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2025.11.03
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

坐禅の本領  その4

 道元禅師の
  濁りなき心の水に澄む月は波も砕けて光とぞなる
 それが信仰というものである。
 信仰というものと坐禅というものとを別物に考えて、坐禅は信仰ではないというが、こうやってしみじみ自己に親しみ、もっとも澄んだ自己をこしらえるのが、それが信仰というものである。ただボンヤリ坐れば、自分というものと坐禅というものと二つあるわけである。自分と坐禅とがひっつかない。自分と坐禅、自分と仏と二つある。仏が遠い所に見える。これではいかん。
 坐禅とこの沢木はひとつであるということを信ずる。坐禅が沢木で沢木が坐禅だ。ちょっとも隔たっておらん。沢木そのものが坐禅するということを信ずる。それがちょっともそうなれん。坐禅と沢木と遠い所にある。坐禅していて、道で会うた娘さんのことを思ったり、よそのことを思っている。坐禅というのは巍々堂々として富士山のようなものである。グニャっとしておったり、居眠りをしておったりしていてはならん。ウンと坐って坐禅のほうへ沢木がひっとらえられてくる。これを三昧という。三昧ということは自性清浄のことである。本当のおれというものである。白隠和尚は「衆生本来仏なり」といわれたが、この自性清浄にひっぱられるには、非常に真剣に、すきまのない坐禅をウンとしなければならん。
 むかしある時には、わたしは光陰むなしくわたることなかれと思って、時間をつぶすのがもったいないのを、がんじんよりでもしようかと、内職をしておった。坐禅ばかりしていた沢木が負けた。坐禅が沢木に勝った。凡夫に勝った坐禅であるから、そこでまったく見方が違う。坐禅からひっぱられた。坐禅と自分の間に、文(あや)、模様がある。その両者間の模様が坐禅をするといかにもよくわかる。

 結局全身の中から、あらゆるものをサラッとぶっ通して、それを指したのが三世通観の禅だ。過去、現在、未来の通観である。「これを古今に通じて謬らず、これを中外に施して悖らず」そういうものを三昧の中から見なければならん。(『禅談』p.212-214)





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最終更新日  2025.11.03 07:10:05


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