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国民主権実現の根幹は選挙制度の公平性が保障されること「一票の不平等」は「違憲ではない」とした裁判官に×を行使しよう。 「一人一票実現国民会議」という団体が、最高裁判所裁判官国民審査で国民が「一票の不平等」につき、「憲法に違反せず、有効」とした裁判官の名前を知った上で、国民審査権を行使しよう!と呼びかけている。 「一票の不平等」とは、ある市では10万人の票を獲得して議員になれるのに、他の市では20万人の票を獲得しないと、議会に代表者を送り込めないというような、住所によって、一票が差別されていることである。 「一人一票実現国民会議 」は、これからの4年間、国民一人一人が1) 住所による一票の価値の差別が、果たして正義なのか?2) 自分自身にとって、そして民主主義にとって、「一人一票の保障」が不可欠ではないのか?3) 有権者の少数決で法律を作り、首相を選んでいる今の日本は、民主主義国家といえるか?という問題を自分の問題として考え、最高裁判官の国民審査権を行使することを呼びかけています。 多数決による決定をしていない国家が民主主義の国といえるか。 衆議院では、全有権者の42%が、小選挙区選出の議員の過半数(151名)を選出し、参議院では、さらに少ない33%が過半数の選挙区選出の参議院議員(74名)を選出。さらに、その国会議員の中から行政のトップである総理大臣が互選され、その総理大臣が全国務大臣を任命し、その内閣が司法のトップの最高裁判事を任命。つまり、多数決ではなく、少数決で、立法府も行政府も司法まで決定されているのである。この現実からも「一人一票」が保障されなければ、民主主義の原則の多数決とはいえない。 「一人一票実現国民会議」にアクセスすると自分の一票の価値がを知ることが出来ます。私の住む選挙区は、衆議院・・・0.52票 参議院・・・0.25票 である。私の1票は,一票の半分の重さしかなかっったとは。(アメリカでは一票対0.9993票の不平等さえ憲法に違憲と判決) 今度の総選挙で行なわれる国民審査の対象となる9名の裁判官のうち2007年最高裁判決の中で「一票の不平等は憲法違反でないと、差別を容認した裁判官は 涌井紀夫那須弘平 残りの6名は判決を下していないので、意見不明。 さらに、自衛隊イラク派遣差し止め名古屋訴訟で、名古屋高裁の違憲判断を勝ち取った「平和のための国民審査実行委員会」は、「兵の空輸は武力行使で違憲」との判決が確定した08年5月のわずか5ヶ月後に自衛隊のイラク派遣当時の外務事務次官・ 竹内行夫 が最高裁裁判官に任命された。「違憲行為に携わった人が憲法の番人になるのはおかしい」と委員会は主張している。 憲法を守るべき最高機関が、先頭になって「違憲」行為を行うのなら、独裁国家とかわらないのではないか。「憲法は守らず」「判決も尊重されず」このようなことが「少数決」で選ばれた人たちが行なっている。これが今の日本である。 今回の総選挙では、「国民審査権」を行使して、主権者としての行動を起そう。
2009.08.28
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日本の教育政策:子育て支援について 今回の総選挙で各党がその政策の中心に掲げている一つに子育て支援がある。その中に、教育費の負担軽減や無償化が総選挙の争点になっている。 (朝夕めっきり涼しくなり、芙蓉が濃い微妙な紅を一層深いピンクに染めて勢いづいて咲き始めた。朝の散歩道は槿と芙蓉が共演して見事である。) 高校入学から大学卒業までにかかる教育費用は一人あたり、全国平均で1045万円。この額は世帯年収の34%を占めている。とりわけ世帯年収200万以上400万円未満の世帯では、55.6%にもなる。(日本政策金融公庫08年調査) これは自民党政治が「学費は教育に利益を受ける学生本人が負担する」という「受益者負担」論の考え方のもとに、学費の値上げ政策を行なってきたためである。1999年からは自民党と政権を組んだ公明党もこの値上げ政策に加わり推進した。なんと、75年から国立大学の授業料は15倍となり、(国立大の現在の年間授業料は平均52万円)私立大学は4.5倍になり(私立大は同約85万円)高校の授業料は8倍に上がった。 日本の教育への公的支出は経済協力開発機構(OECD)のまとめたデータのよると国や地方自治体の予算から教育機関に出される公的支出の割合は国内総生産(GDP)比3.4%でデータのある28カ国中最下位であった 私費負担も加えた教育機関への支出は05年がGDP比4.9%となり、26カ国中20位教育機関への支出のうち私費負担が占める割合は初等中等教育は9.9%でほぼ(平均8.3%)しかし、就学前教育では55.8%(平均19,8%)高等教育では66.3%(平均26.3%)なんと幼児期、高校、大学時の負担は私費が5割を超えている。 高校と大学の学費を段階的に無償化することを定めた国際人権規約に日本政府は79年に加盟。しかし、そのなかのA規約(社会権規約)13条を保留している。条約加盟国160カ国中(09年現在)保留しているのは日本とマダガスカルだけ。 これらの事実からみただけでも自民、公明の政権がいかに高等教育に税金をつぎ込むことを拒否してきたがはっきりと分かる。公的支援はしないが、教育の中味(教科カリュキュラムの細部まで)に関しては国家統制しようというのである。この事実については何も言及しないで、選挙の票を獲得したいがために子育て支援、教育費の負担の軽減などに全力を注ぐと候補者はこぶしふりあげ声高に叫んでいる。 公明党など、「子育て支援」の元祖は自分たちだと大声をあげている。 しかし、この2党は、高校の学費の無料化はいっていない。さすがに、就学前の幼稚園・保育園の無償化は言わざるをえなくなっているが。児童手当の拡充などというものでごまかそうとしている。 (私の幼い頃は、どこの農家の庭にも、夏の間中、咲いては散り、咲いては散って咲き続けたサルスベリの花。今年は梅雨が長く、雨の中冴えない色で咲き始め梅雨が上がるとやっと色も鮮やかに炎天に燃えて咲き出したが、また、すぐ朝晩涼しく秋めいて、花は終わりになってきた。この気象異変は、もの言わぬ花たちが警告している、) このような異常な高額な教育費を家庭が負担している国は世界でもまれなのである。年収1千万円レベルの階層でも複数の子どもを大学に同時に通わせることはかなり、高負担となり、耐え切れない。まして、年収の低い階層の子供たちは、進学をあきらめたりしており、幼い時から「希望」さえもてなくなっている、勉強する意欲さえ、幼い時から持てなくなっている。能力があっても、自分から降りている。 さらに、最近驚いたことがある。最近、小学生の可愛らしい子たちがわが塾生になった。彼女達の生活は、月から土曜日まで、ほぼ毎日何らかのお稽古や塾で埋められている。 英語、公文、そろばん、習字、ピアノやスイミング、バレイ、新体操などのスポーツ系のお稽古ごとなど次々にこまぎれにやっている。 こんな状態で子どもはまともに育つのだろうか?疑問に思う。 みんながやっているので、やらないと不安なのか、仲間はずれにされるのか、その真意は定かでないがこれでは、公教育は何のためにあるのか。 これには、保護者の経済的負担も大変なもの。 複数の兄弟姉妹がおれば、 その経費の負担はかなりの額である。 (育児支援を現金支給したら、益々この競争は過熱するのでは) 子どもに良い成績を取らせたいために、学校に人質にされているので、言いたいことも言わずご無理ごもっともとイエスマンにならざるを得ない親たち。 教師や保護者が協働して、教育を考え実践していく姿とは程遠い。 これが、自民党が戦後推し進めてきた教育の帰結点である。 益々勉強をすることがストレスとなり、勉強が嫌いになっている。勉強することが「知る」喜びや「世界が広がる」感動に満ちていることを体験したことの少ない子供たち学ぶ楽しさを知らない子どもや親たちが大量に生産されている。 その子どもたちが青年期になったとき待っているものは 高校、大学の教育内容の著しい退廃である。高校の中退者、不登校などは膨大であり、その多くは勉強についていけず、意欲をなくして、学校に通えなくなっている。さらに大学は、大学のレベルの勉強を維持できず、小中学校の復習、中学レベルの勉学に終始している大学もかなりの数になっている。 少なくとも、自公の推し進めた教育が現在の教育の混乱と退廃を生み出した。 高度に発達した大量消費を経済成長だとする社会の仕組みそのものを支える為の現在の学校制度。 自民党は、小懲りなく今回の選挙でも、経済成長戦略で、一人当たりの国民所得を世界のトップクラスに。10年で家庭の手取りを100万円増やします。と宣言しているが、この「路線」上に、現在の「学校教育」がある。 このような『路線』上に、真の再生があるか。 大企業が儲かればそのおこぼれが国民を潤すという論理しかし、先頃の最長の好景気と宣伝されていた自由市場経済はおこぼれどころか、貧困層の問題を益々深刻にしただけだった。 とりわけ、社会の底辺をささえる人材がこのような学校状態で育つか。 「公」教育の在り方が、どうあるべきか、今回の選挙は厳しくとわれなければならない。何でもいいから、耳障りよくばら撒けばよいというものではない。 「改革」は、現状の深い分析なしにあり得ない。国民ひとりひとりに、現状を分析し、その問題点を見抜く「知性」が求められる時代が来た。 その意味でも、色々の階層の意見や要求が代弁される、色々な党が百花繚乱と主張を戦わせること可能な政党を国会に代表者として送ることが必要ではないか。 その意味では、時代の歯車は少し回り始めた。 (ヒヨドリジョウゴとヘクソカズラ。廃屋や樹木に這い登り、巻きつくつる植物のヒヨドリ上戸。その茎にさらに絡まってヘクソカズラの花もさいている。秋深まると、真っ赤に実がなって、見事なヒヨドリジョウゴ。ヒヨドリが食べに来るからこの名があるとも。でも、お盆すぎた8月にもう実が赤くなっている。これも気象異変?私たちの生活のありかたを問い直すことを植物たちが警告を発している。
2009.08.26
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政権交代必至のなかで国民に問われているもの 夏のお日さまのエネルギーいっぱい貯えて甘い、柔らかなトウモロコシわが塾にやって来る生徒のおばあちゃんが丹精込めて育て収穫してみちのくの岩手から孫たちの住む都会にどっさり届けてくれた夏野菜たち(岩手から送られてきたトウモロコシ。孫のことねにも早速茹でて、食べさせましたが、好き嫌いの激しいことねもおいしい、おいしいといっぱい頂きました。)私にもおすそ分けぷーんとトウモロコシの青臭い匂い、懐かしい夏の匂いやわらかなトウモロコシの果肉にみずみずしい甘さ貯えてこれぞ、トウモロコシ(野菜たちがあまりにもみずみずしく、立派なので、感動して思わず絵手紙にしました。でも、本物のピーマンの緑色、トマトの赤色はなかなか出ません)ピーマンの濃いみどり深い青清涼な空気と、夏の太陽のエネルギーをいっぱい吸い込んでどっしりと瑞々しい (トマトの美味しかったこと。わが夫など「今日のトマトは何処のだ?何時もと違うな」などとのたまった。退職後の仕事として、農業でもやってみたらどうですか?トマトそのしたたる赤ぎっしりと実った果肉夏が詰まっている東北の農民のこころが野菜の姿に味に染み出ているこのような野菜をすべての国民がどこに住んでいようともごく普通に口にすることのできる農業を破壊したのは誰か。そして、今も、農業を大規模化して工場のようにして農作物を生産することを奨励する農業が政策としてやられようとしているその目標は大量に安くである形の規格化と味の均一化食をこのように「モノ」とみなして人間が生きる「素」としての作物がほんとうに育つか。美味しい野菜なら野菜嫌いの子などいないよ。野菜といえない野菜を毎日無理やり食べさせられている子供たち これでは野菜など嫌いになる。野菜は「いのち」のかたまり自然の恵みの微妙さに左右されてこそ「いのち」も充実する日本の農業が「いのち」を育む「素」を栽培し収穫する日が来るか。そんな農業を支持支援する「政党」が伸びること今こそ必要なとき政権交代は必至という空気のなかで思うこと 小泉「郵政民営化」を争点にして闘われた総選挙から4年が経過した。 この4年間の社会の変容は驚くべきものがあった。 4年前の選挙の時、このブログで発信しつづけた事実がことごとく現実の問題として露呈し、「郵政民営化」の名のもとに行なわれた数々の構造改革なるものが、誰の目にも明らかに目に見える形で破綻した。その破綻の仕方のスピードのすごさ、破綻の仕方の劇的なことは、私の想像を上回るものであった。 とりわけ、アメリカを支配していたネオ保守主義者たちの経済が、リーマンブラザーズの破綻で劇的に崩壊し、オバマ大統領がアメリカに誕生したことは、アメリカそのものが質的に大きな転換点いることを、私の眼前に示してくれた。 この4年間の日本の政治はどうであったか。 マスメディアの扇動によって、洗脳された国民の多くが、小泉の絶叫した「郵政選挙」に「イエス」の意思表示をしたことで、自公が衆院で3分の2の多数を得た。自公の政権は、その数を頼みに次々に法律を強行採決して成立させた。公約なしで「教育基本法」を改悪し、「憲法改正国民投票法」を成立させ、憲法改正の布石の一つを強行突破した。 さらに、この4年間ではっきりと現れたことは、貧困層の増大である。これほどまでに日本が格差社会とは、今まで国民の目には見えていなかった。あらゆる「矛盾」が一気に爆発的にそれぞれの身にふりかかり、不安な気持ちに多くがなっている。 この私もそうだ。 若い頃より、老後のためと思い、重い税金や年金や保険金の支払いに、我慢、我慢の連続で耐えてきた。とりわけ、子どもたちが大学に行っている時など、重い教育費の負担に飢え死にしそうな思いで踏ん張ってきた。やれやれ、少し肩の荷が軽くなったな、これから、安心して後20年ばかり生かさせてもらおう、と思った途端、年金額は予定より大幅にダウン(あんなに必死に掛けてきたお金はどこにいってしまったのか。年金の基金が株売買の投機で失われた額は莫大である。)、しかもである、高齢者は医療費まで、自分たちであくまで負担せよ、とあいなった。ここで、病気にでもなったら、たちまち路頭に迷う老人となる。 私たちの家庭は、ごく平均的な中流を形成する階層だと思っている。その階層が、棺桶に片足突っ込む今になっても、まだ安らかに暮らせないとは。このような国が真に「豊かな」国といえるか。何のために必死に働いてきたのか。老いてもまだ鞭うたれるとは。しかもである、自民党は若い次の世代にも公平にするために、高齢者も負担せよ、と言っているが、若いものが老いた者を助けるの当たり前のことではないか。自民党の唱えている「道徳教育」やらは「親孝行」ではなかったのか。若いものが、「年寄りを助けること」が当たり前の社会にすることの方が先にやるべきことではないか。その根底のところを変えることしないで、財源がないなどと国民を脅している。 さらに、少子化といわれているが、その少ない子どもたち、どう育っているか大人たちは知っているか?とくに、学力の中、低位にいる子供たち、今のままでは、人として自立できない。働く市民として、社会の一翼を担える資質、基礎を全くといっていいほど育てていない。これは親である私たちの責任でもあるのだが、今の自公の教育方針では、到底解決できない深刻なものがある。全国一斉学力テストに莫大な税金をかけて、毎年やっているような場合ではない。 今、自公政権に徹底的な打撃を与え、退場してもらうことはいいことである。 望ましい。 しかし、それは、自民政権を支えてきた社会の基盤そのものの退場を意味しない。村で町で学校で職場で、あの自民党の体質そのもののボスが支配している。まだまだ侮りがたい力を持っている。 変革をするとは、「政党」が変わるだけでは、到底できないこと。 その社会を形成する一人ひとりが、きわめて政治的にも賢くなり、持続したエネルギーを持たなければ到底「変革」など成功しない。「ばらまき」に終わり、また後退するだけ。わが老後が安心して暮らせる為に、若い者たちが、希望をもって仕事をし、私たち年寄りを安心して支えてくれる社会を築くためには、社会の根っこから変わり続けなければ持続できない難事業である。そのためには、「憲法」の精神を体現して生活できる訓練を、幼い時から、学校で、家庭で、サークルで、徹底してやること必要ではないかと私は思っている。憲法が施行されて、しばらくは、国家が先頭にたって、そのような近代的な市民像を教育の目標にしてきた。それが、次第に否定され、憲法をないがしろする方向にひた走ってきた。その結果が今日の日本教育の姿であり、そこで育ってきたのが今の子供たちである。一人ひとりが、自立した個として、それぞれの場所で、仕事し、共同体を作れる主体者として、成長していかなければ、「変革」など絵空事である。今の子育てや学校の方針は「できるだけ物言わぬバカ」を作ること。「知識」は点取るためにあり、序列つけられ、肝心なことは「ロボット」として、従順に従う大人になることを要求されている。(政治や歴史に無関心はその際たるもの)そして、最低層を形成するものは、いらなくなったら捨てるゴミとして扱われている。それでも物言わぬ人々。人としての尊厳を侵されていると感じないように育っている人々。これが「自民党・公明党」がおしすすめた教育政策の成果なのである。このような人間のありようから脱却することなしに変革などありえない。「子育て支援」などと騒ぎたてているが、教育支援はこのような根底での改革と結びついて行なわれてこそ効果のでるもの。国民の人としてのレベルが厳しく今こそ問われている。
2009.08.18
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松谷みよ子さんの昔ばなし:「したきりすずめ」と「うらしまたろう」 三世代に読み継がれた絵本の感動 お盆でも娘夫婦は仕事があり、お休みでないので、孫たちを、休園状態(他の園児たちの多くはお盆でお休み)の保育園に代わって、私たちジジババが預かり保育をすることになった。 常日頃、忙しくなかなか孫たちとゆっくり接することのない、このばあさん、久々に5歳のことねと向き合った。特に絵本をいっぱい読んだ。さすが5歳となったことねは、かなり高度な読書に耐えうる感性、知恵を身につけ始めているのがわかった。その孫と一緒に読んで、ばあばが感動した本。松谷みよ子さんの絵本・昔話「したきりすずめ」と「うらしまたろう」この2冊はことねのママにも幼い時、読み聞かせた本であるが、60半ばを越えたばあばは、今回、孫のことねに読み聞かせ、新たな発見をし、新鮮な感銘を受けた。文・松谷みよ子:絵・村上幸一の「したきりすずめ」はポプラ社の「むかしむかし絵本シリーズ」(30巻)の1冊である。この「したきりすずめ」は、石川郡江沼郡に伝わる話を中心に再話したものである。 近世になって出た赤本の「したきりすずめ」の話は、いい爺さまと隣の意地悪な婆さまの話となり、馬の洗い汁を飲むくだりは省かれてしまっている。多くの日本人が慣れ親しんでいる「したきりすずめ」は、この赤本の昔話である。 松谷みよ子さんの「したきりすずめ」は近世より更に前から、石川地方に伝わる民話をもとに再話したものである。 この「舌きり雀」に登場する、じいさまとばあさまは同じ家族の夫婦なのである。 一匹の雀にたいする、この夫婦の人格は対照的である。爺さまは「すずめ」にたいして、慈愛に満ちており、婆さまはきわめて現実主義者。厳しい今を生きていくためにはなりふり構ってはおれぬ。爺さまの弁当を食べた上に、婆さまの大切な洗濯のりまで食べる雀には我慢ならぬ。舌をちょんぎる制裁は当然のこと。 雀を探し訪ねていく途中、じいさまががっぷがっぷ飲み干す馬の洗い汁や牛の洗い汁場面。じいさまの貰って来たみやげものに納得せず、自分で婆さまも雀のお宿をたずねることとなり、その途上でじいさまと同様にがっぷがっぷ馬の洗い汁や牛の洗い汁を飲み干す。爺さまが「舌切られた雀」に逢いたさの一心から、「洗い汁」をがっぷがっぷと7杯も飲み干すのだけれど、婆さまが、「洗い汁」を飲むその姿の浅ましさ、凄まじさ。ただただ「どっさりと金銀の宝物」を手に入れたいがための強欲から。爺さまの心ねの優しさと婆さまの凄まじい「根性悪さ」。私たち人間の誰のこころにも宿っている両極の感情。もっと言えば、現代社会の今にこそ、もっとも鋭い形でこの姿は現れている。何が本質的で、何が真実であるか見抜く力が、今、現代の私たちに厳しく求められている。その意味からも、この「したきりすずめ」の民話は教訓に富んでいる。現代に脈打つものがある。この本の絵も素晴らしい。とてもリアルにダイナミックに人間のこころを描いている。ことちゃんは馬の洗い汁の場面にきたら、馬を洗う百姓の姿、顔をつくづく眺め「この人意地悪な人?」と質問してきた。だって、この馬洗いの顔は、現代では絶対にみられない、呑百姓の顔。根性悪そうな顔。「馬の洗い汁って汚い汁?」とも疑問を投げかけてきたことちゃん。 メリハリのきいたドラマテックな筋の展開は幼い子どものこころもぐいぐい惹きつける。ことちゃんがこのお話から受ける面白さ感動は、もちろんこのバアバとは異なるであろう。しかし、幼い時、松谷みよ子さんの力強い美しい日本語で、このお話を心に沁み込ませた事は、これから成長していく過程で、必ず活きて来る。こころの肥やしとなって生きる糧となる。ばあばが60歳になっても、このお話から新たな感動を得ているように。ことちゃんにも生きる力になる日がやって来るはず。 「民話」のもつ凄まじいエネルギーがそこにはある。 さらにもう1冊、偕成社の「うらしまたろう」 文・松谷みよ子 絵・岩崎ちひろ 浦島の話が一番古く文献に残っているのは「万葉集」だという。「日本書紀」「風土記」「御伽草子」などにも浦島の話が残っている。浦島説話が生まれたのは古代社会であるということは凄い。松谷みよ子さんの「うらしまたろう」は日本各地に残された浦島説話をもとにして書かれたものである。あの夢のような「龍宮」の暮らしぶりが、実にリアルに描かれている。農民の田植えや稲穂の実るありさままで描かれている。夢かはたまた現実かわからぬまま、夢のように過ぎ去る浦島太郎の日々。でも太郎の心は、この夢のように美しい安楽な国に安住することを許さない。飢えや圧政の貧しい現実へと戻ることに心は揺れる。そして、現実世界へと戻って行く。故郷に戻った時、太郎の見たものは。。。龍宮と現実界の落差の大きさ。見知らぬ景色。見知らぬ人。そして、1本の煙とともに、老人へと変貌する太郎。その老いの凄まじさ。その孤独。まさに、現代の年寄りたちの抱く老いに脈打つ感情。勿論、この龍宮は当時の支配階級「貴族」たちの「日常」そのままであり、ただ、働くことに明け暮れた貧しい庶民たちの憧れの天上の世界。そこに安住出来ない「太郎」のこころの故郷はあくまでも父母とくらした民のくらし。生きることの意味の深さを「説話」で語り継ぎ、子供たちに教えていた昔の人々。岩崎ちひろさんの絵も素晴らしい。ただ、ただ美しく、夢ごこちにする柔らかなタッチと色使い。それでいて、太郎の意思的な顔。品のある顔立ちのなかに、強い意志を秘めた眼差し。ことちゃんは「早くおじいさんになったところの絵が見たい」と催促した。端正な「太郎」が一瞬にして白髪の「老人」へと変貌するドラマ性に子どもながら、絵を通して感動している。生きることの厳しさを、幼いながらにも、おぼろげに感じ取っている。岩崎ちひろさんの絵の魅力がそこにある。 この松谷みよ子さんの絵本は、私の娘(ことねのママ)が幼かった時、この婆が読み聞かせたものである。そのかなり傷んだ絵本をこんどは孫に読み聞かせることが出来るとは。しかも、婆は歳を重ねた分、あらたなものが見えてきた。新たな感銘をもって読むことができた驚き。これが、千年あまりも人々のなかに生き、語り継がれた「民話」の持つエネルギーではないか。人が生きていく時に出会う真実がそこには秘められている。これこそが「生きる力」の素ではないか。このような「語り」絵本を大切に守り、次の世代に受け渡していくことは、とても大切なことではないか。 総選挙迫る いよいよ来週から総選挙戦が始まる各党は「子育て支援」をそのマニュフェストのなかで、重要な柱のひとつにして、あれこれ、国民に色目を使って、調子よく金銭的な支援を宣伝している。子育てが安心して伸びやかに行なわれるためには、それなりの経済的な充足が必要なのは当然だ。そのための支援が色々な形でなされることは結構なことである。しかし、である。一番、肝心なことは、その金銭的支援の裏になにがあるかを見抜くことが大切だ。どのような子どもを育てようとしているか?どのような教育を子どもにほどこそうとしているか?今、自民・公明がめざしているもの、やってきたことの積み重ねの果に、今の子供たちの姿がある。その親たちがいる。それが、無残な状態になっている。立ち行かなくなっている。 子どもたちが自立して生きることの出来る知性、創造力を育む教育や子育てとは程遠い現状の教育。子どもが民主的な感性を育て磨き、社会のなかで、自立して生ききる人格を育てる養育や教育は否定されてきた。人格の尊厳を否定する教育や子育てが行なわれてきた。このような状態で、場当たり的に子育てにお金をばら撒かれても子供たちの未来は開けない。 子供たちの置かれている現状はかなり深刻で問題の根が深い社会の根底のところで変わらなければ子供たちの未来は開けない 大人一人ひとりの生きざまが厳しく問われるときそれが今回の総選挙ではないか。
2009.08.14
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8月3日: 梅雨明け東海地方はやっと梅雨明け宣言された。梅雨の期間は6月9日から55日に及び、この期間の降水量は、名古屋市で536mmを記録、平年の1.4倍。記録が残る1951年以降で梅雨明け時期が最も遅い夏となった。 その間の気温30度を越す日が多く湿度高く、毎日どんより天は低く、時々は、集中豪雨夏の花は次々に咲いたが日照時間短いためか、色褪せて、花びらは雨に痛めつけられ散る。 (私が日頃購入している、有機農業をめざして日夜頑張っている青年が育てた枝豆。太い頑丈な幹、小粒ながら良く詰まった実。ほんのりとした甘味が口の中でひろがる。) 悪天候にもめげず、有り余る降雨で、たっぷり水を吸いこんで枝豆が見事に実った 畑から取ったばかりの枝豆すぐに茹で食べると大豆のほんのりとした甘味が口いっぱいにひろがりしっかりとした歯ごたえが大豆のうまみを引き出してまさに畑の肉 雨が続き、水分いっぱい吸いこんで道端の雑草は、伸びる伸びる元気よく伸びる そして目立たぬながらも次々花を咲かせているカヤツリグサ(蚊帳吊草) 小さな穂となって、複雑な並びで花を咲かせるカヤツリグサ今私の散歩道の道端にはぐんぐん伸びてあちこちに勢いよく小穂(しょうすい)を空に突き出している 茎の両端をつまんで裂くと四角形ができるそれを蚊帳(かや)に見立てて草遊びに興じた幼い日 カヤツリグサは子供たちには格好のオモチャであった でも、今は、「蚊帳」も姿を消し「カヤ」という言葉も「死語」となりかけている。 子供たちは知らない「蚊帳」という暮らしの備品を ただ、植物の名前となって、生き残っている「蚊帳」という言葉 7日は暦の上での秋立秋 (エノコログサ:別名ネコジャラシ。花序が犬ころのしっぽに似せてこの名がある。狗尾草は中国名。英語はfoxtail-gass.エノコログサは五穀のひとつとされる粟の原種と考えられている。) 今朝の散歩道は爽やかな風吹きエノコログサは、その、子犬のしっぽのような穂を 透ける柔らかな紫色にして、早朝のひんやりとした空気のなかで穂をざわめかせていた かすかに、もう秋の気配 いよいよ総選挙 夏休みとなり、やっと梅雨が明けて、この数日は爽やかな夏日。じりじりと暑く、せみしぐれが耳をつんざくばかりにやかましいでも、からっとして、やっと夏!夏休みとなり、わが塾の子供たちも昼間から来る子たちの勉強でてんやわんや。先週は、孫のちーちゃんプール熱となり、伝染性のため、保育園お休み。わが夫婦は孫の育児支援に明け暮れ、私たちが倒れる寸前にちーちゃんは快復して、保育園の日常に戻っていきました。 今月末には、総選挙が予定されている。まさに、このままだと、棺桶に足を突っ込むまで、働くことしか能力のないわが夫婦は、働かなければならなくなりそう。これは、ありがたく思うべきか、不幸と嘆くべきか。 麻生首相は「80を過ぎて、遊びを覚えても遅い。60過ぎて、80過ぎて、手習いなど遅い。高齢者の働ける才能をもっと使えば、その人たちは納税者になる。明るい高齢化社会、活力ある高齢化社会が、日本のめざす方向だ」とのたまってござる。 私たちは、首相に言われるまでもなく、働いている。60の手習いなどもう遅いとは、なんとまぁ年寄りをバカにした言葉か。高齢者などと呼んで、年寄りをゴミのようにモノとしか思っていないのだ。わたしゃ、まさに60の手習い、この5月から「絵手紙教室」と「陶芸教室」に通っている。今まで、大学には他の人より長く通ったが、お稽古事などする余裕がなかった。はじめて、習ってみて、楽しいこと、楽しいこと。生活を潤いあるものにしている。健康な年寄りの生活には、お稽古事は不可欠にさえ思えてきている。 健康には人一倍気を使っている。なるべく、他人さまの介護にたよらず、医療費も余分に使わず、死にたいから。 棺桶に片足つっこむ間際になっても、納税者としてカウントされ、しぼりとられる労働を要求する自民党党首。それが、日本のめざす社会だと公言してはばからない政党。経済成長率2%をめざす、それこそが社会保障を充実方策だと主張する自民党、公明党。財源は高度成長と増税にしかないと公言してはばからぬ政党。まさに、その路線が破綻しているのが今ではないか。 大量に消費することで成り立つ社会。それが、国の繁栄だとする党。 その論理が今、破綻し、年寄り、若者、幼子たちが希望を見出せず、惨憺たる状況に追い詰められている。 このような社会のありようにきっぱりと「ノー」を突きつけるとき、民の一人ひとりが、深く考える力を発揮して、子供たちや、孫たちが希望をもって生きることの出来る新しい政治のあり方に1歩でも半歩でもいい前に進めるよう扉をたたこう扉をあけよう このお婆は益々忙しくなりそうである。
2009.08.08
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