わたしのこだわりブログ(仮)
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ラストにBack number追加しました。今回の写真はモザイク画とシチリア島の遺跡からです。モザイク画はポンペイの遺跡とシチリアのピアッツァ・アルメリーナ(Piazza Armerina)にあるカサーレのローマの別荘(Villa Romana del Casale)からです。当時の絵は古代ローマ人の生活が偲べる貴重な産物ですが、個人的に興味のあるのを載せてます尚、遺跡はポエニ戦争にまつわるシチリア島からですが、こちらはギリシャ遺跡が中心です。ローマ人は征服した土地のローマ化を促進して行く。都市計画を持って聖所である神殿、広場や集会所、司法を行うバシリカなど公共建造物を造った。とりわけ灌漑の水路であるローマ水道の施設や市民の娯楽場であるローマの共同浴場の建設、また演劇や見世物を見る円形劇場や闘技場の建設は古代ローマの生活に無くてはならない物となった。街の生活は文化的になり、市民は娯楽に興じ不満を忘れる。それこそがローマの思うつぼ。ローマの都市支配の方法なのであった。しかも、街はもともとの地元の有力貴族に委ねて自治支配を任せていた。特に上層市民には市民権を認めていたので選ばれた者は自分の私財を投げ打って街の建設をも進めたのである。これはほとんどが市民権を有する「植民市」だけの話しではない。ローマでは服属する都市に対して自治権、市民権の与え方で「植民市」、「自治市」、「同盟市」とおよそ3つの方策で管理していた。「植民市」では、市民権はローマ人と同等に認められたが自治権は無かった。またこれにはローマ市民のみ入植とラテン諸都市出身者入植のパターンがあった。「自治市」では軍事・裁判を除く自治権は認められたが「完全な市民権」を与えられた自治市と「投票権のない市民権」を与えられた自治市とが存在した。だが「同盟市」では市民権、自治権のいずれも無く兵力供出のみが義務づけられると言う隷属扱い。これが俗に言うローマ帝国の「分割して統治せよ」のシステムらしい。さらに横の連携を切るようローマは各々都市と個別の取り決めをすると言う念の入れよう。因みにこうした支配の手法は19世紀以降の欧米の植民地経営でも応用されたシステムらしい。同じ働きをしながら市民権があるのと無いのでは雲泥の差。同盟市の扱いを見れば不満は当然。自治市だってしかり下層民の不満は出る。だが、市民権を持つ植民市からも不満は出て来た。上手く行ってたって恒に不満を持つのは人の性(さが)である帝政期のローマでは、不満を塗りつぶすがごとくあの手この手で市民に娯楽を提供するに至ったのだ。アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権ローマ帝国と市民権ギリシャの市民権との違いサッフォー(Sappho)古代ローマの女性の義務は出産古代のヴァニタス(vanitas)画悲劇の仮面と悲劇詩人シチリア島(Sicilia)とフェニキア人とポエニ戦争アグリジェント(Agrigento)の古代遺跡フェニキア人から地中海の覇権を奪ったポエニ戦争ピアッツァ・アルメリーナ(Piazza Armerina)10人の娘の部屋ローマ帝国と市民権当初は、都市国家ローマに居住する自由民のみに市民権が認められていたと言う。その市民権とは、文字通り市民が持つ権利であるが、権利の代償に市民として幾つかの義務を負っていた。その一番の義務が兵役である。兵士は所有する財産によりランクがあり「兵士として兵員会に登録」された。例えば3000セステルティウスに相当する資産ほ有するとか、兵役の際の武具類は自前調達など・・。※ 前回紹介したが兵士は「騎兵」、「歩兵(1~5等級)」、「歩兵以下(多数の無産市民含)」に等級分けされていた。また兵員登録以外に在住する地区の民会(市民集会)に所属する事により選挙権(公職者投票権)があったし、資産10%を納付しなければならない属州民税の免除(免税権)もあったようだ。が、同じ市民でも、上級市民(貴族)と平民市民の間には選挙権や裁判など大きな格差もあった。これも前回触れたが、BC5世紀「成文法(十二表法)」が制定されるとだんだんに下層市民の権利も向上して行く。十二表法では民事訴訟、債務、家族、相続、財産、不動産、葬儀、結婚、不法行為、犯罪などに関する法や規則が定められた。これにより例えば正式な婚姻の関係にあるローマ人の両親より生まれた男子は自動的に市民権を得られたが、下層兵の場合、兵役中の結婚は正式に認められず、兵役期間終了まで、その子供らにローマ市民権は与えられなかったそうだ。ところで市民権は、当初は兵役の「義務」と言う障害を伴う特権的権利であったが、BC1世紀に行われたマリウスの軍制改革(Marian reforms)によって兵役が義務でなくなり図らずもローマの市民権に価値が生じたのである。兵力にムラのある市民の兵役制度ではローマは勝てないと志願制にして精鋭の職業軍人を造りローマ軍を再編したからだ。ギリシャの市民権との違い古代ギリシャのポリスでは、市民権がポリス(アテネ)居住者のみに与えられた特権でありポリス以外の住民に拡大される事は無かった。実は、ローマは市民権作成にあたって、当初ギリシャの市民権を参考にしている。が、この市民権は、ローマ以外の地域の都市国家に与えられる場合も出てきたし、後々ローマ市民の枠を越え、他部族や他民族、解放奴隷にまで広がって行った。解放奴隷にまで市民権を与えた事はさすがにギリシャ人もビックリだったらしい。違いは何か?ギリシャの市民権が民主制を示す象徴であったのに対し、ローマの市民権は独特の特権故にちょっと違った意味を持っていた。何しろ他部族や他民族、解放奴隷まで欲しがった権利なのだ。これは一つの財産と捉(とら)えられる。市民権は美味しいあめ玉のようなもの。元老院はローマの発展と維持の為に市民権を与えまくって行く事になる。そうして、かろうじてローマは共和政を維持して行ったのである。が、最終的には市民権を得た者らの士気は落ちる。欲しかった時の意欲は戦力であったが・・古代ギリシヤの女性詩人サッフォー(Sappho)の肖像ポンペイ出土。ナポリ考古学博物館所蔵※ サッフォー(Sappho)(BC632/612~BC570年頃)レスポス島出身でレスボスのアイオリス方言を使っていた彼女の詩形は4行からなる「サッフォー詩体」と呼ばれる。韻(いん)が良く多くの詩人がこれを真似している。彼女の詩は高貴な言葉で、美しい旋律で紡ぐから誰もが酔いしれてしまう。後のギリシャの哲学者であるプラトーン(Plato)(BC427年~BC347年)は彼女の詩を高く評価し「古代ギリシャの神に仕える女神に並ぶ」と表している。彼女の詩はキリスト教が勢力を伸ばしていく中、排斥の対象となりキリスト教の害の少ないアレクサンドリアの図書館で秘蔵される事になる。またここに同じく迫害され始めたギリシャの学者らも勉強の為に集まる事になる。だが、キリスト教徒は世界で一番の蔵書を誇ったアレクサンドリアの図書館をも破壊し蔵書を焼き払らった。貴重なヘレニズム期の文献もサッフォーの詩も失われてしまったのだ。シチリア島に亡命していた事から同島に関係が深くローマでも崇拝されていた詩人。それ故誰か好きな者がいてポンペイのフレスコ画に特に美しく描かれて残されたのだろう。数ある展示の中でも一際目をひく美女である。古代ローマの女性の義務は出産ところで、上に散々紹介した市民権の話しは男性主体の話しである。市民権の義務となる兵役をこなせるのは男性のみ。兵役に出られない女性は親の地位で立場が決まるしか無かった? と考えられる。女性の立場は? あまりよろしくなかったのは明白である。ここで、ちょっと寿命の話しを挟む。古代ローマ帝国の平均寿命は20歳から25歳。それは乳幼児の死亡率が高かったからだ。特に0歳児の死亡率は30%を越えていて5歳までに50%が命を落としていたらしい。60歳まで生きる人は少なかったらしいが、帝国人の人生の一区切りが60歳。家父長が絶対のローマ帝国ではあまり長生きされると家族が嫌がったらしい。話しは戻って、共和制初期までは女性は特に子供を生み増やす為の道具的な立場だったらしく5人以上の出産が期待されていた。それは乳幼児の死亡率が高かった事に関係もしているが、当然健康な男児の出産が望まれていた。だから、下層民の場合、肉体労働が主な生計となる為、経済的理由で健康で無い子(奇形児)や女の子は選別されて殺されたり捨てられていたらしいのだ。ただでさえ乳幼児の死亡率が高いのに・・。※ 文面から奇形児の出産率が割と多かったのではないか? と読める。鉛害か? また、上層市民の女性は出産を嫌がり避妊の傾向があったと言う。実際元老院らの家系は2世代くらいで絶えているらしい。だから少子化問題を危惧した法令も作られたそうだ。ところで捨てられた子供は・・。運良く誰かに拾われる事もあったそうだ。しかし、それは美談では無い。拾われた子は生涯拾い主の奴隷としてこき使われる事になるのだから。古代のヴァニタス(vanitas)画「汝、死すべきことを覚えよ」ポンペイ出土のモザイク画三角形は水準器で「平等」を表すそうだ。皆に平等に来る死。「避けられぬ死と人生の儚さの象徴」を現した絵と解説があった。つまりこれは「人生の儚さと虚しさの寓意」の静物画、いわゆるヴァニタス(vanitas)画にあたる。意味はまさに「死を忘れるなかれ」メメント・モリ(memento mori)である。ヴァニタス(vanitas)画については以前プリンセンホフの所で紹介した事がある。リンク デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)しかし、こちらはキリスト教の発祥よりも200年以上前のローマ時代の絵画。中世以降のメメント・モリと古代ローマ時代では教訓のとらえ方が全く異なっている。古代ローマでは「いつか死ぬのだから今を楽しめ」「歌えや、踊れや、酒飲んで楽しめ。」快楽を享受する事を奨めているのだ。古代ローマの繁栄は、娯楽を求め、娯楽を市民に与え続けた前向きな生き方にもあったのかと思う悲劇の仮面 ポンペイの遺跡のモザイク画から教訓? を隠喩(いんゆ)するかのような絵がずいぶん見受けられる。まるで生首のような頭部が描かれた不気味な絵である。また頭部だけのもある。それは実は仮面であった。下に紹介するのは花やフルーツの装飾の中に描かれた悲しみの仮面である。ポンペイ、ファウヌス家出土。ナポリ考古学博物館所蔵※ ファウヌス家はアレクサンドロスの壁画が出た家です。仮面はギリシャ由来の祭りで端を発した演劇。悲劇、喜劇、サテュロス劇という3つの戯曲のジャンルの一つらしい。下のモザイク画は演者の楽屋裏の光景らしい。それぞれの仮面が置かれている。悲劇詩人 ポンペイ、悲劇詩人の家出土。ナポリ考古学博物館所蔵サテュロス劇の準備をする役者と楽団員の図らしい。今回演劇について触れるつもりは無いが、仮面は日本のお能の面のような意味を持つものなのだろう。但しローマの仮面は演目の後に神にささげられたのか? 現存はしていないのだそうだ。いずれにせよ、ギリシャの祭りから発した演劇はローマから世界に広がったと思われる。ここでローマの彫像から当時の若者の職業別? 風俗姿を選んでみました。ナポリ考古学博物館所蔵。シチリア島(Sicilia)とフェニキア人とポエニ戦争シチリア島(Sicilia)は大陽に恵まれた地中海一大きな島である。どこもがここを見逃す訳はなく、地中海の制海権をめぐる戦いはここから始まったのであるBC900年頃にはすでに海の民であるフェニキア人が島の海岸に交易拠点の港を建設。彼らは侵略者ではないので内陸に進出することはなく先住民と交易を行っていた。ところが、BC750年頃からギリシャ人の入植が始まる。東岸のシラクサはBC734年頃にはギリシャ最大の植民都市となっていた。彼らの目的は島の侵略(植民地化)である。※ フェニキア人は島の西側のモティア、パノルムス、ソルスに後退。BC431年にペロポネソス戦争が起こると、島ではイオニア人とドーリア人の植民都市同士の抗争が激化。シラクサ(ドーリア系)はスパルタの後ろ盾を得て勝ち残る。つまりギリシャ側は一つではなく部族で争って取り合いになったのである。次にシラクサの支配者は全土を得ようとフェニキア人の追い出しにかかる。最後にローマに援軍を頼んだ事がポエニ戦争の発端となった。当時のローマとカルタゴ(フェニキア人)の船ローマは当初海戦国ではなかった。第一次ポエニ戦争で勝利するとカルタゴ(フェニキア人)の船を研究してローマの軍船を造り地中海へ乗り出して行くのである。ところで、ポエニ戦争は「カルタゴvsローマ」とされるが、カルタゴの街が表に出て来るのはアレクサンドロスの遠征以降である。かつてフェニキア人の要となっていたのはシリア沿岸の諸都市の中でも最大のテュロス(Tyros)の街であった。カルタゴはシリアからイベリア半島を目指す地中海の寄港地としてテュロスが造った街なのである。アレクサンドロスにテュロス(Tyros)が完全に滅ぼされるとフェニキア人の中心がカルタゴに移ったのでありフェニキア人の最後の砦がカルタゴであったと言う事なのだ。確かに最後はカルタゴでの市街戦になるが、本来は「フェニキア人vsローマ人」が第一次ポエニ戦争なのである。アグリジェント(Agrigento)の古代遺跡アグリジェント(Agrigento)コンコルディア神殿(Tempio della Concordia)シチリア島南部アグリジェント(Agrigento)は古代ギリシアの植民都市アクラガスに起源イタリアの国定史跡であり1997年ユネスコの世界遺産にも登録BC5世紀に建てられ、AD6世紀にはしばらくキリスト教の聖堂に転用されていた。その為、保存状態が良いらしい。ドーリア式神殿。第一次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)ではこのアグリジェント(Agrigento)をめぐる攻防がカルタゴ(フェニキア人)と共和制ローマの間で行われている。(ギリシア名アクラガス、ラテン名アグリゲントゥム)の戦い。シチリア支配にローマが参入してきたのである。後方はアグリジェント(Agrigento)の街。神殿の谷には7つの神殿遺跡がある上に転がっているのは人型(男性)の柱、アトラス(atlas)のレプリカ※ 古代ローマでは男性柱をテラモーン(Telamōn)と呼んだ。下はアグリジェント考古学博物館のアトラス(atlas)オリジナル7.75m下はアトラスの柱が使われていたオリュンポス・ゼウス神殿の想像模型。これは現存していればギリシャの神殿史上最も大きな神殿であったらしい。112.6m×56.3mこれは正面ですが、横も同じです。BC480年ヒメラの戦いに勝利したシラクサのギリシャ人は捕虜のフェニキア人を使って建築させた神殿らしい。結局未完に終り、後に地震で倒壊。冬でも一面緑におおわれ、春にはアーモンドの花が咲きほこる。めったに雲もかからない晴天にめぐまれた大地。シチリア島の特産は大陽の光を一杯浴びたオレンジやレモン、オリーブ、イチジク、アーモンド、ピスタッチオ、それにワイン。他に鉱物資源として硫黄(いおう)は世界有数の産地。古来から有名で黒色火薬の原料になるし、イチジクなどの漂白剤やワインの酸化防止剤にも使用される。また方解石(ほうかいせき)カルサイトが産出される。これは鉱石としては石灰石、石材としては大理石として利用される。シチリア島は地中海のほぼ真ん中に位置。島の南西にカルタゴ。地中海右の端に滅ぼされたテュロスの街を印ました。因みに第二次ポエニ戦争ではシラクサがカルタゴと組んでローマを敵に回したので都市国家シラクサは、ローマに併合されシキリア属州に組み込まれた。※ この第二次ポエニ戦争では古代ギリシアの数学者にしてあらゆる科学の学者であるアルキメデス(Archimedes)(BC287年?~BC212年)がローマ兵によって殺されている。フェニキア人から地中海の覇権を奪ったポエニ戦争ここで、再び押さえておきたいローマの歴史です。ローマの快進は、ラティウム(Latinum)同盟解体からのイタリア半島統一を契機に始まるのですが、欧州全土に帝国を持つに至る重大な戦いがフェニキア人との3度に渡る長い戦いです。第一次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)第二次ポエニ戦争(BC219年~BC201年)第三次ポエニ戦争(BC149年~BC146年)イタリア半島のつま先にあるシチリア島の利権問題に始まったこの戦いは最終的に地中海からアフリカ大陸、イベリア半島までの全てのフェニキアの都市を奪いローマは勝利する。フェニキア(Phoenicia)人については、すでに「アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の所で紹介した通り、地中海交易の始祖とも言える海の商人です。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン先にも触れたが、アレクサンドロス王の遠征でシリア・レバノン、アレキサンドリアまでがギリシャに奪われたが、まだカルタゴ(現チュニジア)を拠点に彼らは地中海の覇権を握っていた。ローマは、フェニキア(Phoenicia)人との最後の戦いで2度とフェニキア人が復活できないよう彼らの本拠カルタゴを壊滅し、彼らの植民都市や交易先をそっくり頂く事となり地中海交易を手にするのである。因みに歴史が面白いのは、以降、歴史の表から消えた? フェニキア人であるが、212年、全属州民に市民権を与える「アントニヌス勅令」を発布したカラカラ帝は実は属州出身のフェニキア人であった。そしてこの勅令により税制は増えたが市民権の価値が下落。結果的に兵力もローマ帝国の国力さえも低下して行く事になる。ローマは確実に破滅に向かい始めたのである。滅ぼされたフェニキア人の仕返しみたいな落ちですね。ピアッツァ・アルメリーナ(Piazza Armerina)10人の娘の部屋ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ(Villa Romana del Casale)ローマ帝政の末期の大富豪カサーレ(Casale)の別荘とされる豪邸は建物面積3500㎡。室数40室以上。アトリウム(atrium)の他に列柱廊に囲まれたの大きな中庭ペリステリュウム(Peristylium)を持ち、浴場や水洗トイレも設備された大邸宅である。屋根や壁こそ無いが、各室、廊下共全面に敷かれているモザイク画が非常に見事な家なのである。古代ローマの家にアトリウムを持つ家はあったが、BC2世紀からポンペイのファウヌスの家にも見られるようなギリシア・ヘレニズム的列柱廊で囲まれたペリステュリウム(peristylium)と呼ばれる後方の中庭が貴族らの舘の建築に現れてきたそうだ。左手前が浴室サウナのボイラーにあたる。当時の風呂は床暖のような蒸し風呂式である。カサーレの別荘はAD3世紀末~4世紀なのでずいぶん後であるが、ペリステュリウムを造る事ができる金持はあまりいなかったかもしれない。12世紀までに地震や土砂災害で土砂に埋もれてしまったので床が割とよくのこっていたのである。この家のモザイク画には多種多様な珍しい動物も描かれている事から動物専門の商人だったのではないかと考えられている。特にローマ帝国内のコロッセオで催される剣闘士と猛獣の闘いで使用される猛獣類を北アフリカから仕入れたり捕まえたりしていた?ペリステュリウム(peristylium)横の65mの大廊下のモザイク画はそうした事情がわかるような絵が連なっていると言う。だが、この家の見所はそこではない。10人の娘の部屋と呼ばれる床絵のモザイク画(便宜上縦にしていますが床絵です。)等身に近いビキニ姿の美女がスポーツをしている図なのである。しかし、横幅10m近くのこの部屋の全景を撮影する事は難しい。しかも屋根の被いの影も写り混むし・・。そもそも撮影場所はこの部屋の壁の上に渡されている通路からなのである。場所は先ほどの図面に記したピンクの部屋である。なぜビキニ姿でスポーツをしなければならないのか解らない。シチリアの夏は確かに熱いかもしれないが・・。これは男性に向けたショーなのか? それとも女性同士の集いなのか?この別荘の目玉なのである。ローマ帝国では版図拡大とともに属州からたくさんの穀物がもたらされるようになった。特にシチリアを手にした事は大きい。冬でも稔りがあるからだ。エジプトを含む北アフリカや中東からの物資も直接手に入れる事ができるようになった。それら属州からローマには大量の小麦が輸入されるようになったし、後に手に入れるギリシャなどからは鉱物資源も手に入れられただろう。そんな大量の外地からの輸入品にイタリア半島では小麦の生産を止めてオリーヴなどの果樹に切り変えたと言われている。しかし主食のパンになる小麦を輸入に頼った事による食糧危機が後々頻繁に起きる事になったと言う。今回でもローマは終わりませんでした m(_ _)m次回もローマはつづく。Back numberリンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易) アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2020年02月28日
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