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カンナビ(神奈備)について書いたリンク先追加しました。2009年に書いたモンサンミッシェル・シリーズを新たに編集しなおしたものです。「大天使ミッシェル(ミカエル)」も合体させました。ほぼ別物です。ところで先ほど「キンバリーダイヤモンド鉱山のビッグ・ホール」の写真も総入れ替えしました。リンク キンバリーダイヤモンド鉱山のビッグ・ホール以前の陸橋が壊され、パセレル橋(Pont Passerelle)が2014年に完成。全体の見える景色は2014年を境に若干変わっているようです。写真の最新は2010年11月なのでオリジナルの新しい橋の写真はありませんが、モンサンミッシェル内部の写真はかなり増えているので沢山載せられます。むしろ多すぎて選ぶのに時間かかっています。「欧州の交易路」もあるので少しずつ変更していく予定です。橋の完成に伴い、島への一般車輌の乗り入れは禁止されました。それに伴いモンサンミッシェルの街には以前なかった大きな駐車場が何カ所か増設。そこから無料のシャトルバスで島まで向かうようになったのです。※ 鉄道駅は街に無い。でも、島内への宿泊者の場合、団体専用バスでの乗り入れができるそうです。またシャトルバスは夜0時まであり、モンサンミッシェルの夜景を島の外から眺め撮影する事も可能。モンサンミッシェルの観光のポイントは「潮の干満のタイミング」と、「映(ば)える天気」。何より干満の差を楽しむなら日帰りよりは泊りが望ましい。干満時間を考えて日帰りは難しいので・・。※ パリからだと往復時間がかかるので時間的余裕はほぼ無い。モンサンミッシェル城壁内に宿もあります。街はずれにはモンサンミッシェルが望めるホテルもあります。それにしてもいつの季節に訪問するのがベストなのか?そしてこだわるならばやはり一番は潮の時間。大潮の時が本当はベストでしょうねモンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)霊場の歴史大天使ミカエル崇敬の聖地岩山の聖堂大天使ミカエル(Archangel Michael)天使のヒエラルキー(Hierarchy)モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)霊場の歴史BC5000~BC3000年の新石器の時代、その太古からモン・サン・ミッシェルの岩山は神聖な場所とされていたらしい。※ この時代の巨石記念物の墓碑(ドンメル)が頂上付近にあったとされている。また、4世紀から6世紀にかけて、ブルターニュ地方はグレートブリテン島南西部から移住してきたブリトン人の地となり、次いでこの地に定住したケルト系民族にとっても、ここモン・サン・ミッシェルの岩山は霊場とされていた。※ ケルト人の事は以前「古代ローマ水道 9 (イギリス バース編 2)」で少し紹介。リンク 古代ローマ水道 9 (イングランド・バース編 2)※ 次章でケルト民族の移動の事など詳しく書きました。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人トーンブ(墓)という名の岩山が突き出ていて、人々はこの岩山を霊場と仰ぎ始めた。ガリア人(ケルト人)の時代には光の神ベレンの神殿があり、ローマ時代には旅と使者と商業の神であるメルクリウス(ヘルメス)の神殿があったとも伝えられている。キリスト教の時代に入ると昔の異教の霊場の多くはキリスト教の聖地に変わっているが、トーンブの岩山もまた5世紀にはキリスト教の隠者がすでに庵を構えるキリスト教の霊場になっていたらしい。聖オベールの夢(Dream of St. Ober)突然現れた大天使ミカエル(Michael)or大天使ミッシェル(Michel)からお告げを受ける司教オベール教会のゲート上のティンパヌム(tympanum)だったものでしょうか?アヴランシュの司教オベール(Avranches Bishop Ober)(生年不明~720年)メロヴィング朝の第10代国王キルデベルト3世(Childebert III )(695年~711年)(在位:695年~711年)の治世の話し。大天使ミカエル崇敬の聖地モンサンミッシェルからほど近い(2時の方角)にあるアヴランシュ(Avranches)の旧市街は海を見渡せる高台で、かつて司教座聖堂が置かれていた。※ 司教座聖堂は近隣の教会を統括する大きな聖堂を持つ教会で司教が常駐していた。司教オベールは毎日霧の中から現れるこのトーンブを見ていたらしい。8世紀の当時頃、トーンブの回りはまだ陸で、シッシーと言う森に覆われていたと言う。島ではなかった? らしいのだ。ある日、司教オベールは夢を見た。モン・トーンブ(墓の山)に「我が名を称える聖堂を建てよ。」と大天使ミカエルからの夢のお告げであったと言う。そこで司教オベールは、大天使ミカエルを勧請(かんじょう)するべく、2人の役僧をイタリアに使わし大天使の残した衣の一片をもらい受けたと伝えられている。そこは5世紀に3度にわたって大天使ミカエルが姿を見せたという南イタリア、プーリア州山脈、モンテ・カルガーノ洞窟。モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)。大天使ミカエル崇敬のブームが西欧教会に起きるきっかけとなったミカエル信仰の因縁の場所らしい。かくしてトーンブ(墓の山)の上に709年10月16日最初の堂が建立されるのだが、その頃、地盤沈下? モン・トーンブは海の中に在る島となり、聖ミカエルの山、モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)と呼ばれるようになったと伝えられる。因みに、モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)の「大天使の洞窟」は幾世紀にもわたって大天使ミカエルの巡礼地となっていて、その出発点がフランスのモン・サン・ミシェルとなっているらしい。※ 大天使(Archangel)は天使九位階の八位に当たる位階(ランク)。ところで、モンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)のブームから、聖ミカエルを奉る聖堂を建てる事は当時欧州で流行していた事らしいのだ。※ サンタンジエロ(Sant'Angelo)もサン・ミッシェル(Saint Michel)も聖ミカエル(St. Michael)も同意。それ故、夢と言うのは方便で、本当の所は政治的背景があっての事? と推察される。フランク王国の宰相ピピン2世(Pippin II)( 635/40年~714年)への忠誠と、隣のドル司教区で、モン・ドル(ドル山)の岩山を聖ミカエルに献じていたからアヴランシュ(Avranches)は負けじと競い合った? と言う話しがある。岩山の聖堂最初の聖堂は、岩山頂上の西斜面に切り出し花崗岩の石を大雑派に円形に並べた造りで、100人収容できるサイズであった。聖堂に置かれた模型から。上が10世紀。下が11~12世紀の聖堂と推定。モン・サン・ミッシェルは岩山の上に増築されて大きくなっていった。13世紀に火災によりロマネスクの聖堂は焼失。ゴシックで建造される事になる。下が20世紀の教会通常、写真の撮影できない側からのショットです。ウィキメディアからの空撮。橋の建設途中のようなので2014年以前の写真のようです。司教は礼拝を行う為に12人の修道士からなる修道会を設立するが、当初はケルト人の古い修道会と同様のしきたりで厳格な規律の下に生活していた。堂は966年にベネディクト会派修道会に引き継がれる。13世紀にはほぼ現在の形になったらしい。下は、図解ですが、教会の聖堂を除くと下からトーンブ(墓)という名の岩山が現れます。新たに比較的大きな教会堂が頂上に築かれ、(現在は基礎部が発見)900~930年頃に大ききな礼拝堂が建立された。(現在のノートルダム地下聖堂・・上の写真の上部、Dの部分)トーンブの岩を崩す事なく教会堂は岩を覆うように増築され建設されたようです。以前、秦氏の創建した「蚕の社(かいこのやしろ)」の所でカンナビ(神奈備)の事を紹介していますが、そこも同じように古来より「神の座所」だったのではないか? と考えられる。つまり、その土地に根付いた神様(神霊)が宿る依り代(よりしろ)としての神聖な場所。「霊験のある場所」と解釈できる。実際、昔から神秘性を帯びていた景観を持つこの岩山が宗教が変わっても霊場とされてきたのは「神聖な力とされる物があったから」と伝えられている。この山頂では奇妙な電光現象が度重なって起こった。伝説によれば山の下は計り知れず深く、天と地上と地下で結ばれていると考えられ「神々と人間とを結ぶ伝達経路としてこの岩山が存在していた」などとも信じられていたらしいのだ。※ 「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」の中、「木嶋神社(このしまじんじゃ)の本来の氏神(うじがみ)」の中でカンナビ(神奈備)について書いています。リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎岩山を切り崩す事なく? の跡が教会の構造上も見られる。不自然な構造突き出たトーンブの岩が見られる。パセレル橋(Pont Passerelle)ができる前のモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)教会の尖塔には、モンサンミッシェルの名の縁となるミッシェル(Michael)の像が据えられている。※ ミカエル(Michael)に同じ。下は城門をくぐってからの撮影ミカエルは、神の御使いとして天と地の間を往来するとされ、地上から高くそびえ立っている岩峰や塔の上などに好んで降臨すると信じられ、ここモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel)でも尖塔のてっぺんに飾られています。(肉眼では尖塔は見えませんが・・)16世紀には、鐘塔の上にすでに金の大天使の像があったとされるが1594年の火災で消失。海抜157mの今日見られる彫像は、1897年に作られた作品。彫刻家エマニュエル・フレミエの原型(1879年制作)で、建築家ヴイクトル・プチグランが拡大レプリカを作り、自由の女神を手がけたアトリエ・モンデュイが制作。高さ4mの大天使像は打ち出し銅版製で鉄の骨組みにボルトで留められていて、総重量450kg。剣と羽根の先端が避雷針になっている為、100年の間に変形したらしい。1897年ヘリコプターにより取り外し、修理金箔の張り直しをし、再びヘリで戻して取り付けると言う技術のいる、大がかりな修理にマスコミを賑わしたそうです。ヘリの無かった時代はどうやったのでしょうね?大天使ミカエル(Archangel Michael)ところで、モン・サンミッシェルなので大天使ミッシェル(Michel)とした方が解り易いかもしれませんが、ラテン語のミカエル (Michael)がカトリックでの一般的呼び名なのでこちらで統一します。以下参考にフランス語のミシェル (Michel) ドイツ語のミヒャエル (Michael) イタリア語のミケーレ (Michele) スペイン語・ポルトガル語のミゲル (Miguel) 英語のマイケル (Michael) キリスト教のみならず、ユダヤ教やイスラム教において偉大な天使の一人として大天使ミカエルは存在。大天使ミカエル(Michael)はキリスト教ではラファエル(Raphael)、ガブリエル(Gabriel)、ウリエル(Uriel)と共に四大天使の一人です。 尖塔の像のひな型が堂内に置かれている。甲冑を身につけ剣を突き上げ、足下では悪竜を踏みつけている。守護者というイメージからも、像は山頂や建物の頂上に置かれ、ルネサンス期に入ると、ミカエルはしばしば竜(悪魔の象徴)と戦うミカエルというイメージから軍神として、甲冑を付け、剣や槍を持って表現されている。それ故? 中世においてミカエルは兵士の守護者、キリスト教軍の守護者となったようです。現代のカトリックでも、警官や救急隊員の守護聖人であり、ドイツやウクライナでは街の守護聖人になっている所も。モンサンミッシェルのように甲冑を身につけ剣を抜き放って、足下に悪魔あるいは悪竜を踏みつけている姿で現される事が多い。サタン軍との戦いから? 中世は疫病もまた悪魔の仕業と考えられていた為、その悪魔を退治する意味で疫病を抑える仕事もミカエルの役割だと信じられていた? からかも。またヨハネの黙示録では「天の軍勢の長」として天使の軍を率いて悪魔と戦うのがミカエルとされ、同じく「最後の審判」では、キリストの足下で亡者の魂を秤にかけ天国に進む者と地獄行くべき者を振り分ける者として絵画や彫刻で表現されたりしている。大天使ミカエルは「神に等しき者」、「天使の王子」の異名を持つ。それは神に次ぐ者、時に神の名代。同時に神に近い実力を持つ者として存在?そんな訳でミカエルを守護聖人として多く祀る所が増えた? のかもしれない。特に疫病や戦争の増えた中世の暗黒期、アヴランシュ(Avranches)の司教オベールのように、大天使ミカエルを勧請(かんじょう)し、山頂や教会の尖塔に像が置く街が増えたと考えられる。※ 少し前に紹介した「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中で「ハドリアヌスの霊廟」が「サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)」と名を改めたのも城の上の大天使ミカエルに由来していたっけ。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックサンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)の尖塔にある大天使ミカエルこちらはローマ時代に創建されているので軍服もローマ時代である。モンサンミッシェルのは甲冑から言えば13~14世紀の衣装です。サンタンジエロではミカエルの剣が納められている所からペストの終息が祈願されている。因みに日本の守護聖人として大天使ミカエルが祀られていた事もあると言う。なんと日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier )( 1506年頃~552年)がそう定めたらしい。天使のヒエラルキー(Hierarchy)ところで、天使にもヒエラルキーがあった。参考に載せました。天使の九位階と呼ばれるもので、神を中心として天球の層として現されている。これはダンテの「神曲」による所の宇宙絵概念図らしいのだが、9つの天球の層が9つの天使位階に対応しているのだとか。※ 神曲の天国編の解釈と思われる。当然、中心にいる神に近い順で地位が高いのだが、ミカエル達大天使は以外と地位が低い。熾天使(してんし・seraphim)(セラフィム/単数形はセラフ) 三対六枚の翼を持つ智天使(ちてんし・cherubim)(ケルビム/単数形はケルブ)座天使(ざてんし・Thrones)(スローンズ/単数形はスローネ)主天使(しゅてんし・Dominions)(ドミニオンズまたはキュリオテテス)力天使(りきてんし・Virtues )(ヴァーチュズまたはデュナメイス)能天使(のうてんし・Exousiai)(エクスシアイ/単数形はエクスシア)権天使(けんてんし・Arkhai)(アルヒャイ/単数形はアルケー)大天使(だいてんし・Archangelus)(アルヒアンゲラス/単数形はアルヒアンゲロス) 天使(てんし・angelus )(アンゲラス/単数形はアンゲロス)砂州だまりが牧草地化していた緑の向こうのモン・サン・ミッシェル。これもまた一興でした。ふと思った。前回、塩味の効いた牧草をはんだ羊のお肉は美味しいと紹介しましたが、ミネラルはともかく塩分は多いのだから羊だって高血圧になるのではないか?高血圧の羊、本当に美味しいのか? 若いうちに頂いてしまうなら問題ないのか?フランス革命の後、1793年最後の修道士が去るとフランス革命後に樹立された総裁政府により修道院全体が牢獄となったそうです。1863年まで国の監獄として使用され内部は改悪され荒廃、1865年に再び修道院として復元。島のサイドから後ろは海に沈む下はかつての陸橋 2010年の撮影写真にある陸橋は撤去され海流が流れるように橋がかけられた。2014年7月22日、新しく橋が開通。対岸から2km、砂州をまたぎパセレル橋(Pont Passerelle)が完成すると一般車両の島への乗り入れは禁止された。陸橋が砂州をため込み、陸と続いたら島ではなくなってしまう。との措置で橋脚の橋は2014年にかけられたが、歴史を振り返れば最初の聖域となるトーンブは陸続きの森の中にあった。その後、地盤沈下? 海に囲まれる島となった。たまに陸続きになると言う不幸から霊場に徒歩で向かう者の命を奪う危険な海域となった。最初から海なら船が使えたがここは船を出すにも中途半端。故に1877年に陸の橋がかけられ、安全が担保され、かつ美しい景色に世界遺産にも認定され繁盛。それにしても、本当に橋脚の橋は必要だったのだろうか?見た目は失敗だったのではないか? と思ってしまう。すでに150年の景色も存在し、定着していたのだから・・。おそらく、優先されたのはいろんな意味で経済的効果なのだろう。つづくまだ写真入れ替え途中ですが、次回は「アジアと欧州を結ぶ交易路 11」です。back numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年03月22日
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2009年に書いたモンサンミッシェル・シリーズを新たに編集して載せなおす事にしました。1~5になりました。ただ、モン・サン・ミッシェルは2014年に新たな橋がかけられかつてとはアクセスに関してはかなり以前と違ってきているようです。モン・サン・ミッシェル自体に変化はありませんが、見える景観も微妙に異なっているようです。比較するべく編集しました。尚、新規に更新した時点で古いのは削除します。モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞陸橋からパセレル橋(Pont Passerelle)の開通までモン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel) 自然に囲まれた要塞陸橋からパセレル橋(Pont Passerelle)の開通までノルマンディー地方南部、ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られた場所です。モン・サン・ミッシェルの修道院は、サン・マロ湾の南東部に位置する岩でできた孤島にあり、かつては満ち潮の時に海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた場所です。それ故、行き来は潮の引いた時のみ。しかし干満の差は水位のみならず時間にもある。恐ろしく早く潮がたまり溺れる者が多数出る難所としても有名であった。1877年に本土との間に陸橋が架けられ、以降は潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。それは観光客の増大にもつながった。しかし150年の間に陸橋の存在による砂の堆積で砂洲の陸地化が進んだようです。環境保全の観点から? 陸の橋は壊され、新たに橋脚のついた橋の建設が始まり2014年7月パセレル橋(Pont Passerelle)がオープンしている。2014年以前の陸橋の頃のモンサンミッシェル2014年以降、パセレル橋(Pont Passerelle)ごしのモンサンミッシェル写真はウィキメディアから借りてきました以前は海だった所が島の駐車場になっているようです。むしろ景観が不自然に変わっている気が陸橋の頃の方がナチュラルで風情があった気がします。ところで、1979年「モン・サン・ミシェルとその湾」としてユネスコの世界文化遺産に登録。1994年10月にはラムサール条約の登録地とされている。陸橋の撤去は従来の砂洲とモンサンミッシェルが島でなればならないと言う環境保全のためであるが、ひょっとしたら、それはラムサール条約の問題もあったのかも。それまでは砂洲が消え牧草地化するのは悪い事ではなかった? 開拓の歴史もある。塩分の効いた牧草を食べた羊のお肉は美味しいと、それ自体が名産化していたはずなのだ。だが、自然の作用で干満の度に砂が残り、河川も運河化されて水流も代わり砂の除去機能が失われた事に加え、特殊な草の群生も影響したらしい。歴史的かつ、精神的意味合いのある島と言うモン・サン・ミッシェルの特異性が失われるのは何より困る。事態を危ぐした結果なのだろう。下の写真は引き潮の時のモン・サン・ミッシェルの空撮です。ただし2014年以前の写真のようです。ウィキメディアから借りてきました。引き潮の時は孤島ではなくなりモンサンミッシェルの周囲はかなり広範囲に陸地化します。こんな状態なので船が使えないのです。確かに写真では砂洲の緑地化が見えますがこれは夏の写真では?下は2008年の引き潮の時の写真です。バスの停車している所は海に沈む部分です。干満は一日に一度はありますが、みなさん観光のタイミングでそれを見る事は泊まりでなければ難しいのです。下の写真は2010年3月の満ち潮の時です。モン・サン・ミッシェル(Mont Saint Michel) 自然に囲まれた要塞モン・サン・ミッシェルの岩山は、3km北にあるトンブーヌ島と、23km西にある(ドル山)と共に、6億年前のヘルシニア造山運動で地層が曲がりくねるように変形する褶曲(しゅうきょく)山地の跡なのだそうです。引き潮の時に干潟に入る人もいるようですが、ガイド付きが望ましいようです。中には深い所もあり、足を取られて抜け出せなくなる場所もあるからです。何より満ち潮が始まるとあっという間に海になるからあまり沖に行くと死にます。周囲の湾は45000haにおよび、世界でも最大級の潮差が観測されている場所。太陽と月の引力が合わさる春分、秋分の大潮では、潮差は15mに達するらしい。この時、海は一度18km沖に引いた後に、今度は1分間に62m(毎秒1m)ものスピードを持って潮が満ち、砂州はまたたくまに海の中に沈む。馬が駆け上がるくらい潮の勢いが早いので地元では、「馬の早駆け(Gallop)」と呼ぶらしい。1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになったが、それ以前は船で渡るか、干潮時にだけ現れる砂州を伝って島まで歩いていたので、よそから来た巡礼者はしばしば底なしの砂州に足を取られて動けなくなったり、満ちてくる潮にのまれて溺れ死ぬ者も多かった。確かに干潟には潮流の流れで作られた河も見られる。ラムサール条約は干潟を守る事なのか? 砂洲の牧草地化を防ぐものなのか?ちょっと真意が解かりかねるが、敢えてフランスでは干潟の開拓による土地の拡大をしてきた経緯がある。11世紀より、砂泥の浜の上に肥沃な農地を開拓しようと、堤防が建設され、オランダの技術も導入されて、開拓面積はどんどん増えているようです。リンク キンデルダイクの風車群 3 (ポンプと風車)修道院の城壁内ヘのゲート前2014年以前であるが、潮が引き始めると清掃が始まる。まず駐車場の土砂の除去。そして水洗い?今もやっているかは知りませんが・・。以前は門の中まで波が押し寄せ水浸しでした。これは大潮の時かな? 2010年3月つづくBack number モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユリンク モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部
2021年03月15日
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ラストにBack number追加しました。「騎士修道会 3 (ロードスの騎士)」の所にウイーンのマルタ教会の写真を追加しました。マルタ教会は聖ヨハネ騎士団をルーツとする教会です。リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)パンデミック(pandemic)とは、人にも感染する動物由来の感染症が、地理的に広い範囲で感染拡大(世界的流行)し、結果多くの感染患者を出す状態です。現在世界で流行しているコロナウイルスの蔓延がまさにパンデミックですが、歴史を紐解くとペストや天然痘によるパンデミックの発生がかなり伝えられています。今回、ローマ帝国の歴史を振り返り、イスラム海賊の実態にも驚きましたが、古代ローマ帝国の衰退の影にあった2つの大きなパンデミックに触れないわけには行かなくなりました。ローマ帝国の最強神話がくずれ始めた要因の一つは歴史的なパンデミックが発端であった事に間違いありません。最初はマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:161年~180年)の治世。次は東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(在位:527年~565年)の治世。いずれも大量の死者が出て都市機能もマヒ。人口の減少、食糧難。これらはローマ帝国の軍隊にも当然大きく影響した。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時は165年から167年にかけてメソポタミアで始まり軍により166年にローマに運ばれた。165年~180年まで続いたと記録されているようです。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世の時は542年~543年頃エジプトで始まりパレスチナ経由で帝都コンスタンチノープルに到達。流行の最盛期は1日に5000~10000人の死者が出たと言われ、人口の約半数を失い帝国は一時機能不全に陥たと記録されている。しかも最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。※ 昔はワクチンだって無いし治療法も当然無いから自然終息しかなかったのだろう。何よりユスティニアヌス1世自身がこの感染症に感染しているし、人口の減少は軍人不足となる。ユスティニアヌスが推し進めていた帝国の再統一を完全に断念せざる終えない結果となって現れている。今の私たちなら、このパンデミックの危機が理解できるだろう。歴史に残るパンデミックなのだ。一過性の伝染病の扱いですむ訳がない。確実にローマ帝国の歴史にインパクトを与えた事件です。ところで、これは「欧州の交易路」の話でしたが、次をどこから始めるかが大きな悩みでした。番外にするか? とも思ったのですが、やはりここはローマ帝国の滅亡に至る歴史をスルーするわけにはいかない。しかし、ローマ史は長い。短くしても長い。さらにパンデミックと経済を足しているからね。そんなわけで、今回はローマ帝国を衰退させた大きな要因の一つ、パンデミックの話。次回、地中海を荒らして暗黒の中世と言わしめたイスラムの海賊の話しと2回に分けて三度ローマ帝国の話になります。長くなりすぎて分割しました f^^*) ポリポリ これで前半です。アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック皇帝の遊戯 ヘリオガバルスのバラ初期の帝国と属州五賢帝とローマ帝国の販図伝染病の季節3世紀の危機帝国の分割統治テトラルキアとディオクレティアヌス農業形態の変化と停滞したローマの再建再びローマ帝国を一つにしたコンスタンティヌス1世地中海交易を牽引したソリドゥス金貨(Solidus)ドルの通貨記号はなぜDではなくSなのか?東ローマ帝国と西ローマ帝国、そして西ローマの解体「眠らぬ皇帝」ユスティニアヌス1世の挑戦ユスティニアヌスの黒死病以前、「ローマ帝国のシステムでは、無産市民は兵員になれなかった」と紹介した事があるが、カラカラ(Caracalla)帝(188年~217年)(在位209年~217年)は212年「アントニヌス勅令(Constitutio Antoniniana )」を発布し全属州民にローマ市民権を与えている。これは今まであった差別を取っ払った素晴らしい英断のように思えるが、実際の所は増税が狙いであった。今までローマ帝国では市民権を有さない者は相続税や奴隷解放税などが免除されていた。決してローマ帝国が金欠だったわけではない、もっとお金を必要としたのは兵士の俸給を上げる為であったらしい。前帝の遺恨に「兵士を富ましめよ。」とあったと言う。カラカラは兵士の俸給を年額500デナリウスから750デナリウスへと1.5倍も昇給させているのである。確かにローマ帝国にとって兵士は大事。彼にとっても頼れるのは兵士のみ? (元老院とは敵対)だから兵士からの人気は絶大であったらしい。最も遠征中に29歳の若さで暗殺されているが・・。※ カラカラ浴場の建設も有名であるが弟を殺すなど人としては問題のある皇帝であった。なぜ紹介したかと言えば兵士の待遇である。給料が良ければ兵士は集まる。ローマ帝国の躍進は兵士なくしては成り立たなかったのだから兵士に十分な給料が払えるうちは帝国は安泰だったと考えられる。だが、そうも言っていられない事情で兵士不足が起こっていた。かつての強靱(きょうじん)な軍隊はどこへ? ローマ帝国は属州を守る為の軍隊さえ出せなくなって縮小されていく。皇帝の遊戯 ヘリオガバルスのバラヘリオガバルスのバラ(The Roses of Heliogabalus) 1888年画家ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(1836年~1912年)「Juan Antonio Pérez Simón」コレクション英国の男爵Sir John Richard Airdの発注で描かれたローマ帝国の23代皇帝ヘリオガバルス(Heliogabalus)(203年~222年)(在位218年~222年)の遊戯を描いた図。天幕の上の大量の花を来客の上に突然落として驚かすと言うネロ帝もやっていたと言うサプライズである。実際には大量の花で窒息死する者も出ていたと言う。※ 本来はスミレの花などが使用されたと言うがアルマタデマはバラの花をフランスから取り寄せて描いている。ヘリオガバルス帝はカラカラ帝の従姉妹の子供。現在ではヘリオガバルス帝はインターセックス(intersex)であったと理解できるが、娼婦になったりと奇っ怪な行動で有名であった。母と祖母の摂政で15歳で皇帝になるが、その行動故に19歳で暗殺されている。アルマ=タデマは好きな画家の1人である。彼は古代ローマやギリシャをモチーフに多くの美女の絵を残している。実に写実的に美しく描いた人である。実際の富めるローマ帝国の時代に、皇帝らはこんな事もしていたと言うイメージでまずは美しい絵を載せてみました。初期の帝国と属州帝国の属州は元老院管轄地と皇帝直轄地に二分される。治安の安定した元老院管轄の属州では元老院が属州総督を選出し派遣したが治安の安定しないガリア、イスパニア、ダニューブ地方、エジプト、シリアなどの帝国辺境地には尚、強力な軍事力で押さえる必要があり、皇帝によって任命された使節レガトゥス(legatus)が置かれた。つまり軍人総督である。※ レガトゥス(legatus)はラテン語で使者、使節、軍隊の副官、司令官、総督代理など高級将校や幕僚。エジプトなど豊かな穀倉の属州は皇帝の私領のように扱われ、元老院の影響が及ぶ事は無いよう排除されていた。それは次の理由による。皇帝直轄の属州における正規軍(ローマの市民)の常駐に加え補助軍隊として属州民で編成された軍団で軍事力を強化。また皇帝の身辺を警護する近衛軍の創設。それら経費は国庫だけで賄えないので皇帝直轄の属州からの収入が充てられていたからだ。初代皇帝のアウグストゥスは権限と権威を持って元老院を納め元首政(Principatus)を開始。帝国を支える軍隊と財政をしっかり確保して帝国を不動のものとし、ローマ市民や属州民の支持も得ていた。初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~BC14年)(在位:BC27年~AD14年)本名 ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus)写真は上下共にウィキメディアから借り下は部分カットしています。プリマポルタのアウグストゥス(Augusto di Primaporta)別名アウグスト・ロリカート(Augusto loricato)。戦闘直前のサインを出す瞬間の姿らしい。ローマ時代のロリカを付けたアウグストゥス帝の大理石の彫像です。高さ2.04m。※ 元々は大理石の上に彩色されていたらしい。※ 足下にいるのはヴィーナス神の子エロス。ユリアス家はヴイーナスの子孫を公言している。1863年、ローマの北に位置するプリマポルタ(Prima Porta)にあるアウグストゥスの妻リヴィアドルシラの別荘(villa)から発見された。(それ故保存状態が良い。)現在はバチカン美術館に保管されているようです。自分の写真に無かったので撮影できなかったのかも。ロリカの正面図柄にはローマの軍旗を返すパルティア王フラーテス4世(Phraates IV)。※ パルティアとはBC20年に和議を結んで戦争を回避している。※ BC17年には内外にローマの平和を宣言する世紀の祭典を開催。BC28年~BC27年頃の作とされているが、パルティアの和議を考えるとBC20年~BC17年頃かも。尚、誇張していたとしてもおそらく、最も本人に近い彫像と考えられている。五賢帝とローマ帝国の販図ローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた時代がこの五賢帝(ネルウァ=アントニヌス朝)の時代である。アウグストゥス帝より始まり「五賢帝」の最後マルクス・アウレリウス・アントニヌスの終わりまでをローマ帝国の平和の時代としてパクス・ロマーナ(Pax Romana)と呼ぶ。五賢帝(ネルウァ=アントニヌス朝)12~16代皇帝ネルウァ(Nerva)(35年~ 98年)(在位:96年~98年)トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年)(在位:98年~117年)ハドリアヌス(Hadrianus)(76年~138年)(在位:117年~138年)アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius)(86年~161年)(在位:138年~161年)マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius)(121年~80年)(在位:161年~180年)ところで、たまたま能力のある皇帝が5代続いたわけではない。帝位の継承を血の世襲とせず、広い範囲から有能な人材を抜擢して養子にしてから帝位を継承していたからである。帝国の販図は第13代ローマ皇帝トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年)(在位:98年 ~17年)の時に最大規模となる。経済もしかり。117年トラヤヌス帝からハドリアヌス帝の時 ローマ帝国最大の販図ローマ帝国(Roman Empire)競合する地域(Contested Territory)一時的な征服(Tenporary Conquest)トラヤヌス(Trajanus)(53年~117年) 13代皇帝(在位:98年~117年)ウィキメディアからローマ帝国の販図は最大規模となる。トラヤヌス帝は初の属州出身の皇帝であるが軍人として有能であり元老院からも信頼され尊敬されるべき人物であった。治世19年の間に現ルーマニアにあたるダキアとシリアの要所ナバテアを併合。かつてのペルシャ帝国領のパルティアまで及んでいた。とは言え、まだ当時は近隣諸国が脅威になる程の力を持っていなかった時代らしい。ハドリアヌス(Hadrianus)(76年~138年) 14代皇帝(在位:117年~138年)ウィキメディアから帝国の拡大路線は止めるが治世の半分を属州の視察に費やし国境安定化と街の防壁建造など防備もした。私が特筆したいのはハドリアヌス帝がローマ市内のパンテオン(Pantheon)を再建し、ここをあらゆる神を祀る万神殿とした事。各属州を回ったハドリアヌスは、それぞれの属州の文化を尊厳(そんげん)したのである。ローマ帝国が多神教と言うのもこれで納得できる。下はローマにあるパンテオン(Pantheon) 写真は上下共にウィキメディアから借りてきました。実はこの建物はハドリアヌス帝が再建(118年~128年頃)した当初のオリジナルなのです直径43.2m の円堂の上に天窓の開いたドームが載った構造で、壁面の厚さ6mのローマン・コンクリートでできている。天窓のオクルス(oculus)などネロ帝の黄金宮殿ドムス・アウレア(Domus Aurea)の建築が応用されているらしい。ローマ帝国がキリスト教を国境にした後、608年頃キリスト教の聖堂となった。ラファエロの墓がここにある。アントニヌス・ピウス(Antoninus Pius)(86年~161年) 15代皇帝(在位:138年~161年)ハドリアヌス帝の路線を継承彼の治世は「歴史が無い」と皮肉るほど平和で安泰した時代だったらしい。マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus)(121年~180年)16代皇帝(在位:161年~180年)ウィキメディアから先に紹介したとおりマルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世165年~180年は疫病が大流行した。彼の治世は戦争や洪水、飢餓、疫病が相次ぎ気の休まる時が無かったと言う波乱の時代であった。ローマの平和、パクス・ロマーナ(Pax Romana)はここに終焉する。アルメニアの覇権をめぐるパルティア王国と戦争に勝利したは良いが、ローマに凱旋した軍隊が戦利品だけでなく、疫病も運んで帰還したのである。600万人以上の犠牲者を出した。アントニヌスのペストと呼ばれているが、実際は天然痘によるパンデミック(pandemic)だったようだ。もっとも天然痘の他にも腺ペスト、麻疹(はしか)、インフルエンザが大流行している。この天然痘はそのまま定着して残りその後も猛威を振う。ローマの歴史家カッシウス・ディオ(Cassius Dio)によれば,189年に再び発生した疫病では1日2000人の死者を出し、帝国全土に広がり総死者数は500万から1000万人と推定されている。※ カッシウス・ディオ(Cassius Dio)(155年,163年,164年~229年)は22年間で80巻からなる「ローマ史」を書き残している。The angel of death striking a door during the plague of Rome疫病のローマでドアを叩く死の天使伝染病の季節毎年の夏のポピュラーな疾病は腸チフス、マルタ熱、マラリア。次いで肺炎、結核でこれらで当時の死亡率の60%を占めていたのではないか? と推測されている。またこれらに次いで、赤痢、コレラ、壊疽(えそ),壊血病。さらに少なくなるが恐水病、破傷風、炭疽病、梅毒があったとされる。ローマでは夏の終わりから初秋にかけて成人の死亡率のピークを迎えた。それは夏に伝染病が猛威をふるったかららしい。※ 5歳未満の乳幼児の場合は夏がピーク。※ 1歳未満の場合は1月から2月。これは出生の時期が晩秋から冬が多かった事による。なぜなら1年以内に新生児の30%が亡くなっていたからだ。当時の医学のレベルでは伝染病の流行を止めたり根絶など不可能。パンデミックとまではいかないが、都市の伝染病は度々発生していたらしい。例えば77年のウェスパシアヌス(Vespasianus)(9年~79年)の治世末の帝都ローマでは数週間に渡り毎日1万人が死亡すると言う日が続いたと言うのも記録にある。ところで、ローマの医師達は疫病が発生する場所として、とりわけ沼や池などの沼沢地(しょうたくち)の危険性を知っていた。水流の無いよどんだ場所は病気を媒介する害虫が出る事も解っていたからだ。※ かつて「古代ローマの下水道と水洗トイレ」の中で建国当初のローマ市内の沼地の排水工事について触れています。リンク 古代ローマの下水道と水洗トイレだから医師たちは農場を建てる立地条件として人間や家畜、養蜂用のハチの為にも沼沢地を避けるよう助言も出している。それ故、都市開発の提言もしていたらしいが、ローマ帝国では早くから上下水道が完備されていたにもかかわらず、都市部のローマでさえ衛生状況は良くならなかった。それはローマの街では毎年100万立方メートルの糞尿やゴミが直接テヴェレ川(Tevere)に流されていたからだ。(汚水処理の問題)テヴェレ川の魚は汚染されているので危険。食べるなと言う警告も出される程に。また上水道も一度(ひとたび)上流で汚染されれば最悪であるし、大規模な公共浴場の建設も問題であったかもしれない。飲料となる公共の水道水(泉)が汚染されれば病気はあっと言う間に広がっただろう事も想像できる。※ 公共の泉の汚染は中世都市のペストの蔓延(まんえん)にも言える。ローマ、ベルニーニ広場にあるトリトーネの泉(Fontana del Tritone)このトリトン(海神)像、自体は17世紀にジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年) がウルバヌス8世のために造ったもの。中世はこんな泉が街の広場に必ずあって飲料となっていた。中世に再建されたウィルゴ水道 (Aqua Virgo) の取水の終端施設として、トレヴィの泉( Fontana di Trevi)が造られている。古代ローマ時代のウィルゴ水道の終端施設はアグリッパ浴場(Thermae Agrippae)であった。※ 古代ローマ時代のアグリッパ浴場(Thermae Agrippae)はパンテオンの南に隣接していた。ウィルゴ水道はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ( Marcus Vipsanius Agrippa)(BC63年~ BC12年)が手がけた事業で、同じくアグリッパ浴場はローマ帝国最初のテルマエ(公共浴場)であった。他に彼は最初のパンテオンやポン・デュ・ガール(フランスの水道橋)などアウグストゥス帝の元で多数の建築物を手がけている。※ ポン・デュ・ガール書いています。リンク 古代ローマ水道橋 1 (こだわりの水道建築)サンタンジェロ城とサンタンジェロ橋とテヴェレ川円形をしたサンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)も実はハドリアヌスが建設を指示したものだ。これは彼の霊廟として建てられている。135年建設開始。完成は139年。サンタンジェロ橋の上の10体の天使像はバロックの大家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)が据(す)えたもの。サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)は歴史の中で用途を変えた。サンタンジェロ城と名が付くのは590年に流行したペストの終焉祈願があったらしい。時の教皇グレゴリウス1世。彼は城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見て命名?※ サンタンジェロ城トップの大天使ミカエル像をモンサンミッシェルで紹介しています。リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエル14世紀以降はローマの城壁の一部に組み込まれ、要塞として、また牢獄や教皇の避難所としても利用された。それ故サンタンジェロ城からコッリドーリ通りに併走して伸びる城壁上の通路がバチカン宮殿までつながっている。下の写真のみウィキメディアからかりました。3世紀の危機帝国辺境の緊張が激化。パルティア王国は滅んだが、226年すでに東方からはパルティアに代わるササン朝ペルシャが勃興(ぼっこう)してきていた。彼らはメソボタミアへ進行。ローマの属州シリアが脅かされていた。ペルシャとの戦いは続く。233年、北方からはゴート人を初めとするゲルマン諸族が西北部国境を越え帝国領に侵入。ドナウ川周辺地域にゴートが侵略し混乱を極める。またローマ自体が異民族の脅威にさらされた。ローマの旧市内を囲むアウレリアヌス城壁(Mura aureliane)(271年~275年)が建設される。皇帝の名を覚える間もなく次の皇帝に変わる。半世紀で70人の皇帝が現れた。そんな激動の時代であった。3世紀の危機は帝国の四方からの異民族の侵略と防戦。政治は軍人による「皇帝の椅子取り合戦」に。さらに、またも疫病の発生による戦力の低下と経済政策の失敗による経済危機の発生である。※ この時期、皇帝自身が敵に捉えられて殺されると言うも失態も起きている。帝国の分割統治テトラルキアとディオクレティアヌスローマ帝国では皇帝に軍事と政治の両方が委ねられていた。つまり皇帝は国家の最高指導者であり、前線における軍の司令官でもあった。だが、このシステムでは同時に2つの才能が要求される。実際、皇帝自身に軍才は無くてもその采配により当初は問題無く機能していたらしいが・・。しかし領土が拡大して度々対外から多数の侵略を受けるようになると皇帝の能力は大きな問題となる。293年テトラルキア時代ディオクレティアヌス(Diocletianus)(在位284年~305年)東方正帝ガレリウス(Galerius)(在位305年~311年)東方副帝から正帝マクシミアヌス(Maximianus)(在位286年~311年)西方正帝コンスタンティウス(Constantius)(在位305年~306年)西方正帝広大な領土の統治と軍の統率は1人では不可能。ディオクレティアヌス帝は皇帝権を正帝2人と副帝2人とに4分割。293年、テトラルキア(tetrarchia)を考案した。テトラルキア(tetrarchia)は広大な領土を有するに至った帝国を合理的に統治する事を目的として造られている。最も当初のテトラルキアは職務の分担であって地理的な分割は想定されていなかったらしいが・・。実質帝国を2分(東帝と西帝の誕生)し自治は4分割した事になる。これは独裁を避ける為でもあったが、次代の皇帝候補が明確にされた・・と言う利点もあった。また皇帝の早期退職も勧めている。皇帝の仕事は厳しく、若くしては足りず、老いては過酷と言う事らしい。また有能な者に帝職を継承させるシステムを構築。これは世襲による特定の一族の権力の集中を防ぐた為でもあったらしい。ディオクレティアヌス(Diocletianus)(244年~311年)(在位:284年~305年)17世紀の大理石の胸像。ウィキメディアから農業形態の変化と停滞したローマの再建 改革だけ見ると策士と言われるほど計算されている。インフレが起きて経済政策だけでも大変な時代であった。この時期、軍を維持する為の財政が破綻し、治安はどんどん乱れていく。海賊や山賊も闊歩(かっぽ)。実はパクス・ロマーナ(Pax Romana)と呼ばれたローマの平和の時代は繁栄の反面経済を停滞させた。征服戦争が無くなった事で物流は減る。また奴隷の供給も減るので奴隷の値段は上がった。共和政末期〜帝政初期に盛んであったラティフンディウム(latifundium)と言う奴隷労働に頼った低コストな大土地農園の経営は、奴隷が減ったので変化を余儀(よぎ)なくされる。奴隷の代わりに没落農民をコロヌス(小作人)として使用するコロナトゥス(colonatus)制に移行せざるおえなくなり当然生産性は低下した。※ ラティフンディウム(latifundium)について書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)難しかったのは宗教の取り扱いだったかもしれない。とりわけディオクレティアヌスは後世のキリスト教徒から嫌われている。彼の時代、辺境出身者が増え、軍の将校にも異民族がいる時代となっていた。もはやローマらしさもラテン語さえも薄れてきていたようだ。それ故か? 彼は古来ローマの神々への礼拝を義務として再興させた。同じ宗教を持って帝国を結束させる。と言う意図があったのではないか? と推察。だがキリスト教徒はローマ神への礼拝をあからさまに嫌う。違反者には罰則もあったのでキリスト教徒限定の迫害ではなかったが結果はキリスト教徒迫害の時代になった。革新的な政策をやってのけ、20年であっさり引退したディオクレティアヌス帝はローマ史においては、やはり特筆されるべき皇帝であったのは間違いない。それにしてもこれだけ大きな帝国ではトップがダメだとすぐにアウトだったのだろう。長く統(す)べた皇帝の特徴から「絶対的能力とカリスマ性」は欠かせない要因であったとつくづく思う。再びローマ帝国を一つにしたコンスタンティヌス1世東西の皇帝は等しく同等の権限を有し、東西いずれかの皇帝が没した時は残り一方の皇帝が東西の両地を統治する事が決められていた。それ故、西ローマ帝国が滅した時は東ローマ帝国の皇帝が全土を担当することとなり、法律的にはローマ皇帝権の再統一がされた事になったらしい。※ ローマ市はいずれの場合も皇帝の支配権が及ばない特別自治として扱われていた。ザックリ説明すると、西方正帝となったコンスタンティヌスはマクセンティウスと戦い勝利する。同盟のリキニウスはマクシミヌスと戦い勝利し、東方正帝となる。後に西方正帝のコンスタンティヌスと東方正帝リキニウスは戦う事になりコンスタンティヌスが勝利した。つまり西方正帝であるコンスタンティヌスが総取りし、ここにローマ帝国は1人の皇帝の元で統一を果たす事になった訳です。コンスタンティヌス1世(Constantinus)(270年代前半の2月27日~337年)(在位:306年~312年)西方副帝(在位:312年~324年)西方正帝(在位:324年~337年)ローマ皇帝ローマ カピトリーノ美術館(Musei Capitolini) ウィキメディアから高さ2.8mの像の頭部コンスタンティヌスの凱旋門(Arcus Constantini)右に見切れているのがコロッセオ(Colosseo)です。312年、ローマ近郊ミルヴィオ橋でマクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)の軍隊に勝利した記念に315年に建立されたとされるが・・・。彫刻に2世紀の部分が含まれているなどリメイクの可能性も指摘されている。確かにローマ帝国では素材の使い回しはあたりまえにあった。コロッセオの壁面の大理石も剥がされたから穴だらけなのだ。※ コンスタンティヌスの凱旋門については「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中「ラバルム(Labarum)とコンスタンティヌス帝の戦略」で触れています。リンク クリスマス(Christmas)のルーツ下は凱旋門の側壁上部コンスタンティヌス1世(Constantinus I)はテトラルキアで分割されていた帝国を再統一。306年、元老院から大帝マクシムス(Maximus)の称号を与えられた。ローマ帝国再統一以前、313年、東帝のリキニウスと共に、あらゆる宗教を認めるとした「ミラノ勅令」の発布。即位後にはキリスト教会、初の全体会議となる第1ニカイア公会議を開催。また統一 ローマ帝国の帝都をローマからバルカン半島の東端、コンスタンチノープルに遷都(せんと)した事に加えソリドゥス金貨(Solidus)を鋳造発行。これらは彼の業績の中でも特筆のポイントである。ミラノ勅令についてはリンク サンタンブロージョ聖堂(Basilica di Sant'Ambrogio) 1 (異教的な装飾)地中海交易を牽引したソリドゥス金貨(Solidus)ソリドゥス金貨(Solidus)はローマと地中海全域の経済を長期に支えた金貨として特筆される。ディオクレティアヌス帝の時代には、インフレが起きて経済政策だけでも大変な時代であった。と、先に紹介しているが、実は3世紀の危機の時、皇帝が兵士の給料の為に銀の含有量の少ない銀貨の改鋳を繰り返していた。結果、通貨の信用力が落ちて物価が上がっていたのである。もはや多少の通貨改革ではインフレは止まら無かった。ディオクレティアヌス帝は通貨の価値の安定を図るべく経済政策をしているが、これを継承してコンスタンティヌス1世は貨幣改革をした。純度の安定した信用力のある通貨として新たな金貨を鋳造したのである。ローマ人の重量単位1ポンドから72枚のソリュドゥス(solidus)金貨を造った。ソリュドゥス(solidus)金貨の含有量は4.48g(純度95.8%)の高品質。それと共に銀の含有量2.24gの銀貨も発行。ソリュドゥス(solidus)金貨1枚は銀貨24枚に相当。金貨の重量と純度は歴代皇帝によって遵守されたのでこの金貨は国際的にも信頼のおける金貨として700年は維持され地中海世界の交易で利用されたのである。※ 11世紀後半頃から金貨の純度が低下し、信頼も低下。この金貨は1453年にコンスタンティノープルが陥落するまで使用されるが、帝国末、一時は純度が50%を切る時もあったらしい。下はコンスタンティヌス1世の肖像が刻印されたソリドゥス金貨ウィキメディアから借りてきました。ところでドルの通貨記号はなぜDではなくSなのか?ソリュドゥス(solidus)金貨は国際交易において長期に渡り最も信用の高い金貨として評価されてきた。同じく、アメリカの持つ経済力と軍事力を持って今日の紙の米ドル紙幣が国際通貨として末永く流通してほしい?要するに長期に渡り世界で通用されたソリュドゥス(solidus)金貨にあやかって付けられた記号だと言う。諸説ある中の一つであるが、金融関係や貨幣の本ではその説が伝えられている。※ 700年も価値が維持される貨幣はもう出ないであろう。東ローマ帝国と西ローマ帝国、そして西ローマの解体コンスタンティヌス1世(在位:324年~337年)の死後、再び帝国の安定は崩れる。国内ばかりか、外敵との戦いも再び始まった。ローマから遷都した事で帝国の東西分烈の傾向は決定的となる。帝国の重心はアレクサンドリアやアンティオキアなど繁栄が継続した都市を有する東方へ移動したので尚更である。テオドシウス1世(TheodosiusⅠ)(347年~395年)(在位:379年~395年)テオドシウス1世1世の肖像が刻印されたソリドゥス金貨 21mm 4.55 gテオドシウス1世の顔がわかる彫像が見当りません。唯一これです。ウィキメディアからキリスト教を公認した皇帝テオドシウス1世。ソリュドス金貨の裏に天使に祝福される帝と時の皇帝が座っている図が刻印。 379年、ローマ帝国の内戦や異民族の流入が続く危機的状況の中でテオドシウス1世は即位する。380年、宗教的内紛の解決に重点を置いた結果、多神教を棄てキリスト教をローマ帝国の国教に制定した。ところで、テオドシウス1世の治世376年にゲルマン民族の移動が顕著になる。4世紀~8世紀、ローマ帝国領を含む欧州全域が東や北からの民族の 流入? で荒れるのである。気候変動、疫病の蔓延、人口の増加? 食糧難?いずれもDNAをさかのぼればアナトリア(現トルコ)あたりにいたインド・ヨーロッパ語族に集約する民族である。フランク人、ヴァンダル人、東ゴート人・西ゴート人、ランゴバルド人など。彼らはローマ領内の各地に入り建国して行く。西ゴート族はドナウ川を越えて帝国内に居をかまえ始めていたが、食糧が不足して暴徒化。軍と衝突していた。テオドシウス1世は駆逐を諦め、382年に西ゴート族と同盟を締結。彼らはローマ帝国に対し軍事的な援助の義務を負い、その代わりにドナウ川からバルカン半島に至る地方への定住を認めた。また彼はサーサーン朝ペルシア帝国とも講和締結している。※ あっちもこっちも、あまりに数が多すぎてそうせざる終えなかったのかもしれない。そんなテオドシウス1世は異教徒を重要官職に登用するなど、当初はローマの伝統的異教に対してはさしあたり寛容であったらしいが、途中で転換する。ミラノ司教アンブロシウス(Ambrosius)(340年? ~397年)の影響であったと考えられる。それ以前はあらゆる宗教を認めていた。皇帝の礼拝が無くなったので皇帝の大理石彫刻像も消えたのかもしれない。帝国が宗教行事に使用していた予算も見直しされたのだろう。ローマ帝国、建国以来フォロ・ロマーノで女祭司が絶やさなぬよう「聖なる火」を炊いていたらしいが、それもテオドシウス帝が祭祀の予算を中止したことにより無くなった。テオドシウス帝により中止された異教の祭祀の中には古代オリンピックも含まれていた。宗教はキリスト教を強要したが、ローマ帝国の軍事力の主要部分はゲルマン人などの異民族に委ねられて行く事になる。395年、テオドシウス1世が亡くなると帝国は長男と次男がそれぞれ継承し、帝国は2たつに分裂する。395年 東ローマ帝国と西ローマ帝国長男アルカディウス(Arcadius) (377年~408年)東ローマ皇帝(在位383年~408年)次男ホノリウス(Honorius)(384年~423年)西ローマ皇帝(在位:393年~423年)「西ローマ帝国最後の偉大な皇帝」と呼ばれたウァレンティニアヌス1世(Valentinianus I)(321年~375年)(在位:364年 - 375年)の死後、ほとんどの西ローマ皇帝は実権を失い帝国を支えていたのはバウト、アルボガスト、スティリコ、アエティウス、リキメルといった異民族出身の将軍たちだったと言う。そんな異民族だらけのイタリアでは都市住民も減ったから交易も停滞。皇帝はローマを棄て異民族の流入の少ないコンスタンティノープルを帝都にしたので交易は倍増。格差は尚更だ。402年、西ローマ皇帝ホノリウスは西の帝都をローマからラヴェンナに遷都。ラヴェンナは辛うじて交易で栄えた港湾都市。ローマよりもまし? だったのかも。しかしホノリウスの代にはすでにイタリア半島を支配するのも精一杯の状態。以後は異民族に対して常に劣勢。特に西ローマ帝国ではローマ教皇の力が強く皇帝も立場がない。もはやローマ帝国にとって軍事力も無い西ローマ皇帝は無用の存在。423年、ホノリウスは39歳の誕生日を前に子供を残さずに逝去。476年、軍人オドアケルがクーデターを起こし西ローマの皇帝制は解体。西ローマ帝国は滅亡した。東ローマの皇帝は、そこをローマ帝国のイタリア領主と位置づけし、その後のトップはイタリア王を名乗る。ユスティニアヌス1世(Justinus I)(483年~565年)(在位: 527年~565年)黄金の聖体皿を持つユスティニアヌス1世東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府ラヴェンナ(Ravenn)サン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale) のモザイク壁画から546年~547年の間に司教マクシミアヌスによって献堂。584年、東ローマ帝国がイタリア半島統治のためにラヴェンナに政府機関として総督府をー置いた。※ 戦略的目的があったからだ。上はユスティニアヌス1世の顔である。それ故、このラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画は非常に有名である。何よりモザイク画の出来は良く、以降ラヴェンナはモザイク製作で有名になった。ヴィザンチン文化の代表格として現れるラヴェンナが総督府になるのはユスティニアヌス1世亡き後である。ユスティニアヌス1世とラヴェンナはどんな関係か?上の図はユスティニアヌス1世を宗教的にたたえた典礼の図であるし、対になってテオドラ王妃のモザイク画もある。が、調べて驚いたのはユスティニアヌス1世はこのラヴェンナに一度も来てはいない。上のような典礼も当然行ってはいない。どうもラヴェンナと司教のマクシミヌスが勝手に皇帝を持ち上げて造ったモザイク画であった可能性があるのだ。じゃあ顔も実物じゃないかもね。と言う事です。「眠らぬ皇帝」ユスティニアヌス1世の挑戦下はユスティニアヌス1世(在位527年-565年)時代の帝国領土 ウィキメディアから青色部分が東ローマ帝国領。青色と緑色合わせてトラヤヌス時代のローマ帝国領。赤線は395年の東西ローマの分割線下は590年のイタリア半島。実は虫食いだらけの帝国領です こちらもウィキメディアからローマ帝国の直轄はオレンジの部分のみ。他は異民族の王が納めていた。帝国の中心はコンスタンチノープルに移動していたのでローマ周辺はもはや捨て置かれていた。だからイスラム教徒が大挙してせめて来た時でもままならなかったのである。とは言え、ユスティニアヌス1世(在位527年-565年)は再び帝国の版図を押し広げた皇帝なのだ。彼は帝国の再建(renovatio imperii)を目指した。532年サーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を締結。533年、ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣してゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服。東方国境の安全を確保するとユスティニアヌスは西方に目を向ける。535年、ゲルマン人国家東ゴート王国からベリサリウス将軍によってローマを奪回。※ ユスティニアヌス自身は全く戦地に赴いていない。東ゴート王国側の強固な抵抗に遭い戦争は長期化する。それは543年から発生したペストが蔓延したからだ。実際、帝国の人的被害は大きく帝国の拡大は断念せざるおえなくなった。イタリアにおける最終的な勝利とイベリア半島南端の征服は東ローマ帝国の力を示すものとなったが、征服のほとんどは儚いものとなる。ユスティニアヌスの黒死病中世の黒死病はペストと認識されてきたが、英国リバプール大学動物学名誉教授のクリストファー・ダンカン博士(Christopher Duncan)と社会歴史学の専門家スーザン・スコット(Susan Scott)博士による研究で(教会の古い記録、遺言、日記など調査)。黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものではないか。と言う論文が出されている。過去の歴史の資料例では、エボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱にきわめて似ている症例もあったと言う。総じて疫病とするが、病種によっては確実にヤバイ系(全滅するまで)のもあったのかもしれない。ε = ε = ヒイィィィ!!!!(((・・。ノ)ノ542年~543年頃、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で流行した疫病は帝国の衰退の大きな要因の一つになった可能性が極めて高い。エジプトからパレスティナへ、そしてコンスタンチノープルへ疫病が運ばれると人口の約半数を失い帝都は一時機能不全に陥たと言う。確実に大きなパンデミックである。542年には疫病は旧西ローマ帝国の領域に547年にはブリテン島周辺に567年にガリアへヨーロッパ、中近東、アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行したらしい。ユスティニアヌス自身も感染。幸い軽症で済み数ヶ月で回復したと言われているが「ユスティニアヌスの斑点」との別称が在る事からやはりペストではなかったのかも。冒頭触れていますが、コンスタンチノープルでは、流行の最盛期に一日に5000~10000人の死者が出て、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥った。疫病の流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は断念された。非常に長くなってしまいました。これで前半のみです。f^^*) ポリポリ Back numberリンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊 アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 (帝政ローマの交易)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年03月02日
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