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他人の幸せというのは見極めるのが難しいと思います。周囲から見ればどう見ても幸せではないように思えてもその人自身にすれば十分幸せということもあります。逆に幸せそうに見えてもご本人は全然幸せと思っていない場合もあるものです。 幸せの基準と言うのはやはり自分自身に在るのかもしれないと考えます。他人にどう思われようと自分で幸せだと思えていればそれは「幸せ」だということだろうし、幸せというのは指して強く思う不満が無い状態と言う事なのかもしれません。 何事に対しても「執着」というものを捨て去っていくと幸せになりやすいかもしれません。執着心が不平不満を生み出す元になっているように思います。物やお金に対する執着、人に対する様々な執着、それらが人の心の平安を妨げるように思います。 ただ絶対的に衣食住を与えられていない人達の場合は自分たちで幸せだと思っていたとして、そこには他者が手助けに入る余地があるのかもしれません。人は最低限の衣食住に関して病気や怪我になりにくいだけの環境を与えられる権利を持ってしかるべきなのだろうと思います。 全ての人達が幸せに生きられる世の中になればいいのですが、それは本当に叶わぬ夢なのかもしれません。昨日誕生日を迎えて、ふとそんなことを考え、こういう自分はきっと幸せなのだろうと思い深い感謝の思いを持ちました。傲岸不遜な気持ちなのかもしれません。それなら自分に何が出来るのだろう?一人ずつでもお客様を癒すことが少しでも出来ていけれれば、少しはお役に立つことになるのかもしれないと「頑張ろう」と思います。
2015年01月30日
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当院のお客様で70歳代のおばあちゃまがおられます。お年の割にはとてもお元気で矍鑠とされておられて、耳が遠くなったことと耳鳴りが少し辛くて、その耳鳴りの軽減になるので当院に時々通われています。 その方が先日少し憔悴した風で「弱っている」と相談されてきました。若い女性の古くからの知り合いの霊感があると言う人から「貴女の寿命が終わりつつある。頭の右上にお迎えの雲が来ている。」と言われたのだそうです。ご本人は死ぬことは何にも怖くないのだけれど、ご主人が自分よりも高齢で残していくのが心配でしょうがないので、今先に死んでしまうわけにはいかないと思われているのです。 少なくとも霊感のあるものが人の寿命を告知するなんて言語道断と思いました。話を詳しく聴いてみるとその霊感のあるという女性は先日自身のお母様を亡くされたばかりとのこと。氣視してみると随分とお母様に頼り切っておられた方だったようで精神が失調しているようでした。 「自分の母親が死んだのに、何故お前は生きている。お前も早く死んでしまえ。」そういう気持ちが無かったとは言えないような状況だったようです。 もちろんそのお客様の寿命はそんな早く尽きてしまうようなものでは無いのですが、ご本人はショックが大きくてなかなか心の動揺が収まらない様子でした。私はその霊感女性の心の失調をお伝えし、全くの言いがかりであることを話しました。 例え霊視で寿命が視えたとしてもそれは決して口に出していいことではないのは当然のことです。怪我や事故の予兆とかが視えれはお教えすることはやぶさかではありませんが、寿命に言及することはしてはならないことだろうと思います。この霊感女性のなされたことはある意味で強い「呪」であると思います。そして「人を呪わば穴二つ」というのは真実です。ご本人のためにもこの「呪」が雲散霧消することを祈るしかありません。
2015年01月28日
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SFが好きな理由は、心がどこまでも広がって遠く銀河の果てまで飛んでいくことが出来るからです。小学生の時、いじめにあって心が苦しんでいた時にSF小説に出会って心を想像の翼に乗せて飛ばすことで救われて、それ以来ずっとSF(空想科学)小説に夢中になってきました。 今でもSF小説は好きであらゆるジャンルのものを試して読み続けています。J.P.ホーガン氏の巨人シリースなどは何度読み返したかわかりません。人類以前に巨人と呼ばれる知的異星人がいて人類を導いていたというようなお話なのですが、そのストーリーはとてもしっかりとした科学的な知識に裏付けされていてしっかりと私達読者を別の世界へ運んで行ってくれます。 SFの中に描かれている世界が少しずつ現実化していく様子も面白くて、人の想像力と実現化する能力というのは計り知れないと感じています。現在のスマホやSNSの発達した情報化社会は、コンピューターの力によって人と人の心が繋がっていくスピードや密度が加速度的に早まって行っていますが、きっと近い未来には世界中が同じ認識世界を共有するようになるだろうなぁと思います。 それはSFの世界の話では無くて、現実の世界が本当の平和とシンクロニシティに包まれた世界になるというストーリーなのかもしれません。
2015年01月26日
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インフルエンザが流行しているようです。我が家では一か月ほど前に予防接種を済ませました。市内でも料金が一番安い医院を探して、そちらで接種していただきました。 それでもこの時期は手洗いとうがいの励行を欠かせません。時々R-1ヨーグルトも購入して飲んでおります。インフルエンザに罹るとお客様にご迷惑をおかけすることになるので一家中で注意しています。 お出かけの際には帰った後の手洗いとうがいをお忘れにならないように。
2015年01月24日
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私は長男なのですが、一度実家を離れております。ご多分に漏れず嫁姑の間が最悪になり、嫁さんを助けるために私が家を離れました。 後になって見ればこの強制的な独り立ちは私を強力に成長させ、様々な分野での勉強を世間の荒波の中でさせてもらう機会になり、八年後に実家に戻った時に親子ともどもに良いことだったと実感するものになりました。離れている間はほとんど断絶状態で、まるで二男か三男のような気分でいたものです。 ただどういうわけか、実家を離れるときに喧嘩の真っ最中の母親から実家の仏壇の中にあった仏様を一体分けてもらっていました。これを小さな仏壇を買って離れていた間もずっとお守りしてきました。今になって思うとこれが私を守ってくださっていたように思います。見えない強い糸となって実家と私を、というかご先祖様たちと私をつないでいたもののように思います。 現代の人達は仏壇などを持たない方達が数多くおられます。そういうものを軽視する風潮があるのかもしれません。 しかし、ご先祖様を大切に思う心というのは家族を固める大きな要素になるように思います。それは大きなものに属していることを人が忘れないためにも必要なことのように思います。決して強制などされなくて、さりげない形ではありますが、脈々とつながってきた血の流れはとても大切な「人らしいもの」になるのだと信じております。
2015年01月22日
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小説家の平井和正さんが亡くなられた。氏の小説の愛読者でした。人狼(ウルフガイ)シリーズから始まり、「幻魔大戦」シリーズ等々数々の傑作を生み出されてこられました。日本のSF小説の世界では大きな足跡を残されていると思います。 幻魔大戦は漫画家の石森氏によって描かれて漫画になりアニメ映画にもなりました。その中に描かれた超能力者同士の戦いなどにどれだけ心を躍らせたことか。 人の心の中にある「闇」を克明に描きこんでいくことが平井さんの真骨頂でした。そして闇の彼方に必ず光り輝く希望の道筋がいつも見えているのも氏の小説の特徴だったような気がします。 人は思い悩むもの。しかしそこには必ず成長や進化があり、「光」が絶対的なものではないけれどいつか必ずその麓には行きつけるのではないかと平井さんは考えておられたような気がします。 人の心の闇を描きながらも必ずその筆の先には「明るさ」がありました。ご冥福をお祈りしたいと思います。
2015年01月20日
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厄払いに行ってきました。白山比メ神社さんへ行きました。巫女さんの舞いが美しかったです。くるくると廻る所作が珍しく一瞬の美を愛でさせていただきました。 神様は前回の厄払いの時は頭上で踊られておりましたが、今回は地の底から湧き上がるように出てこられて何やら強い熱量を感じるお姿を感じました。神様というのは大自然のエッセンスのようなものです。もしかしたら阪神淡路大震災の20年目の日ということが関係していたのかもしれないと後になって思いました。大地の鎮めのお仕事をされていたのかもしれません。何故かこの日に来なければならないと感じて、この日にしてしまったのは何かの意味があるのかもしれないと思いました。 日本中の神様が大地の鎮めを行っておられた日が1月17日だったのかもしれません。巫女さんの舞いの美しさに何故か悲しさが乗せられたような気がしました。合掌。
2015年01月18日
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何を書こうかと考えてみても何も思い浮かびません。そう言えば先日テレビでお坊様たちが集まって、その方達にいろいろとお坊様たちの生活やら何やらをお聞きすると言う番組をやっていて面白かったです。 私ももしかしたらお坊様になると言う道もあったのかもしれないなぁなどと思って観ておりました。私の父方の祖父は在家出家というのでしょうか、国鉄の機関士を辞めて後に僧侶の資格を取って剃髪しておりました。優しい人だった記憶があります。 僧侶であると言うことは心の平安を得られるということなのでしょうか?その確率は高いのかもしれません。修行することを主とされている僧侶の方達の目にはいつも澄み切ったものを感じるように思います。 そう言えば私の指圧の師でもある遠藤先生も僧侶の資格を持ち、念仏三昧の日々に入っておられるらしいですから、タオ指圧という道には僧侶の生活につながる部分があるのかもしれません。我を捨てて他者を強烈に思い想像することが経絡を視るという形につながっていくと言う経絡指圧の道はもしかしたら僧侶の精神修養の道にも通じているのかもしれないなぁと思います。
2015年01月16日
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娘が今年本厄なので近々お祓いに行ってこようと考えております。以前に私の母も厄年ではないのですが、良くないことが立て続けに起きたので白山ヒメ神社へ厄払いに行かせていただいたことがあります。 本殿で厄払いの儀式を受けながら氣を視る感覚を少しだけ働かせていただいたら、間違いなく神様の眷属である方達か舞いを舞っておられるのが視えました。爽やかな風が吹いてきたのを覚えております。 娘は氣に敏感な割に強く守護されているときとほっぼらかしにされるときがある魂の性質を持っているので、時々重い「厄」が溜まることがあります。念のためと言うか、親心というかそういう思いで厄払いに行ってこようと思っております。 読んでくださっている方達の中にも良くないことが続くというようなときには厄年などとは関係なく、自分のご縁のある神社・寺院で厄払いをしていただくという方法もあることをご考慮ください。
2015年01月14日
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テレビを見ていたら昔の給食の話題をやっていて、自分の給食の思い出が蘇ってきました。 私達の世代の給食は有名な脱脂粉乳の時代。全く美味しいとは言えないような牛乳もどきを飲んでいました。パン給食一辺倒でねほとんどが食パンでたまにコッペパンが出るくらいでした。この食パンがなかなか食べきれなくて、よく残してしまいランドセルの中にカピカピになったパンの残骸がよく残してあった記憶が鮮烈に残っています。 給食の時間自体はとても楽しくて、美味しいメニューも数々あったのですが、記憶に残っているのはあまり美味しく感じられなかったメニューばかりです。 母に言わせると私は小さいころ小食であまりご飯を食べない子供だったそうなので、給食で残してきたりすると相当きつく叱られていたそうです。それでも給食で出た「いなりうどん」や「クジラ肉」なんかは美味しい記憶として残っています。それにしても記憶の大半はあの脱脂粉乳の強烈な香りなんですよねぇ。
2015年01月12日
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子供のおもちゃとしての風車が氣視を始めるとすぐ視えました。段々周りが視えてきて、どこかの縁日の屋台の一角にある風車を売っている店のようでした。 この前世の方は男性で俗にいう「親分」と呼ばれる立場の方。今でいう「ヤの付く自由業」の方では無くて町の顔役であり、「テキヤ」と呼ばれる祭礼など催しのときにそこに関わる商売人たちを取り仕切る立場の人だったようです。 こういう場合には視えるものの細部にまで意味があることが多いので、ただ漫然と視ているだけではダメなのですが、多分最初に視えた「風車」も意味があること。 「風」が好き。ということは自由が好き。時代の流れや社会の流れ、そういう「風」を見極める力も持っている魂であると言う事。それから子供が好き。それも男の子。 だとすると現世の彼女にもう一人男の子が授かるということも表しているのかもしれないと推測は果てしなく広がっていきます。 氣視で視えるものには様々な情報が含まれているものです。そのほかにもいろいろと視えたものがあり、それぞれに私の考察を含めてお話しをしました。久しぶりに鮮やかな氣視が出来ました。氣の相性が私と彼女の場合、良かったのかもしれません。
2015年01月10日
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私達医師ではない民間療術師と呼ばれる職種の人間は「診断」という行為は禁じられています。 それはお医者様だけが許されている行為なのです。ですが、具合が悪いと言ってこられるお客様に誰にでも同じようなサービスを提供して身体についての何らかの情報を与えることも無く満足して帰っていただくわけにはなかなかできません。 お客様への誠意という点においても、今、その体の中でどういう事が起こっているのか少しだけでもヒントを与えて差し上げたいと思っております。ですので「らしい」とか「かもしれない」と憶測の範囲におさまるような内容で「診断らしきもの」をしているのかもしれません。 東洋医学の観点や「氣」の流れの状態を見定めることは17年もこういう施療を続けていれば、ある程度解るようになります。それでも、もちろん疑わしい症状であればすぐにかかりつけのお医者様へ行くようにお話ししますし、骨折やねんざについては施療できないとしっかりお伝えするようにしております。 しかし民間療術の範疇に在っても、「診」という過程は必ず必要だと信じております。それが無ければ「人を癒す」という行為は二割以下の充実度になってしまうと思うからです。 こういう状態だから、こういう経絡にこういう作用を与えてみて何らかの結果を残していく、そういう施療をしていけれればと思っております。
2015年01月08日
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NHKの真面目な戦後70年を振り返るというような番組でタモリ氏が言っておられた言葉です。何らかの時代というようなものが日本に到来していたのは日本人が、というか人が「自分自身と向き合うことを嫌う」生き物であることの表れであるとタモリ氏は言っておられたようです。 確かに人は自分自身と向き合うことを嫌う生き物なのかもしれない。自分を見ていなければ結構好き勝手なことが出来ますものね。好きなものを好きなだけ食べて、好きなことだけをして嫌いなことには背を向けてそれでも日々を何となく過ごしていくことが出来るものです。 私自身も「我」を排除することを第一義とする施療を心がけていながら、間食をし続け好きなものを好きなだけ食べるという生活を繰り返していて憩室炎という病気になって、自分の身体からのきつい警告を受ける羽目になりました。自分と向き合うということは日々のさりげない怠惰というものまでも決して見逃さずに厳しい目で自己チェックをするということなのでしょう。 これでいいのか?という疑問を常に自分に問いかけて生きていくのが良いのだろうと思います。だからと言って決め決めにして、自分に変なストレスを与えてしまうのも良くないとは思います。緩急をつけての自己反省を繰り返していくのが良いのかもしれません。 時代は大勢の人が作り出していくもの。それに巻き込まれないためにも一人一人の自己反省が必要になってくるような気がします。日本人には特に必要な自己チェックなのかもしれません。
2015年01月06日
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形のあるものよりも形の無いものの方が大切であると言うのは真理なのではないかと思っております。 それで形の無いものを感じ、感謝していくのに大切なのが「想像力」と「共感力」です。「人の心」も「自然界の流れ」もこの二つの力がしっかりしていないと掴めないものです。 他の生き物と人との違いは「想像力」なのかもしれません。人だけが想像する力を持っているのだろうと思います。いや、クジラやイルカや類人猿の類も想像力のかけらは持っているのかもしれないなぁ。 私の施療もこの二つの力を研ぎ澄ましていくことがノウハウの基本になります。「我」というものを捨てて「想像力」と「共感力」を鍛えていく。今年もまたその繰り返しが始まりました。
2015年01月04日
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今年は雪の年明けとなりました。今年の恵方は西南西ということで自宅からその方位にあるのは犀川神社なのでそちらへ初詣となりました。この神社は奈良の春日大社と縁続きの社になります。 去年春日大社には行かせていただいたのもこちらの神社でご縁を造らせていただいたおかげかもしれないなぁと思いつつ家族三人で手を合わせてまいりました。 今年は健康に留意しつつ何か一つ新しいことにチャレンジしてみたいと思っております。皆様もきっと良い年になられると思います。良い一歩を踏み出してみてください。
2015年01月02日
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