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2025.11.18
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その6

慈雲尊者がこんなことをいっている。
「清風名月画て似すべからず真正の妙道はさとりて知るべき法ならじ修すべし求むべからず法に法なければ自家屋裏の仏つねに金光明をはなつ」
 これは大変なことである。わずかこれだけの法語であるが、実に大したものである。この自家屋裏の仏がいつも光を放つにはどうすればよいか。我々のしていることの中で何が一番立派か、我々一生の中で何が一番尊いものかといえば、我々が本当に信じて坐禅した時ぐらい尊いものはない。たいていなことは損得にかかわったことやら、好き嫌いにかかわったことやら、善し悪しにかかったことやら、そういう限りあることである。全く限りない、実に絶対なことに本当に背骨をのばしているということは、これが人間のすることの中で一番尊い、世の中にこのくらいけたはずれて尊いものというものはあるべきものでない。それで達磨とお釈迦様とをここに引き出して「矧んや彼の祇園の生知たる、端座六年の蹤跡見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声明尚聞ゆ」である。
 古聖(こしょう)既に然り、今人盍(なん)ぞ弁ぜざる
 まあそんなことは理屈として知ろうが知るまいが信用していい。釈迦や達磨がやったのだから、我々もやらなければならぬのではないか。
  所以(ゆえ)に須らく言を尋ね語を逐うの解行を休すべし
 言葉というものを我々は持っているが、言葉は火というて口を焼かず啞がものをいうようであらねばならぬ。啞はうまいことをいう。わたしは寒い時に別府で啞の床屋に髪を剃ってもらいに行った。吹雪ですごい日だった。そうすると「ぷーぷー」といって両手で風の動く模様をした。えらい吹雪ですねということがわたしにうなずかれた。「髪を剃ってもらいたいが痛くはないか」とこうやってまねたところが、腕をパチンパチンたたいて首でうなずいた。「手に覚えがある」ということである。それから剃ってしまってタオルでふいて、電気を頭のてっぺんに持って来てうんうんという。これをやると気持ちがよくなるということなんだ。我々は言葉が大変好きである。善い言葉、悪い言葉というようにたくさん知っているけれども、言葉をたくさん覚えたところがいけない、学者というものは言葉をうまく整理して、その言葉にあるいは哲学的考察とか、あるいは論理的考察とかいうことで、ちょうど質屋の番頭が棚の整理をして、これから先が何円以上、これから先が幾ら、これから先が質流れ、何月何月以後がこれと、棚の整理がちゃんと整っている。そういうように言葉の整理ができているのが学者というのである。そうすると、実際我々の自分というものを根本としていう問題では「言を尋ね語を逐うの解行を休すべし」言葉をたくさん知ったところが何にもならない。(『禅談』p.314-316)





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最終更新日  2025.11.18 05:00:06
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