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「シュロ」について追加しました。
今回写真は降誕のファサードの彫刻を拡大して紹介です。
最近NTTコミョニケーションズのCMに出演されているサグラダ・ファミリアで主任彫刻家をされている外尾悦郎氏の彫刻も紹介します。
サグラダ・ファミリア 2 (降誕のファサード)
サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia) Part 2
降誕のファサード
主任彫刻家、外尾悦郎氏の彫刻
教会の建設理念と建築士
サグラダ・ファミリアの聖堂は五身廊、三翼廊(三袖廊)、身廊と側廊が列柱によって分けられるラテン十字型のバシリカ形式の聖堂です
。
下は聖堂の平面図です。
水色のラインが聖堂の主祭壇です。
1が受難(西面)のファサード
4が降誕(東面)のファサード
2の下が(南面)にできる栄光のファサードの位置
です。
前回から紹介しているのは、ガウディの存命中に立ち上がっていた4本の鐘楼がある東側、降誕のファサードです。
今回使用の写真は説明上季節がまちまちになっていますのでご了承下さい。
加えて上の写真は聖堂内部完成前の写真です。
教会の完成時には イエス・キリスト、聖母マリア、4福音書記者、そして12使徒を象徴した塔、合計18本の塔が立つ事になる
ようです。(現在10本の塔が未完らしい。)
降誕のファサード(生命のファサード)
キリスト誕生にまつわる聖書の話が具現化された彫刻で飾られています。
左の門がヨセフを象徴
中の門がイエスを象徴
右の門が母マリアを象徴
これら門に飾られている一部彫刻はガウディのスケッチに基づいて後世、外尾悦郎氏らによって彫刻されて設置されています
。
左の門より幼児虐殺の彫刻
これはイエスの生誕を恐れたヘロデ王がその年にあたる子供をかたっぱしから虐殺する命令を出した事を象徴。
生まれたイエスを連れて逃げる図
風化が見られるので、最近の作品ではないようです。
これは彫刻によって見る聖書そのものでもあります。
中の門よりイエスの誕生を祝福する天使たち

右のハープの天使拡大
主任彫刻家、外尾悦郎氏の彫刻です。

2000年に15体の天使像を完成させ、設置したことにより、降誕のファサードは完成
されたのです。
だから古いサグラダ・ファミリアの本には載っていません。
右の門上部 誕生したイエスを祝福する三博士
・・だと思います。
左には植物のシュロが彫り込まれ、 誕生の門の外壁は生命のみなぎる植物のような有機的なものになっていて、後に紹介する受難のファサードとは真逆の様相
です。
有機的な・・と言うところからすれば 当時のモデルニスモ、所謂アールヌーボーの要素
になっています。
象徴としてのシュロ(ナツメヤシ)
古来ローマよりナツメヤシは勝利のシンボル
だったそうです。それがキリスト教に入ると殉教者の勝利に対する死を象徴するものとなったようです。
他に聖書では様々な形でシュロが登場してきます。
キリストのエルサレム入場の時に民衆が持ってユダヤの王(キリスト)迎えたのもシュロ。
右の聖母の門においては、マリアが受胎告知で大天使ガブリエルから受け取ったのもシュロなのです。
中央の門を構成する柱の土台には 変わらないものの象徴として亀が彫刻

教会の建設理念と建築士
さかのぼれば 教会の着工は1882年3月19日。聖ヨセフの日に礎石
。
教会の建築を望んだのは 聖ヨゼフ信心会を設立したホセ・マリア・ボカベージャ(1815年~1892年)。
当初はヴァチカン詣でをした帰路に見たイタリア、ロレットの聖家族教会、そのバシリカと同じ聖堂を作る予定だったようです。
彼は敷地を購入して主任建築士を教区建築家であるフランシスコ・デ・パウル・デル・ビリャール(1828年~1900年)に依頼。
( 最初からガウディが設計していたわけではないのです。)
時代は産業革命後の社会的変革期・・人々の生活形態が急速に変わり 、「脱教会化の風潮」の中、教会の威信が衰え始めだしていた頃
です。
聖ヨゼフ信心会の人達は家族の安定、社会秩序の礎石となるよう教会の建立を決め、 教会が完成したあかつきには教区の子供達の学校、病院、労働者の為の職業教育のアトリエ等の敷設も備えた総合的な施設を構想
していました。
簡単に言えば キリスト教教会による社会的センター建設
であり、それはすなわち カトリック信仰への人々の回帰をも望むものであった
ようです。
しかし聖ヨゼフ信心会は会員数こそ多いものの貧しいカトリック信者の団体だったようで 寄付を主体とするサグラダ・ファミリアの建築は最初からスローペースで始まります
。
今回ローマ教皇が訪問して聖堂開きがあっわけですが、当時のローマ教皇レオ13世(1878年~1903年)はサグラダ・ファミリアの建築の為に、バチカンへの奉納金を半分に減額して後押ししていた・・と言う経緯もあったものと思われます。
(当時のローマもカトリック離れを憂いでいた。)
アントニ・ガウディの大抜擢
当初のデル・ビリャールの設計ではアカデミックなネオ・ゴシックの教会になる予定だったようですが、作業が始まってまもなく信心会とデル・ビリャールの間で意見対立があり、デル・ビリャールは更迭。
後任は建築家ホワン・マルトレルの紹介により、31歳の若い建築家アントニ・ガウディが選任されたのです。
1883年11月3日、建築家アントニ・ガウディは主任建築士となり、亡くなる1926年までの43年間の生涯をこの聖堂建築に携わる事になります
。
携わる・・と言うより、 この建築に私財も生涯も捧げた、のめり込み方
だったようです。
アン トニ・ガウディ(Antoni Gaudí i Cornet")(1852年~1926年)
スペイン、 カタルーニャ出身でバルセロナで建築を学びバルセロナを中心に活動
した建築家です。
時代はアール・ヌーヴォー期、スペインではモデルニスモと呼ばれるモダニズムな時代に独特の感性で表現した建築家
で、サグラダ・ファミリアにも見られる変わった建造物を彼はバルセロナに他にも幾つか残しています。
その類のない彼のデザインの根底にはスペインに土着したイスラムからの文化、ムデハル様式の影響を大きく感じるところです
。
ムデハル様式 (estilo mudejar)
レコンキスタの後、イスラム教徒の建築様式にキリスト教の建築様式が融合された特異なスペインの建築スタイル
。
Back number
リンク サグラダ・ファミリア 1 (未完の世界遺産)
リンク サグラダ・ファミリア 3 (生命の木)
リンク サグラダ・ファミリア 4 (未完の理由 と主祭壇)
リンク サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)
リンク サグラダ・ファミリア 6 (天井の立体幾何学模様)
リンク サグラダ・ファミリア 7 (ステンドグラス)
リンク サグラダ・ファミリア 8 (受難のファサード)
リンク サグラダ・ファミリア 9 (鐘楼のバルコニーから)
リンク サグラダ・ファミリア 10 (教会建設)
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