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2025.09.30
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カテゴリ: 遠州報徳
大日本報徳社の「報徳」(2025年10月号)が届いた

鷲山社長の巻頭言のテーマは
「久遠の光 求めつつ 貴く生きん もろともに」

青年団運動の田澤義輔について

『次郎物語』に静岡県清水の杉山部落に行く事情が描かれている。

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下村湖南の「次郎物語」で杉山部落が取り上げられています。

友愛塾で朝倉先生のもとで研鑽を励んでいた次郎は塾生達みんなと静岡県に旅行に行くのです。

「最初の目的地は、静岡県のH村だった。
この村にはKという友愛塾の第一回の修了生がいて、村生活に大きな役割を果たしているということが、すでに早くからたしかめられていた。

 みんなは、H村につくと、まず小学校の一室に招(しょう)ぜられた。
そこには村の青年たちばかりでなく、村長以下のあらゆる機関団体の首脳者が集まっていて、歓迎してくれた。
儀式ばった歓迎では決してなかったが、顔ぶれがあまり大げさなので、朝倉先生がK青年にそのことをそっとただしてみると、かれはこたえた。
「この村では、一つの機関や団体が何かいい催しをやると、他の機関や団体もいっしょになって喜んでくれ、できるだけの応援をしてくれるんです。今日も私のほうからむりにお願いして集まってもらったわけではありません。」
 いちおうあいさつがすみ、お茶のごちそうになると、陽(ひ)のあるうちに村中の諸施設を見学した。
そのあと、また小学校に集まって、村の青年たちと夕食をともにし、座談会をやったが、ただ場所がちがっているというだけで、気分ははじめから終わりまで友愛塾そっくりだった。
この村の青年たちは、すでに友愛塾音頭(おんど)までを、塾生たちといっしょにじょうずにおどることができたのである。
 ふんだんに用意してあった夜具にくるまって一夜をあかし、翌朝早くこの村をたったが、塾生たちのこの村からうけた印象は、なごやかな空気の中にみなぎっている生き生きした創意工夫と革新の精神であった。
なお、わかれぎわに、村長が朝倉先生に私語した言葉は、それをはたできいていた塾生たちに、異常な感銘(かんめい)を与(あた)えたらしかった。村長は言った。
「この村をごらんになって、何かいいことがあったとしますと、その半分以上は、実はK君の力ですよ。K君は、自分ですばらしいことを考えだしておいて、それを実施する場合には、だれかほかの人を表面に立てるんです。私が村長としてこれまでやって来たことも、たいていはK君の入れ知恵でしてね。ははは。」

 第二日目は、報徳部落として全国に名のきこえた、同県の杉山部落の見学だった。

明治維新ごろまでは乞食(こじき)部落とまでいわれた山間の小部落が、今では近代的な組合の組織を完成し、堂々たる事務所や倉庫や産業道路などをもつに至ったその過去は、塾生たちにとって、まさに一つの驚異であった。
 かれらはめいめいに自分たちの村の貧しい光景を心に思いうかべながら、この富裕な部落をあちらこちらと見てあるいた。
ほとんど平地にめぐまれないこの部落の人たちは、過去数十年間の努力を積んで、山の斜面を残るくまなく、茶畑とみかん畑と竹林とにかえてしまったのである。
その指導の中心となったのは片平一家であるが、すでに70歳をこしていると思われる当主九郎左衛門翁(くろうざえもんおう)の、賢者を思わせるような風格に接し、その口から報徳社の精神と部落の歴史とをきくことができたのも、塾生たちの大きな喜びであった。 」



この次郎物語の記述に対して、

2004年11月9日開催の日本児童文学会大会で東京学芸大学の鷲山学長はこのように言われています。

「私は静岡県の出身ですが、『次郎物語』も少し静岡県と縁があって、「第5部」の青年団運動の指導者の「田沼先生」というのは、湖人の親友の田沢義輔がモデルといわれますが、この人は静岡県の安部郡の郡長をした方でした。
 終わりの所は、2・26事件の後に、自由主義的な青年団運動は弾圧されるのですが、最後に全国行脚をして、全国に散らばった同志たちと座談会を持とうということになって旅に出るのですが、報徳部落として知られる清水の杉山部落を訪れるところがあります。
 乞食部落といわけた杉山部落を、二宮尊徳の報徳思想で立て直し、近代的な産業組合を持つ豊かな村に作り替えたという話は、よく聞かされて知っていましたが、この小説の中に、指導者の片平九郎左右衛門という名も載っていて、これは中学時代には全く気付かなかったことでした。
その場面に「H村のK君」という名前が出てくるのですが、「おそらくこれは初倉村の河村七太郎さんのことだろう」と父に言われて、これにも驚きました。当時の農村では、疲弊した村の立て直しが深刻な共通課題で、篤農家や活動家が、修養会や先進的な各地の視察などを通じて知り合になり、情報を交換しつつ、あの人があのように頑張っているから、おれたちも頑張ろうと村の立て直しに奮闘し合っていたことがわかります。」





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最終更新日  2025.09.30 11:12:43


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