わたしのこだわりブログ(仮)
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海洋共和国続編と番外のリンク先をラストに追加しました。※ 教皇庁の聖人の認定について書いているリンク先を聖ベルナールの所に追加しました。が、不完全であったので書き直ししました。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂コロナ・ウィルスが蔓延を始めた頃、深夜の番組で映画「ヴェニスに死す」が放映された。トーマス・マン(Thomas Mann)(1875年~1955年)の小説「ヴェニスに死す(Death in Venice) 」(1912年発表)。それを原作に映画化(1971年公開)したのがルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)(1906年~1976年)監督。小説での主人公は作家である。トーマスマンの友人であった作曲家のグスタフ・マーラー(Gustav Mahler)(1860年~1911年)をモデルに描いたとされるが実際の所はトーマスマン自身が出会ったポーランドの美少年をモデルに描いた作品らしい。ヴィスコンティは映画にするにあたり、主人公を老作曲家にし、映画の音楽にグスタフ・マーラーを敢えて起用している。※ 敢えて? 主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハ (Gustav von Aschenbach)の姿もマーラーに寄せている。「主人公のおじ様(アッシェンバッハ)が美少年(タージオ)に恋をして、その地を離れられず疫病にかかり命を落とす。」簡単に言うとそんなストーリーなのだが、叙情的で感慨深い作品であった。小説も映画も高校生の頃に読んだし観た。※ 高校生の時、試験終りはいつも吉祥寺でマック片手に2本だての安い映画を見てから帰るのが恒例だった。学生服で平気で入ってたからねだからヴェネツィアに行った時、映画のロケ地となったリド島のホテル・ドュヴァンに宿泊できた時はとても嬉しかった。(4泊した)そのリド島はヴェネツィアの島の一つではあるが、昔から欧州貴族のリゾート地であっただけに一般的なヴェネツィア感は全く無い静かで綺麗なハイソな島であった。時は9月、映画祭が行われている時でホテル・エクセシオール(Hotel Excelsior)は賑わっていたが隣接するホテル・ドュヴァン・リド(Hotel Du Vin Lido)は静寂に満ちていた。すでに海水浴シーズンも終わり? 映画のラストで主人公アッシェンバッハが息を引き取った海辺のハウスはまだ連なっていたし、美しいタジオが立っていた回廊のテラス。十分映画の世界を堪能(たんのう)させてもらった。それこそが私の旅行の醍醐味だったかも・・。※ ホテル・ドュ ヴァン・リド(Hotel Du Vin Lido)は今は無くなってしまったらしい。おそらくエクセシオール(Hotel Excelsior)に吸収されたのだろう。ところでヴェネツィアの街は車が入れ無いのでホテルなど個人旅行では特に利便を考え無ければならない。石畳の上をスーツケースは引きずれない。たいていのホテルは運河が玄関口になっている。※ まれではあるが、スーツケースを運河に落とされる事もあるらしい。※ ツアーの場合日帰りが多い。宿泊すると高いから、ましてヴェネツィア内部に宿泊するツアーは実は少ない。リド島は干潟を埋め立てたヴェネツィアの街よりも歴史は古い。サンマルコ広場から乗合船もあるが、ホテル専用のボートで10分。実際、リド島へはマルコ・ポーロ国際空港からホテル専用ボートで入った(有料)。ホテルは外海側なので島の運河を抜けて専用船はエクセシオールの庭に到着するのだが、空港からリド島までの海の道が圧巻である。広大な海のようではあるがところどころ浅瀬があるらしい。だからヴェネツィアの海は航路の杭が打たれていて船はその杭に沿って走る。つまり通行する船の海路が定められているのだ。地上の道路のように・・。全てが日常と違うので訪問のしがいはあるが、映画でわかるようにヴェネツィアは度々ペストなどに襲われている。ある種閉鎖された街は一度病気が発生すれば感染の広まりは早い。今回のようなパンデミックでは尚更だ。完全終息するまで行けないですね。さて、今回は前回に引き続き「海洋共和国」Part2で、予定通りヴェネツィア(Venezia)編です。ヴェネツィアもイタリアを代表する4つの海洋都市国家の一つ。しかも長く繁栄を続けたエースです。前回ジェノバの紹介はざっとしましたが、ヴェネツィアの商売の仕方はジェノバとはかなり違っていました。ヴェネツィアは国の結束が強くシステムが早くに構築されていた事が大きいかも。敵国とも同盟を結び交易を続ける。恐い物なしのヴェネツィアの挑戦は経済力と海軍力があったからだ。そして15世紀~16世紀に繁栄のピークを見せる。地中海の海賊は以前より増して問題であったが、共に海軍力に秀でていたジェノバとヴェネツィア。他の共和国とは全く違う両者。しかも海運へのアプローチも全く異なるのに両者は長く生き残った。ジェノバとヴェネツィアの違いは何であったのか? 尚、ヴェネツィア、写真がたくさんあり中身もあるので次回も写真はヴェネツィア(Venezia)となります。行った事のない人にもヴェネツィアが解る写真のセレクトになっています。諸々(もろもろ)こだわったので組みたてに迷走しました。結局「海洋共和国」編、3部作となります。「海洋共和国」Part2 「ヴェネツィア(Venezia)」「海洋共和国」Part3 「法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」(仮題)アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)ヴェネツィア(Venezia)と東ローマ(ビザンツ)帝国キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade) そもそも十字軍の公式部隊とは何か? 果てしなく遠い聖地 十字軍効果の経済 第2回目の十字軍(second Crusade)ヴェネツィア(Venezia)の街ヴェネツィア(Venezia)の成り立ち海との結婚とブチェンタウロ(Bucintoroto) 海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)ヴェネツィアのパノラマヴェネツィア(Venezia)と東ローマ(ビザンツ)帝国前回ジェノバが第1回目の十字軍遠征(First Crusade)の時に大きく貢献してローマ教皇やエルサレム王国に恩を売り利権を得た事は紹介。実はヴェネツィアも東ローマ(ビザンツ)帝国との間に同じような事情があったらしい。以前「モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人」の所で「イタリア半島を南下したノルマンの一派数十人がイスラム教徒に戦いを挑み南イタリアとシチリア島の奪還に成功している。」と紹介した事があるが、彼らノルマン人(Norman)はさらにその勢力を伸ばしコンスタンティノポリスにまで及ぼうとしていたらしい。リンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人それを脅威に思った東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝の依頼でヴェネツィアが帝都とアドリア海の防衛をまかされ活躍している(First Crusade以前)。※ 1080年~1085年、アドリア海上でルマン人と海戦もしている。これによりヴェネツィアはエーゲ海や地中海の港での税の免除と言う特権が東ローマ(ビザンツ)帝国より与えられ、また帝都コンスタンティノポリスの一等地に居住地をもらい店や倉庫、専用の港も与えられ、アマルフィよりも優位な待遇を受ける事になる。ヴェネツィアはこの時点でエジプトとの貿易も拡大している。(First Crusade以前) ところで、 First Crusade(1096年~1099年)へのヴェネツィアの参戦は1099年の陥落後らしい。いろいろ戦略あっての事? いや、そもそも東ローマ(ビザンツ)帝国側は、ローマ教皇率いる神聖ローマ帝国側がまさかエルサレムを襲撃するとは考えていなかったからだろう。当初、東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝アレクシウス2世が望んだのは、1071年の戦いでセルジューク朝トルコに奪われた土地を取り返す為に軍隊の派遣を要請しただけだったからだ。それ故、「何でこんな事に?」西側の行為に彼らは非常に横転したのである。ヴェネツィアが出遅れた理由はまさにそこだったと思われる。それでも開戦してしまった以上のらなければ損。エルサレ王ボードゥアン1世(Baudouin I)(1065年頃~1118年)に相当の恩を売ったのではないか? と思われる。ジェノバより遅れたが同じウトラメールの諸港への利権を与えられているからだ。まさに「我が世の春」的なヴェネツィアの快進撃がこれより始まる。それもこれも東ローマ(ビザンツ)帝国との蜜月があっての事。だから1202年の第4回十字軍(4th Crusade)? の時のヴェネツィアの蛮行は青天の霹靂(せいてんのへきれき)である。 (*꒪⌓꒪)唖然ヴェネツィアは十字軍と共に東ローマ(ビザンツ)帝国に侵攻して1204年、コンスタンティノポリスを陥落。 自らラテン帝国を樹立する。ヴェネツィアの狙いは当初から東方の富を象徴する都の航路と貿易でありマルマラ海(Marmara Sea)の制海権は元よりエーゲ海(Aegean Sea)や黒海(Black Sea)の制海権全てを握る事に成功した。※ スペインのナバール人の訪問者の記録であるが12世紀中葉のコンスタンティノポリスを以下に評している。陸路と海路で世界が繋がった国際都市で、寺院には金と銀の柱が建ち並び壁は純金の装飾がされ貴石で飾られたランプがともされている。ここのギリシャ人は恐ろしく金持ちで黄金と貴石を財産とし、金糸や貴重な物で飾られた絹の衣服をまとっている。因みにマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)はこの都市にしばらく滞在してから東洋を陸路めざした。私が気になったのは、ギリシャ人の件。やはり東ローマ(ビザンツ)帝国は完全にギリシャの帝国に変わっていたのだと言う事。もはや東ローマの冠はいらないが、経緯的に今後も載せておきます。ヴェネツィア(Venezia) 大運河・キャナル・グランデ(Canal Grande) 入り口大運河全長3.8km。川幅30m~70m。サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂 (Basilica di Santa Maria della Salute) 左岸ヴェネツィア(Venezia)は度々ペストに襲われた。そのたびに教会が新設されてきた。このサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂 もその一つ。1629年夏から始まったペスト終息の為に1630年に教会の建設を決定。聖母マリアに献堂されている。ペストは症状が進行すると敗血症で皮膚が出血斑で黒ずむ事から黒死病(Black Death)と呼ばれた。しかし、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の中、「ユスティニアヌスの黒死病」の所で、中世の黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものではないか? と言う論文について書いている。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック12~18世紀に建てられた貴族の邸宅。パラッツォ(Palazzo)が並ぶ。200軒くらいあるらしい。ロマネスク、ビザンチン、ゴシック、新古典までそろっている。ライトアップされているのはHotel Bauer Palazzo。ホテルやレストランとなっている場合もあるが、今も個人の所有のパラッツォが結構あるらしい。とは言えヴェネツィア内部に住めるのはかなりの高所得者らしい。下はリアルト橋(Ponte di Rialto)からの撮影この時間になれば観光用のゴンドラは店じまい。水上バスのヴァポレット(Vaporetto)がこの街の足。これでも唯一の公共の交通機関。現在はディーゼルらしいが初期は蒸気船。この町の歴史は古いからね。※ 水上タンシーはあります。空港前にもいるのでタクシーでヴェネツィア入リするのはお勧めです。夜のリアルト橋(Ponte di Rialto)大運河・キャナル・グランデ(Canal Grande) には4つの橋がかかっていて、16世紀半ばに建設された最古の橋がこのリアルト橋(Ponte di Rialto)。長さ48m、幅22m、高さ7.5m。橋の上には商店が並ぶ。前回ラストにレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)の写真を載せたが、パレードのメインはこのリアルト橋。橋の上に人が集まりすぎてかつての橋は何度も崩落。1557年、コンペが開かれ1588年~1591年に現在の石の橋が建造された。アントニオ・ダ・ポンテ(Antonio da Ponte)(1512 年~1597年)の設計で決まったが、このコンペにミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)も参加していたらしい。位置情報の為に地図を載せました。リアルト橋(Ponte di Rialto)は、ほぼヴェネツィアの街の中心にあります。なぜなら、海抜が比較的高く水害が少ないと言う理由でリアルト橋界隈を中心にこの町は発展したからです。この界隈は商業の中心地となり、交易品は陸からも海からも運ばれてこのあたりの倉庫に保管された。銀行や商品取引所の他、近くに陸の税関ドガーナ・ダ・テッラ(Dogana di terra )も置かれていた。先にも少し触れたが、「東方見聞録」を書いたマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)の船もここから出発したと言う。元々、彼の父親はヴェネツイアで中東貿易に従事する商人。息子を連れここからコンスタンティノポリスへの船が出た。キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)ラテン語: cruciata、仏語:croisade、英語: crusade ※ 十字軍に参加していた者はフランス人が多く彼ら十字軍国家が公用語にしていたのがフランス語。第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。聖地エルサレム奪還の為の西欧の軍隊の出動。ジェノバは自国の売りであるガレー船で向かったが、First Crusadeの場合、陸路でエルサレムを目指した部隊の方が大多数である。※ コンスタンティノポリスまで内陸の北方ルートでは3.5~4ヶ月。南方の船を含むルートでは7~8ヶ月かかっている。公式部隊は、1096年8月から順次故郷を出発。有力諸侯はパリからルイ王の弟、ロレーヌからはロレーヌ侯、プロバンスからはレイモン伯、ノルマンディーからロベール公など。さらにイタリアのノルマン人らが参加。道中は盗賊もいたし、イスラムの侵略地もあり、彼らは戦いながら前進。コンスタンティノポリスに全ての隊が集結したのは翌年1097年1~5月頃。※ その先はさらにかかっている。そもそも十字軍の公式部隊とは何か?ローマ教皇は西ヨーロッパのキリスト教圏の諸侯全体に聖地奪還の為の部隊を出してほしいとお願いをした。※ 本来の東ローマ(ビザンツ)帝国皇帝のお願いはそんな話しではなかったのだが・・。教皇が望んだ戦士は、まず大国の王による正式な戦士による部隊である。王が参加できない場合は、代理となる近しい臣下や騎士を伴う諸侯による軍隊を指していた。そう言う者らは教皇に「私が行きます。」と正式な書状が出されているはず。つまり正式にローマ教会からの発令と受理があったか? がポイントだろう。むろん諸侯が地元の者を戦士として募って正式に領主から参加許可が出された者はましな方。First Crusadeではおよそ騎士4200人~4500人。歩兵3万人とされるが、実際は、貧しさ故にどさくさで土地を離れたい者らが行列の後ろにまじっていた? 戦士になるどころかお荷物の者のが多い部隊もあったので彼らを守る為に隊の進軍は遅れていく。本末転倒。実際の戦力は1/6程度?※ 戦士以外に調理人や聖職者なども隊にはいた。最初から戦力外は当然いたが・・。いらない者が付きすぎて足手まといだったのが真実。実際聖地まで辿りついたのは数%だったと言う。本来は免罪のキップを手にする為の参加ではなかったか? たいていの者は一攫千金をねらって部隊に入った? それは彼ら諸侯らも同じだった。彼ら諸侯がこれから樹立するウトラメール(十字軍国家)の主になるのだから・・。※ 少年十字軍。自発的に十字軍に参加したいと、大人に騙(だま)され人買いに売られてしまったのもいた。果てしなく遠い聖地陸路で中東のエルサレムを目指す。今、地図で見てもそれは容易な距離ではない。国によってはなおさらだ。ほとんどの者はそれがどこにあるかさえ知らなかったであろうし、簡単に行って帰ってこれると参加した者のが多かったろう。当然だが、陸路組はその道が過酷で命を落とす者の方が多かったのだ。そんな中でも初心を忘れずに真に信仰の元に動いたのがロレーヌ出身のゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)らである。彼は聖地を取り戻す為に前進しようと皆を鼓舞したが、有力な騎士である仲閒は自分が獲得した土地を守る為に聖地へ行くのをこばんでいる。だから聖地に近づくにつれて隊の人数は減って行くのである。First Crusadeでは聖地に至るまでのがとても難しかったのだ。だから聖地近くから突然船で参戦したジェノバは、精神的には楽勝であったはず。しかし、先に書いたが海ルートで7~8ヶ月。ガレー船は風まかせと基本手こぎだしね。十字軍効果の経済ジェノバは十字軍の騎士らが建国した4つの植民都市。ウトラメール(Outremer)の主要港に接岸する権利と同時に商取引の権利を得ていく。※ またこれから陥落させて増える十字軍の港もそれにあたる。もともと農作物の採れる場所ではないので、食糧は、ほぼほぼ西欧からの輸入に頼るしかなかったので彼ら商人は4つの王国に食糧他、生活物資も当然運んだが、武器、武具だって大量に運んだ。船の納品だってあったはず。商機はいくらでも転がっていた。今後は聖地詣でをする巡礼者らを大量に運んで行く事にもなる。ところで、First Crusadeで活躍した戦士のほとんどは任務を終え、故郷に帰ってしまった。後続の軍隊や巡礼者のほとんどは、十字軍らが切り開いたパレスチナの港へ船で到着するようになるのだが、パレスチナへ接岸する航路をもっていたのはジェノバやヴェネツィアの他、ピサ、アマルフィ、アンコーナなどの一部 海洋共和国である。だから聖地に向かう戦士や巡礼者はまず、欧州でそれらの国の港をめざしたのである。本国の共和国の街は人が増えてどこも経済は大きく動いたはず。だが、ヴェネツィアはこの時すでにもっと先の商売に目をむけていた? 軍事特需の向こうに東洋を見ていた? ヴェネツィアは商売に対して純粋に貪欲だったのかもしれない。船賃も恐ろしく高額であったろうと思うが、巡礼者の数は以外に多かったのだろうと想像する。今もそうであるが、巡礼者をあなどってはいけない。信仰の為なら命もお金も惜しくはなかった人達だ。11世紀に海洋共和国の経済が好景気を迎えたのも道理である。大量の民族の移動が起きていたのだから・・。それにテンプル騎士団は彼ら巡礼者を守る為のボランティアから誕生している。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)第2回目の十字軍(second Crusade)1144年12月、最初に得た最も大きいエデッサ伯領の陥落を受けたからだ。キリスト教国は激しく同様。当然そこにはローマ教皇の要請が再び出たであろう。が、それよりもインパクトがあったのがクレルヴォーの修道士ベルナール(Bernardus)(1090年~1153年)による「再度聖地へ」と言う十字軍勧誘の演説が各地で行われた事だ。※ シトー会出身のベルナールは後に聖人認定されて聖ベルナールとなる。また彼はテンプル騎士団設立に強く貢献している。テンプル騎士の白装束はシトー会の衣なのである。※ 教皇庁の聖人の認定について書いています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂福者については「ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)」で列福者を紹介しています。リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)この歴史的にも有名な演説効果は大きく、実際ものすごい数の戦士も集まったが、肝心のsecond Crusade自体はことごとく途中の経路で失敗して終わっている。当然であるが、負け戦が始まり、聖地から十字軍兵士等が追い出されれば、聖地での需要は減る。共和国側の特需も激減して行く事になる。ヴェネツィア(Venezia)の街大運河(キャナル・グランデ)入り口 右岸 サンマルコ広場側ここが共和国時代のヴェネツィアの表玄関である。左 サンマルコの 鐘楼(Campanile di San Marco) 右 ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)下 ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の後方に連なっているのがサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) 見えているのは堂の右側面上下共にドゥカーレ宮殿の回廊からヴェネツィア生まれの景観画家 カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)Piazza San Marco verso la Basilica 1735年※ 海は尖塔の右方面。尖塔の後方にドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)が見切れている。広場前にはエジプト産の花崗岩の円柱が立ち、その上にはヴェネツィアの守護聖人が乗っている広場の名前にもなっているサンマルコ(Piazza San Marco)とはこの街の守護聖人、福音記者マルコ(San Marco Evangelista)であり、円柱の上にのっている有翼の獅子は聖マルコのアトリビュート(attribute)。すなわち象徴である。これを持ってヴェネツィアの街は聖マルコの加護の元にあると言う事を示している。聖マルコはキリスト教の四人の福音記者(聖書を記した人)の1人。828年、ヴェネツィア商人によってアレクサンドリアから聖マルコの聖遺物がヴェネツィアに運ばれ祀られる事になったと伝えられている。重さ3トン。長さ3m。かつては金色にペイントされていた。「有翼の金のライオン」がヴェネツィアをシンボリックに現す意匠となり、前回紹介したイタリア海軍旗などヴェネツィア共和国にかかわる所には絵なり、彫像なりが残されている。足下には福音書(Evangelium)。ヴェネツィアの最初の守護聖人であったアマセアの聖セオドア(Theodore of Amasea)踏みつけているのはドラゴンらしい。当時は海からしかアプローチできなかったので、サンマルコ広場の円柱は海からの玄関となる門柱として造られた。しかし、中世に門柱間に公開処刑の台が置かれた事からヴェネツィアの人々からは縁起の悪い場所となってしまったらしい。海からの写真が無いので広場側からサン・ジョルジョ・マッジョーレ (San Giorgio Maggiore)島島はほぼサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂(Basilica di San Giorgio Maggiore)となっている。790年頃に最初の教会の建設が始まり、982年に島全体がベネディクト会に与えられ、修道院となっていたが1223年の地震で倒壊。新しい教会は1610年に完成。下はウィキメディアからかりました。鐘楼の上からの眺望です。奧に見える集落はジュデッカ (Giudecca)島です。修道院建築ですね。他の教会が派手なのと異なり、長らくベネデイクト会であるだけに地味らしい。ヴェネツィアはとにかく教会が多い。そしてたいていの教会には名画がかけられていたりする。ヴェネツィア派と呼ばれる著名な画家が多くこの街から誕生しているからね。こちらにはルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家の1人、ティントレット(Tintoretto)(1518年~1594年)「最後の晩餐」,「マナの天降」があるそうだ。昔見に行ってると思うが記憶にないな。ヴェネツィア(Venezia)の成り立ちヴェネツィア(Venezia)はアドリア海の北に位置するヴェネタ潟(Laguna Veneta)と呼ばれる潟(かた)の中にある。アルプス山脈を分水嶺としてロンバルディア平原を通りアドリア海に注ぐポー川(Po River)が土砂を運びデルタ(Delta)を形成。それは潮流とぶつかり徐々に潟(かた)が形成。最後の氷河期が終わった6000年ほど前から水位が上がり閉じられた要塞のような潟(かた)を形成した。こうしたデルタの潟(かた)はどこの都市にもあった。通常なら潟(かた)自体を埋め立ててしまうものだが、ヴェネツィアでは歴史がそれを許さなかった?水の都と呼ばれるヴェネツィアの街を維持する事に努力がされてきたようだ。それは最盛期のヴェネツィアの繁栄に欠かせない要素であったと同時にその栄光の歴史を留めておきたかったからだろう。※ 現在は観光と言う目的が一番だろうが・・。ヴェネタ潟の衛星画像 ウィキメディアからかりました。潟(かた)の中に点在する島々。118の小さな島々からなっている。本土から4km。海から2kmの潟(かた)の島? 標高わずか2mのヴェネツィア(Venezia)の街がある。それは一応ヴェネト州(Veneto)の州都となっている。下のピンクがヴェネツィア(Venezia)の街と呼ばれる部分。ヴェネツィア(Venezia)の街は100の島、100を越える運河。400を越える橋でつなぎ止められてできている。それも、そもそもはわずかな砂州に丸太の杭を打って底上げしてできた張りぼての土台だ。位置的には西ローマ帝国の領域。ローマ時代には潟(かた)の近くにはローマ人の集落がありローマ貴族のヴィラ(別荘)が華麗に連なっていたと言う。※ 実際ラグーナ(トルチェッロ島近くの水中)から古代ローマ時代のヴィラの遺跡が発見されている。ローマ時代は今よりも水位も低かったらしい。ゲルマン民族の諸部族のローマ侵略が始まると、ここはローマ市民の避難所となって行ったと言う。476年、西ローマ帝国が解体されここは東ローマ(ビザンツ)帝国の属州扱いになっていた?568年頃、ローマ帝国自体の力が衰えはじめるとスカンディナヴィア半島を源郷とするゲルマン人のロンゴバルド(Longobardi)らが南下しヴェネツィア自体の侵略が始まる。※ ロンゴバルド(Longobardi)は、インド・ヨーロッパ語族(Indo‐European languages)ゲルマン語派(Germanic languages)の民族。いわゆる「蛮族」と呼ばれた人達です。元の住人であるローマ人? らは侵略者からのがれるべく潟(かた)や中の島に逃げた。ラグーナまで侵略される事はなかったので、彼らは先のように丸太で基礎を造り石灰でかためレンガを積み上げてそのままそこに住みついた。それはまるで海鳥の巣のようだったらしい。車内からの写真なので綺麗ではありませんが潟(かた)の一部です。こんな所に丸太で基礎を打ったのでしょう。トルチェッロ島 (Torcello)は潟(かた)の中でも人が定着した島としては最も古く当初は10世帯程。5世紀~6世紀頃から人口増加し、639年、アルティーノ(Altino)の司教がトルチェッロ島 (Torcello)に司教座聖堂を建立する頃は相当人口は増えていたらしい。人々の多くは漁と塩焼きをし、やがて塩の交易で成功を見せる。東ローマ(ビザンツ)帝国からは自治が認められ彼らは東ローマ(ビザンツ)帝国とのつながりをより強化して安全を計ると共に697年にはラグーナに分散していた彼らは自分達の代表として総督(ドージェ)を選出。その公邸を中核として自治機構を構築し共和国の基礎を造るに至った。811年頃、フランク族のカール王が進軍してきたが、彼らはそれを押さえた。しかし、それをきっかけに安全で新しい政治の中心となる都の必要性が生じラグーナの中に新たに街を建設。それが現在のヴェネツイア(Venezia)の街である。デフォルメされた地図ですが、解り易いかと・・。ピンクで囲ったのがサンマルコ寺院とドージェ宮のある中心地です。海との結婚で指輪を投げたのが紫で囲った海域と思われる。下はヴァチカン美術館から 中世のヴェネツィアを描いた図です。高台など無いのにこの鳥瞰図(ちょうかんず)ヴェネツィア生まれの景観画家 カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)The Entrance to the Grand Canal, Venice 1730年上下共にカナレット(Canaletto)で、ウィキメディアからかりました。最初の一枚。大運河(キャナル・グランデ)入り口と同じ場所です。左が税関ですね。Return of the Bucintoroto the Molo on Ascension Day 1729~32年波止場(molo)に戻る共和国元首(Doge)が乗った御座船(Bucintoroto)とタイトルされているが、これはまさにヴェネツィアと海との結婚の儀式を終えて元首と船がドゥカーレ宮殿に戻ってきた図である。海との結婚とブチェンタウロ(Bucintoroto) 復活祭から40日後の木曜日、それはキリストの昇天日(Ascension Day),ヴェネト語で(Sensa)。共和国時代、毎年行われていた儀式がある。ヴェネツィアの繁栄はまさに海との賜(たまもの)。ヴェネツィアはアドリア海に指輪を投げ込み結婚をとりおこなった。ドゥカーレ宮殿前の波止場(molo)から共和国の元首(Doge)が乗ったブチェンタウロ(Bucintoroto)と呼ばれる特別の御座船が潟(かた)の出口を目指す。アドリア海との合流点がその場所だ。潟(かた)に住むヴェネツィア人にとって、潟(かた)は要塞そのもの。要塞の出口がまさにアドリア海へのゲートだからだ。※ 先に紹介したデフォルメの地図に場所示しました。ヴェネツィア共和国の元首が、海に金の指輪を投げ入れる。それは最初(1117年)教皇からヴェネツィアへの感謝として与えた指輪が発端らしい。ヴェネツィアはその指輪を自分のものとせず、海に与えたのだ。後にそれが海との結婚に変化していったらしい。「海よ、我は汝と結婚せり。真に、永遠に、汝が我がものであるように。」アドリア海が夫、花嫁はヴェネツィアの街自身。だからヴェネツィアはアドリア海の花嫁と呼ばれて来たのだ。アドリア海に敬意を表しつつ アドリア海と永遠に共生したいと願ったのだろう。センサの祭り(Festa della Sensa)と呼ばれるのは近年の事かと思われる。絵画のタイトルにそのような記述は付いていないので。ブチェンタウロ(Bucintoroto)と言う元首の船は金の装飾のついた特別仕様のガレー船である。過去に4隻建造されているらしい。元も豪華だったのが、1729年に処女航海に出たブチェンタウロ(Bucintoroto)で長さ34.80 mの喫水線船体。高さは7.31 m。40人以上の乗員に168人の漕ぎ手を必要としたと言う。※ 上のカナレットの絵画の製作年代から、画中の船がそれと思われる。これもまたヴェネツィア共和国を象徴するものらしく、ナポレオンの侵攻、そしてイタリア王国の樹立にあたって、最後のブチェンタウロ(Bucintoroto)は1798年に燃やされた。ヴェネツィア共和国の完全なる終焉だ。※ 2004年ブチェンタウロ財団が設立され2000万ユーロで1729年のブチェンタウロの再建がはじまったらしいが、資金不足で2016年9月中止されている。サンマルコ広場前の波止場(molo)からサン・ジョルジュ・マジョーレ(San Giorgio Maggiore)島とジュデッカ(Giudecca)島右が大運河(キャナル・グランデ)入り口大運河(Grand Canals)(手前)とドルソドゥーロ(Dorsoduro) 地区奧にジュデッカ運河(Giudecca Canals)とジュデッカ(Giudecca)島下 ジュデッカ(Giudecca)島ジュデッカ(Giudecca)島の奧左 サン・クレメンテ島(San Clemente)右 サッカ・セッソラ・ラグーナ(Sacca Sessola Laguna)海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)大運河(Grand Canals)(手前)とジュデッカ運河(Giudecca Canals)の間、ドルソドゥーロ(Dorsoduro) 地区の端にあるのがプンタ・デラ・ドガーナ(Punta della Dogana)。隣接するのがサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂大運河入リ口。サンマルコ広場前のこの場所は税関であり船の検問所があった場所。船舶は、サンマルコ前の海に錨を下ろし、海からの来訪者はここで検閲をまった。つまりここは海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)があった場所。実はこの場所はヴェネツィア初期に塩の倉庫があった場所。ヴェネツィアは塩の生成と販売で、当初成り上がった街。繁栄期のヴェネツィアでは需要の多さから、15世紀に海からの入国と陸からの入国で税関をわけている。陸の税関ドガーナ・ダ・テッラ(Dogana di terra )はリアルト橋近くのワイン河岸に置かれていた。1677年に行われたコンペにより1678年~1682年の間に新たな税関としてジュゼッペ・ベノーニ(Giuseppe Benoni)(1618年~1684年) のデザインで建築された。ジュゼッペ・ベノーニはバロック時代のイタリアの建築家。2006年に安藤忠雄 氏によりリノベーションがされている。2009年からフランスの実業家 フランソワ・アンリ・ピノー(François-Henri Pinault)(1962年~ ) 氏のプライベート・コレクションの美術館になっているようです。黄金の天球を支えるアトラス(Atlas)とその上に乗るのは運命の女神像。それ自体が風見鶏(Weathercock )となっている。スイス、イタリアの彫刻家バーナード・ファルコーニ(Bernardo Falconi)(1630年~1697年)製作。ヴェネツィアのパノラマ撮影はサンマルコ広場にあるヴェネツィアで一番高い鐘楼から360度パノラマで・・鐘楼に上るのに行列です。夏場は特に・・。下のサンマルコ広場中央にあるのが鐘楼です。美術館見学や土産を買いたい人、ゴンドラに乗りた人には時間無いかも。ヴェネツィアに来たら、確かにこれで街は一望出来るけど、美術館に行かないのは損です。ヴェネツィアはティッィアーノなどヴェネツィア派と言うジャンルがあるくらい絵画が秀逸です。ここでしか見られ無い持ち出しのできない大きな絵画もありアカデミア美術館は絶対必須です。島ではなく、潟(かた)の上の浮島のような街です。これら建物のあいだには無数に小さな運河が路地を形成しています写真下はドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)に隣接(接続)して海より奥側にサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) がある。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco) 内容については次回に・・。上の写真はサンマルコ広場(Piazza San Marco) からの撮影。下の写真では寺院は右下で見切れている。行政館にはさまれた15世紀に造られたヴェネツィアの時計塔。この時計塔は海の都ヴェネツィアにとって意味のある時計。これも説明は次回に。下は時計塔の尖塔部写真向こうの陸がイタリア本土です。ヴェネツィアの街と本土(メストレ地区)とを結んでいるのがリベルタ橋(Ponte della Libertà)。鉄道橋と併走しています。下はウィキメディアから借りてきたリベルタ橋(Ponte della Libertà)の写真です。全長3850m。ツアーではバスでこの橋を渡り、渡ったすぐ右の波止場? トロンケット・マーケット(Tronchetto Mercato)で船に乗り換えるそうです。サンマルコ広場(Piazza San Marco)一周です海洋共和国ついでにヴェネツィア観光も含めました。けっこう盛り沢山です。なかなかこのご時世、当分海外旅行など行けそうにありません。いつか行く時の参考にしてください。次回も続きますが・・。ところで、数日前にワクチンを打ちました。1回目なのに腫れて熱持って痛いし・・。翌日も翌々日も薬を飲み、集中力が保てず遅れた事申しわけありません。m(。-_-。)mス・スイマセーン2回目恐いな ブンッ!!(((>_<。≡。>_<)))ブンッ!! Back numberリンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂 アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年07月17日
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