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金閣寺をあとに銀閣寺へ桜並木が続く哲学の道も雪景色です。通称:銀閣寺正式名称:慈照寺(じしょうじ)金閣寺と同様に大本山相国寺の山外塔頭です。足利義政公は三代将軍足利義満公(祖父)の北山殿金閣「鹿苑寺」にならい隠栖生活を過ごすため東山殿「銀閣」を1482年に造営が開始された中の門を入ります。雪の銀閣寺をつたない画像ですがお楽しみいただければ幸いです。銀閣は観音様を祀る観音殿です。向月台(こうげつだい)銀沙灘(ぎんしゃだん)池には薄い氷が・・・。通常なら裏山へ登るコースがあるのですが積雪と凍結のためでしょう道が遮断されていました。雲の合間にぞく青空に青空の中の銀閣の写真が欲しかったので時間をかけましたが叶いませんでした。・・銀閣寺をおわります・・
2023.02.01
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京都・山科区の山の上に総本殿・釈迦山大菩提寺がある阿含宗神事、仏式、山伏の作法で護摩壇に点火の順のようで神仏両界の行事です。作曲・舞楽創作雅楽師 東儀秀樹氏舞人は阿含宗彌滎神綬雅楽部専属の雅楽部まであるのですねぇ。驚きです。山伏問答が延々と続き山伏による護身法に斧作法、法弓作法、宝剣作法がおこなわれて護摩壇への点火になります宝剣は見えにくいにで液晶で見ていました。点火用の4本の松明に火をつけるのでしょう。どでかいローソクです。願文を読み上げて中味はわかりません。(苦笑)松明に火が移されましたもくもくと上がる煙は山の下からも見えるそうです。何もかもが”どでかい”です。(^▽^)その様子は次回に。
2023.02.20
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京都・八瀬からケーブルとロープウエイを乗り継いで848mの山頂へ比叡山全域を境内とする天台宗総本山「比叡山延暦寺」へ帰りは滋賀県坂本へ下りる行程で秋を楽しんできました。標高840mにあるガーデンミュージアム比叡墨絵のような景色です近江大橋が眼下にスイレンの時期ではありませんが・・・シャトルバスで東塔地域へ大講堂平成28年から約10年かけて根本中堂大改修この石段を下りて参拝するのが道順だそうですが・・・とても下りるのが怖そうです。へシャトルバスで横川地域横川中堂元三大師堂元三大師(がんざんだいし)良源の住居跡元三大師が73歳の折、疫病が流行り難局を救うため大きな鏡に自分を写し疫病退散を願ったら鬼の姿が写し出されたその姿を版木に刻み配ったところあらゆる災厄から身を守ることができ厄除けの元三大師と信仰されている 来た道を戻り坂本ケーブルへ爽やかな秋の一日でした。動画も編集しましたご覧ください
2023.12.29
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菊酒上賀茂神社でおこなわれた「重陽の節句」中国で”九”という奇数は縁起が良い数字とされています。9月9日も”九”が重なるので「重陽」といわれ宮中などで菊酒を飲み菊の花についた露で肌を祓い災厄を祓った日とされています。神前に菊の花を供え延命長寿・災厄除けを祈願し、神事がおこなわれたあと烏鳴きや所作があり子どもたちの奉納相撲がおこなわれます。葵祭の斎王代も列席されます神事が終わって斎王代が細殿へ斎王代が見守る中神官がお二人で交合に土俵上で「8」の字に歩かれます意味をさつめいされたと思いますが記憶に残っていません。(;;)いよいよ烏(カラス)の登場です両サイドから飛んできます両サイドから飛んできます横に飛びながら弓矢などを運んできます「カーカーカー」 「コーコーコー」烏の鳴き声で互いに呼応します何を話したのでしょうねぇ。終わったら横跳びで天幕へ帰って行かれます。子どもたちが立砂の周りを三周後ろに赤い布をつけているのが「紅組」白い布は「白組」奉納相撲が始まりました子どもたちの力のこもった対戦風景はお顔を出せませんので「ぼかす」します神事・祭事が終わって素焼きの杯に黄色の菊の花びらが浮かんだ菊酒をいただきました。子ども相撲で元気をいただきました。・・・・・烏(カラス)は桓武天皇の東征の際、上賀茂神社のご祭神:賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が八咫烏(やたがらす)に姿を変え先導した故事にちなむそうです。
2019.09.30
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金色不動堂への参道途中に弁財天秘仏の金色不動明王像が御開扉されている時期に参拝できました。4月16日~5月15日まで平成元年に建立された金色不動明王堂不動明王には色があって関西の不動明王は3色青不動は東山の青蓮院門跡(しょうれんいんもんせき)赤不動は和歌山県の「高野山別格本山・赤不動明王院」黄不動は滋賀県大津市の「園城寺」通称「三井寺」京都にもあるようなのですが東京の不動明王は黒不動と白不動が加わって5色だそうですね。三千院のは不動明王は黄不動で金色です。もう一段高い場所へ平成10年に建立された観音堂です。身丈の大きい観音様が立っておられます。観音堂のまわりのシャクナゲは白色のみ清楚で美しかった。観音堂の横に「二十五菩薩慈眼の庭」補陀洛浄土を模して造られたそうです。補陀洛とは観音菩薩の降り立った霊場ヤマブキの黄色が白いシャクナゲに映えていました。せせらぎの音が聞こえてくる方へ・・・。赤い橋を渡ると大きな石仏が座している祠「鎌倉石仏・阿弥陀如来」です高さ2,25mです。小川に沿って並ぶのは「おさな六地蔵」頭の上に鳥!?6月頃にはアジサイが見られる辺りを回って戻ってきました。春は桜、初夏の新緑にシャクナゲからアジサイにかわり6~7月は観音堂の前に京鹿子晩夏からは藤色の大原菊、秋は紅葉!季節を問わず美しい景色に癒される三千院です。長くなりましたが三千院を終わります。5月ですから・・・カーネーションを。(^▽^)
2022.05.11
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高校野球・甲子園・夏 2024熱い戦いが終わり京都代表の「京都国際高校」が1956年(第38回)の優勝から準優勝はあるものの優勝はなく68年ぶりに優勝旗を手にしました。惜しくも負けた各校の試合も終盤に勝敗を決着する素晴らしい試合を拝見できました。選手の皆さん 有難う。広告の花火ですが、花火が回転しました新しい花火の仕掛けかなぁ。開いた花火の直径が500mの二尺玉1万発はとても撮れませんが楽しんでみてください。
2024.08.24
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西福寺を後に六道の辻から南へ行くとあの世とこの世の境目に建つ三か所の無常所の六道珍皇寺、西福寺、あと一つは六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)後醍醐天皇の第二皇子の光勝空也上人により951年に開かれた西光寺を前身にしているそうです。真言宗智山派本尊は・・空也上人が造立した十一面観音(国宝)です。精霊が鐘の音に応じて戻ってくるという「迎え鐘」地下に作られた鐘が鳴ります。一願石祈りを込めて金文字から手前に三回まわす。左横にはにこやかなお顔の十一面観音菩薩像です。六波羅とは元は「六原」だそうで、六原の地名は残っています。六波羅になったのは京都の守護、六波羅探題(ろくはらたんだい)が設置された1185年のころのことです。あの世とこの世をつなぐ冥土への入り口があるとされる六道の辻付近での探索の終点は・・・。京都・三条寺町通りの矢田寺矢田地蔵尊です。創建当時は五条坊門ですが寺地を転々として大正7年(1579)に現在地に移されたそうです。別名、代受苦地蔵(だいじゅくじぞう)苦を変わって受けていただく地蔵尊本尊の地蔵菩薩は高さ2mほどの立像です。開山の満慶上人が冥土へ行きそこで出会った生身の地蔵尊の姿を彫らせたと言われています。その姿は地獄で亡者を救うため地獄の赤い火炎の中に立っている地蔵尊の姿を現しています。六道珍皇寺の迎え鐘に対して矢田寺の鐘は「送り鐘」といわれており16日にここの鐘を撞きご先祖様を冥土へお送りするとされています。六道珍皇寺の「迎え鐘」に対して矢田寺の鐘は「送り鐘」六道珍皇寺で「迎え鐘」を撞き16日に矢田寺で「送り鐘」を撞く、夜は大文字の送り火で精霊をお送りする京都の伝統行事です。*****2020年の五山の送り火について今年はコロナウイルス拡大で五山の送り火の点火は縮小されます。『京都市民の身近な伝統行事でありコロナ禍で亡くなられた方への鎮魂、闘病中の方の回復を祈り、よりよい社会をつくっていく決意の機会にしたい。』との京都市長のコメントです。残念ながら美しい送り火は見られませんが下記のように点火されます。大の字は6か所鳥居な2か所左大文字は中心に1か所船形は頂点に1か所妙法は中央部分のみ(2020年の点火予定、京都新聞より)テレビで放映されると思います。*****矢田寺もコロナ感染予防で鐘を撞くことはできません。精霊は道に迷うかな・・・事情を理解しているのかな・・・。迷うことなく冥土へお戻りになることを祈ります。(^▽^)******灯がともる時刻ですライトアップを見に戻りましょう。
2020.08.16
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梅の花が香る3月15日に月日を戻してお送りしています。京都・清水寺の清瀧会ついに西門から青龍が姿を現した上下に、左右に頭を振りながら階段を勢いよく降りてきます。青龍は石段を下りては上がり導師を先頭にほら貝、鳴り物の方たちと一緒に人々の悪縁を絶ち良縁を結ぶために門前町へ下りて行きました。青龍の帰りをしばらく待ちしょう。
2016.04.28
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京都・八坂神社の祇園祭の神幸祭10日に鴨川の水で清められ舞殿で飾られたいた三基の御神輿は17日の前祭の山鉾巡行が終わった後其々に神様を乗せ夕刻6時半から御旅所へ向かいます。八坂神社から石段下へ一番はスサノオノミコトの中御座御神輿の屋根は六角形です。石段下で差し上げ・・・続いて「回せ! 回せ!」二基目は屋根の宝珠が可愛い東御座の「クシナダヒメノミコト」の御神輿です。 屋根は四角形です続いて西御座の「ヤハシラノミコガミ」御神輿の屋根は八角形です。一番元気がありそうです。神様が若いから・・・かな。京都市長ほか挨拶がお天気は良くなかったのですがこの時大粒の雨が・・・挨拶の声も途切れがち揃いの半被もびしょびしょです。式も終わりの頃雨が止み早くも中御座が出て行きました続いて行くのは西御座です東御座は東大路を北へ向かいます三基は其々にコースを周って御旅所へ向かいます御神輿をびっくりするほど揺すります神様は揺すられるのが好きなのかな?喜んでるのかなぁ・・・。御神輿の中で頭やおでこぶっつけて腰が痛いのでは・・・。 見ている方たちの声でした。(笑)神様は揺すられ続けてくたくたになって担ぐ人もフラフラになって御旅所に着くことでしょうね。お疲れさまです。
2016.07.29
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特別公開されている島原の角屋 島原は日本で最初にできた遊宴の場 公認の花街です最初にできた場所は御所の近くです 御所に近いということで移転移転先の六条柳町で繁盛していたが ここでも風紀を乱すとのことで 現在の場所、島原へ島原は揚屋(客をもてなす家)と 置屋(太夫や芸妓派遣する)に 分かれています。揚屋は「客をもてなすを業とする也」と江戸時代の書物にあるように現在の料理屋や料亭と同じような処でしょうね。島原は遊宴の場にとどまらず文芸も盛んな町だったようです。そして揚屋は客を泊めることはなかったそうです。太夫と花魁の違う点は・・・太夫は芸を売る商売歌や舞、音曲の他、茶道、華道、香道、書道、俳諧など貴族が受ける教養を身につけておられたようです。しかし、非公認の祇園が繁盛し 立地の悪さから島原が寂れてきました。玄関を入ると中庭が左に見えます。富士山に見立てた庭石飾り井筒(かざりいづつ)趣を添えるために作られた井戸青銅のように見えますが「織部」とのことです。座敷から見た中庭天井板が網代に組んであるので「網代の間」(あじろのま)28畳あります。写真は少し明るくしていますが昔の明かりは”蝋燭”だけこのように薄暗いと思います。と観光ボランティアさんの話です廊下を通って奥の座敷へ
2017.03.04
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10月8日の夜におこわれる粟田神社の粟田祭の「夜渡り神事」巡行して向かう場所は浄土宗総本山知恩院前の「瓜生石」〈写真サイズが大き過ぎたため全張替えて再アップしました〉約400年前に大きな石の上に瓜が覆いかぶさり金の札に「感神院新宮」(粟田神社の旧社名)と銘があったので神の御降臨があると神社におさめ金の札が現れた石は「瓜生石」と名付けられたそうです。この故事により毎年「夜渡り神事」をおこない「瓜生石」へおもむき石の周りを三度巡拝する「れいけん」の神事が行われてきたそうです松明が赤々と燃える中知恩院の石段を下りてくる僧侶松明や大灯篭が見守る中神仏合同の祭典です知恩院の僧侶による読経神官の祝詞、氏子代表の参拝厳かに祭典が進み僧侶も読経を唱え瓜生石の周りを三度まわり祭典を終了静かに知恩院へ帰ってゆかれました。初めて拝見する神仏合同の祭典にいささか気圧されました祭典を終え氏子町を回って22時頃に粟田神社へ戻るそうです。行列を見送って「夜渡り神事」はここまでにして帰りました。今年巡行に参加しない剣鉾は保存先でそれぞれ飾られています。駅へ行く途中で見かけました。・・・・・・れいけん祭粟田神社によると「れいけん」とは「霊験」のこと粟田の大神が御降臨されたことを畏れ敬い感謝を表す祭りだそうです。
2017.10.30
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京都・吉田神社の末社 山陰(やまかげ)神社の例祭 「山蔭祭」 我が国においてあらゆる食物を調理味付けした祖神と仰ぐ藤原山蔭卿を祀り包丁の神、料理・飲食の神として信仰を集めています。 祭礼には調理関係者が参列されて生間流の包丁式が奉納されます。最初は「鯉」をさばく様子を拝見し次に人が代わって「鯛」をさばかれました。鯛が置かれてすっくと立たれた姿も凛としてカッコ良くスルスルスルーっと中骨がぬけた!鯛はような姿に変わったことを気付かないでいるのではないか・・と、思う鮮やかさでした。器に盛られて神前に鯉と鯛が奉納され一段と鮮やかな手さばきにただただ茫然シャッターを押すのを忘れそうでした。笙に横笛、縦笛の音もゆかしく山蔭祭は滞りなく終わりました。
2018.05.28
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祇園祭とヒオウギ祇園祭にヒオウギを活けられます。ヒオウギの葉は扇状になり古代、檜扇(ひおうぎ)で悪霊が退散したことに由来して祇園祭に檜扇を活けられます。京都・八坂神社の神幸祭にむけて7月10日 神輿洗式が行われました神輿が通る八坂神社から四条大橋までを大松明が清めて戻ってきました戻ってきた大松明から火を移し南楼門から四条通りへ前後を松明に守られて神輿は四条大橋へ向かいます清められた神輿は八坂神社へ戻ってきます。神輿洗式の御神輿を迎えるために「お迎え提灯」がでます提灯とともに子どもたちの行列が八坂神社から出て地域を巡行します(お迎え提灯は省きます)清めた御神輿「中御座」を舞殿に納めます三基ある御神輿を代表して神輿洗いは現在中御座でおこなわれます中御座は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の御神輿東御座櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)の神輿スサノヲノミコトの妃西御座八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)の御神輿スサノオノミコトの8人の子ども神(御神輿の後ろ側です)夜遅くまでかかって飾り付けがおこなわれます。煌びやかに飾りつけられた御神輿山鉾巡行が終わった17日の夕刻に氏子地域に霊力を振りまきながら練り歩き御旅所へ向かいます。御神輿の前にもヒオウギの花が活けられています。中御座の正面です素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の御神輿形は六角です東御座の正面です櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)スサノヲノミコトの妃の御神輿形は四角、大鳥(鳳凰)が丸く可愛いです西御座の正面です八柱御子神の御神輿(ヤハシラノミコガミ)素戔嗚の8人の子ども神の御神輿形は八角練り歩く時にやんちゃな感じがします気のせいかも・・・。(微笑)17日の山鉾巡行(前祭)が終わるまで舞殿に祀られて御旅所へ向かう「神輿渡御」が「神幸祭」です後祭の山鉾巡行が終わるまで御旅所に祀られます。神輿洗式の会場まで行からた方が大勢の方でとても見えませんでしたと戻ってこられました。「神輿洗式」を終わります。
2018.07.21
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葵祭は天皇のお使いである勅使が賀茂社(上賀茂神社と・下鴨神社)で祭典をおこなうことです。賀茂社へ到着後「路頭に儀」がおこなわれ勅使が御祭文を奉上し、御幣物を奉納します。この一連の儀式が「社頭の儀」です。葵祭は勅使が主役です。賀茂社まで行く勅使一行の再現が葵祭です。江戸時代までは「賀茂祭」と呼ばれおり日本最古の祭りで、平安時代に出てくる祭は賀茂祭で葵祭のことです。天候不順で穀物が実らず五穀豊穣を願って行われたのが始まりです。下鴨神社へ入った行列は午後、賀茂川の土手の道を通って上賀茂神社へ向かいます。ひと際、きらびやかに飾られた馬に騎乗葵祭の主役、勅使代をつとめる方です。斎王代と女人列斎王代、本来は斎王になるのは未婚の皇室の女性でした。天皇の代わりに神に仕える巫女が斎王です。伊勢神宮に置かれていたのにならって賀茂社にも置かれるようになったそうです天皇が交代するか身内の不幸の場合以外は都に戻ることはできなかったそうです。第64代 斎王代負野梨花さん京都 薫玉堂のお嬢さんです。村田製作所にお勤めです。大学時代に海外留学の経験もある才色兼備の斎王代です。(報道された内容です)葵祭までの流れは・・・5月1日の賀茂競馬足汰式(かもくらべうまあしそろえしき)5月3日の流鏑馬神事(やぶさめしんじ)下鴨神社の糺の森の馬場(約400m)で騎乗して駆け抜けながら3つの的を射る葵祭の道中の道を清める神事5月4日の斎王代・女人列御禊の儀(さいおうだい・にょにんれつぎょけいのぎ)斎王代と供の女人50名が禊をおこない身を清める神事(上賀茂神社と・下鴨神社で隔年交代)5月5日の歩射神事(ぶしゃしんじ)と葵祭の行列が歩く道を清め安全を祈願する。賀茂競馬(かもくらべうま)二頭ずつ馬が走り互いの速さを競う5月12日の御阿礼神事(みあれしんじ)と御蔭祭(みかげまつり)祭神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)とその父、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の荒御魂(あらみたま)を迎える5月15日の「葵祭」に至ります。
2019.06.10
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過日、NHKの「家族に乾杯」で鶴瓶さんが「おれに似てるやろ!」とエイとツーショット!似ていたようにも思いました。(^▽^)エイの後を追いかけていつも仲良し!ピッタリ寄りそって泳ぎます。エイは数匹いますが寄り添うエイは決まっています。微笑ましいです。現在、京都水族館はコロナウイルス拡大のため4月上旬まで閉館中です。写真は昨年のものです。
2020.03.21
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今年、1月にアップした柴犬くんと高齢の女性の話今朝久しぶりにお会いしましたぁ~!いつも同じ時間に出かけるわけでないのでお目にかからなかったのでしょう。しかし、その間足の手術や腰などで入退院を繰り返されたそうです。柴犬くんも元気で今日も主をかばうようにゆっくり歩いていました。女性は以前より前かがみで歩くのが大儀そうでしたがお顔色もよくホッとしました。一匹とお一人、この先も仲良く散歩が続くよう祈らずにはおれませんでした。以前にアップした画像です身内のことでブログを長く休んでいましたまだまだ片付きませんが気分を変えたくて・・・。
2024.11.26
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