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2025.11.18
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

修証一如  その7

『証道歌』には愉快な文句がある。
「但(た)だ本を得て末を愁うること莫れ」というのである。本とは真如、末は神通の意味で、修行を指す。根本をしっかりととらえて、末節に走るなというのだ。
 ところがわれわれはその反対だ。信心はおっくうだが、ご利益だけは欲しい、お経読むのは嫌いだが、お布施は好き、修行は嫌いだが悟りは好きということになる。それでみな迷っている。学生もその通りで勉強は嫌いだが、及第は好きなのである。だから学校を卒業しても、カンニングで通ってきたのだから実力がゼロだ。近頃予備校などでよく模擬試験をやるが、それにさえカンニングをやる手合いがあるそうだ。模擬試験にさえカンニングをやるのだから、肝心な本試験は通らないにきまっている。
「但だ本を得て末を愁うること莫れ」つまり本当のことさえすれば、それを人が知るとか、知らんとか、功徳がどうの、神通がどうの、そんなことは問題ではない。
 しかるに「坐禅すれば何になるのか」とすぐたずねる者がある。わたしは「坐禅しても何にもならぬ」と答えてやる。そうすると。それっきり坐禅にこなくなる手合いがあるのだが、これは坐禅の対象を誤っているのである。
『学道用心集』のなかに、この点が親切にいわれている。「若し人賞翫すれば、縦い非道と知るも乃ち之を修行す」ー人がほめさえすれば、悪いと知っておってもやる。「若し人恭敬し讃嘆せずんば、是れ正道と知ると雖も棄てて修せず」ー人がほめないと、良いことでも棄てて顧みない。これでは真如の力を放っておいて、ほめる方にばかりついてまわる。「或は人をして心外の正覚を求めしめ、或は人をして他土の往生を願わしむ。惑乱此より起り邪念此を職(もと)となす」と示されている。それから「我朝古より良薬を與うるの人なきが如く、薬毒を銷するの師未だあらず、是を以て生病除き難し、老死何ぞ免れん。皆これ師の咎なり、全く機の咎には非ざるなり。所以は如何ん。人の師たる者、人をして本を捨て、末を逐わしむるの然らしむるなり」ちょうどこれを裏付けているものが「末を逐わしむるの然らしむるなり」である。そうすると道心があるかないかということを根本にせずして、理屈の高い低いばかりを論じて、それでよいと思っている。
 葛城の慈雲尊者は、このような人々の態度を評して、山に登ろうとする者が、麓におって一歩も足を移さずに、道の曲折、山上の風景を論じているようなものである、と戒められている。一歩踏み出せば一歩高く、二歩進めば二歩だけ眼界が開け、三歩進めば三歩だけ道の曲折が明らかになる。しかるにこの本を捨てて末を逐うものだから、いつまでたってもこれにゆきつかない。ただ末末と末ばかりおうて。それでとうとう日が暮れてしまう。(『禅談』p.235-237)





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最終更新日  2025.11.18 07:40:07


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