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2024.07.29
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カテゴリ: 光る君へ
宣孝は「 わしはおまえに惚れ切ってにおるゆえ、どこにも行かぬ
藤原賢子が起きてくる。満月を眺め「この明るさでは、賢子も目が覚めてしまうわなの」。まひろと見つめ合い、笑みを浮かべた。

翌朝、国守を務める山城国府に出掛けた宣孝は、それきり戻ってこなかった 」(語り)

宣孝の正妻の使者。
「山城守、藤原宣孝は、にわかな病にて4月25日に身罷りました。弔いの儀も済ませましたので、お知らせいたします」
「北の方様は、豪放で快活であった殿様の姿だけを、お心にお残しいただきたいと仰せでございました。私ども、ご最期のご様子は存じませぬ」

道長が看病したものの、病床の詮子は薬を拒否*。息も絶え絶えになりながら、 一条天皇と敦康親王のため、伊周の怨念の鎮めるべく、位を元に戻してほしい

*かつて兼家が円融天皇を毒殺する謀を知った時には怒り狂い、生涯薬を飲まぬことを誓い、病に冒されてもその決意は揺らがなかった。

詮子の望み通り、伊周は復帰。一条天皇と久々の対面を果たし「枕草子」を献上した。

「後世に『枕草子』と呼ばれるこの書物の評判は、道長を脅かすこととなる」(語り)

・藤原宣孝は長保3年(1001年)に病のため、亡くなっている。紫式部との結婚生活は約2年半だった。
藤原詮子も同年、病のため亡くなっている。

💛 詮子が涙ながらに道長へ遺言した言葉 が聞き取れなかった!
道長の「うけたまわりました」しかわからなかった。
なるほど「一条天皇と敦康親王のため、伊周の位を元に戻してほしい」と言っていたのか。
そして道長への呪詛の効果が幾分なりとも癒されたのかな?
詮子様はそこまでお見通しだったりして・・・




劇中、弟の道長が詮子にとって唯一心を許せた存在として描かれたが、吉田は第26回のシーンを挙げながら、あらためて詮子の道長の関係を振り返る。
第26回では相次ぐ天変地異を危惧した道長が安倍晴明から娘の彰子を一条天皇に入内させるべしと助言を受け、道長はそれを詮子に相談。
その際、詮子はこれまで道長は自分の手を汚すことなく幸運が重なって地位を手に入れただけだと諭し、「 道長もついに血を流すときが来たということよ 」と厳しく言い放った。

貴族に生まれた女性の悲しき宿命みたいなものを理解してくれている存在だったので、やっぱり兄弟の中でも特別でしたし、彼女の生きる支えというかの存在 だったかなとは思いますね。2人で話すシーンがあったんですけど、 道長が政治の世界に深く足を踏み入れて、変わりゆくターニングポイントになるシーン だったんですよね。なので、そこで これまでの道長のままでは甘いよと。これからあなたは変わっていかなければならないよ と姉なりの鞭で送り出したシーン。なので、 そこが道長が変わりゆく節目 だったのかなと思いつつ、でもそのままならない政の中にあっても、 彼本来の元々持っている優しさとか人間性みたいなものが政に反映されて、それが民衆に歓迎されて、いい国作りができるようになっていてくれよと願う ところがあります」
NHK大河ドラマですべては描かれない…「皇后定子の亡霊」に悩まされ続けた藤原道長の8年間
7/28(日)
道長はその後も定子に苦しめられることになった。
まず、定子が亡くなった長保2年12月16日のこと。悲報を受けた一条天皇は、最高権力者である左大臣道長を内裏に呼んだが、そのとき 道長は自邸で怨霊に襲われ、参内できる状況ではなかった というのである。

 しばらくして参内した道長が語った内容が、ドラマでは藤原行成の日記『権記』に記されている。それによれば、 女官の藤典侍がなにかを手にして道長に襲いかかってきた という。 道長はそれを「怨霊」と認識 。具体的には、最初に放った言葉から長兄の道隆の霊のようで、また、次兄の道兼の言葉のようでもあったという。

これについて、山本淳子氏はこう書く。
「定子は道長にとって、小癪にも天皇に愛され続け、后として復活までして彰子の前に立ちはだかる邪魔者だった。道長は露骨に定子をいじめた。その定子の崩御は、またしても彼に転がり込んできた稀有な〈幸ひ〉だった。しかしそれは、これまでの〈幸ひ〉と同様に、人の死という不幸であった。おそらく道長は疚(やま)しさから恐怖に怯え、女官・繁子(註・藤典侍のこと)に起こった何らかの異常事態を道隆らに結び付けて、霊による報復と確信したのである」(『道長物語』朝日選書)。

道長は4月23日にも発病。続いて5月19日には、次兄の道兼の怨霊が道長に憑き、25日なると、今度は長兄の道隆の霊が乗り移ったという。後者については、行成の『権記』によれば、「 伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える 」と、道隆が道長をとおして訴えたという。

寛弘6年(1009)、伊周の母方の関係者が、道長、彰子、敦成を呪詛しようとしたとして逮捕され、伊周も参内を禁じられた。

💛「光る君へ」ではおそらく脚本家が定子の印象をよく保つために定子の怨霊説をそっくりカットして、伊周の呪詛説に移し替えたのであろうか?
そして「 伊周をもとの官職、官位に戻せば、道長の病も癒える 」を姉・詮子の遺言としたのであろう。

それにしても平安時代は呪詛・怨霊の時代でそれを鎮める役割が陰陽師が担っていたのかも





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最終更新日  2024.07.29 04:35:09


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