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クルマでお出かけのときはDVDを再生する子供は大人しく座ってくれるから・・・まぁ、DVDは大抵アニメ等が多いのだが、パパの独断と偏見で選んでいるwそして、今回・・・以前から見せようと思っていた作品があった「ルパン三世カリオストロの城」であるルパン劇場用2作目として、1979年に公開当時はあまりヒットしなかった作品だったが、水曜ロードショー(現・金曜)などでの、放映により、もう一度見たい作品にラインナップされるようになる最近フルHDバージョンで公開されたのは記憶に新しいことだろうと思うウィキペディアによれば、この作品はあの映画監督スピルバーグの評価も高い「史上最高の冒険活劇の一つ」と言わせたそうな冒頭のカーチェイスについては、「映画史上最も完璧なカーチェイス」と評しているまた、知っての通り当作品は、「風の谷のナウシカ」ではじまるジブリ作品の前につくられた宮崎駿の初監督映画作品であるさて、私・みつごパパはこの作品を「子供に見せたいアニメのひとつ」として推薦パパの中では宮崎駿の最高傑作と思いますルパンシリーズで見ても、この作品を超えるものは無いと思います物語は・・・いきなりカジノ?からドロボーするルパン逃走の途中で、盗んだ金はニセ札と気づくそこで流れる歌は名曲「ほのおのたからもの」♪しあわ~せをたずねて~・・・♪やがて、タイヤがパンク次元が修理中にある少女がクルマで何者からか逃げてくる=>クラリスである助けようと追いかけるルパンたちが、ガケに落ちそうになったクラリスを助けるときルパンは気絶してしまうクラリスはその間に追っ手から逃げるため消えるルパンはクラリスを助けるため、カリオストロの城に忍び込むことを決意石川五右衛門、峰不二子、そして銭形警部らも城に集まり、カリオストロ伯爵との戦いが始まる物語は6歳でもそう難しくはないDVD再生中は後部座席では常に笑い声が聞こえた物語うんぬんよりも、宮崎駿演出に子供たちが引き込まれるのだろうアルプスの少女ハイジ、未来少年コナン、名探偵ホームズなど、彼は当時から見るものを引き込む演出をしていたそれはジブリ最新作にも受け継がれているが、その当時にそんな演出が出来たことに評価をしたいと思うさて、クルマの中で「カリ城」上映中・・・目的地についた為、途中で再生をやめた「カリ城」また後で見せようとしてたが・・・・・でも・・・パパのいない間に全部見終わったと言う・・・なんだよー一緒に見たかったのにー!ママにルパン見せて~とせがまれたらしいwクラリスを助け、ハッピーエンドになった場面をミツゴンジャーはどんな顔で見てたんだろうね?「カリ城」見たことある人はポチッ
2008/06/24
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ミツゴンジャー6/18に6歳を迎え、我が家はイベント月間となった6/7アンデルセン公園 ダイナミックコース制覇 まだ泳ぐのははえ~よ・・・6/8父の日参観幼稚園最後の父親参観、無事終了~6/17幼稚園にてお誕生会(ママ出席) 6/17パパとファンタジーキッスリゾート お誕生日は無料です ケーキ、アイスもサービス みんな遊び放題 バッテリーカーも乗り放題 太鼓の達人などもあるよ デジカメあれば、衣装着せて写真もOK まなりんのコーディネートはパパクルマは鳥山明デザインらしいです6/18誕生日パーティ 「6」型のケーキです かいどんはお茶犬のおもちゃ まなりんはプリキュアのビースメーカー れおっちはカードとモンコレをたくさん・・・6/20には田舎の母が遊びにきて、6/22はポケモンセンターへ遊びに行きましたみなさんからのバースディプレゼントは↓こちらを押して頂ければOKっさw
2008/06/22
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リニューアルし、タイトルも変更~みつごパパの育児日記改め、「みつろぐ」!みつごパパのブログ、略して「みつろぐ」!三つ子の成長記からパパの趣味まで、ジャンルにこだわらず綴っていきます。今後ともよろしくぅ~(でも不定期更新w)リニユーアル第1弾の話題は・・・我らがミツゴンジャー!6歳になりまちた!いやー、早いもんだ来年にはもう小学生だよ?リニューアル・誕生日記念に改めて、ミツゴンジャーの紹介!長男:れおっち身長113.9cm、体重18kg(生誕時42.8cm、2156g)3人の中では学者タイプ!?カードを眺めるのが毎日の楽しみ彼の行動・仕草は母性本能をくすぐり、これに騙される女性は意外に多い。しかし3人の中では一番のクセもの!彼の正体を知るのはわずかである・・・彼の毒舌はパパをも超えると思われる本年度はバネ指対策検討中!長女:まなりん身長112.7cm、体重20kg(生誕時42.0cm、1810g) 今やママと完全に手を組み、我が家の支配者的存在になりつつある。かつて先天性股関節脱臼であった彼女毎日走り続ける姿にその影はもはやない最近、家の中のお菓子が減っているとの情報があり、犯人は彼女と思われるそんな彼女は幼稚園の先生に憧れているウソ泣きが多く、演技派な彼女は芸能界へ進出する可能性もアリ?次男:かいどん身長116.8cm、体重22kg(生誕時41・0cm1818g) 厚い胸板に引き締まったお腹とお尻は、まるで北島康介のような肉体美!そんな彼の欠点はパパ譲りのエロ!?我が家ではクレヨンしんちゃんに一番近い男である・・・年少で頬に3針縫ったあとが、男らしさを引き出すそんな彼は寿司屋を目指している?(回転寿司しか行ったことないくせに)そんなパワーアップした彼らと、彼らと毎日バトルを繰り広げるパパを今後ともよろしくぅ~!リニューアル記念強制ポチ
2008/06/18
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父が亡くなった、その日の午後私は二人の息子を連れて、盛岡に到着した。従兄弟と妻に迎えに来てもらい、その足で葬儀屋さんに向かった。母が、従兄弟が、父の友人が集まっていた。そして、部屋の奥には父が横になっていた・・・。私は廻りの人たちに軽く挨拶をして、父の傍に向かう。父の顔を見て、私は少しびっくりした。父は・・・、これまでにない安らかな顔で眠っていただから、この時は涙は出なかった・・・・。「あ~やっと楽になった」何かそんな声が聴こえてきそうな感じだった。そして、父の額に手をやると氷のように冷たかった。ほんとに逝ったんだなぁ・・・そう感じたのが、素直な感想だった。位牌を見ると山が好きだった父の戒名には、この季節に合わせ「春岳」の文字が使われていた。それからは、悲しむヒマなど無く、葬儀に向けて、忙しくなったのは言うまでもない。だが妻をはじめ、親戚、父の友人らの協力へ得て、無事葬式は終えた・・・。私はこの葬儀までの過程を経て、いかに父が皆に好かれていたか、改めて認識した。叔父さん(母の妹の旦那さん)は、数年前に病気で倒れ、下半身が不自由となった。それでも父の亡骸に会いたいと、家で泣いているので、叔母さんが葬儀屋さんまで連れてきてくれた。東京に住む従兄弟もせめて、父をせめて一目見たいと、火葬場に入る直前にかけつけてきた。地元看護士の従兄弟は、入院中何度も見舞いに来たし、地元公務員の従兄弟は、何度もサポートに来てくれた。東京の叔母さん夫婦(母の妹・次女)は、通夜から葬儀が終わるまで、ずっと一緒にいてくれた。おかげで寂しくならずに済みました。父の友人は、自ら受付を申し出てくれたし、いろんな人の協力があったのも、父の人望だろう・・・。また、わからない事があって葬儀屋さんの事務室に深夜聞きに行ったとき、「○○さんの息子さん? オラを覚えてるが?」と言われた・・・・なんと、深夜当番していたのはかつての父の後輩であった。これも、何かめぐりあわせのように気がしてならない。また、父は国鉄バレー部で全国大会出場経験があり、地元のママさんバレーもコーチした事があり火葬のときは、たくさんのママさんバレーの人たちがいました。(私も顔出してたので知ってる)三つ子たちも、式のときは大人しくしてくれて、「じ~じ!さようなら!」と、3人で弔辞を立派にこなしてくれた。長男は葬列で団子を担当し、ちゃんとやってくれた。父は元鉄道員であり、友人のほとんどがその関係者である。弔辞を読んだ父の友人とは、養成学校以来の友人であった。ともにバイクでツーリングしては山を登ったりしてたと言う。偶然にも今年1月、再会を果たし囲碁の約束をしてその時は別れたらしい・・・。そして・・・私が生まれる時に父はその友人に相談し、私の名前が決まるきっかけになったとはじめて聞く。私はそれを聞いて、涙が止まらなかった。私はその父の友人に、「ありがとうございます。長生きしてくださいね。」と言った・・・。かの日活の俳優のようにすごくカッコ良い人だったその友人も今ではすっかりお爺さん。優しく微笑んで、「ありがとう」って答えました。その後、私はお寺にお願いして、その友人が読んだ時の立派な字で書かれた弔辞の紙をもらってきた。国鉄から民営化JRへと変わる時代に勤務してた父は、リストラ等いろんな問題に巻き込まれ、友人同士の間で、確執があったようだ。友人同士の親交が無くなっても、父はそれぞれの友人とずっと親交はあったようだ。だが父の葬儀には、かつての仲間が一堂に会した。葬儀を終え、私たちは父の写真を持って小岩井農場へドライブした。ここいらは盛岡市内より約一週間遅れで満開になる。小岩井農場周辺にはたくさんの桜が咲いていて、見ごたえは十分にある。だが、私たちが見たかったのは一本桜。連ドラでも登場し、今や知らない人はいない・・・父の写真を抱いた母とともに私たちは、、一本の桜と残雪の岩手山とのコラボレーションをしばし眺めていた・・・・・盛岡に生まれ、盛岡で生きる人はみんな、この山を見ながら生きて、その一生を終えます・・・。私の中の父は、子供の頃は、いつも私と遊んでくれた。友人も同然のような存在だった。キャンプ、釣りにスキー・・・私が三つ子たちに教えようとしていることの全ての原点は父にあると言っても過言ではない。私は今でも思うこの世で、最大の味方を失ったと・・・どんなときでも、何があっても、父は私の味方であると信じていた。その最大の味方を失った喪失感は誰も理解出来ない。そして、何も親孝行出来なかった事が悔やまれる。父は満足した人生を送ったのだろうか?とも考える。私は父を超えられないと思う。私は父のように、父親らしい父になれないと思う。人間としても強くなれないと思う。だが、現実には三つ子たちの父親である私。自分の父のようになれなくても、私は父親らしくなれる努力はして行くつもりだ。最後に・・・・・父の日に一度もありがとうを言ったことのない私から、天国の父へお礼を言いたいと思う。とうちゃん、ありがとう
2008/06/15
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4月、関東の桜もほぼ散ったある日の事。この日は深夜まで勤務だった。父の事が気になり、母へ昼にメールした。ところが、全然返事がなく仕事が終わる頃にやっと返事がきた。「おとうさん、にゅういんしたよ」やな予感がした・・・・。帰宅後すぐに母に電話した。肺炎だと言う・・・・。翌日、午後になって再び、母より電話があった。片肺は既に真っ白な状態。もう片肺も3/1白くなってしまってると言うもはや、人口呼吸器をつけるしか存命の方法はないと聞かされる・・・・。なんで、こんな事に・・・?と聞くと・・・放射線治療の影響ではないかとこの時は思われた。母はどうする?どうする!?と、電話の向こうで号泣していた・・・・。人口呼吸器つけて、存命するかしないか?息子の私が決めろと言うのか・・・?そんな事、決められないと思い、私も涙が溢れる。私は今すぐに出発するから、落ち着いてと言った。一人電車に乗って、盛岡に向かう途中、叔母さん(母の妹:3女)から電話があった。「Jちゃん(私の名前)?お父さん、落ち着いたから」私はその言葉で安心し、落ち着いて向かう事が出来た盛岡駅に着いて、迎えに来てくれたのは従兄弟たち。その後、病院まで送ってくれた。病院に着くと、目にしたのは・・・酸素マスクをつけて、荒い呼吸をしている父だった。だが、気はしっかりしているようで、それが私に僅かな安心感を与えるが、今回ばかりは違う・・・・何度もピンチになって、その度、死の淵から蘇ってきた父ピンチに駆けつける度、私は父に言われた。「なんできた?なんでもねえじゃ~!」だが、今回はそんなセリフもない・・・。翌日、私と母は担当の先生とお話をする。もはや、時間の問題であった。人口呼吸器をつけるしか、存命の方法はなかった。だが、つけても意識が回復する事はないと言う。それ以前に父の身体が耐えられないため、麻酔で眠ってもらう他は無いと言うことだった。要は、人口呼吸器をつけたら意識ある父と会うことは、もはや無いに等しい。でも、着けないとこのまま逝ってしまう・・・。私は悩んだ・・・・。看護士の従兄弟や友達にも相談した。それでも決められない・・・・。今は父の意識もしっかりしている。やはり、そこは父が自分の意思で決めてもらいたい。私は父に正直に話し、問いかけた。すると、父は小さくうなずいた・・・・。人工呼吸器をつけても、なお生き続ける事を選んだ父。もはや、私にも迷いは無い。母とともに父をささえていくだけだ。そして、人口呼吸器をつける前の晩、私と母は一晩中、父の傍にいた。ビデオを廻し、三つ子たちへメッセージを録画した。こっちから撮れとか、3人分撮れとか何かと注文の多い父だった・・・。私は何か、やり残したことないか?って聞いた。「なんもねぇ~」と父は答えた。母のいない間に、会いたい女はいないか?って聞いた。「いねぇ~!死んだ!」父は結婚前に恋人を事故で亡くしてるって聞いた。たぶん、その事を言ったのだろう・・・。朝になり、眠れぬ夜を過ごした父は、祖父が76歳で死に、祖母がまだ存命中なのに対して、「おらはまだ72だ、まだまだ死ねねぇじゃ!」「がんばるぞ~」と言い、両手を掲げた。そして、私は言った。「人口呼吸器をつけるって約束守ったからな! そのかわり、ちゃんと帰ってこいよ!」「おぅ~」悩んでいた私と母に、もしかしたら人口呼吸器をつけないんじゃないか?って私たちに少し疑いを持っていた父だった。私は約束だから必ずやる、だから安心しろと伝えた。そのかわり、ちゃんと意識回復してと言ったのだ。それは・・・はかない希望ではあるが・・・・人口呼吸器をつける一時間程前、父の友人がぎりぎりで会いにきてくれた。子供の頃、一緒に遊んでくれた人たち・・・子供の頃、大きいなと思っていた人たちが・・・今では私の方が背が高い・・・。人口呼吸器をつける時間になった。母はトイレにこもり、出てこない・・・。意識がある父と最期の別れをさせなければと・・・無理矢理引っ張って、父の傍に連れていく。母が、叔母が、最期の会話をして号泣しながら出ていく。そして、私の番だ。「とうちゃん、またな!」「おぅ」いつもの会話だ・・・「とうちゃん、またな!」「おぅ!」いつもの返事しかしない父だった。私は父の額に手をあて、やはり、いつもの言葉しか出ない・・・「またな・・・とうちゃん!」「おぅ!」最期まで父はいつもの返事しかしてくれない。父は必ず、戻ってくるつもりなのだ。私は溢れ出る涙をこらえながら、私はそのまま病室を出て、そのまま外に出た。そして、私は妻に電話した。そこで堪えていた涙が、どっと溢れた・・・・。約1時間後、看護士さんに呼ばれ病室に戻った。そこで見たのはたくさんの器械に囲まれた父。口にはチューブが詰め込まれ、眠っている。お世辞にもこれでよかったと言える状況ではないが、「約束は守ったよ」と父に心で呟いた。しかし、これはこれで先が見えない状況となった。この後の休暇について、上司と相談するが・・・「あとは、○○(私の名前)が割り切れるかどうかだよ」今まで、一人息子なのに父と離れて生活したから、最期くらいは傍にいて看取ってやりたい。でも、何日存命するか全然わからない状況だった。当然、会社だって私にそんなに休暇は与えられない。叔母さんにメールした。「仕事辞めようかな・・・」そしたら、すぐに電話かかってきた。「仕事は辞めたらダメ! ○○(妻の名前)が、子供がいるんだから! おとうさんはね、もう仕方ないんだよ!」そんなこと、わかってる。誰かに背中押してもらいたかっただけ。ただ、千葉に戻る決意をしたのはこの時だった。その後、三日程病院に寝泊りし、母は出来るだけ夜は家で休ませた。昼は、銀行に行き父の口座解約等を済ませておいた。妻と子供たちも土日だけ会いにきた。意識のない父を怖がらず、子供たちは手足を摩りながら、「がんばってねー」と語りかけていた。千葉に戻る日の朝。父の麻酔を少しずつ弱めていたので、意識はないが、目が開き、手足も少しだけ動く状態となっていた・・・。意識のない父に私は問いかけた。「千葉に戻るけど、いいか? オッケーだったら、目を閉じて」すると、父は目を閉じた。わかるのだろうか?試しに、ベット反対側に移り呼んでみる。すると、父の目が私の方へとちゃんと動いた。父はちゃんと約束を守って帰ってきたぞ!と、アピールをしてたのかもしれない。私と父の最期の約束。私はお互いに守って、それは果たしたと思いたい。私は父に額に手をあて、語りかけた。「とうちゃん、またな・・・」もちろん、返事はなかった・・・。でも、「おぅ」って言ってるような気がする。そして、私は千葉に戻り仕事に復帰。その週の金曜日に妻と娘だけが応援で盛岡に向かった。そして、4月20日夜勤明けの帰りに母から電話があった。「とうちゃん、死んだよ」意外にしっかりした母の声だった。「そっか逝ったか・・・ ちゃんと看取ったか?」私もなんとなく、そんな予感がしてたので落ち着いてる。「うん、○○(妻の名前)と一緒に看取ったよ」「そっか、じゃまた盛岡行くよ」そして電話を切ると、やはり涙が溢れた。この時、既に死後4時間は経過していた。夜勤に出たら、もはやどうしようもないから、もしもの時はかわりに看取ってくれと妻に伝えてあったのだ・・・。もはや、人口呼吸器をつけても父の身体は耐えられる状況ではなかった・・・・。妻が母のかわりに病院に寝泊りしてるときに容態急変、母を起こして病院に来てもらってから逝ったと言う。私は急ぐことなく、いったん自宅に帰り、千葉に残った子供二人を連れ、再び盛岡に向かった。盛岡に着いたときは嘘のように暖かく、桜が満開だった・・・・・。
2008/06/12
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もう一ヶ月以上も前ですが、4/20に実父が亡くなりました。既に四十九日法要も済ませました。それでここのところ、いろいろあったわけですが・・・ブログの更新がなかったのは忙しかっただけではなく、一度父の事を書かないと、日々の事が書けないようです。誰かに父の事を知ってもらいたいとか、そういう事ではなく私自身がどこかに記録として残さねばと考えています。しばらくは父の話になりますが、この話が終わるころに長く続いたこの「みつごパパの育児日記」ここいらで、一区切りにしたいと思います・・・。~父の落日(1)~2月上旬幾度の放射線治療の影響で父がかなり弱っていると、盛岡の母より電話があった。食事もほとんど採らないので、一度顔を見せにきて欲しいと言う・・・・。そして、パパはシフトの関係で4連休があったので、それを利用して一人帰省をした。今回を不意をついて、様子を見たかったので連絡せず向かった。実家に到着すると、父は風呂からあがったばかりだった。以前から痩せていた父だったが、更に痩せただろうか?父は私の顔を見るなり、皮肉を言った。「追い出されたのか?」どんなにツラくても皮肉言うのが父なので、私の中で、これなら大丈夫だなと確信はなかった。今回の帰省では病院に付き添ったり、運転するだけで、それ以外は何もしない4日間を過ごした。今回の帰省で感じたのは以前より「笑顔」がなかった事。よほどツラいのだろうか?でも母の話によれば、めずらしく食事を採った方だと言う・・・。ある話の流れから、私はポータブルDVDを買ったら?と、提案した。ソファーからほとんど動くことのなくなった父に、母が借りてきた映画のDVDを楽しむ・・・何か、父に楽しみを持って欲しいと思って提案した。そして、近くの電器屋さんに3人で向い、父はワンセグ付きのポータブルDVDを買った。その日、母にレンタルDVDの借り方を教え、父は時代劇、ドリフ、名作映画を見ていた。こうして、4日間親子3人で過ごした後、春休みになったら、子供連れてまた来るからなと言い、千葉の自宅に戻った。母は父に・・・「孫連れてくるってよ、それまでがんばらなきゃな」と、言っていた・・・その言葉から、父に何か時間が余り残されてない気がして、千葉に戻ったあとも不安な日々を過ごすこととなった。3月下旬上野の桜が満開になりだした頃、まだ寒い盛岡に、今度は家族全員で向かった。親父はツラいのに駅まで、クルマで迎えに来た。実家に到着し、三つ子たちは案の定跳ねまわる。末っ子がよく父のそばにいて、甘えている。以前ならじゃれあう程だったが、今回の父はそんな元気も無いようだ・・・。終始、三つ子たちが遊ぶ様子を無表情で見ていた。もはや、三つ子たちの力をもってしても、父に元気を与えることは不可能なのか・・・?せっかく盛岡まで来たので、三つ子たちをどこかに遊びに連れて行こうと思い、「けんじワールド」に行く事にする。だが父にはツラいだろうから、「行こう」とは言わなかった・・・。でも、父は意味深に言った。「行った方がいいか?」私は大丈夫だったら、行くべと答えた。もちろん運転は私、父は横で道案内をしながら出発。後部座席で騒ぐ三つ子に、父は皮肉を飛ばすと言う、久々に少し賑やかなドライブを楽しんだ。「けんじワールド」では両親は温泉館、私たち親子はプールゾーンで思いっきり遊んだ。父は一度、風呂に入ったきりで、後は畳の休憩室にて、ずっと横になっていたようだ。昼は一緒に食べた。父はジョッキのビールを飲んでいた。帰りは焼肉、父はそこでも酒を飲んでいた。本当は飲んではいけないのだが、酒を飲んでる父を見ると少し安心する・・・。私は実家滞在中は毎晩、父の傍で晩酌をした。父は私が風呂からあがると、「飲まないのか?」と、必ず聞いてくる。父は私が晩酌をしてると、安心するようだ。私が飲むと、父も少しだけ飲む。父は私が飲んで寝るまで、先に寝ることはなかった。私と妻と両親、ただ、のんびりとTV見ながら飲む・・・そんな田舎の夜だった。盛岡滞在3日目、父を大学病院に連れて行った。長く続いた放射線治療の最終日だった。食道に見られた癌らしきものは全て消えていた。まだ、その影響はあるのか笑顔はなかったが、少しだけ元気が戻ったように見えた。その翌日は肝臓の検査だった。急患で長時間待たされ検査が終わった後、父は紙バックに大量の薬を抱えて戻ってきた。私はそれに病気と闘う、父の前向きな姿勢を見た気がした・・・・。その夜、翌日は千葉に戻るため最後の晩酌。父はいつもより口数が多かったような気がした。そして・・・父と酒を交わしたのは、これが最後だった。千葉に戻る日、父は駅まで見送りにきてくれた。帰りの運転は父がしなければならないので、駅のホームまで来なくてもいいよって言った。が、父は駅のホームまで行くと言う・・・。ホームにつくなり、ベンチに座り込む父。東京行きの新幹線がホームに入る直前に、妻と三つ子は別れの挨拶に父のそばに行った。たぶん、三つ子たちが、「ばいばーい!」そして父が、「はいはい、またねー!」そんな感じの会話だったと思う。妻・三つ子と父の・・・これが最後の会話になろうとは、この時はまだ思いもしなかった・・・・。やがて、私たちの乗った新幹線が動き出す。車窓の向こうの父は、ちゃんと立っていて、この帰省中の一番の笑顔で手を振っていた・・・。つづく
2008/06/11
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