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はちゃめちゃですが、私とゆーゆー、日本に向かいます。日記も書き終えられず先程パッキングが終わり、既に疲れ気味です。クリスマスカードが送り終えられてよかった。次の書き込みは日本から。更新はスローになりますけど、皆さんのページはきっと見に行くと思います。メリークリスマス!そして良いお年を・・・!みんパイ
December 25, 2004
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よく笑うようになったので笑うショットが取りやすくなりました。男前ゆーゆーの笑う写真を沢山載せようと思います。まず指をくわえて半笑いお!笑ったぞ!もっと笑った!産まれた時の写真と比べれば分かるけど4ヶ月前の面影がある写真暴れて笑うゆーゆー最近逆さになって周りを見渡すのが好きなのだ!+++アルバムindexにいく+++
December 21, 2004
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→→→続き→→→またはこのシリーズの最初に行く→→→次の日大家から連絡があり「ペンキ塗り立てで開かなかったようだ、もう大丈夫だから」との連絡が来た。内心「ほんとかよーーー?!」と思っていたがもう過ぎた日は仕方がない、日本を旅立つ寸前の彼氏に「ごめんね。来たら早速一緒に引越ししよう・・・」と伝えた。スティーブは「いいよ、手伝うから、大丈夫。」と2日後もトラックを運転してくれることを約束してくれて、私はしぶしぶレンタルトラックをまた予約して引越しの予定をまた決め直した。その次の日の金曜日の夕方、彼氏が来る数時間前だ。借りたトラック代もすっかり無駄になって怒りで一杯だったがもう一度大家の事務所に行き次の日今度こそ入居するからと正式に鍵を貰った。その時に事務所のおばさんが「Good luck!」と何故か散々言った。大家も「というわけで、正式に鍵を渡すから・・・。後は電気を通すんだよ。ほらPECO Energyって会社あるだろ?Good Luck!」と話し、私は「Peco Energy」の意味もさっぱり分からないまま「ありがとう!」ととってもナイスな笑顔でその場を去ったのだった。その夜彼氏が来ると怒りはともかく再会出来た喜びで一杯だった。International Houseでの生活にピリオドを打ち新しい生活を始めるんだと気持ちはやる気で一杯だった。彼氏がいたらもう一人じゃないもの。きっと、大丈夫。次の日の土曜日が来ると早速スティーブが私達をピックアップしてくれてもう一度トラックレンタル屋に行ってトラックを借り、またInternationl Houseに戻って皆で荷物を積んだ。今度こそは大丈夫と信じて新しいアパートに着いた。そして最初のドアを開けた。開いた。二階に上がる。自分の部屋のドアに鍵を入れると、鍵が回った!うれしい気持ちで一杯になってドアを開けた。・・・・・・。・・・・・・。足元のタイル地の廊下からさっと見上げて奥の部屋を見渡した。そこには、あるはずのカーペットが無かった。古いカーペットはもう無かった。しかし新しいカーペットもなかった。カーペットが剥がされた形跡があって、古く真っ茶っ茶のニスも何もない禿げて曲がったたベニヤ板が広がっておりカーペットの下に隠れていたくぎ達がそこら中に床に刺さっていて、埃が一杯だった。「・・・?」言葉にならないまま、私は下に降りてスティーブと彼氏に相談した。土曜日は当然事務所が閉まっていて説明も何も聞くこともできず、トラックも借りているし荷物も持ってきたのでしぶしぶ私達はベニヤ板で釘だらけのその部屋に荷物を運び込むことに決めた。→→→まだまだ続く(明日以降更新予定)→→→→→→→またはUS Life Indexへ行ってみる→→
December 17, 2004
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→→→続き→→→またはこのシリーズの最初に行く→→→実は半年経ったその辺り丁度日本に住む当時大好きだった彼氏が仕事を辞めて3ヶ月遊びに来ることになっていた。当初はInternational Houseの自分の部屋で一緒に生活しよう、と話していたし自分でアパート探しをするなんて恐くて考えられないと思っていたけれども、色々情報が入ってくるごとにもう少し考え直してみようかなと思いはじめた。怒涛の初学期が終わるとBrandonのことや日本人達のこと、そしてわざわざ来てみたものの自分の学校でのできの悪さにとても落ち込んでいて後もう少しで彼氏が来てくれる!と思うと心が一気に晴れやかになった。夏学期まで少々余裕があるし、そうだ、そうだ、こんな狭くて日本人ばかりの建物から出てしまおうとすっかりその気になって新聞の空きアパート欄を読み漁った。その時5月も半ばを過ぎて、彼氏が来るまで後一ヶ月ぐらいのことだっただろうか。International Houseの家賃はあの狭さと環境で月550ドル(共同キッチン付きでなければもう少し安かったがその部屋には冷蔵庫も付いていなかったので選ばなかった)で実の所、日本の自分の部屋とほぼ同じ大きさだったのでそれなりに満足していた。しかし実際地元の新聞のアパート情報をかき集めて色々な不動産屋を回ってみるとInternational Houseは人が言うように確かに狭く、もっと安い家賃で広い部屋が他にも沢山あることを知った。あそこではキッチンが共同で他の留学生が使ったら使いっぱなしにして私がいつも掃除をしていたし、精神的に窮屈だしその上交通の便もそれ程良くはなかった。英会話力がないから不動産屋に電話をかけて「アパート見たいんですけど。」と話すのも恐かったが、一生懸命言えば一応物事が進んで行ったのでなんとなくできる限りのことをしてみたのだった。色々見た結果、一番割安で当時憧れだったタウンハウス型の建物にあるワンルームアパートが気に入った。"Newley renovated"(新規改装したばかり)と書いてあったしなんせ家賃は$375とある。部屋に入ってみるとInternational Houseの自分の部屋の4倍ぐらいある一部屋と大きな冷蔵庫、キッチン、そして窓とバスタブ付きの長広いバスルーム。タコス屋さんが一階にあって、なかなかおしゃれな風貌だった。部屋には新しい冷蔵庫、電気コンロ、新品のバスタブが取り付けられていたが、しばらく誰も住んでいなかったらしくそれ以外は結構埃が溜まっていた。まぁ、部屋なんか掃除すればなんとなでもなるし、気に入ったものは気に入った・・・早速大家の事務所に連絡を取り賃貸の手続きをした。普通は社会人しか受入ないというが留学生だったので、I-20(留学証明書見たいなもの)を持参し貯金があり支払能力があることを見せてなんとか契約にこじつけた。大家は契約を交わした時に「君が入居する前にカーペットを新しく入れるからね。」と言った。わ!カーペットも新しくなるんだ、うっれしーな!と内心で踊って「あの、少なくとも荷物は6月の18日に入れて、20日には入居したいんですけど、できますよね?」と聞いた。広告には「available now」(直ぐ入居可能)と書いてあったし、まだ6月の頭だった。「あぁ、もちろん!」大家はそう答えると「それじゃ、引っ越す日に鍵を渡すからね。取りに来てね。」と言った。それから何回か支払いと確認をかねて事務所を訪ね、その度に「18日に荷物入れますからね!?」と念を押した。初めての引越しだったのでとても不安だったし、私の英語を相手がどのくらい理解しているかも不安だった。事務所にいた大家と事務のおばさん達は「えぇ。わかってるわよ。」と言っていたので取りあえず安心した。18日に引越しをする為にレンタルトラックを予約して、とある授業のグループワークで一応仲良くなったスティーブ(結局彼とは現在でも連絡を取り合う、あの大学時代の唯一の友達になった)が助けてくれるというのでその日に助けをお願いして、また他の当時話していた日本人学生の一人が助けてくれることになりなんとか引越しの準備を進めていた。台湾人の友達、Evelynのそのまた友達が引越しセールをするというので安く色々な家具を買っておいた。それが出来たのも全部スティーブのおかげで(当時は彼の親切でさえも心の底から受け取れなかったが)彼が車を出してくれその家具を引き取ることができ、引越しの間まで彼の家でその家具を保管しておいてくれた。言葉も満足に話せない自分に「友達」としてスティーブがサポートしてくれていることも疑問だったし、第一彼氏がいるとは伝えていてもBrandonやKやリーダー格の日本人学生達のこともあり男の彼がどこまで自分を「友達」として見ているかが既に疑問であった。しかし車を持っていて手伝うと言ってくれる友人など彼しかおらず、遠慮の気持ちで一杯ながらも彼の申し出に有り難くお世話になった。とうとう彼氏が来る2日前の6月18日、レンタルトラックを用意しスティーブともう一人の日本人学生と皆で新しいアパートに向かった。荷物はそれほど多くないし皆の都合もあり、開始時間は既に夕方直前だった。鍵は引越し前に事務所に取りに行かなければならず、その日は入居しないで取りあえず荷物を入れるだけだったので、荷物を入れ終わったら鍵を返せと言われていた。引っ越す数日前にもその手続きの確認で事務所に電話をしていたので、カーペットについても確認しておいたからその日、新しいカーペットが見れると期待していた。鍵を貰ってからスティーブともう一人と早速会ってトラックを借り、まず最初の荷物を積んでアパートに向かった。借りたトラックは小さかったので取りあえず最初の荷物を積んだそのトラックをアパートの近くに止めて、私は貰った鍵を手にアパートの建物の最初のドアを開けた。最初のドアを開けて階段を上り直ぐに、2階の私の新しい部屋があった。早速鍵をさしてドアを開けようとすると・・・ドアは開かなかった。っていうか、鍵が回らなかった。「???」何度鍵を入れても廻そうとしても見直しても確かめてもドアは開かなかった。鍵が変わってる?スティーブ達を呼んで皆で開けようとしたが何をやってもドアは開かなかった。トラックをわざわざ借りたのに?荷物も積んできたのに?夕方を過ぎていたので大家の事務所は既に閉まっており連絡の取りようもなかった。彼氏が後二日で来るというのにこれじゃ新しい部屋で彼を向かえることもできないじゃないか!頭は呆然として、私達はしぶしぶ鍵を大家の事務所のポストボックスに戻し、トラックを返してその日は退散した。私は引越しの準備万端だった部屋に戻ると泣く泣く大家の留守電に「ドアが開けられなかった!どういうこと?!引越しの準備全部していたのに!!!」という内容のメッセージを残して、その日は諦めた。→→→まだ続く→→→→→→→またはUS Life Indexへ行ってみる→→
December 16, 2004
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かなりアクティブになって先が思いやられる最近のゆーゆーの姿を載せてみます。ハイハイはまだできないけどもう動きそうなゆーゆー。ますます顔が太ったね。今度はひよこの着ぐるみゆーゆー。一人用お風呂なんだけど取りあえず座って遊ぶ姿。おもちゃに囲まれて取りあえず満足。何でも舐めるのが好き。手元の小さい布ボールはみんな舐めました・・・ちょっと色がうすいけど写真屋でわざわざ取ったベストショット。でも写真屋の手違いでネガが消され、この写真は現像できなくなってしまいました。アメリカらしいが、もうがっかり。お金は返ってきたけどなんだかなぁ。+++アルバムindexにいく+++
December 14, 2004
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来週で4ヵ月を迎えようとしているがここ一週間ぐらいで体の動きの変化はもとより、ゆーゆーの「音」に対する興味が増大していることに気づいている。今までアルバムで何回か「歌っている」ことに関しては書いたが、それはその場で流れてきた音楽に反応して歌っていたり目の前にいるノリノリや私に何かを訴えるように大きな声で歌っていたとうだけだった。今はどうなっているかというと、ゆーゆーを部屋に残して一人にしたり、明け方ノリノリと私が寝ている時に目が覚めてしまって淋しくなったりすると、自分に聞こえるだけぐらいの小さな声で「あーあーうーうー・・・」と一人で歌っていたりするのだ。(一定の長さで音を出し続けるという技もする)明け方にやられた日には私達は当然目が覚めてしまうのだが、起きているとばれてしまったら遊んでくれとばかりに泣き始めるし、歌っていても泣かなければそのまままた寝るので私達は歌声をよそに寝たふりをする。でもあんまりにもその一人で歌っている姿がかわいいので寝たふりをして笑いをこらえるのに必死だ。淋しいから歌って気持ちを紛らわす、なんてなかなか出来たベイビーだ。他にも音真似をするのが好きになったようでノリノリが「あ?あ?うー!」と言いながら「うー!」の時に変な顔をしてあやすと大喜びして笑うのだが、それに慣れてくると一緒に「あー!あー!うー!」と叫ぶ。なかなか学習能力があるなぁ、と思って私はノリノリのバージョンを「あーいーう!あいうえおーーー!」と変えて50音を全部言いながらあやす、というものを始めてみた。するとそれを初めて数日すると耳が慣れてきたのか、「あーあーあー!おうおうおうおうおうーーー」と同じ感じで真似を始めた。か、かわいい・・・。私の観察によるとどうやら「は行」「ま行」「や行」が言いやすいみたいだ。ゆーゆーの反応は同じ様に感じるが、それらを言う時だけ音が聞き分けられている気がした。それから発展しているのか毎朝起きた時に語る「おはよー!」の挨拶を真似しはじめて、実は昨日の朝私が「おーはーよー!」と言った後に「おー、はー、おーーー」と初めて言ったのだった。「よ」がまだ聞き取れていないのかきちんと発音できないみたいだが、唯のなん語というわけでなく「おはよう」と同じ音をゆーゆーは言ったのだった。ゆーゆーが最初に意味を持ってしゃべった言葉は「ママ」でも「ダダ」でもなく「おはよー」だった!いや、「マンマー」とか「ダー!」というのは泣きながらおむつを替えて欲しい時に聞く言葉なのだがいつもではないし泣く時にしか言わないのであんまりしゃべった、という気がしない。あれらは本当に意味を持って叫んでいるのだろうか。付け加えて私が感じたのはゆーゆーは「おはよう」を「目が覚めたこと」だと思っている、ということだ。一回「おはよう」と言ってからノリノリと私が朝身支度をしている時にゆーゆーから離れていると「おーはーおー、おーはーおー、おーはー・・・」とぶつぶつ訴えて、そのうち愚図りはじめた。「あのー起きてるんだけど!どっか行ったなら僕も連れてってくれー」みたいな表現法だった。しかし朝は時間がないので笑いをこらえながらとにかく身支度を進めていた。そう言えば昔の日記に書いたのだが、本当か嘘か、ゆーゆーがお腹の中で歌っていたのを聞いたことがある。今この月齢で歌ったり真似をして音を出したりするのは「音を出す」ということに最初から興味があったからなのかな、と考えたりもするのだった。もちろん相当な量の音楽を時と場合と気分に合わせて聞かせていたり、私やベビーシッターが色々歌ってあげたりと「音を聞く」「声を出す」ことについて最初から取り組んでいるのもあるのかもしれないが。***少々先駆けて4ヵ月検診を昨日受けた。またまた両太ももに2本づつの予防接種を受けてゆーゆーの足は真っ赤に腫れ上がり当然のごとくビービー泣いた。前回は2・3日程愚図っていたが、その日は夕方になったらけろっ、としてまた歌っていた。体重は約5960グラムとちょっとだけ細身、身長は約63センチでちょっとだけ高めでなかなかスタイルよく育ってくれているようだ。こちらの小児科では離乳食のスタートとして「シリアル」を食べさせろ、と言うのだがチュリオスとか言うあんなまずいシリアルなぞ私達は食べないし将来だってゆーゆーに食べさせることはないだろう。だからアジア人風にご飯や茹でた芋をつぶしてあげるとか「食べ物」を与える、そういうことを始めてみた。アメリカ人の舌が肥えてないのはあぁいう既製品のまずいものを離乳食として始めるからではないだろうか。======付け加えるけれども今日ベビーシッターと話した時に「ゆーゆーは絵本を読むと一緒に本を読む」という事実が発覚した。昨日発見して「まさか!」と思っていたのだが、彼女が私に同じことを言ったことでこれは間違いない、という結論になった。ゆーゆーに絵本を出して「読もうか?!」とページをめくると、私が話すと同時にゆーゆーも「あおあうあおあお・・・」と喋りはじめる。そして読み終わるとゆーゆーも黙り、また新しいページを開いて読み始めると同時にゆーゆーは喋りだす。昨日はそのまま結局一冊読み終えてしまった。ページをめくるごとに喋りだすというのはあまりにも不思議だったし信じられなかったので「偶然・・・?」と思っていたけれども、ベビーシッターも同じ発見をしたというのなら多分ゆーゆーは絵本を一緒に読むのが好きで偶然ではないのだろう。
December 11, 2004
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→→→続き→→→またはこのシリーズの最初に行く→→→彼が「You are not nice.」という言葉にあんなにしょげている理由が(ボキャブラリーが貧困な為)さっぱり分からない私は彼の酔いつぶれて「最後だから一緒にまたMの部屋にかえろーぜー!」と笑っている姿にすっかりしょげていた。「最後だから・・・」という言葉を友達として信じて自分の部屋に責任持って連れて帰ったが私の部屋のベッドでごろん、と横になると彼は「ねぇねぇ、最後なんだから一緒に寝ようよぉー!シャワー浴びてくんの待ってるからっ。」と叫んだ。酔ってるくせに、私の言ったこときっちり理解したくせに、良く言うよ、と思い「はいはい、じゃ、シャワー浴びてくるね」とシャワー道具を持って共同バスルームでシャワーを浴びると、私はそのまま部屋に帰らずに同じビルに住むいつもの日本人グループじゃないグループに所属するそれなりに仲が良かった友達の部屋に直行してそのまま朝まで部屋に帰らなかった。翌日、自分の部屋に戻るともうBrandonはいなかった。ほっとして部屋を片づけていると机の上に置いてあった私の財布が開けられていて、中に入っていた$60が全部抜かれていたことを見つけた。この頃はまだ私が日本で僅かに貯めたバイト代などでちょっとづつやりくりしていたので、少しのお金でも大切だったし$60は私にとって大金だった。頭に一気に血が上って、とにかく慌てて彼に電話をかけた。彼はどこに行ったのか知らないが電話にでなかった。電話にでなかったので色々考えた挙げ句、彼のお父さんの自宅の電話番号を貰っていたのを思い出した。時々お父さんの自宅に泊まるのでいないときはここにかけて、と言っていたなと思い早速お父さんのところに電話をした。当然だが、彼はいなかった。ここで電話を切っている場合ではないので、私はたどたどしい英語ながらもお父さんに「あのー、私はBrandonの友達のMといいます。昨日彼がうちに泊まっていったら私がいない間に私の財布から$60持っていったんです。昨日バーに行ってお金も貸してるんです。電話しても彼につながらないし、どうしていいのかわからなくて・・・」と一生懸命説明した。確か、彼のお父さんはCommunity College of Philadelphia(CCP)で教えている、と聞いたと思うからそんなに悪いステータスの人では無かったはずだ。今考えれば、じっと、よく私の話を聞いてくれた紳士な人だったと思う。彼はうんうんと話を聞いて「わかった、必ずBrandonには伝えておくから・・・」みたいなことを言われてそれから1時間後ぐらいに直ぐBrandonから電話があった。「ちょっとM!朝どこに行ってたんだ?!僕はね、待ちぼうけしたんだよ。何時間待ったと思ってる?!あの無駄な時間を時給換算したらね$60ぐらい貰っても当然なんだよ。大体なんで僕の父さんにそんなこと言うんだよ?!」とかなり怒った調子でまくしたてた。「だって電話してもいないし、財布からお金盗んだじゃない!」「でも時給換算したら!」「盗んだものは盗んだじゃない。返してよ!」「そんなお金もう使っちゃったよ」財布を机に置いたのも部屋を去ったのも私だ。私にも否があることは分かってる。でもだからといって彼が盗んだことを善しとして放っておきたくなかった。彼は私がお父さんにそれを言ったことにすごくショックを受けていたが(文化的にまだ疎かった)私には全く関係なかった。本人が大人でも親がいるなら親に言うわよ、当然でしょ、みたいな強気な態度だった。今思えば確かに親にはなんの関係も無いことだったとは思うが、その無神経さが功を奏してBrandonに私の怒りが伝わったのは間違いなかった。***その後彼にはお金の催促のイーメイルを何回か出して2週間後ぐらい後の3月の終わりにやっと待ち合わせをして会った。彼が持ち合わせていたのは$25だけであったが、もう会いたくなかったのでそれだけ貰って我慢することにした。別れ際に「確かに僕は君にとってもう嫌なやつかもしれないけど、最初に会った頃僕がNiceだったこと、忘れないでね。」と彼は淋しそうに言ったことを良く覚えている。アメリカに来て最初に出来た友達、というシチュエーションのおかげで私のアメリカ人に対する不信感、というのはこの経験を通してトラウマになった。最初だからたまたま運が悪かったんだ、と何度も思い直したが留学生活の間に起こる他の数々の出来事がこの経験が単なる「運」の問題だと私に思わせてくれなかったのだった。甘くてうぬぼれ屋だった当時の私は、すっかり面食らっていた。→→続く→→→またはUS Life Indexへ行ってみる→→
December 10, 2004
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→→→続き→→→アメリカに来て一ヶ月。2回目の授業に出て終わった時、私は一人の男の子に声をかけられた。何を話したか覚えていないが、確か「クラスはどう?」とかそんな簡単な会話だったと思う。日本の学校で「元気?」のご挨拶を”How are you doing?”じゃなくて”How are you?”としか習ってなかった私には彼の挨拶でさえまともに答えたかどうか定かでない。英語を話す人にクラスメートとして対等に話されたのは初めてだった。まごまごして「留学生として来たばっかりで何を話しているかわからない」みたいなことを答えたと思う。Brandonは普通のアメリカ人だった。両親は離婚していて、父親は近くに住んでいるが母親は郊外のWest Chesterに住んでいたと言っていたと思う。親元から離れてInternational Houseから近い一つの家を6人ぐらいでシェアして住んでいた。私にはホストファミリーがいなかったのでInternational Houseの同じフロア仲間ぐらいでないと英語を話す機会がないのではないかと思っていたから普通のアメリカ人に自発的に声をかけられたのがとてつもなく意外だった。言葉足らずで日本語と違ってすっかり話下手な私の話を忍耐強く聞いてくれて、私の知らないアメリカ生活のことをあれやこれやと教えてくれた。2回受けたその授業は私にはあまりにも難しくて受講するのをやめたが、彼とはイーメイルで連絡を取るようになった。それからまもなく彼にお昼ご飯を誘われた。私はうれしくてオッケーの返事をした。あまり気にしていなかったがその土曜日はバレンタインだった。待ち合わせの時間にビルのロビーで待っていると彼は私を見つけるとつかつかとやってきてバラの花を一輪手渡してほっぺに軽くキスをして挨拶をした。私はそんな扱いと挨拶は初めてだったのでびっくりした反面、うわ、なんか違くてうれしいかも、とわくわくしていた。男性から花を貰ったのも初めてだったが(日本ではしないよね・・・)バレンタインデーに女の自分に何かしてもらったのも当然初めてで、その日初めてアメリカのバレンタインデーは男性が女性に何かする日だと知った。私達はリッテンハウススクウェア沿いのアメリカ料理のレストランに入ってランチをして楽しい時間を過ごし、何の問題なくInternational Houseに戻った。その夜例の日本人グループの友達たちにその日の出来事の報告をすると、ほっぺにちゅ、の挨拶なんて普通でない、挨拶なんてものじゃない、それ以上だ、だの、バラを貰うなんてどうかしている、など散々言われた。今考えればそれは半分あたりで半分外れぐらいで、バラ一輪ぐらいならSweetな友達だね、ぐらいに考えていいのかもしれないが、当時は皆留学したて同士、相手が何したかにしたで詮索するのが彼らの楽しみだった。私は適当に聞き流して、初めてのアメリカっぽい自分の経験にうぬぼれていた。**うぬぼれたまま、私はまたBrandonと友達として学校帰りに遊びに行ったりした。アメリカのことを沢山聞いて、彼がそれを説明する度「アメリカって最高の国なんだぜ!」と言い切った。私がハードロックとメタルが好きだと知ってCDショップで色々お勧めを教えてくれたり公園で散歩をしたりした。彼は私より幾つか年上だったが酒を飲むのが好きで、よくバーに入った。バーに入ると彼は何杯か自分で買って飲むのだがそのうち「ね、今細かいの持っていないんだ、貸してくれない?返すから。」と聞くようになり、友達思いの私はもちろん、はい、どうぞ、と疑いなく貸してあげた。貸した次の日、彼は必ず返してくれた。彼が私の住んでいる部屋に遊びに来たこともあった。限られた滞在費をちまちまとやりくりしてスーパーで色々買いだめをして部屋の冷蔵庫に閉まっていたが、彼が遊びに来るといつのまにか冷蔵庫の飲み物が無くなっていたり、そこら辺に置いておいたクッキーなんかが空っぽになっていた。日本から来たばかりの私は彼が勝手に冷蔵庫を開けて許可もなく飲み物を飲み干したり、あったものを食べるやり方に心の底から驚いた。一言声をかけてくれても・・・?と思ったが、言葉足らずの私はぐっと黙ってその様子を伺っていた。また他の日にはバンドが演奏しているバーに行った。その時彼は私にシャーリーテンプルという飲み物を頼んでくれて、甘いけれど酒の飲めない私はバーに行っても頼みたい飲み物などなかったのでまぁ丁度よかった。その日、いつものごとくBrandonは飲み始めた。彼は飲むと煙草が欲しくなってきて、返すから煙草代貸して、と頼んだ。私はいつものように疑いなくお金を渡した。お金を渡すと彼はまたジンのショットを頼み、そしてまたお金を借りてショットを飲んだ。また「アメリカって最高だぜ!」系の話をして飲まない私は途方にくれていた。バンドが演奏しているその店は狭く白人の客で一杯で、アジア人一人でその場にいるのがなんとなく恐かった。ショットを何回か飲んだ彼は「あのさ、もう僕一人で帰れないから、部屋に泊めてよ。」と頼んだ。彼の住んでいる場所は近かったが来たばかりの私には定かでなくて、唯一つ、そこらへんの治安はあまりよくないと言うことだけ知っていた。英語が不確かなので一人で彼をそこに置いて帰る自信はとうていなく、しぶしぶ一緒にタクシーに乗ってInternational Houseに戻った。部屋に着くと酔いつぶれた彼は私の狭い部屋の狭いシングルベッドにそのまま横になって寝てしまった。私はシャワーを浴びて寝る場所が無くなってしまったのでしぶしぶ床に予備のシーツを敷いて寝た。翌朝、床に寝ている私を見て彼はかなり動揺した。特にアメリカ人は床に寝る文化などないから「本当にごめん。もうお願いだから床には寝ないで。」とすごく申し分けなさそうに何度も何度も謝っていた。私はあまり気にならなかったのでまぁ、そんな時もあるさぐらい思って、いいよ、と返した。しかしそれから一緒に出かけた次の時もその次の時もBrandonは飲みに飲みまくってつぶれて家に一人で帰れなかった。お金はきちんと返してくれるので友達として頼まれた時に貸すのを渋りたくなかったが、お金を貸すから彼は飲んで一人で帰れなくなるわけでいいかげん彼の面倒を見るのに疲れてきた。彼が部屋に来ると冷蔵庫の物も一遍に無くなるし、寝る場所は無いし、だからといって同じベットに入るのも・・・日本に彼氏がいるのは別にして割り切ってしまえば、もしそれ以上のことが起こっても何にも感じないがあんまり考えたくない問題である。自分が飲んで酔いつぶれて私にどれだけの苦労かけてるのか分かってるんだろうか・・・。数回同じことを繰り返したある日、やっぱりBrandonは分かってない、とようやく気づいた。ここは日本人っぽく黙ってないで彼に「もう止めてくれ」とはっきり言わないと出かければ出かけるほど向こうはいいが私が疲れに疲れてしまう。英語で話さなければいけない限り私は言葉少なだったので、今まで不満をずっと押し黙っていて言いたいことは山ほどあった。かといって、直ぐ言いたいことが英語で出るぐらい流暢ではなかったから頭の中で一杯一杯どうやって言えばいいか考えてその日、バーに言った時に一気に不満をぶちまけた。「あのね、もう飲むの止めて欲しいの。私疲れたし、あなたお金借りてばっかりだし、いつも家に泊めなきゃいけないし、冷蔵庫のもの勝手に食べたり飲んだりするし、それは良くない。」みたいなことを貧困なボキャブラリーのなかから言ってみた。今まで黙ってにこにこ自分に親切にしてくれた私が突然そんなことを言ったものだからBrandonは激しく動揺した。「どうしてそんなこと言うわけ?」「だって頼んでばかりじゃない!You are not nice!」と(多分)その時言った気がする。後で考えてみれば彼がdemanding(わがまま)なことと「You are not nice!」(悪く訳せば『意地悪な人ね』とかいう意味になってしまうんだと思う、今考えれば)ということは全く関係ないし実際彼は普通にniceな人だったはずだが、言葉が見つからない私は知っている限りの言葉を使って自己主張をしてしまった。Brandonはとても悲しんで「そんなこと言わないでよ・・・わかったよ。今度から飲むの止めるから。今日で最後にするから。もう気をつけるから。」と私に語って「Niceじゃないって言うなんてひーどーいーよー!」と、またジンのショットをがんがん飲みはじめた。そして・・・酔いつぶれた。→→→続く→→→またはUS Life Indexへ行ってみる→→
December 9, 2004
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→→→続き→→→大学入学のオリエンテーションが始まって私はEvelynという台湾人の女の子と知り合いになった。本当はグループにいた男の子達が偶然仲良くなった女の子だったのだが、彼女は何故か私に連絡をくれるようになった。仲良くなって彼女の家に遊びに行ったりするようになると彼女は「(そのグループにいる)Kはかっこいいと思うんだけど、どうも信用できないんだよねぇ。」と相談してきた。私はそのKという男の子が他にもまきちゃんという子が好きだということを知っていたし、Kがまきちゃんを好きなのは胸がでかいから、と公言していたのも知っているし、同じグループに取りあえずいるけれどもろくなやつじゃねー、と思っていたので「うーん、あんまり誠実そうな人じゃない気がする・・・」みたいなことを彼女の友達として言っておいた。結局、彼女はその後自分で気づくことにはなるのだが、Kの顔がタイプだったらしくどうやら随分気になっていたようだった。それから一週間、二週間が過ぎ、クラスが始まるとキャンパスの一部にあるStudent Activity Centerみたいなところでグループの皆が待ち合わせてお昼ご飯を食べたり、授業が終わってInternational Houseに戻ってもまたグループの友達と晩御飯を食べたりとグループ内での交流は休まることがなかった。そのうちリーダー格の年上の男の子が「あいつはXXのところがあって、疲れるよなー」とか「あいつってどうしてあんなことするわけー」とか文句を話すことが多くなって、私はうんうんと話を合わせて聞いていたりしたがこの場にいないとき自分も同じ様に言われているんだな、とかなりぞっとした。それで誰かの陰口を言っていても次の日には愛想よくその人とまたしゃべっている。同じ場所に住んでいるので彼と話す機会が多いわけだし、私も色々と他の人々に対して思うことはあるのだが自分に嘘をついてまで彼らの話を聞いたり彼らと時間を共に過ごすのはとても辛くなってきた。そして話す時間が多くなればなるほど個人的な話も増えて恋愛の話も一杯した。私は当時日本に置いてきた大大大好きだった彼氏がいて、彼をいかに愛しているかをよく話した。男の子達も彼女を置いてきたが「浮気したい」の一身でいかに浮気が正当性があるか、という話をよく聞かされた。リーダー格の彼は「彼女が胸が小さいから、胸が大きい女と大体浮気する。で、俺は大きい人と縁がないから浮気なら。」と言うし、Kは「まきを気持ち的に吹っ切れないのは胸がでかいから」と言うし、私は胸が大きいコンプレックスで生きてきた人間だったので気持ち悪くなってきた。そのKが好きだったまきちゃんはアメリカ在住歴も長く頭がよくて英語がぺらぺらの子で、Kを通して知り合いになったわけだが彼女の性格が好きで時々話すようになった。全く別の場所に住んでいたが彼女の家にランドリーが無かったので、International Houseのランドリーを貸してあげたりカラオケに連れていってもらったりとたまーに会ったりした。どう話してもKには未練も何もない感じで、遠い昔の話なので詳しいことは覚えていないが、当時は「誰かと付き合う時間がない」か「XXと付き合ってみようと思っているんだ」みたいな話をしていた気がする。(うぅ、偶然思い出しただけなのに懐かしいな。ハワイ大学の大学院行ったけどどうしてるんだろ?!)まきちゃんに未練たらたらのKには申し訳ないが、私の方が彼女とよく話していた。こんなことの繰り返しでそのグループの人々を通して私は自分の好きな人達との出会いをした。留学して一ヶ月ぐらいして同じクラスのアメリカ人の男の子に声をかけられて、英語がつたない私だというのにそれでもあれやこれやと教えてくれてなんとなく友達になって色々出かけるようになった。私はとってもうれしかったのでグループの皆にもその友達のことを話した。だが「今回留学組」では先駆けてグループ関連外のアメリカ人の友達を作ったので、グループの人々には「そのアメリカ人はどうかな」とか「ほんとに友達なのか」だとか散々干渉されて私は結構混乱した。留学したんだもの、日本語をしゃべるだけじゃなくてアメリカ人と折角知り合いになったんだから、好きにさせてくれ!というのが本音だった。彼とは友達だったしとにかく当時は日本の彼しか考えられなかったので、幾ら相手が男手も友達でいる限り何の問題もないじゃない。英語でもっと話したい!そう思っているとリーダー格の彼とKは「おまえは俺らの友達(Evelynやまきちゃん)を奪った、泥棒だ」やら「俺(K)とあいつ(リーダー格の彼)でどちらがおまえと浮気できるか賭けてるんだ」とか、耳を疑うような台詞を私に言った。なんだ、そんな風に思われてるんだ・・・。一瞬躊躇ったがモテルのは悪いことではないんだ、と思い直して自分に自信を持たせる。そんなこと言われて私はどうやってそのグループに居られよう。色々自分でできることは助けてきたけど、これ以上は馬鹿馬鹿しいな。しかもね「浮気」ってたってね、私にだって好みがあるんだってば。ちっともタイプじゃないあんた達とは浮気する気にもなりゃしないからっ!***一ヶ月、二ヵ月、三ヵ月と経ち、そんな言葉を聞いてから日本人グループの束縛と干渉に段々と疲れてきて、Student Activity Centerでお昼を食べるのも避けはじめた。留学しての最初の学期はそれと関係なくタフだった。英語環境になってもさっぱり授業の英語は聞き取れない。卒業を後一年にして最初から専門教科を履修しなければならないのは心の底から辛かった。もしこれが一般科目でアートやら音楽やらを取れれば英語に慣れるのに丁度良いスタートだっただろう。しかしその頃は一ドル146円という信じられない円安の時代で、生活が窮屈なのに私をわざわざ留学させてくれた両親のことを思うとそんな必要のない余計な授業を受けている場合ではなかった。留学の為に日本でバイトして自分で貯めたお金はあっという間に消えて、International Houseの同じフロアの学生達とも同じビルに住んでいる日本人達とも馴染めなくなってきた私は真剣に引越しを考えはじめた。→→→続く→→→→→またはUS Life Indexへ行ってみる→→
December 8, 2004
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→→→前書きより続き→→→アメリカに渡って半年が過ぎようとしていた。日本の大学で紹介されたInternational Houseという留学生が住む寮に住んでいたが、色々人の情報を合わせてみるとどうやらそこは普通のアパートよりも狭くて家賃が高いのだと聞いた。一部屋は日本の自分の部屋と変わらないくらいだから4畳半ぐらいだっただろうか。シングルベッドと大きな木の机、そして大きなクローゼットととっても小さい冷蔵庫が置いてあり、キッチンとトイレ・風呂は共同である。一つのスイートに10部屋、10人が住めるようになっていて日本人だけでなく様々な外国人がそこにいた。外国人同士ということで皆とすぐ仲良くなれそうだが、英語がぺらぺらな留学生達を前にどうしても自分の英語に自信がなく、話す勇気があまりなかった私はどうしても雰囲気に馴染めず窮屈な生活をしていた。日本の大学で紹介された寮なので日本人も結構住んでいた。春学期の為に共に渡米した学生は全部で12人いて、彼らとは殆ど面識がなかった。皆同じ「日本にあるアメリカの大学」とやらに通っていたのだが、あそこの雰囲気は特異で様々な年齢や環境の人々がいた。なんせ私が短大を終えてあの学校に編入した時、最初に取りあえず大学入学準備の「語学過程」を受講したのだがクラスメートの半分が短大を卒業した私と同い年だった。どういうことかというと、私が短大で教職だの編入受験だの色々勉強していた間、彼らはトフルのスコアが足りなくて大学に入学できないままずっと語学過程にいた、ということである。語学過程ではただ英語を勉強するだけなので拘束時間も少ないし、単位もなく、英会話学校に通っているようなものだ。よっぽどやる気がないと勉強に向かって自分をモチべートできないので、大半のそこの学生は自由に趣味やバイトをし、それで何時の間にか1年、2年、3年・・・と何の変化もないまま「学生」として過ごしていた。長年通う学生が多いのでそこに通う学生達大半は顔見知りだったり友達だったりし、派閥もあるしグループが一杯出来ていて異様な団結力を醸し出していた。3ヵ月の語学過程に通って直ぐトフルのスコアが取れたので私はあっという間に大学入りできた。語学過程の時に仲良くなった友達らはまたスコアが足りなくてそのまま語学過程に居残ってしまい、新しい大学生活は友達ゼロのスタートとなった。編入だったので大学卒業単位の半分は移行されていた為私は必修教科より専門教科を多めに取らなければならなかったが、トフルの点数は取れても英会話経験微量の私は大して英語力があるわけでなかったので初めてのクラスを受けて冷や汗をかいた。語学過程と違って教授の話していることがさっぱり分からない。クラスでの発言も何を話しているか分からないから何を話せばいいのかわからないし、自分の言葉に自信がないし学内では教授以外は皆日本語をしゃべっていて自分の語学力が向上しそうにないし、一体この先この大学で「大学生」としてどうやって勉強していけばいいのか皆目見当がつかなかった。教授はもちろんアメリカ人だったが、大抵の場合クラスの半分がアメリカ人か帰国子女、残りの半分がその「語学過程」を長年受講してようやく大学入りした日本人学生達、そして英語がままならない飛び入り学生の私で構成していた。よく観察してみるとその「語学過程」から来た日本人達は大体が友達同士で、どうやら皆でどのクラスを取るべきか、先生は何を言っていたか、過去に同じクラスを受講した友達の情報を元に何をすればいいかなどを情報交換して勉強を進めているようだった。私も喉から手が出るほど彼らの情報が欲しいと思ったが、長年通っている日本人学生は皆随分と歳が上に見えて緊張してしまい「教えてくださーい」とだけに近づくのも難だと思いまごまごしていた。かといって授業を受けたはずなのにその教授に「何を話していたんですか?」なんてばかみたいな質問をすることもできなかったので、にっちもさっちもいかなくて随分落ち込んだ。そういう学校生活が留学を決める発端になるがそれはさておき、その学校には沢山の長年「語学過程」を受講していた日本人学生達がいて、皆群れを作って生活していた。皆が仲良く同じクラスを受け情報を周していく。語学過程には昔分校があった。それら二つが新キャンパスで丁度統合されたので「語学過程」から入学グループにも当時は「高田馬場派」というのと「南大沢派」とかに別れていて彼らと話す度「あなたはどちらから来たの?」と聞かれたものだった。私は新キャンバスに統合されてから通学を始めたので最初は何のことを言っているのかよくわからなかったが長年通っている学生はそんなことから分校別にますます結束力があったように感じた。一緒に渡米した12人のうち殆どがそういう長年の過程を通して顔見知りで友達同士だった。誰も知らないのは私一人で、私は学校から貰った情報だけを元に留学に望んでいた。彼らには留学先にも日本のキャンパスで友達だった学生が既に滞在しているので情報に問題無い学生が多く皆フィラデルフィアのことをそれなりに知っていたと思う。飛行場で出会った時初対面であったが一緒に留学するということで、日本人らしく「仲間」入りさせてもらい身の上話やらなにやら根掘り葉掘り話した。色々話して行くと仲間内の話になり「XXはどうしたらしい」とか「○○の情報によると・・・」とか、私が全く理解できない話も一杯聞き流した。International Houseに暮らしてみるとその日本人達も「今回留学組」「前回留学組」「前々回留学組」等に別れていてなんとなくそれぞれのグループの雰囲気が違った。私は「今回留学組」としてきちんと皆から情報を聞いて生活用品の買い足しに一緒に行ったり、食事に行ったり、はたまた皆にご飯を作ってあげて一緒に食べたりと濃厚な時間を過ごし始めた。フィラデルフィアは治安が悪い街、と聞いていたので必ずそのグループの誰かと一緒に出かけていたし、既にフィラデルフィアに在住しているグループにいる人の友達を紹介して話したりと取りあえずグループの人々が動くまま一緒にいることにした。こんな環境にならなければ友達にならなさそうな人々ばかりだったけれども、そして私はもともと団体行動でみなでだらだら過ごすっていうのは性に合わなかったのだけれども、一人ではにっちもさっちも行かないのだ。じっと耐えて皆の様子を伺っていた。→→→続く→→→
December 7, 2004
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これから渡米当時のくらーいくらーい話を綴っていきます。色んな話があるのでなるべく横に外れていかないよう分かりやすく書くようにしましたが、読み疲れるかもしれません。おまけにコメントのしようもないかもしれないです。ま、でも、こんな留学生活もあるんだ、ぐらいに思って読んでいただければそれなりに楽しめると思います。そのうち笑える経験も真面目に書けたらいいなと思います。→→→続く→→++涙の留学生活 目次++日本人グループから抜けた時のこと。日本人グループから抜けた時のこと。(続)アメリカに来て初めてのバレンタインとその後。アメリカに来て初めてのバレンタインとその後。(続)アメリカに来て初めて引越しをした時のこと。アメリカに来て初めて引越しをした時のこと。(続)Evelynという人。友達だと思っていた人。(おまけ)アメリカに来て初めての誕生日。頑張って書いてるぞー!→→→またはUS Life Indexへ行ってみる→→
December 3, 2004
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昨日3ヵ月半のゆーゆーの捕まり座りを披露したばっかりだったのですが、あの写真を写した3日後の今日、なんと何もなしで体を支えて座ってしまいました。まだ長くて30秒ぐらいだけれども、結構なもんじゃないかしら?!手をひざに乗っけてみたら、できちゃった。くつ下のひよこもお気に入り。ちょっと倒れそうだけど、この姿勢なら結構しばらくいけるのだ!+++アルバムindexにいく+++
December 2, 2004
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12月に入ってそろそろ3ヶ月半になりました。最近のゆーゆーを載せたいと思います。ちなみに只今思い出の長編日記に手をつけています。(kang.さんに触発されました~)近いうちにアップできるといいなぁ。ハイチェア―に座ってごきげんのゆーゆー。夫婦が食事中、何にも食べれないくせに自分も一員としてテーブルに一緒にいないと怒って泣くので、一緒に食事の時間を過ごす事にしました。まるまるゆーゆー。赤ちゃんがころん、ってするの可愛いよなぁ。付け加えて足がぷくぷく。たまりません!足元がおむつだけになってちょっとセクシー?!で悩むゆーゆー。何度見ても幸せな寝顔。この顔を見るたび産んで良かったと思う。つかまり座りがなんとなくできるようになった!まだ一瞬だけどね。なんとか体を支えたぞ!もうちょっとで座れるかなぁ~、う~ん!+++アルバムindexにいく+++
December 1, 2004
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