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が 上手
でひ 弱
だった。
遊歴
し 河内国
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作兵衛
に 神道
を 学
び 三
社
に 大
燈
籠
を 献
じる 万人講
に 従事
し 併
せて 報
徳
を 説
く。
弘化
4 年
遠
州
浜
松
下
石
田
村
の 神谷
與
平
次
に 報徳
を 説
き、 村内
に 報徳社
を 起
す。 後
庄
七
と 別
れ 大和
で 発病
し 伊勢
で 死去
した。

書の流れにおいても、 尊円法親王
が書いた『 入木抄
』によれば、
「一条院御代以来、白川・鳥羽の御代まで、能書も非能書も皆行成卿が風也。法性寺入道出現の後、又、天下一向此様成了。後白河院依頼時分、如此。剰、後京極摂政相続之間、弥此風盛也。後嵯峨院比まで、此躰也。其間、弘誓院入道大納言等、躰がハりて人多好用之歟。是ハ法性寺関白の余風也。法性寺関白ハ又権跡を摸する也。…
と記されています。
つまり、 藤原行成
の書風( 世尊寺流
)が1世紀半以上にわたって受け継がれてきましたが、 藤原忠通
(1097~1164)という人物によって書風が一変したというのです。
は、書道・書流の歴史を語るうえでとても重要な人物です。
尊円法親王 は、 世尊寺家 の当主、世尊寺 経尹 ・世尊寺 行房 ・世尊寺 行尹 に教えを受けています。
その生存中からすでに彼の書はとても尊重されており、亡くなった後も、彼が門跡を務めた 青蓮院 の歴住たちによってその書風が受け継がれていきました。
一条兼良
(1402‐1481)の『 尺素往来
』によると、
「 和字。漢字。共に青蓮院尊円法親王の御筆を以て規範と為す。
而都鄙翫之…」
と記されています。
つまり、仮名・漢字、ともに 青蓮院
尊円法親王
の筆跡をお手本とする。それは、都も田舎もこぞって珍重したといいます。
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