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2025.11.10
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カテゴリ: 鈴木藤三郎



それで、その3月7日に北浜銀行頭取の岩下清周と塩専売局の奥、田沢両技師、それに『実業之日本』記者の都倉義一が、この工場の視察に行った。
当時の小名浜は、まだ全くの漁村であった。常磐船を『泉』駅で下車して、そこから鈴木製塩所で敷設した小さい鉄道馬車に乗って、東北に約30町(3キロ余)を駆けると、製塩所の門前に着いた。


※福島臨海鉄道本線は、福島県いわき市の泉駅から同市の小名浜駅までを結ぶ福島臨海鉄道の鉄道路線である。かつては、小名浜駅から先の栄町駅までの路線も存在した。もともとは常磐炭砿の石炭積出港として既に賑わっていた小名浜に、鈴木藤三郎が製塩所を設け、その燃料や製品輸送のために鈴木個人名義で特許を受けて、1907年(明治40年)に常磐線泉駅との間に敷設した小名浜馬車軌道が始まりである。軌道自体の経営は順調であったが、鈴木が着手した醤油造りの新事業の失敗で製塩所が閉鎖に追い込まれ、軌道事業は小名浜町の有志らで設立された合資会社東商会に引き継がれた。その後、小名浜の東方にある江名からの水産物を運ぶため小名浜 - 江名間に馬車鉄道が計画され、磐城海岸軌道として1916年(大正5年)に開業。1918年(大正7年)には東商会を買収し泉 - 小名浜 - 江名間の路線が形成される。しかし、漁獲高が落ち込み貨物輸送量が減少したため経営難に陥り、1936年(昭和11年)には小名浜 - 江名間が特許取消となり廃止となった。1939年(昭和14年)になると小名浜に工場を建設することになった日本水素工業(日本化成の前身)に経営が委ねられ、小名浜臨港鉄道に社名を変更した。1941年(昭和16年)には製品輸送のため常磐線と直通できる1067mm 軌間の新線が建設され、馬車鉄道時代からの旧線は廃止された。(ウィキペディアより)

一行は、事務室の一隅にある応接室に案内された。そこの壁には、工場内の各部の写真が掲げてある中に、特に一同の眼を引いた一枚があった。それは、かすりの浴衣を着て、机もたれている人物の画で、上の方に、『甘い世渡りさらりと止めて、辛(から)いつとめも国のため』という賛があって、そばに小文字で『明治39年8月、自画自賛』としてある。これは、藤三郎が戯れに筆を振るった自画像である。
一行が、渋茶に喉を潤しながら、深い興味をもって、この絵を見ているところへ、藤三郎が、工場服のままではいって来た。
「やア・・・・。」
「ようこそ・・・・。」
と、あいさつもろくに終わらないうちに、鉛筆で自賛の歌をメモしていた津倉が、その絵を指しながら、
「こりゃ、どういう絵なんですか?」
と、抜け目のないジャーナリスト意識を働かして、尋ねた。
「や、えらい物が、お目に留まりましたな・・・・。」
と、藤三郎は微笑しながら、次のように話し出した。
「実は、私が製塩機械の発明を思い立ったのは、明治36年の5月のことで、醤油の促成醸造を思い立ったのが、翌37年の初春で、日露戦争が、まさに始まろうとしていたころです。その間の違いは、わずかに半年あまりです。初めは、製塩のほうが早く完成するかと思いましたが、実際は醤油のほうが先へ進んで、39年の8月には試験も完成して、事業として経営でいるまでになりました。
ところが、ちょうどこの時に、日本精製糖会社の乗取り騒ぎが持ち上がったので、私は社長を辞して、しばらく煩いを、この地に避けていました。当時、精製糖事業はもう基礎が定まって、だれが経営してもまじめにやりさえすれば、やれるようになっていましたが、醤油や塩のほうは、まだ眼を出したばかりで、今、これを投げ出せば、だれも引受けて大成してくれる人がありません。精製糖会社の騒ぎと同時に、醤油の試験が完成したのは、要するに天が私に、醤油を大成せよと命ぜられたのであろう。天命であると信じたので、思い切って、辛(から)い醤油と塩の事業に従事することに決心しました。
そこで、日本精製糖に留任を勧告に来られた人々に、この絵を描いて、その決心を告げたのです。支配人が、これを保存して置いて、その後、額に仕立てたので、私の今日の気持は、この時から固く決まっていたのです。」 
この間の事情を詳しく知っている岩下は、藤三郎の話のうちにも、いくたびか深くうなずいていた。奥、田沢の両技師が、一代の実業家の熱のこもった話し振りに、魂を吸い寄せられたように聞き入っているそばで、都倉は忙しくメモの鉛筆を走らせていた。
やがて一行は、藤三郎と支配人の案内で、工場に向かった。赤煉瓦の大建築と、萩の枝を山のように高く積み重ねた間を通って、広々とした浜辺に出た。
よく晴れた日ではあったが、太平洋からじかに吹きつける早春の風は、思わずオーバーのえりを立てさせずにはおかなかった。砂浜に打ち寄せる波も、高く飛沫を上げている。見わたす限りの大海原は、まことに荘厳である。左手には小名浜の家並みが見える。右手は一帯の白砂で、青い松林がその緑を走って、遠く数十町先の削り立ったようなみさきの所まで延びている。
藤三郎は、それを指差しながら、こう説明した。
「これからあの岬までは約30町あります。あすこまでの海辺の官有地は、昨年、仮払下げをしてもらって、来年は払下げを受けることになっております。それに沿った民有地のほうは、もう買収が済んでいます。製塩法の試験も、ようやく完成しましたので、今後は、事業として経営するには、この敷地に、工場を増築して、それに機械をすえ付ければいいのです。そしてここの土地の面積は、現在の設備を30倍までに拡張できるだけの広さがあります」
 この説明を聞いて、一行は、試験期をようやく脱したばかりの新事業のために、これだけの大面積を買収したという、藤三郎の太平洋をもひと呑みにしてしまうような自信力と、遠大な将来の計画を知って、ただ驚嘆の眼を見張るばかりであった。だが、さすがに銀行家としては豪胆すぎるといわれた岩下だけは、改心の微笑を、その酒焼けした頬に浮かべて聞いていた。
「それにしても、あなたは、どうしてここを製塩地として選んだのですか?」
と都倉が熱心に聞いた。それは、皆も尋ねたいところであった。
藤三郎は大きくうなずくと、こう話し出した。
「私が、東京を120マイルも離れたこの地を選んで製塩所としたについては、いろいろの理由があります。
その第一は、常磐線に沿った太平洋沿岸の海水は、瀬戸内海に比べると、濃厚なのです。
また第二は、この地方には、石炭が豊富に出るから、燃料が安く手にはいるからです。
第三は、この沿岸の18里の間を踏査してみましたが、小名浜のように南面して湾入した所は、一ヵ所もないのです。南面しているから日当りがいいので、乾燥が速い訳なのです。
第四は、私の製塩法の第一の特色は、風力を利用するところにあります。この小名浜付近は平野が広く開けていて、西北方が遠く連山で囲まれています。風は連山を過ぎて乾燥していますから、製塩地としては、常磐線の沿道ではいちばん適しているのです。
それから第五には、水産試験所の調査によりますと、この小名浜は、全国で晴れの日のもっとも多い地方です。これも製塩地としては、もっともいい条件です。
これらの理由で、私は、この地を選んだのです。」
藤三郎の説明は、まことに明快であった。現にこの日も、一行が東京をたつときは曇天であったが、ここへ来てみると快晴であることが、彼の言を、事実で証明していた。そしてこの観察の誤まっていなかったことは、それから約半世紀の今日(注:鈴木五郎氏の「鈴木藤三郎伝」は昭和31年11月15日発行である)、この小名浜に、国立と民営との大製塩工場が二つまでも設立されたことでも分るのである。

※日本海水は、小名浜工場(福島県)、赤穂工場(兵庫県)讃岐工場(香川県)の国内3工場で生産を行う日本で唯一の製塩メーカーである。小名浜工場(福島県)は黒潮と親潮が出会う「潮目の海」と呼ばれる場所の海水を原料に塩を製造している。2011年3月11日の東日本大震災で小名浜工場も被災し、現在操業を中止している。






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最終更新日  2025.11.10 04:10:04


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