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2025.04.25
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カテゴリ: 坐禅
「生活即禅」15

    生命への警告としての禅
  禅の修養とはいったいどうすればよいか
 禅の修養とはいったいどうすればよいのか。よく肚(はら)とか、なんとか言うが今日の新聞には肚から常識へとかいうことが書いてあった。それはいろいろな言い方もあるでしょうが、私をして言わしめるならば、行儀をいうものを以て我々の心身を鍛錬するものである。言葉を換えて言うと生活である。言葉を換えて言うと生活である。昔と今と言い方が変わっている。昔は行儀という言葉でよく分ったのです。あれは器量は良いけれども行儀が悪い、と言えば別嬪さんがオナラ一つで見合いが不合格になった、という事になる。行儀が悪いというとあの人があの人は位は高いけれども行儀が悪い。元が元だから、我々と一向変わらぬということである。ところが、修養とは生活に品を持つことである。品の良い生活の態度が上品なことであって、上品と言えばあの人は器量が良いというのではない。けれども」上品でという。それは仕込みが違うからこうなるのである。行という事は宗教上の行が上品になる事です。彼はあれだけ喋るけれども下品で堪らない、それでは駄目である。ところが現代というよりも明治大正以来の教育には理知を高めるという事、魚術を欧州人にも負けないようにということで、非常な急速度で日本人は努力したが、本当のところ上品に養われるということは欠けておったのではのでなかろうか、それは余りに実用向きに駆ってそういう余裕がなかったのです。ちょうど貧乏人が食う為に、金を儲ける為に上品になっている暇がないというのと同じではあるまいか。そうすると我々に今日なければならぬものは、即ち品を良くするということが我々一般の人間というもののならねばならぬ本質的な問題ではなかろうか。そうしたふうなことを養うおのが即ち禅という宗教である。これは西洋人には分らない東洋独特の、殊に日本に残っている禅という宗教が西洋人に分ろう道理がない。生活即宗教ということも言える。生活そのものが宗教に適うこと、然れば上品になる。そういう宗教が一体どこにあるかといえば禅がそれに該当する訳である。(「生活即禅」p.42-44)





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最終更新日  2025.04.25 13:00:09


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