとする人と抜け道を探そうとする人に分かれてしまう。今朝の毎日新聞にも、グッドウィルの廃業はじめ、人間の悪さみたいな話ばかりの連鎖である。社会面にしても良いことをトップニュースにできないものなのだろうか。ただニュースが報道されるばかりでなく、なにかそういうことが起きなくなる方法とはどこにあるのだろうか。解決しなければ、無意味ではないんだろうか。ベーシック・インカムも実現しなければ全て無意味だ。どういう方向から、突破口が開かれていくのだろうか。働かせてくれるみたいなニュアンスのところなのに、応答を逃げ腰にしてしまったところがあり、そんなに悠長にいられる状態ではないのだが、逃した魚みたいになってしまうかどうかまだ不明でもある。自分自身の生活維持が保障されている状態の上でのほうがいろいろなことがチャレンジできると思う。ものすごい人は、大きな借金をしてでも挽回してしまうが、それは結果論で成功した一部の人が紹介されるわけで、失敗して悲惨なケースになった人はなかなか紹介されないのかも知れない。社会の意識は大きくテレビを筆頭とするマスコミの情報選択の影響の真似だろうから、社会の意識のイメージチェンジというものが必要なはずである。定期収入が入っている状態だろうが、入っていない無所属の状態だろうが、書く文章については同等である。立場で意見が変わってしまうというのが悲しいところだが、立場もモチベーションとして左右はするが、本来は直接関係しているわけでもない。作家さんたちだって、掲載してお金をもらってなければ同じ状態である。書いているうちにまたまとまらなくなってきたので、ここら辺で書くのをやめて、今日は、失業手当の手続きを中心の一日。自分の保身のことばかり考えているから先を進み辛く自らしているのかなということもあるが、小心でびくびくしているということはそれだけ本気になっているということでもあるかも知れない。
2008.06.26
一昨日、昨日と面接をして、書類選考の3社は今日もまだ結果がこなくて、小休止中。朝は、母から田の草取りを一緒にやるよう言われ、2時間くらいで終わるかと思い、その後あることをしようと外出しようとしたが、田の草がとり終えるのに4時間以上かかり、終えたのが正午前になってしまったため、今日は外出を控えた。明日は失業手当のための手続きのため、ハローワークの指定日になっている。母の話だと今年は日射不足で低温で、稲の苗の成長が遅く、除草剤をまくのが遅れ、雑草が生えてしまったらしい。ぬかるみからの歩行は負荷がとてもかかり、運動不足は解消された。極端に良いほうに考えようとすれば、もし前職でルートセールスをしていたら、母親がひとりで田の草とりをしていたと思うので1日かかってしまっただろうが、2人でやったので半日で終えた。自分はこうして外出を控えたが、母は祖母と午後は畑の草取りなどをしている。私はしっかりしてないが、家族はしっかりしている。昨日は、面接のあと、携帯電話の故障がなおったからきてとドコモに言われ、交換終了。そこに茨城新聞が置いてあり、年間自殺者が3万人を超え続ける日本社会について書かれていた。私も生活維持のお金がどこかでもらえることになったら、それらの改善策についてもっと活動してみたい。今は下手に外出するとガソリンが減るだけになってしまう。まず、自分の安全が確保されてないと、いろいろなことはできない。もったいない日々といえば日々だが、運動不足は解消されたし、きつかったが、田の草とりは良かったと思う。自分のように自己管理ができづらい人間は、祖母でも母でもいてくれて感謝する。これが一人暮らしになってしまったら自分はどうしようもないかも知れない。一人暮らしをしていたことは何度かあるが。やはり人は一人では生きられない。企業にしても、一人で無いというところからのスタートとなる。一昨日面接の面白い話をうかがった社長から宿題メールの返信がきて、うれしかった。また返信した。便利屋の社長もそうだし、今回の失業が無ければ出会えなかったかも知れない人たちもいて、そういうのがもっと長い目でみられるなら人生の不思議さに入っているのかも知れない。生活維持のお金さえまた入る状態になれば、また新しいステップをいろいろ試せると思う。まだ人生終わっていない。その気持ちはキープしなければいけない。今日は、働く日々は再びやってくると信じるが、そうなると読書時間は減るので読書している。明日はまたハローワークへ行く。前社が失業手続きができるための条件を1週間満たしてなかったので、前々社にまで離職票をもらうことになってしまったが、今日届いたので、明日もっていけば正式な届けになる予定。その間にも動きがあると思う。乾為天という、全て陽の卦が今日は出た。この卦は動かないほうが良いというほうの意味合いの卦ではある。こういう社会交流がない時期に、スピリチュアルな本を読んで、瞑想的にうつらうつらしながらなにか感覚を得られないかなと思う。または読書してなにかインスピレーションがないかなと思う。なかなかそういうことにあったためしはないが、また勤務するようになると意識がだいぶ違うことばかりになってしまい、昼ごはんも10分そこらで動き続けるようになってしまうこともあるので、今日はあせりもあるが、観念している。祖母や母がだいぶ年をとってはしまったが、畑にいる状態で、また自分が再就職すれば水道光熱費代は私が再び払うということだから、それを目指して、今日は観念させてもらう。この失業中のテーマがこのブログというか、自分の人生全てではなく、またテーマは変わってくるはずだから、こういう時期は何度もあったにせよ、今回もこの感覚に浸り、無駄にしないようにしたい。スピリチュアルな本などに書かれているが、無駄な日々はないらしいのだ。自分にはあせるという精神面の弱さがあるのを重々体験している。ホームレスになってしまった人や、生活保護を拒否され福祉事務所の前で抗議の自殺をした人や、餓死してしまった人のことが浮かんでくる。しかし、自分はまだ祖母や母のおかげで、(本当は保護するほうだろうがと言われるだろうが、またそういう時期はやってくるはず)ぎりぎりでガソリン代など極力使わないことを目指してハローワークと面接先を行っている。この先少しでも、自分の生活維持がみえたら、この日本のセーフティーネットの欠落を生み続ける、政治家や官僚をトップとする、大企業からも含める全体の、経済最優先主義になにか一石を投じてみたいという気は一生捨てたくない。ほんの少しだけ、影響が見られるところまでとてもいかないが、ベーシック・インカムの紹介だってしてきたわけだから、力を発揮できる、できない時期があるが、生命があるうちは、そのチャンスはずっとうかがい続ける。すごい人はこんな時期でもそういうことに関わってしまうのだろうが、それこそそういうことをもとに大変身してしまうのかも知れないが、自分にはそれができないのだから、チャンスは後にうかがう。政治家や官僚はダントツの秀才はずっといても、天才はいたことがないだろう。ベーシック・インカムを実現することのできたプロジェクトチームの人々が出現すれば私はその人々が政治家や官僚の天才だったと評価できると思う。今の人たちには一人もいないのかも知れない。それを政策にはっきり掲げている人をいまだ聞いたことがないからだ。キムタクのドラマ「チェンジ」も奇想天外な政治ドラマだと少し話題になったが、天才の総理大臣でもなんでもない。キムタクのドラマにベーシック・インカムを採用したなら、天才だとはじめて評価しようと思う。そういうことができるほうが本当の根本的政策だと思う。ベーシック・インカム賛同の人たちに今日もなにか変化がおきるように期待するしかない。暴動を起したりする人たちも天才でもなんでもない。ベーシック・インカムを実現できた人を天才だと思う。
2008.06.25
晴天で暑い日になった。もう当分暑い日々が続くんだろうか。面接に今日もいった。自分の悪い面が出てしまったかも知れない。大失敗かも。リアルタイムで具体的に書くのはエネルギーがいるため、曖昧に書き残す。昨日のほうの余韻がまだ残っていて、インパクトがあったなあ。でも難しい話といえば難しい話だった。変化するのが恐い感じ。
2008.06.24
ある会社でお話をうかがってきた。刺激的なお話をうかがい、なにを言葉にしていいか出しづらい。働くとはなんだろう。年齢とはなんだろう。お金とはなんだろう。のようなお話を聞いた。私がいかにふにゃふにゃしているかを、お話していただいていたら感じ、恥ずかしい感じもする。そう感じることもふにゃふにゃだからだろうか。宿題を出していただき、メールにてリポートした。その宿題で出会えた人もいたが、とても素晴らしい返答をいただいた。刺激を受けた日だった。この先どうなるかわからないが、明日もまた別の場所へ行き、お話を聞きに行く。明日は今日よりも遠いところのため、今日よりも早く外出する。
2008.06.23
10時半から面接があり、9時20分までには外出予定。雨だという予報だったが、朝は晴れ間が出ていた。6時に目がさめたが、うつらうつら8時まで引き伸ばしてしまった。それまでいろんな夢をみたような気がするが、忘れてしまった。しかし、起床前の夢だけはっきりと記憶に残ったので、書き残す。タレントの西田敏行さんとタクシーに乗っている夢で、西田さんが降りようとしたところに西田さんの胸が痛み出して、降りずにたぶん病院に向かう夢だと思う。場所が自分の家のそばのイメージで、次に自分が降りる順番だったのだが、夢だが、西田さんの手が触れると胸が痛いというときは手が冷たくて、やがて痛みがおさまると、手もあたたかくなっていた。音声も絶対医者にいったほうがいいです。と自分の声や西田さんの声もたしか聞こえたと思う。運転手は後姿だけみえた。そういう夢だった。新聞をさっと読んで、朝食を食べ外出しよう。
2008.06.23
テレビ東京で自給自足をする人たちの番組をやっているが、すごい人たちがいるものだと思う。実際そういう人たちがいるもんだな。京都大学を卒業して一人で有機農業をする30歳の女性や、9年追跡した伊豆から新潟に移った家族、その次男は中学卒業後、一人伊豆に戻った。など。すごいな。
2008.06.22
2002年にすでに、神野直彦さんが「人間回復の経済学」岩波新書の中で、「本書は、財政社会学的アプローチから、人間の全体性をおしつぶしてしまうような現在の構造改革に異議を申し立てている。というよりも、構造改革の背後理念となっている主流派経済学に異議を唱えている。正確に表現すれば、精緻に組み立てられた主流派経済学の理論的前提と現実との総意を無視して、それを現実に無批判に適用しようとする俗流経済学に異議を申してているのである。人間が利己心にもとづく経済人だという主流派経済学の仮説は、人間のある側面を純化した理論的仮説にすぎない。人間が経済人として生きなければならないという行動規範ではない。人間は悲しみや苦しみを分かちあい、やさしさや愛情を与えあって生きている。ところが、いつのまにやら、その理論的前提が、人間は経済人として生きなければならないという行動の規範に仕立てあげられている」とある。企業という人を受け入れる側の考え方が、経済人的な、エリート的な、うまく仕事をできる人優先という方法をとるものだから、それを受けてもらえなければ生活の糧がストップしてしまうほうは路頭に迷うことになるが、その選抜する側が、経済人を行動規範にしようとしてしまう、反人間的な、精密機械のやることを人間に与えようとしてしまうことが、どこもかしこもやってしまおうというところから、あぶれる人が出てしまい、社会も殺伐としてしまうのだろうか。そういう場所に耐えられる人間と、そういうタイプの生き方が苦手というか、嫌な人もいるのではないか。それを、仕事とお金というリンクが一元化してしまっているので、年間自殺者3万人を超え続けるという数字にも現れ続けている、生きづらさが、克服できない社会なのではないか。湯浅誠さんが、人を人と思わないような労働条件にしておくと、結局は経営側の弱体につながるというような意味あいのことを言っていたと思う。企業には、家庭まで壊してしまいながら働きつづけるようなタイプの怒りんぼがいたりする。そういう病的な人が他者の人生を苦しませる。だから、企業中心社会ではない、多様化した生き方のできる方法をもっと考えなければ救いはない。江戸時代から明治維新で外国の考えが流れてきてショックをうけたくらいの変動を見せないと反人間的な仕組みからこぼれ落ちる人を生じさせるばかりではないのだろうか。お金があればコンビニ的に生きられるという社会構造だけでは実は危険でお金が無くても生きられるという社会のほうが人間はもっと安心である。そのためには、企業社会だけの関係の人間の集まりではなく、違う生き方のできる多様性の社会の実現が必要である。その具体的な方法をどう考えていけばいいか。多くの他者の考えに実例が残されているのではないかと思う。それをもっとインプットして、このブログなどに紹介していければいいが、それができていない。神野さんはこう書かれている。「人間の夢と希望を行動基準にし、人間の社会をより人間らしい方向へと、社会のハンドルを切っても、社会は機能する。悲しみや苦しみを分かちあい、やさしさを与えあっても、モラルハザードなどはたらかない。」そういう社会のイメージを2002年にすでに書こうとした書物がある。「人間が人間社会をつくりだす」自ら、社会のイメージを変えていくということのほうが人間なのである。選択には自由があるとするならば、よりよいものを求めていく気持ちならば、今後楽しいことだって起こるかも知れない。40代や50代、60代のほうが転職が苦しいということを、事実として固定してしまうのではなく、そうではない社会を自らイメージして、そうではないように持って行くほうが人間の考え方として正しい。ニートが長い人や、転職が多い人が、企業からよく見られないというのは、企業側の人のイメージの固定観念だとして、イメージを変えていくなら、浅田彰さんが「逃走論」で書かれていたスキゾフレニーな生き方は決して消滅してはいない。そういう考えを過去のものだとして批判だけしているような批評家は知っていることは多いが、理想がない。自ら社会通念を変えてやろうと思うような人が多くなれば、正しいと思われていたことのほうが固定観念だったことになってしまう。それくらいのやぶれかぶれの元気が、何歳になろうとあったほうが楽しいような気がする。三浦雄一郎さんが75歳でエベレストに登頂することに感動するか、馬鹿だと思うかの違いは大きい。その人間の感性がどちらへ向くかではないか。経営者側のほうの固定観念が、社会のレールに乗っている人たちのほうの保身的な固定化のほうが、多くの同朋を苦しめている。スキゾフレニーの人が多く生きられる社会構造に転換したほうが、面白い社会になりそうなのに。生活倉庫の社長さんとか、オーケーウェイブの社長さんなどは、ホームレスから社長になってしまった人でもある。多様化した生き方ができるように、誰もが考えていけば、イメージは覆されるのではないのか。そういう希望を抱いて、明日からまた新たななにかを探しにいくくらいの感じでいてもいいのかも知れない。考えすぎてしまうのが無駄なのかも知れない。ただ、誰もが生きることが楽しいことを目指すということは正しいことだとするならば、私だって今後も楽しい生き方を望んでもいいはずである。楽天的に自分の考え方をしていかなければ。
2008.06.22
周囲と状況と立場・現状、それに過ぎ去る時間の感覚の速さ。その中で何をしているか。なにが与えられているか。くるのか。これから無数といえば無数なくらいにも思い様な分岐点がやってきて、そこからどうなっていくのか。その進み方によって、過去の意味も千変万化していく。その前に今という時をたっぷりいとおしむことができるようなら、もっと、世界の動きがゆっくり止まるくらいに見えてくるのだろうか。時間と生活のためのお金のことについては、切り離されない間柄にある。しかし、もっと自分がそれをクリアできるような人間であったならば、人心の荒廃と自然環境の荒廃が同時に崩壊の危機に立たされているということのほうになにかしら向けられたかも知れないのにと思う。情けないといえばそこが情けないのだろう。だが、なにかしらしている人の行為が自然環境を破壊し、他者の人心を傷つけているという思わぬ返しもあるかも知れない。なんのために生きるかは、なにをすれば全体に溶け込めるのか、全体の善に向かえるのかというところも分岐点からどう向かうかについて脳裏においておかねばいけないことだ。と思わねばいけない。20代でも老人より希望を失ってしまっている人もいるし、その意味では年齢は関係ない。他者を敬えない企業戦士は山ほどいるはずだ。もっと生き方の多様性が生じないとこのままだとつまるだろう。お金の量が他者よりも残るだけの人というだけの人ということもあるのかも知れない。実際はわからない。どの企業にしても、表向きは他人のためになるということで存在している。その中で、しつこいノルマが渡されて、お客さんを無理に動かしてしまうということも生じている場合もある。もっと見てみなれければわからない。装飾だけでは人はわからない。大企業が多くの周囲やお客さんを喜ばすことをしたとしても、自然環境の破壊やホームレスを生み出し続ける土壌にいる限りは、一緒である。だが、非難されないところはされずに、華やかな思いのまま、交わることはない。ということを考えて書いても、それは単なる嫉妬にすぎない・・・のだ。その嫉妬心を消すためには、嫉妬かなにかわからないが疑問に思っていたところと同じレールに乗らなければ消えないのだろうか。それだけなのか。多様化した生き方とはなんなのか。そして多様化した生き方というのはしかし自分だけで創造できるものではないとしか思えない。自分の思いに誰がそういう生き方に関わってくるのだろうか。そのうちのほんのわずかでも、なにかできるのか。そういう思いから、なにかまた周囲に関わらせてもらいたいと、生活維持のために思う。仕方なく?いや、そこから面白いなと思える日もあるかも知れない。そういう繰り返し。繰り返せなくなったら死が垣間見えてしまう。社会の仕組み。なぜ、社会の仕組みがこうなっているのか。人間の仕組み。生命。ほかにこういう仕組み以外なかったんだろうか。人によっては、仕組みなんてこうしてあるんだから、考えても無駄なことだと、現状の社会の上でのレールにうまく乗ることに頭を使うだろう。しかし、それだけでいいのか。という思いが残ってしまうから、こうして文章化してしまう。多くの人が愛を求めるのは、言葉でいくら考察してもわからないけれど、本能でそれが生命維持のために大切だとなっているからだろうか。生命維持?生活維持?生活のために他者を道具のように使おうとしてしまっているのだろうか。例えば家族からいくら巻き上げようとするのか。いや、自分がまたレールに乗ったら、逆に家族に与えることができる。それを敷衍すると、家族があり、また別の家族があり、また別の家族があり、その全ての係わり合いの中で生活が動いている。人体が血液によって潤滑されているように、なぜ社会構造はお金というものがその比喩のような感じなのだろう。アメリカのピストルや、日本の通り魔のナイフは、他者の血を流してしまう。社会構造のお金と人体の血という類比はなにか暗示しているのだろうか。それならば、お金に対する、ピストルやナイフとはなんなのか。どうすれば、他者の血を流そうなどという行為が無くなるのだろうか。社会構造が潤滑させているのは、実はお金だったのか?人間関係の思いやりではなかったか。その類比で考えると、思いやりを流そうとしてしまうのはなんなのか。別の方法とはなにか?血液が体内に流れている状態は、健康。思いやりが社会に流れている状態は健康。いったいなにが足りないのだろうか。答えはでないだろう。問題設定さえ間違えているかも知れない。しかし、自分が生活維持のレールに再び乗れた後には、また、きっと、仕事のことばかり考えて、こういうことは考えなくなるに違いない。でも、少しはなにかできるだろうか。お金が入れば、今の状態よりはなにかすることの範囲が増えるかも知れない。実際、意見広告を出したり、いろいろやってみたことがあった。再びできるか。そしてもっと過去よりも考えて。企業からの面接では、意地悪な質問さえ受けることがあるとすると、そのトラウマから、それをいつの間にか真似せずに、そういう面接官みたいなことはする人間にはならないで優しさを保ちながら生きるということができるだろうか。企業側のほうが聖人であるということでは決してない。お金と生命維持がリンクしていることが、個人の人生になにを表わすのだろう。そうは考えても実際、お金がなければ考えることもできなくなる。誰もかれも全ての人が結局、お金が欲しかっただけじゃなかったのだろうか。しかし、お金を離れても好きなことというものがある。それが一致している人は、好きなことをしてお金が入ってくる人もいる。「単純な成功法則」で良い出会いに出会うことが幸せへの秘訣というわかりやすい真実をといた中島薫さんが「お金の哲学」という本を書かれている。なにが書かれているのだろうか。時間という人間の老化や死につながる、またこの人生の時期にやっておかねば取り返しがつかなくなるということへの危機感と、お金という老化や病気と違う面からの死までもたらしてしまうかも知れないものがなぜあるのか。考えてわかるものなのか、他の人はどう考えたのか、資料不足だが、なにか突き止められるなら突き止めたい。お金や時間に満足できる状態になってもそういうことを考えるのだろうか。人は満足した状況にあるということは、他者の不満足な状態を忘れている瞬間だったりする。でもそこまで余裕はない。まず自分を保つことが先決だとしか思いようがない。そういう自我が、我欲が、自分をつまらせてしまうのだろうか。
2008.06.22
明日からまた面接をして、生活を維持するためのお金をもらうところ探しである。土日の小休止もあっという間である。この小休止をなるべくいれないうちに再就職したほうが、今後もなにか新たな展開ができる可能性が増える気がする。というより、この状態ではなにも力量のない私にはできそうもない。こういう状態からでも、仕事を立ち上げてしまう人は、とても自分とは違う人なのだなと降参するしかない。自分の現実をみないと、みずに突っ走っては崩壊してしまう。だから、面接のある時に集中するしかない。田舎に住むという位置から制限されることもあるが、そこから移動する気もない。ところが、多くの人は家から離れて、仕事を選んでしまう。それを夢という。たしかにそうかも知れない。しかし。かといって、都内にいようとぴったりの仕事だと思うものに出会うとも限らないかも知れない。だが、田舎にない職種も都会にはある。そう思う繰り返しのまま覆せない。こういう前置きはもう書いても仕方のないことだろう。単なる繰り返しだ。面接した事実だけ書いていけばいいのだろう。余計なことばかり書いてしまっている。繰り返し。「時間を哲学する」中島義道著を少しずつ読み進める。人は言葉を知ってしまうから、時間も知ってしまう。そして自分が死ぬことも知ってしまう。しかし、その自分が死ぬことをしってしまう元になった時間というものに追われて生活する。とても矛盾しているような話である。自分の存在を意識するということが、人間の特権である。人間はふと、生活の忙しさにまぎれ、自分が死ぬということを全く忘れたかのような日々を送ることがある。いや、そうではないのかも知れない。一時、忘れているような錯覚を持つが、人はお金をもらえる立場を紛失したときに生存の危うさを直接感じる。だから、脅迫的に働くことで、社会構造的には背後に寄り添っている死から意識を遠ざけようとするのか。もう少し考えると、なぜ他人が、そのまた他人の死に対して、これほど無関心な時代がきているのかが、見えてくるだろうか。ホームレス、ネットカフェ難民まで、すべり台社会に構成されてしまったこの現実の時代の他者の無関心とは一体どこからその精神構造がくるかということ。おそらく、経済のトップクラスの人たちや、その周辺で働ける人は、一瞬は社会不適応な人たちの情報をかすめるかも知れないが、そういうことは考えることもないだろう。そこに断絶がある。考えるべきはまったく受ける側からは都合よく聞こえるかも知れないが、やはりめんどうを見てくれるほうの側である。そちらの側が自らの保身ばかり考えていて、奴隷のように受ける側を利用するという考え方の人たちであったのなら、人々は苦しむ。そして、多くの人が苦しんでいるという事実は何を表わすだろうか。
2008.06.22
外は雨降りになった。「雨宮処凛のオールニットニッポン」をようやく読了したが、この本は示唆する内容が多い。AKIRAさんというミュージシャンが、日本のシステムは人と競争させようとする最悪の出会いになっているから、心を病む人が出てしまうというようなことを言っている。これは世界で特殊なのだそうだ。雨宮さんがベネッセなどが、高校生に生涯賃金がこれだけ違うんだから良い会社を目指そうみたいなことを言うらしい。そうではなく、誰もが幸福感を得られる社会にするにはどうしたらいいんだろうと問い掛ける企業などが無いのだろう。企業の視点が狭くよりよい正解が導けないほうで止まってしまっている。企業という方法には限界があるんではないのか。雨宮さんが「あとがき」に書いてあるところを引用するが、よく気がついている内容である。「今、この国では、やたらと即戦力ばかりが求められる。就職で求められるのも即戦力、求人誌に踊る言葉も即戦力。しかし、生まれながらの即戦力なんて一体どこにいるのだろう。現場で失敗し、怒られ、ときにはモメ事を起こし、そしてときには逃亡しちゃったりして人は学んでいくのだ。そういう余裕が今、日本の企業社会から完全に失われた。」「今、この国では自己責任を過剰にとることが美徳とされ、何か条件つきでしか存在を許されないようなことになっている。生きる価値がある人間とない人間とが、日々無情にも選別され続けている。」「役立たずだって、ニットだってフリーターだってホームレスだって、生きてたっていいじゃん。存在していいじゃん。条件満たしている必要なんてないじゃん。っていうか、社会に目を向ければ問題がたくさんあるじゃん。そっちを責めずに個人を責めたって、みんな心を病むばっかじゃん。この視点は、今の日本から急速に失われつつある」こういう文章を目にして、社会になじむのが苦手な人も働き口を探して生きていかねばならないところが、そういう大切な働く場所が競争主義やノルマ主義のため殺伐としているところばかりだと、よけい弱くて優しいタイプの人がいられる場所が少なくなるのだということをうまくやれる側の人が意識しないと動かないとも思う。企業も、国立ファームの高橋社長みたいに、例えば、文章が好きな女性に、そんなに文章が好きなら書いてろといって、広報課への所属としたなど、智恵が動かされている配置である。サイトをみると、過去にノウハウの無い人を何人もまとめて採用している。これも競馬みたいなイメージで誰が辞めていくかという紹介にしてはあるが、これで残っていけば、他企業へのヒントや、みている人の勇気にもなるし、まとめてそういう人を採用しているのは、企業がそういう救済をしなくなっていることへの反対のことをしているという意味も感じて、それでも面接で落ちる人もいるのだろうが、人のことを考えている企業なのかも知れないと思える。お金の出所から運命は左右されてしまうのだから、思いやってもらえるところに出ていったほうがいい。そういう場が少なくなってしまったのかも知れない。家族的、ゲマインシャフトと、お金の目的で集まることがスタートの(その中でも他人ながら家族的なことはあるとしても)ゲゼルシャフトの兼ね合いの問題が問題なんだとはずっと思っている。またこういうことを書いてしまい、頭はこういうところから離れられない。生活に密着することだからだ。瞑想が雑念を振り払うことで、真実を垣間見るというなら、仕事とお金が密着しているという構造は一体なにを垣間見ることを妨げているんだろう。
2008.06.22
降ってはいないが、連日の雨模様である。明日から面接がはじまるが、今日は小休止している。下手に動いても何もでない気がして、本やネットで昨日と同様に過ごしている。このブログを通り過ぎてくれた人の楽天ブログをチェックしてみたら、とても面白いブログがあって、それを見ていた。千葉県の会社員の人のブログである。X-BENCHMARK 下の叔母がきて、祖母と母と談笑している。今日も、GyaOで、YUKIと、ABBAの曲を聴いた。数曲ずつ聴いたので随分時間を費やした。「時間を哲学する」中島義道著を少しずつ読み進む。過去を追憶することから時間に気づくということや、過去を求めるのは原因を追求したいからであると書かれているようだ。時間は記憶の構造という面も含めて考えるべきものか。今朝の毎日新聞から、殺人事件の時効が25年とか書かれていたように思うが、日本の時効の法律は変だと思う。人を殺したことの罪や罰が26年たったら、おとがめを受けなくなってしまうなんてことは間違いで、罪は永遠なものではないのか。人の生命は戻らない。経済学だって、今朝の毎日新聞の書評で、アダムスミスの「道徳感情論」と「国富論」のことを書いた新書が出たとあったが、経済は人間の感情が左右するものなのに、経済人という合理的、効率的に動くような人を仮定したはずのものが、実際にそういうことを起してしまおうとしてしまう、勘違いしたロボットを目指すような不自然人間がその不自然さを武器に凶暴化して人間の全てのバランスを壊して、勝ち上がってしまう構造ではないのか。「時間を哲学する」の中でも、仕事をして生存しなければならないために、平均をとって、直線的に算数が教育されているような話が挿入されているが、直線的に把握するうちに細部の思いやりが関わるところが捨てられてしまって、感情も感覚も血も涙もないロボットのような人間になってしまったような人が経済を動かしてしまうという例がさんざんあるのだろうか。「雨宮処凛のオールニートニッポン」を久しぶりに読み進めたが、雨宮さんがそういう世代でもあり、赤木智弘さんもそうだが、不況で就職できた人とできなかった人にわかれたことの怒りが随所に現れているが、私の場合はバブル期最後の就職で、就職難ではなく、逆だったが、転職をしていったということで、立場が違う。しかし、そういう人もいるはずで、自分の背負ってしまった贖罪のテーマは、一つの職場に留まれず経済的に苦労してしまうことと、現在のぎりぎりのテーマとして、家族の絆である。また、経済活動によって、結婚などの人生の時期のテーマが翻弄され、かく乱されてしまうというところである。雨宮さんたちは、世代論みたいなところが入っているが、杉田俊介さんが、世代でつるむこととはまた違うと書かれていると思う。杉田さんが、湯浅誠さんについて言及されていて、湯浅さんが、「格差でなくて、貧困を問題とすべき」とされていることや、貧困は自己責任の外にもあるんだとはっきり言えることなどを認識するように言われていることなどだが、適確である。貧困の時のセーフティーネットが不完全なのだ。それはむしろ、経営者だけでなく、うまく働いている人にとっても実はつきつけられる問題というと、このブログは読まないほうが安心だということになってしまう。宮沢賢治などが法華経思想の影響で、全ての人が救われなければ、自分は満足しないと思いながら生きていたとどこかで読んだかも知れないが、普通の人は自分のことで精一杯でそこまで目配りはしないし、そういう余裕はなくて普通かも知れない。だが、漫画の「ホームレス中学生」の主人公がホームレス中に、仲良しの友達の家族の家に泊めてもらうことができたことで救われたような、「雨宮処凛のオールニートニッポン」にも書かれているが、昔はみんな貧しかったから、救われる面があったが、今は貧困でない人の多い中で貧困に身をさらされると余計苦しいということが書かれていたと思うが、そういうところではないかと思う。風樹茂さんの「ホームレス人生講座」には、人と人の縁が切れた、無縁地獄の時代になってしまったから、この経済大国日本で生き辛い人ができてしまったということが書かれていたと思う。就職だって、人事の人が入社させてくれる、縁によって人は助かる。それを20社も30社も50社も受けても入れてくれない場合、その人は重いトラウマを背負うだろう。人材難なくらいが人間的に経済状況は適切なのではないか。しかし、雇用のミスマッチとまで言わなくても、それぞれ雇用される側にだって、やりたいことはある。肉体労働が好きな人もいれば、事務系が好きな人もいて、その適性が逆にされたらトラウマになる。肉体労働していた人が、事務に社内転職させられ、ノイローゼになった、またその逆という例もあったと思う。だから、従業員のことを思ってくれる上部や仲間がいるところに入れたか、そうでないかが致命的なくらいの分岐点になる。良い集団ばかりあるわけではない。これはでたらめを書いているだろうか?杉田さんが、親との関係について指摘している。親子の縁、家族の縁であり、湯浅誠さんの言葉で「貯め」の違いが生じるところだ。私も、ぎりぎりではあるが、家と家族が高齢化してもいてくれるおかげで、ホームレスにまでなる事態にはなっていないと思う。ゆっくりはしていられないが。ホームレスになっている人や、生活保護を拒否されて、福祉事務所の前で自殺した人や、餓死した人が実在してしまう現在である。そこまでのセーフティーネットの無さがあるのだ。だが、この状態からでは、なにも改善に手を貸すことはできない。影響を得ることはできないが、ブログに事実を書いておくことしかできない。お金に困らない構造の中に、レールの中に入り込んでいる人はそれでいいし、余計に考えることはないのかも知れないが、その無関心が、ホームレスの人が寝転んでいる脇をジョギングするという人の絵柄になってしまっているわけである。ほんとなら、自ら生活には困らない立場にいる人がそこまでコントロールしてくれるのがほんとなのだろうが、タクシーに接待されるような人がそういう立場にいるような現実なのだから、罪人が罰せられない例はいくらでもあるのだろう。今はとても無理である。負け犬の遠吠えにしかみてくれない。なんとか生活に困ってない立場だと見られる立場になった時に、なにか他の人が無関心になっているところをかきまわしてみたいのが希望である。母から、ワクモというダニが発生する養鶏場にはなにを散布すればいいかネットで調べてといわれ、調べてみた。最初蜘蛛だと思ったくらいだが、ずいぶんたくさんネットに載っていた。もっと適確なキーワードがわかれば、違う道筋になるのかも知れない。しかしわからない。午後2時近くになった。一度アップして、読書やネットでなにか調べ続けたい。
2008.06.22
月曜、火曜と連続の就職面接の前の土曜、日曜はおとなしく家の中にいる。このところ、仕事とか経済のことばかり念頭にあったので、今日明日はそれを幾分か離れてなにか関心があったことをしてみたいと思った。といっても、ネットか読書くらいしかない。雨模様だが、大きな雨にならなかったようだ。しかし、午前中は本をかきわけていて、午後は、GyaOをみたら、川嶋あいのシングル集があり、それを聴いていた。続けてYouTubeで、Iwishの「明日への扉」を2回聴いた。「旅立ちの日に」という歌だと思うが、曲は「明日への扉」と同じなのだが、歌詞の内容は卒業の内容と恋の内容で違うが「明日への扉」のイメージが川嶋あいには強い。なんて良い曲だろうと何度聴いても思う。Wikipediaに、演歌を最初は歌っていたと書いてあり、はじめて知った。川嶋あいは、両親と養父母の4人を10代で亡くして、養護施設に通ったという大変に苦労した人生で、路上ライブをしながら、Iwishのヒットにつながるというストーリーもすごいが、「明日への扉」の美しい曲調と歌声が素晴らしい。その前に、つい最近どこかで食べていたか、歩いていた先で、ぽぽぽぽぽという歌が流れてきて少し気になっていたが、GyaOにぽぽぽが演歌でジェロを抜いて一位みたいに書いてあったので、もしやと思い、そこから鼠先輩という歌手の歌を聴いていたら、やはりその歌だった。最初は、ムーディー勝山かと思っていたが、違っていた。鼠先輩という演歌歌手というのがすごい設定だが、ブログも書かれていて、内容が面白い。よくテレビなど見ている人はとっくに知っていたのだろう。このごろまるでテレビも疎くなってしまった。昼は、日清のシーフードヌードルと、昨日ののこりの卵とじをごはんにかけて、ヤクルトを1本飲んだ。AERAMOOKの「哲学がわかる」と、「村上春樹がわかる」をほんの数ページだけ読んだ。中村雄二郎さんが「哲学はリズム」と書いてあったと思うが、ディーパック・チョプラさんもそれを別の言葉で言っていたと思うし、言葉の発音もその組み合わせによる意味もなんらかの波形の意味合いをもったものなんだろうか。チョプラさんは古い言葉のほうが意味合いと波形があっていて、真実味があるという風なことがかかれてあると思う。振動が形をつくり現実となっているならば、思考もそうだろう。鼠先輩というムード演歌の歌手を見つけたが、村上春樹の「風の歌を聴け」などに鼠という登場人物が出ている。それは読んだことがあるが、再読しないと忘れてしまっている。「羊をめぐる冒険」という本の後半がまた埋もれてしまってみつからない。「村上朝日堂の逆襲」村上春樹/安西水丸を少し読んだ。まるで散発的な統一性のない読書とネットをしていた。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」という小説が一番人気があるみたいだが、買ってあるのにうずもれて見つからなくなってしまった。「ノルウェイの森」は430万部売れた傑作だというが、随分前に読んだが、エロ小説みたいでなんか反感を持った。でも、「村上春樹がわかる」で専門家によれば、すれすれの傑作らしいので、私はこのように小説を理解できうるタイプではないのだろう。再読すれば感想が違ってくるだろうか。それで一日を終えてしまったが、後日どこかでなにかつながるだろうか。膨大な忘却ばかりしてきていて、なにを残せるのか、でもブログがあるから自分が忘れてしまっても、誰かがどこかで偶然擦れ違って、なにか考えてくれるかも知れない。現在は過去となってしまう。忘れてしまう過去とはなんなのだろう。その過去が充実するように、過去が現在のままである時が勝負なのだろう。しかし過去は戻らない。未来を充実させるしかないが、未来は今から作られる。正しいことを言っているのだろうか。日頃、生活への危機感から、仕事やお金のことばかり考えてしまっているが、それに振り回されたのかどうだか、このままでは結婚も子育てもせず一生を終えてしまいそうである。仕事とお金と異性間の愛も子孫を残すということもリンクしてしまっていて、うまくできないとこういう目にあう。(リンクしていることなのか?)自立と依存ということも多くの人が誤解してしまっているであろうが、誰も一人では生きてはいけない。どんな大企業の社長であろうとも、周囲と基盤と誰かからのお金の提供があるから生きていけるわけである。人との縁を切ってしまうところや、人と縁のつながらないところに人の生存の危機が生じる。しかし、人だけでなく、地球という自然への危機も含まれることがわかる人にはわかってしまい、末端の私にも知らされた。宇宙の中の出来事である。自らの存在自体が不思議なことである。経済活動という人間のつくった行為の中で、途中で命が途切れてしまうのは悔いの残ることである。生まれても障害をもっていたり、学習する機会のない場所に生まれてしまった人は、考える資料が少ない。インターネットまで縁があって、こうしてブログまで書ける時代と状況を持てたのだから、ここはもうひと踏ん張りして、なにかつかんでいきたい。祖母や母には申し訳ないと思うと同時に、感謝する。しかし、また良い出会いがあれば、感覚や状況は一変するだろう。こういう一時期に、集合的無意識のほうへ意識を少しシフトして、それでなにがどうなるのか、なにがつかめるのか、自分のピンとこない頭ではなんにもならないかも知れないが、「時間を哲学する」中島義道著を少しながめてみようかと思う。モノやサービスを作れる人が、お金とひきかえに生活を手に入れるという構造で成り立っている人間の世界ではある。それに翻弄されている。しかし、存在の不思議さというものは、生活に翻弄される背後に隠されている。戦争があって、戦後があって、その時に人はとても存在の不思議は考えられなかったのだろうか。存在の有り難味は今の人以上に感じていたのだろうか。言葉から推測するのではなく、身体で感じていたのだろうか。一回性の人生の、生活への翻弄と生存の不思議さの合間で、なにを見つけ出したいのだろうか。
2008.06.21
月曜、火曜と就職面接が入っていて、今日と明日はできるだけおとなしく、現金出費は動かないようにと思っている。こういう時に読書やネットで興味あることをインプットしていればそれだけ考えていてもいいのではないか。とも思う。実際、ほかに動きようがわからない。収入の得方が、サラリーしか思い浮かばない場合、就職への方向の実現性をもった動き、面接以外に、下手に動くとガソリン代がかかってしまう。ガソリン代がかからなければまた違う考えも生じるかも知れないが、田舎の場所だと自転車ででても、田畑や野原みたいなところに家が点在していて、農家が多く、どうも展開が思い浮かばない。天気も雨模様である。朝8時をまわったが、やがて降りだすのだろうか。昨日は、今回の失業中に知り合った、便利屋さんが手伝って欲しいというので、2回目の引越しの手伝いにいった。ほんとは、前回同じ日にやる予定だったそうだが、お客さんの都合で今日になった。前回は3人で、今回は2人でいったのだが、今回のほうが、体力的にはきつかった。1階と2階を物をもってかなり往復した。今朝は多少筋肉痛になっている。茨城県南と、一部千葉県あたりまでの範囲で、取手市にある業者さんだが、ブログをリンクする。便利屋ABC前職の配置薬勤務で、どうしてこんなに毎日続くのかというような、ミスがあったので、それがマイナス思考を植えつけてしまったが、便利屋さんでの2回の引越しでも、帰りにロープを忘れたり、ブログは実は作成を依頼され、必要最小限の簡単なものを作ったのだが、ジュースをこぼしたり、あるものをダウンロードしたら、ネットやメーラーにつながらなくなり、業者さんに問い合わせたり、いろいろひやひやものだったが、他の人も毎日なにか失敗しながら生きてるんだろうか。たまに外出してもまだミスしてしまうのか、私は脳がいかれてるのかなどと思ったが、便利屋さんは怒らなかったが、今日のひっこしも私の苦労の分、便利屋さんは体力的に助かったのだろうし、悪いことばかりじゃなかったんだろう。考えい方の配分を変えれば自分も楽なのだろうか。また、なにかあったら私に連絡したいみたいだったが、面接に集中したいし、引越しなどはやろうとしていることと違うなので、働き分は多少もらえたが、どんどん手伝うというようなことは言わなかった。あまり手伝うと、失業手当の申請の意味がなくなってしまう。むしろ失業手当のほうが1日分の給与として多くなると思う。しかし、失業手当が出る前にはどこか勤務していたいと思っているから、毎日のように月曜、火曜と面接をし、他に3社書類選考にかけている。このごろ、読む本も偏っていたが、故いかりや長介さんの「だめだこりゃ」を読んだ。「8時だよ!全員集合」から、晩年、渋い演技の俳優として、かっこいい老人の頂点の姿の頃に亡くなった感じだが、仕事に生きた人ということだ。検索すると、キリンラガーのコマーシャルでベースをひく姿が動画ででてくるが、渋さがありかっこいい。8時だよの長さんの頃より姿がかっこよく見えるところがすごいところである。ドリフターズに入るきっかけの前に、自動車事故を起し、前の所属との関係が少し冷えた感じになったことや、なにげなく入ったことが人生を決定していくこと、仲間に注意しすぎて、ドンキーカルテットの4人が脱退してしまったり、と示唆深いようなことがかかれている。知っていたことが長い年月の中で、忘れていることが多いものだ。過去に知り合った人の中にも思い出せない人が何十人もいるのだと思う。いかりやさんの本を読んで「すわしんじ」という人がいたのも思い出した。知っていたのに、記憶に出てこない人が、記録により思い出される。そしてまた思い出せなくなる。こういうことも人生の不思議である。生活技術の習得と記憶の強さがあると人生はいきやすいという仕組みを人間はもっている。どちらも、習得せずにここまできてしまい苦しんでいる。できる人にはなんでもないことが、できない人にはできない。できる側、人を救える立場にある側が、どう出るかで、救われる側の幸不幸は決まるのか。漫画図書館で、マンガの「ホームレス中学生」を読んだ。たしかに涙が流れる話である。夏休み中に、差し押さえで一家離散になり、公園に1ヶ月くらい寝泊りしたことが書かれていたが、親友が偶然みつけて、事情を知り、その家が泊めてくれたことなどで助かって、今芸人として活躍されているのだと思う。実態は、お金が人を助ける究極のものではなく、(都会化されるとかなりお金が人をある程度以上に助けてしまう構造みたいにどうしても思えてもいるが)人間関係が人生の究極の助け合いである。しかし、その人間関係という究極の人が全て生きるための構造が、仕事によるお金の交換という意味合いを強めすぎてしまったため、本来誰もが支えあうはずのものが、形骸化し、排除されて生命危機をもたらす人が出てしまうようになった。お金を捻出できる人と、できずに、捻出できる人に関係する人がいるという差異がどうして生じてしまう構造にこの世はできているのだろう。ディーパック・チョプラさんの本に書かれていたが、鳥が集団で飛んで行くスマートな形はとても不思議なもので、シンクロしているものだというのである。誰もが、自分自身も、過去の流転などよりも、今後の素晴らしい人との出会いに期待したほうがいい。それは、自分のやりたいことに通じていなければ、周囲を裏切るというか、また去ってしまうことになる。言葉でどうしても差異化してしまいたいという欲望が消せないところが哀しみなのかも知れない。ましてブログなどというものが開発して得られてしまう時代に生きられることになった。いずれまた社会に入り込んでいくことはしなければならないことである。この所属の無い時になにか、神秘的な本や仏教の本なども読んでなにか違う感覚を覚えたい気もする。本来の根源を感じるためには瞑想がいいそうだ。生活とお金のリンクという構造がある種の雑念として、本来の根源へのコースをかき乱しているようなのだ。
2008.06.21
今朝の毎日新聞に、青森県は食料自給率が118%あって、それに関するイベントかなにかをしているらしい。東京は食料自給率1%だという。日本全体では39%だという。しかし、青森県は失業率が全国ワースト2位で、若者は流出しているのだという。どうしてこういういびつな構造になってしまったのか。新聞というのは、毎日配布されてくるが、大変なことが書かれていたりする。全て大変なことなのかも知れないが、私自身が感づくことがないだけなのかも知れない。
2008.06.20
いろいろな社会イメージがあって、それに付随していろいろな人がその通りに考えてしまうが、それが全く正しいかというと、より個人個人が考えなければならないところも多く含まれているのではないか。自殺者3万人のことを毎日新聞社説で書かれているが、10万人あたり25.9人という自殺率は先進国の中で突出している。うつ病発症の原因についても、仕事がらみ、人間関係がらみがあるというのも含め、老後の生活不安や、多重債務のような現実の苦などが多くの原因になっているのだから、今の資本主義優先の生きられる方法と違う生き方の多様性をもっとつくらないとダメである。人間は、競争が好きだったり、それに染まってしまう人ばかりではない。毎日新聞ではスーダンの貧苦についても今日掲載されているが、スーダンのような国の全体的に貧困な国はまた別の根本的な解決策がなされなければいけないが、日本と言う国はとても全体が貧困しているとは言えない。お金は世界有数の保有がある。国は800兆円を越す借金を国民などからしているということだと思うが、(こういう根本的なこともわかりやすく話し合える場があまりないからよくわからない)国民の貯金は1500兆円あるんじゃないかという数字がネットのどこかに書かれていたと思う。もっと安心な社会保障、セーフティーネットが無いから、自殺者のほかにも、ホームレスになる人がいたり、報道されなければ、ネットカフェ難民も声をあげることができないままである。働いている人は長時間労働となり、経済的に関係の無い人、なんらかの魅力を相手に感じない人にとっては、忙しいからごめんねで切り捨てられる。毎日新聞社説の最後のほうを引用する。「自殺率1位の汚名返上に力を入れた秋田での自殺者は、昨年は417人で一昨年より76人減り、自殺率も6ポイント強下がった。多重債務問題をサポートする活動などが奏功したといわれている。自殺直前の1本の携帯メールが、思いとどまらせたケースもある。全国の電話相談窓口も成果を上げつつあり、悩みや不安を聞くことで、かなりの自殺願望者を思いとどまらせることが可能とも考えられる。自殺予防には、何より人と人の結びつきを密にすることが大事ではないか。孤立感を深めている人はいないか、身の回りを点検することから始めたい」と結ばれている。働くことは大切なことだが、多くの人は自分が働くことで精一杯で、資本主義構造はどんどん競争に勝ち抜き、お金をどんどん椅子取りゲームのように、それも椅子を1人が1つでも2つでも10個でもとり、広げようという方法でなされ続けている。企業のほうも、能力、技能など含めて、必要だと思う人を選抜する方法をとる仕組みだから、どうにも職につけない人が出てしまい、転職は悪だとイメージされる。本当は、企業が全ての人を採用できるか、もしくは人手不足の折には、転職が悪だなどとイメージを作ってしまうこともせず、生活に十分な賃金を用意して、門戸を容易にあけておき、人を採用しているはずである。中小企業にとっても経営難のため、日本という国があるところで豊かさは成熟してしまい、仕事がなく、経費節減のため、人を安い賃金で雇用しようとしていたり、すると、ワーキング・プア現象となってしまう。うまく軌道にのって働いている人は、目的が仕事になっているため、それで良いのだが、それ以外の仕事にあぶれた他者の存在までは気がつかなくなる。見過ごされる。私だって、もし今日仕事が朝からあれば、こういうことを書くタイミングを逃せば、自殺者数を少し書いたとしても、こんなに注目した書き方をしない一日になっていたかも知れない。今日は1時までにあるところにいかねばならず、それならはやく外出してしまおうかと思ったが、雨模様なので、祖母がじゃがいもを掘って籠にいれておくので、それを家のそばまであげてくれないかと母からの指示があり、それを30分ほどやってきた。6ケースを家のそばまでもってきた。小さな手押し車があり、それで運べたが、けっこう汗が出る作業になった。しかし、自分は汗はかきやすい。母などはこれから事務仕事ではあるが、一日仕事に行くのに、祖母のじゃがいも堀を手伝っていった。いずれにせよ、来週月曜と火曜からの面接をしてからでないと、大きく人生を動かすことはできないと思う。ブログを書いていても、何が動くかというのも不可能だと思っている。まずフローの収入を維持したところで、生活できるための仕事とは別のところで、休日になにか訴えていくしか方法はないと思う。それ以外の方法を創出できる人はすごいと思うが、自分にはできないように思っている。だからこうなっている。
2008.06.20
ちょっとタイトルがおかしいだろうか。今朝の毎日新聞に、自殺者数が「10年連続3万人超す」という見出しで、説明が載っている。昨年の自殺者数が警察庁のまとめで、3万3093人だったのだそうだ。日本の自殺者数は歯止めがかからない。自殺問題に取り組むNPO法人「自殺対策支援センター ライフリンク」(そういうところがあったのか)の清水康之代表の話では、増加している60歳以上と30代のいずれも「仕事がらみ」の問題がきっかけとなる自殺が目立つそうである。60歳といえば、退職する年齢となり、その次の仕事をどうしようとなるケースもあるらしい。30代は過労も問題もあり、60歳以上では原因が特定できた人のうち、身体の病気の悩み3644人、うつ病2070人、生活苦371人、多重債務366人、介護・看病疲れ153人、30代では同じく、うつ病996人、病気の悩み(統合失調症)346人、多重債務341人、仕事疲れ171人、職場の人間関係144人となっているそうである。このデータは多くのことを示唆していると思う。単に数字の多少ではなく、経済的に苦しむと死ぬしかないところまで追い詰められるという根本的な構造がある。それなのに、お金に困っていない人については、セレブとか言われたり、ものを簡単に捨てたり、ちゃらちゃらした風潮さえあり、金がらみの犯罪は多種類ある。日本テレビのニュース番組では今、振り込め詐欺の話が出ているが、金がらみの犯罪をする人というのも、経済苦の自殺者の話と表裏の関連があるかも知れない。お金の入る仕事に安定した立場にたてない今の自分には見過ごせない情報である。10年以上歯止めがかからず、解決していないこの問題。自殺者をゼロにする理想論からはじめて、画期的ななにかの方法が必要なのだろうに、一体どこがそれを集中的に考える機関なのだろう。それを私のような素人にもはっきりわかるところがないところも伝わってない。
2008.06.20
タイトルが思い浮かばない。湿気があり暑い。ハローワークへ行ったら、失業手当へのて続きのできる日数が前の会社だけだと1週間足りず、その前の会社とあわせると支給できるというので、家にまたもどり、前の前の会社に在籍していたことが証明できるものを見つけて、また戻った。往復60キロ近くなる。だからそれで120キロコースになってしまった。なにかと自分は無知でまぬけである。せめて、家で食事したので、食事代だけは動かなかったが、ガソリンがまた消費された。ガソリン代替になるなにかクリーンエネルギーはいつでるんだろう。そういうのを開発している人たち、すごいなあ。ハローワークの担当のおば様が、どんどん電話してくれて、2社は最初書類審査のため郵送、2社は来週月曜、火曜と連日の面接をとった。これで、3社に郵送中、2社と来週面接となる。母も了解した。結局、やってみたいところを応募するというところになり、それだとなんだかやる気が出る。最初からそうすれば良かったんだろうが、なんだか気持ちが負けていた。明日はまた頼まれごとがありそれをする。土日はなるべくおとなしくして出費を控える。母の友人が、前職の扱うドリンクや健康食品が気に入り、買いたいというので、前職の主任にメールしたら、電話で返ってきて、久しぶりに話しができた。とても良い年下だが上司であった。それでも辞めてしまったが、話ができてよかった。24時間テレビのマラソンがエド・はるみになったのを朝みていたが、たしか42歳?ということは、学校であこがれていた1年先輩などと同年齢なのか。みんなああいう感じになっているんだろうか。まだ若いよな。ちょっと家から遠いというのがネックになるのだが、やってみたい業種が近くにはないのだから仕方がない。相手の会社がどう思うかである。やりたいと思っているんだからやる気をみせて面接するしかないのだが、火曜日のほうの面接先が一番イメージが近いので、はやく面接したい。このごろ、いらいらしているからか、悪い想念が浮かんでしまったり、いけないと思うのだが、どうすればいいんだろう。再就職が決まることが解決策だとは思うので、面接しまくるしかないのだが、座禅とか瞑想とか良い本を読むことや誰か気の良い人と話をするとかなどだろうか。夜、前職のあの恐い所長まで携帯に電話してきた。売り上げになるのでうれしかったのかも知れない。ほんとに根っから営業の人たちである。置き薬を置いてしまったので、つきあいが続いてしまうことにしてしまったのだが、再就職しないと、サプリメントはとても買えない。県民の違いの番組で、愛媛県ではかまぼこを削ってうすく細い布状にして、ごはんやおかずにかけて食べている(削りかまぼこ)のだというが、それだけで新鮮だが、愛媛の人は当たり前とのことだが、かまぼこのぷりぷり感という説明のところで、プリンセスプリンセスの音楽がほんの少しだけ流れた。こういうのが、知っている人と知らない人とでわかるわからないというものなのだろう。こういう暗号が自然にも人工にもいろいろあるのかも知れない。企業秘密みたいなものもそういう暗号というか、そういうものかも知れない。それがなんでも一つでもつかめれば自分も少し救われるんだろうか。こういうのを放映すると全国に進出したりするものなのだろうか。ここ一番のカレーとか、すがきやのカップ麺なんかも近くに出てきていたりする。
2008.06.19
6時頃起床。はやくも1時間が過ぎた。曇り。湿気を感じる。地雷復という卦が出た。キーワードは「帰る」「復活」という意味を持つ卦で良い風に捉えたい。しかし、いくら卦が出ても、実際に面接につながる行動をして、実際に面接をしないと進まない。ちょっと遠いところに会社が出てくるということと、親が営業や自家用車を使う仕事はやるなという意見や、いままでの営業をしても壁にあたってきた経験がフラッシュバックするのも含めて強迫となり、面接するのがおっくうになってしまう観念を作り出してしまっている。だが、なんとなく希望を感じてしまうのは、そういう職種で、ずっと同じことを繰り返してしまうのか。自分で考えていることが変化しなければならない。そのためには違う人の意見に染まることがひとつとも思う。とにかく面接を次から次へとしてみて、合う人と出会うしかない。はやめに外出しよう。物事がわかっていて、創造できる人は仕事を創っていくが、私には、生活維持するための仕事を自分で創る方法がわからないのだから、誰かの会社にすがるしかない。わかっていれば、こういう壁になっていない。自ら仕事を創造できる人との違いはなんなのか。それはその人が修業して、わかっているからといえば当たり前だが、そういうことではなくて、どうして創造できる人とできない人の個人差が運命的に生じてしまうのかということで、それが解明できれば、創造を多くの人ができるようになるだろう。科学技術については、長年の組織的な勉強や仕事場での修業、教わってきたことが基盤になってそれを応用することができるからいろいろなもの新たに生じてくるのだろう。生きてきて、仕事の場にいれば、なにかしら情報を経験しているから、なにかその応用ということに気がつくこともあるのかも知れないが、こういう疑問が残りの人生で意識があるうちにわかるんだろうか。やってみたいなと思うことは、なぜ遺伝子を受け継いだはずの親とさえ意見が分かれるのであろうか。本人がやってみたいなと思う直感からはじめるしかないと思うのと、なんだかわからなくなっている時はハローワークの人にも相談してみるか。転職エージェントという仕事の人は、最初から選び出してくれて、アドバイスしてくれるみたいで、今ある転職エージェントの会社は、なかなか私のような特別なスキルがなく、転職している人でも良いという人を募集している会社をプールしてないので、ご縁がないが、ハローワークの人が、相談に乗ってくれる人である場合、同じことだと思う。自力と他力という言葉がある。運命は準備していた人に微笑むという言葉もある。人はそれぞれ違うから、人によってはなにを躊躇しているんだ。失敗ばかりしてきたなら、失敗覚悟でどんどん自由にやって、バイトでもしながらやればいいじゃないかと思う人もいてもどかしく思うかも知れない。だが、私はこういう動き方をしてしまう。誰もが面接を1度して、それで決まるわけではないから、途中で絶望してしまう人もいるかも知れない。それはどうしたら防げるのだろう。むしろ、転職を何でもしてきたというのは、その都度拾ってもらってきたわけで、それは大きな感謝である。辞めてしまったわけだが、どこかで社会的に復活しているならそれが恩返しかも知れない。昨日も40代後半から50代と、自分より年上に見える人たちがけっこうハローワークにきていた。陽が射してきた。朝食や身支度を整え、外出して、なにか進めたい。
2008.06.19
離職票が届いた。あと3日で失業1ヶ月になってしまう。失業手当が出る前には仕事をしていたいが、手続きは少し安心を得るためにやりに行かねば。今日は3社ハローワークで問い合わせをして、1社は、履歴書や職務経歴書を郵送して、書類審査してから、面接なので、それきりかも知れないし、わからないけど、郵送してきた。もう1社は、女性希望が強く、会社がそう思うなら、特に希望が強いわけではなく、ダメ。男女雇用機会均等とはいうものの、そうでもないところもある。もう1社は、すぐ面接させてもらえて、よく話をきいてくれる人だったが、折り合いが見つからずダメ。この会社は楽天に出店してから、資本金が10倍になっていて、1億円の資本金になっているところだった。よくわからないが、ネット販売で成功したということなのか?たしかネット販売のフード部門で日本一だという。知らなかった。これまで4社だめで、現在1社待っているところとなった。自分で選んでから、母がいいんじゃないかという優先順位でまず3社問い合わせたが、親の言うとおりやっていたら、就職先が無くなってしまう。またコメンテーターのどなたかに怒られて、よけい疲労してしまうかも知れないが、いらいらしていて、また親子喧嘩のような険悪さを仕掛けてしまったが、親のほうがあきれてしまったみたいで脱力していたようにも見える。こういうことは書かなければいいのだが。しかし、何度も仲直りはしているのだが。これが夫婦とか兄弟ならまだ格好がつくのだろうが。情けないのはまったくだが、ほんとに自分は小さすぎるというか、悪人である。だからこそ、どんどん面接をしていかねばいけない。よくみたら3枚くらいか、ちょっと条件が合わないところに気づき、残り9枚くらいだと思うが、ハローワークの人と相談して、思い切って問い合わせてみたいと考えている。その他、電話で2社折り合いがつかなくて、でも問い合わせて諦めがついた。1社のほうは片道2時間半のところだが、未練があって問い合わせたが、内容で一致してもらえず、かえってあきらめがついて、すっきりした。1社は母の推薦のところだが、やはり、自分がやりたいと思えることでないと辻褄が合わず、ダメだった。今日1日で5社になんらかのアプローチをした4社一気にダメで、これで6社ダメになったが、もっともっと面接を仕掛けなければ。いらいらしてしまっている。でもいらいらが無いようだと逆に危険かも知れない。でもいらいらしすぎかも知れない。入ることになるところにはやく出会うか出会わないかということであるが、それがいつになるかわからない。でも面接しなければ、永遠に次はこない。しかし、そんなに遠くもないところに、ネット販売ある部門の日本一の会社があったり、発見といえば、発見ができた。ホームレスにまでなってしまった人や、ネットカフェ難民になってしまった人にしても、誰にも八つ当たりもせず、犯罪もせず、ひどい状態でも生きる。すごい人たちだと思う。私などはもっとせっぱつまったら犯罪とか引き起こさないのかと自分で自分を心配してしまう。湯浅誠さんの『反貧困』に書いてあったが、すごい人は、福祉事務所に生活保護の申請を拒否され、誰も他人を傷つけることなどせず、福祉事務所の前で抗議の自殺をした人が数人いるみたいだ。衝撃的な話だ。また、ケーキ一個盗んで刑務所に入った人など、刑務所に保護されたいために、ケーキとかお菓子とか一つだけ盗んでしまうということなのだった。(レ・ミゼラブルという小説は読んだことがないが、そういう話なのだろうか?今日はなんだか疲れて調べる気がない)そんなにしてまでそうなってしまう前に、もう一段階、なにか保護施策が国や自治体は考えられないのかとも思うが、どうしていいかはまったくわからない。サラ金というのも、複雑な心境を起させる仕組みである。再就職が決まったなら、祖母や母にはなにかあげなければいけないと思う。そのため、母の言う通りには今回もできないと思うが、どんどん面接しないと。なるべくリアルな状況を書こうと思ったら、かなりそれも含めて疲れてしまう。良いときは、どんどん誇張気味にさえブログなどは書かれてしまうのだろうが、人生不調の時のことを書き残すというのは至難の技だ。恥をわざわざ書き残す必要があるのかという疑問もわくが、完全な人などいないんだから、誰もが内心しまったと思ったり、失敗したり、言い出せないことがありながら、生活しているのかも知れない。どんどん面接を続けて、どこか1社に一日でもはやく拾ってもらうことが一番の良薬だが、というか、それしか解決策はないと思うが、自分自身の心の暗部、悪さが噴出してしまうので、心を清めるためにどうすればいいかわからないが、仏教書を読んだり、誰か外部の人と話をしたり、もし、自分がもっともっと最大限の窮地に追い込まれても、秋葉原無差別殺傷犯人みたいな心理にならず、それなら誰も傷つけないホームレスのほうになる方向の人間でいられるかどうか。もしくは最悪の最悪の最悪としても、パン1個盗んで刑務所に入るような、いややはり、家出して、ホームレスになるような方向でいられる人間なのかどうか。(私は臆病で、短気で、小さい小さい人なのだ。他の人に比べて覚悟が足りない)もちろん、そこまで追い詰められる前には、仕事が見つかるつもりでいるが、人間がどこまでも追い詰められたら、そのぎりぎりのところで、良い人だったか悪い人だったかわかるのかも知れない。自分はそこまで追い詰められたくはない。しかし、追い詰められたら悪人なんじゃないかという不安もある。これは意外に想像もつかないかも知れないが、全ての人に言えることかも知れない。お金に困っていないから、悪いことをしないで済んでいる人は思いのほか多いのかも知れない。ましてや、お金に困ってもいないのに、悪いことをする人さえいるのだから。そんなに考えすぎなくても、どんどん面接仕掛けていけばいいのだ。いいのだというより、それをしていくことが全てだ。昼は、すき屋で、ミニカレー280円。やはり痛いのはガソリン代で3000円入れざるを得なかった。ガソリンというのはなんとかならないのか。それにクルマ関係。しかしこれがないと社会生活不可能。電車もバスもほとんどない。お金がある程度あると、気がつかない、回避できているものがいっぱいあるのだと思う。自分自身、のどもと過ぎれば熱さ忘れてしまう繰り返しである。まず、宇宙の不思議があって、存在の不思議があって、社会の仕組みの不思議があって、お金の不思議があって、運命の不思議がある。しかし、新たな可能性は新たな出会いでしか生じない。自分の心が良く保たれるかどうか。どこまでも保たれるかどうか。それが神様の試しなんだろうか。大きく借金してでも返してしまう経営者みたいな人種もいて、もう人間力が、胆力が、精神性が、そういう人は、私みたいな無気力とは違うんだろうなと思う。どうやって謙虚に、冷静さを保てるか。どんなピンチになっても。そういう人の精神性はどうなっているのだろう。ホームレスにまで落ちてしまう人は、文句も言わず、暴力性も起さず、それでそこまでいけるというのは、すごいことだと私は思う。集団性になると昔は一揆とか打ちこわしとか、あったように歴史の授業で教わったと思う。でも、ホームレスになった人たちはそういう暴力性のないまま、最底辺の生き方までしてしまうということのように思う。(読んだことがないが、ドフトエフスキーという小説家はそういうことをモチーフにしたのだろうか。)裕福な人の中には、裕福であるゆえに、暴力性が隠されて、実現しないまま一生を終えられる人もいるんじゃないかなどと思ったりする。経済的にはひどくなくても、犯罪をしてしまう人がいるというのは、人間の良心とは、一体なんなのか。どうして人によってその質や量が違ってしまうのか、不思議でわからないことである。経済の仕組みが、ほとんどの人間の生きていくための構造になっているが、それは完全なものではないだろう。完全であれば、こんなに混乱したり人生が翻弄されたりしないだろう。その不思議さを感じないまま、経済という方法が当たり前だと思って、一生を終える人たちが大部分なのだろうか。それが解けるような頭脳を持ち合わせることがこの人生で出来なかったが、経済という方法を人間がとらざるを得ない生物になってしまっているという現実を不思議なことだと思う範囲でものを捉えようとするほうが、なにかその余白に奇跡がつまっているような気がしてしまうのだが。仕事をもってしまうと、仕事のことで頭がいっぱいになるから、以上のようなことは下手の考え休むに似たりで忘れてしまうのだろう。それでも仕事はもったほうがいい。というより、持たないと生きられない。自分は軟弱な境遇と考えるか、ぎりぎりの時代になってしまったが、家族の恩恵でいられるのに感謝するべきかと、いろいろ考えが錯綜する。まだブログがこうしてかけているうちは大丈夫だと思う。もっとせっぱつまった状況になれば、ブログの更新が止まるはずである。経済状態のほかに、不治の病を宣告された人など、すごくきつい精神状態になるのだと思う。ブックオフでみたが、ウインドサーファーだったか、飯島夏樹さんという名前の方だったろうか、映画にもなったと思うが、その人の手記があって、ちょっと立ち読みしただけだが、涙が出てきた。自分は一体どういうふうに死ぬのだろう。まだ、嫁も子もいないというのに、老化とか死の観念が浮かぶ年齢なのか。今朝方もいろいろな夢をみた。小学生の頃の同級生が出てきたり、そういう夢が多いようだ。いずれにせよなんとしても、どこかに所属して生活維持のお金が入る状態の上で、自分自身の存在理由を(理由を問わず、生きているだけで尊いと考えるほうが良いのだろうか?)発揮する状態に再び一刻もはやく戻らねば。ベーシック・インカムひとつとっても、街頭で知らせたり、意見広告を出したりできたのだから。しかし、今いろいろとやろうとすると、出費がかさみ、よけいいらいらする。次に出会えれば、一気に状態が変わるはずなのだ。
2008.06.18
コメントをいただいている、新井さんからとても感銘を受ける文章をいただいたので、本文のほうに、一部転載させていただきます。「人が何かを学ぶのは、それは自分よりすごいものに触れたり見た時なのだ。それって、縦関係の中にしかないものである。 そのことで人は己を知る。己を知った時、人は初めて何かを学んでいるのだ。学ぶとは、尊敬する心を持つことでもある。それもまた、縦関係の中にしかない。 年齢差という縦関係、仕事上での上司と部下という縦関係、才能と能力という縦関係、地位と立場による縦関係。 そこから逃げるな。それが尊敬する精神と己を知るための場でもあるからだ。それが人間としての成長のことでもあるのだ」尊敬しあえるということが、少なくなっているから、いろいろな問題が社会で起きているんでしょうね。上も下も尊敬しあわなくなったところに言葉にも精神にも実現されてしまう社会にも問題が生じてしまっている。私も反省するところ大いにあります。だからこんな境遇と精神の堕落になってるのか。すごいなあ、良い場所だなあと思えるところを人は目指すべきなんですね。そういうところを見せ合うことになる場所。どうしてこういう内面に自分はなってしまっているんだろう。ベンチャープラザのIさんが、メーテルリンクのチルチルミチルの青い鳥みたいなことも言っていた。横並びと思えた関係が、尊敬しあえば縦並びだったことに気がつくのだろうか。この人は輝いているなと思える人だらけの関係になれば、きついと思った場所が実は楽な場所だったのかも知れない。前の職場では、自分が変わらないとどこに行っても同じだよと言ってくれた人がいた。そういう人がいたにも関わらず辞めてしまった。私の感受性ではもっと捉えきれないことがあるのかも知れないです。なんで私はこんなに堕落して精神が腐ってしまうんだろう。とにかく、面接をやってみるしかない。またすぐやめるかもという不安とか後のことは考えず、出会う人との一期一会だったり、縁あって、幾らかの存在感を共有することになったり。悪い面ばっかり見えてしまう自分だが、それでもなにか生き続けられる場所と方法は必ず見つけなければならない。誰かと交流しなければどうにもこうにも何も生じない。自分の間違いというか、「我」に気づくと、人が輝いて見えてくるんだろうか。とにかく、出会いに行かねばならない。外出だ。それでも、自分は外出しなければ、今回もどうにもならない運命みたいに思ってしまうけど、そうできない人もいるのだから、自分がある程度助かって余裕がある程度できる状態に復帰したら、在宅とか、ワークシェアリングとか、もっと多様化された仕事の種類を増やさないといけないという主張をどこかに伝えたい。どうしても「我」は消えないが、ただ、他者にわかってもらいたくて、罵詈雑言のような言葉を使ってしまう心理もあるような気もする。だけど、それは他者も傷つける。他者もそんなに強くなかったりする。私だって、どれだけ他者を傷つけた発言をしてきたか、いるか、いくのか。横並びではなく、人は誰でも尊敬しあえば縦並びになるのか。なかなか理解するのが難しい。ありがとうございます。外出しよう。
2008.06.18
知り合ったばかりの便利屋さんからサポート頼むの連絡がきて、あるおうちのたんすを1階から2階にあげにいった。その他頼まれたことがあったが、疲労した。しかし、いくらか作業料が入り、1000円カットをして、豚丼ではなく、430円のここいちのポークカレーを食べた。明日はハローワーク。面接先を決める予定。ディーパック・チョプラさんの「ゆだねるということ」を読んでいる。生きているだけで不思議。特にこういう日々はスピリチュアルな本を読んでしまう。シンクロディスティニというのはほんとか錯覚か別にしても、ロマンがある考え方である。だけど、存在しているだけで不思議なわけだから。信じられないようなシンクロニシティーの例はたくさんあるようだ。今朝方は3種類もの夢をみたようである。生き方の整理を脳みそがしているのだろうか。そんなことが書いてあった本があったような気がする。しかし今のままの状態では進まないことが多すぎる。はやくなにかの位置にまたつかないと。
2008.06.17
ヒロタカズマさん、情報をありがとうございました。ヒロタさんから、ベーシック・インカムのコミュニティーがMIXIの中にあって、390人参加されていると教えていただいた。心強い場所があったのだ。知らないところで着実に知られて、賛同者が増えているのかも知れない。390人も賛同者がいるということは、もっと増えるということで心強いです。
2008.06.17
グーグル検索で「ベーシック・インカム」で出るものをピックアップするわけだが、私は論理が弱いので、他の人が論理的にベーシック・インカムを賛同してくれている。評論家の山崎元さんのサイトはこのブログのブックマークさせてもらっている。ベーシック・インカムの賛同者がなんらかの方法で集団で同時に発言すれば、面白そうである。ベーシック・インカムの会も幾つかできているようである。大学の授業にも取り入れられているわけだし。このブログが、日本のベーシック・インカムの中核を担うブログのようである。がんばってください!!ベーシックインカム要求者組合のブログある社会福祉法人の理事長がヴェルナーさんの「ベーシック・インカム」を読み、強く共鳴されている。理事長日記なぜかこのサイトはリンクされないが、とてもわかりやすく書かれているので、検索してみて欲しいです。「ベーシック・インカム 理事長日記」で検索するとあらわれてきます。アルファブロガーという、ブログでオピニオンリーダーになっている人のブログですね。コメントする人が批判的なのが惜しい。どうして、コメントする人は言葉だとしても、ひどいことを考えて書き残すのだろう。わからない。小飼弾さんのブログ
2008.06.16
寒くなったり暑くなったり極端な日々だが、今日は暑い。下着で扇風機かけていられる状態。ハローワーク2ヶ所に行ってきて、15枚の求人票をもらってきた。ここから検討して今週中に2社以上の面談はしたい。前の会社に電話して、離職票がまだか尋ねたら2、3日後には届かせるとのこと。失業手当が支給される前に次が決まるようなことになればいいのだが。明日は頼まれごとができたので早朝からその用件をする予定である。その頼まれごとで1日つきあってくれといわれてあるので、明日は就職活動が一日伸びるが、一日伸びても15枚も求人票があれば、全部明日で入ってしまうということも多分ないと思う。タイミングと縁だから、また新たな会社は出てくるかも知れず、やはり縁なのだとしか思えない。今回就職できても、2日でダメかも知れないし、一喜一憂をはやくしすぎるのは苦痛になる。2日、5日、みたいなことが続いても自分がいられるところに出会うまでやったほうがいい。やるのは自分で、他人ではない。自分が一番よく自分を大切にしているのだから。他人に左右されて決めるものではない。助言として参考にするまでだ。結局は自分で決めてしまってきた今までだが、15枚を母親にはみてもらう。これを笑う人や罵声を浴びせる人はそう思うだろうが、こういうところまでは個人の領域のことである。文句コメントのためにこういうエピソードがかけなくなるとしたら、言論の自由の妨害でそれは憲法違反の犯罪である。あえて書かねばならない。誰もが誰かのおかげで生きているんだから。それが親だろうが、伴侶だろうが、友人だろうが、兄弟だろうが、他人だろうが。それに年齢なんか本来は全く仕事とは関係ない。年齢を気にしていたら、三浦雄一郎さんは75歳でエベレストに登頂しなかっただろう。むしろ、50歳だろうが、60歳だろうが、20歳や30歳より仕事できますよ。くらい言えるくらい会社に立ち向かわなければいけない。会社は変わっても、新規開拓を飛び込み訪問などで200社くらいはしてきたと思う。そして辞めたけれど、そのお客様は会社が引き継いでいるところを残してきたと思う。情報誌の会社は無くなってしまったけれど。ある会社では私が取引したところで、結婚式をあげた同僚がいた。誰かの運命に多少彩りを添えたこともあったのだと思う。有名な芸能人とだって仕事で関わることができたのだから。映画とか写真家だったら、その作品自体が残るから、それでわかるけど、情報誌だって地方のフリーペーパーだから埋蔵されてしまうが、記録は残っている。自分のように会社が変わってしまう人は、記録に残るものをやれば、それが証明してくれるかも知れない。けっして会社が変わるからといっても、その当時の時代に何か足跡はあったのだと思いたい。明石屋さんまだと思うが、「生きてるだけでまるもうけ」という言葉があるらしい。いままで生きてこられたということはそれだけがんばってきたんだ。もちろん周囲のおかげもあって。舞台俳優の人はすごいと思う。舞台は人の記憶には焼きつくかも知れないが、今はビデオ映像などがあるにせよ、一つの舞台は終えてしまうと足跡は消えてしまうように見えるものである。そのライブに舞台俳優は精神を注ぎ込む。すごい生き方だと思う。決して何もできないわけではない。元気をだそう。辞めた配置薬の会社は、自分で決めることだからとさわやかに送り出してくれた。私より誰もが格上で、勤勉で真面目な人たちだった。だが、毎日決まったコースを歩くルートセールスは私はもうやりたくないと思った。食事も15分もとらずすぐ次へ向かってしまっていた。長く勤めている人は、昼は仮眠していた。それで集中してまわれる。自分は方向音痴で記憶力が弱く、動作がのろいため、15分だけの休憩でも、人より遅れてしまう。コース組もできなかったのかも知れない。そういうことだけではないが、前に、配置薬の経験者の人がコメントをくれたことがあり、その人にとってはラクだったと書かれていたが、自分はとてもラクな仕事とは思えなかった。ブックオフに行き、300円にはなるかな、もしや500円と思ったら90円だった。何に対しても甘いと思った。しかし久しぶりに収入を得た。105円の古本はとても安く買えていたのに、今はそれさえ買うのを控えてしまうことである。水筒を積むのを忘れてしまい、ガリガリクンを買ってしまった。昼はすき屋の豚丼300円。ガソリンを2000円いれた。ガソリン代がきつい。1000円カットも控えているので、スポーツ刈りだったのが、普通の髪型になってしまった。ブックオフでクルマで行き違いに、10年前にお世話になっていた会社の社長らしい人が運転していたクルマと擦れ違いになったが、似ていたけど、本人だったんだろうか。きっとそうだと思うのだが、相手は気がつかなかったようだった。ちらりと見てはっとした感じもなかった。でもこういう見過ごされそうなエピソードもなにか暗示しているのかも知れない。今TBSテレビの報道番組で副都心線の効果で雑司が谷というところの商店街が大繁盛したという特集をしていた。なにかが加わると、同じ場所でも変化してしまうんだなと思った。テニスのクルム伊達公子はとても長いブランクのあと、37歳で20歳近くも年下の人に勝ってしまうのはすごいことなんだろう。たしか、世界ランキング4位くらいまでいった最高潮の時に引退してしまったんでしょうが、それはどういうことだったのか、知っている人は知っているんでしょうけど、すごいことなんでしょうね。相変わらずまとまりのないブログではあるが、特定の人に意地悪を仕掛けたりしてないし、いろんな人生パターンはあるし、境遇はあるし、自分の彩りでいくしかない。自分の考えられる範囲から進むしかない。ただこちらから、意味なく特定の人をわざわざ傷つけるようなことは書いてこなかったんじゃないかとは思っている。時間はつくれる状態なのに勉強を全然していないということだが、もっと多くの人が助かるのではないかという、例えば、ベーシック・インカムとか、生活保護や、在宅とか、ワークライフバランスとか、ガソリン代替のなにかとか、そういうことを私のような素人でも願っているということの紹介を一つとして意図してみたかったということではなかったか。むしろ明るい未来を考えたい場所でありたかったはずだ。人の差というのは、外のなにかに関心を集中させる深さと広さのバランスの違いなのだろうか。それは人の内部から行為として出てくるものなのだろうけれど。
2008.06.16
この前のブログの、「整理や方針」というタイトルの文章ですが、国や自治体の構成員の方に、お尋ねしたいことも書きました。今の、排除、差別型にイメージが固定化されてしまう社会をどう思いますか?このブログを知られた方は、教えていただけませんか。国と自治体と民と個人は分離しているから、このネットワークは断絶していますか?多くの誤解を私はしていると思います。生き辛い人を救うためにどうしたらいいと思いますか。私自身はひどい犯罪をした人は罰を受けるべきだと思うので、全ての人は助けられません。罪もない人で苦しんでいる人を助けるにはどうしたらいいでしょうか。また、ひどい犯罪を人がしなくなる社会にしなければいけないのに、事前の措置が大切です。それはなにをどうすれば改善しますか。なにをなされているのですか。または、国や自治体のご家族、関係者の方でも、なにか感じますか?教えてください。お願いします。
2008.06.16
腹痛になってしまい、3時か4時頃目が覚めてしまい、ブログを開いた。複数のコメントがきていた。皆さんありがとうございます。私自身が不安定な状況にいたり、なにが目的なのかわからないが、匿名の文句だけ残すコメンテイターが出たり、気持ちが揺らぐが、それは本筋では無く、前向きにブログを書いて行きたいので、状況と考え方をまとめておきたい。自分自身が関わりを感じる、体験に沿っていることでないと書けはしないが、言い訳とかそういうレベルでものを見てもらわず、一般論として敷衍して考えようとした場合、社会の固定化イメージとは思われないが、実はそうなっているんじゃないかということの組み換えにあたっていけないかというところで見てほしい。まず、削除したコメントに書いてあったようなことだが、仕事の期間が1年だろうが、3日だろうが、15年だろうが、40年だろうが、3ヶ月だろうが、関係ないとしたほうが、安心感がある社会イメージになると思う。それは仕事の技術や感覚は長年やらないとわかってこないところがある職種もあるし、人情もあるだろうから、長く続けたほうが良いのであろう。しかし、それが絶対の感覚になってしまうと、欠ける思考が出てしまうと思う。辞めてしまう人はとことん辞めてもいいようなルートがあれば、そのほうが自由である。誰も彼も全ての人が所属先に長期間いるだけが正しいというような社会感覚になったら、ある範囲や特性の人を排除、差別してしまう社会になってしまう。その嫌悪感から削除させていただいた。安心感が必要なのだと思う。そのためには多様な生き方が通用する社会にしなければならない。固定観念化している側のほうが、批判や非難になる場合が多い、従来の考え方の押し付けを他者にしようとしてくるからである。しかし、それでは多様化した社会へと間口を広げることはできない。多数の陰に隠れた、消去されてしまう少数が所望する生き方が実はあるはずで、浅田彰さんが「逃走論」で書いたような、スキゾフレニーな生き方もあるはずである。高橋がなりさんにはその経歴から少し離れてしまう感覚があるとは何度か書いたが、今やられている、国立ファームという農業のサイトにも、農業だけではなく、生き方の多様性へのヒントの企画が織り込まれている。転職が多かったり、腰が据わらない人を意図的に集めて、競馬レースに見立てて、誰が残るかとやっているが、その人たちの生き様が記述されているが、その人たちの経歴はある意味、高橋社長が歩んできた裸関係のことにも喩えることができ、いわば、経歴が裸になっているのである。そして真実は、社会的にうまくいっている側だけではなく、うまく行っていない側にあるのにそれが隠されてしまっている。ネットの匿名などはその最もたるものだが、自分を隠して、他人を傷つける。本来は、匿名というのは権力者など、自分より強いものの批判のために、自分を防御するための方法だったはずである。キルケゴールは匿名の時に批判するのは自分より強い権力だけだった。しかし、今はネットという武器を手に入れた人たちは、弱者に匿名からの攻撃を与えてしまうのである。ここが問題となるところだ。国立ファームのサイトで行われている試行錯誤のひとつ、腰が座らない人たちの実況を含むことで、企業社会に合わない人の生き方をどうするかという示唆をとても多く含んでいる。その中で既に辞職してしまっている人で35回の転職の30代という人のデータが残っている。上司などに抵抗してしまうタイプの人らしい。しかし、そういう人も生きていかなければならない。そういうデータ発信をどう編集し、考察するかである。その考察が従来の固定観念からはずしたものが出た場合、新しい多様性ある社会構造が発想されてそこに向かう。派遣という方法が設定され、男女雇用機会均等という方法が設定されたが、そのことの功罪が問題になっている。今すぐには全部言えないが、女性の自立がかえって、結婚率を低下させたり、派遣ということが安心感を与えない仕組みではないかなどと言われてきている。だが、その逆の面もなにかあるのかも知れない。派遣会社先にいれば、派遣先が合わなくても履歴書に転職ということにならないかも知れない場合もあるかも知れない。すると、職場は変わっても、面接をまた受けにいく必要はなくなる。ただ、もう一歩理想の方法になっていないように報道などで感じる。あと、人手が足りない場合は、40歳だろうが、50歳だろうが、60歳だろうが、何歳でも欲しい癖に、企業のほうの都合で、人のほうが求職者数より多く余ってしまっている場合は、今がそうだが、若いほう優先とか、大企業などは35歳までが転職のリミットなどといい加減なことを固定観念化してしまう。そして、不安になるのは、企業という固定化されたひとつの方法に不適応な人たちである。多くの人が生きやすい、居やすい社会構造をつくるためには、企業という方法だけではなく、箱の中で保護されるという方法だけでなく、もっと多様化されなければ無理である。その証拠が、ニートの存在であり、ネットカフェ難民の存在であり、ホームレスの存在という現実じゃないか。年間自殺者を3万人以上出し続ける、この国の現実が証拠である。もっと多様化された生き方のできる方法を増やさなければいけないのである。芸術家などは認められれば、箱の中以外の保護を受けるが、そのまま自分が有名になり金銭的な苦労から解放されると、上流階級をつくりだし、そこにいすわってしまう。しかし、芸術家として成功できる人などはほんの一握りである。だが、多様化した生き方のできる方法を生み出すことができるのは、苦労した経歴をもっている人のはずである。高橋がなり社長などは、自分がレールに乗った経歴でなく、挫折を何度もしているので、挫折型の人もなんとか救ってやろうと入社させてくれるところが国立ファームに書かれているように見受けられる。決して人寄せパンダにしているわけではないと思う。それでも、人は辞める時には辞める。そのほうが自然なのだ。実は。国や自治体や大企業は、そういう発想はほとんどない。自分の金銭を保つということに固執し、排除される人が眼中に入らない。特定能力で振り落とし、在籍期間で振り落とす。いき難いタイプの人はますます生活しにくくなる。離れる人が離れるほうが、何十回でも何百回でもそのほうが実は自然なことなのに、働くことと金銭が結びついている方法のために、座席が無くなる人が選ばれ排除される。国や自治体などは何百兆も借金しながら、その職員には民間以上の給与が与えられ、ネットカフェ難民やホームレスをそのままにしておく。中小企業も人をそんなに入れる余裕がないということが事実に過ぎないのに、面接でなんだかんだ説教までして人をふるい落とし、若いほうがいい、転職回数が少ないほうがいいなど、イメージを固定化させる。一時期の野球の野村監督みたいに人を再生させようとしない。ここからは自分の弱点を言うことになるので、また気持ちはつらいが、昔、近所のおにいさんやおねえさんや子どもでも、○○ちゃん遊びましょといって内向的な出不精な人も誘い出して遊び場、遊ぶ集団をつくった。転職エージェントなど、ナビデーター、誘ってくれる人、誘導してくれる人が停滞している人、とどまっている人を救ってくれるということがなされている。しかし、それは地方までは届かず、社会不適応(ほんとにそうか?という疑問も実はある)の転職10回とか20回という人には届かない。その人たちはほんと、何十社もまわりまわって、高橋がなり社長みたいな、拾ってくれる人を探し出しているはずだ。だから、転職3回で苦しいとか、年齢40歳や50歳から苦しいというのは、事実だとしても、机上の情報よりの情報操作であり、絶対的なものではない。そういうイメージをグーグルなどの情報検索のトップ項が固定観念化させて提供してしまうのだと思う。今ある情報が絶対ではないのだ。情報は自ら変えていくもので、誰もが変えていくものである。経営者や人事の気持ちが決めるものである。助からない人がでるというのは、助からないほうの能力や気質もあるとしても、そっちだけ見られては片方だけのアンバランスである。助けてくれる人がいなければ助からないんだよ。人は。人は人が助けなければ助からない。その安心があって背後の自然や宇宙の神秘が見えるようになるのかも知れない。ワークライフバランス、ワークシェアがもっと広がれば、800万円の給与の人たちが400万円でいいと思えるなら、雇用人数は2倍に増える計算である。調子の良い人たちが、給料アップ、アップ、800万円から1000万円へとやっている間に、中小企業経営者までもが、転職多いですね。ダメですね。年齢高いですね。ダメですね。と言い出す。それでは救いようがないだろう。誰が救ってくれるのか。高橋がなり社長のような、民間の人が、経歴にとらわれず採用という、ネットで募集してきた人は全員合格みたいな実験をしていることがサイトに書かれているが、本来、それは国や自治体がやることなのではないのか。民間が実は、効率主義だけでなく、エリート選抜主義、だけでなく、それで成功したとしたら、従来の経済学は根本から間違っていて、エリートが作った机上の空論にすぎなくなるだろう。一番恥じ知らずなのは、国や自治体の構成員が、民間の社会不適応者を排除し、ホームレスにまで追い込むんでいることの事実である。何十年たっても解決できない。それで本人たちは400万円以上もらっている人がたぶん多数存在しているんだろう。それは隠すことではなく、根本的に全員に幸福を授けるところまで行かなければ意味はない。ただ、機関としては、ハローワークがあり、それで成り立っている。そうなると、構造はある。それでいままで生活のお金を企業からもらってきて、断続的にだがなんとかいる。私自身が正しいとも限らないし、全て間違っているとも限らないが、全て正しく見通しているはずがない。だが、でたらめだけ言っているわけでもないとも思う。秋葉原の無差別殺傷の犯人みたいな人は、私の度量では、死刑しかないと思う。そのように、やってはいけない限度を超えてしまうと、言い訳は効かないとは思う。ただ、そういうことをしてしまう前に、なにか手立てのある社会にできなかったという罪は共有している。しかし、人を傷つけたりしてもいない、転職者とか高齢者とかが、生き辛い社会に、中小企業の経営難につながり、大企業の独占化につながっている根本を見落として、語らず、転職癖の人とか、年齢とかでイメージの悪い人を作り出してしまう、欺瞞の構造に気づく人がどうしていないか、そしてイメージチェンジを企画して、広報する人が出てこないのか。犠牲者を出しているということは、問題解決がわからないどこかが、なんらかの問題を摩り替えて、安全圏をつくっているという場合も多々あるんじゃないかと思いたい。自分の都合のために?それだけで書いた文章なのか。これは。自分が・・・。
2008.06.16
80歳を過ぎてしまった祖母は骨粗鬆症などで身体の動きが大変になってしまっているが、お墓参りに行き、家や近所の家のお墓に花を手向けている。母親に今日はおばあさんとお墓参りしろと言われ、祖母がお墓参りにいくと言った時、一緒にいった。その姿をみていると、そういうことでいいんだよなあと思った。いろいろあって我の強いブログになってしまっているが、そうではないことに気づいていくようにしたい。祖母はパソコンもネットもできないし、一生することはないだろうが、お墓参りや草むしりや家庭菜園などをする。近所でもおじいさん、おばあさんはそうする。そういう道筋をみている。
2008.06.15
また、楽天ブログで、使ってはいけないキーワードか描写があったみたいで、書き込めなくなった。アメーバブログに移動させたら、前半をコピーし忘れて、ほんの少しの後半だけ残してしまった。大失敗である。しかし、そんなにひどいことなど書いていないつもりなのに、楽天ブログの送信できなくなる判断はどういうことなのか。逆に悪影響があるような気がする。それで逆に抜けているところは抜けているように思う。変だ。昨日、リクルートの就転職フェスティバルをみてきて、いろいろ感動した。残念ながら、あきらめないと就職先が極端に少なくなってしまい、今ある全部でできるかぎりのところを選ぶことや、片道3時間かかる東京だと内容はよくても自分の根性のなさでは無理だということから、範囲を限定して、平日休みに設定したポリシー?を解除するしかない。ある程度やってみたいという内容の会社でないと、片手間な感じでやるなどは無理だ。精一杯やらないといけない。当然のところだ。ハローワークが再開する明日から見直しだ。配置薬の会社の終える寸前くらいから文句のコメントがあり、なんか怪しく感じてしまう人はいるが、同じ人物だと思うし、管理画面でネット警察などに連絡しておいたり対処すれば特定可能ではないかと思うが、文句を書いてくるのが意味不明だ。言い方があるだろうし、犯罪行為と一緒だと思う。読まれなくない人に読まれてしまうのが残念なところだ。その人のために書いているわけではない。なんどもこうして迷惑だと書いているのだから、読まないことと離れることを言っているが、コメントをもっとするようだと調べてもらうしかない。犯罪の上乗せをしているからである。削除されていたら誰だか気づいてもらいたい。人生、良いところもあれば、悪いところもあり、リアルにどちらも書いていきたいだけだ。言論封鎖しようとするような文句をいう人は、自分の過ちや怖ろしさに気づかないからやってしまうのだろう。理解できない。こういうことに前置きしたくないが、迷惑で嫌なことをする人間がいることは残念だ。関係したくないのに責めてくる心理がわからない。高橋がなり社長の国立ファームが昨日のフェスティバルに出ていて、いろいろなことを言われていた。(送信できないのはこのワードか?)あるビデオの業界もした人で、その存在の良し悪しははたしてどうかというと、間をおいてしまい、ブースに行かないでしまったが、人を熱くさせる熱意のある人で、10億円を農業に投資する意気込みである。お金持ちだとしても、すごいことである。マネーの虎出演で人気のある社長である。創立時期ですごい投資が赤字続きで苦労の経営だが、すごい実現で歴史である。サイトに、経営のための経験者とともに、転職を繰り返したり、会社に溶け込めないできた人も入社させ、誰が残るかというのを競馬に喩えてやっているが、とてもリアルだ。人生ドラマみたいだ。なんだか応援したくなる会社のサイトで、社会で苦労してしまう人の人生がせきららに書かれているからだと思う。テレビのドキュメンタリーのつくりである。昨日の帰りのアンケートで、リクルートの人に、大企業では窮地に追い込まれても、違う部署への配属などで助かる人がいるが、中小企業の場合、一つの会社で閉じているので辞職したら履歴書で次の面接で批判される。その構造のほかに、中小企業で例えば県内などでネットワークを組んで、辞めても履歴書での批判が少なくなるような、大企業みたいなイメージのネットワークを組むことはできないかなど提案することができた。東京だけでなく、茨城県など全県レベルでこういうフェスタがあると、わかりやすいとも提案した。勇気がなくて3社の話をきいて終えたが、ナビゲーターの人が後押ししてくれたのでよかった。3社のシールをもらい、1回抽選ができて、アイスクリームがあたった。ほしかった3等があたった、参加は無駄ではない。元気をもらった。残念だが、距離などで実現できないことにしたが、昨日の参加は無駄ではない。無駄にしない。文句をいう人などは、人それぞれ個性があるのに、自分の個性ばかりで反応して、人を傷つけるのだろうが、なかなか進むときと進まないときがある。それで関係もない人に業を煮やしてなにか文句のコメントをしてしまうのだろうか。でも、数々失敗をしているが、次のステージに混乱しながら収束して出会う日がくると思う。辞職してから、いろいろなことをしたと思う。もう3ヶ月も半年もたったような気さえするが、まだ1ヶ月はたっていない。離職票もきていない。火曜日でもこなかったらまた連絡せねばならない。結果待ちだったところは落ちてしまった。またスタートだ。就職も転職もそれまでの過ごし方も人によって千差万別で、思いやりある言い方ならともかく、文句のような言い方では名誉毀損みたいなものにすごない。そういう副作用が出てしまっていて、気分が悪いが、どうしてそんな人が出てしまうのだろう。私自身の慣用性の低さのミラー効果なのかも知れないが、普通なら、謙虚な対応をしあうと思う。ネットや匿名を軽くみているから、行為が軽いことに感じられてしまう人なのだろうか。そういうことは予想外であり、この変化の活動によけい疲労が加わっているが、ほんとに関係すべきは、次のわかってくれる経営者であり組織である。それが1年だろうが、3年だろうが、3日だろうが、人の進み具合で苦労しているのは私自身なのだから、その苦労の中に文句だけコメントされては、名誉毀損の犯罪だとしかいいようがない。私が被害を感じているのだから、確実に犯罪です。何度も告知しているのに。これでもまた書いてくるようでは、ネット警察に指導してもらうしかない。プロバイダにも通知すべきだと思う。こういうことのためにブログをしているのではない。転換しなければ。
2008.06.15
人は誰でもいろいろな時期があるし、いろいろな人生があるけど、ブログは嫌な人も読んでしまうので、リアルなことを記録しにくくなる。とても残念なことだ。そういう人は自分の理想像があって、それを他人に知らずに押し付けて、他人を傷つける。そういう関わりは目指していない。人が不調な時にからかうような人がブログにコメントするようだと、誰も不調というリアルをブログに書かなくなってしまう。書く必要がないと言われるとそれまでかも知れないが、人生にはいろいろあって当然なのに、不調な時に嫌なイメージを出す人間がいるのが残念である。でも励ましてくれる良いコメントをくれる人が訪問してくれるブログでもある。なるべくリアルに書きたい。
2008.06.15
管理画面からだいたい推測されるので、だいたい心当たりで出てくるが、このブログをできれば読まないで欲しいし、コメントいらない。またやってくるようなら、しかるべき機関に通して訴える。気分悪い。関わらないでください。読まなければ私のことなど忘れます。ここまで言ってもわからないなら、犯罪の上乗せです。訴えます。調べてもらえば、わかると思います。その人のコメントは内心、人を馬鹿にしていて、ストーカーみたいなものである。そうでなければああいうコメントはできないと思う。素性のはっきりしない人の憎悪的コメントというのは明らかに犯罪だ。楽天さんや他のプロバイダーさんやネット警察に調べてもらわなければいけない。
2008.06.15
天外さんの本を読み進むと、内発的動機がどこに自分としてでるかである。それは人によって違うのだろう。報酬でも地位でも名誉を求めるでもなく、純粋に心の内側から来る、ワクワクする気持ちである。それが「フロー」につながら、もっと長期的な「大河の流れ」につながるだという。やりたいこと探しができる時期にいるというのは確かである。明日は出かけるのだが、自分としての理想は掲げ続けたいと思う。そして、この経済が絶対だと思われる世界の中で天外さんは、運命に身をまかせて、いかにジタバタしないかが、スムースに疲労することなくいけることなのではないかと考察されている。「なうようになれ」、グータラになれという感覚だという。「つまらないことにクヨクヨ悩んだり、いたずらに未来に不安を感じたり、思い通りにならない周囲の状況にイライラしたりするのをやめて、もっと大きな力のはからいに身をゆだねなさい」ということを書かれている。好運な時期にもおごりたかぶったりせず、不運な時期にも落ち込んだりしない淡々とした腹が座ったような感じになるならばというようなことが書かれていると思う。動揺は経済的なもので、お金がそれだろうが、それに淡々とできるかどうか。ホームレスやネットカフェ難民になってしまった人とどうそれを結びつけることができるだろうか。もう、福祉事務所の前で抗議の自殺をしてしまった人たちはこの世に帰ってこない。他力にしても他者の仏性が無ければ実現しないことではないか。日本と言う国はきっとそういう仏性の多い時代を経ながら、なぜか、その人々の仏性が減り続けて、生き辛い、危険な世の中に向かっていってしまったのかも知れない。
2008.06.13
天外さんの本を少しずつ読みすすめる。一度通して読んでいるはずなのだが、忘れてしまっている。会得するには1度だけではわからず通り過ぎてしまうのだろう。セーフベース(安全な基地)があることが創造性を高めるのだと書かれている。不安な立場においては、萎縮してしまい、いろいろな能力が低下してしまう。改善すべきは「自己否定」で、天外さんの話では、それはバーストラウマによるという、出生時の外傷というのは、安全な子宮の中から現世に出生せねばならず、その苦しみのことを言うのだと思う。それを幼児期からの親をはじめとした周囲の愛情でほころばせていく。しかし、それがほころぶことの出来なかった場合に、バーストラウマが残ってしまい、それを人は解消しようと一生行おうとする。自然に解消するのが良いが、一方で、戦いのエネルギーとして昇華してしまおうとする人がいるという。それが、指導者や権力者に多いという。引用「企業の上層部も常に足の引っ張り合いの主導権争いを繰り広げている」人気者の多くがおごり高ぶっているのは自己否定が根本解決していないからで、戦いのエネルギーを華々しく昇華していけばいい人はいいが、成功や経済に恵まれるとしても、それではほんとうの「フロー」な人生にはならないだろう。今の社会的な経済的成功などはその次元のものであるのだという。もっと意識の高まりをみせる「フロー」な状態を目指す人は、経済的成功などは目指せないかも知れないが、競争的な社会の存在も目指していないという。人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、ゆだねるという言葉もある。しかし、湯浅誠さんの『反貧困』に書かれていたように、福祉事務所の前で、生活保護を断られて、抗議のために、自殺した人が実際に複数いるというのだ。周囲が「フロー」な感覚をもっていない場合、自分だけが「フロー」な感覚をもっていても、どうにもならなくなる。どうしても無関係ではないのだ。もっと状況的に安定していて、強い人たちが、「フロー」な感覚が保たれるように守っていかねばならないのに、精神の荒廃がどうして進んでしまったのか。誰がそうさせてしまったのか。そういう原因究明が本当に必要な研究なのではないかと思う。
2008.06.13
今、こういう状態だと、生みの親が片方生き残ってくれていることがほんとにありがたい。削除したコメントには、母親になにかいう年ではないだろうなどと書かれていたが、自分は、母親が生きてくれていて心底助かっていることを伝えた。それが、実は誰もが経済的に自立して生きていると思ったとしてもお金のつながりで生きているのなら、会社からお金をもらっていることで、生きていたり、自営業の人でもお客さんからお金をもらって生きているということで、誰かがいるおかげで生きているわけである。なんらかの理由で窮地に追い込まれても、それが奥さんだったり、友人だったり、親戚の人だったり近所の人だったり、親身に相談にのってくれる人が一人でもいれば人は助かる可能性が高くなるのかも知れない。会社とお金だけではなくて、しかし、会社の比重が大きい仕組みの今は、会社の人でも助け合っている。だが、会社は入るまでに選抜がある。それは関門である。一日だけでもいいから困っています。助けてくださいと言っても聞き入れないところは聞き入れてもらえない。この構造になにかヒントがないのだろうか。ホームレスやネットカフェ難民が実在するまでほおっておける、湯浅誠さんの言葉では、「すべり台社会」そういう構造の中では、親にいつまでもというより、語り合えるということは、ほんとに感謝するべきことである。それがでも、奥さんだったり新たな家族だったりすると、印象がまあそれは通常かなというイメージになるかも知れない。でも、解決策として、生みの親から、何度だとしても、会社という、社長などの育ての親みたいなところを探し出すということである。転職をするということは、そういう育て上げたのに、違う場所に行ってしまうのかという、感情のあるのかも知れない。だが、逆に、派遣労働者の首きりなど、育て上げたのにという感情と逆の現象が出てしまうようなところもある。いずれにしても、相当社会や仕事ということに人生が翻弄されてしまっている。人生が仕事や社会に翻弄されてしまい、41歳で奥さんもできないというのに、削除したコメントには、41歳にもなってなどと書いてきていた。名誉毀損であり、そのコメンテーターは、殺人犯人か傷害罪と同じだ。そういうところが理解できない人である。そういう人の存在はなんなのか。ただ、それもその通りだと思うところもある。ちゃんと長い就職でもなんでも安定した経済のタネをもって、奥さんがいて、子どもの成長のために苦労しているんなら、誰もが文句も言わないだろうが、でも、文句だけ残されていっても、言われても、解決にはならない。最善は、尽くしているつもりだ。それ以上になにかしろといわれても、全力で走っているのをもっと走れといわれているようなものである。こういうシャドーが現れるというのは何を意味するのだろうか。ノルマ社会の人間からなのだろうか。匿名というのは相手の素性がわからないから、その人間の素性がある程度でもわかれば、その人間のコンプレックスがひどい言葉を吐き出させてしまったのだというシンクロだとわかるのだが。人には必ず背景がある。その背景がわかれば、酌量されるところもあるのだが。そこがネットの不完全なところなのかも知れない。このことは自分の関心の範囲にしたくはないことだ。エネルギーを使い疲労する。でもそういう人が関わってくる。なんのメッセージなんだろう。でも、新たな育ての親というか、尊敬できる経営者に会ってみたいなと期待もある。むしろ、新たな出会いが人よりも多くできて、多くの人に会えて、交流できて幸福者といえば、幸福者なのかも知れない。生活の日常が固定化してしまっているような人が、見ず知らずの他人を傷つけるような言葉だけ残せるような、足りているようで、足りてない人だったりするのかも知れない。一般論でそう思う。自分が精神的に満たされていたりしている人は、楽しい会話を残すか、良い感じで導こうとしてくれるだろう。書きたいときだけ書いて、読みたいときだけ読んで、考えている一個人に文句だけ書き残せる精神がわからない。犯罪行為と一緒だ。理解してもらえないのだろうか。被害者が被害を訴えているんだから、犯罪行為だ。これだけ、何度も迷惑だと書いても、わからずまた訪問したり書き込むようなら、本当に犯罪なので、対処しなければならない。そういう機関に相談をもちかける。内容はコピーしてみせる。
2008.06.13
それぞれ、人は境遇も経験も考え方も違うのだから、特に匿名であったりする文章だけでは本心は測定できず、よかれと思ったことが逆であったり、その逆であったりするものなのだろう。自分のフィルターがそもそも変だからな。むしろ、今の状態を楽しむことをせず、仕事をしている時期もしていない時期も不安を携えて、逆のほうに目が向いている自分だから、おかしなことこの上ない。仕事をしている時は辞めたいと思い、辞めている時は、お金のこともあるが、やらねばと思ってしまう。でも人それぞれ境遇が違うから、自分としては、自分なりの境遇で、それは良いところもあれば、悪いところもあるけれど、できるだけリアルに記録しておきたいというものがある。でも、その反応は人それぞれだから、それにエネルギーが注ぎ込まれてしまって、本筋とずれてしまったりしそうになる。失業したら、就職活動をするわけだから、ずっとこのままの状態が続くわけではないだろうし、続くわけがない。でも、リアルに不本意な状態の時のことを書くのは難しい。悪意のあるようなコメントがきたり、自分なりの精一杯がもっとできると思われたりする。無関心ではなく、関心があるからコメントをいただけるのだろうが、匿名だとよけいなにを意図されているのか、いじめたわけでもないし、ひどいことをこちらから言ったわけでもない誰かにひどいことを書かれると疲労する。それでは、リアルなことが書きづらくなる。なにもリアルなことを書くことも無いと言えばなかったことだが。ブログに嘘だっていくらでも書こうとすれば書けるものではある。しかし、境遇は誰もが違うから、リアルに書いても、違う人はまた違った歩みしかできない。でもなんだか支離滅裂だけど、こういう例もあるのかと思ってくれて少し気が紛れてくれる人がいればいいんじゃないかと思う。しかし、気を紛らわせてくれる人が読む前に、いろいろ疲労するコメントや関わりをされるとリアルなことは書きたくなくなってくる。それはきっと私だけではなくて、インターネット一般に起こることだろうし、顔を見合わせる社会でもおきてしまうことなのだ。自分が社会的に順調な時なら、多少意見の食い違いがあっても、疲労しないのだろうが、不本意な状態の時にリアルに書くのは重いものがくっつく。天台宗の一念三千の理論では、仏の中に阿修羅が住み、阿修羅の中にも仏がある。経済状況では不本意かも知れないが、レールをはずれて、また戻りながらも社会人生活は15年以上にはなってきて、家族の協力を得ながらもなんとか生きていられる。それで誰だかわからない他人に疲労するような文句を残される筋合いはない。犯罪行為だ。言い方がある。言い方が変われば許せる。なぜそういうことがわからなくなってしまう人がいるのか。それは経済状態とは別の話である。人は関わらなくてもいいことに関わってしまうのかも知れない。関わろうとすることは大変なことである。だから、匿名であっても、思いやりを含んだ中に厳しさがなければいけないと思う。日本人には、かもし出してわかるということがあるのかも知れないが、はっきり言葉で思いやりを伝えられないとわからない面は必ずある。経済状態のことばかり考えていたので、こういうことも大事なことだったかも知れない。削除した内容に短期間で辞めてしまうことを非難したような内容があったのだが、暮らしていければ、別に短期間であっても、迷惑なことではない。企業は私がやめてもびくともしない。つらくなっているのは私だ。現実に。しかし、それでも雇ってくれるところはあるはずだ。私の5倍くらい転職していて、元気にネットに書き込んでいる人もいる。そういう例を残せば、転職してしまって困っている人も少し気が楽になるかということや、短期間で辞めることのイメージの固定化が絶対かというと、殺人や盗みは絶対悪いことだが、短期間で辞めてきたことは絶対的な悪ではないだろうという記録を言う人も必要ではないかと思うことも、リアルに書きたいことである。コメンテーターの視界でみたら、他人である私の良さもコメンテーターのフィルターにさえぎられてしまう。もし誰かが150回くらい転職したが、かえって尊敬されるかも知れなかったのに、それが崩されてしまうなんてこともあるかも知れない。これもわかってはもらえないだろう。コメントや掲示板を受け付けない人もいるが、思いやりのある言葉をかけてくれる人もいたりする。その人たちもオープンな中で書いてくれる。だから、できれば、楽しい語り合いの多い、場になって欲しい。それをあえて崩しにくる人はおかしい。ネットでいろいろ書いても、現実にそばの人に相談したり、ハローワークに相談してものごとは動く。でも、ありがたいアドバイスももらえる。このブログは最初から、コメントも掲示板もメールもなにも全てオープンにして3年以上書いてきた。それだけの時期にうちにやはり上がり下がりがあった。それをぽっとでの通行人のような人にひどいことを言われるのは不思議だ。私の全部がわかるわけでもないのに。責任を感じてくれる人は文句だけ言い残すわけがない。厳しさの中に優しさは含んでいるはずだ。それはネットを超えて現実社会にも届くはずだ。文章だけだとたしかに相手の本心もわからない。文句だけ残しても、いい人なのかも知れない。なんだか、失業していたりすると、リアルに書いておきたいだけなのに、リアルに書きにくくなるようなことが発生する。出会いがあれば今後も大丈夫である。あえて、金銭的な面だけではなく、自分を再生するための辞職であり、転職なのだから。このブログを書き始めた、フリーペーパーの営業の頃から、まったくこの3年後は予想もできなかった。いろいろなことをした。むしろバラエティーに富んでいる面もあったかも知れない。コメンテーターのフィルターの話を書くと、気にさわらない、ヒントをいただける人も書きにくくなってしまうかも知れないことが残念である。私が書いていることではあるが、それを気を落とすようなフィルターを通してみてしまう人が入ると、通り魔とは、レベルは違うかも知れないとしても、やっていることは同じ方向のことである。だから、コメントは思いやりのあることがわかる書き方で、アドバイスをする時は私もしていかねばと思った。私自身がきついことだけ言って去ってしまった人も大勢いたのかも知れない。天外伺朗さんの書いているように、外発的報酬の構造に世の中がなっているから、なんだか心がすっきりしないことが起きてしまうのだろう。内発的報酬の日々だと純粋に考えれば、社会の難しさが人それぞれの心、考え方に出てしまうのが見えてしまう。秋葉原の犯人のような、誰でもよかったみたいな、そういう関係ないところに踏み込んでしまうということ、それは大変であること、匿名の人が人を傷つける言葉を残すことは、逮捕はされないとしても、延長上は犯罪行為である。私などは無名の者だが、有名人などは相当たくさんそういうことがある。匿名だろうが、本名だろうが、思いやりのある交流が、文章だけだとしてもできる社会にしていくこと。これが必要なことだと思う。そういうことに興味は自分は無かったのだが、匿名による文章での、抑制ができるかどうかが経済的なこととは別に人間の根本的なこととして大切なのだと感じる。またリアルなことは書きたくなくなっているが、それでも書き残したいので、電話代の新たな請求などきて、がっかりしたりしているが、ほんとに経済的にあぶなくなったら、このブログの更新が止まるということでわかると思う。いろいろ困惑しながら悩みながら選択しているのだ。そして探そうとしている。生活維持をさせてくれる誰かを。ペイントハウスの社長もわざわざ転職20回したと公表することはなかっただろうが、そのことによって、どんなにマイナスに思われる状態でも再起はできるんだと多くのそれを知った人を勇気づけたことだろうと思う。そういうことなのだ。でも、殺人犯などは人の生命を奪ってしまうと取り返しがつかない。取り返しのつかないことは実際ある。文句だけ言い残すような人は、延長上が、全くの他人の精神のエネルギーを奪うということで、同じ犯罪行為だということを、気づかねばならない。気づいた上で、もっと広がるとなるとよりおかしなことだ。インターネット社会はそういう人がどれだけいるのかわからないが、そういう記録を残し続けている。これはどういうことなのだろう。こういうことに目を向けるのもすごくエネルギーがいる。そういうことには関係したくなかったはずだ。そんなに関心もなかった。でも、そういう人ばかり周囲にいたら、どうなってしまうんだろう。自分自身が、経済状態とか、お金とか、権力とか、名声とか、安定的地位とか、外発的報酬に潜在意識があるから、そういうところが見えてしまうんだろうか。天外さんは、ユング心理学の発想だと思うが、ペルソナとシャドーということで書かれている。関係する人は鏡であって、問題は実は共有している。実は無関係では決してありえなかった。経済的に会社にいっていて、なにも生活維持には困ってないように思える人たちのほうが多いわけだが、その間に、知らずの間に、多くの人の心がすさんでしまっていったり、コメントの仕方の配慮もない人が増えていたとしたなら、運命とは出会いである。人ひとり、このままいても何も起こらない。出会いが生じれば、平均とか相手のフィルター(色めがねで見ているイドラ)も覆すことができる。他者が全て運んでくる。自分のフィルターの反応いかんで三千世界になってしまう。
2008.06.13
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