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2025.02.28
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カテゴリ: 報徳記を読む
span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む span style="color: #336633; font-size: 16px;">報徳記を読む 報徳記 巻之三

【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ その3

[報徳記&二宮翁夜話]199
烏山城



「烏山の仕法は、天保7年の大飢饉に際し、非常な困窮に陥ったのを救済しようということから始まった。
 そして天性寺の和尚の禅的修業による努力と家老菅谷八郎右衛門の真摯な忠誠の行いにより報徳仕法を行うことになった。
 烏山は栃木県那須郡烏山町で、領主大久保佐渡守(さどのかみ)は小田原大久保氏の一族である。
 その領土は、烏山地方47カ村、公称2万6千石、神奈川県の厚木付近1万3千石余、合計4万石と称せられた。(略)
 天保7年の飢饉は、東海よりも関東、それより奥羽、東北にいたるにしたがって甚だしかった。
 烏山も関東の東北部にあって惨憺たるありさまで、天保7年の夏から秋にかけて、困窮した人々はクズ、ワラビ、草の根等を掘って飢えをしのいだ。
菅谷は、江戸に出ていた家老大石総兵衛の帰国を要請したが、年末にならないと帰れないということであった。
 そこで江戸に出て、協議しようとした。
 そのとき、下男の藤兵衛から、桜町の復興の話を聞いたのである。
 藤兵衛は、常州(茨城県)真壁郡小栗の出身で、菅谷の供で天保5年江戸に出た際に、青山の教学院(大久保家の菩提寺)で仕法のことを聞いていた。
また天保7年に同藩の大久保金吾が江戸に出た際、供として牧野遠江守(とうとうみのかみ)宅で尊徳先生の事を聞いたと菅谷に伝えた。
 菅谷はかねて尊徳先生の仕法については耳にしており、その日記にも「8月中かねがね聞き及んだ二宮」とあるとおりである。
 そこで藤兵衛につかわして様子を探らせたが、世間話程度しか分からない。そこで真相を知ろうと天性寺の円応和尚の派遣となる。
 円応は、文政の始め奥州衣川から転任してきた。
仏の道は現世の窮民救助にありとして、衣川においても荒れ山を開墾して畑とし、畑を田としたほどであった。
円応も桜町復興の噂は耳にしており、菅谷とも意気投じて領内の荒廃について意見を交換していたので、桜町の調査を快諾したのであった。
桜町役所の日記8月22日のところに
「烏山御領内より御趣法の筋の儀あい願いたき段申し参り候、もっとも旅宿は真岡のよし、忠次申し聞こえ候事、野上村茂右衛門」とある。
次に天保7年9月2日天性寺の円応和尚が桜町の陣屋に来て、尊徳先生に面会を求めた。
「僧侶は僧侶の道あり。わが道は廃村を興し、民を安んずるにある、僧侶に会って未来の往生を談ずる必要はない」と面会を拒絶された。
円応和尚は私の志は民を救うことにある、面会を拒絶されて帰り、民が飢え死にするのを見るに堪えないといって動かない。
「かの僧は何をいうか。我にはわが預かる専務がある。烏山の安否は烏山候の職分である。しかるに僧侶の身として強いて推参して面会を要求し、わが本務執行の妨害をするとは何ゆえか」と面会されなかった。
円応和尚は、先生が面会されなければ、ここで烏山の民に先立って飢え死にするだけだと、陣屋の門前の芝原に袈裟の衣のまま伏せて昼夜動かなかった。
翌朝、そのことを聞いた尊徳先生は
「かの僧は理非にかかわらず、面会をこい、あまつさえ陣屋の門前で餓死しようとは比類ない曲者である。
よし、会って戒めよう、すぐに連れてまいれ」と大声で命ぜられた。
円応和尚は、悠然と起き上がって先生の面前に赴いた。
「坊主、なんのためにこの陣屋に来たって、わが専務を妨げ、門前に伏して死を決するのか」
「一に先生の教えを受けて烏山の飢えた民を助けたいためです。」
「汝は僧侶にして仏の道を知らないのか」
「私は愚かではありますが、仏門に入って久しく、仏道を理解していないなどということはありません」
「仏の道に荒地を開き、民を撫育し、飢えた民を救う道があるか」
「事は異なるようですが、仏の本意は衆生を救うことにあります、民を憐れみ飢えを免れさせようとするのも仏の願です。」
「そんな答えでは仏の道を知っているとはいえない。
 世の中には職分があって、たがい奪ってはならない。
 領主には領主の道があり、臣下は臣下の道がある、僧は僧の道がある。
 (略)」と順々に説諭された。
円応和尚は、自らの非を悟って、また先生の説諭に「このような人物が今の世にあろうとは思わなかった」と感動して烏山に帰った。
菅谷は円応和尚からこの報告を聞いて、
「ああ、賢なるかなに二宮、我速やかに救助の道を求めん」とまず使者を派遣して近日面会したいと申し入れた。
再三の使者の面会要求に尊徳先生はやむなく会われた。
「私は命がけでこの地の復興に尽くしており、他藩の臣下と閑談するひまなどない。
そもそも菅谷は烏山藩の家老ではないか。家老の職は主君を補佐し、国を富まし民を豊かにすることではないか。しかるに一年の飢饉にさえ、領民を飢えさせるのは、仁政が行われていないからである。諸侯の任務は天下の民を預かって撫育し、安泰ならしめるにある。今その民を飢えさせるようなら諸侯の道を行っているとはいえない。主君がこのようであり、家老もこのことを知らないで飽食暖衣安逸を貪ってその任務を果たしたと思っているのか。
そのような人物がわが門に来ることを欲しない。来るのをやめさせよ」
と厳しく使者に告げた。
使者は、二宮なるもの狂人です、そのいうことこのようでしたと菅谷に告げた。
菅谷は使者の話にますます感動し「今の世に君臣ともに道を失っていると公然と教え諭す者がいようか。実に英傑である。この人に道を問わなければ問う人はいない」と言った。
菅谷の日記によると9月22日江戸に出る途中桜町に立ち寄るとある。
桜町陣屋の日記には
「9月23日烏山天性寺まかりこし候事。菅谷氏同道」とあり、円応和尚の案内で面会したのである。
菅谷の日記には
「実に未曾有の致し方、この人に任さば当年の飢饉救いとげることができよう」と書いてあり、菅谷はすぐに江戸に出て、藩の会議にあげた上で、烏山候に申し上げた。
「今年は非常の凶作で、領中の飢渇は旦夕に迫っています。
私たちは百方手を尽くしましたが、良い方法がみつかりません。
平年ですら公用に不足し、借金して補っているところです。
今大飢饉で金融の道も絶えていかんともしがたいこととなりました。
しかるに幸いなことに桜町に二宮という者がいて、先年大久保忠真候の命により復興にあたり、10年でその功業が歴然として、しかもこの飢饉が来ることを前もって知り、備蓄を充分に行い、3か村の民政は平年よりも豊かであります。先日人をして調査させましたが、二宮の言論は実に驚くべきものでした。」と報告した。
烏山候も感嘆し、10月4日御前会議が開かれ、その席で菅谷は
「烏山、厚木の不作について応急処理が必要で急を要している。その方法として二宮金次郎に仕法を依頼されるのが最上の策であり、この方法によれば当年の飢饉の道が完備するであろう」と強調した。
そこで先生を烏山に借り受けようと小田原候に依頼したのである。
小田原候からは、
「金次郎の事、貸すことはできないが、相対で依頼することはかまわない」という返事であった。
そこで御直書で依頼するということが決定し、10月29日に江戸を出発、11月2日桜町について、直々に仕法を依頼したのであった。
尊徳先生は
「烏山領のことはわが関与すべきところではない。その根元は君臣ともに道を失ったためである。そしてそのような例は今数えることができないほどである。
しかし、君臣ともその非を知って救済の道を我に求めてきた。
今、我が一言に烏山領民の存亡がかかっている。
ことに烏山候は小田原候の一族である。
すでに主君大久保忠真候もご承知のことであり、一応治乱盛衰の根元、禍福吉凶存亡の由来復興安民の大道を述べよう」と菅谷に詳細に語られた。
「過去10年の収入を平均し、一年なにほどと定めて、その分度内で暮らし、年々の増収分で元金を返済すればよい。ただ凶作で住民が飢渇に迫られており、分度の確立は後にして、まず救済を実行しなければらない。
最初に根本仕法を決定し、仕法実施の覚悟が確立するならば即座に救助米を差し出そう。」
菅谷は大いに喜んで
「主人に代わって領分を預かる身である。その責任上今日数千人の命を救えるならたとえ明日いかなる災難が来ようとも少しも厭わない。もとより死を決している。」と答えた。
そして早速救助の用意にとりかかった。
天性寺境内に小屋12棟を建築し、炊き出しの道具を揃え、それぞれ役を決めた。
こうして、天明の大飢饉における尊徳先生の数万人にも及ぶ人命救助が桜町を越えて開始されたのである。
これ実に尊徳先生が神として祀られ、各地に二宮神社が創建されたゆえんである。

尊徳先生はこう言われた。
私は、不幸にして、14歳の時に父に別れ、16歳の折、母に別れた。
所有の田地(でんち)は洪水のために残らず流出した。
幼年の困窮艱難は実に心魂に徹し、骨髄にしみ、今日(こんにち)もなお忘れることができない。
なにとぞして世を救い、国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたいと思って勤め励んできた。
はからずも天保の両度の飢饉に遭遇した。
ここにおいて心魂を砕いて、身体を粉にして、ひろくこの飢饉を救おうと勤めたのだった。
 」(夜話巻の5[13])


報徳記  巻之三

【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ

 菅谷某を始め的然たる明教(めいけう)を感じ、彌々(いよいよ)上下同心協力此の道を行はんとす。
唯(たゞ)先生之を指揮せよと請(こ)ふ。
先生止む事を得ず、烏山分度の基礎を定めんとして曰く、
然らば先づ天分(てんぶん)の基本を明(あきらか)にすべし。 
語に曰く、
故(ふるき)を温(たづねて)新きを知ると云へり。
烏山領中の租税、豊凶十年を調べ、之を平均し、其の天命のある處(ところ)を察し、向後(かうご)の分度を定むべし。
各(かく)古帳簿(こちやうぶ)を持ち來りて速に調(しら)ぶべし。
我亦其の至當(しとう)を示さん
 と云ふ。
大夫(たいふ)以下大いに悦び、直(たゞち)に烏山に歸り、再び櫻町に至る。
先生烏山の有司(ゆうし)數十人を陣屋に居らしめ、飲食衣服に至るまで心を盡(つく)し之を給し、數月(すうげつ)にして豊凶十年の調べ成る。
而して衰時天命のある處(ところ)、自然の分度を確立して曰く、
向後(かうご)君臣共に之を守らば、必ず廢衰(はいすゐ)再復せん事(こと)疑なし。
凡(およ)そ世の盛衰存亡興廢一として此(これ)より生ぜざるはなし。
早く烏山に歸り、群臣と共に之を決せよ 
と教ふ。
大夫以下烏山に至り之を評議し、數日(すうじつ)にして一決す。
是に於て再三先生に興復の道を請ふ。
先生再び米財を出し、烏山領邑の廢地を興さしむ。
下民飢渇を免れ、大いに感激して開墾に力を盡し、一兩年にして舊來(きうらい)の廢地を開く事二百二十四町(ちやう)、出粟(しゅつぞく)二千苞(へう)に及べり。
先生曰く、
烏山何萬(まん)の廢田、幾萬の借債ありと雖も、分外の産粟(さんぞく)年々二千を得ば舊復(きうふく)の道難きにあらず。
唯上下其の分度を守るの有無に由れり 
と、
人々先生の仁心大智(だいち)を驚歎せざるはなし。





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最終更新日  2025.02.28 00:00:24


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